約 9,615 件
https://w.atwiki.jp/jreast-timetable/pages/465.html
横須賀線~東海道本線 試9732M 運転日 編成 時刻 E233系浦和車 逗子1249→鶴見1321-23→新鶴見1330~試9533M 2010/02/18(木) E233系国府津車E52編成+E233系国府津車E02編成 逗子1250→鎌倉1255→北鎌倉1258→大船1300→戸塚1306→保土ケ谷1313→横浜(8)1317~試9831M
https://w.atwiki.jp/chikumabus/pages/16.html
披露山入口(ひろやまいりぐち)バス停は、神奈川県逗子市にある京浜急行バスのバス停である。 利用可能路線 京浜急行バス 鎌40 (小坪経由)鎌倉駅行、JR逗子駅・新逗子駅行 バス停周辺 パンヤコッタ 披露山公園 披露山庭園住宅(反町松嶋邸、小田和正邸、松任谷由実邸、鈴木英人邸を含む) 隣のバス停 鎌40 鎌倉駅行 : 久木西小路 → (当バス停) → 亀ヶ丘 新逗子駅行 : 亀ヶ丘 → (当バス停) → 久木西小路
https://w.atwiki.jp/kaifuusha/pages/10.html
最明寺入道、鶴岡の社参の次(ついで)に、足利左馬入道の許へ、先ず使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちにてやみぬ。その座には亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給わる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。 口語訳 最明寺入道(第五代執権北条時頼)が、鶴岡八幡宮に参拝のついでに、足利左馬入道(足利家五代の当主・足利義氏、北条泰時の女婿)のもとへ、まず使いをやった上で、お立ちよりになったときに、足利入道がおもてなしをなさったことの次第は、一献のお膳に打鮑(のしあわび)、二献のお膳にえび、三献のお膳にかい餅(ぼたもちの類か、そばがきの類か)で終わってしまった。その席には主人夫妻と隆弁僧正(鶴岡八幡の別当)が主人側の人としてお座りにになっていた。そのあとで、最明寺入道が、毎年いただく足利の染め織物が待ち遠しいことです」と申されたところ、「用意してございます」と言って、種々の染め物を三十疋(一疋は二反分)、時頼入道の前で女房達に小袖に仕立てさせて、あとから贈りになったという。そのときに、この様子を見ていた人で、近ごろまで存命しておりましたのが、語りましたとのことです。 太平記の一方の主役、足利氏に関わる話である。いや、足利氏と北条氏に関わる話といったほうが適当かも知れない。兼好が鎌倉下りをしたときに、接待の席に近侍していた人(小姓か?)から七七十年以上前の話を実際に聞いたことをもとにして書いたものである。この段にたいしての一般的な解釈は、兼好が見聞した幕末の過剰なまでに贅沢に流れる鎌倉の酒宴の有り様に、中期の鎌倉の最高権力者・時頼への接待があまりにも質素で簡潔で見事であったのに感じ入り書き記したものとされている。いかに、度はずれた宴会の流行が御家人たちの生活に悪影響を及ぼしているかを知った上で批判的な眼差しで書いたものと思われる。それは、前の二百十五段に書かれている内容からも伺い知ることができる。二百十五段は、北条時頼と平宣時(北条宣時・北条時政の曾孫)にまつわるエピソードである。宣時が晩年に時頼から或る宵に突然呼び出しを受けて酒の相手を仰せつかったときに、直垂(ひたたれ)がなくてぐずぐずひていると、再度呼び出しがあって夜分整った服装でなくてもよいから早く来いとの催促でよれよれの直垂のままで参ったところ、銚子に素焼きの杯を取り添えて、持って出てきて、「酒を一人で飲むのが、もの足りなくさびしいのでお呼びしたのです」 と言って、酒の肴になるものものを捜すように頼まれて、寝静まった家をあちこち隅々を捜しているうちに、台所の棚に小さい皿に味噌の少しついたのを捜しあてて、それを肴に愉快に杯を重ねたことが語られている。「その世にはかくこそ侍りしか」として宣時がしてしめくくっている。この二つのエピソードを持ち出して、鎌倉中期までの時代では、権力者といえども健全で質素なくらし向きであったとことを兼好は伝えたかったのであろうか。 さて、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ…といった接待の献立であるが、しかも相手は現執権の時頼である。具体的にこれが質素か否かは、直接の比較でなくて気の引けるところだが、一つのヒントとして例を出して置きたい。元徳元年(1329年)、美濃国小木曽荘にやって来た領家仁和寺の検注使の一行二十人を迎えた現地の荘官・百姓達は、まず集落の境界で「境迎」(酒迎)の酒肴を供したのち、荘内で「落着」「昼埦飯」などの酒宴を行い鳥、川魚、芋、御菜(山菜?)など山深い当地としての精一杯の珍味を肴に三日間使者達を接待している。この三日間で消費された酒は、白酒(濁酒)九瓶子に、その三倍以上の値段もする清酒を十九瓶子、それに加え白米五斗四升が飲み食いの使われたとある。(中世的世界とは何だろうか 網野善彦朝日選書)無論、検注使だけではなく地元の荘官・百姓達も加わっての飲食であろうが山深い地方でも手厚い接待をしている。鎌倉末期は地方といえども相当量の消費をしていることが窺える。鎌倉上級武士の典型的な食事に一日二食で五合の玄米の強飯と梅干とうちあわびとくらげの三種に酢と塩の調味料がつくものがある。これに比べれば義氏の時頼への接待はさほど遜色のないものではなかったかと思われる。当時の食習慣からすればむしろ気張った接待とも言えるかも知れない。ただし兼好が下った頃の鎌倉末期では、繰り返すようであるが北条氏の得宗および身内人を中心とした酒宴や饗応の豪華さ(二汁五菜、三汁七菜、品数も十二品、二十品等々とエスカレートしている)や頻度の多さ、或いは禅僧を招いての連日の供養に伴う華美な膳に対して諌める声もあがっており、また唐物(輸入品)の遣り取りもあり、それに呼応するかのような兼好の一文と考えられる。しかし、兼好の批判の眼が当時の酒宴の過剰ぶりつまり頽廃する社会風潮にありあるとする一事よりも、私はむしろ北条氏に対する足利氏の緊張した対応ぶりに関心がそそられる。兼好の文の端はしから義氏の時頼に対する気の使いようが見て取れる。先ず客を迎える姿勢である。最明寺殿(時頼)が鶴岡八幡の社参を終えた序でに、足利左馬入道(義氏)の許に使いを遣わして(気軽に?)立ち寄ったところ、迎える側の義氏は亭主夫妻と鶴岡八幡の別当である隆弁僧正が座っていた。何か気張った出迎えである。何故鶴岡八幡の別当が迎える側に座っているかであるが、元来足利家は頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮に対して主要な経済的なスポンサーとして関係を持続しており、しかも義氏の子女が隆弁の甥の妻にもなって因縁浅からず、同時に別当として執権時頼の深い信頼を勝ちえていることつまり双方にパイプがあることを考慮に入れて彼を迎える主人側に取り込んで当日の接待の運びになったと思われる。足利家としては精一杯の顔ぶれで時頼を迎えている。饗応の出された食べ物は品数が少なくても一品一品贅を凝らした気の利いたものであり、手抜かりがないように見受けられて、義氏の気配りが良く感じられる。饗応の後、時頼は「毎年給わる足利の染物、心もとなく候」と無造作に切り出してご当地名産の反物を義氏に所望している。権力者の本質を垣間見る思いである。義氏は直ぐに反応して三十疋(六十反)用意してございますと応えて、時頼の前で女房達に小袖に仕立てさせて後日届けさせている。妻が家の女房達を動員して懸命に縫っている図が浮かんでくるようである。この挿話の前後して、義氏の子息が勝手に出家してしまい、その咎で所領を没収されるという事件があった。そのための関係修復の接待であろうという話もある。いずれにせよ鎌倉時代百五十年の終始にわたって権力者の北条氏と名門の足利氏との間には、お互いを意識する存在感もしくは緊張感が常について回ったことの反映ではなかったか。北条氏は元来伊豆・韮山地方の一土豪に過ぎず、平家の天下では国府の役人をやっていた。それが時代変換の転機ともなった時政の娘・政子が流人として伊豆にいた頼朝と結婚したことである。それにより事態は一変する。頼朝は平家打倒のシンボルとなり、緒戦はつまずくが関東の武士勢力をたちまち糾合して平家を打倒して、東国を支配する武家政権を鎌倉に打ち立てた。頼朝の御台所を出したということで北条氏は鎌倉政権の中枢に座り、あまた多くのライバたる畠山氏や和田氏や三浦氏などの御家人達を漸次巧みに屠り独裁者としての地位を確立していく。時頼は北条政権の権力がピーク時の際の執権とされており、いかに足利義氏の母が時政の娘であり、妻は北条泰時の娘で北条一門と色濃く結び付けられていても、接待への気の使いよう、緊張のしかたは並々ではなかった。本来ならば、足利氏は源氏一門の血をひくものであり、陸奥・出羽の前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)で活躍した八幡太郎源義家が東国の武士団の棟梁として地歩を固め、その子の義国には義重と義康の二子があり、義重は新田氏の祖となり、義康が足利氏の祖となった。赫赫たる源氏の血を引く足利氏と一地方の土豪に過ぎない北条氏とでは血統の原理からいけば足元にも及ばない身分関係であるが、歴史の妙味で頼朝との婚姻関係を最大限に政治的に活用して、平家の打倒、承久の乱での勝利などを経て所領の膨張に努めて北条氏は権力者へとのし上がっていく。一方足利氏は、頼朝の命により義康の子・義兼が北条時政の娘をめとってから鎌倉御家人化への傾斜が始まり、以後高氏(尊氏)に至るまで代々足利の当主は北条の一門から妻を迎えて北条執権体制に甘んじてきている。しかし、完全なる御家人でもなく準北条一門とみなすべきか他の有力御家人のような粛清の憂き目にも遇うこともなく一目おかれた名門として栄えている。高氏の代には、足利荘は無論のこと曽祖父や祖父や親達から代々受け継いできた上総や三河の守護職を兼ね、丹波や九州など全国各地に散在する十二ヵ国以上の領地を支配するまでになっていた。北条氏と足利氏の確執の濃淡は、鎌倉時代百五十年の長きわたっていろいろあったに違いないが、この章で取り上げている義氏(1189~1254)は、三代将軍実朝が1219年に暗殺されたとき足利氏の当主として源氏の嫡流と目されたが御家人の立場をとって乗らず、結局幕府は京から九条頼経を四代将軍として迎えて体裁を整えている。彼は先に和田の乱(1213)から承久の変(1221)、三浦の乱(1247)では武将として活躍して北条政権にべったりで助けた。時頼(1227~63)が長年の政敵三浦氏を宝治の合戦(1247)で倒したこともあり、義氏の館訪問の時は執権として気分が昂揚していたに相違いなく、その分義氏は神経をぴりぴりしていて大過なく過ごすことに腐心していたのではなかろうか。 歴史家ではないが、歴史紀行の作家として有名な宮脇俊三氏の作品・平安鎌倉紀行の中に足利市と新田郡の章のくだりに次のような一節がある。それは徒然草の二百十六段にふれて所感を述べているところである。 以下それを引用させていただだく。徒然草の義氏と時頼のエピソードを紹介した上で、── そうして、この挿話は北条氏にたいする足利氏の無念の雌伏を象徴しているかに見える。それをつぎのようなかたちで示してみよう。 初代・源義家 「われ七代の孫(そん)に生まれかわりて天下を取るべし」との置文(おきぶみ)が足利家に伝えられている。 四代・義兼 北条氏の疑念を怖れてか、物狂いを装おう。子の義氏の妻に北条泰時の娘を頂戴したのも、足利家の安泰をはかるためであったろう。 五代・義氏 前述のごとし。 八代・家時 先祖の義家の言う「七代の孫」に当たるが、天下を取れないので、八幡大菩薩に「わが命つづめて三代のうちにて天下を取らしめ給え」と祈念して切腹。 そして、十代目の高氏(尊氏)が宿願をはたしたわけである。──と足利家に伝わる置文について書いてある。更に続けて、引用した「徒然草」の一段は「その時見たる人の……」とあるように言い伝えであり、「徒然草」執筆時期より七十年ぐらい昔のことと推定されるが、さすが兼好法師で、よくぞ書きとどめてくれたと思う。「徒然草」は史料としても第一級であり、冷徹な眼で題材を選んでいる。──と褒めている。 足利家に伝わる置文は、後に作られた伝文であり歴史的な価値は疑問視されている面はあるが、所々には事実が顔を出している。義兼が狂人を装おったり、家時が自殺したりしているなどがそれである。宮脇俊三氏は歴史家ではないけれども歴史紀行をシリーズで出している作家で歴史を見る眼は確かなものがあると思う。私も宮脇氏が指摘した足利氏の無念の雌伏を象徴したという説に共鳴するものである。 足利氏の居館であった鑁阿寺の山門をくぐって諸堂宇に向かう途中に黒曜石に刻まれた碑文が建っている。内容は徒然草の第二百十六段全文である。この碑文の建てた由来について足利教育委員会にお伺いしたところ、返ってきた答えは、足利の織物が鎌倉時代から有名であったことを示すものとして、また、足利義氏が当時の権力者であった北条氏といかに親しい関係にあったかを示す格好の話として、足利氏顕彰会により建てさせていただいたものであります。とのことであった。足利尊氏は戦前かつて皇国史観の影響で一時国賊の汚名着せられたこともあったが、いまや地元足利市では温かい眼差しで受け入れられているようである。 兼好の二百十六段は歴史的にも、政治的にも、商業的にも、食文化的にも色々と示唆に富んだ一章となったことだけは間違いないようである。 参考文献 吾妻鏡 龍 粛 訳注 岩波書店刊 中世的世界とは何だろうか 網野善彦 朝日選書 朝日新聞社刊 太平記の群像 森茂暁 角川書店刊 きらめく中世 歴史家と語る 永井路子 有隣堂刊 平安鎌倉史紀行 森脇俊三 講談社刊 日本の食文化 二 石川寛子 芳賀 登 有山閣刊 その他 教えて頂いたところ 足利市教育委員会 鎌倉市教育委員会 「鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、…… (百十九段) 」に続く ※お願い:鎌倉末期の酒宴における料理のメニューがおわかりになれば御教授して頂けませんか。幕府要人の酒宴ならびに引き出物のようすがわかれば幸いです。宜しくお願いいたします。 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/eirei/pages/239.html
長崎円喜(ながさき えんき)、長崎高綱日本????~1333統率:B 武力:C 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府、執権北条氏の御内人。長崎光綱の子。嘉元の乱で北条貞時が勝利すると、内管領、侍所所司、寄合衆を務めた。北条高時の後見人として、幕政を主導した。 名和長年(なわ ながとし)日本(伯耆国名和)????~1336統率:B 武力:B 政治:A 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------南朝の武将。倒幕計画が露見して隠岐島に流されていた後醍醐天皇が脱出するとそれを迎えて船上山の戦いに勝利して伯耆守となる。建武の新政が始まると天皇近侍として武者所、恩賞方、雑訴決断所などの役人を務めた。後に離脱した足利尊氏との湊川の戦いで討死した。 二階堂是円(にかいどう ぜえん)日本????~????(14世紀)統率:C 武力:D 政治:B 知力:A 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------明法家。中原章継の子。後醍醐天皇の建武の政権に登用され、雑訴決断所所衆の東海道を担当した。足利尊氏が幕府を開くと、弟の真恵と共に『建武式目』の制定に参加した。 新田義貞(にった よしさだ)日本(上野国新田)1300頃~1336統率:A 武力:A 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------河内源氏新田氏本宗家8代目棟梁。新田朝氏の長男。楠木正成が挙兵すると討伐に参加するが、幕府からの軍資金の徴収に反発して反旗を翻して鎌倉幕府を滅ぼした。建武の新政が始まると武者所頭人となる。対立した足利尊氏と湊川の戦いで破れ、藤島の戦いで討死した。 花園天皇(はなぞのてんのう)、富仁(とみひと)日本1297~1348統率:E 武力:D 政治:D 知力:A 文化:A 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第95代天皇。伏見天皇の第四皇子で、後伏見天皇の弟。持明院統。文人肌で禅宗の信仰に傾倒し出家。読経、念仏を欠かさなかった。歌道に優れ、『花園天皇宸記』と言う日記を残す。 久明親王(ひさあきしんのう)日本1276~1328統率:E 武力:E 政治:D 知力:E 文化:E 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第8代将軍。後深草天皇の第六皇子。前将軍惟康親王が京に送還されると征夷大将軍となるが、北条氏の都合で、自らも後に解任される。 伏見天皇(ふしみてんのう)、熈仁(ひろひと)日本1265~1317統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第92代天皇。後深草天皇の第二皇子。持明院統。即位後、始めは後深草上皇が院政を敷くが、後に親政を敷く。後伏見天皇で院政を行なう。幕府の干渉により、後二条天皇に皇位を認めるが、花園天皇の即位で院政を行なう。 北条貞顕(ほうじょう さだあき)、金澤貞顕(かねさわ さだあき)日本1278~1333統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第15代執権。8代六波羅探題南方、13代六波羅探題北方、越後守、引付衆、連署を歴任する。文献を写本し、金沢文庫の充実に励んだ。内管領・長崎高資に執権に擁立されるが、すぐに職を辞する。 北条貞時(ほうじょう さだとき)日本(相模国鎌倉)1272~1311統率:C 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第9代執権。8代執権・北条時宗の嫡男。将軍・惟康親王を退けて、久明親王を擁立する。元寇の救済策として永仁の徳政令を発布するが逆効果に終わる。鎮西探題を新たに設置する。 北条高時(ほうじょう たかとき)日本1303~1333統率:D 武力:D 政治:E 知力:D 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第14代執権。9代執権・北条貞時の四男。内管領の長崎氏に擁立された。題目宗の日印に「鎌倉殿中問答」で論破され布教を認めた。奥州で蝦夷の反乱、安東氏の乱、後醍醐天皇の正中の変が起きた。闘犬や田楽にふけったという。 北条煕時(ほうじょう ひろとき)日本1279~1315統率:D 武力:D 政治:C 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第12代執権。引付衆、評定衆、長門探題、武蔵守、相模守、連署を歴任し、執権となる。しかし、実権は内管領の長崎高綱に握られたままとなる。 北条宗宣(ほうじょう むねのぶ)、大仏宗宣(おさらぎ むねのぶ)日本1259~1312統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第11代執権。北条宣時の子。引付衆、評定衆、陸奥守、7代六波羅探題南方、連署を歴任し、執権となる。しかし、実権を内管領の長崎高綱に握られ、僅か1年で執権職を辞し、出家した。 北条基時(ほうじょう もととき)日本1286~1333統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第13代執権。11代六波羅探題北方、讃岐守、相模守を歴任。後醍醐天皇の倒幕計画から元弘の乱が起こり、新田義貞らに攻められ自害する。 北条守時(ほうじょう もりとき)、赤橋守時(あかはし もりとき)日本1295~1333統率:C 武力:C 政治:D 知力:C 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第16代にして最後の執権。北条久時の子。評定衆、左近衛将監、讃岐守、武蔵守、相模守を歴任し、執権となる。しかし、実権は北条高時や内管領・長崎高資らに握られていた。新田義貞の軍を迎え撃つため出陣するが、敵わず自刃する。 北条師時(ほうじょう もろとき)日本1275~1311統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第10代執権。北条宗政と7代執権・北条政村の娘の子。後に伯父の8代執権・北条時宗の養子となった。 坊門清忠(ぼうもん きよただ)日本1283?~1338統率:B 武力:C 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------公卿。後醍醐天皇の近臣として仕え、従二位・参議となった。九州に落ち延びた足利尊氏が再び挙兵した時、楠木正成が示した天皇は比叡山に退いて足利軍を京都で迎え撃つといった作戦を「帝が都を捨てて臨幸する事は帝位を軽んずる事である」と反対した。 細川定禅(ほそかわ じょうぜん)日本????~1339?統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------北朝側の武将。細川頼貞の子。鶴岡若宮の別当を務め、足利尊氏に従った。中先代の乱で武功を挙げ、四国や中国地方の国人衆を糾合し、その後の湊川の戦いでも活躍した。 毛利親衡(もうり ちかひら)、毛利親茂日本(安芸国)????~1375統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------3代当主・毛利時親の孫で毛利貞親の子。父の貞親と共に南朝側として越前で戦った。後に北朝方に帰順して安芸に下った。観応の擾乱では息子の毛利元春と対立し、周防の大内氏と共に打ち破り、安芸守護・武田氏信も撃退するほどの武功を挙げた。陸奥守、備中守。 毛利時親(もうり ときちか)日本(安芸国)????~1341統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------毛利家3代当主。毛利経光の四男。六波羅評定衆を務め、越後、安芸、河内に領地を持った。吉田郡山城を築城する。 毛利広房(もうり ひろふさ)日本(安芸国)1347~1385統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------毛利家5代当主。毛利元春の嫡男。 毛利元春(もうり もとはる)、毛利師親日本(安芸国)1323~????統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------毛利家4代当主。毛利親衡の嫡男。曽祖父・毛利時親の代官として足利尊氏に従い、安芸国吉田荘を引き継ぎ『郡山殿』と呼ばれた。観応の擾乱では、一族を敵に回して九州探題・今川貞世に従って転戦した。 守邦親王(もりくにしんのう)日本1301~1333統率:C 武力:C 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第8代にして最後の将軍。久明親王と、惟康親王の娘の子。父の将軍職の解任に伴って8歳にして征夷大将軍に就任するが、実権はなかった。後に、後醍醐天皇と呼応した足利義詮や新田義貞らの攻撃によって鎌倉は陥落、鎌倉幕府は滅亡した。 護良親王(もりよししんのう)日本1308~1335統率:A 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------皇族。後醍醐天皇の皇子。天台座主となっていたが武芸を好み、後醍醐天皇が元弘の乱を起こすと還俗して参戦する。建武の新政で、征夷大将軍、兵部卿に任じられるが、皇位簒奪を企てたとして捕らえられ、鎌倉に幽閉されて処刑された。『大塔宮』と呼ばれる。 山名氏清(やまうち うじきよ)日本1344~1391統率:C 武力:B 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------足利義満に仕えた武将山名時氏の子。陸奥守。和泉・丹波などの守護となるが、山名一族の強大化を恐れた義満の計略によって反乱(明徳の乱)を起こし、敗死する。 吉田兼好(よしだ けんこう)、卜部兼好、兼好法師日本(京)1283~1350統率:D 武力:D 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------歌人、随筆家。吉田神社の神職の生まれ。三大随筆の一つ『徒然草』の作者。和歌にも優れ、『続千載集』、『続後拾遺集』にも選出されている。二条家和歌四天王の一人にも数えられている。 脇屋義助(わきや よしすけ)日本1305~1342統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------南朝側の武将。新田朝氏の次男で新田義貞の弟。兄の義貞が鎌倉幕府打倒の兵を挙げるとそれに従う。伊予守、左馬権頭、弾正大弼、刑部卿などを歴任する。兄が戦死後は中国・四国方面の総大将に任命されたが、四国に渡って病死した。
https://w.atwiki.jp/chikumabus/pages/18.html
逗子ヘルスケア前(ずしへるすけあまえ)バス停は、神奈川県逗子市にある京浜急行バスのバス停である。 利用可能路線 京浜急行バス 鎌40 (小坪経由)鎌倉駅行、JR逗子駅・新逗子駅行 逗29 亀ヶ岡団地循環、JR逗子駅行 バス停周辺 神奈川県警 逗子警察署 小坪交番 隣のバス停 鎌40 鎌倉駅行 : 亀ヶ丘 → (当バス停) → 小坪 新逗子駅行 : 小坪 → (当バス停) → 亀ヶ丘 逗29 亀ヶ岡団地循環 : 南ヶ丘団地入口 → (当バス停) → 亀ヶ岡団地南 JR逗子駅行 : 亀ヶ岡団地西 → (当バス停) → 南ヶ丘団地入口
https://w.atwiki.jp/jreast-timetable/pages/1662.html
成田線 列車番号 名称 編成 区間 備考 9420?レ 多客臨 DE10形宇都宮車+旧型客車高崎車+D51 498高崎車 銚子→佐原 快速「DL佐原」 9421レ 多客臨 D51 498高崎車+旧型客車高崎車+DE10形宇都宮車 佐原→銚子 快速「SL銚子」 試9463M 試運転 E235系鎌倉車 東京→成田空港 性能確認試運転 試9464M 試運転 E235系鎌倉車 成田空港→東京 性能確認試運転
https://w.atwiki.jp/wiki7_mikawa/pages/60.html
学問 順番当て 次の時代を表す言葉を古い順に選びなさい 古代中世近代近世 古代→中世→近世→近代 次の幕府を開かれたのが古い順に選びなさい 江戸幕府室町幕府鎌倉幕府 鎌倉幕府→室町幕府→江戸幕府 次の文字列を順に選んで尾崎放哉の俳句になるようにしなさい 受ける入れものが両手で無い 入れものが→無い→両手で→受ける →→→
https://w.atwiki.jp/jreast-timetable/pages/2368.html
横須賀線 回8843M 運転日 編成 時刻 備考 2020/06/08(月) E233系鎌倉車 大崎~回8849M?~新宿~回8850M?~品川13 34→大船14 09 発着時刻は沿線通過時刻より推測 2020/06/09(火) E259系鎌倉車 東大宮(操)~回8842M~品川13 34→大船14 09 発着時刻は沿線通過時刻より推測
https://w.atwiki.jp/shonanbus/pages/2.html
メニュー トップページ 京浜急行バス +京浜急行バス 大森営業所 京浜島営業所 新子安営業所 逗子営業所 衣笠営業所 三崎営業所 久里浜営業所 +羽田京急バス 東京営業所 +横浜京急バス 杉田営業所 能見台営業所 追浜営業所 +湘南京急バス 堀内営業所 鎌倉営業所 江ノ電バス 横浜営業所 鎌倉営業所 湘南営業所 リンク @wiki @wikiご利用ガイド プラグイン紹介 メニュー メニュー2 ここを編集
https://w.atwiki.jp/kyoto-database/pages/170.html
宗峰妙超 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)は鎌倉時代末期の臨済宗?の僧。開山(初代住職)として大徳寺を創建する。諱は妙超、道号は宗峰、諡号は興禅大燈国師。師の南浦紹明?(大応国師?)から宗峰妙超(大燈国師)、のちに妙心寺の開山となる弟子の関山慧玄へと流れる純禅の系統を「応燈関」といい、現在、日本臨済宗?はほとんどこの法系に属する。弘安5年~延元2年/建武4年(1282~1337) 人物史 弘安5年(1282)に播磨国(現兵庫県)守護・赤松氏の家臣である浦上家(うらのえ)の子として生まれた。11歳の時に書写山圓教寺で天台?を学ぶが、のち禅にめざめ、鎌倉の高峰顕日や京の南浦紹明?に参禅。南浦紹明?が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307)には師から印可(師の法を受け継いだというお墨付き)を得る。嗣法の後、約20年草庵にあって京都で乞食行(こつじきぎょう)の修行に励み、托鉢と坐禅の日々を送る。禅風は厳格で、容赦ない厳しさをもって人に接し、深く自己の悟境を掘り下げていくことを重視し、唐代の禅風の復活を志向した。自ら公案をつくって弟子を育成し、教化においてはほとんど方便(釈迦の説法)を使わず、正面より禅の極みを打ち出した。正和4年(1315)、一族の赤松則村(円心)の帰依を受け(元応元年=1319説も)、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源とされる。また花園天皇は宗峰妙超に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。このころ、正中の宗論にて顕密の学僧を論破して名声を高めた。建武4年(1337)、病に伏し重態となるが、花園法皇の求めに応じて、没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄を推挙する。花園法皇が離宮を禅寺とした際、その山号寺号を正法山妙心寺と命名した。その年の12月22日に死去。妙心寺では、この年を開創の年とし、宗峰妙超の遺命を受けた関山慧玄が開山となっている。著作に『大燈国師語録』『仮名法語』『祥雲夜話』など。 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定3級出題 「大徳寺は、鎌倉時代末期に( )が創建。建武の親政を断行した( )の帰依を受け、(中略)一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( )の援助で復興した(後略)。」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「苔寺で知られる西芳寺の庭園を造った僧侶は誰か。 (ア)関山慧玄 (イ)春屋妙葩 (ウ)夢窓疎石 (エ)宗峰妙超」 リンク 臨済禅・黄檗禅オフィシャル http //www.rinnou.net/ 宗峰妙超 大燈を挑げ起して (ミネルヴァ日本評伝選)