約 21,878 件
https://w.atwiki.jp/kokodaketasekai/pages/19.html
《プロフィール》 ・【名前】 ジェーン・ドゥ 英語で「名無し」の意 ・【職業】 流浪者 ・【種族】 人間 ・【性別】 女性 ・【年齢】 二十前半 ・【出身世界】 〝西部開拓時代〟 《名無し女ガンマン漂流者……の情報》 ・銃の腕はかなりのもの……だが、こちらの世界に来てから銃をしばらく撃っていないので、若干腕が鈍っているらしい。 ・もと居た世界では、「人殺しはしないように努めている」とか周囲に公言していたらしいが、真っ赤な嘘……らしい。相当な数を、老若男女、善人悪人分け隔てなく殺してきた。人を殺すことにはなんの抵抗も持たないようだ。 ・女性としては長身の175cm。肩甲骨が隠れるほどの長さの金髪に、同じく金の瞳。 あと、かなりの美人。――ついでに色々考えた挙句、胸は大きくなった“巨乳”。背が175あって貧乳とか、男だもんね。 ・服装は、テンガロンハットに後述のマント(当然、中に服は着ている)カウボーイブーツ……と典型的なガンマンの容貌。 ・口調は丁寧なもので、所謂〝無法者〟とは思えないほど。喋り方は若干崩した敬語といった感じ。 ・性格は残忍、暴力的。何か問題に直面した場合の解決方法は、鏖殺やら強盗やら人攫いやら。かなり、非人道的なもの。 【装備】 ・ 《SAA コルト・シングル・アクション・アーミー》 〝西部開拓時代〟のものを、特別製のヒップホルスター(左)に三丁 →ライフルと弾薬の互換性を持たすため、44-40弾を使用 ・ 《ウィンチェスターライフルM1873》 同じく〝西部開拓時代〟のものを背に一丁 →ライフル弾ではなく、SAAと同じ拳銃弾を使用 【アイテム】 ・ 《ボロッボロのマント》 上半身から膝の上辺りまでを隠す、薄いブラウン色のマント →ほんとにボロボロだが一応マントの形は保っている ……他、基本的なガンマン装備 【能力など】 『Magic+Bullet』 銃から撃ち出す弾に、様々な属性、及び特性を変化もしくは付加する (弾を〝撃ち出さなければ〟いけないので、どちらか一つが欠ければ、決して能力の発動は出来ない) 【属性】と【特性】 一つの弾丸に込めれるのは、〝二つ〟まで (ただ弾丸を『脆く』する【特性】については範囲外 ※模擬戦闘で相手へ致命傷を与えないための配慮) 付加、変更は 【属性】+【特性】 【属性】+【属性】 【特性】+【特性】 の三種類で【属性】と【特性】を一つの弾丸に込めなければいけないわけでは無い 属性であれば 『火』…… 着弾点が発火する 『氷』…… 着弾点が徐々に氷結する......等々 特性であれば 『斬』…… 当たれば傷(ダメージ)が『穿つ』ではなく『斬る』に変化 『爆』…… 当たれば弾丸内部から小爆発が発生する......等々 現在は不可能だが、能力に慣れれば双方を付加する事も出来るように……なる 【能力例 ※まだまだ増えるよ!】 【属性】 【付加】 【変化】 『火』 弾丸が『火』を纏う 着弾点が発火する 『水』 弾丸が『水』を纏う 着弾点から水が噴出する 『氷』 弾丸が『氷』を纏う 着弾点が徐々に氷結する 『電』 弾丸が『電気』を纏う 着弾点に電気が流れる 『風』 弾丸が『風』を纏う 着弾点に軽い突風が吹く 『闇』 弾丸が『闇』を纏う? 着弾点から黒い影が広がる? 『光』 弾丸が『光』を纏う? 着弾点から白い光が広がる? 【特性】 【付加】 【変化】 『追尾』 弾丸が対象を追尾する 『加速』 弾丸が撃ち出された瞬間、加速する 『再加速』 弾丸が速度を落とした場合、再度加速する 『複撃』 弾丸が複数の対象を貫く 『爆発』 弾丸が対象に接触した瞬間、爆発する 『斬』 弾丸での攻撃が『貫く』ではなく『斬る』になる 『硬化』 弾丸の硬度強化 『散』 弾丸が打ち出された瞬間、散らばる 簡易的な散弾銃 『軽』 弾丸の重量を軽くする 弾丸の硬度は変わらない 『破裂』 弾丸が指定距離で破裂する 大きな音が鳴るぞ! ※『闇』と『光』は効果不明 聖なる者と、邪なる者に強力……とか?
https://w.atwiki.jp/kokodaketasekai/pages/57.html
名前 アキラ・ドウメキ(日本名:百目鬼 諦) 職業 漂流者(元技術者) 種族 サイボーグ 性別 男性 身長 172cm 体重 可変(通常時143kg) 年齢 41 出身世界 魔法と超能力の認知されたSF世界 【容姿】 コートと手袋で首から下をすっぽり包み込んでいる中年男性。 コートと服を脱ぐと、ロボットのような機械的な骨格が覗く。 【装備】 首から下が完全に機械と化している。腕や脚を自分の意思で外す事が出来る。 警棒 両腕に付属し、手首から飛び出す。非常に軽量かつ頑丈。右腕の警棒はスタンガン、左腕の警棒はライトがついている。 意思のみで自由に伸縮・放電・発光が可能。腕から切り離して手に持つ事もでき、放電・発光機能はどちらの状態でも使用可能。 スタンガンには認証が付いており、アキラ以外が放電する事は出来ない。ライトの光量を最大にすれば、カメラのストロボのような強烈な光を照射できる。 護身用の為、長さは最大でも60cm程度で、電圧は激痛を与えるだけで気絶させる程では無くテーザーのように飛ばす事も出来ない、ライトも失明させるほどではない。 【アイテム】 未来の超技術でとんでもない量の工具をコートの中に持っている。工具は非常に軽量なので武器としては使い辛い。 【能力など】 異能などの特殊な能力はない。全身機械であるため高い運動能力を持つが、五感は常人と同じ。 機械の発達した世界で技術者として生活していたため、機械に関する豊富な知識・経験と抜群のセンスおよび勘を持つ。 そのため、機械製品の操作技術は高く、有り合わせの部品から様々な製品を作り出す事が出来る。 また、未知の機械でも感覚だけである程度操る事が出来る。 【備考】 地球連邦日本国出身。 事故によって身体の大部分を損傷する大怪我を負った為、首から下を全て機械に換えた。 『機械』と言っても全てが金属部品ではなく、プラスチック・炭素繊維に代表される有機部品も数多く用いられており、一部人工臓器などの生体部品も用いられている。 見た目はほとんどロボット。もっと人間らしくする事も出来たのだが、メンテナンス性を高める為にメカメカしい姿に。 本人の趣味で無駄に運動能力を高めているものの、元来軍事用サイボーグでは無いため、戦闘能力は法律の範囲内でしか施されていない。 通常の人間とは比較にならない運動性能を持つが、人間を基本として作られているため、人間工学を無視した動きは不可能。 常人と同じように食事によって栄養を補給し、活動の為のエネルギーに変換する事が出来るが、燃費はかなり悪い。 非常に高い体温調節機能を持ち、耐熱性・耐冷性に優れるが、内部から温度を変化させるような異能や魔法には弱い。 電撃にはかなり脆弱。頭部は完全に生身なので、常人に一発ブン殴られただけで死ぬ可能性もある。 ただの機械技術者であり、完全に非戦闘員であったため、格闘技の経験・センスは皆無。 合気道などの技を掛けられてしまうと、それが技術なのか魔法なのか区別がつかないほど。 五感はほぼ常人と同じだが、頭部以外のそれはあくまで『情報』として処理されるため、痛みを『苦痛』として感じない。 生殖能力を失っており、性行為は出来ないがホルモン分泌などの性器の役割は別の人工睾丸などが担っている。 戦闘能力は銃刀法の範囲内であること、絶対的に戦闘経験が少ないこと、頭部が無防備である事を考慮すると、純戦闘系の異能者や戦士にはやや劣ると思われる。
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/233.html
1807年 文化魯寇 1751年、大村治五平(次五平とも)、陸奥国岩手郡森岡で生まれる。 1752年、六蔵、田名部関根村(むつ市関根)で生まれる。六郎倅。宗旨禅宗。菩提寺田名部円通寺。 宝暦11年(1761)、福松、津軽国津軽郡青森で生まれる。金助倅。宗旨浄土真宗。菩提寺松前専念寺。三助(三介、三之丞とも)、田名部樺山村(むつ市樺山)で生まれる。三九郎倅。宗旨禅宗。菩提寺田名部円通寺。 1767年、中川五郎次、陸奥国田名部河内村で生まれる。五郎治、長左衛門とも。のち中川儀貞郎と称す。屋号小針屋。佐助の倅。若年より松前に渡る。 1772年、源七、越後国苅羽郡宮川村(新潟県柏崎市宮川)で生まれる。又八倅。宗旨禅宗。菩提寺松前法源寺。 1774年、富五郎(富太郎とも)、江差村(北海道桧山郡江差町)で生まれる。江差村モシリ年寄安兵衛の次男。宗旨浄土真宗。菩提寺江差順正寺。 1776年、酉蔵、箱館内澗町で生まれる。吉兵衛(茂兵衛)倅。宗旨浄土宗。菩提寺松前正行寺。 1779年、長助(長吉、長内とも)、出羽国庄内田川郡大山村(山形県鶴岡市大山)で生まれる。久三郎の五男。宗旨浄土真宗。菩提寺庄内広恩寺。 1788年、福松、このころより、松前神明町に在、漁事手伝い。 1789年、源七、このころより、松前瓦町在、日雇稼ぎ。 寛政11年(1799)、中川五郎次、蝦夷地に渡り番人となる。 寛政13年1月(1801)、富五郎、クシュンコタン番所番人となりクシュンコタン詰め。 享和元年(1801)、中川五郎次、択捉島詰め。 文化元年4月(1804/05)、三助、長助、択捉島ナイホ詰。 文化2年2月(1805)、酉蔵、クシュンコタン番屋番人となり、クシュンコタン詰。 文化2年3月上旬(1805)、福松、クシュンコタン番屋番人となり、クシュンコタン詰。 文化2年4月(1805)、六蔵、択捉島ナイホ詰。 文化2年5月20日(1805/06/17)、中川五郎次、 若宮丸漂流民(H1793a)についての評議を命じられる。 文化2年6月6日(1805/07/02)、中川五郎次、若宮丸漂流民(H1793a)の領主引渡しを答申。 1805/07/30、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ(津太夫ら(H1793a)を帰国させた人)、7月18日(ユリウス暦)付けでウナラスカ島から「武力による対日通商関係樹立」のことをアレクサンドル1世に上申。上申後、アラスカのノヴォアルハンゲリスクに赴き、部下のニコライ・アレクサンドロヴィチ・フヴォストフ中尉、ガヴリイル・イヴァノヴィチ・ダヴィドフ士官候補生を指揮者とし、ユノナ号・アヴォス号からなる樺太・千島の日本基地攻撃隊を組織する 文化2年12月(1806)、源七、クシュンコタン番屋番人となり、クシュンコタン詰。 文化3年5月(1806)、大村治五平、択捉島シャナ詰。 1806/10/06、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ、9月24日付けでフヴォストフに対し出来るだけ早くアラスカに帰ることを命ずるとともに、フヴォストフに対し、風の都合がよければ樺太のアニワ湾に赴き、日本基地のようすを調べること、常に露米会社の利益を念頭において行動することというあいまいな指令を残し、自分は首都に向けてオホーツクを発つ 1806/10/07、フヴォストフ、オホーツクを出港。 1806/10/22、フヴォストフ、樺太アニワ湾東浦のオフイトマリを襲撃。アイヌの少年(チウラフシクルの子、17、8歳)を捕らえる。 1806/10/23、フヴォストフ、クシュンコタンを襲撃、掠奪放火を行いロシア文で同地の占領を宣言した文章を刻んだ真鍮版を弁天社の鳥居に打ちつけた。オフイトマリで捕らえたアイヌの少年は開放。新たに同地番屋の酉蔵(30)、富五郎(32)、福松(44)、源七(34)の4名を捕らえる。 1806/10/29、フヴォストフ、クシュンコタンを退帆。 1806/11/22、フヴォストフ、酉蔵、富五郎、福松、源七らを連れペテロパウロフスクに到着。捕虜の4名は、飛脚屋のガブリウ・メエテレエチ・キリコウフ方に止宿し越冬。 文化4年3月4日(1807/04/11)、柴田角兵衛(松前藩の樺太支配人、元締徒士格)、越冬地の宗谷から樺太のシラヌシに渡る。文化3年のロシア人襲撃を知る。 文化年3月24日(1807/05/01)、柴田角兵衛、宗谷に帰着。ロシア人襲撃事件を松前に急報。 文化4年4月6日(1807/05/13)、柴田角兵衛の急使、松前につく。 1807/05/14、フヴォストフ、樺太島番人を伴いユノナ号でペテロハウロフスクを出航。ダヴィドフ, カブリイル・イヴァノヴィチ、アヴォス号でペテロパウロフスクを出航。 1807/05/30、ユノナ号、アヴォス号、択捉島ナイホ沖に姿を現す。 文化4年4月25日、(1807/06/01)、小船1艘にロシア人10人が乗り込み択捉島ナイホ番所に上陸。同番所にいたナイホ番所番人小頭中川五郎次(40)、ナイホ番所番人左兵衛、ナイホ番所木挽三助(46)、ナイホ番所新道切六蔵(55)、番人見習(帳役)長助(28)の5名を捕らえ、米などを掠奪、放火する。 文化4年4月27日(1807/06/03)、ロシア人ナイホ番所を退去。 文化4年4月29日(1807/06/05)、ユノナ号、アヴォス号、捉島シャナ沖に姿を現す。 文化4年5月1日(1807/06/06)、小船4艘、革舟2艘でロシア人40人がシャナに上陸、シャナ会所に乱入して、武器・米・酒・雑貨を奪い建物に火をかけた。戸田又太夫(シャナ会所留守居役の調役下役)、勤番の南部・津軽の兵100人余りと敗走。戸田は責任を負って自刃。 文化4年5月2日(1807/06/07)、大村治五平(シャナ会所勤番、南部藩砲術部)、シャナに戻ったところをロシア人に捕らえられる。捕虜寺56歳。夜、津軽藩足軽、金沢久蔵、ロシア人に捕らえられる。 文化4年5月3日(1807/06/08)、金沢久蔵は悪疾にかかっていたので、フヴォストフの来航趣旨をしたためた書簡を持たされ、朝開放される。のち行方不明。ナヨカ付近で死体で発見される。 文化4年5月3日(1807/06/08)、ユノナ号、アヴォス号、シャナ沖を去る。 文化4年5月14日(1807/06/19)、ロシア人択捉島襲撃の第一報が箱館奉行所に届く。 文化4年5月21日(1807/06/26)、ユノナ号、アヴォス号、ウルップ島を経て、5月21日樺太のアニワ湾に至り、前年の掠奪地を見まわった。 文化4年5月22日(1807/06/27)、ユノナ号、アヴォス号、ルウタカに上陸。番屋や倉庫などに火をかける。 文化4年5月29日~6月4日(1807/07/04~09)、ユノナ号、アヴォス号、礼文・利尻島付近で商船宜幸丸、ついで松前藩船禎祥丸、官船万春丸、商戦誠竜丸を遅い、積荷を掠奪し船を焼き払った。さらに、利尻島に上陸、ここでも番屋・倉庫を焼き払った。 文化4年6月5日(1807/07/10)、酉蔵、富五郎、福松、源七、三助、六蔵、長助、大村治五平の8名、商船誠竜丸から奪った小船に乗せられ開放される。松前奉行宛て書簡を持たせられる。宗谷場所のイウツ(稚内市勇知)に漕ぎ渡って野宿。 文化4年6月6日(1807/07/11)、酉蔵、富五郎、福松、源七、三助、六蔵、長助、大村治五平の8名、宗谷番所帰着。宗谷番所詰調役並深山宇平太の取調べを受ける。福松、源七はのち松前奉行所小遣となる。 文化4年6月7日(1807/07/12)、源七、富五郎、宗谷沖にロシア船が現れたので、海岸に使いとして出される。 文化4年6月11日(1807/07/16)、酉蔵ら8名、調役下役小川喜太郎、地役人木村平作らに付き添われて宗谷を出帆。 文化4年6月13日(1807/07/18)、幕府、奥州各藩に厳重な海防御触書を廻す。 文化4年6月23日(1807/07/28)、中川五郎次、左兵衛、オホーツクに連れて行かれる。 文化4年6月28日(1807/08/02)、酉蔵ら8名、手塩(天塩郡天塩町)からは陸路をとり、この日箱館に到着。 文化4年6月29日(1807/08/03)、酉蔵ら8名、揚屋入りを命じられる。 文化4年7月26日(1807/08/29)、堀田正敦、魯寇事件処理のため箱館に派遣され、この日箱館に到着。 文化4年7月29日(1807/09/01)、堀田正敦、帰着捕虜の取調べに立ち会う。 文化4年8月1日(1807/09/02)、樺太・択捉島番人7名の「口書」が作成される。 文化4年8月3日(1807/09/04)、南部藩士大村冶五平の「口書」が作成される。 文化4年8月5日(1807/09/06)、富五郎、源七、長助、小川喜太郎付き添いで江戸へ出立。 文化4年8月末(1807/9月末)、酉蔵、福松、三助、六蔵、松前に送られる。いったん坂本盛屋敷明家に留め置かれた後、帰郷を許される。 文化4年8月29日(1807/09/30)、富五郎ら3名、江戸霊岸島の蝦夷会所に到着。 文化4年9月(1807/10月)、大村治五平、病気で箱館に留まっていたが、回復次第江戸に送るよう幕府の指令がある。 文化4年9月1日(1807/10/02)、富五郎ら3名、勘定奉行柳生主善正久通の取調べを受ける。のち帰郷。 文化4年10月23日(1807/11/22)、大村治五平、松前に送られる。いったん坂本盛屋敷明家に留め置かれる。番人4人と同居。 文化4年11月14日(1807/12/12)、大村治五平、松前を出発。 文化4年12月9日(1808/01/06)、幕府、「魯船打払令」を出す。 文化4年12月11日(1808/01/08)、大村治五平、江戸霊岸島の蝦夷会所に到着。南部藩江戸上屋敷にお預け。 文化4年12月30日(1808/01/27)、大村治五平、南部藩江戸下屋敷に移される。 文化5年2月(1808年)、河尻、荒尾松前奉行。幕府に上申書を提出、ロシア側にその暴行を謝罪させ、その証としてロシア国重役の釈明書を提出させるとともに奪取した武器類を返還させること、辺土間の交易は国法とは別であると見なして許可することを説き、問題は国境、特に樺太が島であるのか大陸と続いているのかその奥地事情が不明なところにあるとして、調査を進言した。 文化5年2月26日(1808/03/22)、大村冶五平の「口書」が作成される。 文化5年3月8日(1808/04/03)、大村治五平、南部藩引渡しの幕府指令が出される。 文化5年3月11日(1808/04/06)、大村治五平、荒尾成章宅で南部藩士吉田一学に伝達、帰藩する。 文化5年3月20日(1808/04/15)、大村治五平、江戸を出立。 文化5年4月2日(1808/04/27)、大村治五平、盛岡に到着。家老の北監物にお預けの身となる。 文化5年6月21日(1808/07/14)、大村治五平、北監物知行所鹿角大湯(秋田県鹿角市大湯)に蟄居を申し付けられる。 文化5年1月(1809)、大村治五平、楢山帯刀知行所の下閉伊郡千徳村(岩手県宮古市花原市)の華厳院に移る。 文化6年5月~12月(1809)、中川五郎次、左兵衛、逃亡をはかりツングースの集落を放浪。 文化7年5月~文化8年5月(1810~1811)、中川五郎次、左兵衛、再度脱走をはかりツングースの集落を放浪。 文化7年夏(1810)、シケコンフシュ、択捉島シャナにラショワ島アイヌ人7名と渡来。ロシア人の指示を受けて文化襲撃後の択捉島のようすを見に来た。 1810年12月、左兵衛、シベリアのツングースの集落で死亡。 文化8年8月中旬(1811)、中川五郎次、オホーツクを出発。 文化8年11月28日(1811/12/31)、中川五郎次、ヤクーツクを出発。 文化8年12月(1812)、中川五郎次、イルクーツク到着。仙台漂流民(H1810a)の善六方に寄宿する。一時、日本語学校の教師を務める。 文化9年3月(1812)、中川五郎次、このころ在イルクーツク。 文化9年3月(1812)、ピョートル・イヴァノヴィチ・リコルド、イルクーツクに赴き、知事ニコライ・イヴァノヴィチ・トレスキンと相談し、当時同地にあった文化魯寇捕虜の五郎次を通訳として起用することとした。 文化9年5月初旬(1812)、リコルド、中川五郎次、イルクーツクからオホーツクに戻る。 1812/08/03、リコルド、中川五郎次、歓喜丸漂流民6名(H1810a)、ジャナ号でオホーツクを出帆。 文化9年8月3日(1812/09/09)、ジャナ号、国後島ケラムイ岬沖に到着。 文化9年8月11日(1812/09/16)、中川五郎次、歓喜丸忠五郎(H1810a)の2名、ゴロウニンの生死確認のため国後島に上陸。 文化9年8月12日(1812/09/17)、忠五郎(H1810a)は逃走し国後島泊会所に帰着。中川五郎次は、ゴロウニンらはすでに殺されたとの報を持って帰艦。夕方、歓喜丸漂流民(H1810a)の4名と国後島に上陸。中川五郎次は一晩泊会所の土手外に置かれる。 文化9年8月13日(1812/09/18)、中川五郎次、国後島泊会所に収容される。 文化9年8月14日(1812/09/19)以降、太田彦助、中川五郎次を取り調べ「清五郎外四名口書」「五郎次口書」を作成。 文化9年10月15日(1812/11/18)、中川五郎次、松前着。 文化9年11月20日(1812/12/23)、中川五郎次、江戸着。在府松前奉行荒尾但馬守、服部備後守貞勝の取調べを受ける。 文化10年8月4日(1813/08/29)、大村治五平、陸奥国閉伊郡千徳村(岩手県宮古市花原市)で蟄居中死亡。享年62歳。宗旨禅宗。菩提寺花原市華厳院。大村家菩提寺は盛岡北山の法泉寺。 文化11年(1814)、馬場佐十郎、中川五郎次の持ち帰った牛痘書を訳し初稿なる。 文化11年2月10日(1814/03/31)、中川五郎次、松前箱館内役所の小遣となる。 文化12年4月(1815)、盛岡の淡路丸大明神(桜山神宮)の祭礼を契機として、大村治五平の赦免が通達される。 文政2年(1819)、中川五郎次、松前奉行所手代となる。 文政3年(1820)、馬場佐十郎、中川五郎次の持ち帰った牛痘書の訳本「遁花秘訣」を出す。 文政5年(1822)、中川五郎次、松前藩に仕える。オホーツク滞在中に医師ニコライ・ミハイロヴィチ・メイツユのもとで習い覚えた牛痘の術を施したといわれる。 1824年、中川五郎次、豪商・田中正右衛門の11才になる娘イクに種痘を施し成功する。 嘉永元年9月26日(1848/10/22)、中川五郎次、福山(北海道松前郡松前町)で死亡。享年81歳。宗旨禅宗。故郷菩提寺川内村泉龍寺。戒名義孝良仁居子。 参考文献 木崎良平, 1991. 漂流民とロシア. 中央公論社. 吉村昭, 1987. 間宮林蔵. 講談社. 吉村昭, 2000. 北天の星(上). 講談社. 吉村昭, 2000. 北天の星(下). 講談社.
https://w.atwiki.jp/sasaki_ss/pages/341.html
「さて、おなかも膨れたことだし、脱出について協議しようか」 食事を終えた俺達は再びこの空間について話し合うことにした。 ちなみに調理は佐々木に一任した。 佐々木の料理の腕は中学の調理実習で知ってたからな。 おかげで旨い飯にありつけたというものだ。 やはり天蓋領域やら超能力者だのは考えないほうがいいだろう。 考えたところで俺にどうにかできる相手ではない。 となればいくつかあげた仮説のうち俺に解決できそうなものに対する策を行うべきだな。 となるとやはり当初の考え通り佐々木閉鎖空間説で行くしかないか。 「……ここは佐々木の望んだ世界のはずなんだよな」 「……そうなのかな?橘さんからは『僕の世界』としか聞いてないけれど」 「ハルヒの能力が『願望実現』なんだからそれを手に入れることができるお前もそうなんだろうな」 「……ここが僕の望んだ世界か……なるほど」 「つまりお前を満足させれば出れるはずなんだ……こう、なにか思い当たるような願望は無いか?」 「……うーん、CDがほしいとか、そんなレベルじゃないだろうね」 「そりゃそうだな」 「この世のすべての知識がほしいとか?」 「ファウストかよ、というかそんな願望あんのか」 「くくっ、冗談だよ」 佐々木は必死に思い出そうとしているようだ。 しかしまるで思い当たらないのかいつまでたってもめぼしい発言は出てこない。 まぁ自分の願望なんてえてして自分ではわからないものかもしれないな。 ……今回は俺が仕切らなくてはならない。 佐々木は神候補かもしれんが現状はただの女の子なんだからな。 大丈夫だ、俺に能力は無いがおそらく日本、いや世界一超常現象を体験した人間なんだからな。 「佐々木、わからないなら考えなくてもいい。こうなったらしらみ粒しだ。 遊ぶぞ!ひたすら遊びまくってお前を満足させてやろうじゃないか!何だって付き合ってやるぞ佐々木!」 佐々木は少し驚いた顔をした。 その後いつもの笑いをひとつ。 「それなら……」と呟き立ち上がった。 ……嫌な予感がするな。 「佐々木よ、まさか参考書を持ってきているから勉強しようとか言わないだろうな?」 「……キョン、よくわかったね。君に参考書を持ってきたことは言っていないはずだけれど」 「なに、単なる勘だ。……と、言うか俺は遊ぼうといったはずだが」 「くっく、キョン。なにしろ1ヶ月だよ?勉強が遅れる……ことは無いにしても忘れてしまうかもしれない。 勉強って言うのは積み重ねだからね。……それに今なんだって付き合うといったじゃないか」 「……わーったよ」 遊ぶといっているのに最初に出てくる選択肢が勉強会なあたり佐々木らしい。 正直かったるいが佐々木が満足するなら何でも付き合ってやるさ。 佐々木に解説をしてもらいながら久々に脳みそを全開で使う。 何時間かやったところでいつの間にか眠ってしまった。 きっとオーバーヒートとかその辺に違いない。 3日目 勉強中熟睡するという二日連続転寝をかました俺達は再び目を覚ました。 体内時計的には少なくとも日中であるはずなのに太陽の光を感じることはできず電灯の光のみがここを照らしている。 早朝の心地よさは一切感じられずまるで深夜にうっかり目を覚ましてしまったようだ。 スーパーに行ったと気から気がついていたことだがこの町は非常に暗い。 太陽が登る時間もきっと外界に依存しているのだろう。 ということは日が昇るのが6時ごろとするとこちらの時間で16日ほど経過しなくては太陽は昇らない。 その上街頭はおろか民家の電灯さえついていないので都会に生きてきた俺達には体験したことの無いような暗さが続いている。 一人でこんなところに放りだされたらと思うとゾッとするな。 佐々木に今日はどうするか尋ねたところ、家で遊ぼうと言って来た。 真っ暗な街中を出歩くのはやはりもう嫌なのだろうか。 とりあえずゲームでもするかと佐々木にいくらかのソフトを見せる。 協力プレイのゲームを佐々木は好んで選んだ。 我が家にガンコンが二つあったのは幸いだ。 協力プレイが真骨頂のゲームだからな、こいつは。 しかし1日という時間は長い。 午前中をゲームに費やした俺達は昼食後再び勉強会を開催する。 3時間も勉強したらいつの間にか雑談大会になっていたな。 そして夜。 さすがに俺も佐々木も二日連続転寝には反省していたからな12時を過ぎたころ寝ることにした。 佐々木には妹の部屋でも使ってもらえばいいか? そう思って提案したはずなのだがいつの間にか客間の布団を俺の部屋に持ってきていた。 理由は……何度同じ発言をしたか解からないが、なんとなく佐々木が不安そうだったからだ。 俺がベッドに、佐々木が布団に入った。 正直言ってしばらくは意識しっぱなしだ。 けれど修学旅行の学生みたいに雑談しているうちに眠ってしまった。 ……佐々木でよかったというべきか? それからの日々はほとんど変わらない。 思いつく限りのゲームをやって、勉強会をして。 最後には雑談大会になって就寝。 夜、佐々木と同じ部屋で寝るのはいつまでたっても慣れなかったが雑談をしているうちに眠ってしまう。 足りないものが思いついたらその都度どこかに調達しに行く。 思ったとおり肉類だろうが魚類だろうが悪くなる気配はほとんど無いので食料にはまったくこまらない。 料理は佐々木が一通りこなせるようだし俺だってやれないことは無いのでまったく問題にならない。 ひとつ困ったことといえば、洗濯物が乾かないのだ。 太陽が出ていないせいもあるだろうが水分の蒸発も外界の時間経過に依存するらしく洗濯ができない。 結局服やら下着やらもほとんど使い捨てのような扱いになってしまっていた。 俺と佐々木は常に一緒にいた。 完璧に生活がお膳立てされ、さらには気の合う親友がいる。 気が滅入りそうな状況下で与えられた二つの好条件のうち一つでも失うのは嫌だった。 必要最低限の調達以外は俺達は一切外に出ず、家の中にいた。 もともと俺も佐々木もインドア派だ。 室内で遊ぶのはまったく苦ではない。 俺達の共同生活は完全に軌道に乗っていた。 そして───10日目。 外界の時間に直すと約3時間とちょっと、午前2時過になったころ。 あるひとつのトラブルが起きた。 いつも俺より先に起きているはずの佐々木が眠ったままだ。 別に起こしてやる必要もないかと思い階段を降りてリビングに行く。 たまには俺が朝食を作るかと思ってパンとコーヒーの用意をする。 「やぁ、おはよう、キョン……ついに10日目だね」 「おう、朝飯出来てるぞ……って」 階段から降りてきた佐々木はなぜか壁に寄りかかっている。 さらに言えばなんだか顔色も悪い。 「おい、佐々木。大丈夫か?顔色が悪いぞ?」 「うん、不覚にもなんだか調子を崩してしまったみたいなんだ……いや、でも大丈夫。すぐによくなるよ」 「……寝てろ」 「キョ、キョン?」 佐々木の強がりはあっさり見抜いて俺の部屋に連れ戻す。 足元がおぼついてねぇじゃねか。 佐々木に口で勝てるとは思わないのでここは問答無用だ。 強制的に寝かしつけて看病の準備をする。 「大丈夫か?」 「ああ、済まないね。こっちに来て以来君に迷惑をかけてばかりだ……原因だって僕だというのに」 「だから気にしてないって言ってるだろ?ほれ、御粥作ったから食えよ」 医者にちゃんと見せてやれないことだけが心配だが幸いそこまでひどくなさそうだ。 しかし念のため何か薬くらいは調達してきたほうがいいかもしれない。 基本的に適当を信条とする我が家に常備薬なんてものは無い。 ひとっ走り薬局でも行くか。 「佐々木よ、俺は薬局に行って来る。おとなしく寝てろよ?」 「キョ、キョン……?待ってくれ、僕も……」 「来れる訳無いだろう。ふらふらじゃないか。いいから寝てろよ」 「…………そうだね、わかったよ」 思えばこれがここに来て初の別行動だった。 俺は自転車に乗って最寄の薬局を目指す。 侵入も10日目ともなれば慣れたもので事前に用意したバットでガラスを叩き壊して鍵を開ける。 処方箋なんて解かるわけが無いのでテレビでCMをしているような市販の風邪薬やらうがい薬やらを目に付くまま袋にぶち込む。 ついでに水分補給ができるようなドリンクもいくつかいたただいた。 30分ほどかけて家と薬局を往復する。 結構時間がかかっちまったな。 自転車を定位置に停めて袋を担いで玄関に向かう。 「キョン?帰ったのかい?」 玄関を開けるとすぐに佐々木がいた。 調子がよくなったのかと思ったがすぐにそうではないことがわかる。 先ほどと変わらず顔色がよくないし足元はふらふらだ。 「佐々木?寝てなくっちゃ駄目だろ?」 「……そうだったね、駄目だね。体調不良のせいで正確な判断が出来なくなってるみたいだ」 「ったく、ふらふらじゃねぇか。ほれ、肩かしてやるから」 「……いや、大丈夫」 「じゃ、ねぇだろ。まともに歩けてないじゃないか」 なんだか強がる佐々木を無理やりベッドに連れて行って寝かす。 「ほれ、多分この辺でいいんじゃないか?」 「うん、それなら僕の家の常備薬と同じだ」 水と薬を佐々木に渡す ちょっと苦そうな顔をしながら薬を飲み下すと佐々木は再びベッドに横になった。 しばし沈黙が支配した。 「……ねぇキョン」 沈黙を破ったのは佐々木だった。 中学時代からずっと同じ俺に話しかけるときの第一声だ。 それだけに違いがわかった。 いつもの四方山話ではないってことがな。 佐々木の声にはこの閉鎖空間にやってきた当初に少しだけ見せた不安の声があった。 「どうした佐々木?」 俺は出来るだけいつものようにすることを心がけて返事をする。 なんだかその方がいいような気がしたんだ。 ……なんとなくな。 「…………その、だね。君がいなかった1時間あまりの間に、気がついたことがあるんだ」 1時間? ここから薬局までの往復は30分ほどしかかかっていないはずだが。 ……以前の雪山のような誤差が起きているのだろうか? ついうっかり考察に入ってしまいそうになるが佐々木の言いたいことはまだこの先にある。 俺はでかかった言葉を押しとどめた。 「……なにがだ?」 「僕の願望さ」 佐々木の願望。 言ってしまえばそれはここから脱出する鍵……と、目下俺が推測しているものである。 佐々木のそれを叶えてやればきっとここから出られるのだ。 だが……なんだろう? せっかくそれが解かったのに佐々木はひどく不安そうな顔をしている。 「僕はね、キョン……閉鎖空間にきて10日間。とても楽しかったんだ。 それだけに思い知らされたよ。君のいない1時間は……とても寂しかった」 長い前置きになりそうだ。 普段の俺なら結論から言えと急かす所だが今の佐々木を見ているとさすがにそんな無粋なまねは出来ない。 だから、佐々木の口から漏れた恥ずかしい台詞にも何とか耐える。 「きっと受験が終わって君が塾をやめたときも、卒業して高校が別になったときも、僕は同じ感情を抱いていたんだろうね。 そのたびに僕は高校だ塾だ受験だと理由をつけて感情をごまかしてきた。幸か不幸かそういうのは僕の得意中の得意な事だったんだ」 「でもここにはごまかすものなんて何も無い。君と、僕がいて後は何も無いんだ。 ……君が、僕を気遣ってくれていたのは最初からわかっていた。 普段の君にあるまじき行動力や推察を見せてくれたからね。君は僕を守ってくれていたんだ。」 「……嬉しかった」 「なくしてしまった大切なものが戻ってきてくれたみたいで、本当に嬉しかったんだ。 ここでは君は僕を気遣って、僕を第一に考えてくれた」 「僕は!僕の願望は!……君との1年を取り戻すことだったんだ!」 佐々木の独白を俺はただ黙って聞いていた。 ……自分の心のうちを完全に理解するというのは幸せなんだろうか? 今の佐々木を見ているとそう思う。 佐々木の言っていることは間違いなく正解なんだろう。 だが今の佐々木は、本当につらそうだ。 その佐々木の辛さが病気によるものでは無いことくらい俺にだって理解できる。 「……思えば思うほど自分が嫌になる。僕は自分の意思で君と違う学校を選んだくせにそのせいで失った君との1年を過ごそうとしている」 佐々木は独白を続ける。 まるで神父に罪を告白する信者のようにな。 ならば俺は神父にならなければならない。 こいつの罪とやらを聞いて払ってやらねばならない。 俺はただ静かに佐々木の言葉に耳を傾けるだけだ。 「時計を見てみなよキョン、早い時期で気づいて、助けが来るまでの時間を計算したのが仇になったようだ。 ……外界が朝8時になるまで後6時間、6時間を1年にまで膨らますためにいつの間にか1秒が1460秒……24分強にまで膨らんでいる 1年を過ごしても僕は満足せずにもっと時間を膨らませるかもしれない……永久に出られないかもしれないんだ!」 俺は佐々木の言葉に釣られるように時計を見た。 そうであることを確実に確かめるには24分待たなければならないが、明らかに時計の進みが遅いのは理解できる。 「逆効果だったんだ、君とのこの楽しい10日間は……僕が満足すれば出られる……キョン、君の推論はきっと間違っていない。 でも、僕は逆に考えてしまったんだ! ここから脱出してしまえばまた君と音信不通になるんじゃないかって!」 「僕は最低だ……身勝手な理由だけで君をこんなところに連れてきて……拉致監禁と何もかわらない! 悪いことをしていると思っているはずなのに!……この空間はいつまでたっても解除されない! 僕は!僕は罪を犯して君に迷惑をかけてまで……君と一緒にいたいと思っているんだ!」 ……すべてを納得したような気がしていた。 考えてみれば不自然だったんだ。 この空間において衣食住は一切問題にならない。 神人どころか害虫すらいない。 俺達に危機は何一つ存在しないんだ。 にもかかわらず俺は、この空間で目が覚めた当初から佐々木を守らなければならないなんて考えていた。 まるっきり柄じゃないのにな。 守る?何から?ここには敵なんていやしねぇ。 下手をすれば車やら変質者やらがいない分ここのほうが安全なくらいだ。 佐々木が以前言っていたな、「僕の中に入った気分はどうだった?」ってな。 ここは紛れも無く佐々木の中なんだ。 きっとこの閉鎖空間はハルヒのそれのように現実世界にあるわけじゃない。 いつだったか読んだSF小説のように俺は精神世界に取り込まれてしまっているんだ。 だから俺は佐々木の不安を感じ取れた。 いつもの俺じゃありえない鋭さでな。 きっと今のこの根拠の無い考察も、佐々木の精神から感じ取ったんだろう。 必ずあっているという自信がる。「わかってしまう」というやつか。 今佐々木が吐露したのはここに来てからずっと佐々木が抱いていた不安だ。 そして俺が佐々木を守ろうとしていたのは、その不安からだった。 ……今だってその意思は変わっていない。 こいつは不適に笑ってなくちゃいけないやつだ。 佐々木の本質がどうだとかそんなこたぁどうでもいい。 俺のためにこいつはそうでなくちゃいけないんだ。 さて、佐々木よ。 今度は俺が長台詞を吐く番だ。 しっかり聞けよ? 今その不安を取り払ってやるからな。 「佐々木よ」 俺はゆっくりと口を開いた。 思えば俺から佐々木に話しかけるときは大体この台詞だったな。 何を言うか?そんなこと考えちゃいねぇ。 きっとほっといても口から出てくるんだ。 それでも悪いようにはならない。 俺が佐々木のことを悪く思うはずなんて無いんだからな。 「俺は楽しかったぞ?中学3年の時だって、この間久々に再開した時だって、この10日間だってな。 お前と話している時は……いつだって楽しかった」 「1年間音信普通だったのは……悪かった。弁解の仕様も無い。言い訳になっちまうが超常現象で頭がいっぱいだったんだ。 それでもな、佐々木。お前との仲が疎遠になってるなんて意識はちっとも無かったんだ」 「この間お前は言ったな、『久々の再開で普通に話せるのが親友』だってな。そのとおりだ。 俺にはこういう確信があったんだ。理由なんて無いがな」 「お前とはたとえどれだけ離れていようと他人になることなんてありえない」 「たとえ隣にいなくったって生きているとさえ知っていれば平気だった。あいつは元気でやってるかな、なんて思ってな」 「俺はお前のこと、強いやつだって思っていた。いや、今でも思ってるしきっとそうなんだろう」 「だからだったのかな、お前のこと考えてなかったみたいだ。俺が平気だからお前も平気だって考えていた。 本当に悪かった……俺は鈍感なやつだな……お前が寂しいって言ってくれるまで解からなかったんだ」 「理解した今なら俺はそんなことしない。俺はお前が喜ぶことなら何だってしてやりたいし悲しむことは絶対にしたくないんだ」 「お前が俺と離れるのを悲しんでくれるというのなら……」 「いつでも、ずっと、好きなだけ……一緒にいてやるよ」 ……俺の口が止まった。 どうやら言うべきことはすべて言ったみたいだな。 きっと思い出したら赤面ものだろう。 目の前の佐々木みたいにな。 口から出た台詞は完全に記憶している。 しかし無理やり脳みその片隅に追い込んで俺は平静を保っていた。 もし、これで佐々木の不安が取り払われないならもっと言ってやらなきゃならないからな。 しばらくはお互い黙りこくっていた。 けれど目線は絶対にはずさない。 どのくらいたっただろうか? 佐々木から声が漏れた。 「くっくっ……」 いつもの笑い声だ。 解かる。 この声に不安なんてものは混じっていない。 「キョン……君はこんなときでも僕のことを考えてくれる……。 本当なら申し訳ない気持ちになってしまうところだけど……それでは君がやってくれたことが無意味になってしまう。 だからこう言うよ、キョン」 穏やかな声だった。 耳も鼓膜も脳も貫通して直接心に叩き込まれるようだ。 「ありがとう、大好きだよ。キョン」 あーもう無理。 赤面する。 紅潮する。 真っ赤になる。 顔が朱を帯びる。 「……恥ずかしいこというなよ」 「……君にだけは言われたくないね、キョン」 お互い真っ赤な顔を見せたくない。 そんな思いからだろうか? 俺達はいつの間にか互いの顔が交差するように抱き合っていた。 ……こいつ、結構あるんだな。 「……スケベ」 口に出していたようだ。 再び、沈黙。 どのくらいそうしていたかは解からないが、お互いが元に戻るまでの時間はずっとそうしていた。 「ねぇ、キョン」 落ち着いた佐々木の第一声。 沈黙を破るのはいつも佐々木のこの発言だ。 さっきのような不安は言葉の中にはもう無い。 そして佐々木は言葉を続ける。 顔は見えないがきっといつもの不適な笑みを浮かべているんだろう。 「キミは無自覚かもしれないがさっきの台詞はプロポーズだよ? それを理解した上でもう一度言ってほしいものだね。……もちろん僕の返答はYES以外ありえないけどね」 ……紅潮合戦第2ラウンドを始める気か? いいだろう、何回だって受けてたってやる。 お前が望むなら、な。 「……現実世界でなら何回だって言ってやるよ」 俺の言葉を聞いた佐々木はまたいつもの笑いをした。 それにつられるように俺も笑う。 そして、俺と佐々木は10日ぶりに……どちらとも無く……。 『脱出を試みた』 光が差し込んだ。 俺の体にゆっくりと意識が回るのを感じつつまぶたが開く。 ……朝か。 ゆっくりと上体を起こす。 ……5時半。 早過ぎだろ、いくらなんでも。 昨日早く寝すぎたか。 休日だってのに……二度寝は無理だな、こりゃ。 すっかり目が覚めてしまった俺は布団をはがしてベッドから降りる。 コーヒーでも飲むか……。 あれ?コーヒーは飲んじまったんじゃなかったか? ……いや、あるな。勘違いか。 パンとコーヒーで適当に朝食を済ませる。 家族は誰一人起きていない。 ……さて、どうしようか? とりあえず……。 佐々木のところでも行くかね。 話はまだ半分だったはずだからな。 19-511「閉鎖空間漂流記」前半 19-511「閉鎖空間漂流記」後半
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/191.html
1695年 伝兵衛、カムチャツカへ漂流 伝兵衛(デンベイ):父は大坂の商人ディアサ。伝兵衛は同じ大坂商人のアワスディヤ(淡路屋?)マタヴィン(又兵衛?)の店に出入りする2人の子を持つ妻帯者。大坂谷町あたりに在住。淡路屋又兵衛の上乗役として乗船した。15人乗船。なお、伝兵衛は日本に帰らなかったため、日本側には一切記録はない。すべてはロシア側の記録である。 1695年8月、ウラジミール・アトラソフ、アナディル城砦の指令として、ロシアの東シベリアの基地ヤクーツクから前進基地アナディルの砦に派遣された 元禄8年11月初め?(1695/12/初め?)、12艘(一説に30艘)の船団で、大阪を出帆し江戸に向かう。難破し帆柱を切り倒したとき、2名が海に落ちて死ぬ。 伝兵衛の供述(1702年1月)の中に、「彼、伝兵衛が大阪を出版してから今、7年目である」(А как он, Денбей из города Асакка на море пошел---тому ныне седьмой год.)とあるのが根拠。(村山、1965) 1696年6月ごろ、伝兵衛ら13人がカムチャツカ南部、オホーツク海に注ぐオパラ河口付近に漂着。翌日の夜、船は40艘の舟に分乗した200人のクリル人の襲撃を受ける。 伝兵衛は仲間の2名とともに捕らえられ、クリル人の村へ連行される。其村で仲間2名は不慣れな食物のため死亡(殺されたとも)。 オパラ河口に残された10人は、間もなくどことも知れず連れ去られた。 伝兵衛は、クリル人の村で約1ヶ月、カムチャツカ川支流のナネ川畔にあるカムチャダル人の村でさらに1年近くを過ごした。 1696年、ルカ・モロズコ、アトラソフに命ぜられカムチャツカ北部のコリヤク人討伐に派遣。予定よりずっと南のカムチャダル人の住むチギリ川上流付近にまで達し、住民から毛皮税を徴収して帰る。その際「何ものか分からない文書」を持ち帰る。この文書は、伝兵衛らがオパラ河口付近に漂着したとき、自分たちのことについてクリル人に書いて差し出したものと思われる。 1696年12月、ウラジミール・アトラソフ、部下の兵士と猟師60人を連れ、更に土民60人を伴って、新しい土地を発見するためにカムチャツカ半島に入る。 一隊はオホーツク海北端のベンジナ河口を経て、カムチャツカ半島の西海岸を2週間ほど南下し、いったん東に向かいオリュトラ川流域に出、配下の部隊にはそのまま東海岸を南下させる一方、自らは再び西海岸のパラン川に出て、チギリ川河口の南に達した。 1697年春、 ウラジミール・アトラソフ、半島の西海岸に向かい、その後東方に方向を転じて太平洋沿岸に出て、アリュートル川の河口のコリヤークの集落にたどり着いたが、ここで隊を二つに分けた。そして一隊は東海岸をまっすぐ南下、自らの属する二隊は西海岸に出て、これまた一路南下することにした。アトラソフは道案内に雇っていた土民の叛乱に遇ったり、いろいろと苦難多い旅を続けた。 1697年7月28日(ユリウス暦7月18日)、ウラジミール・アトラソフ、チギリ川河口から東に転じ、クレストヴカ川がカムチャツカ川に合流する地点にいたり、ここで初めてカムチャダールの集落に入る。ここに十字架を建て「50人隊長ウラジミール・アトラソフの一行これを建てる。7205年7月18日」と記した。カムチャツカ川のカムチャダールの集落から引換えすと、イーチャ川を渡って、更に南進し、クリール人(千島アイヌ)の集落に達した。 イーチャ河畔に駐屯中、デンベイと出会う。 1698年、ウラジミール・アトラソフ、カムチャツカをロシア領に編入させる。カムチャツカ半島南部、北緯52度10分のゴルイギナ河口に達し、千島列島のアライド島の島影を認める。ロシア人による最初の千島望見。1699年7月22日、デンベイを連れてアナディルに帰還。 ウラジミール・アトラソフ、デンベイを連れヤクーツクへ向かうが、途中、デンベイの足が腫れたのでアナディルへ送り返した。 1700年、伝兵衛、アトラソフに数ヶ月送れてヤクーツク着。ヤクーツクで取調べを受ける。 1700年6月14日、アトラソフ、ヤクーツクの代官所へ報告を為す。「カムチャツカ遠征に関する第一の報告」(伝兵衛に関する報告書1)。 彼、ウラディーミル(アトラソフ)は同僚とともに(イチャ河畔で)カムチャダル人たちから、「ナナ河畔(カムチャツカ河支流か)のカムチャダル人のところに1人の囚人がいる。彼らはこの囚人をロシア人と呼んでいる」と聞いた。かれ、ウラディーミル(アトラソフ)はその囚人を連れて来いと命令した。カムチャダル人は主人の厳格さに恐れをなして囚人を連れて来た。囚人はウラディーミル(アトラソフ)のところに出頭した。この囚人はウザカ(大阪)国の者である。この国は印度の支配下にある(Он-де Узакинского государства, а то-де государство под Индейским царством.)。[この囚人は「自分は大阪の者で、大阪は江戸の支配下にある」と述べたのが、ロシア人にはこのように受け止められたのである。]。彼らはウザカ国から印度[実は江戸]に向って航行し、12隻の帆船に乗っていた。或る帆船は食料を、或るものは酒やさまざまな陶器を積んでいた。[暴風雨のため]或る帆船はマストが折れ大洋に押し出され、6か月漂流し、12名が漂着した。クリル[カムチャツカ南部]の住民がそのうち3名を捕えた。しかし残りの者はあの岬のわきを帆船(単数)に乗って進んで行った。しかし彼らがどこにひそんでいるのか、この男は言わなかった。クリル人のところで暮らしていた2人の仲間は食物に不慣れで死んだ。クリル人たちは腐敗した肉と根菜類で生活していた。かの印度人[江戸から印度を連想したのである]はウラディーミル(アトラソフ)とその仲間がロシア人であるというので喜んだ。この男は自分流に文字を知り、役所の書記であったと言った。印度[江戸]の文字の書いた1冊の本を示した。ウラディーミルはこの本をヤクーツクに持ってきた。ウラディーミルはその男をつれてきて、イチャ河畔のコザック陣地の家来たちのところにおいてきた。(村山、1965) 1701年2月21日、アトラソフ、モスクワのシベリア庁で「第2の報告」。 帆船に乗って(カムチャツカに)漂流したこの囚人の話す言葉[日本語]を自分は知らない。この囚人はギリシャ人のように見え、やせていて、口ひげは大きくない。髪は黒い。ロシア人たちのもとで神像を見て、大そう泣いて、自分の国にもこうした神像があると言った。この囚人はロシア人たちとロシア語で話すこともあった。というのはウラディーミル(アトラソフ)と2年間一緒に暮らしたからである。しかしコリャーク語の通訳を介して話した。なぜなら、ウラディーミルと一緒に暮らす前に異民族のところで2年暮らしたからである。彼は印度人と自称した。彼によると、その国では黄金が沢山産出し、陶器でできた宮殿(複数)があり、印度[江戸]の王は銀の宮殿(複数)と金色に輝く宮殿を持っている。ウラディーミルはクリル土民から銀貨をとりあげたが、それはゾロトニク[4,26グラム]の重さがある。この囚人は「それは印度[江戸]の鋳貨だ」と言った。その国では黒貂やその他の動物を用いないという。木綿にぬいてつけたいろいろな緞子の着物をきている。この囚人はウラディーミルと一緒に雪靴をはいてアナドイルの冬期陣地から6日間走った。足が腫れて、病気となった。そこでアナドイルの冬期陣地につれ戻した。快復すれば直ちにロシア人たちと一緒にヤクーツクに出発するであろう。囚人は性格上、非常に礼儀作法が正しく、分別がある。(村山、1965) 1702年初め、伝兵衛、 モスクワへ移される。 1702年1月、アトラソフ、モスクワのシベリア庁で「伝兵衛物語」(伝兵衛の口述調書)と呼ばれる報告を行う。 かの囚人はいくらかロシア語を話し(говорит немного по руски)、シベリア庁で供述した。デンベエと言い、ディサイ(治三、治佐?)の息子(Дисаев сын)で、日本島のオサッカ Осакка町の生れ。日本島の首都はミアコ Меако[京都]であり、オサッカから150露里(1露里は約1キロ)離れている。其処には、その島の支配者が住んでいる。ダイン・サマ(Даин-сама)と呼ばれる。デンベイの父・ディアサは同じオサッカの町に住み、商人である。彼デンベイは同じ大阪の町の商人である主人---その名はアワヂの息子マタヴィン(именем Авасжія сына Матавина、淡路屋又兵衛か?)---に雇われて、商品を積んで、主人の他の雇われ人と一緒に、全部で15名で船に乗り他の船30隻---小舟又は大船、それはイェドヴニ едовни(江戸船)と呼ばれ、長さ15尋、幅、高さ4尋で、帆をかけていた---がイェンダ(江戸)の町に(в город Енду)向って、日本島の海を通って航行しようとした。この町は海辺にあってアサッカ Асакка(大阪)から約700露里(約700キロ)離れている。積荷は米、酒、緞子、南京木綿、木綿、白砂糖、氷砂糖、びゃくだん材、鉄であった。これは絹や板鉄、麻布、金、銀と交換するものであった。なぜなら、彼の言によると、金と銀はミアコとイェンダ(江戸)でだけ鋳造されるからである。そしてその支配者は両方の町に行ったり来たりして住んでいる。 海上では船は波浪のためにちりぢりばらばらになった。それらの船が何処へちらばったか、彼は知らない。彼の乗っていた船は烈風で28週間も海上を漂流した。そして風を避けるために一行は帆柱を切り落とし、水の中におろした。その作業で2名が帆もろとも溺死してしまった。船にはオサッカ(大阪)の町から淡水を持ってきてあった。水は2ヶ月たりた。水が無くなると、米を酒で煮た。酒も使いはたしたとき、米を氷砂糖であまくして露命をつないだ。風がおさまったおき、波のうねりから(по матошнику)大海に押し流されてしまったことが判った。そこで、そうして戻るかを考えはじめた。彼らは海上に、根のついたあまり大きくない樹木を見つけた。この樹木をマストノ代りに船に立て、また緞子で帆を縫ったのであった。 この帆でクリル国土[カムチャツカ南部]にはこばれた。河を見つけてさかのぼり、クリル人たちのところにたどりついた。クリル人の1人がやってきた。そこで伝兵衛はその仲間と一緒に、ためしにその国土及び言語の知識を得ようとして、紙に書き始めた。そしてこの書き物をクリル人に渡し、彼にその言語を書かせようとした。するとそのクリル人は紙をふろころに入れてしまった。なぜならカムチャダル及びクリルの国では人々は全く文字を持たないからである。この男は彼らから去っていった。しかし翌朝、4隻の小舟に乗って20名ぐらいがやってきた。そして彼らを眺めてからたち去った。しかし夜に約200名が40隻の小舟で来た。伝兵衛とその仲間をめがけて矢を放ちはじめ、石斧と骨斧で彼らの船をこわし始めた。彼らは伝兵衛の左手の指を矢で傷つけた。伝兵衛と仲間が群集を見たとき、殺されたくないので船から緞子、綿織物、金物を取り出して彼らに渡し始めた。クリル人は彼らから緞子、綿織物と金物を受け取った。米と砂糖は香をかいで見て、においが無いのがわかった。また同じように酒のにおいをかいで見た。約500樽あった。彼らは樽を割った。米も砂糖も捨て、酒は海に流した。しかし酒樽は魚漬け用にとっておいた。というのはクリル・カムチャダル国土は異人種は容器を全く持っていないからである。彼らは魚を穴に入れ、上に木材や草をかぶせておくのだった。魚は全部石鹸状になる。これを桶に入れ、水をそそぎ、熱い石で熱する。それからベニテングダケを加え、それを彼らは飲むのである。またお客をそれでもてなす。彼らはそれで酩酊する。伝兵衛と仲間にはこの飲み物が飲めなかった。そこで植物の根や余り長くねせつけていない魚を食べた。 これらのクリル人は彼らのうちの2人---泣き過ぎて海上の船で盲目になっていた[壊血病か]---をなぐり殺してしまった。しかし伝兵衛のことは或る男が捕まえてカムチャトカ河までつれて来た。彼の仲間10人はクリル人たちのところにとどまった。伝兵衛は仲間と一緒に約1ヶ月、かのクリル人たちのところでとどまっていたのだった。 ところでカムチャトカ河畔で伝兵衛は1年近く暮らしたとき、ウォロディメル・オトラーソフ[ウラディミール・アトラソフ]が同僚とともにやって来た。伝兵衛はカムチャダル語の幾つかの単語を知り始めた。彼はカムチャダル人たちから、小舟又は帆船で人々がクリルの土地にやってきて彼[伝兵衛]の仲間10名を連行した、と聞いた。彼らが日本国の人かシナ人(Японскіе земли или Китайскіе лоди)であったか、彼は知らない。 ウォエオディメル・オトラーソフがそのコサックたちと一緒にカムチャダル人の国にやってきたとき、伝兵衛は彼等のもとで食事が清潔であるのを見て、餓死をまぬかれるために彼らのところに行った。そしてウォディメルは仲間と一緒に伝兵衛をひきとり、カムチャダル人たちに渡さないで、シベリヤにつれて来た。 伝兵衛はアサッカ(大阪)の町から出帆して今7年目である。[この供述はモスクワのシベリア庁で1702年1月に行われたのであるから、大阪を出たのは1695年、元禄8年ということになる。とすればカムチャツカに漂着したのは1696年であろう。]伝兵衛は大阪に妻と2人の子を持っている。(以下略) (村山、1965) 1702年1月19日、ピョートル1世|Alekseevich Pyotr I、モスクワ郊外プレオブラジェンスコエ村で伝兵衛を引見。(M.ドストイェフスキーによれば2月8日(ユリウス暦)) 1702年4月27日、ピョートル1世は、国費による伝兵衛の生活保証と、日本語学校を開設し、伝兵衛をそこの教師たらしめることを勅令をもって命じた。 身柄をシベリア局から砲兵局の管理下に移される。同日、「伝兵衛にロシア語とその読み書きを教えるとともに、4、5人の子供へ日本語とその読み書きを教えさせるために、その身柄をシベリア庁から砲兵省に移すべし。」と勅令で指示。 1705年、伝兵衛、「ロシアにおける日本語学校の教師」という称号を与えられ、モスクワで日本語を教える。ただ、この時期、日本語学校が開設されたとは考えられない。砲兵省で子供に日本語は教えていたかもしれない。 1705年10月27日、ピョートル1世、砲兵総監アレクサンドル・アルチロヴィチ大公および砲兵少将で知事のヤコフ・ヴィリモヴィチ・ブリュースに、「日本国出身の異国人伝兵衛は、砲兵省でロシア語を学んだか、また、何名に自国語を教えたか、そして今も教えているかを調査すべし」と命じた。 アンドレイ ・ボグダノフ(画家となる)、1706年か1707年に生まれる。伝兵衛の子との説あり。 ところで、チェーホフの「サハリン島」に「苗字ではどんな奇妙な巡り会わせが、サハリンではボグダーノフというのと、ペスパーロフというのがやたらに多い」とある。 1707年、商務大臣マトヴェイ・ペテロヴィチ・ガガーリン、デンベイを引き取る。 1710年、伝兵衛、洗礼を受けガブリエルと名乗る ガブリエル・ボグダノフか? 1713年、伝兵衛、ペテルブルグに移る。 1714年、伝兵衛、助手にサニマ(H1710a)を迎える。 この数年後に死去。 1733~1743年、ドイツ生まれの歴史家、ゲラルド・フリードリヒ・ミュラー、ベーリングの北太平洋探検の学術調査団に参加してイルクーツクやヤクーツクに滞在、シベリアの諸史料の収集に努める。伝兵衛に関する記録を残す。 1737~1741年、博物学者、ステパン・ペテロヴィチ・クラシュニンニコフ(ミュラーの弟子)、科学アカデミーの学生としてシベリアに赴きカムチャツカに滞在。伝兵衛に関する記録を残す。 外交志稿では、次のとおり。 元禄7(1694)年、大坂の船、露西亜東部柬察加の「オパラ」河口に漂着す。全船溺死、僅に1人を存す。露国官吏之を莫斯果府に送致す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省. 木崎良平, 1991. 漂流民とロシア. 中央公論社. 外川継男, 1991. ロシアとソ連邦. 講談社. 村山七郎, 1965. 漂流民の言語. 吉川弘文館.
https://w.atwiki.jp/kokodaketasekai/pages/20.html
【プロフィール】 名前 ビハインド・レイボーン 職業 賞金稼ぎ(スペースカウボーイ) 種族 人間 性別 男 年齢 25歳 身長・体重 182cm/60kg 出身世界 人類が土星まで進出した世界 つまりSF世界 【能力】 『ブラッディアイ』 その名の通りこの能力が発動されると、瞳が血の様な赤色に染まり『動体視力、反応反射速度』を発射された銃弾を見てからかわす事が可能なまでに上昇させる。が、その代償として使えば使うほど精神が犯され、最後には廃人になるという一面も持ち合わせている 。実はこの能力、エウロパ独自の風土病であり、この時代の最先端医療でもお手上げとされるいわくつきの難病である。(今は亡きある組織による超人練成計画、その前実験の舞台に当時としては比較的ISSP(太陽系刑事警察機構)の目が届かなかったエウロパが選ばれる。新薬と称してばら撒かれたナノウィルス入りの飲み水を飲んだエウロパの人々は、超人的な身体能力を得たが同時に制御の利かないバーサーカーへと変貌した。ある程度の実験データーがそろった時点で組織は新薬を引き上げ、エウロパから撤退。同時にISSPが介入し、騒動を鎮静化。組織によって引き起こされたこの騒動を新たな伝染病と処理し、組織に出し抜かれた事実を完璧に隠蔽した。当時の長期的な最新治療により症状が緩和されたのを機に、この出来事は人々の記憶から薄れ次第に忘れ去られていった。だが人々の記憶から消えたとしてもその爪痕は確かに残っており、『ブラッディアイ』と言う形で今もなお、エウロパの人々を蝕み続けている。今現在、この真実を知る者はいない…) 【装備】 『ワルサーP99』 口径9mm 使用弾薬9mmパラベラム弾 重量750g装弾数16発の自動拳銃 現在 残弾14発 『戦闘用特殊強化ウェットスーツ』 耐熱、耐弾、耐刃、耐衝撃、4つを軽減するが凍結状態に陥ると脆い。火星で発見された超軽量合金素材で出来ており、薄くて、軽くて、丈夫と3拍子揃っている。体の動きに合わせてそれをサポートする仕組みが組み込まれており、装着者の身体能力を向上させる(出力調整可能)武術を修める者がコレを装着すると、さらに効果的に使用することが出来るであろう。(外着の内側に装備している) 『戦闘用特殊強化グローブ』 上記と同素材の手袋。ウェットスーツではカバーできない手の部分を守る。 【アイテム】 予備マガジン(16発)4個 【備考】 ジークンドーの達人 (それに見合った身体能力は当然、持ち合わせている(無い方が不自然))拳銃の腕前は素人に毛が生えたようなもので、5~10m程度が一応狙える限界か? 容姿は長身痩躯な体形と、ツンツンと逆立てた金髪が印象的な一見間の抜けた相貌の優男。服装はグリーンのジャケットに黒いワイシャツ、細身の黒いスラックスという某三世を彷彿させる出で立ち。 【経歴など】 木星の衛星(テラフォーミングされた)エウロパ生まれ。幼い頃に大昔のマーシャルアーツ、ジークンドーと出会い学び始める。その才能は凄まじく十九歳で『拳聖』の称号を得るに至る。二十歳の頃、愛機(宇宙船型戦闘機)グランウェルを購入し、念願であった宇宙を駆けるカウボーイとなる。賞金首の連中からは『ぶっ壊し屋のレイ』(捕まえるのに手段を選ばない為)と言われ恐れられていた。同業者に言動やらなんやらが似通っている人物がおり、賞金首などにその人物と間違われると怒り狂うらしい。(一度鉢合わせした時に大喧嘩になったとか…)大物賞金首ハンニバル・ラスプーチンを追って位相差ゲート(超光速航法)に飛び込んだ所、事故かトラブルかこの世界へと飛ばされた。この世界に漂流すると同時に消失した、自身の〝愛機〟を捜し歩いている。
https://w.atwiki.jp/sekainosentaku/pages/122.html
最近リレー小説に参加したいのか、それとも単なる冷やかしなのかわかりませんが、見慣れないIDの方が出没するときがあります。 同志が増えるのはうれしいことですから下記のように返しましょう。なお、もし荒らしが出没した場合、スルーの方向でお願いいたします。 通常 当該レス番 (気のきいた文句) じっくり世界の選択でも見つめると良い……。 http //www15.atwiki.jp/sekainosentaku/ 見つめて覚悟が出来たならここに来るが良い……。待っているぞ……。 co41242 今北産業と言われた場合 当該レス番 邪気眼でなりきり→http //www15.atwiki.jp/sekainosentaku/↓参加表明は此処へ co41242
https://w.atwiki.jp/avin_unicorn/pages/206.html
地図名 アイテム □古代の食品(モガディシオ北東-2) 甲冑 □[[]] □[[]]
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/145.html
大屋甚吉、鬱陵島に漂着 1617年(H1617a) 元和3(1617)年、大屋甚吉(大谷甚吉とも)、鬱陵島に漂着。一説にはもっと早い時期の可能性もある。 大屋家は但馬大屋谷に居していた和田九右衛門尉良清が始祖でその孫玄蕃尉勝真が現在の鳥取県会見郡の尾高城主杉原盛重に仕え、姓を大谷に変えたという。彼は家老の上席にまで身を置くが途中で武士を捨て隠士となり祖先の墓所である大屋谷に帰り死去している。その玄蕃の甥が甚吉で町人として米子の灘町で廻船業を開始した。大屋は屋号だという。 元和4(1618)年5月16日(一説には1625年)、米子町人の大屋甚吉と村川市兵衛が江戸幕府から「竹島渡海免許」を与えられ、アワビやワカメを採るために、毎年、交代で船を送るようになる。当時、日本では鬱陵島を「竹島」あるいは「磯竹島」と読んでいた。 免許を得るきっかけは、越後国(新潟県)から伯耆国(鳥取県)米子へ船で向っていた大谷甚吉が、遭難して鬱陵島へ漂着したことにあった。その島は、「人家なくして山河産物有り、喬木、大竹繁茂し、禽獣、魚、貝、其品を尽す」(「竹島渡海禁止並渡海沿革」) 帰国した大谷甚吉は、同じく米子町人の村川市兵衛とともに渡海の許可を申し出た。5月16日、幕府の許可は鳥取藩主池田光政へ伝えられた。 渡海事業が続けられる中、鬱陵島への途中寄港地として松島(現:竹島)が新たに発見され利用されるようになり、1600年代中ごろまでには、大谷・村川両家は「松島渡海免許」を授かったと伝えられる。 1696年には鬱陵島渡海を禁じられる。甚吉本人も何回か鬱陵島に渡り、鬱陵島で没したといわれるが時期は不詳。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県. 別冊宝島編集部, 2005. ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本. 宝島社.
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/205.html
1720年 遠州鹿丸、鳥島に漂着 享保3年(1718)11月、鹿丸(大鹿丸とも)、遠江国敷知郡新居湊(静岡県浜名郡新居町)を出帆。船頭左太夫をはじめ9人が乗船。 乗船者 左太夫 鹿丸船頭 新居町出身 甚八 楫取 新居町出身 46歳 仁三郎 水主 新居町出身 40歳 平三郎 水主 新居町出身 21歳 善三郎 水主 新居町出身 八太夫 水主 新居町出身 権五郎 水主 新居町出身 善右衛門 炊 新居町出身 享保3年(1718)12月、鹿丸、江戸に到着。ここで増水主2名を得る(都合11名)。まもなく江戸を出帆。岩地の湊(静岡県賀茂郡松崎町岩地)に入り新年を迎える。 享保41月か2月、鹿丸、岩地出帆。三河国鷲塚湊(愛知県碧南市鷲塚)に投錨。14~15日逗留。 享保4年(1719)秋、鹿丸、遠江国新居の船。このころ仙台荒浜で御城米を積み込んで、上乗り1人を交え、12人乗りこみで出帆。銚子で役人の指図に従い、上乗りと米をおろす。空舟で南部領閉伊の宮まで行って、そこで材木を積みうけ、権四郎というものを便乗させ、12人で出帆。仙台小竹浦へ寄港。 享保4年11月26日(1720/01/05)、鹿丸、仙台小竹浦を出船。 享保4年11月30日(1720/01/09)、鹿丸、房州九十九里浜沖で遭難。 享保5年1月26日(1720/03/04)ごろ、鹿丸、鳥島へ漂着。 享保6年(1721)秋、空船が鳥島に漂着し、30俵ほどの米を拾い上げる。後に、一部の籾が発芽し、稲作を行う。 元文4年3月29日(1739/05/06)、鳥島に江戸宮本善八船(H1739a、17名乗組み)、漂着。このころの鹿丸の生存者は3名(甚八、仁三郎、平三郎)。 元文4年4月27日(1739/06/03)、20人ではしけに乗り、鳥島を出帆。 元文4年5月1日(1739/06/06)、八丈島にたどりつく。 元文4年6月24日(1739/07/29)、鹿丸乗組員3名、遠州新居町宿に帰還。 参考文献 荒川秀俊, 1995. 異国漂流物語. 社会思想社. 小林郁, 2003. 鳥島漂着物語. 成山堂書店