約 244,430 件
https://w.atwiki.jp/otameshidetsukuru123/pages/40.html
わらしべイベント 街人の求めるアイテムを探して差し出すと、 代わりとして何か別のアイテムがもらえます。 これでしかもらえない貴重な品物も…? 4人の要望(各5種)のお願いを聞いてレシピや貴重品を頂こう。 中にはヒナタ編、ホロン編でもらえるものが違うものもある。 おばあさん ※全て両者共通 ローストチキンx1→特製サンドイッチ 毒消しなしx1→特製サンドイッチ アップルパイx4→謎の装置 タウリンx2→竜の血 カニx8→おばあさんの眼鏡 リッド 想起のリングx1→ヒナタ:レーヴァテイン+30 ホロン:雷Lv1スクロール+ 焦速のリングx1→ヒナタ:アースブリンガー+40 ホロン:Lv3石版 闇帝のリングx1→ヒナタ:カリトルモノ+49 ホロン:炎Lv2スクロール+ 鬼人のリングx1→ヒナタ:トゥインクルツイン+55 ホロン:術式結晶x3 薬匠のリングx1→ヒナタ:ネクロノミコン ホロン:???スクロール(光) ドマーニ 白精石x12→充足のリング キンボウゲx10→保具のリング アイアンx30→ヒナタ:暴覇のリング ホロン:技巧のリング ハピヴォラスx8→常守のリング ハナカンムリx3→転生のリング ソルディ イエローケーキx1→ヒナタ:合成レシピ「武器」 ホロン:合成レシピ「サポート2」 カウンタースクロールx2→ヒナタ:合成レシピ「リング技術」 ホロン:合成レシピ「スクロール3」 パンドラボックスx1→ヒナタ:合成レシピ「武器希少」 ホロン:合成レシピ「リング自己犠牲」 ニジイロパンダx4→合成レシピ「素材生成希少」 望郷の札x6→合成レシピ「リング希少」
https://w.atwiki.jp/woodworld/pages/81.html
僕はアベル。5才です。お母さんと、小さなお家で暮らしています。 お母さんは、町で小さな魔法道具屋さんをやっています。お店はお母さん一人なので、お母さんはいつも一生懸命働いています。 お家は貧しいけど、僕は気にしません。だって…、お母さんがいつも僕のために頑張ってくれているんだもの…。だから僕も、できるだけお母さんのお仕事をお手伝いするようにしています! “お父さん”は、たまにしかお家に帰ってきてくれません。ちょっと顔の怖い人だけど、でも、とっても優しくて、良いお父さんです。 本当は、ずっとお父さんと一緒にいたいけど、でも、それは駄目なんだそうです。でも、それだって僕は気にしません。だって…、そうして、たまにしか会えないのもみんな、“僕のため”だそうだからです。だから僕は、寂しくても我慢しています! 僕は、お母さんも、お父さんも、みんな大好きです。 8才になってからしばらくして…、僕は、ハイゼンシュタットという家の“養子”になりました。 突然のことでおどろいたけど、僕は気にしません。なぜなら、ハイゼンシュタットの家は、僕の“お父さん”の家だからです。お父さんの家は、うちの家とは違う立派な商家さんで、ここでならお家より豊かな暮らしができそうです。 でも…、お母さんは一緒には住めないそうです。 「どうしてなの…?」 って、お父さんに聞いても、 ――「それが、ハイゼンシュタットの家の掟なんだ…」 としか教えてくれませんでした…。 お父さんの言うことは良く分からないし、気になることもたくさんあるけど、僕は気にしないことにします。なぜなら、それを僕に伝えたお父さんの顔は、とっても辛そうで、本当はお父さんもお母さんをお屋敷に招きたいんだと、そう分かったからです。 それよりも、もうひとつ、もっとショックなことがありました。 僕には、僕より一つ年上の“お姉さん”がいて、しかもその“お姉さん”の“お母さん”は、僕のお母さんとは別の“お母さん”だというのです。 大人の言っていることは良く分かりません。きっと、子供が首を突っ込んじゃいけない話なんだと思います。 でも…、そのことを考えると、なんだか胸がモヤモヤして、すごく居心地の悪い気持ちになります……。 でも…、それでも僕は気にしないようにします……。なぜなら、僕の“お姉さん”は、とっても優しくて、良い“お姉さん”だからです…。 “お姉さん”の名前は、「クロエ」といいます…。 この間の誕生日で、僕はもう13歳に成った…。オリジン領域(リージョン)での一般的な成人は15歳から。その歳まで、あと二年だというのに、僕は相変わらず無力なままだ…。 姉さんは、相変わらず凄い…。 商家としての営業の手腕。嫋やかな外見に似合わぬ、強かな社交スキル。そして、普段の実利的で拝金主義・権力志向に見える行動の裏側に隠す、誰よりも透明な潔癖さ…。 「(黒の裏に塗り込められた、あの白の清きをなんと謳おう…?ハイゼンシュタットの『責務』が求める『主』とは、あのような清き白の主に相違ない…!)」 心から、そう賛美し、慕わずにいられない…。本当に、良き義姉に恵まれたものだ…。 対して、僕は本当に何て非才なのだろう…。 人との交渉に強気になれず、家の主に置くには心揺らぎやすく、剣も魔法も姉さんに遠く及ばない…。 常に優秀で強かな姉さんを見る度に、この胸に去来する黒い想い…。それを抱くだに、自分の『当主』としての器を疑わずにはおけない…。 でも…、それでも……、僕には、この道しかないのだ……。 貧しい“妾”の家から連れてこられ、生家の姓を名乗ることすら許されず、父と母とを裂いた一族におもねって生きねばならない無力な自分。 その自分に、他に生きる道などありようはずもない…。 いずれ母さんを、この家に迎え入れるために、弱音など吐く暇もない…。 父さんは、この家に来た時から、一度も僕にあの優しい笑顔を見せてはくれない…。 ただひたすらにしごき、厳しく、辛く、当たるのみ…。 見せてくれたのは、叱責と、苛立ちと、落胆の顔だけ…。 でも…、それも仕方ない…。僕には才がないのだから……。 いつか、姉さんよりも優秀に成れば…、誰が見てもハイゼンシュタットの当主に相応しい男に成れば…、きっと父さんも、あの優しい笑顔を見せてくれる…。 だから僕は、ハイゼンシュタットの『責務』を果たせる男に成る…。 「(この世界を、神泉ルナの下に統一し、真なる楽園へと導く…。そして、その神泉ルナの御名の下、ハイゼンシュタットの当主として、遍く人々を導き諭すのだ…!)」 そうすれば、僕の“願い”は、全て叶うのだから……。 14歳に成り…、僕は裏切りと絶望というものをはじめて知ることと成る……。 ルナの巫女に、姉さんが選ばれた……。 「(何故だ…!?)」 僕は、ハイゼンシュタットの次期当主として、厳しい教育を耐え抜いてきた…。商家としてのみならず、神職に携わるものとしても修練を重ねてきたつもりだ……。 「(それなのに、何故…!?僕ではない……!!)」 『主』の袖に、むなしくすり抜けられた挫折感…。 その上、ハイゼンシュタットの家督さえ、僕でなく姉さんに譲られるという…。 ハイゼンシュタットの『責務』を思えば、それは当然だ…。だが…… 「(だが…、何故姉さんなのだ……!!?ハイゼンシュタットの家を継ぐため、それだけに努力を重ねてきた僕ではなく……!!!!)」 母と離されてまでも、我慢してきた日々。父に厳しくされても、耐え抜いてきた日々。 いつかハイゼンシュタットの当主と成る…。その“約束”だけを頼りに頑張りぬいてきたというのに……。 「(何故、その“約束”を、姉さんが奪い取る…!!?)」 「(……許されない)」 この“裏切り”は、断じて許されない…。 「(僕は、ハイゼンシュタットの当主として、ハイゼンシュタットの『責務』を全うせねばならんのだ…!)」 「(『主』の下に世界を統一し、世界を真の完全平和な楽園へと成させしめ、ハイゼンシュタットの名をもって万人に礼参される『聖皇』と成る…。それこそが、この僕に許された唯一の道であり、果たすべき『責務』なのだ……!)」 そのために、どんなことだってしよう…。どんなことだって……。 「(姉さんにある、あの“潔癖さ”。あれこそ、姉さんが巫女に選ばれた理由に相違あるまい…。ならば僕は、あの姉さんの“潔癖”を支える“自己犠牲”の心を上回って見せねばならない……!!)」 そのためには、そう…、今、この町を覆う『赤斑病』こそ、“丁度良い”のだ…。 「(僕が…この僕が…!!姉さんを上回る“自己犠牲”の心で以て、この町の人々を救う…!それを以て示して見せれば、町の者達もまた、この僕を認めざるを得まい……!!!)」 声を大にして、僕は叫ぶ。 「この身を以て全ての病を贖うことで、この僕をハイゼンシュタットの当主として認めさせるのだ……!!!!」 ハイゼンシュタットの『責務』を果たし、世界のすべてをひれ伏せさせるために……。 -end- こうして、“彼”は狂気の自己犠牲におよんだ。 そしてそれは、カオスフレアを大いなる冒険へと導く、導きとなったのである…。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/348.html
目次 1.人類救済の仕事には、その終りがない 2.「生長の家」の諸君よ、寛容の精神を忘れるな 3.「自らに厳しく」は宗教家特有の義務 4.万教帰一理論の真髄 5.人類幸福化運動として、現代に現われたる仏教の精神 6.自己犠牲の精神と自己処罰の観念 7.神の子の実相を知ることが小乗であり、万教帰一の思想が大乗である 8.宗教家たちよ、お互いに手を取り合ってユートピアを築け (1987年6月29日の霊示) 1.人類救済の仕事には、その終りがない 谷口雅春です。先般、私の霊言集の第一集として、「如来界から生命の実相を語る」(土屋書店)とサブタイトルを施(ほどこ)し、この世に霊言を送ったことは、すでに多くの皆さんがご記憶のとおりです。 この第一集を世に問うて以来、各方面から、さまざまな反響や、問い合わせが殺到しているとのことであります。また、「生長の家」の信徒からも、谷口雅春に重ねて聞きたいという声が多数寄せられている事実を知って、日本全国の読者の反響にお応えするためにも、再び私の言葉を世に問いたいと思うのであります。 帰天二年余りの谷口雅春が、今なお地上の人びとに言葉を伝えたいと思っているということを不審に思われるかもしれませんが、私自身の基本的な考えは、人類救済という偉大な使命に関しては、決してその仕事に終りがないということであります。たとえ肉体を持って地上におろうとも、肉体を去ってあの世、すなわち、実在の世界に還ったとしても、我らが使命は、一向に変わらぬものであります。 すなわち、生あるかぎり、永遠の生命があるかぎり、我らは人びとの幸福のために、また、我らと言わず谷口雅春は、世の人びとの幸福のために、休むことなく日々精進し、活動をしておるということであります。そこで、まず、この事実を知っていただきたい。 古来、宗教家たちは、数多く地上に舞い降りて、新しき宗教を立てたり、新しき宗派を起こしたり、新しき哲学を樹立したり、新たな思想を流布したりしてきたのでありますが、彼らも地上を去ってよりこのかた、死人にロなしではないけれども、まるで活動を停止したかのごとき感があることは、歴史的な事実であります。 しかしながら、これら高級霊たちは、地上を去った後も、天上界にありて、さまざまなる活動をし、人類への福音を述べ伝えておるのであります。その事実を知っていただきたいがために、こうして私もあえてまた、私が地上を去って後の考えを世に問いたいと思っておるのであります。 2.「生長の家」の諸君よ、寛容の精神を忘れるな さて、第一集が世に出て以来、「生長の家」の信徒三百数十万からは、間違いなく我が声を信じて、熱狂的なる手紙が数多く寄せられているとの事実を、私は知りました。 そこで、信徒の多くが、「まだ知りたい」「もっと話を聞きたい」と思ったことに関して、本書でもって答えていきたいと思うのであります。もちろん、本書だけでは、谷口雅春が思想は、すべて言いつくすことはできませんが、それはいずれまた、折りを改めるとして、本書に盛る思想として、可能なかぎりのことを述べていきたいと思うのであります。 ただ、私が惜しむらくは、本書を世に問うにあたって、私の後継団体である「生長の家」に対する憂慮、心配というものをせねばならぬという事実であります。 すなわち、私は、万教は帰一、万教これ同根、すべて唯一の神より流れ出したる教えであるということに立脚し、五十五年余りの伝道活動をしてきたわけでありますが、いかんせん「生長の家」という団体も、初代が去ってよりこの二年、さまざまな内部事情を抱え、問題点が出てきておるようであります。 また、私が悲しく思うことに、内部のなかにも、初代谷口雅春が他の団体から霊言を世に問うということに関して、非常に困ったものだと言っておる者もあると聞いております。 しかし、こうした者たちに対して、私は一言言っておきたい。あなた方は本当の意味の「万教帰一」、この言葉の意味を知っておるのか。また、地上で自らの団体を運営し、維持していくことだけに目的を見い出してよいのかどうか、と。こうしたことについて、もう一度肝に銘じて考えねばならんのではないか。私は、そう思うわけであります。 地上に出ておる光の指導霊というのは、何も「生長の家」にだけ出ておるのではないのです。他の団体にあっても、他の人びとのなかにも、光の天使が降りておる。このことについては、私はすでに、『生命の実相』のなかで語ったことであります。 すなわち、キリスト教にも、仏教にも、日本神道にも、あるいは、近代の流れのなかにおける天理教、金光教、黒住教、大本教などの他の教団のなかにも、光の指導霊、光の天使と言われる方がたが数多く出ていたのであります。であるならば、それは過去だけのことではなくて、現在ただ今も出ておるのだということを知らねばならぬのです。 私は、「生長の家」という団体が、その寛容の精神を失い、狭隘(きょうあい)な狭い心の団体になることを非常におそれておるのであります。この世で会員を何人集めたところで、死んであの世に還れば、それは何の意味もないのであります。実際、この地上で他団体だと思って、排斥したり、攻撃していた団体の中心人物が、あの世に還ってみると、同じく天使仲間であることを知って、後悔することが多い。それもまた、事実であります。 まあ、そうした事実を知ったならば、地上に降りた肉の眼でもって自分と他人、自と他を分けて、自分のためにのみ、自分の利益のためのみに行動を取るということは、非常に間違いであります。 正しき方向とは、いかに数多くの人類を救うかであって、人類を救うという目的のためには、数多くの同士がいてよいのです。「生長の家」のみが人類を救えて、「生長の家」以外は人類を救えないというような、そうした狭い考えを持っては、断じてならん。私は、このことをきつく申しておきたい。 3.「自らに厳しく」は宗教家特有の義務 これは歴史的に見てもそうであって、私の生命の実相哲学のなかにある、人類光明化の原理は、実はエマソンを幽祖とするアメリカのニューソートの流れと軌(き)を一(いつ)にするものであることは、私が繰り返し繰り返し、皆さんに説き来たり、説き去ったところの真実であります。アメリカでさえ、「生長の家」と同じ考えが出ておるのに、この日本に、ましてやその同じ流れが出ぬわけはないのであります。 宗教団体というのは、会社の経営とは違うのです。すなわち、正しき心の団体であるのだからして、どうか会社経営のようなつもりではやらないでほしいと深く深く希望するものであります。 幸いにして、二代目総裁として、谷口清超という非常に良き後継者を私は得ておるので、まあ、私が霊言集をこのように世に問うたところで、「生長の家」がどうこうなるものでないということに対して、万全の信頼を寄せておるものであります。 見渡して見ると、まあ、数多くの宗教団体があるけれども、たいてい二代目、三代目になるとダメになるのが例外のないことのようであります。しかし、我が「生長の家」にあっては、二代目総裁として、希有な後継者を得ることができたがために、私は、非常に満足をしております。 ましてや、「生長の家」以外の団体の者が、谷口雅春が教えは、真理に合致した正しい教えであったということを、このような形で証明しておるのだから、これに対して、大いに敬意と感謝の念を払わねばならぬ。私は、そのように思うのであります。 とくに三代目にあっては、まだ年も若いこともあって、さまざまなことに関し、判断がつきかねることが数多くあるようであるけれども、まだまだあなたは人生の修行の途次であって、完成された人間でないことをよくよく肝に銘じ、さらに十年、十五年は、人生修行の過程にあると思い、いたずらに人を指導しようと思わずに、まず、自らを磨いていくことに力を注ぎなさい。 人間は、自らが悟っておらんのに、人を悟らせることはできんのです。人の上に立つものであればあるほど、自らに厳しく、自らの悟りを求めてゆかねばならん。これは、宗教家特有の義務であります。そういう大きな義務を負って、この世に出ておるということです。ですから、このことを忘れてはならん。 谷口雅春の霊言集第一集が出て、全国の信徒からは、その九九パーセントは喜びの声というものが寄せられておるけれども、「生長の家」本部の内部において、自分たちの保身がために、この書を攻撃する人が一部にいたことを知って、私は、大変悲しく思ったものであります。 ましてや、幹部諸君を集めて、朝礼の場で、「神は霊媒にはかからぬから」と言って、谷口雅春霊言集をニセモノ呼ばわりするなどということは、あの世に還って、どのような反省をせねばいかんようになるか。そうしたことを、よくよく考えていただきたい。 ニセモノというのは、すぐにばれるものです。しかし、本物というものは、時間が経つにつれて、ますますはっきりとしてくるものです。本人が本人であると言っている、これは、やがて誰もが疑えなくなるものであります。 ですから、自己保存、あるいは、自団体保存のために、どうかつまらぬ中傷をしたり、批判をせぬように。本書の始めにあたって、このことだけを、強く願っておくものであります。寛容の精神が「生長の家」という団体になければ、今後、私もまた、地上を去ったあの世において、人類救済のために心おきなく活動することができんのです。 4.万教帰一理論の真髄 私は地上を去って、はるか如来界最上階段に現在おりますが、ここにおって我が考えるところは、「生長の家」の信徒は救うが、それ以外は教わんというような、そういう考えは持ってはおらんということです。仏教者であろうが、キリスト教者であろうが、天理教であろうが、何教であろうが、関係ない。私は、機会あるごとに、天上界においても、さまざまなところへ行って、講演しております。 それは、ひとり日本の霊人のみに対してなされておることではないのです。こちらの世界でも、私は、アメリカの霊域に行き、そこにて、英語で人類幸福化の原理を語ることもある。また、他の地域へと赴いて、語っておることもある。谷口雅春は、決して日本人のためだけに、日本人を救うためだけに、死後、活躍しておるのではありません。他の国の人びとをも、他の宗教の人びとをも救おうと思っておるし、また、こちらの世界に来て、新たに知り得た友人諸君とも共同して、活動をしておるのであります。地上におったとき、私は、万教は帰一だということを口をすっぱくして説いてまいりましたが、こちら、実相の世界に還って、ますますその感を強くしておるわけであります。 すなわち、万教は帰一と言いつつも、まだ、私の考えのなかには、万教は、「生長の家」に帰一するというような、そうしたひとりよがりが一部にあったことは否めないと反省しておるのであります。 万教が帰一ということは、万教は神に帰一するということであって、「生長の家」という団体に帰一することではないのです。そういうことを、こちらで、身をもって実感しているわけであります。こちらには、天使の数が大変に多く、私もまた、そのなかにおって、日々修行し、ともに語らい、どうやって世を明るくし、幸福にしていくかということを検討しているのであります。 5.人類幸福化運動として、現代に現われたる仏教の精神 さて、第1章では、「人類幸福化の原理」という題を選んでみたので、これについて、さらに詳しく話をしていきたいと、このように考えているわけであります。 今、「〇〇〇〇〇」という精神革命運動が起きておって、〇〇〇〇らが、人類幸福化運動というのを始めております。これはまあ、私が説いてきたところの人類光明化運動と軌(き)を一(いつ)にするものであろうと思います。 「生長の家」の教えというものが、どちらかと言えば、日本神道的な考えを基礎においていたのに対して、〇〇〇〇らがこの人類幸福化運動は、その根本において、仏教の精神を基盤としていることは否めないであろうと思うのです。 では、現代に現われたる仏教の精神とは、一体いかなるものでありましょうか。一体何をもって、現代的仏教の精神と言うのでしょうか。このことを、さらに検討してゆかねばならぬと思うものであります。 仏教とは、言うまでもなく、今から二千五百年以上昔に、釈尊(釈迦)という傑出した人物の登場をもって始まったわけであります。その釈尊が、八十年の人生において、説き来たり、説き去ったところの仏教の本質とは、一体何であるか。これを検討してみる必要があると思うのです。 仏教の教えというのは、結局において、まず第一に、自分づくりということでありました。この自分づくりということが、悟りを求めるということになってきたわけであります。では、なぜ仏教徒が悟りを求めてきたかと言えば、結局、この自分づくりという大きな目標があったからであります。 その第二は、大乗仏教の本質であるところの大衆布教であり、神理の広布でありました。これはすなわち、他人を救うということです。「自分から他人へ」というこの動きこそが、他ならぬ仏教の本質であったわけであります。 では、なぜ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)は、自分を救ってから他人を救うというこのような教えを説いたか。このことに関して、さらに検討をしてみたいと思うのであります。そうしてみると、ここに、現代の新興宗教の多くが反省すべき原点が見つかるわけであります。 反省すべき原点とは、一体何か。結局のところ、自らが悟っておらぬ者が、他人の頭に止まろうとしているハエを追い廻しておる、それが、現在の新興宗教の間違いの大部分であるということです。つまり、自分の頭に止まったハエを追わずして、他人の頭に止まろうとしているハエを追い廻しておる。そして、あるときはキリスト教の新興宗教といい、あるときは仏教系統の新興宗教といい、また、あるときは他の新興宗教といい、人を集めることに汲々(きゅうきゅう)として、それでもって、是(よ)しとしている。 しかし、自分の頭のハエを追わずして、他人の頭のハエばかりを追っておったのでは、いつまでたっても、ハエはいなくならん。他人の頭のハエを気にするのもいいけれども、まず、各人が、自分の頭の上のハエを追い払うことを考える。そうすれば、他人の頭の上のハエをそれほど追う必要もなくなる。こういうことです。 自分がそういう状況にありながら、他人を救おうとしていることが、私たちの霊的なる眼でみたらどれほど滑稽(こっけい)な姿であるか、これを知っていただきたいと思います。 6.自己犠牲の精神と自己処罰の観念 他人を幸福にしようという気持ちは尊いけれども、自己犠牲の精神でもって、つまり、自分を犠牲にして他人を教うという人ばかりが出てきておったのでは、結局、人類というのは、残らないわけであります。人類一般のために、自分を投げ出すという気持ちは尊いけれども、その結果どうなったかと言うと、まあ、神風特攻隊のようになってしまってはならんということです。 たとえ日本人全員が、神風特攻隊になって、敵艦に突っ込み、生命を捨てて、国を守ったとしても、国民がひとりもいなくなれば、それは何の意味もないこととなってしまいます。そういうことであって、やはり、ひとりひとりが幸せになってこそ、初めて、国全体が幸せになってくるのです。 このことは、ひとり仏教のみならず、中国の二千数百年の昔においても、孔子という偉大な人が説き来たった真理でもあります。修身という教えですね。身を修めて、次に家庭が円満となって、その後、治国、平天下、つまり、国が治まり、天下が平らかになる。こういうことを、孔子は言ったのだけれども、これも精神においては、仏教とまったく同じであります。すなわち、ひとりひとりが幸せになって、社会を、国を、幸せにしていこうとしているわけであります。 もちろん私は、キリスト教に言う自己犠牲というものを決して軽視するわけではありません。しかし、それが、ただ悲しみを追うためだけの自己犠牲になってしまってはならぬのです。自己犠牲のなかにも、いかにも悲しみを誘う自己犠牲というのがある。つまり、そうした人は、自己犠牲ということにおいて満足感を得ておるのかもしれないけれども、その人の自己犠牲において、あることが推進されたということは、周りの人びとにとっては、「何もしていないお前たちは罪人だ」とレッテルを貼られていることにもなりかねないわけであります。 と言っても、これは、あまり厳しく言うのは無理があるかと思います。なぜならば、キリストの人生そのものが十字架にかかるような悲劇的な人生であったがために、クリスチャンのなかには、そのような自己処罰観念が、いまだ連綿として続いておるからであります。そして、実は、この自己処罰観念が、長年、人類を苦しめてきたものであります。人間は罪の子であって、とうていそのままでは救われぬ。したがって、罪深き自分であるならば、罪人であるならば、その一身(いっしん)を投げ出して、やっと元に戻るのだ。こういう考え方があると思うのです。 しかしながら、私は、人間を罪人とするこうした考えに対しては、いささか不満を持っております。私は、本来、人類には罪はないと思うのです。本来には罪がない存在、それが、人類の本当の姿であろうと思うのです。そうでなければ、人間が神の子であるということが、決して真理にならないはずです。人間が罪の子であるならば、なぜその罪の子を神が創ったのか。そうした問いに対して、誰が答えることができるでしょうか。 アダムとエバが犯した原罪によって、人類が永遠に処罰されているというような観念、こうした観念を、本当に正気の人間は、信じることができるでありましょうか。 7.神の子の実相を知ることが小乗であり、万教帰一の思想が大乗である それは、結局、こういうことなのです。交通事故というのがあって、年々、日本でも一万人に近い人が亡くなっているそうであるけれども、この一万人近い死者が出る交通事故を見て、人間とは、交通事故を起こすような存在であるとの定義をするのが、人間罪の子の思想であります。しかし、それは現実の現象を説明しているのみであって、決して人間の本質を説明しているとは言えないと思うのです。 では、人間は車に乗れば、必ず事故を起こさねばならぬのか。オートバイに乗れば、電柱に衝突せねばならぬのか。道を歩いておれば、車に跳ねられねばならぬのか。と言えば、そんなことが人間の本質であってたまるかとなるでありましょう。 すなわち、諸君は、人間は交通事故を起こす存在であるというような、こういう人間観をただちに否定し去らねば、永遠に幸福になるということはできないのであります。 人間の本質は、正しい交通ルールを守って、非常に調和した生活を送ること。それが、やはり、その本分であるのです。本質であるのです。このことを知らねばならぬと思います。決して罪を犯すようにできているわけでもなければ、罪は実在でもない。このことを知らねばなりません。こうした考え方を出発点としなければ、本章の標題である、「人類幸福化」ということは、決して達成できんのであります。 罪の子人間が罪を滅らすことのみに汲々としておるようなことは、人類の幸福化ではないのです。本来、罪なく、汚(けが)れなき純粋無垢(じゅんすいむく)な神の子としての人間が、その本来の性質を取り戻して、そして、さらに素晴らしき大調和の世界を、ユートピアを建設することが、本当の人類を幸福にするための生き方なのではないでしょうか。 まず、自分というものをつくるという仏教の精神の話をしましたが、すなわちこれは、自分が神の子であるという実相をつかむということです。まず、神の子としての実相をつかむ。これが、出発点であります。 神の子としての実相をつかむがために、皆さんは、この私の書物のような真理の書を勉強しておるのではないですか。こうした真理の教えを勉強して初めて、それから後に、その実践ということがあるのではないですか。日々の実践ということがあるのではないでしょうか。知って、かつ、これを実践するということです。これが、人間神の子ということをはっきりと自覚するということになってくるわけです。 知行合一(ちぎょうごういつ)という、中国の王陽明という思想家の考えがありますけれども、これは、決して中国だけの思想ではなくて、現代の皆さんにとっても、非常に大切な考え方であります。まず、真理を知る。その真理とは何か。つまり、人間神の子であるという事実を知る。本質を知る。実相を知る。これが出発点であって、次に行、すなわち、行ないがくる。 行とは、神の子として行動するということです。したがって、もし自分に悩みや苦しみがさまざまに降りかかってくるのであるならば、神の子にこんな悩みがあるか、神の子にこんな苦しみがあるか、神の子がこんな罪を犯すか、神の子がこんな病気になるか、こういうことを常々心に問うて、勇気を持って、力強く行動していかねばならぬのです。 神の子ということをまず知るということ、これが、仏教で言えば、自分づくり、すなわち、小乗の教えに相当するものであります。 さてでは、仏教の大乗にあたる部分は、一体どうなるのであるか。こういうことが、問題でありましょう。これは、すなわち、人間神の子であるという思想をできるだけ多く広げるということではないでしょうか。 そのための手段のひとつとして、万教帰一の思想があるのではないでしょうか。一宗一派に登録すれば救われるとか、そこの会員になれば、それで天国に行けるとか。こういう狭いものの考えをしておったのでは、決して人類幸福化運動というのは実現しないわけであります。志を同じくする者が、日本国内、あるいは、海外を問わず、一致団結して、地上天国を打ち立てるために行動してこその本物であります。 したがって、もし他団体のなかに悪が見え、悪しきものが見えたとしても、それを邪宗として一蹴するのではなくて、彼らもまた、神の子であるのだから、しっかりと両足で立ち直って、神の子として神の国建設運動のために、彼らもまた、活躍してくれるであろうということを祈ることです。これが、大事です。 8.宗教家たちよ、お互いに手を取り合ってユートピアを築け ですから、現時点において、人類幸福化のために目的をひとつにしておる者同士は、手を取り合って、携(たずさ)え合う。自分が偉い、彼が偉いといったそういう議論はどうでもよいのです。そんなことではなくて、目的をひとつにしておる者は、手を取り合って、行動していくということです。 目的については、まだ漠然としておっても、一応人類幸福化ということを考えており、ただ、教義のなかに誤りがあって、そのため、迷っておる人たちに対しては、根強く、辛抱(しんぼう)強く、彼らを励まし、彼らが正しい方向に向くことを祈りながら、彼らをよい方向へと導いていくべきではないでしょうか。そして、やがては、すべての人が、ひとつの大きな使命のもとに生きていくべきではないでしょうか。現在、最もこの改革が求められているのが、宗教的な世界であります。 一宗一派に偏して、それぞれ、我こそは神の子、他は悪魔の子、こうしたことをやっておるのが、日本の宗教団体であります。こんなことをやっておるから、人びとはその不信感から、決して宗教というものに深入りしようとせんのであります。そうではなくて、本当に地上天国をつくろうとしておるのならば、ユートピアを本当にこの地上につくらんとしておるのであるならば、それを目指しておる宗教家同士が、まず、大調和、ユートピア世界というものを見せなさい。それが、あなたたちの使命なのです。 お前は仏教徒ではないか。お前はキリスト教徒ではないか、と。こんなことを言っておるから、おかしいのだ。キリスト教のなかでも、お前は何とか派だ、いや、何とか派だということで、互いに争っておる。また、仏教のなかでも、お前は自力門だ、他力門だと、こんなことを言って、争っておる。 要するに、人間というものは、狭い心にとらわれて、全体的統一ということを忘れてしまうからです。ですから、この大乗仏教の本質というものを現代に問うとするならば、まず、地上に出ておる宗教家たちは、どうやったらお互いに手を取り合って生きていけるか、と。このことをしっかりと学ばねばならぬのです。そして、努力せねばならぬ。 人間は、どうしても自分に対しては甘くなって、自分が偉ければ人は偉くない、人が偉ければ自分が偉くない、このように二者択一的なものに考えがちだけれども、本来、人間が神の子であるならば、どっちが偉い偉くないというのはないのです。みんな、偉いのです。そうした考えを基礎にして、皆んなで手を取り合って、どうか大きなユートピアの輪を広げていっていただきたい。私は、こう思います。 自分が幸せになり、そして、社会が幸せになっていくという考えこそが、現代に要請されている人類幸福化のための原理ではないでしょうか。私は、そう信ずるものであります。
https://w.atwiki.jp/ikiagaku/pages/110.html
魔法:滅世の神色剣(グラムドリング) 渇望:自分より強い力を持つ者を認めない(プライド) 効果:術者から数kmの範囲のあらゆる魔法を無効化する。 - 名無しさん 2012-06-03 17 05 09 魔法:貫断の暴虐剣(スティング) 渇望:暴れたい(暴力) 効果:レジスト系の魔法を無効化する。 - 名無しさん 2012-06-03 17 11 00 鎖蛇の怨嗟剣(オルクリスト) 渇望:奪われた物を取り返す(怨み) 効果:レジスト系の魔法を無効化する魔法を無効化する。 - 名無しさん 2012-06-03 17 17 30 魔法:病魔の晶球(アンドゥリル) 渇望:誰かに支えてほしい 効果:自分に状態異常ステ-タスを一つ付加する - 名無しさん 2012-06-03 17 25 32 魔法:闇に蠢くもの 渇望:目を背けたい 効果:黒い’アレ’を召喚する。 - 名無しさん 2012-06-03 17 30 36 魔法:自律振動(バイブレーション) 渇望:止まりたくない 効果:自分の身体の一部を振動させる。 - 名無しさん 2012-06-03 17 33 56 魔法:災禍欠陥(カラミティジャンク) 渇望:壊した物を元に戻したい 効果:壊れた物を元の姿に戻す、ただし戻した物は戻した時間から数えて約1時間でまた壊れる、更に三回は戻せない。 - 名無しさん 2012-06-03 17 48 45 魔法:自己犠牲(セルフ・サクリファイス) 渇望:誰かを護りたい 効果:術者の生命と引き換えに対象を一度だけ不治の病や寿命、危機的状況から免れさせる、ただしこの魔法は対象一人に付き一回しかできない - 名無しさん 2012-06-03 18 04 58
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/51439.html
【検索用 くらんへりぃそんく 登録タグ GUMI VOCALOID く ら・ディッツさん 曲 曲か 松本拓郎 蒼色系】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:ら・ディッツさん 作曲:ら・ディッツさん 編曲:ら・ディッツさん イラスト・動画:蒼色系(Twitter) ベース:松本拓郎(Twitter) 唄:GUMI 曲紹介 マリオネットのようにされてしまう 曲名:『クランベリィソング』 歌詞 (piaproより転載) 嫌われたくない一心 故に人の言う事はちゃんと守ってるが 自己犠牲、言葉の報酬 それでいいのか人生 クラクラクランベリィ かなり麻痺してる感覚 嬉し悲し楽しも今やどういうんだ 体裁ばっか気になって 馬鹿に化かし誤魔化す日々 パッパッパ 自由意思と自己尊重の欠如を知るも 無意義を証明 だが反証で神経衰弱 この世で一等思考停止と認めなくもないつもりではいるけど 何も出来ない つらいと言えば 皆つらいんだと 突き付けられたら最期 マリオネットのようにされてしまう 失望されるのが恐くて 金縛りが今日も倍々 悪くしたくない印象 取り繕った笑顔はまるで模範囚 喉を通らないベリーパイ 鏡から髑髏が見てる 思うより低い天井 ドス黒い感情が止めどなく漏れてく それすら情けなくなって 帰結する惰性の日々 パッパッパ 脳内会議 限界点に逃亡を可決 優しい声も散々聴取 明らかなるも 良心の呵責 トロリー問題 その他様々な軋みの狭間で 擦り切れてゆく 自分のために 人々のために 恣意的な正論だけで コントロールを奪われてしまう 自由、身勝手は紙一重 不確かな自責が倍々 自由意思と自己尊重の欠如を知るも 無意義を証明 だが反証で神経衰弱 この世で一等思考停止と認めなくもないつもりではいるけど 何も出来ない つらいと言えば 皆つらいんだと 突き付けられたら最期 マリオネットのようにされてしまう 失望されるのが恐くて 金縛りが今日も倍々 コメント 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/zoetropeprojekt/pages/158.html
シルカ / Sirka #image(ここに画像のURL) 種族 性別 女 身長 160cm 体重 56kg 生年月日 2067.0220 人物 幼い頃に、事故あるいは事件で死にかけ誰かに助けられることで命を繋いだものの、自分を助けた誰かはその時命を落としてしまっている。その経験から、多少形は歪んでしまったものの、自らの命と交換してでも誰かを助けるべきときあるいは助ける価値のある人間が現れると信じている。 ジェリコにその魂の輝きを見出している節がある。 センコローラの中でも最も危険な任務をこなす決死隊とも呼べる部隊を率いているが、部下からの信頼は厚く、互いに家族のように思っている。シルカのことはこれからの未来に必要な人材だという共通認識が部下たちの中に存在し、部下たちは無茶な行動をとりがちな彼女を身を挺して守ろうとする。しかし彼女はそれが不満な様子で、自分の命には彼らが命をかけるまでの価値はないと考えている。 能力 自身の身体能力を大幅に向上させ、痛覚や恐怖心など行動を躊躇わせる要因を排除する。 受けた傷と、身体能力向上によって自壊した部分も急速に回復する再生能力が得られ、能力使用時は不死性に近い再起能力も付与される。 能力発動時、獣のような声と動きをすることから理性が失われているように思えるが、実際には普段よりも思考はクリアになっている。 この能力と彼女自身の思想が彼女を自己犠牲に駆り立てている。 装備 T350AS チューブマガジン式のセミオートショットガン。 銃剣が取り付けられている。
https://w.atwiki.jp/jojobr2/pages/193.html
【名前】花京院典明 【出展】ジョジョの奇妙な冒険第三部 【種族】人間 【性別・年齢】男性・17歳(高校生) しし座 【外見】 学生服。結構良い体付きをしている。「当て身」など武術の心得もあるようだ。 髪型が独特でネコどらくん……ではなくドラえもんに登場するスネ夫のような髪型をしている。 【性格】 置かれた状況を分析して的確な判断をする。一方で自己犠牲的な精神を持っている。 【口調】 「レロレロレロレロレロレロレロレロレロレロ」 (チェリーを舐める時、転がして食べる習性あり) 「さあ お仕置きの時間だよベイビー」 かつてはDIOに肉の芽を植えつけられたスタンド使いとして承太郎を襲ったが最終的には仲間に。 それまで友人と呼べる人間はいなかった。(スタンド使いの自分は誰からもこの能力は理解されないと考え心を閉ざしたいた) そんなヒッキー生活のせいかゲームオタクになったらしく、レースゲーム「F-MEGA」でDIOの部下と対戦することになった際、 『花京院 きさま このゲームやり込んでいるなッ!』という敵の挑発に対して「答える必要はない」と答えた 【特異能力】 スタンド能力はハイエロファント・グリーン(法王の緑) 人間や物体の中に潜り込み、操ったり気配を探ったりできる。 力はそれ程でもないが、結界をはり巡らせることが出来たり射程範囲が数百mと超広かったりいろいろと便利な能力。 基本的に破壊力は低めだが、飛び道具の必殺技「エメラルド・スプラッシュ」(光の弾を連射する)は結構高い。 【備考】 連載当初、スタンド名は「ハイエロファント・エメラルド」だった。
https://w.atwiki.jp/tekitoudng/pages/68.html
十薬シブキ(とやく-) ■性別 女性 ■学年 1年 ■所持武器 絆 ■ステータス 攻撃力:0 防御力:0 体力:8 精神力:4 FS:18 ■FS名 友達を思う心 特殊能力名:アナタの為のこの命 効果1:攻撃力7上昇 56 効果2:移動力1上昇 50 効果3:防御力4上昇 32 範囲+対象:同マス一人 x1.0 時間:1ターン x1.0 時間付属:術者死亡非解除 x1.2 タイプ:付与型 スタイル:アクティブ 消費制約:自分死亡 55 非消費制約:陣営別名簿で自分の上下のキャラクターのみに有効 x0.72 FS:18 x2.8 効果数値:(56+50+32)*1.2*0.72=119.232 発動率:(100-119.232+55)*2.8=100.1504≒100% 発動率:100% 成功率:100% 対象キャラ 【生徒会】 探偵Gと秘書E子 虎子 能力原理 たった一人の友達を痛いほど思う自己犠牲の愛が、自らの命と引き換えにその人を強化する。 受ける相手の気持ちなんて知ったことじゃあない。愛なんて一方通行なもんだ。 キャラクター説明 十薬シブキは酷くおどおどした態度の女の子である。 その性格から、高校に上がっても友達なんかできないと思っていた。 しかしなんと高校生活初日、彼女に話しかけてくれたヤツがいたのだ! 理由なんてたまたま席が隣だっただけ程度のものだろう。 けれどシブキにとって、そいつが今でも唯一の友達なのである。 隣の席のヤツの意思なんてお構いなく、シブキはお前を友達だと思っているぞ!よかったね! 探偵Gと秘書E子へ移動<<|生徒会名簿へ移動|>>虎子へ移動
https://w.atwiki.jp/azalea/pages/92.html
ニミュエ・クレティエ・ディ・トロイエス(Nimue Chretie de Troyes) 何か間違ったライフォスマニア。奉仕活動とか自己犠牲とかに憧れるお年頃。 ザルツ地方の小さなエルフの里に生まれる。 ニミュエの里では、アステリア信徒たちと、ライフォス信徒たちとの間で、緩やかな対立が起こっていた。ライフォス神官の娘であるニミュエは、アステリア系のエルフたちとの折衝なども果たしながら、ライフォスと里のために最大限努力しようと務めていた。 ある時ニミュエは、里で行われた水泳大会で、アステリア信徒の熟練スイマーと対戦。勝利したはいいものの、体力を使い果たしてゴール後に溺れかけたりした。 (一方その頃、同郷のナイトメア・クロエは、大会に参加せずに家に引きこもっていた) そのように、里のためライフォスのため、常に全力で尽くそうとしてきたニミュエだったが、ある時転機が訪れる。 里の融和のため、ニミュエはアステリア系の代表的な神官の息子と結婚するように決められていたが、その婚約者は真実の愛に目覚めたとか何かで他の女性を選び、ニミュエとの婚約を破棄してしまった。 恋愛感情の類はなかったので、そういう意味でのショックは受けなかったが、彼との婚姻により里のために最大限に力を尽くすという目的を果たせなくなったため、もっと大きな法悦を求めて、旅に出ることにした。 プロフィール 種族 エルフ 性別 女性 年齢 44歳 誕生日 8/21 身長 164cm 体重 48kg 出身 ザルツ地方の南東部、とある湖畔のエルフの集落。先住民と移民の間で微妙な対立が続いていた。 家族構成 父、母
https://w.atwiki.jp/place0to0stay/pages/240.html
名前:周防 翔(すおう かける) 属性:攻 相手:真野 聡 年齢:17 誕生日:10月28日 血液型:B 職業:高校2年 性格: 温厚な平和主義者。 常に明るく振る舞い笑顔を絶やさない。 心配性だが、自分が誰かに心配をかけることは嫌い。 面倒見がよくお人好し。だが自己犠牲精神は嫌い。 何事にも真剣で一生懸命に取り組む。 大人しいが自分の意志を大切にする。 世辞の類は言わず割と毒舌。 容姿: 短く明るめの茶髪。染めているわけではなく天然。 目は同色の瞳で大きめの奥二重。 全体的に色素が薄い。 身長173センチほど。 一人称:俺 趣味・特技:読書・ゲーム 嫌い・苦手:病院・1人 家族構成:叔父、叔母、従弟 (父、母) 備考: 叔父・叔母・従弟との4人暮らし。 小学生のときに両親が離婚し、どちらも翔を引き取ることを拒否したため、伯母の家で世話になっている。 小学生の頃、病気で長期に渡り入院生活を送った事があり、両親が引き取りを拒否したのも病気が要因。 今では運動しても問題ないが、未だに定期的に通院している。 入院していたときに仲良くなった少年を亡くして以来、死に敏感。自殺や殺人などを特に嫌う。 聡とは中学が同じ。高校では同じテニス部。 充の死以来変わってしまったことを気にしていた。 追加メモ: 免疫系が弱く風邪などを引きやすい。 体調を崩すと悪化しやすいため予防は欠かさず、少しでも自覚症状がある場合はすぐに休んでいる。 テニス部に所属しているが、体調のことがあるので実力はあっても試合には出れない場合が多い。