約 449,912 件
https://w.atwiki.jp/dlite/pages/81.html
■キャラクター名 裸繰埜鵺岬晒&裸繰埜矢岬弓 ■性別 女性 ■ステータス 攻撃力:0/防御力:14/体力:13/精神力:0/FS(命数):3 ■能力名 視肉プロップマン&少女アポトーシス(発動率90%) ■特殊能力内容 半径2マス内の一人に自身の体力依存ダメージを与える。 この能力で対象が死亡した場合、周囲1マスに起こる精神減少は1ではなく3になる。成功率は相手の精神に依存し、使用するたびに体力を6消費する。 ●特殊能力原理 α:視肉プロップマン 姉:晒(さらす)の能力。 自他の彼我境界線を曖昧にし、受容する能力。拒絶反応を起こさない自家製キメラ。 β:少女アポトーシス 妹:弓(ゆみ)の能力。 自他の彼我境界線を明確にし、拒絶する能力。肉塊から切り出した私たちのガラテア。 混沌とした彼女の全体像を見ることが出来たなら恐ろしくも悍ましい膂力を期待するかもしれない。 実際は彼女達が十分制御できる範囲は限られている。肉塊が自重に負けないよう動かすくらいである。 敵も無意識の内に肉塊を避けているため、簡単に捕まるような愚か者もそうはいないだろう。 そこで弓は肉塊を魅力的なものに擬態させ、獲物を引き付けている。 切り離した肉片を寄生させた後、自殺命令(アポトーシス)を発して殺しているのだ(爆発四散)。 情緒不安定・発狂した敵に肉塊は魅力的な存在に見えるらしく、苦も無く仕事をこなせたりする。 ■キャラクター説明 血統に依らず精神的繋がりを以て形成される異能殺人集団『裸繰埜一族』に属す二心一体の姉妹。 外見は虹色が鮮やかなグラデーションを彩った髪と瞳を有する美少女。 ただし、これは彼女たちを構成する組織の一%に満たない。 彼女達の本質は混沌とした大質量の肉塊である。 人間に見える部位は社会生活を営むためのコミュニケーション・ツールに過ぎない。 大部分の肉塊は人間部分を中心に粘菌やアメーバのような構造で広範囲に散らばっている。 肉塊は人体由来の臓器や四肢が主要な構成材料であり、グロテスクだがそれだけでない。 所々に甲殻類や頭足類、鳥類、哺乳類、菌類、その他諸々の動植物に由来する構造が散見される。 具体的には触手、複眼、歩脚、翼、翅、歯牙、子実体などが見て取れ、必要に応じて引き出されている。 上記の通り、世界(文章)に明確な記述を拒絶されるほど醜悪で怖気が走る造形をしている。 そのため一般的な人間や魔人は肉塊を見ようとしない。事実上、見えていないも同然である。 人間部分は不自然さこそあるが可憐。明るくて人当たりの良い性格のため、皆は進んで騙されている。 元は新進気鋭の若き生物学者「晒名加覧(さらしな・からん)」博士の作品。 晒名は医術の名門「藍堂(らんどう)家」に連なる家であり、彼女も優秀な医学者だった。 素体とされた胎児は自身の名を冠した「晒」と名付けられ、彼女なりに愛情深く生育していた。 彼女の研究テーマは自我の形成もあやふやな胎児に個我を与えることだった。 魔人能力と知能を与えることを目標とし成功させたが、ある意味では失敗に終わる。 目覚めた能力は「自己と非自己の区別をなくし、すべての有機生命を己に取り込む」と言うものだった。 際限なく秩序なく、ありとあらゆる生物と融合し続けたキメラはどんな化物になるか? 研究所内の研究員まで、すべてを取り込んだ「晒」は増大した質量とともに外界へ飛び出さんとする。 なお、この時点で母胎・加覧の意識は晒の動物的本能と混濁する自我に押し負けて消失している。 ここで母と「晒」からは認識されていなかった双子の片割れ(妹)が魔人覚醒してストップをかける。 紆余曲折あって姉妹は和解し、研究所に残されていた教材によって学習を進めることになった。 この際に、妹主導の下で対人用部位を本体から切り出す形で成型している。 裸繰埜にスカウトされたのは理想の少女の体のために材料集めをしていた時である。 男の好みは異なり、姉妹で別の裸繰埜一族男性に恋しているが、それとは別に一族への帰属意識は高い。 「矢岬」と「弓」は肉片を飛ばしていたところを由縁して一族男性に名付けられたものである。 姉はおっとり系サディスト、妹はきびきび系ナルシストと性格は大きく異なる。 姉はまったりと、妹はツンケンに物事を言うタイプ。ただしどちらも仕事は真面目にこなす質である。 普通の人間とは精神構造が異なるのか、殺人については生命活動の延長程度に考えている。 ■当日参加率 必ず参加できる(○)
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/1393.html
政治的スタンス 論者 内容 (1) 保守主義 百地章 「立憲主義とは、国家の統治が憲法にもとづいて行われることである。」(『憲法の常識 常識の憲法』p.32) (2) リベラル右派 阪本昌成 (1) 立憲主義の意義先の [1] で私は、《統治とは、国家機関を通して為す、一元的・統一的な権力支配だ》と述べた。統治は、限られたリソースを巡る利害の対立を調整しながら、その配分のあり方を権力的に決定する恒常的かつ永続的な国家作用である。この権力的、永続的な統治活動の牙を抜いて正当な枠に閉じ込めようとするにが、規範的意味での国制の役割である。統治を、流動的で恣意的な政治に委ねることなく、国制のもとに規律し安定化させる思考を「立憲主義 constitutionalism」という。近代国家が規範的意味での国制によって統制されるに至った段階のものは、「近代立憲主義国家」といわれる。これは、国家という強制の機構から各人の「自由」を擁護する、統治上のルールとしての憲法をもっている国家のことである。(『憲法1 国制クラシック』p.26) (2) 立憲主義の展開(中略)自然権の保全と権力分立という二つの要素を憲法の必須要素だと明言したのが、フランス人権宣言16条の「権利の保障が確保されておらず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法を持たない」という有名なフレーズである。この二つの要素を満たす憲法を「立憲主義的憲法」と一般にいわれることがある。つまり、《憲法とは、人権宣言と権力分立を含む成文の法文章だ》、 《この法文章は、国家樹立の際の社会契約および憲法協約を成文化したものであるから、主権者をも統制する法力をもっている》という思想である。 今日、立憲主義を想起する場合、人々の脳裏に浮かぶのは、一般にこのタイプである。が、フランス人権宣言とその16条は近代立憲主義のモデルではなく、「このタイプだ」と簡単に片付けることは正確でない。フランス的立憲主義とアメリカ的立憲主義は、憲法に関する見方を大きく異にしているのだ。 〔D〕近代立憲主義の枝分かれフランス型は、憲法をあるべき国家の最適モデルに適合させようとする理論に従って設計しようとした。なかでも、憲法を制定する力を民主的に創造するための人為的理論が最重要視された。これが、後の [39] でふれる憲法制定権力の理論である。人権も、まったく新たに創設され、最適規範に相応しい内容を人為的に持たされた。人権は、人が精神的にも物質的にも、あるべき姿となるための規範だった。こうした憲法のモデルが理論通りには運ばないと判明したときには、また別の理論に従って人為的に憲法が制定された。フランスの憲法は、何度も何度も制定されては軌道修正された。そして、結局のところ、自由の構成(constitution)に失敗したのだった。これに対してアメリカ型は、経験と伝統とを基礎とする憲法制定の道を辿った。理論的な最適規範を設計したところで、上手く定着することはない、と建国の父たちは知り尽くしていた。それと同時に、憲法制定会議を頻繁に開設して討議を繰り返すと、統治力学の振り子が大きく揺れ過ぎることも予知していた。建国の父たちは、モンテスキューが理想としていた「中庸な統治体制=混合政体」から多くを学んだ(合衆国憲法はJ. ロック(1632~1704年)の影響を受けて制定された、といわれることがあるが、これは誤診だと私は考えている)。合衆国憲法が、House of the Senates(通常、「上院」と訳される元老院=貴族政的要素+連邦制)と House of the Representatives(通常、「下院」と訳される庶民院=民主政的要素)という権力分立、さらには、大統領という「民主化された君主」を置いたのは、そのためだった。また、アメリカ建国の父たちは、人間の理性・知性の限界を知っていた。人間は、有徳の存在ではなく、権力欲に満ちており、私利を追求するにあたって公共の利益を口にすること等々を建国の父たちは知っていた。合衆国憲法は、人権保障にあたっても、“自然権を実定化する”とは考えなかった。権利章典(Bill of rights)は、歴史的・経験的に徐々に姿を現してきた人の権利を確認するものだった(*注1)。 (*注1) アメリカ合衆国憲法における権利章典について 合衆国憲法にみられる「個人の自由と権利」は、自然権思想の影響をさほど受けてはいない。そこでのカタログは、歴史的にそれまで存在してきた権益を確認したものである。『憲法2 基本権クラシック』 11頁を参照願う。 (3) 立憲主義のふたつのモデル - 法の支配か民主主義か以上のように、一言で「近代立憲主義」という場合でも、一方には純粋理論型または超越型があり、他方には経験型・伝統重視型がある。見方を換えていえば、フランス型は 民意を統治過程に統合するなかで同時に自由を作り出すための憲法構造を理論的に追究したのに対して、アメリカ型は 多元的な民意を統治過程に多元的に反映させる憲法構造を伝統のなかから発見しようとしたのだった。アメリカ型立憲主義は、《個人の権利自由を擁護するための制度的装置として権力分立制を用意する》とよくいわれる。他方、憲法の民主化を重視するフランスにあっては、議会に反映される一般意思のもとに行政と司法を置くことが、その眼目であると考えられた。J. ルソー(1712~1778年)の影響だろう。そのために、議会中心の統治が理想とされた。これに対して、合衆国憲法は、モンテスキューの理論モデルを参考としながら、民主主義を万能としない権力分立制を導入した。アメリカ憲法は、「立憲主義=法の支配=権力分立」という等式を基礎として制定されたのである。 立憲主義のモデルをアメリカに求める人物は、《立憲主義とは、法の支配と同義であり、それは民主主義の行き過ぎに歯止めをかける思想でもある》と考える傾向にある。これに対して、立憲主義モデルをフランスに求める人は、「立憲民主主義」という言葉を多用する傾向がある。後者は、「立憲」の中に権力分立と人権尊重の精神を含め、「民主主義」の中に、「国民主権」と議会政を含めているようである(民主主義の中に人権尊重を忍び込ませる論者もいる)。が、それらの一貫した関連性をそこに見て取ることは困難であるように私にはみえる(自由主義と民主主義との異同については、後の [26] でふれる)。 私は、《立憲主義とは、誰が主権者であっても、また、統治権がいかに民主的に発動されている場合であっても、主権者の意思または民主的意思を法のもとに置こうとする思想だ》と考えている。 本書が「立憲民主主義」という言葉を決して用いないのは、そのためである。(『憲法1 国制クラシック』p.31) (3) リベラル左派 長谷部恭男 近代以降の立憲主義とそれ以前の立憲主義との間には大きな断絶がある。近代立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提とし、さまざまな価値観・世界観を抱く人々の公平な共存をはかることを目的とする。それ以前の立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提としていない。むしろ、人としての正しい生き方はただ一つ、教会の教えるそれに決まっているという前提をとっていた。正しい価値観・世界観が決まっている以上、公と私を区別する必要もなければ、信仰の自由や思想の自由を認める必要もない。(長谷部恭男『憲法とは何か』p.69) ・・・近代ヨーロッパで立憲主義が成立する経験においては、宗教戦争や大航海を通じて、この世には比較不能な多様な価値観が存在すること、そして、そうした多様な価値観を抱く人々が、それにもかかえわらず公平に社会生活の便宜とコストを分かち合う社会の枠組みを構築しなければならないこと、これらが人々の共通の認識となっていったことが決定的な意味を持っている。立憲主義を理解する際には、…制度的な徴表のみにとらわれず、多様な価値観の公平な共存という、その背後にある目的に着目する必要がある。(長谷部恭男『憲法とは何か』p.71) ヨーロッパでの成立の経緯に照らしてみればわかるように、立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便益とコストを公正に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念である。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.178) そのためには、生活領域を公と私とに人為的に区別すること、社会全体の利益を考える公の領域には、自分が一番大切だと考える価値観は持ち込まないよう、自制することが求められる。・・・そうした自制がないかぎり、比較不能な価値観の対立は、「万人の万人に対する闘争」を引き起こす。・・・(中略)・・・。立憲主義はたしかに西欧起源の思想である。しかし、それは、多様な価値観の公正な共存を目指そうとするかぎり、地域や民族にかかわりなく、頼らざるをえない考え方である。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.178) 立憲主義にもとづく憲法・・・は、人の生きるべき道や、善い生き方について教えてくれるわけではない。それは、個々人が自ら考え、選びとるべきものである。憲法が教えるのは、多様な生き方が世の中にあるとき、どうすれば、それらの間の平和な共存関係を保つことができるかである。憲法は宗教の代わりにはならない。「人権」や「個人の尊重」もそうである。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.179) 立憲主義は現実を見るように要求する。世の中には、あなたと違う価値観を持ち、それをとても大切にして生きている人がたくさんいるのだという現実を見るように要求する。このため、立憲主義と両立しうる平和主義にも、おのずと限度がある。現実の世界でどれほど平和の実現に貢献することになるかにかかわりなく、ともかく軍備を放棄せよという考え方は、「善き生き方」を教える信仰ではありえても、立憲主義と両立しうる平和主義ではない。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.179) 「立憲主義ということばには、広狭二通りの意味がある。本書で「立憲主義」ということばが使われるときに言及されているのは、このうち狭い意味の立憲主義である。広義の立憲主義とは、政治権力あるいは国家権力を制限する思考あるいは仕組みを一般的に指す。「人の支配」ではなく「法の支配」という考え方は広義の立憲主義に含まれる。古代ギリシャや中世ヨーロッパにも立憲主義があったといわれる際に言及されているのも広義の立憲主義である。他方、狭義では、立憲主義は、近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みを指す。この意味の立憲主義は近代立憲主義ともいわれ、私的・社会的領域と公的・政治的領域との区別を前提として、個人の自由と公共的な政治の審議と決定とを両立させようとする考え方と密接に結びつく。二つの領域の区分は、古代や中世のヨーロッパでは知られていなかったものである。」(『憲法とは何か』p.68) (4) 左翼 芦部信喜 ※芦部は「近代立憲主義(あるいは現代立憲主義)は~という性質を持っている」とその属性を述べるものの、「立憲主義とは何か」という肝心の概念論・理念論に関しては慎重に口を閉ざしている。これは芦部の憲法論が英米圏で主流となっている「立憲主義」や「法の支配」の概念・理念理解とは実は無縁の古いドイツ系法学に依拠していることに原因がある。⇒芦部の後継者である高橋和之も同様。 (5) 中間 佐藤幸治 ※佐藤も芦部と同様に、「近代立憲主義」と「現代立憲主義」を対比して言及するものの、立憲主義そのものの概念・理念の説明はない。つまり芦部や佐藤の世代ではベースがまだドイツ系法学であったために、英米系の「立憲主義」「法の支配」といった概念・理念を英米圏の用法の通りに消化できていないのである。
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/165.html
政治的スタンス 論者 内容 (1) 保守主義 百地章 「立憲主義とは、国家の統治が憲法にもとづいて行われることである。」(『憲法の常識 常識の憲法』p.32) (2) リベラル右派 阪本昌成 (1) 立憲主義の意義先の [1] で私は、《統治とは、国家機関を通して為す、一元的・統一的な権力支配だ》と述べた。統治は、限られたリソースを巡る利害の対立を調整しながら、その配分のあり方を権力的に決定する恒常的かつ永続的な国家作用である。この権力的、永続的な統治活動の牙を抜いて正当な枠に閉じ込めようとするにが、規範的意味での国制の役割である。統治を、流動的で恣意的な政治に委ねることなく、国制のもとに規律し安定化させる思考を「立憲主義 constitutionalism」という。近代国家が規範的意味での国制によって統制されるに至った段階のものは、「近代立憲主義国家」といわれる。これは、国家という強制の機構から各人の「自由」を擁護する、統治上のルールとしての憲法をもっている国家のことである。(『憲法1 国制クラシック』p.26) (2) 立憲主義の展開(中略)自然権の保全と権力分立という二つの要素を憲法の必須要素だと明言したのが、フランス人権宣言16条の「権利の保障が確保されておらず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法を持たない」という有名なフレーズである。この二つの要素を満たす憲法を「立憲主義的憲法」と一般にいわれることがある。つまり、《憲法とは、人権宣言と権力分立を含む成文の法文章だ》、 《この法文章は、国家樹立の際の社会契約および憲法協約を成文化したものであるから、主権者をも統制する法力をもっている》という思想である。 今日、立憲主義を想起する場合、人々の脳裏に浮かぶのは、一般にこのタイプである。が、フランス人権宣言とその16条は近代立憲主義のモデルではなく、「このタイプだ」と簡単に片付けることは正確でない。フランス的立憲主義とアメリカ的立憲主義は、憲法に関する見方を大きく異にしているのだ。 〔D〕近代立憲主義の枝分かれフランス型は、憲法をあるべき国家の最適モデルに適合させようとする理論に従って設計しようとした。なかでも、憲法を制定する力を民主的に創造するための人為的理論が最重要視された。これが、後の [39] でふれる憲法制定権力の理論である。人権も、まったく新たに創設され、最適規範に相応しい内容を人為的に持たされた。人権は、人が精神的にも物質的にも、あるべき姿となるための規範だった。こうした憲法のモデルが理論通りには運ばないと判明したときには、また別の理論に従って人為的に憲法が制定された。フランスの憲法は、何度も何度も制定されては軌道修正された。そして、結局のところ、自由の構成(constitution)に失敗したのだった。これに対してアメリカ型は、経験と伝統とを基礎とする憲法制定の道を辿った。理論的な最適規範を設計したところで、上手く定着することはない、と建国の父たちは知り尽くしていた。それと同時に、憲法制定会議を頻繁に開設して討議を繰り返すと、統治力学の振り子が大きく揺れ過ぎることも予知していた。建国の父たちは、モンテスキューが理想としていた「中庸な統治体制=混合政体」から多くを学んだ(合衆国憲法はJ. ロック(1632~1704年)の影響を受けて制定された、といわれることがあるが、これは誤診だと私は考えている)。合衆国憲法が、House of the Senates(通常、「上院」と訳される元老院=貴族政的要素+連邦制)と House of the Representatives(通常、「下院」と訳される庶民院=民主政的要素)という権力分立、さらには、大統領という「民主化された君主」を置いたのは、そのためだった。また、アメリカ建国の父たちは、人間の理性・知性の限界を知っていた。人間は、有徳の存在ではなく、権力欲に満ちており、私利を追求するにあたって公共の利益を口にすること等々を建国の父たちは知っていた。合衆国憲法は、人権保障にあたっても、“自然権を実定化する”とは考えなかった。権利章典(Bill of rights)は、歴史的・経験的に徐々に姿を現してきた人の権利を確認するものだった(*注1)。 (*注1) アメリカ合衆国憲法における権利章典について 合衆国憲法にみられる「個人の自由と権利」は、自然権思想の影響をさほど受けてはいない。そこでのカタログは、歴史的にそれまで存在してきた権益を確認したものである。『憲法2 基本権クラシック』 11頁を参照願う。 (3) 立憲主義のふたつのモデル - 法の支配か民主主義か以上のように、一言で「近代立憲主義」という場合でも、一方には純粋理論型または超越型があり、他方には経験型・伝統重視型がある。見方を換えていえば、フランス型は 民意を統治過程に統合するなかで同時に自由を作り出すための憲法構造を理論的に追究したのに対して、アメリカ型は 多元的な民意を統治過程に多元的に反映させる憲法構造を伝統のなかから発見しようとしたのだった。アメリカ型立憲主義は、《個人の権利自由を擁護するための制度的装置として権力分立制を用意する》とよくいわれる。他方、憲法の民主化を重視するフランスにあっては、議会に反映される一般意思のもとに行政と司法を置くことが、その眼目であると考えられた。J. ルソー(1712~1778年)の影響だろう。そのために、議会中心の統治が理想とされた。これに対して、合衆国憲法は、モンテスキューの理論モデルを参考としながら、民主主義を万能としない権力分立制を導入した。アメリカ憲法は、「立憲主義=法の支配=権力分立」という等式を基礎として制定されたのである。 立憲主義のモデルをアメリカに求める人物は、《立憲主義とは、法の支配と同義であり、それは民主主義の行き過ぎに歯止めをかける思想でもある》と考える傾向にある。これに対して、立憲主義モデルをフランスに求める人は、「立憲民主主義」という言葉を多用する傾向がある。後者は、「立憲」の中に権力分立と人権尊重の精神を含め、「民主主義」の中に、「国民主権」と議会政を含めているようである(民主主義の中に人権尊重を忍び込ませる論者もいる)。が、それらの一貫した関連性をそこに見て取ることは困難であるように私にはみえる(自由主義と民主主義との異同については、後の [26] でふれる)。 私は、《立憲主義とは、誰が主権者であっても、また、統治権がいかに民主的に発動されている場合であっても、主権者の意思または民主的意思を法のもとに置こうとする思想だ》と考えている。 本書が「立憲民主主義」という言葉を決して用いないのは、そのためである。(『憲法1 国制クラシック』p.31) (3) リベラル左派 長谷部恭男 近代以降の立憲主義とそれ以前の立憲主義との間には大きな断絶がある。近代立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提とし、さまざまな価値観・世界観を抱く人々の公平な共存をはかることを目的とする。それ以前の立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提としていない。むしろ、人としての正しい生き方はただ一つ、教会の教えるそれに決まっているという前提をとっていた。正しい価値観・世界観が決まっている以上、公と私を区別する必要もなければ、信仰の自由や思想の自由を認める必要もない。(長谷部恭男『憲法とは何か』p.69) ・・・近代ヨーロッパで立憲主義が成立する経験においては、宗教戦争や大航海を通じて、この世には比較不能な多様な価値観が存在すること、そして、そうした多様な価値観を抱く人々が、それにもかかえわらず公平に社会生活の便宜とコストを分かち合う社会の枠組みを構築しなければならないこと、これらが人々の共通の認識となっていったことが決定的な意味を持っている。立憲主義を理解する際には、…制度的な徴表のみにとらわれず、多様な価値観の公平な共存という、その背後にある目的に着目する必要がある。(長谷部恭男『憲法とは何か』p.71) ヨーロッパでの成立の経緯に照らしてみればわかるように、立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便益とコストを公正に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念である。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.178) そのためには、生活領域を公と私とに人為的に区別すること、社会全体の利益を考える公の領域には、自分が一番大切だと考える価値観は持ち込まないよう、自制することが求められる。・・・そうした自制がないかぎり、比較不能な価値観の対立は、「万人の万人に対する闘争」を引き起こす。・・・(中略)・・・。立憲主義はたしかに西欧起源の思想である。しかし、それは、多様な価値観の公正な共存を目指そうとするかぎり、地域や民族にかかわりなく、頼らざるをえない考え方である。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.178) 立憲主義にもとづく憲法・・・は、人の生きるべき道や、善い生き方について教えてくれるわけではない。それは、個々人が自ら考え、選びとるべきものである。憲法が教えるのは、多様な生き方が世の中にあるとき、どうすれば、それらの間の平和な共存関係を保つことができるかである。憲法は宗教の代わりにはならない。「人権」や「個人の尊重」もそうである。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.179) 立憲主義は現実を見るように要求する。世の中には、あなたと違う価値観を持ち、それをとても大切にして生きている人がたくさんいるのだという現実を見るように要求する。このため、立憲主義と両立しうる平和主義にも、おのずと限度がある。現実の世界でどれほど平和の実現に貢献することになるかにかかわりなく、ともかく軍備を放棄せよという考え方は、「善き生き方」を教える信仰ではありえても、立憲主義と両立しうる平和主義ではない。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.179) 「立憲主義ということばには、広狭二通りの意味がある。本書で「立憲主義」ということばが使われるときに言及されているのは、このうち狭い意味の立憲主義である。広義の立憲主義とは、政治権力あるいは国家権力を制限する思考あるいは仕組みを一般的に指す。「人の支配」ではなく「法の支配」という考え方は広義の立憲主義に含まれる。古代ギリシャや中世ヨーロッパにも立憲主義があったといわれる際に言及されているのも広義の立憲主義である。他方、狭義では、立憲主義は、近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みを指す。この意味の立憲主義は近代立憲主義ともいわれ、私的・社会的領域と公的・政治的領域との区別を前提として、個人の自由と公共的な政治の審議と決定とを両立させようとする考え方と密接に結びつく。二つの領域の区分は、古代や中世のヨーロッパでは知られていなかったものである。」(『憲法とは何か』p.68) (4) 左翼 芦部信喜 ※芦部は「近代立憲主義(あるいは現代立憲主義)は~という性質を持っている」とその属性を述べるものの、「立憲主義とは何か」という肝心の概念論・理念論に関しては慎重に口を閉ざしている。これは芦部の憲法論が英米圏で主流となっている「立憲主義」や「法の支配」の概念・理念理解とは実は無縁の古いドイツ系法学に依拠していることに原因がある。⇒芦部の後継者である高橋和之も同様。 (5) 中間 佐藤幸治 ※佐藤も芦部と同様に、「近代立憲主義」と「現代立憲主義」を対比して言及するものの、立憲主義そのものの概念・理念の説明はない。つまり芦部や佐藤の世代ではベースがまだドイツ系法学であったために、英米系の「立憲主義」「法の支配」といった概念・理念を英米圏の用法の通りに消化できていないのである。
https://w.atwiki.jp/welovejapan/pages/168.html
http //nokan2000.nobody.jp/switz/index.html http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1257547495/228 [ ニュース速報+ ] 【政治】 民主党、なぜいま外国人参政権法案?…暗躍する民団と民主党推進派、慎重派は「左翼政党に見られる」と危惧★3 213 名前:名無しさん@十周年 [sage]: 2009/11/07(土) 09 07 28 ID Iu1OAuL80 (3) スイス政府著 民間防衛 ①228ページ「敵は同調者を求めている」より 国を内部から崩壊させるための活動は、スパイと新秩序のイデオロギーを信奉する者 の地下組織をつくることから始まる。 この地下組織は、最も活動的で、 かつ危険なメンバーを、国の政治上層部に潜り込ませようとするのである。 彼らの餌食となって利用される「革新者」や「進歩主義者」なるものは、 新しいものを持つ構えだけはあるが、社会生活の具体的問題の解決には不慣れな知識階級の中から、 目を付けられて引き入れられることが、よくあるものだということを忘れてはならない。 数多くの組織が、巧みに擬装して、社会的進歩とか、正義、すべての人の福祉の追及、 平和というような口実のもとに、いわゆる「新秩序」の思想を少しずつ宣伝していく。 この「新秩序」は、すべての社会的不平等に終止符を打つとか、世界を地上の楽園に変えるとか、 文化的な仕事を重んじるとか、知識階の耳に入りやすい美辞麗句を用いて…。 不満な者、欺かれた者、弱い者、理解されない者、落伍した者、こういった人たちは、 すべて、このような美しいことばを気に入るに違いない。ジャーナリスト、作家、 教授たちを引き入れることは、秘密組織にとって重要なことである。 彼らの言動は、せっかちに黄金時代を夢見る青年たちに対して、特に効果的であり、 影響力が強いから。また、これらのインテリたちは、ほんとうに非合法な激しい活動はすべて避けるから、 ますます多くの同調者を引きつけるに違いない。彼等の活動は、“表現の自由”の名のもとに行われるのだ。 220 名前:名無しさん@十周年 [sage]: 2009/11/07(土) 09 09 38 ID Iu1OAuL80 (3) スイス民間防衛 ②236ページ「敵は意外なやりかたで攻めてくる」より ある国家元首の「政治的告白」と題する著書から。 われわれは、勝利に達するまでわが道を倦むことなく歩み続ける。われわれは敵を憎む。 彼らを容赦なく滅ぼそう。武器による戦いに比べ費用のかからぬやり方で、 敵を滅ぼすことができるのだ。「魅力」で魅きつける宣伝は、われわれの手中にある効果的な武器だ。 われわれは、われわれの意図するところを、美しい装飾で包みかくさなくてはならない。 文化は立派な隠れみのに利用できる。 音楽、芸術、旅行などの口実で、仲間をつくろう。 展覧会とスポーツの祭典を組織し、利用しよう。わが国に旅行者を引き寄せ、 彼らにわれわれの優越性を納得させよう。これらの「文化交流」は、事実は一方通行としなければならぬ。 わが国に、われわれの教養や生活様式にとって好ましくない退廃的思想、新聞、書籍、 映画、ラジオ放送、テレビ放送のどのようなものも入れさせないようにしよう。 科学の面では、できるだけ多く受け取り、少なく与えるようにしよう。 彼らは愚かで退廃的だから、われわれの企てのなすがままになるだろう。 われわれが彼らに与えるフリをすれば、いい気持ちになってしまうだろう。 彼らは、われわれの政治的思想は信じまいとするが、だんだんそれに侵されていくだろう。 このようにして、われわれは、彼らの首に彼らを締め付ける輪をかけるのだ・・・ 228 名前:名無しさん@十周年 [sage]: 2009/11/07(土) 09 11 50 ID Iu1OAuL80 (3) スイス民間防衛 ③237ページ 「自由と責任」より 民主主義は個人の意見を尊重する。これが民主主義のもっとも大きい長所の一つである。 民主主義国家では、個人の私的な言動にまで介入することはない。 報道、ラジオ、テレビは自由である。各人は、自己の気に入った政党を選ぶことができる。 「自由」が空虚なことばでない国、自由の内容がちゃんと充実している国では、 このようになっている。しかし、国家は共同社会を守らなくてはならない。 そのため、国家は特にスパイ行為と戦う義務を持つ。スイスには思想に関する罪というものはないが、 しかし、われわれの防衛力を弱めようとする連中は、監視しなければならない。 内部から国を崩壊させようとする作業が、公共精神を麻痺させるものによって企てられる可能性が常にある。 自由はよい。だからといって、無秩序はいけない。ゆえに、国家的独立の意思をなくしてわれわれを 弱体化させようとするイデオロギーに対して、人々の注意を喚起する必要がある。 ④264ページ 「スイスの敵国が、スイスを攻撃する方法や策略」より引用 滅亡への道……… 次のようなことが起こり得る。 衰えたスイスでは工場、弾薬庫、高圧線に対して至る所で破壊が行われる。 汽車が脱線する。 殺人が行われる。 敵は至る所に出没する。 殺人犯も裁判にかけられない。スパイ行為がしきりに行われ、すべての国民が互いに疑惑を抱く。 警察はもはや市民を頼りにできない。 市民はテロリストの仕返しを恐れ彼らの側に立つ。 敵は堂々とその組織をスイスに送り込む 。 わが国に出没するテロリストたちは、このために特に任命された指揮官の下で行動している。 彼らは社会のあらゆる層に浸透し、驚くべき大胆さで暗躍する。彼らの”平和のための戦い”は、全国に、混乱、恐怖、無秩序をまき散らす。 わが国の経済事情はますます悪化し国外からの政治的圧力が高まる。 このような危険な環境のもとで、われわれ国民の抵抗精神は衰えていく。 http //nokan2000.nobody.jp/switz/index.html
https://w.atwiki.jp/peaceonpeace/pages/394.html
地教行法の改正の方向について 教育基本法改正、中央教育審議会答申及び教育再生会議の第一次報告などを踏まえ、地方教育行政体制の充実等を図るために、地方教育行政の組織及び運営に関する法律を次のように改めることとしてはどうか。 1.教育委員会の責任体制の明確化 ○ 地方教育行政は、国との役割分担・協力の下、地域の実情に応じて、公正・適切に行わなければならないこと。 ○ 地域の基本的な教育方針・計画の策定や教育長の事務執行状況の評価など合議制の教育委員会で決定する必要がある事項を明確化すること。 2.教育委員会の体制強化 ○ 教育委員会は、第三者の知見を活用しつつ、教育委員会の事務の点検・評価を行い、議会に報告すること。 ○ 市町村は、組合、広域連合、機関の共同設置などにより、広域で教育行政事務を処理することに努めること。 ○ 市町村教育委員会に指導主事を設置しなければならないこととすること。 ○ 教育委員の責務を明らかにするとともに、文部科学大臣・都道府県教育委員会は、教育委員の資質向上に努めること。 3.教育における地方分権の推進 ○ 教育委員の数については、5人を原則としつつ、都道府県・市の教育委員会は6人以上、町村の教育委員会は3人以上とすることができるようにすること。また、保護者が必ず含まれるようにすること。 ○ 教育委員会の所掌事務のうち、文化(文化財保護を除く)、スポーツ(学校における体育を除く)に関する事務は、地方公共団体の判断により、首長が担当できるようにすること。 ○ 首長の私立学校に関する事務のうち、学校教育に関する専門的な指導・助言・援助については、私立学校の特性にかんがみ、その自主性を尊重しつつ、首長の求めに応じ、教育委員会ができるようにすること。 ○ 県費負担教職員の人事に関し、一定の人事に関する権限を市町村教育(※)委員会に移譲すること。※ 分限、懲戒、採用、昇任、転任等 ○ 都道府県教育委員会は、県費負担教職員の人事に当たり、市町村教育委員会の内申を尊重するものとすること。 ○ 市町村教育委員会は、内申に当たり、校長の意見を尊重するものとすること。 4.教育における国の責任の果たし方 ○ 文部科学大臣・都道府県教育委員会は、地方自治の原則を尊重しつつ、都道府県教育委員会・市町村教育委員会の事務が法令違反や著しく不適正な場合に限り、全国的な教育水準の確保や教育事務の適切な実施のため、是正の勧告や指示ができるようにすること。 ○ 教育委員会や学校等の教育機関は、文部科学大臣・都道府県教育委員会が行う調査に協力するものとすること。 ○ 文部科学大臣は都道府県教育委員会の教育長の任命について、都道府県教育委員会は市町村教育委員会の教育長の任命について、一定の関与を行うこと。 5.その他 教育職員免許法等の改正の方向について 教育基本法改正、中央教育審議会答申及び教育再生会議第一次報告などを踏まえ、優秀な教員を確保し、資質を向上させる仕組みを導入するために、以下の事項について教育職員免許法等を改めること。 1.教員免許更新制の導入 (教育職員免許法改正) (1) 効力 ○ 普通免許状及び特別免許状に10年間の有効期間を定めること。 (2) 有効期間の更新 ○ 有効期間は、現職教員等(教員や教員となる見込みがある者など)からの申出により更新することができること。 ○ 免許管理者は、免許状更新講習を修了した者又は勤務実績その他の事項を勘案して免許状更新講習を受ける必要がないものとして認めた者でなければ、免許状の有効期間の更新をしてはならないこと。 ○ 有効期間の更新がなされなかった免許状は、その効力を失うこと。 ○ 災害その他やむを得ない事由があると認められる場合には、有効期間を延長することができること。 (3) 現に免許状を有する者への対応 ○ 現に免許状を有している者については、同様の講習の修了確認を受けなければならないこととすること。 (4) その他 ○ 指導が不適切であると認定された者の免許状の効力等について必要な措置を講ずること。 ※その他省令等において定める予定の事項 ○免許状更新講習は、大学等が開設 ○講習を受講する時期は、有効期間が満了する直近2年程度の間 ○免許状更新講習の講習時間は、30時間程度 等 2.指導力不足教員の人事管理の厳格化 (教育公務員特例法改正) (1) 指導が不適切な教員の認定及び研修の実施 ○ 任命権者は、教育や医学の専門家や保護者などの第三者からなる判定委員会の意見を聴いて「指導が不適切な教員」の認定を行うこと。 ○ 任命権者は、指導が不適切と認定した教員に対し、一定期間、研修を実施しなければならないこと。 ○ 研修の期間は、過度に長期にならないよう実施期間を政令で規定すること。 (2) 研修終了時の認定及び措置 ○ 任命権者は、研修終了時に指導の改善の状況について認定を行うこと。 ○ 任命権者は、研修終了時の認定において、指導が不適切であると認定した者に対して、免職その他必要な措置を講ずるものとすること。 3.免許状の失効 (教育職員免許法改正) ○ 教員が、必要な適格性を欠く場合などの理由により分限免職処分を受けたときは、その免許状は効力を失うこと。 学校教育法の改正の方向について 教育基本法改正、中央教育審議会答申及び教育再生会議第一次報告などを踏まえ、学校種の目的・目標の見直しや学校の責任体制の充実等を図るために、学校教育法の規定を次のとおり改めることにしてはどうか。 1.学校種の目的及び目標の見直し (1) 義務教育の目標に関する事項 ○ 教育基本法に義務教育に関する目的が規定(第5条第2項)されたことを踏まえ、義務教育の目標に関する規定を新設してはどうか。 ○ 義務教育の目標については、教育基本法に教育の目標に関する規定(第2条)が置かれたことを踏まえ、現行の学校教育法に規定する小・中学校の目標規定(第18条及び第36条)を改め、例えば、 自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力、公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画する態度(第18条第1号、第36条第3号) 生命及び自然を尊重する精神、環境の保全に寄与する態度(新規・教育基本法第2条第4号) 我が国と郷土の現状と歴史についての正しい理解、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度、国際理解及び国際協調の精神(第18条第2号) 家族や家庭の役割、生活に必要な基礎的な理解と技能(第18条第3号) 国語の正しい理解と使用する基礎的な能力(第18条第4号) 数量的な関係の理解と処理する基礎的な能力(第18条第5号) 自然現象の科学的な観察と処理する基礎的な能力(第18条第6号) 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣、心身の調和的発達(第18条第7号) 音楽、美術等についての理解と技能(第18条第8号) 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んじる態度、進路選択する能力(第36条第2号) などを養うといった趣旨を規定してはどうか。 (2) 幼稚園に関する事項 ○ 教育基本法に教育の目標(第2条)及び幼児期の教育(第11条)に関する規定が置かれたこと等を踏まえ、以下のとおり現行学校教育法の幼稚園の目的及び目標に関する規定(第77条及び第78条)等を改めてはどうか。 ○ 幼稚園の目的については、例えば、義務教育以後の教育の基礎が培われ、生涯にわたる人格形成の基礎が培われるよう、幼児期の特性に配慮しつつ、幼児を保育し、適当な環境を与えて、その心身の発達を助長するといった趣旨を規定してはどうか。 また、目的の見直しに伴い、発達や学びの連続性が明確となるよう、学校種の規定順を変更してはどうか。 ○ 幼稚園の目標については、現行規定(第78条)に、幼児を取り巻く環境の変化や教育基本法に示された教育の目標、義務教育の目標の内容も踏まえつつ、例えば、 健康、安全で幸福な生活のために必要な基本的な習慣、身体諸機能の調和的発達(第78条第1号) 集団生活の経験、すべての社会生活の基盤となる人への信頼感、自主、自律及び協同の精神や規範意識の芽生え(第78条第2号) 身近な社会生活や自然に対する理解と態度の芽生え(第78条第3号) 自ら進んで言葉を使い、相手の言葉を理解しようとする態度(第78条第4号) 多様な創作的表現に親しむこと、豊かな感性と表現力の芽生え(第78条第5号) などを養うといった趣旨を規定してはどうか。 ○ 幼稚園が、家庭・地域における幼児期の教育を支援するよう規定してはどうか。また、幼稚園が実施するいわゆる「預かり保育」の位置付けを明確にしてはどうか。 (3) 小学校に関する事項 ○ 義務教育の目標規定を置くこと等を踏まえ、以下のとおり現行学校教育法の小学校の目的及び目標に関する規定(第17条及び第18条)を改めてはどうか。 ○ 小学校の目的については、例えば、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なものを施すといった趣旨を規定してはどうか。 ○ 小学校の目標については、例えば、その目的を実現するために、義務教育の目標を基礎的な程度において達成するよう努めなければならないといった趣旨を規定してはどうか。 (4)中学校に関する事項 ○ 義務教育の目標規定を置くこと等を踏まえ、以下のとおり現行学校教育法の中学校の目的及び目標に関する規定(第35条及び第36条)を改めてはどうか。 ○ 中学校の目的については、例えば、小学校教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育を施すといった趣旨を規定してはどうか。 ○ 中学校の目標については、例えば、その目的を実現するために、義務教育の目標の達成に努めなければならないといった趣旨を規定してはどうか。 (5)高等学校に関する事項 ○ 教育基本法に教育の目標の規定(第2条)が置かれたこと及び小・中学校の目標規定の改正等を踏まえ、以下のとおり現行学校教育法の高等学校の目的及び目標に関する規定(第41条及び第42条)を改めてはどうか。 ○ 高等学校の目的については、例えば、中学校教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すといった趣旨を規定してはどうか。 ○ 高等学校の目標については、現行規定(第42条)をもとに、例えば、 中学校教育の成果の発展拡充、豊かな人間性と創造性、国家及び社会の形成者として必要な資質(第42条第1号) 将来の進路の決定、一般的な教養、専門的な知識、技術及び技能(第42条第2号) 個性の確立、社会についての広く深い理解、健全な批判力、社会の発展に寄与する態度(第42条第3号) などを養うといった趣旨を規定してはどうか。 ※ 中等教育学校についても同様の改正が必要。 2.義務教育の年限について ○ 義務教育の年限に関する規定が教育基本法から削除されたことを踏まえ、義務教育の年限は現行制度どおり9年とすることを前提に、その趣旨を学校教育法に規定してはどうか。 3.学校の評価等に関する事項 ○ 学校評価等を推進する観点から、以下のような規定を学校教育法に新設してはどうか。 ○ 例えば、学校は、当該学校の教育活動その他の学校運営の状況について評価を行い、その結果に基づき学校運営の改善を図ることにより、その教育水準の向上に努めなければならないといった趣旨を規定してはどうか。 ○ 例えば、学校は、当該学校の教育活動その他の学校運営の状況に関し、保護者、地域住民その他の関係者に対して情報を提供するものとするといった趣旨を規定してはどうか。 4.副校長その他の新しい職の設置に関する事項 ○ 学校教育法において、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校及び特別支援学校に、副校長、主幹及び指導教諭を置くことができることとし、それぞれの職務として、例えば次のような趣旨を規定してはどうか。 副校長: 校長を補佐し、校務を整理するとともに、校長から任された校務について自らの権限で処理すること。 主幹: 校長、副校長及び教頭を補佐するとともに、校長から任された校務について、校長等が判断・処理できるよう、とりまとめ整理すること。あわせて、児童生徒等の教育を担当すること。 指導教諭: 他の教諭等に対して、教育指導に関する指導・助言を行うとともに、児童生徒等の教育を担当すること。
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/2030.html
政治的スタンス 論者 内容 (1) 保守主義 百地章 「立憲主義とは、国家の統治が憲法にもとづいて行われることである。」(『憲法の常識 常識の憲法』p.32) (2) リベラル右派 阪本昌成 (1) 立憲主義の意義先の [1] で私は、《統治とは、国家機関を通して為す、一元的・統一的な権力支配だ》と述べた。統治は、限られたリソースを巡る利害の対立を調整しながら、その配分のあり方を権力的に決定する恒常的かつ永続的な国家作用である。この権力的、永続的な統治活動の牙を抜いて正当な枠に閉じ込めようとするにが、規範的意味での国制の役割である。統治を、流動的で恣意的な政治に委ねることなく、国制のもとに規律し安定化させる思考を「立憲主義 constitutionalism」という。近代国家が規範的意味での国制によって統制されるに至った段階のものは、「近代立憲主義国家」といわれる。これは、国家という強制の機構から各人の「自由」を擁護する、統治上のルールとしての憲法をもっている国家のことである。(『憲法1 国制クラシック』p.26) (2) 立憲主義の展開(中略)自然権の保全と権力分立という二つの要素を憲法の必須要素だと明言したのが、フランス人権宣言16条の「権利の保障が確保されておらず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法を持たない」という有名なフレーズである。この二つの要素を満たす憲法を「立憲主義的憲法」と一般にいわれることがある。つまり、《憲法とは、人権宣言と権力分立を含む成文の法文章だ》、 《この法文章は、国家樹立の際の社会契約および憲法協約を成文化したものであるから、主権者をも統制する法力をもっている》という思想である。 今日、立憲主義を想起する場合、人々の脳裏に浮かぶのは、一般にこのタイプである。が、フランス人権宣言とその16条は近代立憲主義のモデルではなく、「このタイプだ」と簡単に片付けることは正確でない。フランス的立憲主義とアメリカ的立憲主義は、憲法に関する見方を大きく異にしているのだ。 〔D〕近代立憲主義の枝分かれフランス型は、憲法をあるべき国家の最適モデルに適合させようとする理論に従って設計しようとした。なかでも、憲法を制定する力を民主的に創造するための人為的理論が最重要視された。これが、後の [39] でふれる憲法制定権力の理論である。人権も、まったく新たに創設され、最適規範に相応しい内容を人為的に持たされた。人権は、人が精神的にも物質的にも、あるべき姿となるための規範だった。こうした憲法のモデルが理論通りには運ばないと判明したときには、また別の理論に従って人為的に憲法が制定された。フランスの憲法は、何度も何度も制定されては軌道修正された。そして、結局のところ、自由の構成(constitution)に失敗したのだった。これに対してアメリカ型は、経験と伝統とを基礎とする憲法制定の道を辿った。理論的な最適規範を設計したところで、上手く定着することはない、と建国の父たちは知り尽くしていた。それと同時に、憲法制定会議を頻繁に開設して討議を繰り返すと、統治力学の振り子が大きく揺れ過ぎることも予知していた。建国の父たちは、モンテスキューが理想としていた「中庸な統治体制=混合政体」から多くを学んだ(合衆国憲法はJ. ロック(1632~1704年)の影響を受けて制定された、といわれることがあるが、これは誤診だと私は考えている)。合衆国憲法が、House of the Senates(通常、「上院」と訳される元老院=貴族政的要素+連邦制)と House of the Representatives(通常、「下院」と訳される庶民院=民主政的要素)という権力分立、さらには、大統領という「民主化された君主」を置いたのは、そのためだった。また、アメリカ建国の父たちは、人間の理性・知性の限界を知っていた。人間は、有徳の存在ではなく、権力欲に満ちており、私利を追求するにあたって公共の利益を口にすること等々を建国の父たちは知っていた。合衆国憲法は、人権保障にあたっても、“自然権を実定化する”とは考えなかった。権利章典(Bill of rights)は、歴史的・経験的に徐々に姿を現してきた人の権利を確認するものだった(*注1)。 (*注1) アメリカ合衆国憲法における権利章典について 合衆国憲法にみられる「個人の自由と権利」は、自然権思想の影響をさほど受けてはいない。そこでのカタログは、歴史的にそれまで存在してきた権益を確認したものである。『憲法2 基本権クラシック』 11頁を参照願う。 (3) 立憲主義のふたつのモデル - 法の支配か民主主義か以上のように、一言で「近代立憲主義」という場合でも、一方には純粋理論型または超越型があり、他方には経験型・伝統重視型がある。見方を換えていえば、フランス型は 民意を統治過程に統合するなかで同時に自由を作り出すための憲法構造を理論的に追究したのに対して、アメリカ型は 多元的な民意を統治過程に多元的に反映させる憲法構造を伝統のなかから発見しようとしたのだった。アメリカ型立憲主義は、《個人の権利自由を擁護するための制度的装置として権力分立制を用意する》とよくいわれる。他方、憲法の民主化を重視するフランスにあっては、議会に反映される一般意思のもとに行政と司法を置くことが、その眼目であると考えられた。J. ルソー(1712~1778年)の影響だろう。そのために、議会中心の統治が理想とされた。これに対して、合衆国憲法は、モンテスキューの理論モデルを参考としながら、民主主義を万能としない権力分立制を導入した。アメリカ憲法は、「立憲主義=法の支配=権力分立」という等式を基礎として制定されたのである。 立憲主義のモデルをアメリカに求める人物は、《立憲主義とは、法の支配と同義であり、それは民主主義の行き過ぎに歯止めをかける思想でもある》と考える傾向にある。これに対して、立憲主義モデルをフランスに求める人は、「立憲民主主義」という言葉を多用する傾向がある。後者は、「立憲」の中に権力分立と人権尊重の精神を含め、「民主主義」の中に、「国民主権」と議会政を含めているようである(民主主義の中に人権尊重を忍び込ませる論者もいる)。が、それらの一貫した関連性をそこに見て取ることは困難であるように私にはみえる(自由主義と民主主義との異同については、後の [26] でふれる)。 私は、《立憲主義とは、誰が主権者であっても、また、統治権がいかに民主的に発動されている場合であっても、主権者の意思または民主的意思を法のもとに置こうとする思想だ》と考えている。 本書が「立憲民主主義」という言葉を決して用いないのは、そのためである。(『憲法1 国制クラシック』p.31) (3) リベラル左派 長谷部恭男 近代以降の立憲主義とそれ以前の立憲主義との間には大きな断絶がある。近代立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提とし、さまざまな価値観・世界観を抱く人々の公平な共存をはかることを目的とする。それ以前の立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提としていない。むしろ、人としての正しい生き方はただ一つ、教会の教えるそれに決まっているという前提をとっていた。正しい価値観・世界観が決まっている以上、公と私を区別する必要もなければ、信仰の自由や思想の自由を認める必要もない。(長谷部恭男『憲法とは何か』p.69) ・・・近代ヨーロッパで立憲主義が成立する経験においては、宗教戦争や大航海を通じて、この世には比較不能な多様な価値観が存在すること、そして、そうした多様な価値観を抱く人々が、それにもかかえわらず公平に社会生活の便宜とコストを分かち合う社会の枠組みを構築しなければならないこと、これらが人々の共通の認識となっていったことが決定的な意味を持っている。立憲主義を理解する際には、…制度的な徴表のみにとらわれず、多様な価値観の公平な共存という、その背後にある目的に着目する必要がある。(長谷部恭男『憲法とは何か』p.71) ヨーロッパでの成立の経緯に照らしてみればわかるように、立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便益とコストを公正に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念である。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.178) そのためには、生活領域を公と私とに人為的に区別すること、社会全体の利益を考える公の領域には、自分が一番大切だと考える価値観は持ち込まないよう、自制することが求められる。・・・そうした自制がないかぎり、比較不能な価値観の対立は、「万人の万人に対する闘争」を引き起こす。・・・(中略)・・・。立憲主義はたしかに西欧起源の思想である。しかし、それは、多様な価値観の公正な共存を目指そうとするかぎり、地域や民族にかかわりなく、頼らざるをえない考え方である。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.178) 立憲主義にもとづく憲法・・・は、人の生きるべき道や、善い生き方について教えてくれるわけではない。それは、個々人が自ら考え、選びとるべきものである。憲法が教えるのは、多様な生き方が世の中にあるとき、どうすれば、それらの間の平和な共存関係を保つことができるかである。憲法は宗教の代わりにはならない。「人権」や「個人の尊重」もそうである。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.179) 立憲主義は現実を見るように要求する。世の中には、あなたと違う価値観を持ち、それをとても大切にして生きている人がたくさんいるのだという現実を見るように要求する。このため、立憲主義と両立しうる平和主義にも、おのずと限度がある。現実の世界でどれほど平和の実現に貢献することになるかにかかわりなく、ともかく軍備を放棄せよという考え方は、「善き生き方」を教える信仰ではありえても、立憲主義と両立しうる平和主義ではない。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.179) 「立憲主義ということばには、広狭二通りの意味がある。本書で「立憲主義」ということばが使われるときに言及されているのは、このうち狭い意味の立憲主義である。広義の立憲主義とは、政治権力あるいは国家権力を制限する思考あるいは仕組みを一般的に指す。「人の支配」ではなく「法の支配」という考え方は広義の立憲主義に含まれる。古代ギリシャや中世ヨーロッパにも立憲主義があったといわれる際に言及されているのも広義の立憲主義である。他方、狭義では、立憲主義は、近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みを指す。この意味の立憲主義は近代立憲主義ともいわれ、私的・社会的領域と公的・政治的領域との区別を前提として、個人の自由と公共的な政治の審議と決定とを両立させようとする考え方と密接に結びつく。二つの領域の区分は、古代や中世のヨーロッパでは知られていなかったものである。」(『憲法とは何か』p.68) (4) 左翼 芦部信喜 ※芦部は「近代立憲主義(あるいは現代立憲主義)は~という性質を持っている」とその属性を述べるものの、「立憲主義とは何か」という肝心の概念論・理念論に関しては慎重に口を閉ざしている。これは芦部の憲法論が英米圏で主流となっている「立憲主義」や「法の支配」の概念・理念理解とは実は無縁の古いドイツ系法学に依拠していることに原因がある。⇒芦部の後継者である高橋和之も同様。 (5) 中間 佐藤幸治 ※佐藤も芦部と同様に、「近代立憲主義」と「現代立憲主義」を対比して言及するものの、立憲主義そのものの概念・理念の説明はない。つまり芦部や佐藤の世代ではベースがまだドイツ系法学であったために、英米系の「立憲主義」「法の支配」といった概念・理念を英米圏の用法の通りに消化できていないのである。
https://w.atwiki.jp/tisyaneko/pages/73.html
November,11 11/23 小さい頃、人によって見える世界が違うにも関わらず、 同じ前提で会話が交わされることが不思議で、随分と悩んだ。社会というのはそもそも「思い込み」に よって形成されるものだと、後に理解する。 見える世界は個体によって違い (視力とか、色盲とか、そういう話ではなく)、 思い込みが思い込みでないという思い込みは 悲劇を生むのだけれど、基本的にその事実は何者かによって隠蔽されている。見えぬよう、人間の心は作られる。社会を形成し、(大袈裟にはこの星で)生き延びるために。 と、いうような話。 難しいことをやってきたわけじゃない。 コ難しく考えたかったわけじゃない。 理解せざるを得なかったのだ。 コミュニケーションを阻害されていたことより、必要なものだけを取り入れられない特性、これが自分を特徴付ける大きなものであるように感じる。 たとえば、印刷物の余白に強く興味を引かれるようなこと(実際のわたしは活字中毒なので内容さておいて文字を見るけど)。それが自分の特異性なら―――結局、社会生活を送るにあたっては無駄でしかないんだけど―――そのまま続けていこうと決めたのはすこし前。物事は随時フォーカスしていったほうが効率がいいけれどどうせそれはできないのだし(どうしたってアンバランスな視点しか持てないのだ)、それなら、 全部を、身体が許す限りで汲み取ることで、 何か漠然と、違うものが見えそうに感じたのだ。 沈黙のなかには、確実に「なにかがある」。 なにか、見えているような気はするけど、 やっぱりわたしは何もできてはいない。 漫然と抱えているには、世界は大きすぎる。 その癖、最近は以前のようにきりわけて思考し、分析することに強い興味が持てなくなっていて、そのことに戸惑う。 けれど絶対にいつか、また立ち戻る時が来る。そもそも「知ること」と「受け取ること」 って不可分。そこを経て、自分という個体を通して出力しているわけで、切り捨てられる部分はない。 ……っていうとなんか表現することが 何か自分にとって重要命題みたいになってきて、それはどうなのかなー……いや実際そうだけどそれで食って行けるわけじゃなくて。 以上、大学どーすんのという話。 こないだ会ってきた先生が、コミュニティとしての大学にはある程度の不適応を起こしたろうに、 親への義理を果たすべく気合で大学出てキリキリ学んで、 海外に出て、今ようやく日本で好きなことができて、 という人だったりするので「大学は出たほうがいいよ」とこっちの目を見て言われると (帰省の度に言われているけど)非常に説得力がある。 自分でも間違っても必要ない、とは思えない。 卒業したほうがいい、に心から同意する。 フツーの人がなんとなくこなす、以上の 動機と思い入れが持てないと、きっと無理なんだけど、時間が足りない。無駄にしたつもりは無いけど足りない。 なんとかなるんじゃない?ってゴーストが囁いてるものの、 現状見ると全くなんとかなってなくて、表現のほうも全然だったりするわけであー死にてぇ。 ……冗談で言えるうちは大丈夫なんだと思う。 11/22 ○作曲の先生のコンサートに顔を出す。 大学のことを心配される。笑えない。 彼氏を作らんのかと訊かれる。いや訊かれても。 ○何故か今頃ローゼンメイデンにハマる。 衣装的に水銀灯(あの系統は胸元開いたのが好き)、 何を間違えたかで蒼星石姉妹に胸キュン。 というか、透明シェルターが良い。遅いけど。 んで今日。気付けば半日近くうたっていたり。 午前中2時間午後3時間夜中2時間。 先週は録音の元気がなくて発声やりながら悶々してたのに、 週末あたりからスイッチが入ったらしい。 レッスン行って次の課題が見えたのと、 あとしばらくダラダラしていたのもあるのか。 ノるとこれなので(寝ると歌うの繰り返し、時々食う) なんでコレをわざわざ日記に書くのかって 成果が無くって自分でも褒められたもんじゃないので。 ……掛かった時間が不憫なので、せめても記録。 実力派系の声ってがんばっても出ないんだろうか…… これで喉が無事なのは、あんまし話さないからだと思う。 会話に要する喉の労力はばかにならない。 一限は出席取らないみたいなので諦めて昼から。 この(どっちかというと曲のほうが)無駄な時間はどこへゆくのか。 11/18 卵がなくてもパンケーキはできる。 小麦粉がなければパンケーキはできない。 何かの格言じゃなくって単純な事実。 11/08 MOTHER3発売決定 http //www.nintendo.co.jp/n08/mother3/index.html きたーーーーーー!!!! yahoo!ニュースの、 「すぐさま開発が発表されていたが、すぐさま開発中止」。 誰も出るとは信じて無い空気の中、めげずに企画を進めた関係者に敬礼。 11/07 なんか最近何処行っても空気読めてない長文書きすぎ、 と書いてから気付いた。しかも必要以上に悩むし。 2ch系では3行以上の長文はネタ以外禁止。 という自分内決定をすることにする。 迷惑かけてる各位にごめんなさいと書こうとして 「メイド」と打ちかけた。ばかですか。
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/6750.html
マスコミ ■ 『マスごみ』というレッテルがもたらす思考停止・・・相対化を忘れたネット言論の危険 「人力でGO(2013.11.10)」より / ネット言論の中で良く目にする『マスごみ』という言葉。「マスコミ」と「ゴミ」を掛けた造語です。 ウソばかり報道したり、思慮に乏しい報道で国民に不利益を与え、B層を洗脳するマスコミが有害でゴミに等しい存在だ・・・こういう意見が庶民のネット言論の主流になりつつあります。 確かに私も新聞はお金を払ってまで読む気がしませんし、TVのニュースを見ても不快な気持ちになるのでTVも捨ててしまいました。しかし、それが可能なのはネットでニュースも読めるし、優れたブログも読めるからです。一方で、ネットのニュースやブログは2次情報であり、マスコミの1次情報が無ければ、2次情報は存在を許されません。 「ゴミ」とバカにしながらも、私達はマスコミの恩恵を受けています。 ■ マスコミよりも自分の意見が優れているという錯覚 ■ ネット言論のもう一つの特徴は「マスコミよりも自分の意見が優れている」という思い込みです。 「高い給料貰って、こんな記事しか書けないのかよ!!」とか「記者クラブの仲良し組でしか情報を取れないくせに!!」といった書き込みが目立ちます。 しかし良く考えてみれば、厳しい受験競争に打ち勝ち、さらには狭き門のマスコミに採用される様な人材が優秀で無い訳がありません。さらには、マスコミの記者達には、先輩記者たちの経験も伝授されている訳で、PCの前で間接的な情報に触れる事しか出来ない私達がマスコミの方達よりも優れた情報を得られる理由はあまり見つかりません。 私達がマスコミの方より有利なのは、「責任が無い」という一点に限られています。要は何を書いても責任を問われないので自由であるという事のみ。 それに比べてマスコミの記者の方々は、色々なシガラミを抱えています。 特ダネを掴んでも、上からの指示で潰され、面白い視点で記事を書いても、各社横並びの変わり映えのしない内要に変更され、政治の裏事情を知っていてもオフレコとされ・・・色々とストレスも溜まるかと思います。 ■ 相対化を忘れたネット言論 ■ ネットの特徴は「自分はできる子だ」と錯覚する点にあります。 ブログなどで情報発信すると、コメントの多くは「賛同」される方のものが多くなります。「ちょっと違うんじゃない?」と思っても、わざわざコメント欄で指摘する事はありません。勝手に発信されている情報ニツッコミを入れるのは無粋だと考えるからです、 そもそも、反対意見を持つ方や、記事の内要に興味すら持てない方は、繰り返してブログに訪れる事はありません。 この様に、個人のブログの様なネット言論の社会では、発信者は意見を同じくする人達の狭いサークルに閉じ込められる事になるので、「相対化」の視点を失いがちになります。 「自分の意見が絶対的に正しい」という錯覚に陥るのです。 その結果が「マスコミなんてゴミ同然だろう」という傲りに繋がります。 ■ 議論すら成り立たない「2ch」や「阿修羅掲示板」 ■ 相対化の視点を失った人達は、人との議論をしても議論が成立しません。 2chや阿修羅掲示板で議論をした事がある方はお分かりかも知れませんが、ジャッジメントが存在しないので、結局は互いの意見を一方的に言い合うだけになってしまいます。最悪は相手の人格攻撃で終わります。 ネット言論空間の最大の問題点は、中立な視点の欠如です。 相対化の支点を失った議論程、不毛なものはありません。 (そう言いながら、私自身、ネットでの議論は嫌いではありませんが・・・) ■ 「マスごみ」という発想の思考停止 ■ この様な歪んだ構造を持つネット社会の最大の弊害が、レッテル貼りによる思考停止です。 「マスゴミはウソばっかついて、俺たちを騙そうとしている。だから信じられない」 「B層のやつらは、マスコミを鵜呑みにするから騙されるんだ」 マスコミの洗脳から目覚めたと自覚するネットの住人達は、往々にしてこの様な発言をします。 しかし、「マスコミが何故ウソの情報を流すのか」という点を熟考する事はありません。 「自分達よりも相当優秀であるハズのマスコミが、小学生でも分かる様なウソをつくのには、何か理由があるはずだ」と考えるのが実社会です。打ち合わせで相手が明らかなウソをついた時、「こいつはウソつきだ」と考える社会人は先ず居ません。「先方が明らかなウソを付くには、何か訳があって、それをやんわりとこちらに伝えたいに違いない」と勘繰るのが普通の社会人です。 ですから、マスコミが嘘を付くならば、その意図を汲み取ろうと努力するのが正しい判断であり、本来の意味でのメディアリテラシーでは無いでしょうか? ■ 「マスコミはウソを付いている」と言いつつ騙される人々 ■ 面白い事に、「マスコミはウソを付いている」と言う人達も、何故な簡単に騙されます。 安倍首相を指示した多くの人達が、今回の消費税増税で「安倍首相に騙された」と憤慨します。「TPP参加にしろ、消費税増税にしろ、構造改革中心の成長戦略にしろ、安倍首相は公約と真逆の事をやっているではないか!!」と失望の色を隠しません。 その少なからぬ人が、マスコミを頭からは信用していない方達です。 では、何故彼らは安倍首相にコロリと騙されたのでしょうか? ■ 「私欲」の前に人は盲目に等しい ■ 今回、安倍首相に騙されたと悔しがっている一番の勢力は三橋教信者達でしょう。 教祖自らが、安倍首相には失望したといった内容をブログに綴っています。 普段から政治家など信用できないと公言する彼らが、では何故今回は、あんなにも必死に安倍首相を応援したのでしょうか? それは、「リフレ政策と公共投資の拡大」という彼らの主張する景気対策を安倍首相が行うと信じたからに他なりません。 日本の政治家が公約を反故する事は毎度の事で、今に始まった話ではありません。 特に、自民党清和会という安倍首相の所属や、彼の周囲の竹中平蔵氏や、高橋洋一氏、甘利氏らの顔ぶれを見れば、安倍政権が構造改革派の政権である事は容易に想像出来ます。 しかし、アメリカも安倍氏周辺もバカではありませんから、構造改革路線が日本人に受け入れられない事を良く知っています。そこで、自民党の土建族も懐柔する手として考えたのが「国土強靭化」というキャッチフレーズです。 選挙で大型公共事業を公約とすれば得票を伸ばす事は確実です。TPPも参加慎重だと口で言う事は簡単です。 こうして、選挙公約に並べられた政策に、三橋教が見事に食いつきました。いえ、もっと言えば、三橋氏は安倍氏に見事に利用され、神輿に乗せられたのです。 三橋教徒がかくも簡単に騙された理由は一つです。それは、彼らが景気回復を熱望しているからです。それも、自分達が苦労する事無く、打ち出の小槌よろしく、財政の大判振舞いをすれば、需要が生まれ、景気が回復して、将来の自分達の生活が安定すると考えたのです。 これは全く、オメデタイ幻想ですが、三橋氏は、様々な詭弁を弄して彼らを夢物語の中に引きずり込みます。誰も傷つかない皆がハッピーになれる方法がある・・・と。 ほとんど新興宗教に近い手口ですが、バブル崩壊以降の不景気しか知らない世代にとっては福音と聞こえます。「誰も傷つかない」「リスクフリー」などという事が、どれほどインチキ臭いか、40歳を過ぎると骨の髄まで味わうのですが、若い方達には魅力的に聞こえます。 そうして、彼らは教祖である三橋氏と同様に「マスコミ」を「マスごみ」と蔑みながらも、まんまと安倍首相と彼を裏で操る勢力の騙されたのです。 ■ マスコミはウソは言っていない ■ 実は三橋教信者がバカにするマスコミは、始めからウソなど言っていません。 極端な金融緩和や財政拡大のリスクは充分過ぎる程伝えていますし、TPPに関してもそのリスクはきちんと伝えています。 一方でマスコミはアベノミクスを持ち上げ、景気回復を印象付ける報道を繰り返しました。これはマスコミが公平な存在で無い事を理解していれば、当然の行動と思えます。 ■ マスコミは時代の旗振り役 ■ 本質的にマスコミは政府のプロパガンダ機関です。日本のマスコミは比較的政府に批判的ですが、それでも、大きな流れとしてはマスコミは与論をリードして、政権交代を実現するなど、政治に大きな役割を担っています。 小選挙区制度の導入、自民党から民主党への政権交代、民主党から自民党への再度の政権交代で、マスコミの果たした役割は小さくはありません。 その結果どうなったか? 小選挙区制では党の公認が得られ化ければ選挙に出る事すら出来ませんから、党の執行部の影響力が絶大になりました。中選挙区制度では、党内の対立勢力が同じ選挙区から出馬出来たので、かつての自民党の派閥政治の様に、党内の勢力争いが生じます。 アメリカの傀儡の清和会、土建利権集団の経世会、そして官僚出身者の多い宏池会の力がバランスしていました。官僚達はこのパワーバランスを巧みに利用する事で、政治に影響力を行使し、日本の利益を守って来ました。 ところが、小選挙区制度の結果、党執行部の影響力が強大化します。経世会の有力議員たちは、東京地検特捜部の捜査対象となり次々に失脚し、気づけば自民党は清和会の天下となってしまいました。 その後マスコミは自民党を攻撃して民主党を持ち上げ、政権交代を実現します。しかしその過程で少選挙区制によって中小の政党が振り落とされ、2大政党制に近い形が作られました。ところが、マスコミの民主党キャンペーンが功を奏して衆議院の2/3以上の議席が民主党に独占される事になります。 これにより議会性民主主義は形骸化してしまいました。民主党は鳩山-小沢というアメリカにとって不都合な勢力を無力化して、松下政経塾出身者が中枢を固め、アメリカの要求通りの政策を実行します。 さすがに国民も堪忍袋の緒が切れます。民主党にお灸を据えたいと考えている所に、安倍氏が、「日本の為に」という耳触りの良い公約を掲げて登場します。 多くの国民が「日本の未来の為」に自民党に投票し、アベノミクスによる円安と株価上昇を評価して自民党に安定的な議席を与えてしまいました。 その結果が、TPPへの参加と、消費税増税+法人税減税ですした。 こうして見てくると、日本の政治の変遷にマスコミの果たした役割は小さく無く、彼らは確信犯的にアメリカの利益を代弁しているとも言えます。 ■ 良心を捨てた訳では無い ■ では、マスコミは良心を捨て去ったゴミの様な存在なのでしょうか? 私は少し違うと思います。個々の記者達は、良心と葛藤して取材に当たり記事を書いていると思います。 一方で彼らは権力側の人間ですから、それに逆らえば自分達の権力も消える事に自覚的です。多分。そういった矛盾に蓋をして割り切った人達が出世し、そうで無い人の一部はフリーに転向して行くのでしょう。 そして、報道には命に係わる一線があって、少なからぬ人達がそれを越えて帰らぬ人となったり、あるいは社会的地位を失う結果を招いています。 そんな状況にあって、記者達は、言葉尻や、ほんの些細な表現の内に、真実を仕込ませているのかも知れません。「気づいてよ・・・」と行間から切実に訴えているのかも知れません。 政治家達も命掛けの商売です、やはり譲れない一線はあるのでしょう。福田首相の辞任などを見ていると、本当に日本の首相は大変なストレスなのだと感じます。 では、安倍総理は日本人の為になっているのか? 多分、彼なりの理念の上に動いているのでしょう。 それは、世界から日本が取り残されないように、日本が新たな時代に対応できる形に変われる様にするという「未来」にむけた理念なのでしょう。 それが例えアメリカに押し付けられた未来であっても、世界がう変わろうとするならば、日本も対応するしか生き残りの道が無いのです。 何を捨てて、何を拾うか・・・・。 政治家も、マスコミも、官僚も、戦後統治が続く日本でギリギリの選択をしているのでしょう。 それでも私達は「マスごみ」とバカに出来るでしょうか? 本日の記事は、自分自身への反省も込めています。 ネットによって拡大する自我は、通常は社会生活で是正されるのですが、2chなどの書き込みを見ていると、社会生活での抑圧された人格の開放の場所としてネットが利用されている一面も見逃せません。 私自身、このブログはガス抜きみたいな場所ですが、決して人前でアニメの話や陰謀論の話は・・・・あれ、結構してるな・・・。 ダメ人間じゃん、オレ。 .
https://w.atwiki.jp/gakumahoa/pages/55.html
第28回登場キャラ 第28回登場キャラ 【PC】新島マリオ(ゲイ名) 真野 無霊 結昨日缶(ゆきのかん) ゆとりのぽこぽん 杉崎るみね 【NPC】阿古賀麗 青島雪緒 四悠光速 月読千種 海藤蘭麻 【PC】 新島マリオ(ゲイ名) 本名はマリオ・ポポルニート。 美しき美貌と肉体美をもつハードゲイならぬニートゲイ 働きもせずに(学生だけど)筋トレとかしてるよ 田村ゆかりファンなんだって 男には見境が無い 特殊能力「お尻が隙だらけでごわすよ」 半径10メートル以内の対象の背後に移動する 瞬間移動能力 女の背後だけはとれない 成功要素 「顔・外見」:【男ならホイホイついて行かざるを得ない 果てしなき「肉体美と美貌」】 「言葉遣い」:【ノンケなら恐怖を覚えざるを得ない 戦慄の「ごわす」】 「能力・技能」:【喰らえば愕然とするを得ない 背徳の「お尻が隙だらけでごわすよ」】 「持ち物」:【ファンなら喉から手が出るほど欲しがるを得ない 非売品の「田村ゆかりはっぴ と ラメ入りビキニパンツ】 真野 無霊 人間が魔人とどこまで渡り合えるか調べるために学園やってきた1年生 人間であることがばれると魔人と区別される恐れがあるため周りには魔人だと思われている。 友人と言われるものはほぼおらず、魔人とほぼ変わらないほどの身体能力を持っている。 万が一の時のためにH K MK23と、銃弾を所持している。 成功要素 「顔・外見」:【大きめの男、目つきが鋭い】 「言葉遣い」:【冷淡】 「能力・技能」:【魔人に近い人間】 「持ち物」:【H K MK23およびその弾】 結昨日缶(ゆきのかん) 缶が大好きすぎて魔人に覚醒してしまった少年。 なんかすごいアキカンがあると聞いて探してる。 割と無口だけど人づきあいが悪いわけではない。 成功要素 「顔・外見」:【おとなしい少年】 「言葉遣い」:【「‥‥」が多い】 「能力・技能」:【あらゆる缶(缶ジュース、缶詰、スプレーなど)を召喚】 「持ち物」:【缶切り】 ゆとりのぽこぽん 化けタヌキの里からやって来た人間年齢にして16歳の少年。 自然界では雄の方が派手な格好をしている事が原因で人間の性別を誤解し、 女子生徒と同じ格好をしている。何かおかしいと気付いたのはつい最近。 化けるのはあまりうまくなくいつも耳としっぽが出ている。 そのしっぽが弱点でもあり、ここにダメージを受けるとキンタマが膨らんで 変身がとけてしまう。 能力説明:人間の真似して二足歩行するのが苦手なぽこぽんはちょっとした 段差でつまづいてしまい、相手の顔の上に股間からダイブ。さらにその時に お尻を強打したショックで変身が解けてしまいどんどん膨らんでいくキンタマで 窒息させる。 成功要素 「顔・外見」:【タヌキ耳と尻尾付き少女】 「言葉遣い」:【~だポコという語尾】 「能力・技能」:【Toらぶるトレイン】 「持ち物」:【葉っぱ手裏剣】 杉崎るみね 旧名「彪神ルミネ」外観年齢16歳ぐらいだが,自分とほぼ同年齢の杉崎家の長子と結納済み。 政略結婚のようなもので,杉崎家が滅亡した後は,婚約は事実上破棄されている。 一万円札のデザインが大好き。 そのデザインを自分だけで独占しようという大きな野望のために,日夜すりに励んでいる。 特殊能力「司有干渉」 自分の体感時間を無限に加速させ,相手に気づかれないように,素早く対象の懐から財布を抜き出し,一万円だけすって懐に戻す。 その気になれば,対象に全く気づかれることなく,対象の身ぐるみを全てはぐこともできる。 身ぐるみをはがされた対象は,周りから注意されない限り,何食わぬ顔で全裸のまま社会生活を送ろうとする。 成功要素 「顔・外見」:【北欧系の目鼻立ちに白髪赤紫眼のスレンダー体型】 「言葉遣い」:【あっけらかん】 「能力・技能」:【超高速移動】 「持ち物」:【諭吉(一万円札)コレクション】 【NPC】 阿古賀麗 あまりの美貌に僧侶が垣根を飛び越えて告白に来たと言われるほど可愛らしい顔をした男。 カレー審査員その1。究極のカレー作りの発案者も彼。 青島雪緒 マジカル部所属の2年生女子。毎日が自由奔放、糸の切れた凧。 カレー審査員その2。性格は本当に最悪だが、まともといえばまともな方。 四悠光速 千葉最大の暴走族「皇覇唖魔破(オーバーマッハ)」の元総長にして、現生徒会会計。 カレー審査員その3。カレー作りに伴う周辺被害を監督する見張り役。 月読千種 希望崎学園心霊現象研究部部長。「希望崎777不思議」の調査をしている。 カレー審査員その4。カレー作りの中で起こった異常事態すら怪異と結びつけたがる。 海藤蘭麻 剣道部員の1年生。武器と魔人の支配権を入れ替える「エゴ・スワップ」の使い手。 究極のカレー作りの噂を聞きつけ訪れたが、そこで彼が目にしたものは……?
https://w.atwiki.jp/kubo-zemi/pages/1241.html
トップページ 新聞論評 新聞論評 2010 This Page 今週は論評の最後に一段落を設け,本年の学生生活・社会生活における抱負を100字程度で記すこと 新聞は毎日読むこと!そして1週に1度で良いので論評を記してみましょう。 論評は感想文ではない。記事をもとに自身の論説を展開して下さい。 日経テレコンは原則NG! 新聞をひろげ,紙面を俯瞰して下さい。 日本経済新聞の記事を論評するのが原則です。例外は事前に久保に申し出ること。 上から提出の早い順です。順番を入れ替えないで下さい。 ★論評の掲載の仕方★ 下の一覧の最後にサンプルを見本にして,自分の記事の項目を付け加えて下さい。 テンプレートの見本としてこれはと思う他の方の論評を選び,編集モードですべてコピーします。 このページに戻り,付け加えた項目の 論評「・・・」の部分をクリックして,新規ページを作成します。 作成した新規ページで,先ほどコピーした見本をペーストしたうえで,自分の論評内容に修正します。 以下は,班の一覧です。全員が必ず班の他の二人のメンバーの論評に対しコメントを付け,コメントをもらった人は必ずそれに対しコメントを返してください。単に「よくできています」とか「面白かったです」等のコメントは意味がありません。内容についての具体的な意見交換や論評としてのアドバイスなどになるよう心がけてください。 1班(山崎良介,篠崎丈,佐々木莉菜),2班(羽田野大樹,川崎智佳史,野間遥),3班(坂田花佳,西岡保明,薦田祐介), 4班(平岡裕樹,古谷竜太,西田修也),5班(加川恭平,植田豊,片桐みなみ),6班(+貞光祐花,村上沙織,加里本裕二), 7班(中口雄志郎,中村信也,梶原啓史),8班(河本和樹,川添由理子,岡部実奈),9班(伊藤優臣,水長一輝,井川太地), 10班(後藤光信,上田聡,沖野真大),11班(兼安紘平,須賀亮治,柏成昭),12班(山崎良介,白神香織,小玉大介) 次はサンプルです。このような形で,先着順で自分の記事ページへのリンクを作成して下さい。数字はすべて半角です。 学籍番号,氏名,論評「タイトル」(新聞名,2009年○月○日,○刊,○面) 200814042,岡部実奈,論評「初売り、人出は増えたけど…、割安品に人気集中。」(日本経済新聞,2010年1月3日,朝刊,7面) 1914033,川崎智佳史,論評「IT政権交代の足音、米国発新標準逆風下、アップル・グーグル伸長、ウィンドウズ、揺らぐ求心力」(日本経済新聞,2010年1月1日,朝刊,7面) 1814039,山崎良介,論評「次世代OS 「クラウド専用主流にならず」」(日本経済新聞,2010年1月4日,朝刊,9面) 1914060,植田豊,論評「FX売買高6割増、昨年、過去最高を更新、豪ドルなど伸びる、今年は減少の見方も。」(日本経済新聞,2010年1月5日,朝刊,7面) 1914032,篠崎丈,論評「全身透視できるスキャナー導入、オランダ、空港検査強化。」(日本経済新聞,2010年1月1日,朝刊,46面) 1914083,須賀亮治,論評「ビール販売、アサヒ、世界4位と提携、カールスバーグ、まず香港で。」(日本経済新聞,2010年1月3日,朝刊,1面) 1914082,上田聡,論評「新生・あおぞら合併へ難航、システム統合で溝」(日本経済新聞,2010年1月1日,朝刊,3面) 1814090,河本和樹,論評「百貨店の1割元旦も営業」(日本経済新聞,2009年12月30日,朝刊,9面) 200814036,加里本裕二,論評「捕鯨抗議船が衝突、日本の監視船と、航行不能に。」(日本経済新聞,2009年1月7日,朝刊,38面) 200814080,柏成昭,論評「国内ゲーム市場2年連続縮小」(日本経済新聞,2009年1月6日,朝刊,9面) 200814065,沖野真大,論評「失われた20年」に終止符を打てるか(日本経済新聞,2009年12月29日,朝刊,2面) 200814065,白神香織,論評「アサヒ、世界4位と提携」(日本経済新聞,2010年1月3日,朝刊,1面) 1914036,西岡保明,論評「元旦第2部・ITデジタル特集」(日本経済新聞,2010年1月1日,朝刊第2部,9面) 200814035,片桐みなみ,論評「子育て政策財源を統合、保育所運営や育児休業給付、厚生労働省、制度間の連携強化。」(日本経済新聞,2010年1月4日,朝刊,3面) 200814045,井川太地,論評「インデックス、中国小売り大手と提携、共同で通販サイト。」(日本経済新聞,2010年1月1日,朝刊,7面) 200814037,梶原啓史,論評「子ども手当、消費押し上げは限定的。」(日本経済新聞,2010年1月1日,朝刊,3面) 1914074,中村信也,論評 「百貨店の1割元旦も営業」(日本経済新聞,2009年12月30日,朝刊,9面)