約 1,660 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/248.html
明治10年「永野小学校」の前身「野庭学校」のスケッチです。 「野庭学校」は明治5年に下野庭の正応寺に創立しました。 明治10年10月に上野庭の浄念寺(野庭神社)の北側に移設され、以後明治25年に「永野小学校」誕生まで地域教育の拠点となりました。 その後、この建物は永野小学校の脇に移設され、永野村役場の庁舎となりました。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/184.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 日野8丁目の丘の上より日野小学校から日野中央公園の方向(00101の方向)を望んだ写真です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/220.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 日野小学校の屋上より東側を望んだ写真です。 手前に御所ケ谷橋があります。 右手の森は春日神社の森です。 遠く開けた所は現在の県立南陵高校(当時は日野高校)や日野中央公園がある場所です。 この場所は、右手の春日神社の森から、左手の日野墓地のある丘へ向けて、繋がっていましたが、日野中央から洋光台へ向けて山を削った場所です。 昔のことを教えてください -- 梃子山 安価 (2010-10-28 14 47 20) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/207.html
年代 不詳。 京急上大岡駅の改札口です。 多分、昭和38年迄あった先々代の駅舎(0041,0043)を線路側から撮った写真と思われます。 昭和30年代初期の頃、周辺地域では宅地造成が盛んでした。 駅前には不動産屋さんの看板が沢山見られます。 左手にはア-ケ-ド「箱根通り」の文字も見られます。 箱根通りでなく箱根交通タクシー会社です、2016年9月投稿 -- 井上信雄 (2016-09-20 02 39 20) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/17.html
dなkdなだだだががが だdなd dあだだ だdあだd
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/251.html
年代:1945年(昭和20年)頃 金沢道(笹下・釜利谷街道)の様子です。 道路の拡幅工事を準備している様子です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/262.html
年代 昭和7年 高等科卒業式の際の記念写真です。 永野村立実業学校 永野村立青年学校 の看板が見えます。 当時は、長男は家業を継ぎ、百姓に。 次男は実業学校へ進み、外へ働きに出ました。 真中のチョボ髭が高松校長先生。 右端の袴姿が村長さんか? 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/66.html
浄念寺の咳止め玄入坊 (上永谷) むかしなあ、上野庭の島田という所に、一人の旅の僧が訪れたそうな。 その僧の名前はな、玄人坊というたそうな。 玄人坊がこの村を歩いていると、病人が多いことに気がついたんだと。昔の山深い里ではな、くらしは貧しくてな、天候が悪くて農作物がとれないとな、たちまち飢えに苦しんだんだとさ。 病気になっても、お医者にかかれない貧乏な暮らしに、若者は近くの戸塚あたりに働きに出て、村には年寄りと子どもばかりになってしまったんだと。 「コン、コン」 と、ひっきりなしに咳をしながら苦しむ農民を見て、玄人坊は何にもできない自分の力の無さをなげき悲しんだと。 玄人坊は、人間はどんなに苦しくても、明日への希望と元気な体があれば、生きぬくことができるんだと。だけどもな、この村には、その元になる希望と健康が失われているのじゃよ。玄人坊自身も、僧として旅の終わりを予感したのかも知れないな。そこで村人たちを呼び集めてな、自分の決意を述べて、大きな穴を掘ってもらったとさ。 そしてな、その中に、自ら生き埋めになろうと入って行ったんだと。そして村人にな、次のように頼んだんだと。 「私が穴の中に入ったら、土の中からお経を読む声のある間は、この竹の筒を通して一日三回、水だけを流しこんでもらいたいと。そして、その経を読む声が絶えた時、私の願いは聞き届けられ、あなたたちの村から、咳をする人たちの苦しみがなくなるだろう」 と言い残して、土の中に消えて行ったんだと。 村人は、最初は、見ず知らずの旅の僧のことばを、信じなかったんじゃが、命をかけてまでの不思議なふるまいと、玄人坊の言ったとおりの奇跡にびっくりしたんだと。 そしてな、玄人坊にたいしてな、感謝と悲しみをこめて、塚を築いてな、その上に榊の木と、石の祠を建てて、後の世まで玄人坊の徳をたたえて、おまつりしたそうな。そして、今でも咳に苦しむ人たちの、おまいりが続いているそうな。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/155.html
年代 昭和60年 天神歩道橋の出来る前の県道(拡幅前の環状2号線)です。 山の向こうが永作・吉原です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/65.html
お百姓さんの助っ人 (日野) いま、日野と呼ばれているあたりはな、昔は武蔵国で、宮ヶ谷村、金井村、吉原村、宮下村の四つの村に分かれており、相模国の下野庭、上野庭との国境にあったそうな。 日野はなあ、近ごろ急に開けてきて、ひと昔前までの面影が残っている所は、わずかになってしもうたが、山あり、谷ありの丘陵地だったんじや。村の人たちは、この谷あいの村で、百姓をして暮らしておった。 お百姓さんが、一番いそがしい田植えや、稲刈りをするころを、農繁期といってな、戦後もしばらくの間は、学校を農繁休みにして、子どもたちも、家の手伝いをしていたこともあったんじやよ。 金井村にはなあ、いつの頃からか、農繁期になると、毎年、毎年決まって国境を越えてな、大ぜいの人たちがやってきたそうじや。 村の人たちは、その人たちをあてにして、農作業を始めることにしていたそうな。 その人たちはな、一番いそがしくて大変な時に、必ずやってきて、よく働いてくれるので、村の人たちは心から感謝しておった。 「本当によくやってくれたのう、少し余分にお金を入れておいたから、取っといておくれ」 と、一人一人に給金をはずんだそうな。 ところがな、お頭が、余分にもらつたお金を全部集めると、 「おつりです」 といって、必ず返してくれたそうじや。 その人たちの身なりはな、それほどよくなかったが、お金をめあてにしている様子でもなく、決まったお金だけもらうと、さっさと次の村に行ってしまう。 それになあ、そのふしぎな人たちは、一日の仕事が終わると、村人と一緒にご飯を食べながら、見たことや、聞いたことの、いろいろな話をしてくれて、その上、歌ったり、踊ったりもしてくれたそうじや。 このことはな、山深い村の人たちにとって、この上ない楽しみとなって、いつしかその日のくるのを、心待ちにするようになったとさ。 その人たちがな、いったい誰で、何のために大ぜいで歩いていたのか、謎でな。 「もしかして、鎌倉のお寺で、修行のために集まっていた、お坊さんたちではなかっただろうか」と、いう人もおったそうな。 ----