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大伴古慈悲、池田親王 、土佐に流される 756年(O0756a) 大伴古慈悲(おおとものこじひ)、性質剛健で学才があり、藤原不比等の女を妻とし、考謙天皇につかえ、一時権力をのばしたが、藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))の怒りにふれ、朝廷をそしった罪で淡海三船(おうみのみふね)とともにとらえられ、土佐守に左遷された。ところが同族の古麻呂の廃立の陰謀に連座して、天平勝宝8(756)年、任国の土佐に流された。 池田親王(淳仁天皇の弟)、皇太弟となっていたが、天平勝宝8(756)年、天皇が孝謙天皇のために退位させられて淡路にうつり、いわゆる淡路廃帝となったとき、多くの馬を集めて謀反を企てたとの理由で土佐に流された。親王は土佐へ下向してから、香美郡皇子(香我美町徳王寺)に仮寓されたと伝えられ、現在同地にある若一王子宮は相殿に親王をまつっている。 宝亀元(770)年、大伴古慈悲、光仁天皇の即位にさいし、ゆるされて土佐から帰京し、大和守に任官する 参考文献 山本大, 1969, 高知県の歴史. 山川出版社.
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通史 天皇記, 聖徳太子・蘇我馬子 国記, 聖徳太子・蘇我馬子 臣連伴造国造百八十部并公民等本記, (聖徳太子)・(蘇我馬子) 帝紀, 旧辞, 上宮記, 粟鹿大神元記 古事記,太安万侶・稗田阿礼 六国史日本書紀,舎人親王・藤原不比等) 続日本紀,藤原継縄・菅野真道・淡海三船) 日本後紀,藤原緒嗣) 続日本後紀,藤原良房) 日本文徳天皇実録,藤原基経) 日本三代実録,藤原時平) 伊吉博徳書,伊吉連博徳) 高橋氏文 藤氏家伝 因幡国伊福部臣古志 日本帝記 類聚国史,菅原道真) 古語拾遺,斎部広成) 日本霊異記 旧事紀(異本含む) 先代旧事本紀白河本『旧事紀』 延宝本『旧事紀』 鷦鷯伝本『旧事紀』 上宮聖徳法王帝説 異本太子伝 上宮皇太子菩薩伝,思託 住吉大社神代記 穂積三立解 皇太神宮儀式帳 止由気宮儀式帳 大神宮諸事雑記 上宮聖徳太子捕闕記 国造本紀 日本紀略 扶桑略記 釈日本紀 新撰姓氏録 尊卑分脈 大宰管内志 本朝皇胤紹運録 類聚三代格 百練抄 日本書紀私記,多人長・矢田部公望ら 日本逸史 出雲国造神賀詞 天書 政事要略,藤原実資・惟宗充亮 大鏡 今鏡 栄花物語 水鏡 将門記 本朝世紀 愚管抄 吾妻鏡 鎌倉年代記 北条九代記 保暦間記 古事記裏書,北畠親房・卜部兼文 増鏡,二条良基?洞院公賢? 神皇正統記,北畠親房 太平記,不明 難太平記,今川貞世 梅松論,不明 明徳記 応仁記 鉄炮記 公卿補任
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草案 登場人物 ジュプトル:カササギ オムナイトorエルレイド:大友皇子 前者は中大兄皇子(天智天皇)の息子 ドレディア:十市皇女 ソーナンス:定恵(真人) アバゴーラ:藤原不比等 父親鎌足と同じタマゴグループで オニゴーリ:鬼室集斯(きしつしゅうし) ゲンガー:行信 ラプラス:淡海三船(おうみのみぶね) ゴルーグ:聖武天皇 大仏から グラエナ:光明皇后(こうみょうこうこう) 性格ずぶとい -- (名無しさん) 2019-08-03 18 15 18 草案 登場人物 ジュプトル:カササギ サーナイト:持統天皇(じとうてんのう) オムナイトorエルレイド:大友皇子 前者は中大兄皇子(天智天皇)の息子 ドレディア:十市皇女 ソーナンス:定恵(真人) アバゴーラ:藤原不比等 父親鎌足と同じタマゴグループで オニゴーリ:鬼室集斯(きしつしゅうし) アブソル:行信 災いを起きる理由で幽閉されたので=不遇から ラプラス:淡海三船(おうみのみぶね) ゴルーグ:聖武天皇 大仏から グラエナ:光明皇后(こうみょうこうこう) 性格ずぶとい -- (名無しさん) 2019-08-08 20 46 39 草案 登場人物 サザンドラorキリキザン:鬼室福信 -- (名無しさん) 2019-11-05 18 03 09 草案 登場人物 サザンドラorキリキザン:鬼室福信 リザードン:蘇我赤兄 ジュペッタ:有馬皇子 -- (名無しさん) 2019-11-10 09 24 48 草案 ルージュラ 遠智娘 ベトベトン 文武王(法敏) ムーランド 金ユ信 -- (名無しさん) 2019-12-15 21 08 46 草案 登場人物 アーケオス:大友皇子 特性よわき ルージュラ:遠智娘 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2019-12-21 14 51 06 草案 登場人物 マイナンorジュナイパー:大海人皇子(天武天皇) アーケオスorオムナイトorエルレイド:大友皇子 前者は特性よわき ルージュラ:遠智娘 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2019-12-29 07 58 22 草案 〇マイナンorルカリオ:大海人皇子(天武天皇)✕マイナンorジュナイパー:大海人皇子(天武天皇) アーケオス:大友皇子 ルージュラ:遠智娘 ナマズン:孝徳天皇 マニューラorリザードン:蘇我赤兄 前者は有間皇子を罠にはめたので悪タイプ ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-02-16 10 14 41 草案 訂正あり↓ ○マイナンorラムパルド 大海人皇子(天武天皇)×マイナンorルカリオ:大海人皇子 アーケオス:大友皇子 ルージュラ:遠智娘 ナマズン:孝徳天皇 マニューラorリザードン:蘇我赤兄 前者は有間皇子を罠にはめたので悪タイプ ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-03-22 14 08 20 草案 マイナンorラムパルド 大海人皇子(天武天皇)×マイナンorルカリオ:大海人皇子 ルージュラ:遠智娘 ナマズン:孝徳天皇 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-07-18 19 05 17 草案 大海人皇子がアバゴーラで藤原不対等をジーランスに変更してほしいです。すいません ダイケンキ:阿部比羅夫 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-08-21 13 31 38 草案 フラージェス:光明皇后(こうみょうこうごう) -- (名無しさん) 2021-02-16 20 31 18 草案 エテボース:大海人皇子(天武天皇) ネギガナイト:阿部比羅夫 オーダイル:文武王(法敏) -- (名無しさん) 2021-11-22 20 53 27
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【元ネタ】日本・史実 【CLASS】キャスター 【マスター】 【真名】賀陽豊年 【性別】男 【身長・体重】cm・kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷D 魔力B 幸運C 宝具C 【クラス別スキル】 陣地作成:C 魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。 小規模な”工房”の形成が可能。内部には書庫が併設されている。 道具作成:E 魔術的な道具を作成する技能。呪符として使える漢詩文を書いた紙を生み出す。 【固有スキル】 呪歌:C 歌を用いた魔術体系。旋律を付けて発することで万物の心に働きかける。 平安前期有数の文人であり、漢詩集『凌雲集』の掲載数は二位タイである。 反骨の相:D 大臣と聞けば白眼視し、藤原薬子に振り回されていた平城天皇には距離を置き、 後に薬子の変が起きると、嵯峨天皇に仕え続けるのもよしとせずに官を退いた。 同ランク以下の「カリスマ」を無効化する。 芸術審美:D 芸術作品、美術品への深い造詣。儒学と史学に精通していた。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、やや低い確率で真名を看破することができる。 【宝具】 『地下之臣(ちかのしん)』 ランク:C 種別:対軍宝具 レンジ:1~40 最大捕捉:300人 兄弟で皇位を譲り合い、殉死を許さず埴輪に代行させたという仁徳天皇の事績を慕い、 仁徳陵の近くに葬られることを望んで許可されたキャスターの借りた軍勢。 日本最大の古墳である「仁徳天皇陵」の埴輪と、開催地となった国で作られ埋められた「俑」を動員し、 痛みも感情も持たぬ兵たちに攻撃や運搬を命じる。 『天爵有余(てんしゃくあまりあり)』 ランク:D 種別:対軍宝具 レンジ:1~40 最大捕捉:100人 天爵(天から評価されるべき能力)は十分だが、俗世の評価は不当に低いとされた。 誤認識を発生させる宝具であり、キャスターのステータスやスキルのランク、 発動してからの軍勢宝具の人数を、頭で理解していても咄嗟の反応で不当に低く見積もらせ、討ち漏らしを発生させる。 【Weapon】 『無銘・大刀』 【解説】 平安時代前期の学者。その才学は現存する最古の漢詩集である『懐風藻』の編者に擬せられる奈良時代の大学者淡海三船をも上回ると評され、「国華」と称された。 自邸に日本最初の図書館を設けていた大納言石上宅嗣という大物にも敬意をもたれ同所で勉強することを許されている。 その性質は信義第一、認めた人物以外とは容易に交わろうとせず、高位高官との交わりをよしとしなかったという。
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天智と天武 登場人物 コメント ビックコミックで連載されている原作:園村昌弘先生、絵:中村真理子先生の漫画作品。 登場人物 オムスターorプラスルorダークライ:中大兄皇子(天智天皇) ダークライは作中での悪行から。わるだくみ必須 オドシシorメブキジカ:蘇我入鹿 カブトプスorダストダス:豊璋(ほうしょう)(中臣鎌足) マイナン:大海人皇子(天武天皇) 中大兄皇子(天智天皇)の弟 クレセリア:斉明天皇 ミロカロス:額田王(ぬかたのおおきみ) エンブオー:蘇我倉山田石川麻呂 ルージュラ:遠智娘 ジュプトルorマッギョ:カササギ サーナイト:持統天皇(じとうてんのう) オムナイトorエルレイド:大友皇子 前者は中大兄皇子(天智天皇)の息子 ドレディア:十市皇女 ソーナンス:定恵(真人) アバゴーラ:藤原不比等 父親鎌足と同じタマゴグループで オニゴーリ:鬼室集斯(きしつしゅうし) アブソル:行信 災いを起きる理由で幽閉されたので=不遇から ラプラス:淡海三船(おうみのみぶね) ゴルーグ:聖武天皇 大仏から グラエナ:光明皇后(こうみょうこうこう) 性格ずぶとい サザンドラorキリキザン:鬼室福信 エイパム:蘇我赤兄 わるだくみ必須 ジュペッタ:有間皇子 メガジュペッタ:孝徳天皇 ハッサム:阿部比羅夫 プテラ:文武王(法敏) 顎の形が似ている コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る 草案 エテボース:大海人皇子(天武天皇) ネギガナイト:阿部比羅夫 オーダイル:文武王(法敏) -- (名無しさん) 2021-11-22 20 53 27 草案 フラージェス:光明皇后(こうみょうこうごう) -- (名無しさん) 2021-02-16 20 31 18 草案 大海人皇子がアバゴーラで藤原不対等をジーランスに変更してほしいです。すいません ダイケンキ:阿部比羅夫 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-08-21 13 31 38 草案 マイナンorラムパルド 大海人皇子(天武天皇)×マイナンorルカリオ:大海人皇子 ルージュラ:遠智娘 ナマズン:孝徳天皇 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-07-18 19 05 17 草案 訂正あり↓ ○マイナンorラムパルド 大海人皇子(天武天皇)×マイナンorルカリオ:大海人皇子 アーケオス:大友皇子 ルージュラ:遠智娘 ナマズン:孝徳天皇 マニューラorリザードン:蘇我赤兄 前者は有間皇子を罠にはめたので悪タイプ ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-03-22 14 08 20 草案 〇マイナンorルカリオ:大海人皇子(天武天皇)✕マイナンorジュナイパー:大海人皇子(天武天皇) アーケオス:大友皇子 ルージュラ:遠智娘 ナマズン:孝徳天皇 マニューラorリザードン:蘇我赤兄 前者は有間皇子を罠にはめたので悪タイプ ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2020-02-16 10 14 41 草案 登場人物 マイナンorジュナイパー:大海人皇子(天武天皇) アーケオスorオムナイトorエルレイド:大友皇子 前者は特性よわき ルージュラ:遠智娘 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2019-12-29 07 58 22 草案 登場人物 アーケオス:大友皇子 特性よわき ルージュラ:遠智娘 ベトベトン:文武王(法敏) ムーランド:金ユ信 -- (名無しさん) 2019-12-21 14 51 06 草案 ルージュラ 遠智娘 ベトベトン 文武王(法敏) ムーランド 金ユ信 -- (名無しさん) 2019-12-15 21 08 46 草案 登場人物 サザンドラorキリキザン:鬼室福信 リザードン:蘇我赤兄 ジュペッタ:有馬皇子 -- (名無しさん) 2019-11-10 09 24 48
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実施日:7/14,19 受験者:15人 平均点:10.5点 最高点 26点 最低点 4点 問題 答 正解者数 1.三省堂の『大辞林』と並ぶ『広辞苑』を発行している会社は? 岩波書店 3 2.世界的なミニブログサービスであるTwitterで投稿できる文字数は最大何文字? 140文字 9 3.景行天皇の皇子で仲哀天皇の父とされている「日本武尊」。なんと読む? ヤマトタケル(ノミコト) 6 4.再春館製薬所が発売している,コラーゲンを配合した基礎化粧品の商品名は? ドモホルリンクル 6 5.小倉百人一首で,俗に一字決まりと呼ばれる文字は?(全て挙げる、順不同) む、す、め、ふ、さ、ほ、せ 4 6.次の等式を証明した数学者は誰?〈e^iπ+1=0〉 オイラー 7 7.Googleが開発しているインターネット・ブラウザの名称は? Google Chrome 3 8.江崎グリコから発売されているグリコのキャッチコピーは『ひとつぶ「何」メートル』? 300メートル 4 9.「もっと光を」という最期の言葉が伝えられている、戯曲『ファウスト』や小説『若きウェルテルの悩み』で有名なドイツの劇作家は誰でしょう? ゲーテ 5 10.「なぜ山に登るのか」という問いに「そこに山があるからだ」と答えたイギリスの登山家は誰でしょう? ジョージ・マロリー 6 11.正式名称は「左心室縮小形成術」という、海堂尊のベストセラー小説の題材となったのは何手術? バチスタ手術 7 12.フィギュアスケートで、演技を終えた選手が採点の結果発表を待つ場所を何というでしょう? キスアンドクライ 4 13.NHK全国学校音楽コンクールで,課題曲『虹』や『青春譜』の作曲をした日本の作曲家は誰? 信長貴富 1 14.『菜の花や月は東に日は西に』という歌を詠んだ江戸時代中期の俳人・画家は誰? 与謝蕪村 7 15.コールサインに由来する「CX」という俗称を持つ,日本のテレビ局は? フジテレビ 4 16.1996年2月9日にドイツで初めて確認され,2011年2月19日に正式な名称が発表された,原子番号112番の原子は何? コぺルニシウム 7 17.情報処理業界を中心とした「仕事術」のことで、いかに作業を簡便かつ効率よく行うかを主眼としたテクニック群のことを何と言う? ライフハック 0 18.縦に座席が並んだ2人乗りの自転車を何という? タンデム 0 19.アメリカの作曲家クインシー・ジョーンズから名をとった、北野武や宮崎駿の映画音楽を数多く手がけた音楽プロデューサーは誰でしょう? 久石譲 4 20.明治末期の歌人、石川啄木の処女歌集は? 一握の砂 5 21.2011年5月に世界保健機関が発表した「世界保健統計」においてトップだった日本の女性の平均寿命は何歳? 86歳 2 22.編者は淡海三船(おうみのみふね)が有力とされている、751年に成立した現存する最古の漢詩集は何? 懐風藻 2 23.日本初の勅撰漢詩集『凌雲集』の編纂を命じた天皇は誰? 嵯峨天皇 3 24.「教科書」を略さずに言うと? 教科用図書 1 25.精神医学で,犯罪被害者が加害者に対して,場所や時間を共有することによって次第に好感触を得る症状を何と言う? ストックホルム症候群 5 26.戦前の日本の歌人・与謝野晶子の夫は誰? 与謝野鉄幹 2 27.ロシアの作家イワン・ツルゲーネフの小説『アーシャ』に登場する女性が言った「I love you.」というセリフを,日本の小説家・夏目漱石は何と訳したでしょう? 「月がきれいですね」 5 28.では,27問目のセリフを,日本の翻訳家でもあった二葉亭四迷は何と訳したでしょう? 「私、死んでもいいわ」 2 29.ギリシャ語で「全ての海」という意味の、大陸移動説においてかつて超大陸パンゲアを取り囲んでいた広大な海をなんという? パンサラッサ 0 30.中国の正史に列伝を持つ,唯一の女性武将は? 秦良玉 0 31.知らないうちに手にあかぎれのような傷ができる現象を表すものとしても知られている、日本では甲信越でよく伝えられている妖怪は? かまいたち 9 32.「ゴマ」は何科に属する? ゴマ科 0 33.競馬で,競争の前に観客が馬を下見できる場所は? パドック 5 34.旧制第四高等学校は現在の何大学? 金沢大学 1 35.症状としては甲状腺が腫れたり眼球が突出したりする、最近ではシンガーソングライターの絢香が発病したことでも知られる病気は? バセドウ病 7 36.シラクサの王が、王位をうらやむ家来を頭上に剣を吊るした椅子に座らせた故事にちなむ、常に戦々恐々とした状態を意味する言葉は何でしょう? ダモクレスの剣 4 37.乳歯が生え始める新生児の生後100日頃に行なわれる、「一生涯、食べることに困らないように」との願いを込めて食事を食べる真似をさせる儀式のことを何という? お食い初め 2 38.お互いに似ているものという意味の四字熟語「已己巳己」。読み方は? いこみき 2 39.ある天体が観測者と他の天体の間を通過するために,その天体が隠される現象を何と言う? 掩蔽 0 40.土星の環のA環とB環の隙間のことを何と言う? カッシーニ間隙 1 41.第92代内閣総理大臣・麻生太郎の祖父である第45・48-51代内閣総理大臣は誰? 吉田茂 5 42.『帰去来辞』や『桃花源記』を書いた,中国魏晋南北朝時代の文学者は誰でしょう? 陶潜 2 43.2015年頃をめどに全ての世帯でブロードバンドを利用出来るようにするという政府の構想を何と言う? 光の道 0 44.後天性免疫不全症候群“AIDS”,プログラミング言語“BASIC”のように,正式な英語名称の頭文字をとってあたかも英単語のように発音する頭字語をカタカナで何と言う? アクロニム 0 45.シアン,マゼンタ,イエロー,黒の4色ですべての色を表現する方法を,アルファベット4文字で何と言う? CMYK 1 46.第2次世界大戦が終わった1945年から始まったアメリカとソ連の緊迫状態を「冷戦」と名付けたアメリカの政治評論家は誰? ウィルター・リップマン 0 47.ドイツ語のアルファベットに用いられる「¨」この記号の名称は? ウムラウト 1 48.すべての人間の言語に普遍的な特性がある,という仮説をもとに「生成文法」という理論を提唱したアメリカの言語学者は? ノーム・チョムスキー 1 49.江戸幕府が開かれた時の天皇は誰? 後陽成天皇 0 50.フランスの哲学者ブレーズ・パスカルの,『それがもう少し低かったら,大地の全表面は変わっていただろう』という発言の「それ」とは何? クレオパトラの鼻 4 【出題者から】 少し難しすぎたのか正解者数0の問題がちらほらと。 前半部分は割と常識問題なので必ず押さえてほしいが、後半も全国決勝で出そうな問題もあるのでぜひ覚えてほしい。 次からはもう少し簡単にします。
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トップページ>歴史>歴史学報 『歴史学報』140、1993.12 回顧と展望:韓国史学界、1990-1992 柳永益「総説」 李清圭「考古学」 盧明鎬「高麗」 韓忠煕「朝鮮前期」 尹煕勉「朝鮮後期」 李培鎔「最近世(開港~)」 徐仲錫「現代(1910~)」 李柱亨「美術史」 『歴史学報』139、1993.9 論文 金杜珍「義湘の中道実際思想」 金玄穆「朝鮮中期雑科入格者の身分と性格:16世紀雑科単回榜目の分析」 潘允洪「壬辰倭乱以後備辺司の辺事措置と軍事政策の議定」 閔善姫「朝鮮後期東萊の郷班社会と武庁:朝鮮後期郷班社会の支配構造と社会移動問題についての一試論」 許元「清末フランス天主教会の内地土地租買権と中国側の対応」 兪京濬「19世紀アメリカ手工業労働運動と階級形成:南北戦争以前ニューヨーク市を中心に」 説林 崔滋英「古代アテネにおける殺人裁判についての解釈」 安秉稷「ドイツの統一と旧東独の歴史学」 書評 徐永大「辛鍾遠『新羅初期仏教史研究』民族社、1992年」 金民寿「田余慶『東晋門閥政治』北京大学出版社、1989年」 『歴史学報』138、1993.6 論文 李東煕「朝鮮世宗代承政院の活動とその政治的意味」 朴仁鎬「南九萬と李世亀の歴史地理研究:南九萬の『東史辨証』・李世亀の『東国三韓四郡古今疆域説』を中心に」 任大煕「唐開元年鑑の右御史臺と諸道按察使」 金希教「義和団運動が第2次ヘイ・ノート(The Second Hay s Note)に及ぼした影響」 白永瑞「1920年代北京政府の正当性危機と「天安門集会」:学生運動の視角」 林煕完「イギリス革命期の宗教的急進思想の役割:クェーカー主義を中心に」 説林 朱京哲「森の歴史」 金炅賢「ローマ史研究に対するいくつかの提言:許勝一教授の批判に対して」 書評 趙志衡「Ira Berlin, Barbara J. Fields, Steven F. Moller, Joseph P. Reidy, Leslie S. Rowland『Slaves No More Three Essays on Emancipation and the Civil War』New York Cambridge University Press, 1992」 『歴史学報』137、1993.3 論文 李昇漢「高麗粛宗代降魔軍組織の政治的背景」 鄭倫周「『葵史』(1859)の編纂と刊行動機」 金翰奎「漢代と魏晋南北朝時代の輔政」 金浩東「唐の羈縻支配と北方遊牧民族の対応」 呉金成「明中期の人口移動とその影響:湖広地方の人口流入を中心に」 金炯仁「アメリカ・サウス・カロライナ洲」 書評 朴正信「James Huntley Grayson『Korea A Religious History』Oxford Oxford University Press, 1989」 趙志衡「Mark E. Neely, Jr.『The Fate of Liberty Abraham Lincoln and Civil Liberties』New York Oxford University Press, 1991」 金徳鎬「David Hackett Fischer『Albion"s Seed Four British Folkways in America』New York and Oxford Oxford University Press, 1989」 『歴史学報』136、1992.12 論文 金鍾璿「三国時代の戦争捕虜に関して:特にその処理問題に関する・ギリシャ・ローマとの比較学的考察」 金仁圭「太宗代の公奴婢政策とその性格:太宗17年公奴婢推刷事目14条を中心に」 韓亨周「朝鮮世宗代の古制研究についての考察」 朴根甲「経済恐慌と労働政策:ドイツ鉄鋼企業の合理化とビスマルクの社会保険」 回顧と展望:西洋史学界、1989-1991 盧明植「総説」 許勝一「古代」 朴恩駒「中世」 朴枝香「近代:イギリス」 李世煕「近代:フランス」 姜哲求「近代:ドイツ」 林永尚「近代:ロシア」 李柱郢「近代:アメリカ」 李相信「歴史理論」 『歴史学報』134・135、1992.9 論文 車河淳「現代史研究の特性と限界」 李庭植「呂運亨と建国準備委員会」 金祥起「朝鮮末文錫鳳の儒城義兵」 高珽烋「欧米駐箚韓国委員会の初期組織と活動、1919-1922」 朴正信「1920年代改新教指導層と民族主義運動:その出会いと訣別の社会史」 兪炳勇「第2次世界大戦中韓国信託統治問題についてのイギリスの外交政策研究」 鄭文祥「国民革命期(1923-1927)惲代英の革命観と学生運動論」 林志弦「「ポーランド社会党(PPS)」と「ポーランド王国社会民主党(SDKP)」の民族問題論争:創党時期(1892-1894)を中心に」 林常友「マックス・ヴェーバーの政治活動に関する小考」 説林 李基東「薛仲業と淡海三船の交歓:統一期新羅と日本との文化的交渉の一断面」 高柄翊、金元龍、閔錫泓、閔賢九、柳永益、李基白、李載龒、全海宗、崔文衡、黄元九、韓哲昊「座談会:歴史学会の足跡と進路」 書評 朴忠錫「鄭載植『意識과 歷史 -韓國의 文化傳統과 社會變動』一潮閣、1991年」 韓詩俊「朴烜『満州漢人民族運動史研究』一潮閣、1991年」 崔永浩「Carter J.Eckert『Offspring of Empire The Koch"ang Kims and the Colonial Origins of Korean Capitalism, 1876-1945』Seattle University of Washington Press, 1991」 朴淳遠「Dennis McNamara『The Colonial Origins of Korean Enterprise, 1910-1945』Cambridge Cambridge University Press, 1990」 鄭哲雄「Pierre-Etienne Will『Bureaucratie et famine en Chine au ⅩⅧe siècle』Mouton, Paris, 1980」 『歴史学報』133、1992.3 論文 宋俊浩「身分制を通じてみた朝鮮後期社会の性格の一面」 金徳珍「朝鮮後期地方官庁の民庫設立と運営」 盧鏞弼「東学農民軍の執綱所についての一考察」 説林 李仁哲「新羅九等戸制の再論:金基興・金鍾璿・安部井正・李喜寬諸氏の批判に答える」 書評 金泰植「千寬宇『加耶史研究』一潮閣、1991年」 権悳永「崔根永『統一新羅時代의 地方勢力研究-新羅의 分裂과 高麗의 民族統一』신서원、1990年」 朴正圭「崔起栄『大韓帝国時期新聞研究』一潮閣、1991年」 『歴史学報』132、1991.12 論文 李東煕「朝鮮太宗代承政院の政治的役割」 車河淳「歴史における革新と保守の対立」 回顧と展望:東洋史学界、1988-1990 曺永禄「総説」 鄭夏賢「古代」 金鐸敏「中世」 李範鶴「近世Ⅰ」 鄭台燮「近世Ⅱ」 羅弦洙「近現代」 朴英宰「日本」 宋寅瑞「東南アジア・インド」 『歴史学報』131、1991.9 論文 金塘澤「忠宣王の復位教書に見える「宰相之宗」について:いわゆる「権門世族」の構成分子と関連して」 李廷柱「権近の仏教観についての再検討」 呉星「19世紀末仁川港の戸と戸主:光武戸籍の検討」 金洋植「大韓帝国期の駅・屯土における抗租研究:内蔵院管理期(1899-1905)を中心に」 車河淳「コリングウッド(Collingwood)史観についての再評価:現在の中に対入した過去(the incapsulated past)を中心に」 書評 이범직「尹煕勉『朝鮮後期郷校研究』一潮閣、1990年」 姜在彦「柳永益『甲午更張研究』一潮閣、1990年」 朴淳遠「マイケル・ロビンソン『日帝下文化的民族主義(1920-25)』나남、1990年」 『歴史学報』130、1991.6 論文 邊東明「鄭可臣と閔漬の史書編纂活動とその傾向」 鄭杜煕「臺諫の活動を通じてみた世祖代の王権と儒教理念の対立」 金東哲「18・19世紀営主人の商業活動と邸債問題」 朴枝香「イギリス労働組合運動:労働主義の展開過程」 文基相「「ラムプレヒト方法論争(Lamprechtsmethodenstreit)」と「文化史」(下)」 説林 李喜寬「三国と統一新羅時代の社会経済史を眺める新しい視角:金基興『삼국 및 통일신라 세제의 연구-사회변동과 관련하여』(서울 역사 비평사, 1991)を読んで」 書評 김현영「李勛相『朝鮮後期의 鄕吏』一潮閣、1990年」 『歴史学報』129、1991.3 論文 曺凡煥「新羅末朴氏王の登場とその政治的性格」 李樹健「朝鮮前期の社会変動と相続制度」 朴橿「日本帝国主義のアヘン政策:中日戦争期内蒙古地域アヘン政策の樹立背景を中心に」 朴相益「カーライル(Thomas Carlyle)の「英雄史観」」 文基相「「ラムプレヒト方法論争(Lamprechtsmethodenstreit)」と「文化史」(上)」 書評 崔源植「高翊晋『韓国古代仏教思想史』東国大学校出版部、1989年」 李昊栄「申瀅植『統一新羅史研究』三知院、1990年」 李存煕「金成俊『牧民心鑑研究』高麗大學校 民族文化研究所、1990年」 『歴史学報』128、1990.12 論文 朴恩卿「高麗前期移住研究」 車轉桓「ローマ共和政後期の移牧」 説林 李泰淑「帝国主義の周辺部中心論:J.GallagherとR.Robinsonの帝国主義理論」 回顧と展望:韓国史学界、1987-1989 李載龒「総説」 崔夢龍「考古学」 金杜珍「古代」 金龍善「高麗」 金恒洙「朝鮮前期」 崔完基「朝鮮後期」 金度亨「最近世」 尹慶老「植民地時代研究の現況と課題(1910-1945)」 『歴史学報』127、1990.9 論文 盧鏞弼「新羅真興王代大等の分化とその政治的背景:昌寧真興王巡狩碑会集人名の大等関係部分の分析を中心に」 金琪燮「高麗末私田捄弊論者の田柴科認識とその限界」 孫炯富「「関衛新編評語」と「地勢儀銘幷序」に現れた朴珪寿の西洋論」 郭次燮「17世紀国家理性論争とマキャベリズム:特にZuccolo、Settala、Chiaramontiを中心に」 趙庸旭「産業資本の温情的干渉主義:イギリス鉄道産業における会社控除基金の場合、1838-1914」 石和静「ロシアの「大陸同盟」提議とその結果」 書評 安秉佑「朴宗基『高麗時代部曲制研究』ソウル大学校出版部、1990年」 『歴史学報』126、1990.6 論文 尹龍九「楽浪前期郡県支配勢力の種族系統と性格:土壙木槨墓の分析を中心に」 李賢惠「三韓社会の農業清算と鉄製農器具」 韓圭茂「尚洞青年会についての研究、1897-1914」 金裕哲「宋斉時代親王の政治的性格と活動基盤」 林志弦「マルクスの後期思想と唯物史観:単線論的段階論に対する批判的考察」 金相洙「イギリスの対日同盟政策、1900-1902:露日間の勢力均衡維持と関連して」 書評 尹炳奭「趙東杰『韓國民族主義의 成立과 獨立運動史硏究』知識産業社、1989年」 『歴史学報』125、1990.3 論文 李南珪「中国鉄使用開始期の諸問題:殷~西周時代の鉄の問題」 文昌魯「三国時代初期の豪民」 李成茂「『経国大典』の編纂と『大明律』」 박근갑「ドイツ鉄鋼工業と保護関税政策(1873-1879)」 説林 崔楨苾「アメリカン・インディアンの起源:最近に発掘した遺跡址を中心に」 書評 李泰鎮「Jahyun Kim Haboush『A Heritage of Kings ; One Man"s Monarchy in the Confucian World』New York Columbia University Press, 1988」 『歴史学報』124、1989.12 論文 李光麟「北韓学界における「古朝鮮」研究」 金鉉丘「朝鮮後期統営穀の運営実態」 金鐸敏「北魏太和以前の胡族の編制と経済的基盤:均田制と三長制の理解のための前提」 回顧と展望:西洋史学界、1986-1988 吉玄謨「総説」 許勝一「古代」 洪成杓「中世」 金民済「イギリス」 金麟中「フランス」 鄭鉉栢「ドイツ」 李仁浩「ロシア」 兪京濬「アメリカ」 李敏鎬「歴史理論」 書評 金東哲「呉星『朝鮮後期 商人硏究-17ㆍ8 世紀 人蔘ㆍ木材ㆍ米糓ㆍ鹽商의 活動을 중심으로-』一潮閣、1989年」 『歴史学報』123、1989.9 論文 南天祐「仁旺洞王宮(在城或いは半月城)の建造時期について:婆娑王代 建造説(月城説)の誤謬」 金鍾璿「正倉院所蔵新羅帳籍に現れた奴婢」 呉宗禄「朝鮮初期の辺鎮防衛と兵馬僉使・萬戸」 李英孝「17世紀北美ニューイングランドの清教徒とインディアンの関係:清教徒的視覚と克服のための試論」 説林 権悳永「筆写本『花郎世記』の史料的検討」 書評 崔完基「李泰鎮『朝鮮授業社会史論』知識産業社、1989年」 黄元九「吏龍範『韓満交流史研究』同和出版公社、1989年」 『歴史学報』122、1989.6 論文 李範稷「国朝五礼儀の成立についての一考察」 池秀傑「1930年代前半期朝鮮人大地主層の政治的動向」 呉金成「順治親政期の清朝權力と江南紳士」 金容徳「ノーマン(E.H. Norman)の日本史観」 金昌成「ローマ共和政期「トリブニ・アエラリ(Tribuni Aerarii)」の役割と身分」 洪成杓「女性の財産権行使の限界とその性格:13世紀イギリス農民を中心に」 書評 金鎔坤「崔完基『朝鮮後期船運業史研究』一潮閣、1989年」 林志弦「Teodor Shanin ed,.『Late Marx and the Russian Road Marx and "the Peripheries of Capitalism"』London R.K.P., 1983」 『歴史学報』121、1989.3 論文 孔錫亀「安岳三号墳の墨書銘についての考察」 李鍾旭「新羅時代の血族集団と相続」 柳浩錫「高麗時代進士の概念についての検討」 邊東明「高麗忠烈王代の万戸」 白永瑞「中国国民革命期西山会議派の性格再検討:鄒魯と広東大学紛糾を中心に」 書評 鄭杜煕「閔成基『朝鮮農業史研究』一潮閣、1989年」 1-20 21-40 41-60 61-80 81-100 101-120 121-140 141-160 161-180 181-190 191-200 201-210 211-220 221-230
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thumb|200px|right|[[十六弁八重表菊紋。天皇および天皇家の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。]] 天皇(てんのう)は、日本国憲法において、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と定められる地位、もしくはその地位にある個人。また、皇帝・君主を敬っていう称号(君主号)もしくは謚号。 古代から世襲により受け継がれた日本の君主であり、古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていたが、連声により「てんのう」に変化したとされる。歴史的仮名遣いでは「てんわう」と表記する。 本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する事柄も扱う。 「天皇」の由来 「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。 古代中国で北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」から採ったという説。 唐の高宗(在位649年-683年)は皇帝ではなく前述の道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。 5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。 はじめて採用されたのは推古朝という説(戦前の津田左右吉の説)も根強い。しかし、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。 称号の変遷 国内での天皇の称号の変遷について説明する。 古代 天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。「てんのう」の読みは「てんおう」の連声による明治期の変化。 中世 天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、祭祀においては「天子」、詔書には「天皇」、華夷においては(国内外にむけては)「皇帝」、臣下がすぐそばから呼びかける時には「陛下」、皇太子など後継者に譲位した場合は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているがこれらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。自称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。 なお、奈良時代、天平宝字6年(762年)~同8年(764年)に神武から持統天皇までの41代、及び元明・元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているがこれは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。 平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝をさす言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され、仙洞や院などともいった。出家すると法皇とも呼ばれた。光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。 明治以降 大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている(用例については別項「日本国皇帝」を参照)。そのため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からはまだ天子様と呼ばれる事もあった)。陸海軍の統帥権を有することから「大元帥陛下」とも言われた。口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。 現在 なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。会話における二人称では単に陛下と呼ぶことが多い。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「お上」「聖上」などの婉曲表現で呼ぶことはまれである。 一部の出版物及び印刷物において、敬称を用いない三人称に「○○(元号)天皇」(例:「平成天皇」)という称号が用いられる事も多い。これは、戦後、存命中の昭和天皇を「今上天皇」と表現せず「昭和天皇」と表記した事が始まりとされる。本来ならこれは諡号になるが、存命中に使用しても間違いとはされていない。 海外での呼称 英語における呼称 英語における天皇を意味する言葉は、原則として大文字の E を用いたEmperor である。定冠詞(the)を付ける場合もあるが、その場合でも大文字の E という原則は崩れない(固有名詞扱いであるため)。天皇を言及する際に用いられる尊称は His Majesty であるが、His Imperial Majesty と記すこともあり、また略してH.M. と記す場合もある。天皇は男性であるため、Her Majesty は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じくH.M. である。「~天皇陛下」という場合、正式には His [Imperial] Majesty (the) Emperor の後に名前を記す。天皇皇后両陛下という場合は、Their [Imperial] Majesties Emperor and Empress となる。天皇に対する呼びかけは一般的に Your [Imperial] Majesty で、「皇帝としての威厳」に対して呼びかけるという形式になる。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は、His/Her Imperial Highness であるが、この場合はImperial は省略できない。 歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味でTennoやMikadoと呼ぶこともままある。 朝鮮半島と天皇の呼称 Template see also? 朝鮮半島は長く中国歴代王朝の属国として存在しており、朝鮮半島が属していた中原王朝では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者の称号であった。そのため朝鮮ではこのように天皇家の皇や帝を称することを認めず「倭王」「日本国王」等の称号を用いたりした。近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は清国の冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、新たに大日本帝国の従属下に入った事によって初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。朝鮮半島独立後は徹底した反日教育により、英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。その後「天皇」と言う称号が一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。 朝鮮半島においては、戦後から一貫して教育現場、マスコミにおいて、日本を華夷秩序に基づいた蔑称で「倭」で呼ぶのが一般的であり、天皇の呼称も例外ではない。現在世界において、一国の元首を侮蔑した表記で記述、報道しているのは朝鮮半島の国家のみである。 この原因として韓国の「小中華主義」の他、朝鮮が清国の冊封体制から自立した後、大韓帝国と改称して憚りなく皇帝を称するようになったのに日本により再び「皇帝」から「王」に格下げされたことに対する報復であると指摘する説もある。最近になって大統領金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたがマスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。そして次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。ただし公的な外交儀礼では天皇と言う称号を用いる。 天皇の配偶者の称号 明治維新以前は一般的に側室を認める時代のため、天皇には皇后以外の複数の配偶者がいた。天皇の配偶者は、出身の家柄に応じて名乗れる称号は決まっていた。 明治維新以降、国民の間では民法の影響で一夫一妻制が浸透したので、皇族や貴族の中においても一夫一妻制が広まった。ただ、明治天皇には側室がいたため、最初に一夫一妻制を実現した天皇は大正天皇である。それ以後の天皇、皇族は一夫一妻制に基づき、配偶者は一人である。 明治維新以前 皇后 中宮 女御 更衣 夫人※上記の名称が出来る前の配偶者の名称 大正天皇以降 皇后 天皇家の姓氏 天皇や皇族は氏姓および苗字を持たないとされる「○○宮」の称号は、宮家の当主個人の称号とされており、苗字には当たらない。。古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(→氏姓制度)。天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったのである。このことは、東アジア世界において他に類を見ない非常に独特なものである。 しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王家(天皇家の前進)は、姓を有していたとされている。5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、宋との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店 岩波新書 、1997、ISBN 4004305101。吉村武彦 「倭の五王の時代」 『古代史の基礎知識』 角川書店 角川選書 、2005、ISBN 4047033731。など。また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする考えもあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする見解が支持されている吉田前掲。。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説が有力となっている吉村前掲。。 吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている吉田前掲。。 天皇の皇位継承 Template main? 明治以後の歴代天皇については即位の礼を参照 皇位継承とは、皇太子などの皇位継承者が皇位(天皇の位)を継承することである。諸外国における国王・皇帝の地位の継承を意味する王位継承、あるいは帝位継承とほぼ同義語である。天皇の皇位継承は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定されていた。日本国憲法では「皇位は、世襲のものであつて、國會(国会)の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承(継承)する。(日本国憲法第2条)」とある。その皇室典範には「皇位は、皇統に屬(属)する男系の男子が、これを繼承(継承)する。()」とある。 憲法の規定 日本国憲法と大日本帝国憲法での天皇の規定について説明する。 日本国憲法における天皇 現在において天皇は、日本国憲法第1章に記されている。日本国憲法においては、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第一条)と位置づけられ、憲法の定める国事行為を除くほか、国政に関する権能を有しない。 天皇の地位 天皇は日本国と日本国民統合の「象徴」とされ、これは主権の存する日本国民の総意に基づくものとされる。 天皇が日本国憲法の下における「元首」であるのか否かについては議論があるが、日本国憲法に元首について何ら記載がないこともあり、元首という用語の定義如何で元首であるかどうかの結論が異なるとされることが多い。 天皇は、諸外国からは元首としての扱いを受けている。オリンピックの開会宣言は開催国の元首が行う慣例になっているので、日本国内で開催されたオリンピックでは天皇が開会宣言を行っている。 天皇の国事行為 天皇は日本国憲法の定める国事に関する行為のみを行うとされ、国政に直接関与する権能を有しない。天皇の行う国事行為は以下のとおり。 国会の指名に基づく内閣総理大臣の任命。 内閣の指名に基づく最高裁判所長官の任命。 憲法改正、法律、政令及び条約の公布。 国会の召集。 衆議院の解散。 国会議員の総選挙の施行の公示。 国務大臣や、その他の官吏の任免の認証。 外国への全権委任状、大使、公使の信任状の認証。 大赦、特赦、滅刑、刑の執行の免除及び復権の認証。 栄典の授与。 批准書、外交文書の認証。 外国の大使、公使の接受。 儀式を行うこと。 これらの天皇の国事行為は、内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う。(輔弼と同義) 大日本帝国憲法における天皇 Template main? 大日本帝国憲法はプロイセン王国やベルギー王国の憲法を参考に作成されたと言われている。 法文を素直に解釈すると大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無かった。この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの君主と実態においては近しい存在であったという意見もある。しかしながら重要な政治的局面で影響力を行使することもあったため異なるという意見もある。大日本帝国憲法下の天皇の法的位置付けについては憲法学上さまざまな論争がなされてきた。 天皇の地位 大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。 天皇の大権 大日本帝国憲法において天皇は以下のように記されている。 天皇は国の元首にして統治権を総攬する。 天皇は陸海軍を統帥する。 天皇は帝国議会の協賛を以って立法権を行う。 国務大臣は天皇を輔弼する。 司法権は天皇の名に於いて法律により裁判所が行う。 衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院に衆議院と同等の権限を持たせている。行政権は国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされた。内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされた。この構造が昭和に入ってから軍部に大きく利用されることとなり、「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな力を持つこととなった(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。 神道と天皇 天皇の歴史は神話までに遡ることができる。現在においても天皇と神道は新嘗祭などで結ばれている。国事行為だけでなく宮中祭祀である国の安泰を祈願する四方拝等「祈り」を行う存在としての天皇も意義深い。明治から戦争直後までの天皇と神道との関係は「国家神道」、「国体」を参照。また、江戸時代までは仏教とも深く繋がっていたが、「尊牌」と称された天皇や皇族の位牌は京都の泉涌寺にまとめ、仏教とは疎遠となった。 これ以後の内容は天皇-2参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月3日 (月) 12 01。
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出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 神武天皇(じんむてんのう、紀元前711年2月13日~紀元前585年4月9日)は、日本の初代天皇。日本の神話上の初代天皇。日向国(宮崎県)出身。在位は神武天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)~神武天皇76年3月11日。 天皇が即位した旧暦1月1日は、現在の暦では2月11日にあたり、日本国が建国した日として、第二次世界大戦に敗戦する前は紀元節、戦後は建国記念の日という祝日である。 『古事記』には神倭伊波礼琵古命とあり、『日本書紀』には神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)・若御毛沼命(わかみけぬのみこと)・狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)とも。 生涯 以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡である。内容が神話的であり、神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない。『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。 皇子の時代 神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命の四男(または三男)である。 生まれながらにして明達にして、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。 『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。 東征の開始 10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て、速吸之門に来た時、国津神の椎根津彦を道案内とした。筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。 筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えた。 長髄彦との戦い 戊午の歳の2月、船団を出して浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。 八咫烏の道案内 5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。 名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。 東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。 怒濤の進撃 8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。 9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祗を祀り、勝利を祈願した。 10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。 12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。 翌巳未の歳の2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。 これに因んで、この地を葛城と称した。これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。庚申の歳、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。 即位 辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。52歳であった。 神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。 神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。 神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。 神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。 崩御 神武天皇76年、127歳にして崩御した。 系譜 父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。 『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では、四男。第三の一書のみ、三男と作す。なお生年月日の記述は記紀にはない。兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。 妃:吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売。阿多小椅君の妹) 手研耳命(たぎしみみのみこと) 岐須美美命(きすみみのみこと、研耳命。古事記のみ) 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと。大物主の女) 日子八井命(ひこやいのみこと、彦八井耳命) 神八井耳命(かむやいみみのみこと) 多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造などの祖 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇) 神武天皇の非実在説 神武天皇が即位したという辛酉の歳(紀元前660年)は弥生時代にあたる。明治時代に入り、近代歴史学が導入されると、歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだという原則が広く承認されるようになった。しかしこの原則を古代史に当てはめると、皇室の歴史を直接疑うことにつながる故に、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。それでも早くから、初期の天皇が非常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者那珂通世は日本書紀の記述を批判して、記紀の紀年は「辛酉革命説」に基づく編者の創作であろうと論考した。 日本古代史に真の意味での史料批判が展開されるのは大正期の津田左右吉を待たなければならない。津田は記紀の成立過程に関して初めて本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室が日本を支配するいわれを説明するために述作された日本神話の一部として理解すべきであると断じた。戦前彼の著書は不敬であるとして発禁処分とされたが、戦後になって天皇制のタブーが解かれると、神武東征説話の骨子が高句麗の開国説話と類似しているという神話学者三品彰英の指摘もあって、多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして支持されるようになった。 こうした経緯から現代の歴史学界では神武天皇の存在は全く前提とされていない。したがって神武天皇に関する説話は何らかの形で創作されたものであるとする意見が強く、崇神天皇、応神天皇、継体天皇、または記紀編纂時期の天武天皇を基に創作したとする「モデル論」も盛んである。また、神武東征物語は邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルであるとする説もある。現代のアカデミズムに属する学者による標準的な日本古代の歴史叙述では、この時代は主として考古学を証拠として記述されている。 即位年月日 神武天皇の即位年月日は、日本書紀の記述に基づいて、明治以来、法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。 紀元前660年とされた経緯 『日本書紀』は年月日は全て干支で記しており、即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。 グレゴリオ暦が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日をグレゴリオ暦の遡り暦に換算して、紀元節を特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。 具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。 干支は、60の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。 神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと、グレゴリオ暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。 なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。 諡号・追号・異名 「神武天皇」は、762年(天平宝字6年)~764年に淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。 和風諡号は次のとおり。 『日本書紀』の神武紀には「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す」とある。 また、神代紀第十一段の第一の一書に「次に狭野尊(さののみこと)。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有(しろしめ)す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す」とあるが、第二の一書に「次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊」、第三の一書に「次神日本磐余彦火火出見尊」、第四の一書に「次磐余彦火火出見尊」と似た名を挙げている。 一方『古事記』には、「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」「豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)」「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」の名が見える。 「神日本」は美称で、聖徳を称えた表現。「磐余」は大和の地名。奈良県磯城郡桜井村・阿部村・香具山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。5世紀から6世紀にかけ、磐余はたびたび皇居の地に選ばれた。 皇居・橿原神宮 都は橿原宮(かしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)。 『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」。 「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、1888年(明治21年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋公に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。 翌年に明治天皇の御勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(1890年に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。 1911年から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が1917年(大正6年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。 なお、1938年(昭和13年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、縄文時代後期~晩期の集落跡を検出したが(橿原遺跡)、記紀の橿原宮に直接結び付くような痕跡は確認されていない。 またこの時期、第二次拡張事業(1938~40)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵)) なお、この事業は国費及び紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。 陵墓・霊廟 『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したと言う記事がある。 『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。中世にはその所在が分からなくなっていた。 江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっていた。一方、水戸光圀が『大日本史』の編纂をはじめた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。 元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第二代綏靖陵に治定されている。)。 しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので別な説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。 その後また、丸山という説も出てきた。これが最有力説であったが、神武陵は、1863年(文久3)にミサンザイに決まった。幕府が15000両を出して修復した。このとき神武陵だけでなく、百いくつの天皇陵全体の修復を行った。神武陵は転々としてきた歴史がある。 陵墓は、奈良県橿原市大久保町の山本ミサンザイ古墳が、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁により定められている。 現在、橿原市大久保町洞にあり、大正時代には、高市郡白檮(かし)村大字山本であったが、同じ場所である。大久保(大窪)または山本である。畝傍山から約東北に300m離れていおり、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。 毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。 また、神武天皇から昭和天皇に至るまで、歴代天皇は皆、皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 基礎データ 代数 初代 御名 神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと) 父 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと) 母 玉依姫命(たまよりひめのみこと) 皇居 畝傍山橿原宮(うねびやまかしはらのみや) 皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) 在位 崩御 陵 畝傍山東北陵(うねびやまうしとらのみささぎ)
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出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。 成立過程 日本書紀成立の経緯 『古事記』と異なり『日本書紀』には、その成立の経緯が書かれていない。しかし後に成立した『続日本紀』の記述により、成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老四年五月癸酉条には、 「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」 とある。その意味は 「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」 ということである(ここに『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。 記述の信頼性 中国の史書、『晋書』安帝には、266年に倭国の関係記事があり、その後は5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが記されている。この間は中国の史書に記述がなく、日本にも文字の記録は無いことから、「謎の4世紀」と呼ばれている。倭王武の上表文や隅田八幡神社鏡銘、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。しかし、当時朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。 稲荷山古墳出土鉄剣の発見により、雄略天皇の実在は確実であるとして、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承にある程度の証拠能力を認めてもよいとする意見も存在する。一方、実証主義的観点から、記紀や『上宮記』を全面的に信用することは出来ないとして、継体天皇以前の大王の名や系図等は不明であるとする慎重な意見もある。稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成する能力を保持していたと推定できる。しかし、同時代とされる雄略天皇の頃の皇室系図が正確である保証は無く、4世紀後半以前の天皇家の祖先については、事実を正確に記録していたと推定する根拠は乏しいとする。 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國には 「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」 文字なし。ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬う。百済において仏経を求得し、初めて文字あり。 との記述がある。この記述を根拠として、朝廷内での文字の常用はおそらく西暦600年前後、聖徳太子の頃であり、継体天皇即位の頃については文字としての記録は無く、口頭での言い伝えとして大和朝廷周辺に記憶があったのみであるとする説もある。 現代の研究では、『古事記』や『日本書紀』の記述は、外国資料を参照したと思われる部分を除いて、継体天皇以前の記述は正確さを保証できないと考えられている。特に継体天皇以前の編年は不正確であるとされている。そのことは継体天皇の没年が『古事記』と『日本書紀』で三説があげられ、『書紀』の編者は外国資料である『百済本記』[2]に基づき531年説を本文に採用したことからも推察することができる。一般に、継体天皇以前の歴史を探るには、考古学的資料が優先される。記紀の記述と神話伝説(時代的変遷の可能性もある)の解釈は考古学的資料の裏付けが存在しない限り、学問的な評価は得られない。 皇室の歴代や系図の成立過程については、継体の系図を記録した『上宮記』や、現在は伝わらない聖徳太子による国史の成立以前にも各種の系図は存在したが、様々な系図に祖先として伝説上の人物を書いたもので正確な内容ではなく、これらを参考にして『上宮記』や『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が亡くなった531年は、当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀頃の成立と考えられている。 『日本書紀』には推古天皇二八年(620年)に、聖徳太子、蘇我馬子らが共同で「天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部・公民等本記」を編纂したという記録[3]がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が仮に事実であったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、この時聖徳太子らが作った歴史書『国記』、『天皇記』は蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされた時に大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。 書名 もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。 『日本紀』とする説は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に、「書」の文字がなく日本紀と書かれていることを重視する。中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。この用法に倣ったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるものなので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持していると言われる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。 『日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述が見られる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は738年(天平10年)の成立とされている。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』『後漢書』のように全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこでこの説の論者は、現存する『書紀』は、中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるものとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。 なお、一部には、『日本紀』と『日本書紀』とは別の書であると考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されている。 原資料 6世紀の中頃以降に言い伝えを元にして日本の歴史をまとめた『帝紀』・『旧辞』、諸氏の伝承、寺院の縁起、漢籍(三国志、漢書、後漢書、淮南子等)などを取り入れていると言われている。なお、『日本書紀』によれば、620年(推古28)に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより旧い史書であるが、645年(皇極4)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すと言われている。 なお、『日本書紀』本文中に書名をあげて引用されている文献として次のようなものがあるが、いずれも現存しない。 『日本旧記』 『日本世記』 『伊吉連博徳書』 『難波吉士男人書』 『百済記』 『百済新撰』 『百済本記』 編纂方針 『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、天皇家や各氏族の歴史上での位置づけを行うという、極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は、政治的に有力者が主導したものと推測されている。 文体・用語 『日本書紀』の文体・用語など文章上の様々な特徴を分類して研究・調査がされており、その結果によると、全三十巻のうち巻一・二の神代紀と巻二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の二十五巻は、大別して二つに分けられるといわれている。その一は、巻三の神武紀から巻十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻十四の雄略紀から巻二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻二十四の皇極紀から巻二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻十三と巻十四の間、つまり雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。 ところで『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、最近の研究から語彙や語法に倭習が多くみられることが分かってきている[7]。とくに大化の改新について書かれた巻二十四、巻二十五に倭習が多数あり、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向を受けて「加筆」されたのではないかと考える学者もいる。 『日本書紀』は、552年(欽明13年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずる、としている。しかし「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」は、538年(宣化3年)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように『日本書紀』には、改変したと推測される箇所があることが、いまや研究者の間では常識となっている。 紀年・暦年の構成 暦日に関する研究は戦前に既に完成していたが、当時の状況はその研究の公表を許さず、戦後ようやく発表されたのであった。『日本書紀』は、完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、年・月・日(干支)の様式で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいてその記事が月の何日に当たるかを計算できるようになっている。たとえば憲法十七条の制定は「推古十二年夏四月丙寅朔戊辰(へいいんさくぼしん)」であるが、これは四月一日の干支が丙寅であって、戊辰は三日であることを示している。また研究は、中国の元嘉(げんか)暦と儀鳳(ぎほう)暦の二つが用いられていることを明らかにした。武即位前紀の甲寅(こういん)年十一月丙戌(へいじゅつ)朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい暦を古い時代に、古い暦を新しい時代に採用している。既述のように二組で撰述したと推測されている。 元嘉暦とは、中国・南朝の宋の何承天(かしょうてん)がつくった暦で、元嘉二十二年(445年)から施行され、百済にも日本にもかなり早く伝来したといわれている。儀鳳暦とは、唐の李淳風(りじゅんほう)がつくって高宗の麟徳(りんとく)二年(665年=天智4)から用いられはじめた麟徳暦のことを指すと考えられている。 讖緯(しんい)の説 神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てている理由は、中国から伝えられた讖緯説を採用したためという学説が、明治に那珂通世(なかみちよ)によりうちたてられ、学界で広く受け入れられている。三善清行による「革命勘文」(『群書類従』 第貮拾六輯 雜部 所収)で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇九年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたのである。異説では、那珂通世の計算には誤認があり、一蔀は「革命勘文」の引用のとおり1320年が正しく従って逆算起点は斉明天皇七年(661年)の辛酉の年になるともいう。 紀年論 古い時代の天皇の寿命が異常に長い事から、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。今日の学説では、初代神武天皇の即位年を辛酉(紀元前660年)とすることによって、年代を古くに引き上げたとされる。そこでこの紀年がどのように構成されているか、明らかにしようとする試みが紀年論である。また応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると、『三国史記』と年次が一致する。したがってこのあたりで、年次は120年古くに設定されているとされる。しかしこれも、あくまで『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するものであって、前後の日本伝承による記事には当然適用されるわけではないし、その前の神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない。 本文と一書 本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。中国では、清の時代になるまで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時の常識では、世界にも類をみない画期的な歴史書だったといえる。 諱と諡 天皇の名には、天皇在世中の名である諱(いみな)と、没後に奉られる諡(おくりな)とがある。現在普通に使用されるのは『続日本紀』に記述される奈良時代、天平宝字6年(762)~同8年(764)、淡海三船による神武から持統天皇までの四十一代、及び元明・元正天皇へ一括撰進された漢風諡号であるが、『日本書紀』の本来の原文には当然漢風諡号はなく、天皇の名は諱または和風諡号によってあらわされている。十五代応神天皇から二十六代継体天皇までの名は、おおむね諱、つまり在世中の名であると考えられている。その特徴は、ホムタ・ハツセなどの地名、ササギなどの動物名、シラカ・ミツハなどの人体に関する語、ワカ・タケなどの素朴な称、ワケ・スクネなどの古い尊称などを要素として単純な組み合わせから成っている。確実性が増してからの『書紀』の記述による限り、和風諡号の制度ができたのは6世紀半ばごろであり、それ以前で和風諡号風の名前を持つ天皇は、後世架上された天皇であると考える説がある。 現存本 現存する最古のものは平安極初期のもの(田中本第10巻ならびにその僚巻に相当する巻1断簡)。 写本は古本系統と卜部家系統の本に分類される。 神代巻(巻第一・第二)の一書が小書双行になっているものが古本系統であり、大書一段下げになっているものが卜部家系統である。原本では古本系統諸本と同じく小書双行であったと考えられている。 以下に国宝や重要文化財に指定されているものをいくつかあげる。 古本系統 佐佐木本 9世紀写 第1巻断簡 - 四天王寺本・猪熊本・田中本の僚巻。紙背には空海の漢詩を集めた『遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)』(真済編)が記されている。訓点なし。個人蔵。 四天王寺本 9世紀写 第1巻断簡 - 佐佐木本・猪熊本・田中本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。四天王寺蔵。 猪熊本 9世紀写 第1巻断簡 - 佐佐木本・四天王寺本・田中本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。個人蔵。 田中本 9世紀写 第10巻 - 佐佐木本・四天王寺本・猪熊本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。奈良国立博物館蔵。 岩崎本 10~11世紀写 第22,24巻 - 訓点付きのものとしては最古。本文の声点は六声体系。図書寮本と比較すると、本文・訓点ともに相違は大きい。京都国立博物館蔵。 前田本 11世紀写 第11,14,17,20巻 - 訓点は図書寮本と同系統であるが、多少古態を存する。声点は四声体系。前田育徳会蔵。 図書寮本(書陵部本) 12世紀写 第10,12-17,21-24巻 - 訓点あり(第10巻を除く)。第14巻と第17巻は前田本と、第22~24巻は北野本と、それぞれ同系統。声点は四声体系。宮内庁書陵部蔵。 北野本 第1類…第22-27巻(平安末期写) - 訓点あり。鎌倉末~南北朝期に神祇伯であった白川伯王家・資継王の所蔵本が、室町中期に吉田家系の卜部兼永の所有となったもの。北野天満宮蔵。 鴨脚本(嘉禎本) 1236年写 第2巻 - 訓点あり。京都・賀茂御祖神社の社家・鴨脚(いちょう)氏旧蔵本。本文・訓点とも大江家系か。國學院大學蔵。 卜部家本系統 卜部兼方本(弘安本) 1286年写 第1,2巻 - 訓点あり。平野家系の卜部兼方の書写。大江家点との比較を丹念に記す。声点は四声体系。京都国立博物館蔵。 卜部兼夏本(乾元本) 1303年写 第1,2巻 - 訓点あり。吉田家系の卜部兼夏の書写。『弘仁私記』(書紀古訓と書紀講筵にて後述)その他の私記を多数引用。声点は四声体系。天理大学附属天理図書館蔵。 熱田本 1375~7年写 第1~10,12~15巻 - 訓点あり。熱田神宮蔵。 図書寮本(書陵部本) 1346年写 第2巻 - 訓点あり。北畠親房旧蔵本。宮内庁書陵部蔵。 北野本 第2類…第28-30巻(平安末~鎌倉初期写)、第3類…第1,4,5,7-10,12,13,15,17-21巻(南北朝写)、第4類…第3,6,11巻(室町後期写)、第5類…第16巻(幕末写) - 訓点あり(第1巻を除く)。第2・3類は第1類同様白川伯王家・資継王の旧蔵本。資継王が加点しているため、本文とは異なり訓点は伯家点系である。北野天満宮蔵。 卜部兼右本 1540年写 第3~30巻 - 1525年に吉田家前当主の卜部兼満が家に火を放って出奔した際に卜部家伝来の本も焼失したため、若くしてその後を継いだ兼右が、以前に卜部家本を書写していた三条西実隆の本を書写させてもらい、更に一条家の本(一条兼良写、卜部兼煕証)で校合して証本としたもの。当初は全巻揃っていたが、神代巻2巻は再度失われた。人代巻28巻を完備したものとしては最古に位置する。 書紀講筵と書紀古訓 『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老五年(721年)には早くも、『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中において時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。開講から終講までに数年を要するほどの長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に7年を要している。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられるとともに、『日本書紀』の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられた。 以下に過去の書紀講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。 養老五年(721年) 博士は太安万侶。私記は現存しないが、現存『弘仁私記』および一部の書紀古写本に「養老説」として引用の形で見える。 弘仁四年(813年) 博士は多人長。唯一、成書の形で私記が現存する(いわゆる私記甲本)が、書紀古写本(乾元本神代紀)に「弘仁説」として引用されている『弘仁私記』(和訓が万葉仮名で表記され上代特殊仮名遣も正確)と比べると、現在の伝本(和訓の大半が片仮名表記)は書写の過程ではなはだしく劣化したものであり、原型をとどめていないと見られる。 承和六年(839年) 博士は菅野高平(滋野貞主とも)。私記は現存しない。 元慶二年(878年) 博士は善淵愛成。私記は現存しないが、卜部兼方の『釈日本紀』に「私記」として引用されているのはこれではないかと言われている。私記作者は矢田部名実か。 延喜四年(904年) 博士は藤原春海。私記作者は矢田部公望。私記は現存しないが、『和名類聚抄』に「日本紀私記」として、また卜部兼方の『釈日本紀』に「公望私記」として、それぞれ引用されている。 承平六年(936年) 博士は矢田部公望。現在断片として伝わっている私記丁本がその私記であると推測されている。 康保二年(965年) 博士は橘仲遠。私記は現存しない。 なお、書紀古写本には単に「私記説」という形で引用されているものも多い。これらは上記年次私記のいずれかに由来するものと思われるが、残念ながら特定はできない。その他にも、書紀古写本に見られる声点[13]付きの傍訓は何らかの由緒ある説に基づくものと見られるから、上記私記の末裔である可能性がある。 ちなみに、現在成書の形で存在する『日本紀私記』には、上述した甲本・丁本の他に、僚巻と見られる乙本(神代紀に相当)と丙本(人代紀に相当)の二種類が存するが、こちらはある未知の書紀古写本から傍訓のみを抜き出し、適宜片仮名を万葉仮名に書き換えてそれらしく装ったもの(時期は院政~鎌倉期か)と推定されており、いわゆる年次私記の直接の末裔ではない。 竟宴和歌 元慶の講筵以降、終講の際にはそれを記念する宴会(竟宴)が行なわれるようになり、参加者によって『日本書紀』にちなむ和歌が詠まれた。それらを集めたものが『日本紀竟宴和歌(にほんぎきょうえんわか)』(943年成立)である。現存本は元慶・延喜・承平の各講筵の竟宴和歌より成る。歌題として選ばれるのが神々や古代の聖王、伝説的な英雄たちということもあって、和歌の内容がどうしても類型的なものになりがちなため、文学的には特に見るべきものはないが、藤原時平や藤原忠平といった当代の最上級の貴族の歌を集めているという点ですこぶるユニークな歌集となっている。