約 28,548 件
https://w.atwiki.jp/ggempirewiki/pages/157.html
Lv1 アーカイブ経験レベル10 5P Lv2 Lv3 Lv4 Lv5 レベル50に到達する。 25P Lv6 レベル60に到達する。 30P Lv7 レベル70に到達する。 35P
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/248.html
阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅰ部 統治と憲法 第8章 国民主権あるいは憲法制定権力 本文 p.49以下 <目次> ■1.国民主権の意義と展開[36] (1) 問題の所在 [37] (2) 主権の意義 [37続き] (3) 主権の歴史的展開 [38] (4) 国民主権の意義 [39] (5) 憲法制定権力理論[A] [B] [40] [C] [D] [41] [E] ■2.日本国憲法における国民主権[42] (1) 古典的学説[A] 最高機関意思説 [B] 制憲権説 [43] (2) 制憲権と日本国憲法の構造 [43a] (3) 制憲権論から解放された理論を ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.国民主権の意義と展開 [36] (1) 問題の所在 国民主権は、我々には馴染み深い言葉である。 我々は、幼い頃から「国民が主権者だ」と教えられ、その論拠として日本国憲法の前文を見るよういわれた。 それを読んで納得してきた。 前文ばかりか、上諭、1条には「日本国民の総意に基」づいて、・・・・・・との表現があることも我々は知っている。 「総意」という表現は、あたかも国民が実在し意思をもっているかのような印象を我々に与えてきた。そういえば、重大な政治問題の解決に迫られたとき、ある政治家(政党)は、“主権者である国民が○○を望んでいる”といい、別の政治家(政党)は、“主権者である国民が○○を許すはずはない”という。国民が一体として存在して、何かを望んだり望まなかったりしているかのようだ。ところが、主権者の一人であるはずの我々は、政治家たちとは全く別の◇◇という選択肢を希望していることが多い。そのとき、我々は、“国民であるようで国民ではなく、主権者であるといわれながら主権者ではない”と、もどかしく感じるだろう。 実は、国民なるものは、実在しないのだ。実在するのは、個々人だけである(人民が実在する、などと信じているのは、ナイーヴなルソー主義者だけだ)。我々が薄々感じてきたもどかしさの原因はここにある。実在しないものを実在するかのように、意思できないものが意思できているかのようにいうトリックに、もどかしさの原因があるのだ(⇒[4])。 「国民」の政治的選好は、個々人が投票する機会を与えられたとき、多数の票の中に初めて浮かび上がる。 それとて、「国民」の選択ではなく、多数者の選択に過ぎない。 「国民」が実在しない擬制であるのと同じように、「主権」も実体のない、空虚な概念ではないか? 憲法学界の泰斗が「国民主権は建前だ」と率直に述べたのは、そのためではなかったか? “いやいや”と貴方は考え、「我々は、選挙権者として、度々投票しているではないか、これが国民主権というものだろう」と解答するかも知れない。 “ところが・・・・・・”と私は、こう反論するだろう、 《私たちが、投票し、政治的な選択を時に為すことは、「国民主権」ではなく、民主制というべきだ》、 《我々は民主制の中で統治されているからこそ、間歇的に投票するのだ》、 《投票していることについて、わざわざ実体のない「国民主権」などと大迎なことをいわないほうがいい》 と(⇒[27])。 それでも、「社会契約」のことを思い出した貴方は、“社会契約によって私たちが国家を樹立したことが「国民主権」だ”と、別の解答を見つけるかもしれない(⇒[7])。 国民主権とは、一体、何を意味するのか? 国民とは何をいうのか? 主権とは何をいうのか? まずは、主権の意義から考えてみよう。 [37] (2) 主権の意義 我々にとって、最も馴染み深い主権といえば、国際社会における国家の対外的独立性だろう。独立性が国の空間に表されたとき、領土・領海といわれ、この空間が他国によって侵害されたとき、《主権の侵害だ》といわれる。これを「国家のもつ主権」と呼んで、「国家における主権」とは区別すると分かりやすいだろう。 次に、国家法人説にたったとき、国家という法人のもつ権利が“主権だ”といわれることもある。ただし、厳密にいえば、この権利は、主権と称すべきではなく、「国家の統治権」と呼ぶほうが適切である。 「国民主権」にいう主権は、上のいずれでもない。それは、国家(法人と捉えるかどうかに関わりなく)が有する何らかの権限を指すのではなく、国家における統治のあり方を最終的に決定する法力(権限)を指すのである。 これまで、憲法学を含む法学は、権限を分析するにあたって、ある法主体Aが他者や物を支配したり、影響を与えたりする「意思」をキー・タームとしてきた(その割には私は、「意思」の意味合いを正確に説明する論者に出くわしたことが未だかつてない)。 国民主権というタームは、すぐ後にふれるように、君主という自然人の恣意的意思の発動に取って代わるものだった。 君主というひとつの法人格を国民というひとつの法人格に代えるのだ。 そのために、“国民主権は、君主の意思に代わって、国民が意思主体となって、統治の最終的な決定を為すことだ”といわれるのである。 抽象的な観念にすぎないはずの「国民」を語るにあたって、意思なるタームが使用されてきたからこそ、「国民」は実体化され、あたかも実在して意欲するかのように扱われたのだ。 この実体化の誤りに陥らないためには、我々は、意思というタームや、“国民が主権を持つ”という言い方は、あくまで擬制にすぎないということを重々承知しなければならない。 できれば、国民に関しては、「統一的意思」「自己決定」などといった言葉を避けるべきだろう(本書は、できるだけそのように努めている)。 [37続き] (3) 主権の歴史的展開 なぜに、「主権」は、上のように多義的であるのか? それは、「主権」が次のような歴史的な背景を背負ってきたからだ。 主権と邦訳される sovereign の概念は歴史上さまざまな変転をみせてきた。 まず、中世ヨーロッパにおいて sovereign とは、重層的統治の中で、「優越的な支配権」または「第一の高位を有する者の地位」を表した。この用法は、いまでもイギリスに残っている。「議会主権」という言い方がそれである。そればかりでなく、国家法人説において、国家の統治機関の中で最高意思の決定機関をもって「主権者」というときも、同様の用法である。例えば、“選挙人団である国民が主権者だ”という日常的にお馴染みの用法がそれである(この用法は、我々の「国民主権」の捉え方を混乱させる元凶だ、と私は考えている)。 その後、国王が、一方で、国内の封建諸侯のもつ支配権を統合し、他方で、法王からの独立を勝ち取るなかで絶対国家を成立させると、sovereign とは、国王の至上権・絶対権を表す言葉となった。その用法を初めて示したのが、J. ボダンの『国家論』6編(1576年)である。ボダンは「国外のあらゆるものは王を拘束しえず、・・・・・・国内のすべての権力は王からの派生物にすぎない」と説き、対外的な独立性、対内的最高性のみならず、それらの始源的性格にも言及した(「始源的」とは、伝来的ではない、それ自らが因子となっていることをいう)。これが君主の主権は法の外に出る絶対権だとする理論である。 この君主主権を市民革命が打倒した。その際、君主という一自然人の有する命令権としての主権に対抗するために、“市民の総体が主権者だ”という、新しい主権概念を君主勢力に叩きつけた。この主張は、これまでの君主という一人格の意思を、国民という一人格の意思にすげ替える単純なアナロジー(※注釈:analogy 類推(作用))だった。それでも、君主主権のもとで他律的に生活することに倦んだ当時の人々にはその新理論は新鮮で、大きなインパクトをもった。そして、旧体制勢力を打倒した。ここにおいて主権は、国家の対外的独立性・対内的最高性を表すものから、国家における統治権力が国民の意思に発するという概念へと変容した。これが「国民『主権』」といわれる際の用法となる。 国民主権原理を実現した国家が、先にふれた「国民国家」であり、その後の変容も既に述べたとおりである(⇒[7]~[8])。 この国民国家は、国民の場合と同じように擬人的に捉えられ実体化されて、国家自身が対外的な意思主体だ、と理論構成された。 だからこそ、“団体としての国家は、始源的な意思力を持ち、対外的には最高・独立の意思力=主権を有している”と、今でもいわれるのである。 [38] (4) 国民主権の意義 “国民主権の意義は、フランス憲法史に見出し得る”といわれることが多い。 フランスにおける国民主権論争は、「国民」が国家統治のあり方を最終的に決定するだけでなく、恒常的に決定し続けるには何を必要とするのか、を巡って展開された。 論争があるとはいえ、その共通の出発点は、社会契約説だった。 急進的な思想家・政治家たちは、“社会契約締結の状態を、いつでも回復できる状態に置いておくこと”を望んだ。彼らは、国家統治のあり方が代表者によって決定されたり、それが相当期間維持されたりすることを忌避した。そのために、彼らは、身分制議会、自由委任・純粋代表制(間接民主制)、制限選挙制等に反対した。そのための理論上の武器が「人民主権論」だった。それは、“社会契約締結に参加した「市民=シトワイアン(正確には「公民」)」が共通目的へと結集したとき「人民=プープル」として一体的意思主体となる”という理論である。“実在する人民が自ら政治参加し、自らが決定者となる、これを統治の原則とするときが「人民主権」だ”というわけだ(人民 peuple は、貴族に対する一般庶民または恵まれない人々という語感をもっている)。 これに対して、穏健派の思想家・政治家たちは、社会契約締結前の状態と、憲法制定後の状態とを異質にすることを望んだ。彼らは、社会契約の理論が革命の理論と容易に結びつくことを知っていた。そのために彼らが用意したのは、“全員が同意したかも知れない社会契約と、憲法協約とは別物だ”という理論だった。憲法協約段階では、その制定のために特別に選出された代表からなる「憲法制定会議」の審議・決定に委ねてよく、制定後の国制の運営も純粋代表の手に委ねてよい、というわけだ。さらに、「国民主権」原理を革命の理論から引き離すために、国民なる概念が実体化されないよう意識された。そこで、先の「人民=プープル」とは区別して「国民=ナシオン」という言葉が用いられた。「国民主権」の論者は、この原理と、普通選挙制、代表制、議会の構成(一院制か二院制か)等を直接関連づけなかった。 [39] (5) 憲法制定権力理論 国民主権をめぐる、「人民(プープル)主権/国民(ナシオン)主権」の違いは、制憲権の捉え方に最も特徴的に現れた。 [A] 制憲権という聞き慣れないタームに接した我々は、「制定」という言葉が用いられているため、それは「起草された憲法典について審議し決定することだろう」と理解しがちである。 ところが、憲法制定権力にいう「憲法」とは、憲法典のことではなく、先にふれた「国制」を指す(ということは、「制定」権力という訳語は誤導的なのだ。ある有名な憲法学者は、敢えて「憲法設定権力」なる言葉に拠ったところ、読者からミス・プリントだ、と指摘されたという)。 制憲権とは、国制を決定する権力をいうのだ。 国家の根本構造を意味する国制は、社会契約=全員の合意意思によって決定される。 これが、当時、強い影響力を持った理論であり、特に、市民革命にとって説得的な理論だった。 実際、アメリカ革命とフランス革命は、制憲権発動の産物だと理解された。 それは、ナマの実力の発動でもあったと同時に、規範的意味での国制の決定でもあった。 [B] 国民の意思に淵源をもつとする制憲権論を、社会契約と誤って結びつけながら、最初に実体憲法で高々と謳ったのは、マサチューセッツの憲法だった。 その前文に曰く、「政治的統一は、個人の自由意思による結合によって成立し、それは社会契約の結果であり、この契約により一定の法律に従い一般的利益に合致して統治が為される目的のもとに、人民の全体が各市民と、各市民が市民全体と契約を結ぶのである」。 ところが、その起草者J. アダムスの考えたほどには制憲権論は単純ではなかった。 [40] [C] フランスにあっては、制憲権は「人および市民の権利宣言」(フランス人権宣言)にその大枠が実定化され、“権利を保障し、権力分立を定める”立憲主義憲法を制定するよう求めた(⇒[20])。 その作業のために憲法制定会議が召集された。 身分制議会が憲法を制定できない点については、当時の指導者たちの間に合意があったからだ。 同会議は、制憲権の法的性質を論争した。 ある論者は、“制憲権とは実体的にも手続的にも法的制約に服さず、至上最高のものであり、いつでも発動して実定憲法をいかようにも変えることができる”と主張した。これは、先にふれたように、社会契約の締結状態を恒常的に残しておきたい、という急進派の理論だった。 穏健派はこの見解に反対だった。実定法を超越すると同時に、憲法をいつでも改変できるものとする実定憲法破壊的な法的性質を制憲権に与えることは、革命の火種を常に抱えるがごとき危険な理論だった。そこで、穏健派は、こう主張した。“制憲権は、いったん発動されて実定憲法を制定した後は、実定憲法を支える正当性の契機となる”“改正権は「憲法によって作り出された権限」であって、「憲法を創り出す権力」とは異なる”実際、フランス1791年憲法は、制憲権を実定憲法の正当性原理として凍結させたばかりでなく、改正権から峻別し、さらには、改正権の発動についても厳格な手続を踏むこと、および、改正内容にも限界のあることを明示したのだった。 [D] 同時代のアメリカにおいても、フランス類似の展開を示した。 革命当時は、人民主権(popular sovereignty)による憲法制定権力(constitution-making-power)の理論は、強い影響力をもった。 が、その危険な性質は次第に気づかれていった。 先にふれたように、歴史上初めて制憲権の理論に依拠したアメリカではあったが、そこでの人民主権の理論は、《すべての権力が人民に由来する》というところで立ち止まった。 経験主義的な発想を重視した憲法制定会議は、人民自らが主権を行使するわけではないこと、人民は多元的な集団から成っていることを知っていた。 合衆国憲法は、直接民主制とはならないよう、様々な工夫を施した。 例えば、大統領や上院議員の間接選挙制、二院制、そして、司法審査制もそのためだった。 さらに、公職者の一年ごとの改選、憲法改正の簡単な手続、仰々しい権利章典は意図的に避けられた。 建国の父たちが、合衆国憲法の統治体制を、わざわざ「共和制」(Republican Government)と名づけて、民主政体から区別したのはそのためだった。 [41] [E] 制憲権の理論は、人またはその集合体の意思が権力(power)または権威(authority)を創り出す、という近代合理主義哲学の法学版だった。 それは、社会契約論の影響を受けて、“意思の発動の源が誰であるかに応じて、作り出される権力または権威に序列ができる”とする理論でもあった。 「人民の意思>憲法制定会議の意思>議会の意思」という序列である。 このことを理論として明確にしたのが、ドイツの憲法学者、C. シュミットだった。 彼は、国家の構成員であるとの政治的な自覚をもった国民が、その自覚のもとで、国家全体のあり方を決断する政治的意思を「制憲権」と呼んだ。 彼にとってその権力(※注釈:憲法制定権力)は、ナマの実力で構わなかった。 国民が意欲すれば、そこに統一的秩序と規範とが生ずる、とシュミットは謎に満ちたことを述べた。 これが、「決断主義」と呼ばれるシュミット特有の立場である。 シュミットは、国民のかような意思の所産を Verfassung (憲法、彼の場合、「憲政」と訳すべきか)と呼んだ。 この基盤の上に、個別条規の統一体たる「憲法律」(Verfassungsgesetz)が制定される。 この憲法律は、Verfassung と呼ぶに値しない条規を含むが、それらをも含めて“憲法律だ”といわしむるのは、Verfassung の力だ、というのだ。 憲法律は、特定の国家機関に、立法権、司法権・・・・・・といったように、ある権限を付与する。 憲法改正権も憲法律が付与した権限である。 上のように、シュミットは、〔政治的意思としての制憲権→憲法→憲法律→憲法律によって付与された権能(そのひとつが改正権)〕という公式を作りあげた。 これは政治的意思が階梯的な規範を作り上げていくことをいいたかったのだ(この公式は、憲法改正の限界問題に対してひとつの解答を与えるだろう。この点については、後の[46]でふれる)。 この理論は、意思の発動手続だけに注目して形式的効力の軽重を語ってきたドイツ公法学(いわゆる法実証主義)のなかでは、異彩を放った。 ■2.日本国憲法における国民主権 [42] (1) 古典的学説 上にみたように、国民主権を正確に理解することは、我々の予想を裏切るほど困難である。 学説も、次のように多岐に分かれ、主権論争を繰り返してきたのも、むべなるかな、といわざるを得ない。 [A] 最高機関意思説 日本国憲法制定当時は、なお国家法人説が支配的だった。 この見解によれば、国家の諸機関のうち、優越的な政治的決定権を有している機関が「主権者だ」と捉えられた。 この把握の仕方が、先の[37]でふれた「最高機関意思説」だ。 この立場からすれば、日本国憲法のもとでの主権者は、“機関としての国民(選挙人団)だ”となる。 この見方は、我々の常識にもなっていて、疑問を寄せ付けないところがある。 ところが、この説には、次のような難点が残されている。 ① 今日の多くの憲法学者は、国家法人説に批判的なはずである。というのも、国家法人説は、“国民でもなく、君主でもなく、国家自体が主権を有する団体だ”といいながら、当時忍び寄ってきた国民主権論を否定するイデオロギーだったからだ(⇒[4]をみよ)。それは、国家主権の万能性を説いてきた。万能の国家の中で国民が有するといわれる「主権」は、厳密にいえば、統治権の一部ではないか? ② 選挙人団の範囲と資格は、公職選挙法という法律によって定められる。法律によって決定された人的範囲・資格をもって、“憲法上の主権者だ”ということは、法律から憲法(国制)を理解するという本末転倒の論理ではないか? ③ “主権者は選挙人団だ”と考えるとすれば、国民のなかに主権者と主権者ならざる者とが存在することになるが、それでよいか? ④ 日本国憲法41条が「国会は、国権の最高機関」としている文理と抵触しないか? 主権とは、国家統治の源泉を問う概念だった。 にもかかわらず、“国民が主権者だ”との言い方は、憲法典によって権限配分が示された後の統治過程、すなわち、選挙において表示された意思に解答を求めている。 これは、統治の根源を問う主権と、統治の民主化を表す選挙人団とを混同した解答である。 この解答が正答ではないことは、次のような国家を例に考えればすぐに分かるだろう。 【統治権の総攬者は君主であると明文規定をもつ君主主権国家において、選挙人団が普通平等選挙制のもとで議会の構成員を定期的に選出している】。 国家法人説のもとで“国民が主権者だ”といわれるとき、国民がどのような権力を有していればその名に値するのだろうか? 何年かに一度行われる選挙で我々が投票できることで「主権者」は満足すべきなのだろうか? 私には到底満足できない。 [B] 制憲権説 先の[39]~[40]でフランスやアメリカでの革命時の理論を紹介した。 それによれば、“国民主権にいう主権とは、国家統治のあり方を最終的に決定する意思力”を指した。 それが既に検討した制憲権のことだ。 我が国の通説は、国民主権における主権とは制憲権を指す、と解している。 もっとも、制憲権の法的性質の理解の仕方となると、学説は様々な対立を示してくる。 ある立場は、“制憲権とは法外的な政治的決断・意思の発動であって、規範とは無関係だ”という前提に出ながらも、その理論の危険性を看て取って、“日本国憲法の場合、主権者である国民が憲法典をつくりあげるさい、「よき社会」の形成発展のために自然権保障型を中心部分とする立憲主義的憲法典を選択したのだ”という。国家の自己拘束ならぬ、「国民の自己拘束説」である。この説に対しては、制憲権の理論は近代立憲主義思想(社会契約論=規範の理論)とともに誕生したという歴史的な展開を軽視しているのではないか、との疑問が生じてくる。さらにまた、日本国憲法制定にあたって、主権者が自己拘束したことが論証されているわけでもない。日本国憲法の諸規定から後知恵によって“主権者が自己拘束した証左だ”といっているようにも見える。制憲権論争は、主権者意思の発動前に、その権力を拘束する法力が内臓されているかどうかを問うはずのものである。自己拘束説の不十分さは火を見るより明らかだ。 自己拘束説と対照的なのが、“制憲権は根本規範による授権によって根拠づけられた法的な力だ”とする見解である。これを「権限説」と称することにしよう。なぜ、「権限」かといえば、“始源的な規範である根本規範によって授権され枠づけられた法力だ”とみられているからだ。もっとも、根本規範が「根本」である理由はどこにあるのか、何をもって根本規範とするのか、日本国憲法における根本規範は何であるのか、権限説には謎が多すぎる。 根本規範説に近い立場が、“制憲権は、個人の尊厳または人格不可侵の原則によって規範的拘束を受けている”とする見解である。この説が「個人の尊厳」「人格不可侵」というとき、どうも、人間のあるべき本性(nature)が念頭に置かれているようだ。日本版自然法・自然権論だろう、と私はこの説を診断している。この説は、自然権思想を受容している論者以外には説得力をもつことはないだろう。 [43] (2) 制憲権と日本国憲法の構造 実定憲法である日本国憲法の解釈問題を離れて、制憲権の法的性質ばかりを論争することは、有意義ではない。 そのことに気づいた学説は、制憲権の法的性質と日本国憲法の構造との関連性を問い始めた。 (※注釈:<1>) ある学説は、実定憲法から制憲権の法的性質に接近して、こういった。“制憲権は、本質的には権力(意思力)であり、超実定的な性質をもつが、実定憲法制定と同時に実定憲法の中に凍結され、正当性の契機となったのだ”これを「正当性契機説」と呼ぶことにしよう。この説は、 ① 制憲権が革命の理論であること、 ② 国民主権がイデオロギーに過ぎないこと、 を知っている。実体として存在しない「国民」が主権者であるはずはなく、統治する者は常に少数で、統治されるのが「国民である我々だ」とこの説は見抜いている。この論者の目は覚めている。曇りがない。ところが、覚めた立場は、冷めた目で批判されるのが常である。批判者は、“市民が血を流して勝ち取った国民主権という概念が空虚だとか、イデオロギーに過ぎないだとか、あろうはずがない”と、正当性契機説の空虚さを突くのである。 (※注釈:<2>) 国民主権を無内容としないためには、そしてまた、日本国憲法の解釈と直接の関連性なし、などとクールに割り切らないためには、どうすべきか?正当性の契機にとどめることなく、権力的契機をも制憲権にもたせて、“その権力(※注釈:憲法制定権力)は、実定憲法制定について、一定のヴェクトルを示している”と語ることだ。ある論者は、そう解するにあたって、 ① 権力的契機を示す場合の制憲権の主体が選挙人団、 ② 正当性の契機を示す場合の制憲権の主体は全国民だ、 と、その担い手に変化をもたせる。これは、一見巧みな解釈技法にみえる見解ではあるが、国家創設後に国法上に登場する概念である選挙人団を唐突に登場させるところで、破綻してしまっている。 (※注釈:<3>) 別の論者は、主体云々よりも、制憲権が実定憲法(日本国憲法)の構成原理を指し示している点に留意している。この論者は、 (ア) 民意をできる限り反映する「民主的」統治メカニズムを備えること、すなわち、選挙人となりうる人的範囲が最大であること、 (イ) 選挙人の意思が反映されるよう統治制度が整備されること、 (ウ) 選挙人の意思が自由に反映されるために、統治者批判が自由であること、 といった要素を挙げている。ところが、上の(ア)~(イ)は、「国民主権」によって必然的に要請されるものではない。先の[27]でふれたように、これらは、《統治される国民が統治者に対して有効なコントロールを及ぼすための要素》である。“統治のあり方を最終的に決定する力を国民が持っている”という命題と、“日本国憲法には、国民が統治者を定期的に交替させる装置が組み込まれている”という命題とは、必然的関連性はないと私は考えている。実定憲法に用意されている民主的なチャネルは、社会契約でもなければ、その擬似物でもない。 (※注釈:<4>) 先の[38]でふれたように、社会契約の思想を実定憲法制定後も生かし続けたい、と考える人々もいるだろう。それに賛同する論者が直接民主制原則に立つ国民主権を唱えるのであれば、その論旨は一貫したものとなる。「自同性」を満たす統治構造でなければならない、というわけだ。ところが、実定憲法制定後も、“制憲権は権力的契機を持ち続けている”といいながら、民選議会、参政権、公的言論の自由等の保障で妥協する論者も多い。民選議会、普通平等選挙制(選挙人資格の拡大)等の要素を満たす統治構造は「半代表制」と呼ばれることがある。半代表制については、[64]において代表制を論ずる際にふれるが、大いに曖昧な概念にとどまっている。 [43a] (3) 制憲権論から解放された理論を 憲法典上要請される構成原理または統治構造は、あくまで、制定後の憲法典から理解すべきものであり、我々はそこでとどまって憲法解釈に従事すればいいだろう。 制憲権理論は、自然状態から抜け出る際の国制決定の力を「主権」と呼ぶ、実に特殊な場面へと主権概念を限定する思考である。 これに対して、私たちが「国民主権」と聞いてイメージするのは、実定憲法のもとで展開されている、日常的な統治において、誰が(どの機関が)最終的決定権をもっているか、という視点のはずである。 このイメージは、先の[42]でふれた「最高機関意思説」にいいたいところである。 国家法人説の臭いのする「最高機関意思説」に共鳴できないとすれば、「国民主権といわれてきたものは、デモクラティックな統治過程において、国民が何を為し得るか」という見方のことだ、と割り切るとよい。 こう割り切ると、《国民主権とは国政選挙において示された国民(有権者)の多数意思に従って統治される政治体制だ》となろう(⇒[27])。 日常的な統治、または、実定憲法の構成原理を検討するにあたっては、制憲権論は不要である。 それでも国民主権はあくまで建前であり、理念にとどまる。 “国民主権原理を採用する実定憲法であれば、その構成原理としてこれこれの要素が選択されるはずだ”と予見することはできない。 “国民の意思が規範を生ぜしめる”という国民主権の理論には、私は合点がいかない。 私には、国民を擬人化したうえで、国民の意思が規範を生むと考えることは、二重の誤りをおかす理論にみえる(⇒[37])。 “法人格の意思が、ネガのかたちで存在している規範をポジにするのだ”という法実証主義を信奉する論者であって初めて、国民主権の理論は受容されるはずだ。 それにしても、法学の基本的タームである「意思」を正面から論じないまま、“意思が規範を生む”などという命題を繰り返してきた法学を、哲学者はどう評価するだろうか? ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第七章 国民主権と憲法制定権力 LEC・芦部信喜・佐藤幸治・阪本昌成・中川八洋の「国民主権論」比較 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 関連用語集 【用語集】主権論・国民主権等 「法の支配」と国民主権 「法の支配(rule of law)」とは何か ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/381.html
阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅰ部 統治と憲法 第8章 国民主権あるいは憲法制定権力 本文 p.49以下 <目次> ■1.国民主権の意義と展開[36] (1) 問題の所在 [37] (2) 主権の意義 [37続き] (3) 主権の歴史的展開 [38] (4) 国民主権の意義 [39] (5) 憲法制定権力理論[A] [B] [40] [C] [D] [41] [E] ■2.日本国憲法における国民主権[42] (1) 古典的学説[A] 最高機関意思説 [B] 制憲権説 [43] (2) 制憲権と日本国憲法の構造 [43a] (3) 制憲権論から解放された理論を ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.国民主権の意義と展開 [36] (1) 問題の所在 国民主権は、我々には馴染み深い言葉である。 我々は、幼い頃から「国民が主権者だ」と教えられ、その論拠として日本国憲法の前文を見るよういわれた。 それを読んで納得してきた。 前文ばかりか、上諭、1条には「日本国民の総意に基」づいて、・・・・・・との表現があることも我々は知っている。 「総意」という表現は、あたかも国民が実在し意思をもっているかのような印象を我々に与えてきた。そういえば、重大な政治問題の解決に迫られたとき、ある政治家(政党)は、“主権者である国民が○○を望んでいる”といい、別の政治家(政党)は、“主権者である国民が○○を許すはずはない”という。国民が一体として存在して、何かを望んだり望まなかったりしているかのようだ。ところが、主権者の一人であるはずの我々は、政治家たちとは全く別の◇◇という選択肢を希望していることが多い。そのとき、我々は、“国民であるようで国民ではなく、主権者であるといわれながら主権者ではない”と、もどかしく感じるだろう。 実は、国民なるものは、実在しないのだ。実在するのは、個々人だけである(人民が実在する、などと信じているのは、ナイーヴなルソー主義者だけだ)。我々が薄々感じてきたもどかしさの原因はここにある。実在しないものを実在するかのように、意思できないものが意思できているかのようにいうトリックに、もどかしさの原因があるのだ(⇒[4])。 「国民」の政治的選好は、個々人が投票する機会を与えられたとき、多数の票の中に初めて浮かび上がる。 それとて、「国民」の選択ではなく、多数者の選択に過ぎない。 「国民」が実在しない擬制であるのと同じように、「主権」も実体のない、空虚な概念ではないか? 憲法学界の泰斗が「国民主権は建前だ」と率直に述べたのは、そのためではなかったか? “いやいや”と貴方は考え、「我々は、選挙権者として、度々投票しているではないか、これが国民主権というものだろう」と解答するかも知れない。 “ところが・・・・・・”と私は、こう反論するだろう、 《私たちが、投票し、政治的な選択を時に為すことは、「国民主権」ではなく、民主制というべきだ》、 《我々は民主制の中で統治されているからこそ、間歇的に投票するのだ》、 《投票していることについて、わざわざ実体のない「国民主権」などと大迎なことをいわないほうがいい》 と(⇒[27])。 それでも、「社会契約」のことを思い出した貴方は、“社会契約によって私たちが国家を樹立したことが「国民主権」だ”と、別の解答を見つけるかもしれない(⇒[7])。 国民主権とは、一体、何を意味するのか? 国民とは何をいうのか? 主権とは何をいうのか? まずは、主権の意義から考えてみよう。 [37] (2) 主権の意義 我々にとって、最も馴染み深い主権といえば、国際社会における国家の対外的独立性だろう。独立性が国の空間に表されたとき、領土・領海といわれ、この空間が他国によって侵害されたとき、《主権の侵害だ》といわれる。これを「国家のもつ主権」と呼んで、「国家における主権」とは区別すると分かりやすいだろう。 次に、国家法人説にたったとき、国家という法人のもつ権利が“主権だ”といわれることもある。ただし、厳密にいえば、この権利は、主権と称すべきではなく、「国家の統治権」と呼ぶほうが適切である。 「国民主権」にいう主権は、上のいずれでもない。それは、国家(法人と捉えるかどうかに関わりなく)が有する何らかの権限を指すのではなく、国家における統治のあり方を最終的に決定する法力(権限)を指すのである。 これまで、憲法学を含む法学は、権限を分析するにあたって、ある法主体Aが他者や物を支配したり、影響を与えたりする「意思」をキー・タームとしてきた(その割には私は、「意思」の意味合いを正確に説明する論者に出くわしたことが未だかつてない)。 国民主権というタームは、すぐ後にふれるように、君主という自然人の恣意的意思の発動に取って代わるものだった。 君主というひとつの法人格を国民というひとつの法人格に代えるのだ。 そのために、“国民主権は、君主の意思に代わって、国民が意思主体となって、統治の最終的な決定を為すことだ”といわれるのである。 抽象的な観念にすぎないはずの「国民」を語るにあたって、意思なるタームが使用されてきたからこそ、「国民」は実体化され、あたかも実在して意欲するかのように扱われたのだ。 この実体化の誤りに陥らないためには、我々は、意思というタームや、“国民が主権を持つ”という言い方は、あくまで擬制にすぎないということを重々承知しなければならない。 できれば、国民に関しては、「統一的意思」「自己決定」などといった言葉を避けるべきだろう(本書は、できるだけそのように努めている)。 [37続き] (3) 主権の歴史的展開 なぜに、「主権」は、上のように多義的であるのか? それは、「主権」が次のような歴史的な背景を背負ってきたからだ。 主権と邦訳される sovereign の概念は歴史上さまざまな変転をみせてきた。 まず、中世ヨーロッパにおいて sovereign とは、重層的統治の中で、「優越的な支配権」または「第一の高位を有する者の地位」を表した。この用法は、いまでもイギリスに残っている。「議会主権」という言い方がそれである。そればかりでなく、国家法人説において、国家の統治機関の中で最高意思の決定機関をもって「主権者」というときも、同様の用法である。例えば、“選挙人団である国民が主権者だ”という日常的にお馴染みの用法がそれである(この用法は、我々の「国民主権」の捉え方を混乱させる元凶だ、と私は考えている)。 その後、国王が、一方で、国内の封建諸侯のもつ支配権を統合し、他方で、法王からの独立を勝ち取るなかで絶対国家を成立させると、sovereign とは、国王の至上権・絶対権を表す言葉となった。その用法を初めて示したのが、J. ボダンの『国家論』6編(1576年)である。ボダンは「国外のあらゆるものは王を拘束しえず、・・・・・・国内のすべての権力は王からの派生物にすぎない」と説き、対外的な独立性、対内的最高性のみならず、それらの始源的性格にも言及した(「始源的」とは、伝来的ではない、それ自らが因子となっていることをいう)。これが君主の主権は法の外に出る絶対権だとする理論である。 この君主主権を市民革命が打倒した。その際、君主という一自然人の有する命令権としての主権に対抗するために、“市民の総体が主権者だ”という、新しい主権概念を君主勢力に叩きつけた。この主張は、これまでの君主という一人格の意思を、国民という一人格の意思にすげ替える単純なアナロジー(※注釈:analogy 類推(作用))だった。それでも、君主主権のもとで他律的に生活することに倦んだ当時の人々にはその新理論は新鮮で、大きなインパクトをもった。そして、旧体制勢力を打倒した。ここにおいて主権は、国家の対外的独立性・対内的最高性を表すものから、国家における統治権力が国民の意思に発するという概念へと変容した。これが「国民『主権』」といわれる際の用法となる。 国民主権原理を実現した国家が、先にふれた「国民国家」であり、その後の変容も既に述べたとおりである(⇒[7]~[8])。 この国民国家は、国民の場合と同じように擬人的に捉えられ実体化されて、国家自身が対外的な意思主体だ、と理論構成された。 だからこそ、“団体としての国家は、始源的な意思力を持ち、対外的には最高・独立の意思力=主権を有している”と、今でもいわれるのである。 [38] (4) 国民主権の意義 “国民主権の意義は、フランス憲法史に見出し得る”といわれることが多い。 フランスにおける国民主権論争は、「国民」が国家統治のあり方を最終的に決定するだけでなく、恒常的に決定し続けるには何を必要とするのか、を巡って展開された。 論争があるとはいえ、その共通の出発点は、社会契約説だった。 急進的な思想家・政治家たちは、“社会契約締結の状態を、いつでも回復できる状態に置いておくこと”を望んだ。彼らは、国家統治のあり方が代表者によって決定されたり、それが相当期間維持されたりすることを忌避した。そのために、彼らは、身分制議会、自由委任・純粋代表制(間接民主制)、制限選挙制等に反対した。そのための理論上の武器が「人民主権論」だった。それは、“社会契約締結に参加した「市民=シトワイアン(正確には「公民」)」が共通目的へと結集したとき「人民=プープル」として一体的意思主体となる”という理論である。“実在する人民が自ら政治参加し、自らが決定者となる、これを統治の原則とするときが「人民主権」だ”というわけだ(人民 peuple は、貴族に対する一般庶民または恵まれない人々という語感をもっている)。 これに対して、穏健派の思想家・政治家たちは、社会契約締結前の状態と、憲法制定後の状態とを異質にすることを望んだ。彼らは、社会契約の理論が革命の理論と容易に結びつくことを知っていた。そのために彼らが用意したのは、“全員が同意したかも知れない社会契約と、憲法協約とは別物だ”という理論だった。憲法協約段階では、その制定のために特別に選出された代表からなる「憲法制定会議」の審議・決定に委ねてよく、制定後の国制の運営も純粋代表の手に委ねてよい、というわけだ。さらに、「国民主権」原理を革命の理論から引き離すために、国民なる概念が実体化されないよう意識された。そこで、先の「人民=プープル」とは区別して「国民=ナシオン」という言葉が用いられた。「国民主権」の論者は、この原理と、普通選挙制、代表制、議会の構成(一院制か二院制か)等を直接関連づけなかった。 [39] (5) 憲法制定権力理論 国民主権をめぐる、「人民(プープル)主権/国民(ナシオン)主権」の違いは、制憲権の捉え方に最も特徴的に現れた。 [A] 制憲権という聞き慣れないタームに接した我々は、「制定」という言葉が用いられているため、それは「起草された憲法典について審議し決定することだろう」と理解しがちである。 ところが、憲法制定権力にいう「憲法」とは、憲法典のことではなく、先にふれた「国制」を指す(ということは、「制定」権力という訳語は誤導的なのだ。ある有名な憲法学者は、敢えて「憲法設定権力」なる言葉に拠ったところ、読者からミス・プリントだ、と指摘されたという)。 制憲権とは、国制を決定する権力をいうのだ。 国家の根本構造を意味する国制は、社会契約=全員の合意意思によって決定される。 これが、当時、強い影響力を持った理論であり、特に、市民革命にとって説得的な理論だった。 実際、アメリカ革命とフランス革命は、制憲権発動の産物だと理解された。 それは、ナマの実力の発動でもあったと同時に、規範的意味での国制の決定でもあった。 [B] 国民の意思に淵源をもつとする制憲権論を、社会契約と誤って結びつけながら、最初に実体憲法で高々と謳ったのは、マサチューセッツの憲法だった。 その前文に曰く、「政治的統一は、個人の自由意思による結合によって成立し、それは社会契約の結果であり、この契約により一定の法律に従い一般的利益に合致して統治が為される目的のもとに、人民の全体が各市民と、各市民が市民全体と契約を結ぶのである」。 ところが、その起草者J. アダムスの考えたほどには制憲権論は単純ではなかった。 [40] [C] フランスにあっては、制憲権は「人および市民の権利宣言」(フランス人権宣言)にその大枠が実定化され、“権利を保障し、権力分立を定める”立憲主義憲法を制定するよう求めた(⇒[20])。 その作業のために憲法制定会議が召集された。 身分制議会が憲法を制定できない点については、当時の指導者たちの間に合意があったからだ。 同会議は、制憲権の法的性質を論争した。 ある論者は、“制憲権とは実体的にも手続的にも法的制約に服さず、至上最高のものであり、いつでも発動して実定憲法をいかようにも変えることができる”と主張した。これは、先にふれたように、社会契約の締結状態を恒常的に残しておきたい、という急進派の理論だった。 穏健派はこの見解に反対だった。実定法を超越すると同時に、憲法をいつでも改変できるものとする実定憲法破壊的な法的性質を制憲権に与えることは、革命の火種を常に抱えるがごとき危険な理論だった。そこで、穏健派は、こう主張した。“制憲権は、いったん発動されて実定憲法を制定した後は、実定憲法を支える正当性の契機となる”“改正権は「憲法によって作り出された権限」であって、「憲法を創り出す権力」とは異なる”実際、フランス1791年憲法は、制憲権を実定憲法の正当性原理として凍結させたばかりでなく、改正権から峻別し、さらには、改正権の発動についても厳格な手続を踏むこと、および、改正内容にも限界のあることを明示したのだった。 [D] 同時代のアメリカにおいても、フランス類似の展開を示した。 革命当時は、人民主権(popular sovereignty)による憲法制定権力(constitution-making-power)の理論は、強い影響力をもった。 が、その危険な性質は次第に気づかれていった。 先にふれたように、歴史上初めて制憲権の理論に依拠したアメリカではあったが、そこでの人民主権の理論は、《すべての権力が人民に由来する》というところで立ち止まった。 経験主義的な発想を重視した憲法制定会議は、人民自らが主権を行使するわけではないこと、人民は多元的な集団から成っていることを知っていた。 合衆国憲法は、直接民主制とはならないよう、様々な工夫を施した。 例えば、大統領や上院議員の間接選挙制、二院制、そして、司法審査制もそのためだった。 さらに、公職者の一年ごとの改選、憲法改正の簡単な手続、仰々しい権利章典は意図的に避けられた。 建国の父たちが、合衆国憲法の統治体制を、わざわざ「共和制」(Republican Government)と名づけて、民主政体から区別したのはそのためだった。 [41] [E] 制憲権の理論は、人またはその集合体の意思が権力(power)または権威(authority)を創り出す、という近代合理主義哲学の法学版だった。 それは、社会契約論の影響を受けて、“意思の発動の源が誰であるかに応じて、作り出される権力または権威に序列ができる”とする理論でもあった。 「人民の意思>憲法制定会議の意思>議会の意思」という序列である。 このことを理論として明確にしたのが、ドイツの憲法学者、C. シュミットだった。 彼は、国家の構成員であるとの政治的な自覚をもった国民が、その自覚のもとで、国家全体のあり方を決断する政治的意思を「制憲権」と呼んだ。 彼にとってその権力(※注釈:憲法制定権力)は、ナマの実力で構わなかった。 国民が意欲すれば、そこに統一的秩序と規範とが生ずる、とシュミットは謎に満ちたことを述べた。 これが、「決断主義」と呼ばれるシュミット特有の立場である。 シュミットは、国民のかような意思の所産を Verfassung (憲法、彼の場合、「憲政」と訳すべきか)と呼んだ。 この基盤の上に、個別条規の統一体たる「憲法律」(Verfassungsgesetz)が制定される。 この憲法律は、Verfassung と呼ぶに値しない条規を含むが、それらをも含めて“憲法律だ”といわしむるのは、Verfassung の力だ、というのだ。 憲法律は、特定の国家機関に、立法権、司法権・・・・・・といったように、ある権限を付与する。 憲法改正権も憲法律が付与した権限である。 上のように、シュミットは、〔政治的意思としての制憲権→憲法→憲法律→憲法律によって付与された権能(そのひとつが改正権)〕という公式を作りあげた。 これは政治的意思が階梯的な規範を作り上げていくことをいいたかったのだ(この公式は、憲法改正の限界問題に対してひとつの解答を与えるだろう。この点については、後の[46]でふれる)。 この理論は、意思の発動手続だけに注目して形式的効力の軽重を語ってきたドイツ公法学(いわゆる法実証主義)のなかでは、異彩を放った。 ■2.日本国憲法における国民主権 [42] (1) 古典的学説 上にみたように、国民主権を正確に理解することは、我々の予想を裏切るほど困難である。 学説も、次のように多岐に分かれ、主権論争を繰り返してきたのも、むべなるかな、といわざるを得ない。 [A] 最高機関意思説 日本国憲法制定当時は、なお国家法人説が支配的だった。 この見解によれば、国家の諸機関のうち、優越的な政治的決定権を有している機関が「主権者だ」と捉えられた。 この把握の仕方が、先の[37]でふれた「最高機関意思説」だ。 この立場からすれば、日本国憲法のもとでの主権者は、“機関としての国民(選挙人団)だ”となる。 この見方は、我々の常識にもなっていて、疑問を寄せ付けないところがある。 ところが、この説には、次のような難点が残されている。 ① 今日の多くの憲法学者は、国家法人説に批判的なはずである。というのも、国家法人説は、“国民でもなく、君主でもなく、国家自体が主権を有する団体だ”といいながら、当時忍び寄ってきた国民主権論を否定するイデオロギーだったからだ(⇒[4]をみよ)。それは、国家主権の万能性を説いてきた。万能の国家の中で国民が有するといわれる「主権」は、厳密にいえば、統治権の一部ではないか? ② 選挙人団の範囲と資格は、公職選挙法という法律によって定められる。法律によって決定された人的範囲・資格をもって、“憲法上の主権者だ”ということは、法律から憲法(国制)を理解するという本末転倒の論理ではないか? ③ “主権者は選挙人団だ”と考えるとすれば、国民のなかに主権者と主権者ならざる者とが存在することになるが、それでよいか? ④ 日本国憲法41条が「国会は、国権の最高機関」としている文理と抵触しないか? 主権とは、国家統治の源泉を問う概念だった。 にもかかわらず、“国民が主権者だ”との言い方は、憲法典によって権限配分が示された後の統治過程、すなわち、選挙において表示された意思に解答を求めている。 これは、統治の根源を問う主権と、統治の民主化を表す選挙人団とを混同した解答である。 この解答が正答ではないことは、次のような国家を例に考えればすぐに分かるだろう。 【統治権の総攬者は君主であると明文規定をもつ君主主権国家において、選挙人団が普通平等選挙制のもとで議会の構成員を定期的に選出している】。 国家法人説のもとで“国民が主権者だ”といわれるとき、国民がどのような権力を有していればその名に値するのだろうか? 何年かに一度行われる選挙で我々が投票できることで「主権者」は満足すべきなのだろうか? 私には到底満足できない。 [B] 制憲権説 先の[39]~[40]でフランスやアメリカでの革命時の理論を紹介した。 それによれば、“国民主権にいう主権とは、国家統治のあり方を最終的に決定する意思力”を指した。 それが既に検討した制憲権のことだ。 我が国の通説は、国民主権における主権とは制憲権を指す、と解している。 もっとも、制憲権の法的性質の理解の仕方となると、学説は様々な対立を示してくる。 ある立場は、“制憲権とは法外的な政治的決断・意思の発動であって、規範とは無関係だ”という前提に出ながらも、その理論の危険性を看て取って、“日本国憲法の場合、主権者である国民が憲法典をつくりあげるさい、「よき社会」の形成発展のために自然権保障型を中心部分とする立憲主義的憲法典を選択したのだ”という。国家の自己拘束ならぬ、「国民の自己拘束説」である。この説に対しては、制憲権の理論は近代立憲主義思想(社会契約論=規範の理論)とともに誕生したという歴史的な展開を軽視しているのではないか、との疑問が生じてくる。さらにまた、日本国憲法制定にあたって、主権者が自己拘束したことが論証されているわけでもない。日本国憲法の諸規定から後知恵によって“主権者が自己拘束した証左だ”といっているようにも見える。制憲権論争は、主権者意思の発動前に、その権力を拘束する法力が内臓されているかどうかを問うはずのものである。自己拘束説の不十分さは火を見るより明らかだ。 自己拘束説と対照的なのが、“制憲権は根本規範による授権によって根拠づけられた法的な力だ”とする見解である。これを「権限説」と称することにしよう。なぜ、「権限」かといえば、“始源的な規範である根本規範によって授権され枠づけられた法力だ”とみられているからだ。もっとも、根本規範が「根本」である理由はどこにあるのか、何をもって根本規範とするのか、日本国憲法における根本規範は何であるのか、権限説には謎が多すぎる。 根本規範説に近い立場が、“制憲権は、個人の尊厳または人格不可侵の原則によって規範的拘束を受けている”とする見解である。この説が「個人の尊厳」「人格不可侵」というとき、どうも、人間のあるべき本性(nature)が念頭に置かれているようだ。日本版自然法・自然権論だろう、と私はこの説を診断している。この説は、自然権思想を受容している論者以外には説得力をもつことはないだろう。 [43] (2) 制憲権と日本国憲法の構造 実定憲法である日本国憲法の解釈問題を離れて、制憲権の法的性質ばかりを論争することは、有意義ではない。 そのことに気づいた学説は、制憲権の法的性質と日本国憲法の構造との関連性を問い始めた。 (※注釈:<1>) ある学説は、実定憲法から制憲権の法的性質に接近して、こういった。“制憲権は、本質的には権力(意思力)であり、超実定的な性質をもつが、実定憲法制定と同時に実定憲法の中に凍結され、正当性の契機となったのだ”これを「正当性契機説」と呼ぶことにしよう。この説は、 ① 制憲権が革命の理論であること、 ② 国民主権がイデオロギーに過ぎないこと、 を知っている。実体として存在しない「国民」が主権者であるはずはなく、統治する者は常に少数で、統治されるのが「国民である我々だ」とこの説は見抜いている。この論者の目は覚めている。曇りがない。ところが、覚めた立場は、冷めた目で批判されるのが常である。批判者は、“市民が血を流して勝ち取った国民主権という概念が空虚だとか、イデオロギーに過ぎないだとか、あろうはずがない”と、正当性契機説の空虚さを突くのである。 (※注釈:<2>) 国民主権を無内容としないためには、そしてまた、日本国憲法の解釈と直接の関連性なし、などとクールに割り切らないためには、どうすべきか?正当性の契機にとどめることなく、権力的契機をも制憲権にもたせて、“その権力(※注釈:憲法制定権力)は、実定憲法制定について、一定のヴェクトルを示している”と語ることだ。ある論者は、そう解するにあたって、 ① 権力的契機を示す場合の制憲権の主体が選挙人団、 ② 正当性の契機を示す場合の制憲権の主体は全国民だ、 と、その担い手に変化をもたせる。これは、一見巧みな解釈技法にみえる見解ではあるが、国家創設後に国法上に登場する概念である選挙人団を唐突に登場させるところで、破綻してしまっている。 (※注釈:<3>) 別の論者は、主体云々よりも、制憲権が実定憲法(日本国憲法)の構成原理を指し示している点に留意している。この論者は、 (ア) 民意をできる限り反映する「民主的」統治メカニズムを備えること、すなわち、選挙人となりうる人的範囲が最大であること、 (イ) 選挙人の意思が反映されるよう統治制度が整備されること、 (ウ) 選挙人の意思が自由に反映されるために、統治者批判が自由であること、 といった要素を挙げている。ところが、上の(ア)~(イ)は、「国民主権」によって必然的に要請されるものではない。先の[27]でふれたように、これらは、《統治される国民が統治者に対して有効なコントロールを及ぼすための要素》である。“統治のあり方を最終的に決定する力を国民が持っている”という命題と、“日本国憲法には、国民が統治者を定期的に交替させる装置が組み込まれている”という命題とは、必然的関連性はないと私は考えている。実定憲法に用意されている民主的なチャネルは、社会契約でもなければ、その擬似物でもない。 (※注釈:<4>) 先の[38]でふれたように、社会契約の思想を実定憲法制定後も生かし続けたい、と考える人々もいるだろう。それに賛同する論者が直接民主制原則に立つ国民主権を唱えるのであれば、その論旨は一貫したものとなる。「自同性」を満たす統治構造でなければならない、というわけだ。ところが、実定憲法制定後も、“制憲権は権力的契機を持ち続けている”といいながら、民選議会、参政権、公的言論の自由等の保障で妥協する論者も多い。民選議会、普通平等選挙制(選挙人資格の拡大)等の要素を満たす統治構造は「半代表制」と呼ばれることがある。半代表制については、[64]において代表制を論ずる際にふれるが、大いに曖昧な概念にとどまっている。 [43a] (3) 制憲権論から解放された理論を 憲法典上要請される構成原理または統治構造は、あくまで、制定後の憲法典から理解すべきものであり、我々はそこでとどまって憲法解釈に従事すればいいだろう。 制憲権理論は、自然状態から抜け出る際の国制決定の力を「主権」と呼ぶ、実に特殊な場面へと主権概念を限定する思考である。 これに対して、私たちが「国民主権」と聞いてイメージするのは、実定憲法のもとで展開されている、日常的な統治において、誰が(どの機関が)最終的決定権をもっているか、という視点のはずである。 このイメージは、先の[42]でふれた「最高機関意思説」にいいたいところである。 国家法人説の臭いのする「最高機関意思説」に共鳴できないとすれば、「国民主権といわれてきたものは、デモクラティックな統治過程において、国民が何を為し得るか」という見方のことだ、と割り切るとよい。 こう割り切ると、《国民主権とは国政選挙において示された国民(有権者)の多数意思に従って統治される政治体制だ》となろう(⇒[27])。 日常的な統治、または、実定憲法の構成原理を検討するにあたっては、制憲権論は不要である。 それでも国民主権はあくまで建前であり、理念にとどまる。 “国民主権原理を採用する実定憲法であれば、その構成原理としてこれこれの要素が選択されるはずだ”と予見することはできない。 “国民の意思が規範を生ぜしめる”という国民主権の理論には、私は合点がいかない。 私には、国民を擬人化したうえで、国民の意思が規範を生むと考えることは、二重の誤りをおかす理論にみえる(⇒[37])。 “法人格の意思が、ネガのかたちで存在している規範をポジにするのだ”という法実証主義を信奉する論者であって初めて、国民主権の理論は受容されるはずだ。 それにしても、法学の基本的タームである「意思」を正面から論じないまま、“意思が規範を生む”などという命題を繰り返してきた法学を、哲学者はどう評価するだろうか? ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第七章 国民主権と憲法制定権力 LEC・芦部信喜・佐藤幸治・阪本昌成・中川八洋の「国民主権論」比較 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 関連用語集 【用語集】主権論・国民主権等 「法の支配」と国民主権 「法の支配(rule of law)」とは何か ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kusamura/pages/39.html
このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65914からの引用です kusamura(叢)フォーラム ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972) トップ»ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972)» 第五章 権力の意味 (定義・分類・諸相) [ 9 posts ] 1 投稿者 メッセージ kusamura 題名 第五章 権力の意味 (定義・分類・諸相) 時間 2009-08-15 12 36 39 no rank Joined Posts 1 権力の定義づけ 権力(*power、パワー)とは、変化を惹き起こすなり、 あるいはそれを避けることのできる能力のことをいう。 権力には二つの次元がある。 その一つは、 潜在性としての権力、ないし潜在力としての権力である。 それはまだ十分に発達しきっていない力であり、それは 未来のあるときに変化を惹き起こすことのできるものである。 この未来の変化についてはこれを「可能性」(possibility)として語るのである。 他の次元は、 現実体(actuality)としての権力である。 (私がこの章で述べようとしているのはこの側面である)権力というものは、もともとは社会学的な用語であり、主として 国家や軍隊の行動を述べるのに用いるカテゴリーである。 しかしこの問題を検討するものが、 権力というものは、人間の情緒や態度や動機といったものに依存するものであること をわかってくるにつれて、彼らは、必要な明確化のために心理学のほうへ向かったのである。 心理学においては、 権力は、他人を感動させ(affect)、影響を与え、変えることのできることを意味する。 各自は,,,込みいった人間関係の中にあり、 他人を推進したり、撃退したり、結びつけたり、同一視したりするのである。 かくて、地位や権威や威信といったものが権力問題の中心になるのである。私は、ある人物が何らかの価値をもち、他人に影響を与え、 そして仲間からの承認を得ることができる、という確信を指すのに 「意味の感覚」(sense of significance)という語句を用いてきた。 Top リンク kusamura 題名 1 権力の定義づけ Ⅱ 時間 2009-08-15 13 28 09 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 権力と支配力(force)との間の関係はなにか。支配力は,,,アメリカでは広く権力と同一視されてきた。 この国では支配力は、たいていの人の場合、権力と自動的に結びついている。 これが、権力が「汚いコトバ」として軽蔑されけなされてきたその主たる理由である。 ジョン・デューイは、強制力(coercive force)は エネルギーとしての力と、暴力としての力の、中間地帯である、と考えていた。 「支配力に依存せず、それを利用しないということは、 単に現実の世界に足場を持たないということである」 支配力や、強制あるいは強迫(compulsion)は、権力を構成する上で欠くことのできないものである。 戦争はそうした、構成要素の一つである。 (*あるいは)病人ないし子どもの場合、 強迫あるいは強制というものは、 (*彼らの)能力ないし他人についての知識の欠除(原文ママ)に応じて 用いられなければならない。 (*たとえば)私の息子が三歳であったとき、 私は、ブロードウェイを横断するとき、子どもの手をしっかり握っていた。 これは、子どもが成長し、交通事情を学び、横断の責任を自分で安全に引き受けることができるにつれて、 緩和されてゆく(*権力の)条件である。 しかし支配力の適用には究極的な限界がある。 ある種の動物が近くにいる他の動物ぜんぶを絶滅させるまでその力を用いるなら、 そうした動物を必要とするとき、食料としてそれらを持てなくなるだろう。 ,,,西部における鉄拳戦では、 敵のアイデンティティを破壊することこそ、まさに射撃の目的である。 したがって私はこれを、 支配力と結びついた権力の持つ自己破壊的な影響力の一例とする。 殺されて、明らかにその存在を失ってしまう人物は、もはや、 当人がコミュニティに対してできるだけのものを与える存在ではなくなり、 もはや関係を持つことのできない人間であって、 われわれは、それゆえにさらに貧しい者になる。 他人の自発性が破壊されるときには、 同時にその破壊する者も損害なしではすまされない。 これは洗脳、条件づけ、催眠状態、における強制や強迫の極端な形での危険である。 権力は、それが出会う人間の 自発性の確認とともに動かねばならない。 このことは、長い目で見れば、 その権力に、最大の成功を保証することになる。 Top kusamura 題名 3 権力の諸相 A_搾取的権力 時間 2009-08-15 13 54 56 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 2 権力と知識人(略)-返却までに時間が余れば最終項に追加-3 権力の諸相A 搾取的権力(Exploitative power) これはもっとも単純で、人間的に言ってもっとも自己破壊的な権力である。 これは、人びとを、権力を持った者に従属させることである。 もちろん、奴隷はその明らかな例である ― 一人の人間が多くの肉体に権力を及ぼし、事実多くの人の全有機体に権力をふるうのである。 搾取的な権力は、権力を支配力と同一視するものである。 この意味で、鉄砲(firearms)の使用は、 たまたまピストルを持った人間のきまぐれにまかされるとき、搾取的な権力の一形態となる。 日常生活の中で、この種の権力を行使するのは 根本的に拒否されてきた人びとであり、その人たちの生活はきわめて実りのないもので、 彼らは搾取以外に他人に関係づける方法を全然知らないのである。 この権力は、ときには 婦人を性的に扱うことが「男性的」(masculine)な態度として合理化されたことさえある。興味のあることであるが、 (中世の)騎士や乙女たちの社会内にはびこったであろうこの種の権力から、 中世の宮廷愛は、愛の中では(*この種の男性的権力は)決して利用去るべきではないというルールによって人びとを守ってきた。 搾取的な権力は、暴力ないし、暴力の嚇しをつねに前提としているのである。 この種の権力の中には、厳密に言って、犠牲者の側には、選択ないし自発性というものがまったくない。 kusamura 題名 3 権力の諸相 B_操作的権力 時間 2009-08-15 15 38 09 no rank 3 権力の諸相B 操作的権力(Manipulative power) これは、他人の上に及ぶ権力である。 操作的権力は、その人物の絶望ないし不安によって導き出されてくる。マーシデス(*第四章で取り上げられた黒人売春婦)は、 継父の、売春せよという要求を、 自分自身の頼りなさや、他に何もできないという理由で、受け容れている。 この当初の同意のあとでは、この人間にはほとんど自発性ないし選択性は残されていない。 搾取的権力から操作的権力への移行は、われわれのフロンティアでは ガンマン(Gun man)が、ぽん引き( con man) にとって替わられるということの中に見られる。 ,,,たとえ、犠牲者を生かしておくということ以外に他になんの理由もないにしても ぽん引きのほうは、ガンマンの野蛮な力よりはるかに破壊性の乏しいものである。 スキナーによる、オペラント条件づけの提案は、操作的な力のもう一つの例である。 (*オペラント条件づけ 条件反射ではなく条件学習によって行動の方向づけ・強化をする。 たとえば、ペットのトイレトレーニングや子どもの躾けなど。行動療法では、 患者に報償(代用貨幣トークン)を与えることによって行動の強化を図る、という オペラント条件づけ療法(の一種)などがある。)科学的な視点からすると、限られた動物研究から発展したシステムを、 人間社会そして事実上人間経験の全域に適用しようとすることは誤りがある。 万事がこの操作システムに適合するよう作られねばならないし、 もしそれがこのシステムに適合しない場合には、それは即座に、 新しいスキナー世界から投げ捨てられることになる。 ...スキナーが自分のデータを得るためにねずみや鳩の利用を任意に選択したことによって、 人間の自由や尊厳(dignity)というものは排除されたのである。 行動主義(心理学)者のように、もしあなたがそのスマイルという“行動”自体を認めても、 スマイルする“人”を認めないならば-つまりその行為を行う“人”をオミットするなら- どのようにしてあなたは、ほほえんだり、顔をしかめたり、泣いたり、殺したり、愛したりする 人間社会をもれなく理解することができようか。 スキナーは彼自身、自分自身の権力欲求に、意識的に直面していない人間の 現代の一例である。 彼はこうした欲求を「支配したい情熱」(passion to control)と呼んでいる。 『行動せよ、こんちくしょう。お前が行動しなければならないやり方で行動せよ』 (スキナー著『心理学的ユートピア』 英雄ファリスの、彼の鳩たちへの言葉)これが、実際にはその名は何と呼ばれようとも、強力な権力欲求であることを示すには、 こみいった精神分析など必要としないであろう。 ドイツ人は、1933年(*ナチス党が政権掌握した年)に先立つ何年か、 彼らの将来について経済的には絶望と不安状態に置かれていた。 ,,,彼らは、自分たちの不安を鎮めてくれるかもしれないという希望をつないで ヒットラーの‘操作的権力’に屈したのである。 ,,,同じように、今日の人びとも、自分の不安をのがれたいという希望をもって、 スキナーのユートピア的提案に向かうかもしれない,,,操作的不安に関して、私の提案する原則を述べると、 状況によってはその不安は必要なものであるけれども、 それはできるだけ、節約して使われねばならない、ということである。 Top kusamura 題名 3 権力の諸相 C_競争的権力 時間 2009-08-15 16 14 58 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 権力の諸相 C 競争的権力(conpetitive power) もうひとつ別の権力に対抗する権力である。 この権力は、当人の相手が下落していくことによって、上昇していく人間に見られる。工場や大学には多くのこうした例がある。 たとえば、望まれている地位はたった一つであるのに志望者は多い、といったときの 会長ないし議長の任命がそれである。 それはまた、等級づけシステムによるライバル同士の学生に見られる ,,,このシステムは、学生が相互にいたわり合い協力することに対し、 破壊的・個人的影響力を増進するものである。 この種の権力をめぐる主な批判は、それの持っている狭量さ(parochialism)にある。 この種の権力は、連続的に人間の住んでいる人間コミュニティの領域を縮小させてしまう ――もっとも、操作ほどには徹底的なものではないにしても。 しかしこの点で、われわれの気づいていることは、 破壊的な権力から建設的な権力へきわめて興味ある移行をすることである。 というのは、競争的権力によって、人間関係に 興趣(zest)と生命力(vitality)を与えることができるのである。 (私がここで述べているのは、刺激的かつ建設的なライバル関係のことである) 思い起こす価値のあることは、アイスキュロスの『オレスティア』、ソフォクレスの『エディプス』 エウリピデスの多くの作品は、競争の中で作られたのである。 その意味するところは、破壊的なのは競争それ自体ではなく、ただその種の競争力である。 kusamura 題名 3 権力の諸相 D_成長促進的権力 時間 2009-08-15 16 58 55 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 権力の諸相 D 成長促進的権力(Nutrient power) これは、他者のためになる権力である。 このもっともよい例は、普通、親がその子どもの面倒を見ることにあらわれている。 それはひとつの権力形態である。 というのは、子どもはその幼いときにはわれわれの努力や注意を必要としているが、 全生活に渡って、われわれも時々、他者のために尽力することから快楽を得ているのである。 明らかにこの種の権力は友人や愛されているものとの関係で大量に必要であり、 また価値のあるものである。 他者に対する世話――われわれは他者よかれと願っている――によって与えられるのが この権力である。その最上の意味で、教えるというのはよい例である。 kusamura 題名 3 権力の諸相 E_統合的権力 時間 2009-08-15 18 40 23 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 権力の諸相E 統合的権力(Integretive power)(前半) (前半は「批判」について、後半はキング牧師・ガンジーの非暴力的抵抗について) この権力は、他者と「共なる」(with)権力である。 そのとき私の権力は隣人の権力を助長することになる。ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の中で、こう述べている。 『もしすべて重要な真理の主張に対して、その反対者が存在しないなら、 そうした反対者を想像し、もっとも腕のたしかな欠点をあばきたてる者の思いつけるような、 この上なく強力な議論を供給することが不可欠である。』 レクチャーのあと、話し手にとって、聞き手の質問が どれほど価値のあるものかを実感していないものはまれである。 それらの質問は、新たな洞察をもって、自分の主張を変えるなり あるいは防衛することを話し手に刺激し強制するのである。われわれのナルシシズムは、われわれの弱点を指摘してくれる人びとの 傷に対してはいつも抗議する。,,,たしかに批判というものはしばしば不快なものであるし、 批判に直面すると人は自らの自我を締めつけねばならない。 われわれは、操作的な権力によって(強制的に批評家を押えることによって)、また、 競争的権力によって(批評家をばかに見ることによって)、後もどりしてすべり込むこともできる。 成長促進敵権力によって(彼が混乱していて、われわれのケアを必要としている旨を意味することによって)、 われわれの薄い皮膚を守ることさえできる。 しかしこうした方法へ退行してゆくならば、われわれは、 たとえそのケースが敵対的あるいは友好的なものであれ、 質問者がわれわれに与えつつあるかもしれない 新しい真理に接するチャンスを失ってしまうのである。(*ロロ・メイ自身の体験)私の分析家が、自分が不快であると見ている性格構造について何かを指摘しようとしたとき、 まず最初に私はただちにそれを否定した。 後になってくると、私はその洞察の真理を実感して、 自分の性格構造をこの新しい真理に従って変えるという苦しみを体験しなければならなかった。 この告白はドラマティックなものではない。 私の会った全ての人がまた、似たような状況で、まさに正確にこのやり方で反応したからである。 統合的権力は、ヘーゲルの、命題-反対命題-統合、という弁証法的過程によって 成長へと導かれてゆくことができる。 kusamura 題名 3 権力の諸相 E_統合的権力 Ⅱ 時間 2009-08-15 22 07 21 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 権力の諸相E 統合的権力(Integretive power)(後半) ルーサー・キング師は、自分の相手に対する 非暴力の効果について述べているが、この点で彼は統合的な権力の良い例である。 「自分の方法は、相手を武装解除する方法である」 「この方法は、相手の道徳的な防衛をあばき、 それは相手の志気を弱め、同時に相手の良心に働きかける。 相手はそれをどう処理して良いかまったくわからない」 この権力が成功しているのは、非暴力的な人びとの勇気だけではなく、 非暴力的権力の受け手である人びとの、道徳的発展と自覚によるものである。 同じことは、ガンジーの好戦的非暴力(militant nonviolence)についてもいえる。,,, 全(*大英)帝国に抵抗して、軍事力では決して持ち得ないような方法で 断食をやることによって、帝国を動かすことにガンジーはみごとに成功したのである。 キングが述べているように 「それは良心に働きかけた」のである。非暴力的な権力は記憶に依存している。,,, ガンジーとキングは、相手がガンジーらを傷つけたということを 記憶しなければならない位置に相手を据えたのである。 人間は記憶に苦しめられる(afflicted)奇妙な存在である。 自分の記憶を自分の自我像に統合できないなら、 人は自分の失敗に対し、ノイローゼないし精神病で償いをしなければならない。 こうして人は、概して空しい結果に終わるのであるが、 自分をひどく苦しめる記憶から自らをふりほどくように努めるのである。非暴力的人間に見られる本物のイノセンスは、当人にとって力の根源となる。 イノセンスの質的にまがいものと本物との区別は、 第一に,,,非暴力によって何ら認識は阻止されないという事実である。 第二に、それは責任の放棄も含まれていない。 第三に、その目的は、個人自身のために何かを手に入れることではなく、 自分のコミュニティのために何かを得ることである。 非暴力的な権力は、支配者の倫理に対する刺激として、 彼らの制度の持つひとりよがりに対する強い非難として働くのである。 支配階級に所属する者は、 非暴力的な階級からそしらぬ顔で目をそむけることはできない。 というのは、非暴力の人は、明らかにこの問題に悩み、 これによってその問題を劇的に表現しているからである。それが本物であるとき、非暴力は宗教的な性格を帯びてくる。 というのは、そのまさに本性上、 非暴力は人間的な権力形態を超えるからである。 しかし,,, ほんものの非暴力的な力の全てには、 その役割を僭称しようとする偽物が、数多くつきまとうのである。 kusamura 題名 3 権力の諸相 (結) 時間 2009-08-15 22 22 00 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 権力の諸相 五つの種類を異にする権力は、 同じ人物の中に時を異にして、明らかにすべて存在する。仕事の面で操作的権力ないし競争的権力を行使する多くの実業家は、 家族のもとに帰ったとき、成長促進的な権力を身につけることになる。 問題は――道徳的な問題であるが―― そのパーソナリティ全体の中で、それぞれの権力がどのような割合になっているか ということである。 何人も、願望や行動の面で五つのタイプの権力体験をまぬがれることはできない。 ただひとりよがりの厳格さだけでは、 自分は権力のいずれからも免疫であるといううぬぼれを当人に抱かせることになる。 人間発達のための目標は、所与の場にふさわしい、これらそれぞれの違った権力の 用い方を学ぶことである。
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/3307.html
権威というものはまずもって理性に基づいているべきものだ。臣民に向かって、海に行って身投げしろと命令したら、彼らは革命を起こすだろう。理性に沿った命令だからこそ、余は服従を期待できる サン・テグジュペリ『星の王子さま』 (zsphereコメント:まぁ、臣民に向かって「海に行って身投げしろ」と命じたのに革命が起きなかった国もありますがね……)
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/1735.html
阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅰ部 統治と憲法 第8章 国民主権あるいは憲法制定権力 本文 p.49以下 <目次> ■1.国民主権の意義と展開[36] (1) 問題の所在 [37] (2) 主権の意義 [37続き] (3) 主権の歴史的展開 [38] (4) 国民主権の意義 [39] (5) 憲法制定権力理論[A] [B] [40] [C] [D] [41] [E] ■2.日本国憲法における国民主権[42] (1) 古典的学説[A] 最高機関意思説 [B] 制憲権説 [43] (2) 制憲権と日本国憲法の構造 [43a] (3) 制憲権論から解放された理論を ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.国民主権の意義と展開 [36] (1) 問題の所在 国民主権は、我々には馴染み深い言葉である。 我々は、幼い頃から「国民が主権者だ」と教えられ、その論拠として日本国憲法の前文を見るよういわれた。 それを読んで納得してきた。 前文ばかりか、上諭、1条には「日本国民の総意に基」づいて、・・・・・・との表現があることも我々は知っている。 「総意」という表現は、あたかも国民が実在し意思をもっているかのような印象を我々に与えてきた。そういえば、重大な政治問題の解決に迫られたとき、ある政治家(政党)は、“主権者である国民が○○を望んでいる”といい、別の政治家(政党)は、“主権者である国民が○○を許すはずはない”という。国民が一体として存在して、何かを望んだり望まなかったりしているかのようだ。ところが、主権者の一人であるはずの我々は、政治家たちとは全く別の◇◇という選択肢を希望していることが多い。そのとき、我々は、“国民であるようで国民ではなく、主権者であるといわれながら主権者ではない”と、もどかしく感じるだろう。 実は、国民なるものは、実在しないのだ。実在するのは、個々人だけである(人民が実在する、などと信じているのは、ナイーヴなルソー主義者だけだ)。我々が薄々感じてきたもどかしさの原因はここにある。実在しないものを実在するかのように、意思できないものが意思できているかのようにいうトリックに、もどかしさの原因があるのだ(⇒[4])。 「国民」の政治的選好は、個々人が投票する機会を与えられたとき、多数の票の中に初めて浮かび上がる。 それとて、「国民」の選択ではなく、多数者の選択に過ぎない。 「国民」が実在しない擬制であるのと同じように、「主権」も実体のない、空虚な概念ではないか? 憲法学界の泰斗が「国民主権は建前だ」と率直に述べたのは、そのためではなかったか? “いやいや”と貴方は考え、「我々は、選挙権者として、度々投票しているではないか、これが国民主権というものだろう」と解答するかも知れない。 “ところが・・・・・・”と私は、こう反論するだろう、 《私たちが、投票し、政治的な選択を時に為すことは、「国民主権」ではなく、民主制というべきだ》、 《我々は民主制の中で統治されているからこそ、間歇的に投票するのだ》、 《投票していることについて、わざわざ実体のない「国民主権」などと大迎なことをいわないほうがいい》 と(⇒[27])。 それでも、「社会契約」のことを思い出した貴方は、“社会契約によって私たちが国家を樹立したことが「国民主権」だ”と、別の解答を見つけるかもしれない(⇒[7])。 国民主権とは、一体、何を意味するのか? 国民とは何をいうのか? 主権とは何をいうのか? まずは、主権の意義から考えてみよう。 [37] (2) 主権の意義 我々にとって、最も馴染み深い主権といえば、国際社会における国家の対外的独立性だろう。独立性が国の空間に表されたとき、領土・領海といわれ、この空間が他国によって侵害されたとき、《主権の侵害だ》といわれる。これを「国家のもつ主権」と呼んで、「国家における主権」とは区別すると分かりやすいだろう。 次に、国家法人説にたったとき、国家という法人のもつ権利が“主権だ”といわれることもある。ただし、厳密にいえば、この権利は、主権と称すべきではなく、「国家の統治権」と呼ぶほうが適切である。 「国民主権」にいう主権は、上のいずれでもない。それは、国家(法人と捉えるかどうかに関わりなく)が有する何らかの権限を指すのではなく、国家における統治のあり方を最終的に決定する法力(権限)を指すのである。 これまで、憲法学を含む法学は、権限を分析するにあたって、ある法主体Aが他者や物を支配したり、影響を与えたりする「意思」をキー・タームとしてきた(その割には私は、「意思」の意味合いを正確に説明する論者に出くわしたことが未だかつてない)。 国民主権というタームは、すぐ後にふれるように、君主という自然人の恣意的意思の発動に取って代わるものだった。 君主というひとつの法人格を国民というひとつの法人格に代えるのだ。 そのために、“国民主権は、君主の意思に代わって、国民が意思主体となって、統治の最終的な決定を為すことだ”といわれるのである。 抽象的な観念にすぎないはずの「国民」を語るにあたって、意思なるタームが使用されてきたからこそ、「国民」は実体化され、あたかも実在して意欲するかのように扱われたのだ。 この実体化の誤りに陥らないためには、我々は、意思というタームや、“国民が主権を持つ”という言い方は、あくまで擬制にすぎないということを重々承知しなければならない。 できれば、国民に関しては、「統一的意思」「自己決定」などといった言葉を避けるべきだろう(本書は、できるだけそのように努めている)。 [37続き] (3) 主権の歴史的展開 なぜに、「主権」は、上のように多義的であるのか? それは、「主権」が次のような歴史的な背景を背負ってきたからだ。 主権と邦訳される sovereign の概念は歴史上さまざまな変転をみせてきた。 まず、中世ヨーロッパにおいて sovereign とは、重層的統治の中で、「優越的な支配権」または「第一の高位を有する者の地位」を表した。この用法は、いまでもイギリスに残っている。「議会主権」という言い方がそれである。そればかりでなく、国家法人説において、国家の統治機関の中で最高意思の決定機関をもって「主権者」というときも、同様の用法である。例えば、“選挙人団である国民が主権者だ”という日常的にお馴染みの用法がそれである(この用法は、我々の「国民主権」の捉え方を混乱させる元凶だ、と私は考えている)。 その後、国王が、一方で、国内の封建諸侯のもつ支配権を統合し、他方で、法王からの独立を勝ち取るなかで絶対国家を成立させると、sovereign とは、国王の至上権・絶対権を表す言葉となった。その用法を初めて示したのが、J. ボダンの『国家論』6編(1576年)である。ボダンは「国外のあらゆるものは王を拘束しえず、・・・・・・国内のすべての権力は王からの派生物にすぎない」と説き、対外的な独立性、対内的最高性のみならず、それらの始源的性格にも言及した(「始源的」とは、伝来的ではない、それ自らが因子となっていることをいう)。これが君主の主権は法の外に出る絶対権だとする理論である。 この君主主権を市民革命が打倒した。その際、君主という一自然人の有する命令権としての主権に対抗するために、“市民の総体が主権者だ”という、新しい主権概念を君主勢力に叩きつけた。この主張は、これまでの君主という一人格の意思を、国民という一人格の意思にすげ替える単純なアナロジー(※注釈:analogy 類推(作用))だった。それでも、君主主権のもとで他律的に生活することに倦んだ当時の人々にはその新理論は新鮮で、大きなインパクトをもった。そして、旧体制勢力を打倒した。ここにおいて主権は、国家の対外的独立性・対内的最高性を表すものから、国家における統治権力が国民の意思に発するという概念へと変容した。これが「国民『主権』」といわれる際の用法となる。 国民主権原理を実現した国家が、先にふれた「国民国家」であり、その後の変容も既に述べたとおりである(⇒[7]~[8])。 この国民国家は、国民の場合と同じように擬人的に捉えられ実体化されて、国家自身が対外的な意思主体だ、と理論構成された。 だからこそ、“団体としての国家は、始源的な意思力を持ち、対外的には最高・独立の意思力=主権を有している”と、今でもいわれるのである。 [38] (4) 国民主権の意義 “国民主権の意義は、フランス憲法史に見出し得る”といわれることが多い。 フランスにおける国民主権論争は、「国民」が国家統治のあり方を最終的に決定するだけでなく、恒常的に決定し続けるには何を必要とするのか、を巡って展開された。 論争があるとはいえ、その共通の出発点は、社会契約説だった。 急進的な思想家・政治家たちは、“社会契約締結の状態を、いつでも回復できる状態に置いておくこと”を望んだ。彼らは、国家統治のあり方が代表者によって決定されたり、それが相当期間維持されたりすることを忌避した。そのために、彼らは、身分制議会、自由委任・純粋代表制(間接民主制)、制限選挙制等に反対した。そのための理論上の武器が「人民主権論」だった。それは、“社会契約締結に参加した「市民=シトワイアン(正確には「公民」)」が共通目的へと結集したとき「人民=プープル」として一体的意思主体となる”という理論である。“実在する人民が自ら政治参加し、自らが決定者となる、これを統治の原則とするときが「人民主権」だ”というわけだ(人民 peuple は、貴族に対する一般庶民または恵まれない人々という語感をもっている)。 これに対して、穏健派の思想家・政治家たちは、社会契約締結前の状態と、憲法制定後の状態とを異質にすることを望んだ。彼らは、社会契約の理論が革命の理論と容易に結びつくことを知っていた。そのために彼らが用意したのは、“全員が同意したかも知れない社会契約と、憲法協約とは別物だ”という理論だった。憲法協約段階では、その制定のために特別に選出された代表からなる「憲法制定会議」の審議・決定に委ねてよく、制定後の国制の運営も純粋代表の手に委ねてよい、というわけだ。さらに、「国民主権」原理を革命の理論から引き離すために、国民なる概念が実体化されないよう意識された。そこで、先の「人民=プープル」とは区別して「国民=ナシオン」という言葉が用いられた。「国民主権」の論者は、この原理と、普通選挙制、代表制、議会の構成(一院制か二院制か)等を直接関連づけなかった。 [39] (5) 憲法制定権力理論 国民主権をめぐる、「人民(プープル)主権/国民(ナシオン)主権」の違いは、制憲権の捉え方に最も特徴的に現れた。 [A] 制憲権という聞き慣れないタームに接した我々は、「制定」という言葉が用いられているため、それは「起草された憲法典について審議し決定することだろう」と理解しがちである。 ところが、憲法制定権力にいう「憲法」とは、憲法典のことではなく、先にふれた「国制」を指す(ということは、「制定」権力という訳語は誤導的なのだ。ある有名な憲法学者は、敢えて「憲法設定権力」なる言葉に拠ったところ、読者からミス・プリントだ、と指摘されたという)。 制憲権とは、国制を決定する権力をいうのだ。 国家の根本構造を意味する国制は、社会契約=全員の合意意思によって決定される。 これが、当時、強い影響力を持った理論であり、特に、市民革命にとって説得的な理論だった。 実際、アメリカ革命とフランス革命は、制憲権発動の産物だと理解された。 それは、ナマの実力の発動でもあったと同時に、規範的意味での国制の決定でもあった。 [B] 国民の意思に淵源をもつとする制憲権論を、社会契約と誤って結びつけながら、最初に実体憲法で高々と謳ったのは、マサチューセッツの憲法だった。 その前文に曰く、「政治的統一は、個人の自由意思による結合によって成立し、それは社会契約の結果であり、この契約により一定の法律に従い一般的利益に合致して統治が為される目的のもとに、人民の全体が各市民と、各市民が市民全体と契約を結ぶのである」。 ところが、その起草者J. アダムスの考えたほどには制憲権論は単純ではなかった。 [40] [C] フランスにあっては、制憲権は「人および市民の権利宣言」(フランス人権宣言)にその大枠が実定化され、“権利を保障し、権力分立を定める”立憲主義憲法を制定するよう求めた(⇒[20])。 その作業のために憲法制定会議が召集された。 身分制議会が憲法を制定できない点については、当時の指導者たちの間に合意があったからだ。 同会議は、制憲権の法的性質を論争した。 ある論者は、“制憲権とは実体的にも手続的にも法的制約に服さず、至上最高のものであり、いつでも発動して実定憲法をいかようにも変えることができる”と主張した。これは、先にふれたように、社会契約の締結状態を恒常的に残しておきたい、という急進派の理論だった。 穏健派はこの見解に反対だった。実定法を超越すると同時に、憲法をいつでも改変できるものとする実定憲法破壊的な法的性質を制憲権に与えることは、革命の火種を常に抱えるがごとき危険な理論だった。そこで、穏健派は、こう主張した。“制憲権は、いったん発動されて実定憲法を制定した後は、実定憲法を支える正当性の契機となる”“改正権は「憲法によって作り出された権限」であって、「憲法を創り出す権力」とは異なる”実際、フランス1791年憲法は、制憲権を実定憲法の正当性原理として凍結させたばかりでなく、改正権から峻別し、さらには、改正権の発動についても厳格な手続を踏むこと、および、改正内容にも限界のあることを明示したのだった。 [D] 同時代のアメリカにおいても、フランス類似の展開を示した。 革命当時は、人民主権(popular sovereignty)による憲法制定権力(constitution-making-power)の理論は、強い影響力をもった。 が、その危険な性質は次第に気づかれていった。 先にふれたように、歴史上初めて制憲権の理論に依拠したアメリカではあったが、そこでの人民主権の理論は、《すべての権力が人民に由来する》というところで立ち止まった。 経験主義的な発想を重視した憲法制定会議は、人民自らが主権を行使するわけではないこと、人民は多元的な集団から成っていることを知っていた。 合衆国憲法は、直接民主制とはならないよう、様々な工夫を施した。 例えば、大統領や上院議員の間接選挙制、二院制、そして、司法審査制もそのためだった。 さらに、公職者の一年ごとの改選、憲法改正の簡単な手続、仰々しい権利章典は意図的に避けられた。 建国の父たちが、合衆国憲法の統治体制を、わざわざ「共和制」(Republican Government)と名づけて、民主政体から区別したのはそのためだった。 [41] [E] 制憲権の理論は、人またはその集合体の意思が権力(power)または権威(authority)を創り出す、という近代合理主義哲学の法学版だった。 それは、社会契約論の影響を受けて、“意思の発動の源が誰であるかに応じて、作り出される権力または権威に序列ができる”とする理論でもあった。 「人民の意思>憲法制定会議の意思>議会の意思」という序列である。 このことを理論として明確にしたのが、ドイツの憲法学者、C. シュミットだった。 彼は、国家の構成員であるとの政治的な自覚をもった国民が、その自覚のもとで、国家全体のあり方を決断する政治的意思を「制憲権」と呼んだ。 彼にとってその権力(※注釈:憲法制定権力)は、ナマの実力で構わなかった。 国民が意欲すれば、そこに統一的秩序と規範とが生ずる、とシュミットは謎に満ちたことを述べた。 これが、「決断主義」と呼ばれるシュミット特有の立場である。 シュミットは、国民のかような意思の所産を Verfassung (憲法、彼の場合、「憲政」と訳すべきか)と呼んだ。 この基盤の上に、個別条規の統一体たる「憲法律」(Verfassungsgesetz)が制定される。 この憲法律は、Verfassung と呼ぶに値しない条規を含むが、それらをも含めて“憲法律だ”といわしむるのは、Verfassung の力だ、というのだ。 憲法律は、特定の国家機関に、立法権、司法権・・・・・・といったように、ある権限を付与する。 憲法改正権も憲法律が付与した権限である。 上のように、シュミットは、〔政治的意思としての制憲権→憲法→憲法律→憲法律によって付与された権能(そのひとつが改正権)〕という公式を作りあげた。 これは政治的意思が階梯的な規範を作り上げていくことをいいたかったのだ(この公式は、憲法改正の限界問題に対してひとつの解答を与えるだろう。この点については、後の[46]でふれる)。 この理論は、意思の発動手続だけに注目して形式的効力の軽重を語ってきたドイツ公法学(いわゆる法実証主義)のなかでは、異彩を放った。 ■2.日本国憲法における国民主権 [42] (1) 古典的学説 上にみたように、国民主権を正確に理解することは、我々の予想を裏切るほど困難である。 学説も、次のように多岐に分かれ、主権論争を繰り返してきたのも、むべなるかな、といわざるを得ない。 [A] 最高機関意思説 日本国憲法制定当時は、なお国家法人説が支配的だった。 この見解によれば、国家の諸機関のうち、優越的な政治的決定権を有している機関が「主権者だ」と捉えられた。 この把握の仕方が、先の[37]でふれた「最高機関意思説」だ。 この立場からすれば、日本国憲法のもとでの主権者は、“機関としての国民(選挙人団)だ”となる。 この見方は、我々の常識にもなっていて、疑問を寄せ付けないところがある。 ところが、この説には、次のような難点が残されている。 ① 今日の多くの憲法学者は、国家法人説に批判的なはずである。というのも、国家法人説は、“国民でもなく、君主でもなく、国家自体が主権を有する団体だ”といいながら、当時忍び寄ってきた国民主権論を否定するイデオロギーだったからだ(⇒[4]をみよ)。それは、国家主権の万能性を説いてきた。万能の国家の中で国民が有するといわれる「主権」は、厳密にいえば、統治権の一部ではないか? ② 選挙人団の範囲と資格は、公職選挙法という法律によって定められる。法律によって決定された人的範囲・資格をもって、“憲法上の主権者だ”ということは、法律から憲法(国制)を理解するという本末転倒の論理ではないか? ③ “主権者は選挙人団だ”と考えるとすれば、国民のなかに主権者と主権者ならざる者とが存在することになるが、それでよいか? ④ 日本国憲法41条が「国会は、国権の最高機関」としている文理と抵触しないか? 主権とは、国家統治の源泉を問う概念だった。 にもかかわらず、“国民が主権者だ”との言い方は、憲法典によって権限配分が示された後の統治過程、すなわち、選挙において表示された意思に解答を求めている。 これは、統治の根源を問う主権と、統治の民主化を表す選挙人団とを混同した解答である。 この解答が正答ではないことは、次のような国家を例に考えればすぐに分かるだろう。 【統治権の総攬者は君主であると明文規定をもつ君主主権国家において、選挙人団が普通平等選挙制のもとで議会の構成員を定期的に選出している】。 国家法人説のもとで“国民が主権者だ”といわれるとき、国民がどのような権力を有していればその名に値するのだろうか? 何年かに一度行われる選挙で我々が投票できることで「主権者」は満足すべきなのだろうか? 私には到底満足できない。 [B] 制憲権説 先の[39]~[40]でフランスやアメリカでの革命時の理論を紹介した。 それによれば、“国民主権にいう主権とは、国家統治のあり方を最終的に決定する意思力”を指した。 それが既に検討した制憲権のことだ。 我が国の通説は、国民主権における主権とは制憲権を指す、と解している。 もっとも、制憲権の法的性質の理解の仕方となると、学説は様々な対立を示してくる。 ある立場は、“制憲権とは法外的な政治的決断・意思の発動であって、規範とは無関係だ”という前提に出ながらも、その理論の危険性を看て取って、“日本国憲法の場合、主権者である国民が憲法典をつくりあげるさい、「よき社会」の形成発展のために自然権保障型を中心部分とする立憲主義的憲法典を選択したのだ”という。国家の自己拘束ならぬ、「国民の自己拘束説」である。この説に対しては、制憲権の理論は近代立憲主義思想(社会契約論=規範の理論)とともに誕生したという歴史的な展開を軽視しているのではないか、との疑問が生じてくる。さらにまた、日本国憲法制定にあたって、主権者が自己拘束したことが論証されているわけでもない。日本国憲法の諸規定から後知恵によって“主権者が自己拘束した証左だ”といっているようにも見える。制憲権論争は、主権者意思の発動前に、その権力を拘束する法力が内臓されているかどうかを問うはずのものである。自己拘束説の不十分さは火を見るより明らかだ。 自己拘束説と対照的なのが、“制憲権は根本規範による授権によって根拠づけられた法的な力だ”とする見解である。これを「権限説」と称することにしよう。なぜ、「権限」かといえば、“始源的な規範である根本規範によって授権され枠づけられた法力だ”とみられているからだ。もっとも、根本規範が「根本」である理由はどこにあるのか、何をもって根本規範とするのか、日本国憲法における根本規範は何であるのか、権限説には謎が多すぎる。 根本規範説に近い立場が、“制憲権は、個人の尊厳または人格不可侵の原則によって規範的拘束を受けている”とする見解である。この説が「個人の尊厳」「人格不可侵」というとき、どうも、人間のあるべき本性(nature)が念頭に置かれているようだ。日本版自然法・自然権論だろう、と私はこの説を診断している。この説は、自然権思想を受容している論者以外には説得力をもつことはないだろう。 [43] (2) 制憲権と日本国憲法の構造 実定憲法である日本国憲法の解釈問題を離れて、制憲権の法的性質ばかりを論争することは、有意義ではない。 そのことに気づいた学説は、制憲権の法的性質と日本国憲法の構造との関連性を問い始めた。 (※注釈:<1>) ある学説は、実定憲法から制憲権の法的性質に接近して、こういった。“制憲権は、本質的には権力(意思力)であり、超実定的な性質をもつが、実定憲法制定と同時に実定憲法の中に凍結され、正当性の契機となったのだ”これを「正当性契機説」と呼ぶことにしよう。この説は、 ① 制憲権が革命の理論であること、 ② 国民主権がイデオロギーに過ぎないこと、 を知っている。実体として存在しない「国民」が主権者であるはずはなく、統治する者は常に少数で、統治されるのが「国民である我々だ」とこの説は見抜いている。この論者の目は覚めている。曇りがない。ところが、覚めた立場は、冷めた目で批判されるのが常である。批判者は、“市民が血を流して勝ち取った国民主権という概念が空虚だとか、イデオロギーに過ぎないだとか、あろうはずがない”と、正当性契機説の空虚さを突くのである。 (※注釈:<2>) 国民主権を無内容としないためには、そしてまた、日本国憲法の解釈と直接の関連性なし、などとクールに割り切らないためには、どうすべきか?正当性の契機にとどめることなく、権力的契機をも制憲権にもたせて、“その権力(※注釈:憲法制定権力)は、実定憲法制定について、一定のヴェクトルを示している”と語ることだ。ある論者は、そう解するにあたって、 ① 権力的契機を示す場合の制憲権の主体が選挙人団、 ② 正当性の契機を示す場合の制憲権の主体は全国民だ、 と、その担い手に変化をもたせる。これは、一見巧みな解釈技法にみえる見解ではあるが、国家創設後に国法上に登場する概念である選挙人団を唐突に登場させるところで、破綻してしまっている。 (※注釈:<3>) 別の論者は、主体云々よりも、制憲権が実定憲法(日本国憲法)の構成原理を指し示している点に留意している。この論者は、 (ア) 民意をできる限り反映する「民主的」統治メカニズムを備えること、すなわち、選挙人となりうる人的範囲が最大であること、 (イ) 選挙人の意思が反映されるよう統治制度が整備されること、 (ウ) 選挙人の意思が自由に反映されるために、統治者批判が自由であること、 といった要素を挙げている。ところが、上の(ア)~(イ)は、「国民主権」によって必然的に要請されるものではない。先の[27]でふれたように、これらは、《統治される国民が統治者に対して有効なコントロールを及ぼすための要素》である。“統治のあり方を最終的に決定する力を国民が持っている”という命題と、“日本国憲法には、国民が統治者を定期的に交替させる装置が組み込まれている”という命題とは、必然的関連性はないと私は考えている。実定憲法に用意されている民主的なチャネルは、社会契約でもなければ、その擬似物でもない。 (※注釈:<4>) 先の[38]でふれたように、社会契約の思想を実定憲法制定後も生かし続けたい、と考える人々もいるだろう。それに賛同する論者が直接民主制原則に立つ国民主権を唱えるのであれば、その論旨は一貫したものとなる。「自同性」を満たす統治構造でなければならない、というわけだ。ところが、実定憲法制定後も、“制憲権は権力的契機を持ち続けている”といいながら、民選議会、参政権、公的言論の自由等の保障で妥協する論者も多い。民選議会、普通平等選挙制(選挙人資格の拡大)等の要素を満たす統治構造は「半代表制」と呼ばれることがある。半代表制については、[64]において代表制を論ずる際にふれるが、大いに曖昧な概念にとどまっている。 [43a] (3) 制憲権論から解放された理論を 憲法典上要請される構成原理または統治構造は、あくまで、制定後の憲法典から理解すべきものであり、我々はそこでとどまって憲法解釈に従事すればいいだろう。 制憲権理論は、自然状態から抜け出る際の国制決定の力を「主権」と呼ぶ、実に特殊な場面へと主権概念を限定する思考である。 これに対して、私たちが「国民主権」と聞いてイメージするのは、実定憲法のもとで展開されている、日常的な統治において、誰が(どの機関が)最終的決定権をもっているか、という視点のはずである。 このイメージは、先の[42]でふれた「最高機関意思説」にいいたいところである。 国家法人説の臭いのする「最高機関意思説」に共鳴できないとすれば、「国民主権といわれてきたものは、デモクラティックな統治過程において、国民が何を為し得るか」という見方のことだ、と割り切るとよい。 こう割り切ると、《国民主権とは国政選挙において示された国民(有権者)の多数意思に従って統治される政治体制だ》となろう(⇒[27])。 日常的な統治、または、実定憲法の構成原理を検討するにあたっては、制憲権論は不要である。 それでも国民主権はあくまで建前であり、理念にとどまる。 “国民主権原理を採用する実定憲法であれば、その構成原理としてこれこれの要素が選択されるはずだ”と予見することはできない。 “国民の意思が規範を生ぜしめる”という国民主権の理論には、私は合点がいかない。 私には、国民を擬人化したうえで、国民の意思が規範を生むと考えることは、二重の誤りをおかす理論にみえる(⇒[37])。 “法人格の意思が、ネガのかたちで存在している規範をポジにするのだ”という法実証主義を信奉する論者であって初めて、国民主権の理論は受容されるはずだ。 それにしても、法学の基本的タームである「意思」を正面から論じないまま、“意思が規範を生む”などという命題を繰り返してきた法学を、哲学者はどう評価するだろうか? ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第七章 国民主権と憲法制定権力 LEC・芦部信喜・佐藤幸治・阪本昌成・中川八洋の「国民主権論」比較 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 関連用語集 【用語集】主権論・国民主権等 「法の支配」と国民主権 「法の支配(rule of law)」とは何か ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/pokecharaneta/pages/8622.html
内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎 覇王黒龍会 コメント 原作:北芝健、漫画:渡辺保裕による日本の漫画作品、及びこれを原作とするテレビアニメ作品。 覇王黒龍会 オニゴーリ:木島 勝正 「鬼の木島」から コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/kusamura/pages/22.html
このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65916からの引用です kusamura(叢)フォーラム トップ»ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972)» 第六章 存在への権力 (*存在する権利) [6posts] 投稿者 メッセージ kusamura 題名 第六章 存在への権力 (*存在する権利) 時間 2009-08-17 20 13 39 no rank Joined Posts 生きている人間にとって権力は、理論ではなく、 日に何度も直面し、利用し、享受し、格闘しなければならぬ、 つねに変わらぬ現実(reality)である。 だれもが、一種の潜在力をもって生まれている。 誕生時に、現実的な力へと形を整えるのは こういう潜在力の中のごくわずかである。 こうした子どもは、まだ歩くことあるいは話すこともできない―,, しかし、H・S・サリバンが指摘しているように、 泣き叫ぶことはできる。 しかもこの叫びこそ、 後になって、言語の複雑なコミュニケーション・システムへと発展してゆく潜在力なのである。正常な幼児が、話し、這い、歩き、走ることができるにつれて、 こうした潜在力をもろもろの能力(power)へと成熟させてゆくに 当たって得るよろこびについては、何人も疑うことはできない。公園で走ったり、 子犬のようにはね廻ったり、 飛んでいたりする子どもを目撃するわれわれのだれもが,,, 筋肉を動かすことのよろこびの何たるかをよく承知している。 その齢相応に世の中を探検し眺めることのできるこの潜在力は、 神経筋肉的な構造が発展するにつれて、次第に実際の力になってゆくのである。 権力はその実行へと進んでゆく。 倫理的に言えば、それは善でも悪でもなく、 それはただ存在するだけである。しかし権力は中性ではない。 ,,男性なり女性なりの個人的な力と、 彼ないし彼女の属する文化との間には、まぬがれ難い衝突がある。 その個人をその限界内に引き留めておこうとする文化にたいし、 こうした権力は戦いを挑まざるを得ない。 この一貫せる戦いは、(弁証法的な性格のもので) 一方の極が変化するにつれて、他の極も変化してゆくのである。 kusamura 題名 1.幼児期における権力の起源 1 時間 2009-08-17 20 45 48 1.幼児期における権力の起源 (*子どもの攻撃性) 権力の起源はまた攻撃の起源でもある。 攻撃は権力のひとつの使いかたであり―あるいは誤った使いかたである。(*クララ・トンプソンによれば)攻撃というものは「一切の生けるものの特性であるように思われる。 生命を成長させマスターする先天的な傾向 から出てくるものである。 ただこの生命力が発展の途次で妨げられるとき、 怒りや激怒ないし憎悪の要素が、その生命力と結びつくのである。」 「権力」というコトバは「~できる」(to be able)の意味をもつ語根からでている。サリバンは,,この意味で,,「能力(ability)と権力(power)」と一緒に使い,, 「われわれは、自分の中にこの 権力動機づけのようなものを 持って生まれているように見える」,,この権力的動機づけは、 安全や地位や威信によって形成されているもの 、と述べている。 こうした性格は、たしかに社会的なものであって、その文化から またその文化の中で発達する幼児によって学習されるのである。 子どもがブロックで家を建て、つぎにその建物を建て直すためにたたきこわす のを見守るとき気のつくことは、権力と攻撃が積極的な価値を持っているということである。 子どもは、ベストをつくし、 自分の発達レベルを可能にする限りにおいて、自分の世界を探検し、 実験し、支配し続けるのである。D.W.ウィルコット博士は「もともと、攻撃性はほとんど活動性(actibity)と同意語である。」と書いている。 もともと、幼児は、その権力や攻撃性を つねにその反対物との結びつきで示す ―つまり、 独立し 育てられたい という欲求との結びつきをしめす。 その成長の全過程は、 母親との生物学的な結びつきを断つように始まるものとして考えられている。 子どもは、へその緒を切ったあと、 心理的な基盤に立ってもろもろの関係を形成するようにならねばならない。 危険をおかして進むごとに、子どもは、自分の個人的な力や 能力を利用していくようになり、 それから母親のもとへ帰ってゆく。 この発達の成長発育的な側面は、それ自体、 世話をされ愛されたいという傾向にあらわれてくるし 自己主張をし、もし必要なら抵抗するという要求のなかでは、 攻撃的な側面があらわれてくる。前者は「イエス」であり、後者は「ノー」である。,,もし子どもの攻撃性が阻止されるようなことがあると、 その子は永久に依存性の強い状態を持続する傾向になる。,,もし子どもの愛および世話をしてもらいたい欲求が かなえられない場合には、 その子は破壊的なまで攻撃的になるかもしれないし、 世間へ向けて復讐をはらすことで生命を落とすかもしれない ―これは時々スラム街で育てられる子どもに見られるケースである。,,もし子どもが、制限なく何をしてもよく、自分の力をテストするための何も持たず、 両親がしっかりして何も反対できないという事情なら、 その子は、その攻撃性を自分自身に向け、爪をかんだり、自らに罪をなすりつけたり、 あるいはたまたまやって来るだれかれなしに、無分別な攻撃を加えるかもしれない。子どもの可動性(mobility)は、 子どもが母親から離れてゆく距離を拡げるひとつの方法とみなすことができるかもしれない。 それは、母親から独立するための実地訓練であり、子どもの実母がどこにいようと、 あるいは彼女が生きているにせよ死んでいるにせよ、それにおかまいなく、 生涯にわたって高まってゆく実践行動である。 kusamura 題名 1.幼児期における権力の起源 2 (*子どもの攻撃性) 時間 2009-08-17 21 03 26 不幸な育ち方をすると、個人の持っているもろもろの力は、 破壊的な目的にふり向けられるし、また、実際にふり向けられてしまう。 ある女性の患者は、定期的に、夫や子どもに対する抑えがたい怒りにとらわれたが、 その怒りの際、彼女は、際限のない悪口雑言(invectives)を吐き、 激しい怒りに狂って夫をくりかえし握りこぶしで強打するのであった。 後ほどわかってきたことによると、彼女は売春婦の娘で、また彼女が幼かったとき、 しばしば、カフェでいろんな違った男と接触するための「人目につきやすい用具」(conversation piece) として用いられていた。母親はその男をそれから自分の部屋へつれこみ、 彼女(患者)は、一時間ばかりそこにテーブルにひとりぼっちで座らされていたのである。 彼女は、学校時代を祖父母と暮らしており、 生い立ちゆえに村人たちからはいつも除け者にされていた。 彼女は、とやかく噂している婦人達の家へ出かけ、その家のドアの入り口で 復讐のため脱糞(defecating)したことを覚えていた。 彼女は、兎やそのほかの動物を家で飼育することで、世話をする感覚を発達させたが、 しかしこの感情は孤独な感じであったので、 自分の友達との親密な状況の中で自分の気の小さいところ、を決して克服してなかった。 こうした躾け方のために、成長後、対人関係の場において 破壊的な怒りや攻撃性が生まれてきたことはよく理解できる。 幼児が正常な発達をするのに必要なものは、 当人が日々、支配(masterry)の感覚を探り出してそれを強化できる、自らの能力と 親からの愛情とケアである。 ストール(*アンソニー・ストール)は次のように述べている。 「幼児は“私にそれをやらせて”を繰り返し、懇願するものである。 賢い母親は子どもにできるだけ多くのことを独力でやらせるよう励ますものである。 たとえば、大人がやれば数秒でできてしまう結び目を結ばせるのに、 子どもでは数分かかろうとも、辛抱強く待つのは、たとえ退屈だとしてもやらせるべきである」 ストールは、グリムのおとぎ話(*残酷なものが多い)を読むことや、 「警官と泥棒ごっこ」をすること、戦争ごっこなどが子どもに有害であるとは考えていない。 ,,もし現実の世界で自分の攻撃傾向を実行できない子どもの場合であれば、 ファンタジーの世界でそれをやり遂げる必要がある。 再びウィニコットを引用すると、 『もし社会が危険に瀕しているとすれば、それは、人間の攻撃性のゆえではなく、 個々人の中の個別的な攻撃性を抑圧しているからである』。子どもには自分の成長する個性を守り主張するために、 手に入れることのできる攻撃的な潜在力が必要なのである。 kusamura 題名 3 自己-確認 1 時間 2009-08-18 01 12 54 3 自己-確認 存在への権力(power to be)ということの中には 自分自身の存在を確認したいという欲求が内包されている。 われわれの見解では、第二のレベルに属するこの存在確認は、 自己信頼(self-belief)の静かなおだやかな形のものである。 それは、生後数ヶ月で、片親ないし両親を通じて、幼児に伝えられる 基本的な価値感情からでてくるものである。 しかも、それは、後になって、威厳の感覚(sense of dignity)として 姿をあらわすのである。この「威厳」(dignity)というコトバは、 「値打ちのある」(degnus)というラテン語に由来するもので、 心理的に健康な人間にとっては欠くことのできないものである。 多くのことが、 尊重されたいという、この最初のあこがれに起こってくるのかもしれない。「私は何がしかの価値あるものであるが、世の中の何人もそれを知らない」 (第一章にでてきた分裂症傾向の若き女性音楽家プリシラのコトバ)「私はとるに足らない者であり、しかも他人が私を性的に利用できるときを除いては 価値が認められているとは思えない。」 (マーシデス-黒人売春経験者-はこのように言いたかったのであろうと想像できる) 多くの人の犯す間違いは、自己-確信にバイパス(迂回路)をつけて、 無力性から直ちに攻撃と暴力へと飛躍してしまうことである。 われわれがつねに、無力的であるとき、そして はじめて自分が権力を持っていると考えたときに得られる向こう見ずな感情は 人を酔い心地にしてしまうものであるように思われる。 それは、自分は「存在への権力」を持っているという事実を体験するために アドレナリンを呼びださねばならなかったようなものである。 しかも、ひとたびアドレナリンが存在すると、 人はその持っている力を攻撃的な行動へ移動し続けてゆくのである。ここから、治療中の人物は、 しばしば自分の友人や家族が 「攻撃性過剰」と呼んでいる時期を通過するのである。 それが起こるのは、彼らが自分自身の存在への力を実感する直後のことである。 この攻撃あるいは暴力はかがり火のように燃えるが、それは、 一般に一時的な運動にすぎない。 人間発達のステップとして、 自己-確信がオミットされるなり、さっさと片付けられるならば たいへん価値のある何ものかが失われるのである。 人の存在への権力に、耐久力と深みとを与えるものは、自己-確信である。 現代文化では、多くの人が、道徳的な根拠から、 自己-確認を否定する傾向にある。 こうした衝動(urge)は軽蔑的な意味合いから 利己的(selfish)であるか、あるいは自己中心的(egocentric)であり、 他人を愛することは自分自身を「憎むこと」であると教えられてきた。 これはゆがめられたピューリタニズム解釈の、明らかに時代錯誤的な側面の一つである。 サリバンはつぎのような命題をたてている。 他人に対するわれわれの態度は、 自分自身に対する自分の態度に平行するものであり、 他人を愛するつもりならその元になる 自己自らに対する愛が欠かせないものである。 このサリバンの命題は、今日、何の疑いをさしはさむことなく認められてきている。 聖書の教え ―あなたがあなた自身を愛するように汝の隣人を愛せよ― 治療的に言って、それは,,患者の行動を大局的に見る助けとなる。 「汝は、汝自身をひどく扱うのと同じように、他人に対しひどい扱いをするなかれ」。 kusamura 題名 3 自己-確認 2 時間 2009-08-18 01 26 23 ある人が自分を価値ある人間だという確信を抱いているかどうかは、 (普通では)まず第一に、母親ないし母親代理人の幼児に対する態度に始まり、 家族の中では、幼児に対して家族員がどれだけ正直であるかによって滋養される。 子どもが成長するにつれて、 この最初の感情(*自分が価値あるものであるという自己-確信)は、 彼および彼の潜在力に対する家族外の人びとの評価によって強化される。 後になると、 さらに成熟せる人間は、苦しいときに思い出せるように、自分の記憶の中に 自分を信じてくれている人びとのイメージをとどめておくように思われる。私が大学生のころ、 私はある大人が私をきわめて重大なものに信じてくれた経験がある。 その後時々、私の生活の中で、私が運命的な決断の場に直面すると 私はこうした人物の一人にしがみつこうと探し回っている自分に気づくのである。 ,,彼ないし彼女が、私に何をすべきか語ってくれたわけではない。 私自身の心理的安全のために、自分を信じ込んでくれる誰かを探し出すことが 重要であった。 精神療法のねらいには、その個人がしばしば、着実に、長期にわたって、 自分自身の自己-確信をつくりあげてゆけるようにその個人を助けることが含まれる。人間が自我-意識的でありうることは、 広く自己-確信への要求を増すのである。 人間においては、自然と存在は同一ではない。しかし、部屋の中でふざけまわる 私の子猫にとっては、自然と存在は同一で「ある」 ―子猫が自分について何をしようとそれにはおかまいなく、子猫は猫になるのである。 猫は、自我-意識(self-consciousness)あるいは何かを認識する自分を さらに背後で認識するというような負担には耐えられないのである。 ,,楢の木の場合、自然と存在はまた同一である。 どんぐりは、物理的条件が完全なら楢の木に生成してゆく。 どんぐりはそのことについて考えたり、あるいはそのことについて知るという重荷は 負わされていない。 意識というものは、自然と存在の間に入り込んでくる媒介変数である。 それは、広く人間存在のもろもろの次元を拡大してくれる。 つまり意識は、人間の中に認識の感覚、責任感、この責任に相応しい自由の限界を 感じさせるのである。 人間の意識のもつこの反省的な性格は、動物行動についての研究では、 人間の攻撃性についてただ皮相的なことだけが説明されている。 人間というものは、無限に残酷になりうるものであり、 自らのサディズム的な快感のためには破壊も辞さないのである ―これは動物には否定されている「特権」である。 こうしたことの一切は、 人間存在にあっては、自然と存在が同一でないという事実から出てくるのである。 かくて、人間は、自分の発展に参加し、その選択がどれほど限定されているにせよ、 自分の重みをこれないしあれへの傾向にかけるときだけ、自我(self)になるのである。 この自我は、自動的に発達するものではない。 人間はただ当人が、自我を知り、それを確認し、それを主張する限りにおいてのみ、 自我になりうるのである。 これこそ、ニーチェが、 絶えずコミットメントと献身(dedication)の必要を主張している理由である。 またこれは、人間が、 動物その他の自然よりはるかに教育可能(educable)である理由でもある。 人間は、自らの自覚を通して、 ある程度自らの成長に影響を与えることができるのである。 kusamura 題名 4 自己-主張 時間 2009-08-18 21 02 03 4 自己-主張 自己-主張の奇妙な面は、 人間はしばしば主張を訓練するために、 対立するもの探し出すことである。 つまり自己主張は、病理的なものではなくて、 存在への権力の建設的表現なのである。 二歳から四歳へかけて,,幼い子どもは、その「限界をテスト」し、 どこまでしでかすと両親の反対をまねくかを知り、両親にさからうために両親にさからい、 自分に対しダメというためにダメというであろう。 ―四歳児の主張は、それが母親の要求に対立するがゆえに悪いのである― 子どもは 母親が期待しているものとは全く違う仕方で「善」と「悪」という問題に 関心を抱くことになるかもしれない。(シャルロッテ・ビューラーのレポート)四歳のピーターは、 「大声でひとりごとを言い、尋ねているのが聞かれた。 『彼(=僕)はいい子なのか。あるいは彼は悪い子なのか』。それに対し、 断固たる宣言がよろこびとともにでてくる。 『いや、悪い子だ、彼は』」 このように、対立物を探し出すことによって、 子どもは、言われた何かをすることをしばしば拒否するのである。 分別のある親はこの行動を受け容れるが、 それは子どもの罪悪感を増大することになるという理由ではなく、 降参するための口実としてでもない ―子どもは、そこに真実に対立物を得るために 何かほかの吐け口を見つけることに、 精を出さねばならないのである。 というのは、彼(子ども)の欲しているものは、 自分の「心理的な筋肉」を試験することである。 それは成長の持つ正常で不可欠な側面である ―自己主張への意志は子どもによって「実践される」(practiced)のである。 ------------(*ニーチェ)----------------------------------- 権力は、対立物が克服される状況下で実現されるものである。ニーチェは意志のこの側面を見ていた。 『私は、意志がどこまで抵抗や苦痛や苦悶に耐えられるかによって “意志の力”を評価する』 ,,安心と富とは敵であり、 本ものの自我の発展を浸食し、その基礎を削り取ってしまう、 と、ニーチェは信じていた。 われわれはニーチェが、繰り返し 『生命は自我超克(self-obercoming)から成っている』と述べているのを知っている。 ニーチェは、ダーウィン的な生存競争という考え方を軽蔑し、むしろ 『一切の生ける被造物は、自らの生存の保持に向かうどころか、 自らを高揚し成長し、より多くの生命を生みだそうと努力するのである』と主張している。 『生命が言った。見よ、 私は、自分自身を絶えず克服しなければならぬものである。 事実、それをあなたは、生成の意志、あるいは一つの目的への より高きもの、さらにより多様なものへの衝動と呼ぶのだ』 リンク
https://w.atwiki.jp/kt108stars/pages/8624.html
306 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 13 47 17.90 ID ELxe/ARy0 [1/2] プチ報告、システムはソードワールドRPG シナリオの流れで滞在している都市の権力者と会う流れになったのだが、いざ謁見の時に軽い問題が発生 プレイヤーAが権力者に対して無礼な態度を取りまくる (例えば 権力者「よく来たな冒険者たちよ、名は?」 A「まずはそちらから名乗るのが筋ってもの~」みたいな感じ) GMにメタトークで「これ以上無礼な態度を取ると態度が硬化するよ」と言われ引き下がったが、あとでAに聴いてみたところ、先程の一例の返答であればいわゆる 「はは、これは一本取られたな 勢いのある若者だ」的な よくある無礼を気にしない豪胆タイプ権力者の発言を期待していたらしい フィクションで無礼発言が逆に功を奏する様なシチュが多いのが要因だったのかな 307 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 13 51 58.51 ID XyNf4ZBC0 こうならないとおかしいとごねまくってようやく普通だろう(感覚麻痺) 308 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 13 52 55.21 ID w9xJsGJt0 困いなくね? 309 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 13 55 35.50 ID ELxe/ARy0 [2/2] この程度だともはやプチ報告にすらならないのか・・・ 何かすまん 310 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 13 55 51.64 ID JmkzC5HA0 そういうキャラ設定でやってたんだろうし、若干誉められない部分はあってもメタトークで大人しく引き下がってごねないなら困とまではいけないような ちょっと下手なPLってだけじゃね スレ367
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/1720.html
阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第十章 権限・機関の区別(「権力分立」)論 p.160以下 <目次> ■第一節 「権力分立」の意義[185] (一)「権力分立」は国家権力を分離・独立させるわけではない [186] (ニ)「権力分立」は国家権力の不可分性とは矛盾しない [187] (三)「権力分立」論の目指すところは「権限の区別」の技術と表現されるべきである [188] (四)「権力分立」論をドグマとしてはならない [189] (五)「自由」は消極的で「負の力」にとどまるが故に統治構造上「権力分立」が組み込まれる ■第ニ節 「権力分立」論の体系化[190] (一)「権力分立」の理論化は国家作用の類型化からは始まる [191] (二)ロックは立憲君主制を擁護するための理論を考えた [192] (三)ロックは四作用の担当機関を二つに統合する [193] (四)モンテスキュー理論は国家作用の類型別の担当機関を考えた [194] (五)モンテスキューは裁判権を権限相互の抑制関係から除外している ■第三節 理論上のシェーマから実定憲法での受容へ[195] (一)「権力分立」は純粋なかたちで実定憲法典に実現されたことはない [196] (ニ)アメリカは厳格分離イメージに比較的忠実であったといわれるが、独特の分立理論によっている [197] (三)「権力分立」は立憲君主制下で新たな局面を迎えた ■第四節 「権力分立」論の語らないもの[198] (一)モンテスキューは三権を「法」のもとに置こうと考えていた [199] (ニ)「法」づくりと「立法」は同義ではなかった [200] (三)執政権は行政権と同義ではなかった [201] (四)裁判は「立法」を語る口ではなかった [202] (五)「権力分立」論はインフォーマルな政治過程を説明しきれない [203] (六)「権力分立論」小括 ■第五節 日本国憲法と「権力分立」[204] (一)「権力分立」の純粋理論に従った条文スタイルはこうなる [205] (ニ)明治憲法は純粋の「権力分立」制を採用しなかった [206] (三)現行憲法は独特の「権力分立」制を採用した ■ご意見、情報提供 ■第一節 「権力分立」の意義 [185] (一)「権力分立」は国家権力を分離・独立させるわけではない 国家権力を分割可能とする理論が、歴史上、二度登場する。 一度目は、立憲国家を根拠づけるため、二度目は、連邦国家を構成するため、である。 前者での分割は、「自由な政府は、信頼ではなく警戒心によって樹立される」(ジェファースン)とみて、権限の集中を排除する「権力分立」によって、国民の政治的自由を保護するための統治技術である。 その技術は、 ① 国家機関を理論上区別し、 ② 担当機関を区別し、 ③ さらには人をも分離(兼業を禁止)し、 ④ いったん区別した国家作用を複数の機関に分有させることによって、 ⑤ 相互の抑制を図り、 ⑥ その結果として均衡を生み出そうとする狙いをもつ。 「権力の分立は、単に分離のためのものではない。もしそうだとすれば、ばらばらの国家の諸活動の脈絡のない並存が生ずるであろうから。むしろ、権力の区分は、権力の均衡、『平衡』を実現するためのものである」(シュミット『憲法理論』228頁)。 [186] (ニ)「権力分立」は国家権力の不可分性とは矛盾しない 「権力分立」理論を構成するに当って、克服すべき難題が残される。 方法論的集団主義([1]参照)のもとで、国家を統一体として法的に把握するその当然の帰結として、国家権力の統一性と不可分性の理論が生まれる。 この理論と、国家権力を分割可能とする理論が、すぐさま、対立したのである。 この対立を解決するために、まず、不可分の憲法制定権力が国民に存し、個々の権限は憲法典上のそれである、とする理論が考案されることになる。 すなわち、主権者たる国民が制憲権を発動して憲法を創設し、さらに憲法典を制定するに当たって、複数の代表的共同意思の担い手を憲法典上の単位として承認したのだ、と説く道筋である。 また、国家法人説は、次のような別の解決案を提示する。 すなわち、国家における主権を意味する国家権力は、本来、単一不可分であるのに対して、国家という法人のもつ権利を意味する統治権は、分割可能である、とするのである。 権利が分割可能であると同様に、統治権は、統治技術上、その発動目的または発動形式に応じた権限に区別でき、そして権限担当機関を区別しうる、というわけである。 そのほか、主権は一体的に国民または国家に帰属するものの、その行使態様は分割しうるとする説明法もみられるが、これは言葉上の単純な議論と評さざるを得ない。 [187] (三)「権力分立」論の目指すところは「権限の区別」の技術と表現されるべきである 右に述べた統治上の技術は、通常、「権力分立原理」と呼ばれる。 しかしながら、その用語は正確とは言い難い。 権力「分立」とは、「分立」(division)でも、「分離」(separation)でもない。 「分立」とは、正確には、立法権を第一院と第二院とに分割することにみられるような同一機関内での区別をいい、「分離」とは孤立化を意味する(シュミット『憲法理論』231頁)。 いわゆる「権力分立」とは、先に引用したシュミットの一文に示されているように、国家の統治権を分離してそれを孤立化するものではなく、むしろ、統治形式別に編成された組織(機関)が、相互にどう作用すべきか(ときには、どう統合されるべきか)にかかわる理論である。 複数機関が一つの権限を相互に分有しているからこそ分立論の目指す「機関間コントロール」が可能となるのである。 「権力分立」をもって、「三権分立」と同義と捉えて、対等な三権が並列的に独立して存在する機構とイメージすることは、避けられねばならない。 そればかりでなく、例えば、中央集権に対する地方自治、連邦に対する州、二院制議会における上院に対する下院といった「機関内コントロール」の構造も、「権力分立」論の射程内にあるからである。 「権力分立」が「三権分立」と単純に同視されるに至ったのは、アメリカ合衆国憲法制定以降である。 合衆国憲法策案者たちは、司法権に独自の地位を与えようとして、「三権の分立」を強調したのであった([194]参照)。 以上の諸点に配慮すれば、「権力分立」は、「権限」の「区別」と表現されるべきである。 [188] (四)「権力分立」論をドグマとしてはならない 「権力分立」をあまりに教説(ドグマ)化することは、柔軟な思考を妨げる。 国家には必ずしも「三権」が存在すべきものでもなく、その担当者も三つに分割されるべき必然性は、どこにもない。 レーヴェンシュタインの指摘するがごとく、「権力分立」は、政治的自由の保障をその目的(テロス(※注釈:telos 目的因、究極の目的))とするけれども、異なった諸機関によって権能が行使されるほうが分業技術上好都合であることにも、その存在理由をもっている。 論者によっては、「権力分立」を民主制と結びつけるものもあるが、それは正しくない。 なぜなら、第一に、徹底した民主制である直接民主制のもとでは、同理論の働くべき余地はないのであり、第二に、それは確かに、統治機構の民主化を目指した国民代表なる概念の登場と密接に関連しているとはいえ、同理論は、国民代表機関の法的最高機関性を否定する狙いを持っていたからである。 従って、ケルゼンのいうように、「権力分立の原則を民主的なものと唱えるのは、理論上の浅慮か政治的意図かの何れかによる」(ケルゼン『デモクラシー論』21頁)というのが正しい。 権力分立技術は、民主主義の産物ではなく、自由主義の産物である(但し、二院制が採用されている「権力分立」機構のうちの民選議院それ自体の地位と権能については、民主主義との関連を否定できない)。 [189] (五)「自由」は消極的で「負の力」にとどまるが故に統治構造上「権力分立」が組み込まれる 「権力分立」は政治的自由の保護をその目的とするとはいえ、「自由は何物をも作り出さない」(シュミット『憲法論』234頁)、換言すれば、自由は、個人にとっては「正の力」であっても、国家に対しては「負の力」にとどまり、統治のあり方について特に積極的・明示的には何も指示していない。 だからこそ近代立憲主義憲法典は、その経験上自由にとって相応しい分業的統治の形体として「権力分立」を明示的に組み込んできたのである([50]~[51]参照)。 もっとも、「権力分立」にも、実定憲法上さまざまなヴァリエーションがあり、それは、政治的自由の保障という基本理念が変わらぬところまで妥協する柔軟な統治技術である。 この点については、すぐ後の第三節([195]~[197])でふれる。 ■第ニ節 「権力分立」論の体系化 [190] (一)「権力分立」の理論化は国家作用の類型化からは始まる 「権力分立」を理論化するに当たっては、二つの方向がある。 一つは、国家機関から国家作用を類型化する方向であり、他の一つは、国家作用を理論的に類型化することから始める方向である。 前者は、既存の国家機関の有する権限を、国家作用として羅列する傾向をみせる。 これに対して、国家作用の理論的類型化から始めて、担当機関の区別という「権力分立」を説いたのが、J. ロック(1632~1704年)の『市民政府論』(『統治論』とも訳出される)第二編、そして、C. モンテスキュー(1689~1759年)の『法の精神』の第11編第六章である(巻末の人名解説をみよ)。 [191] (二)ロックは立憲君主制を擁護するための理論を考えた ロックは、政治社会には、①立法、②執行、③防衛、という三つの作用が存在すること、そして、この三つの作用は各人の「生命、自由および財産」(property)の保障装置として政治機構化されて、それぞれ①立法権、②執行権、③連合権、となること、を説いた(作用上の三権の理論的区別)。 第一の立法作用は、 一般性・抽象性、公知性・予測可能性という条件を満たす法定立行為であり、 第二の執行作用は、 一般的・抽象的法を特定事案へ適用する行為であり、立法を理論的前提として存在する機能である。 第三の連合権は、 国家であれば当然にもつ対外的自己防衛作用である。 さらに、イギリス法特有の概念である国王の大権作用(prerogatives)が、突然として、そこに付加される。 彼の理論によれば、結局、四つの作用が存在することになる。 それらの作用中、ロックは、立法の一般性、公知性等の属性を重視し、執行作用を立法作用に従属させた。 なぜなら、一般的抽象的規範を定立するという立法機能は、理論上、執行の機能に先行するという意味で優越するばかりでなく、人民から直接立法府に信託されたものであるから、その由来からしても、執行権に優越していなければならないからである(「信託の理論」)。 [192] (三)ロックは四作用の担当機関を二つに統合する 次に、担当機関の区別となると、ロックは理論的というより実務的な観点から、非常設の議会と、不断に活動するための常設の執行機関との分業を説く。 執行権と連合権については、同一の命令のもとに統一性を保持する必要性から、その担当者は単一機関、すなわち、国王であるとされる。 国王は、そればかりでなく、議会による抑制から差し引いた後に残される大権をも有する。 大権は、正当なる君主が、人民の福祉を守るために用いる、非常時の自由裁量として残されるべきもの、と位置づけられている。 かくして、国家の四作用は、ニ機関に統合されるのである(表13をみよ)。 ロックの目的は、専制君主制に代わる立憲君主制を擁護することにあったのであり、この観点から、国民(その代表機関としての議会)の有すべき作用と、国王の有すべき作用との区別に言及しながら、二機関の均衡を説いたのである。 ニ機関の均衡論は、立法権をめぐって典型的にみられる。 つまり、ロックは、君主が立法府の構成者たる資格において(これを「議会における国王」“King in Parliament”という)、立法権の主体となると説いて、議会と君主の力を均衡させようとしたのである(そのうえで、彼は議院と君主によって構成される議会をもって最高機関と位置づけた)。 【表13】 J. ロックの権力分立論 作用(客体の区別) 担当機関(主体の区別) 立法権 国民の代表 + 国王 執行権 国王 同盟権 国王 国王大権 国王 [193] (四)モンテスキュー理論は国家作用の類型別の担当機関を考えた 法を制定し執行してきた君主に対抗する勢力として、市民によって選出される代表からなる議会が登場した。 議会は、万人に影響する事柄に関して法を制定する権限を、君主から奪い始めた。 この歴史的展開のもとで、モンテスキューは、議会による法の制定と、君主や裁判所による法の執行が、正義に適うといいうるための国家統合のあり方を考えた。 彼の理論は、現実に見て取れる統治権の種別(軍事権、治水権、課税権、裁判権等々)を束ねたものでもなければ、統治に必要な「審議→執行→裁判」という三段階を理論化したものでもなかった。 その理論のユニークな点は、誰が、どのように法を制定してそれを執行すれば、それらの国家作用は正しいといえるか、という問に対して、次のように答えた点にある。 (1) 「正しき法→正しき法の制定→その法の正しき執行」という条件を満たすには、「一般的・抽象的法規範を制定する立法権→それを執行する行政権と裁判権」というように、国家作用を重層的に類型化すること。 (2) 誰も、すべての国家作用を独占すべきでないことは勿論、一つの作用をも独占してはならないこと(権限の分有)。 (3) 誰も、複数の機関を担当してはならないこと(兼職の禁止)。 右のような観点に立って、モンテスキューは、すべての国家には立法権、執行権(万民法に関する事項の執行権)および裁判権(市民法に関する事項の執行権)が存在する点を指摘して、国家作用を三つに分割する。 しかる後に、当時存在していた三つの社会的勢力、つまり、貴族、市民および君主に、それぞれの国家作用を分配することによって、相互間の抑制機能を発揮させ、権力の集中を阻止しつつ、均衡ある統治(混合政体または中庸政治)を実現することを彼は構想した。 彼にとっては、権力が権力を抑制することによって権力の均衡の達成される国家が理想国であった。 権力が権力を抑制できるためには、諸権力の分離ではなく、相互的な阻止と結合の体系がその構造の前提とされている。 そのことは、立法に当たっての立法府と執政府との関係に顕著に表れる。 執政府は、立法にあたって「阻止する権限」を行使することによって立法に参与する。 執政府は、同権限によってのみ、立法権に参与すべきであって、議会での討論に参加すべきでなく、また提案すべきでもない。 反面、立法府は、その制定した法律がいかに執行されたかにつき監督権限をもつことによって、執政権に参与するのである。 立法府は、執政府権限への「阻止する権限」を持ってはならない。 なんとなれば、執政府は立法のもとに置かれていることから、本性上、立法権に拘束されており、これ以上制限される必要はないからである。 このように、「権力分立」論は、ある一つの作用を複数の機関が分有することを理論的前提としているのであって、厳格な権限の分離を説いているのではない(表14をみよ)。 これを「相互作用理論」と呼ぶことにしよう。 機関間の相互作用を説く彼の理論は、(a)複数の機関が一つの作用を分有することを前提とした、(b)既存の社会的勢力間の混合政体論、であった。 そのために、(a)の点について、後世の法理論家は、実質的作用と形式的作用との理論的識別に悩まされていき、(b)の点については、B. コンスタン等のごとき、中途半端な分立論であるとの消極的な評価を下したのである。 【表14】 モンテスキューの分立論の概要 国家作用の別 関係する国家機関 立法権 ①君主が議会を召集すれば、議会は活動能力を与えられて、法律制定の審議に入り得る。②1院が審議した後、2院が審議して、これに同意することによって、議会は「制定する権限」をもつ。③君主が、立法を「阻止する権限」をもつ。 執政権 ①君主が議会制定法を執行する。②議会が、君主による執行を監督する。 裁判権 人民の代表者が、非常時の機関を構成して、議会制定法に従って、裁判する。 [194] (五)モンテスキューは裁判権を権限相互の抑制関係から除外している モンテスキューは、立法権、執行権そして裁判権という三権限を挙げておきながら、裁判権については常設的な組織体に担当させない点を強調するにとどまり、第三権としての地位を与えていない。 彼にとっての権力の抑制とは、①執行権の担当者たる君主、②立法府の一院を構成する貴族団、そして、③同じく立法府の他の一院を構成する市民(ブルジョアジー)、という三つの社会的勢力間の抑制であった。 裁判権は、その結果たる均衡とを壊すものであってはならない、という意味で、権力としても「無」でなければならない、と論じられた。 裁判権が「無」であるためには、それは常設的組織によって担われるべきでなく、しかもその「判決はまさに法の明文に他ならぬというほどに固定的であるべきである」、「裁判官は法の言葉を述べる口」でなければならない、と強調された。 もともとモンテスキューは、裁判権を他の二権と同列に扱ってはいなかった。 彼の構想は、 (ア) 立法権と執行権との本質的な違いを論ずることによって、両者を区別すべきことを説く部分と、 (イ) 裁判権を他の二権から区別することを説く部分と、 から成っていた。 このうち、(ア)については、「権力が権力を抑制する」ための様々な相互手段のあることが詳論され、(イ)については、抑制の関係から除外され、立法府の示したことを語る口である点だけが強調された。 裁判権の位置づけは、分立論からではなく、もともと「法の支配」から来ていた([68]参照)。 司法権の独立は、ある権限の主従関係(従たる機関の重要でない関与)を説く分立論とは別の構想に基づいていたのである。 こにように、モンテスキュー理論においては、三権が同一軸に従って並列的に置かれているわけでもなければ、三権の「抑制と均衡」関係が構想されていたわけでもないのである([198]参照)。 彼の理論にとっては、抑制が第一次的であって、均衡はその副産物であった。 だからこそ、裁判権は「無」の地位に置かれるだけで済んだ。 ところが、早くもフランス革命期に、立法権は議会に集中されるべきであるとするルソー理論の影響を受けたために、「権力分立」論とは、完全に分離された三権を三機関が別々に担当することである、と理解され始めた。 この理解を「完全分離イメージ」と呼ぶことにしよう。 完全分離イメージに影響されて後世は、「立法」、「行政」、「司法」という三権の均衡こそ分立論の眼目であると受け取った。 例えば、《執政府は、議会召集権、法律発案権、法律の共同可決権、拒否権、認証・公布権、議会解散権のいずれも持ってはならず、兼業禁止を厳格に実行しなければならない》とか、《議会は、執政府の選出権、執政府に対する弾劾権、不信任決議権のいずれも持ってはならず、執政府をその信任に依存させてはならない》と説かれたのも、完全分離イメージの影響であった。 アメリカの判例が、《裁判所は司法審査権の担い手でもある》とする解釈を打ち立てたことも、完全分離的理解に拍車をかけた。 というのも、モンテスキュー理論においては「無」であった司法府が司法審査の機関として顕在化された段階で、「三権の均衡」の図式が完成されたようにみえたからである。 ところが、アメリカの建国の父たちが採用したのは、完全分離イメージではなく、相互作用理論のほうであった([196]をみよ)。 ■第三節 理論上のシェーマから実定憲法での受容へ [195] (一)「権力分立」は純粋なかたちで実定憲法典に実現されたことはない 「権力分立」論は、国民代表という観念、そしてその権力組織たる議会の存在なくしては、登場し得なかった。 とはいえ、ロックやモンテスキューにみられた古典的「権力分立」論は、一面では、権力組織としての議会に対して「正当なる君主の大権」を擁護する理論、または「混合政体」内部における立憲君主の地位を擁護するための理論であった。 もともと、その理論によって、君主と議会との間の生きた政治的権力関係を正確な均衡状態に置くことは期待できなかったのである。 この混合政体論は、イギリスのW. ブラックストーンにもみられた。 曰く、「立法においては、庶民は貴族に対する抑制者であり、貴族は庶民に対する抑制者である。両者はそれぞれ、他方が決めたことを拒否する権利を持つ。これに対して国王は、この両者に対する抑制者である。この抑制によって執行権は侵害から守られる」。 こうした混合政体論は、二元的対立構造をなお強く示していた大陸諸国、なかでもドイツにおいて、君主と貴族との二元的抑制関係の部分を強調する、立憲君主制擁護のための理論へと変質させられていった(この点については、[197]でふれる)。 それにも拘わらず「権力分立」論は、その後も、公理の如く扱われ、今日でさえ、過大に評価されている。 現実には、その理論は、実定憲法に導入されるに当たって、各国の政治力学や法文化の前に大きく変容せしめられており、不動の中核部分すら欠いているかのようである もともと「権力分立」論は、君主の位置を中心にして抑制の図式を描いた超実定憲法的な制限政体論なのであるから、現実の執政府と議会との力関係が実定憲法上の「権力分立」構造を決定した。 [196] (ニ)アメリカは厳格分離イメージに比較的忠実であったといわれるが、独特の分立理論によっている アメリカの13州は、制憲権理論または国民主権理論を基礎としつつ、「権力分立」論をも憲法典に採用した。 それに続くアメリカ合衆国憲法(1788年)は、先にふれたように、厳格な三権の分立形態を受容した、と一般的にいわれる。 確かに、君主に似て非なる大統領が議会の信任に依存しない点、議員の兼職が禁止されている点、執政府(Executive Branch(【N. B. 13】参照))が法案提出権や議会の解散権を持たない、とされている点では、執政府と議会とを最大限分離する方向にあるようにみえる。 【N. B. 13】「執政府」なる用語について。 本書は、Executive にあたるものを「執政」と表現する。なざなら、通常それは「執行」といわれるところであるが、いずれ [400]、[402] でふれるように、Executive とは、本来「法令から自由な活動領域」を意味し、議会制定法を執行していくことではないからである。なお、Executive の類似語として、Administration がある。Administration とは、執政府の指揮監督のもとで、公務の遂行に当たる人々の全体またはそのための組織をいう。通常は、Executive、Administrative ともに、「行政」と表現されるが、それは誤導的である。本書では、前者を「執政」、後者を「行政」と使い分ける([402] もみよ)。 ところが、連邦議会のもつ宣戦権、上院のもつ承認権(条約承認、公務員任命の承認)、弾劾裁判権にみられるように、議会または院は三作用全てを自らに集中しているのであって、厳格な権限の区別に立っているわけではない。 さらには、大統領の停止的拒否権(Veto Power)、審議勧告権、非常事態における議会召集権は、厳格分離イメージから程遠い。 かつまた、アメリカ建国の父たちの構想した司法審査制は、古典的「権力分立」論を大きく変容させた([194]参照)。 [197] (三)「権力分立」は立憲君主制下で新たな局面を迎えた 「権力分立」理論は、執政府と立法府との抑制関係のあり方を最大の関心事としてきた。 その具体的内容は、その国ごとの、執政府と議会の正当性を支える理論と実践によって当然に異なってくる。 なかでも、執政府の長として、君主以外に、大統領や宰相が登場してくると、「権力分立」の実相は大きく変容してくる。 例えば、イギリスのように君主の基盤が弱く、議会の正当性が強い国では、議会優位の君主制(議会主義的君主制)となった。 これに対して、君主の基盤の強い国々では、「権力分立」論は、近代立憲主義思想の普及と共に、「自己拘束する立憲君主制(【N. B. 14】参照)」を支える理論として援用されてくるのである。 【N. B. 14】「立憲君主制」の意義について。 立憲君主制の指標は、 ① 議会が法律を制定すること(ただし、その場合であっても、君主が何らかの形で立法過程に参与する。例えば、君主の力が強い国家にあっては、君主の裁可権が立法の成立要因とされる)、 ② 議会が政治活動を監督すること、 ③ 大臣が君主の行為に副署して、責任所在を明確にすること(大臣助言制が採用されていること)、 ④ 裁判所が独立していること、 ⑤ 君主と議会(または議院)の双方が直接的国家機関として存在すること、 に求められる。 なお、君主権限の強い国家においては、君主を輔弼するための大臣たちの緩やかな組織体が登場することがある。この組織体は、一体的な輔弼機関としての「内閣」とも異なる存在であって、両者を区別するために、前者については「政府」なる呼称が用いられる。 「自己拘束する立憲君主制」の理論のもとで、「権力分立」は、新しい局面をもつに至る。 その局面は、執政権と立法権の厳格な分離・抑制の体制に代わる、君主のもとでの「諸権力の協同体制」と称せられる。 協同体制の指標としては、 (a) 君主が国家権力の源泉であることを大前提として、 (b) 君主に対する政府(大臣)の助言制度が採られていること、 (c) 君主と議会が立法権を共同行使すること(立法に関して、君主の裁可が必要とされること)、といった権限行使方法が中心となるばかりでなく、 (d) 君主が議会会期の開閉の決定権限をもっていること、 (e) 君主が民選議院の解散権を有していること、 (f) 大臣と議員との兼職が容認されること、 (g) 大臣が議会への出席発言権をもつこと等、機関間の相互作用も挙げられている(詳しくは、第11章の「議院内閣制」、なかでも [214]、[217]参照)。 このように、協同体制が強調される分立論のもとでは、一方では、唯一の国民代表機関である立法機関を最高機関足り得なくし、他方では、君主を憲法的拘束のもとに置くことが試みられるのである。 ■第四節 「権力分立」論の語らないもの [198] (一)モンテスキューは三権を「法」のもとに置こうと考えていた 先にふれたように([192] および [195] 参照)、古典的「分立」論は、一面では、当時新しく発生しつつあった議会を、君主制という既存の海図に上手く位置づけようとする試みであった。 ところが、そればかりではない。 「分立」論は、制限政体にとって本質的な「法」のもとに、「政法」(今日いう「公法」)を制定する議会を置き、さらにそのもとに、政法を自動機械さながらに執行する執政府・司法府を置くという、垂直的に発動される国家作用の序列を説いたのである。 そして、「これら三つの権能は静止または不動の均衡状態を形成しなければならない」とするフォーマルな視点に立って、各機関間の抑制が説かれた。 国民の国制上の地位は扱われなかった。 [199] (ニ)「法」づくりと「立法」は同義ではなかった 国家作用のうち、中心的位置を占めてきたのが執政権である。 このことは、歴史を通して真実である。 立憲主義は、恒常的に発動されて流動的となりがちな、国家作用の中心たる執政権をいかに統制するべきか、苦慮してきた。 「権力分立」論は、それへの解答の一つであった。 モンテスキューの「権力分立」論は、立法・執政を統制する「法」を置いて、「法→立法→執政・裁判」という垂直的統治構造による執政権の制限を説いたのである。 彼は、「各国民の政法・市民法は・・・・・・人間理性 [という法] が適用される個々の場合であるべきである」と述べており、「法」(law)と「制定法(legislation)とを同視していたわけではなかった。 ところが、その後の思想家たち、なかでも法実証主義的公法学者たちは、その「法」を立法府の制定する「立法、制定法」と等置してしまった。 そのために、通俗的理解による「権力分立」論は、「モンテスキューが立法(制定法)のもとに行政作用と裁判作用を置いて、国家統治権を民主主義化することを構想したもの」と早計にも即断してしまった。 だからこそ、「議会による決定→内閣(政府)による執行」という図式が強調され、《権力分立は自由主義的でもあり、民主主義的でもある》という誤った理解が普及してきたのである。 [200] (三)執政権は行政権と同義ではなかった 立法活動は、間歇的にのみ姿を現すのに対して、執政は恒常的に行われなければならない。 直接機関を基軸にして形式的に国家作用を範疇化する思考で以ってしては、動態的な執政作用を把握しきれない。 執政の客体たる実質的意味での執政(動態的側面)と、執政主体(静態的側面)との間には、齟齬が生ずるのも当然である。 その齟齬部分は、いわゆる「行政控除説」によって埋められたかのようにみえた(しかしながら、控除説は分立論の皮相的理解の産物であった。行政の意義については、[402]参照)。 法治主義思想は、その控除部分を法律のもとに置くべく努力するものの、それが成功したわけではない。 実は、モンテスキュー以降の分立論が、執政権を「法律のもとに置かれる『行政権』」に等置してしまった段階で、国家作用に関する正確な把握は困難となったのである。 特に、モンテスキュー理論は、大臣やその会議体である政府という存在を知らなかった。 分立論は、君主と大臣とが一体足るべきものとの前提に立っていた。 ところが、立憲君主制は、大臣を憲法典上の別個の機関として置かなければならない「機関内コントロール」体制である(これに対して、君主制は大臣を置いてもよい体制であった)。 この時点で既に、大臣の活動と君主権限とを「行政権」という一つの概念で説明することは出来なくなっていたのである。 これに対して、イギリスの法的伝統は、行政権には還元できない「国王の大権」を知っていた([192]参照)。 その伝統を一部受け継ぐアメリカも、大統領の執政権限(Executive Power)と、行政機関の為す行政(administration)との区別を知っていた([196]参照)。 我が国の明治憲法典下の天皇の宮務大権や統帥権等も「権力分立」概念では説明できなかった。 複雑な国家作用を三権の類型で論じ尽くすことが、もともと不可能だったのである(イェリネック『一般国家学』496~98頁参照。また、[336]もみよ)。 ところが、憲法学は、「執政/行政」の別を軽視して、両者を一体として捉えるか、さもなくば、後者の行政に関する統一的理論体系の樹立を放擲して、それを行政学に全面的に委ねてしまった([492]もみよ)。 また、19世紀の諸外国の憲法典にみられた会計検査院の存在は、議会からも執政府からも独立した特異な機関であった。 さらには、アメリカに登場した独立行政委員会や、スカンジナビア諸国に登場したオムブズマン(行政監察官)とその変種も、「権力分立」論のなかで余すところなく説明できるわけではない。 [201] (四)裁判は「立法」を語る口ではなかった また、「権力分立」論は、裁判の扱いにも疑問を残している。 モンテスキューは、裁判が「法」を語る口であることを望んだ。 ところが、その「法」は、先にふれたように([199]参照)、後世の法実証主義者によって、立法であると誤解された。 ここから、行政と裁判とは、共に立法府の指示を具体的ケースに適用することであり、本質的な違いはない、とする理解を生んだのである。 この理解のもとで後世は、行政と裁判とを区別することは凡そ不可能であり、歴史的に解明し得るのみと説明することを余儀なくされる(「裁判」と「司法」との違い、「司法」の本質については、第二部第10章第一節の [420] でふれる。ここでは、取り敢えず原則として「裁判」なる用語で議論を展開する)。 [202] (五)「権力分立」論はインフォーマルな政治過程を説明しきれない さらに、現代国家においては、フォーマルな「分立」論では処理しきれない現象が次々に現れてくる。 その現象の一つが現代国家にみられる「政党国家」(権力奪取を恒常的に目指しながら活動する政党の噴出)現象であり、他の一つが国家による「社会的領域」への介入を顕在化させている「積極国家」現象である。 この現代国家における権力抑制構造は、「立法府 対 執政府」といった公式に制度化された権力組織相互間の抑制にあるというよりも、「議会内部の与党 対 野党」の抑制、そして「(政党によって組織化された)国民 対 政治部門」の抑制、という非公式で流動的な形をとる。 そして、その主たる抑制対象も、フォーマルな統治過程(例えば、法律案の成立の阻止)であるよりも、官僚による政策立案過程に向けられなければならない。 官僚による政策立案領域は、今日では、法律案の作成といった立法の準備にとどまらず、経済政策、文化政策、外交・防衛政策等、国家や国民生活にとって極めて重要な分野にまで及び、しかも、それらは「法令から自由な活動領域」として実行されているのが実状である。 この領域をいかに有効にコントロールするかという側面こそ、現代立憲主義の直面する課題である。 「法令から自由な活動領域」の典型例が戦争の遂行である。 確かに、軍隊の組織や経費負担等を定め、戦争権限を手続的に拘束する例は多くの国の憲法典にみられるものの、展開予想の不可能な戦争遂行に当たって具体的個別的な確固たる規準が与えられることはない(戦争権限は、先にふれた執政行為または統治行為の領域に属する)。 古典的な「権力分立」論は、この古くて新しい現象に対して、ほとんど何の回答も与えていないようにみえる。 「立法府 対 執政府」の抑制機能が減退をみせてくると、裁判所による政治部門の抑制機能が分立論のなかで脚光を浴びてくる。 第一次世界大戦以降、各国が違憲審査制の導入に踏み切ったのは、「分立論」のなかに「法の支配」を復活させんがためであった。 その理念を統治構造に反映させるに当たって最も適格な組織体は、司法府であると目された([438]参照)。 [203] (六)「権力分立論」小括 「権力分立」の思想は、統治を完全に民主化しないための技術であって、自由主義の産物である。 それは、「専制政治」から自由を擁護するためのイデオロギーであって、「貴族制」を否定するものではなく、それどころか、立憲君主制や混合政体を支援するための理論であった。 こうした陰の部分を多く持つにも拘わらず、同理論が、多くの国の憲法典に受容されたのは、レーヴェンシュタインの指摘しているように、「個人的自由を『権力』の分立と同一視した」ためもあろうが(レーヴェンシュタイン『新訂 現代憲法論』50頁)、そればかりでなく、統治権すべてを法のもとに置いて統治の安定化を狙ったためである。 こうした本来の狙いを考慮すれば、我が国の古典的理解のように(清宮『権力分立制の研究』)、同技術をもって自由主義的でもあり民主主義的でもあるとすることは誤りだということが分かる。 このことを誤りだといわないためには、《古典的な権力分立論は、国民主権原理が採用された段階で、大きな変更を受けた》という説明を介在させることを要する。 つまり、古典的な権力分立論は、主権者・国民という要素を知らなかったのに対して、19世紀以降の国制には有権者団という国家機関が不可欠の要素となった、という視野をもつことである。 この視野をもったとき、議院内閣制における議会と執政府との均衡は、最終的には国民の選挙によってもたらされるに至る、という展開が理解できるようになる([215] 参照)。 分立理論は、これまでの実定憲法典中に実現されたことはなく、その統治技術は、自由の保障という基本理念が変わらぬぎりぎりのところまで妥協するほどに柔軟である。 また、分立論は、制度化された権限間での抑止のメカニズムを説くために、現代国家の動態的でインフォーマルな憲法現象を十分に捕捉し切れない。 とはいえ、近代立憲主義憲法典が、「分立」論に依拠して、次のような二重の制御メカニズムを用意している点は忘れてはならない。 第一は、 統治権限の分割である。これは、ある一つの憲法典上の行為が幾つかの権力保持者の協同によって成立したときのみ有効となる、とされる場合をいう。BR()例えば、立法機能の両院への分割、憲法改正の議会による発案と国民投票への分割等がこれに当たる。 第二は、 統治権限の阻止である。これは、ある権限保持者の行為に対して、他の権限保持者がこれを受動的に阻止する場合をいう。例えば、アメリカの大統領の立法への拒否権、議会による内閣不信任決議に対する内閣の議会解散権、違憲審査制等がこれである。 権力分立論における右のメカニズムを理解できれば、我々は、次のような了解に達するであろう。 ① 権力分立論は、一機関に一権限を分配する理論ではない(完全分離イメージは正しくない)。 ② 権力分立論は、国家作用を三つに限定するための理論ではない。主体別に作用を配列すれば、三つ以外の作用が出てくるのは当然である。 ③ 権力分立論は、統治過程を静態的に捉えている、という評価は正しくない。分立論は、統治過程を連続したものと捉えながら、諸機関の相互作用のあり方を動態的に分析した結果である。 なお、「権力分立」論の狙いが、三権の分離ではなく、統治権限の分割にあるとする以上、それは、議会内部での分割(二院制)、地方分権(地方自治)、さらには連邦制をも射程内に取り込むことになる。 もっとも、二院制は、モンテスキューの説いたところであるが、後世代はこれを「権力分立」の必須要素とは考えなかった。 ■第五節 日本国憲法と「権力分立」 [204] (一)「権力分立」の純粋理論に従った条文スタイルはこうなる 「権力分立」は、「立法」、「執政」、「裁判」の三権に平等の地位と権限を付与するものではなく、また、それぞれが分離独立することを意味するものでもない。 確かに、厳格分離イメージによれば、 「立法権は、機関1に与えられる(に属する)。」 「執政権は、機関2に与えられる(に属する)。」 「裁判権は、機関3に与えられる(に属する)。」 という権限配分規定形式によることになろう(アメリカ合衆国憲法典の条文は忠実にこれに従っている)。 ところが、実定憲法典に「権力分立」理論が組み入れられる際に、その当時の政治的権力関係を反映して、その実現態は一様でなくなることについては既にふれた([195]参照)。 特に、君主主権を放棄しようとしない国々においては、君主が統治権を掌握するものとの前提に立って、 「立法権は、君主および機関Aが共同して行使する。」 「裁判権は、機関Bが行使する。」 という「権限行使方法」が憲法典に規定され、「分立」論の名のもとで「統治権限の分割」が前面に押し出されてくる。 [205] (ニ)明治憲法は純粋の「権力分立」制を採用しなかった 明治憲法は、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(4条)と定めた。 これは、統治権を三分し君主がその一部を担当するという「分立論」を拒否する趣旨である。 明治憲法体制においては、国家作用は、まず宮務と国務(広義)とに分けられ、広義の国務はさらに、統帥事務と狭義の国務とに分けられた。 狭義の国務は、さらに、立法、行政(このなかでも、会計検査院と賞勲局には独立性があった)、司法へと分けられた。 そのうえで、三権の行使方法は次のように規定された。 「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」 (5条) 「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」 (55条1項) 「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」 (57条1項) これは、立憲君主制の明示にとどまり、「権力分立」さながらではない。 明治憲法典が「外見的」権力分立を採用したと、ときに称せられるのは、天皇の統一的統治権を不動のものとしながらも、立法、司法の権限行使方法に言及している点に、統治権の区別であるかのような外観が与えられるからである(美濃部達吉『憲法撮要』67~70頁は、立憲政体を、①スイス流の直接民主主義、②アメリカ流の三権分立主義、③イギリス流の議院内閣主義、④ドイツ流の官僚内閣主義、に分類して、明治憲法下の政体は①、②ではなく、日本独自のものであると指摘した。また、③、④は憲法典上の分類ではなく、慣行上出現した政体の分類に過ぎない、とされている)。 明治憲法典は、天皇の自己拘束の理論のもとで、立憲君主制を採用し、君主権限行使を無制限とはしないために、その行使方法と程度とを規定したのである。 [206] (三)現行憲法は独特の「権力分立」制を採用した 我が国の憲法典は、「権力分立」理論に影響されて、立法・行政・司法という国家作用の区分のもとで、立法のもとに行政と裁判とを置いた。 さらに、担当機関も分離して、国会・内閣・裁判所を置いて、それぞれの機関に三作用を分属させた。 ここまでは、厳格な「権力分立」の基本構想さながらである。 そのことは、現行憲法典の次のような条文スタイルに反映されている。 「国会は、・・・・・・唯一の立法機関である。」 (41条) 「行政権は、内閣に属する。」 (65条) 「すべての司法権は、最高裁判所・・・・・・に属する。」 (76条) ところが、三機関の相互関係となると、我が国独自のものとなる。 まず、立法府と執政府との関係については、日本国憲法は、その二元的対立を避けるために大統領制によらなかった。 両者の関係につき41条が「国会は、国権の最高機関であって、」としている部分は、国会に権限を集中する独特の統治構造であると理解する余地を残す(この点については、[222]参照)。 これに対して、内閣の国会に対する連帯責任に言及する66条2項等は、国家と内閣との協同体制たる議院内閣制を含意するようでもある(議院内閣制については、次章でふれる)。 さらに、司法審査制に関する81条は、アメリカ的な「三権の均衡重視」を示唆するかのようである(司法審査制については、第二部第10章第三節の [437] 以下でふれる)。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント