約 28,547 件
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/361.html
阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第七章 国民主権と憲法制定権力 p.99以下 <目次> ■第一節 国民主権にいう「国民」の意味[107] (一)視点によって「国民」もさまざまな意味をもつ [108] (ニ)「国民」は実在する統一体であるかどうか論争され続けている [109] (三)二つの主権論はフランス独特の論争である ■第ニ節 わが国における国民主権論争[110] (一)国家法人説のもとで主権的機関は選挙人団とされる [111] (ニ)ノモス主権説はそれ特有の主権概念を前提としていた [112] (三)国民主権のイデオロギー性が次第に気づかれてくる [113] (四)ナシオン主権・プープル主権をめぐって主権論争はピークに達した [114] (五)主権の見方によって代表制のあり方も変化する [115] (六)主権の見方は日本国憲法の解釈にも影響するといわれる [116] (七)主権論争は「主権」の法的性質の理解の違いを反映している [117] (八)フランス流主権論争は個別的結論を決定しない ■第三節 憲法制定権力の意義[118] (一)憲法制定権力は意思主義的発想を基礎とする [119] (ニ)政治的意思としての制憲権の発動は国制の正当性まで根拠づけない ■第四節 制憲権の理論化とその展開[120] (一)シェイエスは第三階級の圧倒的有利を説きたかった [121] (ニ)シェイエスは事実上の力としての制憲権を考えていた [122] (三)シェイエス以降、制憲権と改正権との本質的差異が強調されてくる [123] (四)シュミットはさらに精密な制憲権論を作り上げた ■第五節 制憲権の法的性質[124] (一)制憲権は実力であるか [125] (二)制憲権は規範的力であるか [126] (三)制憲権は受動的な監視権限であるか [127] (四)制憲権は実定憲法の正当性原理であるか [128] (五)制憲権論は有害無益であるか ■第六節 国民主権と憲法典との関係[129] (一)制憲権の主体は歴史的に変転してきた [130] (ニ)制憲権論は憲法典の構造まで指示しているか [131] (三)制憲権が意思の発現であるとすれば、その本質は実力と理解せざるを得ない [132] (四)制憲権は意思の力であるとする理論は、合理的人間像に基づく近代哲学の嫡流に属する ■用語集、関連ページ ■ご意見、情報提供 ■第一節 国民主権にいう「国民」の意味 [107] (一)視点によって「国民」もさまざまな意味をもつ 国民には、国家権力の主体としてのそれ(主体としての国民)と、国家行為の対象としてのそれ(客体としての国民)とがある、と先に指摘した([14]参照)。 その区分が、能動的な国家構成員であるところの市民(シトワイアン、シティズン)と、支配に服する臣民(シュジェ、サブジェクト)とに対応する。 そのほかの分類法としては、(ア)憲法典の基本権主体としての国民、(イ)国家機関としての国民(選挙その他憲法典上の規定によって機関権限が認められた場合のそれ)、がある。 本章では、国家権力のあり方を最終的に決定する主体としての国民の意義を問う。 [108] (ニ)「国民」は実在する統一体であるかどうか論争され続けている 「国民」の意義は、全体としての国民を、実在する一つの統一体としてみるか、それとも、観念的な統一体とみるかによって、変わる。 この点はフランス憲法学上これまで盛んに論議されてきた。 そこでの論争はこうである。 A説は、個々のシトワイアンが国家内で集結すれば、個々の構成員に分解できない一つの意思のもとで一つの集合体を実在させるに至る、とみる(この把握の仕方は、いうまでもなく、方法論的集団主義のそれである)。その実在する集合体を「人民(プープル)」といい、その意思を「一般意思」または「共同意思」という。)人民は、実在する統一体であるから、意思・活動能力をもち、統治のあり方を決定する意思の主体となる、とみられる。実在する人民が、国家の最終的な統治のあり方を決定する場合をもって「人民(プープル)主権」という。 これに対してB説は、全体としての国民は、観念的にのみ存在するのであって、君主のような社会的実在ではないとみる。それを「国民(ナシオン)」という。抽象的観念的存在である国民は、意思・活動能力ももたず、具体的政治的権限を行使する主体とはなりえない、とみられる。観念的存在たる国民が、国家の最終的な統治のあり方を決定するものと想定される場合をもって、「国民(ナシオン)主権」という。ナシオン主権理論は、ドイツで説かれた国家法人説のフランス版である。フランスにおいても「国家は一国民の法的人格である」(エスマン)と説かれたように、国民を抽象的に捉えれば、全国民は観念のなかで人格化されて、その人格がもう一つの人格たる国家と同一視されるに至るのである。 [109] (三)二つの主権論はフランス独特の論争である こうした論争は、フランス憲法史に顕著な形で現れた。 まず、フランス革命の人権宣言3条は、「あらゆる主権の淵源は人民(プープル)に存する。いかなる団体も個人も人民により明示的に発しない権力を行使するを得ず」と謳って、人民が政治的最高決定権、つまり、憲法制定権力をもつことを明らかにした。 ところが、1791年憲法では、革命の進行を抑制しようとする市民層(ブルジョアジイ)の思想を反映して、3篇2条において「主権は国民(ナシオン)に属する。人民のいかなる部分もいかなる個人も主権の行使を簒奪することはできない」と謳われた(樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』第Ⅱ部参照)。 こうした論争は、フランス特有の社会的勢力間の権力闘争を巡る歴史的背景と抽象理論を好むフランス人特有の思考法をもっているのであって、我が国に直輸入される必要はない。 ■第ニ節 わが国における国民主権論争 [110] (一)国家法人説のもとで主権的機関は選挙人団とされる 国家法人説が支配的であった日本国憲法制定当時には、国家の諸機関のうち、優越的な政治的決定権を有している機関が主権者であると考えられていた。 この把握の仕方は、最高機関意思説と呼ばれる([15]参照)。 この立場からすれば、主権者とは、「機関としての国民(選挙人団)」となる。 しかし、この説には、次のような難点が残されている。 ① 国民が選挙人団という国家機関とされるのは、憲法典または有権者の範囲を決定している公選法の定めの帰結であって、憲法典や法律から憲法(国制)を理解するという本末転倒の論理であること、 ② わが国の場合、憲法41条が「国会は、国権の最高機関」としていることと抵触する可能性のあること、 ③ 主権概念を具体的な諸政治機関の内部に求めていること(主権とは、国家支配の源泉という意味であったはずである)、 ④ 国家を法人と捉えるのは、国家への権利義務の帰属を法技術的に説明するための道具であって、それ以外の局面で、国家を法人と捉える必要はないこと、 ⑤ 国民の中に、主権者と、そうでない者とが存在する、と考えることは、国民国家として成立した近代国家における国民概念と整合的でないこと。 [111] (ニ)ノモス主権説はそれ特有の主権概念を前提としていた 国家法人説的思考から脱却しようとした憲法制定時直後の学説においては、ノモス主権か国民主権かという論争がみられた(尾高-宮沢論争)。 前者(※注釈:A説)は、政治を最終的に決定し指導するものが、事実や実力ではなく、正義に適うルール、つまり、古代ギリシャ人たちがノモスと呼んだもの(ローマ人のいうイウス ius)でなければならないという観点から、日本国憲法のもとにおいても、主権はノモスにあるとみる説である。 これに対して、後者(※注釈:B説)は、主権論の論点は政治の最終的決定権が誰に帰属するかを問うものである以上、如何なる自然人(またはその集団)が主権の主体となるかを明らかにするものでなければならず、実体のないノモスにその淵源を求めてはならない、と説いた。 この論争は、あるべき妥当性を政治の究極に探求する法哲学と、政治的決定権の具体的な帰属先を探求する憲法学とのアプローチの差を反映していた。 憲法学的にみると、後者の優勢のうちに論争は終結せざるを得なかった。 ノモスが sovereign とする思考は、本来、法の支配にいう「法」の内容に求めるべきものであって、国民主権論の土俵で論ずることに無理があったのである。 J. S. ミルが指摘したように、権力を行使する「民衆」は、権力を行使される「民衆」と必ずしも同一ではない以上、B説(※注釈:宮沢の国民主権説)が正当である。 [112] (三)国民主権のイデオロギー性が次第に気づかれてくる 1960年代になると、論者は、国民主権論が現実の統治権力を制限するよりも正当化する理論に堕してはいないか、との疑念を抱き始めた。 なぜなら、現実には、代表制のもとで、代表が国民から法上独立して統治をしているにも拘らず、徒(いたずら)に国民主権を強調することは、代表の統治権力を国民の名で正当化することになるからである(代表制については、後の[155]~[164]でふれる)。 そこで、当時の論者は、主権を実質化するためには、如何なる代表制であればよいか、自問することになる。 そのために主張されてくるのが、すぐ後にふれる半代表制の理論である(なお、本書の半代表に対する否定的見方については、[166]をみよ)。 [113] (四)ナシオン主権・プープル主権をめぐって主権論争はピークに達した 1970年代になると、フランス憲法学の成果を引証しながら、論者は、我が憲法典の採用する主権原理が、ナシオン主権、プープル主権のいずれに定礎しているかにつき論争を始めた(杉原-樋口論争)。 こうした論者は、プープル主権、ナシオン主権でいう「プープル」「ナシオン」の意義については見方を共通にしつつも、それが如何なる統治構造や代表制を伴うか、という点で見解を異にした(もっとも、有権者団をプープル、国民全体をナシオンとみる立場もある)。 [114] (五)主権の見方によって代表制のあり方も変化する ナシオン主権のもとでは、フランスの1791年憲法が謳ったように、「権力の唯一の淵源である国民は、委任によってのみその権力を行使しうる」とされ、間接民主制のもとでの代表制が採用される。この代表制を「純(粋)代表」という(詳しくは、後の[159]参照)(この91年憲法は、王の身体から国家を分離することを目的として制定された。そこに持ち出されたのが、国家の真の構成要素である「国民」であった。国家は「国民」に要約される法人とみられ、ここに国家と国民とが同一化されたのである。ナシオン主権論は、先の[108]でふれるように、フランス流の国家法人説と理解してよい)。 これに対して、プープル主権のもとでは、統一体としての意思をもつ実在としての人民が、政治的決定に自ら参与することが統治構造上の原則となる。すなわち、直接民主制が憲法典上の原則とされなければならない。もっとも、プープル主権のもとであっても、統治の分業が不可避である場合、代表の存在は不可欠となる。直接民主制と妥協しうる代表のあり方としては、半代表制、つまり、代表者意思と人民意思との事実上の同一性を確保する代表制が考えられる。プープル主権原理が、果たして、半代表制を許容するものか否かにつき、我が国のフランス憲法研究者の中でも見解の一致をみない。 [115] (六)主権の見方は日本国憲法の解釈にも影響するといわれる また、右の論争は、基本的には、日本国憲法がプープル主権原理に基づいているとの共通点をみせながらも、如何なる代表観に立っているかにつき、次のような差異をみせる。 A説は、現行憲法典がナシオンからプープル主権への移行期にあって、両者の原理を合わせもっているものの、後者への方向をより強く示しているものとの前提に立って、プープル主権のもとで採用される命令的委任(後述の[159]参照)やリコール制の導入を図ることも現行制度上可能である、とする(杉原泰雄『国民主権と国民代表制』374~9頁)。A説はその論拠として、第一に、歴史法則がナシオンからプープルへの展開を示していること、第二に、主権論の民主化がなければ多数者の人権保障もありえないこと、を挙げる。ところが、人間社会に歴史法則などありようもなく(個々の人間の行為の集積に法則性などなく)、また、主権の民主化が基本権保障にとっての条件であるとすることも、誤った想定である(民主主義は自由の条件ではない)。 B説は、プープルが主権を有するとの命題を立てたとしても、それが統治のあり方を決定するものではない、と考える(樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』290頁以下)。統治者(または統治)と、被統治者(またはその基本権)との間には、埋め尽くし難いギャップが存在するのであって、主権の民主化または主権の権力性を強調するよりも、一方で、主権を実定憲法典の正当性原理として理解するにとどめ、他方で、人権論をもって統治権力に対抗していく方向を重視すべきであると、このB説は説くのである。 [116] (七)主権論争は「主権」の法的性質の理解の違いを反映している さらに、この見解の対立は、主権をどう定義するかとも関連している。 A説は、主権とは国家における包括的統一的支配権(国権)をいい、主権論とは、それが誰に帰属するかという帰属原理を問うものでなければならない、という(国権帰属説)。確かに、この説がいうように、帰属原理如何を問うことが正しい思考であるとしても、それが発動の方向を明確に指示しているわけではなく、人民意思の発動を限界づけるものを問わないまま主権を「包括的統一的支配権」ないし「国権」と構成しても、主権の本質を明確にしたことにはならない(もともと「国権」とは、国家法人説における国家という団体の権利を指していた)。 これに対してB説は、主権とは憲法制定権力、つまり、「国家の最終的な政治的あり方を決定する力または権威」をいうとする(制憲権説)。それは、誰が、どのように憲法制定権力を発動するかを問うのである(その理論は次節でふれる)。 [117] (八)フランス流主権論争は個別的結論を決定しない いずれにせよ、ナシオン主権か、プープル主権かという論争は、「国民」概念の多義性を我々に気づかせるものの、特殊フランス的論争であって、我が国の憲法(国制)解釈に直接の関連をもたない([108]参照)。 憲法解釈に関連性はないものの、一つだけ確実にいえることは、プープル主権論こそ自由な国家にとって最も危険な理論であることである。 その危険性は、主権の万能性と、服従契約としての社会契約を説くルソーの次の理論に現れている(巻末の人名解説をみよ)。 「主権者が自分で侵すことのできぬような法律を自らに課すことは、政治体の本性に反するものである・・・・・・。いかなる種類の根本法[憲法]も、社会契約でさえも、全人民という団体に義務を負わすことはなく、また負わすことはできないことは明らかである。」「社会契約を空虚な法規としないために、この契約は、何人にせよ一般意思への服従を拒む者は、団体全体によってそれに服従するように強制されているという約束を、暗黙のうちに含んでいる。そして、その約束だけが他の約束に効力を与え得るものである。このことは、市民が自由であるように強制される、ということ以外の如何なることをも意味しない」(ルソー『社会契約論』第一編第七章)。 歴史上、この理論は、デュギーや O. ギールケが正当にも指摘した如く、最も血腥い暴政者によって援用され、立憲主義によっていささかも重要な役割を演じなかった。 だからこそ、近代立憲主義は、プープル主権からの「補助的予防装置」(J. マディスン)を講ずる必要性を絶えず説いてきたのである。 ■第三節 憲法制定権力の意義 [118] (一)憲法制定権力は意思主義的発想を基礎とする 憲法制定権力(制憲権)とは、憲法(国制)そのものを基礎づけ、憲法典上の諸機関に権限を付与する権力または権威をいう、とされる。 その権力または権威の淵源は、通常、人(特に、国民)の意思に求められている(芦部『憲法制定権力』3頁は、制憲権を「国家の政治的実存の様式及び形態に関する具体的な全体的決断をなす政治的意思」としている)。 国民の意思に淵源をもつとする制憲権理論を、社会契約と誤って結びつけながら、最初に実定憲法で高々と謳ったのは、マサチューセッツの憲法であった。 その前文に曰く、 「政治的統一は、個人の自由意思による結合によって成立し、それは社会契約の結果であり、この契約により一定の法律に従い一般的利益に合致して統治が為される目的のもとに、人民の全体が各市民と、各市民が市民全体と契約を結ぶのである。」 ところが、その起草者J. アダムスの考えたほどには制憲権理論は単純ではなかった。 [119] (ニ)政治的意思としての制憲権の発動は国制の正当性まで根拠づけない 制憲権を議論するに当たっての論点は、次の如くである。 ① 制憲権の本質は、「権力」すなわち「実力」であるか。 ② 権力または実力の淵源が、統一目的のもとに結集する人々の「政治的意思」にあると考えてよいか。 ③ 制憲権によって創り出された憲法(国制)は、事実状態または権力関係であるか、それとも、規範的秩序であるか(この点については第二章の[32]~[33]をみよ。少なくとも、憲法制定権力にいう憲法とは、我々が日常的に使う「憲法典」を意味しない。制憲権とは、「国制を決定する権力」を指す)。 ④ 制憲権は改正権と同質であるか。 ⑤ 制憲権の主体は、国民であるか、それとも、それ以外でありうるか。国民であるとした場合、その捉え方如何。 意思から権力や正当性が生まれるとする思考は、先に指摘したように([34]参照)、法実証主義のそれである。 ところが、「政治的意思」から権力が生まれ、同時にそれが正当であることを論証することは困難である。 国民の政治的意思といったところで、現実の統治は、少数者による統治である。 国民の政治的意思から国制が基礎づけられるというのは、社会契約論と同様に、合理的な国家はどうあるべきか、という仮設にとどまる。 また、「政治的意思」という「政治」の意義は、政治学においても論争を呼ぶ概念である。 かように、制憲権の本質等を理解するに当たって、我々は様々な難問に遭遇する。 制憲権論の基本的狙いは、那辺(※注釈:なへん、どのあたり)にあったのか。 同理論が体系化されるまでの展開を以下で概観した後、制憲権の本質をみることにしよう。 ■第四節 制憲権の理論化とその展開 [120] (一)シェイエスは第三階級の圧倒的有利を説きたかった 制憲権を最初に体系的に論じたのは、A. シェイエス(1748~1836)である。 彼は、政治社会における個々の市民(シトワイアン)が共通の目的をもって憲法契約に参加するば、プープルという一つの集合体とその共同意思を成立させるとみたうえで、この共同意思のもつ力が主権である、と考えた(シェイエス『第三階級とは何か』)。 この契約によって生じた統一体としてのプープルは、共同意思を発動して憲法(国制)を創設するに当たって(すなわち、制憲権を発動するに当たって)、代表者の意思を常に統制すべく、その共同意思を憲法典という法規範の中に集約して、委任の条件と範囲を代表者に対して示すのである。 制憲権そのものは、超実定憲法上の意思力であり、憲法典は、制憲者意思によって作り出された人為的ルール(設計的意思の所産)なのである。 シェイエスの制憲権理論は、政治的統一体創設のための社会契約と、政治的統一体の憲法契約とを時間的にも、理論的にも区別した点で出色であった(シェイエス著、大岩誠訳『第三階級とは何か』82頁参照)。 彼の理論の目的は、第一に、「国民の共同意思の力=制憲権=主権」という定式を確立することによって、当時圧倒的多数を占めていた第三階級に主権が帰属すべきこと、第二に、憲法によって作り出された権力(特に立法権)は、決して委任の条件と範囲を変えることはできないこと(制憲権と立法権の守備範囲の差)を明らかにすることにあった。 ただし、制憲権と改正権の区別は明確に意識されていない。 [121] (ニ)シェイエスは事実上の力としての制憲権を考えていた シェイエスにおいては、制憲権は、人権保障の領域にあっては、「人権宣言」によって統制されるものの、統治機構の領域では、実体的にも手続的にも法的制約に服さず(この側面は、「実定法超越的」と表現される)、至上最高のものであり、いつでも発動して実定憲法をいかようにも変えることができるもの(その側面は、「実定憲法破壊的」と表現される)、と考えられている(彼は『第三階級とは何か』84頁において、こういう。「国民は全てに優先して存在し、あらゆるものの源泉である。その意思は常に合法であり、その意思こそ法そのものである。それに先立ち、その上にあるものとしては、唯ひとつ、自然法があるに過ぎぬ」)。 彼の理論は、絶対的多数者たる第三階級の意思を一般意思(共同意思)とする、革命のための政治的目論見をもっていた。 その狙いは市民革命によって達成されたものの、共同の敵を失った後にあっては、人民の意思が統一的な公的利益に収斂するとの命題に対して理論上も実践上も疑念が持たれるに至る。 その疑念があるとはいえ、彼の思想は、「誰もが一人として数えられる」という市民的平等のみならず、政治的自由を近代国家のルールとしてもたらし、普通選挙制の到来を準備したのである。 [122] (三)シェイエス以降、制憲権と改正権との本質的差異が強調されてくる 彼の理論が現実政治のなかで実現された後は、右の疑念を反映して、制憲権から超実定憲法的性格を如何に払拭するか、という課題が中心的論争対象となる。 それを解決すべく、制憲権は実定憲法典制定と同時にその権力的性格を自ら凍結し、実定憲法典の正当性を支える原理に変質した、とする理論が登場する。 この段階で制憲権論は、立法権と制憲権の区別を論拠づけるものから、改正権との区別を根拠づけるものへと焦点を移していくことになる。 すなわち、改正権は「憲法によって作り出された権限」であって、「憲法を創り出す権力」とは異なる、と意識されるに至ったのである。 実際、フランス1791年憲法は、制憲権を実定憲法典の正当性原理として凍結させたばかりでなく、改正権から峻別し、さらには、改正権の発動についても厳格な手続を踏むこと、および、改正内容にも限界があることを明示した。 [123] (四)シュミットはさらに精密な制憲権論を作り上げた 目をドイツに転じてみよう。 C. シュミット以前のドイツの理論状況は、国家法人説、概念法学が主流であったため、自然人の意思が権力を生み出すとか、国制のなかに権力的階梯構造が存在する、とかいった理論の成立する余地を残さなかった。 この伝統に決別を告げたのがシュミットであった(巻末の人名解説をみよ)。 彼は、制憲権とは、国家全体のあり方を決定する実力(または権威)をもった政治的意思であるとして、次のような理論を構築した。 まず、この意思の所産を Verfassung (憲法)と呼び、それと個別条規の統一体たる「憲法律」(Verfassungsgesetz)とを区別し、さらに憲法律と、それによって付与された権能とを区別する。 つまり、彼の理論は、「政治的意思たる制憲権→憲法→憲法律→憲法律によって付与された権能(その一つが改正権)」という公式のもとで、政治的意思が階梯的な規範を作り上げていくことを説いたのである。 ■第五節 制憲権の法的性質 【表10】 我が国の制憲権論 ① 実力説(※注釈:A説) 制憲権は、意思(なかでも国民の意思)の発動であり、事実上の力である。(※注釈:佐藤幸治) ② 権限説(※注釈:B説) 制憲権は、一定の規範の授権によって発動される権限である。(※注釈:清宮四郎、芦部信喜) ③ 監督権限説(※注釈:C説) 制憲権は、代表を監督するために発動される権限である。 ④ 正当性原理説(※注釈:権威説、D説) 制憲権は、実定憲法制定とともに、憲法典を支える正当性の源となる。 ⑤ 有害無益説(※注釈:E説) 制憲権を実力と捉えれば実定憲法にとって有害であり、正当性原理であるとすれば無益である。 [124] (一)制憲権は実力であるか 我が国の制憲権への見方も、歴史的にみられた諸説を反映して、さまざまである。 まずA説は、制憲権をもって、法外的な政治的事実の問題とみる(実力説)。 もっとも、その中でも、A'説は、制憲権そのものは政治的事実または意思による決断であっても、その政治的決断に当たって、国民が憲法典を創り上げる際に何を選択する(した)か、という視点を重視する。 同論者は、我が国の制憲権者たる国民が、「よき社会」の形成発展のために自然権保障型を中心部分とする立憲主義的憲法典を選択し、「自己拘束」した、と考えるのである(佐藤・99頁)。 右のA説に対しては、近代立憲主義思想は、制憲権を実力とみないで、ある種の規範によって統制された(またはされるべき)もの、との前提に立って、その規範内容を模索してきたのではなかったか、換言すれば、意思の降り立つ先を事前に示すもの、または、意思自体を拘束するものは何であるかを看過したままでよいか、との疑問が残される。 同様に、A'説についても、政治的決断を事前に限定する何らかの力を問わないままでよいか、との疑問が残される。 「国民の自己拘束」に言及するだけの理論では不十分である。 歴史上の思想家たちは、国民の意思を制約する精神的能力として、例えば、①実践理性(I. カント)、②判断力(A. アレント)、③合理的コミュニケーション能力(J. ハーバーマス)を構想してきたのではなかったか。 [125] (二)制憲権は規範的力であるか B説は、制憲権が根本規範による授権によって根拠づけられた法的な力であるとする(権限説)。 もっとも、その根本規範の捉え方に関して、ケルゼンの如く、仮設的・形式的に実定法の前提として措定するB1説、実定的に定立された実体的法規範と捉えるB2説がある(清宮Ⅰ・33頁)。 ところが、B1説、B2説ともに、根本規範の実体につき、客観性を欠くうらみがある。 なかでも、実定法体系を規範化するルールを、同一の実定法体系に求めるB2説は、根本的な誤りを犯している([94]参照)。 また、制憲権が、個人の尊厳または人格価値不可侵の原則によって規範的拘束を受けているとするB3説もある(芦部・前掲書)。 この説は、制憲権が自然法によって授権されるという「権限説」と、正当性の根拠ともみる(すぐ後の[127]でふれる)「正当性原理説」との折衷説のようである。 権力的モメント(※注釈:moment 契機、物事の変化や発展を引き起こす動的要因となるもの)を示す場合の制憲権の主体は選挙人団、正当性のモメントを示す場合の制憲権の主体は全国民である、と、その担い手によって制憲権の属性に変化をもたせるのが、このB3説の特徴である。 このB3説に関しても、 第一に、 選挙人団は、国家創設後に国法上に登場する概念であって、国制創設の前段階で議論する制憲権の主体とはなり得ないはずではないか、という疑問が残される。選挙人団概念を制憲権論に持ち込むことは、最高国家機関をもって主権者とする説と、国民主権の議論とを混同させるであろう。 第二に、 個人の尊厳または人格不可侵の原則の内容が、制憲権を枠づけるほどの具体的内容をもっているかどうか、疑問とせざるを得ない。さらに、 第三に、 これらの原則が制憲権を拘束するとの命題は結論の提示であって、なぜに、これらの拘束力が付与されるのか(人間の実践理性の故か、自然法の要請なのか)、当該法体系の外にある論拠が示されない限り、それは空論である([94]参照)。 [126] (三)制憲権は受動的な監視権限であるか C説は、制憲権をもって、代表に対して同意を与えまたは与えないことを通して受動的に権力を監督する、現に存在している国民全体の一般意思をいう、とする(監督権力説)。 しかしながら、制憲権は、受動的性格をもつものではなく、代表の権力統制を超えて、権力または権威を積極的に創出するものではなかったか。 代表権力に対する監督は、選挙権や責任政治のレヴェルで志向されるべき問題領域である。 さらには、今日のような多元的社会にあって、一般意思に言及すること自体、もはや不可能といわざるを得ない(ここにいう「多元的」とは、個々人が階層的に秩序づけられておらず、各人の目的が多種多様であることをいう)。 [127] (四)制憲権は実定憲法の正当性原理であるか D説は、制憲権をもって、実定憲法典の正当性を支える最終的権威であると捉える(正当性原理説または権威説)。 この説によれば、本質的には権力(意思力)であり、超実定的な性質をもった制憲権が、実定憲法制定と同時に実定憲法の中に凍結され、正当性の原理となるのである(この説にいう「正当性」の意義、根拠は明確ではないが、おそらく、「正当性」とは、始源的権力保持者が憲法制定に同意したがゆえに拘束力をもつ、ということなのであろう。ここにも合理的意思の神話がみられる)。 もっとも、この見解は、実定憲法を制定すべく発動された制憲権を、実定憲法から事後的に説明するものであって、時間的な観点が、前ニ説とは異なっており、これらの説を同一次元で論議し評価することは避けたほうがよい。 制憲権論は、時間的にも論理的にも実定憲法に先立つ段階を考察対象とする論議である。 権力創出の時点での制憲権の性質をどうみるかという論点と、創出後のそれをどうみるかという論点とを、混同してはならない。 右のD説のように、権力創出時点での制憲権を超実定的かつ実定憲法破壊的と考えることは、創出される権力の正当性やその限界、さらには権力の維持・行使の条件を厳しく問わないことになろう。 [128] (五)制憲権論は有害無益であるか E説は、国民主権にいう主権を制憲権と捉えること自体が有害無益である、とする。 というのは、制憲権に超実定法的性格づけをするとすれば、実定憲法破壊的な危険性を認めることになり、他方、制憲権を単なる正当性の問題に押し込めるとなると、主権を理念的な空虚なものにしてしまうからである。 この点を考慮したうえでE説は、主権を国家における統一的包括的支配権(国権)をいうものと構成して、主権理論はそれが誰に帰属するかを問う議論でなければならない、と主張する。 そのうえで、統一的包括的支配権がプープルに帰属する、とE説は結論するのである。 ところが、この説については、 ① 主権が統一的包括的支配権(国権)であるとしても、その実体は何なのか([116]参照)、 ② その帰属先を分析するだけでは、主権の本質とその限界につき正答を得るに至らないのではないか、 との疑問が残る。 このE説が、制憲権としての主権理論を有害無益であると断罪するのであれば、それをさらに、デュギーほどに徹底して、神秘的な、人民の一体意思を基礎とする国民主権の観念自体を有害無益であるとする道筋をも模索すべきではなかったか。 国民の構成員一人ひとりの選好を総計して生ずる集団的決定は、実は、個人を守らないばかりか、多数派自身をも守らないことが多いのである。 この点に気づいてか、デュギーはいう、「国民主権の神秘的性質は、事実に反して、神秘的性質なしに有り得たよりも遥かに長い間活動期間を国民主権の観念に与えた。しかし国民主権の観念が創造力を失う時が来た。・・・・・・国民主権の観念は最も確実なる事実と明らかに矛盾する」と(デュギー『公法変遷論』20頁)。 本書における制憲権の捉え方は、[132]でふれる。 ■第六節 国民主権と憲法典との関係 [129] (一)制憲権の主体は歴史的に変転してきた 制憲権の主体は、必ずしも国民であるとは限らない。 歴史的には、その主体は君主であることが多かった。 しかし、これまでの憲法理論史をみると、特に啓蒙思想期以降、制憲権は社会契約によって成立した政治的統一体としての国民が発動する権力または権威であると論じられてきており、その主体を国民に求めるのが主流である。 国民が制憲権の主体となる場合をもって「国民主権」という。 国民を主体とする制憲権論、すなわち国民主権論は、統治権力の正当な源泉が国民の意思にあることを説くための理論である(権力創出のための理論)。 その理論は、さらに、社会契約理論と結びついて、国家が社会構成員の合意を通して統治権力を獲得することまで説いた(統治権力獲得のための理論)。 すなわち、国民主権または制憲権の理論は、統治権力の創出および獲得の正当性までを問うものであった。 [130] (ニ)制憲権論は憲法典の構造まで指示しているか 現実の政治過程は、権力の創出、獲得、維持および行使というプロセスからなる。 今後の議論は、今日の統治が「基礎をもたないシステム」となりつつあることを考慮した場合([22]参照)、実定憲法典のもとで維持・行使される統治権の正当性を問うものでなければならない。 換言すれば、権力と権限の行使が、究極的には、人々の公共的な議論を通しての合意に基づく法規範や政治制度に定位しているか否か、不断に検証されなければならない。 権力の創出および獲得の正当性までを問うてきた制憲権論が、権力の維持・行使の正当性まで問いうるものか、疑問となる。 もしも制憲権論が、憲法典の構造の正当性まで指示するものであれば、この疑問も解決されるのであるが。 果たして制憲権論は、最終的な政治的決定権限が誰に帰属するかという論点ばかりでなく、実定憲法の正当性やそのもとでの統治権の行使の正当性を担保するだけの構成(組織)原理を指し示しているであろうか。 この点に関しX説は、日本国民が制憲権を発動するに当たって、立憲主義的内容を選択し、自己拘束して、(イ)統治制度の民主化、(ロ)公開討論の場の確保、という「実定憲法上の構成原理」を日本国憲法に組み込んだとの理解を示して、この疑問を解決しようとする(佐藤・100~101頁)。 その構成原理の具体的要素は、 ① 民意をできる限り反映する「民主的」統治メカニズムを備えること、すなわち、選挙人となりうる人物が最大であること、 ② 選挙人の意思が反映されるよう統治制度が整備されること、 ③ 選挙人の意思が自由に反映できるために、統治者批判が自由であること、 といった要素が挙げられる。 ところが、右の①~③は、「国民主権」によって必然的に要請されるものではない。 先にふれたように([56]参照)、①~③は、統治される国民が統治者に対して有効なコントロールを及ぼすための装置である(「統治される民主主義」)。 国民主権論を右要素と結び付けようとする試みは、実現されるべくもない「治者と被治者との自同性」を夢想する姿に近い。 X説と同様に、X'説は、国民主権とは、選挙人団としての国民がその権力を行使する際の様々なチャネルの整備をも含意している、と解する(芦部『憲法講義ノートⅠ』121頁)。 この見解は、制憲権が正当性原理にとどまらず、権力的色彩を持っていること、その権力主体が国民(選挙人団)であること、を前提にしている。 この立場を推し進めれば、憲法典は有権者意思を反映するような道筋、たとえば、民選議会、参政権、表現の自由等を備えておかなければならない、というX説と同一の見解に帰着することになる。 ところが、この説には、主権概念の混同がみられる。 すなわち、既に [15] においてふれたように、主権とは、あるときには、具体的に存在する国家機関のうちの優越的権限を有している機関をいう場合(「国家最高機関としての主権」)、またときには、最終的支配意思の源をいう場合(「憲法制定権力としての主権」)等があるが、右のX'説は、両者を制憲権概念のなかで説こうとしている点に無理がある。 憲法典上要請される構成原理または統治構造は、あくまで、出来上がった憲法典から理解すべきものである。 その理解に当たって、統治過程の民主化の要請と、国民主権論とを結びつけない道筋も真剣に検討されなければならない。 となると、Y説のように、国民主権の概念と民主的選挙制度等との直接的関連性なし、と考えるべきであろう。 この説によれば、「すべての権力は国民に由来するという [国民主権の] 公式は、代議士の選挙が定期的に繰り返されることに関してよりも、むしろ憲法を制定する集団として組織された国民が、代議制立法府の権力を定める排他的権利を持つことに関連して言われた」のである(ハイエク『自由の条件Ⅱ』66頁)。 この立場を徹底させれば、国民主権はあくまで憲法制定権力と同義であって、主権者が実定憲法の構成原理として何を選択するかは、事前に示されることは決してなく、主権者の選択に委ねられることになるばかりか、国民主権にいう国民が観念的統一体に過ぎないものである以上、主権は正当性原理に過ぎない、と捉えられることになろう。 正当性原理としての国民主権は、独裁制をも許容するものであって、具体的政治組織のあり方については何も指示せず、ただ、すべての国家機関が国民の権威づけのもとに権能を行使することを理念的に示すにとどまる、との理解も十分成立しうる(小嶋・105頁。もっとも、この論者といえども、空虚な主権論とならないために、全体の奉仕者としての公務員観(15条)が要求されると説く)。 [131] (三)制憲権が意思の発現であるとすれば、その本質は実力と理解せざるを得ない 制憲権が人民の意思から発せられる力であると想定するのであれば、その本質は事実上の力であると理解せざるを得ない。 それは、他の力からの授権を要しない実力である。 実力と考えざるを得ないからこそ、近代立憲主義は、それと対立し、それを制約する別の力を追い求めてきたのである。 その別の力とは、自由の概念であった。 もっとも、自由の概念も不動不変ではありえない。 後世は、後世にとっての自由が保障されなければならない。 そのために、憲法典は、後世に対して開かれた部分を用意するのが通例である。 その部分が憲法改正規定である。 改正規定によって後世に開かれた部分を残していることが、現行憲法典の拘束力保持理由の一つである。 従来の制憲権論は、制憲権を野放しにしないために、何らかの権威に由来するものと想定して、根本規範を設定したりして、その権威の淵源(正当性)を追い求めてきた(権威と制憲権との垂直的布置の理論)。 今日までの諸理論は、その追究に成功していない。 この点は次のように考えるべきであろう。 意思の力を淵源とする制憲権は、権威に由来するものではなく、制憲権とは独立に存在する「法」によって横からの制約を受けている(法と制憲権との水平的布置の理論。「法の支配」は、まさにこれを狙ったのである)。 この「法」は、各人の自由な領域を保護する普遍妥当な抽象的ルールである。 このルールを、ハイエクに倣って「自由の法」と呼んでもよい(巻末の人名解説をみよ)。 「自由の法」は、超越論的な思弁の中にあるのではなく、人間社会が事実上存在するその瞬間から生まれ、人間が経験によって学び得た準則である(自由の本質については『憲法理論Ⅱ』で論ずる)。 「自由の法」に代えて、「個人の尊厳」、「人格価値不可侵」といった茫漠とした用語に拠るとすれば、制憲権を制約する内実をその中に発見することは期待できないであろう。 [132] (四)制憲権は意思の力であるとする理論は、合理的人間像に基づく近代哲学の嫡流に属する では、意思から力が発生するという保証はなく、政治的統一意思は今日のような多元的社会にありようもない、とする本書のような醒めた目からすれば、制憲権理論はどう再構成されればよいか。 制憲権の理論は、人民の意思が全ての権力の源であるとする社会契約理論と結びついたフィクションである。 社会契約の理論そのものが、《そうあって欲しいものを合理的に理論化しようとした擬制である》以上、その上に構築された制憲権理論も、擬制に過ぎない。 歴史上、その思想の力が、現実の政治世界に影響を与え、実力としての市民革命という形態をとることもあったし、摩擦なく円滑に実定憲法典の基本理念として採用されることもあった。 制憲権の本質は、実力でもなければ、権限でもない。 それは、合理的国家のあるべき姿を説くための仮設である。 その仮設は、ある国では、それを拒否し続けた専制君主を打倒する革命の理論として実際に採用された。 その現実は「制憲権=実力」と後世に映ることになった。 またある国では、社会契約理論をモデルとした実定憲法典を制定した。 そこでは、制憲権は、実定憲法典を支える「正当性原理」として後世に映ることになるのである。 もともと、制憲権論は、君主という一人の意思の絶対的力に代えて、人民の意思を統治の根底に置く革命の理論であった。 その理論は、君主を排除するところまでは指示するものの、統治の最終的なあるべき姿を指示することはできない。 統治の最終的あるべき姿は、人民の意思や制憲権の理論を統制するものに求めなければならない(もっとも、ある理論が政治的決定に最強の影響を与えることはある)。 だからこそ、我々は「法」、「自由」に言及してこれを統制しようとするのである。 このように考えれば、「国民が制憲権をもつ」とする命題こそ擬制中の擬制である。 一方で、制憲権の主体は観念上の抽象的存在たる「国民」であるとし、他方で、制憲権の本質は実力であると主張することは、自己矛盾である。 というのは、制憲権が実力であれば、具体的に存在する自然人によって行使されるはずのものであって、抽象的存在たる国民が主体となることは不可能だからである(制憲権が抽象的存在たる国民に「帰属する」との表現を用いても解決とならない)。 有効な権力概念であろうとすれば、その保有者が一定の事柄を為し得るか否かを基礎づけなければならず、これに失敗する理論は空論である。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第一部 第8章 国民主権あるいは憲法制定権力 LEC・芦部信喜・佐藤幸治・阪本昌成・中川八洋の「国民主権論」比較 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 関連用語集 【用語集】主権論・国民主権等 「法の支配」と国民主権 「法の支配(rule of law)」とは何か ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/ggempirewiki/pages/293.html
権力の象徴 Lv1 ハーンの碑文を100枚集める。 10P Lv2 ハーンの碑文を1,000枚集める。 20P Lv3 ハーンの碑文を 枚集める。 P Lv4 ハーンの碑文を12,500枚集める。 75P Lv5 ハーンの碑文を27,000枚集める。 100P Lv6 ハーンの碑文を50,000枚集める。 110P Lv7 ハーンの碑文を100,000枚集める。 120P Lv8 ハーンの碑文を150,000枚集める。 130P Lv9 ハーンの碑文を 枚集める。 P Lv10 ハーンの碑文を枚集める。 P
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/246.html
阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第七章 国民主権と憲法制定権力 p.99以下 <目次> ■第一節 国民主権にいう「国民」の意味[107] (一)視点によって「国民」もさまざまな意味をもつ [108] (ニ)「国民」は実在する統一体であるかどうか論争され続けている [109] (三)二つの主権論はフランス独特の論争である ■第ニ節 わが国における国民主権論争[110] (一)国家法人説のもとで主権的機関は選挙人団とされる [111] (ニ)ノモス主権説はそれ特有の主権概念を前提としていた [112] (三)国民主権のイデオロギー性が次第に気づかれてくる [113] (四)ナシオン主権・プープル主権をめぐって主権論争はピークに達した [114] (五)主権の見方によって代表制のあり方も変化する [115] (六)主権の見方は日本国憲法の解釈にも影響するといわれる [116] (七)主権論争は「主権」の法的性質の理解の違いを反映している [117] (八)フランス流主権論争は個別的結論を決定しない ■第三節 憲法制定権力の意義[118] (一)憲法制定権力は意思主義的発想を基礎とする [119] (ニ)政治的意思としての制憲権の発動は国制の正当性まで根拠づけない ■第四節 制憲権の理論化とその展開[120] (一)シェイエスは第三階級の圧倒的有利を説きたかった [121] (ニ)シェイエスは事実上の力としての制憲権を考えていた [122] (三)シェイエス以降、制憲権と改正権との本質的差異が強調されてくる [123] (四)シュミットはさらに精密な制憲権論を作り上げた ■第五節 制憲権の法的性質[124] (一)制憲権は実力であるか [125] (二)制憲権は規範的力であるか [126] (三)制憲権は受動的な監視権限であるか [127] (四)制憲権は実定憲法の正当性原理であるか [128] (五)制憲権論は有害無益であるか ■第六節 国民主権と憲法典との関係[129] (一)制憲権の主体は歴史的に変転してきた [130] (ニ)制憲権論は憲法典の構造まで指示しているか [131] (三)制憲権が意思の発現であるとすれば、その本質は実力と理解せざるを得ない [132] (四)制憲権は意思の力であるとする理論は、合理的人間像に基づく近代哲学の嫡流に属する ■用語集、関連ページ ■ご意見、情報提供 ■第一節 国民主権にいう「国民」の意味 [107] (一)視点によって「国民」もさまざまな意味をもつ 国民には、国家権力の主体としてのそれ(主体としての国民)と、国家行為の対象としてのそれ(客体としての国民)とがある、と先に指摘した([14]参照)。 その区分が、能動的な国家構成員であるところの市民(シトワイアン、シティズン)と、支配に服する臣民(シュジェ、サブジェクト)とに対応する。 そのほかの分類法としては、(ア)憲法典の基本権主体としての国民、(イ)国家機関としての国民(選挙その他憲法典上の規定によって機関権限が認められた場合のそれ)、がある。 本章では、国家権力のあり方を最終的に決定する主体としての国民の意義を問う。 [108] (ニ)「国民」は実在する統一体であるかどうか論争され続けている 「国民」の意義は、全体としての国民を、実在する一つの統一体としてみるか、それとも、観念的な統一体とみるかによって、変わる。 この点はフランス憲法学上これまで盛んに論議されてきた。 そこでの論争はこうである。 A説は、個々のシトワイアンが国家内で集結すれば、個々の構成員に分解できない一つの意思のもとで一つの集合体を実在させるに至る、とみる(この把握の仕方は、いうまでもなく、方法論的集団主義のそれである)。その実在する集合体を「人民(プープル)」といい、その意思を「一般意思」または「共同意思」という。)人民は、実在する統一体であるから、意思・活動能力をもち、統治のあり方を決定する意思の主体となる、とみられる。実在する人民が、国家の最終的な統治のあり方を決定する場合をもって「人民(プープル)主権」という。 これに対してB説は、全体としての国民は、観念的にのみ存在するのであって、君主のような社会的実在ではないとみる。それを「国民(ナシオン)」という。抽象的観念的存在である国民は、意思・活動能力ももたず、具体的政治的権限を行使する主体とはなりえない、とみられる。観念的存在たる国民が、国家の最終的な統治のあり方を決定するものと想定される場合をもって、「国民(ナシオン)主権」という。ナシオン主権理論は、ドイツで説かれた国家法人説のフランス版である。フランスにおいても「国家は一国民の法的人格である」(エスマン)と説かれたように、国民を抽象的に捉えれば、全国民は観念のなかで人格化されて、その人格がもう一つの人格たる国家と同一視されるに至るのである。 [109] (三)二つの主権論はフランス独特の論争である こうした論争は、フランス憲法史に顕著な形で現れた。 まず、フランス革命の人権宣言3条は、「あらゆる主権の淵源は人民(プープル)に存する。いかなる団体も個人も人民により明示的に発しない権力を行使するを得ず」と謳って、人民が政治的最高決定権、つまり、憲法制定権力をもつことを明らかにした。 ところが、1791年憲法では、革命の進行を抑制しようとする市民層(ブルジョアジイ)の思想を反映して、3篇2条において「主権は国民(ナシオン)に属する。人民のいかなる部分もいかなる個人も主権の行使を簒奪することはできない」と謳われた(樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』第Ⅱ部参照)。 こうした論争は、フランス特有の社会的勢力間の権力闘争を巡る歴史的背景と抽象理論を好むフランス人特有の思考法をもっているのであって、我が国に直輸入される必要はない。 ■第ニ節 わが国における国民主権論争 [110] (一)国家法人説のもとで主権的機関は選挙人団とされる 国家法人説が支配的であった日本国憲法制定当時には、国家の諸機関のうち、優越的な政治的決定権を有している機関が主権者であると考えられていた。 この把握の仕方は、最高機関意思説と呼ばれる([15]参照)。 この立場からすれば、主権者とは、「機関としての国民(選挙人団)」となる。 しかし、この説には、次のような難点が残されている。 ① 国民が選挙人団という国家機関とされるのは、憲法典または有権者の範囲を決定している公選法の定めの帰結であって、憲法典や法律から憲法(国制)を理解するという本末転倒の論理であること、 ② わが国の場合、憲法41条が「国会は、国権の最高機関」としていることと抵触する可能性のあること、 ③ 主権概念を具体的な諸政治機関の内部に求めていること(主権とは、国家支配の源泉という意味であったはずである)、 ④ 国家を法人と捉えるのは、国家への権利義務の帰属を法技術的に説明するための道具であって、それ以外の局面で、国家を法人と捉える必要はないこと、 ⑤ 国民の中に、主権者と、そうでない者とが存在する、と考えることは、国民国家として成立した近代国家における国民概念と整合的でないこと。 [111] (ニ)ノモス主権説はそれ特有の主権概念を前提としていた 国家法人説的思考から脱却しようとした憲法制定時直後の学説においては、ノモス主権か国民主権かという論争がみられた(尾高-宮沢論争)。 前者(※注釈:A説)は、政治を最終的に決定し指導するものが、事実や実力ではなく、正義に適うルール、つまり、古代ギリシャ人たちがノモスと呼んだもの(ローマ人のいうイウス ius)でなければならないという観点から、日本国憲法のもとにおいても、主権はノモスにあるとみる説である。 これに対して、後者(※注釈:B説)は、主権論の論点は政治の最終的決定権が誰に帰属するかを問うものである以上、如何なる自然人(またはその集団)が主権の主体となるかを明らかにするものでなければならず、実体のないノモスにその淵源を求めてはならない、と説いた。 この論争は、あるべき妥当性を政治の究極に探求する法哲学と、政治的決定権の具体的な帰属先を探求する憲法学とのアプローチの差を反映していた。 憲法学的にみると、後者の優勢のうちに論争は終結せざるを得なかった。 ノモスが sovereign とする思考は、本来、法の支配にいう「法」の内容に求めるべきものであって、国民主権論の土俵で論ずることに無理があったのである。 J. S. ミルが指摘したように、権力を行使する「民衆」は、権力を行使される「民衆」と必ずしも同一ではない以上、B説(※注釈:宮沢の国民主権説)が正当である。 [112] (三)国民主権のイデオロギー性が次第に気づかれてくる 1960年代になると、論者は、国民主権論が現実の統治権力を制限するよりも正当化する理論に堕してはいないか、との疑念を抱き始めた。 なぜなら、現実には、代表制のもとで、代表が国民から法上独立して統治をしているにも拘らず、徒(いたずら)に国民主権を強調することは、代表の統治権力を国民の名で正当化することになるからである(代表制については、後の[155]~[164]でふれる)。 そこで、当時の論者は、主権を実質化するためには、如何なる代表制であればよいか、自問することになる。 そのために主張されてくるのが、すぐ後にふれる半代表制の理論である(なお、本書の半代表に対する否定的見方については、[166]をみよ)。 [113] (四)ナシオン主権・プープル主権をめぐって主権論争はピークに達した 1970年代になると、フランス憲法学の成果を引証しながら、論者は、我が憲法典の採用する主権原理が、ナシオン主権、プープル主権のいずれに定礎しているかにつき論争を始めた(杉原-樋口論争)。 こうした論者は、プープル主権、ナシオン主権でいう「プープル」「ナシオン」の意義については見方を共通にしつつも、それが如何なる統治構造や代表制を伴うか、という点で見解を異にした(もっとも、有権者団をプープル、国民全体をナシオンとみる立場もある)。 [114] (五)主権の見方によって代表制のあり方も変化する ナシオン主権のもとでは、フランスの1791年憲法が謳ったように、「権力の唯一の淵源である国民は、委任によってのみその権力を行使しうる」とされ、間接民主制のもとでの代表制が採用される。この代表制を「純(粋)代表」という(詳しくは、後の[159]参照)(この91年憲法は、王の身体から国家を分離することを目的として制定された。そこに持ち出されたのが、国家の真の構成要素である「国民」であった。国家は「国民」に要約される法人とみられ、ここに国家と国民とが同一化されたのである。ナシオン主権論は、先の[108]でふれるように、フランス流の国家法人説と理解してよい)。 これに対して、プープル主権のもとでは、統一体としての意思をもつ実在としての人民が、政治的決定に自ら参与することが統治構造上の原則となる。すなわち、直接民主制が憲法典上の原則とされなければならない。もっとも、プープル主権のもとであっても、統治の分業が不可避である場合、代表の存在は不可欠となる。直接民主制と妥協しうる代表のあり方としては、半代表制、つまり、代表者意思と人民意思との事実上の同一性を確保する代表制が考えられる。プープル主権原理が、果たして、半代表制を許容するものか否かにつき、我が国のフランス憲法研究者の中でも見解の一致をみない。 [115] (六)主権の見方は日本国憲法の解釈にも影響するといわれる また、右の論争は、基本的には、日本国憲法がプープル主権原理に基づいているとの共通点をみせながらも、如何なる代表観に立っているかにつき、次のような差異をみせる。 A説は、現行憲法典がナシオンからプープル主権への移行期にあって、両者の原理を合わせもっているものの、後者への方向をより強く示しているものとの前提に立って、プープル主権のもとで採用される命令的委任(後述の[159]参照)やリコール制の導入を図ることも現行制度上可能である、とする(杉原泰雄『国民主権と国民代表制』374~9頁)。A説はその論拠として、第一に、歴史法則がナシオンからプープルへの展開を示していること、第二に、主権論の民主化がなければ多数者の人権保障もありえないこと、を挙げる。ところが、人間社会に歴史法則などありようもなく(個々の人間の行為の集積に法則性などなく)、また、主権の民主化が基本権保障にとっての条件であるとすることも、誤った想定である(民主主義は自由の条件ではない)。 B説は、プープルが主権を有するとの命題を立てたとしても、それが統治のあり方を決定するものではない、と考える(樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』290頁以下)。統治者(または統治)と、被統治者(またはその基本権)との間には、埋め尽くし難いギャップが存在するのであって、主権の民主化または主権の権力性を強調するよりも、一方で、主権を実定憲法典の正当性原理として理解するにとどめ、他方で、人権論をもって統治権力に対抗していく方向を重視すべきであると、このB説は説くのである。 [116] (七)主権論争は「主権」の法的性質の理解の違いを反映している さらに、この見解の対立は、主権をどう定義するかとも関連している。 A説は、主権とは国家における包括的統一的支配権(国権)をいい、主権論とは、それが誰に帰属するかという帰属原理を問うものでなければならない、という(国権帰属説)。確かに、この説がいうように、帰属原理如何を問うことが正しい思考であるとしても、それが発動の方向を明確に指示しているわけではなく、人民意思の発動を限界づけるものを問わないまま主権を「包括的統一的支配権」ないし「国権」と構成しても、主権の本質を明確にしたことにはならない(もともと「国権」とは、国家法人説における国家という団体の権利を指していた)。 これに対してB説は、主権とは憲法制定権力、つまり、「国家の最終的な政治的あり方を決定する力または権威」をいうとする(制憲権説)。それは、誰が、どのように憲法制定権力を発動するかを問うのである(その理論は次節でふれる)。 [117] (八)フランス流主権論争は個別的結論を決定しない いずれにせよ、ナシオン主権か、プープル主権かという論争は、「国民」概念の多義性を我々に気づかせるものの、特殊フランス的論争であって、我が国の憲法(国制)解釈に直接の関連をもたない([108]参照)。 憲法解釈に関連性はないものの、一つだけ確実にいえることは、プープル主権論こそ自由な国家にとって最も危険な理論であることである。 その危険性は、主権の万能性と、服従契約としての社会契約を説くルソーの次の理論に現れている(巻末の人名解説をみよ)。 「主権者が自分で侵すことのできぬような法律を自らに課すことは、政治体の本性に反するものである・・・・・・。いかなる種類の根本法[憲法]も、社会契約でさえも、全人民という団体に義務を負わすことはなく、また負わすことはできないことは明らかである。」「社会契約を空虚な法規としないために、この契約は、何人にせよ一般意思への服従を拒む者は、団体全体によってそれに服従するように強制されているという約束を、暗黙のうちに含んでいる。そして、その約束だけが他の約束に効力を与え得るものである。このことは、市民が自由であるように強制される、ということ以外の如何なることをも意味しない」(ルソー『社会契約論』第一編第七章)。 歴史上、この理論は、デュギーや O. ギールケが正当にも指摘した如く、最も血腥い暴政者によって援用され、立憲主義によっていささかも重要な役割を演じなかった。 だからこそ、近代立憲主義は、プープル主権からの「補助的予防装置」(J. マディスン)を講ずる必要性を絶えず説いてきたのである。 ■第三節 憲法制定権力の意義 [118] (一)憲法制定権力は意思主義的発想を基礎とする 憲法制定権力(制憲権)とは、憲法(国制)そのものを基礎づけ、憲法典上の諸機関に権限を付与する権力または権威をいう、とされる。 その権力または権威の淵源は、通常、人(特に、国民)の意思に求められている(芦部『憲法制定権力』3頁は、制憲権を「国家の政治的実存の様式及び形態に関する具体的な全体的決断をなす政治的意思」としている)。 国民の意思に淵源をもつとする制憲権理論を、社会契約と誤って結びつけながら、最初に実定憲法で高々と謳ったのは、マサチューセッツの憲法であった。 その前文に曰く、 「政治的統一は、個人の自由意思による結合によって成立し、それは社会契約の結果であり、この契約により一定の法律に従い一般的利益に合致して統治が為される目的のもとに、人民の全体が各市民と、各市民が市民全体と契約を結ぶのである。」 ところが、その起草者J. アダムスの考えたほどには制憲権理論は単純ではなかった。 [119] (ニ)政治的意思としての制憲権の発動は国制の正当性まで根拠づけない 制憲権を議論するに当たっての論点は、次の如くである。 ① 制憲権の本質は、「権力」すなわち「実力」であるか。 ② 権力または実力の淵源が、統一目的のもとに結集する人々の「政治的意思」にあると考えてよいか。 ③ 制憲権によって創り出された憲法(国制)は、事実状態または権力関係であるか、それとも、規範的秩序であるか(この点については第二章の[32]~[33]をみよ。少なくとも、憲法制定権力にいう憲法とは、我々が日常的に使う「憲法典」を意味しない。制憲権とは、「国制を決定する権力」を指す)。 ④ 制憲権は改正権と同質であるか。 ⑤ 制憲権の主体は、国民であるか、それとも、それ以外でありうるか。国民であるとした場合、その捉え方如何。 意思から権力や正当性が生まれるとする思考は、先に指摘したように([34]参照)、法実証主義のそれである。 ところが、「政治的意思」から権力が生まれ、同時にそれが正当であることを論証することは困難である。 国民の政治的意思といったところで、現実の統治は、少数者による統治である。 国民の政治的意思から国制が基礎づけられるというのは、社会契約論と同様に、合理的な国家はどうあるべきか、という仮設にとどまる。 また、「政治的意思」という「政治」の意義は、政治学においても論争を呼ぶ概念である。 かように、制憲権の本質等を理解するに当たって、我々は様々な難問に遭遇する。 制憲権論の基本的狙いは、那辺(※注釈:なへん、どのあたり)にあったのか。 同理論が体系化されるまでの展開を以下で概観した後、制憲権の本質をみることにしよう。 ■第四節 制憲権の理論化とその展開 [120] (一)シェイエスは第三階級の圧倒的有利を説きたかった 制憲権を最初に体系的に論じたのは、A. シェイエス(1748~1836)である。 彼は、政治社会における個々の市民(シトワイアン)が共通の目的をもって憲法契約に参加するば、プープルという一つの集合体とその共同意思を成立させるとみたうえで、この共同意思のもつ力が主権である、と考えた(シェイエス『第三階級とは何か』)。 この契約によって生じた統一体としてのプープルは、共同意思を発動して憲法(国制)を創設するに当たって(すなわち、制憲権を発動するに当たって)、代表者の意思を常に統制すべく、その共同意思を憲法典という法規範の中に集約して、委任の条件と範囲を代表者に対して示すのである。 制憲権そのものは、超実定憲法上の意思力であり、憲法典は、制憲者意思によって作り出された人為的ルール(設計的意思の所産)なのである。 シェイエスの制憲権理論は、政治的統一体創設のための社会契約と、政治的統一体の憲法契約とを時間的にも、理論的にも区別した点で出色であった(シェイエス著、大岩誠訳『第三階級とは何か』82頁参照)。 彼の理論の目的は、第一に、「国民の共同意思の力=制憲権=主権」という定式を確立することによって、当時圧倒的多数を占めていた第三階級に主権が帰属すべきこと、第二に、憲法によって作り出された権力(特に立法権)は、決して委任の条件と範囲を変えることはできないこと(制憲権と立法権の守備範囲の差)を明らかにすることにあった。 ただし、制憲権と改正権の区別は明確に意識されていない。 [121] (ニ)シェイエスは事実上の力としての制憲権を考えていた シェイエスにおいては、制憲権は、人権保障の領域にあっては、「人権宣言」によって統制されるものの、統治機構の領域では、実体的にも手続的にも法的制約に服さず(この側面は、「実定法超越的」と表現される)、至上最高のものであり、いつでも発動して実定憲法をいかようにも変えることができるもの(その側面は、「実定憲法破壊的」と表現される)、と考えられている(彼は『第三階級とは何か』84頁において、こういう。「国民は全てに優先して存在し、あらゆるものの源泉である。その意思は常に合法であり、その意思こそ法そのものである。それに先立ち、その上にあるものとしては、唯ひとつ、自然法があるに過ぎぬ」)。 彼の理論は、絶対的多数者たる第三階級の意思を一般意思(共同意思)とする、革命のための政治的目論見をもっていた。 その狙いは市民革命によって達成されたものの、共同の敵を失った後にあっては、人民の意思が統一的な公的利益に収斂するとの命題に対して理論上も実践上も疑念が持たれるに至る。 その疑念があるとはいえ、彼の思想は、「誰もが一人として数えられる」という市民的平等のみならず、政治的自由を近代国家のルールとしてもたらし、普通選挙制の到来を準備したのである。 [122] (三)シェイエス以降、制憲権と改正権との本質的差異が強調されてくる 彼の理論が現実政治のなかで実現された後は、右の疑念を反映して、制憲権から超実定憲法的性格を如何に払拭するか、という課題が中心的論争対象となる。 それを解決すべく、制憲権は実定憲法典制定と同時にその権力的性格を自ら凍結し、実定憲法典の正当性を支える原理に変質した、とする理論が登場する。 この段階で制憲権論は、立法権と制憲権の区別を論拠づけるものから、改正権との区別を根拠づけるものへと焦点を移していくことになる。 すなわち、改正権は「憲法によって作り出された権限」であって、「憲法を創り出す権力」とは異なる、と意識されるに至ったのである。 実際、フランス1791年憲法は、制憲権を実定憲法典の正当性原理として凍結させたばかりでなく、改正権から峻別し、さらには、改正権の発動についても厳格な手続を踏むこと、および、改正内容にも限界があることを明示した。 [123] (四)シュミットはさらに精密な制憲権論を作り上げた 目をドイツに転じてみよう。 C. シュミット以前のドイツの理論状況は、国家法人説、概念法学が主流であったため、自然人の意思が権力を生み出すとか、国制のなかに権力的階梯構造が存在する、とかいった理論の成立する余地を残さなかった。 この伝統に決別を告げたのがシュミットであった(巻末の人名解説をみよ)。 彼は、制憲権とは、国家全体のあり方を決定する実力(または権威)をもった政治的意思であるとして、次のような理論を構築した。 まず、この意思の所産を Verfassung (憲法)と呼び、それと個別条規の統一体たる「憲法律」(Verfassungsgesetz)とを区別し、さらに憲法律と、それによって付与された権能とを区別する。 つまり、彼の理論は、「政治的意思たる制憲権→憲法→憲法律→憲法律によって付与された権能(その一つが改正権)」という公式のもとで、政治的意思が階梯的な規範を作り上げていくことを説いたのである。 ■第五節 制憲権の法的性質 【表10】 我が国の制憲権論 ① 実力説(※注釈:A説) 制憲権は、意思(なかでも国民の意思)の発動であり、事実上の力である。(※注釈:佐藤幸治) ② 権限説(※注釈:B説) 制憲権は、一定の規範の授権によって発動される権限である。(※注釈:清宮四郎、芦部信喜) ③ 監督権限説(※注釈:C説) 制憲権は、代表を監督するために発動される権限である。 ④ 正当性原理説(※注釈:権威説、D説) 制憲権は、実定憲法制定とともに、憲法典を支える正当性の源となる。 ⑤ 有害無益説(※注釈:E説) 制憲権を実力と捉えれば実定憲法にとって有害であり、正当性原理であるとすれば無益である。 [124] (一)制憲権は実力であるか 我が国の制憲権への見方も、歴史的にみられた諸説を反映して、さまざまである。 まずA説は、制憲権をもって、法外的な政治的事実の問題とみる(実力説)。 もっとも、その中でも、A'説は、制憲権そのものは政治的事実または意思による決断であっても、その政治的決断に当たって、国民が憲法典を創り上げる際に何を選択する(した)か、という視点を重視する。 同論者は、我が国の制憲権者たる国民が、「よき社会」の形成発展のために自然権保障型を中心部分とする立憲主義的憲法典を選択し、「自己拘束」した、と考えるのである(佐藤・99頁)。 右のA説に対しては、近代立憲主義思想は、制憲権を実力とみないで、ある種の規範によって統制された(またはされるべき)もの、との前提に立って、その規範内容を模索してきたのではなかったか、換言すれば、意思の降り立つ先を事前に示すもの、または、意思自体を拘束するものは何であるかを看過したままでよいか、との疑問が残される。 同様に、A'説についても、政治的決断を事前に限定する何らかの力を問わないままでよいか、との疑問が残される。 「国民の自己拘束」に言及するだけの理論では不十分である。 歴史上の思想家たちは、国民の意思を制約する精神的能力として、例えば、①実践理性(I. カント)、②判断力(A. アレント)、③合理的コミュニケーション能力(J. ハーバーマス)を構想してきたのではなかったか。 [125] (二)制憲権は規範的力であるか B説は、制憲権が根本規範による授権によって根拠づけられた法的な力であるとする(権限説)。 もっとも、その根本規範の捉え方に関して、ケルゼンの如く、仮設的・形式的に実定法の前提として措定するB1説、実定的に定立された実体的法規範と捉えるB2説がある(清宮Ⅰ・33頁)。 ところが、B1説、B2説ともに、根本規範の実体につき、客観性を欠くうらみがある。 なかでも、実定法体系を規範化するルールを、同一の実定法体系に求めるB2説は、根本的な誤りを犯している([94]参照)。 また、制憲権が、個人の尊厳または人格価値不可侵の原則によって規範的拘束を受けているとするB3説もある(芦部・前掲書)。 この説は、制憲権が自然法によって授権されるという「権限説」と、正当性の根拠ともみる(すぐ後の[127]でふれる)「正当性原理説」との折衷説のようである。 権力的モメント(※注釈:moment 契機、物事の変化や発展を引き起こす動的要因となるもの)を示す場合の制憲権の主体は選挙人団、正当性のモメントを示す場合の制憲権の主体は全国民である、と、その担い手によって制憲権の属性に変化をもたせるのが、このB3説の特徴である。 このB3説に関しても、 第一に、 選挙人団は、国家創設後に国法上に登場する概念であって、国制創設の前段階で議論する制憲権の主体とはなり得ないはずではないか、という疑問が残される。選挙人団概念を制憲権論に持ち込むことは、最高国家機関をもって主権者とする説と、国民主権の議論とを混同させるであろう。 第二に、 個人の尊厳または人格不可侵の原則の内容が、制憲権を枠づけるほどの具体的内容をもっているかどうか、疑問とせざるを得ない。さらに、 第三に、 これらの原則が制憲権を拘束するとの命題は結論の提示であって、なぜに、これらの拘束力が付与されるのか(人間の実践理性の故か、自然法の要請なのか)、当該法体系の外にある論拠が示されない限り、それは空論である([94]参照)。 [126] (三)制憲権は受動的な監視権限であるか C説は、制憲権をもって、代表に対して同意を与えまたは与えないことを通して受動的に権力を監督する、現に存在している国民全体の一般意思をいう、とする(監督権力説)。 しかしながら、制憲権は、受動的性格をもつものではなく、代表の権力統制を超えて、権力または権威を積極的に創出するものではなかったか。 代表権力に対する監督は、選挙権や責任政治のレヴェルで志向されるべき問題領域である。 さらには、今日のような多元的社会にあって、一般意思に言及すること自体、もはや不可能といわざるを得ない(ここにいう「多元的」とは、個々人が階層的に秩序づけられておらず、各人の目的が多種多様であることをいう)。 [127] (四)制憲権は実定憲法の正当性原理であるか D説は、制憲権をもって、実定憲法典の正当性を支える最終的権威であると捉える(正当性原理説または権威説)。 この説によれば、本質的には権力(意思力)であり、超実定的な性質をもった制憲権が、実定憲法制定と同時に実定憲法の中に凍結され、正当性の原理となるのである(この説にいう「正当性」の意義、根拠は明確ではないが、おそらく、「正当性」とは、始源的権力保持者が憲法制定に同意したがゆえに拘束力をもつ、ということなのであろう。ここにも合理的意思の神話がみられる)。 もっとも、この見解は、実定憲法を制定すべく発動された制憲権を、実定憲法から事後的に説明するものであって、時間的な観点が、前ニ説とは異なっており、これらの説を同一次元で論議し評価することは避けたほうがよい。 制憲権論は、時間的にも論理的にも実定憲法に先立つ段階を考察対象とする論議である。 権力創出の時点での制憲権の性質をどうみるかという論点と、創出後のそれをどうみるかという論点とを、混同してはならない。 右のD説のように、権力創出時点での制憲権を超実定的かつ実定憲法破壊的と考えることは、創出される権力の正当性やその限界、さらには権力の維持・行使の条件を厳しく問わないことになろう。 [128] (五)制憲権論は有害無益であるか E説は、国民主権にいう主権を制憲権と捉えること自体が有害無益である、とする。 というのは、制憲権に超実定法的性格づけをするとすれば、実定憲法破壊的な危険性を認めることになり、他方、制憲権を単なる正当性の問題に押し込めるとなると、主権を理念的な空虚なものにしてしまうからである。 この点を考慮したうえでE説は、主権を国家における統一的包括的支配権(国権)をいうものと構成して、主権理論はそれが誰に帰属するかを問う議論でなければならない、と主張する。 そのうえで、統一的包括的支配権がプープルに帰属する、とE説は結論するのである。 ところが、この説については、 ① 主権が統一的包括的支配権(国権)であるとしても、その実体は何なのか([116]参照)、 ② その帰属先を分析するだけでは、主権の本質とその限界につき正答を得るに至らないのではないか、 との疑問が残る。 このE説が、制憲権としての主権理論を有害無益であると断罪するのであれば、それをさらに、デュギーほどに徹底して、神秘的な、人民の一体意思を基礎とする国民主権の観念自体を有害無益であるとする道筋をも模索すべきではなかったか。 国民の構成員一人ひとりの選好を総計して生ずる集団的決定は、実は、個人を守らないばかりか、多数派自身をも守らないことが多いのである。 この点に気づいてか、デュギーはいう、「国民主権の神秘的性質は、事実に反して、神秘的性質なしに有り得たよりも遥かに長い間活動期間を国民主権の観念に与えた。しかし国民主権の観念が創造力を失う時が来た。・・・・・・国民主権の観念は最も確実なる事実と明らかに矛盾する」と(デュギー『公法変遷論』20頁)。 本書における制憲権の捉え方は、[132]でふれる。 ■第六節 国民主権と憲法典との関係 [129] (一)制憲権の主体は歴史的に変転してきた 制憲権の主体は、必ずしも国民であるとは限らない。 歴史的には、その主体は君主であることが多かった。 しかし、これまでの憲法理論史をみると、特に啓蒙思想期以降、制憲権は社会契約によって成立した政治的統一体としての国民が発動する権力または権威であると論じられてきており、その主体を国民に求めるのが主流である。 国民が制憲権の主体となる場合をもって「国民主権」という。 国民を主体とする制憲権論、すなわち国民主権論は、統治権力の正当な源泉が国民の意思にあることを説くための理論である(権力創出のための理論)。 その理論は、さらに、社会契約理論と結びついて、国家が社会構成員の合意を通して統治権力を獲得することまで説いた(統治権力獲得のための理論)。 すなわち、国民主権または制憲権の理論は、統治権力の創出および獲得の正当性までを問うものであった。 [130] (ニ)制憲権論は憲法典の構造まで指示しているか 現実の政治過程は、権力の創出、獲得、維持および行使というプロセスからなる。 今後の議論は、今日の統治が「基礎をもたないシステム」となりつつあることを考慮した場合([22]参照)、実定憲法典のもとで維持・行使される統治権の正当性を問うものでなければならない。 換言すれば、権力と権限の行使が、究極的には、人々の公共的な議論を通しての合意に基づく法規範や政治制度に定位しているか否か、不断に検証されなければならない。 権力の創出および獲得の正当性までを問うてきた制憲権論が、権力の維持・行使の正当性まで問いうるものか、疑問となる。 もしも制憲権論が、憲法典の構造の正当性まで指示するものであれば、この疑問も解決されるのであるが。 果たして制憲権論は、最終的な政治的決定権限が誰に帰属するかという論点ばかりでなく、実定憲法の正当性やそのもとでの統治権の行使の正当性を担保するだけの構成(組織)原理を指し示しているであろうか。 この点に関しX説は、日本国民が制憲権を発動するに当たって、立憲主義的内容を選択し、自己拘束して、(イ)統治制度の民主化、(ロ)公開討論の場の確保、という「実定憲法上の構成原理」を日本国憲法に組み込んだとの理解を示して、この疑問を解決しようとする(佐藤・100~101頁)。 その構成原理の具体的要素は、 ① 民意をできる限り反映する「民主的」統治メカニズムを備えること、すなわち、選挙人となりうる人物が最大であること、 ② 選挙人の意思が反映されるよう統治制度が整備されること、 ③ 選挙人の意思が自由に反映できるために、統治者批判が自由であること、 といった要素が挙げられる。 ところが、右の①~③は、「国民主権」によって必然的に要請されるものではない。 先にふれたように([56]参照)、①~③は、統治される国民が統治者に対して有効なコントロールを及ぼすための装置である(「統治される民主主義」)。 国民主権論を右要素と結び付けようとする試みは、実現されるべくもない「治者と被治者との自同性」を夢想する姿に近い。 X説と同様に、X'説は、国民主権とは、選挙人団としての国民がその権力を行使する際の様々なチャネルの整備をも含意している、と解する(芦部『憲法講義ノートⅠ』121頁)。 この見解は、制憲権が正当性原理にとどまらず、権力的色彩を持っていること、その権力主体が国民(選挙人団)であること、を前提にしている。 この立場を推し進めれば、憲法典は有権者意思を反映するような道筋、たとえば、民選議会、参政権、表現の自由等を備えておかなければならない、というX説と同一の見解に帰着することになる。 ところが、この説には、主権概念の混同がみられる。 すなわち、既に [15] においてふれたように、主権とは、あるときには、具体的に存在する国家機関のうちの優越的権限を有している機関をいう場合(「国家最高機関としての主権」)、またときには、最終的支配意思の源をいう場合(「憲法制定権力としての主権」)等があるが、右のX'説は、両者を制憲権概念のなかで説こうとしている点に無理がある。 憲法典上要請される構成原理または統治構造は、あくまで、出来上がった憲法典から理解すべきものである。 その理解に当たって、統治過程の民主化の要請と、国民主権論とを結びつけない道筋も真剣に検討されなければならない。 となると、Y説のように、国民主権の概念と民主的選挙制度等との直接的関連性なし、と考えるべきであろう。 この説によれば、「すべての権力は国民に由来するという [国民主権の] 公式は、代議士の選挙が定期的に繰り返されることに関してよりも、むしろ憲法を制定する集団として組織された国民が、代議制立法府の権力を定める排他的権利を持つことに関連して言われた」のである(ハイエク『自由の条件Ⅱ』66頁)。 この立場を徹底させれば、国民主権はあくまで憲法制定権力と同義であって、主権者が実定憲法の構成原理として何を選択するかは、事前に示されることは決してなく、主権者の選択に委ねられることになるばかりか、国民主権にいう国民が観念的統一体に過ぎないものである以上、主権は正当性原理に過ぎない、と捉えられることになろう。 正当性原理としての国民主権は、独裁制をも許容するものであって、具体的政治組織のあり方については何も指示せず、ただ、すべての国家機関が国民の権威づけのもとに権能を行使することを理念的に示すにとどまる、との理解も十分成立しうる(小嶋・105頁。もっとも、この論者といえども、空虚な主権論とならないために、全体の奉仕者としての公務員観(15条)が要求されると説く)。 [131] (三)制憲権が意思の発現であるとすれば、その本質は実力と理解せざるを得ない 制憲権が人民の意思から発せられる力であると想定するのであれば、その本質は事実上の力であると理解せざるを得ない。 それは、他の力からの授権を要しない実力である。 実力と考えざるを得ないからこそ、近代立憲主義は、それと対立し、それを制約する別の力を追い求めてきたのである。 その別の力とは、自由の概念であった。 もっとも、自由の概念も不動不変ではありえない。 後世は、後世にとっての自由が保障されなければならない。 そのために、憲法典は、後世に対して開かれた部分を用意するのが通例である。 その部分が憲法改正規定である。 改正規定によって後世に開かれた部分を残していることが、現行憲法典の拘束力保持理由の一つである。 従来の制憲権論は、制憲権を野放しにしないために、何らかの権威に由来するものと想定して、根本規範を設定したりして、その権威の淵源(正当性)を追い求めてきた(権威と制憲権との垂直的布置の理論)。 今日までの諸理論は、その追究に成功していない。 この点は次のように考えるべきであろう。 意思の力を淵源とする制憲権は、権威に由来するものではなく、制憲権とは独立に存在する「法」によって横からの制約を受けている(法と制憲権との水平的布置の理論。「法の支配」は、まさにこれを狙ったのである)。 この「法」は、各人の自由な領域を保護する普遍妥当な抽象的ルールである。 このルールを、ハイエクに倣って「自由の法」と呼んでもよい(巻末の人名解説をみよ)。 「自由の法」は、超越論的な思弁の中にあるのではなく、人間社会が事実上存在するその瞬間から生まれ、人間が経験によって学び得た準則である(自由の本質については『憲法理論Ⅱ』で論ずる)。 「自由の法」に代えて、「個人の尊厳」、「人格価値不可侵」といった茫漠とした用語に拠るとすれば、制憲権を制約する内実をその中に発見することは期待できないであろう。 [132] (四)制憲権は意思の力であるとする理論は、合理的人間像に基づく近代哲学の嫡流に属する では、意思から力が発生するという保証はなく、政治的統一意思は今日のような多元的社会にありようもない、とする本書のような醒めた目からすれば、制憲権理論はどう再構成されればよいか。 制憲権の理論は、人民の意思が全ての権力の源であるとする社会契約理論と結びついたフィクションである。 社会契約の理論そのものが、《そうあって欲しいものを合理的に理論化しようとした擬制である》以上、その上に構築された制憲権理論も、擬制に過ぎない。 歴史上、その思想の力が、現実の政治世界に影響を与え、実力としての市民革命という形態をとることもあったし、摩擦なく円滑に実定憲法典の基本理念として採用されることもあった。 制憲権の本質は、実力でもなければ、権限でもない。 それは、合理的国家のあるべき姿を説くための仮設である。 その仮設は、ある国では、それを拒否し続けた専制君主を打倒する革命の理論として実際に採用された。 その現実は「制憲権=実力」と後世に映ることになった。 またある国では、社会契約理論をモデルとした実定憲法典を制定した。 そこでは、制憲権は、実定憲法典を支える「正当性原理」として後世に映ることになるのである。 もともと、制憲権論は、君主という一人の意思の絶対的力に代えて、人民の意思を統治の根底に置く革命の理論であった。 その理論は、君主を排除するところまでは指示するものの、統治の最終的なあるべき姿を指示することはできない。 統治の最終的あるべき姿は、人民の意思や制憲権の理論を統制するものに求めなければならない(もっとも、ある理論が政治的決定に最強の影響を与えることはある)。 だからこそ、我々は「法」、「自由」に言及してこれを統制しようとするのである。 このように考えれば、「国民が制憲権をもつ」とする命題こそ擬制中の擬制である。 一方で、制憲権の主体は観念上の抽象的存在たる「国民」であるとし、他方で、制憲権の本質は実力であると主張することは、自己矛盾である。 というのは、制憲権が実力であれば、具体的に存在する自然人によって行使されるはずのものであって、抽象的存在たる国民が主体となることは不可能だからである(制憲権が抽象的存在たる国民に「帰属する」との表現を用いても解決とならない)。 有効な権力概念であろうとすれば、その保有者が一定の事柄を為し得るか否かを基礎づけなければならず、これに失敗する理論は空論である。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第一部 第8章 国民主権あるいは憲法制定権力 LEC・芦部信喜・佐藤幸治・阪本昌成・中川八洋の「国民主権論」比較 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 関連用語集 【用語集】主権論・国民主権等 「法の支配」と国民主権 「法の支配(rule of law)」とは何か ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/224.html
阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅰ部 統治と憲法 第11章 権力分立(権限の分割) 本文 p.71以下 <目次> ■1.モンテスキューのいいたかったこと[51] (1) モンテスキューの着想 [52] (2) モンテスキューの理論 [53] (3) モンテスキュー理論の俗流の理解 [54] (4) 法の支配との関連づけ ■2.権力分立論の受容と変容[55] (1) 権力分立論の受容 [56] (2) 権力分立論の古典的「変容」? [57] (3) 権力分立論の「現代的変容」 - 官僚団と政党 [58] (4) 三権分立という誤導的表現 ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.モンテスキューのいいたかったこと [51] (1) モンテスキューの着想 モンテスキューの有名な著作『法の精神』の日本語訳は、次の一文で始まっている。 「法律とは、その最も広い意味では、事物の本性に由来する必然的な諸関係である」 この冒頭部分を「法律」と訳出したのでは、意味が通らない。 モンテスキューにとって、国家における法は、異なる国家機関が異なる作用を及ぼしあう諸関係として - 単独者の命令としてではなく - 現れるのである。 彼の『法の精神』にいう「法」とは、今日我々が想像する“法律”からは程遠く、ある関係における法則(law)を指したのだ(このことは、法の支配と権力分立との関係を論ずる際に再び言及するだろう)。 モンテスキューは、ニュートンの法則のように、相互に引き合う力のなかに法則が現れる、と期待したのだ。 モンテスキューは、人間の本性を強調する自然法思想に反対だった。 人間の本性といわれてきたものが、エートス(精神)によっていかに可変的であるかを論ずるために、彼は『法の精神』を書いたのだ。 彼は、経験的に人間を観察しようとする目をもって、人間の権力欲と専制的権力の濫用の歴史に注意を払った。 そのとき、彼の目にとまったのがイギリスという特定の国の国制だった。 今日の言葉でいえば社会学的な観点に立ってイギリスの代議制を「観察」したうえで彼は、自由な政体を理論的に構築しようとしたのである。 これが、後世、「権力分立」と呼ばれる理論の出発点であった(モンテスキュー自身は、「権力分立」という言葉を一度も用いなかった)。 [52] (2) モンテスキューの理論 彼は、あるべき政体を、次のような順序で理論化していった。 第1 国家作用を、理論上、類型化する。 第2 さらに、その作用を活動形式別に分類してみる。たとえば、立法作用についていえば、提案、審議、議定(制定)、異議(再審議要求)、署名、監督、というように。 第3 社会に存在している諸勢力(国王、貴族、庶民)がそれぞれ国家機関となり得るよう構想する。そのために、それらが、君主、議会の一院、同じく議会の一院をそれぞれ構成する。ある機関の構成員が他の機関に属することはない 第4 先の活動形式を、この3つの国家機関の性質別に割り当てる。たとえば、立法作用においていえば、「審議し議定する活動形式」という最も重要な実体権限を議会に配分する。 第5 議会のこのメジャーな実体的権限を取り巻くように、他の機関にマイナーな手続的な関与権限を配置する。たとえば、「阻止する活動形式」という手続的権限が君主(政府)権限となる、というように。 第6 ある作用が完遂されるには、ある機関のメジャーな実体的権限と、他の機関のマイナーな権限とが関連づけられねばならない。つまり、分離独立した機関が複数の活動形式をもって連携したとき、ある作用が完遂する、という相互関係を持たせる。 第7 そうすれば、国制のなかに、機関相互の制御関係が「相対的に正しい法則」をもたらすだろう。《抑制し合え、然らば均衡がもたらされる》 第8 その法則に従ってそれぞれの国家機関が活動すれば、特定の国家機関が権力を濫用することはなく、公民の政治的自由にとって危険は最小化される。 上のように、モンテスキューは、 ① 国家作用(統治権)を理論上区別し、 ② 担当機関を区別し、 ③ さらには人をも分離(兼職を禁止)し、 ④ いったん区別した国家作用を複数の機関に分有させることによって、 ⑤ 相互の抑制を図り、 ⑥ その抑制関係のなかに均衡が産まれたとき、政治的自由は保障されるだろう、 と、あくまで理論的に構想したのである。 このうち、上の④・⑤または先の第4・5に留意すれば、権力分立理論は、作用の分離独立論ではなく、権限の分割論だということが分かるだろう。 そう理解する立場を、「相互作用論」と呼ぶことにしよう。 モンテスキューの理論は、相互作用論だったのだ。 それもそのはず、彼は、庶民を代表する議会が法律制定権を独占することを阻止したかったのだから。 だからこそ、議会が二院となること(一院は貴族院)、君主が立法作用の一部を担当することを説いたのだ。 ひとつの権限の分割である。 彼の政治的意図は権力の均衡論(均衡政体論)のなかで立憲君主のための権力分有論を説くことにあった。 その理論は、法的な様相をとっているものの、実は、当時の社会勢力(君主・貴族・庶民)を均衡させる政治的デッサンだったのである。 こうした背景を無視して、“モンテスキューの権力分立論は、民主的な統治構造のあり方を説いたもの”と解するとすれば、それは浅薄な理解である。 [53] (3) モンテスキュー理論の俗流の理解 その浅薄な理解とは別に、彼の理論の誤った理解が今日にまで流れてきている。 誤った理解とは、“権力分立は、立法・行政・司法の3つの国家作用を完全に分離し、それを各機関に担当させることだ”という理解である。 この理解は、“権力分立とは権力の集中を排除し、もって市民の自由を保護することだ”という機能論のもとで、もっともらしく響いた。 こう解答されたとき、権力分立構造においては、作用Aは機関aが担当し、作用Bは機関bが担当すること、機関Aは機関Bの存立を左右する権限をもたないこと、機関Aの人的構成は機関Bの構成と異なること、といった一作用一機関対応型イメージとなる。 縦割りを強調する権力分立論を「完全分離論」と呼ぶことにしよう。 完全分離論が特に強調するのは、法律制定作用の議会による独占である。 なぜ、かような誤導的な理解が世を席巻することになってしまったのか? その理由は、3つあるように思われる。 第一は、 「分立(separation)」という用語からくる印象である。 第二は、 ヴァージニア憲法がいち早く完全分離論に与して「立法、執行、司法の各部門は分立され区別され、他の部門に属する固有の権能を行使しない」と謳ったことである(ヴァージニアにおいては、民主主義者T. ジェファソンの完全分離論が強い影響力を持った。ジェファソンは、モンテスキュー理論に比較的忠実に相互作用をもたせた合衆国憲法の権力分立構造に反対だった)。 第三は、 権力分立を民主的なものだと理解し直そうとしたとき、“立法権は議会が独占する”という主張が説得的にみえたためである。言い換えれば、法治国における権力分立構想は、モンテスキューの権限の分割論を意図的に変形し、議会に大きなウェイトを持たせるための「分立」論となったのである。 議会中心の「分立」論とは、議会が一般的抽象的な法規範を制定し、行政権がこれを個別具体的な事案に適用する、という「作用別」の理論である。 これは、一見したところ分立論であるかのようであるが、モンテスキュー理論以前に既に説かれていた「立法/執政」の区別を説いているに過ぎない。 モンテスキュー理論の重要ポイントは、法律制定権限が一院ニ院一君主または大統領に分割されるべし、という点にある。 にも拘わらず権力分立論の民主化を望む人々は、法治主義(行政の法律適合性原則(*注1))の要請が、完全分離の構想のもとでこそ、ピタリ実現されるとみたのである。 完全分離論は、分立論の狙いと機能(権力の集中を排除し自由を擁護する働き)に論議のウェイトを置いて、多くの賛同者を獲得した。 完全分離論は、「抑制と均衡 check and balance」という表現を常用したにも拘わらず、完全縦割り構造のなかで各機関がどのように抑制できるというのか、真剣に問い直すことはなかった。 (*注1)行政の法律適合性原則について[14]の脚注を参照願う。 [54] (4) 法の支配との関連づけ 俗流の権力分立論が、縦割りの完全分離を説いてきたのに対して、“モンテスキューは、国家作用が重層的に発動される順序を考えることによって、法の支配を実現しようとしたのだ”“権力分立論は、法の支配という壮大な構想の一部だ”と唱え続けてきた論者もみられた。 今日では、この見方が我が憲法学界に次第に浸透しつつある。 この立場は、モンテスキューが次のような段階的な国家作用論を考えていたのだ、という。 第一段階は、 「正しい法の制定」、 第二段階は、 「制定された正しい法への服従」である。 第一段階においては、 国家における最高位の作用である立法段階に抑制均衡を作り出す工夫が施される。そして、 第二段階においては、 〔立法→その執行〕という理論的な優先関係を作り出し、行政府と裁判所の作用を立法に服従させる工夫が施される。 以上のふたつの段階を通して、モンテスキューは「法の支配」(相対的に正しい法則)を実現する理論を考えた。 これを私なりに整理すればこういうことになろう。 第一に、 立法の段階においては、「立法が事物の本性に由来する」よう、「君主⇔第一院⇔第二院」の抑制均衡を作り出す。この抑制の相互関係のなかに相対的に正しい法則が出来上がるだろう。 第二に、 立法の執行段階においては、行政が正しき法を正しく執行しているかどうか、議会は常に監督する。裁判所に関しては、「制定された法を語る口」として統治権力から外して「無」とする。そのために、裁判所は常設の機関とはされず、必要なときに設置されて紛争解決と同時に解散する。 本章の冒頭に引用した『法の精神』の一文を眺め直したとき、モンテスキューは上のような相互作用関係のなかに「相対的な正しさ(法則)」が確保されるものと期待したのではないか、と推察していいだろう。 もっとも、モンテスキューには、法の支配理論で説かれてきた「高次の法」なる発想はない、と私は診断している。 彼の理論には、“法が本質的に正しいかどうか”は眼中にはなく、“異なる国家機関間の相互関係のなかに「法則」が現れるはずだ”というニュートン的な自然法則(本来的関係)があったのだ。 彼のいう「法」のイメージは、今日の公法学者が思い描きがちな「法の支配」にいう「法」とは程遠いものだったろう。 《モンテスキュー理論は、自然法思想とは系譜を異にしながらも、正しい法の制定と、その法の執行という重層関係を考えていた》のである。 で、私は、我が国の憲法学界が権力分立論を再解釈してきた傾向を歓迎したい気持ちになっている。 ■2.権力分立論の受容と変容 [55] (1) 権力分立論の受容 モンテスキュー理論は、アメリカの邦(独立までの「州」をいう)の憲法に受容された。 ついで、合衆国憲法にも受容された。 アメリカ合衆国の憲法典は、 “モンテスキュー理論をブルー・プリントとして制定された”といわれることがあると思えば、 “いやいやモンテスキューとは違っている”という見方もあって、 我々を混乱させる。 私は前者の見方が正しい、とみている。 建国の父たちは、モンテスキュー理論を正確に理解していたからこそ、分離の原則だけでなく、機関間の緊張関係(ひとつの権限の分割)を合衆国憲法典に組み入れたのである。 緊張関係の例は、「議会の立法権⇔大統領の一時的拒否権」、「大統領の条約締結権⇔上院の条約承認権」、「大統領の高官任命権⇔議会の承認権」等である。 合衆国憲法がモンテスキュー理論とは異なっている点も幾つかある。 もし、モンテスキュー理論に忠実であったとすれば、“議会は大統領によって招集されて初めて活動能力をもつ”“大統領は議会によって弾劾されることはない”“司法府は「法を語る口として、いわば無」となって統治に容喙することはない”となっただろう。 合衆国憲法とモンテスキュー理論との違いを強調する論者は、裁判所が司法審査権をもつ点を挙げることもある。 ところが、建国の父たちが、憲法制定にあたって当初から司法審査権を構想していたものかどうか、論争はいまなお続く謎である(合衆国憲法は司法審査権に関する明文規定を欠いている。もっとも、建国の父たちは「司法審査制」という概念と制度を既に知っていた)。 モンテスキューの知らなかった司法審査権という新発見物が憲法にあるからといって、“合衆国憲法はモンテスキュー理論に忠実ではなかった”“合衆国憲法は権力分立論をはやくも変容させた”というのは性急だろう。 合衆国憲法がモンテスキュー理論に比較的忠実であったかどうかは、個別的な機関の個別権限からみるのではなく、全体の構造のなかで主要な権限がどう配分されたか、という視点から判断されるべき事柄だ。 そのためのパースペクティブは、「完全分離論/相互作用論」である。 “合衆国憲法は、いずれの理論をその基本原則としているか?”と問われたとき、その正解は、相互作用論である。 [56] (2) 権力分立論の古典的「変容」? 多くの論者が、「権力分立の変容」について語ってきた。 「変容」というとき、何がどう変わった、といいたいのだろうか? 権力分立の原型すら明らかにしない論者が「変容」を語れるはずがない。 そのために、我々は大いに混乱させられてきた。 モンンテスキューの権力分立論は、あくまで理論である。 合衆国憲法にあってさえ、その理論をそのまま実定化したわけではなく、ある意味では「変容」させたのだ。 大統領制や司法審査制がその好例だろうが、論者のいう「変容」は決してこれではない。 変容にも、古典的なものと、現代的なものとがあるようだ。 現代的なものは、比較的分かり易い。 《近代憲法の知らなかった政党と巨大官僚団とが、統治過程すべてを「統合」しているかのようだ》という意味での変容である(この点については、後の [71] でも再びふれる)。 現代的変容ではないものを、「古典的な変容」ということにして、論点をクリアにすることにしよう。 それでも、古典的な変容を理解することは、国によって展開が異なるために難儀な業である。 そのうえ、論者が変容前の原型をどう捉えているかによって、変容の中味も全く違ってくる。 たとえば、「完全分離論」をイメージする論者にとっては、他の国家機関が立法権に関与することが“変容”と映るだろう。 たとえば、司法審査制である。 これに対して「相互作用論」をイメージする論者にとっては、議会が法律制定権を独占するルソー的議会主義こそ“変容”である。 「変容」とは、このことでもないようだ。 ここで再度確認すれば、権力分立論は、3つの社会的勢力のための権力の均衡を正当とする理論だった。 その理論は、一院と他の一院、議会と君主の間にみられる「引力の法則」に期待して、国のかたちを探究する均衡政体論だった。 この理論は、君主勢力の強い国家において、立憲君主制へと展開するだろうことは、我々にも容易に予想できる。 立憲君主制とは、 (ア) 君主と議会とが憲法上の国家機関であること、 (イ) 法律の制定にあたって君主が何らかのかたちで参与すること、 (ウ) 議会が君主・臣下の活動を常時監督すること、 (エ) 君主の活動に主任の大臣が副署すること 等を憲法が定めている体制をいう。 これらの要素は、権力分立理論を君主制に合うように焼き直したものである。 これらのうち立憲君主制にとって重要な要素が (エ) にいう「大臣助言制」である。 これは、大臣の助言(副署)権のなかに実質的決定権を読み込むことによって君主の責任を「空」にし、君主無答責を論拠づけるやり方である。 この君主に対する大臣の責任が、デモクラシーの進展に伴って、やがて議会に対する責任、それも、政治責任へと拡大されたとき、その統治体制は議院内閣制となるのである(議院内閣制については、次章でふれる)。 権力分立の「変容」とは、立憲君主制や議院内閣制へと展開したことでもなさそうだ。 「変容」とは、権力分立における抑制関係が画期的に変化することをいうのだろう。 では、権力分立論後の、抑制関係の画期的変化とは何であるのか? それは、選挙人(国家法人説によるとすれば、有権者団という国家機関。 [105]をみよ)が、〔議院-議会-政府〕の間の均衡関係に、公式の影響力を持つに至ったことだ。 国家機関のうち、「政治部門」と呼ばれるこれらの機関の間にみられる抑制・均衡関係は、普通選挙制が実現された時点で画期的に変わったのだ。 《選挙人が、選挙または人民投票を通して、政治部門の緊張関係を最終的に均衡させる国家構造》へと「変容」したのだ。 換言すれば、抑制均衡関係の起点が選挙人となったのだ。 この点を、古典的な権力分立論は、知らなかったのである。 その具体的な影響は、二院をともに公選制とすることに表れた。 [57] (3) 権力分立論の「現代的変容」 - 官僚団と政党 国家の役割が増加するにつれ、統治の基本方針の大綱を考え、法案にまとめ上げ、修正していく作業は、専門的官僚団の仕事となった。 「積極国家」においては特にこのことが顕著である。 専門的官僚団は、現実の統治のなかでは、議会以上の働きを示しているといっても過言ではない。 《官僚団をいかに統制するか》、この問題は、実は、現代のものではない。 議会は、官僚団のひとつである軍隊を法的に統制する課題を、ずっと負ってきたのである。 もっとも、軍隊を除く官僚の統制がどうあるべきか、この論点を真剣に扱ったのは、憲法学ではなく、行政法学と行政学だったのだが。 先に、均衡抑制関係の起点が選挙人となった、という「変容」についてふれた。 そこでの選挙人の役割は、間歇的である。 これに対して、統治の役割が金銭的利害の再分配や希少なリソースの分配にまで及んでくると、相当数の国民は間歇的な役割を超えて、統治に対して日常的に影響を与えようと試みてくる。 そのためには、結社を作り上げて声を大きくしなければならない。 この結社が政党である。 自由な国家に存在する複数の政党は、選挙人がもっている無数の政治的選好を、議会の内外で、処理可能な数にまとめあげる政治的結社である。 複数政党制の役割を抜きにした統治の理論は、通用力を持たないだろう。 この現代国家における権力抑制構造は、「立法府 対 大統領(内閣)」といった公式機関の間にあるというよりも、「議会内部の与党 対 野党」の抑制、そして「政党によって組織化された国民 対 政治部門」の抑制、という非公式で流動的なかたちをとっている。 政党、与党・野党、圧力団体といった勢力は、憲法典上の公式機関ではない(政党については、後の [67] 以下でふれる)。 フォーマルな機関とその作用にみられる抑制均衡関係を説いてきた権力分立論と、それを制度化した憲法は、上のよなインフォーマルな組織体とその活動を射程に捉えていないのだ。 こうした現象が「権力分立の変容」として捉えられてきているようだが、それが憲法規範学にどのような見直しを求めているのか、私には分からない。 多くの論者が語ってきた「変容論」は、憲法社会学の視点からのものにとどまっていたように私にはみえる。 [58] (4) 三権分立という誤導的表現 権力分立の「現代的変容」よりも、私にとっては、権力分立論が当初より抱えてきた、次のような落とし穴に留意するほうが重要である。 第一に、 権力分立を三権分立と同視しないこと、または、相互互換的に用いないことだ(⇒[53])。これが誤りであることは、モンテスキュー『法の精神』を一読すれば、すぐに分かるだろう(私は、三権分立というタームを用いる憲法学者の知性を疑っている)。権力分立は、議会においては二院制、執政府においては君主権限と大臣団の間の機関内抑制、国家統治においては中央政府と地方政府との抑制関係等々にもみられるのである。 第二に、 権力分立理論と実定憲法における権力分立構造とをはっきりと区別しておくことだ。または、特定の権力分立理論を金科玉条として、そこから憲法典に実現された構造の乖離・逸脱を強調しないことだ(なかでも、「完全分離論」がモデルとされるとき、“我が国における統治の実態は権力分立から乖離してきている”という権力分立論が幅を利かせた)。 第三は、 “権力分立は民主的だ”と断定しないことだ。モンテスキューの理論における民主的な要素は一院だけに表れる。合衆国憲法におけるその側面は、一院と大統領に表れる(ただし、“大統領は間接選挙によって選出される、擬似君主だ”と考えるほうが厳密には正しいだろう)。権力分立論は、統治構造に民主化を徹底させない工夫である。では、“権力分立論は自由主義の産物だ”というのはどうか?これも正答には、まだ遠い。モンテスキューの理論は、自由主義から程遠い。《集中化された権力は必ず濫用される、だから抑制関係を相互に持たせる》と彼が述べたことは、自由主義とは直接には関係がなかった。権力分立の思想は、人間の本性に対する懐疑的な見方の発露であって、自由主義の発露ではなかったのである。 第四は、 権力分立論のもとで、すべての国家作用が〔立法→そのもとでの行政・司法〕に類型化できるはずだ、と即断しないことだ。特に、権力分立を三権分立と表現する論者は、すべての国家作用から立法と司法とを控除した領域が「行政だ」と考えがちである。これが所謂「行政に関する控除説」である。この第四の落とし穴については、もう少し説明したほうがよさそうだ。 控除説によれば、立法・司法・行政から漏れ出る作用はない。 そればかりか、控除説のもとでいう「行政」を法律適合性原則のもとにおいてこれを統制できるとすれば、控除部分すべての牙を抜くことができる。 このように、法治国原理を貫徹させようとする控除説は、一見、よく出来ている。 控除説的な見方は、“権力分立論とは、君主のもっていた行政権を議会が統制しようとする民主的理論だ”という俗流の理解と相俟って、さらに説得力をもつようにみえた。 ところが、イギリスには、「行政」とは別に国王の「大権 prerogative」、アメリカには「行政」とは別に大統領の「執政権 executive power」が存在してきた。 日本国憲法の場合、解散権、外交権、予算作成権等が内閣の権限とされているが、これらは、法律の執行を指す「行政」でないことは明らかである。 このことを考慮して私は、内閣を「執政府」、内閣権限を「執政権」と呼ぶことにしている(この点については、内閣の章でもふれる)。 C. シュミットの鋭い分析をここで引用すべきだろう。 「『分立』は、正確には、諸権力のひとつのものの内部での区別、たとえば、立法権を、元老院と代議院のようなふたつの議院に分割することを意味する。」「(モンテスキューの)本来の関心事は、ただ立法権と執政権の区別のみである。この場合、・・・・・・執政権は決して単に法律の適用ではなく、本来の国家活動(そのもの)である。」 権力分立論にいう「行政」は、法治主義(行政の法律適合性原則)という概念に納まり切らないのだ。 この点に留意すれば、ふたつの解決策しかないことに我々は気づくだろう。 第一の解決策は、 《モンテスキュー以来の権力分立論は、すべての国家作用を網羅する理論ではなかった》と割り切ることだ。 第二の解決策は、 《権力分立論は、国民の自由に関連する国家作用を、理論的に3つに分けたのだ》と、同理論の作用法的性質を強調する方向である。 我が国の有力な論者は、作用法(*注2)的な発想である後者を選択しているようだ。 が、もともとの権力分立論が、君主による議会の召集、二院制等、組織法的な体系から出来上がっていたことを考えたとき、有力説の採る筋道は私にはどうも納得がいかない(権力分立の歴史的展開は、まさに、組織法的側面の争いだった。この点については、次章の議院内閣制を検討すれば明らかになるだろう)。 (*注2)「作用法/組織法」について法学において「作用法/組織法」は、「実体法/手続法」と同じくらい基本的で重要な区別である。作用法とは、国民の権利義務を規律する(権利義務に作用する)法令をいい、組織法とは統治機関の構造を定める法令をいう。 ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十章 権限・機関の区別(「権力分立」)論 ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kakumeigun/pages/20.html
迷惑ページ通報処理。 この程度の行動削除で十分。 時間浪費になるので削除対処、消去消去
https://w.atwiki.jp/kaihennsyaityia/pages/131.html
「お、俺が伝説の内閣権力犯罪強制取締官?」 「早速ですが藤堂殿、それに財前殿。どうかわが国日本をお助けください」 「どうしたんですか?」 「内閣官僚があろうことか邪悪なゼネコンと手を組んで権力犯罪を仕掛けてきたんです」 「ゆ、許せねえ!財前、俺たちで何とかしてやろう!」 「DA BOMB!」 EPISODE 1 ゼロ × 気持ち 早くDVDを解き放て・・・
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/1738.html
阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅰ部 統治と憲法 第11章 権力分立(権限の分割) 本文 p.71以下 <目次> ■1.モンテスキューのいいたかったこと[51] (1) モンテスキューの着想 [52] (2) モンテスキューの理論 [53] (3) モンテスキュー理論の俗流の理解 [54] (4) 法の支配との関連づけ ■2.権力分立論の受容と変容[55] (1) 権力分立論の受容 [56] (2) 権力分立論の古典的「変容」? [57] (3) 権力分立論の「現代的変容」 - 官僚団と政党 [58] (4) 三権分立という誤導的表現 ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.モンテスキューのいいたかったこと [51] (1) モンテスキューの着想 モンテスキューの有名な著作『法の精神』の日本語訳は、次の一文で始まっている。 「法律とは、その最も広い意味では、事物の本性に由来する必然的な諸関係である」 この冒頭部分を「法律」と訳出したのでは、意味が通らない。 モンテスキューにとって、国家における法は、異なる国家機関が異なる作用を及ぼしあう諸関係として - 単独者の命令としてではなく - 現れるのである。 彼の『法の精神』にいう「法」とは、今日我々が想像する“法律”からは程遠く、ある関係における法則(law)を指したのだ(このことは、法の支配と権力分立との関係を論ずる際に再び言及するだろう)。 モンテスキューは、ニュートンの法則のように、相互に引き合う力のなかに法則が現れる、と期待したのだ。 モンテスキューは、人間の本性を強調する自然法思想に反対だった。 人間の本性といわれてきたものが、エートス(精神)によっていかに可変的であるかを論ずるために、彼は『法の精神』を書いたのだ。 彼は、経験的に人間を観察しようとする目をもって、人間の権力欲と専制的権力の濫用の歴史に注意を払った。 そのとき、彼の目にとまったのがイギリスという特定の国の国制だった。 今日の言葉でいえば社会学的な観点に立ってイギリスの代議制を「観察」したうえで彼は、自由な政体を理論的に構築しようとしたのである。 これが、後世、「権力分立」と呼ばれる理論の出発点であった(モンテスキュー自身は、「権力分立」という言葉を一度も用いなかった)。 [52] (2) モンテスキューの理論 彼は、あるべき政体を、次のような順序で理論化していった。 第1 国家作用を、理論上、類型化する。 第2 さらに、その作用を活動形式別に分類してみる。たとえば、立法作用についていえば、提案、審議、議定(制定)、異議(再審議要求)、署名、監督、というように。 第3 社会に存在している諸勢力(国王、貴族、庶民)がそれぞれ国家機関となり得るよう構想する。そのために、それらが、君主、議会の一院、同じく議会の一院をそれぞれ構成する。ある機関の構成員が他の機関に属することはない 第4 先の活動形式を、この3つの国家機関の性質別に割り当てる。たとえば、立法作用においていえば、「審議し議定する活動形式」という最も重要な実体権限を議会に配分する。 第5 議会のこのメジャーな実体的権限を取り巻くように、他の機関にマイナーな手続的な関与権限を配置する。たとえば、「阻止する活動形式」という手続的権限が君主(政府)権限となる、というように。 第6 ある作用が完遂されるには、ある機関のメジャーな実体的権限と、他の機関のマイナーな権限とが関連づけられねばならない。つまり、分離独立した機関が複数の活動形式をもって連携したとき、ある作用が完遂する、という相互関係を持たせる。 第7 そうすれば、国制のなかに、機関相互の制御関係が「相対的に正しい法則」をもたらすだろう。《抑制し合え、然らば均衡がもたらされる》 第8 その法則に従ってそれぞれの国家機関が活動すれば、特定の国家機関が権力を濫用することはなく、公民の政治的自由にとって危険は最小化される。 上のように、モンテスキューは、 ① 国家作用(統治権)を理論上区別し、 ② 担当機関を区別し、 ③ さらには人をも分離(兼職を禁止)し、 ④ いったん区別した国家作用を複数の機関に分有させることによって、 ⑤ 相互の抑制を図り、 ⑥ その抑制関係のなかに均衡が産まれたとき、政治的自由は保障されるだろう、 と、あくまで理論的に構想したのである。 このうち、上の④・⑤または先の第4・5に留意すれば、権力分立理論は、作用の分離独立論ではなく、権限の分割論だということが分かるだろう。 そう理解する立場を、「相互作用論」と呼ぶことにしよう。 モンテスキューの理論は、相互作用論だったのだ。 それもそのはず、彼は、庶民を代表する議会が法律制定権を独占することを阻止したかったのだから。 だからこそ、議会が二院となること(一院は貴族院)、君主が立法作用の一部を担当することを説いたのだ。 ひとつの権限の分割である。 彼の政治的意図は権力の均衡論(均衡政体論)のなかで立憲君主のための権力分有論を説くことにあった。 その理論は、法的な様相をとっているものの、実は、当時の社会勢力(君主・貴族・庶民)を均衡させる政治的デッサンだったのである。 こうした背景を無視して、“モンテスキューの権力分立論は、民主的な統治構造のあり方を説いたもの”と解するとすれば、それは浅薄な理解である。 [53] (3) モンテスキュー理論の俗流の理解 その浅薄な理解とは別に、彼の理論の誤った理解が今日にまで流れてきている。 誤った理解とは、“権力分立は、立法・行政・司法の3つの国家作用を完全に分離し、それを各機関に担当させることだ”という理解である。 この理解は、“権力分立とは権力の集中を排除し、もって市民の自由を保護することだ”という機能論のもとで、もっともらしく響いた。 こう解答されたとき、権力分立構造においては、作用Aは機関aが担当し、作用Bは機関bが担当すること、機関Aは機関Bの存立を左右する権限をもたないこと、機関Aの人的構成は機関Bの構成と異なること、といった一作用一機関対応型イメージとなる。 縦割りを強調する権力分立論を「完全分離論」と呼ぶことにしよう。 完全分離論が特に強調するのは、法律制定作用の議会による独占である。 なぜ、かような誤導的な理解が世を席巻することになってしまったのか? その理由は、3つあるように思われる。 第一は、 「分立(separation)」という用語からくる印象である。 第二は、 ヴァージニア憲法がいち早く完全分離論に与して「立法、執行、司法の各部門は分立され区別され、他の部門に属する固有の権能を行使しない」と謳ったことである(ヴァージニアにおいては、民主主義者T. ジェファソンの完全分離論が強い影響力を持った。ジェファソンは、モンテスキュー理論に比較的忠実に相互作用をもたせた合衆国憲法の権力分立構造に反対だった)。 第三は、 権力分立を民主的なものだと理解し直そうとしたとき、“立法権は議会が独占する”という主張が説得的にみえたためである。言い換えれば、法治国における権力分立構想は、モンテスキューの権限の分割論を意図的に変形し、議会に大きなウェイトを持たせるための「分立」論となったのである。 議会中心の「分立」論とは、議会が一般的抽象的な法規範を制定し、行政権がこれを個別具体的な事案に適用する、という「作用別」の理論である。 これは、一見したところ分立論であるかのようであるが、モンテスキュー理論以前に既に説かれていた「立法/執政」の区別を説いているに過ぎない。 モンテスキュー理論の重要ポイントは、法律制定権限が一院ニ院一君主または大統領に分割されるべし、という点にある。 にも拘わらず権力分立論の民主化を望む人々は、法治主義(行政の法律適合性原則(*注1))の要請が、完全分離の構想のもとでこそ、ピタリ実現されるとみたのである。 完全分離論は、分立論の狙いと機能(権力の集中を排除し自由を擁護する働き)に論議のウェイトを置いて、多くの賛同者を獲得した。 完全分離論は、「抑制と均衡 check and balance」という表現を常用したにも拘わらず、完全縦割り構造のなかで各機関がどのように抑制できるというのか、真剣に問い直すことはなかった。 (*注1)行政の法律適合性原則について[14]の脚注を参照願う。 [54] (4) 法の支配との関連づけ 俗流の権力分立論が、縦割りの完全分離を説いてきたのに対して、“モンテスキューは、国家作用が重層的に発動される順序を考えることによって、法の支配を実現しようとしたのだ”“権力分立論は、法の支配という壮大な構想の一部だ”と唱え続けてきた論者もみられた。 今日では、この見方が我が憲法学界に次第に浸透しつつある。 この立場は、モンテスキューが次のような段階的な国家作用論を考えていたのだ、という。 第一段階は、 「正しい法の制定」、 第二段階は、 「制定された正しい法への服従」である。 第一段階においては、 国家における最高位の作用である立法段階に抑制均衡を作り出す工夫が施される。そして、 第二段階においては、 〔立法→その執行〕という理論的な優先関係を作り出し、行政府と裁判所の作用を立法に服従させる工夫が施される。 以上のふたつの段階を通して、モンテスキューは「法の支配」(相対的に正しい法則)を実現する理論を考えた。 これを私なりに整理すればこういうことになろう。 第一に、 立法の段階においては、「立法が事物の本性に由来する」よう、「君主⇔第一院⇔第二院」の抑制均衡を作り出す。この抑制の相互関係のなかに相対的に正しい法則が出来上がるだろう。 第二に、 立法の執行段階においては、行政が正しき法を正しく執行しているかどうか、議会は常に監督する。裁判所に関しては、「制定された法を語る口」として統治権力から外して「無」とする。そのために、裁判所は常設の機関とはされず、必要なときに設置されて紛争解決と同時に解散する。 本章の冒頭に引用した『法の精神』の一文を眺め直したとき、モンテスキューは上のような相互作用関係のなかに「相対的な正しさ(法則)」が確保されるものと期待したのではないか、と推察していいだろう。 もっとも、モンテスキューには、法の支配理論で説かれてきた「高次の法」なる発想はない、と私は診断している。 彼の理論には、“法が本質的に正しいかどうか”は眼中にはなく、“異なる国家機関間の相互関係のなかに「法則」が現れるはずだ”というニュートン的な自然法則(本来的関係)があったのだ。 彼のいう「法」のイメージは、今日の公法学者が思い描きがちな「法の支配」にいう「法」とは程遠いものだったろう。 《モンテスキュー理論は、自然法思想とは系譜を異にしながらも、正しい法の制定と、その法の執行という重層関係を考えていた》のである。 で、私は、我が国の憲法学界が権力分立論を再解釈してきた傾向を歓迎したい気持ちになっている。 ■2.権力分立論の受容と変容 [55] (1) 権力分立論の受容 モンテスキュー理論は、アメリカの邦(独立までの「州」をいう)の憲法に受容された。 ついで、合衆国憲法にも受容された。 アメリカ合衆国の憲法典は、 “モンテスキュー理論をブルー・プリントとして制定された”といわれることがあると思えば、 “いやいやモンテスキューとは違っている”という見方もあって、 我々を混乱させる。 私は前者の見方が正しい、とみている。 建国の父たちは、モンテスキュー理論を正確に理解していたからこそ、分離の原則だけでなく、機関間の緊張関係(ひとつの権限の分割)を合衆国憲法典に組み入れたのである。 緊張関係の例は、「議会の立法権⇔大統領の一時的拒否権」、「大統領の条約締結権⇔上院の条約承認権」、「大統領の高官任命権⇔議会の承認権」等である。 合衆国憲法がモンテスキュー理論とは異なっている点も幾つかある。 もし、モンテスキュー理論に忠実であったとすれば、“議会は大統領によって招集されて初めて活動能力をもつ”“大統領は議会によって弾劾されることはない”“司法府は「法を語る口として、いわば無」となって統治に容喙することはない”となっただろう。 合衆国憲法とモンテスキュー理論との違いを強調する論者は、裁判所が司法審査権をもつ点を挙げることもある。 ところが、建国の父たちが、憲法制定にあたって当初から司法審査権を構想していたものかどうか、論争はいまなお続く謎である(合衆国憲法は司法審査権に関する明文規定を欠いている。もっとも、建国の父たちは「司法審査制」という概念と制度を既に知っていた)。 モンテスキューの知らなかった司法審査権という新発見物が憲法にあるからといって、“合衆国憲法はモンテスキュー理論に忠実ではなかった”“合衆国憲法は権力分立論をはやくも変容させた”というのは性急だろう。 合衆国憲法がモンテスキュー理論に比較的忠実であったかどうかは、個別的な機関の個別権限からみるのではなく、全体の構造のなかで主要な権限がどう配分されたか、という視点から判断されるべき事柄だ。 そのためのパースペクティブは、「完全分離論/相互作用論」である。 “合衆国憲法は、いずれの理論をその基本原則としているか?”と問われたとき、その正解は、相互作用論である。 [56] (2) 権力分立論の古典的「変容」? 多くの論者が、「権力分立の変容」について語ってきた。 「変容」というとき、何がどう変わった、といいたいのだろうか? 権力分立の原型すら明らかにしない論者が「変容」を語れるはずがない。 そのために、我々は大いに混乱させられてきた。 モンンテスキューの権力分立論は、あくまで理論である。 合衆国憲法にあってさえ、その理論をそのまま実定化したわけではなく、ある意味では「変容」させたのだ。 大統領制や司法審査制がその好例だろうが、論者のいう「変容」は決してこれではない。 変容にも、古典的なものと、現代的なものとがあるようだ。 現代的なものは、比較的分かり易い。 《近代憲法の知らなかった政党と巨大官僚団とが、統治過程すべてを「統合」しているかのようだ》という意味での変容である(この点については、後の [71] でも再びふれる)。 現代的変容ではないものを、「古典的な変容」ということにして、論点をクリアにすることにしよう。 それでも、古典的な変容を理解することは、国によって展開が異なるために難儀な業である。 そのうえ、論者が変容前の原型をどう捉えているかによって、変容の中味も全く違ってくる。 たとえば、「完全分離論」をイメージする論者にとっては、他の国家機関が立法権に関与することが“変容”と映るだろう。 たとえば、司法審査制である。 これに対して「相互作用論」をイメージする論者にとっては、議会が法律制定権を独占するルソー的議会主義こそ“変容”である。 「変容」とは、このことでもないようだ。 ここで再度確認すれば、権力分立論は、3つの社会的勢力のための権力の均衡を正当とする理論だった。 その理論は、一院と他の一院、議会と君主の間にみられる「引力の法則」に期待して、国のかたちを探究する均衡政体論だった。 この理論は、君主勢力の強い国家において、立憲君主制へと展開するだろうことは、我々にも容易に予想できる。 立憲君主制とは、 (ア) 君主と議会とが憲法上の国家機関であること、 (イ) 法律の制定にあたって君主が何らかのかたちで参与すること、 (ウ) 議会が君主・臣下の活動を常時監督すること、 (エ) 君主の活動に主任の大臣が副署すること 等を憲法が定めている体制をいう。 これらの要素は、権力分立理論を君主制に合うように焼き直したものである。 これらのうち立憲君主制にとって重要な要素が (エ) にいう「大臣助言制」である。 これは、大臣の助言(副署)権のなかに実質的決定権を読み込むことによって君主の責任を「空」にし、君主無答責を論拠づけるやり方である。 この君主に対する大臣の責任が、デモクラシーの進展に伴って、やがて議会に対する責任、それも、政治責任へと拡大されたとき、その統治体制は議院内閣制となるのである(議院内閣制については、次章でふれる)。 権力分立の「変容」とは、立憲君主制や議院内閣制へと展開したことでもなさそうだ。 「変容」とは、権力分立における抑制関係が画期的に変化することをいうのだろう。 では、権力分立論後の、抑制関係の画期的変化とは何であるのか? それは、選挙人(国家法人説によるとすれば、有権者団という国家機関。 [105]をみよ)が、〔議院-議会-政府〕の間の均衡関係に、公式の影響力を持つに至ったことだ。 国家機関のうち、「政治部門」と呼ばれるこれらの機関の間にみられる抑制・均衡関係は、普通選挙制が実現された時点で画期的に変わったのだ。 《選挙人が、選挙または人民投票を通して、政治部門の緊張関係を最終的に均衡させる国家構造》へと「変容」したのだ。 換言すれば、抑制均衡関係の起点が選挙人となったのだ。 この点を、古典的な権力分立論は、知らなかったのである。 その具体的な影響は、二院をともに公選制とすることに表れた。 [57] (3) 権力分立論の「現代的変容」 - 官僚団と政党 国家の役割が増加するにつれ、統治の基本方針の大綱を考え、法案にまとめ上げ、修正していく作業は、専門的官僚団の仕事となった。 「積極国家」においては特にこのことが顕著である。 専門的官僚団は、現実の統治のなかでは、議会以上の働きを示しているといっても過言ではない。 《官僚団をいかに統制するか》、この問題は、実は、現代のものではない。 議会は、官僚団のひとつである軍隊を法的に統制する課題を、ずっと負ってきたのである。 もっとも、軍隊を除く官僚の統制がどうあるべきか、この論点を真剣に扱ったのは、憲法学ではなく、行政法学と行政学だったのだが。 先に、均衡抑制関係の起点が選挙人となった、という「変容」についてふれた。 そこでの選挙人の役割は、間歇的である。 これに対して、統治の役割が金銭的利害の再分配や希少なリソースの分配にまで及んでくると、相当数の国民は間歇的な役割を超えて、統治に対して日常的に影響を与えようと試みてくる。 そのためには、結社を作り上げて声を大きくしなければならない。 この結社が政党である。 自由な国家に存在する複数の政党は、選挙人がもっている無数の政治的選好を、議会の内外で、処理可能な数にまとめあげる政治的結社である。 複数政党制の役割を抜きにした統治の理論は、通用力を持たないだろう。 この現代国家における権力抑制構造は、「立法府 対 大統領(内閣)」といった公式機関の間にあるというよりも、「議会内部の与党 対 野党」の抑制、そして「政党によって組織化された国民 対 政治部門」の抑制、という非公式で流動的なかたちをとっている。 政党、与党・野党、圧力団体といった勢力は、憲法典上の公式機関ではない(政党については、後の [67] 以下でふれる)。 フォーマルな機関とその作用にみられる抑制均衡関係を説いてきた権力分立論と、それを制度化した憲法は、上のよなインフォーマルな組織体とその活動を射程に捉えていないのだ。 こうした現象が「権力分立の変容」として捉えられてきているようだが、それが憲法規範学にどのような見直しを求めているのか、私には分からない。 多くの論者が語ってきた「変容論」は、憲法社会学の視点からのものにとどまっていたように私にはみえる。 [58] (4) 三権分立という誤導的表現 権力分立の「現代的変容」よりも、私にとっては、権力分立論が当初より抱えてきた、次のような落とし穴に留意するほうが重要である。 第一に、 権力分立を三権分立と同視しないこと、または、相互互換的に用いないことだ(⇒[53])。これが誤りであることは、モンテスキュー『法の精神』を一読すれば、すぐに分かるだろう(私は、三権分立というタームを用いる憲法学者の知性を疑っている)。権力分立は、議会においては二院制、執政府においては君主権限と大臣団の間の機関内抑制、国家統治においては中央政府と地方政府との抑制関係等々にもみられるのである。 第二に、 権力分立理論と実定憲法における権力分立構造とをはっきりと区別しておくことだ。または、特定の権力分立理論を金科玉条として、そこから憲法典に実現された構造の乖離・逸脱を強調しないことだ(なかでも、「完全分離論」がモデルとされるとき、“我が国における統治の実態は権力分立から乖離してきている”という権力分立論が幅を利かせた)。 第三は、 “権力分立は民主的だ”と断定しないことだ。モンテスキューの理論における民主的な要素は一院だけに表れる。合衆国憲法におけるその側面は、一院と大統領に表れる(ただし、“大統領は間接選挙によって選出される、擬似君主だ”と考えるほうが厳密には正しいだろう)。権力分立論は、統治構造に民主化を徹底させない工夫である。では、“権力分立論は自由主義の産物だ”というのはどうか?これも正答には、まだ遠い。モンテスキューの理論は、自由主義から程遠い。《集中化された権力は必ず濫用される、だから抑制関係を相互に持たせる》と彼が述べたことは、自由主義とは直接には関係がなかった。権力分立の思想は、人間の本性に対する懐疑的な見方の発露であって、自由主義の発露ではなかったのである。 第四は、 権力分立論のもとで、すべての国家作用が〔立法→そのもとでの行政・司法〕に類型化できるはずだ、と即断しないことだ。特に、権力分立を三権分立と表現する論者は、すべての国家作用から立法と司法とを控除した領域が「行政だ」と考えがちである。これが所謂「行政に関する控除説」である。この第四の落とし穴については、もう少し説明したほうがよさそうだ。 控除説によれば、立法・司法・行政から漏れ出る作用はない。 そればかりか、控除説のもとでいう「行政」を法律適合性原則のもとにおいてこれを統制できるとすれば、控除部分すべての牙を抜くことができる。 このように、法治国原理を貫徹させようとする控除説は、一見、よく出来ている。 控除説的な見方は、“権力分立論とは、君主のもっていた行政権を議会が統制しようとする民主的理論だ”という俗流の理解と相俟って、さらに説得力をもつようにみえた。 ところが、イギリスには、「行政」とは別に国王の「大権 prerogative」、アメリカには「行政」とは別に大統領の「執政権 executive power」が存在してきた。 日本国憲法の場合、解散権、外交権、予算作成権等が内閣の権限とされているが、これらは、法律の執行を指す「行政」でないことは明らかである。 このことを考慮して私は、内閣を「執政府」、内閣権限を「執政権」と呼ぶことにしている(この点については、内閣の章でもふれる)。 C. シュミットの鋭い分析をここで引用すべきだろう。 「『分立』は、正確には、諸権力のひとつのものの内部での区別、たとえば、立法権を、元老院と代議院のようなふたつの議院に分割することを意味する。」「(モンテスキューの)本来の関心事は、ただ立法権と執政権の区別のみである。この場合、・・・・・・執政権は決して単に法律の適用ではなく、本来の国家活動(そのもの)である。」 権力分立論にいう「行政」は、法治主義(行政の法律適合性原則)という概念に納まり切らないのだ。 この点に留意すれば、ふたつの解決策しかないことに我々は気づくだろう。 第一の解決策は、 《モンテスキュー以来の権力分立論は、すべての国家作用を網羅する理論ではなかった》と割り切ることだ。 第二の解決策は、 《権力分立論は、国民の自由に関連する国家作用を、理論的に3つに分けたのだ》と、同理論の作用法的性質を強調する方向である。 我が国の有力な論者は、作用法(*注2)的な発想である後者を選択しているようだ。 が、もともとの権力分立論が、君主による議会の召集、二院制等、組織法的な体系から出来上がっていたことを考えたとき、有力説の採る筋道は私にはどうも納得がいかない(権力分立の歴史的展開は、まさに、組織法的側面の争いだった。この点については、次章の議院内閣制を検討すれば明らかになるだろう)。 (*注2)「作用法/組織法」について法学において「作用法/組織法」は、「実体法/手続法」と同じくらい基本的で重要な区別である。作用法とは、国民の権利義務を規律する(権利義務に作用する)法令をいい、組織法とは統治機関の構造を定める法令をいう。 ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十章 権限・機関の区別(「権力分立」)論 ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/itmsanime/pages/359.html
【作品名】内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎 OP 【曲名】ゼロの気持ち 【歌手】doa 【ジャンル】オルタナティブ 【価格】¥150 □■iTMS■□ 【作品名】内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎 ED 【曲名】もしも生まれ変わったら もう一度 愛してくれますか? 【歌手】北原愛子 【ジャンル】ポップ 【価格】¥150 □■iTMS■□
https://w.atwiki.jp/craco-wiki/pages/28.html
防ぐ取り組み ( ・∀・)p さて、たくさん書くぞ! (`∀´)差し戻してやる! (´д`;)何するんや! (;´д`)編集台無し!あんまりだ! なんだ?オレ様に逆らうのか?(#`д′)チッ (`∀´)これを喰らえ! €≡ ≡ ≡ ≡ □ (´д`;)うわあぁぁぁぁーっ‼︎ ビビビッンあ (`∀´)あひゃひゃはひゃ む゛ー!む゛ー!(□;)[投稿ブロックされました] (・∀・)これこれ、猿が。 あん?なんだてめ・・・ ≡(#`д´) クルッ やかましぃっ! / ⌒∧_∧ ヘl| / (# ´∀`) \.\./ イ ⌒ ヽ \l| | 丶 | |l ガッ !! _/ ヽ_| ヽ ノ. | | / ヽ_「\ | | | |.- ~~~~~ | | ヽ、 \.\ヘ | lヽ |/ | | ヽ| \ \ \ | | \ / |l ゝ ヽ.\ .ヽ | | l | _ノ _」| ゝ、` ‐ ∪ー| | └-‐ `[___」‐ l l / ヽ\人 人 Λ Λ ∵ 人,,/ )\_ \_人 つ*◎д◎) つ人,/,,/ びぎゃあぁぁぁぁーっ⁉︎; ( ・∀・)超丈夫?もう平気だよ □ ≡ (^∀^ )ぷはっ! ありがとう!キチガイバスター! ベリッ (・∀・)こうして平和になったのだ! 噺 家
https://w.atwiki.jp/asoudetekoiq/pages/791.html
権力監視法科大学院生の会 お三方の不起訴、起訴猶予処分になることは火を見るより明らかです。検察がこのような違法・不当の限りを尽くした捜査実態で「こうぼう罪」の公訴提起など出来ようはずもないからです。 権力横暴の警察に加え、安易に勾留請求を認め、準抗告却下を連発する司法を巻き込んだ権力暴走は絶対に看過できません! 国賠行政訴訟と特別公務員暴行陵虐罪で刑事告訴して、公安捜査官ドーカネ某を司直の場に引きずり出し、今回の権力横暴を徹底的に糾弾しましょう。 裁判闘争になった暁には是非応援させてください! 私以外の法科大学院生の仲間たちも、この理不尽な公安警官の横暴に強い怒りを持っています。徐々にその環も広がりつつあります。