約 9,615 件
https://w.atwiki.jp/kotokoto2/pages/17.html
横須賀線 路線データ 東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)大船~久里浜:23.9km 駅一覧 本線 駅名 よみかた 接続 開業日 大船 おおふな 東海道本線、根岸線 1888/11/1 北鎌倉 きたかまくら 1927/6/1 鎌倉 かまくら 1889/6/16 逗子 ずし 1889/6/16 東逗子 ひがしずし 1952/4/1 田浦 たうら 1904/5/1 横須賀 よこすか 1889/6/16 衣笠 きぬがさ 1944/4/1 久里浜 くりはま 1944/4/1
https://w.atwiki.jp/kaifuusha/pages/10.html
最明寺入道、鶴岡の社参の次(ついで)に、足利左馬入道の許へ、先ず使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちにてやみぬ。その座には亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給わる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。 口語訳 最明寺入道(第五代執権北条時頼)が、鶴岡八幡宮に参拝のついでに、足利左馬入道(足利家五代の当主・足利義氏、北条泰時の女婿)のもとへ、まず使いをやった上で、お立ちよりになったときに、足利入道がおもてなしをなさったことの次第は、一献のお膳に打鮑(のしあわび)、二献のお膳にえび、三献のお膳にかい餅(ぼたもちの類か、そばがきの類か)で終わってしまった。その席には主人夫妻と隆弁僧正(鶴岡八幡の別当)が主人側の人としてお座りにになっていた。そのあとで、最明寺入道が、毎年いただく足利の染め織物が待ち遠しいことです」と申されたところ、「用意してございます」と言って、種々の染め物を三十疋(一疋は二反分)、時頼入道の前で女房達に小袖に仕立てさせて、あとから贈りになったという。そのときに、この様子を見ていた人で、近ごろまで存命しておりましたのが、語りましたとのことです。 太平記の一方の主役、足利氏に関わる話である。いや、足利氏と北条氏に関わる話といったほうが適当かも知れない。兼好が鎌倉下りをしたときに、接待の席に近侍していた人(小姓か?)から七七十年以上前の話を実際に聞いたことをもとにして書いたものである。この段にたいしての一般的な解釈は、兼好が見聞した幕末の過剰なまでに贅沢に流れる鎌倉の酒宴の有り様に、中期の鎌倉の最高権力者・時頼への接待があまりにも質素で簡潔で見事であったのに感じ入り書き記したものとされている。いかに、度はずれた宴会の流行が御家人たちの生活に悪影響を及ぼしているかを知った上で批判的な眼差しで書いたものと思われる。それは、前の二百十五段に書かれている内容からも伺い知ることができる。二百十五段は、北条時頼と平宣時(北条宣時・北条時政の曾孫)にまつわるエピソードである。宣時が晩年に時頼から或る宵に突然呼び出しを受けて酒の相手を仰せつかったときに、直垂(ひたたれ)がなくてぐずぐずひていると、再度呼び出しがあって夜分整った服装でなくてもよいから早く来いとの催促でよれよれの直垂のままで参ったところ、銚子に素焼きの杯を取り添えて、持って出てきて、「酒を一人で飲むのが、もの足りなくさびしいのでお呼びしたのです」 と言って、酒の肴になるものものを捜すように頼まれて、寝静まった家をあちこち隅々を捜しているうちに、台所の棚に小さい皿に味噌の少しついたのを捜しあてて、それを肴に愉快に杯を重ねたことが語られている。「その世にはかくこそ侍りしか」として宣時がしてしめくくっている。この二つのエピソードを持ち出して、鎌倉中期までの時代では、権力者といえども健全で質素なくらし向きであったとことを兼好は伝えたかったのであろうか。 さて、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ…といった接待の献立であるが、しかも相手は現執権の時頼である。具体的にこれが質素か否かは、直接の比較でなくて気の引けるところだが、一つのヒントとして例を出して置きたい。元徳元年(1329年)、美濃国小木曽荘にやって来た領家仁和寺の検注使の一行二十人を迎えた現地の荘官・百姓達は、まず集落の境界で「境迎」(酒迎)の酒肴を供したのち、荘内で「落着」「昼埦飯」などの酒宴を行い鳥、川魚、芋、御菜(山菜?)など山深い当地としての精一杯の珍味を肴に三日間使者達を接待している。この三日間で消費された酒は、白酒(濁酒)九瓶子に、その三倍以上の値段もする清酒を十九瓶子、それに加え白米五斗四升が飲み食いの使われたとある。(中世的世界とは何だろうか 網野善彦朝日選書)無論、検注使だけではなく地元の荘官・百姓達も加わっての飲食であろうが山深い地方でも手厚い接待をしている。鎌倉末期は地方といえども相当量の消費をしていることが窺える。鎌倉上級武士の典型的な食事に一日二食で五合の玄米の強飯と梅干とうちあわびとくらげの三種に酢と塩の調味料がつくものがある。これに比べれば義氏の時頼への接待はさほど遜色のないものではなかったかと思われる。当時の食習慣からすればむしろ気張った接待とも言えるかも知れない。ただし兼好が下った頃の鎌倉末期では、繰り返すようであるが北条氏の得宗および身内人を中心とした酒宴や饗応の豪華さ(二汁五菜、三汁七菜、品数も十二品、二十品等々とエスカレートしている)や頻度の多さ、或いは禅僧を招いての連日の供養に伴う華美な膳に対して諌める声もあがっており、また唐物(輸入品)の遣り取りもあり、それに呼応するかのような兼好の一文と考えられる。しかし、兼好の批判の眼が当時の酒宴の過剰ぶりつまり頽廃する社会風潮にありあるとする一事よりも、私はむしろ北条氏に対する足利氏の緊張した対応ぶりに関心がそそられる。兼好の文の端はしから義氏の時頼に対する気の使いようが見て取れる。先ず客を迎える姿勢である。最明寺殿(時頼)が鶴岡八幡の社参を終えた序でに、足利左馬入道(義氏)の許に使いを遣わして(気軽に?)立ち寄ったところ、迎える側の義氏は亭主夫妻と鶴岡八幡の別当である隆弁僧正が座っていた。何か気張った出迎えである。何故鶴岡八幡の別当が迎える側に座っているかであるが、元来足利家は頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮に対して主要な経済的なスポンサーとして関係を持続しており、しかも義氏の子女が隆弁の甥の妻にもなって因縁浅からず、同時に別当として執権時頼の深い信頼を勝ちえていることつまり双方にパイプがあることを考慮に入れて彼を迎える主人側に取り込んで当日の接待の運びになったと思われる。足利家としては精一杯の顔ぶれで時頼を迎えている。饗応の出された食べ物は品数が少なくても一品一品贅を凝らした気の利いたものであり、手抜かりがないように見受けられて、義氏の気配りが良く感じられる。饗応の後、時頼は「毎年給わる足利の染物、心もとなく候」と無造作に切り出してご当地名産の反物を義氏に所望している。権力者の本質を垣間見る思いである。義氏は直ぐに反応して三十疋(六十反)用意してございますと応えて、時頼の前で女房達に小袖に仕立てさせて後日届けさせている。妻が家の女房達を動員して懸命に縫っている図が浮かんでくるようである。この挿話の前後して、義氏の子息が勝手に出家してしまい、その咎で所領を没収されるという事件があった。そのための関係修復の接待であろうという話もある。いずれにせよ鎌倉時代百五十年の終始にわたって権力者の北条氏と名門の足利氏との間には、お互いを意識する存在感もしくは緊張感が常について回ったことの反映ではなかったか。北条氏は元来伊豆・韮山地方の一土豪に過ぎず、平家の天下では国府の役人をやっていた。それが時代変換の転機ともなった時政の娘・政子が流人として伊豆にいた頼朝と結婚したことである。それにより事態は一変する。頼朝は平家打倒のシンボルとなり、緒戦はつまずくが関東の武士勢力をたちまち糾合して平家を打倒して、東国を支配する武家政権を鎌倉に打ち立てた。頼朝の御台所を出したということで北条氏は鎌倉政権の中枢に座り、あまた多くのライバたる畠山氏や和田氏や三浦氏などの御家人達を漸次巧みに屠り独裁者としての地位を確立していく。時頼は北条政権の権力がピーク時の際の執権とされており、いかに足利義氏の母が時政の娘であり、妻は北条泰時の娘で北条一門と色濃く結び付けられていても、接待への気の使いよう、緊張のしかたは並々ではなかった。本来ならば、足利氏は源氏一門の血をひくものであり、陸奥・出羽の前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)で活躍した八幡太郎源義家が東国の武士団の棟梁として地歩を固め、その子の義国には義重と義康の二子があり、義重は新田氏の祖となり、義康が足利氏の祖となった。赫赫たる源氏の血を引く足利氏と一地方の土豪に過ぎない北条氏とでは血統の原理からいけば足元にも及ばない身分関係であるが、歴史の妙味で頼朝との婚姻関係を最大限に政治的に活用して、平家の打倒、承久の乱での勝利などを経て所領の膨張に努めて北条氏は権力者へとのし上がっていく。一方足利氏は、頼朝の命により義康の子・義兼が北条時政の娘をめとってから鎌倉御家人化への傾斜が始まり、以後高氏(尊氏)に至るまで代々足利の当主は北条の一門から妻を迎えて北条執権体制に甘んじてきている。しかし、完全なる御家人でもなく準北条一門とみなすべきか他の有力御家人のような粛清の憂き目にも遇うこともなく一目おかれた名門として栄えている。高氏の代には、足利荘は無論のこと曽祖父や祖父や親達から代々受け継いできた上総や三河の守護職を兼ね、丹波や九州など全国各地に散在する十二ヵ国以上の領地を支配するまでになっていた。北条氏と足利氏の確執の濃淡は、鎌倉時代百五十年の長きわたっていろいろあったに違いないが、この章で取り上げている義氏(1189~1254)は、三代将軍実朝が1219年に暗殺されたとき足利氏の当主として源氏の嫡流と目されたが御家人の立場をとって乗らず、結局幕府は京から九条頼経を四代将軍として迎えて体裁を整えている。彼は先に和田の乱(1213)から承久の変(1221)、三浦の乱(1247)では武将として活躍して北条政権にべったりで助けた。時頼(1227~63)が長年の政敵三浦氏を宝治の合戦(1247)で倒したこともあり、義氏の館訪問の時は執権として気分が昂揚していたに相違いなく、その分義氏は神経をぴりぴりしていて大過なく過ごすことに腐心していたのではなかろうか。 歴史家ではないが、歴史紀行の作家として有名な宮脇俊三氏の作品・平安鎌倉紀行の中に足利市と新田郡の章のくだりに次のような一節がある。それは徒然草の二百十六段にふれて所感を述べているところである。 以下それを引用させていただだく。徒然草の義氏と時頼のエピソードを紹介した上で、── そうして、この挿話は北条氏にたいする足利氏の無念の雌伏を象徴しているかに見える。それをつぎのようなかたちで示してみよう。 初代・源義家 「われ七代の孫(そん)に生まれかわりて天下を取るべし」との置文(おきぶみ)が足利家に伝えられている。 四代・義兼 北条氏の疑念を怖れてか、物狂いを装おう。子の義氏の妻に北条泰時の娘を頂戴したのも、足利家の安泰をはかるためであったろう。 五代・義氏 前述のごとし。 八代・家時 先祖の義家の言う「七代の孫」に当たるが、天下を取れないので、八幡大菩薩に「わが命つづめて三代のうちにて天下を取らしめ給え」と祈念して切腹。 そして、十代目の高氏(尊氏)が宿願をはたしたわけである。──と足利家に伝わる置文について書いてある。更に続けて、引用した「徒然草」の一段は「その時見たる人の……」とあるように言い伝えであり、「徒然草」執筆時期より七十年ぐらい昔のことと推定されるが、さすが兼好法師で、よくぞ書きとどめてくれたと思う。「徒然草」は史料としても第一級であり、冷徹な眼で題材を選んでいる。──と褒めている。 足利家に伝わる置文は、後に作られた伝文であり歴史的な価値は疑問視されている面はあるが、所々には事実が顔を出している。義兼が狂人を装おったり、家時が自殺したりしているなどがそれである。宮脇俊三氏は歴史家ではないけれども歴史紀行をシリーズで出している作家で歴史を見る眼は確かなものがあると思う。私も宮脇氏が指摘した足利氏の無念の雌伏を象徴したという説に共鳴するものである。 足利氏の居館であった鑁阿寺の山門をくぐって諸堂宇に向かう途中に黒曜石に刻まれた碑文が建っている。内容は徒然草の第二百十六段全文である。この碑文の建てた由来について足利教育委員会にお伺いしたところ、返ってきた答えは、足利の織物が鎌倉時代から有名であったことを示すものとして、また、足利義氏が当時の権力者であった北条氏といかに親しい関係にあったかを示す格好の話として、足利氏顕彰会により建てさせていただいたものであります。とのことであった。足利尊氏は戦前かつて皇国史観の影響で一時国賊の汚名着せられたこともあったが、いまや地元足利市では温かい眼差しで受け入れられているようである。 兼好の二百十六段は歴史的にも、政治的にも、商業的にも、食文化的にも色々と示唆に富んだ一章となったことだけは間違いないようである。 参考文献 吾妻鏡 龍 粛 訳注 岩波書店刊 中世的世界とは何だろうか 網野善彦 朝日選書 朝日新聞社刊 太平記の群像 森茂暁 角川書店刊 きらめく中世 歴史家と語る 永井路子 有隣堂刊 平安鎌倉史紀行 森脇俊三 講談社刊 日本の食文化 二 石川寛子 芳賀 登 有山閣刊 その他 教えて頂いたところ 足利市教育委員会 鎌倉市教育委員会 「鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、…… (百十九段) 」に続く ※お願い:鎌倉末期の酒宴における料理のメニューがおわかりになれば御教授して頂けませんか。幕府要人の酒宴ならびに引き出物のようすがわかれば幸いです。宜しくお願いいたします。 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/eirei/pages/239.html
長崎円喜(ながさき えんき)、長崎高綱日本????~1333統率:B 武力:C 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府、執権北条氏の御内人。長崎光綱の子。嘉元の乱で北条貞時が勝利すると、内管領、侍所所司、寄合衆を務めた。北条高時の後見人として、幕政を主導した。 名和長年(なわ ながとし)日本(伯耆国名和)????~1336統率:B 武力:B 政治:A 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------南朝の武将。倒幕計画が露見して隠岐島に流されていた後醍醐天皇が脱出するとそれを迎えて船上山の戦いに勝利して伯耆守となる。建武の新政が始まると天皇近侍として武者所、恩賞方、雑訴決断所などの役人を務めた。後に離脱した足利尊氏との湊川の戦いで討死した。 二階堂是円(にかいどう ぜえん)日本????~????(14世紀)統率:C 武力:D 政治:B 知力:A 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------明法家。中原章継の子。後醍醐天皇の建武の政権に登用され、雑訴決断所所衆の東海道を担当した。足利尊氏が幕府を開くと、弟の真恵と共に『建武式目』の制定に参加した。 新田義貞(にった よしさだ)日本(上野国新田)1300頃~1336統率:A 武力:A 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------河内源氏新田氏本宗家8代目棟梁。新田朝氏の長男。楠木正成が挙兵すると討伐に参加するが、幕府からの軍資金の徴収に反発して反旗を翻して鎌倉幕府を滅ぼした。建武の新政が始まると武者所頭人となる。対立した足利尊氏と湊川の戦いで破れ、藤島の戦いで討死した。 花園天皇(はなぞのてんのう)、富仁(とみひと)日本1297~1348統率:E 武力:D 政治:D 知力:A 文化:A 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第95代天皇。伏見天皇の第四皇子で、後伏見天皇の弟。持明院統。文人肌で禅宗の信仰に傾倒し出家。読経、念仏を欠かさなかった。歌道に優れ、『花園天皇宸記』と言う日記を残す。 久明親王(ひさあきしんのう)日本1276~1328統率:E 武力:E 政治:D 知力:E 文化:E 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第8代将軍。後深草天皇の第六皇子。前将軍惟康親王が京に送還されると征夷大将軍となるが、北条氏の都合で、自らも後に解任される。 伏見天皇(ふしみてんのう)、熈仁(ひろひと)日本1265~1317統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第92代天皇。後深草天皇の第二皇子。持明院統。即位後、始めは後深草上皇が院政を敷くが、後に親政を敷く。後伏見天皇で院政を行なう。幕府の干渉により、後二条天皇に皇位を認めるが、花園天皇の即位で院政を行なう。 北条貞顕(ほうじょう さだあき)、金澤貞顕(かねさわ さだあき)日本1278~1333統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第15代執権。8代六波羅探題南方、13代六波羅探題北方、越後守、引付衆、連署を歴任する。文献を写本し、金沢文庫の充実に励んだ。内管領・長崎高資に執権に擁立されるが、すぐに職を辞する。 北条貞時(ほうじょう さだとき)日本(相模国鎌倉)1272~1311統率:C 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第9代執権。8代執権・北条時宗の嫡男。将軍・惟康親王を退けて、久明親王を擁立する。元寇の救済策として永仁の徳政令を発布するが逆効果に終わる。鎮西探題を新たに設置する。 北条高時(ほうじょう たかとき)日本1303~1333統率:D 武力:D 政治:E 知力:D 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第14代執権。9代執権・北条貞時の四男。内管領の長崎氏に擁立された。題目宗の日印に「鎌倉殿中問答」で論破され布教を認めた。奥州で蝦夷の反乱、安東氏の乱、後醍醐天皇の正中の変が起きた。闘犬や田楽にふけったという。 北条煕時(ほうじょう ひろとき)日本1279~1315統率:D 武力:D 政治:C 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第12代執権。引付衆、評定衆、長門探題、武蔵守、相模守、連署を歴任し、執権となる。しかし、実権は内管領の長崎高綱に握られたままとなる。 北条宗宣(ほうじょう むねのぶ)、大仏宗宣(おさらぎ むねのぶ)日本1259~1312統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第11代執権。北条宣時の子。引付衆、評定衆、陸奥守、7代六波羅探題南方、連署を歴任し、執権となる。しかし、実権を内管領の長崎高綱に握られ、僅か1年で執権職を辞し、出家した。 北条基時(ほうじょう もととき)日本1286~1333統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第13代執権。11代六波羅探題北方、讃岐守、相模守を歴任。後醍醐天皇の倒幕計画から元弘の乱が起こり、新田義貞らに攻められ自害する。 北条守時(ほうじょう もりとき)、赤橋守時(あかはし もりとき)日本1295~1333統率:C 武力:C 政治:D 知力:C 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第16代にして最後の執権。北条久時の子。評定衆、左近衛将監、讃岐守、武蔵守、相模守を歴任し、執権となる。しかし、実権は北条高時や内管領・長崎高資らに握られていた。新田義貞の軍を迎え撃つため出陣するが、敵わず自刃する。 北条師時(ほうじょう もろとき)日本1275~1311統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第10代執権。北条宗政と7代執権・北条政村の娘の子。後に伯父の8代執権・北条時宗の養子となった。 坊門清忠(ぼうもん きよただ)日本1283?~1338統率:B 武力:C 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------公卿。後醍醐天皇の近臣として仕え、従二位・参議となった。九州に落ち延びた足利尊氏が再び挙兵した時、楠木正成が示した天皇は比叡山に退いて足利軍を京都で迎え撃つといった作戦を「帝が都を捨てて臨幸する事は帝位を軽んずる事である」と反対した。 細川定禅(ほそかわ じょうぜん)日本????~1339?統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------北朝側の武将。細川頼貞の子。鶴岡若宮の別当を務め、足利尊氏に従った。中先代の乱で武功を挙げ、四国や中国地方の国人衆を糾合し、その後の湊川の戦いでも活躍した。 毛利親衡(もうり ちかひら)、毛利親茂日本(安芸国)????~1375統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------3代当主・毛利時親の孫で毛利貞親の子。父の貞親と共に南朝側として越前で戦った。後に北朝方に帰順して安芸に下った。観応の擾乱では息子の毛利元春と対立し、周防の大内氏と共に打ち破り、安芸守護・武田氏信も撃退するほどの武功を挙げた。陸奥守、備中守。 毛利時親(もうり ときちか)日本(安芸国)????~1341統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------毛利家3代当主。毛利経光の四男。六波羅評定衆を務め、越後、安芸、河内に領地を持った。吉田郡山城を築城する。 毛利広房(もうり ひろふさ)日本(安芸国)1347~1385統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------毛利家5代当主。毛利元春の嫡男。 毛利元春(もうり もとはる)、毛利師親日本(安芸国)1323~????統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------毛利家4代当主。毛利親衡の嫡男。曽祖父・毛利時親の代官として足利尊氏に従い、安芸国吉田荘を引き継ぎ『郡山殿』と呼ばれた。観応の擾乱では、一族を敵に回して九州探題・今川貞世に従って転戦した。 守邦親王(もりくにしんのう)日本1301~1333統率:C 武力:C 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第8代にして最後の将軍。久明親王と、惟康親王の娘の子。父の将軍職の解任に伴って8歳にして征夷大将軍に就任するが、実権はなかった。後に、後醍醐天皇と呼応した足利義詮や新田義貞らの攻撃によって鎌倉は陥落、鎌倉幕府は滅亡した。 護良親王(もりよししんのう)日本1308~1335統率:A 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------皇族。後醍醐天皇の皇子。天台座主となっていたが武芸を好み、後醍醐天皇が元弘の乱を起こすと還俗して参戦する。建武の新政で、征夷大将軍、兵部卿に任じられるが、皇位簒奪を企てたとして捕らえられ、鎌倉に幽閉されて処刑された。『大塔宮』と呼ばれる。 山名氏清(やまうち うじきよ)日本1344~1391統率:C 武力:B 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------足利義満に仕えた武将山名時氏の子。陸奥守。和泉・丹波などの守護となるが、山名一族の強大化を恐れた義満の計略によって反乱(明徳の乱)を起こし、敗死する。 吉田兼好(よしだ けんこう)、卜部兼好、兼好法師日本(京)1283~1350統率:D 武力:D 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------歌人、随筆家。吉田神社の神職の生まれ。三大随筆の一つ『徒然草』の作者。和歌にも優れ、『続千載集』、『続後拾遺集』にも選出されている。二条家和歌四天王の一人にも数えられている。 脇屋義助(わきや よしすけ)日本1305~1342統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------南朝側の武将。新田朝氏の次男で新田義貞の弟。兄の義貞が鎌倉幕府打倒の兵を挙げるとそれに従う。伊予守、左馬権頭、弾正大弼、刑部卿などを歴任する。兄が戦死後は中国・四国方面の総大将に任命されたが、四国に渡って病死した。
https://w.atwiki.jp/trebor/pages/686.html
善寶寺山形県鶴岡市下川字関根1001150年祭限定 薬王院茨城県桜川市真壁町椎尾3178秋の桜川さんぽ限定 円覚寺鎌倉市山ノ内409【毎年11/1~11/3】 円覚寺鎌倉市山ノ内409【毎年11/1~11/3】 長寿寺鎌倉市山ノ内1520【4~6・10・11月の金土日祝】 善光寺長野市長野元善町491【期間限定】 善光寺長野県長野市長野元善町491平成25年4月5月 出開帳限定 知恩院京都府京都市東山区林下町400平成27年限定 子安地蔵尊奈良県桜井市三輪225-1毎月1日書置きのみ 潮音寺茨城県潮来市日の出4-7-15万燈会 潮音寺茨城県潮来市日の出4-7-15万燈会 小松寺千葉県南房総市千倉町大貫1057開創一三〇〇年記念 小松寺千葉県南房総市千倉町大貫1057開創一三〇〇年記念(縦見開き) 小松寺千葉県南房総市千倉町大貫1057開創一三〇〇年記念(違うかも?) 月 時期 寺社名 所在地 備考 壬生狂言上演日 壬生寺 京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町31 壬生狂言上演 毎月 1日 子安地蔵尊 奈良県桜井市三輪225-1 書置きのみの授与 毎月 8日 仁和寺 京都府京都市右京区御室大内33 薬師如来 1月 1~15日 薬師寺 奈良県奈良市西ノ京町457 吉祥天女 1月 28日 宮田不動尊 群馬県渋川市赤城町宮田1526 普段は無住 2月 3日(壬生狂言上演日) 壬生寺 京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町31 壬生狂言上演 3月 14日 三時知恩寺 京都府京都市上京区新町通今出川上る上立売町4 善導大師忌 4月 ~7月 長円寺 京都府京都市伏見区淀新町681 アート朱印 4月 8日頃 池上本門寺 東京都大田区池上1-1-1 五重塔開帳 4月 10日?~5月10日? 妙心寺大法院 京都府京都市右京区花園大藪町20 春の特別公開 4月 20日~5月20日 石光寺 奈良県葛城市染野387 中将法如 4月 上旬 櫻本坊 奈良県吉野郡吉野町吉野山1269 仏陀 5月 上旬 三千院不動堂 京都府京都市左京区大原来迎院町540 秘仏御開扉、紺紙金泥 6月 6日 秋篠寺 奈良県奈良市秋篠町757 普段は御朱印なし 6月 6日 常光寺 奈良県奈良市押熊町212 大聖歓喜天 7月 中旬 川崎大師 神奈川県川崎市川崎区大師町4-48 風鈴市 7月 9、10日 浅草寺 東京都台東区浅草2-3-1 四万六千日 8月 上旬 六道珍皇寺 京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町595 紺紙金泥 10月 ~1月 長円寺 京都府京都市伏見区淀新町681 アート朱印 10月 8日 薬師院(こぬか薬師) 京都府京都市中京区釜座町二条上大黒694−1 瑠璃光殿 10月 29日 園城寺(三井寺) 滋賀県大津市園城寺町246 黄不動明王 秋 庭園公開時 真如院 京都府下京区猪熊通五条上る柿本町677 普段は御朱印なし 11月 妙心寺大法院 京都府京都市右京区花園大藪町20 秋の特別公開 11月 1~3日 法隆寺 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1 上御堂 11月 多宝塔公開時 吉田寺 奈良県生駒郡斑鳩町小吉田1-1-23 大日如来 11月 上旬(宝物風入れ) 円覚寺 神奈川県鎌倉市山ノ内409 功徳林 11月 上旬(舎利殿公開) 円覚寺 神奈川県鎌倉市山ノ内409 舎利殿 11月 下旬 櫻本坊 奈良県吉野郡吉野町吉野山1269 天武天皇 12月 16日 東大寺三月堂 奈良県奈良市雑司町406-1 執金剛神 12月 23日 六道珍皇寺 京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町595 閻魔大王小野篁卿縁日
https://w.atwiki.jp/mitch/pages/12.html
https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/14491.html
■モーレツ宇宙海賊 パイレーツ 原作(笹本祐一と共同) ■モーレツ☆宇宙海賊 ABYSS OF HYPERSPACE -亜空の深淵- 原作(笹本祐一と共同) ■南鎌倉高校女子自転車部 原作 ■関連タイトル 松本規之画集 RIDE ON -画業20周年記念画集- 笹本祐一・松本規之/ミニスカ宇宙海賊 松本規之/南鎌倉高校女子自転車部 01 凛 -松本規之画集- 松本規之/つばめ陽だまり少女紀行 松本規之/A君[17]の戦争 I, THE TYCOON?1 松本規之/黒きレ・ヴォルゥ~仮面の怪盗少女~ 上 1
https://w.atwiki.jp/senjutu/pages/153.html
#blognavi 自分を守ってくれる「守本尊」は~ 誰にもあります。 私の場合は~ 虚空蔵尊です。 鎌倉にある虚空蔵尊の近くで、2年ほど前に「宝くじ」を買ったら 中当たりしたのを思い出して… 今日は鎌倉まで足を伸ばして、10枚買ってきた。 欲のない人はないものだから~ このことは ありふれた願い と言っても よいものでしょう。 一つ 楽しみができたし。 カテゴリ [宝くじ] - trackback- 2007年03月10日 00 02 54 名前 コメント #blognavi
https://w.atwiki.jp/karishooterwiki/pages/2500.html
神奈川県 鎌倉市 住所神奈川県鎌倉市大船1-5-10 最寄駅JR大船駅、湘南モノレール江の島線大船駅東口階段を下り、道路沿い左。徒歩30秒ぐらい。パチンコ屋の隣の隣。 料金1クレジット 100円 設置タイトルR-TYPE LEO 究極タイガー 19XX ガンバード2 営業時間 駐車場 TEL URL 地図Yahoo! GoogleMaps 備考シューティングは全て2階に設置。ただし、R-TYPE LEOは、音量がかなりでかい。 最終更新日 2013年9月3日
https://w.atwiki.jp/crackingeffect/pages/178.html
【ルール】 ①当企画はTYPE-MOON原作の『Fateシリーズ』の設定の一部と、light原作の『相州戦神館學園シリーズ』の設定の一部をモチーフとした、所謂聖杯戦争コンペです ②マスターとなる人間は一人につき一体のサーヴァントを召喚し、最後に勝ち残った一組が聖杯と呼ばれる万能の願望器を手にする資格を得ます。聖杯戦争に関する設定はFateシリーズに準拠します。 ③舞台は「歴史が一つ掛け違ってしまった」現代の鎌倉市です。電脳世界ではなく、そこに生きる人々は正真正銘生身の人間となります。 ④聖杯戦争への参加資格は《願い》を抱くことです。鎌倉へとやって来た時点で、マスターは『体のどこかに三画の令呪を刻まれ』、同時に『聖杯戦争に関する基本的な知識が全て頭に刻み込まれ』ます。 ⑤マスターとなる人物は全員『別の世界からこの鎌倉に送られ』ています。また、彼らにはこの鎌倉においては異邦人となるため、自力で戸籍や立場を得ない限りは住所不定の不審者となってしまいます。 ⑥召喚されたサーヴァントは、原則原作の設定に準拠します。マスターが死亡した場合は、サーヴァントは消滅を免れません。しかし、消滅する間に他マスターと契約を交わせば、これを免れます。 ⑦令呪の全消費=マスターの死亡ではありません。が、当然命令権を失う事となりますので、裏切られるリスクは遥かに跳ね上がります。また、サーヴァントの消滅に際しては新たに別のサーヴァントと契約しない限り、12時間の猶予の後にマスターの資格を失い消滅します。 ⑧マスターにはサーヴァント召喚や生存環境を整えるための予選期間が設けられます。この期間において他のマスターやサーヴァントを殺害することは禁じられていません。 ⑨神秘の露見、一般人の虐殺、魂喰いといった行為に対するペナルティは『存在しません』。監督役となるNPCは存在しますが、予選期間において参加者へのルール説明を担うのみであり、本戦が始まった時点で消滅します。 ⑩自覚してはいけない。
https://w.atwiki.jp/kitanihonrailwayhd/pages/14.html
北日本鉄道は、月野県・豊崎県・飛雲県・竜仙県・神峰県・名張県・加茂県・木津県の8県に、総延長511.9kmをもつ大手私鉄です。 種類 株式会社 略称 北鉄 本社所在地 〒844-9585 名張県本町市中央区駅前町2-11-2 設立 1913年(大正2年)9月1日 業種 陸運業 事業内容 旅客鉄道事業 他 代表者 代表取締役会長 鎌倉栄次郎 代表取締役社長 鎌倉太郎 代表取締役副社長 鎌倉祐介 資本金 951億4500万円 売上高 連結 9927億9000万円 単独 2847億600万円 (2012年3月期) 営業利益 連結 412億900万円 単独 336億8800万円 (2012年3月期) 純利益 連結 96億6600万円 単独 134億5000万円 (2012年3月期) 純資産 連結 1926億2800万円 単独 2180億1000万円 (2012年3月期) 総資産 連結 1兆9195億7200万円 単独 1兆6196億7400万円 (2012年3月期) 従業員数 8,507人 (2013年3月31日現在) 決算期 毎年3月31日 主要株主 日本マスタートラスト信託銀行株式会社(信託口) 3.8% 日本生命保険相互会社 3.4% 株式会社三菱東京UFJ銀行 2.3% 三菱UFJ信託銀行株式会社 1.3% 明治安田生命保険相互会社 1.2% 三井住友海上火災保険株式会社 1.0% 株式会社大林組 0.8% 東京海上日動火災保険株式会社 0.8% 主要子会社 糸魚川鉄道 竜仙音北鉄道 川辺山麓鉄道 北鉄運輸 北鉄パレマーケット 北鉄商事 北鉄重機 名張車両製作所 北鉄引越センター 北鉄バス 北鉄タクシー 北鉄百貨店 北鉄鉄道工房 略称は、北鉄(きたてつ)北電(きたでん)。 軌間は1435mmです。 【北鉄の歴史】 1913年9月1日 小倉~橋住間が開業。当時の社名は「名張中央電気鉄道」略称、中電。 1916年4月1日 小倉~熊野台間が開業。 1922年4月1日 熊野台~公園前(現在の森林公園)間が開業。同時にバス事業を名張村(現在の本町市)と小倉町(現在の小倉市)の間で開始。 1925年4月1日 現在の豊崎線の前身である豊崎電気鉄道を買収。 1929年4月1日 現在の豊熊線の前身である熊野台工場鉄道、現在の竜仙峡本線の一部(小倉~音根内間)の東北鉄道を買収。同時に東北鉄道の軌間を1435mmに改軌、電化した。 1935年 2013年3月まで走っていた100系電車が登場。戦前~戦後の時代の中電を象徴する電車となる。 1935年9月1日 現在の本町線の前身である京西加茂電鉄を買収。同時に名張本線糸魚川まで全線開業。 1940年5月1日 竜仙峡本線全線開通。現在の竜仙峡山口は山上駅という名称だった。 1945年 戦争による空襲の影響で名張本線を中心に被害にあったが、車両は10両のみの被害で済んだ。 1946年 第2代社長鎌倉二郎が就任。 1951年4月1日 若葉線と競馬場線が開業。同時に名張駅(現在の本町駅)が中電本町駅に改称。 1952年4月1日 竜海まで、竜海本線が開通。 1955年4月1日 糸魚川鉄道と直通運転を始める。(実は、中電初代社長鎌倉慶太は糸魚川鉄道を戦前に買収を目論んでいたが、糸鉄社長が鎌倉の知人だったため、あっさり計画を白紙にしたという話がある。) 1956年 第3代社長鎌倉進次郎が就任。 1963年4月1日 坂田線が開業する。同時に8000系が登場。 1964年 旧1000系が登場。高度経済成長期のフラッグシップモデルとなる。 1969年 現在の木津川線の路盤を使用して名張新幹線の建設開始。 1972年 調布中央~木津内海間の布海鉄道が経営破綻。路線を中電が引き継ぐ。(内海本線) 1973年 名張新幹線の建設が凍結。 1973年9月 名張新幹線の路盤を使い木津川線の建設を開始する。 1975年 社名を「名張中央鉄道」と改める。略称、中鉄。同時に高千桜台~調布中央間を結ぶ路線の建設開始。 1978年 木津川線開業。電気設備は新幹線のものであったため、交流電化で開業。同時に交直流電車の1500系が登場。 1981年 高千桜台~調布中央間開業。内海本線に編入する。 1985年 国鉄がJR名竜本線を使い、名張新幹線をミニ新幹線(小倉~京西間フル規格)で建設開始。 1987年 国鉄がなくなり、JRに移行したが、改軌が終了したところでJRが建設をストップさせた。 1988年4月1日 第4代社長鎌倉栄次郎が就任。 1989年1月1日 元JR名竜本線の区間を、竜仙音北鉄道が引き継ぐ。 1990年10月1日 飛雲線が開業する。 1993年4月1日 竜海本線を竜仙音北鉄道に移管する。 1995年 竜海新幹線(JR竜海本線)開通。1435mm軌間と交流20000V50Hz電化という設備が幸いし1年で開業にこぎつけた。 1996年 社名を「北日本鉄道」に改称。 1997年 竜仙音北鉄道が音北鉄道(現在の竜仙音北鉄道音北本線)を改軌した上で路線を引き継ぐ。 1998年 豊崎線が豊崎港(現在のりんくう豊崎)から豊崎空港まで延伸する。同時に豊崎スカイアクセスが開業。 2000年9月28日 木津川線、直流電化に変更。 2002年 初のシングルアームパンタグラフ搭載車となる6000系電車が登場。 2004年 第5代社長鎌倉太郎が就任。 2008年 赤間鉄道と直通運転を開始。木津湯本~赤間鉄道戸狩川山温泉口間開業。 2009年 初のマルチシートを搭載したN8000系が登場。 2011年3月11日 東日本大震災で路盤損傷、高架橋損傷、路盤損失などの甚大な被害を受ける。 2011年9月30日 東日本大震災で被災していた路線がすべて復活。 2012年 北鉄にホームドアが導入される。 2012年9月1日 豊崎空港が豊崎国際空港に改称。それに伴い豊崎空港駅を豊崎国際空港駅に改称。 2013年4月1日 長年鉄道空白地帯であった京西市東区に球場線が開通。 2013年9月1日 北鉄創立100周年を迎える。 路線長の一覧 路線一覧(距離の長い順) 名 称ひらがな表記区 間路線総延長 竜仙峡本線りゅうせんきょうほんせん小倉~竜仙峡山口127.9km 内海本線うつみほんせん高千桜台~木津内海88.5km 飛雲線ひうんせん 土豆良~飛雲水上60.7km 木津川線きづがわせん高千桜台~木津湯本54.5km 名張本線なばりほんせん森林公園~糸魚川37.7km 本町線ほんまちせん本町~高千桜台35.0km 豊崎線とよざきせん熊野台~豊崎空港34.7km 坂田線さかたせん 京西~金崎25.9km 川辺線かわべせん 名張関~東川辺20.6km 豊崎スカイアクセスとよざきすかいあくせす豊崎~空港第2ビル6.8km 若葉線わかばせん 本町~若葉町5.7km 豊熊線とよくません豊熊大橋~東豊熊港4.5km 空港線くうこうせん東大賀~大賀西空港3.2km 臨港線りんこうせん豊熊~豊熊港2.8km 球場線 きゅうじょうせん 京西~京西加茂球場前 2.1km 競馬場線けいばじょうせん鳩ノ巣中央~鳩ノ巣競馬場0.7km 築港線ちっこうせん豊熊~浜豊熊築港0.6km 17路線総延長511.9km