約 9,617 件
https://w.atwiki.jp/shonanbus/pages/12.html
あいうえお
https://w.atwiki.jp/flancurzy/pages/63.html
B-11:鎌倉幕府・歴代執権一覧 ■初代 ◇北条時政(ほうじょう・ときまさ) ○官職:遠江守 ○生没年:1138~1215 ○在職期間:1203~1205 ○北条氏出身:北条氏 ■第2代 ◇北条義時(ほうじょう・よしとき) ○官職:相模守・右京権大夫陸奥守 ○生没年:1163~1224 ○在職期間:1205~1224 ○北条氏出身:得宗家 ■第3代 ◇北条泰時(ほうじょう・やすとき) ○官職:武蔵守・左京権大夫 ○生没年:1183~1242 ○在職期間:1224~1242 ○北条氏出身:得宗家 ■第4代 ◇北条経時(ほうじょう・つねとき) ○官職:左近将監・武蔵守 ○生没年:1224~1246 ○在職期間:1242~1246 ○北条氏出身:得宗家 ■第5代 ◇北条時頼(ほうじょう・ときより) ○官職:左近将監・相模守 ○生没年:1227~1263 ○在職期間:1246~1256 ○北条氏出身:得宗家 ○メモ:最明寺 ■第6代 ◇北条長時(ほうじょう・ながとき) ○官職:武蔵守 ○生没年:1229~1264 ○在職期間:1256~1264 ○北条氏出身:極楽寺流 ■第7代 ◇北条政村(ほうじょう・まさむら) ○官職:相模守・左京権大夫 ○生没年:1205~1273 ○在職期間:1264~1268 ○北条氏出身:政村流 ○メモ:第2代執権・北条義時の子 ■第8代 ◇北条時宗(ほうじょう・ときむね) ○官職:相模守 ○生没年:1251~1284 ○在職期間:1268~1284 ○北条氏出身:得宗家 ■第9代 ◇北条貞時(ほうじょう・さだとき) ○官職:左馬権頭・相模守 ○生没年:1271~1311 ○在職期間:1284~1301 ○北条氏出身:得宗家 ■第10代 ◇北条師時(ほうじょう・もろとき) ○官職:右馬権頭・相模守 ○生没年:1275~1311 ○在職期間:1301~1311 ○北条氏出身:宗政流 ○メモ:得宗家亜流 ■第11代 ◇北条宗宣(ほうじょう・むねのぶ) ○別名:大仏宗宣(おさらぎ・むねのぶ) ○官職:陸奥守 ○生没年:1259~1312 ○在職期間:1311~1312 ○北条氏出身:大仏流 ■第12代 ◇北条煕時(ほうじょう・ひろとき) ○官職:相模守 ○生没年:1279~1315 ○在職期間:1312~1315 ○北条氏出身:政村流 ■第13代 ◇北条基時(ほうじょう・もととき) ○官職:相模守 ○生没年:1286~1333 ○在職期間:1315~1316 ○北条氏出身:極楽寺流 ○メモ:重時流 ■第14代 ◇北条高時(ほうじょう・たかとき) ○官職:左馬権頭・相模守 ○生没年:1303~1333 ○在職期間:1316~1326 ○北条氏出身:得宗家 ■第15代 ◇北条貞顕(ほうじょう・さだあき) ○別名:金沢貞顕(かなざわ・さだゆき) ○官職:武蔵守 ○生没年:1278~1333 ○在職期間:1326~1326 ○北条氏出身:金沢流 ■第16代 ◇北条守時(ほうじょう・もりとき) ○別名:赤橋守時(あかはし・もりとき) ○官職:相模守 ○生没年:1295~1333 ○在職期間:1327~1333 ○北条氏出身:赤橋流 ○メモ:極楽寺
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/612.html
遠く離れた古典の地や風物に対しては憧れをもつが、自分の近くにある古蹟などには至って無 関心なものだ。皇居の前はよく通る。太田道灌以来、およそ六百年を経た古城であることは承知 している。自動車や電車の窓からすばやく見える二重橋、お堀端など、見あきた風景だ。そう思 いこんでいる。ところが実際は何も知らない。目をこらして見たことはない。私は桜田門の、屈 折ある一隅に立って、石崖の松や青く淀んだお堀の水を眺めてみた。自分がどんなに意味もなく 多忙で疲れているか。近代都市の誘惑はすさまじい。耳を聾する大音響のために、目の方はかす んでくるらしい。何か心がうつろだ。私は茫然と老松のすがたを求めた。 むさし野といひし世よりや栄ゆらむ千代田の宮のにはの老松 明治天皇のこういう御製が、自分の心にかすかながら一点の火をともすようだ。それは歴史の 火だ。戦災で廃墟と化した東京にとって、ここは江戸の最後の名残りであろう。また大市街のた だ中に残された自然の一大断片である。「むさし野といひし世より」のすがたを見たい。私は真 夏の一日、西丸の皇居をはじめ本丸一帯を拝観することになった。三谷侍従長の御好意によるも のである。 * 坂下門を入ると、市街の騒音は全く絶えてしまう。ここには機械の音というものはない。蝉の 声だけが、城内一杯にひびきわたっている。宮内庁の裏側から、やや登り道になったところを行 くと、そこからはもう大森林に蔽われた丘陵地帯に入った感じであった。戦災で焼けた宮殿跡を 左手にして、右側にいきなり紅葉山の深い谷がのぞまれる。数丈の巨木の密生した山峡の眺めに 似て、底には深く青みどうの水が淀んでいる。道灌堀というが、おそらく数百年間手を加えずに きたこのお堀は、化けかかった古沼のようだ。流れはない。どれほどの朽葉がここに埋れている か。一面に藻で蔽われ、薄ぐらい底には純白の蓮の花が浮んでいた。 つこうど 仕人に案内されて行く玉砂利の道は、塵ひとつない清潔さである。私はここへ来る前、二一二の 古図によって大体の模様は心にとめておいたのだが、一町も歩まぬうちに、もう方角がわからな くなった。道灌堀を過ぎると平坦な道へ出る。賢所の裏門が前方にみえたが、この辺りから西に 向って、幅数問の道が一直線にのびている。周囲一問、高さ五六丈と思われる銀杏の並木があ る。「これが昔の甲州街道です。」と仕人が説明してくれた。皇居の中へ来て、甲州街道の名を聞 くのはめずらしい。一直線の道は半蔵門につづき、それから四谷門を通り、新宿をぬけて、今の 甲州街道に接続するわけである。この西丸は家康が入城した頃は、里人の遊覧地であり、旅人の 往還の道でもあったという。甲州街道は今の皇居を貫いて、東海道や奥州街道、日光街道などに つづいていたらしい。 私は銀杏の巨木を見あげた。同じほどの高さの老松、杉、欅、樫などが密生しているが、その 間にみられる銀杏というものは何となく華やかである。あの葉は眼に柔い。旅人にとっては憩い となる木だ。私は郊外の武蔵野に住んでいながら、樹木などには平生無関心なのだが、ここへ来 て、一本一本の木が身にこたえるほど鮮かにみえてきたのだから不思議だ。人工はひとつも加え てない。自然のままだ。それでいて我々が郊外で感じるあの自然とはちがう。正確で清潔な道路 が額縁の役割を果しているようである。そこにきちんとおさまった絵である。貴人の眼によって のみ愛撫された素直さもあるらしい。茫漠として、のっそり立っているようで、それでいて実に お行儀がよい。東京のただ中に、おそらく千何百年のままで隔離された古典なのだ。今の千代田 やぐら 城には、二三の櫓(城中の高楼)を除けば何も残っていない。宮殿は廃墟である。ただ正真正銘 の古典的武蔵野だけが残っている。その中に陛下のささやかなお住居がぽつんとある。 * 秩父の山岳地帯は、東南にのびるにしたがって次第に丘陵となり、浅い谷間や小山を伴いなが ら、やがて平原につらなり、東京湾に達する。北を流れるのは入間川、東を流れるのは隅田川、 西は奥多摩、南には多摩川が流れているが、この間方二一二十里の地域を武蔵野とよぶ。武蔵野に は一望千里ともいうべき全くの平原はない。秩父山脈の連続である小さな丘陵が至るところに散 在している。その東南端、即ち東京湾に接するところが江戸の地である。今の市内にも、平均二 三十メートルの丘が多い。飛鳥山、上野、湯島、小石川、牛込、赤坂、麻布、青山、高輪白金な どいずれも高台である。千代田城はそういう台地の一つに構築された城だ。本丸と西丸を中心に 周囲一里半ほどの丘陵である。上古時代には、今の本丸下が波打際であったそうで、近年貝塚が 発見された。 家康が江戸に入ったのは、天正十八年である。彼は北条の拠った小田原城か鎌倉を所望したら しいが、秀吉の案で江戸に落着いたと伝えられる。その頃でさえ今の浅草、日本橋、京橋、芝、 麹町の大部分は入江であり、千代田村とよばれたこの地は、戸数わずか百戸の僻村であった。太 田道灌が長禄元年(室町幕府、足利義政の時)に完成したと云われる江戸城もすでに荒廃してい た。辺りはむろん広漠たる武蔵野である。道灌の歌に、「我宿は松原つ.・き海近く富士の高根を 軒端にぞ見る」「露おかぬかたもありけり夕立の空より広き武蔵野の原」の二首がある。これは 江戸城の風景を人に問われて答えた歌だ。同じ風景は徳川初期までつづいていたとみてよかろ ・つ。 上代から奈良平安朝にかけて、武蔵野の中心となった国府は、現在の府中である。その北一里 余のところに武蔵国分寺が建立された。諸国の国府と国分寺の線をつないで行けば、大体その頃 の交通路はわかる。武蔵国に隣接した国、たとえば駿河の国府と国分寺は静岡の在であり、それ から伊豆の三島を通り、相模の高座郡海老村を経て武蔵国府に至った。江戸はまだ問題になって いない。奈良朝初期、高麗と百済の帰化人を武蔵に移植させたことが続日本紀(元正天皇、霊亀 二年)にみえる。実はそれ以前からここは帰化人の植民地であった。埼玉の高麗郡が本拠の跡で こまえ さやま あり、一部は多摩郡狛江(今の深大寺附近)に住みついた。他方村山貯水池のある武蔵狭山一帯 は、同じ頃から物部一族の入りこんだところで、帰化人と物部が、上代武蔵野の政治と文化を掌 握していたわけである。現在深大寺に関東随一の白鳳仏の残るのも、これと無関係ではあるま い。 浅草は徳川期以来、江戸の一部とみなされるようになったが、実は江戸よりはるかに古く、独 立的に存在した帰化人の部落であった。国分寺は周知のとおり奈良朝廷の国家事業であるが、 それより以前、帰化人による仏教流布があり、私設の寺も当然建てられた。浅草寺はその一つで ある。本尊の観音は推古朝二十六年に発見され、安置されたという言い伝えがある。帰化人によ る一種の宗教都市であり、工芸美術の中心として栄えたわけだ。頼朝も鎌倉の社寺建立には浅草 の大工を招いたと云われる。わずかに離れた江戸は、地方豪族の一拠点にすぎなかったらしい。 その地名を名乗った江戸太郎重長の名が歴史にはじめてあらわれるのは、治承四年八月(吾妻 鏡)である。彼は秩父平氏の出であるが、頼朝挙兵後その輩下となった。江戸が東海道と奥州街 道の要路として、注目されはじめたのは鎌倉期以後であろう。 皇居を巡り、様々の巨木をみるたびに、思い出すのは古い武蔵野の全貌であった。十万三千坪 もある吹上御苑は、五代綱吉より十一代家斉にわたってつくられた大庭園である。しかし戦後は 一切手入れをしないことにしたそうだ。これは陛下の思召である。武蔵野の樹木や雑草や小鳥を 保存し、古さながらの武蔵野を再現しようとの御夢であるらしい。秋など一面すすきの原になる すま そうだ。おそらく陛下の御心にも、古い武蔵野は息づいている。現在は草繁き吹上の一隅がお住 居である。「江戸むらさき」の名で有名な武蔵野固有の「紫草」もあるということだ。大樹林を とおして遙かにしのびつつその前を通る。 * 風寒き霜夜の月に世を祈るひろまへ清く梅香るなり これは昭和二十年、即ち敗戦の年の新年御製である。当時景気のよさそうな軍歌調の多かった 中で、突然この御歌に接した私は、静寂の裡にこもる沈痛なしらべに何か愕然たるものを感じ た。寂寥極まりなき歌である。寒風の吹く霜夜の月に、ひとり目ざめて、ただ祈るより他ない悲 哀の極みを垣間見たように思った。帝王の孤独である。わずかに白く暗夜に咲く一輪の梅花に、 希望とは言いかねる希望を託しておられるごとくであった。賢所の辺りで歌われたものであろう か。 樹間の道を歩み、いつの間にか賢所の前に出たとき、私はその梅の木のことを仕人にたずねて みた。賢所は戦災を免れたが、広前の一角は焼失し、梅の木も焼けたのではなかろうかとのこと であった。賢所は、伊勢神宮のように古さびて、巨木にかこまれた奥深い暗い場所にあるかと想 像していたが、思ったより新しく、開放的な明るい感じをうけた。神殿というよりは御殿と云っ た方がふさわしい。玉砂利を敷いたかなり広い前庭に立って拝む。 賢所へ来る前に、生物学研究所の前を通ったのだが、あまりに質素な建物で、仕人から注意さ れるまで気にとめなかったほどである。研究所に隣接して、陛下の畑や田がある。陛下がどうし て生物学に深い興味をもたれたのか、それも粘菌類とかヒドロイド類とか我々には思いもよらぬ 下等動物にあんなに御熱心なのか、その理由を私は伺いたかった。後に三谷侍従長からそれとな く承ったが、貝殻には早くから興味をもたれていたそうである。はじめ貝類、それから粘菌類、 ヒドロイドと研究をすすめられた。今でも貝殻の標本をたくさん備えて、おひまさえあれば貝殻 を眺め、貝殻を研究されているという。スポーツは様々おやりになったが、どんなスポーツを試 みても決して頭のレクリエーションにはならぬ、ただ貝殻と微生物に向われるときだけ、心から 愉しげに、休まれるように拝察されるとのことであった。 御心配が多すぎるのだ。内外の事件に対して、我々の想像も及ばぬほど敏感であらせられると いう。御自身の過ぎし日を顧みて、「薄氷を踏む思ひ」と述懐された陛下にしてみれば、何か異 様な慰めがなくてはかなわぬであろう。歌は内攻する。お酒はお飲みにならぬ。わずかに貝殻の うちに、自然の音をしのばれるのであろうか。粘菌類もヒドロイド類も、標本にすると花びらの ような美しさがあるそうで、そういう自然の秘義に深く陶酔されるのであろうか。古い武蔵野の 一隅に、黙って貝殻を眺めておられるようなお姿は、歴代天皇には全くなかったことだ。歌学や 歌集を残された天皇は多いが、「相模湾産後鰓類図譜」という御本は、科学的知識の全くない私 がみていても、実に異様なものである。 大正末期、摂政となられてから今日まで三十年間、陛下は日本の代表的な政治家や軍人のすべ てにお会いになった筈だ。清廉と老獪、真実と虚偽、あらゆる人間臭を、率直な御心は見ぬかれ ていた筈だ。愁い深く堪えられたようであるが、恐るべき変転裡に眺めた様々の人間相を、こと によると陛下は標本として胸底深く蔵しておられるかもしれない。 「日本産重臣類図譜」をかかれたら面白い。 * 賢所の前を通って暫く行くと、道はわずかながら下りになっているようである。かすかに電車 の音が聞え、警視庁の塔の避雷針らしいものがみえてきた。周囲は依然として鬱蒼たる森林であ る。三宅坂から桜田門に至るお堀のこちら側あたりを私は歩いているらしい。暫く行くと、皇居 の正門(大手門)がみえてきた。やがて二重橋である。 突如として眼前に展けた風景に、私は思わず息をひそめた。日比谷から丸の内にかけて、幾層 のビルディング群が蜃気楼のように茫と浮び上ってみえる。それはいま私のいる大内山の風景と は、あまりに隔絶した夢のようなもので、徳川末期から現代まで百年を一飛びした感じであっ た。何という激しい変貌であろう。これがまさしく文明開化だ。文明開化という言葉が鮮かによ みがえってきた。平生見なれている何んでもないビルディングが、こんなにもの珍らしくみえる とは予想しなかった。 私は二重橋の欄に寄った。外部からみると、正門に通ずる大手橋と重なりあってさほど高く思 われないが、今ここに立つと、皇居前に群がる人々が眼下に小さくみえる。よほど高い橋であ る。広場の松林を通して彼方に、自動車の激しく往来するのが、何か遠い異国の出来事のように 思われた。音響は全然聞えてこないので、サイレント映画をみているようだ。ふりかえると、眼 前には伏見櫓が高くそびえている。おそらく百尺はあろうと思われる石崖、その直ぐ下は青く淀 んだお堀の水である。古城の白壁と松影が映っている。今に残るわずかな江戸城の面影。よく化 粧された端然たるすがただ。威厳があってしかも瀟洒である。 たかどの 高殿の窓てふ窓をあけさせてよもの桜のさかりをぞみる 明治天皇の「見花」と題した晩年の御製だが、高殿というのはこの櫓でもあろうかと想像し た。春の桜花の頃、ここに登って全部の窓を開け放ったならば、城内外の桜は一望のもとに眺め られるであろう。明治天皇の数多い御製の中でも、この御歌はいかにも王者の英風をしのばせる 大らかな歌である。明治の旺んな有様もしのばれる。 二重橋を渡って、宮殿の跡に立つ。今度は一面の焼野原である。白く焦げた東車寄の石段、土 台石や煉瓦の破片、中庭らしいところに残る大きな銅盤、一つの石燈籠、御座所の跡と思われる 白壁の残骸、あとは何もない。雑草が生え、わずかの畑がつくられてあるだけだ。焼失したのは 昭和二十年五月の空襲であった。直撃弾は一発もなかったが、参謀本部からの飛火があり、風速 二十ニメートルの烈風にあふられて、瞬時にして灰燼に帰したという。 この宮殿が完成したのは、明治二十一年で、附属の建物も併せると、総建坪一万二千七百坪と いう宏壮なものであった。日本風の総檜木造り、屋根には銅瓦を用いた。内部の装飾は桃山風と 独逸風を併せ、そこからくる不思議な絢爛豪華ぶりは、外国の著名な宮殿に比しても劣らず、非 常にユニークであったと伝う。正殿、豊明殿、鳳凰の間、千種の間、東西溜の間、御座所、御学 すまい 間所等、すべては焼失した。明治大正今上三代の御住居と思われる辺りも、今はただ夏草の繁る のみである。 * 徳川歴代将軍の居たのは、云うまでもなく本丸である。皇居となっている西丸は、将軍隠退後 べつしよ の別墅あるいは私宅のごときものであったらしい。太田道灌草創の城址は本丸の内にちがいない が、どこがその場所か判然としない。皇居を辞して、二の丸から本丸の方へ廻ってみた。高さ二 十メートルほどの宏大な丘陵に築かれた城郭である。現在本丸二の丸三の丸を通して残るのは、 すみやぐら 皇居前広場からもはっきり見える富士見櫓、お堀端にのぞむ二一二の隅櫓、木造の若干の城内屋敷 だけだ。富士見櫓の眺望は、現在の千代田城ではおそらく随一であろう。 あかねさす夕日のかげは入りはてて空にのこれる富士のとほ山 私はこの明治天皇の御製を、どうしても富士見櫓での御作と思わないわけにゅかない。この櫓 の生命は、この御歌に見事に表現されているようだし、この御歌を知って櫓を眺めると、櫓の男 ぶりが一層水際だってくると云った感じがある。事実、夕映えに色どられた富士見櫓の白壁の美 しさは、多くの東京人の見のがしている風景だ。垢ぬけした男性美とは、おそらく城の櫓につい て云えるところだろう。 あしびきの山のはいつる月かげに大海原の波を見るかな これはどこでの御作かわからないが、富士見櫓からならば、往時東京湾ははるかに望見出来た 筈だ。房総の山あたりから出た月影が広々とした湾の波を照らす雄天な風景が想像される。明治 天皇御集をみて、私の最も感心したのは、さきの「見花」とここにひいた二首であった。御集は 日記とも云えるほど、何らの技巧を用いられず、その日その日の喜びや憂いを率直に歌われてい る。倫理的なものが非常に多く、従来教訓として濫用されたうらみがあるが、叙景の歌の方がす ばらしい。 本丸の跡に立ってみた。雅楽の練習でもあろうか、近くの楽部から笙の音が聞えてくる。苔む した石崖と、相変らず天を蔽うような巨木の群と、その他には往時の遺蹟は何もない。家康がこ こに築城を開始したのは関ヶ原合戦の四年後、慶長九年であった。同十年には家康隠退して、秀 忠が二代将軍となったが、本丸はそれから十一年かかって、家康薨去の前年、元和元年にほぼか たちを整えたという。五層の雄大な天守閣が出来たのはこの時である。元和六年から更に増築 し、外濠を堅め、西丸も整備して、江戸城の結構がほぼ完成したのは三代将軍家光の寛永十四年 とある。前後実に三十三年を要したわけだ。それから現在まで、この城の変遷を表示すれば次の とおりである。 寛永十六年 (三代家光)本丸火災、翌年四月修築す。 明暦三年 (四代家綱)江戸大火のため本丸二の丸三の丸全焼す。 万治二年 (同)本丸造営、天守閣は再建せず. 延享四年 (九代家重)二の丸焼失す。 天保九年 (十二代家慶)西丸焼失、翌年四月再築す。 弘化元年 (同)本丸焼失、翌年四月再築す。 嘉永五年 (同)西丸焼失、同年十二月再築す。 安政二年 (十三代家定)本丸焼失、翌年十一月再築す。 文久三年 (十四代家茂)西丸焼失、同年本丸二の丸焼失、いずれも再築す。 慶応三年 (十五代慶喜)二の丸焼失す。 明治元年 江戸城明渡。西丸を皇居とす。 明治六年 西丸焼失す。赤坂離宮を仮皇居とす。 明治十七年 西丸に宮殿造賞二十一年十月竣工す。 昭和二十年 戦災にて宮殿炎上す。 大体以上のような推移で、三百年間に度々焼失している。後代になるにつれて幕府財政窮迫の ため、もとのような再建は不可能になったという。戦争による破壊は徳川期には一度もない。江 戸大火あるいは内部出火が原因であるが、それにしてもよく焼けたものだ。おそらく家康から家 光までの間の江戸城が、内部最も完備していたであろう。造営は伏見桃山城の技能者達によった と伝えられる。現在京郡に残る二条城は、家康上洛の折の居城であり、桃山の遺構を伝えるもの だが、多くの襖絵は別として、間どりなどはおおよそ似ていたと思う。秀吉にしても家康にして も、覇者の威嚇性を建築と装飾にあらわした人だ。二条城を見た折もそう思ったが、あの絢爛た る金箔と、それを照らす夜の燭台の光りは絶大の舞台効果をもたらしたであろう。三百四十六年 後の今日江戸城の一切は消滅している。ここもただ夏草の繁るばかりである。 * しゆうう 坂下門を辞する頃、激しい驟雨が来た。皇居前に集っていた人々が、あちこちに走り去るのが みえる。周囲は次第に薄暗くなってきた。やがて人影ひとつない松林と広場に、瀧鰹たる大雨が 降りそそぎ、コンクリートの道はしぶきをあげる。松林全体から遠いお堀の辺りまで、一面に 烟ってみえた。暫く待っていたが晴れそうに思われない。私は傘をななめにし、雫にぬれなが ら、お堀端の柳に沿うて歩いてみた。雨というものはふしぎに懐古の情をそそる。古城をめぐる 様々の歴史的人物が浮んでくる。 堀の周囲は往時すべて大名屋敷であった。現在日比谷角の総司令部は池田邸の跡である。それ から和田倉門に向って、山内邸、蜂須賀邸、町奉行所という順序に並び、神田橋寄りには酒井邸 と細川邸があった筈だ。参謀不部跡は明石邸と三宅邸、そこから桜田門前にかけて、井伊邸、浅 野邸がつづき、警視庁から裁判所の側には、鍋島、毛利、上杉諸侯の邸宅があった。半蔵門と田 安門一帯は旗本屋敷である。古図でうろ覚えにしていたところを思い出し、それらの屋敷が甍を きそい黒門を構えて、墨絵のように雨の中に並んでいた昔をしのんだ。眼を転じて、富士見櫓の 白壁と城内の老松に雨のふりそそぐのを眺めると、芝居の書割そっくりだ。周囲には雨の音しか 聞えないが、それが却って森閑とした感じを与える。一人でうろついているうちに、自分が何と なく丸橋忠弥のように思われてきたのは滑稽であった。 現在の千代田城は、すでに述べたとおり武蔵野と云っていい。陛下は宮殿の再建など思いもか けておられぬようである。草木を益ー繁茂させ、野鳥の声を聞き、古さながらの武蔵野に愁い深 くお住みのつもりらしい。しかしこの自然は、そのままで尊い宮殿ではなかろうか。二重橋の前 を通り、再び桜田門の辺りに来たとき、驟雨は過ぎた。雨にぬれた桜田門の白壁の美しさ。白と いう色があったことを改めて気づくほどに鮮かにみえた。
https://w.atwiki.jp/historictears/pages/66.html
年表(鎌倉~明治維新) 鎌倉時代 皇紀1846(文治2/西暦1186)年 源義経、九州逃亡に失敗し難破。熊野国葉吹の里に辿り着く。その後、一族郎党と共に信濃国を通って北上。奥州平泉に身を寄せる。 皇紀1849(文治5/西暦1189)年 源義経一行、藤原泰衡に攻められ、衣川館に火を放つ。焼け落ちた衣川館からそれと思しき遺体が人数分出たため、源頼朝は義経一党は滅亡したものと認める。 皇紀1851(建久2/西暦1191)年 武装した山伏と稚児が熊野国葉吹の里に現れ、霊山である葉吹連山を祀る葉吹神社に身を寄せ、社殿に昇る山門がある谷口に居を構え谷口と名乗り、葉吹神社の守人となる。 皇紀1881(承久3/西暦1221)年 承久の乱の戦後処理により、熊野国葉吹へ齢3つにして若葉姫(通称。配流に処する必要があるほどの歳でもなければ、処断されたどの人物の血縁なのかも今一判然としないが、承久の乱で入るされた三上皇の何れかの血筋と目される)が流される。若葉姫を預かった葉吹神社の神官一族、霧柄家を名乗るようになる。 南北朝時代 皇紀1994(建武元/西暦1334)年 吉野に逃れた南朝方の皇族の一部が熊野国葉吹に逃れる。 皇紀1996(建武3/西暦1336)年 葉吹に逃れていた南朝方の皇族、吉野方に合流する。 皇紀2225(永禄8/西暦1565)年 永禄の変により室町幕府第13代将軍足利義輝、討死。 安土桃山時代 皇紀2242(天正10/西暦1582)年 本能寺の変により織田信長、討死。 皇紀2243(天正11/西暦1583)年 羽柴秀吉による大坂政権が確立される。 羽柴秀吉、輸送力と航行速度に優れた南蛮船に興味を示し、自力建造を目指した検分を行う。 皇紀2246(天正14/西暦1586)年 羽柴秀吉、関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、以後豊臣秀吉と名乗る。 皇紀2247(天正15/西暦1587)年 豊臣秀吉、それまで九州を中心に行われていた事実上の奴隷貿易を『国の宝たる人の子を海外へ売り渡してはならぬ』として禁じる伴天連追放令を発布。 皇紀2249(天正17/西暦1589)年 豊臣秀吉に嫡男となる鶴松が誕生。しかし秀吉は既に高齢であり、一方の鶴松は病弱であったため、次善措置として羽柴秀次が条件付で豊臣氏の氏長者に指名される。 皇紀2250(天正18/西暦1590)年 豊臣秀吉、日本統一。諸大名の転封・加増・改易等を行い、またこれに伴って陸奥・出羽の分割(陸奥→陸奥・陸中・陸前・岩代・磐城、出羽→羽前・羽後)を行う。主な有力諸大名の領土は以下の通り。石高は太閤検地の結果確定後の数値であって当時の石高ではない。 ・津軽家 陸奥 ・南部家 陸中 ・伊達家 陸前 ・秋田家 羽後 ・最上家 羽前 ・上杉家(100万石) 越後、佐渡、越中、能登 ・前田家(85万石) 越前、加賀 ・真田家(10万石) 北信濃 ・佐竹家(53万石) 常陸 ・武田(仁科信基)家(21万石) 甲斐 ・徳川家(163万石) 三河、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵(南信濃と甲斐に代えて伊豆、相模、武蔵) ・織田秀信家(27万石) 美濃東部 ・大谷家(8万石) 若狭 ・細川家(11万石) 丹後 ・福島正則家(12万石) 讃岐 ・長宗我部家(10万石) 土佐 ・尼子家(8万石) 因幡 ・宇喜多家(50万石) 備前、美作、備中東部 ・毛利家(110万石) 安芸、備中西部、備後、周防、長門、石見、出雲、隠岐 ・小早川家(33万石) 筑前半国、筑後半国 ・大友家(13万石) 豊後 ・立花家(10万石) 豊前 ・鍋島家 肥前半国 ・加藤清正 肥後北部 ・小西行長 肥後南部 ・島津家(57万石) 薩摩、大隅、日向半国 また嘗ての信長の野望であった海外進出を目論見、前段階として統一規格による検地と刀狩りによる兵農分離の実地、周辺地域(特に蠣崎氏が進出済みの蝦夷地以北)の探検隊の派遣を行う。 未だ天下取りの野心を持ち勢力拡大に余念のない伊達政宗、領地が増える可能性のあった北方探検に積極参加。 皇紀2251(天正19/西暦1591)年 伊達政宗らが主となって派遣した北方探検隊、樺太最北端まで到達。日本領であることを示す高札を立て越冬隊を残して引き返す。また別の隊は千島列島を伝い、大半島(後の神威嘉(かむいか、カムチャツカ))に到達する。 豊臣鶴松、死去。羽柴改め豊臣秀次、関白に就任する代わりに、従来統治していた100万石もの大領を秀吉へ返還。 皇紀2252(文禄元/西暦1592)年 豊臣秀吉、海外交易統制と倭寇排除の必要性から朱印状を発行。豊富な銀、銅、銅銭、硫黄、刀や漆細工のような工芸品、良質な紙(和紙)、周辺地域を余裕で圧倒する生産量を誇った鉄砲を代価として用いた南方貿易に乗り出す。 一方で絢爛豪華を旨とする安土桃山時代らしく、秀吉は寺社仏閣の修繕や建設も行ったため、元々戦国時代故に禿山が増えていた国内の森林が更に著しく減少。このため伐採と森林育成の計画化が行われ、禿山となっていた各地の山で植林が大々的に行われるようになる。薪炭資源の減少等から一部地域では石炭への転換が細々と始まる。 また北方探検隊が帰還し、北の大地は寒さは厳しいものの既存進出勢力がなく、良質な森林に恵まれ、海産物に富み毛皮などの珍品豊かであることを報告する。 秀吉は亞細亞諸国服属の前段階として国力拡大を企図し、南方貿易・北方開拓路線を決定。諸大名を動員し、大坂湾沿岸を成す摂津・淡路・和泉に大規模な造船所と港の普請を開始。この結果文禄・慶長の役(朝鮮出兵)が回避される。この為、朝鮮半島への明軍の介入が起こらず、朝鮮半島での中華政権に対する明確な服属意識も醸成されず。 朱印船貿易による鉄砲輸出は、戦国時代を経て安定的にほぼ均質の火縄銃を安価に量産する体制を確立していたこともあり、莫大な利益を得た。特に未植民地化の東南亞細亞諸国とは、香辛料や砂糖との取引が行われ、各地に日本人町が建てられた。東南亞細亞(特にシャムのアユタヤ)は木材の品質も良く造船技術も優れていたため、現地に造船所を建設し南蛮船の修理や建造も頻繁に行われた。この縁でイスラム商人などから輸入された工芸品にはダマスカスソード(玉樹烏(たまじゅがらす)刀)が含まれており、その独特の文様と切れ味から諸侯に珍重され、日本中の刀鍛冶が再現を試みるようになる。 日本統一により余剰となった兵力は、随時商船護衛のための水軍や、商船独自の用心棒に転換されるようになる。 皇紀2253(文禄2/西暦1593)年 豊臣秀吉、豊臣拾丸(後の関白・太政大臣、豊臣秀頼)誕生。豊臣秀次、自政権が秀頼成人までの時限政権であることを朝廷と諸大名に承認させる。 皇紀2254(文禄3/西暦1594)年 樺太、神威嘉に進出した北方開拓使、開拓拠点としてそれぞれ尾羽(オハ)と大北湊(おおきたのみなと、後の大北港)を拓く。またそれらを拠点に、随時探検隊を派遣する。 厳しい寒さに対応するため服飾産業が発達。北方開拓使として派遣される兵向けに、武具の下に着られるある程度規格化された防寒服の量産が望まれたため、工場制手工業が史実より200年以上早く勃興する。 また南方貿易で明からの絹の輸入が拡大する一方、国内の生糸の品質改善も進行する。 皇紀2255(文禄4/西暦1595)年 北方開拓使、安室(アムール)川河口に進出。将来の民国征服という野望達成のための兵質維持のため、比較的大きな戦力が訓練目的のため派遣。そこから川伝いに上流へと移動し、安室(アムール)川と碓斐(ウスリー)川の合流点に進出拠点としての城(街)を築くための適地を発見。同地を巾呂府宿(ハバロフスク、通称巾呂府)と名付け、手始めに砦の建設を開始。 皇紀2256(慶長元/西暦1596)年 土佐国にイスパニア船が漂着するサン=フェリペ号事件発生。船員は丁重に扱われた上、損傷著しいサン=フェリペ号は解体の上で豊臣政権が提供した代船で積荷・船員共に呂宋(ルソン)へ返される。 皇紀2257(慶長2/西暦1597)年 尾羽から海を渡った探検隊が、千島列島の対岸にある越冬地の建設に適した土地へ到達し、同地を大筑(おおつく、オホーツク)と名付け、また樺太、千島列島、神威嘉、大筑の間に横たわる大海を大筑海(おおつくのうみ)と名付ける。 皇紀2258(慶長3/西暦1598)年 豊臣秀吉薨去。死の間際、『国を閉ざすべからず』『国を乱すべからず』と遺言し、『理法式目』を定めた上で暫定的な政権を調整型宰相である豊臣秀次に継承する。 秀吉の葬儀後、秀吉が秀次や有力大大名らと図って『理法式目』によって定めていた新体制が発足し、前田利家を筆頭とする有力六大名(残りは徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、小早川隆景(朝鮮出兵が無く、海外進出にあって水軍が拡充されたため未だ現役))ら大老の合議に拠って政治決定が成され、暫定決済者である秀次が秀頼の名代として決定を承認。その処理指示を五奉行(浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)が担うものとし、諸大名が指示の実行を行う型式を取った。またこの六大老をそれぞれ越前、駿河、安芸、越後、備前、豊前に設置した鎮守府の将軍に定めた。 しかし事実上の『理法式目』を政権の最高法規とする法治主義は文治主義でもあり、戦国時代の気風が強い大名らからは文治主義の台頭を快く思わない者も多かったが、前田利家ら戦国の覇者たる大大名の大老が睨みを利かせ、また血の気の多い連中には積極的に海外進出を促し収入を増加させて懐柔するなど、豊臣政権の家中融和に務めた。 この時点で豊臣秀吉亡き後の政権内部で最大の実力者であった徳川家康は、石高の上では随一であったが、決定的に引き離しているとは言い難く、豊臣政権への忠誠篤い諸侯を敵に回してまで天下分け目の戦いを挑める程にはなかった。諸侯も徳川家康の野心を警戒して隙を見せることはなかったため、権力闘争は無視出来る程度の小競り合いを除いて膠着状態に陥る。 皇紀2259(慶長4/西暦1599)年 大老筆頭・前田利家、病に倒れるも快癒。しかし豊臣政権は動揺。世情不安が広まる。 大坂時代 皇紀2260(慶長5/西暦1600)年 3月 権力基盤が脆弱な秀頼へ確実に豊臣家を継がせるため、秀頼を現関白・太政大臣である秀次の猶子とすることが秀次と六大老によって決せられる。 4月 大老・小早川隆景死去。六大老は五大老となり相対的に毛利家の力が下がり、徳川の力の抑えが若干減少したこともあり、豊臣政権の安定性が損なわれる。一方で決定的な大義名分を誰も得ていないため、婚姻政策のような挑発行為も慎まれたことで微妙な均衡状態が生まれる。 6月 天下統一10年を以て、国家の結束性を示すべく後陽成天皇の臨席の下、関ヶ原に於いて諸侯の軍勢を並べた観閲式が執り行われる。遅参・欠席を許されない観閲式の開催によって失脚の口実を与えることを恐れた諸侯が集い、己が軍勢を厳しく律して魅せた結果、ますます開戦に不利な雰囲気が醸成される。確固たる政権基盤を持たないままに豊臣政権を継承した秀次・秀頼を中心とする豊臣家に対する忠誠心の高い西国諸侯と、明らかな野心を見せて地盤固めを行いつつも尻尾を掴ませない徳川・伊達のような東国諸侯の膠着が続く。 皇紀2263(慶長8/西暦1603)年 伴天連追放令の発布や明国の統治能力低下により、南蛮船や倭寇船による威圧・海賊行為が目立ち始め、莫大な利益を上げていた東南亞細亞との貿易航路が脅かされ始める。各地の拠点への急速な兵力の配置や軍船の増産といった統一性の取れた対応が急務となり、大老クラスの大領持ち単独では整備に多大な負担がかかることから、より一層現政権を降ろして次の天下人を狙う、また逆にその野望を持つ者を廃することが難しくなる。このため、限りなく現状を維持する形で明確な天下人を決めず、関白(豊臣氏)を決済者として名目上、天皇の名の下に天下を持たせることにし、豊臣家を支持する諸侯と大望持ちの諸侯との間で合議制を採ることにより政治的バランスを保つ方向性で、誰も潰れず潰されずの形で歩み寄りが始まる。 皇紀2264(慶長9/西暦1604)年 宇喜多・上杉・佐竹が連合し、徳川・伊達が連携し、それぞれ互いに牽制し合いながら遅れがちな東国の内政整備に励み、毛利・宇喜多が豊臣政権中央の吏僚である石田・増田・小西と連携して海外進出を進め、島津は奄美を領土とし、琉球と国交を開いて貿易を始め国力増大に務めるなど、暫定政権、諸侯の役割分担が進む。 その中で日本人街や海外航路の警備を担う軍勢(水軍)は、維持費と整備・維持に要する労力の観点から、諸侯ではなく日本という国家に帰属するものとして諸侯の利害関係の埒外に置かれるべきものとされ、それ故に諸侯の何れにも所属しない中立勢力であることが求められた。この為、一定の特権(賃金の優遇、海に出て外敵から国を守る尊い存在としての英雄化)を認める代わりに、例外なく日本という国家の守護者たるべき存在として行動する義務(今日で言う領海警備から航路啓開、通商護衛を、諸侯の利害関係に一切関与せず厳粛に法度・式目に従って執行すべし)を負わせた、「国家傭兵」とも表現すべき専従集団を設立する「日本水軍法」が、全諸侯の署名により承認され、「日本水軍」が堺港に置かれていた豊臣水軍(宗家直属のため現時点では諸勢力何れにも属さない中立存在)を母体として成立する。 この日本水軍法は、基本的に金食い虫である水軍(海軍)の整備で諸侯が軍拡競争を行う(そしてそれにより各国が民衆諸共疲弊する)ことを抑制することを目的としており、各諸侯には各年度の石高に応じて割り出された金の拠出を定めていた。同時に軽武装で輸送を主眼に置いた大型船の保有は認めたものの、各諸侯が独自に港湾警備艇以上の戦闘力を持つ軍船を整備することは、中央政府(豊臣政権)と大老の決済が無ければ建造できないものとされた。また諸侯独自の私兵の規模に関しても領地の実高1万石につき250名までを最大とする約定が交わされ、大量に発生した浪人は海外の日本人街や航路を警備する軍船の警備兵(水軍兵)、或いは代官として雇い入れるなどして減らす等の策が取られていった。 皇紀2265(慶長10/西暦1605)年 慶長大地震発生。房総半島から九州までの広い範囲に津波が押し寄せ、特に太平洋岸である東海道を領地とする徳川家康は海運面で被害を受け、大きく力を減じる。この結果、豊臣家の創り上げた官僚制を母体とした体制派の力が大きくなった状態で一応の政権安定が固定化される。徳川が内政に力を入れざるを得なくなった(≒天下取りが一層厳しくなった)状況で、伊達は徳川と距離を置き、現体制の中での生き残りをかけ、国内開発と北方進出を積極的に推し進める。諸侯も海外交易や南蛮の技術導入をも積極的に図る一方で、南蛮船による日本人奴隷貿易が存在した事実が問題視されたため、海外交易に於ける諸侯の不公平性の是正も兼ね、同時に南蛮諸国の植民地化の阻止のため、「教義の強制の禁止(≒信教の自由の保障)」と「奴隷貿易の禁止(形式上の移民や労働力としての国外移送を装った実質的奴隷貿易も含めての全面的なもの)」を定めた「布教令」及び「貿易令」を布告する。 この頃から、大坂城の関白を事実上の最高決済者として緩やかな連合国家として機能している現政権を指し、幕府に準えて「政府(時代が下ると鎌倉幕府や室町幕府に肖り「大坂政府」)」と呼ばれるようになる。 皇紀2268(慶長13/西暦1608)年 豊臣秀頼の元服に伴い、豊臣秀次は関白を秀頼に譲り、自らは秀頼の後見人として隠居し大御所となり、秀頼のブレーンとして現体制の安定化に努めるようになる。また高齢に伴い徳川家康も隠居し、家督を嫡男秀忠に譲る。 大坂政府は石田三成ら吏僚の補弼を受けながら、豊臣秀頼は統治機構改革を行う。大大名や豊臣恩顧・国主または国主格の大名を大老または中老として政府の閣僚に取り立てるものとし、それ以外の大名を各地の代官や奉行といった政府の行政官とするものと定めた。また、当人の資質により1台限りで代官・行政官も閣僚として取り立てる実力制を採った。 皇紀2270(慶長15/西暦1610)年 大坂政府は、伊達政宗が主導し支倉常長を実質的な団長として政府要員も乗せた遣欧使節船団を組織するが、ノヴァ・イスパニア(メキシコ)の統治体制(アステカを滅ぼし搾取している)を知り、かつての日本人奴隷貿易の存在を踏まえ同じことが日本にも起きる可能性があるとの結論に至り、「外交文書の不備の発見」を理由に道半ばで船団は訪欧を中止。ノヴァ・イスパニアの統治の実態が大坂政府にも伝えられる。 皇紀2271(慶長16/西暦1611)年 慶長三陸津波発生。北海道から陸奥までの広い範囲に津波が押し寄せ、沿岸部が壊滅。慶長大地震から復興中の徳川家を参考に、防潮堤を兼ねた新道の建築が各地で進められる。 皇紀2272(慶長17/西暦1612)年 外交方針を再策定した大坂政府の下、再度支倉常長を外交使節とする使節船団をヨーロッパへと派遣する。表面的には友好的ながら、貿易と使節の定期的な派遣はするが、現状以上の布教拡大は実質的に禁ずるものとした「日西通商条約」が結ばれる。またノヴァ・イスパニアへの航海に適した潮流を得易い伊豆(下田)や江戸(江戸湾全域)に港や造船所を築くことなども決定される。 皇紀2274(慶長19/西暦1614)年 北方開拓使は繁利亜(シベリア)に進出し、来利真(コリマ)川中流に砂金を発見する。過酷な環境ではあったが、政府は砂金・木材・毛皮の利益を求め、政府主導・出資額比率に応じ利益分配の形で来利真開拓を開始。大坂政府は蝦夷の北に広がる海を大筑(おおつく、オホーツク)海と名付け、繁利亜の大筑海沿岸に真家端(まかたん、マガダン)を拓く。 大坂に於いて、新参のイスパニアの宣教師が布教令と貿易令に反したため政府はこれを拘束し、大坂の南蛮商館街に海外へ強制的に送られそうになった日本人の引渡しを求めるが、商館街が門を閉ざし黙殺したため、政府軍がこれを包囲する事件が発生(大坂冬の陣)。欧米に比べると遅れてはいたが、大量の火縄銃を装備した万単位の軍勢による包囲に対し、商館街が大坂の街に火を放ったため政府はこれを殲滅。イスパニアに「貴国の宣教師は街に火を放ち殺戮を行うのが仕事か」と厳重抗議する。 皇紀2275(元和元/西暦1615)年 大坂冬の陣に対し、宣教師が用立てた(と思われる)ガレオン海賊船団が大坂に侵入。日本水軍と交戦し沈められるが、一部が大坂に上陸し沿岸の一部に焼き討ちを行う(大坂夏の陣)。政治・経済の中心たる大坂の治安が悪化し全国的な物流の混乱が発生し、安全保障体制に波紋を投げかける。大坂城下の屋敷を焼き払われた諸侯も最早国内での勢力争いに及んでいる場合ではないと痛感し、大坂政府の結束性は却って高まる。 この大坂冬の陣・夏の陣により、大筒(大砲)を装備した軍船や陸上戦闘での火力船が思いの外多大な火薬・戦費を消費したことから、政府は平時からの兵備蓄積の必要性を痛感。グレートブリテン(大府列顛)・オランダ(阿蘭陀)・イスパニア(伊西波)といった南蛮諸国との交易や遣欧使節団を通じて入ってくる情報から、国防こそ政府体制の安定と痛感した政府は更なる強力な外洋艦隊を編成し徹底的な海賊取締を行うことを決定。日本水軍の整備に更なる努力が傾けられることとなり、大坂政府は陸奥(大湊)・陸前(仙台)・越後(新潟)・若狭(舞鶴)・相模(横須賀)・淡路・安芸(呉)・肥前(佐世保)・豊後(大神)に大規模な造船所を築き始める。また陸奥・若狭・相模・淡路・安芸・肥前には各方面に分けた日本水軍専用の軍港を設けることになった。 政府は改めて布教令、貿易令を発布し、全国の寺社勢力、キリスト教勢力(切支丹)の綱紀粛正を行ない、宗教を倫理観・道徳観の養成の場に止め、無闇矢鱈と盲目的な信仰を強く戒め、それに反するものを徹底的に殲滅する。捕縛した者は北方開拓の労働力として強制労働刑に処した。 また日本へやってきたキリスト教の宣教師の内、日本社会に自発的最適化を志した国内キリスト教徒(後のクィリスト教、切支丹)に対し、「布教令・貿易令に反せず、日本社会に適合した全く新しいキリスト教を基盤とした宗教」であるなら布教を認めるという条件の元に保護を申し出、穏健派はこれを受諾。拠点は地形的に外部からの隔絶性が大変高く土地の生産性が低い紀勢国葉吹郡に移され、古くからの領主である豪族・谷口氏の監視下に置かれた。 尚、慶長19年~元和元年に於ける一連の大坂の陣を一括りにして、第一次日西戦争と言う。この時点では南蛮諸国への本格的侵攻など思いも寄らない程度の海軍力しか持たなかったため、敵遠征軍を殲滅し、南蛮の日本人街の一部引き払いが生じた時点で、互いに侵攻能力を欠いた為、戦争も含めた国交も自然消滅した(和議も結んでいないため、厳密には戦争は継続されている。それ故に、外洋艦隊建設の資金負担が各大名に肯定された)。 皇紀2290(寛永7/西暦1630)年 繁利亜(シベリア)は葉伊駈(バイカル)湖付近でロシア帝国と国境を接するに至り、大坂政府は広大な繁利亜各地の国割を行うと共に、使節を派遣しロシア帝国と葉伊駈湖にて礼奈(レナ)川を国境線とする日露和親条約を締結する。 欧米列強と初めて直接国境を接したことにより、大坂政府は異国人・異教徒への無理解から起きる偶発的武力衝突からの全面戦争を避けるため、日本の宗教観との比較教育を寺社を通じて行う。この過程で、切支丹はキリスト教から事実上解脱し、多くの日本人にも受け容れ易いマリア信仰を母体とした、日本神道的精霊信仰に近いものへと方向性を変える。 皇紀2297(寛永14/西暦1637)年 朝鮮半島に清が攻め入り、降伏させる。半島から攻め込まれない限り問題ないと考えていた大坂政府は、念の為に九州に於ける政府の出先機関である太宰府を設置し、日本水軍艦艇を博多港や対馬へ派遣したのみで、これを静観する。 皇紀2329(寛文9/西暦1669)年 蝦夷の役(シャクシャインの戦い)勃発。蝦夷南部の領主であった松前氏の不公正な交易体制の露呈を理由として、松前氏からの支援要請を拒絶。松前氏は各戦でアイヌ勢力に甚大な被害を与えつつも敗退。松前氏の敗退を見た大坂政府は日本水軍を派遣し武力介入。本格的な和議の交渉を始める。 皇紀2330(寛文10/西暦1670)年 松前氏は改易され、これまで蝦夷地に進出した各大名家についても、領地の所有権が否定され、交易の公平化が行われる。日本政府の敷く法度が基本的に理にかなっている事から、蝦夷地はシャクシャインを筆頭に、大坂政府の傘下に加わる形で有力首長が各地の封建領主として認められることになった。これによって蝦夷地は北海道に改称され、交易上の必要性から漢字や日本語のアイヌへの浸透が始まり、緩やかに日本人化していく。また日本の技術は蝦夷地改め北海道にも広く普及し、炭鉱と結合して巨大な生産力を得るに至る。 一方、イスパニア領であるマリアナ諸島に於いてイスパニア・チャモロ戦争が始まる。大坂政府は55年越しの大坂の役の借りを返す意味も含め、日本水軍の演習も兼ねて領海安堵を名目に艦隊を派遣。重要な交易航路での戦争を行わぬように強く威嚇し、国内と繁利亜から算出される莫大な金銀を背景にしてサイパン以北のマリアナ諸島をイスパニアから購入する(毬亞南の役)。サイパン島には「彩帆」、テニアン島には「手仁安」、マリアナには「毬亞南」という字を当てる。キリスト教と島の旧習の対立融和を図った際、キリスト教ジパニズム派が広まる。 蝦夷の役、毬亞南の役は政府の内政と外交に対し経験を与えることになり、内政に於いては穏便にして融和的で、非強制的な政策を(ある意味飼い殺しとも言う)、外交に於いては断固たる態度で望むことを学ぶ。イスパニア・チャモロ戦争の実態を重く見た政府は、さらなる北方進出を重ね国力増強を図ることにし、新たに荒棲家(アラスカ。当時の荒棲家は、現在のカナダのユーコン準州とブリティッシュ・コロンビア州、米国のワシントン州の範囲をも含む)へ主に毛皮と鯨を求めて進出を行う。 皇紀2349(元禄2/西暦1689)年 度重なる領土衝突に対し、大坂政府はロシア帝国、大清帝国との間に練鎮宿(ネルチンスク)条約を結ぶ。この結果、日本の国境線は南から、豆満川(豆満江)より端珊(ハサン)の街から興凱湖(ハンカ湖)を結び、碓斐川(ウスリー川)が安室川(黒竜江、アムール川)と合流する地点までの東側と、碓斐川と安室川の合流点から石涙川(シルカ川)に入り千太(チタ)から有楽腕(ウラン・ウデ)を経て葉伊駈湖に至る線より北側、葉伊駈湖から安潟川(アンガラ川)を碓入矛宿(ウスチイリムスク)まで下り、安潟水系の西之樵宿(ジェレズノゴルスク・イリムスキー)まで遡った後、陸地を地形沿いに進み碓地九斗(ウスチ=クート)から礼奈川(レナ川)を経て浦風蝶海(ラプテフ海)に至るものとされた。 大坂政府はこれ以降、領土とした地域の安定と開発を優先し、積極的な領土拡大は控えるようになる一方で、領土として確定した地域への屯田兵や植民者、商人の進出は(要らぬ対立を呼び込まない程度に)奨励した。 またこの頃になるとキリスト教ジパニズム派は悔理人教と呼ばれるようになり、特に海外でヨーロッパ列強と接する機会の多い日本水軍兵や役人、商人を中心として、似非キリスト教徒であることを利用した異文化理解の糸口として、嘘も方便の形で支えられるようになっていった。 皇紀2349(元禄2/西暦1689)年以降 全国的な不作等が起きる度、国内では生きられない苦境に追い込まれた人々に北方または南方への移住を提示するというやり口と、海外交易で挙げた莫大な利益と基金に備えた堅実な食料の保存体制、米の品種改良や救荒作物の栽培奨励などの施政により、大坂政府は比較的安定した時代を迎える。 この時期になると、大坂政府は豊臣家の手を離れ、豊臣氏は大坂政府という統治機構に正当性を与える権威存在としてのみ存続しており、大坂政府は主に大老・中老という政治家の合議によって方向性を与えられ、司法・行政は奉行や代官などの政府行政官による完全な官僚によってのみ運営されている。諸侯の私兵は精々が各地方の警察組織以上の力を持たず、兵力の殆どは各諸侯の利害関係の都合から極めて厳格に政治から切り離されて運用されている日本水軍に委ねられていた。 グレートブリテン・オランダ・イスパニアなどの亞細亞進出しつつあったヨーロッパ列強との交易により、経済や工業等の基礎技術等々も史実よりかなり底上げされ、外交能力も史実より遥かにマシに。また、東南亞細亞の各地に交易のため日本人が進出した結果、日本人街も形成される。特に荒廃したシンガプラを押さえ新嘉坡(シンガポール)の街を拓いたことは大きく、西洋列強の進出が進む東南亞細亞にあって地勢的な要衝でありながら、同時に対立的な列強同士での交易が可能な中立拠点でもあるため、特別に条約を結ぶこともないままに、慣例的に国際的な相互不干渉の立場に置かれ独立都市国家化。東西文化の融合した独特の地域となる。 東南亞細亞各地に拓かれた日本人街は、ヨーロッパの帝国主義・植民地主義にあって(ヨーロッパから見て有色人種にあるまじき高度文明を持った)、領土欲のない(但し一度取り決めたことを反故にすることを極端に嫌い、話の筋を通すことを大変重んじる)不可思議な(且つ彼ら西洋人にとっては許し難いことに文明的な有色人種の異国)民族が住む不可侵の租界として黙認された(大坂政府が不用意な領地拡大を嫌って先に押さえた北方の開発に力を注ぎ、南方進出は経済面だけにその時点では留めていたため)。 この日本人街は、後に亞細亞各地が西洋列強からの独立戦争の拠点ともなり、やがては日本大使館や総領事館が置かれることになる。 史実では日本列島が列強に侵食される破目になったが、ヨーロッパ諸国との付き合いが良好(ほぼ相互対等)だったため、史実ほど金銀が流出することもなく、来利真、荒棲家を抑えているため寧ろさらなる金、銀、銅などの鉱物資源を確保している。 皇紀2360(元禄13/西暦1700)年 東から流入していた、アメリカ人に追われたインディアンの人手を用いた開発により、大坂政府は荒棲家に金鉱を発見。日本人の懐をさらに温める。一方、アイヌの発展とインディアンとの交流による彼らの思考の流入や、国内開発による鉱毒事件などにより、公害防止と自然保護の考え方が日本の諸宗教に取り込まれ、国内に広まり始める。 皇紀2384(享保9/西暦1724)年 日本人商人が豪州(オーストラリア)大陸を発見し、陀院港を史実ポート・ダーウィンの位置に拓く。先住民族に日本的価値観による自然観を広めつつ教化しながらの同化入植が始まる。入植は主にオーストラリア大陸北部沿岸に対して行われ、豪州大陸には存在しなかった疫病の(無自覚な)持ち込みにより先住民人口は減少するが、当時の知識では原因不明とされ気味悪がられた。 皇紀2400(西暦1740)年代 大坂政府中期に入り、これまで武家が合議制により持っていた天下の運営に、商家として財を成す形で復権した公家(清華家等)が大老や中老として参画。 またこの時代、日本水軍が諸侯の利害関係の埒外に置かれるべき存在であるという都合上、水兵を諸侯が供給するのではなく、諸侯から集めて大坂政府が出した予算で日本水軍が独自に募兵を行なっており、武士・浪人に限らず採用していたことから、士農工商の分離は史実ほど進まず、曖昧であった。 その上、大坂政府は更なる官僚化が進み、優秀な人材とあらば武士であろうがあるまいが構わず採用する実力主義がますます先鋭化しており、この時期になると武家・公家の別を含む身分の如何に拘らず、帯刀者は「大坂政府に仕官する者」という分類を示す以外の意味を持たなくなっていた。文武官の別を確認するのは服装の種別によってのみとなっており、貧しい(≒卑しい)農民から水兵を経て吏僚へと転身し、閣僚にまで成り上がることも、珍しくはあっても有り得ないことではなくなっていた。形式上、天下を持っているのが貧しい農民から武士となり、最終的には公家となって文武を掌握した豊臣秀吉に始まる豊臣家であることが、ますますこの傾向を強める一端ともなっていた。 このため、この頃単に「武士」と言えば実戦部隊の将兵として働く者のことを指しており、その大半は日本水軍兵が占めていた(残りは諸侯の私兵が大半)。大坂政府や諸侯の領土を治める役人(代官・奉行)は「文士(もんし)」と呼ばれていた他、その道々の学者として活躍する者は「学士」と呼んでもいた。この後もこの傾向は続き、武家・公家の別はますますその者の血筋を示す程度の意味合いしか成さなくなっていった。 {皇紀2468(文化5/西暦1808)年 ナポレオン戦争に敗北したポルトガル王室がブラジルのリオ・デ・ジャネイロに遷都する。 {皇紀2480(文政3/西暦1820)年 グレートブリテンの保護国として軍政下にあるポルトガル本国の叛乱(ポルトの叛乱)が鎮圧される。 {皇紀2481(文政4/西暦1821)年 ポルトガル王室は嘗ての本国への帰還を断念し、ブラジルに帰化することを決定。ブラジル帝国の建国を宣言。 皇紀2485(文政8/西暦1825)年 オーストラリアに入植したグレートブリテン人と、陀院港に進出した日本人との間で衝突。大坂政府は陀院港へ日本水軍の艦隊を派遣し、陀院港の保持に努める。 皇紀2488(文政11/西暦1828)年 大坂政府はグレートブリテンとの間に「日府入植条約」を締結。陀院港をオーストラリアから独立した都市国家とし、また陀院港経由で豪州大陸に入植した日本人に、オーストラリアに入植するグレートブリテン人と同等の権利を認める内容(実際には税制の面でグレートブリテン人優遇策が取られていたが)。 皇紀2492(天保3/西暦1832)年 7月 グレートブリテンの軍政下に置かれるポルトガルに於いて、グレートブリテンという他所者の統治に対する不満が増大。グレートブリテンはポルトガル国内の自由主義者を支援して統治を進めていたが、国内に潜伏するも王室の旧大陸との「絶縁」というある意味での裏切りにより瓦解した王党派(絶対王政派)らを、ナポレオンの痕跡を消し去ろうとするイスパニアのフェルナンド七世が支援し武装蜂起させ、「イベリア戦争」が勃発。ジブラルタル奪回を口実に、ジブラルタルや大西洋の戦略策源地の一つとなっているポルトガルをも占領しイベリア半島そのものを統一し、以てポルトガルに残る資産をも接収しグレートブリテンに痛撃を与えトラファルガル(トラファルガー)の敵討ちを目論むイスパニアと、大陸側に比較的大きな領土を持つことで大陸側の旧大国の利権を得ようとするグレートブリテンの間で激しい戦争が繰り広げられる。この結果、旧大陸を脱出して新大陸に帰化した旧王家の下に帰参するポルトガル市民が相次いだ。 皇紀2494(天保5/西暦1834)年 イスパニアのフェルナンド七世が崩御後も続くイベリア戦争が、大陸派兵の負担と植民地争奪戦への国力傾注を欲したグレートブリテンの、ジブラルタルを残してのポルトガルからの戦略的撤退によりイベリア半島はイスパニア・ボルボン朝により統一される。この戦争によりイベリア半島の自由主義者や反王党派、ポルトガルの独立維持を望む国粋派も殲滅され、その資産は全てイスパニアが接収するも、国土は荒れ巨額の負債も計上することになる。しかし結果的に資産接収等により大土地所有制が崩壊した結果、イベリア半島では農村余剰労働力を工業化により吸収する筋道が立てられることになる。 皇紀2505(弘化2/西暦1845)年 阿片戦争に敗北した清国が突如として大坂政府と国交を断絶(日本の対清貿易黒字は適正価格で行っているにも関わらず莫大であり、すなわち清の対日貿易赤字が膨大になっていた)。朝鮮もこれに同調したため対清輸出入が途絶え経済に混乱が起き、特に大陸交易で懐を潤していた西国諸侯の中には、そもそもの発端である阿片戦争の当事国であるグレートブリテンの亞細亞進出に対する警戒感を募らせる者も現れる。 さらに19世紀に入ってから再び大陸両岸打通の野望を掲げ、不凍港を求め南進・東進を目指し始めたロシアと、繁利亜地域一帯で度々武力衝突を起こす。大坂政府は装備ではヨーロッパに対し10~20年遅れていたが、進出度と人口の差から終始優位に進める。 皇紀2513(嘉永6/西暦1853)年 6月3日 アメリカ(亜米利加)合衆国ペリー艦隊が江戸湾に無許可侵入する(ペリー艦隊撃沈事件、または浦賀沖海戦と呼称)。日本水軍は発見の遅れから初動対応が遅れ、ペリー艦隊を江戸湾へ侵入させてしまい、結果的にそれなりの被害を受けつつも浦賀沖で撃沈する。大坂政府はアメリカ合衆国に厳重抗議する書簡を送る。この事件は江戸市民の目と鼻の先も同然の場所で発生したため全国へと事件が知られ、清国の西洋列強に対する敗北やロシアとの小競り合いを含めて、欧米列強による日本包囲網を予感させ、日本人全体の危機感を増大させる。 10月 クリミア戦争勃発。大坂政府に礼奈川以東を抑えられ、亞細亞進出を阻止されているロシア帝国は礼奈川以西への国力投資により開発密度が向上。その余力を以て衰勢著しいオスマン帝国を巡る利権争いに進出する。 皇紀2514(安政元/西暦1854)年 ペリー艦隊の無許可侵入に厳重抗議する大坂政府の書簡に対し、アメリカ合衆国は逆に撃沈された艦隊の補償を強く求める書簡を返す。アメリカの先住民弾圧などを知る大坂政府はアメリカ合衆国の態度を日本を植民地化するものとして強く拒絶。荒棲家へのグレートブリテン人開拓民の入植(条件は税を大坂政府に払うこと)を取引材料にグレートブリテンを通じたカナダ経由での外交圧力をかけ、更に水軍増強と西洋技術の積極導入を行う。一般市民も断固とした大坂政府の態度を支持する。粘り強い交渉が行われ、最終的に実質的な講和条約である日米和親条約が浦賀で調印され、一連の事件は悲しい行き違いであったものとし、双方不問となった。 一方で対清貿易で儲けていた島津氏や、毛利氏などは財政面で凋落の一途を辿り始め(但し島津氏は琉球を中継することである程度損害を補填していたが)、結果的にどちらも自勢力を中心に置いた新政治体制の確立を志向するようになる。一方の(遣欧使節の派遣で海外情勢の分析に定評のある)伊達氏は政府体制の限界を予期し、近代国家樹立の研究を始める。国力増強の観点から教育の行き届いた市民の中にもそのような動きが見られるようになり、大坂政府は表向きには治安を乱すものとしてそのような動きを概ね穏便に取り締まりつつ、水面下で大坂政府の影響力を残しつつ西洋列強に対抗することが可能な新体制を模索するようになる。これらの流れを総じて新体制運動と称する。 3月28日 府仏、ロシアに宣戦布告。 9月28日 セヴァストポリの戦い。 皇紀2515(安政2/西暦1855)年 結果的に極東進出を阻まれたことで国力密度が高まったため、産業革命の途上にまで達していたロシアは各地で府仏やオスマン帝国を降ろす一方、極東に戦線を持たず史実より負担が軽減された府仏はスウェーデンを巻き込みオーランド諸島を占領する。 皇紀2516(安政3/西暦1856)年 3月30日 グレートブリテン、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニャ、オスマン帝国、ロシアの間でクリミア戦争の講和会議がパリに於いて催され、パリ条約が締結。黒海非武装化は為されず、黒海周辺はロシアにやや有利な状況で固定された一方、オーランド諸島はスウェーデンに割譲されるなど、シーパワーとランドパワーの違いを示す戦争ともなった。産業革命の前途にあるロシア侮り難しとの印象を諸国は抱き、さらなる産業≒国力の強化が急がれる。 皇紀2518(安政5/西暦1858)年 安政の大告(あんせいのたいごく)。所領の大きさ如何に拘らず完全実力主義で運営されていた政府の官僚が主導し、新体制運動の実態を概ね把握した大坂政府は機先を制し、自ら大坂政府体制の限界点に到達したことを認め、関白によって事実上の挙国一致体制による新政治体制樹立を図ることが諸侯に告げられる。その上で(大坂政府体制の事実上の解体を前提とした)現在複数の潮流が存在する新政治体制の研究を一箇所にまとめ、最も良いと考えられるものを目指して議論を行う「改革論所」を新たに設ける。 皇紀2520(万延元/西暦1860)年 大坂政府体制解体の流れに反発した、一部の熱狂的大坂政府体制信奉者により大老・井伊直弼が出張先の江戸城で暗殺される事件(桜田門外の変)発生。しかしこの事件は逆に大坂政府の権威失墜と政治的混乱、それに伴う市中混乱を招き、より早期の政治的安定を求め、より強く新体制樹立が志向されるようになり、大坂政府体制派を大坂政府自ら弾圧するようになるという本末転倒な結果に終わる。 皇紀2521(文久元/西暦1861)年 アメリカ合衆国で南北戦争勃発。 大坂政府は蓄積してきた富を用いて装備近代化を図る。 皇紀2524(元治元/西暦1864)年 ナポレオン三世の支持を受け、メキシコ合衆国にオーストリア大公フェルディナント・マクシミリアンがメキシコ皇帝マクシミリアーノ一世として即位。浦賀沖海戦によりアメリカ合衆国を危険視した大坂政府は移行期の混乱にありながら、勅許を以てメキシコに介入しアメリカ合衆国を牽制する親日的な国家の確保を図ることを決定し、帝政への支援を開始する。 明治維新 皇紀2527(慶応3/西暦1867)年 大坂政府は一連の新体制樹立運動の議論を取り纏め、現在の官僚機構の多くを暫定的に活かし、新政府の樹立によって漸進的に西洋型統治機構を日本的に改めた体制を作り上げることを骨子とした新体制案を述べ、朝廷に大政奉還を上奏。 皇紀2528(明治元/西暦1868)年 1月3日 王政復古の大号令が発令される。約270年あまりの間、関白を代々継いできた豊臣家が代理保有する形で保たれてきた大坂政府は、その統治機構の所有権の一切を朝廷(天皇)に返還し、自らは大老・中老という閣僚の地位に降りる形でその役目を終える。
https://w.atwiki.jp/tmc10/pages/19.html
No. NAME Pos age Roll 1 雨宮瑞穂 GK 24 GK 2 飛世巴 DF 21 SB,SMF 3 白河静流(CP) DF 24 CB 4 双海詩音 DF 21 CB 5 児玉響 DF 19 SB,SMF 6 霧島小夜美 MF 24 DMF 7 音羽かおる(BCP) MF 21 SMF,WF 8 花祭果凛 MF 21 OMF,SMF 9 寿々奈鷹乃 FW 21 CF,WF 10 黒須カナタ MF 21 OMF,SMF 11 野乃原葉夜 MF 21 SMF,WF 13 仙堂麻尋 GK 20 GK 14 今坂唯笑 MF 21 CMF 15 相摩望 MF 20 CMF 16 相摩希 MF 20 CMF 17 陵いのり MF 19 CMF 18 伊吹みなも MF 20 DMF 19 鳴海沙子 DF 21 CB,SW 20 荷嶋音緒 MF 19 DMF 21 百瀬環 GK 19 GK 22 白河ほたる MF 21 OMF 23 北原那由多 MF 21 OMF 24 藤原雅 FW 19 CF,WF 25 稲穂鈴 FW 24 ST 26 舞方香菜 FW 20 ST 27 鷺沢縁(強化指定) MF 18 OMF
https://w.atwiki.jp/bougen2012/pages/20.html
電話受付の態度、終わっとる。 カスやな
https://w.atwiki.jp/kikanjuugyouin/pages/550.html
求人募集要項 勤務地 鎌倉製作所 職種 自動車製造に関する各種作業 雇用主 直接雇用 契約期間 正社員登用 あり 給与 時給1200円 〆支払 月収例 25万4559円※通常勤務1200円×7.75h×10日、遅番勤務、1200円×7.75h×10日、休日勤務、1620円×7.75h×2日、深夜割増300円×13.33h、残業 1500円×10.5h、交替制就業手当2000円×10日、食費手当3700円/月 手当詳細 製造未経験 可 応募資格 18歳以上 勤務時間 配属部署により異なります【通常勤務】8 30~17 00(実働7.75時間)【夜勤務】20 30~翌5 00(実働7.75時間)【早番勤務】6 15~14 55(実働7.75時間)【遅番勤務】14 50~23 20(実働7.75時間)【4組3交替勤務】(実働7時間)7 30~15 15/15 10~22 55/22 50~翌7 35※残業、休日出勤あり 休日 週休制(配属部署により異なる)、祝日など※GW、夏季、年末年始休暇あり※年間休日120日以上あり 自動車通勤※寮以外 車通勤可(夜勤シフトの場合のみ) 待遇 交通費全額支給、社会保険完備、時間外・休日・深夜手当交替制就業手当、食費手当(月3700円)、契約満了金(最大6万円 ※就業日数による) 工場食堂 選考情報 書類審査 筆記試験 実技試験 面接交通費 保証人 健康診断 コア年齢 服装 選考持ち物 NG項目 ☆三菱電機グループの他製作所へ ☆三菱電機グループの寮情報へ ☆三菱電機グループのQ Aへ ☆三菱電機グループのリンク集へ コメント
https://w.atwiki.jp/unidentified-object/pages/137.html
スレ80まとめへ戻る 410 :本当にあった怖い名無し:2009/10/17(土) 11 56 49 ID YRdfmq+m0 幽霊を肯定される方にお聞きしたいが、 幽霊は具体的に何時代に誕生したのでしょうか? 422 :本当にあった怖い名無し:2009/10/17(土) 12 49 31 ID /Jt8ptUi0 410 まあ期待派だが、ちょうど幽霊史を 393に書いたのでレス。 日本最古というなら大国主だな。出雲大社に奉られている最古の怨霊。ただし神話だけどね。 神話じゃなければ、梅原猛の「隠された十字架」の説を採って、法隆寺夢殿伽藍が建立される天平時代。 聖徳太子の怨霊を奉っているとの説。 資料的にちゃんと残ってるなら平安時代の崇徳天皇か薬師寺縁起の大津皇子だな。 資料自体は平安期だが薬師寺建立は天平期。 まあシャーマンなら卑弥呼が居るがあれは幽霊ではなく巫女の方だからな。 死者なのか精霊なのかははっきりとはわからないから除外ってことで。 423 :考え中:2009/10/17(土) 12 52 37 ID KLLv1DVu0 怨霊信仰の起源とその後現代へ至るまでの変遷という視点で 一説ぶっていただけると幸い。先の箇条書きだと、その辺が 分からない。 425 :本当にあった怖い名無し:2009/10/17(土) 13 01 27 ID /Jt8ptUi0 423 それでは・・・といきたいとこだが、これからちょっとお出かけなのでw その代わり参考になりそうなサイトがあったので紹介。 http //www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/onryo/onryo01.htm 日本の古代史を怨霊や宗教の側面から書いているので結構面白いよ。 近代から現代にかけては帰ったらちょっと書いてはみようと思います。 426 :考え中:2009/10/17(土) 13 02 05 ID KLLv1DVu0 425 ありがとんくす! 517 :本当にあった怖い名無し:2009/10/18(日) 19 24 51 ID Cp+0qo3w0 422 大国主って、荒御霊であって怨霊じゃないぞ。あくまで神だ。 神代の日本の神話で幽霊っぽいものは出てこないんだよ。 出てきても鬼や土蜘蛛のような、後世に妖怪となるようなもの。 524 :本当にあった怖い名無し:2009/10/18(日) 21 38 05 ID 939LgfDm0 家族旅行から帰還。って派手な誤爆かましてる奴いるなぁw うちの娘かと一瞬焦ったじゃないかwww 旅行中に読んだ心理学・認知学の本で河童場氏の説もあながち嘘でもないなと思えたよ。 その本で紹介されていた学説を読んで再確認してから彼の補強はやってみたいと思う。 517 まあ、一般的には荒らぶる神という扱いだが、オオクニヌシの国譲り神話は天皇一族に滅ぼされた旧支配勢力の 話という説がある。菅原道真のように当時は怨霊を神として封ずるという手段があったのは確かなようだしね。 井沢元彦の「逆説の日本史」などでは出雲大社が怨霊封じの神社であるという根拠を示しているよ。 あと、妖怪はあくまでも近代に分類されたものと俺は考えている。 それ以前の日本には幽霊と妖怪に分別はなく、どれも妖の者、異界の者というくくりだったんじゃないかな。 考え中氏リクエストの日本の幽霊史はまとめてから投下するのでもう少し待っててください。 556 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 00 29 01 ID pB34YNs20 あくまでも俺の独断と偏見によるものなので異論等はあると思うが、日本の幽霊史です。 393でレスしたように、日本での幽霊は大きく分けて4つの転換期、5つのフェーズがあると考えている。 日本の宗教史とも深く関わる部分なので、それらを交えて説明してみる。 まず幽霊誕生前、古代の死生観から。 この頃についてはしっかりとした文献もない為、推測で話すしかない部分ではあるが、 卑弥呼のようなシャーマニズムに代表される原始宗教が中心と思われる。 自然と人とに境界はなく、古事記にある黄泉下りの話のように、死者と生者の境界も曖昧なものだったと思われる。 (あれ自体は後世の作だが、当時の神話ベースである可能性は高い) また、タイのピー信仰などに原始宗教の片鱗を見ることができる。 まあ、わかりやすく言えば宮崎駿のアニメのような宗教観がメインの世界。幽霊という分類は存在しなかった。 その後、天皇制度が築かれ、中国から仏教が伝わる。これが宗教観・死生観に大きな変化を生ずる。 宗教に神という個性が導入されたのだ。これにより今まで曖昧模糊としていた日本の神にも個性が誕生する。 イザナミ・イザナミなどの創世神や、ホノミカヅチなど精霊にまで名がつき神として個性を生むことになる。 ここで日本のオカルティズムは個性を初めて持つことになる。 そして密教や陰陽道の伝来により、平安時代に御霊信仰が生まれる。 怨みを抱いて死んだ者を神として奉ることにより封じる御霊信仰が日本における幽霊の原点であろう。 ただし、この当時の仏教は儀礼を重んじるもので民間にはまだ伝来はされていなかった。 この当時、民間に幽霊が居たかどうかを知るような文献も確認はされない。 鎌倉時代、遁世僧の誕生や法然の称名念仏など民間に浸透しやすい「お手軽な仏教」が誕生した。 これにより仏教の考え方が民間に広がったことで、幽霊という概念も広がったと思われる。 この当時の民間伝承を伝える資料もないが、現代の幽霊談で最も古いものが平家の亡霊話であることから、 この頃から民間でも幽霊という概念が広まったと考えられる。 ただ、この当時の幽霊は御霊信仰に基づく怨霊であり、幽霊談によくある浮遊霊のような「彷徨える者」 という幽霊はまだ生まれてこない。 557 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 00 30 42 ID 5TfeY9Zz0 524 いやいや、妖怪や物の怪と幽霊とは機能や効果から、全然別だよ。 そこをひと纏めにしてるから、話がかみ合わなかったのか。。。orz 妖怪や物の怪は人間ではなく、日本神話の八百万の神々云々という ように自然宗教的なもので、伝わっている話も自然に関する教訓めいた ものが多い。稲荷や水神とか、神社で祀られているのもこの系統。 ちなみに神道では一部荒御霊を祀るものもあるけど、これは「幽霊」等の 不可思議なものに対する措置ではなく、○○の死後に起こった何かしら の災いに対する解決手段。幽霊や亡霊だのという話は出てこない。 これに対して幽霊は人間(正確には元人間)であり、伝わっているのは 人間としての道徳観の話。こっちは普遍宗教的。 だから日本で伝わっている話の中でも、寺で供養される事が多いんだよ。 558 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 00 31 50 ID pB34YNs20 (続き) その後、室町・江戸時代となり民間にも精神的にゆとりのある人々が現れた。 商人や町人と呼ばれる者たちだ。彼らにより幽霊はより洗練されていく。 牡丹灯篭などの怪異譚が日本にも伝わり、百物語などの怪談話を語る娯楽が庶民で始まるようになる。 それにより、幽霊や妖怪などといった日本の中世オカルティズムが誕生する。 それまでの御霊信仰を彷彿とさせる四谷怪談や雨月物語などの怨霊話、飴屋幽霊のような彷徨える幽霊など、 幽霊にもバリエーションが誕生する。 この頃、幽霊は始めて姿を見せることとなる。江戸中期の幽霊画ブームだ。 足がなく三角の布をつけ手をぶらり、仏教的な意味づけとも演出効果とも言われるこの姿がこれ以降近代までの幽霊の正式な姿となる。 近代に入り、幽霊は誕生以来最大の危機を迎える。一つは廃仏毀釈による仏教および民間信仰の弾圧だ。 ただし、これは大本教のような国家を脅かすような存在や国教とされた神道に影響を与えそうな仏教などの 「大手」だけに限られてはいたが、これが後々大きな意味を持つこととなる。 もう一つは民俗学の始まりである。これにより民間伝承は収集され、分類され、分析された。 妖の者は妖怪として分類され、社会学や自然科学の下にその正体を晒すこととなる。 かまいたちなど仲間が消されていく中、幽霊はなんとか生き残ることに成功する。 560 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 00 33 38 ID pB34YNs20 (続き) その時まで幽霊が妖怪と同じグループに居た証拠として「産女」・「狂骨」・「ぶるぶる」などと言った妖怪がある。 彼女達の姿は江戸期に作られた幽霊像に非常に近い姿をしている。産女などは妊婦の幽霊と名言すらされている。 お岩やお菊などもおそらく同じ妖としてグループ化されていたのだろう。 生前の姿を持つという異例の存在であった幽霊だけは結局民俗学の仕分けからその身を逃れることができたのだろう。 これにより幽霊は妖怪と決別し独自路線を歩むこととなる。 それどころか、カシマさんやテケテケなど現代妖怪とも言うべき「都市伝説」を生み出し、現代まで生き残ることになったと思われる。 今の幽霊は中世まで様々な妖が担っていた「怪異」まで受け持つようになり、バリエーションが多数生まれることになる。 そして現代。近代に国教として宗教に政治を介入したツケがやってきた。 民衆は宗教から離れ、無宗教・嫌宗教という世界でも珍しい性質を持つようになった。 それにより幽霊談などのような民間伝承も子孫に伝わることが少なくなった。 鎌倉以来の幽霊の歴史はここで一旦の終結を迎える。 まあ、それ以降は今見ているとおり、海外のオカルティズムやアニミズム、 様々な要因により幽霊は過去に例を見ないバリエーションを生み出している。 562 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 00 44 19 ID 5TfeY9Zz0 現代の幽霊談で最も古いものが平家の亡霊話であることから、 だね。 具体的に幽霊や亡霊が出てくるのってここなんだよね。 浮遊霊のような「彷徨える者」という幽霊はまだ生まれてこない。 これが初めて出てくるタイミングが分からないんだけど、平家の怨霊 が登場して以降、怨みをもったまま死んだ人間は当時の姿で。。。 という設定が確立していったんじゃないだろうか? 563 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 00 47 39 ID B12EHYij0 古代中国では幽霊を「鬼」と呼んでたから、古代日本の鬼の記事も実際は幽霊なのがあるかもよ 564 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 00 51 14 ID pB34YNs20 ハレ・ケガレ信仰なども入れたかったが割愛でw もう少ししっかり固まったらサイト立ち上げて時々貼るようにでもしようw 557 妖怪は確かにちょっと俺も強引さは隠せないところはあるが、御霊信仰から幽霊が生まれたんじゃないかな。 実際、御霊信仰の代表格、崇徳上皇などは歌舞伎にされているように民間に浸透している。 あれら怨霊の姿が、日本での幽霊のベースだろうと考えている。 ただ、江戸期においては幽霊も妖怪も概念としては交合していた節はある。 560にも書いたが、多くの妖怪画などで幽霊の姿を借りたり、元は人と言われている妖怪が居るのが根拠。 神仏習合の際か鎌倉期、日本古来の神を取り込む要領で幽霊も妖怪も仏教で飲み込んでいると思う。 565 :考え中:2009/10/19(月) 00 58 39 ID DGKV1tV70 全体的な議論をするには、俺の知識が足り無すぎるが いくつか疑問を感じる点はあります。 原始シャーマニズムでの「結界」の概念で、自分たちの集落を 囲って「生者の場所」とする一方、山なり谷なりをやはり結界で 仕切って「死者の世界」とする死生観は世界的にポピュラーで また日本神話にもその形跡は見られるように思います。 死者の世界を区別するということは、その接点つまり「幽霊」も 必然的に設定されるのではないかと思います。イザナギの女房イザナミが 幽霊かどうか、意見は色々あるかもしれませんが、イザナミが「生者の世界」 まで踏み込んできたら、それは「幽霊」と言っていいような気がします。 566 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 01 07 49 ID pB34YNs20 561 失礼しました。次はサイト作って時々貼りますw 562 ここまでの日本の幽霊に足りないのが「彷徨う」ことなんだよ。 今までは生きてる方でも誰だと確定できるような幽霊ばっかりなんだが、 現代に至るまでに誰かわからん幽霊が誕生している。坊主か霊能者に名前や理由を聞かないとね。 だからどっかにそういう幽霊の根拠があると思って室町・江戸期の中国からの思想流入と考えてみた。 たぶん人型ってスタイルはこの時点で確立したのは確かだろうね。 563 うん、鬼は元々は中国の鬼だよ。 ただタイミングが悪くて風水思想や陰陽思想に角とトラのパンツをつけられたけどね。 565 いや、イザナミも、その後に根の国(死者の国)に行くスサノオもこっちには来ないんだ。 あくまでも生きてる者が向こうに行って帰ってくるだけ。 だから幽霊ではなく、死者との交霊は行っていた節はある。 ただ、今のような幽霊の概念というより死者は自然へ帰るという精霊論が中心だったと思っている。 ちなみにイザナミなどの名は仏教伝来後に作成された書物によるものだから当時あったかは信憑性に欠けるんだ。 568 :考え中:2009/10/19(月) 01 12 06 ID DGKV1tV70 日本神話のストーリー上はそういう展開ですが、伝統的な 幽霊観における「幽霊」とは死者のことそのものでは? 結界の縁に立つ「死者」と「幽霊」の差とはなんでしょう。 569 :濱零:2009/10/19(月) 01 21 29 ID ysNI9JCZ0 568 濱零はこうゆう解釈してる。 死者=死んだ人 幽霊=何かしら未練があってこの世に残る死者 怨霊=幽霊の未練が怨みなど憎悪な者 570 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 01 25 48 ID 52PbkYrYO 神様であるイザナミが幽霊ってことはないだろうが、 幽霊は霊が幽界に止まり、幽体の状態にあること。 571 :河童場:2009/10/19(月) 01 28 03 ID ppgTfFKE0 556 大変勉強になります。 もし知っていたら教えていただきたいのですが、 日本にも過去にあった『人柱・人身御供』ですが、 あれは神道からの流れで、仏教の普及で消えたと言う感じなのでしょうか? それとも土着の信仰だったのでしょうか? 576 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 01 42 29 ID pB34YNs20 568 まず、日本神話では死者は結界に立たせてもらえないんだ。死者は根の国に帰るだけ。 またピー信仰などのアニミズムを観察する限りでは幽霊・精霊・神の区別はついていない。 どれも精霊になるだけで、生前の人格も存在も放棄される。 人も植物も動物も死んだら腐って土になる。これがアニミズムの根底にあるものだよ。 だからずっと個性が残って存在したりする幽霊って概念は存在しない。 日本の神道も最初はそうだったと考えている。 諏訪大社などの古代神を見る限りその形跡は確認できないのがその証拠。 名前はついてるが実際土や水、風、木などの自然霊を奉っている。 だから死者が死後も人格を保持するという考え方自体が仏教思想の影響と思っている。 571 あれは神道からの流れですね。発祥は確かヤマトタケルの東征の際に弟橘媛が嵐を鎮めるために入水したことから。 アニミズムに見られる生贄の考え方だね。 仏教は残念ながらそれを静止するほど力は無かったので、江戸時代まで確かあったはず。 577 :考え中:2009/10/19(月) 01 48 42 ID DGKV1tV70 いや、神話の設定上の話ではなく、結界があればその縁は 当時の人の前に物理的に厳然とある。結界そのものに「死者」が 近づかなくても、生きた人間の側が会いにいく(交霊?)場所 があるなら、その接点となるラインは必ずどこかにひかれる。 そこに立った「死者」と「幽霊」の意味合いにどういう差が あるのか、というところが主題です。 言葉が変わっただけで、指し示している概念そのものに差は ないかもしれない。そのへんです。 578 :河童場:2009/10/19(月) 01 59 03 ID ppgTfFKE0 576 ありがとうございます。なるほど、発祥はかなり古いんですね。 『転生』や『死後の国に行く』と言う考え方だと、柱になっても意味はないんじゃないか?なんて不思議に思ってました 人柱にされた人は、本当に柱になるって言う解釈なんですね。 献上物になったり、柱自体になったり、当時の人の『神』への思いというのは複雑ですね。 また、神が違う外国や古代文明でも、そういう話が残っているのはとても興味深いです。 579 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 02 11 49 ID pB34YNs20 577 確かにそういう仮定の下であれば「幽霊」と「死者」との違いは難しいとは思う。 ただ、アニミズムの場合は死者と自然霊を分別することが無いんだ。 アニミズムにおける霊は幽霊も内包した存在と考えてもらえばいいと思う。 ちなみに日本のアニミズムは万物霊では無く、一部の自然に宿るものだったようだ。 巨石信仰や富士講などが現代も続く日本の原始宗教と言われている。 580 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 02 13 38 ID 52PbkYrYO 幽霊、神様に個性か無いとおっしゃるが、 神道では神様に個性がある。稲荷や天狗は それぞれ何々の神様であり、それは人格化してある。それぞれに性格まである。 幽霊については 黄泉の世界 などは神道用語と認識しているが、 人は死んで、ケガレをもつ。祭るかなんかして、神になる。 ケガレの状態が幽霊であって、神が仏、悟った状態。 個の存続については分からんが、少なくとも個。という観念はある。 581 :考え中:2009/10/19(月) 02 16 47 ID DGKV1tV70 なるほど。 あと重要な考察すべきポイントとして、「日本人」は 単一民族ではない、という事があると思います。 琉球、熊襲、蝦夷、など、特に古代においては異民族として それぞれ違いを認識しあったはずです。彼らが同一の死生観を 持っていたんでしょうか。 たぶん違うと思います。 582 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 02 16 59 ID 52PbkYrYO また神道は見方によれば宗教ではなく、 当時の日本人の感覚を体系化したものであって、仏教か入って神道が変わることは自然。 とはいえ、仏教がくる以前から完成形に近かったろう。 589 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 02 34 02 ID 52PbkYrYO 神道と神話を完全に読み間違えてた 591 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 02 35 58 ID pB34YNs20 580 稲荷や天狗は正しく仏教の影響だね。 インドのダキニ神や密教から派生した修験者の影響だからね。 あと、古代の神については諏訪大社や氷川神社、生島足島神社などを見てもらえばわかる。 名前はあるがいわれのよくわからない神や、主神は「土」ってのが日本古来の神の姿。 古事記の神話などは外国の神話との類似などが学説として出るほどオリジナルとは言いにくい。 まあ、ケガレが幽霊と言う説もあるが、ケガレはあくまでも概念で存在じゃないよ。 生身の人間がケガレることもあるし、ハレになることもある。 幽霊=ケガレとはさすがに言いにくいんじゃないかな。 その感覚を体系化したものがアニミズム=原始宗教ね。神道もアニミズムの一種だよ。 581 すいません。それは完全無視してました。 おそらくというより確実に、独自の宗教・死生観を持っていたはずです。 ただ、日本国民全体に影響を及ぼすものではなかったと思って今回は省きました。 アイヌや琉球民族は現在も残ってますし、熊襲などは具体的な資料すら残ってないですからね。 592 :考え中:2009/10/19(月) 02 40 44 ID DGKV1tV70 591 ああ、せっかくお書きいただいた日本幽霊史概略に対しての 苦言ではありません。 キリスト教下でゲルマンの幽霊が生きているように、それぞれの 民族の死生観は必ず今の幽霊観につながっているとおもいます。 民族ごとの死生観を把握することは、きっとあなたの作業の助けに なるのでは、と思い、独り言をいいました。w 593 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 02 46 44 ID pB34YNs20 592 ありがとうございます。 ただ、死生観って結構難しいんですよね。 神話や宗教がそのままじゃないってことを日本で考察したばかりですしw 色々な資料を今は手探り状態です。 何かわかったらまた発表させてもらいますね。 594 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 02 47 18 ID 52PbkYrYO 日本の神話、古事記はオリジナルではないと。 どこそこ影響を受けたんだとして、その考えを取り入れた時点で、少なくとも日本人に共感する何か。があった。 非合理的であったり、全く異なる思想であるんならキリスト教のようにはね除けるか、浸透しない。 幽霊という概念が、輸入品だとして、日本人は受け入れた。ということは、幽霊という概念は日本人に内在していた。んでは 595 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 02 53 22 ID 52PbkYrYO 古事記まで遡れば それは日本人オリジナルなんだと受け取っていいんだと思うが 古事記の神々には個性があり、人間もまた神様であり、人間は死んでも神様であるから、個は存続すると。 幽霊は幽界の幽体 イメージとしたらさまよう霊であって、 死んだから必ず幽霊になるんではない。 幽霊というより、霊という概念を掘り下げた方が本質的なのでは 最初から読んでないんで、正直なんの話ししてるのか知らないので、本質と違ってたら無視で 598 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 03 22 01 ID pB34YNs20 594 幽霊って概念の誕生までを長レスしてたんだけどねw まあ、記紀がオリジナルか否かはスレ違いになると思うし、学会でもたまに論争になることなので。 まあ古代日本に現代と同義の幽霊概念は存在しなかったってことでね。 この流れで霊本質を問うと宗教スレになってしまうw 概念で言えば心霊≒幽霊じゃないかな。 心霊はあの世にもこの世にも居ることになってるが、幽霊はこの世にしか居ないからね。 599 :本当にあった怖い名無し:2009/10/19(月) 03 30 09 ID 52PbkYrYO 日本に幽霊という概念はなかった。これはどちらかと言えば幽霊の実在に否定的な主張であると伺えたんで無理矢理に反論してみたんだが 幽霊を論ずるんであればまず霊を論ずるべきで 霊とは平たく言えば物質で無い何か。または生命の核となる何か。知性の源。 これらが例えばどこそこの一つの国から発した考え方だったとしても、 日本がそれを受け入れ、今も尚語り継がれる事実がある。 つまり幽霊の存否を論ずる上で、 幽霊という概念が存在しているんだという、結果を重視すべきなんではないかと。
https://w.atwiki.jp/rinseidou/pages/13.html
出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。 成立過程 日本書紀成立の経緯 『古事記』と異なり『日本書紀』には、その成立の経緯が書かれていない。しかし後に成立した『続日本紀』の記述により、成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老四年五月癸酉条には、 「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」 とある。その意味は 「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」 ということである(ここに『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。 記述の信頼性 中国の史書、『晋書』安帝には、266年に倭国の関係記事があり、その後は5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが記されている。この間は中国の史書に記述がなく、日本にも文字の記録は無いことから、「謎の4世紀」と呼ばれている。倭王武の上表文や隅田八幡神社鏡銘、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。しかし、当時朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。 稲荷山古墳出土鉄剣の発見により、雄略天皇の実在は確実であるとして、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承にある程度の証拠能力を認めてもよいとする意見も存在する。一方、実証主義的観点から、記紀や『上宮記』を全面的に信用することは出来ないとして、継体天皇以前の大王の名や系図等は不明であるとする慎重な意見もある。稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成する能力を保持していたと推定できる。しかし、同時代とされる雄略天皇の頃の皇室系図が正確である保証は無く、4世紀後半以前の天皇家の祖先については、事実を正確に記録していたと推定する根拠は乏しいとする。 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國には 「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」 文字なし。ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬う。百済において仏経を求得し、初めて文字あり。 との記述がある。この記述を根拠として、朝廷内での文字の常用はおそらく西暦600年前後、聖徳太子の頃であり、継体天皇即位の頃については文字としての記録は無く、口頭での言い伝えとして大和朝廷周辺に記憶があったのみであるとする説もある。 現代の研究では、『古事記』や『日本書紀』の記述は、外国資料を参照したと思われる部分を除いて、継体天皇以前の記述は正確さを保証できないと考えられている。特に継体天皇以前の編年は不正確であるとされている。そのことは継体天皇の没年が『古事記』と『日本書紀』で三説があげられ、『書紀』の編者は外国資料である『百済本記』[2]に基づき531年説を本文に採用したことからも推察することができる。一般に、継体天皇以前の歴史を探るには、考古学的資料が優先される。記紀の記述と神話伝説(時代的変遷の可能性もある)の解釈は考古学的資料の裏付けが存在しない限り、学問的な評価は得られない。 皇室の歴代や系図の成立過程については、継体の系図を記録した『上宮記』や、現在は伝わらない聖徳太子による国史の成立以前にも各種の系図は存在したが、様々な系図に祖先として伝説上の人物を書いたもので正確な内容ではなく、これらを参考にして『上宮記』や『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が亡くなった531年は、当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀頃の成立と考えられている。 『日本書紀』には推古天皇二八年(620年)に、聖徳太子、蘇我馬子らが共同で「天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部・公民等本記」を編纂したという記録[3]がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が仮に事実であったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、この時聖徳太子らが作った歴史書『国記』、『天皇記』は蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされた時に大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。 書名 もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。 『日本紀』とする説は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に、「書」の文字がなく日本紀と書かれていることを重視する。中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。この用法に倣ったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるものなので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持していると言われる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。 『日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述が見られる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は738年(天平10年)の成立とされている。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』『後漢書』のように全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこでこの説の論者は、現存する『書紀』は、中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるものとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。 なお、一部には、『日本紀』と『日本書紀』とは別の書であると考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されている。 原資料 6世紀の中頃以降に言い伝えを元にして日本の歴史をまとめた『帝紀』・『旧辞』、諸氏の伝承、寺院の縁起、漢籍(三国志、漢書、後漢書、淮南子等)などを取り入れていると言われている。なお、『日本書紀』によれば、620年(推古28)に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより旧い史書であるが、645年(皇極4)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すと言われている。 なお、『日本書紀』本文中に書名をあげて引用されている文献として次のようなものがあるが、いずれも現存しない。 『日本旧記』 『日本世記』 『伊吉連博徳書』 『難波吉士男人書』 『百済記』 『百済新撰』 『百済本記』 編纂方針 『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、天皇家や各氏族の歴史上での位置づけを行うという、極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は、政治的に有力者が主導したものと推測されている。 文体・用語 『日本書紀』の文体・用語など文章上の様々な特徴を分類して研究・調査がされており、その結果によると、全三十巻のうち巻一・二の神代紀と巻二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の二十五巻は、大別して二つに分けられるといわれている。その一は、巻三の神武紀から巻十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻十四の雄略紀から巻二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻二十四の皇極紀から巻二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻十三と巻十四の間、つまり雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。 ところで『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、最近の研究から語彙や語法に倭習が多くみられることが分かってきている[7]。とくに大化の改新について書かれた巻二十四、巻二十五に倭習が多数あり、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向を受けて「加筆」されたのではないかと考える学者もいる。 『日本書紀』は、552年(欽明13年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずる、としている。しかし「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」は、538年(宣化3年)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように『日本書紀』には、改変したと推測される箇所があることが、いまや研究者の間では常識となっている。 紀年・暦年の構成 暦日に関する研究は戦前に既に完成していたが、当時の状況はその研究の公表を許さず、戦後ようやく発表されたのであった。『日本書紀』は、完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、年・月・日(干支)の様式で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいてその記事が月の何日に当たるかを計算できるようになっている。たとえば憲法十七条の制定は「推古十二年夏四月丙寅朔戊辰(へいいんさくぼしん)」であるが、これは四月一日の干支が丙寅であって、戊辰は三日であることを示している。また研究は、中国の元嘉(げんか)暦と儀鳳(ぎほう)暦の二つが用いられていることを明らかにした。武即位前紀の甲寅(こういん)年十一月丙戌(へいじゅつ)朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい暦を古い時代に、古い暦を新しい時代に採用している。既述のように二組で撰述したと推測されている。 元嘉暦とは、中国・南朝の宋の何承天(かしょうてん)がつくった暦で、元嘉二十二年(445年)から施行され、百済にも日本にもかなり早く伝来したといわれている。儀鳳暦とは、唐の李淳風(りじゅんほう)がつくって高宗の麟徳(りんとく)二年(665年=天智4)から用いられはじめた麟徳暦のことを指すと考えられている。 讖緯(しんい)の説 神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てている理由は、中国から伝えられた讖緯説を採用したためという学説が、明治に那珂通世(なかみちよ)によりうちたてられ、学界で広く受け入れられている。三善清行による「革命勘文」(『群書類従』 第貮拾六輯 雜部 所収)で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇九年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたのである。異説では、那珂通世の計算には誤認があり、一蔀は「革命勘文」の引用のとおり1320年が正しく従って逆算起点は斉明天皇七年(661年)の辛酉の年になるともいう。 紀年論 古い時代の天皇の寿命が異常に長い事から、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。今日の学説では、初代神武天皇の即位年を辛酉(紀元前660年)とすることによって、年代を古くに引き上げたとされる。そこでこの紀年がどのように構成されているか、明らかにしようとする試みが紀年論である。また応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると、『三国史記』と年次が一致する。したがってこのあたりで、年次は120年古くに設定されているとされる。しかしこれも、あくまで『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するものであって、前後の日本伝承による記事には当然適用されるわけではないし、その前の神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない。 本文と一書 本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。中国では、清の時代になるまで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時の常識では、世界にも類をみない画期的な歴史書だったといえる。 諱と諡 天皇の名には、天皇在世中の名である諱(いみな)と、没後に奉られる諡(おくりな)とがある。現在普通に使用されるのは『続日本紀』に記述される奈良時代、天平宝字6年(762)~同8年(764)、淡海三船による神武から持統天皇までの四十一代、及び元明・元正天皇へ一括撰進された漢風諡号であるが、『日本書紀』の本来の原文には当然漢風諡号はなく、天皇の名は諱または和風諡号によってあらわされている。十五代応神天皇から二十六代継体天皇までの名は、おおむね諱、つまり在世中の名であると考えられている。その特徴は、ホムタ・ハツセなどの地名、ササギなどの動物名、シラカ・ミツハなどの人体に関する語、ワカ・タケなどの素朴な称、ワケ・スクネなどの古い尊称などを要素として単純な組み合わせから成っている。確実性が増してからの『書紀』の記述による限り、和風諡号の制度ができたのは6世紀半ばごろであり、それ以前で和風諡号風の名前を持つ天皇は、後世架上された天皇であると考える説がある。 現存本 現存する最古のものは平安極初期のもの(田中本第10巻ならびにその僚巻に相当する巻1断簡)。 写本は古本系統と卜部家系統の本に分類される。 神代巻(巻第一・第二)の一書が小書双行になっているものが古本系統であり、大書一段下げになっているものが卜部家系統である。原本では古本系統諸本と同じく小書双行であったと考えられている。 以下に国宝や重要文化財に指定されているものをいくつかあげる。 古本系統 佐佐木本 9世紀写 第1巻断簡 - 四天王寺本・猪熊本・田中本の僚巻。紙背には空海の漢詩を集めた『遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)』(真済編)が記されている。訓点なし。個人蔵。 四天王寺本 9世紀写 第1巻断簡 - 佐佐木本・猪熊本・田中本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。四天王寺蔵。 猪熊本 9世紀写 第1巻断簡 - 佐佐木本・四天王寺本・田中本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。個人蔵。 田中本 9世紀写 第10巻 - 佐佐木本・四天王寺本・猪熊本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。奈良国立博物館蔵。 岩崎本 10~11世紀写 第22,24巻 - 訓点付きのものとしては最古。本文の声点は六声体系。図書寮本と比較すると、本文・訓点ともに相違は大きい。京都国立博物館蔵。 前田本 11世紀写 第11,14,17,20巻 - 訓点は図書寮本と同系統であるが、多少古態を存する。声点は四声体系。前田育徳会蔵。 図書寮本(書陵部本) 12世紀写 第10,12-17,21-24巻 - 訓点あり(第10巻を除く)。第14巻と第17巻は前田本と、第22~24巻は北野本と、それぞれ同系統。声点は四声体系。宮内庁書陵部蔵。 北野本 第1類…第22-27巻(平安末期写) - 訓点あり。鎌倉末~南北朝期に神祇伯であった白川伯王家・資継王の所蔵本が、室町中期に吉田家系の卜部兼永の所有となったもの。北野天満宮蔵。 鴨脚本(嘉禎本) 1236年写 第2巻 - 訓点あり。京都・賀茂御祖神社の社家・鴨脚(いちょう)氏旧蔵本。本文・訓点とも大江家系か。國學院大學蔵。 卜部家本系統 卜部兼方本(弘安本) 1286年写 第1,2巻 - 訓点あり。平野家系の卜部兼方の書写。大江家点との比較を丹念に記す。声点は四声体系。京都国立博物館蔵。 卜部兼夏本(乾元本) 1303年写 第1,2巻 - 訓点あり。吉田家系の卜部兼夏の書写。『弘仁私記』(書紀古訓と書紀講筵にて後述)その他の私記を多数引用。声点は四声体系。天理大学附属天理図書館蔵。 熱田本 1375~7年写 第1~10,12~15巻 - 訓点あり。熱田神宮蔵。 図書寮本(書陵部本) 1346年写 第2巻 - 訓点あり。北畠親房旧蔵本。宮内庁書陵部蔵。 北野本 第2類…第28-30巻(平安末~鎌倉初期写)、第3類…第1,4,5,7-10,12,13,15,17-21巻(南北朝写)、第4類…第3,6,11巻(室町後期写)、第5類…第16巻(幕末写) - 訓点あり(第1巻を除く)。第2・3類は第1類同様白川伯王家・資継王の旧蔵本。資継王が加点しているため、本文とは異なり訓点は伯家点系である。北野天満宮蔵。 卜部兼右本 1540年写 第3~30巻 - 1525年に吉田家前当主の卜部兼満が家に火を放って出奔した際に卜部家伝来の本も焼失したため、若くしてその後を継いだ兼右が、以前に卜部家本を書写していた三条西実隆の本を書写させてもらい、更に一条家の本(一条兼良写、卜部兼煕証)で校合して証本としたもの。当初は全巻揃っていたが、神代巻2巻は再度失われた。人代巻28巻を完備したものとしては最古に位置する。 書紀講筵と書紀古訓 『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老五年(721年)には早くも、『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中において時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。開講から終講までに数年を要するほどの長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に7年を要している。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられるとともに、『日本書紀』の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられた。 以下に過去の書紀講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。 養老五年(721年) 博士は太安万侶。私記は現存しないが、現存『弘仁私記』および一部の書紀古写本に「養老説」として引用の形で見える。 弘仁四年(813年) 博士は多人長。唯一、成書の形で私記が現存する(いわゆる私記甲本)が、書紀古写本(乾元本神代紀)に「弘仁説」として引用されている『弘仁私記』(和訓が万葉仮名で表記され上代特殊仮名遣も正確)と比べると、現在の伝本(和訓の大半が片仮名表記)は書写の過程ではなはだしく劣化したものであり、原型をとどめていないと見られる。 承和六年(839年) 博士は菅野高平(滋野貞主とも)。私記は現存しない。 元慶二年(878年) 博士は善淵愛成。私記は現存しないが、卜部兼方の『釈日本紀』に「私記」として引用されているのはこれではないかと言われている。私記作者は矢田部名実か。 延喜四年(904年) 博士は藤原春海。私記作者は矢田部公望。私記は現存しないが、『和名類聚抄』に「日本紀私記」として、また卜部兼方の『釈日本紀』に「公望私記」として、それぞれ引用されている。 承平六年(936年) 博士は矢田部公望。現在断片として伝わっている私記丁本がその私記であると推測されている。 康保二年(965年) 博士は橘仲遠。私記は現存しない。 なお、書紀古写本には単に「私記説」という形で引用されているものも多い。これらは上記年次私記のいずれかに由来するものと思われるが、残念ながら特定はできない。その他にも、書紀古写本に見られる声点[13]付きの傍訓は何らかの由緒ある説に基づくものと見られるから、上記私記の末裔である可能性がある。 ちなみに、現在成書の形で存在する『日本紀私記』には、上述した甲本・丁本の他に、僚巻と見られる乙本(神代紀に相当)と丙本(人代紀に相当)の二種類が存するが、こちらはある未知の書紀古写本から傍訓のみを抜き出し、適宜片仮名を万葉仮名に書き換えてそれらしく装ったもの(時期は院政~鎌倉期か)と推定されており、いわゆる年次私記の直接の末裔ではない。 竟宴和歌 元慶の講筵以降、終講の際にはそれを記念する宴会(竟宴)が行なわれるようになり、参加者によって『日本書紀』にちなむ和歌が詠まれた。それらを集めたものが『日本紀竟宴和歌(にほんぎきょうえんわか)』(943年成立)である。現存本は元慶・延喜・承平の各講筵の竟宴和歌より成る。歌題として選ばれるのが神々や古代の聖王、伝説的な英雄たちということもあって、和歌の内容がどうしても類型的なものになりがちなため、文学的には特に見るべきものはないが、藤原時平や藤原忠平といった当代の最上級の貴族の歌を集めているという点ですこぶるユニークな歌集となっている。
https://w.atwiki.jp/kotozora/pages/54.html
宇都保物語は従来竹取物語に次ぐ最古の物語で源氏物語よりも五十年以上古いものとして尊重せられ殆ど之を疑ふものが無かつた。空穂物語は其の分量に於て源氏物語の四分の三に及んで居る程の長篇であるから、これが後人の偽作でないならば実に世界最古の長篇小説といはなければならない。縦令其の文章が源氏に及ばないとした所で、其の源氏よりも古く、源氏を生み出す母親となつた点に於て源氏よりも尊い物と云ひ得られる。然るに、何事ぞ、この空穂物語は甚だ疑はしい点が沢山有る。私は断じて後人の偽作と思ふ。少くも鎌倉以後、事に由れば南北朝以後のものかも知れない。併しながら私の偽作だとして挙げる証拠は或は証拠にならないかも知れな・い。私は私の挙げる証拠が証拠にならずに却つて偽作でないといふ反証が挙り、そうして空穂物語が依然として世界最古の長篇小説であるといふ名誉を保つことを希望する。 私は元来空穂を信じて居つた。此の大著に活版本がなく世に普及されないことを慨し、明治三十五年国文大観十巻を編輯した際に全紙数の八分の一を割いて空穂物語を加へた。そうしてこの空穂の索引を作る為には特に他人の補助によらずに殆ど全部を自らやつた。その為に空穂を読んだことは前後五回位に及んだ。そうして唯其の文の古雅質朴を愛し、其の思想の堅実を愛し、物語の上乗であると思ひ、全くこれが偽作であらうなどといふ疑が生れなかつた。が併しその疑の萠芽ともいふべきものはその項から脳裡に潜在して居つたといふことを今日になつて悟つたのである。 一昨年の秋であつたか、高橋龍雄君を訪問した所が丁度折口信夫君が来て居られた。偶ま空穂の話が出た。そうして折口君の云はれるには「私は空穂は偽書だらうと思ふ。恐らくは鎌倉以後のものであらう」といふ。全然空穂を疑はなかつた私は奇抜な説だと思つた。そこで何故かと問ふと折口君の云ふには 「空穂には左大臣忠恒の子の忠乞僧都は幼時継母に窘められたとある。継子いぢめと云ふことは平安朝の少くとも中期以前にはあるべからざることである。平安朝時代は妻を娶つても妻はその親の家に居り夫の方から通ふのであるから、継母、継子と、いふ問題は起らない。然るに継子いぢめといふことのある以上,少くとも平安朝中期以前のものとは見られない。 且つ行文の上から見て古雅で質朴な様であるが、何となく鎌倉以後のものと思はれる。」 私は反問して、継子いぢめのことは落窪物語にもあるがこれはどうかと云つた。君は 「だから落窪も古いものではない。凡そ伝説学上継子いぢめといふことは極新しい形式である。稍新しくなると、実子と継子との対照が現はれ、実子は失敗して継子が幸福を贏ち得るといふ話が出来る。其れから継母なる第三者が現はれて来るのは極新らしいことである。こういふ順序を経ずに継子窘めの話が突然現はれることはない筈だ。」 と。私は最初之を信じなかつた。継子窘めが新しい型であるとしても其れは比較上の話で平安朝も奈良朝よりは新しいのであるから継子いぢめといふ新しい型が平安朝といふ新しい時代に現はれたとも云へる。且平安朝時代の結婚は始めは妻を妻の父母の所へ置いても後には自分の方へ引き取るのである。妻を父母の所へ置くのは云は父許婚の時代である。自分の住宅へ引き取らない場合には別に家を作つて引き取るのである。そうして先妻の生んだ子などは現在の妻に教育を托する場合が多い。継母継子の問題は平安朝時代既にある。源氏物語に由るも源氏の君は明石の上の生んだ娘即ち明石の中宮を紫上に托した。紫上は気立の円満な婦人であるから明石中宮を窘めた様子はないが継母と継子との関係には相違ない。紫上が若し円満な婦人でなかつたならば明石中宮は窘められたに相違ない。継子いぢめの事が有るから空穂を後世のものだと云ふことは無理である。又空穂の行文が何となく後世のものらしいと云ふことは捉へ所のないことである。私は当時漫然こう思つた。 が併し妙なとには斯く思ひつゝも折口君の一言を聞いて何となく厭な心持がした。何だか胸へ針を刺されるやうな厭な心持がした。喩へば親の死んだ夢を見て覚めた時の様に心の中で夢は信ずるに足りないと知りつ瓦、何だか気になる様なものである。折口君の説は心の中では充分弁駁し得たつもりで居るのに、然るに折口君の説は折口君がその説を言語に明示しないので何か言外に意義がある様な気がする。自分は何か空穂が偽作であるといふ証拠を暗示されながら其の証拠を探り得ないのではないかといふ様な気がする。 卒然として悟つたのは空穂物語の人名に実在の人名と一致して居るものが沢山有ることである。私が空穂を疑ふ心が脳裡に潜んで居りながら自ら意識しなかつた所めものはこれであつた。折口君の暗示は私のこの潜んだ意識を呼び覚したのである。 二 小説乃至物語の作者が人の気の附かないことで割合に苦むものは人名である。名前の附け方は自由であるが余り自由過ぎて却つて附け憎い。その作者自身の同情する人物の名などは自分の子の名を附ける様に自分の好きな名前を附ける場合もあるが、長篇物など無法に人名の多い小説物語では、出任せとは云ひながら何等かの聯想に由つて名づけられるのである。事件に多少モデルが有れば大石蔵之、助を大星由良之助とし、三島を川島とする様なこともあるが、事件の本筋には関係なく極めて一寸として似寄或は単純な聯想から全く別物の名を借りることが多い。忠臣蔵の塩谷判官、高師直などがそうだ。 故に小説物語中の人名には模倣が多いと云はなければならない。併し偶合もある。偶合と模倣とは厳別する必要がある。一致して居るものを全部偶合と見ることは間違である。 人名の偶合は幾らもあることである。新聞の三面記事などの中に自殺などをした人の人名が名士と偶合して居ることなどは沢山有る。併し偶合は大抵、単に姓名だけの場合である。官名まで同じである様な偶合は甚だ稀である。殆ど無からうと思ふ。私の知人に鈴木梅太郎といふ人が有るが農学博士ではない。島田三郎といふ人があるが新聞社長ではない。況や兄弟二人が他の兄弟二人と官位勲等姓名を均しくするといふ様なことは偶合としては実際には無いことである。 市ケ谷士官学校の脇を通つたらば、とある門に「加藤虎之助」といふ門札と「福島正則」といふ門札が二つ並べて懸けてある家が有つた。「加藤虎之助」だけならば、清正の名に気づかずに附けた偶合かとも思ばれるが、二つ並べてあつては偶合の姓名の二人が偶然同じ門の中に住居するものとは誰しも思ふまい。 空穂物語の主人公は藤原の仲忠であつて其の父は兼雅で兼雅の兄は忠雅である。仲忠の恋人は「あて宮」であつてあて宮の父は源雅頼である。「あて宮」の兄弟には兼純、仲純などが有り、仲忠と共にあて宮に恋した人には実忠、仲頼、行政などが有る。そうして此等の人は皆実在の人に有る名前である。先づ最も著しいものは兼雅と忠雅である。 兼雅と忠雅とは兄弟で藤原氏である。弟兼雅は左大臣となり兄忠雅は太政大臣となつた。 所が実在の人物では藤原忠雅と藤原兼雅どは父子であつて父忠雅は太政大臣となり(六条天皇の仁安三年八月太政大臣となり嘉応六年二月薨ず)子兼雅は左大臣となつた(後鳥羽建久九年)。;こ熟拡決して暗合と云へまい。勿論姓名の一致には暗合と模倣とある。そうして模倣には甲が乙を模倣する場合と乙が甲を模倣する場合とある。そうして官位姓名の一致となると其姓名の方は模倣で官位の方は暗合だと云ふ様に混合する場合も有り得る。 今父兄太政大臣藤原忠雅、子弟左大臣藤原兼雅、此の父兄子弟の官位姓名が物語空穂と実在の人物とに一致して居る場合に、全然暗合と見る人は無からうと思ふ。唯物語が実際を学んだのでなく藤原氏なる実在の人が物語中の人名を真似て自己の子と孫に名づけたので其れは模倣であつて官位の一致は偶合であると見る人が有るかも知れない。其の説では大臣などは家柄でなるのであるから藤原氏が父が太政大臣となり子が左大臣となるのは当然だと云ふかも知れない。 併し其れは無理な弁護と思ふ。藤原氏だからとて悉く大臣になれるのではない。忠雅兼雅の大臣になつたのも一通りの事でなつたのではない。忠雅の父は僅に中納言で死んで居る。孤児であつたのを中納言宗成が引取つて世話をしたので決して楽々と太政大臣になつたのでない。今岡田なる人が子に岡田文部大臣と同名を附し、孫に前所長と同名を附して一木姓の人に養はしめたとして、その子と孫の二人が他日一人は文部大臣となり一人は宮内大臣となるとは決してあるまい。何と見ても空穂物語の方が歴史上の人名を採つて作中の人に名づけたと見るより外はない。 第二には兼雅と雅頼との関係である。空穂に於て藤原兼雅は源雅頼と名声を争つた。雅頼が左大将となれば兼雅は右大将となり、雅頼が左大臣となれば兼雅は右大臣になつた。 歴史上の人物に於ても藤原兼雅と源雅頼とは共に中納言となつた時其の才名は並び称された。`第三は空穂の雅頼の子に顕澄、師澄、 親澄、忠澄、仲澄、兼澄等が有る。其の女婿に「すゑふさ」が有るo歴史上の人物には雅頓の父に雅兼があり、雅頼の祖父六条右大臣源顕房の弟に師忠が有り其の子に師澄、師親がある。顕房の子に季房があり其の子に忠房が有る。これら一族の名を以て雅頼の一族に名づけたのであらう。之を表にすると 〔歴史上〕 〔空穂〕 雅頼 雅頼 師澄 師澄 師「親」 「親」澄 「顕」房 顕澄 「忠」房 忠澄 雅「兼」 「兼」澄 季 房 すゑふさ「すゑふさ」は空穂に「とうえい」と書いてある所が多い。これは「すゑふさ」が学者である所から「すゑふさ」の文字に「陶英」の字をあて瓦其れを支那人風に音で読んだのである。陶器は「据ゑ物」であつて「陶」は「すゑ」と読み「英」は「はなぶさ」だから「ふさ」とよむのである。「藤ゑい」と書くのは誤である。雅頼の子に仲澄が有る。これは「雅頼」の文字を顛例すれば頼政であるので頼政の子に仲綱兼綱があるから雅頼の一子を兼澄の聯想から仲澄と名づけたのではなからうか。 第四は源仲頼である。歴史上にも兼雅、雅頼と同時代の人に源仲頼がある。 第五は兵衛介「ゆきまさ」である。著聞集に左兵衛の尉行政といふ名が出てゐる。 右に挙げた第四、第五は偶合かも知れない。併し第一、第二、第三は断じて偶合ではないひそうして実在の人が当時待てはやされもしない空穂物語中の人名をまねて命名したのではなくて物語の方が歴史上の人名を仮用したのであることは勿論である。 以上挙げた歴史上の人物は大体平安朝の末から鎌倉時代へ懸けての人物である。空穂物語がそれらの人名を仮用したものである以上は空穂の出来た時代は其れよりもずつと後と見なければならない。恐らく現代の人名を用ゐることば無からう。少くとも死後数十年を経てからのことと見るべきである。そうすれば鎌倉時代の著作と見るべきであらう。少くとも鎌倉の中期以後の作であらう。 三 所がまう一つ疑が有る。これは単に疑であつて私は決して断言はしないが頗る疑はしいことがある。空穂に「実忠」といふ人があるが、雅頼の好意に由つて中納言まで進んだ。此の人は仲忠と共に「あて宮」を恋した人であるが三条の邸に妻が居つた。それで実忠の妻のことは三条の上と書いてある。 歴史上の人物に一二条中納言実忠といふ人が有る。官名まで同じであつて而も本人又は妻の住居が同じであるといふことは単なる暗合であらうか。前に挙げた例から云ふと此れも模倣かも知れない。そうして三条中納言実忠は後醍醐天皇の時の人である。これが万一偶合でないならば空穂物語は南北朝以後の偽作といふことになる。併しこれは単に疑だけである。 南北朝以後といふことには疑があるが鎌倉以後といふことは争はれないと思ふ。勿論作者は枕草紙などを十分読んだ人である。 今次へ一致或は類似の人名の全体の表を挙げる。 〔歴史上〕 (兼雅と声望相譲らざる)源雅頼 (頼政の子)驫 (雅頼と同時代)源仲頼 左兵衛尉行政 三条中納言実忠 左大臣藤原兼雅呪 源雅頼(兼雅と声望相譲らず) 撃 鑾(雅頼の子) 源仲頼 左兵衛介行政 (三条に北の方ある)中納言実忠 〔空穗物語〕 太政大臣藤原忠雅}剃 四 空穂を信じて懸ればこそ気がつかない様なもの玉信ぜずに懸れば色々な欠点が目に附く。 先づ折口君の「突然継子窘めの伝説は生じない」といふとが首肯される。 空穂には人名が非常に多い。源氏前後の物語を見ても空穂の様に人名の多いものはない。源氏や狭衣は人物は沢山出ても姓名を輔々挙げてはない。これが古い物語の一傾向である。所が後世になると戦記物でも何でも人物の姓名が一々挙げてある。これは時世の要求であらうと思ふ。 空穂の文は古雅な様であるが実は拙いのである。唯余程古文に慣れた人が書いたものと見えて拙いだけで、こ瓦が古文にない云ひ方だと捉へられる様な点がない。 空穂物語には異本が少い。否異本といふ程異なつた本はない。現存の物は板本の外には二三種に過ぎない様だ。而も其れが甚しい相違はない。源氏や枕草紙などの様に系統を異にした異本はないo相違は唯巻々の順序であると云つても善い位だ。巻々の順序は伝へる人に由つて狂ふことが有るべきである。第一巻第二巻といふ様に数字で立てられた順序ならば狂はない訳であるが空穂の順序は唯俊蔭の巻忠乞の巻藤原の巻などといふ様な名称の順序であるが巻の重ね様を間違へれば直ぐに順序は狂ふ。巻の順序が違ふだけでは異本どは云へない。 唯不思議な問題は菊宴の巻と嵯峨院の巻がその半分づ瓦が略同一の事であることだ。唯一方は中の人名が一方より少ない。殿村常久の説に由れば この菊宴の巻と嵯峨院の巻を同年とすれば人々の年立悉く違ふなり。因りて常久按ずるに今の嵯峨院の巻はまことの元の巻にてはなく元は太后宮の御賀ありて嵯峨院の六十の御賀のことを記したる巻の有りつらむを、そは早く亡び失せて此処彼処に僅に残れるを後人のこの菊宴巻の異本などの有りしを綴り合せてこの今の嵯峨の院の巻とはなしつるなるべし。かれこの嵯峨の院の巻のいと紛はしきなるべし。 即ち嵯峨院の巻は半散佚したのをその残片へ後人が菊宴の巻の異本を加へて今の嵯峨院の巻を作つたのだといふP 私は此の説は違ふと思ふ。国文大観の索引へも書き夂嘗て国学院雑誌へも書いたが、今簡単に之をいふと嵯峨院の巻では「源の涼」がまだ出て居ない。そうして其の記事の大要は 東宮があて宮を妃となす思召あることをあて宮の父雅頼に仰せられる。その時仲忠が(主人公)傍で聞いて居つて大に驚いて狼狽する。雅頼は即答せずに家へ帰つて室大宮に相談する。、とあつて「源の涼」のことはまだ見えない。菊の宴の巻も同一言辞を以て同じ事が書いてあるが傍に居つたのは仲忠だけでなくて源の 涼もそこに居り同様に悲観する。 雅頼は即答が出来ない。それは嵯峨院が「あて宮」を涼に配せしめる様にといふ内意を雅頼に漏したことがあるので何方の命に従つて善いかに迷つたからで、退いて之を其の室大宮に相談する とある。同じ様でもこれだけ違ふ。 私は此れは異本の混入ではなからうと思ふ。異本といふものはどうして出来るかといふと元は同じであつたものが彼方でも此方でも謄写されることから自然脱漏誤写が出来る。其れが異本である。併し中には最初から違ふ場合がある。今日でいふ初版再版といふ様に作者が人に見せる為に控へ本を作る。 或は世に広まつた後でも作者は控本を訂正して書き通す。其れが各転写されれば異本と称せられる。併し人に見せる本と控へ本、或は草稿と清書とでは其れが何れも自筆本であれば異本とは云へない。所謂異本とはそういふものをいふのではない。誰が流布した訂正版に対し初版を異本といふものか。 空穂の嵯峨院の巻は草稿であつて菊宴の巻は作者が訂正したものだらうと思はれる。草稿であつても捨てるのは惜しく作者は其れを一緒にして置いたのであらう。其れが其のま瓦伝つたのであらうと思ふ。 作者は或は人に見せたであらう。併し余り面白くもないから大して珍重されなかつたに相違ない。そうして作者はこれが我が家に伝つた空穂の珍書であると云つたにした所でどうせ読みかけて見て面白くなければ真偽の問題を生ずるまでに人に持てはやされなかつたらうと思ふ。其れで若干謄写した人があつただけで弘く行はれずに江戸時代に及んだのだらうと思ふ。江戸時代になると疑書とは気がつかずに之を刊行し或は他本を校合したり巻々の順序を立て直したりしたものであらう。 五 枕の草紙に物語は住吉、空穂の類とあるが其の住吉、空穂は今日伝つてゐるのは両方とも偽書だ。そうして空穂物語は偽書であるなしに拘らず昔からあまり人に読まれなかつたもので江戸時代の古学復興期に入つて始めて研究され出したものである。其の世人に読まれなかつた理由は本が少く且つ誤が多くて読み憎かつたこと、其れは後世の話で、古人に読まれなかつたのは源氏などに比して面白くないからだといふ。 私はこう思ふ、空穂物語といふものが源氏物語よりもずつと以前にあつた。其の一巻には俊蔭の巻といふ名の巻などもあつたであらう。併し余り面白いものでなかつたから竹取だけは残つたが空穂や住吉は蘆火たくやの物語などと同様廃滅して仕舞つた。そうして元の空穂物語は今日の空穂のやうな長篇ではなかつたらう。紫式部の天才を以てしてこそあんな長篇も出来る訳であるが其れより以前に出来たものとすれば恐らく竹取の幾倍でもなかつたらう。 六 空穂を疑つた学者は今日までに全然ない訳ではない。安斎随筆に 藤原忠寄公、宇都保物語は源氏物語絵合の巻に宇都保の俊蔭といふと有りて古き物語といふ。伊勢貞文の談に俊景の巻のみ古くて外の巻々は後人の作り添へたゐものかと云へり。此の考の如くなるべきと思はる玉文も有り。宇都保物語の中蔵開きの巻の中の文に「御つ瓦みにす瓦みて持て参れり。大臣引きいで見給へば貞信公の石の帯、いと畏まり驚き給ひて此れはきたなきものなり。これを給はり給ふばかりにつかまつりなんせしめ給へるこそいと恐ろしけれ。此れは小野宮の左大臣のみ帯なり。 此れに由りてなん思しの事ありし。其れに由りてなんしんこん院の律師山籠りにしかば小野に籠り居給ひて今は又領すべき人も侍らずとて院に奉り給ひしを内の位に居給ひし時渡し奉りたまひて、こや畏き御宝なんせさせ給へる許多さぶらひつらめども此れがやうには得あらじとのたまふ(下略)貞信公は村上天皇の天暦三年己酉八月十三日薨。紫式部が源氏物語を獻ぜしは一条院の御宇なり。天暦三年より一条院即位の初め永延元年まで年数三十九年になる。年暦久しきにあらず。又小野宮実頼公は円融の天禄元年庚午正月十五日薨永延元年まで僅に十八年なり。此の年数を以て考ふれば宇都保物語俊蔭の巻の外の巻々は源氏よりは遙に後に作りたるものなるべし。貞丈云清少納言枕草紙にも物語は住吉宇都保は既に古くて世に名高き物語なりければこそ斯く彼れにも其の名を出せるなれ。其の古きは俊蔭の巻のみなるべし。忠寄の考につき按ずるに小野宮殿の薨じ給ひしは一条院の御位の始め永延元年まで僅に十八年になりぬ。然るに小野宮殿の事物語の面にては遙か昔の事の様に聞ゆれば俊蔭の下の巻々源氏物語枕草紙よりも遙に後の世に作りそへし物とは知られたり。忠寄の考に従ふべし。 これらは稀に見る見識と云はなければならない。併し小野宮実頼の薨去は一条帝の即位に先つこと僅に十八年であるのに実頼の事を遠い昔の様に書いてあるから源氏より遙に後の物であるとの断案は独断である。実頼の死後十年位後に書いたとしても遠い昔の様に考へることは出来る。桂公の薨去後何年でもないが我々は遠い昔の様に思ふ。そうして清少納言が枕の草紙を書いたのは一条天皇の即位よりはずつと後の話である。清少納言から見れば宇都保は二十年も前に出来たと見られる。今の若い人が尾崎紅葉の小説を読む位の物だ。当時竹取、宇都保、住吉等数ふるばかりしか読物がなく其れが皆竹取に幾倍でもない短篇であつたとすれば人は何遍もく読んで読み飽きて仕舞ふ。紫式部をして源氏を書かしむるに至つた所以も了解される。 右の様な説も成立つ訳であるから藤原忠寄や伊勢貞丈の説は推理としては無理だと思ふ。併し其の見識は敬服するに足ると思ふ。見識といふものは推理に由る場合もあるが独断に由る場合が多い。推理は後から其の考を確めるだけである。 私は藤原忠寄等の見識に敬服する。併し藤原忠寄等と雖源氏より新しきものと思つただけで鎌倉時代以後などと思つた様子はない。先づ狭衣と同時位と思つたものと見るべきである。 七 然るに独り折口教授は鎌倉以後のものだと推測した。実に慧眼と云はなければならない。其の継子窘めが突然には現はれ得ないといふ理由のみを以て、偽書であることを看破した。推理としては、折口君も自ら満足するものではなからうと思ふ。併しながら折口君は証拠の如何に拘らず空穂を信じない所のある直観を持つたのであらう。此直観が眼識である。名医は病人の脈を取つて診断を下すのに決して間違はない。他人から何故に然診断するかと問はれたら恐らく一々答は出来ない。それは推理にのみ由るのではないからである。医者が若七今日の医学を以て推理にのみ由つて診察したら恐らく診断は出来まい。 私は空穂を疑つた動機は実に折口君の一言の刺戟である。若し私の説が正しいとしたら、空穂の偽作であることを発見した功績は私よりは寧ろ折口君に在ると云ふべきである。 学問といふものは、物理学や数学などは別として哲学や人文科学に属するものは純然たる推理だけでは、少くとも今日の人智を以てしては成立しないかも知れない。幾分かは直観を認めなければなるまい。人の思想には其れく一つの傾向がある。この傾向の似てゐる人同志が意見が合ふのである。思想の傾向が違へばどんなに確実だと思はれる証拠を突き附けても賛成が出来ない場合が多い。況や証拠に多少不備な点がある場合は勿論そうである。空穂の偽作である証拠は人名の類似だけでも私は十分だと思ふ。併し世の人々の中には不充分或は無価値と見る人が頗る多いかも知れない。願はくは遠慮なしに批評して載きたい。 〔附言〕 折口氏の説は記憶に拠つて書いたので或は氏の真意を伝へて居ない点があるかも知れない。 此の稿を草するに方つて山本博士が一つの材料を給与された。これは私の深く感謝する所である。 (「国学院雑誌」大正一四年六月号)