約 60,185 件
https://w.atwiki.jp/fvb_sakura/pages/613.html
FVBより、国内外へむけての布告となります。 現在、我が国では嚮導駆逐艦、こんごう級宇宙巡洋戦艦と大規模な新型艦開発計画を推進しています。 しかし、FVB全ての軍備は、人々の安寧を脅かす敵性組織や理性を持たない破壊者から自国を、そして帝國を守るためのものにすぎません。 現在進行中の軍備増強計画もその例外ではなく、他国へ侵攻する為の力ではなく、あくまで人々を守るためのものでしかありません。 現在、宇宙の彼方から未知の勢力が迫りつつあり、帝國へメッセージが送られたとの情報が提示されています。 これに対し、我々FVBは不幸なすれ違いから決裂し、戦いに終始してきた過去を忘れてはいません。正義も意味もない、不毛な戦いを招かぬよう、衝動的に戦端を開くことなく、慎重に交渉に臨むこと、まず対話による交渉路線を支持します。 もし、不幸にも相手が戦いを求めるのであれば、相手が和平を拒絶し戦い以外に選択肢がないのであれば、そのときこそFVB宇宙艦隊は帝國の剣として、盾として、正義を守るために戦うことを誓います。 しかし、相手が平和を望み、対等の立場で話し合いたいと望んでいるのであれば、これを率先して攻撃すると言うことは帝國の正義に反するものです。 敵の強さは関係ありません。我々は、そこに正義があるときのみ戦うのです。 国民の皆様には、どうかご理解のほどをお願い致します。 承認:藩王・さくらつかさ 監修:曲直瀬りま(摂政)、オカミチ 起草・文責:アキラ・フィーリ・シグレ艦氏族
https://w.atwiki.jp/shinkokuseki/pages/23.html
初めて知る方も多いと思いますので、編集お願いします。 請願書の出し方、書式等は「国籍法改正請願Wiki(外部サイト)」が一番分かり易いかと思います。 請願書や陳情書を送る際には配達記録が有効です。郵便料金+210円で配達したことを記録します。 問い合わせ番号を受け取りますのでフリーダイヤルやインターネットで配達状況を確認できます。 請願とは大辞泉によると以下のように定義されています。 国民が国または地方公共団体の機関に対して、損害の救済、公務員の罷免、法律・命令・規則の制定・廃止・改正その他の事項に関し、文書で希望を申し出ること。 日本国憲法で権利(請願権)として認められているもので、請願法・国会法・地方自治法に手続規定がある。 請願法に基づく請願書 国会法に基づく請願書 地方自治法に基づく請願書
https://w.atwiki.jp/kokusekikai/pages/21.html
初めて知る方も多いと思いますので、編集お願いします。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/440.html
幸徳事件(こうとくじけん)とは、1910年11月、旧刑法73条(大逆罪、1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)により幸徳秋水ら25名が大審院に付され翌年1月に24名に死刑判決(12名は翌日無期に減刑)が出され12名が処刑された事件。 刑法73条が適用された初めての事件であり、被告とされた人数が多いことから、一般的には固有名を付けず「大逆事件」といわれる。「幸徳事件」の名称は他の「大逆罪適用事件」と区別する場合に用いられ、被告たちの中心人物とされた幸徳秋水の姓による。他に「幸徳秋水事件」の呼称もある。 被告の内、宮下太吉外3人は爆裂弾により明治天皇への攻撃を考えていたが実行計画は中途半端なままで実現に至るには曖昧なものであった。 それは大審院判決理由において「爆裂弾を用い馬車で通行する天皇に投げつける」秋季逆謀と認定されたが、大審院が有罪とした幸徳中心の全体計画なるものは信憑性が問われている。元老山縣有朋、首相桂太郎の藩軍閥政府による無政府主義者、社会主義者圧殺の政策のもと弾圧が拡大し、無政府主義者、社会主義者だけではなく被告とされた家族、友人たちにも捜索押収、取調べが行われた。またその過程で不敬罪弾圧、出版物への取締が強化された。 この事件は社会主義者だけではなく文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は無政府主義と被告たちへのシンパシーをもちピョートル・クロポトキンの著作、大審院公判記録を研究、作品にも結実させた。徳富蘆花は「謀反論」と題した講演を第一高等学校で行い死刑廃止論の立場を鮮明にした。大逆事件後を「社会主義運動の冬の時代」と言うケースが多いが、しかし赤旗事件から大逆事件に至る時期、大審院公判中まで徹底した無政府主義、社会主義運動への弾圧が続き実際の「冬の時代」であった。1911年、同志が処刑された後、残された堺利彦は月に一回の「茶話会」から再起を始めた。大杉栄、荒畑寒村はいちはやく運動の再構築を図り、1912年『近代思想』を刊行した。 非戦論と直接行動派 20世紀始め、日露戦争前の1903年、堺利彦、幸徳秋水らを中心に平民社に拠った人たちは非戦論と社会主義を掲げ、運動を国内各地に広げはじめた。明治政府は、社会主義運動の更なる拡大を恐れ、帝国主義諸国に伍して東アジアへの進出に向け国内体制を防衛しようとし、社会主義運動に対し機関紙発行、演説会、結社への取り締まりを強化した。1906年よりクロポトキンのアナキズム思想の影響を受けた幸徳を中心にし直接行動派が台頭し始め、アジアからの留学生たちにも影響を与え始めた。議会政策中心の社会主義者たちと分岐が鮮明になったが、政府も対策をすすめ1908年、金曜会屋上演説事件、赤旗事件により大杉栄、堺利彦らの主要な活動家を検挙した。幸徳は病気療養で中村に戻っていて難を避けられた。 アナキズムの影響を受けた活動家や社会主義者は秘密出版で対抗し、ゼネスト論や人民への抑圧政治の根源には天皇の存在があるという主張を基にした『入獄紀念無政府共産』を刊行、政府に抗した。幸徳ですらクロポトキンの主要理論書『パンの略取』を翻訳しながら、「平民社訳」とし政府への出版届出の前に頒布するという実質秘密出版をせざるを得なかった。1909年、幸徳は千駄ヶ谷の地に移った平民社を拠点に赤旗事件では無罪を勝ち取った管野須賀子(管野スガ)と『自由思想』を創刊し公然運動を盛上げようとした。 しかし出版法違反で続けての刊行ができず、管野も一時拘引され、裁判では罰金刑が確定し活動が行き詰まった。菅野や長野県出身の活動家で一時平民社に住込んでいた新村忠雄は合法活動が圧殺された状況を打破しようと模索し、政府に対する闘争心が強い古河力作や爆裂弾を使い天皇を倒したいという社会主義者で機械技工労働者の宮下と連絡を取り始めていた。 宮下は爆裂弾を一度完成させ試爆させていた。幸徳自身は1910年になり、最後の拠点「平民社」を解散し、活動と生活立直しのため湯河原で執筆に専念することを決意、管野は罰金を払わず収監、100日間の労役場留置の策を選択せざるを得ず5月18日に東京監獄に入る。 弾圧開始 そのような状況下、長野の明科製材所で働いていた宮下の元へ新村が度々訪れた件、またブリキ缶と薬品を分散して所持していたことが察知され、5月25日爆裂弾の材料にあたるとして爆発物取締罰則違反で逮捕された。同日、長野の屋代に戻っていた新村忠雄と薬調合のための薬研を調達しただけの兄新村善兵衛も逮捕される。続けて平民社に出入りし、宮下が明科で保管していた薬品包みの連絡先として記されていた東京の古河も5月28日に連行され29日、松本署において爆発物取締罰則違反で逮捕。宮下は29日に至り明治天皇が馬車で通行時に爆裂弾を投げつけると謀議していたことを供述、検事聴取に新村、管野、古河の名を出す。これを契機に刑法73条の該当事件として検事総長に書類送致される。ブリキ缶を依頼され作り自室に薬研を預かっていた宮下の職場の同僚、新田融も帰郷先の秋田から連行され、松本で6月4日逮捕された。31日にはその5人に加え、湯河原滞在の幸徳秋水と東京監獄在監中の管野に対し大審院に予審請求されることが決定した。幸徳は6月1日湯河原を離れようとした時、管野は6月2日に監獄内において逮捕される。 拡大 当初はこの7人の「陰謀」事件として報道されていることからも官憲の一部には7人だけで「事件」を収束させる判断もあったようだが、大審院直轄になった検事たちが、平民社に出入りしていた社会主義者や供述で名を出された社会主義者を各地の当該警察署に拘引、直接の取調べ、捜索押収の過程で刑法73条該当事案として最終的には19人を加えた幸徳以下26人を逮捕した。 更なる拡大 官憲側の史料である『社会主義者沿革第三』によると 「予審中、被告の外、1908年11月前後、<無政府共産主義者>にて大石、内山と会合し幸徳を平民社に訪問、寄宿しその説を聴き<本件陰謀熟知>せりと認められる者は東京、横浜、群馬、愛知、京都、大阪、神戸、岩手等の各地に散在」 と記述されている。 残された公判記録にはその「各地」の社会主義者の証人「調書」が数十人分残されている。この場合「無政府共産主義」という官憲の認識は1906年以来の直接行動派としての幸徳に同調していた者が含まれている。 家宅捜索や取調べで、幸徳たちに関連づけられなくても、実刑弾圧を受けた社会主義者は多かった。前出の官憲史料に記録されているだけでも9月から12月にかけ「不敬罪」での判決が10件あり、1名が懲役4年、9名が懲役5年の投獄攻撃を受けている。 かつて幸徳、新村と「気脈を通じた」とされた諏訪郡境村を中心とした農村運動のグループも治安警察法違反で14人が検事局に送検、1名が禁錮8ヶ月、10名が禁錮6ヶ月(内執行猶予5名)の判決を受けた。 大審院予審 大審院検事局の公訴事実を、平出弁護人が『特別法廷覚書』で骨子を記録している。その立会い検事平沼騏一郎(後の大審院院長・内閣総理大臣)の論告(1910年12月25日)は1908年11月、巣鴨平民社での、それぞれ別の日での大石誠之助、松尾卯一太と幸徳との話し合いを陰謀とし「本件の発端なり」と位置づけ、 第一 東京・信州方面(幸徳直轄)、 第二 大石(誠之助)の紀州陰謀、 第三 松尾(卯一太)の九州、 第四 内山(愚童)の遊説(大阪・神戸) と広域化、各地の社会主義者へ「大逆罪」弾圧を拡大した内容である。 この構成には三つの「大逆罪」が含まれている。 天皇への爆裂弾投擲 暴動を起こし二重橋(宮城)へ逼る 皇太子に危害を加える 大審院による幸徳秋水(伝次郎)の「大逆」の意図を『判決理由』から抜粋すると以下の物語となり「11月謀議」となる。 「11月19日東京府北豊多摩郡巣鴨町伝次郎(幸徳)宅に於て、伝次郎が誠之助及び森近運平に対し赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて、富豪を劫掠(こうりゃく・財を奪い)し貧民に賑恤(しんじゅつ・賑し)諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、且つ進んで宮城に迫りて、大逆罪を犯す意あることを説き、予め決死の士を募らんことを託し、運平(森近)、誠之助(大石)は 之に同意したり……」 「11月卯一太(松尾)もまた上京して伝次郎を訪問し、伝次郎より赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを聴き、これに同意して決死の士を養成すべきことを約し……」 1884年の太政官布告による爆発物取締罰則も治安維持を目的とし前文は実行行為のみではなく、思想や考えを含めて裁くことを本質としている。大逆罪もまた同様である。11月謀議は、幸徳がパリ・コミューンや1905年のロシア革命での労働者の決起を雑談で同志に話したことが、予審で問題とされ、さらに大石、松尾が新宮、熊本に戻り同志に東京での「幸徳の革命をめぐる雑談」として伝えたことが有罪判決への糸口となった。そして内山愚童に関しては、内山の発言より皇太子「暗殺」の意図あり、とされている。全ての環に幸徳を存在させ内山を補強人物とし、大石、松尾を軸とし大阪、神戸、和歌山、熊本の人脈へと繋げた。熊本で刊行されていた『熊本評論』は1908年の「赤旗事件」の頃は幸徳の影響を受け実質的な直接行動派の機関紙になりつつあった。松尾は無政府共産主義に傾いていた。神奈川、名古屋の同志も一時はつなげられようとした。判決理由でことさら<赤旗事件の連累者を待ち>と記しているのも、堺、大杉たちを牽制する目的があると思われる。和歌山の大石は7月6日、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誠一は7月7日、成石勘三郎は7月8日、成石平四郎は7月14日に起訴決定。熊本関連は新美卯一郎、飛松与次郎、佐々木道元を松尾と同じく8月3日に起訴決定。 松尾、飛松は前年から新聞紙条例違反の禁錮刑で熊本監獄に在監していた。架空の「11月謀議」時に巣鴨平民社に同居していた森近運平は岡山に戻っていたが6月15日に起訴決定。巣鴨時代の平民社に住込み、その後幸徳から離れた坂本清馬は8月9日起訴決定されている(7月26日、東京にて印刷所で労働中、浮浪罪で拘引、数日後に拘束)。 さらに1910年8月21日、大阪にて内山愚童の皇太子暗殺計画(「オヤジをやめて、セガレをやれば胆をつぶして死ぬだろう」という発言)から2つめの「大逆罪」を認定、内山の歴訪した大阪から武田九平、岡本顕一郎、三浦安太郎は8月28日に起訴決定。神戸から神戸平民倶楽部の岡林寅松、小松丑治を9月28日に起訴決定、内山愚童を10月18日に起訴決定した(内山は出版法、爆発物取締罰則違反で東京監獄にて服役中であった)。判決では 「愚童、寅松、丑冶の行為は各同条の規定中皇太子に対し危害を加えんとしたる者は死刑に処すとあるに該当し、被告平四郎。安太郎の行為は各同条規定中天皇に対し危害を加えんとしたる罪と、皇太子に対し危害を加えんとしたる罪の刑に処すべく……」 とされている。 6月28日に拘引された奥宮健之は自由民権運動の世代でかつての自由党壮士。無政府主義、社会主義と無縁の立場であった。幸徳とは同郷の縁で交流があり、1909年10月、昔の仲間から爆裂弾の製法情報を入手し幸徳にそれを伝えたという件で巻き込まれた(予審判事意見書では「伝次郎一派を緩和せしめんため…懐柔策を協議」とあり政治ブローカーとの間にたち金銭利益を得ようとした気配もあるが成功していない。このような動きと立場の違いが一部では政府のスパイ説を生み出した)。 11月1日、検事総長は全員有罪の意見書を大審院に提出し、9日、予審終結、公判開始決定となった。11月10日、被告たちの接見、通信禁止は解除された。幸徳は20日か21日に『基督抹殺論』を脱稿している。 予審訊問調書 「本体」といわれる東京(平民社の一部)での天皇への攻撃相談と、信州・明科の宮下の爆裂弾関連を予審訊問から整理すると次のようになる。 宮下太吉が爆裂弾を一度完成させ試爆をしたこと。本人の供述による。 宮下、管野、新村、古河が天皇に爆裂弾を投げつけるという謀議。 (相互の供述)通過の際の投擲順番を籤引きで決めた。そのための爆裂弾は完成されていない。 いつ何処で決行するかは未決定。 ただし後に古河は「参加する振りをしていたが抜ける時期を模索していた。」と語る。 (大審院審理終結後の獄中での執筆文書)。管野は収監され、曖昧な「計画」になっていた。 幸徳を管野たちは相談・計画に引込もうとしなかった。 幸徳は、相談・計画の中味は詳細には聞いてはいないが、爆裂弾使用の計画が一時期あったのは認識していた。 幸徳は爆裂弾の製法<薬品の配合>を奥宮に問合せていた。 幸徳は管野を「計画」から引き離そうとしていた。平民社を解散させた。相談の有無に関しては記憶が無いと供述。 大審院公判 弁護人は予審時選任できず、公判に付されることが決定してからようやく選任が可能となった。平出修弁護士を始め奮闘したが短期での活動では限界があった。第一回公判開廷後、一般傍聴人を入廷させておきながら傍聴禁止とし排除したが政府関係者は多数傍聴し、選任されてはいない弁護士も傍聴できた。判決公判だけ一般傍聴をさせたが官憲が入廷者を検問し社会主義者はほとんど排除された。 12月10日 特別裁判開廷、検事総長冒頭陳述、それに基づく被告訊問と陳述が続く。宮下、新村忠雄の意見陳述。 12日 管野・古河・新村善兵衛・幸徳の意見陳述。 13日 幸徳・森近・奥宮・大石・高木・峯尾・崎久保・成石兄弟の意見陳述。 14日 松尾・新見・飛松・佐々木・坂本の意見陳述。 15日 内山・武田の意見陳述。 16日 岡本・三浦・岡林・小松の意見陳述と連日の集中審理であった。 幸徳は公判の合間、休廷日の17・18日に弁護士宛ての文書を執筆、無題であるが後に「陳弁書」と言われている。再び公判が続く。 19日 幸徳らの意見陳述。 20日 幸徳らの意見陳述。 22日 幸徳らの意見陳述、補充審問を終え 23日 弁護人の証拠調べ、 24日 弁護人の証拠書類閲覧、鶴丈一郎裁判長は弁護側の証人申請を却下した。 25日 検事論告、大逆罪として全員死刑求刑。 27–29日 弁論。 28日に幸徳の母は中村にて病死するという悲報も入る(一部で自殺と誤報される)。 判決と処刑 1911年1月15日、大審院の七判事、判決文に署名。 18日 24名に有罪判決、新村善兵衛、新田は爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた。大審院の審理は形式的で、政府の意を受け刑法73条適用、取調、予審訊問をコントロールした検事総長の「有罪意見書」「論告」を追認するだけであった。 19日 遅い時間に12名の特赦決定。 19日 日本国内発行の英字紙『ジャパン・クロニクル』『ジャパン・アドバタイザー』は非公開裁判を批判。減刑者の移送が始まる。 1月20日 新村・新田、千葉監獄に移送、 21日 峯尾、千葉監獄に移送、21日、12人への減刑が新聞報道される。 22日 高木・崎久保・飛松・坂本、秋田刑務所に移送、 22日 森近、獄中手記として「自叙伝」を書き始める。(24日の死刑執行寸前まで)「実際の処、私は多分無罪の判決を得る事と思うて居た」、 22日 徳富蘆花、兄蘇峰へ「減刑されなかった12名の死刑阻止に向け、桂首相に伝わるよう」手紙を送る。 23日 成石、岡本、岡林、小松、武田、三浦、長崎監獄に移送。 24日 東京監獄にて11名絞首、幸徳秋水 午前8時6分、新美卯一郎 午前8時55分、奥宮健之 午前9時42分、成石平四郎 午前10時34分、内山愚童 午前11時23分、宮下太吉 12時16分、森近運平 午後1時45分、大石誠之助 午後2時23分、新村忠雄 午後2時50分、松尾卯一太 午後3時28分、古河力作 午後3時58分、処刑。宮下太吉は執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。 25日 管野須賀子絞首。 アメリカ、ヨーロッパにおいても処刑反対の抗議行動が広がり、政府は死刑執行を急ぎ、判決後一週間内で12名を処刑した。 国内でも審理終結前後から徹底した報道・情報規制を行い地方紙を主として幸徳や無政府主義に触れた記事掲載で15件余りが発売・頒布禁止、差押処分を受け新聞紙条例・新聞紙法違反で禁錮、罰金判決が出された。 弁護人ですら公判記録を判決後所持することは認められず大審院は返還要求をした。また刑死者の獄中記や遺書を法務、監獄当局は隠匿し続けた。ようやく1945年の敗戦後に一部の手記が廃棄される寸前に持ち出された。 刑死者の遺体引取りと埋葬 1月25日 幸徳の遺体は堺が引取、落合火葬場へ運ぶ。古河の遺体は実父が引取、大石は実姉が火葬、森近の遺体は堺が引取27日に火葬場へ運ぶ、内山の遺体は義弟が引取る。 25日 徳富蘆花、天皇に対し「12名の助命嘆願」の手紙を書き、東京朝日新聞主筆、池辺三山に託す(執筆時、処刑報道は伝わっていなかった)。 26日 管野の遺体、増田謹三郎が引取る。成石平四郎、松尾、新美の遺体、堺為子が引取る。 26日 『二六新聞』紙に1月21日付け「管野すがより大杉夫婦宛書簡」掲載。 27日 荒畑寒村、増田方を訪れ管野須賀子の遺体と対面。27日、古河遺体火葬、27日、内山の遺骨は箱根林泉寺に埋葬 28日 古河遺骨、渡辺政太郎が堺方に移す。28日、管野須賀子の遺体、正春寺に埋葬。 28日 徳富蘆花、「謀反論」の演説草稿を完成させる。 29日 新村実姉、共同墓地の新村遺体を火葬 29日 ニューヨークで幸徳死刑への抗議集会と日本領事館に向けデモ。 30日 堺利彦宅にて刑死者の遺体引取りに関わった人たちの慰労の集まりが開かれる。 31日 新村遺骨、染井墓地に埋葬。 2月1日 幸徳秋水遺著『基督抹殺論』刊行。幸徳が公判中に脱稿し、処刑後一週間での刊行。印税は後に第一回の屋外メーデーの活動資金にも充当された。 1日 徳富蘆花「謀反論」と題する講演を一高で行う。 2日 大石遺骨、新宮町南谷共同墓地に埋葬。 5日 堺利彦、監獄共同墓地の宮下の遺体を引取り火葬。 6日 政府寄りの「大逆事件講演会」國學院大學で開かれる。逆徒幸徳非難の保守的演説会であったが、唯一三宅雪嶺は官憲、裁判所を批判。 7日 幸徳の遺骨、中村の正福寺に埋葬。 12日 サンフランシスコで処刑者追悼大演説会が開かれる。 17日 宮下遺骨、実姉により甲府市三吉町光沢寺に埋葬。 同志による遺族と家族への慰問 同志たちは接見禁止解除後、面会、差入で支援し、堺も在監中に関連して取調べを受けたが9月2日に出所、12月に売文社を立上げ、赤旗事件で出所した同志たちや仲間の仕事を確保しつつ、処刑者の遺体引取、火葬、遺族への慰問に奮闘した。 大杉栄も千葉刑から東京監獄に移送され幸徳たちに関連して取調を受けたが、11月29日に出所。面会、差入れを続けた。 処刑後3月17日、大杉栄は東京を出発して大阪の「大逆事件」受刑者の家族を見舞い、22日に帰京、24日、同志茶話会にて「春三月縊り残され花に舞う」の句を読む。大杉はその後も懲役者への差入、刑死者の墓参りをした。 24日 古河遺骨、牛込、道林寺に埋葬。 堺は遺族の慰問で各地を回る。4月7日、岡山に森近の妻と実弟を慰問。 11日 エマゴールドマンより弾圧犠牲者への義捐金が加藤時次郎を受取人として送られる。 11日 堺、熊本の松尾の妻、実父、実弟慰問、佐々木の実母、実兄、新美の内縁の妻、叔父を慰問、墓参り。松尾方にて古庄友祐<旧『熊本評論』社同人>と対談、 22日から27日にかけて高知県中村の幸徳義兄宅滞在、幸徳の家族たちと交流、 28日には兵庫県小松留守宅訪問、 29日 武田内縁の妻、実弟を慰問、岡本内縁の妻、三浦家族を慰問。 5月3日 和歌山を訪問。大石、高木、峯尾、西村を慰問。成石の家族には書面で慰問。 5日 三重の崎久保遺族を慰問。 7日に帰京、同志への報告会を開く。 12日 堀保子、秋田監獄の坂本に書籍郵送するが、閲読は不許可になる。 7月 官憲の記録には<堺利彦、7月19日附け茨城在住小木曾助次郎へ宛てに「故幸徳伝次郎が在獄中より弁護士に送りたる極めて有益なる書面なれば一読の上返却せられたし」との意味を附記し郵送せり。「幸徳秋水の獄中より弁護士に贈る書」>とある。後に「陳弁書」と題される幸徳のテキストが同志間には閲覧されていた事実があり、「幸徳事件」の概要は知れ渡っていた。 1913年2月3日、大杉栄、秋田監獄の坂本に面会。[坂本清馬年譜] 1914年4月14日大杉、坂本宛に手紙発信。16日に坂本は手にする。 大杉は<坂本の姉が心配しているとして司法省に谷田監獄局長を訪ね、局長と典獄から二件の許可を得る。<書籍差入れを大杉が受持つ、坂本からの書信は交互に大杉と坂本の家族に発信する、大杉と坂本の家族も交互に発信する> 海外での抗議活動 1910年9月21日、ロイター通信が「天皇暗殺計画」を報道。 11月12日 エマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルら5名のアナキスト・自由思想家が駐米全権大使内田康哉あてに抗議文を送る、これを機に全米、ヨーロッパのアナキストによる抗議行動が広がる。 11月22日 エマ・ゴールドマン、ニューヨークで第一回抗議集会を開く、数百名が出席「ニューヨーク・アピール」を採択。 12月10日 ロンドンのアルバートホールにおいて「処刑反対大演説会」が開かれる。 12月12日 ゴールドマン、ハベル、ニューヨーク、抗議集会、桂首相に抗議文を提出することを採択。 12月16日 岩佐、サンフランシスコで「幸徳記念演説会」を開く、作家ジャック・ロンドン支援日本大使に抗議文を送る。 12月 報告<コウトク事件>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。 1月 報告<日本における正義>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。 2月 報告<アナーキー万歳!>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。 「悪業が行なわれた。民衆の中の最良にして高貴な者が倒れ、最も悪魔的で野蛮な方法で殺害された。比べようのない極悪な犯罪が1911年1月24日行なわれた。恐るべき打撃を人類に与え、文明の面前に挑戦状をたたきつけた。無情な野蛮主義が新思想のパイオニア達を 冷酷に縊り殺し、その絶望的な犠牲者達の苦痛に狂喜している。だが、われらは悲しまない。むしろわれわれの同志達の無実、純粋性、公明正大、忠実、自己犠牲と献身を全世界に表明するのがわれらの仕事である。われらは悲しまない。われらの友は不滅を成しとげたのだ。新時代が彼らの受難の日をもって日本を衝撃した。ミカド・ムツヒトの時代は、人間の記憶から消えよう。ブシドウもおとぎ話で神話に過ぎない時も来よう。だが受難したアナキスト達の名前は人類の進歩の頁を飾るのだ。大審院の構成員達、人類の高貴な者を執行者の手にした彼らは、やがて忘れられよう。だがトウキョウの殉教者達は未来の世代の人々によって尊敬され賛美されよう。……」 2月 報告<コウトクデモ>『マザー・アース』掲載。 2月11日 報告<親愛なるホール様>エマ・ゴールドマン『マザー・アース』掲載。 2月15日 「ロンドンタイムス」記事 イギリス議会で「大逆事件」が議題となり、裁判手続、思想の自由等を独立労働党のケヤ・ハーディーが質問する。 12名、投獄後の状況 1914年6月24日 高木、秋田監獄で縊死 1914年9月30日 坂本、法相尾崎行雄宛に「無実を訴える」上申書を提出 1915年7月24日 新村善兵衛、千葉監獄より仮出獄 1916年5月18日 三浦、長崎監獄で自殺 1916年7月15日 佐々木、千葉監獄で獄死 1916年10月10日 新田、千葉監獄より仮出獄 1917年7月27日 岡本、長崎監獄で病死 1919年3月6日 峰尾、千葉監獄で病死 1919年4月2日 新村善兵衛、大阪で死去 1925年5月10日 飛松、秋田刑務所より仮出獄 1929年4月29日 崎久保は秋田刑務所より、成石勘、武田は長崎刑務所より仮出獄 1931年4月29日 岡林、小松は長崎刑務所より仮出獄 1931年1月3日 成石、死亡 1931年10月1日 坂本、秋田より高知刑務所へ移送 1932年11月29日 武田、自動車事故で死亡 1934年11月3日 坂本、仮出獄 1937年3月20日 新田、東京で死亡 1945年10月4日 小松、困窮の中で死亡 1946年2月24日 坂本・岡林、刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」 1948年6月26日 崎久保・飛松「復権」 1948年9月1日 岡林、高知で死去 1952年10月 坂本「逆徒といわれて 在監25年・幸徳事件の真相」を『中央公論』10月号に発表 1953年9月10日 飛松、山鹿町で死去、65歳 1955年10月30日 崎久保、市木村で死去 1975年1月15日 坂本死去、89歳 1975年1月24日 中村で追悼会「故坂本清馬君翁を讃える会」発足 再審闘争 1960年2月23日 「大逆事件の真実を明らかにする会」発足 1961年1月18日 坂本清馬・森近栄子(運平実妹)、東京高裁に再審請求申立て、東京高裁、森長弁護人等代理人 1963年9月13・14日 坂本出廷陳述 1963年11月29日 荒畑寒村証言 1963年12月20日 荒畑寒村証言 1964年1月13・14日 森近栄子他証言、岡山にて 1964年3月11日 築比地仲助証言 1964年5月8日 崎谷一郎証言 1964年7月15日 日弁連、旧東京監獄刑場跡に「刑死者慰霊塔建立」 1964年9月25日 神崎清証言 1964年12月28日 意見書 1965年1月29日 弁護人意見陳述 1965年12月1日 再審請求棄却 (註:公表10日) 1965年12月14日 特別抗告 1966年9月20日 最高裁審理決定 1967年7月5日 高裁決定を有効と判断、特別抗告棄却 「大逆事件の真実をあきらかにする会」は継続して開かれている。 毎年1月24日前後の土曜日に管野須賀子の墓碑がある渋谷区内の正春寺を会場としている。 会に合わせ年一回の『大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース』を発行。 1996年 和歌山県新宮市の浄泉寺(浄土真宗)が大逆事件を見直し、獄中で自殺した高木顕明を復権 2001年8月 和歌山県新宮市で「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が結成される 参考文献 絲屋寿雄 『増補改訂大逆事件』(『三一選書』) 三一書房、1970年4月。 塩田庄兵衛、渡辺順三編 『秘録大逆事件』(上巻、下巻) 春秋社、1959年。 大逆事件の真実をあきらかにする会編 『大逆事件訴訟記録・証拠物写』第4、5、8巻、近代日本史料研究、1960年(謄写刷)。 神崎清編 『新編獄中手記』 世界文庫、1971年。 大逆事件記録刊行会編 『証拠物写』(上巻、下巻) 世界文庫、1972年。 坂本清馬著、大逆事件の真実をあきらかにする会編 『大逆事件を生きる 坂本清馬自伝』 新人物往来社、1976年。 はしもと・よしはる訳 『「大地」誌に発表された幸徳事件』 バルカン社、1971年。 荒畑寒村著、森長英三郎編 『大逆事件への証言』 新泉社、1975年。 山本博雄、佐藤清賢編 『橋浦時雄日記第一巻 冬の時代から 1908-1918』 雁思社、1983年。 荒畑寒村著、森長英三郎編 『大逆事件への証言』 新泉社、1975年。 自由思想の会編集 『自由思想4』大逆事件特集号、自由思想社、1961年。 秋山清 『啄木と私』 たいまつ社、1977年。 吉田孤羊 『石川啄木と大逆事件』 明治書院、1967年。 神崎清 『革命伝説』(全4巻) 芳賀書店、1968-69年。註:巻末年譜は誤記を散見、他の一次資料との照合必要。 森長英三郎 『内山愚童』 論創社、1984年。 柏木隆法 『大逆事件と内山愚童』 JCA出版、1979年。 他に徳富蘆花全集、蘆花集、日記も参考 幸徳事件を扱った作品 コミックス『「坊っちゃん」の時代 第四部 明治流星雨(谷口ジロー作。双葉文庫) 関連人物 幸徳秋水 新見卯一郎 奥宮健之 成石平四郎 内山愚童 高木顕明 宮下太吉 森近運平 大石誠之助 新村忠雄 松尾卯一太 古河力作 管野須賀子(管野スガ) 今村力三郎 平出修 平沼騏一郎 関連項目 関連文献 冤罪 外部リンク 平出修 『計画』 http //www.aozora.gr.jp/cards/000080/files/4144_10205.html 幸徳秋水事件で弁護人を務めた平出修が事件後、幸徳秋水と管野スガをモデルにして描いた小説。1912年9月4日初出。青空文庫 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年12月30日 (日) 05 09。
https://w.atwiki.jp/satou/pages/1159.html
加速主義者ゆうぼーの下位互換だそうです!
https://w.atwiki.jp/frontmission3/pages/42.html
エマ編 アドレス入手 アリサ編 STAGE08 横浜市整備工場でおやじと会話 STAGE08 美穂の加入 名称 パスワード 更新 備考 TOP ◯ ごあいさつ 『イグチ』アドレス入手 トピックス ◯ 今後の予定 ◯ ダウンロード 「Poster《交通安全ポスター》」背景グラフィックダウンロード 市民の声(掲示板) ◯ 市民の声 警察機構 掲示板1 警察機構 掲示板2 警察機構 掲示板3 警察機構 掲示板4 警察機構 掲示板5 警察機構 掲示板6 警察機構 掲示板7 尋ね人・指名手配(尋ね人/指名手配) 「JPOLICE@0710」メールアドレス追加 指名手配 加藤 和海 エマ編 大島 隆二 高橋 一志 アリサ編 松本 章子 佐藤 大 エマ編 山田 越司 エマ編 尾崎 達矢 尋ね人 横浜 聖美さん アリサ編 牛久 由久さん アリサ編 古沢 章一さん エマ編 岸 隆史さん アリサ編 火口 明雄さん 池原 研さん 種子島 防さん 更新 エマ編 アリサ編 ページ STAGE10 STAGE08 トピックス STAGE11 STAGE09 トピックス / 今後の予定 STAGE20 STAGE24 TOP(写真) / トピックス / 今後の予定 / 市民の声(追加:警察機構 掲示板2)) STAGE22A1 / 22A2 / 22B1 / 22B2 STAGE24 市民の声(追加:警察機構 掲示板3) STAGE30 STAGE27 市民の声(追加:警察機構 掲示板4) STAGE39 STAGE39 トピックス STAGE43 STAGE35 TOP(写真) / 今後の予定 / 市民の声(追加:警察機構 掲示板5) STAGE59 STAGE50 市民の声(追加:警察機構 掲示板6) STAGE64 STAGE53 トピックス / 市民の声(追加:警察機構 掲示板7)
https://w.atwiki.jp/frontmission3/pages/383.html
No. 名前 移動力 バーツ 武器 人物 アイテム PRIZEMONEY APNow / Max Body HP状況Now / Max 格闘力 減少率 AP設定/改造LV 防御 L.Grip 属性 種類 AP 熟練 攻撃 弾数Now / Max 射程 命中率 距離低下率 段差低下率 HPNow / Max エースランク ポイント バトルスキル L.Arm 命中 命中 L.Shld 武器熟練度 回避(回避率) R.Arm 命中 R.Grip 格闘武器 ショットガン グレネード Leg バーニア ダッシュ 回避 R.Shld マシンガン 火炎放射 キャノン 属性防御 B.Pack 追加出力 ライフル ミサイル ビーム 1 快速反応部隊ヴァンツァー兵 3 上帝1型 496 / 496 113% 5% ■ 恵達3型 貫通 マシンガン 5 E 18×10 ∞ 1~4 80% 10% 5% 20 / 20 ★★★★★ ×0 150 21 / 21 上帝1型 309 / 309 ×14%UP ■■ ------ 6% 上帝1型 309 / 309 ×14%UP ハードブロウ 衝撃 格闘武器 1 E 25×1 ∞ 1 100% 0% 0% E 耐衝撃 上帝1型 342 / 342 4段 2倍 ■ ------ E ------ 2 快速反応部隊ヴァンツァー兵 6 武徳3型 760 / 760 125% 15% ■ 12式打手 衝撃 格闘武器 1 E 130×1 ∞ 1 100% 0% 0% 20 / 20 ★★★★★ ×0 150 21 / 21 武徳3型 525 / 525 ×5%UP ■■ ------ 4% 武徳3型 525 / 525 ×5%UP ハードブロウ 衝撃 格闘武器 1 E 25×1 ∞ 1 100% 0% 0% E 耐衝撃 武徳3型 576 / 576 0段 0倍 ■ ------ ------ 3 快速反応部隊ヴァンツァー兵 6 武徳3型 760 / 760 125% 15% ■ 12式打手 衝撃 格闘武器 1 E 130×1 ∞ 1 100% 0% 0% 20 / 20 ★★★★★ ×0 150 21 / 21 武徳3型 525 / 525 ×5%UP ■■ ------ 4% 武徳3型 525 / 525 ×5%UP ハードブロウ 衝撃 格闘武器 1 E 25×1 ∞ 1 100% 0% 0% E 耐衝撃 武徳3型 576 / 576 0段 0倍 ■ ------ ------ No. 名前 移動力 バーツ 武器 人物 アイテム PRIZEMONEY APNow / Max Body HP状況Now / Max 格闘力 減少率 AP設定/改造LV 防御 Body 属性 種類 AP 熟練 攻撃 弾数Now / Max 射程 命中率 距離低下率 段差低下率 HPNow / Max エースランク ポイント バトルスキル 命中 命中 Body 武器熟練度 回避(回避率) 命中 Body 格闘武器 ショットガン グレネード バーニア ダッシュ 回避 マシンガン 火炎放射 キャノン 属性防御 B.Pack 追加出力 ライフル ミサイル ビーム 4 常強軍ヘリパイロット 4 気旋6型 414 / 414 -- 15% ■ 27mmMG 貫通 マシンガン 5 E 15×10 ∞ 1~4 80% 10% 5% 20 / 20 ★★★★★ ×0 60 22 / 22 ■ 雲雀38型 炎熱 ミサイル 10 E 104×1 4 / 4 3~9 80% 0% 0% 不能 雲雀38型 炎熱 ミサイル 10 E 104×1 4 / 4 3~9 80% 0% 0% 耐衝撃 E ------ E No. 名前 移動力 バーツ 武器 人物 アイテム PRIZEMONEY APNow / Max Body HP状況Now / Max 格闘力 減少率 AP設定/改造LV 防御 Body 属性 種類 AP 熟練 攻撃 弾数Now / Max 射程 命中率 距離低下率 段差低下率 HPNow / Max エースランク ポイント バトルスキル 命中 命中 武器熟練度 回避(回避率) 命中 格闘武器 ショットガン グレネード Cater バーニア ダッシュ 回避 マシンガン 火炎放射 キャノン 属性防御 B.Pack 追加出力 ライフル ミサイル ビーム 5 快速反応部隊車両兵 3 54式 兵車 557 / 557 -- 10% ■ 130mm砲 貫通 キャノン 6 E 72×1 ∞ 2~6 75% 4% 5% 20 / 20 ★★★★★ ×0 150 22 / 22 ■ 不能 耐衝撃 54式 兵車 459 / 459 0段 0倍 E ------ 6 快速反応部隊車両兵 3 54式 兵車 557 / 557 -- 10% ■ 130mm砲 貫通 キャノン 6 E 72×1 ∞ 2~6 75% 4% 5% 20 / 20 ★★★★★ ×0 150 22 / 22 ■ 不能 耐衝撃 54式 兵車 459 / 459 0段 0倍 E ------
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/730.html
Template 日本の歴史? thumb|200px|[[昭和天皇]] 昭和(しょうわ)は、20世紀の日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間であった1926年12月25日から1989年1月7日までの期間を指す。昭和64年まで続き、これは日本の元号のなかでは、最も長い。ただし、実際の期間は昭和元年と64年が共に1週間のみであったため、厳密には62年2週間である。 改元 大正15年(1926年)12月25日、大正天皇崩御。皇太子裕仁親王(昭和天皇)践祚のため改元。この際、東京日日新聞が『新元号は光文』と誤報した(光文事件を参照) 昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇崩御。皇太子明仁親王(今上天皇)即位のため、元号法の規定に基き元号を改める政令(昭和64年1月7日政令第1号)が公布、翌1月8日施行され、平成に改元された。 出典 「昭和」の由来は、四書五経のひとつ書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」による。漢学者吉田増蔵の考案。なお江戸時代にまったく同じ出典で、明和の元号が制定されている(「百姓昭明、協和萬邦」)。 国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。 時代の流れ 急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。1920年代末から軍部が独立性を強め、1930年以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。 昭和初期 第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。更に昭和2年には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻礼次郎内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。 一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵をおこない、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満州の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満州某重大事件」として追及され、田中は昭和天皇に上奏しようとしたが、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、田中内閣はこのため総辞職した。世上では首相の名前を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。 田中内閣は、第二次護憲運動で生まれた護憲三派の内閣である加藤高明内閣とりわけ、外相である幣原喜重郎が行った外交政策である中国内政不干渉政策(幣原外交)を「軟弱外交」として批判して登場した。従って田中義一はみずから外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、昭和3年、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただこの不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することをうたっており、天皇制をないがしろにするものとする批判が国内に生じたため、新聞紙上でも喧々諤々の論議がおこなわれた末、翌年に至って批准された。また田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。特に普選実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、昭和3年に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙をおこなった。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。 一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛となり、昭和7年には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。 そのような状況下の1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた浜口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。英国・フランス・米国などが植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学的賠償金を負っていたドイツや、高収益な植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチスを生み出す結果となり、日本では満州は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因のひとつとなった。 1930年米国や英国が中心となりロンドン海軍軍縮会議が開催された。これは第一に、主力艦を1936年まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米 英 日=10 10 7とするものであった。全権大使若槻礼次郎はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した(統帥権干犯問題)。 1931年には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発した。政府の戦争不拡大の方針をとったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった(塘沽協定で日中間は一旦停戦となる)。日本の満州建国に前後して、国際連盟はリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年、日本の撤退勧告案を42対1(反対は日本のみ、ほかにシャム(タイ)のみが棄権)で可決した。このため日本の代表松岡洋右は席を蹴って退場し、次いで国際連盟を脱退した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいったと同時に、政府は孤立化による国民感情の悪化を懸念したが、予想に反してこの決断は日本の意思を貫いた行為として賞賛された。 また1932年には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件や1936年に皇道派の青年将校が斎藤実内大臣と高橋蔵相を射殺した二・二六事件が起こり、軍部の暴走が目立ち、政党内閣は終焉にいたった。その後、軍部の勢力は強まり、広田弘毅内閣では過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させる。このことで現役軍人しか陸海軍大臣には就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、議会はその役割を事実上停止する。 1937年には、盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、日中戦争(支那事変)が始まった。日中戦争(支那事変)がはじまると、中国では蒋介石と周恩来の間で国共合作が成立し、抗日闘争が進められた(第二次国共合作)。ヨーロッパでは1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が開始された。日本は当初、「欧州戦争に介入せず」と声明したが、1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国同盟を締結した。大西洋憲章を制定した米英の連合国に対し、日独伊は枢軸国と呼称されるようになった。 戦線の拡大に従って広田内閣・林内閣で盛んであった国防の観点から思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への強力を国民に求めると言う「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して総力戦を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果国家総動員法が成立した。 国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるにともなって治安維持法による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12年)には、加藤勘十・鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になっていった。 太平洋戦争 日中戦争開始後、日本では近衛文麿を中心とする新体制運動が進められ、1940年10月、大政翼賛会が結成され、既成政党は解党して呼応した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争および太平洋戦争の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これはナチスドイツの組織原則を真似たものであると言われる。総裁は首相を兼任し、歴代総裁には近衛文麿、東條英機、小磯国昭、鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また1941年には、公事結社とされて政治活動は禁止され、有馬らの近衛グループが退陣し、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。 アメリカ合衆国は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本はナチスドイツ・イタリア王国と日独伊三国軍事同盟を締結することで対処しようとしたが、アメリカ合衆国の反発を招くだけだった。その上、南部仏印進駐によってアメリカ合衆国から石油禁輸を招くにいたった。アメリカ合衆国・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。一方日本では、陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンで偵察的な戦闘をおこなった際、ソビエト連邦陸軍の戦車部隊に善戦したものの、結果的に惜敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相や中華民国の蒋介石らによるアメリカ合衆国の参戦の要望、及び日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート)を受ける。これを全植民地からの撤退要求と解釈した日本は、事実上の最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうしてアメリカ合衆国での呼称太平洋戦争(日本政府はこの戦争を大東亜戦争とした)が始まり、日本は第二次世界大戦へ参戦することとなった。 アメリカ合衆国、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国と対抗した。 1941年12月8日(アメリカ時間12月7日)、ハワイ時間午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、日本のマレー侵攻の後、日本海軍は、真珠湾攻撃を行なった。しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、山本五十六連合艦隊司令長官は、1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。また同日、東南アジアのイギリス、オランダ植民地も攻撃した。日本海軍は開戦当初、今でこそ一般的な航空母艦(空母)の艦載機という航空機を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど、連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。 1942年、東條内閣は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本青少年団・大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに町内会と部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活はすみずみまで統制と監視にさらされることとなった。 当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは東アジアで初めて開かれた国際的会議である。しかし実態は日本主導であり、未だ未完成であった。 日本海軍は開戦当初、奇襲攻撃を主作戦としたため連戦連勝であったが、ミッドウェー海戦での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。そして、これまで劣勢だったアメリカ海軍はミッドウェー海戦を皮切りに巻き返した。これ以後は日本海軍とアメリカ海軍による一進一退の攻防が始まる事になった。ミッドウェー海戦では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北をした。この時から国民には偽りの戦況が伝えられ、国民は日本海軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころ既に、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数10分の1でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年に解散し、国民義勇隊に改組された。 1944年7月にはサイパン島が陥落し、これにより日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり、1945年3月10日には、大量無差別の東京大空襲が行なわれた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は無条件降伏以外は認めない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答しなかった。核の被害実験、ソビエト連邦への軍事力の誇示、自軍の被害軽減、戦争の早期終結など様々な理由から、アメリカ軍によって、広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下が行われた(当初は京都に投下される予定だった)。次いでソビエト連邦軍が条約を一方的に破棄し対日参戦、万策尽きた日本政府は、御前会議の場において直接関与による英断を昭和天皇に仰いで降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。 日本は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を試みたが、ソビエト連邦はヤルタ会談連合国の申し合わせに従って宣戦布告(ソ連対日参戦)し、満州に進撃した。満州では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満州での大規模な略奪行為も頻発するに至った。今日にも波紋を引く中国残留孤児問題はこの時に生じる事となる。日本は連合国側の降伏勧告をポツダム宣言として受け入れ、日本降伏の意思は翌8月15日正午、昭和天皇みずからの日本放送協会のラジオ放送いわゆる玉音放送により日本国民に伝えられた。 こうして日本だけでも3百万の、関係諸国を入れると2~3千万(実数不明)の死者を出したと言われる未曾有の大戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の占守島や南樺太では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、8月23日のことだった。 戦後復興と高度経済成長 概観 太平洋戦争降伏後、1952年まで連合国軍の軍事占領下におかれたが、連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPの軍政は布かれず、直接的な統治は沖縄・奄美諸島・トカラ列島の下7島・歯舞諸島・千島列島・樺太・小笠原諸島を除き日本政府がおこなう間接統治がおこなわれた。連合国軍最高司令官総司令部はプレスコードと称される言論統制・検閲などを通じて軍国主義・反米感情を統御した。沖縄・小笠原諸島ではアメリカ合衆国の軍政が布かれた。1946年に公布された日本国憲法は、主権は国民に存するとした「国民主権(主権在民)」、法の下の平等及び自由権・社会権・参政権・国務請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「平和主義」を三大原則とした。このため現在日本では徴兵制は憲法違反として実施されない。また、天皇を日本国および日本国民統合の象徴として、天皇の国政への関与は禁じられた。農地改革、財閥解体、労働組合結成の促進、教育基本法制定などの社会改革が実施された。戦争によって著しく落ち込んだ経済は、朝鮮戦争・ベトナム戦争をきっかけとして、1960年から1970年代初頭まで高度経済成長を遂げ、アメリカ合衆国に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。その要因としては、農地改革や労組の拡大によってかつては貧しく、弱い立場におかれていた労働者や農民が大消費者層として解放され、国内市場が戦前に比べて飛躍的に拡大したことや、産業の高い技術開発力が大きく作用し、家電、自動車などは国際的にもトップを争う位置にまで達したことが挙げられる。人びとが豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだ。後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が見直されるようにもなった。二度にわたるオイルショックを境に高度経済成長時代は終焉し、安定成長時代を経てバブル景気へと突入した。また、日本は憲法で軍隊を持たないことを定めたが、1951年に日本国との平和条約と同時に日米安全保障条約を締結し、アメリカ合衆国軍の駐留をそのまま継続するとともに、事実上の再軍備をおこなった。冷戦期には米国と同盟してソ連に対抗した。冷戦後には国際連合に協力して海外でPKO部隊を展開するようになった。 GHQによる占領 終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、台湾・朝鮮・南樺太、南洋群島・千島列島を失った。このうち、千島列島については、様々な説があるが、日本政府は、千島列島のうち、南千島の北方4島についてのみ日本固有の領土であると主張し、その内2島は北海道に属すると説明している。 1945年から1952年までの7年間にわたって、日本史上初めて他国(GHQ)に占領され、最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共的な傾向があったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された東久邇稔彦内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は戦時中の政治の継続をおこなっただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。米国の占領下で、幣原喜重郎内閣、次いで吉田茂内閣を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の3大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また婦人参政権が認められる一方で、治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放が行われ、太平洋戦争に加担した者の公職からの追放および被選挙権の停止措置が採られた。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相であったことから、政治的活動が制約された。また1946年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級B級C級とは罪の大小を表すものではなく、それぞれの罪を分類するものである)。 連合国 の日本占領政策は、事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたたが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連のスターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのトルーマンが拒否し、本土は統一的なアメリカの勢力下に置かれた。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。 日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張をおこなったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。日本では、表面的には沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。1946年に日本国憲法が公布され、1951年の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。 占領期間中の制定だが(後の押し付け憲法説に)、日本国憲法は主権は国民に存するとした国民主権(主権在民)や、基本的人権の尊重を明記した憲法であり、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという平和主義を加えた3大原則でなりたっている。日米安保条約や自衛隊が日本国憲法の平和原則に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。 大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷のきわみにあったが、中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年には早くも現れ始めていた。その上、1949年に中国大陸で蒋介石に代わって毛沢東政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理もおこなわれた。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動をおこなった。しかしこの頃、国鉄の下山事件、三鷹事件、松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージがおこなわれ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹きすさんだマッカーシー旋風(赤狩り)に似ていた。 文化面においては、映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画やジャズ・ポピュラーも急速に流入した。一方、国語の問題についても昭和21年の現代かなづかい・当用漢字の制定や、新聞の検閲などがおこなわれた。 講和後~昭和後期 thumb|200px|[[東京タワー、1958年(昭和33年)竣工]] 自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに1960年代半ばから1970年代初頭まで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。「昭和元禄」と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。子供向けの漫画や映画と並んでテレビ放送も普及した。東海道新幹線開業、名神高速道路開通、東京オリンピックの開催、日本万国博覧会(大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。 この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアはもちろん、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、日米安保条約と日米地位協定によって米軍基地が日本各地に残されており、駐留国負担(近年は思いやり予算と呼ばれることがある)の出費も大きく、米軍犯罪時の裁判や事故などをめぐってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄ではこうした問題がしばしば起こった。また核持込をめぐっても不明確なままに推移しており、日本の非核三原則についてもしばしば問題となるようになった。 急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、人口はついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口のなかで勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、かれらは金の卵と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた。 一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学し、その極めて激しい自己主張をぶつけ合った。人生を左右する思春期に60年安保闘争を目にしたかれらはそれを見習い、大学改革闘争やベトナム戦争反対運動などで勢いは高まった。東大紛争や日大紛争を経て、一部の過激な若者は、当時流行した新左翼思想とあいまって、「既成政党」の打倒や「革命」を叫び、暴力的なテロ活動へと走った。かれらの起こすテロ活動は社会不安を引き起こした。その影響もあって都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許す結果となる。しかし1970年代には、公害の激化や社会問題の深刻となるなかで、社会党と共産党の革新統一の為の協定が結ばれ、東京の美濃部亮吉をはじめとして、京都、大阪、神奈川などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。京都ではほとんど共産党単独支持の蜷川虎三が多選を果たした。しかし後には、社共共闘が消滅したことや保守の盛り返しによって、次々と保守体制に戻った。 戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする西側自由主義陣営に属し、日米安全保障条約に基づく同盟国として、ソビエト社会主義共和国連邦を筆頭とする社会主義陣営に対抗し冷戦期を乗り切ることができた。 一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触するおそれが高い自衛隊の設置を憲法改正なしにおこなわれたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。 大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。 しかしオイル・ショックを境に、円高問題の深刻化と言った新たな問題に直面する。もはや高度成長時代は終わり、低成長の時代へ移っていく。政府は円高による輸出不振の対策として内需拡大を促進するために金融緩和政策に踏み切ったために日本は空前のバブル景気に突入した。だが、その繁栄はやがて到来するデフレ(マイナス成長)へと続く道であることに気づく者はほとんどいなかった。そのような転換期のなかで平成を迎える。 以上のように、戦争そして敗戦と民主化、経済成長など、昭和の間には日本はこれまでにない大変化を遂げた。このことより、昭和終焉のときには新聞をはじめ、さまざまな方面から激動の昭和と評された。 後半は昭和-2参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月16日 (水) 10 09。
https://w.atwiki.jp/nextgov/pages/67.html
29 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/19(月) 18 11 37 ID ab46KPJL しかし・・・・ 資本主義の定義すらないのに、不具合も何もw 30 名前:lambda ◆GLPLA.M.6I [] 投稿日:2008/05/19(月) 18 46 26 ID 3hR16Kzx 29 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9 資本主義(しほんしゅぎ、capitalism)とは、経済の仕組みの一種で、資本の運動が基本原理となる体制のことである。資本制とも言う。 社会に貨幣を投下し、投下された貨幣が社会を運動してより大きな貨幣となって回収される場合この貨幣が資本とよばれる。(資本を参照)資本が利潤や剰余価値を生む社会システムのことを資本主義という。 31 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/19(月) 19 30 02 ID lYsEiyF2 29 知能低い奴みっけ! 32 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/19(月) 19 59 59 ID ab46KPJL ? ああ、確かに○とかいう変な電波でそんな定義してたw 33 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/19(月) 20 28 25 ID WFYo61Qz 29 歴史的な成立過程は、前スレで書いた。マルクスに限らず資本主義とは ①生産手段の私的所有の法的承認 ②剰余価値のフィードバックによる資本の拡大(縮小)運動 ②②に対して、資本家・労働者という二つ在り方で関わる階層が存在する事 という三つの条件が成り立ってる経済体制の事を言う 補足すると、資本主義が発達し複雑化すると資本家・労働者の他に 投機家と言う第三の階層が出現するようになる 34 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/19(月) 20 46 17 ID WFYo61Qz 訂正 ×②②に対して ○③②に対して 36 名前:名無しさん@3周年[sage] 投稿日:2008/05/19(月) 21 47 40 ID 1rzdjc3d 29-30 資本主義の定義ね 定義はあるが、それが唯一でもなく、定説でもないだろうな で、定義がないと論じられないか? 例えば、人がどうあるべきかを論じるのに、人の定義から始めなければならないかね? 37 名前:名無しさん@3周年[sage] 投稿日:2008/05/19(月) 22 04 10 ID 1rzdjc3d 36 再録 資本主義というOSは不具合が多発だ!part6 http //money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1209274184/603 603 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/14(水) 19 10 48 ID HGAvOMY3 http //www.yk.rim.or.jp/~mitsunob/index.html ↑この掲示板は古典派~マルクス・近経も含めた経済学や社会学の 殆ど全てを簡潔に論じてて、非常に有意義で僕も毎回参考にさせて貰ってます よかったらご利用下さい。 38 名前:lambda ◆GLPLA.M.6I [] 投稿日:2008/05/19(月) 23 01 35 ID 3hR16Kzx 37 このサイトいいと思うわ。 39 名前:名無しさん@3周年[sage] 投稿日:2008/05/19(月) 23 02 38 ID 1rzdjc3d 33-34 歴史的な成立過程は、前スレで書いた。 こんな辺りの議論かな 資本主義というOSは不具合が多発だ!part6 http //money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1209274184/501 http //money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1209274184/552-554 http //money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1209274184/557-559 http //money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1209274184/562-565 http //money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1209274184/588-589 http //money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1209274184/600 http //money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1209274184/653 40 名前:名無しさん@3周年[sage] 投稿日:2008/05/19(月) 23 03 09 ID 1rzdjc3d 38 同意 41 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/19(月) 23 23 15 ID ab46KPJL ①生産手段の私的所有の法的承認 ②剰余価値のフィードバックによる資本の拡大(縮小)運動 ②②に対して、資本家・労働者という二つ在り方で関わる階層が存在する事 ①について 個人事業主でもない限り、生産手段を保有して生産している人間はいないのではないか? 現実の世界を見れば、生産手段は株式というシステムで社会に共有化されており、これは実は共産主義ではないのかw 資本家と労働者は現在限りなく=であり、そのような階層の分化は無い 何処の世界にこんな定義の資本主義をやってる国があるのかw 42 名前:名無しさん@3周年[sage] 投稿日:2008/05/19(月) 23 43 27 ID 1rzdjc3d 41 ま、いいけど 定義の話をやりだすとこうなる 昔、中学でユークリッド幾何学を熱心に教えていたんだ、おいらのころ で、ユークリッド幾何学では、定義があるんだ 点とは面積のないもだとか 線とは点の動いたものだとか それを続けてゆくと、最後は無定義用語に行き着くんだ これだけは、定義なしに認めないと話が始まらないってところへ行き着く ま、どうぞまたーりお願いします おれは参加しない 43 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/19(月) 23 49 00 ID 1rzdjc3d 経済は生き物であり、先に定義があって、その定義にそって経済が動くわけではない 政治も同じ 定義から出発して、果たして生きた政治が捉まえられるのか もちろん、経済や政治が安定した段階では、そういう整理をして、定義を論じることも必要だろう しかし、21世紀は始まったところだ 20世紀の資本主義、社会主義、共産主義という用語の定義をもって、21世紀の政治経済が論じられるかどうか おいらは疑問に思うし 21世紀の新しい概念や新しい用語が出て当然だと思うんだが 例えば、資本主義2.0とかw 44 名前:lambda ◆GLPLA.M.6I [] 投稿日:2008/05/19(月) 23 50 02 ID 3hR16Kzx 41 ①について 個人事業主でもない限り、生産手段を保有して生産している人間はいないのではないか? ここはOK。 現実の世界を見れば、生産手段は株式というシステムで社会に共有化されており、 これは実は共産主義ではないのかw ここはダウト。 社会に共有化されてるんじゃなくて、資産家たちに共有されている。 資産家が共産主義者なら、共産主義になるのかな(苦笑 45 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/19(月) 23 58 40 ID WFYo61Qz 41 個人事業主でもない限り、生産手段を保有して生産している人間はいないのではないか? それに関しては「資本家」を特定の人を指すのでは無く、非人格的なものと捉えるべきだろうな 簡単に言うと「法人」と「個人」の違いだな。非人格的な法人が「資本家」であり、そこで働く人が「労働者」 現実の世界を見れば、生産手段は株式というシステムで社会に共有化されており まったく逆で、株式会社の存在こそ資本主義の歴史的特徴なんだよ これに関しては、共産主義云々とは関係無くその定義を述べたんだが・・・ (まず最初に所有権の法的な承認と会社法の発達があった) ついでだけど、あなたの主張するように株式の所有のあり方を見直す事で 資本主義を共産化しようと提案した経済学者も居るがな 何処の世界にこんな定義の資本主義をやってる国があるのか 資本主義でクグレw 俺は定説を述べたに過ぎない 46 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/20(火) 00 26 14 ID WpIRD66v 45 法律的に言うと、法人には法人格が認められている。 これは人格の一種だから、非人格的な法人というのは現行法上ありえない。 47 名前:33[] 投稿日:2008/05/20(火) 00 38 12 ID 1RuvVBwz 少々うんざりしてきたが・・・ ×非人格的 ○自然人では無い で訂正。他に用語や文章に間違いがあったら添削してくれ。それじゃ 48 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/20(火) 00 39 54 ID 3eNV9XgT 社会に共有化されてるんじゃなくて、資産家たちに共有されている。 資産家が共産主義者なら、共産主義になるのかな(苦笑 つまり、金融システムで限りなく資本を共有していると考えれば、現在は共産主義と考えていいわけだw 49 名前:lambda ◆GLPLA.M.6I [] 投稿日:2008/05/20(火) 00 46 05 ID SOCdeHYk 48 そうだよ。 それで、そのことからどんな新しい知見が得られるのかな? 50 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/20(火) 06 53 58 ID 5mm9fWgQ 43 定義の話はお任せするとして 定義から出発しない議論の方法 1.日本と海外の国との比較をする(例えば北欧とか) 2.過去の日本と現在の日本との比較をする 3.理想的な日本の政治・経済・社会体制を考えて、それと現在の日本との比較をする 1,2は相対評価という手法なんだが、これは良く用いられるし、分かりやすい 所詮、絶対評価ってのは難しいんだ 3は、ワークデザインという方法で下記(マルクスの共産主義も理想を考えたので、これだったかも) http //www2s.biglobe.ne.jp/~coach/onepoint/sysdes/sd_wdes.html ワークデザインとは ワ-クデザインは、米国のナドラ-教授が創始した考え方であり、演繹的発想に属します。ワ-クデザインのキーワードは、機能展開と理想システムです。 51 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/20(火) 20 18 50 ID 5mm9fWgQ 50 定義の話はお任せするとして 定義から出発しない議論の方法 4.素朴な実感から議論する 例: 「なんか最近おかしくないか? 働いても生活苦しいのに、働かないのに楽しているやつがいる・・・」とか 「なんか格差大きすぎないか? 働きに応じて収入があるというが、何億円もの収入って、どんな働き方なんだよ・・・」とか 52 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/20(火) 20 27 09 ID 5mm9fWgQ それから、結局日本は代議制なんで、あまり細かい政策を議論をしても仕方ない 例えば 6 「外交政策 世界会議 日独同盟 中露外交 将来予測」 何が言いたいのかさっぱり分からん 自分が外務大臣でもやるならともかくwww 現実的な議論としては、我々国民に提示されるのは、GかMかの二者択一 G:GIMIN M:MINSYU 二大政党がいいか悪いかの議論はあるも 現在の衆議院小選挙区制では、どうしても当選は二大政党のうちの一人でしょうよ、例外はあるとしても それが現実なんだから、だれかみたいにあまり現実離れした議論してもなー 53 名前:筆者 ◆mn./N732Wo [] 投稿日:2008/05/20(火) 20 40 56 ID YDWk+TZP 統一教会の腐れ洗脳親父が今日も騒いでいるな。気色の悪い事だ。 54 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/20(火) 22 12 32 ID 5mm9fWgQ 筆者、乙w ありがとうよww 君は、ほんとうに釣られやすい人間だなwww 56 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/20(火) 23 01 56 ID 3eNV9XgT ろくに定義も出来てない資本主義を持ち出して、これは資本主義か社会主義かを議論しても無意味なんじゃねw 57 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/21(水) 00 03 56 ID 5mm9fWgQ 必要ない あるのは二者択一の選択肢 52 細かい定義など不要 国民は代議制の政治家に不具合を突きつければ十分だ 政策を考えるのは、彼らの仕事だよ 58 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/21(水) 00 25 29 ID SrdKvv0F 資本主義と民主主義って組み合わせがそもそも合わないような気がする 59 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/21(水) 01 34 18 ID Wu6LdBzH つか、共産主義が存在しない以上、資本主義1拓しかないだろうw 社会主義は政府主導型の資本主義でしかないしw 61 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/21(水) 05 56 22 ID 8jOMQ5sp 60 つか、共産主義が存在しない以上、資本主義1拓しかないだろうw 社会主義は政府主導型の資本主義でしかないしw 完全同意 ”社会主義とは、広義では資本主義の自由放任によって生じる不平等に対して、国家、あるいは社会が何らかの干渉を行い、公正を実現しようというものである。” 60 というならば、資本主義1択しかない しかし、レギュラシオン学派によれば、資本主義は5択だ 60 63 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/21(水) 11 48 33 ID Wu6LdBzH レギュラシオン学派だと日本はアジアモデルでね トヨテズムとかいって、トヨタがモデルのはずw 65 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/21(水) 18 47 17 ID 8jOMQ5sp 63 ああ、そうなん で、これからどうするかだな 70 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/21(水) 19 26 29 ID 8jOMQ5sp いま、832が良い事を言った あそこは、いま499KBで、もう500KBオーバー直前だ なので、こっちに引用する 資本主義というOSは不具合が多発だ!part6 http //money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1209274184/832 832 名前:名無しさん@3周年[sage] 投稿日:2008/05/21(水) 12 48 07 ID fZk41wp9 日本滅びて資本主義あり。 人類の大多数が死に絶えようとも資本主義は山や河のように生き残るよ。 <引用終わり> これ、結構共感できる 1.資本主義は、結構エンタメ系に強い。共産主義になって、民放がなくなったら、多くのエンタメ系芸人は失業だろうw。がっかりする人も多いだろうww 2.資本主義は、雑草的なしぶとさがある。確かにマルクスなどに批判された。しかし、それから百年以上雑草のように生き延びてきた。修正を加えながら・・ 3.雑草的なしぶとさにも理由がある。もと、雑草でしょ? 「資本主義」という立派なお名前は、だれか人がつけたもの。もと雑草の生き残りだwww 71 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/21(水) 19 35 30 ID 8jOMQ5sp 70 ああ、米国やヨーロッパ、中国、インド、ロシアにも触れておく必要がある ”日本滅びて資本主義あり。” 日本国が滅びたら、その隙間にはお近くの米中ロのどこかが入るだろうぜ 日本は、資本主義陣営に軸足を置いてというのは、大前提 広義の社会主義 70 :資本主義の自由放任によって生じる不平等に対して、国家、あるいは社会が何らかの干渉を行い、公正を実現しようというもの ならば、おそらく世界中の資本主義国は(アメリカも含め)、なんらかの意味でそういう政策をとり、広義の社会主義 ならそれでいいじゃないか それを前提に議論すれば・・
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/6691.html
この項、反シリア政府軍およびチュニジア も参照。 ■ 西側から支援を受けた反シリア政府軍の内部にチュニジア人「従軍慰安婦」が存在していると問題に 「櫻井ジャーナル(2013.9.23)」より / 今、「従軍慰安婦」が問題になっている。といっても、旧日本軍の話ではない。チュニジアの内務大臣によると、自国の女性がシリアへ騙されて渡り、イスラム武装勢力の戦闘員を「慰安」するためにセックスを提供しているらしいのだ。「性的聖戦」という名目でひとりあたり20人から100人の戦闘員と関係を持ち、妊娠して帰国しているという。大臣は言及していないが、シリアへ行ったチュニジア人女性は数百人だと推測されている。 チュニジアは「アラブの春」が始まった国として知られている。そのベースにあるのは社会的な不公平さに対する庶民の不満。サウジアラビアなどに比べると遙かに民主的で、政教は分離され、女性の権利も認められていたが、大統領など支配層の腐敗が目に余ったことも事実。WikiLeaksが公表したアメリカの外交文書も、そうした腐敗を確認させることになった。 怒りのエネルギーが高まる中、ひとりの青年が抗議の焼身自殺を行い、それが抗議活動の引き金になる。当初、運動の中心にいたのはチェ・ゲバラの顔写真や赤旗を掲げるような若者だったのだが、途中からムスリム同胞団が主導権を握り、サラフィ主義者が台頭してくる。ムスリム同胞団の背後にはカタール、サラフィ主義者の背後にはサウジアラビアが存在している。 若者たちには体制を倒すエネルギーがあったものの、次の体制を築く組織力がなく、民主化とは逆の方向へチュニジアは動いていった。そうした中、イスラエルやアメリカの情報機関、つまりモサドやCIAが活発に活動しているが、この両機関がムスリム同胞団と同盟関係にあったことはリビアやシリアでの動きを見ても明らかだ。 ヨルダン出身でシリアに住むサラフィ主義の聖職者、ヤシル・アル・アジュロウニは今年の春、反シリア政府軍の戦闘員に対し、スンニ派以外の女性をレイプしてもかまわないというファトワ(勧告)を出したと伝えられている。その一方、同じ頃にチュニジアの大ムフティー(最高イスラム法官)が「性的聖戦」を批判し、警告する発言をしていた。 少なくとも半年前から、こうしたことが反シリア政府軍の内部で行われていたということになる。当然、「西側」の政府やメディア、あるいは「人権擁護団体」も知っているはず。こうした人びとはアフガニスタンでは女性の権利を守ると称し、住民を虐殺し続けている。シリアの反政府軍に対し、どのような「制裁」を加えているのだろうか? .