約 2,221 件
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/419.html
師範農業 本文は 広島大学にアップロードされている師範農業(昭和18年) の第一章我が國の農業 をOCRにかけ、手補正したものである。 手補正の際、繁体字(旧字体)とすべきところを効率のため新字体にて補正している。実際の文言はPDFを参照することでご容赦願いたい。 入力者: 金融経済学教科書まとめサイトwiki(倭人の練習帖) 入力日 2020.5.7 第一章我が國の農業 第一節 肇国と農業 我が國は肇國以来農業を重んじ,豐原千五百秋瑞穂の地と たたへられ,既に高天原に於て農事の營まれたことが伝へられ てゐる。 あめくまのうし うけもちのかみ 天照大神の仰せを蒙りて,天熊大人が葦原の中つ国の保食神 のもとに往き,その躰にに生れる稻・粟・豆等を持ち歸ると,大 神がこれを御覧になり嘉みせられて「この物は則ち顯見蒼生の 食ひて活くべきものなり」とのたまひ,即ち粟・稗・麥・豆を おたつもの たたつもの ながた 陸田種子とし稻を水田種子とし給うた。稻種を天田及び長 たりほ やつかほ 田に植ゑさせられたが,その秋の垂穂は八握にしなひで,豊か な稔りをあげたのである。 天孫降臨の際に,天照大神は三種の神器を授け給ひ,天壤無 窮の勅を宣り給うたが,また扈從の神々に稻種を授け給ひて, ゆにま いなほ 「わが高天原にきこしめす齋庭の穂を以て,亦吾が兒にまかせま つるべし」と仰せられた。 かやうに我が國の農業は皇祖の授け給うたところてあって, 爾來この業を子々孫々に相伝へてきた。かくして臣民は神の御 業に仕へまつつて國民食糧の生産に精勵しまた衣服の原料を も作って,いよいよ国家の基礎に培つてゐる。 まことに,農業は國民生業の最も重要なものであって,国民 をおほみたからと稱するのは大御田族の意とも解される。 崇神天皇の詔に農は國の大本,と仰せられたのも國民の業 の根柢たることを示これたもので,御第代の勸農は祭祀・軍事 と並んで重要なことであった。 (金融経済教科書まとめサイトwiki) 第二節 日本農業精神 豊業は大自然の中にあって,天地の惠を受け,作物や家畜を 愛育して天地の化育に參じ,皇國無窮の發展に奉仕する聖業で ある。この農業に一貫する精紳は,我が國に固有の「仕へ」の 精精で,天つ神が國土を生成し給うた「むすび」の精神にほか ならない。 およそ生きとし生けるものにその所を得させ,その生命を全 うさせるために,かやうな伝統的精神を以て生成・化育にいそ しむのが農人の態度てある。賀茂真淵の おおみた みなわ ひだ 大御田の水泡も泥もかきたれて とるや早苗は我が君のため の歌には,遠く神代から伝はった稻を作って,大君に奉仕する 国民の誇りと喜びとがよくいひ表されてゐる。また この秋は雨かあらしかしらねども けふのつとめに田草とるなり の古歌は,ひたすらに天地の化育に參じて皇國に奉仕する農人 の心と姿とを如實に示してゐる。 かくて,我が農業は,国土を荒しては相済まぬといふ心で祖 先の辛苦のこもってるる田畑をまもり,一家をあげ力を盡くし て豊かな稔りを祈念するものである。寝食を忘れて蠶を養ひ, 朝夕に牛馬をいたはるなどの愛育の姿は,實に専統的な日本農 業精訷の露である。 神國農業の貴い姿は,先づ皇室の御祭に拜し奉る。天皇登極 に際し,御一代ただ一度行はせ給こ大嘗祭は,極めて重大な御 儀式である。特に選定された悠紀・主基の御田からの産米で御 饌・御酒をつくらせ給ひ,天皇御手づからこれを皇祖訷に供進 し給ひ,また御親らもこれを食召して後,これを臣下に分ち 給ふ。これは,紫宸殿に於て深夜執り行はせらるる最も神聖な御 祭であるが,毎年の新嘗祭はこれに準じて新穀を皇祖と共に食 召す大祭である。豊作は一に神意によるものとし宮中三殿を 始め,全國の神社では二月十七日に祈年祭が行はれる、,また, 神嘗祭は秋の稔りの初譓を捧げまつる祭である。 この大御心をかしこみ,民間にも風祭・虫追ひ・雨乞ひ等, 農業にする行事がある。農民は心身を賭して化育に參するの を天職と信じ,感謝して「なりはひ」の道に朝夕いそしみ,祖 先の祭祀もこの心をもつて行ふ,- かやうに,生命の愛育に從ふ農民の生活は美しい自然の詩境 に惠まれてゐる。農村の淨い空気とうららかな日光とは常に健 康の源泉であり,その環境は,堅實で從順な人がらを作る、-, 實に靜寂と簡素のうちに豊かな情趣を味ふことは,日本的な生 き方といはなければならない。 われらの祖先は自然並びに經濟條件に適した所を選んで, 三五々聚落を形成して協同生活を營み,そこに定住するに至っ た。この聚落が農業を本とする村落生活の初めであって,最初 は小敏の血縁者でらったものが,世の進み人口の増加するに件 なひ,他より入り來たるものもあって,複雑な村落をなすやう になつた。ここに於て村落は,社會的に,經濟的に,はたまた 精神的に融合されて協同團體として發展し健全な生活場所と なってきたのである。 實に,農業を以て生活の根柢とする農村は健民の母體であり, 健全な國民思想の源泉であり,日本精神の殿堂である。 第三節 我が国農業の發達 我が農業が遠く神代から行はれたことは古事記・風十記等に よってもよく知られるが,素戔鳴尊や大國主神が農耕を行はせ られたことも見えてゐる。その初め稻年が中心であったが,そ れに,粟・稗・麥・豆等の畑作が加はり,穀菽相竝び重要な地 位を占めるに至った。特に稻は連年同じ所に栽培することがで き,我が國十・氣候に適し,他には見られないやうな優良種を 育成し得て国民食糧の根源をなしてるる。 農具も初めは簡單で木製の鍬が用ひられたが,漸次に改良さ れ,殊に海外と交通するやうになって大陸からの農法や農具が 傳へられ,我が農業の進歩に寄與したのである。 我が農業は,上代に於ては唯一の産業として經濟の中心であ った。士地は氏族の氏上によって支配され,農民はそのもとで に從事し,自給經済を營みつつ天皇に仕へまつった。 やがて地方の豪族が勢力を振るふ弊が起ったが,大化の改新 によって政權を中央に歸するとともに班田收授の法などが行は れた。班田收授の法も色々の事情によって永續せす,逑に崩解 し,地方の豪族は盛んに土地の兼併を行ひ,農民はその豪族に 屬して農業に從事した。これが後の莊園のもとである、, 奈良・平安朝の文化は實に燦然たるものて,初めは多く都市 に輝いたが,漸く地方に及んで莊園がはびこった。かくして武 家の起ることとなり,兵亂がつづき耕地は荒らされ,農民は徴 發されるのてあった かく,時代によって消長はあったが,安上・桃山を經て江戸 時代となると,世は泰平となり,農民は安んじてその業にいそ しむことができた。各地に治水・開墾に力を盡くすものか現れ, また,宮崎安貞・大藏永常・佐藤信淵等が農書を著して,農業 の進歩・改善に貢献するところが多かった。 さらに時代は変轉して明治維新となり,歐米の文物は盛んに 輸入されて,我が政治・經濟・敎育・産業等に著しい影響を へたが,農業も亦彼の学理の長所をとり,それを實際に応用し てこれが振興を圖り,政府は常に勸農に努めた さうして農事試驗場,各種産業團體の活動,農業致育の發達 となり,明治二十七八年及び同三十七八年の兩戦役は各 一時期 を劃したが,第一次歐洲大戰は,我が産業界の好況とともに, 農業上にも亦非常な影響を及ぼし,更に,滿洲事變を契機とし て大陸發展の機運が興り,續いて支那事変となり,再轉して大 東亞戦爭と進展し,今や我が農業は東亞を一體となして一大共 榮圈を形成し,南方諸地域の開発を期して,これが指導にあた ることとなり,肇國以來の使命を達成すべき重大時局に當面し た。 第四節日本農業の特質と地位・使命 日本農業の特質 我が國はアジヤ大陸の東海季節風圈内にあって,概ね温帶に 位置し各種の農作物はよく生育して永く國内の自給を充たし てゐた。特に久しい間改良を加へられた稻は,世界にその比を 見ない程發達を逑げてゐる。 のうにんかうさく ことふか いね しやう もの 「それ農人耕作の事。其の理り至て深し。稻を生する物は てんなりこれやしな なか 天也。是を養ふものは地なり。人は中にゐて,天の氣によ よろし したが かうさく そのつとめ り,土地の宜きに順ひ,時を以て耕作をつとむ。もし其の勤 てんちせいやう なくば,天地の生養も遂ぺからず。」 といふ宮崎安直の言葉は,天の氣・地の理を人の技によって融 させて生産をあげるといふ日本農業の特質をよくいひ表した ものである。 我が國の稻は米粒が豊滿で質が堅く,精り氣が強くて 美味であり,薬は柔軟であるが丈夫で倒伏せず,俵や繩等種々 の細工に適するのも特質の一つである。 かやうに日本國土の豊饒,日本人の優秀性は,稻を主體とし, その他各種の作物をよく生育させる特質がある。 元來,農業は,地域の特異性によって作物の種願を選び 法を定むべきで,我が國のやうな,南北により,また地勢によ って環境の異なるところでは,よくこの特異性に順応した各種 の形態の農業があることに注意しなければならない。交通の便 利な都市附近には園藝が著しく發達し,蔬菜や花卉の供給を豊 富にしてゐるが如きはこれである。 また,夏期に於ける日照と降水の適量とは我が農産を豊かに してゐる一原因であるが,蠶業の發達にも大きな影響を与へて ゐる。しかし,ひとり養畜は甚だ振るはなかったが,その原因 は色々あって,佛教の影響によるところともいへる。 農業經營上からみるときは,概して小規模で主として家族勞 作によって營まれてゐることが一つの特色であるといってよい。 即ち,我が國の農耕地は約六百萬ヘクタールで,農家戸數は五 百五十萬戸であるから,一戸當りの経営囲積は平均一へクター ル餘りに過ぎす,その上,耕地が細かく分散されてゐる。それ 故,深耕と多肥とに勞力や資本を惜しまず,ひたすら農業生産 をあげることに精進してきたのである。 なほ,農家の約七割は小作または自作兼小作農家であって, なんらかの副業をとり入れ,その收入によって生計を維持する 農家が過半数を占めてゐる。 更に,我か國に於ける農耕作業は主として勞力によってなさ れ,畜力を利用することが甚だ少く,殊に機械力に至っては殆 ど數ふるに足りない。したがって,我が國には大經營による農 業は全くみられなかった。しかし集約的に行はれる關係上,単 位面積の收穫高は非常な高度を示してるる。 かやうに我が國の農業は極めて小規模な經營であり,家長と 家族とが一體となって協力し生産に從事してゐることは,歐 米の農業が大規模に經營され,賃金勞働者を使役して純企業形 態をなしてゐるのとは大きな相違がめる。 更に,我が國の農業はその由来するところが神授にあつて, 肇國このかた永い歴史をもち,農民は神の御教へのまにまにこ れを天職としこれを通じて天業を翼賛し奉り,國家の發展に 寄與しつつあることは,また一大特質といはなければならない。 我が國農業の地位 古來,農業は唯一の生業として國民經濟の主體であったが、 中世以降,商工業も漸次に勃興し明治維新このかた,諸般の 事項の変轉は各種産業の著しい發展を促し、ために,農業の地 位はややもすれば軽視されるやうな情勢にあった。しかしこの 國民經濟上の変動を以て直ちに農業の地位が低下したと考へる ことは誤りである。試みにこれを産業人口からみても、い我が國 の有業者人口中,農業者は約五割で,今なほ重要な地位を占め てゐる。そればかりでなく,我が農業は商工業の發展に伴なひ 著しく進歩して,その重要性は決して減少してはゐない。即ち 食糧の供給,原料-生産等がかかつて農業にあるが,その上, 我が農業は東亞共榮圈の指導を一身に背負はなければならない 地位にある. 我が國農業の使命 我が農業の地位が重要なことは、またその使命を大ならしめ てゐる。 もとより農業は國民食糧の源泉であり,工業原料の給源であ るから、國カ充實,國民生活の安定は当然ここに基礎が置かれ てゐる。我が農業は今やこの重大な使命を完うすべく力をあ げて努力してゐるのである。 思ふに、東亞共榮圈の農業は東亞十億の民の生命源である。 しかもこれの開發は我が國農業によって始めてその成果があげ られるのである。されば,我が農業は國内開發によって國民食 糧の自給を圖るとともに,東亞共榮圈を指導して資源の確保を 期さなければならない。この意味に於て,我が農業は東亞の繁 榮を圖るため最も重大な使命を有してゐるといへる。 われら師範學校生徒は,この雄大な使命を遂行するために農 業に課せられた責務を自覺し農業精神の體得、農業技術の錬 磨にはげみ、以て國民敎育の任に當る覺悟を堅くしなければな らない。
https://w.atwiki.jp/orochi3rank/pages/271.html
imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 日の本一の兵 信濃の豪族・真田家の若武者。 もののふとして信義を重んじ、たとえ困難な状況にあっても己の信じた道を貫こうとする。 兄である信之とは幼い頃から仲が良く、敬意と信頼を寄せている。 http //wikinavi.net/orochi3/index.php?%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91 神格化可能武将 → 真田幸村(神格化・DLC) http //medaka.5ch.net/test/read.cgi/gamehis/1541975773/637 637名無し曰く、 (ワッチョイ dea6-kBYG [119.172.126.56])2018/12/04(火) 20 22 54.66ID EBmrE5hx0 【使用キャラ】真田幸村 【レベル】100 【神器】イスグレイプニル(DLC) 【武器属性】風斬・勇猛・神速・天撃・進撃・伸長・吸生・堅甲 【ステージ(難易度)】激闘!三国vs戦国(修羅) 【タイム】15:12:34 【撃破数】 3374 【立ち回り】 通常神術つかってC4で全部終わり。 状況次第でカオスオリジンは合体神術なり、固有神術なり、C4なり。 攻撃を受ける可能性があるのは、乱舞くらいであろう。 奥の手として覚醒神速で暴れることも可能。 【総評】 防御面が強化され、鉄壁の守りを敷くことが可能になった日の本一の兵。 ノータイム・(ほぼ)ノーコストでバリアが張れるので弱いわけがない。 ハルパー勢と違い武将の無力化ができないのでそこだけは注意。 C4は属性しだいのところがあるので、モンスターは一撃で倒せない可能性がある。 堅甲はほぼいらないものと考えていいので、属性は一個余っていると考えてよい。 火力が欲しいなら猛砕辺りが候補だろうか。 ランク評価はSでお願いします。 http //imepic.jp/20181204/731310 https //medaka.5ch.net/test/read.cgi/gamehis/1545471850/67 67名無し曰く、 (スププ Sda2-Gn8V [49.98.45.30])2019/01/07(月) 19 16 13.20ID g/gstZaDd 【使用キャラ】真田幸村 【神器】DLCイスグレイプニル 【レベル】100 【武器属性】風斬・神速・吸生・伸長・勇猛・進撃・堅甲・暴風 【ステージ(難易度)】それぞれの絆(修羅) 激闘!三國VS戦国(修羅) 滅びの運命(修羅) 【タイム】 11:36:16 14:14:31 6:04:10 【撃破数】3963 5254 1561 【動画】https //youtu.be/rk3nQ3YKjEM 【動画】https //youtu.be/XqBFkerShwg 【動画】https //youtu.be/7HV5Sb8H8RI 【立ち回り】 主力はC4、通常神術、神速攻撃、固有神術。イスグレイプニルの通常神術は攻撃を当てた敵をピヨらせつつ一発だけ無効化するバリアを貼る。 このため、通常神器と比べると対モンスター性能が飛躍的に向上。巨大レイスの攻撃すら一発は無効化するのでモンスター相手には強気で立ち回れる。 一方で、武将戦にやや不安を残す。特にイスグレイプニルのバリアはダメージに関わらず一発しか無効化できないようで、 弓兵の攻撃だろうと1発でしっかり解除されてしまう。またハイパーオーディンなど無双武将相手だと、バリア解除→そのまま殴られ続けるといったことも起きうるので この点に関しても不安性能を残す。幸い幸村はスピードタイプなのでさほど影響はないと思うが。それ以外は基本的に通常神器と同じである。 ランクは1個下がってS-。下がるというと語弊があるが、実際のところ通常神器と総合性能はあまり変わらない。 対武将は向こうが、対モンスターにはこちらが分があるといった印象。なので「通常神器と並ぶ位置に戻す」という表現が的確か。
https://w.atwiki.jp/eiketsu-taisen/pages/180.html
武将名 やすだながひで 揚北衆 安田長秀 統一名称:安田長秀 生没年:1516~1582「龍さまんためなら 地獄だろうが突っ込むぜぇ!」揚北衆の一人。はじめ長尾為景に仕え、早くから上杉謙信の側近として働き、謙信の家督相続のために尽力する。多くの死傷者を出した第四次川中島の戦いでも奮戦し、謙信から犠牲を乗り越えての忠勤を称える「血染めの感状」を授かった。 勢力 玄 時代 戦国 レアリティ N コスト 1.0 兵種 槍兵 武力 3 知力 1 特技 気合 計略 安田・特攻!(やすだとっこう) 知力と移動速度と攻城力が上がり、武力によるダメージを軽減する。ただし効果終了時に撤退する 必要士気 4 効果時間 知力時間 Illust. マキトシ 声優 羽多野渉 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 特攻 4 - +9 +120% - 9.2c(知力依存0.4c) 攻城力1.5倍+固定値2%武力ダメージ0.6倍効果終了時に撤退 (最新Ver.2.0.0G) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 Ver.1.1.0E 城ダメージ固定値 +0% → +2% ↑ 攻城ダメージ固定値追加 Ver.2.0.0G 速度上昇値 +100% → +120%攻城力倍率 1.3倍 → 1.5倍 ↑ - 所感 1コストの槍兵、特技「気合」持ち。 コスト比高めの武力3に有用な特技を併せ持ち武闘派として頼もしいが、知力は最低値の1と本人の台詞通り敵陣に突っ込むには心許ない性能。 計略「安田・特攻!」。 知力と移動速度と攻城力が上がり、武力によるダメージを軽減する。 その代わりに効果終了時に撤退する。 いかにも城に張り付いて殴り続けろといわんばかりの計略効果となっている。 計略名こそ特攻だが、特攻戦法とは異なり強制前進しない。 欠点である知力を補いながら城を殴れる点は優秀で、相応に攻城速度は速くなる。 武力ダメージ軽減効果は自城防衛の際にも活かせるため、特攻の名に反して多様な使い方ができる計略。 解説 上杉イラストルールの「閃」担当。 二つ名の揚北衆は「阿賀北衆」とも書き、越後北部・阿賀野川北岸の地域に割拠した豪族を指す。 独立心の強いものが多く、上杉謙信も彼らを纏めるのに苦労したとされる。 実際に、本庄繁長や新発田重家といった阿北衆は他国の大名と呼応して上杉氏に対して大規模な反乱を起こしている。 そのような一筋縄では行かない阿北衆の中で、珍しく主家に対して従順であった。 謙信没後は景勝の味方として御館の乱に加わり、反乱を起こした新発田重家の居城を方位中に陣没したと伝わる。 台詞 \ 台詞 開幕 脇目も振らず、敵陣に突っ込めー! └玄004_上杉謙信と出陣 龍さまんためなら、地獄だろうが突っ込んで来るぜぇ! 計略 ぶっ倒れるまで突っ込むぜ! └絆武将 お前の為に、力振り絞るぜ!! 兵種アクション おりゃあ! 撤退 ぬわっ、ぎゃはー! 復活 敵陣はどっちだ? 伏兵 ブッ壊す! 攻城 突っ込め突っ込め突っ込め突っ込めー! 落城 勝利のためなら、命も惜しまねぇ!! 贈り物① 贈り物② 贈り物(お正月) 正月っていうたら、里芋がたっぷり入った汁だなあ。あ~食べてえ!! 贈り物(バレンタインデー) なして、おらにこんげ良うしてくれるんだ? 贈り物(ホワイトデー) おまんとの思い出、一生大切にすんだ!これがありゃあ、ずっと戦っていられるっぺ! 贈り物(ハロウィン) おもっしぇ! なんつー賑やかな祭りだ!! 友好度上昇 寵臣 勝利掴むまで、前進あるのみ! 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前 贈り物(新年の挨拶):正月って言うたら、里芋がたっぷり入った汁だなあ。あ~食べてえ!! - 名無しさん (2023-01-15 23 47 37)
https://w.atwiki.jp/eiketsu-taisen/pages/970.html
武将名 なかはらのかねとお 中原兼遠 統一名称:中原兼遠 生没年:不明「この命を無事に運ぶ…… ワシに与えられた天命のようじゃ」信濃国木曽の豪族。樋口兼光、今井兼平、巴御前の父。源義平に討たれた源頼賢の子・駒王丸(のちの木曽義仲)の乳母父であり、斎藤実盛から預り密かに養育した。子の兼光・兼平は義仲の重臣となり、また巴御前を嫁がせ、義仲を支えた。 勢力 碧 時代 平安 レアリティ N コスト 1.0 兵種 剣豪 武力 2 知力 6 特技 技巧 計略 人馬の加勢(じんばのかせい) 自身を除く最も武力の高い平安の味方の武力と移動速度が上がり、迎撃ダメージと迎撃・斬撃による速度低下を受けなくなる 必要士気 3 効果時間 知力時間 Illust. 山宗 声優 弦徳 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 強化 3 +2 - +30% - 10.0c(知力依存0.4c) 平安限定 騎兵以外も対象になる計略範囲は戦場全体 (最新Ver.2.1.0F) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 Ver.2.1.0F 効果時間 9.2c → 10c ↑ - 所感 碧の1コスト剣豪。 知力寄り数値に特技「技巧」持ちと、サポート色の強いスペック。 計略「人馬の加勢」は平安限定の投げ強化。 味方の武力と移動速度が上がり、迎撃ダメージと迎撃・斬撃による速度低下を受けなくなる。 兵種による制限はないため、最大限恩恵を受けられる騎兵にかけたい。 勢力の限定はないため、他勢力の速度上昇計略を持つ平安時代の騎兵を採用しても良い。 またこの手の投げ計略としては珍しく、計略範囲はなんと戦場全域。 対象の部隊が戦場にいさえすれば、範囲から漏れるということはない。 騎兵に迎撃無効を付与することの恩恵は非常に大きく、騎兵に対するカウンターを無力化できる。 高速騎馬が苦手とする槍オーラを振り回す相手に対し、迎撃のリスクを気にせずに乱戦することができる。 斬撃による速度低下も無効化できるが、こちらはノックバックをしっかり受けるためあくまで保険程度に捉えたい。 ただし武力と移動速度の上昇値は控えめであり、これ単体で戦場を支配できるほどのものではない。 あくまで迎撃による事故を防ぐための保険として扱いたい。 重ねがけも可能ではあるものの、緊急時以外は控えるべきだろう。 また、迎撃無効を過信して槍オーラに突っこみ、接触する寸前に効果が切れて迎撃されようものなら目も当てられない。 他の計略以上に効果時間をしっかり把握しておきたいところ。 解説 大戦シリーズにおいて 台詞 \ 台詞 開幕 女子供は逃がせ。此処は戦場じゃ! 計略 ワシが相手じゃ └絆武将 - └碧075_木曾義仲 対象時 駒王丸は、一度暴れだしたら止まらぬぞ! 兵種アクション つあぁ! 撤退 力を蓄えねばな 復活 戦いは始まったばかりじゃ 伏兵 - 攻城 えぇい突撃じゃ! 落城 フハハ、この老いぼれに新たな希望が宿るとは思わなんだ! 贈り物① お~! 感謝するぞい! 贈り物② - 贈り物(お正月) あけましておめでとう。兼光と兼平、それに巴そして義仲様が元気でありますよう。 贈り物(バレンタインデー) 今日は恋人たちの日なのか。ワシだって若い頃は……いや、このままだったのう。 贈り物(ホワイトデー) 木曾谷にも仁義はあります。恩は戦にてお返しいたす。 贈り物(ハロウィン) ドワーフになってみたぞい!ぬ? この体格ではドワーフにはならないと? 友好度上昇 - 寵臣 - └特殊 - 贈り物の特殊演出 ① 対象武将:碧071今井兼平、碧084樋口兼光 会話武将 台詞 碧082中原兼遠 兼光、兼平。オヌシらに大事な話がある。他言無用、くれぐれも密々にせよ。 碧084樋口兼光 はっ。 碧082中原兼遠 実は、ついに義仲様が………… 碧071今井兼平 義仲様? 義仲様がどうされたのです? 碧082中原兼遠 (二人とも母親にしか似ておらんな……) 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前
https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/1347.html
武将名 りしゅんに UC理春尼 長宗我部国親の妹。国親と夫・片岡茂光が相次いで没すると、死を悼んで瑞応寺を建立。自身は出家し、二人の菩提を弔いながら、村人に読み書きを教え、仏の道を説いた。供養のために盆踊りを始めたのが現在まで続いて「瑞応の盆踊り」として伝承されている。「どうか……  兄様の願いが届きますように」 出身地 土佐国 コスト 1.0 兵種 槍足軽 能力 武力1 統率3 特技 魅力 一領 計略 瑞応の盆踊り 【舞踊】(自身が撤退するまで効果が続く)「戦兵」の味方が撤退するたび、味方の武力が一定時間上がり、兵力が回復する。「戦兵」以外の味方が撤退するたび、撤退している味方の復活時間が減る。その効果は撤退した武将コストが高いほど大きい。 必要士気6 Illustration 戸橋ことみ 計略効果 カテゴリ 士気 武力 統率 速度 兵力 効果時間 その他 舞踊 6 +1+(戦兵のコスト*2) - - +(戦兵のコスト*10+5)% 7.1c(統率依存?c) 復活時間-(2+戦兵以外のコスト*4)秒 コスト 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0 3.5 4.0 武力上昇 3 4 5 6 7 - - 兵力上昇(%) 15 20 25 30 35 - - 復活減少(秒) 6 8 10 12 14 16 18 (以上2.22B) (最終修正3.02G) 解説 長宗我部国親の妹。片岡光綱の側室。 武力1統率3の槍兵で魅力と一領を持つ。 スペックは特に語る点も無いように思えるが、実は意外とそうでも無く 槍兵で一領を持っている1コストは今回で3枚目であり 魅力も長宗我部家は持っている武将が微妙に少ないため、本当にちょっとした事ではあるが嬉しいポイントでもある。 また、舞踊中でも一領持ちの武将である事には変わりが無いので、呼応計略の対象にもなる。と、予想される。【要確認】 計略の「瑞応の盆踊り」はR帰蝶の「憂愁舞踊」とR虎御前の「転生舞踊」とR如春尼の「輪廻舞踊」を合わせたような内容になっている。 ただ他の計略と比べると「輪廻舞踊」は撤退した時に復活カウントが引かれているのに対し、既に撤退した部隊のカウントが減る点や 「憂愁舞踊」のように統率は上がらない、「転生舞踊」と比べると回復量が低い、長宗我部は柵持ちが少ない等問題点も多い。 が、しかし戦兵撤退時の効果はすさまじく、武力上昇値もさる事ながら効果時間が出た当初は驚異の10cあったが修正された。 また、戦兵以外の効果は一領持ち以外にも適応されるため混色で柵を持ってくる事もできる。 試行錯誤のしがいのある一枚。 備考 片岡氏は土佐七雄程ではないが、有力豪族として知られており そこに目を付けた「国親」が政略結婚を申し込み、長宗我部氏再興の援助をして貰ったと考えられる。 また「茂光」の子供「光綱」も元親に仕え、四国制覇を助けるが 豊臣氏の四国攻めが始まると、伊予金子氏への援軍に向うも討ち死に。 親族の養子の「光政」を当主に迎え、「元親」からの期待も高く一字を与えられ「片岡親直」と名乗り 明日を担う人材と期待されるも、長宗我部氏の輝かしい未来を閉ざす事で有名な戸次川の戦いにて戦死している。 皆の無事を祈るも歴史の現実は非情である… 2.22A 武力上昇値増加(各+1)、復活時間低下値増加(各2秒) 2.22B 戦兵の味方が撤退した際の武力上昇時間短縮(10.4c→7.1c) 3.02G 撤退した戦兵の武将コストによる武力上昇値減少(+3・4・5・6・7→) 台詞 \ 台詞 開幕 勝利と皆の無事を祈りましょう…… 計略 今、私が出来る事はこれぐらい…… タッチアクション - 撤退 そ、そんな…… 復活 伏兵 - 虎口攻め └成功 攻城 落城 熟練度上昇
https://w.atwiki.jp/epicofbattleroyale/pages/607.html
【クラス】 ライダー 【外見】 黒い甲冑に身を包んだ日ノ本の騎馬武者。燃えるように赤い眼。顔はぐねぐねと蠢く奇怪な面頬に覆われ、窺い知れない。 刀や弓矢を用いて戦う。異様な妖気を放っており、近づく者の平衡感覚を狂わせる。 +霊基再臨LV1 甲冑が血のように赤黒く染まり、ボロ布を纏う。面頬が牙のように変形する。 +霊基再臨LV3 蚩尤の相。甲冑から角や棘が伸び、腕が六本、目が四つに増え、禍々しい饕餮文が浮かび上がる。 +最終再臨 ? 【真名】 +第四節 七星降臨起黒風クリアで開放 平将門公 【性別】 男 【属性】 混沌・狂 【ステータス】 筋力:B 耐久:A 敏捷:C 魔力:A 幸運:D 宝具:B 【クラス別スキル】 騎乗:B 騎乗の才能。「乗り物」という概念に対して発揮されるスキルであるため、生物・非生物を問わない。 大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。自身のクイックカードの性能をアップさせるパッシブスキル。 【固有スキル】 狂化:C 幸運と魔力を除いたパラメーターをランクアップさせるが、言語能力を失い、複雑な思考ができなくなる。自身のバスターカードの性能をアップさせるパッシブスキル。 戦闘続行:A+ 往生際が悪いどころではない。瀕死の傷でも戦闘を可能とし、決定的な致命傷を受けてもしばらく生き延び、祟りを受けた者の精神を触媒として蘇る。自身にガッツ付与(5ターン)。 御霊神:B(A++) 神性と鬼種の魔(怪力、カリスマ、魔力放出[磁気])の複合スキル。日本を代表する御霊神の一柱。本拠地ではさらなる猛威を振るう。 味方全体の攻撃力アップ&自身の宝具威力アップ。 【宝具】 +第四節 七星降臨起黒風クリアで開放 『妙見兵主銕身蝗(クロガネノオウ)』 ランク:B 種別:対軍宝具 種類:Quick 敵全体に超強力な攻撃&スタン付与&呪い付与 【マテリアル】 +キャラクター詳細 ググググググ…… 正シク敬ハバ、祟リハセヌ…… +絆LV1で開放 身長:178cm(可変) 体重:360kg(砂鉄、可変) 時代:10世紀前半 地域:日本 属性:混沌・狂 性別:男 平安時代中期の坂東の豪族。桓武天皇の後裔・平高望の孫で良将の子。幼名は小次郎。本拠地は下総国豊田郡・猿島郡(現茨城県西部)。 天慶2年(939)12月、朝廷に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜した。しかし翌年2月、朝廷が派遣した藤原秀郷・平貞盛らにより討伐され、戦死した。 +絆LV2で開放 延喜3年(903)頃、平良将と県犬養春枝の娘の間に生まれる。母の出身地から相馬小次郎ともいう。兄の将持、将弘(将軍太郎)が早世したため、父の後継者として期待された。 元服後の延喜18年(918)頃に京へ出て、藤原北家の氏の長者であった忠平を私君とし、家人として主従関係を結んだ。 良将の母は北家傍系の良方(忠平の祖父の異母弟)の娘であり、遠縁とはいえ藤原北家と縁があったので、その引き合いであろう。 同時期に、伯父国香の子・貞盛も上京して左馬允に叙せられている。将門の身分は滝口の衛士でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの、官位は中級官人にとどまった。 のち検非違使の佐や尉を望んだが入れられなかった。これは中央の検非違使ではなく、坂東に帰った時のために郡の検非違使を求めたものであろうという。 延長8年(930)末頃、父が逝去し、所領を継ぐため急ぎ帰郷した。 この頃、叔父良兼の娘が将門のもとに走り子を儲けたが、良兼は婚姻を認めず、将門と不仲になった。 さらに伯父の国香や良正、その岳父である豪族の源護らとも争いになり、将門は源護と対立していた平真樹の娘を娶って対抗した。 承平5年(935)、将門は源護の子・扶らに襲撃されるが返り討ちにし、源護の本拠である真壁郡へ進軍、敵の本拠を焼き討ちして国香を焼死させた。 良兼・良正は国香の子の貞盛と共に将門と戦ったが敗走し、下野国府に退却。 承平6年(936)、源護は将門・真樹を朝廷に告訴するが、太政大臣となっていた忠平の図らいにより翌年無罪となる。 落胆した源護はやがて病死したが、良兼・良正・貞盛は屈服せず、将門の本拠地・常羽御厩を攻撃。将門は敗走し、真樹の娘とその子を殺され、良兼の娘とその子も連れ去られた。 妻子はまもなく取り戻したが、将門はこれを恨んで良兼らを朝廷に告訴し、追捕の官符を賜る。良兼・良正らは勢力を失って病死し、貞盛も将門に攻撃されて身を隠した。 承平8年(938)2月、武蔵権守・興世王と武蔵介・源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司・武蔵武芝との紛争に陥った。 将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。 経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えたが、調査の結果事実無根と判明し、経基は誣告の罪で罰せられた。同年5月、承平から天慶に改元された。 興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守・百済貞連と不和になり、任地を離れて将門を頼るようになる。 +絆LV3で開放 天慶2年(939)、常陸の土豪・藤原玄明が常陸国府に追われて将門のもとへ逃げ込むと、将門は彼を匿い、国府からの引渡し要求を拒否した。 私兵を集めて常陸国府を囲むと合戦となり、国府を攻め落として国司を捕縛、印綬を没収した。これは貞盛が常陸国府にいたためともいうが、 将門はついに朝廷に反旗を翻す形となってしまう。この時、興世王は「いっそ坂東を攻め取ろう」と進言し、将門はそれに乗って下野・上野・武蔵の国府を次々と攻略。 自ら「新皇」を称し、猿島郡石井に政庁を置いて一族や家来を除目した。伝説では八幡大菩薩(応神天皇)の使いを名乗る巫女が「朕の位を蔭子平将門に授けん」と告げたというが、 中央政権を否定まではせず、あくまで「坂東の王」を目指したようである。 とはいえ反逆には違いなく、驚愕した朝廷は天慶3年(940)に藤原忠文を征東大将軍とし、将門討伐に赴かせた。 一方、貞盛は下野国押領使の藤原秀郷(俵藤太)と力を合わせ、4000の兵を集めて将門を討とうとした。これを聞いた将門は2月1日に1000の兵で襲撃するが敗走し、 幸島郡の広江に退却。貞盛・秀郷らは勝ち戦に乗じて更に兵を集め、将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。 追われる身となった将門は攻撃に転じることもままならず、手勢は僅か400に減った。2月14日、幸島郡の北山を背に布陣し援軍を待っていた将門を、貞盛・秀郷らの連合軍が攻撃。 北風を背負った将門は矢戦を優位に展開するが、急に南風に変わって連合軍の優位となる。将門は自ら馬を駆って奮戦するも、額に矢が命中し討ち死にした。享年38歳。 忠文らは進軍途中で朗報を受け、将門の首は京へ運ばれ晒された。貞盛・秀郷らは恩賞にあずかり、その子孫は武家の名門として栄えた。 一方で将門の親族らは坂東に勢力を残し、中央政権への反抗精神を保ちつつ存続した。将門に関する様々な伝説は語り継がれ、 『将門記』『平治物語』『太平記』などに記されてあまりに有名である。 のち将門塚の周辺で天変地異が頻繁に起こり、民衆を静めるために時宗の遊行僧・真教(他阿)によって神と祀られ、延慶2年(1309)には神田明神に合祀されることとなった。 戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行った。 このようなことから、江戸幕府により神田明神は江戸総鎮守として重視され、江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座された。 三代将軍家光の時代に、勅使大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により、逆賊の名は除かれた。 明治維新後、将門は朝廷に弓を引いた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。戦後は復権がなされ、反政府の英雄としてもてはやされた。 +絆LV4で開放 『妙見兵主銕身蝗(クロガネノオウ)』 ランク:B 種別:対軍宝具 レンジ:1-50 最大捕捉:100 ライダーが放射する霊的な磁気。全身に砂鉄を纏わせて擬似的に受肉し、鉄馬や六騎の騎馬武者を操って縦横無尽に戦う。 電波通信の妨害、電磁兵器の遮断など汎用性に富み、敵の武具やニューロンにも働きかけて動きを制する。日本人には特に効くが、対魔力によって抵抗は可能。 +絆LV5で開放 あまりにも有名な日本三大怨霊の一柱(の分霊)。書いてるうちに気のせいか体調が悪くなったりしました。 実際ナラク・ニンジャの原型でもあるのでナラク化した。まあシグルド=サンもダークロブスターサンド=サンめいてたし多少はね? +???クリアで開放 ? 【絆礼装】 +絆LV10で開放 ?
https://w.atwiki.jp/midkiseki/pages/408.html
car - C H A O S. ◎カルケイオス ミッドヴィリームだけでなく、ミラクルアイやヴンダーレンジャーが新たに台頭するようになった事を危惧したヴィオラが、 新たにナノケイオスとは別に立ち上げた下級幹部の集団。 ヴィオラは上記理由とは別に、ケイオスやナノケイオスの内部でもヴィオラに疑問視する幹部が現れた事を察知した為、 新たな下級幹部を育てておく必要があると判断し、このカルケイオスの設立を決めた。 そしてヴィオラは、(幻想町の一般人から選別した)カルケイオスに相応しい『選ばれし14人』に (花札に興じる人の欲から生じたタタリ種の奇跡獣士のミラクルハートを加工して造られた)"種"を寄生させ、 カルケイオスの幹部の一員として一時的な洗脳に成功した。 ただし完全に洗脳した訳では無く、ヴィオラ達が任意で洗脳状態を切り替えたりしているようだ。 モチーフは『花札』であり、全員が花札の20点札及び10点札を模した姿になっている。 メンバーは全員普段が一般人であり、ケイオスやナノケイオスのメンバーが必要に応じて覚醒させるようだ。 アーティファクトが存在し、該当する花札の柄が描かれた『ハナーカード』を使って変身するようだ。 ちなみに洗脳が解除されている間は、カルケイオスとしての記憶が一時的になくなる。 メンバーのアジトは侵攻戦艦ハナフダルク。ムササシャドーに入りナノケイオスと交流する事も多い。 ◆ハナーカード カルケイオスの幹部が1人1枚は持っているアーティファクト。外見は該当する花札とそっくり。 スペルカード等と同じく連絡機能やフォームチェンジ等の機能も搭載されている。 これを使って幹部の姿に変身し、外見を別人のように変化させて活動を行う。 ◆ストレンザク 花札の10点札(短冊)を模した、カルケイオス幹部の一部メンバーが使用する強化アイテム。 これを奇跡獣や奇跡獣士等の額に貼り付ける事で、強化再生を施す事が可能。 マイクロ・チンと異なり奇跡獣達を手なずける事も可能で、自身が生み出した奇跡獣であればコントロール可能。 更に奇跡獣以外にも使用可能で、ヴィリーム達に貼って一時的に操る事も出来る。剥がれると元に戻る。 ちなみにストレンザクには3種類のタイプがあり、普通の短冊はバランス型で強化され、 赤短(【みよしの】等が書かれているあれ)はパワー型、青短はスピード型で強化される。 ◆戦闘員カスソルジャー(モチーフ:1点札(カス札)+コマドリ) 花札の1点札(カス札)をモチーフにした戦闘員。外見はそれぞれの1点札がモチーフ。 普段は1枚の花札に12人収容しており、翳すと召喚したり呼び戻せる。 性格は持ち主のカルケイオス幹部に依存している。幹部に従順なのはその為である。 基本的には1人2枚所持しているが、例外も何人かいる。 ◆侵攻戦艦ハナフダルク(モチーフ:花札+ビスマルク(戦艦)+ジャンヌ・ダルク) ケイオスの侵攻戦艦ハコブネ、ナノケイオスの侵攻戦艦ムササシャドーに次ぐ第三の侵攻戦艦。 カルケイオスのアジトにもなっており、ミラクルアースと地球を行きかう事も可能な女性の怪獣型奇跡獣士。 大きさは侵攻戦艦ムササシャドーとほぼ同じくらいの大きさ。外見は花札をあしらっている。 (メンバー) 道風霊狐(とうふうれいこ)ウィロクス・ノーベン 松鶴予言師(しょうかくよげんし)パレインド・ジャニュス 桜幕講談(おうまくこうだん)カテラリー・マーチ 芒月王妃(ぼうげつおうひ)ススズキ・オーガス 桐凰豪族(とうおうごうぞく)フェニア・ディッセン 丹蝶妖精(たんちょうようせい)パピオニー・ジューン 萩猪通訳(しゅうちょつうやく)ヘクロボア・ジュライ 紅鹿農民(こうかのうみん)メーディア・オクトー 梅鶯歌手(ばいおうかしゅ)ウォプライ・フェブラー 藤如奏者(とうにょそうしゃ)リュステコ・エイプリス 八蒲奏者(やつがまそうしゃ)ハープリス・メイ 芒雁侍(ぼうがんざむらい)グススド・オーガス 盃菊判事(はいぎくはんじ)ゼブレム・セプテン 柳燕芸者(りゅうえんげいしゃ)ウィジロス・ノーベン
https://w.atwiki.jp/2theparadise/pages/319.html
流通経路@アルールシア帝国 経済都市と交易路物価・価格表交易品信用経済資産と運用両替商度量衡商会 流通経路 概要 一般的な商材 【①生産関連ギルド→②問屋→③商会→④問屋→⑤商家(商店・小売店)→⑥小売店・行商】 ①原材料を含む商材の生産 各ギルドが担当する。通常は生産のみで、その後の流通には関わらない事が多い。 とは言え、各ギルドの権限は非常に強く、そのギルドの意向次第では、小売価格や販売方法その他、非常に細かな部分にまで介入される場合がある。 ②問屋 主にギルドが存在する場所から、商会が存在する都市までの流通を担当する。 一般的には在庫の管理や発注についてもここが行う。 ③商会 主に都市間の流通を担当する。生産物が一都市内だけで消費されてしまう場合は、通常この商会は必要無い。 ④問屋 各都市の商会から、その都市に存在する商家・商店への流通を担当する。 ⑤商家 都市部で店舗を構えて小売を行う。 ⑥小売店・行商 都市の拡大に従って、暖簾分けその他の形で、⑤の商家が扱う商材を、同じ都市内の別の場所で販売する商家、もしくは行商。 場合によっては 【①原材料を生産するギルド→②問屋→③商会(直接⑤に行く場合もある)→④問屋→⑤商材の生産関連ギルド→⑥問屋→⑦商会→⑧問屋→⑨商家(商店・小売店)→⑩小売店・都市行商】 といった、複雑な経路を辿る場合もある。 これは原材料から商材までを一括して生産するギルドでない限り、これは一般的に以下の経路が存在している事が多い。 【①生産ギルド→②問屋→③商会→④問屋→⑤生産ギルド】 ①生産ギルド ここでは原材料の生産、例えば各種金属の鉱石だったり、インゴットであったり、糸や皮革等になる。 ②問屋 ①で生産された原材料を保管したり、需要を満たすために①に対して増産等の発注を行ったりする。 ③商会 原材料を必要としている他の都市への流通網に載せる。 ④問屋 他の都市から運ばれてきた原材料を保管したり、需要にあわせて商会に対して発注を行ったりする。 ⑤生産ギルド 原材料から商材を生産する。例えば各種金属インゴットから各種金属製品、糸から生地、皮革から各種革製品等である。 また、地方の農村や大きな商圏が存在しない小規模な都市、もしくは領主や神殿が税として扱う事の多い農業生産品等については、以下のような経路を辿る場合が多い。 【①生産ギルド・領主もしくは神殿→②問屋→③商会→④行商→⑤小売店・消費者】 といった、非常にシンプルな流通経路を辿る場合もある。 場合によっては、②の問屋、もしくは、③の商会が無く 【①→②もしくは③→④】 といった、さらに単純な経路を辿る場合もある。 もちろん上記の流通経路を辿らない生産物も多く、例えば都市の神殿が管理する広場開催される事が多い自由市場等で扱われる商材の大半は 【生産者→消費者】 の形で流通される。 この場合、その広場を管理している領主、もしくは神殿が全ての責任負う事になっており、誰が何を扱うのも自由であるというのが建前であるが、生産系のギルドや問屋や商会、商家等の意向を無視するのは事実上不可能であるため、一般的な流通経路を無視した商材の販売は難しい。 アルールシア帝国 暦法 気候風土 身分制度 経済 軍事 宗教 文化 技術 歴史 1 政治 貴族 都市と交易路 皇帝軍 神殿勢力 性差別と恋愛 魔法 神々以前 2 文字 豪族・郷士 物価・価格表 帝国軍 結婚 建築土木 神々の時代 3 言語 平民 交易品 領主軍 服飾 金属加工 第一期 4 大陸公路 奴隷 信用経済 傭兵と自由戦士 妓楼 工芸 第ニ期 5 ロマ 資産と運用 騎士団 街と村 農業 第三期 6 騎士 両替商 戦争 農村の生活 畜産 第四期 7 学者と魔導師 度量衡 都市での生活 狩猟 第五期 8 協会とギルド 商会 食生活 漁業 第六期 9 職能組合 貨幣体系 運輸 第七期 a 書記官 流通経路 歴史年表 b c ネル半島 d 用語 -
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/997.html
[部分編集] 孟獲伝PK http //www.nicovideo.jp/watch/sm14315867 使用ゲーム 天道PK シナリオ・担当勢力 群雄集結 南蛮北伐 シナリオ設定 上級 物資多 募兵 CPU多自軍少 登録武将 無駄に多い 史実武将の扱い 居たような気もする程度 紙芝居・ストーリー カオス 投稿時期 2011年5月01日 投稿者名 身振りの人 関連動画 孟獲伝 マイリスト 10分1本勝負 [部分編集] ストーリー 南征を開始した諸葛亮に対抗するため、 南蛮王孟獲は諸豪族を纏めて対抗勢力を築きあげるのだった [部分編集] 登場武将…顔グラ確認可能な人物 +... 孟獲(三国志) 朶思大王(男塾) 祝融(うる星やつら) 木鹿大王(ストリートファイター) 兀突骨(エヴァンゲリオン) 諸葛瞻(三国志) 姜維(三国志) ナコルル(侍スピリッツ) ロイ(ジルオール) 諸葛亮(初代三国志) 北郷一刀(恋姫無双)@『中華武将祭り』 徳川吉宗(暴れん坊将軍) 上杉謙信(大河 風林火山) 蓬莱山輝夜(東方永夜抄)@『東方紅海夜』 レミリア(東方紅魔郷)@『東方wizardly』 ゴルベーザ(FF4) 姫(怪物王女) 斎藤義龍(戦国大戦) ボルトアクス将軍(FE蒼炎) ナッパ(ドラゴンボール) ベア(RS2) 姫海棠はたて(東方文花帖ダブルスポイラー) ベア子(虹裏) マミさん(まどか☆マギカ) ソーヤー(Black Lagoon) ラケシス(FE聖戦の系譜) バックベアード(ゲゲゲの鬼太郎@虹裏) 雲居一輪(東方星蓮船) ハガー市長(ファイナルファイト) 黒谷ヤマメ(東方地霊殿) 甲斐宗運(信長の野望) 伝令(顔) バルバリシア(FF4) 脇坂安治(信長の野望) 風見幽香(東方花映塚) ビラク(FE紋章) 小姓(北斗の拳) カイナッツォ(FF4) 石川啄木(実在) ペリー(実在) QB(まどか☆マギカ) ロベルタ(Black Lagoon) ロックブーケ(RS2) 鉄巨人(FF5) リザ(怪物王女) 西郷隆盛(実在) 曹仁(八頭身の武将はキモい) 南久阿(怪物王女) セリエ(TO) 魯粛(SWEET三国志) シャーウッド(怪物王女) 孫堅文台(SD三国伝) レノ(FF7) 上杉謙信(戦国大戦) 上杉謙信(戦国BASARA) 直江兼続(花の慶次) 中条藤資(戦国大戦) チキ(FE紋章) 海のリハク(北斗の拳) ガルマ・ザビ(機動戦士ガンダム) 劉備玄徳(三国志) 謙信頑駄無(BB戦士) 女主人公(ジルオール) アイラ(FE聖戦) 源義経(女神転生デビルサマナー) 呂蒙(三国志) 真田幸村(三国志) 太田道灌(信長の野望) 関羽(三国志) 女謙信(信長の野望) アトラス(DQ2) 直江景綱(戦国大戦) リアルクイーン(RS2) 関羽(恋姫無双) 曹操孟徳(三国志艶義) 趙雲子龍(虹裏) 傷薬リフ(初代FE) 甘粕景持(戦国大戦) 孔明(ジャイアントロボ) 上杉謙信(戦国ランス) もょもと(DQ2@虹裏格闘) ローマ法王(実在) 上白沢慧音(東方永夜抄)@『東方紅海夜』 P.シロッコ(Zガンダム) ムーンブルク(DQ2) 十六夜咲夜(東方紅魔郷) パチュリー(東方紅魔郷) 北条氏直(信長の野望) ジェリド(Zガンダム) 宇佐美定満(戦国大戦) シャア(機動戦士ガンダム) 佐々成政(花の慶次) ホルホース(ジョジョの奇妙な冒険) 登場武将2…名前のみ確認可能な人物 +... 陰陽師孟到 傅僉 張苞 竜騎士カイン スカルミリョーネ 法正 パピー フランドル 嘉村令裡 三好清海入道 十河一存 成田甲斐 バーツ 天野隆重 遠野秋葉 ランドルス枢機卿 織田信勝 水野忠邦 百地三太夫 セシリア ティナ 織田信秀 水戸光圀 塔の騎士 猿飛佐助 アイギス 長谷川平蔵 シーダ 陸遜 八雲藍 馬良 楠木正虎 張飛益徳 呂布子 サンデー毛利 滝川一益 張飛翼徳 トゥバン・サノオ ジャンヌ・ダルク ムスカ大佐 ガーネフ 益田元祥 洩矢諏訪子 コメント欄 よく作りましたなwww -- 名無しさん (2011-05-08 01 22 31) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/futoko/pages/12.html
大和朝廷以前 15~22 7 4% 3~10 8 5% +1 大和時代 23~37 14 8% 11~30 20 13% +5 奈良時代 38~57 19 10% 31~39 9 6% -4 平安時代 58~91 33 18% 40~67 28 18% 0 鎌倉時代 92~114 22 12% 68~91 24 16% +4 室町時代 115~148 33 18% 92~113 22 14% -4 安土桃山時代 149~162 13 7% 114~126 13 9% +2 江戸時代 181~224 43 23% 127~154 28 18% -5 152 第1章 弥生時代、邪馬台国出現! 日本で、「歴史がはじまる」のは、3世紀の、そう、あの卑弥呼が君臨した邪馬台国のころ。もろちん、その前に、旧石器時代があり、縄文時代があるんだけど、そこからはじめると、たいていつまんなくて、縄文時代でザセツしちゃうので(笑)、却下! 弥生時代ってのいうのは、簡単に言ってしまうと、稲作がはじまった時代だ。これが、人間のドラマの始まりなんだ。 稲作って、ほら、田植えとか稲刈りとか、集団作業だから、優秀クンがリーダーになるよね。それに、米は、動物や魚の肉と違って、長いこと保存できるから、貯めこんでおける。 「わしがリーダーになる! そのために、ヤツは殺す!」「隣のムラの米を奪え! 戦争じゃ!」 ……「○○の陰謀で父が殺された」「△△の戦で夫が死んだ」 ドラマが始まる。 縄文までは、のんびりと悠久の時が流れていた。 でも、3世紀、今、人間の果てしない野望とその果ての涙の劇が始まるんだね。 a. 卑弥呼の邪馬台国はどこに?! じゃあ、邪馬台国からはじめよう! 3世紀だ。 実は、その前の2世紀、日本は、弥生時代の最終戦争状態にあったんだ。 けれど、「このままでは全滅だ、マズイ」ということで、三十カ国くらいが集まって、邪馬台国の女王・卑弥呼を立てて、やっとなんとかまとまった。 その邪馬台国、どこにあったかは、残念ながらわからない。謎です。 畿内(関西)か九州か? 『魏志』倭人伝に載ってる記録通りに邪馬台国に行くと、九州のはるか南になってしまうわけで、それはありえない……。 女王・卑弥呼は、呪術で政治を行っていた。鬼道政治っていう。卑弥呼が、「神からのお告げじゃー」みたいにやっていた。銅鏡に光を当てて、「我こそ、太陽の神の子じゃー」みたいにやっていた。卑弥呼は女性なわけで、たぶん、当時は、子供を生む女性にこそ、霊力があると考えられてたんだろうね。 ところで、困ったことに、その後、4世紀の日本に関しての記録がほとんどないんだ……。当時の日本には、もちろん、まだ字がないから、中国の歴史書に頼るしかないんだけれど、その記録がない……。 で、5世紀に、再び、日本のことが記録に現れるときには、もう大和朝廷がすっかりできあがっている。 つまり、4世紀に何かがあったわけだ!でも、その「何か」が、謎なのだ。 もともと邪馬台国は畿内にあって、それが大和朝廷になったのか? 九州にあった邪馬台国が畿内に乗り込んできたのか? いや、邪馬台国は九州にあって大和朝廷とはまったく別物なのか? だとしたら、その大和朝廷は誰がつくったのか? もしかしたら、大陸の騎馬民族が日本を侵略してきて、邪馬台国をも滅ぼして、大和朝廷を樹立したのかもしれない……。 この、日本史にとって、かなり重要な部分が、謎なのだ。 b. ちょっと、旧石器時代と縄文時代も…… では、少し、旧石器時代と縄文時代もやっておこう。 今から1万年くらい前まで、旧石器時代が続いた。いわゆる氷河期で寒かった。北極・南極では氷が凍ってるから、海が低く、日本と大陸がつながっていたころだ。打製石器という、石をガンガン砕いただけの石器でマンモスとかをとっていた。 続いて、1万年くらい前から紀元前3世紀ころが縄文時代だ。1万年くらい、悠久の縄文時代が続いた。氷河期が終わり温暖になったし、縄文土器を発明したから、食べ物をグツグツ煮炊きできるようになった。やっぱり、食べ物はグツグツ煮ると、ダシも出てうまいわけで。 そのころは、争いもなく、権力者もいなかった。もちろん、獲物がとれなければ、飢えてしまうわけだけど、ある意味、縄文ユートピアだ。 縄文人に、北方からやって来た民族が混血して、弥生人(つまり、今の日本人)になったと言われているけれど、詳しくはわからないんだ。 第2章 大和時代、大和朝廷が日本統一! 大和時代ってのは、4世紀に大和朝廷ができて、7世紀に聖徳太子が登場するまでの約300年間の時代だ。 4世紀に大和朝廷ができて、5世紀には、大和朝廷はどんどん強大化していった。 でも、6世紀になると、早くも、権力争いが起きて、蘇我氏がグングンのしあがってくるんだ。そして、数々の暴虐を尽くす蘇我氏一族……。 この時代は、天皇の力のアップダウンがポイントだよ。 天皇家、蘇我氏、そして、そのほかの豪族……。次の時代への胎動を秘めながら、人々の悲しみと喜びが、紡ぎはじめられる。 a. 強大な大和朝廷、成立! 5世紀になると、もうすっかり大和朝廷が成立していた。さっきも言った謎の4世紀に「何か」が起きたわけだけれど、言えるのは、4世紀に、天皇家が、日本を統一して、支配した、ということだ。 どうも、4世紀の終わりから5世紀にかけての大和朝廷は、すでにかなりの力を持っていたらしい。 391年には、朝鮮の強国・高句麗と戦争をして、結局負けたんだけど、けっこう互角に戦っている。 400年代半ばには、世界最大のお墓・大山陵古墳(仁徳天皇陵)も造られた。 400年代後半には、雄略天皇が、宋(中国)に使いを送って、「朝鮮あたりも支配してよいぞ」という称号をもらったりもしている。 5世紀には、もう大和朝廷は、かなり強かったようなのだ。もっとも、あまり詳しい記録は残っていない。 b. 天皇の権力、急降下! 無秩序社会…… けれど、6世紀になると、早くも天皇家・豪族たちの間で、権力抗争が繰り広げられ、天皇家の権威はグングン落ちて、蘇我氏がグングンのし上がってくる。 500年代の初めに、武烈天皇に男の子が生まれなかったため、現天皇の系列が途絶えちゃって、かなり血縁的には遠い継体天皇がむりやり立てられたのが、ケチのつきはじめだ。 527年には、磐井の乱が起きる。磐井という豪族が、大和朝廷に対して反乱を起こした。 587年には、新しく入ってきた仏教をとりいれるかどうかをめぐって物部氏と蘇我氏が軍事衝突し、物部守屋が殺され、蘇我馬子がグンっとのし上がる。 ついには、592年、崇峻天皇が、蘇我馬子の差し向けた殺し屋により殺害された。 6世紀は、蘇我氏をはじめとする豪族が好き勝手やっている無秩序社会になってしまったんだね……。 第3章 飛鳥時代、秩序ある日本へ! 飛鳥時代は、7世紀の初めに聖徳太子が登場して、政治改革をガンガン進めて、8世紀の初めに大宝律令ができて政治改革が実現するまでの、約100年間の時代だ。その途中に、中大兄皇子(後の天智天皇)による大政治改革の大化改新があるわけだね。 飛鳥時代は、聖徳太子や中大兄皇子による政治改革がガンガン進められた、元気いっぱいの時代なんだ! 法律がちゃんとある社会(律令国家)・リーダーを中心にした秩序ある社会(中央集権国家)が、完成した! この時代は、日本が、ちゃんとした「国家」になった時代なのだ。 a. 聖徳太子、改革の夢! さあ、蘇我氏などの豪族が好き勝手やっている無秩序状態を改革しようと登場するのが、推古天皇の甥で摂政(天皇のサポート役、……といっても、実際には政治の中心)の聖徳太子だ! 聖徳太子は、〈聖徳太子改革〉の第1弾として、604年、憲法十七条を制定した。 あの超有名な「和をもって、貴しとなす」は、決してニコニコと「仲良くしましょうね」って言ってるわけじゃない。「豪族たちよ、争いをやめよ! 秩序ある社会をつくるのだ!」という堂々たる聖徳太子の改革宣言なんだね。 さらに、〈聖徳太子改革〉の精神的支柱として仏教を導入した。 聖徳太子にとって、仏教は、秩序ある社会をつくる強力な社会思想だったのだ。 607年には、隋(中国)に遣隋使を送った。 そう、まさに、581年にできた大帝国・隋こそ、律令国家(無秩序状態じゃなく、法律で秩序が保たれた社会)・中央集権国家(豪族の好き勝手じゃなく、ちゃんとリーダーがいる秩序ある社会)のモデルだったわけだ。 隋を理想とした聖徳太子だけれど、一方では〈聖徳太子外交改革〉も行っている。 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや〈元気ですか〉。」という、めっちゃタメグチな手紙を隋の煬帝に送っている。 煬帝はぶちぎれたんだけど、聖徳太子は堂々と冊封体制(中国周辺の国々が、「ははー、中国さま」と服属する体制。日本も、それまではそうだったのだ)から対等外交に持ち込んだ。 しかし、残念ながら、律令国家・中央集権国家の夢は叶わないまま、聖徳太子は世を去った。 b. 大化改新で日本改革へ! 聖徳太子の死後、蘇我氏の横暴はどんどんひどくなり、643年には、とうとう聖徳太子の子・山背大兄王を蘇我入鹿が自殺に追い込んだ。 これには、とうとう天皇サイドもぶちぎれた! 645年のある日、飛鳥板蓋宮で、中大兄皇子の母・皇極天皇を迎え、盛大に儀式が行われていた。 中大兄皇子とその家来・中臣鎌足たちが、最前列の蘇我入鹿を狙う。蘇我入鹿は政界の大物だ。緊張でブルブル震えて、動けない仲間もいる。しかし、今しか、ない! 多くの皇族や豪族の眼前で、蘇我入鹿は刺殺され、父の蘇我蝦夷は自邸で自殺に追い込まれた。乙巳の変(大化のクーデター)だ。 さあ、聖徳太子の夢見た律令国家・中央集権国家を目指して中大兄皇子の改革政治が始まった! 大化改新だね。 中国には、隋以上の大帝国・唐ができたから、遣唐使をどんどん送り、新しい日本の建設のお手本にしようとした。 中大兄皇子の政治改革(大化改新)は、663年、朝鮮の中でも日本と仲のいい百済が滅ぼされ、それを助けようと唐・新羅軍と戦って、白村江の戦いで負けたこと以外は、だいたい順調に進んだ。 ……なんだけど、ちょっと問題が起きた。 中大兄皇子が天智天皇として即位して、年をとって、次期天皇としては弟の大海人皇子が候補に挙がってたんだけど、天智天皇は、子どもの大友皇子を天皇にしたくなっちゃった。 天智天皇は、ある日、大海人皇子を自室に呼んだ。「次期天皇のことじゃが、おまえはどう思う?」 もし、大海人皇子が「私がやりたいですなぁ」と言えば、天智天皇は「謀叛か!」と殺すつもりだ。しかし、それを察した大海人皇子は、「天皇の位など私はぜーんぜん興味ありませんよ。出家しますわ」と機転を利かせ、その場は逃れた。 で、天智天皇の死後、大海人皇子と大友皇子が大衝突。これが672年の壬申の乱だ。結果は、大海人皇子の大勝利。 大海人皇子は、天武天皇として即位した! ほとんどの豪族が敗れた大友皇子側についてたから、豪族たちはみんな没落しちゃって、結果的に天武天皇の権力がグンと強まった。まさに、中央集権国家。 皮肉なことだ。天智天皇(中大兄皇子)が目指した中央集権国家が、天智天皇の子・大友皇子が敗れるというこの事件で、ほぼできあがっちゃったわけだ。 歴史には、たくさんの皮肉がある。人々の想い(自分の子を天皇にしたい、とかね)を、濁流のように押し流しながら、歴史は流れてゆくよ……。 この後、天武天皇が飛鳥浄御原令という法律を作ったり、天武天皇の妻・持統天皇が初の本格的な都・藤原京を造ったりして、律令国家・中央集権国家完成への道が用意されていった。 c. 秩序ある日本、とうとう完成! ついに、ジャーン、701年に、初の本格的な法律の大宝律令が、刑部親王と藤原不比等(中臣鎌足の子)によって作られた! 法律により秩序が保たれ、中央政府がちゃんと全国を取り仕切る律令国家・中央集権国家が、真に完成したのだ。 思い起こせば、聖徳太子の夢が、100年後にかなったわけだね。涙……。うう……。 左大臣(今の総理大臣みたいなもの)・右大臣・大納言・少納言などで構成される太政官というのが、中央政府だ。 地方も、国(今の県みたいなもの)・郡(今の市みたいなもの)・里(今の町みたいなもの)にちゃんと分けて、それぞれの長も置いた。 貴族(このころから、豪族のことを、お上品に「貴族」と呼ぶ)には 官位相当の制によって「正一位」とか「従二位」というランクが与えられて、そのランクに応じて、いろんな役職に就任する、というちゃんとしたシステムができた。 それまで豪族がたんまりもっていた私有の土地も、中央政府が所有することにとなった。豪族は、この私有の土地をいっぱい持っているおかげで、いばれてたわけだから、それを失っちゃ、もういばれない。 中央政府が土地を農民に与え、その分、税を取る。この班田収授法により公地公民制(土地も人々も中央政府が支配するもので、豪族の勝手はさせんぞ、ってことだ)もできあがった。 日本全体が、しっかりとした社会になった。 こうして、律令国家・中央集権国家が、真にできあがったのだ! 第4章 奈良時代、日本崩壊! 奈良時代、日本は崩壊してゆく。 歴史、というもの、大きく見ると、上昇してゆく時期と下降してゆく時期がある。 もちろん、すべてがそれで割り切れるわけじゃないけど、そういう見方をすると、歴史がずいぶんわかりやすくなる。現代でも、1955年くらいから高度経済成長がはじまって1993年頃にバブル経済が破綻するまでは、上昇期だろう。悲しいかな、それからの10年は下降期だ。 奈良時代……、なんかイメージでは、「雄大」とか「ロマン」っていういいイメージがあるけど、全体的には下降期なんだ。 せっかくできあがった律令国家・中央集権国家が、早くも音を立てて崩れ去ってゆく!。 a. 早くも公地公民制、崩壊! はじめはうまくいっていた。 710年には、平城京という立派な都もできた。 718年には、藤原不比等が、大宝律令に続いて、養老律令を作った。 けど、だんだんうまくいかなくなってきた……。 そう、ちょっと税が重すぎた。収穫の約3%を納める租、布を納める庸、地方の特産物を納める調のほか、国司(今の県知事みたいなもの)のもとで年間60日働く雑徭、3年間九州北部沿岸を警備する防人など、いろんな負担に農民は苦しんだ。 苦しんだ農民たちは、「こんなん、もうやってられへん! やめや、やめや!」と田を捨てた。 農民が田を捨てて、米を作らないわけだから、税は政府に入ってこない。政府も困る……。 そこで、そのころ政権を握っていた、長屋王が、723年、三世一身法という法律をつくった。「新しく開墾した場合は、三代の間、その田を自分のものにしてよいぞ。だから、どんどん土地を開墾せえ」というわけだね。 さらには、聖武天皇が、743年に、墾田永年私財法を出した。「土地を開墾した者には、永久に私有を認める」と。 もう、だめだ。 蘇我氏などの豪族が土地をたんまり私有していばっちゃったから、それをさせないために、大化改新で大改革して、公地公民制にしたんだよ。それなのに、また、土地を私有していい、ということにしちゃった。ああ……。後戻りやんか……。 聖徳太子から100年かかって完成したものが、50年たたずに、崩壊だ。 現在もそうかもしれない。戦後50年かかってつくった社会が、この10年で崩壊。 歴史はいつもそうだ。作るのには時間がかかり、崩れるのはあっという間なのだ……。 b. 聖武天皇、タタリにヒビって天平文化をつくる! それだけじゃない。悪いことは重なる。 中臣鎌足(藤原鎌足)・藤原不比等と、徐々に力を持ちはじめていた藤原氏。藤原不比等の子どもの藤原四子と呼ばれる藤原氏4兄弟が、藤原氏の光明子を聖武天皇と結婚させて、力をもっと強くしようとたくらんだ。 けれど、当時、天皇と一般貴族と結婚することは、ありえないから、長屋王が反対した。藤原氏にとっては目の上のたんこぶだ。「長屋王め、邪魔だ。殺してやれ!」と、藤原四子と聖武天皇が、長屋王に罪を着せ、死に追い込んじゃった。729年の長屋王の変だ。 そしたら、なんとその後、藤原四子が次々と病死……。 聖武天皇は「これは長屋王のタタリじゃ……。次に死ぬのは、わしじゃぞよ。わしゃあ、恐いぞ。恐いといったら恐いぞよ」とビビりまくった。 殺人の自分以外の関係者が次々と謎の死を遂げる……。今でも、ビビルで、ほんま。当時なら、なおさらだ。 藤原広嗣の乱なんてのが、はるか九州で起きただけでも、聖武天皇は、もうヒビリまくり。平城京から逃げ出して各地を転々とした。 仏教にすがろうと、各国に国分寺を作り、東大寺に巨大な盧舎那大仏(奈良の大仏さんだね。)を作った。 もうノイローゼ状態だ。あんな巨大な大仏をつくるとは、きっと聖武天皇の不安も大仏と同じくらい巨大だったんだろう。 もっとも、聖武天皇がビビりまくって仏教にすがった結果が、仏教文化が日本に定着した天平文化なのは、歴史の皮肉だね。 c. 孝謙天皇で、崩壊グングン加速! そのあとは、もうメチャクチャ。 孝謙天皇(女帝。一度やめて、称徳天皇として復活した)のカレシの藤原仲麻呂、さらには新カレの道鏡が権力を握って、やりたい放題。政治は大混乱……。もう、律令国家も中央集権国家も、バラバラグチャグチャだ……。 ちなみに、歴史上「天皇になろうとした野望の男」が3人いる。 そのひとりが道鏡だ。(あと2人は、将門の乱を起こした平将門と室町幕府の三代将軍・足利義満だ。) 称徳天皇と道鏡のカップルが、宇佐八幡宮という神社に、裏から手を回して、「道鏡を天皇にせよ」というウソの神のお告げをさせようとしたんだけれど、和気清麻呂にギリギリで阻止された。 「きぃーーー。清麻呂め。おまえなど、『清い』麻呂ではないわ。『きたない』麻呂で十分じゃ。きぃーーー」と怒りまくった称徳天皇によって、和気清麻呂は、「和気のキタナまろ」という名前に無理やり変えさせられてしまった。かわいそうな清麻呂……。 第5章 平安時代、貴族全盛から日本破裂へ! 平安時代は、平安京に遷都した794年から、鎌倉幕府ができる1192年までの、約400年の時代だね。 全部で4つに分けて見ると、わかりやすいよ。 そうそう、なんか平安時代っていうと、きらびやかーな貴族が和歌など詠みながら恋愛絵巻を繰り広げてるイメージが強いけど、それは、2番目の藤原氏全盛の時期だね。 平安前期は、桓武天皇などが、奈良時代にメチャクチャになっちゃった律令国家を建て直そうとした時期。だから、フンイキは大化改新のころに近いやる気マンマンな感じだ。 平安中期は、律令国家再建から時代が大きくカーブして、藤原道長を頂点として藤原氏全盛になった時期。これが、まさしく、貴族たちが優雅に和歌などを詠んで、華麗な恋愛絵巻を繰り広げる時期だ。 平安後期は、藤原氏が没落しちゃって、上皇(院)がガンガンと独裁政治をした院政の時期。この独裁政治の中から、今までの天皇や貴族とはまったく違う存在の荒くれ者、武士が登場してくる。時代のフンイキは、もうかなり鎌倉時代に近い。 そして、最もおしまいの時期は、天皇・貴族の世から武士の世へと時代が破裂する大激動期。平清盛を頂点として平氏が政権をとる。滅びゆく平安貴族の挽歌と、新しい武士の雄叫びが交錯しながら、未来への扉が開かれる。 a. 平安京遷都で、日本再建へ! 奈良時代に、めちゃくちゃになってしまった日本。 そこに、桓武天皇が登場して、律令国家を再建しようとした。〈桓武改革〉だ。 「まずは、とにかく道鏡に代表される腐敗しちゃった奈良の仏教からオサラバしなければ!」と、今の京都の南にある長岡京に遷都した。 もっとも、これは大失敗に終わってしまった……。 長岡京造営プロジェクトチームのチーフの藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟・早良親王が容疑者にあがった。「ヌレギヌだ!」と抗議した早良親王は、断食して、命を絶つ。 その後、長岡京では、桓武天皇の母が死ぬ、洪水がたびたび起きる、役所の門がわけもなく倒れる、……と異変が相次いだ。 今度は、早良親王の怨霊だ! 794年、桓武天皇は、長岡京をあきらめ、その北に平安京をつくった。 平安京は、早良親王の怨霊が入り込まないように、北は玄武、西は白虎、南は朱雀、東は青竜という四神に守られた霊界都市だ。 ……なんていうと、オカルトめいてるけど、平安京遷都以来1200年、京都は繁栄し続けている。世界でも、こんな都市は珍しい。やっぱり、京都は霊界都市なのかもしれないぞ。 そのほかにも、思い切った減税や腐敗した軍隊の改革など律令国家再建へとさまざまな〈桓武改革〉が断行された。 しかし、時代は、もとへは戻らない。律令国家再建へと舵を取りながら、大きな海流に飲み込まれ、日本という船は、大きくカーブしてゆく。 嵯峨天皇の時代、病気で天皇をやめた平城上皇が、病気が治ってから「天皇やめなきゃよかったー。くそー」と復活を狙って、カノジョの藤原薬子(藤原四子のときから、藤原氏は4つの系統に別れた。薬子は式家藤原氏)と反乱を起こした。810年、薬子の変だ。 反乱を阻止しようと、嵯峨天皇は体制を強化。平城上皇側に情報が漏れないように、嵯峨天皇直属警察、いわば嵯峨天皇CIAの蔵人所をつくった。そのCIA長官が藤原冬嗣(北家藤原氏)。 結局、嵯峨天皇側が勝つんだけれど、ここで藤原冬嗣が権力を握った。 歴史は、どこかで種が播かれる。 これが、200年後の、藤原道長を頂点とする北家藤原氏の繁栄につながってゆくのだ。 結局、桓武天皇・嵯峨天皇の律令国家再建の夢は、前へ前へと進みながら、別の海流にさらわれ、藤原氏の繁栄へと大きくカーブしてゆくのだ。 あるとき播かれた種が、未来をつくってゆく。 b. 藤原氏と天皇家の死闘! 藤原冬嗣の子・藤原良房は、さらにやり手だった。 「橘氏と伴氏の2人が乱を起こそうとしている」とある者から密告があり、2人は流罪。はっきりとはしないけど、どうも藤原良房がウラで動いている。 橘氏・伴氏というビッグ・ライバルが2人消えたのだ。「最も得したヤツを疑え」は、推理ドラマの鉄則だ。これが、842年の承和の変。 その後、藤原良房は、866年に、応天門の変で、またまたライバル貴族の伴氏・紀氏を追い落とす。 今の大企業でもありそうだ。野望の男が、数々の策謀を弄し、ライバル重役を次々と消すわけだ。 さらには、娘・明子を文徳天皇と結婚させ、生まれた清和天皇を9歳で天皇に即位させる。つまり、藤原良房は、9歳の天皇のおじいちゃんだ。「9歳の天皇じゃあ、政治ができんのう。しゃあないなぁ、わしがサポート役の摂政になるか。」と人臣最初の摂政になってしまった。 今まで皇族が摂政として天皇のサポート役になることはあったけど、天皇家以外の貴族としては初なのだ。 いやぁ、自分で孫を9歳の天皇にしておいて、その摂政におさまっちゃうとは、なかなかのやり手だ。 次の藤原基経も、887年、阿衡事件で橘氏を蹴落とし、関白になる。(摂政は、天皇が子どもや女性のときのサポート役。関白は天皇が男性の大人のときのサポート役。) 藤原氏、大躍進だ。 もっとも、天皇家側もだまっちゃいない。宇多天皇と醍醐天皇は、菅原道真を起用し、藤原氏を排除、自ら親政を行う。 しかし、その菅原道真も、藤原時平による昌泰の変で、901年に大宰府に流される。 続いて、藤原忠平がまた権力を握るが、村上天皇が奪い返す。 後の武士の時代のように、軍隊と軍隊がぶつかり合う戦いじゃないけれど、まさに、謀略渦巻く天皇家と藤原氏の死闘だ。 でも、結局、藤原実頼の時代に決着が着く。969年の安和の変で、藤原氏のライバルは誰もいなくなった。 天皇家も、もう権力を奪い返せない……。 c. 藤原道長の栄華! 華やかなりし貴族の世! 藤原道長の時代が来た。 娘・彰子が一条天皇と結婚。その子が後一条天皇・後朱雀天皇となる。つまり、藤原道長は天皇のおじいちゃん。 さらには、娘の妍子が三条天皇と結婚。 威子が後一条天皇と結婚。 嬉子が後朱雀天皇と結婚し、その子が後冷泉天皇となった。 つまり、藤原道長は、4人の天皇の義父、3人の天皇のおじいちゃんになったわけだ。まさに、日本政界のドン! だって、もし、現代で、現総理大臣・前総理大臣・前々総理大臣3人のおじいちゃんなんて人物がいたら、まさに日本政界のドンだよね。 藤原道長は、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」、つまり、「この世界はオレのもんじゃあ! 満月のようにパーフェクトじゃあ!」といういばりまくりの歌を詠むけど、決して大げさじゃない。ほんとにそうなんだから。 藤原氏が、こんなに栄えたのには、3つの理由がある。 ひとつは、ライバル貴族を次々と蹴落としたこと(他氏排斥っていう)。 次は、自分の娘を天皇と結婚させて、生まれた子どもを天皇にして、自分は天皇のおじいちゃんとして権力を握ったこと(外戚政策っていう)。 それから、もうひとつは、荘園をガッポリ持ってたから、すごい財力を持ってたことだ。 そう、思い出してほしい。 奈良時代に、墾田永年私財法で、自分で開墾した土地を私有していいことになった。 で、土地のリーダー格の農民が回りの農民を使って土地を開墾して、開発領主になる。開発領主が、その荘園を保護してもらうために、藤原氏のような大貴族に荘園の名義をあげる。つまり、藤原氏が荘園領主になるわけだ。保護してやる代わりに、年貢をガッポリもらう。 やっぱり歴史の種は播かれていたんだ。奈良時代の墾田永年私財法が、200年後、藤原氏に天下をとらせた。 もっとも、そんな藤原氏も、すぐに没落してしまうんだ。 藤原道長の子・藤原頼通も娘を天皇と結婚させるんだけど、男の子ができず、藤原頼通は天皇のおじいちゃんになれなかったのだ。その結果、後三条天皇という藤原氏と無関係な天皇が登場し、藤原氏から荘園をドッサリ取り上げ、一気に藤原氏は没落してしまった……。 d. 荒くれ者の武士がじわりと登場! 奈良時代の墾田永年私財法が、藤原氏繁栄の種を播いたように、この時期には、また200年後への種が播かれていた。 武士だ。 さっき言ったように、地方の有力農民たちが土地をもった。彼らが、自分の土地を守るために刀や弓を持って武装しはじめたのだ。 一方では、清和天皇の子孫が流れ流れて清和源氏という「地方のボス」になり、桓武天皇の子孫が流れ流れて桓武平氏という「地方のボス」になった。 地方の武装した荒くれ者たちが、この2人のボスのもとに集まりはじめる。源氏・平氏という二大武士団が形成される。 都では、藤原氏が権力への坂道を登っている935年、東国で平将門の乱が起きた。 平将門は、中央政府から派遣されている国司を次々と破り、なんと関東地方を占領してしまった。さらに、みずから新皇と称して、関東地方に独立国家をつくってしまったのだ。道鏡の次の「天皇になろうとした男」だね。 1051~62年には、東北で、前九年の役が起きた。蝦夷の豪族・安倍氏の反乱を、源頼義と子・源義家がおさえた。 1083~87年には、後三年の役が起きた。源義家が、奥州藤原氏(東北に流れ流れた藤原氏)の藤原清衡とともに、蝦夷の豪族・清原氏の内紛をおさえた。 都で藤原氏をはじめとする貴族たちが、きらびやかに恋愛絵巻などを繰り広げているころ、東国では、荒ぶる魂の持ち主たちが、着々と力をつけていたのだ。 e. 院政期、上皇の独裁政治の中で、武士のしあがる! 都では、藤原氏が一気に没落していた。 そこに登場したのが、白河上皇だ。天皇の位はさっさと子に譲ってしまい、自分は上皇(院)の位について、独裁政治を行いはじめた。院政だね。 重役(藤原氏)を一気におさえきってしまうには、なんのかんのと制約がある社長(天皇)よりも、影のドンである会長(上皇)になってしまった方がいい。 今でもありそうだ。重役会議で決まり、社長の決定も出てるのに、サングラスに白スーツのワンマン会長が現れて、「うるさい! わしの言うことが聞けんか!」と一喝。そんな感じだ。 そんなコワモテ会長の白河上皇だから、今までのお上品な天皇とは違う。ヤクザなガードマンを雇う。それが、武士団の平氏だ。 f. 貴族の世から武士の世へ、時代が破裂! そんなとき、天皇家で骨肉の争いが起きる。 鳥羽上皇が子の崇徳天皇に「譲位せよ」と迫った。 実は、崇徳天皇は、鳥羽上皇の本当の子じゃない。鳥羽上皇の祖父・白河上皇の子(な、な、なんと! つまり、鳥羽上皇から見れば、崇徳天皇は、自分のおじいちゃんと自分の奥さんが不倫してできちゃった子なのだ)なのだ。だから、崇徳天皇がかわいくない。 崇徳天皇は泣く泣く後白河天皇(こちらは、鳥羽上皇の本当の子)へと天皇の位を譲る。崇徳上皇の心には、暗いものが棲みついた……。「後白河め!」 鳥羽上皇が死ぬと、抑えつけられていた崇徳上皇の暗いものが爆発した! 1156年、後白河天皇vs崇徳上皇の保元の乱だ。これに、藤原氏や武士が加わる。 結局は、源義朝(源頼朝・源義経の父)と平清盛が味方した後白河天皇が勝つんだけれど、時代はもう泥沼である。天皇・上皇・藤原氏・武士(源氏・平家)をまじえての大乱闘。 敗れた崇徳上皇は、讃岐に流され、生きたまま怨霊になる。 「わしは日本国の大魔縁となろう! 日本のすべての悪霊よ、我に力を貸せ! 王を民となし、民を王となそう。すべてをひっくり返してやる!」 3年後の1159年に起こる平治の乱では、もう、天皇や藤原氏は脇役だ。後白河天皇について勝利した武士どうし、源義朝と平清盛の争いなのだ。 いわば、会社の中で、二大ヤクザ・ガードマンがドンパチやっているのだ。エリート貴族たちは、もう小さくなって、机の陰からそっと見てる……。そんな感じだ。 歴史には、いわゆる超大事件じゃないけれど、時代の大きな変わり目になる事件がある。それが、この平治の乱だ。 大和朝廷ができてから、何だかんだ言っても、天皇家や藤原氏というエリートたちの時代が1000年近く続いていたわけだ。 けど、ここで、歴史の主役が交代する。 エリートではなく、荒くれ者の武士という階級が歴史の主役を奪ったのだ。貴族たちは、舞台の脇から、そっと見てるだけなのだ。 本当の武士政権・鎌倉幕府ができるのは、あと50年後だ。 でも、もう、時代は破裂したのだ。 エリートたちは破裂の風で舞台の端に吹き飛び、歴史というドラマの脇役になり、一方、荒くれ者の武士たちが颯爽と新しい時代の舞台の中心に立った! g. 平清盛、初の武家政権を手に入れる! 平治の乱に勝った平氏・平清盛の時代が来た! 負けた源義朝は殺された。けど、その子・当時13歳の源頼朝が本来なら殺されるところが、清盛の母が「死んだわが子に似てるから殺さないで」と頼み、伊豆に流されるだけですんだ。当時、まだ赤ちゃんの源義経も生き延び、東北の奥州藤原氏のもとで成長した。 この2人が、やがて平氏を滅ぼすことになるのも、歴史の皮肉だね。 さぁ、平清盛は、後白河上皇に気に入られ、太政大臣になり、京都六波羅に政府を置いた。最初の武家政権だ。 娘の徳子を高倉天皇と結婚させ、生まれた子を3歳で安徳天皇として即位させもした。そう、平清盛が、天皇のおじいちゃんになったわけだ。安徳天皇は3歳だから、もちろん、平清盛の天下だ。「平家にあらずば人にあらず」とまで豪語するいばりぶり。 でも、初の武家政権だから、弱みもある。 貴族の真似をしちゃった。考えてみれば、平清盛がもらった太政大臣というのは貴族の最高の位だし、天皇のおじいちゃんになるという外戚政策も藤原氏のまねっこだ。 平氏は、都で、荒ぶる魂を忘れ、どんどん貴族のように優雅に振る舞うようになった。後の源氏が鎌倉幕府をつくったけれど、平氏は完全に自分たち武士の政府をつくれなかった。貴族になったつもりで、喜んでしまったのだ。 もうこのとき、平氏のあまりにも早い転落は決まっていたのかもしれないね……。 第6章 鎌倉時代、源氏の軍事政権成立! 鎌倉時代は、1192年の鎌倉幕府成立から1333年の鎌倉幕府滅亡までの、約240年間だ。 保元の乱あたりから歴史の舞台の中心に立った荒くれ者の武士が、完全に自分たちの政権をつくった時代だね。歴史が破裂した後、荒くれ者が破裂した大地に立った! 平安時代のいちばんおしまいに武士政権をつくった平氏の平清盛は、完全に武家政権をつくりきれずに源氏に滅ぼされちゃった。それに対して、源氏の源頼朝は、鎌倉幕府という完全な武家政権をつくったんだ。 もっとも、源氏自体は3代将軍までで終わっちゃって、北条氏が執権として鎌倉幕府のトップを務めた。 承久の乱で朝廷に勝ち、貞永式目という武士の法律もつくり、どんどん武士の政権は安定していった。 後半は、得宗専制体制で独裁しちゃったり、元寇で経済的にダメージ受けたりで、おかしくなっちゃったけど、鎌倉時代は、荒くれ者の武士が、歴史の舞台の中心に確実に立った時代なんだ! a. 源平の合戦! 平家敗北、無常の世! 平氏は今やおおいばり。その平氏のいばりぶりが気に入らないのが、歴史の脇役に追いやられた貴族たちだ。ヤクザ・ガードマンが、会社をわがもの顔でのし歩いてるのが、エリート社員としては、やってられない……。 後白河上皇も、最初は平清盛をかわいがっていたけど、あまりのいばりぶりに嫌気が差していた。後白河上皇を黒幕にして、貴族たちがひそかに、平氏打倒の陰謀を練った。けど、陰謀は発覚。黒幕の後白河上皇は幽閉された。1177年の鹿ヶ谷事件だ。 ここから、事態は急転してゆく! 上皇幽閉という異常事態に、後白河上皇の子・以仁王が、平治の乱で平氏に敗れて全国に散らばっている源氏たちに「平氏打倒」のメールを密かに出す。 1180年に、伊豆で立ち上がったのが、今や34歳、立派に成長した源頼朝だ! 富士川の戦いで、平氏と源氏が対峙。 しかし、なんと、平氏は、夜中に水鳥がいっせいに飛び立つ音を源氏の来襲と勘違いして、一目散に逃げてしまう。やっぱり平氏は、武士の荒くれハートを忘れ、貴族のチキン・ハートになってしまっていたのだ。 「さぁ、このまま京都に進撃して、平氏を撃破!」といくかと思うと……、ところが、源頼朝は根拠地の鎌倉に戻り、頼朝政府をコツコツと作りはじめる。 源頼朝は、なんともクールで賢くて計算高い男だ。すべてを計算し尽くし、コントロールし、時には氷のような冷酷さを見せる。そんな男だ。 一方、もうひとりの源氏・源義仲が、木曽で兵を挙げ、一挙に京都を目指した。倶利伽羅峠の戦いでは、夜に牛の角に松明をつけて、平氏側に放った。またまた平氏はパニクって逃亡! 源義仲はそのまま京都に進軍し、平氏は西へ落ちのびた……。 が、源頼朝は動かない……。普通なら、「先を越されたぁ」とあわてるところだけれど、頼朝は冷静沈着。これが、頼朝なのだ。 都に入った源義仲軍、強いけど、田舎もの。都で乱暴狼藉を働き、「これなら平氏の方がよかった」という状態。 後白河上皇は、同じ源氏の源頼朝に、「源義仲をなんとかしてくれ」と頼んだ。 源頼朝は、冷静に判断を下す。奥州から駆けつけていた弟の源義経に行かせた。 自分は、鎌倉幕府づくりに専念する。財政担当の公文所や裁判担当の問注所を基礎からコツコツとつくっていった。 源義経は、軍事の天才だ! 宇治川の戦いで、源義仲を破ると、次は、逆襲してきた平氏を、1184年の一ノ谷の合戦で破る。 一ノ谷は南は海、北は断崖の地。海と断崖からは源氏は来ないから、東だけを注意しおけばいい。ところが、断崖を駆け下りる鹿を見た源義経は、「鹿でも駆け下りるなら、馬も駆け下りよう!」と自分を含む精鋭部隊を組んで、断崖を駆け下りる。またまた平氏はパニクって海に逃げた……。 平氏は、我が身が大事と、船に逃げようとする味方を切り落とし、海はまっ赤に染まった……。 その後、源義経は、屋島の戦いで平氏を追いつめ、とうとう壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。 1185年。平氏の栄華はわずかに20年程度だった……。 b. 源頼朝、鎌倉幕府を樹立! 平氏を滅ぼした源義経は、ヒーローになった! が、兄の源頼朝は、冷静、冷酷だ。「私が真の武家政権をきちんとつくるには、このヒーローは邪魔だ。ヒーローは敵を破るためには必要だが、新しい秩序をつくるためには必要ない!」と判断する。 源頼朝は、後白河上皇に手を回し、源義経を謀反人に仕立てる。ヒーロー・源義経は、一夜にして逃亡者になった……。京を逃れ、奥州藤原氏のもとに隠れ、やがて自害に追い込まれる。悲劇のヒーローだ。 歴史上の人物には、たぶん2つのタイプがある。 天才的な力とヒーロー性を持ちながら、冷静な計画力には欠けるタイプ。彼は、歴史を変えるが、歴史をつくりはしない。天才的な力で歴史を変えるだけ変えて、自らは悲劇的に滅んでゆく。源義経がそうだし、織田信長・西郷隆盛などがそうだろう。後醍醐天皇もそうかもしれない。 もうひとつは、冷静沈着で、ときには冷酷でずるいが、着々と計画どおり秩序を打ち立てて歴史をつくってゆく。源頼朝がそうだし、信長に対しては徳川家康、西郷隆盛に対しては大久保利通、後醍醐天皇に対しては足利尊氏がこのタイプだろう。 たいていは、悲劇的で人間的な魅力たっぷりの源義経・織田信長・西郷隆盛タイプが歴史上の人気者だ。けれど、きっと、歴史には、時には冷酷でも、着々と秩序をつくってゆく源頼朝・徳川家康・大久保利通タイプも必要なのだ。 源頼朝は賢い。 「謀反人」義経捜査と一石二鳥で、「われわれは、謀反人・義経を捜査しておるから、この地に源氏警察を置く」「われわれは、謀反人・義経を捜査しておるから、この荘園を管理下に置く」と源氏ポリス(守護)と源氏荘園ポリス(地頭)を各国に置いた。 各国を管理下に置いたわけだから、ほぼこの1185年に源頼朝政権が樹立されたといっていいだろう。(源頼朝が、征夷大将軍になって、正式に鎌倉幕府ができるのは1192年だね。) そう、平氏は、結局、「平氏幕府」はつくれなかった。ただいばって、貴族の真似をしただけだった。 源氏は、本当の「武士の政権」をつくった。 源頼朝が、武士たちの土地をしっかりと保証してやる。武士たちも、安心して幕府に仕える。 今ここで、武士たちは、歴史の舞台に、力強く確実に、仁王立ちに立った! c. 源氏将軍はすぐ途絶え、北条氏の執権政治へ! 源頼朝は優秀だったけど、不運なことに、子どもの2代将軍・源頼家は、ボンクラ息子。もうひとりの子の3代将軍・源実朝は、和歌が大好きで『金槐和歌集』を残す文学青年で、将軍には向いていない。2人とも暗殺されてしまう……。 そこで登場するのが、源頼朝の妻・北条政子の父・北条時政だ! 2代将軍・源頼家のサポート役(執権)につき、政治の実権を握っちゃう。 北条氏は藤原氏同様、ライバル重役たちを消していった。 1200年の梶原景時の乱で梶原景時を殺し、1203年の比企能員の乱で比企能員を討ち、1205年の、畠山重忠の乱で畠山重忠を消し、2代執権・北条義時は、1213年の和田合戦で和田義盛を討った。みな、今は亡き源頼朝のよき家来たちだ。 源頼朝の子2人も暗殺され、ライバルたちも消え、北条氏の天下になった! もっとも、征夷大将軍というのは、源氏の血を継いでないとなれない。源氏の血は、清和天皇の血を継いだ高貴な血だからだ。だから、北条氏は将軍にはなれず執権の座に着く。 実は、このころ、鎌倉幕府ができたといっても、まだ朝廷(天皇・貴族)の力もじゅうぶん強い。そこで、1221年、後鳥羽上皇が幕府つぶしに出る。「執権の北条義時を討て!」という命令を武士に出したのだ! つい3、40年前までは武士は単なる朝廷ガードマンの荒くれ者。幕府ができたといっても、上皇は神なのだ。その神から、自分たちの親分を討て、という命令が出た。武士はうろたえた……。 そこに、北条政子、登場。北条政子は、野村サッチーとデビ夫人と細木和子を足して3で割らないようなタイプの女性だ。武士を集めて、「あんたら、よう考えてみいや。上皇が、あんたらに何してくれた言うねん。あんたらが今幕府の一員としてまともな暮らしができてんのは、私の夫の頼朝さまのおかげやろ、幕府のおかげやろ。その恩がわからんやつはさっさと出てき。目を覚まさんかいっ!」と大演説をぶった。武士は一致団結した! こうなったら、ろくな軍ももたない後鳥羽上皇に勝ち目はない。後鳥羽上皇は敗れ、隠岐に流された。承久の乱だ。 この承久の乱により、幕府が朝廷の上に完全に立った。いよいよ、武士の世は確実なものになってゆく! d. 貞永式目は、武士の法! 3代執権・北条泰時は名執権だった。 だいたい3代目のころが、全盛期になるみたいだ。 室町幕府も、3代将軍・足利義満のころが全盛期だし、江戸幕府も3代将軍・徳川家光のころが全盛期だ。 初代社長が、裸一貫、会社を創業、土台をつくり、2代が発展させ、3代のころ、大企業になる。 でも、4代目くらいからは、創業当時の苦労を知らず、生まれたときから社長の息子だからドラ息子。会社は傾いてゆく。鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府もだいたいそうだ。 その北条泰時が、1232年、貞永式目(関東御成敗式目)という法律をつくった。 実は、武士の時代になったのに、法律は大昔の養老律令をそのまま使っていた。養老律令は、貴族の法律だ。当然、武士の社会の実情に合わない。 貞永式目は、いわば「of the 武士, by the 武士, for the 武士」の法律なのだ! 自分たちの論理で、自分たちの裁判ができる。 この貞永式目の制定によって、ほんとに武士の社会が成立したといってもいい。 もっとも、北条泰時は、「公家は公家で、公家の法律でやってください」と、貞永式目を押しつけなかったので、公家にも評判がよかった。名執権だ。 e. 北条氏、元寇と独裁で没落! 5代執権・北条時頼のときくらいから、執権政治が崩れはじめる……。 執権をやめても、得宗といって、「影のドン」になって独裁政治をしはじめちゃって、自分のお気に入りの家来たちだけと政治をするようになってしまった。 鎌倉幕府の執権政治がおかしくなってゆく……。 悪いときには、悪いことが重なる。 この状況に拍車をかけてしまったのが、元寇だ。 1274年と1281年に、8代執権・北条時宗のとき、大帝国・元(中国)のフビライ・ハーンが、高麗(朝鮮)軍を加えて大軍で攻めてきた。ところが、2回とも台風にあって、元は退散。日本としては、超ラッキーだ。 しかし、問題は、武士への恩賞なのだ……。 武士たちは、巨額の費用を使って参戦する。勝てば、敵からぶんどった土地が、武士たちに恩賞としてもらえる。それが、武士の収入だ。ところが、今回の相手は元だ。もちろん、土地も何もぶんどっていないから、鎌倉幕府も恩賞の与えようがない。武士たちは、巨額の費用を使って参戦したのに、収入無しなのだ。武士たちは、一気にビンボーになってしまった……。武士たちは、幕府に不満を持つ。 でも、幕府は得宗専制体制になってるから、武士たちの不満をむりやりおさえこもうとする。武士は、さらに不満を持つ。 幕府内で対立も起こるようになる。 でも、得宗はいばってるだけ。 社会の秩序が乱れてるから、悪党と呼ばれるならず者も登場して、幕府に挑んでくる。 ……と、もう、すべてが悪循環なのだ。 f. 鎌倉幕府の滅亡! ここに、日本史上でもキャラの強さベスト5に入る人物が現れる! 後醍醐天皇だ。 もうすっかり武士の時代になってるのに、後醍醐天皇は、「武士なんてしょせんは家来。偉いのは天皇だ!」という強烈な思想をもっていた。 「鎌倉幕府がおかしくなっているぞ。武士なんぞの政権を打ち倒すチャンスじゃ!」と後醍醐天皇は思った。 後醍醐天皇は、幕府打倒計画をひそかに練ったけど、2回とも発覚しちゃって、2回目にはとうとう隠岐に流された。 ふつうはここであきらめるぞ……、後醍醐天皇。 けど、後醍醐天皇は、あきらめない! 時を待ち、ひそかに隠岐を脱出、挙兵する。各地で、悪党の楠木正成ら反幕府勢力も挙兵した。 対する鎌倉幕府は、足利尊氏を鎮圧に送った。 けど、足利尊氏が、寝返ってしまったのだ! 源氏の血を継いでいる足利尊氏は、腐敗してしまった鎌倉幕府に失望していたし、鎌倉幕府についていても得はないと計算もした。 足利尊氏が京都を襲い、新田義貞が鎌倉を襲い、1333年、鎌倉幕府は滅亡したのである……。 第7章 室町時代、足利政権から、戦国の世へ! 室町時代は、1336年の室町幕府成立から1573年の室町幕府滅亡までの約240年間だけど、1467~1477年の応仁の乱で室町幕府はほとんど終わっちゃってるから、実際上は約130年間で、後半は、乱世も乱世、戦国時代だ。 だから、室町時代の後半を、もう室町時代とは別個にして、戦国時代と言ってしまうこともある。 そう、日本の歴史は、いったん、応仁の乱で終わった、っていってもいいかもしれない。応仁の乱で、それまであったものすべてが崩壊した……。 そして、すべてが崩壊した荒野の中から、雑草のようなエネルギーに満ちた戦国大名がのしあがってきた。 一方、室町時代は、農業や商業が発展して、農民や商人がジワジワ力をつけてきた時代でもある。一揆が起きる。 室町時代というのは、いろいろなエネルギーが混沌として、ビッグバンのように爆発を起こして、そこから新しい宇宙が生まれた時代なんだ! a. 建武新政、だけどメチャクチャ! 後醍醐天皇の建武新政がはじまった。 が、むちゃくちゃなのだ……。 後醍醐天皇は、強烈なエネルギーとキャラの持ち主なんだけど、強烈すぎて、きちんきちんと政治をするのには、ぜんぜん向いてない。 わけのわからない命令を乱発。裁判所には元悪党を入れるから裁判もむちゃくちゃ。「武士なんぞ家来じゃ」という思想の持ち主だから、鎌倉幕府打倒にがんばった武士たちに恩賞もほとんど渡さないし、高い役職にも置かない。 武士のトップである栄光の征夷大将軍も、鎌倉幕府打倒の立役者・足利尊氏ではなく、自分の子どもの護良親王だ。 社会は大混乱……。 1336年、とうとう足利尊氏は、後醍醐天皇を見限った。やっぱり、足利尊氏には、源氏の血を継ぐ武士としてプライドが許さなかったし、冷静に後醍醐天皇についていてもムダだと計算した。 足利尊氏は、京都を攻め、後醍醐天皇は吉野に逃げた! 建武新政は、わずか3年の、時代に咲いたあだ花で終わった……。 そりゃそうだ。もうすっかり武士の世になっているのに、後醍醐天皇は、時代の時計を400年昔の天皇全盛期に戻そうとしたのだ。 もっとも、後醍醐天皇のエネルギーはやっぱ強烈だよ。まだあきらめない。 吉野に南朝を立て、「この南朝こそ、正統な天皇家じゃ! 足利尊氏が立てた北朝なんぞ、ニセの天皇家じゃ!」と抵抗を続け、後醍醐天皇が死んだ後も、1392年まで、南朝は室町幕府に抵抗し続ける。この1392年までを南北朝時代ともいうよ。 前にも書いたけど、歴史上には何人かこういうキャラがいる。 強烈なエネルギーとキャラで歴史の舞台に彗星のように現れ、けれど、きちんきちんと政治はまったく苦手で、短期間で歴史の舞台から去ってゆく。後醍醐天皇の他にも、源義経や織田信長がそうだろう。 b. 室町幕府の全盛期へ! 足利尊氏は、京都で室町幕府を立てた。 最初は、弟の足利直義と2人で政治をしていたけれど、やがて考え方に違いが出てきて、足利直義を毒殺した。 足利尊氏は、後醍醐天皇とは逆に、冷静に計算し、きちんきちんとコトを進め、時には冷酷にもなる、そういうタイプだ。鎌倉幕府も後醍醐天皇もダメだと思えばスパッと見限り、政治の方向性が違えば弟をも殺す。 でも、実は、室町幕府成立は、そんなに大きな事件でないのかもしれない。 権力者が変わっただけで、武士の世という点では、鎌倉時代と同じだからだ。そういう意味では、武士という新しい階級が歴史の主役になった保元の乱・平治の乱の方が大事件なのだ。 いや、室町時代になるころ大きく変化したこともある。 農業や商業が飛躍的に発展した点だ! 農業では、肥料がよくなって、二毛作や三毛作が可能になった。和紙の材料の楮や油の材料の荏胡麻を副業的に作るようにもなった。つまり、農民がリッチになってきたわけだ。 商業でも、中国から宋銭や明銭が入ってきて、市が栄えた。土倉というサラ金みたいなものも登場したし、為替という小切手みたいなものも現れた。 昔、武士という階級がじわじわと歴史の舞台に登場したように、農民や商人という階級が歴史の舞台に登場しはじめているのだ。 農民・商人・下級武士が一揆を起こして幕府を動かしたり、京都や堺の商人が自分たちで町を治めたりして、自治都市をつくった! やがて彼らは、歴史を動かす力になってゆく。だから、きっと、室町幕府成立よりも、農民や商人がジワジワと力を持ってきたことの方が、ほんとは大事件なんだ! この流れは、伏流水のように地下を流れつづける。後の江戸時代は、政権はあくまでも徳川氏だけれど、もう江戸時代の主役は農民や商人といってもいいくらいだからね。 さて、室町幕府は、実はビンボー幕府だった……。 南朝相手に南北朝の争乱をやっていたので、各地の幕府警察である守護に「南朝につかないでね」みたいな感じで、いっぱい恩賞とかをあげてしまったからだ。 守護たちは、もう単なる警察ではなくなって、その国全体を治める守護大名に成長していった! 11ヵ国を治めた山名氏や朝鮮や中国と独自に貿易を行ってお金もガッポリもっていた大内氏などは、将軍の力を脅かすほどの守護大名になって、かえって討たれちゃうんだけどね。 でも、1392年に南北朝の争乱も終わって、3代将軍・足利義満のとき、室町幕府の全盛期が訪れる。 マンガの「一休さん」に登場する「将軍さま」が足利義満なんだけど、実際には、あんなオチャメな将軍じゃあない。 むしろ、彼こそ野望の将軍だ! 日明貿易を行って、巨利を得た。いや、日明貿易を行ったのは、彼は天皇の座をも狙っていたから、「日本国王」という称号を明(中国)からもらうためでもあった。足利義満が死んだときの位牌の名では、自ら「上皇」を名乗っていた。 ちなみに、この時代は、日明貿易だけではなく、東アジア全体(日本・明・李氏朝鮮・琉球王国・アイヌ・東南アジア等)で貿易が盛り上がった時代だ。 その中でも、当時統一されたばかりの琉球王国は、東アジアの貿易の中心としてとっても栄えた。 日本と朝鮮と中国と東南アジアを結べる位置にある琉球は、貿易の時代にはピッタリだったわけだね。 c. 応仁の乱、日本壊滅! 保元の乱くらいから室町時代へと戦乱の世だったわけだけど、それはまだまだ甘かった。 15世紀くらいから、日本は、壊滅に向かってゆく! 保元の乱のときとは、また別の破裂だ。時代の主役が替わる、のじゃなくて、本当に日本が壊滅するのだ……。 5代将軍・足利義量が、守護大名がのし上がってきたからやけになっちゃって酒びたりで若死に。足利義量が若死にしちゃったから、次期将軍が決まっていない……。 あわてて、くじ引きをして決まった将軍が、6代将軍・足利義教。ついたあだ名が「くじ引き将軍」。それがコンプレックスになってか、とんでもない恐怖政治を行った! 足利義教がくじ引きで選ばれたことが気にくわない鎌倉公方(鎌倉府のトップで、いわば室町幕府鎌倉支社の支社長)の足利持氏が室町幕府本体と戦争。 やがて、足利義教は、恐怖政治を恐れた赤松満祐から逆に殺されてしまう! 1441年の嘉吉の乱だ。 将軍が酒びたりで若死に、くじ引き将軍の恐怖政治、室町幕府本体と鎌倉府の内部対立、殺されるくじ引き将軍……。もうめちゃくちゃやね……。 いや、それだけじゃない。 このころ、農民が力をつけてきたから、1428年、正長の土一揆で大暴れ! 1467~77年、とうとう、応仁の乱へ! 日本は壊滅へ一直線……。 8代将軍・足利義政は、文化にはすごく関心が深いんだけれど、政治にはまるで無関心な男。 その足利義政には、男の子がいなくて、「わしはもう将軍なんかやめて、芸術をしてたいのじゃ。子どももおらんし、弟の足利義視よ、将軍を譲ろう」と、この乱世の中でまったくヤル気なし……。 と、そこへ、ちょうど妻・日野富子との間に男の子・足利義尚が生まれたから、さあ大変! 弟の足利義視は将軍になる気マンマンだし、妻の日野富子は自分の子を将軍にしたい。真ん中にいる足利義政本人は、関心ナシ……。あかん……。 山名持豊(日野富子側で西軍)と細川勝元(足利義視側で東軍)との対立などもからんできて、とうとう京都で両軍合わせて30万の軍隊が大激突! 10年間、戦争は続いた……。 京都壊滅! すべてが灰になった……。 10年間の戦争で、将軍家も「ないも同然」になり、参加した守護大名もほとんど没落した。勝者なき戦争だ。 いったん日本史はここで終わった、と言ってもいいくらいの崩壊だ。 時代が破裂した……。保元の乱くらいから続いた戦乱の世が、とうとう最後の爆発を起こしてしまった。当時の感覚では、応仁の乱は、最終戦争にちがいない。 d. 雑草たちの戦国時代! すべては荒野だ! 荒野に、太陽だけがギラギラと照りつけている! 雑草が一本、二本……何本も、はえてきた。 眼をギラギラさせた男たちだ。顔は荒野の太陽に焼けて、血の色のようだ。「この乱世の中で、おのれの国を持つ!」彼らの願いは、それだけだ。 下剋上で今までの守護大名を追い払い、彼らはそれぞれおのれの国を手にしていった。戦をくりかえし、まわりの国を奪った。 戦国大名たちだ! 今までの源氏や足利氏は、武士といっても、清和天皇の血をついだエリート武士だ。守護大名も、室町幕府から任命されたエリート武士だ。 今度は、違う。血筋もなければ、誰に任命されたわけでもない。 「頼れるものは、おのれの力のみ!」 伊豆をおさえ、やがてその子や孫が関東一帯をおさえることになる北条早雲。 越後を我がものとし、後、永遠のライバル・武田信玄と、川中島の戦いを行った上杉謙信。 甲斐をおさえ、戦国時代最強軍をつくりあげた、武田信玄 謎の油売りからのし上がり、美濃を我がものとした斎藤道三。 典型的な下剋上で、中国地方をおさえた毛利元就。 この時代、いちおう、室町幕府も朝廷もあるけれど、ないも同然……。 日本にリーダーは誰もいない! ひとりひとりがおのれの国のリーダーなのだ! そして、誰もが、日本のリーダーになる可能性がある! 彼ら戦国大名たちは、自分の領土に城下町をつくり繁栄させ、分国法を制定し家臣を統制した。今までの守護大名とエネルギーが違う。自分がおのれの力でとった国なのだ。いや、強い国でなければ、隣国に侵略されてしまう。 この強豪・武田信玄をはじめとする錚々たる面々の中には、まだ当時弱小大名だった織田氏や徳川氏もいた……。 第8章 安土桃山時代、天下統一! 安土桃山時代は、1573年に室町幕府が滅亡してから、1603年に江戸幕府ができるまでの、織田信長・豊臣秀吉が天下統一を進めた約30年の時代だ。 応仁の乱というビッグバンで、いったん日本は爆破した。 その中から、まだ固まらない宇宙のように、戦国大名がうごめきだした。 やがて、徐々に新しい宇宙が固まりはじめた。それが、織田信長であり、豊臣秀吉であり、最終的には徳川家康だ。 この3人は、まるで役割を背負って生まれてきたかのようだ。 狂気の天才・織田信長が、一気に天下をとり、戦国時代を終わらせた。信長が死ぬと、苦労人で几帳面な豊臣秀吉が、社会を安定させるさまざまな政策を行った。最後に、徳川家康が、その上に、徳川250年の超安定期のレールを敷いたのだ。 ものすごいエネルギーで爆破した日本の社会が、この時代、また、ものすごいエネルギーで、新しい世界ををつくったんだね! a. 信長、天才と狂気の天下とり! 戦国大名たちの中から織田信長が抜け出した! 織田信長というのも、めちゃくちゃキャラの強い男だ。 天才と狂気は紙一重。そういう男だ。 1560年、桶狭間の戦いで、東海道の強豪・今川氏を破ったのが、織田信長のデビュー戦。戦力的にはうんと上の今川氏を、大雨降りしきる中、電撃の速さで破った! つづいて、美濃の斎藤氏を破り、「天下布武」の印章を使うようになった。「天下をとる!」という宣言だ。みな驚いた。今のぼくたちは信長が天下をとったことを知っているから、「ああ、そうか」と思っちゃうけど、まだまだ信長は新登場なのだ。周囲は、「狂気か、こいつ」と思ったにちがいない……。 各地には武田信玄をはじめとする強豪大名がひしめいている。それなのに、天下とり宣言とは、まさに狂気なのだ……。 そんなとき、今はすっかり落ちぶれちゃっている将軍家の足利義昭が織田信長を頼って来た。 「使えるな、ふふふ」と信長はほくそえんだ。 京に入るには大義名分がいるけれど、「将軍をお連れした」といえばじゅうぶんな大義名分だ。 織田信長は足利義昭を連れて、堂々、京に入った。後、1573年、足利義昭の利用価値がなくなったときには、ポイ捨てする。なんという冷酷さ……。 これが、室町幕府の滅亡だけれど、まぁ、戦国の世に入ってからは、ないも同然の状態だったわけで、なんともじみーな滅亡なのだ、室町幕府は。 織田信長は京に入った。でも、実は、京をおさえるには、まだつぶしておく必要がある相手がある。比叡山延暦寺だ。比叡山延暦寺の僧兵が大暴れした院政のころから、比叡山延暦寺の力は並の大名より強い。しかし、何より信長は、こういう古い権威を破壊する衝動をおさえきれない。 織田信長は、1571年、比叡山延暦寺を焼き討ちし、約4000人のお坊さんや一般人を虐殺した。狂気……。 翌1572年、いよいよ強豪・武田信玄が織田信長を討つべく上洛してきた! 最強武田軍は、三方ヶ原の戦いでは、破竹の勢いの織田信長を撃破。が、すぐに武田信玄は、病死してしまう。運も織田信長に味方したのかもしれない……。 1575年の長篠合戦では、再度、武田軍と戦い、今度は織田信長が圧勝した! 当時としては革命的な鉄砲隊(1543年に鉄砲が伝来していた)の戦術を使ったのだ。鉄砲隊を一列に並ばせ、いっせいに撃つ。いかに強豪・武田軍でもたまらない。やはり信長は天才なのだ! こうして織田信長は、本州中央部をおさえた。当時の感覚では、ほぼ天下をとったといっていいだろう。 病死していなかったら、武田信玄は天下をとれただろうか? たぶん、無理な気がする。 武田信玄は、伝統を重視するタイプだから、いくら名将でも、比叡山延暦寺の焼き討ちなんてできないし、将軍を利用することもできないし、鉄砲隊という革命的な戦術も思いつかなかっただろう。 しかし、死に方が、やはり織田信長だ。 ツメが甘い……。 京都の本能寺に泊まっているとき、ほとんど周囲に家来を置いていなかった。そこに、家来の明智光秀が、謀反を起こし、織田信長はあっけなく死を迎えた。 1582年、本能寺の変である。 でも、織田信長が、ここで死んでいなかったら、長期政権になっただろうか? 「織田幕府」ができただろうか? これも、無理な気がする。 彼は、狂気の天才だけれど、きちんきちんと政治することはできなかっただろう。たぶん、建武新政のようなむちゃくちゃ政治をやっちゃって、自滅していたんじゃないだろうか。 信長も、彗星のように歴史の舞台に現れ、歴史を変え、彗星のように歴史の舞台から去っていった男なのだ。 b. 秀吉、コツコツと天下統一! 本能寺の変のころ、足軽の子の出で、織田信長の草履取りからコツコツのしあがってきた豊臣秀吉は、信長の有力家来のひとりになっていた。 中国地方で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉は、本能寺の変を知ると、京に素早く戻り、明智光秀を天王山の戦いで破り、信長の後継者の座に着いた。その後も、、四国・九州・東北を次々とおさえ、1590年には、全国を統一した! 豊臣秀吉は、織田信長とはまったく逆のキャラで、コツコツとのしあがった几帳面な苦労人だ。 太閤検地なんて、いかにも豊臣秀吉らしい几帳面な業績だ。 実は、それまで田の持ち主というのは、すごく曖昧なものになっていた。 耕してる農民のものである。荘園全体を管理している地元の荘官のものである。荘園の名義上の持ち主である藤原氏のような荘園領主のものである。幕府が派遣した荘園管理人の地頭もかなり所有権をもってるし、その地方全体の持ち主である守護のものでもある。いったい誰のものやねん!?という状態になっていた。 それを、秀吉は、きっちりきっちりと単位を決めて測量して、名簿にきっちりとその田を耕している農民を持ち主として登録した。 土地制度がいっきに安定した! 信長では、こういうきっちり仕事はできない。たぶん、それぞれの人物には、歴史が彼に与えた役割があるのだ。これは、秀吉に歴史が与えた仕事なんだ。 1588年には、刀狩りをして、農民から武器を取り上げた。 それまでは、農民と武士はそんなに区別はなかった。ふだん農民をしている者が、戦が起きれば武器を取る。 刀狩りで、それがなくなったのだ。農民がのし上がる可能性はなくなったが、社会はぐっと安定した! もっとも、そんな豊臣秀吉だけれど、野望を持った。 明(中国)を征服しようというのだ! まず手始めに、1592年と97年に朝鮮出兵を行って、その途中に豊臣秀吉自身が病死してしまい、朝鮮出兵は自然に撤退ということになった……。 第9章 江戸時代、安定から新時代へ! 江戸時代は、1603年に江戸幕府が開かれ、1868年に明治維新が行われるまでの約250年間の時代だ。 江戸時代も武士の時代だ。でも、応仁の乱から戦国時代にかけて、いったん日本は破裂した。 そこから、新しい秩序が生まれたのだ! 信長・秀吉の後を承けて、徳川家は、ある意味、カンペキなシステムをつくった。武士がトップに立ち、きちんと秩序だてられた社会が完成した! 中期になると、社会はとっても安定する。たしかに、少し窮屈だ。でも、窮屈な分、安定しているのだ。経済も文化もとても栄えた! でも、歴史は皮肉なもんだね。平和だから、商売がどんどん発展して、時代は実際上、武士の時代から商人の時代へと変わる……。そして、商売の発展により、幕府に年貢米を出してくれるはずの農村が崩壊してしまう……。 江戸幕府は、誰かに滅ぼされたのではないのかもしれない。自分の繁栄によって、内側から新しい芽を生んでしまい、その芽によって滅ぼされたのだ……、たぶん。 後期は、幕府は、三大改革でなんとかしのごうとするが、社会の変化について行けない……。そこに、ペリーが来ちゃって、幕末の激動へと飲み込まれていくのだ! a. おいしいとこどりで江戸幕府、成立! 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人は、それぞれキャラが特徴的で面白い。狂気の天才・信長、苦労人で几帳面な秀吉、そして、ずるくて賢い家康だ。 徳川家康は、織田信長が強いころは織田信長につき、豊臣秀吉が力をもつと豊臣秀吉につく。気がつくと、秀吉の家来ナンバー1になっていた。 豊臣秀吉の死後、後継者争いが石田三成との間で起こり、1603年、関ヶ原の戦いで石田三成を破り、江戸幕府を立てた。この関ヶ原の戦いも、徳川家康が、小早川秀秋をうまーく寝返りさせて、勝利。うーん、家康らしい……。 よく言われる「織田がこね、羽柴(豊臣)がつきし天下餅、座りしままに食うは徳川」(織田信長が途中まで行い、豊臣秀吉が完成させた天下統一事業を、徳川家康が最後においしいとこどりしちゃった)というやつだ。 1614~15年の大坂冬の陣・夏の陣では、豊臣家が寺の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と刻んだのを、「家康を分断し、豊臣の繁栄を願うものか」と言いがかりをつけて(ほら、「国家安康」の中に「家康」って字があって、「安」って字で分断されてるよね。それから、「君臣豊楽」の中にさかさまでけど「豊臣」って字があって、それが「楽」をすると書いてある。)、まだ力を持っていた豊臣家を滅ぼしちゃった。 ずるい……。きっと史上最大の「言いがかり」だろう! b. カンペキなシステム完成! でも、徳川家というのは、この「ずるさ」が天才的なのだ。 徳川家の世がくつがえされないように、カンペキなシステムをつくってゆく。 そのおかげで、江戸時代は、秩序ある安定した時代になった。250年間、大きな戦がない。世界史的にもまれに見る平和な社会ができたのだ。もちろん、その分、窮屈ではあるけどね。 たとえば、君が農民として、戦国時代か江戸時代かに生まれてくるとしよう。 戦国時代なら、君がのし上がる可能性がある。けど、死ぬ恐れもじゅうぶんある。君の土地が戦場になってむちゃくちゃになる恐れもある。 江戸時代なら、士農工商で固定されてるんだから、のし上がる可能性はゼロ。けれど、飢饉とかさえなければ、貧しいながら平和に暮らせる。 どちらがいいのかなぁ? もちろん、これは、「バンドで大成功の可能性もあるけど、ぜんぜん売れずダメダメ人生になる恐れもじゅうぶんある人生」か「公務員になって、多少窮屈だし大金持ちになる可能性もないけれど、安定した人生」か、という選択と同じで、戦国時代と江戸時代とどちらがいい時代かは、価値観の違いなんだけどね。 初代将軍・徳川家康、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光で、このカンペキなシステムをつくってゆく! 大名のランク1である親藩は、老中(いわば、総理大臣)などの高い役職にはつけない。だから、徳川家本体を脅かすほど力をつけられないけれど、ランク1だからまあ満足。大名のランク2である譜代は、老中などの高い役職に就けるけど、しょせんランク2だからのし上がれない。でも、役職は高いから、まあ満足。ランク3の外様は、高い役職に就けないし、ランク3だけど、石高が高い藩をもらっているから、収入が多い。まあ満足。みんなが、まあまあ満足で、徳川幕府は、安泰、安泰……。 参勤交代で大名にカネを使わせる。大名は1年ごとに江戸と国元を往復する。豪華な大名行列はすごい費用がかかるし、江戸のお屋敷の維持費用も莫大。だから、大名が大金持ちになることがない。ついでに、大名の妻子はずっと江戸にいるから、大名もうかうか逆らえない。やっぱり徳川家は安泰……。 鎖国もそうだ。 1639年、3代将軍・徳川家光が、第5次鎖国令を出した。これで、日本人は、一切外国に行けないし、外国人も、オランダ人・中国人・朝鮮人・琉球人以外は、日本に来ることができなくなった 鎖国って、あんまりいいイメージないし、実際、視野が狭くなるなど悪い面もあるわけだけど、九州方面の大名が、貿易で莫大な利益を得て強大化して戦をおこしたり、ポルトガルとかスペインとかと組んだりすることが、できなくなった。このおかげで、安定した平和な社会ができた。 鎖国をしていなければ、「九州大名・ポルトガル連合軍vs幕府軍」という戦国時代以上の大戦争が起きていた恐れだってあるのだ……。 c. 元禄バブルの光と影! 4代将軍・徳川家綱のころになると、江戸幕府ができて、50年。徳川家康や徳川家光が、ある意味カンペキなシステムをつくってくれたこともあって、社会はすっかり安定した! 5代将軍・徳川綱吉のころになると、もうほんまに安泰安泰。この時期が、元禄期。 江戸幕府も、文治政治っていうソフト路線に切り替えて、ほんとうに穏やかーな時代が訪れる。○○の乱もない、△△一揆もない。 武士たちも、戦がないわけだから、学問に励む。 徳川綱吉が、お寺をいっぱいつくって、そのために、元禄金銀というお金をたくさん発行したから、世の中にお金があふれて好景気! 元禄バブルだ! 商人たちは、大もうけ! 豪商たちは、両替商といって、今の銀行のようなことを始め、大名にお金を貸したりもしたくらいだ。ビジネスの時代が訪れた! 江戸は、人口100万に達し、世界一の大都市になり、大坂は「天下の台所」として日本経済の繁栄を支えた。 そう、このころ、時代は大きな変化を果たしていた! 応仁の乱のような大戦乱はない。支配者は、相変わらず武士で、江戸幕府がそのトップを続けてるわけだけど、社会そのものは、商人の時代、ビジネスの時代になっていたのだ! もう時代の主人公は、実際上、武士から商人に変わった、といってもいいだろう。 もし、昔に生まれ変わるなら、この時代の商人の若旦那がいいなぁ。景気はいいし、平和だし、井原西鶴の浮世草子読んで、松尾芭蕉の俳諧を楽しんで、近松門左衛門の浄瑠璃を見物……ついでにお花見、酒飲んで宴会……、いいねぇ。 ……けれど、バブルの後には落とし穴が待っている! バブルが崩壊しちゃったのだ! 元禄バブルがはじけて、一挙にデフレ。物価がドーンと下がる。今と同じだね。 デフレになると、幕府や藩は、ひじょーに困る。というのは、幕府の財源は、農民が納める年貢米なわけで、デフレになると、米の値段も下がる、……つまり、同じ量の年貢米が入ったとしても、米が安いわけだから、収入がガクンと減っちゃうわけだ。 おまけに、元禄バブルのころ、すっかりビジネスの時代だから、商人が農民を雇って農村ビジネスを始めていた。で、勝ち組農民は地主になるわけだけど、負け組農民は、田を手放しちゃって、没落……。農村社会は、崩壊。年貢米を納める農民(本百姓)が没落しちゃったわけだから、幕府は年貢減収。 元禄期、時代は、ビジネスの時代になったわけだけど、歴史には光と影がある。ビジネスの繁栄の向こうには、バブル崩壊による財政破綻、そして農村社会の崩壊という落とし穴が待ちかまえていたわけだ……。 d. 崩壊に向かう江戸幕府と必死の改革! 江戸幕府体制を再建すべく登場したのが、1716年に将軍になった8代将軍・徳川吉宗だ! TVドラマ「暴れん坊将軍」で、「マツケンサンバ」の松平健演じる徳川吉宗だね。 実際、徳川吉宗は〈暴れん坊将軍〉で、ガンガン改革を行った。享保の改革だ。 新田開発をどんどん行ったし、定免法といって年貢をその年の収穫量に関係なくとるようにした。年貢収入は増えた。上米制では、各藩に「米を幕府に出しなさい」と命令、年間約100億円の収入を得た! 幕府の財政は一気に立ち直った! けど、考えてほしい。一時的に年貢は増えたけど、米社会からビジネス社会への根本的変化、農村の崩壊、という本質的な問題は何も解決できなかったのだ……。 その問題に気づいていたのが、18世紀後半に老中を務めた田沼意次だ。 もしかしたら、田沼意次のことを、「賄賂をもらいまくった悪い政治家」って思ってるかもしれない。たしかに、そういう面もある。でも、田沼意次は、「早すぎた政治家」なのかもしれない。ビジネスの時代になってることに気づいて、商人を保護して商人から税をとり、鎖国してる国の老中(今で言えば総理大臣)なのに、ロシアとの貿易なんかも計画した。こういうビジネス重視の政策を、重商主義っていう。 もっとも、頭が年貢米で凝り固まってる周囲の役人からはまったく理解されず、実際、賄賂をもらっていたこともあって、失脚してしまった……。 1787~93年には、松平定信が寛政の改革を行った。崩壊しつつある社会を、ビシッとさせようと、厳しい朱子学以外の儒教を禁止する「寛政異学の禁」を出したり、出版統制を行ってナンパな本を取り締まった。 たしかに、社会は引き締まった。 でも、ここでも考えてほしい。 いじめがあるクラスに恐い先生が乗り込んできて、ビシッと統制すれば、表面上いじめはなくなり、「クラス再建」できるだろう。でも、それは、何の根本的解決にもなっていないのだ……。 崩壊している農村を長雨などが原因で飢饉が襲った……。いや、天候が悪いことは江戸前半にだってあった。でも、そのころは農村が安定してたから持ちこたえられた。今は、もう農村が崩壊してるから、天候が悪いともう持ちこたえられないのだ。一揆も次々と起こった。 そんなピンチの時代に、11代将軍・徳川家斉は、ダラダラ政治を行っちゃった……。ただ、お金をいっぱい発行したから、世の中にお金がたくさん出回って、化政期、またまたバブルになった。でも、このバブルは、もう破滅への最後の暗い輝きだった……。 水野忠邦が、1841~43年、天保の改革を行って、「高級な菓子を食うな」とかやったけど、これはもうほとんど効果がなかった……。人返しの法で、田を手放して都市へ出てきている農民に「農村へ帰れ」と命じたけど、当然、崩壊した農村に帰れるわけもない……。もう、幕府のお偉方の頭が社会の変化にぜんぜんついて行けてないのだ! そんな中で、むしろ地方に自由な発想をできる藩主が登場してきていた。 薩摩、長州、土佐、肥前などの藩が、大胆な発想で藩政改革に成功し、力をつけてきていた! e. ペリー来航、そして尊王攘夷! 18世紀の初め頃から、産業革命を成し遂げた欧米がアジアにやって来た! 自分たちの商品を売るために、そして、自分たちの商品の原料を手に入れるために、わが植民地にしようと、進出してきたのだ。1840年には、日本にとっては大先生だったはずの中国(清)が、アヘン戦争でイギリスにボロボロにされた……。 1853年には、とうとうアメリカのペリーが、4隻の軍艦を従えて浦賀にやって来て、開国を要求した。4隻の軍艦を連れてきたのは、「開国を拒否するなら、この軍艦の大砲が火を噴くぜ」ってことだ。(人に長所・欠点があるように、どの国にも長所・欠点がある。こういう力ずくなところは、うーん、……やっぱりアメリカの欠点だろう。) 幕府も日本社会全体も驚愕した! 250年ぶりの外国だ! しかも、見たこともない黒い色の鉄の船(黒船だね)だ! ビビった幕府は、1854年、日米和親条約を結んで、下田と箱館を開港した。とうとう鎖国が破れた! 開国だ。 でも、これは、「港を使っていいですよ」というだけで、あんがい社会全体に大きな影響はない。 1858年、大老・井伊直弼が日米修好通商条約を、無勅許(孝明天皇の許可ナシに)で調印した! これは、「アメリカと日本が商売をします」ということだ。今まで鎖国してたわけだから、これは、社会にすごい影響をもたらす。いや、実際、急に外国との商売が始まった経済は大混乱! おまけに、このころ、幕府の衰えにしたがって力を持ってきていた天皇の許可を得ずにだから、社会からは「へなちょこ幕府がビビって、アメリカと条約結んだから、こんなことになったんや! おまけに、天皇を無視して!」と反発の嵐! ここから「尊王攘夷」という考え、つまり「天皇○、日本をメチャクチャにした外国×、へなちょこ幕府も×!」という想念が日本の大地から湧き起こった! f. 薩長と幕府、幕末の激闘! 幕末に向けて激闘が始まる! 井伊直弼は、吉田松陰らを処刑するなど尊王攘夷派に大弾圧を加えた! 安政の大獄だ。 一方、1860年の雪の朝、登城中の大老・井伊直弼が、安政の大獄に怒った尊王攘夷派によって暗殺された! 桜田門外の変。 桜田門外の変で権威が落ちた幕府は、最近人気の天皇の妹と14代将軍・徳川家茂を結婚させて、権威復活を図る。これを、公武合体という。 幕府vs尊王攘夷派の死闘が始まった! さて、各藩にもいろんな考えがあった。 雄藩のひとつ・薩摩は、公武合体派だ。一方、もうひとつの雄藩である長州は、バリバリの尊王攘夷派。 うーん、どっちもありだろう。 この大変なときだからこそ、朝廷と幕府を合体させて日本の背骨をしっかりさせようという公武合体派。いや、大変なときだからこそ、のんびりしてられない、とにかく日本をメチャクチャにしている外国を討て、という尊王攘夷派。 1863年、長州藩外国船砲撃事件が起きた! 長州が攘夷を決行し、外国船をズドンズドンと砲撃したのだ。 時代は、攘夷へ!……と思ったら、八月十八日の政変が起きて、薩摩藩などの公武合体派が、長州を京都から追放! 1864年には、池田屋事件が起きた。近藤勇率いる新選組(幕府の警備組織)が、京都三条河原町の池田屋で長州などの尊王攘夷派の志士20数名を殺傷した。そのリベンジにと禁門の変(蛤御門の変)で、長州が、幕府・薩摩と戦ったけど、敗戦。幕府は、第1次長州征討(幕長戦争)を行い、とうとう長州は屈服……。 長州を中心とする尊王攘夷派は、大きい事件だけ数えても4連敗。壊滅の危機!……と思ったら、実は、このころ公武合体派だった薩摩は考えが変わってきていた。「西洋に学び、新しい日本をつくる必要がある。そのためには、古い幕府は邪魔だ。倒幕だ!」と。いや、長州も、長州藩外国船砲撃事件のリベンジでアメリカ・イギリス・フランス・オランダに四国連合艦隊下関砲撃事件で完敗し、「西洋は強い。攘夷ではダメだ。むしろ、西洋に学び、新しい日本をつくる必要がある。そのためには、古い幕府は邪魔だ。倒幕だ!」と考えるようになっていた。薩摩と長州が、同じ考えに達していたのだ! ただ、長州と薩摩は、以前は敵どうし。なかなか、手を結べない。そこに、土佐の坂本龍馬が登場し、長州と薩摩の仲をとりもった。「みんなで新しい日本をつくろう!」と。ここに、薩長同盟が成立した! 薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允(桂小五郎)、土佐の坂本龍馬が、新しい日本、つまり天皇を中心とした雄藩の連合体をつくるべく立ち上がったのだ! まだ激闘は続く。 坂本龍馬は、徳川家も政府に残す穏便な方法を考えていた。西郷隆盛は、徹底的に幕府を倒すことを考えていた。 坂本龍馬の勧めで、1867年、15代将軍・徳川慶喜は、大政奉還を天皇に上表! 滅ぼされるよりも、政権を朝廷に返してしまって新政府の一員として生き残ろうというわけだ。けど、幕府を徹底的に倒したい薩摩・長州は、速攻、王政復古の大号令を天皇に出させた! これは、天皇を中心とする徳川家ヌキの雄藩の連合体をつくるぞ、ということだ。 ここに、江戸幕府は存在を失った……。さすがの江戸幕府も、社会の変化・欧米のアジア進出・雄藩の台頭という巨大な波に流されていったのだ……。 明治維新! この後、江戸幕府の生き残りが、明治新政府に抵抗するが、1年戦って力尽きた……。これは、戊辰戦争。 第11章 明治時代、! a. 苦労苦労の明治維新! さぁ、明治維新! と意気込みたいところだけど、実は、ぼくは、明治維新のころの大久保利通(薩摩出身)や西郷隆盛(薩摩出身)や木戸孝允(長州出身)の気持ちって、すごく心細かったんじゃないかなと思う。 ぼくたちは、後の、発展した日本を知ってるから、明治維新を「揚々たる船出」のように思うけど、維新政府の人たちは、「あちゃー、ペリーが来て、開国、尊王攘夷対公武合体、倒幕と一気に来ちゃって、明治維新しちゃっけど、……ところで、どーすんの?」って感じだったんじゃないかと思う。 実際、日本が、しっかりしてくるのは、明治もなかば、明治20年代くらいまでだ。それまでは、もう、試行錯誤。 アジアのはしっこの小さな島国が、欧米以外で、初めて「近代化」を始めるわけだ。 そう、実は、江戸時代の日本は、政治もある意味完璧なシステムだったし、江戸は世界一の都市であり、大坂は世界有数の経済都市だった。文化もとても爛熟している。しかし、決定的にないものは、工業であり科学だ。すばらしい浮世絵はあっても、大砲や機関車を造る工業・科学がない。もうひとつなかったものは、民主主義。250年大きな戦がなかった江戸時代の統治システムってのは、ある意味すごいわけだけど、日本人は、「みな平等」という思想に大ショックを受けた。 維新政府の人たちは、猛ダッシュを始めた。 民主的な近代国家をつくること。工業をおこすこと。 木戸孝允が完成させた「五箇条の御誓文」でこのことをうたった。民主主義の社会にすること。工業をおこすこと。 いろいろやった。 廃藩置県。 江戸時代は、中心には幕府があり、大元の決定は幕府だし、基本的には藩は幕府に逆らえない。けど、実際には幕府が決めた枠内で、その藩の政治は大名が行うし、農民も年貢を大名に納めるわけだから、藩ごとの独立採算制だ。 でも、欧米のような近代国家にするためには、きちんと中央政府があり、中央政府の意志で統一的に日本全体を動かしていかなければならない。今は、めぐりめぐって「地方の時代」だけど、近代国家ってのは、藩ごとにバラバラじゃなくて、国全体を政府が動かす中央集権国家じゃなくちゃいけない。 だから、今までの藩を一気になくして、県を置いて、中央政府から知事を派遣した。 富岡製糸場のような官営模範工場もつくった。 まだ、明治維新したばかりだから、国民が自分たちで工場をつくるのは無理だ。だから、政府が欧米から教えてもらって、お手本になるような工場をつくる。 ところが、最初は近代国家を目指して一丸だった政府の人たちも、だんだん意見の違いが出てくる。 大久保利通が、秩禄処分を行った。 それまで、もと武士は、特に働いていないのに、給料みたいなものをもらっていた。でも、これが結構多額で、スタートしたばかりで貧乏な明治新政府としては、かなりキビシイ。そこで、大久保利通は、武士にドンとお金を渡して、「これからは給料なしね」ということにした。要するに、退職金渡して、リストラということだ。 その前には、廃刀令で、武士から刀を取り上げていた。刀は武士の心だ、プライドだ。 つまり、武士から金もプライドも取り上げた。 武士は当然怒る。当時の政府は、倒幕をやった薩長中心だから、薩長以外の武士は、特に怒る。 いや、政府の中でも、西郷隆盛は人情家なので、大久保利通のやり方が許せない。 西郷隆盛と大久保利通は、薩摩のビッグ2として倒幕をやり遂げた二人だ。この二人は、家も近くてもともと大の仲良し。 でも、ここでクールな大久保利通と人情家の西郷隆盛の違いが出た。西郷隆盛は、「こんな冷たい政府はやめるたい」と政府を辞めて、薩摩に帰った。 西郷隆盛の元に、大久保利通の冷たいやり方が気に入らない人々が集まってきた。西郷隆盛は、薩摩で挙兵して、政府と戦争になった。 しかし、近代的な武器と軍隊を持つ新政府にはかなわず、西郷隆盛は死んだ。 西南戦争。 ちなみに、映画『ラスト・サムライ』は、西南戦争がモデルだ。渡辺謙が、西郷隆盛。トム・クルーズは、……架空の人物だ。 君が、もし経営が苦しい会社の社長さんだとしたら、大久保利通だろうか、西郷隆盛だろうか。 会社存続のため、涙をのんで、リストラ断行か。倒産するかもしれないが、これまで働いてくれた社員をリストラなんてできないか……。 明治新政府は、この後、大久保政府になっていく。もっとも、翌年、大久保利通は名もなき不平士族に襲われて死んだ。西郷隆盛が死んだ年に、木戸孝允も病気で死んでおり、1877年~8年の2年間で、維新の三傑といわれた西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允が全員死んだ。 明治の中の青春時代が終わった。 この後、明治政府は、伊藤博文・山県有朋・黒田清隆といった、倒幕の頃、若手だった人が、中心になっていく。明治第2ゼネレーションだ。 伊藤博文と山県有朋は長州出身、黒田清隆は長州出身。 彼らの考え方は、大久保路線だ。 まずは、薩長が日本を引っ張っていく。とりあえず、それ以外の意見は無視。 これに対して、「なんで、薩長のエライサンだけで政治するんだー」という声が起きる。これが、自由民権運動。土佐出身の板垣退助と肥前出身の大隈重信が中心だ。「薩長だけで決めずに、みんなの意見も聞けよー。みんなの意見を言う場=国会を作れー」と主張した。政府側の黒田清隆が、開拓使官有物払下げ事件というのを起こしてしまって、国民も自由民権運動も激怒。政府は、国会(議会)をつくる約束をじぶしぷして、自由民権運動側の板垣退助は大喜びで「自由党」を、大隈重信は「立憲改進党」をつくった。 これも難しい問題だ。 ほら、文化祭なんかでよくもめるぞ。 文化祭まで、あと2週間。クラス全員の意見を聞いていては間に合わないから、リーダー格の数人が、どんどん決めて進めてゆく。そうしないと、間に合わない。でも、その数人以外の生徒にすれば、「お前たちだけで決めずに、おれたちの意見も聞いてくれよ」と不満。 君が、リーダー格なら、どうするだろう。間に合わせるために、自分たちだけで決めて進めていくか、間に合わないのを覚悟でみんなの意見を聞くか。 君が、リーダー格でないなら、どうするだろう。間に合わせるために、リーダー格の人に任せるか、自分の意見も聞いてほしいか。 もっとも、自由民権運動は、その頃起きた松方デフレという大不況で、農民が怒りまくり、それと一緒に過激な事件をいっぱい起こしたので、だんだん下火になってしまった。 さて、伊藤博文らの政府組。もちろん、彼らだって、日本を近代化しようと必死。ただ、薩長リーダーが引っ張ってくか、国民の意見を幅広く聞くかが、自由民権運動どの大きな違い。 伊藤博文は、自ら初代総理大臣になり、内閣をつくった。大日本帝国憲法もつくった。国会(議会)もつくった。選挙も実施した。 このころ、日本は、近代国家として整ってきた。総理もいて、内閣もあり、憲法もあり、国会もある。とりあえず、欧米に対して、「近代国家です」と言える体制ができた。 さて、初の選挙をやったら、自由党・立憲改進党という自由民権運動側の党(民党っていう)が大勝しちゃった。 で、最初におきた問題が、予算の問題。そのころ、ロシアが朝鮮・日本をじわじわと狙っていた。このころのロシアと日本と言えば、ロシアは世界の大国。日本は、がんばっちゃいるけど、まだまだ近代化したばかりの小さな島国。 政府は、ロシアから日本を守るための軍事予算拡大を主張した。民党は、松方デフレで農民が苦しんでるから、そちらに予算を回そう、と主張した。もめたんだけど、一度総理の座を降りていた伊藤博文が再度総理になって、強行突破。 さぁ、ロシアが日本を狙っている! 日清戦争だ。……「ロシアと対立するのに、なぜ清(中国)と戦争?」って感じだ。 その頃、朝鮮は清の属国に近い状態だった。清はイギリスやフランスにボロ負けしたりしてヨレヨレ状態。当然、子分の朝鮮も弱い。だから、ロシアが簡単に朝鮮をとれてしまう。朝鮮をとったら、ロシアの次の標的は日本だ。だから、日本は、清に「朝鮮をしっかりさせてください。そーじゃないと、日本にロシアが攻めてくるのよ」と頼んだけど、NG。そうなれば、朝鮮を日本の影響下に置いて、朝鮮を強くするしかない。そのために、清と戦争するわけだ。 実は、欧米の国々は、清の大勝を予想していた。なんぼ清が弱っているとはいえ、大国だ。日本は、なんぼ元気とはいえ、小国だ。いわば、病気の象と元気な子犬のたたかい。そりゃ、病気とはいえ、象が勝つだろう。そう思った。 ところが、日本が勝利してしまった。下関条約で日本は遼東半島と台湾、そして、2億テールの賠償金をもらった。そして、朝鮮を日本の影響下に置くことができた。 そこに、ロシアがフランス、ドイツを誘って、「遼東半島を清に返せ」とイチャモンをつけてきた。遼東半島は、朝鮮半島の付け根にあり、いわばロシア、清、朝鮮、日本の真ん中の地。戦略上、すごく重要な地なのだ。 でも、これは、日本と清の正当な条約で決まったことで、ロシアは関係ない。しかし、清と戦った後で、さらに、大国ロシアと戦う余力もないし、勝つ見込みもない。日本政府は、泣く泣くロシアに従い、遼東半島を清に返した。これにゃあ、日本国民も怒ったよ。 最初に、日本の歴史は、ざくっと大きく分けちゃおう。 だれが、主人公か、だ。 呪術者→天皇→貴族→武士1→武士2→商人と主人公が変わってゆく。 ①弥生時代は、卑弥呼のような呪術者の時代。 ②大和時代・飛鳥時代・奈良時代は、呪術者から全国的支配者へと成長した天皇家の時代。 ③平安時代は、天皇の臣下である貴族が天皇を敬いながらもうまーく政権をとっちゃった時代。 ④鎌倉時代~室町時代前半は、貴族のガードマンだった荒くれ者・武士が乱世を勝ち抜き天下を取った時代。 ⑤室町時代後半~安土桃山時代は、武士は武士でも、さらに荒くれ者武士である戦国大名たちの大激動期。 ⑥江戸時代は、武士の時代だけれど、社会が安定して、実際上は、商人の時代。 こんな感じだ。 じゃあ、はじめよう!