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シリーズ・誰も知らない日本の真実の歴史・日本を支配する鮮卑族 日本は701年に唐の命令によって、唐傀儡の奈良朝廷が律令体制を敷いて以来、 日本は鮮卑族を支配者として、大和民族を被支配者の主体として、鮮卑族を除いて、 大和民族一つへと単一民族化を進めるという民族政策が進められてきた。 前回でお伝えした「大和民族は唐が創った」では大和民族は、 中国で誕生した漢人、越人、韓人の3つの華人から併せて作られました。 武則天の実子の李顕が皇太子の時代に、李顕は大和民族を大宝律令導入と一緒に 創ったには、もう一つの大きな理由が隠されています。 中華思想です。 中華思想とは儒教の王道政治の理想を実現した中華民族を誇り、 中国(中華)がアジアの中心であり、その文化・思想が最も価値のあるものであるという考え方です。 中華思想は中華民族の一つである鮮卑族の唐の王侯貴族たちも持っていました。 その中華思想を唐は征服した日本でも実践しました。 李顕皇太子は、中華圏で誕生した中華民族である「漢人(河北で華夏族として誕生)、越人(会稽で誕生) 、韓人(山東半島で誕生)」が日本に大勢いましたが、それぞれバラバラの状態で「同一の民族」ではなく、 多様な民族・部族からなりカナン語(古代ヘブライ語のことで、当時の日本は古代ヘブライ語を言語の音として使用していた)を使用する、イスラエル系の日本民族という意識がありま した。 李顕皇太子はこれを不都合、邪魔と考えており、 日本を、中華思想で夷人の住む東夷の化外の地と見ていました。 李顕皇太子は、その日本から「夷人」を一掃して、「華人」に征服させようとしました。 そこで、その「夷人」の日本民族内部で大多数を形成していた 中華民族の漢人、越人、韓人を律令制と同時に合体させて、 中華民族を母体とする大和民族を創りだしました。 その大和民族を中心に「夷人」を同化・一掃して単一民族化を進めることで、 東夷の日本を中華民族の征服地・中華民族の分派を中心とする国にする 民族政策を李顕皇太子は画策したのです。 そのために、李顕皇太子は皇帝になってから、 709年に奈良朝廷に「征夷大将軍」を創設させました。 「征夷大将軍」の「征夷」は「東夷を? 1650 ?服する」と言う意味で、 唐王朝の日本侵略を傀儡の奈良朝廷が更に推進するという意味が込められています。 「大将軍」とは歴代の中華王朝で使われてきた「軍隊の総帥の役職の名称」 であり、「征夷大将軍」とは「東夷を征服する軍隊の総帥」のことなのです。 李顕崩御後(710年以降)の歴代の唐の皇帝は、奈良朝廷の征夷大将軍に命令して、 「東日本の蝦夷征伐、南関東と南四国の熊襲征伐」を行わせて、 唐の支配に反対するイスラエル人や縄文人などの「夷人」を戦争で一掃していったのです。 最終的に軍事的に抵抗した、唐の支配に反対するイスラエル人は青森県にまで勢力を後退して、 そこで奈良朝廷は「征伐」を終了して、江戸時代まで青森のイスラエル人は毛人として勢力をざんぞし続けました。 しかし、唐の王侯貴族の中華思想には「付け加え」があるのです。 唐の王侯貴族は「中華民族の中でも鮮卑族を一番にする」という考え方を持っていました。 そこで、唐の王侯貴族は奈良朝廷の支配者の殆どを、唐から日本に送り込んだ鮮卑族で固めました。 それ以降、日本の歴代の上級公家、上級武家、大豪族の大部分が鮮卑族になっています。 そしてそれは現代でも続いています。 日本の自由民主党対米傀儡派の国会議員や財界人や高級官僚も大部分が鮮卑族で固められています。 詳細は次回でその真理を伝えます。 出会い系サイトの年齢認証方法 出会い系の年齢認証術運転免許証や、クレジットカードがあればOK出会い系の年齢認証には、写真や名前はいらない 2009年2月の改正出会い系サイト規制法の施行に伴い、出会い系サイ ト事業者が、利用者が18歳未満の児童でないことを確認する、年齢確認方法の強化が義務付けられました。①運転免許証、または利用者の年齢か生年月日を証するその他の書面の、「年 齢または生年月日の部分と、書面の名称と書面を発行した者の名称に係る部分」の提示、または同部分の写しの送付、または同部分の画像の送信②クレジットカードを使用する方法、ま たはその他の児童が通常利用できない方法により料金を支払う旨の同意これらは、一見面倒にも感じますが、18歳以上であればスムーズに年齢認証できます。 出会い系サイトの年齢認証 で一番早くて簡単なのはクレジットカードの使用。クレジットカードは18歳以下は持てませんし、使用する行為だけで18歳以上の証明をすることができます。クレジットカードさえもっ ていれば、サイトへ登録する際に自動的に認証される為、まったく問題ありません。クレジットカードを使用しない方法としては、年齢確認に必要な提出書類を撮影し、その画像データ をメールに添付し送信する場合や、書類を郵送する方法があります。これには、公的機関が発行している身分証明書や、年齢・生年月日が確認出来る書面などが使用可能です。具体的には 、1:運転免許証2:国民健康保険3:住民票4:パスポート5:障害者手帳6:療育手帳7:学生証明書などがあります。名前、住所、写真などは必要ありません。必要なのは年齢が確認出 来る部分と、証明書の種類が確認出来る部分のみです。他の部分は、紙などで隠してもOK。 例えば、写メールやデジカメで運転免許証を撮る際に、赤で囲った部分のみが見えていればあと は見えなくてもOKということ。紙や付箋紙などでしっかり隠して下さい。個人情報はほとんど必要ありません。 あとは、画像データをメール等でサイトに送信するだけです。細かなこと は各サイトで確認して下さい。簡単でしょう?一番手間がかからないのはクレジットカードの使用ですが、運転免許証などの身分証明書でも、面倒なことはほとんどありませんね。年齢 認証の仕方-其の2平成21年2月1日より出会い系サイトの利用者は18歳以上であることを証明する年齢確認が義務付けられました。年齢確認をしないと携帯の電話番号やメールアドレスの 交換ができない仕組みになっている出会い系サイトが多いです。また、大方の出会い系サイトは年齢確認をしないと何も使えないようになっており、信用第一で運営しているようです。 さて、年齢確認の方法ですが,年齢が判る証明書が必要になります。その中でも代表的な方法として3つあります。 ①証明書の写し(写メール)をメールにて送付 ②証明書の写しをFAX にて送付 ③クレジットカードによる確認3つのうち①の証明書の写しをメールすることが一番簡単です。③のクレジットカードは、大手の出会い系サイト以外はできるだけ避けましょう 。ここでは証明書の写しを利用する方法を紹介します。証明に必要な項目は ①生年月日 ②証明書の種類 ③発行元が分かれば良いことになっています。運転免許書なら下記のように必要 なところ以外は隠して送付することになります。 外部リンク 声優ユニットアセンション 声優ユニットアセンション-プロフィール 声優ユニットアセンション-声優出演情報 中村春香FaceBook 声優ユニットアセンション-muzie 声優ユニットアセンション-OKMUSIC 声優ユニットアセンション-インディーズバンド試聴サイトAudioLeaf おもしろフラッシュの館 八咫烏陰陽道公式サイト 愛国公党
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358.宋の南渡のときの諸将はみな北方の人である 宋の南渡のときの諸将は、功績を江南で立てたけれども、かれらはみな北方の人である。張俊は、鳳翔府成紀の人である。韓世忠・張宗顔はともに延安の人である。岳飛は、湯陰の人である。劉光世は、保安軍の人である。劉錡は、徳順軍の人である。呉玠・呉璘・郭浩は、みな徳順軍隴干の人である。楊存中は、代州崞県の人である。王徳は、通遠軍熟羊砦の人である。王彦は、上党の人である。楊政は、原州臨涇の人である。牛皋は、汝州魯山の人である。曲端は、鎮戎の人である。成閔は、邢州の人である。解元は、保安軍徳清砦の人である。王淵は、熙河の人である。趙密は、太原清河の人である。李宝は、河北の人である。魏勝は、宿遷の人である。王友直は、博州高平の人である。李顕忠は、綏徳軍清澗の人である。諸名将を合わせても、山陜地方の出自でない者はひとりもなく、これは南宋の安泰が、北宋の余力で守られていたということである。そのほかにも城を守って節義を示したあまり著名でない人物たちも、また多くは北方の人である。建寧を守って死んだ楊震は、代州崞県の人である。隆徳府を守って死んだ張確は、邠州宜禄の人である。震武を守って死んだ朱昭は、府谷の人である。代州を守って死んだ史抗は、済源の人である。永興を守って死んだ郭忠孝は、河南の人である。そののち徳祐年間に国が滅んだとき、善戦した将として挙げられるのが張世傑であるが、張世傑はまた范陽の人であり、張柔に従って杞県を守っていたが罪に落ちて宋に逃れた者である。 358.宋南渡諸將皆北人 宋南渡諸將,立功雖在江南,而其人皆北人也。張俊鳳翔府成紀人。韓世忠、張宗顏皆延安人。岳飛,湯陰人。劉光世,保安軍人。劉錡,德順軍人。呉玠、呉璘、郭浩,皆德順軍隴干人。楊存中,代州崞縣人。王德,通遠軍熟羊砦人。王彦,上黨人。楊政,原州臨涇人。牛皋,汝州魯山人。曲端,鎮戎人。成閔,邢州人。解元,保安軍德清砦人。王淵,熙河人。趙密,太原清河人。李寶,河北人。魏勝,宿遷人。王友直,博州高平人。李顯忠,綏德軍清澗人。統計諸名將,無一非出自山陝者,是南宋之偏安,猶是北宋之餘力也。其他不甚著名而守城抗節者,亦多係北人。如守建寧死者楊震,代州崞人。守隆德府死者張確,邠州宜祿人。守震武死者朱昭,府谷人。守代州死者史抗,濟源人。守永興死者郭忠孝,河南人。其後德祐國亡時,能戰之將尤推張世傑,世傑亦范陽人,從張柔戍杞有罪奔宋者。
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唐書巻三 本紀第三 高宗 高宗天皇大聖大弘孝皇帝は、諱を治、字を為善といい、太宗の第九子である。母は文徳皇后長孫氏といった。始め晋王に封ぜられ、貞観七年(633)、并州都督を遙領した。十七年(643)、太子李承乾が廃されると、魏王李泰が次に立てられるべきところ、また罪に落とされたため、子の李治を立てて皇太子とした。太宗嘗命皇太子遊観習射、太子辭以非所好、願得奉至尊、居膝下。太宗は大いに喜び、乃営寢殿側為別院、使太子居之。太宗毎視朝、皇太子常侍、観決庶政。 二十三年(649)、太宗が病となり、皇太子に金液門で聴政させるよう詔があった。 四月、従って翠微宮に幸した。太宗が崩ずると、以羽檄發六府甲士四千、衛皇太子入于京師。六月甲戌、柩の前で皇帝の位についた。大赦をおこない、文武の官に勲一転を賜り、民八十以上粟帛、給復雍州及比歳供軍所一年。癸未、長孫无忌が太尉となった。癸巳、検校洛州刺史の李勣が開府儀同三司となり、機密に参掌した。 八月癸酉、河東で地震があった。乙亥、また地震があった。庚辰、遣使存問河東、給復二年、賜壓死者人絹三匹。庚寅、文皇帝を昭陵に葬った。 九月甲寅、荊王李元景が司徒となり、呉王李恪が司空となった。乙卯、李勣が尚書左僕射・同中書門下三品となった。 十一月乙丑、晋州で地震があった。左翊衛郎将の高が突厥を討伐した。 この冬、雪がなかった。 永徽元年(650)正月辛丑、改元した。丙午、妃の王氏を立てて皇后とした。張行成が侍中となった。 二月辛卯、子の李孝を封じて許王とし、李上金を王とし、李素節を雍王とした。 四月己巳、晋州で地震があった。 五月己未、太白(金星)が昼に見えた。 六月、高が突厥と金山で戦い、これを破った。庚辰、晋州で地震があり、詔五品以上言事。 七月辛酉、以旱慮囚。 八月戊辰、給五品以上解官充侍者半禄、加賜帛。庚午、降死罪以下。 九月癸卯、高が捕らえた突厥の車鼻可汗を献上した。 十月戊辰、李勣が左僕射を辞任した。 十一月己未、褚遂良を左遷して同州刺史とした。 十二月庚午、琰州の獠が辺境を寇し、梓州都督の謝万歳がここに死んだ。 二年(651)正月戊戌、義倉を開いて民にふるまった。乙巳、黄門侍郎の宇文節と中書侍郎の柳奭が、同中書門下三品となった。乙卯、瑤池都督の阿史那賀魯が叛いた。 四月乙丑、命有司毋進肉食、訖于五月。 七月丁未、阿史那賀魯が庭州を寇し、左武衛大将軍の梁建方と右驍衛大将軍の契苾何力が弓月道行軍総管となってこれを討伐した。 八月己巳、高季輔が侍中となった。于志寧が尚書左僕射となり、張行成が右僕射となり、ともに同中書門下三品となった。己卯、白水蛮が辺境を寇し、左領軍将軍の趙孝祖が郎州道行軍総管となってこれを討伐した。 九月癸卯、同州の苦泉牧地を貧民に賜った。 十月辛卯、晋州で地震があった。 十一月辛酉、有事于南郊。癸酉、禁進犬馬鷹鶻。戊寅、忻州で地震があった。甲申、雨木冰。この月、竇州・義州の蛮が辺境を寇し、桂州都督の劉伯英がこれを破った。趙孝祖が白水蛮と羅仵候山で戦い、これを破った。 十二月乙未、太白(金星)が昼に見えた。壬子、処月の朱邪孤注が招慰使の単道恵を殺して、叛いて阿史那賀魯についた。 この冬、雪がなかった。 三年(652)正月癸亥、梁建方が処月と牢山で戦い、これを破った。甲子、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、降囚罪、徒以下原之。己巳、褚遂良が吏部尚書・同中書門下三品となった。丙子、太廟に享した。丁亥、藉田を耕した。 三月辛巳、雨土。宇文節が侍中となり、柳奭が中書令を代行した。 四月庚寅、趙孝祖が白水蛮と戦い、これを破った。甲午、彭王李元則が薨去した。この月、兵部侍郎の韓瑗が黄門侍郎・同中書門下三品となった。 五月庚申、北斉の侍中の崔季舒・給事黄門侍郎の裴沢・隋の儀同三司の豆盧毓・御史中丞の游楚客の子孫を求めさせ、これらを官につけた。 七月丁巳、陳王李忠を立てて皇太子とし、大赦をおこない、賜五品以上子為父後者勲一転、民に三日の宴会を賜った。 九月丙辰、北周の司沐大夫の裴融と尚書左丞の封孝琰の子孫を求めさせ、これを官につけた。この月、中書侍郎の来済が同中書門下三品となった。 十二月癸巳、濮王李泰が薨去した。 四年(653)二月甲申、駙馬都尉の房遺愛と薛万徹・柴令武・高陽公主および巴陵公主が反乱を計画し、処刑された。荊王李元景・呉王李恪を殺した。乙酉、宇文節を桂州に流した。戊子、蜀王李愔を廃して庶人とした。己亥、徐王李元礼が司徒となり、李勣が司空となった。 四月壬寅、以旱慮囚、遣使決天下獄、減殿中・太僕馬粟、詔文武官言事。甲辰、正殿を避け、膳を減らした。 六月己丑、太白(金星)が昼に見えた。 八月己亥、馮翊に十八個の隕石があった。 九月壬戌、張行成が薨去した。甲戌、褚遂良が尚書右僕射となった。 十月庚子、温湯に幸した。甲辰、新豊で赦した。乙巳、温湯から到着した。戊申、睦州の女子の陳碩真がそむき、婺州刺史の崔義玄がこれを討った。 十一月庚戌、陳碩真が処刑された。癸丑、兵部尚書の崔敦礼が侍中となった。丁巳、柳奭が中書令となった。 十二月庚子、高季輔が薨去した。 五年(654)正月丙寅、以旱詔文武官・朝集使言事。 三月戊午、万年宮にいった。乙丑、次鳳泉湯。辛未、赦岐州及所過徒罪以下。 六月癸亥、柳奭が宰相を退いた。丙寅、河北大水、遣使慮囚。 八月己未、麟游・岐陽のこの年の課役と、岐州および供頓県の半年分の課役を免除するよう詔した。 九月丁酉、万年宮から到着した。 十月癸卯、築京師羅郭、起観于九門。 六年(655)正月壬申、拜昭陵、赦醴泉及行従、免県今歳租・調、陵所宿衛進爵一級、令・丞加一階。癸酉、以少牢祭陪葬者。甲戌、至自昭陵。庚寅、子の李弘を封じて代王とし、李賢を潞王とした。 二月乙巳、皇太子加元服、降死罪以下、賜酺三日、五品以上為父後者勲一転。乙丑、営州都督の程名振と左衛中郎将の蘇定方が高麗を討った。 五月壬午、高麗と貴端水で戦い、これを破った。癸未、左屯衛大将軍の程知節が葱山道行軍大総管となり、阿史那賀魯を討伐した。壬辰、韓瑗が侍中となり、来済が中書令となった。 七月乙酉、崔敦礼が中書令となった。この月、中書舎人の李義府が中書侍郎・参知政事となった。 九月庚午、褚遂良を左遷して潭州都督とした。乙酉、洛水が氾濫した。 十月、斉州で黄河が氾濫した。己酉、皇后を廃して庶人とした。乙卯、宸妃武氏を立てて皇后とした。丁巳、大赦をおこない、民の八十歳以上のものに粟・帛を賜った。 十一月己巳、皇后が太廟で朝見した。戊子、停諸州貢珠。癸巳、詔禁吏酷法及為隠名書者。 この冬、皇后が王庶人を殺した。 顕慶元年(656)正月辛未、皇太子を廃して梁王とし、代王李弘を立てて皇太子とした。壬申、大赦をおこない、改元し、賜五品以上子為父後者勲一転、民間に三日の宴会を、八十歳以上のものに粟・帛を賜った。丙戌、胡人が幻戲者となるのを禁じた。甲午、放宮人。 三月辛巳、皇后親蠶。丙戌、戸部侍郎の杜正倫が黄門侍郎・同中書門下三品となった。 四月壬寅、詔五品以上老疾不以罪者同致仕。壬子、矩州の人の謝無零がそむき、処刑された。 七月癸未、崔敦礼が太子少師・同中書門下三品となった。 八月丙申、崔敦礼が薨去した。辛丑、程知節が阿史那賀魯の部の歌邏禄・処月と榆慕谷で戦い、これを破った。 九月庚辰、括州で津波があった。癸未、程知節が阿史那賀魯と怛篤城で戦い、これを破った。 十一月乙丑、子の李顕が生まれたため、京官・朝集使に勲一転を賜った。八月からこの月まで霜が下りなおかつ雨が続いた。 この年、亀茲の大将の羯獵顛が阿史那賀魯についたので、左屯衛大将軍の楊冑がこれを討伐した。 二年(657)閏正月壬寅、洛陽宮にいった。庚戌、右屯衛将軍の蘇定方が伊麗道行軍総管となり、阿史那賀魯を討伐した。 二月癸亥、降洛州囚罪、徒以下原之、免民一歳租・調、賜百歳以上氈衾粟帛。庚午、子の李顕を封じて周王とした。壬申、李素節を徙封して郇王とした。 三月戊申、禁舅姑拜公主、父母拜王妃。癸丑、李義府が中書令を兼ねた。 五月丙申、明徳宮に幸した。 七月丁亥、洛陽宮にいった。 八月丁卯、韓瑗を左遷して振州刺史とし、来済を台州刺史とした。辛未、衛尉卿の許敬宗が侍中となった。 九月庚寅、杜正倫が中書令を兼ねた。 十一月戊戌、許州にいった。甲辰、遣使慮所過州県囚。乙巳、滍南で狩猟した。壬子、新鄭で武を講じ、鄭州で赦し、一年間の租賦を免除し、八十歳以上のものに粟・帛を賜り、其嘗事高祖任佐史者以名聞。 十二月乙卯、洛陽宮にいった。丁巳、蘇定方が阿史那賀魯を金牙山で破り、これを捕らえた。丁卯、洛陽宮を東都とした。 三年(658)正月戊申、楊冑が亀茲の羯獵顛と泥師城で戦い、これを破った。 二月甲戌、東都から到着した。戊寅、囚人の再審を行った。 六月壬子、程名振が高麗と赤烽鎮で戦い、これを破った。 十一月乙酉、杜正倫を左遷して橫州刺史とし、李義府を普州刺史とした。戊子、許敬宗が権検校中書令となった。甲午、蘇定方が捕らえた阿史那賀魯を献上した。戊戌、許敬宗が中書令となり、大理卿の辛茂将が侍中を兼ねた。 四年(659)三月壬午、崑陵都護の阿史那彌射が西突厥の真珠葉護と双河で戦い、これを破った。 四月丙辰、于志寧が太子太師・同中書門下三品となった。乙丑、黄門侍郎の許圉師が同中書門下三品となった。戊辰、長孫无忌を黔州に流した。于志寧が宰相を退いた。 五月己卯、許圉師が中書侍郎・同中書門下三品となった。丙申、兵部尚書の任雅相と度支尚書の盧承慶が参知政事となった。戊戌、涼州都督長史の趙持満を殺した。 七月己丑、旱害のため正殿を避けた。壬辰、慮囚。 八月壬子、李義府が吏部尚書・同中書門下三品となった。 十月丙午、皇太子が元服を加え、大赦をおこない、賜五品以上子孫為父祖後者勲一転、民間に三日の宴会を賜った。 閏月戊寅、東都にいき、皇太子が監国した。辛巳、詔所過供頓免今歳租賦之半、賜民八十以上氈衾粟帛。 十一月丙午、許圉師が左散騎常侍となり、侍中を検校した。戊午、辛茂将が薨去した。癸亥、阿史那賀魯の部の悉結闕俟斤都曼が辺境を寇したので、左驍衛大将軍の蘇定方が安撫大使となり、これを討伐した。盧承慶が同中書門下三品となった。 五年(660)正月癸卯、蘇定方が捕らえた悉結闕俟斤都曼を献上した。甲子、并州にいった。己巳、次長平、父老に布帛を賜った。 二月丙戌、并州および通過した州県で赦し、義旗初嘗任五品以上葬并州者祭之、加佐命功臣食別封者子孫二階、大将軍府僚佐存者一階、民年八十以上版授刺史・県令、民間に三日の宴会を賜った。甲午、祠舊宅。 三月丙午、皇后宴親族里于朝堂、會命婦于内殿。賜従官五品以上・并州長史司馬勲一転。婦人八十以上版授郡君、賜氈衾粟帛。己酉、城西で武を講じた。辛亥、左武衛大将軍の蘇定方が神兵道行軍大総管となり、新羅王金春秋が嵎夷道行軍総管となり、三将軍と新羅兵を率いて百済を討伐した。 四月癸巳、東都にいった。 五月辛丑、八関宮を作った。戊辰、定襄都督の阿史徳枢賓が沙磚道行軍総管となり、契丹を討伐した。 六月庚午朔、日食があった。 七月乙巳、梁王李忠を廃して庶人とした。丁卯、盧承慶が宰相を退いた。 八月庚辰、蘇定方が百済と戦い、これを破った。壬午、左武衛大将軍の鄭仁泰が悉結・抜也固・僕骨・同羅と戦い、これを破った。癸未、赦神兵道大総管以下軍士及其家、民間に三日の宴会を賜った。 十一月戊戌、蘇定方が捕らえた百済王を献上した。甲寅、許州にいった。 十二月辛未、安楽川で狩猟した。己卯、東都にいった。壬午、左驍衛大将軍の契苾何力が浿江道行軍大総管となり、蘇定方が遼東道行軍大総管となり、左驍衛将軍の劉伯英が平壤道行軍大総管となり、高麗を討伐した。阿史徳枢賓が奚・契丹と戦い、これを破った。 龍朔元年(661)正月戊午、鴻臚卿の蕭嗣業が扶余道行軍総管となり、高麗を討伐した。 二月乙未、改元し、洛州に赦した。 四月庚辰、任雅相が浿江道行軍総管となり、契苾何力が遼東道行軍総管となり、蘇定方が平壤道行軍総管となり、蕭嗣業が扶餘道行軍総管となり、右驍衛将軍の程名振が鏤方道行軍総管となり、左驍衛将軍の龐孝泰が沃沮道行軍総管となり、三十五軍を率いて高麗を討伐した。甲午晦、日食があった。 六月辛巳、太白經天。 八月甲戌、蘇定方が高麗と浿江で戦い、これを破った。 九月癸卯、皇后とともに李勣・許圉師の邸宅に幸した。壬子、李賢を徙封して沛王とした。 十月丁卯、陸渾で狩猟した。戊辰、非山で狩猟した。癸酉、東都にいった。鄭仁泰が鉄勒道行軍大総管となり、蕭嗣業が仙道行軍大総管となり、左驍衛大将軍の阿史那忠が長岑道行軍大総管となり、鉄勒を討伐した。 二年(662)二月甲子、大いに官名を変えた。甲戌、任雅相が薨去した。戊寅、龐孝泰が高麗と蛇水で戦い、ここに死んだ。 三月庚寅、鄭仁泰が鉄勒と天山で戦い、これを破った。乙巳、河北県にいった。辛亥、蒲州にいった。癸丑、同州にいった。 四月庚申、同州から到着した。辛巳、蓬莱宮を作った。 六月癸亥、宗室・外戚が華美な織物や彫り物を献上することを禁じた。 七月戊子、子の李旭輪が十カ月で生まれたので、大赦をおこない、民間に三日の宴会を賜った。右威衛将軍の孫仁師が熊津道行軍総管となり、百済を討伐した。戊戌、李義府が宰相を退いた。 八月壬寅、許敬宗が太子少師・同東西台三品となった。 九月丁丑、李義府起復。 十月丁酉、温湯に幸し、皇太子が監国した。丁未、温湯から到着した。庚戌、西台侍郎の上官儀が同東西台三品となった。 十一月辛未、許圉師を左遷して虔州刺史とした。癸酉、子の李旭輪を封じて殷王とした。 この年、右衛将軍の蘇海政が䫻海道行軍総管となり、亀茲を討伐した。蘇海政は崑陵都護の阿史那彌射を殺した。 三年(663)正月乙丑、李義府が右相となった。 二月、減百官一月俸、賦雍・同等十五州民錢、以作蓬莱宮。乙亥、駙馬都尉の韋正矩を殺した。庚戌、慮囚。 四月戊子、李義府を巂州に流した。 五月壬午、柳州蛮が叛き、冀州都督長史の劉伯英が嶺南の兵をもってこれを討伐した。 六月、吐蕃が吐谷渾を攻め、涼州都督の鄭仁泰が青海道行軍大総管となってこれを救援した。 八月癸卯、彗星が左攝提に出現した。戊申、詔百寮言事。按察大使を十道に派遣した。 九月戊午、孫仁師が百済と白江で戦い、これを破った。 十月辛巳、詔皇太子五日一至光順門、監諸司奏事、小事決之。 十一月甲戌、雨木冰。 十二月庚子、明年を改めて麟徳元年とし、京師・雍州の諸県の死罪以下を一等減じた。壬寅、安西都護の高賢が行軍総管となり、弓月を討伐した。 麟徳元年(664)二月戊子、福昌宮にいった。癸卯、万年宮にいった。 四月壬午、道王李元慶が薨去した。 五月戊申、許王李孝が薨去した。丙寅、旱害のため正殿を避けた。 七月丁未、詔以三年正月有事于泰山。 八月己卯、旧第に幸し、万年県の死罪以下を減じた。壬午、万年宮から到着した。丁亥、司列太常伯の劉祥道が右相を兼ね、大司憲の竇徳玄が司元太常伯となり、左相を検校した。 十二月丙戌、上官儀を殺した。戊子、庶人李忠を殺した。劉祥道が宰相を退いた。太子右中護の楽彦瑋と西台侍郎の孫処約が同知軍国政事となった。 この冬、雪がなかった。 二年(665)二月壬午、東都にいった。 三月甲寅、司戎太常伯の姜恪が同東西台三品となった。戊午、遣使して京都諸司および雍・洛二州の囚人の再審を行った。 閏月癸酉、日食があった。 この春、疏勒・弓月・吐蕃が于闐を攻め、西州都督の崔智弁と左武衛将軍の曹継叔がこれを救援した。 四月丙午、桂・広・黔三都督府で赦した。丙寅、邙山の南で武を講じた。戊辰、左侍極の陸敦信が右相を検校し、孫処約・楽彦瑋が宰相を退いた。 七月己丑、鄧王李元裕が薨去した。 十月壬戌、帯方州刺史の劉仁軌が大司憲兼知政事となった。丁卯、泰山にいった。大有年。 乾封元年(666)正月戊辰、泰山で封をおこなった。庚午、社首で禅をおこない、以皇后為亞獻。壬申、大赦をおこない、改元した。文武の官に階・勲・爵を賜った。民年八十以上版授下州刺史・司馬・県令、婦人郡・県君。七十以上至八十、賜古爵一級。民間に七日の宴会を賜り、女子百戸牛酒。免所過今年租賦、給復斉州一年半・兗州二年。辛卯、曲阜に幸し、孔子を祠り、太師を贈った。 二月己未、亳州にいき、老子を祠り、太上玄元皇帝と追号し、県人宗姓給復一年。 四月甲辰、亳州から到着した。庚戌、陸敦信が宰相を退いた。 六月壬寅、高麗の泉男生が内附を請い、右驍衛大将軍の契苾何力が遼東安撫大使となり、兵を率いてこれを救援した。左金吾衛将軍の龐同善・営州都督高が遼東道行軍総管となり、左武衛将軍の薛仁貴・左監門衛将軍の李謹行が後援となった。 七月乙丑、李旭輪を徙封して豫王とした。庚午、劉仁軌が右相を兼ねた。 八月辛丑、竇徳玄が薨去した。丁未、始州刺史武惟良と淄州刺史武懐運を殺した。 九月、龐同善が高麗と戦い、これを破った。 十二月己酉、李勣が遼東道行台大総管となり、六総管の兵を率いて高麗を討伐した。 二年(667)正月丁丑、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、慮囚。 二月丁酉、涪陵郡王李愔が薨去した。辛丑、工人や商人が乗馬するのを禁じた。 六月乙卯、西台侍郎の楊武と戴至徳、東台侍郎の李安期、司列少常伯の趙仁本が、ともに同東西台三品となった。東台舎人の張文瓘が参知政事となった。 七月己卯、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、遣使慮囚。 八月己丑朔、日食があった。辛亥、李安期が宰相を退いた。 九月庚申、以餌藥、皇太子が監国した。辛未、李勣が高麗と新城で戦い、これを破った。 この年、嶺南洞の獠が瓊州を陥落させた。 総章元年(668)正月壬子、劉仁軌が遼東道副大総管兼安撫大使・浿江道行軍総管となった。 二月丁巳、皇太子が国学で釈奠した。戊寅、九成宮にいった。壬午、李勣が高麗を破り、扶餘・南蘇・木底・蒼巖城に勝利した。 三月庚寅、大赦をおこない、改元した。 四月乙卯、顔回に太子少師、曾参に太子少保を贈った。丙辰、有彗星出于五車、正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめ、詔内外官言事。庚申、以太原元従西府功臣為二等:第一功後官無五品者、授其子若孫一人、有至四品五品者加二階、有三品以上加爵三等。第二功後官無五品者、授其子若孫従六品一人、有至五品者加一階、六品者二階、三品以上爵一等。辛巳、楊武が薨去した。 八月癸酉、九成宮から到着した。 九月癸巳、李勣が高麗王高蔵を破り、これを捕らえた。 十二月丁巳、捕らえた高蔵を献上した。丁卯、有事于南郊。甲戌、姜恪が左相を検校し、司平太常伯の閻立本が右相を代行した。 二年(669)二月辛酉、右肅機の李敬玄が西台侍郎となり、張文瓘が東台侍郎となり、ともに同東西台三品となった。 三月丙戌、東台侍郎の郝処俊が同東西台三品となった。癸巳、皇后親蠶。 四月己酉、九成宮にいった。 六月戊申朔、日食があった。 七月癸巳、左衛大将軍の契苾何力が烏海道行軍大総管となり、吐谷渾を援けた。 九月庚寅、括州で津波があった。壬寅、岐州にいった。乙巳、岐州で赦し、高年のものに粟・帛を賜った。 十月丁巳、岐州から到着した。 十一月丁亥、李旭輪を徙封して冀王とし、輪と改名した。 十二月戊申、李勣が薨去した。 この冬、雪がなかった。 咸亨元年(670)正月丁丑、劉仁軌が宰相を退いた。 二月戊申、慮囚。丁巳、東南有聲若雷。 三月甲戌、大赦をおこない、改元した。壬辰、許敬宗が宰相を退いた。 四月癸卯、吐蕃が亀茲の撥換城を陥落させた。安西四鎮を廃した。己酉、李敬玄が宰相を退いた。辛亥、右威衛大将軍の薛仁貴が邏娑道行軍大総管となり、吐蕃を討伐した。庚午、九成宮にいった。雍州大雨雹。高麗の首長の鉗牟岑が叛き、辺境を寇し、左監門衛大将軍の高が東州道行軍総管となり、右領軍衛大将軍李謹行が燕山道行軍総管となり、これを討伐した。 六月壬寅朔、日食があった。 七月甲戌、以雍・華・蒲・同四州旱、遣使慮囚、減中御諸厩馬。戊子、李敬玄起復。薛仁貴が吐蕃と大非川で戦い、敗れた。 八月庚戌、穀物価格の騰貴のため酒を禁じた。丁巳、九成宮から到着した。甲子、趙王李福が薨去した。丙寅、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。 九月丁丑、給復雍・華・同・岐・邠・隴六州一年。 閏月癸卯、皇后以旱請避位。甲寅、姜恪が涼州道行軍大総管となり、吐蕃を討伐した。 十月庚辰、詔文武官言事。乙未、趙仁本が宰相を退いた。 十二月庚寅、官名を復した。 この年、大飢饉があった。 二年(671)正月乙巳、東都にいき、皇太子が監国した。 二月辛未、遣使存問諸州。 四月戊子、大風、雨雹。 六月癸巳、以旱慮囚。 九月、地震があった。丙申、徐王李元礼が薨去した。 十月丙子、求明礼楽之士。 十一月甲午朔、日食があった。庚戌、如許州、遣使存問所過疾老寡、慮囚。 十二月癸酉、昆陽で狩猟した。丙戌、東都にいった。 この年、姜恪が侍中となり、閻立本が中書令となった。 三年(672)正月辛丑、姚州蛮が辺境を寇し、太子右衛副率の梁積寿が姚州道行軍総管となって、これを討伐した。 二月己卯、姜恪が薨去した。 四月壬申、校旗于洛水之陰。 九月癸卯、李賢を徙封して雍王とした。 十月己未、皇太子が監国した。 十一月戊子朔、日食があった。甲辰、東都から到着した。 十二月、金紫光禄大夫として致仕した劉仁軌が、太子左庶子・同中書門下三品となった。 四年(673)正月丙辰、鄭王李元懿が薨去した。 四月丙子、九成宮にいった。 閏五月丁卯、禁作捕魚・営圈取獸者。 八月辛丑、以不豫詔皇太子聴諸司啓事。己酉、大風のため太廟の鴟尾が落ちた。 十月壬午、閻立本が薨去した。乙未、以皇太子納、岐州で赦し、民間に三日の宴会を賜った。乙巳、九成宮から到着した。 上元元年(674)二月壬午、劉仁軌が雞林道行軍大総管となり、新羅を討伐した。 三月辛亥朔、日食があった。己巳、皇后親蠶。 八月壬辰、皇帝が天皇を称し、皇后が天后を称した。六代の祖の宣簡公を追尊して宣皇帝とし、妣の張氏を宣荘皇后といった。五代の祖の懿王を光皇帝とし、妣の賈氏を光懿皇后といった。高祖・太宗および后の謚を増やした。大赦をおこない、改元し、民間に三日の宴会を賜った。 十一月丙午、東都にいった。己酉、華山曲武原で狩猟した。 十二月癸未、蒋王李惲が自殺した。 二年(675)正月己未、給復雍・同・華・岐・隴五州一年。辛未、吐蕃が和を請うた。 二月、劉仁軌が新羅と七重城で戦い、これを破った。 三月丁巳、天后親蠶。 四月辛巳、天后が周王顕妃趙氏を殺した。丙戌、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめ、詔百官言事。己亥、天后が皇太子を殺した。 五月戊申、皇太子を追号して孝敬皇帝とした。 六月戊寅、雍王李賢を立てて皇太子とし、大赦をおこなった。 七月辛亥、王李上金が免官され、封邑を削られた。 八月庚寅、孝敬皇帝を恭陵に葬った。丁酉、詔婦人為宮官者歳一見其親。庚子、張文瓘が侍中となり、郝処俊が中書令となり、劉仁軌が尚書左僕射となり、戴至徳が右僕射となった。 十月庚辰、雍州雨雹。壬午、有彗星出于角・亢。 儀鳳元年(676)正月壬戌、李輪を徙封して相王とした。丁卯、納州の獠が辺境を寇した。 二月丁亥、汝州の温湯にいき、遣使慮免汝州輕繋。 三月癸卯、黄門侍郎の来恒と中書侍郎の薛元超が同中書門下三品となった。甲辰、東都にいき、汝州でこの年の半分の租を免除し、民の八十歳以上のものに帛を賜った。 閏月己巳、吐蕃が鄯・廓・河・芳の四州を寇したので、左監門衛中郎将の令狐智通がこれを討伐した。乙酉、周王李顕が洮河道行軍元帥となり、左衛大将軍の劉審礼ら十二総管を領して、相王李輪が涼州道行軍元帥となり、契苾何力らの軍を領して、吐蕃を討伐した。 四月戊甲、東都から到着した。甲寅、中書侍郎の李義琰が同中書門下三品となった。戊午、九成宮にいった。 六月癸亥、黄門侍郎の高智周が同中書門下三品となった。 七月丁亥、有彗星出于東井。乙未、吐蕃が疊州を寇した。 八月庚子、正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめ、損食粟馬、慮囚、詔文武官言事。甲子、停南北中尚・梨園・作坊、減少府雜匠。この月、青州で津波があった。 十月乙未、九成宮から到着した。丙午、郇王李素節を降封して鄱陽郡王とした。 十一月壬申、大赦をおこない、改元した。庚寅、李敬玄が中書令となった。 十二月戊午、来恒・薛元超が河南・河北道大使となった。 二年(677)正月乙亥、藉田を耕した。庚辰、京師で地震があった。 四月、太子左庶子の張大安が同中書門下三品となった。 五月、吐蕃が扶州を寇した。 八月辛亥、劉仁軌が洮河軍鎮守使となった。 十月壬辰、李顕を徙封して英王とし、名を哲とあらためた。 十二月乙卯、関内・河東の猛士を募り、吐蕃を討伐させた。 この年、西突厥と吐蕃が安西を寇した。冬、雪がなかった。 三年(678)正月丙子、李敬玄が洮河道行軍大総管となり、吐蕃を討伐した。癸未、使者を派遣して河南・河北の猛士を募り、吐蕃を討伐させた。 四月丁亥、旱害のため正殿を避け、慮囚。戊申、大赦をおこない、明年を改めて通乾元年とした。癸丑、涇州の民が異なる体に連なった心をもつ子を生んだ。 五月壬戌、九成宮にいった。大雨霖。 九月辛酉、九成宮から到着した。癸亥、張文瓘が薨去した。丙寅、李敬玄・劉審礼が吐蕃と青海で戦い、敗れ、劉審礼がここに死んだ。 十月丙申、剣南・隴右の歳貢を停止した。丙午、密王李元曉が薨去した。 閏十一月丙申、雨木冰。壬子、来恒が薨去した。 十二月癸丑、通乾の号をやめた。 調露元年(679)正月戊子、東都にいった。庚戌、戴至徳が薨去した。 四月辛酉、郝処俊が侍中となった。 五月丙戌、皇太子が監国した。戊戌、紫桂宮を作った。 六月辛亥、大赦をおこない、改元した。吏部侍郎の裴行倹が西突厥を討伐した。 九月壬午、裴行倹が西突厥を破り、その可汗の都支を捕らえた。 十月、突厥の温傅・奉職の二部が辺境を寇し、単于大都護府長史の蕭嗣業がこれを討伐した。 十一月戊寅、高智周が宰相を退いた。甲辰、礼部尚書の裴行倹が定襄道行軍大総管となり、突厥を討伐した。 永隆元年(680)二月癸丑、汝州の温湯にいった。丁巳、少室山にいった。乙丑、東都にいった。 三月、裴行倹が突厥と黒山で戦い、これを破った。 四月乙丑、紫桂宮にいった。戊辰、黄門侍郎の裴炎と崔知温と中書侍郎の王徳真が、ともに同中書門下三品となった。 五月丁酉、太白經天。 七月己卯、吐蕃が河源を寇した。辛巳、李敬玄が吐蕃と湟川で戦い、敗れた。左武衛将軍の黒歯常之が河源軍経略大使となった。丙申、江王李元祥が薨去した。突厥が雲州を寇し、都督の竇懐哲がこれを破った。 八月丁未、東都にいった。丁巳、李敬玄を左遷して衡州刺史とした。甲子、皇太子を廃して庶人とした。乙丑、英王李哲を立てて皇太子とし、大赦をおこない、改元し、民間に三日の宴会を賜った。己巳、張大安を左遷して普州刺史とした。 九月甲申、王徳真が宰相から退いた。 十月壬寅、曹王李明を降封して零陵郡王とした。戊辰、東都から到着した。 十一月壬申朔、日食があった。 開耀元年(681)正月乙亥、突厥が原・慶の二州を寇した。辛巳、京官の九品以上に三日の宴会を賜った。癸巳、裴行倹が定襄道行軍大総管となり、突厥を討伐した。己亥、減殿中・太僕馬、省諸方貢獻、雍・岐・華・同の四州で二年間税を免除し、河南・河北一年調。 二月丙午、皇太子が国学で釈奠した。 三月辛卯、郝処俊が宰相を退いた。 五月乙酉、常州の人の劉龍子が反乱を計画し、処刑された。丙戌、定襄道副総管の曹懐舜が突厥と橫水で戦い、敗れた。己丑、黒歯常之が吐蕃と良非川で戦い、これを破った。 六月壬子、永嘉郡王李が有罪となり、処刑された。 七月己丑、以太平公主下嫁、赦京師。甲午、劉仁軌が左僕射を辞任した。 閏月丁未、裴炎が侍中となり、崔知温・薛元超が中書令を代行した。庚戌、以餌藥、皇太子が監国した。庚申、裴行倹が突厥と戦い、これを破った。 八月丁卯、以河南・河北大水、遣使賑乏絶、室廬壞者給復一年、溺死者贈物、人三段。 九月丙申、有彗星出于天市。壬戌、裴行倹が捕らえた突厥の温伝可汗と阿史那伏念を献上した。乙丑、改元し、赦定襄軍及諸道縁征官吏兵募。 十月丙寅朔、日食があった。 十一月癸卯、庶人李賢を巴州にうつした。 永淳元年(682)二月癸未、孫の李重照が十カ月で生まれたので、大赦をおこない、改元し、民間に三日の宴会を賜った。この月、突厥車薄・咽寇邊。 三月戊午、李重照が立って皇太孫となった。 四月甲子朔、日食があった。丙寅、東都にいき、皇太子が監国した。辛未、裴行倹が金牙道行軍大総管となり、三総管の兵を率いて突厥を討伐した。安西副都護の王方翼が車薄・咽と熱海で戦い、これを破った。丁亥、黄門侍郎の郭待挙・兵部侍郎の岑長倩・秘書員外少監の郭正一・吏部侍郎の魏玄同が、ともに中書門下同承受進止平章事となった。 五月乙卯、洛水が氾濫した。 六月甲子、突厥・骨咄禄が辺境を寇し、嵐州刺史の王徳茂がここに死んだ。この月、蝗が大発生し、人があい食んだ。 七月、万泉宮を作った。己亥、奉天宮を作った。庚申、零陵郡王李明が自殺した。 九月、吐蕃が柘州を寇し、驍衛郎将の李孝逸がこれを討伐した。 十月甲子、京師で地震があった。丙寅、黄門侍郎の劉斉賢が同中書門下平章事となった。 弘道元年(683)正月甲午、奉天宮に幸した。 二月庚午、突厥が定州を寇し、刺史の霍王李元軌がこれを破った。 三月庚寅、突厥が単于都護府を寇し、司馬の張行師がここに死んだ。庚子、李義琰が宰相をしりぞいた。丙午、有彗星出于五車。癸丑、崔知温が薨去した。 四月己未、東都にいった。壬申、郭待挙・郭正一が同中書門下平章事となった。甲申、綏州の部落の稽の白鉄余が辺境を寇し、右武衛将軍の程務挺がこれを破った。 五月乙巳、突厥が蔚州を寇し、刺史の李思倹がここに死んだ。 七月甲辰、李輪を徙封して豫王とし、旦と改名した。薛元超が宰相を退いた。 八月乙丑、皇太子が東都で朝し、皇太孫が京師を留守した。丁卯、滹沱が氾濫した。己巳、黄河が氾濫し、河陽城が破壊された。 九月己丑、太平公主の子が生まれたため、東都で赦した。 十月癸亥、奉天宮に幸した。 十一月戊戌、右武衛将軍の程務挺が単于道安撫大使となり、突厥を討伐した。辛丑、皇太子が監国した。丁未、東都にいった。戊申、裴炎・劉斉賢・郭正一が東宮平章事を兼ねた。 十二月丁巳、改元し、大赦をおこなった。この夕、皇帝が貞観殿で崩じ、年は五十六であった。謚は天皇大帝といった。天宝八載(749)、天皇大聖皇帝と改謚した。十三載(754)、天皇大聖大弘孝皇帝と増謚した。 賛にいう。小雅曰:「赫赫宗周、褒姒之。」これは周の幽王の詩である。この時、幽王は滅びたといっても、太子の宜臼が立って、これが平王となった。而詩人乃言之者、以為文・武之業於是蕩盡、東周雖在、不能復興矣。其曰者、甚疾之之辭也。武氏之亂、唐之宗室戕殺殆盡、其賢士大夫不免者十八九。以太宗之治、其遺徳餘烈在人者未遠、而幾於遂絶、其為惡豈一褒姒之比邪?以太宗之明、昧於知子、廃立之際、不能自決、卒用昏童。高宗溺愛席、不戒履霜之漸、而毒流天下、貽禍邦家。嗚呼、父子夫婦之間、可謂難哉!可不慎哉? 前巻 『新唐書』 次巻 巻二 本紀第二 『新唐書』巻三 本紀第三 巻四 本紀第四
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トップページ>韓国>東方学志 『東方学志』140、2007.12 洪承賢「『史記』「楽書」『漢書』「礼楽志」を通じて見た漢代制楽の実状:司馬遷と班固の制楽観についての分析を兼ねて」 池培善「淄淸節度使李師道について:元和13年(818)から滅亡まで」 具萬玉「「天象列次分野之図」研究の争点についての検討と提言」 金伯哲「朝鮮後期粛宗代『受教輯録』編纂とその性格:体裁分析を中心に」 백승철「聾菴柳寿垣の商業観と商業振興論」 김영희「朝鮮博覧会と植民地近代」 洪性讃「解放後「帰属国内法人」の運営と清算:海東興業(旧 不二興業)の事例を中心に」 이윤석「『南原古詞』註釈の諸問題」 한영균「『標準国語大辞典』の辞典的性格について」 백민정「伊藤仁斎と丁若鏞の忠恕論比較」 『東方学志』139、2007.9 特集:韓国近代医学の誕生と国家 여인석「韓国医学の近代性研究のための試論」 이현숙「高麗時代官僚制下の医療と民間医療」 김성수「朝鮮後期医薬政策の性格」 박윤재「大韓帝国と統監府の医学体系構想と展開」 여인석「韓国近代宣教医療機関の形成と性格」 辛圭煥「国家衛生医療体制と国家医療の形成:19世紀末20世紀初韓国と中国の経験」 呉鎮錫「1898-1904年漢城電気会社の設立と経営変動」 임채성「軍派遣団の大韓石炭公社支援と石炭産業の復興(1954.12-1957.8)」 박진한「日本近世都市史研究の展開と課題」 楊雨蕾「李廷亀の詩文を通じて見た明代中韓文化交流」 엄연석「『荀子』における自然と規範の分離と統合」 『東方学志』138、2007.6 최종석「朝鮮初期「邑城」用語出現の背景と邑城の類型」 朴平植「朝鮮前記の魚物流通と魚箭私占」 禹大亨「日帝下低利農事資金の放出と農村の両極化」 방기중「1940年前後朝鮮総督府の「新体制」認識と兵站基地強化政策:総督府経済支配システムの特質と関連して」 민후기「中国古代の「勢」「聖」論の変化と専制君主論の形成」 辛圭煥「衛生の概念史:清末民国期中西医の衛生論」 강순애「延世大所蔵の初槧本『月印釈譜』巻13・巻14に関する研究:その底本経典と構成を中心に」 구지현「筆談を通じて見た韓日文士交流の展開様相:赤間関を中心に」 李相益「朱子と陳亮の王覇論争についての再検討」 『東方学志』137、2007.3 特集:淵民学をどう見るべきか 許捲洙「淵民李家源先生が書いた箴銘類作品についての小考」 이현식「『燕巌小説研究』の先行研究影響に関する考察」 허경진「『実学研究之資』の資料的価値」 論文 洪性讃「1920年代の農村貯蓄組合研究:全南宝城郡得粮面「松谷貯蓄組合」の運営事例」 安龍植、오연수、오승은、원구환、송혜경「朝鮮総督府下日本人官僚研究」 金容天「『石渠礼論」の分析と前漢礼治理念」 沈載勲「相争する古代史叙述と代案の模索:『詩経』「韓奕」篇再読」 윤승준「韓中寓言の動物象徴」 황종연「韓国近代小説に現れた新羅:玄鎮健の『無影塔』と李光洙の『元暁大師』を中心に」 『東方学志』136、2006.12 李仁在「扶餘・高句麗の食邑制:三国志東夷伝を中心に」 김양수、안상우「朝鮮後期医官家門の活動:李顕養ら安山李氏家系を中心に」 李旭「19世紀ソウルの米穀流通構造と米暴騰」 玄光昊「大韓帝国の対ロシア政策:大韓帝国樹立と義和団事件時期を中心に」 오경후「日帝下禅学院の設立と重興の背景」 朴賢「1920年代後半金融制度準備調査委員会の設立と活動:「金融組合令」「銀行令」改正議論を中心に」 池培善「淄青節度使李師道について:元和13年4月以前を中心に」 김종섭「唐代文人旅行の意味と境界認識」 이승수「柳夢寅の燕行体験と中国認識」 백민정「心性論を中心に見た丁若鏞とマテオ・リッチの関係」 Daniel Bouchez「『九雲夢』の題目について」 『東方学志』135、2006.9 윤경진「高麗前期道の多元的編成と五道の成立」 윤훈표「高麗時代名誉と羞耻心の社会的背景と基準:支配層の官職と私生活を中心に」 金容欽「丙子胡乱期の主和・斥和論争」 洪性讃「日帝下思想犯保護団体「昭道会」の設立と活動」 조창록「鶴山徐浩修と『熱河紀遊』:18世紀西学史の水準と志向」 이민희「「女容国伝」研究」 구장률「新小説出現の歴史的背景:李人稙と「血の雨」を中心に」 이경훈「韓国近代文学の形成と金東仁:『創造』を中心に」 양태근「消極的民権論と積極的民権論を通じて見た梁啓超自由主義思想と道徳主義」 『東方学志』134、2006.6 김선민「高句麗建国神話についての広開土王陵碑と中国正史の比較研究」 이정훈「高麗前期中枢院の設置と職掌の変化」 이익주「高麗末鄭道伝の政治勢力形成過程研究」 朴平植「朝鮮前期京商の商業活動」 金範「朝鮮王朝実録に現れた「勲旧」の用例とその分析」 尹晶「粛宗代太祖諡号の追上と政界の認識:朝鮮創業と威化島回軍についての再評価」 朴現圭「千秋使行時期許筠の文献関連活動」 전인초「関羽の人物造形と関帝信仰の朝鮮伝来」 조남호「『東医宝鑑』の理論的構図とその性格:理論内的な特性理論外的な特性を中心に」 『東方学志』133、2006.3 박종기「朝鮮初期部曲の規模と存在形態」 金勲埴「寒暄堂金宏弼についての朝鮮時代の評価とその意味」 金永植「朝鮮後期の地転説再検討」 洪性讃「韓末日帝初ソウル鍾路商人の日常活動:布木商金泰煕家の事例を中心に」 정용화「1920年代初啓蒙談論の特性:文明・文化・個人を中心に」 김동노「日本帝国主義の朝鮮支配の独特性」 閔厚基「『漢書注』成立に及ぼした家学の性格と影響:顔之推の『顔氏家訓』分析を中心に」 許璧「『三国史記』の第一・第二人称代名詞研究」 우미영「近代旅行の意味変異と植民地/帝国の自己構成論理:妙香山紀行文を中心に」 張東宇「王権と礼治についての『周礼』の問題意識」 『東方学志』132、2005.12 하일식「新羅王室直轄地の初期形態について:菁堤碑丙辰銘の精密判読と分析」 정호훈「『国史』叙述体系の中の朝鮮時期思想界:第7次教育課程の高等学校国史教科書の内容分析」 이승렬「日帝下中枢院改革問題と総督政治」 王元周「近代中国人の韓国認識:経路と特徴」 이향철「日本の高等教育改革の潮流と国立大学の法人化」 신연우「時調とソウル祠祭歌(굿 노랫가락)の関係」 김현주「金允植社会葬事件の政治文化的意味:「社会」と「世論」をめぐる修辞的闘争を中心に」 김병민、최일「中国の東北淪陷区文学とその研究についての考察:光復前中国朝鮮文学研究の新しい視角のために」 이경훈「青春の機会、文学のテクノロジー」 『東方学志』131、2005.9 도현철「高麗末尹紹宗の現実認識と政治活動」 최종석「朝鮮初期城隍祠の立地と治所」 金明洙「朝鮮総督府の金融統制政策とその制度的基礎の形成:1931年朝鮮信託業令の制定を中心に」 禹大亨「日帝下萬頃江流域水利組合研究」 이준식「日帝強占期群山における有力者集団の推移と活動」 박진한「享保・寛政の改革期江戸幕府の倹約政策」 구지현「『癸未随槎録』についての検討:作家と使行録としての意味を中心に」 이상익「艮斎田愚の理気相互主宰論と性師心弟説」 김진영「朝鮮王朝使節団の1896年ロシア旅行とオクシデンタリズム:ソウルーペテルブルグ旅行記研究Ⅰ」 『東方学志』130、2005.6 特集:洪以燮の韓国史研究 金度亨「洪以燮の現実認識と歴史研究」 문중양「洪以燮の科学史研究を超えて」 정호훈「洪以燮の実学研究」 김성보「洪以燮の韓国近現代史認識」 論文 최원규「日帝時期日本人地主の土地拡大と所有変動の推移:全北沃溝郡瑞穂面の事例」 朴賛勝「解放以後洪城地方の政治社会的動向と地域エリート」 朴今海「満州事変後日帝の在満朝鮮人教育政策研究」 안장리「人文学的事由を元にしたジャンル変形の物書き:鄭寅普の『唐陵君遺事徴』」 궘명아「女子スパイ団の神話と「良い日本人」となる事:皇民化と国民防諜イデオロギーの相関性を中心に」 『東方学志』129、2005.3 特集:高麗時代韓国人のメンタリティ復元研究:同心円的暮らしの範疇と多様な心性 이혜옥「高麗時代の家と家意識」 윤훈표「高麗時代官僚・軍組織における規律と服従」 김인호「高麗官人社会の宴と祝祭」 장은경「高麗時代の国家、地域次元の祭儀と個人的信仰」 박경안「高麗前期多元的国際関係と国家・文化の帰属感」 論文 鄭在貞「歴史的観点から見た南北韓鉄道連結の国際的性格」 백연태「『東人詩話』に見える中国詩話変容の妙味と意味」 정선희「朝鮮後期文人の金聖嘆評批本についての読書談論研究」 『東方学志』128、2004 李景植「高麗前期の勧農と田柴科」 오영섭「韓末義兵運動の勃発と展開に及ぼした高宗皇帝の役割」 최윤오「大韓帝国期忠州郡量案の地主制と富農経営」 박현「韓末・日帝下韓一銀行の設立と経営」 趙成山「17世紀ソウル・京畿地域西人の心学研究傾向とその性格」 허경진「韓国における李白の詩が諺解された背景について」 『東方学志』127、2004 옥성득「初期韓国改新教と祭祀問題」 方基中「日帝下李勲求の韓国土地制度史論」 辛珠柏「日本右翼歴史教科書の教師用指導書に現れた歴史認識:アジア・太平洋戦争観、人間観、未来観を中心に」 신연우「李滉と当代士林の農村詩の様相と意義」 이승수「朝鮮後期燕行体験と古土認識:東八站を中心に」 김영민「近代啓蒙期キリスト教新聞と韓国近代叙事文学:『朝鮮クリスト人会報』と『クリスト新聞』を中心に」 김영우「丁若鏞と毛奇齡の易学思想の比較研究」 서대원「玄学の時間的範囲に関して」 『東方学志』126、2004 이인재「法泉里古墳群を通じてみた三国時代原州と馬韓・百済との関係」 윤경진「高麗前期界首官の運営体系と機能」 金範「朝鮮成宗~中宗代議政府・六曹・三司主要官職の人事異動状況とその意味」 이승일「1910~1920年代朝鮮総督府の法制政策:朝鮮民事令第11条「慣習」の成文化を中心に」 박석순「告知札と牓示を通じてみた古代日本の文書行政と民」 이옥순「植民地韓国のインド認識Ⅰ」 권향숙「朱熹仁説の「内在ー拡張」構造と実践問題」 朴元熇「日訳『通俗漂海録』と諺解本『표해록』の書誌学的考察」 『東方学志』125、2004 李鎮漢「高麗時代土地制度の変化と郷吏」 이원택「17世紀尹鑴の権力構図改変論:「公孤職掌図説」の三公三孤制を中心に」 조흥윤「初期改新教宣教師の韓国シャーマニズム理解:宣教人類学の観点から」 허수「1920年代前半李敦化の改造思想受容と「人性主義」」 김성보「地方事例を通じてみた解放後北韓社会の葛藤と変動:平安北道宣川郡」 차혜원「18世紀清朝の言論統制と官僚社会:諺官謝済世事件の意味」 박양신「江戸時代の「新聞」とその近代的変容:庶民世界の媒体を中心に」 고형진「方言の詩的受容と美学的機能:永郎と白石と木月の詩を中心に」 林東錫「『四書集註』反切音研究:諺解音との対比を中心に」 『東方学志』124、2004 特集Ⅰ:中世韓国人の心性復元のための基礎研究 박경안「日常的暮らしに投影された経済意識」 이혜옥「女性の自我実現と意識世界」 윤훈표「法と規範、慣行に対する意識」 오일순「社会集団間の差別意識と身分観念」 特集Ⅱ:朝鮮の建国と「経国大典体制」の形成 도현철「朝鮮の建国と儒教文化の拡大」 具萬玉「朝鮮王朝の執権体制と科学技術政策:朝鮮前期天文易算学の整備過程を中心に」 김용흠「朝鮮前期勲旧・士林の葛藤とその政治思想的含意」 特集Ⅲ:開港前後韓国伝統社会の変動と近代化の模索 정호훈「朝鮮後期実学の展開と改革論」 金度亨「開港前後実学の変容と近代改革論」 오영섭「開港後万国公法認識の推移」 김동노「韓末の国家改革運動と資源動員」 이승렬「韓末銀行家集団の形成と光武政権:大韓天一銀行の主導勢力を中心に」 特集Ⅳ:日帝ファシズム期朝鮮支配政策とイデオロギー 전상숙「日帝軍部ファシズム体制と「植民地ファシズム」」 金京美「「皇民化」教育政策と学校教育:1940年代初等教育「国史」教課を中心に」 이준식「日帝ファシズム期宣伝映画と戦争動員イデオロギー」 권명아「「大東亜共栄」の理念と家族国家主義:総動員体制下の「南方」認識の変化を中心に」 이경란「総動員体制下農村統制と農民生活:邑の社会関係網を中心に」 이종민「戦時下愛国班組織と都市の日常統制:京城府を中心に」 『東方学志』123、2004 강은경「『高麗史』刑法志公牒相通式に現れた地方統治構造」 고윤수「光海君代朝鮮の遼東政策と朝鮮軍捕虜」 박현모「勢道政治期朝鮮知識人のアイデンティティ危機:黄嗣永帛書を中心に」 王賢鍾「大韓帝国期地契衙門の江原道量田事業と官契発給」 오미일「1908~1919年平壌磁器製造株式会社の設立と経営」 이윤갑「日帝下慶尚北道地域の新幹会支会運動」 김철신「「合同異」としての恵施哲学読解の一方式」 이현식「燕巌朴趾源文学の中の伯夷イメージ研究」 『東方学志』122、2003 特集:17世紀朝鮮と西洋の遭遇 具萬玉「16-17世紀朝鮮知識人の西洋理解と世界観の変化」 지명숙「ハメル一行の勧告滞留、適応及び理解」 Leonard Blusse「出会いと発見:極東アジアにおけるオランダ東インド会社の活動」 論文 河日植「新羅統一期の貴族私領と郡県制:関門城築城時の力役編成事例分析」 池培善「高句麗遺民李正己の孫、李師古の足跡」 박종진「高麗時期按察使の機能と位相」 洪性讃「韓末・日帝下の地主制研究:ソウル鍾路布木商店寿南商会の農地投資事例」 이임하「1950年代女性教育における性差別と良妻賢母イデオロギー」 임성래「坊刻本の登場と伝統物語方式の変化:「南原古詞」と経板35張本「春香伝」を中心に」 『東方学志』121、2003 尹薫杓「経済六典の編纂と主導層の変化」 문중양「18世紀末天文暦算専門家の科学活動と談論の歴史的性格:徐洪修と李家煥を中心に」 呉鎮錫「1910-20年代京城電気(株)の設立と経営変動」 박성규「朱子の祭祀論:鬼神問題を中心に」 아강엽「「札什倫布」連作研究」 金長煥、朴在淵「延世大所蔵本『太平広記』巻之二について」 裵京漢「中国亡命時期(1910-1925)朴殷植の言論活動と中国認識:『香江雑誌』『国是報』『四民報』の分析」 1-20 21-40 41-60 61-80 81-100 101-120 121-140 141-160 161-180
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安禄山(あん ろくざん)、光烈帝燕(唐)705~757統率:B 武力:A 政治:A 知力:B 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------唐の軍人。ソグド人と突厥系の混血。商才と勇猛さで玄宗に気に入られ、平盧・范陽・河東の三節度使に任じられる。宰相の楊国忠と対立し、排除するため偽報で軍を動かす。そして、洛陽にて雄武皇帝に即位し国号を燕とする(安史の乱)。しかし、息子の安慶緒を廃しようとしたため殺害された。 安慶緒(あん けいしょ)、晋王、哀帝燕(唐)????~759統率:D 武力:C 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------燕の皇帝を名乗った安禄山の次男。父に皇太子の座を廃されそうになったため、父を殺害し、第2代燕皇帝となる。しかし、人望のない人物だった。郭子儀やウイグルの軍に敗北して長安と洛陽を失う。最終的には史思明の裏切りによって殺害される。 安楽公主(あんらくこうしゅ)、李裹児唐684~710統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------中宗皇帝と韋皇后の娘。武三思の子・武崇訓、後に武延秀に嫁いだ。幼い頃より美しく、父母からの寵愛を受けて育った。後に韋后と共謀して中宗を毒殺し、政権を奪おうとしたが、玄宗が挙兵して韋后を殺害、逃亡した安楽公主も殺害された。 韋皇后(いこうごう)唐(京兆万年(現在の陝西省西安))????~710統率:C 武力:D 政治:C 知力:B 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------中宗皇帝の皇后。韋玄貞の娘。武則天より中宗が皇帝に復位すると、武三思らと結託して政権を掌握する。その後、自らの皇帝即位を考え、娘の安楽公主と共に中宗を殺害するが、兵を挙げた玄宗に殺害される。 睿宗(えいそう)、李旦(り たん)唐662~716統率:E 武力:E 政治:E 知力:E 文化:E 魅力:E--------------------------------------------------------------------------------唐朝第5代、8代皇帝。高宗と武則天の子で、中宗の弟。中宗が廃された後、皇帝となるが、武則天の傀儡となり、廃位される。 王維(おう い)、字は摩詰唐(河東)699~759統率:C 武力:D 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------政治家。詩人。科挙に合格したものの左遷され、後に中央に復帰して尚書右丞まで昇った。唐を代表する自然詩人でダイナミックに自然の美を詩にした。代表作に『鹿柴』、『送元二使安西(元二の安西に使いするを送る)』があり、典雅静謐な詩風から『詩仏』と呼ばれる。水墨画にも優れ、『南画の祖』とされる。 王昌齢(おう しょうれい)字は少伯、王江寧、王龍標唐(山西省太原)698~755統率:C 武力:C 政治:B 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------詩人。江寧や龍標の県尉を務めるが、安史の乱で官を辞する。七音絶句に優れ、辺塞詩に佳作が多く残り、閨怨詩や送別詩にも良作を残した。『詩家の天子』と呼ばれた。 顔杲卿(がん こうけい)、字は昕唐(琅邪臨沂(山東省))692~756統率:B 武力:C 政治:A 知力:A 文化:B 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------唐の官吏。安禄山に認められ、常山郡太守となる。しかし、安禄山が反乱を起こしたことを知ると従弟の顔真卿と共に反乱軍と戦った。多くの計略を用いて唐軍に有利な戦況を作る。しかし、安禄山に捕らえられ、太守に取り立てた事への背任をなじられるが、唐への忠心を貫き殺害された。 顔真卿(がん しんけい)、字は清臣唐(琅邪臨沂(山東省))709~785統率:B 武力:C 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------唐の官吏で、唐代屈指の忠臣とされる。楊国忠に疎んじられ、平原郡の太守となっていたが、安史の乱に際して、従兄の顔杲卿と呼応して、反乱軍と戦った。実直な性格のため、宦官勢力や宰相らから疎まれて処刑された。書家としても有名で、「蔵鋒」の技法を確立し、楷書の四大家に数えられる。 義浄(ぎじょう)、張文明唐(斉州)635~713統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------訳経僧。海路でインドへ渡り、鹿野苑や祇園精舎を巡拝して東南アジアの仏教国も訪れ、経律論、金剛座、舎利などを持ち帰った。帰国後は仏典の漢訳を行い、『南海寄帰内法伝』、『大唐西域求法高僧伝』も著した。 玄宗(げんそう)、李隆基(り りゅうき)唐685~762統率:C 武力:C 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------唐朝第9代皇帝。睿宗の子。治世の前半は節度使を設置したりと「開元の治」と呼ばれる善政で唐の絶頂期を演出したが、後半は楊貴妃に溺れ、安史の乱を引き起こした。 呉道玄(ご どうげん)唐????~????(8世紀)統率:D 武力:D 政治:C 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------画家。仏像・鬼神・禽獣・山水と全てのジャンルのおいて絶大な評価を受け、唐代第一と称せられた。山水画の画法に変革を齎し「山水の変」と呼ばれる。玄宗の命により李思訓と同時に蜀道嘉陵江の山水を大同殿に描いたが、わずか1日で絵を仕上げてしまった。『画聖』と呼ばれ後世の中国や日本にも影響を与えた。 高仙芝(こう せんし)唐(高句麗)????~755統率:C 武力:A 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------軍人。美しく騎射に長け、勇敢だった。安西四鎮節度使・夫蒙霊詧に仕え、西域で活躍した。タシケントまで攻め入るが、アッバース朝とのタラス河畔の戦いでは遊牧民カルルクの裏切りで大敗を喫してしまう。安史の乱が起こると討伐軍の副元帥に任じられたが軍監の辺令誠の讒言によって処刑されてしまう。 高力士(こう りきし)唐(潘州)684~762統率:D 武力:D 政治:A 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------宦官。はじめ武則天に献上され、李隆基(後の玄宗)とも親しかった。韋后や太平公主の討伐に協力し、玄宗の腹心として権勢を振るった。安史の乱でも玄宗に付き従ったが、後に玄宗の死を知って憤死する。 史思明(し しめい)、応天帝燕(唐)703~761統率:B 武力:B 政治:C 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------唐の軍人。突厥出身で、後に安禄山の配下となる。安禄山が反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦い、李光弼や顔真卿率いる唐軍と戦った。燕の皇帝となった安慶緒を裏切って殺害、第3代燕皇帝となる。しかし、養子を後継ぎにしようとしたために長男の史朝義によって殺された。 史朝義(し ちょうぎ)、懷王燕(唐)6????~763統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------燕の皇帝を名乗った史思明の長男。安史の乱挙兵の際は冀州、相州の守備に当たった。父を殺害して第4代燕こうていとなる。しかし、唐軍がウイグルの勢力によって洛陽を陥とすと、部下が離反し、史朝義も自殺する。これによって安史の乱が収束する。 粛宗(しゅくそう)、李亨(り きょう)唐711~762統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------唐朝第10代皇帝。玄宗の三男。安史の乱で蜀に逃れていたが後に皇帝に即位する。塩の専売制を導入し、財政改善に努めた。 殤帝(しょうてい)、李重茂(り ちょうも)唐695~713統率:C 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------唐朝第7代皇帝。中宗と韋后の子。父の死後、韋后に擁立され皇帝となるが、傀儡だった。 代宗(だいそう)、李豫(り よ)唐726~779統率:B 武力:A 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------唐朝第11代皇帝。粛宗の長男。安史の乱の後、父が皇帝となると、長安や洛陽などを奪回した。父の死後、皇帝となるが、宦官の権力が増大し、対策を講じるも歯止めを掛けることができなかった。 中宗(ちゅうそう)、李顕(り けん)唐656~710統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------唐朝第4代、6代皇帝。高宗と武則天の子。父の死後に即位するが、外戚を重用しようとしたため、わずか54日で武則天に流刑にされてしまう。武則天が亡くなると復位を果たす。 張柬之(ちょう かんし)、字は孟将唐(襄陽(現湖北省))625~706統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------政治家。監察御史を拝命し、鳳閣舎人となるが、武后(武則天)の政策に反対して合蜀二州刺史に左遷される。後に狄仁傑や、姚崇の推挙で中央に戻り、武則天が病衰したのに乗じて、張易之・昌宗兄弟を排除し、中宗を復位させた。その功で漢陽郡王となるが、武三思と対立して新州司馬に左遷された。 杜甫(と ほ)、字は子美唐(河南鞏県)712~770統率:D 武力:C 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------詩人。律詩の表現を大成させた中国史最高の詩人として『詩聖』と呼ばれる。『杜少陵』、『杜工部』とも呼ばれた。社会や政治を題材にし、安史の乱前後は社会不安を詩にして「国破れて山河在り」の冒頭で有名な『春望』をはじめ、『三吏三別』、『蜀相』、『秋興八首』などの作品を残す。 武三思(ぶ さんし)唐(山西省文水県)????~707統率:C 武力:C 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------政治家。武則天の姪、元慶の子。右衛将軍、夏官尚書などを歴任し、武周が成立すると梁王に封ぜられた。武則天の信任も厚く、張易之・昌宗兄弟と結託して権勢の確保に努めた。中宗の三男・李重俊(殤帝)と不仲で、息子の嫁・安楽公主を皇太女にしようとしたため李重俊に殺害された。 武則天(ぶそくてん)、則天武后武周(唐)623~705統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------高宗皇帝の皇后。我が子を殺して皇后に罪をきせるなどの謀略で地位を固め、子の中宗、睿宗を廃した後、自らが皇位に就き、武周初代女帝となる。晩年は、病床に臥せ、宰相・張柬之によって退位を迫られ、中宗が復位し国号も唐に戻された。この時代は、韋后と並べ武韋の禍と呼ばれる。 夫蒙霊詧(ふもう れいさつ)唐????~756統率:C 武力:A 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------軍人。吐蕃や突厥との戦いで功績を挙げ、河西節度使となる。高仙芝を重用したが、高仙芝が手柄を直接都に報告したため不仲となる。安史の乱では安東副都護、保定軍使の地位にあったが、平盧節度副使の呂知誨に謀殺された。 辺令誠(へん れんせい)唐????~756統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------宦官。高仙芝の軍監を務めた。安西四鎮節度使・夫蒙霊詧と高仙芝の関係が悪化したときに高仙芝を弁護する上奏文を玄宗に送った。しかし、安史の乱で高仙芝に自分の意見を取り上げられなかったため、今度は玄宗に讒言して高仙芝や封常清を処刑に追いやった。 封常清(ほう じょうせい)唐(蒲州猗氏県)????~755統率:C 武力:C 政治:B 知力:A 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------武将。斜視で片足が不自由だったが、学問に長け、判断力もあった。高仙芝に仕えて西域で活躍し、安西四鎮節度使、伊西節度使などを務めた。安史の乱では范陽、平盧節度使に任じられるが、安禄山の軍に敗れると、辺令誠の讒言によって敗北の責を問われ処刑された。 楊貴妃(ようきひ)、楊玉環唐(蒲州(ほしゅう)永楽(山西省?城県))719~756統率:D 武力:D 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------玄宗皇帝の皇妃。蜀州司戸の楊玄淡の四女。玄宗が寵愛しすぎたために安史の乱が引き起こされ、『傾国の美女』と呼ばれた。世界三大美人、中国四大美人に数えられる。陳玄礼らに安史の乱の責任として自死を強いられた。音楽や舞踊に多大な才能を持っていた。 楊炎(よう えん)、字は公南唐(鳳翔郡天興)727~781統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------政治家。徳宗によって同中書門下平章事(宰相職)に抜擢され、財政再建と朝廷の権威回復に取り組んだ。塩を専売制にして財源を確保し、夏と冬の2回徴税する両税法を制定した。 楊国忠(よう こくちゅう)、字は釗(しょう)唐(蒲州(ほしゅう)永楽(山西省?城県))????~756統率:C 武力:D 政治:B 知力:C 文化:B 魅力:E--------------------------------------------------------------------------------唐の権臣。楊貴妃の又従兄に当たる。経理、計算に長け、多くの官職を経て宰相の地位に就く。政敵をことごとく排除し、安禄山とも対立し、安史の乱の一因とされる。唐軍が劣勢となると、蜀地方への出奔を提言。その途上で謀反を疑われ殺害された。弁は立つが軽薄な人物。 李思訓(り しくん)唐651~718統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------官僚。絵画の才に長け、子の李昭道とともに、北宗画の祖とされる。画風は貴族的で着色に拘った。玄宗の命により呉道玄と同時に蜀道嘉陵江の山水を大同殿に描いたが、呉道玄の1日に対して数か月かけて完成させた。 李白(り はく)、字は太白唐701~762統率:D 武力:C 政治:C 知力:C 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------詩人。絶句、雑言古詩の詩型を得意として七言絶句に優れ、『詩仙』と呼ばれる。酒を好み、奔放で変幻自在な詩風が特徴で、代表作に『秋浦歌 其十五(秋浦の歌 其の十五)』、『早發白帝城( 早に白帝城を発す )』、『静夜思』などがある。
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←巻四 本紀第四 万歳通天元年(696)臘月甲戌、神岳にいった。甲申、神岳を封じた。改元して万歳登封といった。大赦をおこない、この年の租税を免除し、民間に十日の宴会を賜った。丁亥、少室山に禅した。己丑、洛州に二年間、登封・告成県に三年間免税とした。癸巳、神都にもどった。 一月甲寅、婁師徳が肅邊道行軍副総管となり、吐蕃を攻撃した。己巳、崇尊廟を改めて太廟とした。 二月辛巳、神岳天中王を尊んで神岳天中黄帝とし、天霊妃を天中黄后とした。 三月壬寅、王孝傑・婁師徳が吐蕃と素羅汗山で戦い、敗れた。丁巳、明堂を再び作り、改めて通天宮といった。大赦をおこない、改元し、民間に七日の宴会を賜った。 四月癸酉、検校夏官侍郎の孫元亨が同鳳閣鸞台平章事となった。庚子、婁師徳を左遷して原州都督府司馬とした。 五月壬子、契丹の首領で松漠都督の李尽忠と帰誠州刺史の孫万栄が営州を陷し、都督の趙文翽を殺した。乙丑、左鷹揚衛将軍の曹仁師・右金吾衛大将軍の張玄遇・左威衛大将軍の李多祚・司農少卿の麻仁節らがこれを攻撃した。 七月辛亥、春官尚書の武三思が楡関道安撫大使となり、納言の姚璹が副使となり、契丹に備えた。 八月丁酉、張玄遇・曹仁師・麻仁節らが契丹と黄麞谷で戦い、敗れ、張玄遇・麻仁節を捕らえられた。 九月庚子、同州刺史の武攸宜が清辺道行軍大総管となり、契丹を攻撃した。丁巳、吐蕃が涼州を寇し、都督の許欽明がここに死んだ。庚申、并州長史の王方慶が鸞台侍郎となり、殿中監の李道広、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。 十月辛卯、契丹が冀州を寇し、刺史の陸宝積がここに死んだ。甲午、囚人の再審を行った。 神功元年(697)正月壬戌、李元素・孫元亨・洛州録事参軍の綦連耀・箕州刺史の劉思礼・知天官侍郎事の石抱忠・劉奇・給事中の周譒・鳳閣舎人の王勮・前涇州刺史の王勔・太子司議郎の路敬淳・司門員外郎の劉順之・右司員外郎の宇文全志・来庭県主簿の柳璆を殺した。癸亥、突厥の黙啜が勝州を寇し、平狄軍副使の安道買がこれを破った。甲子、婁師徳が鳳閣侍郎を代行し、同鳳閣鸞台平章事となった。 一月乙巳、囚人の再審を行った。 三月庚子、王孝傑が孫万斬と東硤石谷で戦い、敗れ、王孝傑はここに死んだ。戊申、河南・河北で赦した。 四月戊辰、通天宮に九鼎を置いた。癸酉、前益州大都督府長史の王及善が内史となった。癸未、右金吾衛大将軍の武懿宗が神兵道行軍大総管となり、右豹韜衛将軍の何迦密とともに契丹を攻撃した。 五月癸卯、婁師徳が清辺道行軍副大総管となり、右武衛将軍の沙吒忠義が清辺中道前軍総管となって、契丹を攻撃した。 六月丁卯、監察御史の李昭徳と司僕少卿の来俊臣を殺した。己卯、尚方少監の宗楚客が同鳳閣鸞台平章事となった。戊子、特進の武承嗣と春官尚書の武三思が同鳳閣鸞台三品となった。辛卯、婁師徳が河北を安撫した。 七月丁酉、武承嗣・武三思が宰相を退いた。 八月丙戌、姚璹が宰相を退いた。 九月壬寅、大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。庚戌、婁師徳が納言を代行した。 十月甲子、徇忠・立節の二県に一年間免税とした。 閏月甲寅、検校司刑卿・幽州都督の狄仁傑が鸞台侍郎となり、司刑卿の杜景佺が鳳閣侍郎となり、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。 聖暦元年(698)正月甲子、大赦をおこない、改元し、民間に九日の宴会を賜った。丙寅、宗楚客が宰相を退いた。丁亥、李道広が宰相を退いた。 三月己巳、廬陵王が房州で召された。戊子、廬陵王が房州から到着した。 四月庚寅、神都と河北で赦した。辛丑、婁師徳が隴右諸軍大使となり、河西営田事を検校した。 五月庚午、屠殺を禁じた。 六月乙卯、大風のため木が抜けた。 七月辛未、杜景佺が宰相を退いた。 八月、突厥が辺境を寇した。戊子、左豹韜衛将軍の閻知微が突厥に降り、辺境を寇した。甲午、王方慶が宰相を退いた。庚子、春官尚書の武三思が内史を検校し、狄仁傑が納言を兼ねた。司屬卿の武重規が天兵中道大総管となり、沙吒忠義が天兵西道前軍総管となり、幽州都督の張仁亶が天兵東道総管となり、左羽林衛大将軍の李多祚・右羽林衛大将軍の閻敬容が天兵西道後軍総管となり、突厥を攻撃した。癸丑、突厥が蔚州を寇した。乙卯、定州を寇し、刺史の孫彦高がここに死んだ。 九月甲子、夏官尚書の武攸寧が同鳳閣鸞台三品となった。戊辰、突厥が趙州を寇し、長史の唐波若が突厥に降り、刺史の高叡がここに死んだ。突厥が相州を寇すると、沙吒忠義が河北道前軍総管となり、将軍の陽基が副総管となり、李多祚が後軍総管となり、大将軍の富福信が奇兵総管となり、これをふせいだ。壬申、廬陵王李顕を立てて皇太子とし、大赦をおこない、五日間の宴会を賜った。甲戌、皇太子が河北道行軍元帥となり、突厥を攻撃した。戊寅、狄仁傑が河北道行軍副元帥となり、納言を検校した。辛巳、試天官侍郎の蘇味道が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。 十月癸卯、狄仁傑が河北道安撫大使となった。夏官侍郎の姚元崇と麟台少監の李嶠が同鳳閣鸞台平章事となった。閻知微を族滅させた。 二年(699)正月壬戌、皇嗣の李旦を封じて相王とした。 臘月戊子、左肅政台御史中丞の吉頊が天官侍郎となり、検校右粛政台御史中丞の魏元忠が鳳閣侍郎となり、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。辛亥、皇太子に姓武氏を賜り、大赦をおこなった。 一月庚申、武攸寧が宰相を退いた。 二月己丑、緱氏にいった。辛卯、嵩陽にいった。丁酉、神都にもどった。 三月甲戌、隋・唐をもって二王の後とした。婁師徳が納言となった。 四月壬辰、魏元忠が并州大都督府長史・天兵軍大総管を検校し、婁師徳が副総管となり、突厥に備えた。辛丑、婁師徳が隴右諸軍大使となった。甲辰、囚人の再審を行った。 七月丙辰、神都で大雨があり、洛水が氾濫した。 八月庚子、王及善が文昌左相・同鳳閣鸞台平章事となり、太子宮尹の豆盧欽望が文昌右相・同鳳閣鸞台三品となった。楊再思が宰相を退いた。丁未、試天官侍郎の陸元方が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。婁師徳が薨去した。戊申、武三思が内史となった。 九月乙亥、福昌県にいき、曲赦した。戊寅、神都にもどった。庚辰、王及善が薨去した。 この秋、黄河が氾濫した。 十月丁亥、吐蕃首領の賛婆が来朝した。 久視元年(700)正月戊午、吉頊を左遷して琰川尉とした。壬申、武三思が宰相を退いた。 臘月辛巳、皇太子の子の李重潤を封じて邵王とした。庚寅、陸元方が司礼卿を辞任した。阿史那斛瑟羅が平西軍大総管となった。丁酉、狄仁傑が内史となった。庚子、文昌左相の韋巨源が納言となった。乙巳、嵩山にいった。 一月丁卯、汝州の温湯にいった。戊寅、神都にもどった。三陽宮を作った。 二月乙未、豆盧欽望が宰相を退いた。 三月癸丑、夏官尚書の唐奉一が天兵中軍大総管となり、突厥に備えた。 四月戊申、三陽宮にいった。 五月己酉朔、日食があった。癸丑、大赦をおこない、改元し、「天冊金輪大聖」の号をやめ、宴を賜うこと五日、告成県を一年間免税とした。 閏七月戊寅、神都にもどった。己丑、天官侍郎の張錫を鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事とした。李嶠が宰相を退いた。丁酉、吐蕃が涼州を寇し、隴右諸軍州大使の唐休璟は洪源谷で敗れた。 八月庚戌、魏元忠が隴右諸軍州大総管となり、吐蕃を攻撃した。庚申、天下の僧の銭をおさめて大像を造った。 九月辛丑、狄仁傑が薨去した。 十月辛亥、魏元忠が蕭関道行軍大総管となり、突厥に備えた。甲寅、唐の正月に復し、大赦をおこなった。丁巳、韋巨源が宰相を退いた。文昌右丞の韋安石が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。丁卯、新安の隴澗山にいき、曲赦した。壬申、神都にもどった。 十二月甲寅、突厥が隴右を寇した。 長安元年(701)正月丁丑、大足と改元した。 二月己酉、鸞台侍郎の李懐遠が同鳳閣鸞台平章事となった。 三月丙申、張錫を循州に流した。 四月丙午、大赦をおこなった。癸丑、姚元崇が并州以北の諸軍・諸州の兵馬を検校した。 五月乙亥、三陽宮にいった。丁丑、魏元忠が霊武道行軍大総管となり、突厥に備えた。丙申、天官侍郎の顧琮が同鳳閣鸞台平章事となった。 六月庚申、夏官侍郎の李迥秀が同鳳閣鸞台平章事となった。辛未、告成県で赦した。 七月甲戌、神都にもどった。乙亥、揚・楚・常・潤・蘇五州で地震があった。壬午、蘇味道が幽・平などの州の兵馬を按察した。甲申、李懐遠が宰相を退いた。 九月壬申、邵王李重潤および永泰郡主、郡主の婿の武延基を殺した。 十月壬寅、京師にいった。辛酉、大赦をおこない、改元した。関内を三年間免税とし、民間に三日の宴会を賜った。丙寅、魏元忠が同鳳閣鸞台三品となった。 十一月壬申、武三思が宰相を退いた。戊寅、含元宮を改めて大明宮とした。 二年(702)正月、突厥が塩州を寇した。 三月丙戌、李迥秀安置山東軍馬、検校武騎兵。庚寅、突厥が并州を寇すると、雍州長史の薛季昶が持節・山東防禦大使としてこれに備えた。 七月甲午、突厥が代州を寇した。 八月辛亥、剣南の六州で地震があった。 九月乙丑朔、日食があった。壬申、突厥が忻州を寇した。己卯、吐蕃が和を請うた。 十月甲辰、顧琮が薨去した。戊申、吐蕃が悉州を寇したので、茂州都督陳大慈がこれを破った。甲寅、姚元崇が同鳳閣鸞台平章事となり、蘇味道・韋安石・李迥秀が同鳳閣鸞台三品となった。 十一月甲子、相王李旦が司徒となった。戊子、祀南郊、大赦をおこない、民間に三日の宴会を賜った。 十二月甲午、魏元忠が安東道安撫使となった。 三年(703)三月壬戌朔、日食があった。 四月庚子、相王李旦が宰相を退いた。吐蕃が来朝して婚姻を求めた。乙巳、以旱害のため正殿を避けた。 閏月庚午、成均祭酒の李嶠が同鳳閣鸞台平章事となった。己卯、李嶠が知納言事となった。 七月壬寅、正諫大夫の朱敬則が同鳳閣鸞台平章事となった。庚戌、検校涼州都督の唐休璟が夏官尚書・同鳳閣鸞台平章事となった。 八月乙酉、京師に大雨雹が降った。 九月庚寅朔、日食があった。丁酉、魏元忠を左遷して高要尉とした。 十月丙寅、神都にいった。 十二月丙戌、天下に関三十を置いた。 四年(704)正月丁未、興泰宮を作った。壬子、天官侍郎の韋嗣立が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台三品となった。 二月癸亥、李迥秀を左遷して廬州刺史とした。壬申、朱敬則が宰相を退いた。 三月丁亥、皇孫の平恩郡王李重福を進封して譙王とした。己亥、夏官侍郎の宗楚客が同鳳閣鸞台平章事となった。蘇味道を左遷して坊州刺史とした。 四月壬戌、韋安石が知納言事となり、李嶠が知内史事となった。丙子、興泰宮にいき、寿安県で赦し、一年間の免税とした。 五月丁亥、大風で木が抜けた。 六月辛酉、姚元之が宰相を退いた。乙丑、天官侍郎の崔玄暐が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。丁丑、李嶠が同鳳閣鸞台三品となった。壬午、相王府長史の姚元之が夏官尚書を兼知し、同鳳閣鸞台三品となった。 七月丙戌、左肅政台御史大夫の楊再思が内史を代行した。甲午、神都にもどった。宗楚客を左遷して原州都督とした。 八月庚申、唐休璟が幽営二州都督・安東都護を兼ねた。 九月壬子、姚元之が霊武道行軍大総管となった。 十月辛酉、姚元之が霊武道安撫大使となった。甲戌、判秋官侍郎の張柬之が同鳳閣鸞台平章事となった。壬午、懐州長史の房融が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。 十一月丁亥、天官侍郎の韋承慶が鳳閣侍郎を代行し、同鳳閣鸞台平章事となった。李嶠が宰相を退いた。 十二月丙辰、韋嗣立が宰相を退いた。 五年(705)正月壬午、大赦をおこなった。庚寅、屠殺を禁じた。癸卯、張柬之・崔玄暐および左羽林衛将軍の敬暉・検校左羽林衛将軍の桓彦範・司刑少卿の袁恕己・左羽林衛将軍の李湛・薛思行・趙承恩・右羽林衛将軍の楊元琰・左羽林衛大将軍の李多祚・職方郎中の崔泰之・庫部員外郎の朱敬則・司刑評事の冀仲甫・検校司農少卿兼知総監の翟世言・内直郎の王同皎が左右の羽林兵を率いて乱を討った。麟台監の張易之・春官侍郎の張昌宗・汴州刺史の張昌期・司礼少卿の張同休・通事舎人の張景雄が処刑された。丙午、皇帝が位に復した。丁未、后を上陽宮にうつした。戊申、后に号をたてまつって則天大聖皇帝といった。 十一月、崩じ、謚を大聖則天皇后といった。唐隆元年(710)、改めて天后とした。景雲元年(710)、改めて大聖天后とした。延和元年(712)、改めて天后聖帝とし、まもなく、改めて聖后とした。開元四年(716)、改めて則天皇后とした。天宝八載(749)、則天順聖皇后と諡を加えた。 中宗大和大聖大昭孝皇帝は、諱を顕といい、高宗の第七子である。母は則天順聖皇后武氏といった。高宗が崩ずると、皇太子を皇帝の位につけ、皇太后が臨朝称制した。嗣聖元年(684)正月、廃されて均州に蟄居し、また房州にうつされた。聖暦二年(699)、皇太子に復した。太后は老いかつ病となった。 神龍元年(705)正月、張柬之らが羽林兵をもって乱を討った。甲辰、皇太子が監国し、大赦をおこない、改元した。丙午、帝位に復し、大赦をおこない、文武の官に階・爵を賜り、民間に五日の宴会を賜り、この年の租賦を免除し、房州に税の免除を三年とし、宮女三千人を放った。相王李旦が安国相王・太尉・同鳳閣鸞台三品となった。庚戌、張柬之・袁恕己が同鳳閣鸞台三品となり、崔玄暐が内史を代行し、敬暉が納言となり、桓彦範が納言を代行した。 二月甲寅、国号の唐に復した。韋承慶を左遷して高要尉とし、房融を高州に流した。楊再思が同中書門下三品となった。姚元之が宰相を退いた。甲子、皇后の韋氏が位に復し、大赦をおこない、民間に三日の宴会を賜い、宗室のうち周で死んだ者の官爵を復した。丙寅、太子賓客の武三思が司空・同中書門下三品となった。譙王李重福を左遷して濮州刺史とした。丁卯、右散騎常侍・駙馬都尉の武攸暨が司徒となった。辛未、安国相王李旦が宰相を退いた。甲戌、太子少詹事の祝欽明が同中書門下三品となった。韋安石が宰相を退いた。子の義興郡王李重俊を進封して衛王とし、北海郡王李重茂を温王とした。丁丑、武三思・武攸暨が宰相を退いた。 三月甲申、詔して文明年間(684)以後、家を破壊された者を洗い出し、その子孫に蔭を戻した。己丑、袁恕己が中書令を代行した。 四月辛亥、桓彦範が侍中となり、袁恕己が中書令となった。丁卯、高要尉の魏元忠が衛尉卿・同中書門下平章事となった。辛未、敬暉が侍中となった。甲戌、魏元忠・崔玄暐、刑部尚書の韋安石が吏部尚書となり、太子右庶子の李懐遠が左散騎常侍となり、涼州都督の唐休璟が輔国大将軍となり、ともに同中書門下三品となった。乙亥、張柬之が中書令となった。 五月壬午、武氏の神主を崇恩廟にうつした。乙酉、太廟・社稷を東都に立てた。戊子、周・隋二王の後裔を復した。壬辰、兄の成紀郡王李千里を進封して成王とした。甲午、敬暉・桓彦範・張柬之・袁恕己・崔玄暐が宰相を退いた。韋安石が検校中書令を兼ね、魏元忠が侍中を兼ねた。甲辰、唐休璟が尚書左僕射となり、特進の豆盧欽望が尚書右僕射となり、ともに同中書門下三品となった。 六月壬子、左驍衛大将軍の裴思諒が霊武道行軍大総管となり、突厥に備えた。癸亥、韋安石が中書令となり、魏元忠が侍中となり、楊再思が中書令を検校し、豆盧欽望が平章軍国重事となった。 七月辛巳、太子賓客の韋巨源が同中書門下三品となった。甲辰、洛水が氾濫した。 八月戊申、河南・洛陽の二県に一年間の免税を給した。壬戌、妃の趙氏を追冊して皇后とした。乙亥、孝敬皇帝(李弘)を東都の太廟に祀り入れた。皇后もまた廟に入れた。丁丑、洛城の南門に行幸し、闘象を観た。 九月壬午、明堂で天地を祀った。大赦をおこない、文武の官に勲・爵を賜わり、民間で勲功のある父の後を継いだ者は古爵一級を賜い、宴を三日賜った。癸巳、韋巨源が宰相を退いた。 十月癸亥、龍門に幸した。乙丑、新安で狩猟した。辛未、魏元忠が中書令となり、楊再思が侍中となった。 十一月戊寅、尊号をたてまつって応天皇帝といい、皇后を順天皇后といった。壬午、皇后とともに太廟に享し、大赦をおこない、文武の官に階・勲・爵を、民間に三日の宴会を賜った。己丑、洛城南門に幸し、潑寒胡戯を観た。壬寅、皇太后が崩じ、崇恩廟を廃した。 二年(706)正月戊戌、吏部尚書の李嶠が同中書門下三品となり、中書侍郎の于惟謙が同中書門下平章事となった。 閏月丙午、公主を開府させ官属を設置した。 二月乙未、礼部尚書の韋巨源が刑部尚書・同中書門下三品となった。丙申、十道巡察使を派遣した。 三月甲辰、韋安石が宰相を退いた。戸部尚書の蘇が侍中を代行した。戊申、唐休璟が宰相を退いた。庚戌、光禄卿・駙馬都尉の王同皎を殺した。この月、員外の官を置いた。 四月己丑、李懐遠が宰相を退いた。己亥、鄮県で天から毛が降った。辛丑、洛水が氾濫した。 五月庚申、則天大聖皇后を葬った。 六月戊寅、敬暉を左遷して崖州司馬とし、桓彦範を瀧州司馬とし、袁恕己を竇州司馬とし、崔玄暐を白州司馬とし、張柬之を新州司馬とした。 七月戊申、衛王李重俊を立てて皇太子とした。丙寅、魏元忠が尚書右僕射となり、中書令を兼ね、李嶠が中書令を代行した。辛未、左散騎常侍として致仕した李懐遠が同中書門下三品となった。敬暉を嘉州に、桓彦範を瀼州に、袁恕己を環州に、崔玄暐を古州に、張柬之を瀧州に流した。 八月丙子、祝欽明を左遷して申州刺史とした。 九月戊午、李懐遠が薨去した。 十月癸巳、蘇瓌を侍中とした。戊戌、東都から到着した。 十一月乙巳、大赦をおこない、行守の官位相当者に官勲一転を賜った。 十二月己卯、霊武軍大総管の沙吒忠義が突厥と鳴沙で戦い、敗れた。丙戌、突厥の辺境寇入・京師の旱・河北の水害のため、膳を減らし、土木工事をやめた。蘇瓌に河北を慰撫させた。丙申、魏元忠が尚書左僕射となった。 景龍元年(707)正月丙辰、旱魃のため囚人の再審を行った。 二月丙戌、武氏の廟・陵を復し、昭陵のように令・丞・守戸を置いた。甲午、褒徳廟・栄先陵に令・丞を置いた。 四月庚寅、雍州で赦した。 五月戊戌、右屯衛大将軍の張仁亶が朔方道行軍大総管となり、突厥に備えた。丙午、仮の鴻臚卿の臧思言が突厥に使いし、ここに死んだ。旱害のため正殿を避け、膳を減らした。 六月丁卯朔、日食があった。庚午、陜州で天より土が降った。戊子、吐蕃および姚州蛮が辺境を寇し、姚巂道討撃使の唐九徴がこれを破った。 七月辛丑、皇太子が羽林千騎兵をもって武三思を処断しようとしたが、勝てず、ここに死んだ。癸卯、大赦をおこなった。壬戌、李嶠が中書令となった。 八月丙戌、尊号をたてまつって応天神龍皇帝といい、皇后を順天翊聖皇后といった。魏元忠が宰相を退いた。 九月丁酉、吏部侍郎の蕭至忠が黄門侍郎となり、兵部尚書の宗楚客、左衛将軍兼太府卿の紀処訥が、ともに同中書門下三品となった。于惟謙が宰相を退いた。庚子、大赦をおこない、改元した。文武の官に階・勲・爵を賜った。辛亥、楊再思が中書令となり、韋巨源・紀処訥が侍中となった。蘇が宰相を退いた。 十月戊寅、習藝館内教の蘇安恒を殺した。壬午、彗星が西方より出現した。 十二月乙丑朔、日食があった。丁丑、土が天から降った。 二年(708)二月癸未、星が西南に隕ちた。庚寅、大赦をおこない、五品以上の母・妻に封号一等を進め、妻なき者にはその娘に授け、婦人で八十歳以上は郡・県・郷君を版授した。 七月癸巳、朔方道行軍大総管の張仁亶が同中書門下三品となった。丁酉、箒星が胃宿・昴宿の間を通過した。 十一月庚申、西突厥が辺境を寇し、御史中丞の馮嘉賓を突厥に使いし、ここに死んだ。己卯、大赦をおこない、民間に三日の宴会を賜った。癸未、安西都護の牛師奨が西突厥と火焼城で戦い、ここに死んだ。 この年、皇后・妃・公主・上官昭容が売官をおこない、墨勅斜封を行った。。 三年(709)二月己丑、皇后とともに玄武門に幸し、宮女河を抜り、宮市をなすのを嬉んだ。壬寅、韋巨源が尚書左僕射となり、楊再思が右僕射となり、ともに同中書門下三品となった。壬子、皇后が太常寺に幸した。 三月戊午、宗楚客が中書令となり、蕭至忠が侍中を代行し、太府卿の韋嗣立が兵部尚書を代行して同中書門下三品となった。中書侍郎兼検校吏部侍郎の崔湜、守兵部侍郎の趙彦昭が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。戊寅、礼部尚書の韋温が太子少保・同中書門下三品となった。太常少卿の鄭愔が吏部侍郎を代行し、同中書門下平章事となった。 五月丙戌、崔湜を左遷して襄州刺吏とし、鄭愔を江州司馬とした。 六月癸巳、太白(金星)が昼に見えた。庚子、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめた。詔して天下の図籍を括った。壬寅、囚人の再審を行った癸卯、楊再思が薨去した。 七月丙辰、西突厥の娑葛が降った。辛酉、許婦人の夫によらず、子が封じられた者を許してその子孫に蔭位させた。癸亥、慮囚。庚辰、澧水が氾濫した。 八月乙酉、李嶠が同中書門下三品となり、特進の韋安石が侍中となった。壬辰、箒星が紫宮を通過した。 九月戊辰、吏部尚書の蘇瓌が尚書左僕射・同中書門下三品となった。 十一月乙丑、南郊を有事摂事にて祀った、皇后を亜献とし、大赦をおこない、文武の官に階・爵を賜たが、叙位された品を有する者は考(官位の昇進)を減じ、関内のこの年の賦を免除し、民間に三日の宴会を賜った。甲戌、豆盧欽望が薨去した。 十二月壬辰、さきの宋国公で致仕した唐休璟が太子少師・同中書門下三品となった。甲午、新豊の温湯にいった。甲辰、新豊で赦し、一年間の免税とし、従官に勲一等を賜った。乙巳、新豊から到着した。 四年(710)正月丙寅、皇后とともに微行して観燈をみて、そのまま蕭至忠の邸宅に幸した。丁卯、微行して観燈をみて、韋安石・長寧公主の邸宅に幸した。己卯、始平にいった。 二月壬午、咸陽・始平で赦し、一年間の免税とした。癸未、始平から到着した。庚戌、后・妃・公主および三品以上と黄河を観た。 三月、河源九曲を吐蕃に与えた。庚申、雨によって木が凍り、井戸が溢れた。 五月辛酉、虢王李邕を封じて汴王とした。丁卯、許州司兵参軍の燕欽融を殺した。丁丑、剡県で地震があった。 六月、皇后および安楽公主と散騎常侍の馬秦客がそむいた。壬午、皇帝が崩じ、年は五十五であり、謚を孝和皇帝といった。天宝十三載(754)、大和大聖大昭孝皇帝の謚を加えた。 賛にいわく、昔、孔子が春秋をつくって乱臣・賊子が懼れたが、その君主を弑し国を簒奪したものは、皆退けられ絶えたわけではなかった。どうしてその盜をもってこれある者か、大きな罪はないというのだろうか。その事実を埋没させないのは、その大悪を著して隠さない所以であろうか? 司馬遷・班固よりみな高后紀をつくった。呂氏は漢を簒奪したわけではなかったが、その国政を盗み執り、遂にあえてその事実を埋没させなかった。どうして聖人の意を得たといえるだろうか?そもそもまたたまたま春秋の法に一致したのだ。唐の旧史はこれにより、武后を本紀に列しているが、おもうにその本来あるべきところから遠いものなのである。吉凶は人においてはなお影響があって、善をなす者は吉を得ること常に多いが、不幸にして凶にかかる者もある。悪事をなす者はまだ始める前から凶に及ぶことはないのに、幸いにして免れる者もまた時としてある。しかしながら小人の思いなどは、天道をして知り難く、善をなしても必ずしも福とならず、しかし悪事をなして必ずしも禍がおきるとは限らない。武后の悪は大殺戮に及ばず、いわゆる「幸いにも免れた者」ということになる。中宗韋氏に至っては、禍は踵をかえして戻っていくということはなかった。その親は母后の難にあい、しかも自身もこれに陥った。いわゆる「最下位の愚者だけは、永久に変らない」というべきか! 前巻 『新唐書』 次巻 巻三 本紀第三 『新唐書』巻四 本紀第四 巻五 本紀第五
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251 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 16 59 49 ID 7I247Mkx0 250 確かにエセンは支那風の国号を持つ王朝に仕えてはないな。 ハーンだし、蛮勇ならトップクラスだと思うが。 さて、まだ語り足りない人いる? おれは征服王朝の功労者、拖雷と速不台がオッケーってことで すでに大満足なんだが、みんな満足した? 満足なら、各時代の10選に移ろうか。 まず春秋戦国から。 252 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 17 04 28 ID 7I247Mkx0 春秋戦国 【確定組】 楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦 【候補】 墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 ・・・伍子胥と呉起は確定確実だと思うが、人格的に忌避されてるのか? 呉起の名前がない。 253 121=205 sage 2007/01/08(月) 17 05 48 ID k9cHV6vm0 まとめるとこんな感じでいいですか? ①清滅亡(1912)以前の武将であること (いわゆる制式軍隊の軍人は不可) ②現中華人民共和国の領域内に都を置き、 支那風の国号を持つ王朝に所属して、活躍した経歴であること (王朝の樹立に貢献した場合は可、先行政権治下のみの活躍は不可) ③実際に軍隊を率い、軍略に優れ、多くの戦功があること (配下の兵卒に慕われていればなお望ましい) 254 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 17 11 13 ID 7I247Mkx0 また先走ってしまった。いかんなぁ、よくない癖だ。 現在議論終盤、と。 255 244 2007/01/08(月) 17 14 00 ID q3aW16fg0 253さんに感謝 それで賛成です。自分の言葉足らずに嘆くばかりです。 256 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 17 15 08 ID AAsiG5VE0 251 >みんな満足した? 満足なら、 ちょっと非常識すぎないか? みんなで話し合うスレなんやから、返事くらいちゃんと聞こうや。 ただでさえ異民族武将には抵抗感のある人も多いんやからさ。 253 おおむね賛成。 清滅亡まではちょっと長いかな?という気もするけど、軍用機の実用前でもあるしね。 257 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 17 15 48 ID AAsiG5VE0 254で反省しておられたか。失礼した。 258 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 17 17 29 ID vXfaXOHi0 いや、それより 215の52名は確定なんだから(だよね?) 残りの48人を候補枠から選んだ方が早いかと (つーか後漢の確定武将も決めるほうが先か?) 現在の候補武将 墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 周瑜、劉曜、慕容垂 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真 劉淵、劉聡、冉閔 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、 薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、 任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、呂文煥 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁 呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳 多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁、岳鐘琪、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福 現在候補で178名いる 多分、1/3ぐらいはすぐに減らせると思う。結構「コイツは要らなく無い?」って意見があった武将は多いから あとは後漢の 劉秀、耿エン、馮異、岑彭、呉漢、廉范、班超、張奐、虞[言羽]、賈復または馬援 は取り敢えず何処まで確定にする 259 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 17 20 22 ID vXfaXOHi0 258は 252宛ね 260 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 17 24 01 ID ccC5uxEZ0 253 ②の部分で五胡十六国時代の五胡の国は該当しないし、 金・元・遼あたりが支那風の国号かどうかが微妙だ。 261 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 17 33 32 ID iaqH3bh50 253 先行王朝での活躍と王朝樹立への貢献は分離できるのか? モンゴルでいえば(というかモンゴルしか該当しないが) トゥルイは貢献したがチンギスはしてない、となったりしたら それはなんかおかしいと思うが 262 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 17 37 41 ID /mQ1WrzGO 蒙古から元の国号に決めた時の経緯を引継ぎ、明・清は国号を定めたんだけど・・・ 263 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 17 53 30 ID ccC5uxEZ0 戦乱期の終結後に、統一された勢力圏を以て中国と する手もあるな。 対象とする武将は、その国に所属していた人間とす る。 三国~両晋・南北朝は、隋初の勢力圏 五代~北宋・遼 南宋・金~元は、明初の勢力圏 更にその勢力圏の国から、中華思想の国以外は除外 するとしてもよいかも。 264 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 17 56 49 ID 7I247Mkx0 263 すでに完成してる時間枠を今更になって いじると余計わかりづらくなると思うよ。 確定してる時間枠で十分。 265 263 sage 2007/01/08(月) 17 59 52 ID ccC5uxEZ0 264 時間枠は変更しない、武将の所属している勢力の話ね。 266 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 18 01 12 ID 7I247Mkx0 統一秦~後漢落としますね。 統一秦~前漢 【確定組】 1.韓信 2.霍去病 3.衛青 4.灌嬰 5.未定 6.未定 7.未定 8.未定 9.未定 10.未定 【候補】 項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 新・後漢 1.劉秀 2.耿弇 3.馮異 4.岑彭 5.呉漢 6.廉范 7.班超 8.張奐 9.虞詡 10.賈復または馬援 【候補】 祭遵 267 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 18 06 42 ID lXHHBP+20 260 五胡政権で中華風の国号を持っていない国? 赫連勃勃の夏(統万城)ぐらいじゃあないのか?(夏は古代夏王朝に由来しているが) 涼州の政権を問題にしているかもしれないが、前涼はれっきとした漢人政権だし (というか、晋を宗主国として絶えず五胡政権から攻撃を受けていたわけだし) その後の後・西・北・南の四国に関しては、ほぼ前涼の領域内におさまるような 呂光の後涼くらいか怪しいのは 五胡が中国史に含まれないって、おかしくないか? 268 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 18 06 48 ID 7I247Mkx0 三国~南北朝、投下。 三国~両晋 【確定組】 1.曹操 2.鄧艾 3.石勒 4.祖逖 5.王猛 【内定組】 暫定6.周瑜 暫定7.劉曜 暫定8.慕容垂 【論争中】 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真 劉淵、劉聡、冉閔 南北朝 【確定組】 1.劉裕 2.檀道済 3.韋叡 4.陳慶之 5. 拓跋珪 暫定6.高歓 暫定7.宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙大将軍)、于謹 蕭道成、斛律光、陳覇先 高歓、宇文泰は下げようという意見が多いので暫定。 269 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 18 09 24 ID DXfOL84EO 後漢の候補には臧宮やWコウジュンも入れて欲しいな。 270 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 18 11 44 ID 7I247Mkx0 隋・唐 【確定組】 1.楊素 2.李世民 3.李孝恭 4.李靖 5.李勣 6.裴行倹 7.郭子儀 8.李克用 9.未定 10.未定 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬 五代~北宋・遼 【確定組】 1.朱温 2.李存勗 3.郭威 4.柴栄 5.趙匡胤 6曹彬 7.楊業 8.狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、 任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊、 范仲淹、チュウ師道 【論争中】 耶律休哥 271 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 18 13 41 ID SheA70j10 270 候補の徐勣は5.李勣で確定してるから削るべきだ。 272 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 18 16 10 ID 7I247Mkx0 はい次。 南宋・金~元 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟珙、拡廓帖木児(ココテムル) 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、張俊、呉玠、呉璘、劉錡、 虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義、徒単合喜、宗翰(ネメガ)、 耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ)、劉整、張弘範、 脱脱(トクト)、呂文煥、拖雷(トゥルイ)、速不台(スブタイ) 明 【確定組】 1.徐達 2.常遇春 3.朱棣 4.戚継光 5.袁崇煥 6.未定 7.未定 8.未定 9.未定 10.未定 【候補】 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁 呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳 273 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 18 29 53 ID 7I247Mkx0 清 【確定】 1.阿巴泰(アハタイ) 2.策稜(ツェリン) 3.施琅 4.僧格林沁(サンゴリンチン) 5.未定 6.未定 7.未定 8.未定 9.未定 10.未定 【候補】 岳鐘琪、策稜(ツェリン) 、宋景詩 、明亮(ミンリャン)、楊遇春、 李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福、阿桂、兆恵(ジョーホイ)、 海蘭察(ハイランチャ)、徳楞泰(デレンタイ)、羅思挙、陳化成、塔斉布(タチプ)、 唐炯 ・・・以上、リスト作りました。あとは未定部分に有力候補を埋めていけばいいかと。 274 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 18 31 54 ID 7I247Mkx0 271 あ、ホントだ。でもまぁこのくらいのミスはね、勘弁してください。 俺も結構疲れたし。 275 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 18 38 26 ID 7I247Mkx0 南宋・金・元のトコだけリストになってない。しまったなぁ。 ま、誰か有志が手直ししてくれることを願って俺はノータッチ。 辛いからね、案外。 276 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 19 03 13 ID Z+WkG+P1O 215 そうそうたる面子だな なんだかんだで半分決まってるんだなぁ 277 121=205 sage 2007/01/08(月) 19 13 25 ID k9cHV6vm0 275 リスト作成乙です。 まあ、誰かが意識的にリードしていったほうが 肯定・否定の意見も出やすいので、275さんには感謝です。 いろいろな意見を出しながらまたーり決めていきませう。 278 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/08(月) 21 59 57 ID q3aW16fg0 明代に秦良玉を候補に推挙します! 279 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 23 00 26 ID yQX5TIhV0 270 こうしてみると、五代十国はちと候補出しすぎたかな。 同様の乱世、五胡に対抗しようとしたせいか… ところで、遼を中国とみなすことに賛成していたけど、中華政権をその文化の濃度で象徴するならば、遼はやはり除外される。 というのも、漢文化を参考にし、国号も漢風にしたけど、独自の文字の制定や民族文化を大事にして中華政権とは一線を置こうとしているから(これは日本やその周辺国にも言えること)。 燕雲は間違いなく中華政権が保有し続けていた重要な地で、日本で言えば九州か東北などが日本に似た文明をもった国に制圧されている状況といえる。 それがやがて日本国すべてを飲み込むというなら、その国はその前にあった日本国に取って代わった新しい日本国と言えるかもしれない。 遼は中原を衛星国家をもって支配した(後晋や北宋)ので、北朝と呼ぶべき存在ではあるけど(実際、北宋も遼のことを北朝と言っている)、上記の独自の文化をもって南を制御しようとした点で、中国とは違う国と判断する。 ということで、遼は入れない方向にしようか? 280 231 sage 2007/01/08(月) 23 15 19 ID I2J5S0VT0 279 国号も遼から何度も変えたりしたそうですしね。中原を支配したわけでもなし、 首都を長城以南に置いたわけでもないし。 251 えーと、あくまで私は入れてもいいんじゃないかと思っているだけですんで。 他のひとたちの意見は知りませんよ。 まあ、考慮に入ったら十傑入りは確定な人物ですがね。特にスブタイなんて、 金征服とロシア征服に大功績を挙げた世界史上でも希有な人物。外したくない という思い入れのある人の気持ちは判る。 281 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 23 23 46 ID u2a7xaS40 278 多分百選は難しいだろうね、馬芳が未だ確定組に入れないこのスレのレベル考えると 唯一と言っていい女性武将候補なんだろうが…… 候補で辛うじて入れておくレベルか? 279 三国~両晋ははじめから候補自体厳選していたから 小競り合いレベルは端から除外されている(一国・一勢力を興亡させて候補入りといったところか) おかげで三国からほとんど入っていない、凄まじい状況なんだが 他の時代は候補削りした方が良いと思う 前漢はともかく、新~後漢って議論あんまり無いまま終わった印象があるんだが 十傑が下手すれば挙がらない唯一の時代にならないよな? とりあえず皇甫嵩を候補に推薦しておく(三国志考察スレでは名将の常連) 282 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/08(月) 23 49 28 ID yQX5TIhV0 280 遼は副都を幽州においているし、中原も間接統治という形。 だからこそ、清朝がその先たる契丹国家の歴史を正史としたのだろうけど、そうじゃなく中国文化に同化しまいとした姿勢をもって中華政権とは違うと言いたかったわけ。 中国文化の恐ろしいのは… まぁここの人には言わなくても知っていることか。 281 最近両晋には詳しい人が他スレでも多いみたいだし、意外に掘り下げられているんだろうね。 翻って、五代十国の興亡の流れはともかく、勢力間同士の主な戦いと、指揮した将帥の名前を知っている人がどれだけいる? ってレベルだと思う。 だからまとまりもなければ贔屓も入っている。少なくとも自分が挙げたものは。 私見で悪いが、削る候補として 郭崇韜→この人は軍政官。名将とするよりは名臣あるいは名宰相とするべきか。 楊師厚→人となりが悪い(おい)。 劉鄩→能力は申し分ないけど、皇帝がバカすぎ。 大事なときに実力を削がれた。 符存審→悪いけど李存勗の功績に還元させてもらおう。 任圜→総合的にかなり有能だけど、本来将帥ではない。あくまで宰相。有名なのも宰相のときだし。 張彦卿→やけくその人。 陸孟俊→やっぱ良将止まり。 王環→粘り善戦もしたものの、良将といったところ。 張元徽→猛将だろうな… 耶律休哥→これ入れるなら、堯骨もいれるべき。しかし、遼は除外すると言った。 283 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 00 04 28 ID u78TT2Yq0 過疎ってるよね、このスレ 同じIDばっかりだもん もう中国定義論は後回しでいいよ 論争になるのって耶律休哥や元将2,3にヌルハチら後金入れても10人いくかぐらいだろ? その10人そこらの為に残り50人を決めれず、人が居なくなるのは避けたいところだね 284 260 sage 2007/01/09(火) 00 33 22 ID sFH2DvQA0 267 遅レスだが、 「②の部分で五胡十六国時代の五胡以外の国は該当しないし」 の書き間違いだ。スマン 段部や宇文部なんてのはどうするのかと思ってね。 五胡十六国が対象外という意図は無いので。 285 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 00 34 45 ID eW3CA/I60 一日にこれだけレスが付いてるんだから別段過疎ってはいないだろう。 定義を決める議論も楽しいもんじゃないか。 候補の選定になったら名前の羅列だけじゃなくて選考理由も要るし、ある程度スローペースになるのは当たり前だ。 それを考えるとむしろ詳しい人が多いんで驚くぐらいだが。 286 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 00 35 41 ID bcRh9Yc/0 282 確かに耶律徳光(堯骨)は華北の政権を二つ(後唐と後晋)滅ぼしているので 能力は問題ない。なんで名前が出なかったのか・・・。 個人的には遼は入れてもいいと思うが、定義の議論は後回しにしたほうがいいかな 287 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 00 40 31 ID u78TT2Yq0 ID同じって部分読んでないな 自己主張の激しい奴ばっかで妥協する気もゼロの奴ばっかだからだろうけど 288 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 00 47 15 ID eW3CA/I60 遼、金、元、後金 辺りで政権ごとにそれぞれ5人くらいずつ選定してみるのもいいかもな。 百選に入れるか入れないかは処置は定義が決まってから、という形で。 最終的に中国史レベルで見れば百選に入るのはそう多くないだろうし、定義的にダメなら その時初めて別スレを検討するのもいいだろうし。 287 いや、ちゃんと読んどる。そう決め付けるな。 でもまぁ俺の書き方も悪かった。 285にきちんと書いてなかったが。 それなりの専門知識も必要になるから、ある程度書き込む奴が偏るのはやむをえんって事だ。 289 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 01 00 18 ID u78TT2Yq0 定義はこのままウダウダやってる限り絶対に決まらないだろうな ここが中国定義スレと化してるし 盛り上がってるの宋~清初の“専門知識”持ってる人だけだし さっきも言ったが、先に90~110名ぐらい決める作業をしたほうが 現実に合わせて定義を決めることが出来る その時に武将が足りない(明らかに格が落ちる武将が数人いる)なら議論武将入れればいいし 充分だったら、もうすっぱり諦めるとしたほうがいい 290 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 01 33 03 ID eW3CA/I60 289がなんでそうネガってるのか判らんが・・・ ていうか、このスレ一通り読んでる? 215、 258見るだけでも、既に200名以上出てるんだが。 現実に合わせて定義を決めることが出来る 「中国名将」がどこまでの範囲かという人それぞれの現実に対する認識にズレがあるから、 統一された定義が必要だし、話し合いをしてるんじゃないのかい? 現実に合わせて、という言葉の意味が良く判らんが、候補が揃った後で 「候補にチンギス期のモンゴル武将が3人います!この現実に合わせてモンゴル武将も 中国名将に入れるべきです!」 なんて無茶苦茶言いだす人が出てきたら困るだろ? 定義についてはある程度議論も進んでるんだから、もう少し辛抱しなよ。 叩き台出して、ある程度時間おいてスレ参加者の反応見て・・・って、な。 291 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 01 37 23 ID eW3CA/I60 ああ、200名からの絞込みも早くやれってこと? それは定義議論と並行してやっていいんとちゃうの? 周辺異民族や先行政権について、定義が決まったらそこの部分だけ先行やり直して、 その分微妙なやつを削ればいいじゃん。 292 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 02 24 52 ID u78TT2Yq0 下の二行の武将が足りない場合と足りる場合が「現実」だ スレの為に住人が居るんじゃなくて住人の為にスレがあるとも言う いいか、判りやすく例を出してもう一度言ってやる 258から48人選べばこのスレは終わるわけだ そこでまず選んでみる まず第一のケース 48人選んで100選が決まったが、その内の3人がどうも残りの97人に比べると微妙だ そういう「現実」が起きた場合、その3人をそのまま入れとくよりは耶律休哥とかの方が釣り合いがとれる それなら全体のバランスを見て、遼・モンゴル・後金から残り97人に見劣りしない3人を選んだ方が良い 次に第二のケース 48人選ぼうと思ったが、どうしても58人になる。つまり全体で110人になった この110人はどれも遜色ない。それなら遼・モンゴル・後金の候補武将に出番はないという「現実」だ それなら残り10人を外す作業をするのが妥当な作業だろう そういうことだ 293 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 07 59 43 ID qOuMnNaK0 定義論争には興味ないから参加してないけど、 いちおうROMってるよ 俺みたいな奴が多いんじゃね? 294 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 10 31 53 ID EbAK+yoHO 283 まあモンゴルは定義によって顔ぶれがガラっと変わるしねぇ 295 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 11 23 26 ID nxn0swi7O 正直宋以降の話題にはついていけないけど、このスレはすごく参考になります。 今まで全然知らなかった名将達を知ることが出来てすごく面白い。 ただ自分としてはなるべく早く定義を確定して本題に入って欲しいなというワガママな思いもあります。 296 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 11 32 27 ID RVRXm+Dx0 253の定義でとりあえずやってみたら? リストも出てるんだし。 297 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 13 17 24 ID xTG4DJizO 傍から見てるとモンゴル武将を入れたい人と モンゴル武将を入れなくない人だけが争ってるだけに見えますが・・・ まるで濮議問題の時の欧陽修と司馬光みたいですよ。 モンゴル武将を入れたい人は的外れな武将を推薦してる訳ではないんですから、 そこまでムキになる必要があるの? 第三者が有意義な提案を出してもなんだかんだ文句言ってるとしか思えないけど。 自分も 253の定義で良いと思うけどな。 ②で言ってる領域にチベットは当然入らないのはわかってるのに挙げ足とるのは愚かとしか思えないけど。 大体、清末まで中華と言われてた領域って 此処に書き込みしてる人なら分かってるはずと思いますが・・・ (時代により範囲の多少の誤差はあるけどね) 298 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 13 49 25 ID BmdJOllQ0 すまん、今日初めて来たんだが、中華民国、中華人民共和国は対象外? 299 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 14 45 06 ID EbAK+yoHO 297 今の中華人民共和国領内にチベットは無いことになってるのか? 300 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 14 47 55 ID ek947b8/0 299 シナ風の国号を持つ王朝という縛りがあるから吐蕃なんかは入らないだろ そうなると西夏はOKでいいのかな 301 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 15 06 46 ID xTG4DJizO 299 今の中華人民共和国領内にチベットは無いことになってるのか? おいおいネタか? チベットは一応中華人民共和国領内ということになってるが、 中国共産党が武力で侵略して無理矢理領土にしてるの知らないのか? 300 西夏は史家が便宜上呼んでるだけで本来の国号は夏。 詳しいことは後程述べます。 中華民国って国民党の時代の中国? それとも台湾の言ってるの?どっち? 302 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 16 25 36 ID EbAK+yoHO 301 征服したならその国の範囲内にはいるのは当たり前だろ 中華人民共和国は文化圏の呼び名じゃなくて国家の呼び名だぞ あれだと誤解を招き易い上に曖昧だから、現在の中華人民共和国の領域内(自治区除く)とかの方が良いのでは? 303 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 19 13 07 ID A/SyTNQO0 モンゴル(つーか拖雷と速不台)、後金を入れたくて 161を提言、 253に賛成してその尻馬に乗っかった俺だが、こんなにもめるとは思わんかった。 いいと思うんだけどな、別に。速不台とか奴児哈赤が入っても。 ところで昨日リスト作ったのも俺だが、不備が目立つな。清朝の確定に 策稜入れときながら候補の策稜削り忘れてるし。 あと、一番の失敗は後漢の10人を確定にしてしまったのがまずい。 あくまで暫定候補、ってことで一つ勘弁していただきたい。 現在候補は祭遵と皇甫崇の二人だけ。候補ふやして議論しなおさにゃならんよな。 297氏はもしかして十国春秋で俺と共同戦線をはった人? なんとなく文体が似てるような。 勘違いだったらすまん。とりあえず蒙古・後金OK派ということで感謝。 304 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 19 58 06 ID xTG4DJizO 303 297を書いた愚人ですが、貴殿の仰ってる方では無いですよw 別に擁護した訳ではないのですが、第三者として意見を述べさせてもらっただけですよw まあ貴殿には以前お世話になったご恩もありますけどね!! 自分も宋、南宋が大好きなんですよ。特に趙匡胤と岳飛がね。 反モンゴル武将派があれこれ難癖つけてくるのは仕方ないですよ。 みんなで焦らず慌てずマターリ煮詰めて行きましょうよ。 305 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 19 59 28 ID ESpK1efj0 304 反対するのは「難癖」ですかそうですか 306 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 20 01 31 ID EbAK+yoHO 304 俺は定義はしっかりしてくれとは言っても、アンチモンゴルであったことなど無いが ていうかモンゴル好き 307 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 20 13 17 ID A/SyTNQO0 305 そこで反論の論拠を語るならともかく、 過剰反応はよくないと思う。 みんなスレの仲間だってことを忘れめぇや。 308 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 21 08 17 ID A/SyTNQO0 今なら人も少ないんでここに書いておこう。 おれの理想的南宋・金・元10選 宗沢 岳飛 完顔宗望(オリブ) 完顔宗弼(ウジュ) 拖雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ) 孟珙 伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ) 拡廓帖木児(ココテムル) ・・・李庭芝や張弘範じゃこの連中に匹敵しえないから、 拖雷、速不台らモンゴル人武将(しかも中国の歴史に影響を与えた) 二人を入れるのは妥当だと思うが。 抗金名将にも宗沢・岳飛以上の存在はいないし。 それでも反論はあるんだろうな。 309 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 22 08 32 ID EbAK+yoHO 308 アジュよりウリャンハタイの方がよくないか? 父や子と違ってあまり中華の政権に大きなダメージ与えていないから外れてるのかな 310 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 22 52 50 ID xTG4DJizO 306氏の様な定義に対する意見なら難癖とはいいませんが 中には明らかに的外れな反対意見も見受けられと思いますが。 拙い文章なので不愉快な印象を与えたことについては申し訳ごさいません。 308で挙げている元の武将は 253の定義をクリアしているので問題ないのでは? 311 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 22 53 42 ID xTG4DJizO 続いて投下 チベットの件 >征服したならその国の範囲内にはいるのは当たり前だろ 現代の国際社会と第二次世界大戦終結までの世界とは 侵略して領土にしたのとは背景が異なるのだけど・・・ 中国共産党が一方的な武力行使でチベットを 無理矢理に中国の領土にしてることが国際社会から非難されているの知ってる? チベット自体も中国共産党の支配を認めていないんだよ。 中華人民共和国は文化圏の呼び名じゃなくて国家の呼び名だぞ そんなことは百も承知で意見を述べさせているのですが・・・ 現在一応中国の領土になっているからといって、 此処で討論している定義の反対材料に利用する輩がいるから釘を刺したんだけ 君には勘違いさせてしまったみたいだね・・・orz 312 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 22 55 00 ID xTG4DJizO もう一回投下 300 西夏は党項(タングート)という民族の政権で 本人たちは『夏』または『大夏』と名乗っていたのだが宋から見て西方にあるので勝手に西夏と呼ぶようになったそうです。 国名の由来は首長であった拓跋思恭が黄巣の乱の時、唐の長安収復を援助して、 その報酬に夏国侯に封ぜられたことに由来する。 ついでに拓跋思恭は唐の国姓の李を賜り、定難軍節度使を世襲するようになった。 西夏は唐の定難節度使として 夏州、銀州、綏州、宥州、静州の五州を領土としていた。 313 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/09(火) 23 17 32 ID eW3CA/I60 310 「難癖」という言葉自体が相手の意見をまともに聞く気がないと言ってるのも同然な事に気がついて欲しい。 せめて”スレの仲間”の「意見」として向き合う度量を求む。 いろいろな考え方の人間が話し合って作り上げるから、こういうスレは面白い。 進行が上手くいかないからと言って相手の意見にレッテル張りして済ませるのは良くない。 > 308で挙げている元の武将は 253の定義をクリアしているので問題ないのでは? その意見には賛成。 253の定義が了承されるのなら候補として問題ないと思う。 253の定義でOKならムカリやウリャンハタイも捨て難いが、スブタイとトゥルイにはちと劣るかな。 314 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/09(火) 23 22 41 ID A/SyTNQO0 309 用兵家としてはウリャンハタイかな? とも思ったが、 スブタイの獰猛さを引き継いだってことと 南宋朝廷に対する猛威の数々でアジュにした。 まぁこの二人は趣味でわかれるね。 310 これで文句なし、といいたいところだけど 今なお議論中だから。 253氏の支持者は十分いると思うけど、 結論が出るのはまだ先っぽい。 315 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/10(水) 00 11 03 ID 804GQKAKO 313 貴殿が孤軍奮闘(?)しているのを見兼ねて自分は第三者として助け船を出しただけで 反対意見を一切受け入れないというつもりで発言した訳では無いんですよ・・・ だから難癖という言葉が不適切だったと反省してるのに貴殿にそんな風に言われるとは・・・orz 314 確かにまだまだ定義を煮詰めていかなければなりませんね。 316 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/10(水) 00 17 03 ID OhdIJL040 元の将を入れることに異論は無いのだけどな。 253の定義で 308の候補を見るとトゥルイや スブタイなんかは大元に仕えてないから該当し ないと思うんだけれど、その辺どう取り扱うのかが 疑問だ。 317 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/10(水) 00 22 27 ID q3iJXkt80 253の定義だと西夏・遼も入るということでいいのかな? 308 スブタイは中国方面では開封を落としたぐらいしか目立った活躍をしていないので ウリャンハタイかムカリの方が適当じゃないか 318 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/10(水) 00 26 27 ID yyDrmM7X0 301 大勢に影響ないからどっちでもいいけど、 253の定義②は、明らかにチベットほか自治区を含んでるだろ。 中国と曖昧にいわずに、わざわざ「中華人民共和国」って書いているんだから。 319 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/10(水) 00 37 44 ID +yWRF8ss0 315 そうでしたか。いや、こちらの読解力不足だったし、少し言葉がきつすぎた。 申し訳ない。 ただ、やっぱり「難癖」のような言葉はなるべく控えめにする事をお勧めするよ。 こういうスレだからこそ。 俺はこのスレ内でも何度か書いているのだけど、異民族との関わり方にこそ中国史の ダイナミズムが存在すると思っているので、異民族や、異民族王朝だからといって 無条件にはじき出すような処置には大反対。 だけど、無制限に候補の範囲を広げるのは無茶だと思うし、なにより、なるたけ多くの人が 納得する形のj「名将百選」として円満にスレが完結して欲しいと思ってるので。 そのために「(選考ルールとしての)定義」にこだわるし、勢い任せにねじ込むような形で 問題事案が処理されるのは、あまり宜しくないと感じているのです。 ために、時として「考慮を促す」ための反対意見を書く事もありますが。 無学の身で定義や、論争の仕方に偉そうに口ばしを突っ込んでいる理由はそれだけです。 申し訳ない。 316 特にその二名に関しては、「王朝の樹立に貢献し」「中国国内で戦った」という部分を 適用しているんじゃないかと思うのだけど。 320 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/10(水) 00 53 24 ID u4K2BXet0 気が早いが元末明初の群雄、張士徳は候補から確定に上げてもいいかも。 張士誠陣営の基盤固めに領土拡大のための戦功の数々。 最後は兄とともに敗れ去ったとはいえ、知勇兼備の一代の英傑。 なにより軍紀厳正で民を害さなかったのがポイント高い。 まぁ、おれが張士徳を好漢と認めたのは「沈万三」の影響だけどね。 徐達に「あいつとはまともに当たらないほうがいいナリよ」と言わせた将略、侮りがたし。 明末元初には格別詳しい方がいるようのでこれ以上はそのひとに任せたい。 で、武将の定義(主にモンゴルと遼)はその時代になってから改めて決めるとして、 春秋戦国に戻って確定武将を選出したいと思うが、どーだろ? 321 320 2007/01/10(水) 00 56 29 ID u4K2BXet0 明末元初とか書いちまったよ。 これはもちろん元末明初の誤りね。ホント、おれは誤字が多いな。 322 316 sage 2007/01/10(水) 00 57 14 ID OhdIJL040 320 元・遼は候補者が多いので、100名に含めるかどうかで 大分、選ばれる人が変わると思うぞ。 319 モンゴル帝国の将も含めるという解釈で良いのでしょうか? 323 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/10(水) 01 02 23 ID yyDrmM7X0 モンゴル人武将の場合、 元の建国に貢献した武将になるのか? アリクブガの乱で活躍したとかそういう人? 324 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/10(水) 01 05 39 ID yyDrmM7X0 320 らちアカンから、春秋決めようぜ。 325 320 2007/01/10(水) 01 14 15 ID u4K2BXet0 そんじゃ、春秋戦国(昨日のをコピペしただけだが) 【確定組】 楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦 【候補】 墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、 夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、 蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 俺的には昨日も書いたとおり、呉起と伍子胥を推薦する。 326 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/10(水) 01 23 55 ID +yWRF8ss0 あくまで俺の意見ですけど。 322 323 トゥルイ、スブタイ両名とも金朝攻略の功績が大きいのでそういう部分で推されているのだと 解釈しているけど、その辺は定義や、定義の解釈で変わってくるかもしれないし、議論次第ですね。 モンゴル帝国の中華文化圏における世襲領として「元」の成立、もしくは領域確保、拡大に貢献した 武将のうち、中国国内で戦闘を行い、軍事的才能を発揮した人、が候補として挙げられているかと 思います。 なので、 323の範囲の武将も候補には含まれるかと。 327 325 2007/01/10(水) 01 34 25 ID u4K2BXet0 このリスト、呉起と李牧が載ってないな。 まぁ忘れてた名将がいたら適宜追加するってことでいいか。 328 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/10(水) 01 58 07 ID yyDrmM7X0 孫武、伍員(子胥) この二人推す。 329 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/10(水) 02 04 15 ID u4K2BXet0 現在 孫武、伍子胥、呉起の三人。空き枠は5つだから、 後半で結構熾烈な候補争いになるかもね。 とりあえず落ちますわ。疲れがたまると仕事に支障出るし。 330 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/10(水) 07 47 08 ID 804GQKAKO 318 大勢に影響ないからどっちでもいいけど ああっ分かってる、話の流れで説明しただけだが・・・ 253の定義②でいくとチベットほか自治区を含んむからそれが入ったら明らかに 此処で討論している国以外も範疇に入ってしまうからこそ意見を述べたんだし、 だから 302が改案を提示してくれたんしゃないか。 中国と書いたのは中華人民共和国って打つのが面倒だっただけで他意は無い。スマン 320でちゃんと元末明初って書いてるよw まあ余り一人で無理しなさんな。 それと自分も孫武に一票。 331 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/10(水) 08 16 18 ID xy9akuJ80 325 樗里疾を推薦。戦歴が豊富で、五カ国連合軍を撃破するなど、 輝かしさにも事欠かない。 332 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/10(水) 13 02 47 ID 804GQKAKO 330 スマン早とちりしてた、下の方の行のことですねw 333 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/10(水) 20 55 08 ID 4ZiZByl30 253 の定義のうち、②の「現中華人民共和国領内」から黒龍江、吉林、遼寧、 内蒙古、新彊、青海、西蔵、雲南を除けば問題なく賛成しますよ。 334 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 00 50 08 ID yCYsBCCA0 【確定】 楽毅・魏無忌(信陵君)・白起・李牧 王翦・孫武・伍子胥・廉頗 ↓次行ってみよう。 335 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/11(木) 04 15 36 ID VIzZdKWB0 325 孫武、廉頗、孫ビン、士会、 呉起 336 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 07 59 34 ID Gc4IavKo0 墨子、管仲、呂尚、孫ビン、夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、 王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 ・・・候補まだこんだけいるよ。樗里疾を推すって意見もあったし。 ま、ある程度人のいる時間帯じゃないと勝手に決めるわけにもいかんわな。 337 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 08 05 50 ID Gc4IavKo0 連投。 すっかり忘れてましたが・・・、 候補に范蠡も入れておくべきだろう。 338 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 10 43 36 ID C+LN86faO 候補にいれてもいいけど范蠡はどちらかといえば 策士、政治家としてのイメージが強いな。 339 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 12 03 51 ID A4o8zhbQ0 期限決めて、暫定100でもいいから決めちゃわない? 各時代、1週間くらいで候補出して、土日の人いるときに決めるとか。 じゃないと延々と続くよ。 定義とかはそれと平行して決めればいいし。 340 319 sage 2007/01/11(木) 12 13 57 ID S0aR8yMA0 ていうか定義を巡って大きくモメるのはおそらく遼・金・元・後金辺りだと思うので、 それ以外の時代を並行して先に選考するのは全然アリだと思う。 341 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 13 18 57 ID xk+LUb/AO 孫武 孫濱 楽毅 白起 太公望 342 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/11(木) 14 08 48 ID +L/ZGNDz0 候補を書いてる人は、その推薦理由も書きましょうよ 343 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 19 46 37 ID WZPevdHS0 とりあえず五人、推薦理由コミで挙げる。 呉起・・・母親の喪に服さないわ嫁さん殺すわ、 それでも戦は無敗の男。生涯最後のときにまでただでは死ななかった。 李牧・・・田中●樹氏と同意権。対匈奴対策の創始者。グレイト。 伍子胥・・復讐にかけた生涯。「日暮れて道遠し」も名言ながら 「俺の目を門にかけておけ、この国が滅びるさまが見えるから」が凄い。 孫臏・・・祖先のほうは事跡がはっきりせんのでこの際除外。 「龐涓この樹の下に死す」のエピソードがかっこええ。 范蠡・・・このスレ的名将の条件にはそぐわないかもしれないが、 越王句践10年越しの復讐を助けた政戦略の手腕は驚嘆の一言。 344 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/11(木) 20 01 25 ID QgvM5lIh0 春秋戦国の話題で盛り上がっている中申し訳ない、 スルーしてもらって構いません。 320 張士徳の軍の軍紀が厳しかたってのは史料からも裏付けられるよね。 以前元末スレにも書いたけど、張士徳の腹心だった史椿は張士徳の死後、 軍紀が弛緩してしまった張士誠軍に見切りをつけたって話がある。 張士誠軍が弱体化したのは張士徳死後に 張士徳の弟で、無茶苦茶無能の張士信が軍団の実権を握ってしまったから。 常州の戦いの時、朱元璋軍を破らずとも、逃げおおせる事さえ出来れば、 張士誠が天下を取るのも夢ではなかっただろうね。 345 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/11(木) 20 07 08 ID le+aiXxe0 343 李牧は確定組でしょ。もう1名挙げてみては? 346 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 20 12 14 ID WZPevdHS0 345 ホントだ、確定組に李牧いるわ。 そんじゃ、戦うおじいちゃん廉頗かな。老将って結構好きだったりする。 晩年、各国に自分を売り込むも使ってもらえず可愛そうな所とかも同情心を誘う。 344 320です。詳しくお教えいただきありがたい。 347 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 20 21 46 ID sS87NBm10 春秋戦国で名前が挙がってますが、 管仲・孫臏・范蠡は、名相・参謀の方に名前が連なると思うので このスレでは除外したほうがいいと思います。 341 太公望は規定の時代内ではないし、上記と同様の理由で 除外対象だと思います。 348 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/11(木) 20 30 32 ID +3nGEHpy0 343 名将の理由じゃなくてアンタが好きな理由になっとる 349 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 20 36 43 ID WVSzKPeC0 348 一応、好きな理由の中に それぞれの極短エピソードを挿入したつもりだが、 これじゃマズい? 350 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 20 44 22 ID sS87NBm10 349 このスレは、中国史の好きな人物を挙げるスレではありません。 時代を代表する名将を理由と共に候補に挙げて 【中国名将百選】を皆で決めていくスレです。 351 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 20 46 46 ID WVSzKPeC0 350 すまん。そんじゃ名将としての確固たる理由、書いてくるわ。 352 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 21 08 29 ID WVSzKPeC0 呉起 我欲が強く好色だったが、部下に対しては公平で信頼を得た。 魏に仕えて秦の城5つを抜き、しばしば威名を挙げるも、 魏の宰相公叔に疎まれ楚に亡命。 悼王の信頼を得て百越を伐ち、三晋を退け、秦を撃って 生涯64戦12引き分け無敗の記録を残す。 悼王死後・・・については語る必要ないか。さっきも書いたし。 伍子胥 はじめ楚の平王に仕えたが父と兄とを平王に殺され、呉に亡命した。 呉王闔閭を助けて楚を撃ち、連戦連勝して国都・郢にせまった。 平王はすでに死去していたがその墓を暴き、「死体に鞭うつ」こと300回、 父兄の讐に報いた。 闔閭が越に敗れるとその子夫差を助けて越を打倒。 しかし奸臣の讒言に乗った主君の猜疑にかかり、剣を賜って自刎する。 ・・・こんな感じでOK? 353 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 21 35 27 ID WVSzKPeC0 廉頗 恵文王から悼襄王まで、40年にわたって趙の宿将をつとめた大元勲。 恵文王のとき斉を破り、晋陽を取る。 孝成王のときには燕を破り、講和条件として5城を割譲せしめた。 蘭相如と深い友情で結ばれ、この二人がいるがために秦は趙を攻撃できないほどだった。 のち、長平の戦いで白起と対峙するも秦の流言に乗った王のために更迭され、第一線から退けられる。 王の信頼を得ることができず乱を起こして出奔、魏に投ずるも用いられなかった。 「再び趙の兵を率いたいものだ」と言い残して没。 趙奢 はじめ田部の官吏。平原君の威を借りて租税を納めなかった食客を殺し、綱紀を改めた。 怒った平原君に国家の統治を説いて感心され、雄才であることを認められて地方役人から 国賦の統治者に抜擢された。 秦が韓を撃ち、韓は趙に援軍を求めた。廉頗、楽乗らが救うことあたわず、と説く中、 ただひとり可と説き、将となり救援に赴いた。趙奢は大いに軍紀を粛清し、兵たちの士気は高く、 趙奢率いる軍は秦軍を大いに打ち破った。功績により馬服君とされ、廉頗、蘭相如らと同格になった。 354 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 21 58 06 ID WVSzKPeC0 士会 諡号を武子、范、隋の二邑に封ぜられたことから隋会、隋武子、范武子、范子などと呼ばれる、晋の上卿。 城濮の戦いでは若くして帷幄にあり、作戦に参与した。 成公、景公の代に卿となってこれを補佐し、軍を治めて大いに名声があり、 上軍の将と大傳を兼ねた。周室が乱れるとこれを平定、刑法をただし典礼を講習して晋国の法を定めた。 性温厚にして争いを好まず、斉に使いした郤厥が辱めを受けたとして激怒すると、 上卿の位を退いて郤厥に譲った。 ・・・以上、5名です。よろしく。 355 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/11(木) 21 58 25 ID +3nGEHpy0 乙……と言いたいところなんだが 欲しいのは 墨子、管仲、呂尚、孫ビン、夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、 王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 という候補も居る中で、どうしてアンタがその五人を選んだか その五人が他の連中に比べて勝る点、歴史的に見て軍事的に他に追従されない点なんだよな 春秋戦国は割とメジャーな時代だから、そういう人物履歴みたいなのは結構知ってる人多いし ググるとすぐ出てくるし 356 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 22 03 12 ID n3uTSNYj0 【名前】樗里疾 【時代】戦国 【理由】韓・趙・魏・燕・斉の連合軍を迎え撃ち、 韓将申差を生け捕り、趙渇、韓奐を破り、八万二千の首を斬った。 曲沃、漢中を秦の版図に加えた。 その他にもたびたび趙や魏と戦い、勝利した。 生涯不敗を誇り、「力は任鄙、智は樗里」と称せられた。 秦の初代丞相でもある。 357 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 22 11 53 ID sS87NBm10 352 353 このスレに来てる人なら、春秋戦国は基本として知ってるだろうから そんな風に人物紹介みたいに書かなくても大丈夫だと思いますよ。 とりあえあず、今の春秋戦国時代での状況はこうですかね 【確定組】 楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦 【候補】 呉起、墨子、孫武、伍員(子胥)、廉頗、夫概、趙奢、士会、 趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、 蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 候補に楚の荘王が上がっているので、趙の武霊王も候補に挙げたいと思います。 騎馬術の導入や、中山など異民族を攻略した軍事的な才能は、評価されるべきだと思います。 358 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 22 13 23 ID WVSzKPeC0 選考理由 呉起・・・流転していく先行く先で戦功を立てた。 主君との信頼関係が醸成させていない段階で勝利できるというのはかなりのもの。 伍子胥・・ここまで苛烈な人生を送った人物もそうはいないのでは? 廉頗・・・存在自体が秦に対するプレッシャーとなった。 趙奢・・・廉頗ですら「不可能」と言った困難な救出作戦を成功させた。 士会・・・軍歴もさることながら法の制定に功績があったのが大きい。 ・・・こんなもんか。まぁ、所詮は好みで選んだ、ってのが本音だが。 359 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/11(木) 22 22 04 ID +3nGEHpy0 だから >ここまで苛烈な人生を送った人物もそうはいないのでは? コレの何処が選考理由だよ もうお前はこのスレROMってろ 360 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 22 40 00 ID C+LN86faO 347 孫ビンは地位は参謀だけど 実質的には田忌より孫ビンが軍を動かしていた感じが俺的には感じるけど。 (つーか既に外されてるし) あと孫ビンか孫ピンって書こうよ。 それと一時代枠の名将確定をどの位の期間で決めるつもり? なんか春秋戦国時代に物凄く詳しい人が全部決めちゃいそうなんだけど。 参加してる人によって知識に個人差があると思うし、俺みたいに合間の時間で参加してる人、思案に時間を掛ける人、思案がなかなかまとまらない人。 いろんな人が居ると思うし、昨日なんか慌てて決めようとしてた印象を受けたよ。 (釈明してたけどいつも結構、先走るし) 下手したら明日になったら次の時代に突入しそうだけど・・・ 361 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/11(木) 22 41 31 ID +v6jA3jD0 358 士会・・・軍歴もさることながら法の制定に功績があったのが大きい。 アホだろw 何で名【将】百選で法の制定が功績として考慮されるんだ。 362 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 22 59 18 ID sS87NBm10 360 孫ビンは確かにそうだね。墨子残しておいてねぇ・・・(忘れてただけ でも、名軍師とかいうスレが立ったら選出したくないですか? 決める期間は流れだと思うけど、決まらなくても良いかなと思ってたりしますw 人の見方や意見を見るのも結構楽しいですしね。 自分、昨日は見てなくて、今日見たらビックリしましたよ。 363 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/11(木) 23 05 43 ID le+aiXxe0 春秋戦国に入ってから、まともに理由をつけて選考してる人が いませんね。 364 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 23 08 55 ID C+LN86faO 362 流れならしょうがないけどなんか一人で突っ走ってる人がいないか? 調整してくれるのは大変有り難いのだなんかそんな印象を受けたのは確か。 365 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/11(木) 23 11 39 ID n3uTSNYj0 363 >春秋戦国に入ってから、まともに理由をつけて選考してる人が >いませんね。 テンプレに従って選考したつもりだが。 ちなみに俺の一押しは樗里疾。 366 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/11(木) 23 14 54 ID sS87NBm10 再び失礼 勝手に自分の中で、管仲・墨子・孫ビン・呂尚(太公望)を 候補から外していますが能力が劣っているとかいう理由じゃないですよ。 【名将】というくくりだと、外した方がいいんじゃないかなと思っただけです。 【名相】・【名軍師】などに選出されるべき人だと思ったからです。 気を悪くされた方が居ましたらすみませんでした。 367 363 sage 2007/01/11(木) 23 16 55 ID le+aiXxe0 365 失礼した。 5名選出となると、比較対象が無いと甲乙つけるのが難しい と感じたので、貴君まで含めてしまいました。 368 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 00 56 19 ID Oc7TiH97O 357 楚の荘王を挙げたのは俺だけど、春秋五覇関係者の中で 軍事的功績が比較的分かりやすいという事が主な理由 一応建て前として特定時期に偏り過ぎないという事があったんで、散々挙がっている戦国組は避けた そして春秋の代表として扱われていた呉越組の誰が将なのかよくわからんと言われてたんで、それ以外なら誰かな、と 369 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 01 31 09 ID dIMnu39r0 359 361 ROMってろとかアホだろとか、言うのは簡単だよな。 てめぇらも批判ばっかしてないで書いてみろよ、お手本って奴を。 それができないならお前らのほうがアホだ。 少なくとも俺には仕切り屋の叩き台出しって実績がある。あんまりいい意味じゃないけどな。 お前らも最低限の実績を見せてみろよ、5人といわず1人2人でもいいからさ。 それとも、結局さえずるだけで実際には何もできないクソか? 370 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 01 36 12 ID y9tQSDEM0 人の名前語るなよ 大体、人によって得意な時代とそうじゃない時代があるんだし その時代の時はちゃんと発言してる 371 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 01 45 48 ID q0Sgr8L10 俺は直で文句付けられたんだよ。 これを言わずに我慢してたらいい加減腹に据えかねる。 他のスレ仲間の面々にはいらん発言で気を悪くさせたと思う。謝る。 だがあいつらはなぁ。知り合いだったら蹴り倒してるとこだぜ、まったく。 372 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 01 50 22 ID y9tQSDEM0 日本語不自由な奴の相手をしてる方が腹に据えかねるんだけどな 373 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 02 46 32 ID twtxu8vH0 だから実績見せろって。 そしたら納得してやるし場合によっては謝罪もしてやる。 日本語不自由とか言うけどな、 あれはもともと苦しい理屈をこじつけただけだから別にいいんだよ。 で? 食いついてくるってことはお前があの二人のどっちかか? 374 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 03 01 42 ID twtxu8vH0 370 誰か別の人が割って入ったにしちゃあ文面おかしいと思ったら、 ID見たら同一人物かよ。いかにも頭悪そうな文面だもんな。 「自分は特別」とか思い上がってそうな・・・中学生当たりか、ボーズ? 375 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 07 50 40 ID e8yZt0Fq0 373-374 大人なら落ち着け 376 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 08 24 27 ID 2GGm7c9B0 ああ、悪い。一晩寝て落ち着いた。 こっにも落ち度があったことだし、和解しよう、和解。 で、名将の条件は 1.戦勝数、もしくは困難な状況での勝利 2.秋毫も犯さず 3.軍紀が厳命で民を害さない の3点に収斂されると考えていいのかな? 候補に残った連中はほとんどがこの条件を満たしてると思うんで、 あえて今まで無視してたんだが。 この3点で見ると俺が選んだ 廉頗 趙奢 士会 呉起 伍子胥 の五名は条件を十分満たしてると思う。 ただ、呉起は略奪を禁止したかどうかちょっと微妙。 趙奢も絶対的多数の秦軍を隘路に呼び込んで勝利を得る、 という困難な状況下での勝利は満たしてるが戦勝数自体がやや少ないか。 あとの連中は文句なしだな。 俺としてはエピソード重視での選出が好きなんだけどな。 今挙げた条件だと一人が出したら他の人が票を入れる余地が少なくなってしまう。 候補に残るぐらいなんだから実力は全員が十分、あとは好みで分かれるんじゃないか? 377 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 08 44 50 ID hNASmqn70 おや? 358と 369と 373の人は同一なのか? このスレでの名将定義はどうなっているんだろうか。 将=將 率いる、統率する、用いる、などの意。 法の制定「にも」功績がある、という広い才能のある士会はともかく 苛烈な人生を送った、ことはこの際評価すべき点ではないかな。 別に厨房の肩を持っているわけではない。おれも含めて、好きな人物には偏った評価をしてしまいがちという啓発みたいなもん。 あの叩き台を出している人なら、その程度でグラつくような識見ではないだろうから、ここは落ち着くのが先だな。 378 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 08 46 47 ID hNASmqn70 あ、書いているうちに正気に戻ってる。 どうやら沈静コマンドは必要なかったようだ。 379 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 08 48 08 ID USpW6cra0 追加条項 4.他の将にない+αがあればなおよし。 ・・・各自の個性の分には昨日紹介文書いたから、 敢えて今から捜す必要はないとして。 次の時代からはしっかり+αの分も調べにゃな。 380 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 08 52 39 ID USpW6cra0 358 369 373 同一人物です。すんません。 今年で30のいいオッサンだというのについカッカしてしまいました。 今後はこのようなことがないよう・・・ たまにあるかもしれませんが長い目でどうかよろしく。 381 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 09 49 50 ID KL4kof//O エピソード重視もいいが推薦する人物の武功を先ずはいれて エピソードはオマケぐらいに添えるならいいんじゃないか? 一所懸命に書き込みしてるんだからアホとか日本語不自由とかそんなにムキにならんでも・・・ 十人十色だよ、誰だって上手く説明出来ない時もあるんだしさ。 382 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 10 10 33 ID 6TW5AFL40 とりあえず、 1と 253(その後、一部改訂されてるけど)のルールで 推薦してくださいよ。 383 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 11 06 41 ID KL4kof//O 381ですが 俺は別に 380氏をしつこく責めてはいませんし、別に厨房の肩を持つつもりもない。 不快な 380氏に印象与えそうなので追記しときます。 384 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 16 23 39 ID B3dGs0N+O 陳慶之 衛青 じゃね 385 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 16 43 06 ID tXr0/D/qO 日本語不自由とかROMってろって言われたぐらいでキレだすようなら 致命的に2chが向いてないと思うぞ それに最初から煽ってるんじゃなくて 348 355と二度に渡って指摘してるのに改善されてなきゃ 日本語不自由とかROMってろって言いたくはなるだろ。彼らを厨房扱いするなら 仕切り屋さんは黄色い救急車が必要な人だろ 正直いきなりキレだしてポカーンだわ 386 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 17 53 33 ID hNASmqn70 385 おれルールで勝手に向いてないとか決め付けるなって。 それに向いてなかろうが利用するのにどうこう言う必要はないはずだ。 ところで、 348と 355と 359と 361と 385は同じ人なのか? だとしたら、うんざりしただろうな。 しかしそちらも、高圧および上からの文言でしかないから、反発を招くという配慮に欠けていると判断できるわけだ。 どういうわけか、2chにはそういう類の輩が作られてしまっているようだけど。 385は、自分の考える選考理由、あるいは否定の理由を添えて書けばよかったんだろうと思うぞ。 それでこその考察だろうし。 来月には休止するかもしれんのだ、今のうちに楽しんでおこうや。 つか、五代まで行くんか、これ… 387 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 18 08 19 ID tXr0/D/qO いや違う人だか、俺ルールとか言われても困るし 各人この板以外で見てる板が違うので沸点の高さも違うんだろーが いったい俺の文章のどこが高圧的なんだ? つーかアンタ仕切りやの自演?メル欄ageなのも一緒だし文体も似てますな 388 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 19 10 00 ID k97xPt/00 あと3日で閉鎖なんだし、最後くらい仲良く行きましょう。 389 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 19 58 36 ID 4gtRrIhA0 388 まじで? 閉鎖ってこのスレが?それともこの板自体が? 390 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 20 06 49 ID Oc7TiH97O 389 もっと大きい 391 389 sage 2007/01/12(金) 20 29 48 ID 4gtRrIhA0 390 鯖? 392 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 20 31 51 ID 5BGvKpQp0 まだ揉めてるけどもういい加減やめなよ。 393 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 20 34 37 ID JHKutOyU0 376 名将であるかどうかという条件のうち、2と3は関係ないと思う。民に慕われたかどうかなんて、 英雄の条件ならともかく軍才には関係ないだろう。個人で好き嫌いならいくらでも論じればいいが。 例えば軍事功績でいったら絶対に外せない曹操や白起は抵触するが、だからはずして名将を語る のか? 394 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 20 35 12 ID y9tQSDEM0 391 ひろゆきが2ch止めるって http //www.itmedia.co.jp/news/articles/0701/12/news046.html 395 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 20 36 44 ID hNASmqn70 387 全然違う他人だよ。おれは五代専門だから、今はROMだけ。 ま、これ以上は言うまい。そっちの言いたいこともわかっているんだけど、その言い方がキツイってことだ。 391 つttp //blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/897303.html 396 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 20 42 49 ID +GNLyUYk0 376 393に合意。名将かどうかの判断は、 ただその軍功と将才によってのみ判定されるべき。 そうしないと、異民族出身の将軍はランクインできなくなる。 397 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 20 45 57 ID y9tQSDEM0 2ch無くなっても別の掲示板に移るだけだよ 少々時間がかかるかも知れないが。でもここ新設板だから微妙かな? まだ絶対に無くなるとは決まってないし、いつもの通りやれば良かろう 三国あたりで停まられると個人的には辛いがw 398 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 20 52 01 ID 4gtRrIhA0 まじかorz 二、三年前はさっさと潰れろとか思っていたけど、 すっかり住人となってしまった今では・・・ 399 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 21 16 26 ID y9tQSDEM0 中英板続けたいなら自治スレいった方がいいとオモ この板はまだ出来て二ヶ月だから様子見ってことで解散してるみたいで 時期的には非常に拙い時期に閉鎖宣言が出されたので自治スレには人を集める必要もあるだろうし 2chが閉鎖するにせよしないにせよ(俺はしないと思うが) さて、名将の話だが >2.秋毫も犯さず >3.軍紀が厳命で民を害さない このあたりはスレの元ネタである田中芳樹の百選の受け入りなんだろうな が、このスレでは別段括る必要は無いだろうという点にも同意 というか前スレで話さなかったかな? 5-6の中華区分と一緒で二度目な気がする (次いでにいうとこの 5-6の中に俺の発言もあるし、五胡十六国や南北朝では幾人か武将挙げたし 215で現在の武将を纏めるとか地味な作業もしてます。という実績を表記すれば約一名は満足しますか?) 曹操、白起の他に確定組じゃ朱温や下手したら趙匡胤ですらアウトになるしな>虐殺はアウト 400 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 21 22 03 ID v1g/VQ7K0 このスレになってからは兎に角、戦績を挙げていれば 名将って感じになってますね 401 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 21 30 27 ID y9tQSDEM0 それでも赫連勃勃とかは査定微妙になってるんだよね 虐殺では彼は(も?)群を抜いてるけど、そういうの外してみて名将かどうかで 戦略眼はともかく将としては候補組の中でも下の方の扱いを受けてた 後は一発屋さんはあんまり歓迎されない方向にあるな 402 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 23 10 42 ID hNASmqn70 399 趙匡胤って、アウトになるような虐殺したっけか? どうも記憶にないんだが… 403 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 23 31 08 ID k97xPt/00 402 ttp //homepage1.nifty.com/kotobatokatachi/sub153.htm 404 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 23 34 35 ID JHKutOyU0 402 趙匡胤が、とは言いにくいが、蜀遠征のときに結構な略奪暴行虐殺をかまして 後にものすごい政情不安になってしまった。おかげで江南遠征のときには曹彬 にわざわざ略奪すんなよと厳命することになる。 405 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 23 36 24 ID HiuphFCxO 劉秀も部下が虐殺略奪をやらかしてるね 406 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/12(金) 23 51 49 ID hNASmqn70 403 伝説ねぇ。 そういうのはマイナスの類になるのか… それと、後蜀討伐のときは、将としては王全斌と王仁贍であって、この人らは名将候補にすら入っていない。 もちろん、部下の失敗は君主の責任ではあるが、それを持ち出すと功績も君主に帰するようになる。 この際は王全斌らの悪行であって、趙匡胤のではないとする方がいいと思うがいかに? 略奪行為そのものが完全にダメなら、五代の名将でランキングしている人らはほとんどが除外される。 五代だけに限らんかもしれんな。 407 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/13(土) 00 09 51 ID K+5cMBbn0 とりあえず、現在の状況 春秋戦国 【確定組】 楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦 【候補】 呉起、孫武、伍員(子胥)、廉頗、夫概、趙奢、士会、 趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、 蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 、趙の武霊王 統一秦~前漢 【確定組】 韓信、霍去病、衛青、灌嬰 【候補】 項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 新・後漢 【候補】 劉秀、耿エン、馮異、岑彭、呉漢、廉范、班超、張奐、虞[言羽]、賈復または馬援 三国~両晋 【確定組】 曹操、鄧艾、石勒、祖逖、王猛 【内定組】 周瑜、劉曜、慕容垂 【論争中】 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真 劉淵、劉聡、冉閔 408 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/13(土) 00 13 02 ID K+5cMBbn0 もういっちょ 南北朝 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 拓跋珪、高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 隋・唐 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬 409 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/13(土) 00 20 17 ID K+5cMBbn0 最後にもう一つ 五代~北宋・遼 【確定組】 朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、 任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【論争中】 耶律休哥 南宋・金~元 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、ココ・テムル 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、拡廓帖木児(ココテムル)、呂文煥 明 【確定組】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 【候補】 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁 呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳 、秦良玉 清 奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁、岳鐘琪、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン) 、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福、陳化成、唐炯 とりあえずこんな感じだと思う。 410 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/13(土) 01 25 37 ID VnDkX/0Q0 つーかさ、前スレの俺のまとめを皆コピペして使ってくれるのはうれしいんだが 元の拡廓帖木児(ココテムル)が確定と候補に被ってるとか 別名で同一人物がノミネートされてるとか 張られるたびに俺のミスが目立つんで、指摘された所は修正してくれ (´Д⊂ヽ 411 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/13(土) 01 28 15 ID B9s9idSO0 というか、コピペを繰り返されてもスレの負担にしかなって無くないか? 更新した部分があるなら兎も角、 3-4のテンプレは一体なんなんだという話に 412 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/13(土) 01 33 06 ID Lptl0erHO 今更な質問かもしれないけど曹操は後漢時代に入るんじゃないの? 413 319 sage 2007/01/13(土) 01 45 11 ID hNQdOsO70 出張から帰ってきたらスレがジェットコースターのような展開になっていた。 しかも2ch閉鎖騒動まで持ち上がっていた・・・ 推薦時のテンプレってありませんでしたっけ? 無ければ 名前、時代、プロフィール、戦績、推薦理由みたいなテンプレ作った方が良いかもね。 推薦の仕方でモメる事もなくなるだろうし 414 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/13(土) 04 32 03 ID Ddo510InO 413 今は推薦という段階から比較という段階に移らなきゃならない時期じゃない? まあその武将の実績挙げて貰わないと比較が出来ないのも事実だけど 415 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/13(土) 05 19 13 ID WRiBNrfcO 一応テンプレ貼っとく 【名前】 【時代】 【理由】 416 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/13(土) 06 34 38 ID 7lofvWkm0 よくわからんが、毛沢東っていうのは排卵のか? 417 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/13(土) 06 42 23 ID 7lofvWkm0 荒れるといかんので釘刺しておくが、 共和国建国以前のあくまで「一軍の将」としての実績でな。 418 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/13(土) 17 31 48 ID GRy/3VGG0 416 暫定定義では1912年以前に活躍した人物となっている。 が、毛沢東は入れたいような気もする。 419 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/13(土) 18 30 25 ID PoPG9bKz0 毛沢東の抗日に於いての功績は十分に認めるが 定義から外れてるんだから仕方ない諦めてくれ。 399 なあ約1名とは俺のことか? 俺はちゃんと功績は認めてるし、感謝もしてるのだけど・・・ ただ慌てるなということを強調したかっただけさ。 420 418 sage 2007/01/13(土) 19 28 11 ID GRy/3VGG0 419 では諦めた。 ところで常連は数字なりコテハン付けてくれた方が 議論が分かりやすいような気がするんだが、ご法度? 421 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/13(土) 21 00 07 ID wqjCt2Q30 420 新規に参加しにくい状況になるかもしれないし、それぞれで判断すべきかと。 軍規や虐殺・略奪については「考慮していればなお良し」程度で良いと思う。 422 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/13(土) 21 11 10 ID ojcNA8GS0 虐殺や略奪はともかく、軍規に関しては当然のことでわざわざ考慮するようなことではないと思うんだが。 軍規がグダグダで勝利(偶然の一勝ではなく何度も)できた軍隊・将帥なんて知らん。 上に出た曹操や白起の虐殺は、軍隊が無秩序になって起きたのではなく、作戦の一環として行われた。つまり 軍命令がスムーズに遂行されたということで「軍規の厳正」を証し立てることとも言えるし。 423 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/13(土) 21 21 19 ID wqjCt2Q30 ああ、すまん。 上のほうの軍紀を軍規と勝手に思い込んでた。 424 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/13(土) 22 36 38 ID bvO+hsrN0 霍去病、衛青、灌嬰が確定で項羽が候補って何故? 425 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/14(日) 01 23 14 ID AS5BE6KN0 項羽よりかんえいの方が評価されてるあたりたまらん 426 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/14(日) 03 33 51 ID MJ4EoB500 明末清初の名将について語りたいんだが、 今年中にそこまで辿り付くのかしらん。 427 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/14(日) 14 36 14 ID 50lza9FW0 自戒のため二日間ネット禁してた仕切り屋だが、復帰します。 先日五名推薦したうち廉頗、趙奢、呉起の三名はあれでいいと思うが、 伍子胥と士会に関してはあのままではいかんなと思う(伍子胥に関しては俺が好きな理由だし)ので改めて推薦。 【名前】伍子胥 【時代】春秋 【推薦理由】 呉王闔慮に仕えて楚、越を撃ち、楚にはさらに五回攻め込んで連戦連勝、国都郢を落として 楚という国家を一時的に壊滅状態に陥れた功績は五カ国同盟軍を率いて斉を伐った楽毅に匹敵すると思う ので(あと復讐にかけた苛烈な生涯、自刎に際しての「俺の目を門にかけておけ」という凄絶な遺言込みで)推薦。 【名前】士会 【時代】春秋 【推薦理由】 周室の内乱平定の功労者。呉の荘王(だっけか?)に勝利した唯一の将軍でもある。 大傳として周の律令にならい晋の国法を制定した「将と相を兼ねる」功績をもって推薦。 ・・・これで問題ない? 419 399が言うのは多分俺のことだと思う。実績見せろって言ったし。 まぁあれは好きな時代から一人二人引っ張ってきて推薦文書いて見せてろって意味だったのだが、今となってはどうでもいいやね。また蒸し返すのもなんだし。 428 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/14(日) 16 31 25 ID +0xS3FByO 427 呉王闔慮に仕えて楚を撃った点では孫武も同じなのだがこれって功績が被るのかな? (伍子胥と孫武は名コンビ扱いされてるみたいだし) 俺は孫武を推薦したいんだけど念のため聞きたいな。 もし功績が被ってることに異論が無ければB.C513年に楚の首都郢を攻めようとした時 今は時期ではないと進言した戦略眼、斉や晋をも脅かす快進撃を続けたり、 20万の楚軍を3万で打ち破った用兵能力、 宮中の美女を軍に見立てて見事に統率してみせた点、(これには異論がありそうだが・・・) 何より著者自らその兵法理論を証明したことを理由に孫武を推薦したい。 429 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/14(日) 18 45 27 ID C+0zULNSO 荘王は士会に敗れる前に晋のゲキ欠(鄭の協力もあり)に一度負けてる 430 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/14(日) 18 51 27 ID XMSfPqOr0 428特に異論はないよ。 まぁ、どっちかっていうと孫武のほうが慎重な感じを受けるよね。 伍子胥のほうは血気盛んというか、復讐のためにすぐにでも楚を攻めたいって感じだけど。 431 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/14(日) 18 56 15 ID XMSfPqOr0 429 あぁ、やっぱ唯一じゃなかったか。それでも荘王は旭日昇天の勢いだし、 それを挫いた士会の功績が特別落ちるとは思わないけど。他にもいろいろ勝ってるしな。 秦の将になって晋を撃ったこともあるし。 とりあえず、教えてくれてサンクス。 432 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/14(日) 23 15 09 ID +0xS3FByO 430氏賛同、サンクス ところで墨子って墨テキのこと? 公輸盤との仮想戦闘と城を守り防御するのに長けていた以外の 功績を知りたいのだが誰か詳しい人いますか? 一応思想本である『墨子』は読んだけど戦歴ついては書いてなかった記憶が・・・ 【名前】呉起 【時代】春秋 【推薦理由】南は百越を平定、北は陳・蔡を併合、三晋(韓・魏・趙)を撃退 西は秦を伐って楚を一大強国に伸ばし上げた。 生涯成績、通算76戦64勝12引き分け、負け無し、 軍中に於いての人心掌握もまさに完璧。 433 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/15(月) 21 39 11 ID fyIe4edN0 427 伍子胥>(あと復讐にかけた苛烈な生涯、自刎に際しての「俺の目を門にかけておけ」という凄絶な遺言込みで) 生き様や遺言は軍事的業績と関係ないだろ。 士会>大傳として周の律令にならい晋の国法を制定した「将と相を兼ねる」功績をもって推薦。 政治家としての功績は軍事的業績関係とないだろ。 中国名相百選に行って来い。 434 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/15(月) 22 37 10 ID lFZrPZFlO 433 ちゃんと軍事的業績を挙げているし、その他をオマケとして付け加えるぐらい別に問題ないんじゃない? 個人的な思い入れもあるんだろ。(たぶん) 前にも言ったが文句言うなら一人ぐらい推薦汁!! 435 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/15(月) 22 51 57 ID fc8yw/dX0 むしろプラスアルファが名将の条件。 いくさ上手いだけなら史上なんぼでもおる。 436 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/15(月) 23 02 11 ID lFZrPZFlO 伍子胥の場合は暴走気味かと思われ・・・ 437 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/15(月) 23 10 13 ID vqDfjfZb0 あるんだろって……さも自分以外が書いたみたいに言って…… 438 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/15(月) 23 48 53 ID v3r2smlJ0 434 揚げ足とりしてるヤツは無視するがよろし。 433で問題にしているところ以外ではちゃんと軍事功績書いているのに、ソコだけ取り上げるのは文句が言いたいだけの人だろう。 たぶんこういうヤツは、戦わずして勝ったような人物は、名将とは認めないんだろうよ。 439 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/16(火) 00 21 06 ID 2DppNHxt0 端から割り込む感じになるけど、 427も生涯とか人生とか、そういった部分を 選考理由の前面に出しすぎてる気はする 人選には文句はないけど、どうにも名臣や名相っぽい書き方なんだよな 440 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/16(火) 00 23 05 ID oCSKrewHO 435 戦が強いだけで個性の無い奴なんてそう居ないだろ 441 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/16(火) 04 55 00 ID Imz5VEqV0 437 あるんだろって……さも自分以外が書いたみたいに言って…… 実際自分以外だし。書いたのは黄色い救急車が必要な仕切り屋気取りの 最近ちょっと嫌われ者になったっぽい少し僻み癖のついた岩城って名前の俺であって、 434は公平な目で間に立ってくれたただけだろ。 今度から名前欄に岩城って書こうか? なんかところどころで自演とかヘンな誤解されてる感があるし。 442 岩城 2007/01/16(火) 05 27 23 ID Imz5VEqV0 さすがにこの時間にレスはないわな。 今日は早番で帰ってきたらすぐ寝そうなので、今のうちに追記。気が早いけど後漢についてね。 後漢の名将は、 耿弇、岑彭、馮異は確定でいいと思う。 呉漢は虐殺行為があるから微妙。とはいえ彼の場合は荒くれどもを一手に任されたところがあるから酌量の余地はあるんだが。 曹操と周瑜を三国から後漢にひっぱってくるのなら曹操は確定、周瑜は未確定の有力候補ってことでどうか? ま、あくまで一意見だから無視してくれても全然オッケー。とりあえず参考までにね。 443 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/16(火) 09 16 40 ID 6swSvc8YO 曹操や白起だってノミネートしてるんだから、呉漢が選ばれたってなんの問題も無いと思う。 劉秀の勢力拡大に一番貢献したのは彼だと思うし、ノミネートされる資格は充分にある。 雲台二十八将の中で序列2位とされたのも彼の武功が認められたからこそだろう。 444 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/16(火) 18 53 30 ID +jHelm1E0 【名前】馬援 【時代】後漢 【推薦理由】隗囂討伐に功績を挙げ、公孫述を滅ぼし、光武帝の全国統一に大きく貢献。 交趾(ベトナム)の微姉妹の反乱を鎮圧、九真・日南・合浦を鎮定。 【オマケ】矍鑠の語源となった武陵五渓の反乱の出陣に際して 光武帝に見せた行動が有名。 【名前】賈復 【時代】後漢 【推薦理由】光武帝のもとにで、督盗賊、偏将軍、都護将軍を歴任。 左将軍となり、赤眉を平定。 敵と相対しても怯まず猪突猛進。光武帝は彼を失うことを恐れ出陣させなかった 。 驍勇無双の豪傑なだけでなく、学問もあり、自らを一番であると自負して同僚にまったく譲らなかった。 光武帝の懐刀的存在。 賈復または馬援となってるが個人的には甲乙付けがたいな。 445 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/16(火) 20 31 08 ID Z0CLgFNr0 442 仕切屋だというなら、春秋戦国と統一秦~前漢の選定が 終わる前に後漢の話などするなよ。 その後の流れがグダグダになってるじゃないか。 446 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/16(火) 21 51 30 ID Thvz8PLH0 じゃあ間を取って三国志に行こうぜ 447 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/16(火) 22 01 30 ID +jHelm1E0 445 文句言うなら、自分が流れを戻せばいいじゃん。 【名前】趙奢 【時代】戦国 【理由】斉と戦い麦丘を攻め取り、 秦の大軍が閼与を包囲したとき, 秦に対し巧妙な計略で秦軍油断させてのち全軍をくり出し、秦軍を散々に蹴散らし,閼与の包囲をといた。 この一戦で趙奢の名は全国に轟いた。 ほらこれで流れが戻っただろ? 448 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/16(火) 22 25 44 ID O4FPgQ8bO チミが暫らくカキコ控えてくれれば流れも人も戻りそうなものを・・・ 449 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/16(火) 22 47 18 ID iy2w6cIIO 【名前】孫ピン 【時代】 戦国 【推薦理由】当時天下一の弱兵と嘲笑されていた斉軍を天下最強の軍団に作り替える。 趙を魏が攻撃した際、田忌に魏本国を攻めさせ、趙より撤退して引き返して来た魏軍を桂陵の戦いで魏軍を大破させ、 囲魏救趙の故事の元になった。 ホウ涓が10万の軍で韓を攻めたとき、竃の数を減らし脱走兵が相次いだかのように偽装し、 ホウ涓を油断させ伏兵に適した馬陵に誘いこみ見事撃破。 この二つの戦いでの活躍をもって孫ピンを推薦したい。 孫ピンは将軍になってもおかしくないが身体的理由で軍師として迎えられと俺は思うな。 実際に軍を動かしていたのは彼な訳だし・・・ 450 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/16(火) 23 17 39 ID 6kD7fWmh0 448 ハゲドー 451 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/16(火) 23 24 42 ID 9EufMr9I0 448 それはないのと違う? 少なくとも、そう言う自分には一定の流れを作ろうとする意思がないわけだろ? 最初から他力本願の情けないこと言っているその口では、他人のことをとやかく言うものではないと思うが。 おれは出番を待ってるからカキコミを控えているが… というか、正直この時代についてのレベルは追いつけんから黙ってるだけなんだが、村八分的なことを書かれると、なんか悲しいな。 452 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/16(火) 23 36 45 ID skYg+bNQ0 ☆ チン マチクタビレタ~ マチクタビレタ~ ☆ チン 〃 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ ___\(\・∀・) < 南北朝はまだ~? \_/⊂ ⊂_ ) \_____________ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | | 愛媛みかん |/ 453 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/16(火) 23 46 41 ID 6swSvc8YO 2スレ目に入ってなんか荒れてきたね。 前スレは最後までいい感じで議論が進んだのに…。 454 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/17(水) 00 00 32 ID 5ioVMMNE0 447 戦績不足の一発屋。 名将百選に入れるには物足りないような気がする。 非難だけとするとも思われたくないので、 あらためて樗里疾を推挙。 切り取った領地の広さ、戦勝の数、 五カ国連合軍を打ち破った英姿、 いずれも百選に入れるには申し分無し。 455 岩城 2007/01/17(水) 00 20 54 ID md3ZYLjc0 445 悪い。後漢は候補だけで確定が一人もいなかったんで、 今ぐらいの時点でとりあえず確定4、5人決めとかにゃあ、と思ったんだわ。 ところで俺の推挙した廉頗、趙奢、呉起はカウントされてる? もう一度テンプレどおりに書き直したほうがいいんかな。 456 岩城 2007/01/17(水) 01 06 43 ID md3ZYLjc0 40分待ってもレスがないってことはカウントされてる、ってことでいいんかな。 村八分にされてる感もなきにしもあらずだが。 それはさておきもう一眠りしますわ。七時に帰ってきて浅く五時間ぐらいしか寝てないし。あと五時間は寝たい。 そんじゃ落ちます。じゃあまた。 457 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/17(水) 09 07 57 ID tUEsnf1J0 【名前】楚の荘王(熊侶) 【時代】春秋 【推薦理由】国政を整備した荘王は周辺諸国を圧迫し、領土を広げた。 国を合併させること26、地を開くこと3000里。 陳の内乱に乗じて一時併合し、鄭を攻めて陳と共に属国化した。 ヒツの戦いで晋を撃破。 この戦い以降、晋は暫くの間低迷期に入り、楚の荘王の威光が天下を覆った。 王(しかも明君)でありながら自ら戦場に出て采配を振るった点を考慮して推薦したい。 456 個人の事情は書かない方がいいと思うよ。 458 岩城 2007/01/17(水) 22 01 20 ID 6AEXLnsg0 457 うん。ここは名将スレであって愚痴垂らす場所じゃないもんな。 ご忠告サンクス。 一応樗里疾派の御仁に対抗して趙奢を弁護。 趙括が将軍に起用されたとき、お母ちゃんが王に告げた台詞。 「亭主は将軍の身でありながら自分の手でご飯を盛り飲み物をついで、 食事の給仕をしてやった部下が数十人もおり、友人としたものは数百。 大王や宗室からの恩賞はすべて軍吏・士大夫に分け、出征を命じられれば その日から家事を省みなかったものです」 この台詞から推察するに、司馬遷が「戦争だけの記述はおもろない」と斬り捨てただけで 趙奢は閼与救出戦以外にも数多くの戦に出たのではなかろうか? まぁ推測だが。 459 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/17(水) 23 22 24 ID tUEsnf1J0 じゃあ俺も擁護しとくわ。 趙奢は趙の田の租税をつかさどる役人だったが平原君は奢を賢者と認めて王に推挙したんだろ。 元小役人が将軍に抜擢されたその上、天下最強の秦の軍団を見事な策略で打ち破ったんだから ただの一発屋とは言えないと思うよ。 460 まとめやってる人 sage 2007/01/17(水) 23 52 33 ID OhxXdIal0 ちょっとgdgdになってきたので、この辺で 春秋戦国時代324以降で候補に上がった人のまとめ 呉起 352,358,376,432 伍員(子胥) 352,358,376,427 樗里疾 331,356 孫武 428 廉頗 346,353,358,376 士会 354,358,376,427 趙奢 337,353,358,376,447 楚の荘王(熊侶) 368,457 武霊王 357 461 まとめやってる人 sage 2007/01/17(水) 23 53 10 ID OhxXdIal0 春秋戦国候補 まとめ2 議論中 ※1 孫ビン 449 范蠡 337 名相・参謀候補なので名将から外した方が良い 347,366との意見有り 議論中 ※2 呂尚(太公望 ) 341 時代が違う 347との意見有り ただし、前スレでは時代区分1が神話~春秋戦国だったので 個人的には含めても良いかと思う 462 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/18(木) 00 35 55 ID pj6JMRkB0 なんで趙奢が一発屋扱いで選考落ちになりかかってて信陵君は確定? 信陵君にしても邯鄲の救援と河外の戦いしかなく、一発屋と大差ないと思うんだが それで確実に戦績を残してる呉起は候補に留まってるって、ちょっとわからない 463 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/18(木) 00 53 51 ID c6mxv6Fr0 趙奢より功績を挙げてるはずの廉頗の扱いの酷さもな。 464 岩城 2007/01/18(木) 02 01 59 ID Wo2jw8sO0 廉頗の扱いがひどいっつーことで改めて書き込み。 【名前】廉頗 【時代】戦国 【戦功】 四十年にわたって趙を守護した大元勲。若い頃は楽毅の五カ国同盟軍にも参加した(っけか? どーも確証がもてん) 蘭相如との刎頚の交わりで高名。廉頗と蘭相如が健在であるうちは秦でさえうかつに趙を攻めることは出来なかった。 長平の戦いでもちびりちびりとやられつつも防備に専念、白起ですらうかつに大攻勢を仕掛けることは出来なかった。 若造の趙括に更迭されたことに憤激するも、邯鄲防衛に尽力。楚・魏の救援を得て趙は命脈を保つ。 長平で趙括が敗れた五年後、燕が趙を攻めるとこれを迎撃、主将栗原を殺し、逆撃して燕都を囲んだ。和平の条件として五城を割譲させる。 さらに魏を撃って繁陽を攻め、ここを攻略するも孝成王が死ぬと後援者を失い、楽乗ごときに更迭された怒りから一暴れして出奔、 魏に亡命するも用いられなかった。「再び趙の兵を率いて戦いたいものだ」と言い残して寿春で死んだ。 白起をてこずらせたことをはじめとする数々の武功、悲劇的な晩年のエピソード。どっちも十分だと思うが足りんかな。 465 岩城 2007/01/18(木) 02 18 25 ID Wo2jw8sO0 連投、追記。 信陵君に関しては「更始無忌は天下無双」っていう名前が一人歩きしてるからじゃない? ただ、統一秦~前漢で灌嬰が入って項羽が候補ってのはちょっと疑問だが。 466 岩城 2007/01/18(木) 02 21 51 ID Wo2jw8sO0 更始無忌=公子無忌ね。まぁいうまでもないだろうけど。 465は 462、464は 463宛てね。 467 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/18(木) 13 47 26 ID 5Mc58CK+0 前にも推したけど、廉頗と呉起は当確でいいんじゃない? 複数の人が名前挙げてるし。 468 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/18(木) 15 15 17 ID aZ/W8nUJO 460-461 サンクス 范蠡と孫ピンは名相・参謀候補なので名将から外した方が良いとの意見有りに対して、 孫ピンを推薦した策士、名相が大好きな俺から一言。 俺的には范蠡≒陳平だと思ってるんだよね。 この二人ってえげつない権謀術数と有能な政治能力で君主に仕えていたのだから、 やっぱり范蠡は名相、名参謀として扱うのが妥当かと思うけど。 孫ピンの場合はライバルのホウ涓にはめられ足斬りの刑にされちゃったから将軍への道を閉ざされた訳だし、 それを不憫に思った田忌が自分の参謀として迎えたんじゃないかな? 何度も言うけど立場は軍師だが実質に孫ピンが兵を動かしていたと思うけど。 これに対して諸兄の意見はどうでしょうか? 469 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/18(木) 18 31 23 ID y4aC+KEA0 468 どう思うかと聞かれれば、思わないと答えますね。 作戦指導と軍の統率指揮は別ものでしょう。というか、戦略レベルでの軍の進退と 戦術レベルでの軍の指揮をごっちゃにしてませんかね? 470 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/18(木) 19 35 31 ID Ho5j6RzF0 469 ふつう、戦略的に優位に立つことができれば、少々の戦術的敗北は補いがついてしまう例が多いんだよね。 つまり、一方面軍司令官ともなると、ある程度の戦略眼、広い視野といったものが備わっていないとならない。 そういうので、常に相手より優位にたっているのも名将だろうし、戦場で相手をこっちの有利なところに誘い込んで撃破するという駆け引きをするのも名将。 ただし、後者の場合でも、ある程度の戦略眼が備わっていないとできないことなんだと思うよ。 ちなみに、将としては統率が第一であることは、言わなくても知っていることだと思う。 471 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/18(木) 19 45 09 ID c6mxv6Fr0 孫ピンが一軍の将として振る舞っていたのなら、 韋叡のようなエピソードが伝わっていてもおかし くないでしょ。 田忌の参謀役として捉える方が自然かと。 472 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/18(木) 23 07 26 ID aZ/W8nUJO 470さん擁護ありがとう。 449で>魏軍を桂陵の戦いで魏軍を大破させ、 囲魏救趙の故事の元になった。 >ホウ涓馬陵に誘いこみ見事撃破。 前者は敵を誘いだし自軍を有利な立場に持ち込む戦略だし、有能な将なら当然行う行為だろ。 後者の敵の総大将であるホウ涓を叩き潰すという行為は戦略としては一番の上策、 しかもやり方が鮮やかすぎるから其処にしか目がいってないのかな? 孫ピンが優れた戦略眼を持ってる証明に十分なってるはずたが。 471 韋叡は元々将軍であり虚弱体質で馬に乗れず代わりに輿に乗り竹杖で指揮をしたんだし、 その点は大谷刑部(吉継)も立場が似てるよね。 でも孫ピンの場合は足斬りの刑と顔に入れ墨されて罪人にされたんだよ。 その為将軍としての道を閉ざされたんだし、韋叡とは事情が全く違うよ。 (戦場では車に乗って采配を振るってたみたいだけど) 俺は名称が参謀で一将として振る舞ってなかっても実際の功績は将として評価出来なるのではと言いたいのだが・・・ 473 岩城 2007/01/18(木) 23 44 30 ID 8Ld5Nvm20 指揮統率能力は十分、赫々たる戦功があるんだから名将として問題ないはず、とか 347で孫ピンを諦めた俺が言ってみる。諦めた人だから説得力に欠けるが。 474 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/19(金) 00 06 09 ID gFPKPPac0 472 別に能力が劣っているとか言ってるわけではないので、 孫ビンに関してそれほど意固地になる必要はないと思いますが? もし名将とするというなら、参謀百選などの時、 孫ビンは参謀に当てはまらないということですよね? 475 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 00 29 30 ID L4YKjFI80 べつに擁護したわけじゃなかったけど。 ひとりの人格に、いくつもの傑出した才能を有している、というのもあることだし、そう一元的に決め付けないほうがいいと思ったわけ。 であれば当然、統率の才と参謀的な才を持ち合わせた人もいて、そういう人はだいたいまともな戦略眼を持っていたりする。 まぁ自分で宰相だ、と切り捨てつつも、一押しした五代後唐の任圜などはそのタイプ。 名将かつ猛将、あるいは名将かつ名参謀というのでも、別にいいんじゃないの? 476 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 01 31 31 ID s0X5NYof0 475 そういうこと言いはじめたら本当にきりがないから、ある程度識別してるんじゃない? まともに軍事功績で考えれば、管仲が候補にすら入らないのもおかしくなっちゃうし・・・ 477 岩城 2007/01/19(金) 02 05 51 ID 0AbRmQW50 まぁ、唐の李靖・李勣なんかは「将と相を兼ねる」の最高位みたいなもんだし。 複数の才能が一人の人物に内在しててもいいのでは? とはいえ、十選入りが可能かどうかとなると別の話だけど。 478 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/19(金) 02 07 41 ID LF6RxA64O 476 じゃあ管仲が入らないのはおかしいんだろ まあ、この可否はともかく俺も名将かつ猛将なんてのがいても問題ないと思う 実際に両方のことができてるなら、むしろ片方だけ無理に選択するほうが不可解 479 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/19(金) 02 36 47 ID 9Y5dP5ir0 私は、 http //otoku777.lxl.jp/ で、毎月30万以上は貰っています。 フリーメールでも登録(応募)できるしね。 まだ登録(応募)してない人はしたほうが良いよ。 http //otoku777.lxl.jp/ 480 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 04 25 32 ID Sfgb2wqrO 岩城氏と 475さん 478さんサンクス 474 ただ答えを返しただけで別に意固地になって無いけど・・・ 476 管仲は政治家として垣公に貢献した割合がかなり大きい訳だし、名相として扱うのが普通かな。 管仲は大好きなのだが名将として推薦するには少し疑問があるな。 反対してる人もいるし、別に孫ピンを外してくれてもいいよ。 481 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 07 46 51 ID kjf2QoY50 孫ピンに将としての才があったかどうかはわからんが、無いと断ずるほどの材料はない。 別に「将と相を兼ねる」みたいな人物がいてもいいだろうし、将と参謀の能力を持っていた としてもおかしくはない。 しかし孫ピンに関しては身体的な問題であろうと、将として従軍したことはない。参謀と して従軍し、参謀として功績を挙げており将としてのそれはない。 そういう人物を「将としての才もあっただろうから入れろ」というのはどうか? 482 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 18 51 33 ID l7kPZIOn0 孫ピンより孫武の方が将として扱われているのにね。 少なくとも孫ピンは、候補に入れるほど将として活躍して ないでしょ。 483 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 19 03 09 ID VV1uF4Tk0 475 管仲は斉の宰相になってから、軍を率いて戦ったことは一度も無いぞ。 管仲の時代の斉軍の将軍は王子成父だ。 孫ピンといい、どうして軍を率いて戦ったことが無い人物が候補に挙がるのか。 理解に苦しむ。 484 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 19 17 29 ID P67/pWRG0 なあそろそろ次の時代にいこうぜ!! 485 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 19 57 17 ID O1TKl6Ij0 484 落ち着け、中途半端なところで議論を打ち切ったりなんかしたら、 自分の語りたい時代でも同じことをされるぞ。 俺だって自分の好きな時代を語りたくて仕方ないけど我慢しているんだ。 それにしても、もすも無限にスレが立てられるなら、 それぞれの時代ごとにスレを立てて、最後に統合したいよな。 ていうか、クソスレさっさと潰してそうした方がずっと有意義な気がする。 486 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 20 04 20 ID p98moVzR0 1で「近代以降の武将は含めない」とあるのに、 清のリストに近代以降の連中がひしめいてるのはなぜ?? 487 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 22 17 34 ID Sfgb2wqrO 481 >孫ピンに将としての才があったかどうかはわからんが、無いと断ずるほどの材料はない。 ライバルで魏の将軍であるホウ涓が孫ピンの才能を妬んで罠にはめたのって才能がある証拠にならないか? ホウ涓は自分が一番になりたい為に、目の上のこぶである孫ピンを排除しようと画策したんだけど。 >「将としての才もあっただろうから入れろ 立場は参謀だが功績は将として評価出来るのではとは言ったが、俺は入れろとは言ってないぞ。 参謀と踏まえた上で議論してるんだし、孫ピンの場合は事情が複雑なんだよ。 それに前にも書いたけど別に候補から外してくれたらいいよ。 管仲が桓侯を覇者に押し上げたのは明らかに政治家としての手腕だから外すのに異論はないのだが。 488 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/19(金) 22 39 16 ID gFPKPPac0 どうも、孫ビンや管仲を除外対象といった本人です。 あの時から数日見てないと色々と進んでいますね。 前スレを見ていないので、よくわからないのですが? 趙の武霊王を候補に挙げておいてなんですが、 国君と言いますか、君主も将としてカウントしてしまうんですか? 田中氏の某書の影響ですがどうなんでしょ? 勝手に現在の流れで確定に入れてしまうと 春秋戦国時代の確定組みは8名でしょうか? 楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 趙奢 【候補】 ☆孫武 ☆伍員(子胥) 夫概 ☆士会 趙無恤 王子成父 先軫 楚の荘王(熊侶) 蒙ゴウ 司馬錯 ☆樗里疾 趙の武霊王 呂尚(太公望){神話も時代に含むなら} ☆が付いてる人は、現在推す人が多いってことです。 勝手にまとめてますが、不愉快ならごめんなさい。 486 清代は、ほとんど知識が無いのでわかりません。 250参照 このスレで言う「近代以降」は「1840年以降」ではなく、 清滅亡(1912)までを指すらしいですが・・・? 1912年以降の武将がいるのでしょうか? 489 486 sage 2007/01/19(金) 22 43 25 ID p98moVzR0 488 ああ、「近代以降」ってのはこのスレでは1912以降なのね。 納得しました。 ☆樗里疾 推してるのは一人のような。やっぱりコテハン付けた方がいいのか? 490 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 22 48 35 ID XVOQn5Ro0 488 君主だろうが文官だろうが兵を率いて戦って、功績があれば入るでしょ あえて外すのは田中芳樹の考え方で、それはそれで別にいいが 論理的な理由があるわけではないし唯一の正しい基準というわけでもない 491 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 22 49 08 ID fQnP78OFO コテよりもトリの方がいいと思うよ 492 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/19(金) 23 25 16 ID grribzvo0 >ライバルで魏の将軍であるホウ涓が孫ピンの才能を妬んで罠にはめたのって才能がある証拠にならないか? >ホウ涓は自分が一番になりたい為に、目の上のこぶである孫ピンを排除しようと画策したんだけど。 ホウ涓の人物眼がどれほどアテになるかも判断つかないし ホウ涓を破ることがどの程度凄いコトなのかの客観的に判断出来ない この辺りがこのスレで一発屋が余り評価されない点であり 一方で例え一発でも相手によっては候補や内定に入る奴が居る理由でもある 493 岩城 2007/01/19(金) 23 55 47 ID h4J/Db040 491 コテよりもトリ トリ? トリってなんや? な状況。実のところ俺ってネット初心者だからそこらへんの 知識ゼロだったりする。個人を特定できて自演とかいわれるのを防ぐ方法があるなら、 ぜひご教授いただきたい。・・・覚えがないのに自演って言われるの、かなり痛いんだよ。 494 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 00 00 59 ID Sfgb2wqrO 492 孫ピンとホウ涓は同じ兵法の学問所での同期。 孫ピンはその学問所でのNO.1で将来を期待されてた。 孫ピンがいた為ホウ涓は常に二番手に甘んじていた。(でもその学問所のレベルを突っ込んでくるんだろうな・・・) ホウ涓は一応魏では有能な武将なんだけど・・・ 孫ピンの鮮やかな戦術で呆気なく倒されたからショボい武将と見られがちだけどね。 孫ピンにこれ以上粘着しないから本当に外してくれたらいいよ。 495 岩城 2007/01/20(土) 00 08 44 ID 7EhLnEkG0 ついでに書き込み。 伍子胥と士会を推してるのもあらかたは俺。だから実際には一票扱いだと思う。 まぁ順当にいって孫武と伍子胥が繰り上がるんじゃないかなぁと無責任な予測をしておこう。 実戦経験ゼロってんならともかく、 孫ピンは実質将として軍を率いた(一応大将は田忌だけど)上で勝利してるわけだから、 すくなくとも候補に入る資格はあるのでは? 参謀だから無理ってことならまた「参謀スレ」を立てにゃならなくなって、それだと100人揃えるのが大変だと思うが。 496 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 00 10 15 ID YQKeYg0e0 名声や評判を評価にいれるのは他の時代にも色々ごたごた残しそうじゃないか? あくまで実績重視にすべきだと俺は思う 497 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 00 10 34 ID wBaZAhww0 学校の勉強できても現場じゃどうしようもない奴が現実でも中国史じゃ結構でてくるしな 陳宜中とかどーしようもない屑だし 498 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 00 22 56 ID m+TuA+VQ0 496 あくまで実績重視にしないと、俺の好きな武将100選になってしまうな。 好きな武将を挙げて行くなら、まずは実績を示すべし。 499 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 00 45 22 ID yekxWgzM0 コテもトリも必要とは思わないのだが そもそも岩城ってなに? 500 岩城 2007/01/20(土) 00 48 49 ID 3rKkmY6H0 俺の苗字。名前隠すのは問題あるかなーと思って出した。
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/42.html
751 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 00 46 05 PHuxV8+X0 追記 田中氏の100選では唐朝から12人出てたよ。隋からはたったの3人だが都合15人。 やっぱり隋唐は2分割がいいんじゃない? 隋~唐初、太宗以降~唐末、で。 752 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 11 42 nLaV8Rh+0 田中百選は正直当てにならんけどね 特に古代期のやる気の無さは異常。 753 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 15 54 N5nnmsmF0 よく見たら神話は入れてないんだね 754 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 33 17 PHuxV8+X0 王玄策には異常に気合注いでるんだけどね。 あれは自分が小説書くからその前に紹介しときたかっただけなんだろうか。 755 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 44 58 4yrG5sGfO 752 まあ俺たちも春秋の扱いには困ったがな 756 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 45 10 CipGNRy70 隋唐厨ってしつこいなw 757 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 47 57 KuT70nJ30 もう次行きましょ。 五代十国時代。 後梁 康壊貞 岐王・李茂貞を撃破し黙らせてますね。 楊師厚 この時代最重要な魏博の精鋭、銀槍効節都の創始者として、晋軍を破ってる人。 賀懐 ……一応、胡柳陂の戦いで、勢いのある晋軍を相手取り、周徳威を討ち取るなど活躍し、痛み分けに持ち込んだ。 その直前に有力将帥である謝彦章をささいな恨みから殺しているので、その辺個人的には好きではない。 王彦章 鉄の槍を扱った猛将。 胡柳陂の戦いの後、劣勢だった後梁が打開のため攻撃目標としたある砦を、落とすのにどれだけかかるか皇帝に諮問され、「3日」と答え実行し、晋軍を震え上がらせた。後梁最後の将帥というところ。 晋~後唐 李存勗 後唐の荘宗。 異様なほどの軍事的才能をもった若造。戦術の天才といわれている。 ただし政治的手腕が皆無なうえ、項羽を入れない辛口評価なこのスレでは、候補にも入らんか? 李嗣源 のちの後唐明宗。 晋軍の一部隊、横衝隊を率い自在に戦場を駆けた。 李存勗をして「奇才」と言わしめた。 李存審 もと符存審。 李存勗の羽翼を担っているので目立たないが、単独でも契丹騎兵相手に野戦陣を構築して撃退している。 周徳威 晋の主砲。 柏郷での鮮やかな勝利は、戦史に特筆されている。 他に、燕の猛将・単廷珪を、一合も交えることなく虜にしたりと、一騎討ちでも大活躍。 郭崇韜 軍政官。郭子儀の子孫ということになっている。官僚。 鎮州成徳の節度使として、晋の支配領域の中段を治めた。 建国の勲功第一として賞賛され、前蜀討伐の事実上の総大将を任されて遠征し、わずか70日で成都を陥とした。 康延孝 後梁の降将。 名を変えて李紹?といった。郭崇韜とコンビを組んで、前蜀討伐に従軍する。 実戦指揮官として前蜀軍と戦い連破した。郭崇韜とかぶるが、実際に快進撃を続けられたのは、康延孝の功績によるところが大きい。 任圜 明宗期の硬骨漢として知られるが、?州の属官だったころから、軍事、とりわけ統率に優れた才をみせていた。胡柳陂の戦いが終わって、その指揮ぶりから李存勗に「儒者とは思えない見事な戦いぶりだった。仁者の勇というべきか」と絶賛されている。 前蜀討伐戦に従軍しており、康延孝が現地で謀反した際、董璋らと計って撃破し、なんなく捕らえたという鮮やかさ。 夏魯奇 ……燕を攻めたおり、猛将・単廷珪と元行欽二人を相手に一騎討ちし、その凄まじさは周りの兵士が戦うのをやめて見入ったほどだという。 と、これしか知らないw これじゃ単なる猛将だな。 補足よろしく。 後漢 郭威 三鎮の反乱を一瞬で鎮圧した。 後周 柴栄 言う必要もない 趙匡胤 同上 後周からは追加候補として、目立たないけど李?も。 ?州の防衛として、北漢や契丹の侵入を常に防いでいた。 彼が北で重鎮としていたからこそ、柴栄は淮南に三度も親征することができたと言える。 実際の活躍期間が短いのは、後周の寿命の短さに対応している。 彼はとりあえず郭威の子飼いということで、忠義に篤かった。 あと、鳳翔節度使の王景だけど、隴右攻略の実戦指揮官。 長期化しそうな戦線を、敵の裏をかき勝利した。 同輩に、勇猛な向訓や韓通がいたことから、功績は分割されるのであくまで候補として。 十国の方は、南唐からはとりあえず、劉仁贍を出しておこう。 ずいぶん上のほうでも書いたけど、単独で後周世宗と戦って、撃退しているのはこの人くらい。 南唐朝廷の協力が得られなかったので、というか、その暇すら与えない柴栄の速攻の前に、孤立を余儀なくされるも、2度目の親征までの1年半あまり守り通している。 負けたのは、味方の不甲斐なさを嘆いて、病に倒れたから。 758 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 02 22 26 PHuxV8+X0 趙季良や周本も忘れないであげてください。 あと、後梁の智将・郭言も。 759 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 08 49 21 cK3RRyIa0 757 ここは戦闘指揮能力だけが問題だから李存勗は問題無くはいるだろ 項羽もそれほど反対はなかったと思うが・・・ 政治的手腕まで考慮していたらほとんどが外れてしまう 後梁の劉?・・・李存勗から「一歩百計」と言われた名将 しかし自分で 挙げといてなんだがどうも負けが多いような気がする 760 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 09 41 05 KuT70nJ30 758 十国の方は任せますよ。 さすがに南唐あたりしか知らんのじゃ、ちから不足もいいところだから。 郭言……は、聞いたことしかなかったです。 朱晃に従って「略地千里」とかって、なんかすごいかっこいいこと書かれてますね。 詳細はよろしくおねがいします。 759 劉?は迷ったんですよ。 後梁の最有力将帥ですし、李存勗をして「どんな計を弄するかわからないから」と自重させたほど。 あの突撃しか知らんような李存勗を。 結果的にこの人、李存勗の引き立て役になってしまっています。 アホ皇帝からはせっつかれ、同僚の協力は得られず、兵士は敵を目の前にして血気にはやり、あげく天候にまで見放された、たぶん五代十国中最凶の人。 761 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 16 55 12 D+9zxHsQ0 劉仁贍なんてエントリーしといて力不足なんてご謙遜を。 俺も十国に詳しいわけじゃないんだけどね。ただ手元に十国春秋があってぺらぺら読んでただけで。本当に得意なのは宋、特に南宋だったりする。孟?万歳!! さておき。今日は休日(その分クリスマスに仕事だが)。三時過ぎまで寝てた分を取り戻さにゃ。 郭言・・・一応王彦章と並伝に入ってるんだけども。後梁随一の智将。でも若い頃は貧乏で力仕事をやってた人。財産は常に部下に分配し、家財はほとんどなかったそうな。 寡をもって衆を破る戦いが得意で朱温から「お前こそ我が虎候だ」と賞賛された。朱温が蔡州に入って略奪を許すと自分ひとり人民救済に奔走、 ?、潼関でも同じことをやった心根の清い人でもある。通称は「略地千里(攻めれば千里を取る)」。・・・ってほどには領土拡大できてないわけだが、 敵に当たれば向かうところ敵なし。大いに東方の軍を挫いて朱温から「排陣斬听(斬りまくって陣を陥とす)」の称号を授かる。官は宿州刺史、検校右僕射。 時溥が大挙して宿州を侵すと勇躍善戦、精兵を率いて大いに敵を破るものの、流れ矢に当たって落命。謚がないのはどーゆうことだ!! これだけだとあんまり智将ってイメージないけど、寡兵で勝ち続けたのはやはり知略に優れたから。虚報を巧みに使って自分の有利な戦況を事前に作り上げて から戦う、後漢の耿?タイプの名将だった、と思う。 あと、朱温は10傑入り確定だよね。実質五代初期をリードした名将・・・つーか姦雄だから。後半生は李存勗の引き立て役でアレだが。 と、なると。 【後梁】 朱温 王彦章 【晋→後唐】 李存勗 周徳威 郭崇韜 【後晋】 該当者なし 【後漢】 郭威 【後周】 柴栄 趙匡胤 【候補(枠2名)】 【後梁】 郭言 楊師厚 劉? 【晋→後漢】 康延孝 符存審 任圜 とりあえず五代からはこんなもんかと。次は十国いきます。でも枠二つだから、あんまり大勢出してもなって思うけど。 762 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 19 05 26 D+9zxHsQ0 【呉】 李神福・・・呉軍初期の元老格。はじめ高駢麾下の都統。その後官軍を抜けて無頼漢・楊行密のもとへ。地形を利用しての戦いが得意で群盗に恐れられた。累功により 都指揮使。大順年間、蔡・淮の兵をかき集めた孫儒を夜襲で撃破、その後も康雎を降し安景思を敗走させた。景福初年、劉威とともに孫儒と再戦、呉軍に 十倍する孫儒軍の糧道を断って大勝利。その後、後梁の後ろ盾を得た杜洪が荊南の馬殷・雷彦威とともに攻め寄せると動きの鈍い大船団に少数精鋭で対応、 火攻めをもって君山で勝利した。太祖相手に田?は必ず叛くから殺しなさいと勧めたが容れられず、結果田?は叛いた。民衆は李公の預言が当たったとそ の洞察力を称えた。その平定に参加、田?の水軍大将、王壇・汪建を逆撃して倒した(のは台濛)。王壇らが敗れたと知るや田?は水軍を率いて逃げよう としたが、李神福が遣わした台濛によって敗死に追い込まれる。累功により寧国軍節度使。顎州攻めにも参加、現地で陣没。 台濛・・・字は頂雲。太祖の廬州挙兵に従い、広陵攻略に活躍。驍勇善戦、順調に出世して泗州防御使となる。龍紀初年(唐の昭宗期)、董昌の乱が起きるや朝廷は鎮海 節度使・銭鏐を派遣、これに対して呉軍は反政府側勢力として董昌を後援、台濛が派遣された。銭鏐を牽制して帰国すると漣水節度使に昇進、田?が蜂起する と李神福麾下の将として反乱鎮圧に参与、別隊の指揮官となる。田?は台濛いたる、の報に将軍郭行?および王壇、汪建に水軍二万を授けて蕪湖で迎撃させた が、わずか二千の台濛軍に打ち破られる。台濛は逃走する田?軍を伏兵で縦横に切り裂き、黄池の戦いで大敗せしめた。宣州に軍を還すと田?は宣州城を囲み、 台濛に戦いを挑んだが台濛は余力のないふりをして田?を奢らせ、油断したところを一撃で粉砕した。台濛の用兵の真骨頂は自らを弱兵と見せかけて驕慢にな った敵を撃つところにあり、その手で幾多の猛者を屠って敗北を知らなかった。天佑元年、卒。 周本・・・周瑜の末裔。家は貧しいが膂力があり、素手で虎を殺せた。勇力をもって宣州節度使趙鍠に仕える。「勇は軍中に冠たり」と称される。趙鍠が楊行密と戦って 敗れると呉に降り、許されて牙将となる。「戦ごとに奮躍し常に士卒に先んじて堅城を上り、矢石の険を犯して矛を振り回して完膚なきまで」敵を打ち破った。 天佑六年、楚の撫州刺史危全諷が諸州の兵十万人を率いて洪州に来寇、象牙潭に駐屯して高安を囲むとこれを討伐に向かう。が、大敗、しかしまもなく七千の 精兵を率いて再び出征、知略をもって楚軍を破り、象牙潭まで退いた楚軍を追撃してさらに大破、全諷を擒らえる。功により信州刺史。数年後、?・呉越・楚 の同盟軍二万が信州を侵すと数百の手勢だけで逆撃、空城の計+伏兵(弓兵隊)で敵軍を撃滅した。唐の荘宗が入洛すると高祖はそれを祝って司農卿・廬蘋を 遣わし、廬蘋は「後唐の名将に比肩する呉の名将」として周本の名前を挙げた。その栄誉により雄武軍統軍、徳勝軍節度使、さらに安西大将軍、大尉、中書令、 西平王を授かる。周本は書を知らず学問がなく、しかしそれゆえに儒士を尊重し、かれらを幕僚に招いた。朴訥な彼は士卒・民衆を愛して善政を敷き、人々も 彼を敬愛した。のち臨川王に改封。没年は不明、享年77歳。謚は恭烈。 ・・・高祖時代の人ばっか。周本は一応紹介済みだしね。それでも読み直すのにえらい時間かかった。 南唐は 757に任せていいんかな? いいよね。いいということにしよう。そんじゃ次は前蜀やります。 763 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 20 19 02 KuT70nJ30 う~む。 まともに読めないのに、南唐を任されてしまった。 まずピックアップ。 孟堅 もと?の裨将。?国内で後継争いから乱があり、南唐がそれに介入してきた。 孟堅は南唐の将・査文徽に降った。 査文徽は降将の孟堅に兵を与え、?国の平定に使った。 孟堅は自在に兵を操り敵を連破し、出撃すれば必ず功績をたてたという。 ?国の平定間際で、呉越王・銭弘佐の軍が近づいていることを知った孟堅は、司令官に戦略を進言するも、聞き入れられず呉越軍と戦い戦死した。それは結局、銭弘佐に名を成さしめる結果となった。 張彦卿 江北楚州の防御使。 後周世宗の南征が、皇帝自ら先頭に立って連戦するという快進撃ぶりだったので、各地の刺史クラスのものは降伏するか逃げ出すかだった。 劉仁贍も病のため死んでしまい、抵抗する南唐の将帥はもはやいなかった。 しかし張彦卿は楚州に迫る後周軍本隊に対し、わずか千人で防衛戦を展開した。 士気上がる後周最精鋭を相手に、40日間足止めした。 しかし南唐では、その足止めさえも効果的に戦略に組み込むこともできないほど、ぼろぼろにされていた。 窮鼠の例で、名将というほどではないだろうけど、団練使あるいは節度使クラスにこの男がいたら、どうなっていたかと想像させる。 陸孟俊 惜しいことに伝はない。 後周の南征のとき、後周と連動した呉越の銭弘俶を1万で撃破し、そのまま長江を縦断して揚州に攻めた。 揚州には後周の騎将・韓令坤が詰めていたが、これを圧倒した。 しかし、合撃態勢をとって六合に攻めた斉王・李景達が趙匡胤のために殲滅されると、韓令坤部隊は勢いを盛り返したので、陸孟俊は結局敗北した。 このとき、趙匡胤の有名な逸話で、「揚州の味方がこの六合を通ろうとしたら、その足を折れ!」と厳命し、前門の狼・後門の虎状態になった韓令坤は、狼のほうがマシということで、前面の敵を破ったという。 結果、功績として劉仁贍以外は、候補に留めおくくらいの武将しかいない。 というのも、歴史は統一に向かっているし、一人の将が長く兵権を持つことができないような時代となっていく過程だから。 764 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 20 57 52 D+9zxHsQ0 【前蜀】 張武・・・身長七尺(当時の一尺って30センチだっけ?)、紫がかった黒い顔という異相の巨漢。勇敢であり用兵を善くし、荊南の軍を?州で大敗させ た。武勲により鎮江節度使、のち峽路応援招討使。荊南の武信王は常に三峽を欲していたが、張武の威名をおそれ敢えて近付くことがなかった。 唐の兵が?(地名?)に入ると武信王は混乱に乗じ、水軍をもって峡州の施州に入った。張武はあらかじめ河中に鉄杭を突き立て、江中に柵を 立てて「鎖峡上がるべからず」と豪語した。武信王は勇士を募り河中の鉄杭を斬らせようとしたが、たまたま台風が吹いたために荊南軍の舟は 進退窮まった。そこに張武が矢を射掛けたので荊南の兵はたまらず逃げ帰った。八十余歳になるまで前蜀の軍を統帥した元老。 こんくらい。前蜀は文化人は多いけど名将って言ったらこの人ぐらい。この人ですら「名将」のレベルではないけどね。論に「古の名将の風あり」と書かれ てはいるけども。あとは漆黒の衣装を着た「鬼兵」を率いた徐瑤ぐらいだけど、この人は格闘の達人、って他には占領した土地で略奪暴行を働いた、という 不名誉な記述しかない。この国一番の武将はやっぱ国主・太祖王建だな。 後蜀は 726、 南漢は 750に一行ずつだけど紹介しただろ、で、?と北漢(楊業は北宋)には名将不在、南唐は 763に出してもらったから・・・あと何処があるっけ? 765 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 22 20 36 KuT70nJ30 呉越を忘れてるかな。 銭弘佐 呉越王。 わずか14歳で王位を継ぎ、奸臣を粛清して綱紀を改めたのち、?の遺臣の嘆願を受け 南唐と福州を巡って抗争。 南唐軍を大破し、南唐将・楊業および蔡遇を擒え、軍事不振に陥ちいらせた。 ほどなく病死していまう。 顧全武 董昌、楊行密との戦いで一進一退を繰り広げた。台濛、周本を破り蘇州を落としたりと、向かうところ敵なしとか書かれている。 北漢 張元徽 後周太祖の死に乗じて、後周への侵攻作戦の先鋒を務める。 伏兵をもって後周軍を撃破し、澤州にまで侵入を果す。 柴栄が親征してくると、北漢軍の左翼主力を率い、後周軍の右翼軍を撃破し中軍に迫る猛撃ぶりを見せた。 この時点で、後周軍は必敗と思われた。 しかし柴栄の陣頭指揮によって、盛り返した後周軍と乱戦に陥り、落馬したところを討たれた。 相手が悪かったと言うべきか。 どうも、みなさん柴栄の引き立て役みたいで申し訳ないところねw 楚や湖南ってどうだろ? ピンとこないな。 荊南にいたっては、孫光憲あたりがいるけど、宰相だし… ここは真田昌幸ばりの高従誨を出すか? 766 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 02 14 D+9zxHsQ0 【楚】 李瓊・・・「驍勇にして胆略あり、一代に冠絶す」といわれた名将。光化元年、姚彦章の推荐で大将となり、衝州の楊師遠を斬って功があった。同年、 永州を囲む唐世旻を敗死させる。明くる年、?州の守将陳彦謙を殺し、さらに進行して連州の魯景仁を自殺に追い込み、一年にして連・邵・ ?・衡・永の六州を平定、馬殷を大いに喜ばせる。劉士政が桂州に逃げ込むと陳可潘・王建武らが武装して楚軍に抵抗、李瓊は秦彦暉とと もに七千人を率いてこれを攻めた。可潘らは交戦にあたって民から兵糧や牛を略奪、これに怒った民衆は李瓊に秦城にいたる西南の小道を 教示した。李瓊は騎・歩三百を率いて秦城に夜襲をかけ、王建武を擒え可潘を斬った。泰州に逃げ込んだ劉士政はここまで追撃されて降伏、 桂・宜・巖・柳・象の五州平定。馬殷はこの活躍を嘉し、李瓊を桂州刺史・静江軍節度使・同平章事に任じた。天佑二年、没。 お茶の国にも建国期にはこんなんがいた。これくらいで、五代十国の武将は出揃ったかな。あとはこれをどう詰めるか、だが。 767 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 28 15 kcVgRo/h0 これはひどい自演ですね いや、マジで 768 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 30 32 D+9zxHsQ0 北漢にもいたね、そんな人。すっかり見落とし。小前氏の「飛竜伝」で柴栄ピンチ!!のくだり最近読んだばっかなのに・・・。やっぱボケてるようだ、俺のブレインは。 769 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 33 03 KuT70nJ30 なんか『十国春秋』って、「驍勇にして胆略あり」に類した表現多いですよね。 それだけ、武人・軍事マンセーな時代だったのだろうけど… 大筋は 761で行くとして、たぶん確定は 【後梁】 朱温 王彦章 【晋→後唐】 李存勗 周徳威 郭崇韜 【後晋】 該当者なし 【後漢】 郭威 【後周】 柴栄 趙匡胤 以上。 10名枠だと、あと二人入る余地があるのか… 以下候補。 【後梁】 郭言 楊師厚 劉? 【晋→後唐】 康延孝 符存審 任圜 【呉】 李神福 台濛 周本 【南唐】 孟堅 張彦卿 陸孟俊 劉仁贍 【前蜀】 張武 【後蜀】 726 王環 趙季良 【南漢】 750 蘇章 潘崇徹 【呉越】 銭弘佐 顧全武 【北漢】 張元徽 【楚】 李瓊 770 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 37 55 KuT70nJ30 …なんか自演扱いされましたねぇ。 それだけ知名度のない時代だからしょうがないか。 実際には、ここまで書けるとは思ってませんでしたよ。 後漢初期のように、一瞬で通り過ぎるくらいを覚悟してましたから。 もしかして、ネットで知っている人だったりして。 771 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 42 41 D+9zxHsQ0 今日は諸兄の集まりが悪いなぁ。やっぱ十国であまりにも文量割いたから呆れられたのだろうか。 そろそろ戻ってきて欲しいな。あいつを入れろ、いやこいつだ、ってのが醍醐味の一つだし。 772 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 03 54 q8NYi5o10 空気読めないおっさんがいるからでしょ 773 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 07 17 Ub1cuTzO0 772 空気読めないオッサン・・・ってやっぱ俺だよなぁ。 悪い、すまんかった。だからみんな帰ってきて~(切実)。 774 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 51 51 1Jm1WEbW0 というか、ここは皇帝もOKなんだから 王建や楊行密でいいんじゃね? 775 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 59 53 Ub1cuTzO0 774 別に国王・皇帝でもOK。ただ、二十六史外の名将を紹介したかっただけだし。 それにしてもありがとう、ここんとこのレスは二人でパスしあってるだけだったから、 戻ってきてくれただけですごく嬉しいよ。皆から見捨てられたかも、とか思ったし。 776 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 01 33 27 Ub1cuTzO0 確定八人、残り二枠については保留、ってことで(20人以上、国主含めると更に多い中から二人に絞るのもちゃっちゃとは行かんだろうし)宋代行く? 叩き台はすでに出来てるんだが。 【宋金遼時代】 曹彬 楊業 耶律休哥 狄青 岳飛 アクダ ウジュ 完顔陳和尚 孟? バヤン 入れ替え候補として北宋では呼延賛、范仲淹、張叔夜あたり、南宋では宗沢(抗金の名将は岳飛が象徴的存在だから、宗沢を外したのはつらいが妥当だと思う) と虞允文くらい?中国国内で活躍したモンゴル武将としてはトゥルイ、スブタイのどっちかがバヤンに代わって入るかも(バヤンは元の武将だし)。あとは どいつもこいつも小粒な感があるな、岳飛や孟?の存在が大きすぎるから。抗金の名将で岳飛以上の活躍をした武将はいないし、モンゴルの南進を一人で阻ん だ孟?に比べると同時代の武将たちは影が薄くなる。魅力的な武将は多いんだけどなぁ。あ、ちなみに「魅力的な武将」に張世傑は含まれないのであしからず。 後漢、魏晋十六国、南北朝、隋唐、五代に続いて叩き台六連発。できれば今んトコ十国を討論して欲しいが。 777 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 01 44 36 q8NYi5o10 俺はこの時代知らんから口出しは出来ないが、 「考慮する武将は、中国式の王朝名・元号を用いて、 所謂中国本土に存在した政権に所属する武将とする。」 これだけは守ってくれよ。 あとID Ub1cuTzO0、せめてもっと見やすく改行してくれ 778 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 01 53 36 Ub1cuTzO0 777 OK、トゥルイ、スブタイは没ね。 で、俺のPCではちょうどいい塩梅なんだが、 どのくらいで改行すれば見やすいんだ? こうやって句読点ごとに区切るとか? 779 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 02 04 1Jm1WEbW0 岳飛と宗沢が一緒に入れられないなら宗沢じゃない? 岳飛の時代の対金戦線は韓世忠や張俊も居るわけで むしろこいつら相手にやりあった完顔宗弼テラツヨスって感じなんだが 780 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 07 58 Ub1cuTzO0 じゃあ、バヤンを元代に下げて宗沢を岳飛の前に置くか。 あと、完顔宗弼はアジュ(女真名)のことだから入れてるよ。 できればオリブも入れたかったけど。 781 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 16 08 Ub1cuTzO0 780 間違えた。アジュじゃなくてウジュね。 ちなみにオリブの漢名は完顔宗望。まぁ、どーでもいいか。 782 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 16 53 1Jm1WEbW0 知ってるがな>完顔宗弼はアジュ 俺は完願姓のほうが好きなんだよ 783 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 21 14 1Jm1WEbW0 つーか“中国”名将なんだから漢字名で後ろにその民族での名前にしたほうが見栄えはよかろう これから先、漢民族以外の武将も結構出るだろうし 完顔宗弼(兀朮) 伯顔(バヤン) みたいにね 784 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 23 31 Ub1cuTzO0 782 すまん、余計な差し出口だったな。 しかし、宋代に入ったら結構なレス来るなぁ。 十国から必死で名将探してた時とは大違いだよ。 785 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 04 10 18 czs+sA3F0 オナニー激しいし、勝手に枠を組替えてるしグダグダだな。 786 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 05 06 41 ehql7Mp20 782 ウジュじゃなかったか? 音写してるだけだからアジュと読めたりするのかな どうもアジュとくるとウリヤンハタイの息子を想像してしまうな なにげにスレのレベルあがってるなぁ 五代十国は詳しくないから参考になるわ 787 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 10 02 59 PuWbOJXI0 はや。 もう南宋いってるし。 まぁ、北宋には「名将」なんてものは皇帝以外に存在してはいけない王朝だから、妥当だろうが。 名臣なら、コレまでの王朝以上にわんさかいるけど。 五代十国が終わってしまったので、出番も終わったな。 オナニーやグダグダにならないよう、 785がきっちりと手綱を握れることを、ROMりながら見ているよ。 788 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 10 09 09 X3p/NssBO 753 神話的人物もいるけど、単純に神話と一括りにしては誤解があるから、上古とか古代の方が良いだろうね。 786 知名度が無いから、知識のある奴が語ってるだけじゃね。 789 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 11 53 52 1Jm1WEbW0 786 コピペしたから 780のまんまなだけ 790 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 13 02 31 RShMVg6LO 質問なんですが 岳飛の戦術的能力って実際より割り増しな状態で認知されているって本当ですか? 自分は普通に凄いと思うのですが・・・ 791 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 13 08 46 PuWbOJXI0 790 自分もそう思う。 割り増しの話は初耳だけど、神格化されているのは確かな事実でしょうね。 列伝自体は、読むとその戦勝ぶりに圧倒されます。 某SF作家がヨイショしまくっているので、その反動で過少に見たがる輩がいただけでは? 792 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 15 08 59 LLw4oGBn0 791 岳飛は確かにすごいけど、金史とかも読んで比較したほうがいいと思う もっとも自分も漢文をちゃんと読めるわけじゃないのであまり偉そうな ことは言えないが 金の完顔宗翰(粘没喝) 左副元帥として右副元帥の宗望とともに北宋を滅ぼす 初期の南宋侵攻の総司令官 本当は宗望のほうが良かったかもしれないが、遼・北宋・南宋と 戦った当時の金軍の代表ということで 793 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 15 31 58 JKwgF/bUO 777 つまり1271年以降(で1368年迄)のモンゴル帝国本国のみだな ってこの時代、100年も無いぞ 794 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 15 51 55 RShMVg6LO 早速のレス感謝、感謝です。 神格化されてるのは考慮して意見を述べたのですが 割り増しな状態で認知されているって言うか、 虚名が実力の何倍かに膨れてるって言われたもので・・・ 本当に得意なのは宋、特に南宋だったりするって御仁の意見もぜひ拝聴したいです。 もし即出ならご勘弁を・・・ 南宋の武将って岳飛ぐらいしか思い浮かばないヘタレな自分・・・ 795 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 16 24 37 IVux9sad0 中国本土を版図に持ってればそれでいいと思うが。 796 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 18 38 02 3Ix63xxn0 778 こちらの環境では、IDの最後辺りで改行入れると見やすいと思います。 797 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 19 35 45 oPTMez7T0 かんせいちゅうは? 798 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 21 39 33 6W7MM8tk0 776 阿骨打は外してもいいんじゃね? 遼を滅ぼす前に死んでるし 阿骨打没1123年 遼滅亡1125年 北宋滅亡1127年 799 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 22 46 29 g/ZSmkFH0 とりあえず金は僕散忠義を推薦。 ところで、五代で一時代枠なんだっけ? あと遼は 777の定義に入るのか?個人的にはかなり微妙な存在だと思うが。 800 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 37 13 ohxJ0+FC0 金から入れるなら、生涯不敗の宗望の方がいいんじゃね? 801 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 38 54 UP8ffTFO0 794 確かに南宋得意って書いたわ、俺。 岳飛は神格化されてる部分もあるけど、実際の武勲と虚構の武勲がそれほどに 違うってことはないと思う。 『岳飛伝』も岳飛の死まではあらかた正史の『宋史』に書かれてるとおり。 (虚構も確かに入り込んでるけど、岳飛の武勲は水増ししなくても十分に物語になるし) ただ、宮崎市定教授によると?城での大勝利は嘘だとか虚報だとか。 そのへん確かめる術を持たんわけだが。 あと、岳飛は酒の席で酔っ払って部下を殴り殺したことがある。 結構短気だったっぽいってのもあわせて、『岳飛伝』の清廉なイメージは少し修正して 読んだほうがいいかも。 802 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 43 53 UP8ffTFO0 連投。 798 しかし阿骨打の強大な統率力なしでは金そのものが成立してないだろ。 阿骨打を抜くのはヌルハチなしでドルゴン語るようなもんだと思うが。 803 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 57 31 PuWbOJXI0 802 金国を語るわけじゃなく、中国名将を語るから、そこは考慮にいれてもらいたい。 804 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 00 03 14 wmBoXmV30 803 ふむぅ。んじゃ、仮に阿骨打を外すとしたら 入れ替えで菩薩太子・宗望(オリブ)かな。生涯不敗ながら短命なんだが。 799 入ると思うよ。本土の本で『宋金遼三国演義』って出てるし。 中華王朝の一つとして現地の人に認知されてたってことじゃない? 805 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 00 50 47 wmBoXmV30 またも連投。 799 僕散忠義よか徒単合喜のほうがよくないか? 宋弼すら倒した呉?を破った男。 まぁ僕散忠義には南宋から講和を引き出した功績があるけど、なんかぱっとしないイメージが。 806 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 00 58 30 CJZ/Ifhh0 804 いや、現地の人の認識でなくて、我々がこのスレで定めた「中国武将の定義」に当てはまるのか?ということです。 当時の人間の認識を問題にしたら、五胡の連中のほとんどが「あんな禽獣ども、俺たちと同じ中国人なわけないだろ!」 とかなってしまうんでないかい? 逆に言えば、 777の定義だとトゥルイやスブタイは入ることになるだろうけど、この二人は当時も今も中国人は「中国 の武将」なんて認識は無いのでは? 807 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 07 58 0tvJC2KbO 遼は領土が微妙じゃね まあ燕が領土内ならギリギリOKだと思うが まああと「契丹」は中華的な国号なのか気になる 駄目なら遼の範囲は947~983、1066~1125ということになるな 806 777の定義を「中華地域の領土を持ち、その歴史を通して中華風の元号と国号を使った歴史がある政権に所属している」と読むか、 「中華地域の領土を持ち、中華風の元号と国号を使っている政権に所属している」と読むかで話は変わる 前者ならスブタイは有り、後者なら無しだ 808 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 12 23 wmBoXmV30 806 個人的には「中国本土に領土があって中国国内で活躍した武将」 が=「中国の武将」でいいと思うけど、どーだろね? 我々としては当時活躍した武将を楽しく選出できればいいと思うんだけど。 当時の人々の思惑はさておいて。 トゥルイやスブタイは入るかなぁ? 777の定義だとそれは違う気もするが、 入れていいならスブタイを入れたい。明らかに「俺は蒙古の将だ」って思ってたにしても。 ところで耶律休哥以外に遼の名将っている? 一度楊業にやられかけたとはいえ、あれほどの人傑はそういないと思うが。 809 名前:807 投稿日:2006/12/23(土) 01 19 15 0tvJC2KbO 我ながら言葉使いが変だな その政権の歴史の中で中華風の元号と国号を使った事例がある に変更 まあ777は後者のつもりで言ってると思うが 810 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 39 34 wmBoXmV30 794 韓世忠・・黄天蕩の英雄だが部下の呼延通が拝礼しなかったことに怒り、シカト。案外心が狭い。 張俊・・・所詮は夜盗あがり。岳飛忙殺の一翼を担った外道。 呉?・・・宗弼を和尚原で破ったのが黄金時代。その後はただの酔っ払い。 呉?・・・兄貴の副将で補佐役。岳飛死後四川に引き篭もり。 劉錡・・・戦略的撤退を敵前逃亡と看做されて激怒、そのまま病死。 虞允文・・久しぶりの一発屋。でも権力の中枢にいたから長生きすればもっと活躍したかも。 李顕忠&楊存中・・数千から一万での局地戦では修羅の強さだが、名将と呼ぶには不足か。 ・・・以上、遅くなったけど南宋初期の名将ピックアップ。 他にも王彦とか魏勝とか李宝とかいるけどとりとめがなくなるんでこんくらいで。 811 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 49 43 wmBoXmV30 810は 801の続きね。 宗沢入れ忘れたけどまぁ、この人は「黄河を渡れ!!」の名台詞で説明終了。 812 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 02 55 38 4KpaQjTH0 808 耶律休哥以外の遼の名将というと耶律斜軫ぐらいしか知らないが・・・ 高梁河で休哥と共に宋太宗の親征軍を破り、 宋が再び大軍を北上させたときは山西方面の指揮をとって宋軍を撃破し 楊業を捕らえた 813 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 09 11 13 omAv98Yd0 耶律休哥って、髪が白髪になる人か。 でも楊業に及ばぬ自分を感じていたっていう格下の武将だし、 これは外してOKでしょ。 惜しかったね努力賞ってイメージが救えねぇw まぁ、楊業は五代末~北宋期最強の名将だから仕方ないとも言えるけど。 814 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 20 18 51 perZ8+ssO ここらへんの時代はあんまり詳しくないけど楊業って実際そんなに凄いの? 北方小説で過大評価されてるような気がするんだけど 815 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 20 36 10 ooQwvYVw0 北方小説で過小評価されてるきらいはある>耶律休哥の方 どう考えても北宋初期最高の名将なのに、楊業の引き立て役かぁ…。 内政担当の耶律隆運と並んで聖宗期の両輪を為した人が…。 816 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 21 34 01 c2L/HJVV0 耶律休哥と耶律斜軫は普通に名将だろうよ てーか曹彬が入るなら休哥は入るだろう 817 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 23 34 29 7b9vUZzqO 801 南宋が得意な御仁よりの回答、痛み入ります。 やっぱり詳しいですな。 凄いですよ、その知識!! 818 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 00 20 26 LjEVuFai0 816 耶律休哥を外すという主張は、名将かどうか、曹彬と比べてどうかという話ではなくて、 遼という王朝の扱いの問題でしょう。 819 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 00 29 13 fXLV+qUg0 818 そうだけど、厳然たる中国内地での戦いで、宋太宗を身一つで遁走させるほどの勝利をもたらした男を、名将でないとするか? 燕雲十六州は中国の土地という認識があり、そこを取り戻すのが初期と後期の国是となったわけで、遼全体ではなく、北宋の侵攻軍と戦い勝利したなら入れても問題ないでしょう。 ま、その辺にとどめ置くべきでしょうね。 新興の女真とか、遡るがウイグルや渤海と戦って勝利した将軍などは考慮しないということで。 820 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 01 25 47 LjEVuFai0 819 話、わかってる? 耶律休哥が名将でない、なんて誰も言ってませんよ。耶律休哥は「中国の武将」扱いができるかどうか、 と言っているのです。 818に対する、何の反論にもなっていません。 >燕雲十六州は中国の土地という認識があり、そこを取り戻すのが初期と後期の国是となったわけで この理屈で言うのなら、例えば20世紀に中国の一部を支配していた日本の軍人は「中国の武将」とみなせる のですか? 燕雲十六州は確かに関内の土地だが、当時の中国からすれば北辺の彊土。それくらいを占領しただけで 中国政権になるのなら、南詔や西夏だって中国政権になります。台湾を支配した日本も。 821 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 06 29 39 wpuDOooE0 808,813 耶律休哥が楊業に負けたのっていつの戦い? 822 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 08 33 09 iPZXmf/E0 767 俺はいいとして770の名誉のために言っておくと、自演ではないよ。 まぁ、確かに二人だけで時間とスペース割いたのは悪かったけど。 なんつーか、田中某氏の「五代十国には名将が少ない」ってのを覆したかったんだよ。 とりあえず、自己満足でみんなを白けさせたことについては謝っとく。すまんかった。 ちなみに空気読めないオッサン=南宋が得意な叩き台係の俺だったりする。 誰か気付いてたかも知れんが、言っとかないと居心地悪いんで告白しとくわ。 796 遅くなったけど、改行のタイミング教えてくれてありがとう。助かる。 820 耶律休哥残すべきか他の遼の名将に交代か、の火口を切ったのは俺なわけだが、 それが遼は中華王朝たりえるか、の議論に発展するとは・・・。 個人的な意見としては中原志向を持っていたかどうかで変わると思う。 明らかに中原を狙って南侵してきた金は間違いなく中華王朝として、遼は微妙だな。 燕雲十六州だけで満足してたとしたら中華王朝ではないことになるし、どーだろ。 出来る限り耶律休哥は残す方針でいきたいんだが。 821 808だけど、耶律休哥は生涯負けなしのはず。楊業には追い詰められたけど虎口を脱してるし。 いつのどこの戦いってよく憶えてないなぁ。続資治通鑑読めば出てくるはずだけど、めんどい。 823 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 09 50 50 sDTc3uctO 820 春秋戦国時代にはすでに中華世界に入っていた燕が駄目なら何処ならいいのよ 824 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 10 29 50 fXLV+qUg0 820 日本史が中国の正史として認められるなら、中国として扱われるかもしれんね。 遼史は二十六史のうちのひとつで、過去に中原志向があり、晋あるいは後唐、後晋さらには北宋と、従属国家ならしめたのだが、それを考慮していただきたい。 南詔とか吐蕃、西夏とはわけが違うんですよね。 だが、その中で中国武将として扱うのは、あくまで中国本土で戦った事例のみとしたい。 822 自演に見えるほど、話が合ったってことでしょう。 それはすごく楽しい時間でしたよ。 五代十国の知名度のないところを埋めようとしたのだから、場の空気を問題にださなくてもいいと思うのだけどなぁ。 たしかに、「白けた」というのは悪いと思うから、そこは謝っておきましょう。 825 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 11 16 33 PioT/k3w0 遼までアウトってやりすぎだろ 826 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 11 32 39 FD88rmOM0 近代以降の軍人は含めず 中原志向があり 中国本土を領土+主戦場とした事があり 漢化された文化を持っていた王朝 ・・・とするなら遼は十分入るのでは。 二十六史にも入ってる事だし、アウトは違和感がある モンゴル帝国みたいに扱いに困るエリアの武将がぼろぼろ入る訳でもないだろうし 最大でも3人位だろう 827 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 11 30 00 vo6wlQ4q0 【宋遼金時代】 今のところは 確定・・・曹彬 楊業 狄青 宗沢 岳飛 宗弼(ウジュ) 完顔陳和尚 孟? 候補・・・耶律休哥(遼を入れるのかどうか) 阿骨打(中国の武将なのか?) 宗望(オリブ) その他・・韓世忠・張俊・呉?・呉?・劉錡・虞允文・李顕忠 楊存中・僕散忠義・徒単合喜・宗翰(ネメガ)・耶律斜軫 こんなもんか? 828 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 15 48 04 fnE0CQba0 827 完顔陳和尚は一発屋で、他の戦いでは敗北を喫したりもしているので、 できれば外して欲しい。 こんなの入れるぐらいなら、耶律休哥を入れて欲しい。 あと、宗弼は負けが多すぎるので、名将百選に加えるには微妙な気がする。 創業期の金を代表する武将としては、宗望の方がふさわしい。 829 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 22 34 38 ZvnrKvkh0 完顔陳和尚はたしかに一発屋なんだが、その一発が他ではまずお目にかかれないような 大金星というのが扱いに困る。この百選は一発屋よりは総合的な功績が重視される傾向 があるので、やはり落ちるか? 宗弼が微妙というのには賛成。変わりに入れるなら総合的にいって宗翰を推す。 あと宋のチュウ師道がいないのは何故だ。 830 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 08 04 xqkOF2ld0 827 その他、のところでいいから衰宋期のパワフルおじいちゃん、杜杲と ビッグマウスな釣魚城城主、余?を推薦。孟?という巨星に隠れて地味な扱いだが、 両者それなりに頑張ってる。あと張順、王堅なんかもいるけど、 このふたりはもと孟?の部下だから入れんでいいか。 829 叩き台の段階でチュウ師道を外した理由。チュウの字が漢字変換できなかったから。そんだけ。 831 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 30 58 PYWCrXDb0 830 釣魚城を造らせたのは余?だけど、モンケ侵攻の時の城主は王堅でしょ。 釣魚城城主というのには違和感があるなあ。 832 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 45 10 xqkOF2ld0 モンケって結局病死なんだっけ? どっかで王堅が放った投石器の岩に潰されて死んだって読んだ気がするんだけど記憶違いか。 833 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 51 18 PYWCrXDb0 832 死因については諸説あるが病死というのが一般的。 後継いだフビライがモンケの遺命に背いて釣魚城の軍民全ての生命と財産を保証してるから。 直接殺したら流石にそこまで寛大になれないだろう。 投石器の岩に当たって死んだのは武将の汪徳臣のはず。 降伏勧告中にやられた。 834 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 00 10 57 R8+iyRtD0 833 サンキューありがとう。 モンケじゃなくて汪徳臣か。完全に勘違いしてたわ。 さて、明日はいつもより速いし、そろそろ寝るか。 宋金遼には思い入れ深いんで明日帰ってきたらすでに元時代になってるなんてことがないように祈るよ。 耶律休哥の問題もあるしね。 835 名前:827 投稿日:2006/12/26(火) 03 10 34 DSE9B05z0 828 叩き台に上がっていて今まで議論になっていない人物は 異論なしとみなして確定にいれたけど、自分も完顔陳和尚 は外していいと思う 830 「その他」は単に一度名前のあがった人物をまとめて書いておいた だけで、特に意味はなかった。紛らわしくてすまん 836 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 08 20 43 42YYP3fPO 829 大金星なのは確かだけど、規模が小さいような…… 837 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 10 23 50 JbDctQgM0 常勝ではないにせよ、末期の金で孤軍奮闘した勇将とは言えるだろうけどね。 名将百選に入るほどか、と言われれば・・・ 金を代表させるなら勃興期の名将・宗望や、南征の勇将・宗弼を入れたいね。 838 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 19 10 08 V3+XH6Ij0 宗弼は敗戦が多いから外したほうが、についてだが、 実際そんなに負けてるかってーとそうでもない。和尚原では一度負けてるが翌年獲り返してるし、 岳飛と韓世忠の合同軍を破ったりもしてる。 黄天蕩での敗戦はまぁ言い訳できない負け方だが、ウジュの敗戦は ・相手も超一流の用兵家であって ・得意の騎兵戦に持ち込むことの出来ない状況に持ち込まれた ためにやむなく敗れた、というのが真相であってだらしなく負けてばっかではない。?城の大会戦が実際あったなら金史に記載されないはずはないし、 (黄天蕩や和尚原での敗戦はしっかり書き留められてるんだから、?城の場合だけカットされてるってのは明らかにおかしい) 記述がないということは?城の戦いは実際にはなかったという率が高い。 つまり野戦で騎兵の機動力を存分に使える状況では負けてないことになる。 しかも南宋政府に講和を認めさせ朝貢国たることを認めさせた功績は敗戦のマイナスを補って余りある。 ということで、ウジュは残したほうがいいと思うのだが、どうか。 完顔陳和尚はどーかなぁ。個人的には足を折られても腕を折られても変節しなかった 硬骨漢って感じで好きなんだが、モンゴル軍相手に三連勝とはいえ、どれも局地戦だし百傑入りは難しいか。 代わりに誰入れるかってーと、順当なところで韓世忠かオリブのどっちかだろうな。 自分で推しといてなんだが余?じゃ明らかに役者が不足してるし。 余?+王堅+張カクの釣魚城城主トリオをまとめて一人扱いってんならなんとか他の英雄たちに匹敵できるかもしれんが、駄目だよな? 839 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 20 14 41 xM7WPZ7d0 838 自分で推しといてなんだが余?じゃ明らかに役者が不足してるし。 余?+王堅+張カクの釣魚城城主トリオをまとめて一人扱いってんなら なんとか他の英雄たちに匹敵できるかもしれんが、駄目だよな? 孟?がいればそれでいいと思う。 840 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 20 44 01 V3+XH6Ij0 839 同感。実のところ誰かが「孟?いらないよね」とか言わないかビクビクしてた。 まぁその心配はないとして(実際武功なら岳飛より孟?のほうが上、ってぐらいだしな) 一応10人枠あるから、穴埋めの人材と、あと耶律休哥の問題があるんだった。どーしよ? 841 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 21 14 01 V3+XH6Ij0 現時点での確定組と候補、連投させていただく。 【確定組】 曹彬 楊業 狄青 宗沢 岳飛 孟? 以上、確定6名 【候補】 完顔宗弼(俺の中では確定) 完顔阿骨打(中原では戦ってないし、外すか) 耶律休哥(遼は中華国家でいいよな?) 韓世忠(完顔陳和尚の後釜候補) 完顔宗望(韓世忠に同じく) 杜杲(孟?と活躍時期がかぶったのが不幸。単独で10傑入りは無理があるか?) 余?その他(・・・頑張ってください) 842 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 02 03 40 Yn742Mqk0 五代十国宋遼金で10枠ね。 843 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 02 32 06 7T6YDn+60 841 宗弼は微妙だな。マイナスも大きいがプラスも大きい 宗望は確定でいいと思う あと、完顔陳和尚の後釜には韓世忠の他に完顔宗翰と耶律斜軫を推したい ただし、こいつら3人とも同時代のより優秀な奴とかぶってるんだよな・・・。 844 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 04 36 16 62ylHK9k0 842 うぇ!? 五代十国宋金遼で10人っていくらなんでも無理ですぜ、旦那。 現時点で五代の確定、8名。 そして宋金遼から現時点で6人。宋金遼は当然のようにまだ増えるし。 それをあわせて10人ってどんな奇術使っても無理。 叩き台の段階で五代十国と宋金遼は別々にしてるわけだし、別々でいいだろ、どう考えても。 まぁ清まで終わった段階で100人超すから、各時代の代表をさらに7,8人に絞る必要があるとはいえ、 五代十国と宋金遼を一緒には無理です。隋唐を一緒にするのとはワケが違う。どー考えても無理なんで勘弁してください。 845 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 07 06 04 G3LU4sIo0 なら別に無理に10名出さなくてもいいんじゃないかと。 どうせ後で削るんだから。 異論が多い人物は外してもいいと思う。 846 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 07 35 06 Yn742Mqk0 844 最終的に各時代で均衡が取れるように絞る予定ならいいよ別に。 ただ五代十国なんて50年程度しかないことをお忘れなく。 あと、過去ログに目を通してから参加したほうがいいよw 847 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 10 14 00 5lDL98+e0 846 年数以上に、歴史的転換期であり、政権がめまぐるしく変わったことを忘れずに。 五胡と南北朝をくっつけないのと同じこと。 なんなら、魏晋南北朝とひとくくりにする? 848 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 11 32 35 GWIUbemB0 846 過去ログっつーか、後漢からずっと見てるよ、俺。 でも宋金遼時代は名将多いから削れないだろ。 宗弼、宗望、耶律休哥。この3人入れただけで9人になる。 五代十国の8人もこれ以上は削れない、って人物で固まってるし。 849 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 04 03 XaYK9d7o0 1.春秋戦国 2.前漢 3.後漢 4.魏晋十六国 5.南北朝 6.隋唐 7.五代十国 8.北宋・南宋 9.元朝 10.明朝 11.清朝 全部でこの11王朝だから、一朝毎に7.8人まで削る必要ないな。 一朝から9人で99人になる。あえて五代と宋をひっつける必要はないだろ。 最後の一人はどっかの時代で確定ではない候補の人物を入れるってことで。 850 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 33 27 +BkRsUoPO 五代だけやけに短くない? 851 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 44 27 X4iTQwFd0 850 同意 たかだか五十年の五代に一枠を与える事は過分以外の何物でもない。 852 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 57 03 Cw0UK+Ao0 人間の能力って特定の時代に偏ることはないと思うんだよね。 有力候補がなかった周の東遷以前を省いて辛亥革命までの2681年を百等分したって 五代で2人、ちょっと調整して割増しても3人くらいの枠にしか相当しない。 853 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 05 55 Y6NaSUK20 そんじゃあ 【五代】 李存勗 郭威 柴栄 趙匡胤 【宋朝】 曹彬 耶律休哥 狄青 宗沢 完顔宗弼 孟? 以上10名って感じか? 両朝ともやけに人材層薄くなるが。 854 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 24 08 Y6NaSUK20 ↑よっか五代から3~5名出して両宋からは一枠10名(9名でもよし) にしたほうがいい気がする。なんといっても宋は300年王朝だし、 時間ごとにまんべんなく名将が出てくるならそんだけで名将輩出率が高い。 異民族の名将も差別なく入れたいしな。 855 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 26 27 X4iTQwFd0 改めて新しい枠の規定を提案したいんだが… 春秋戦国(秦含む) 前漢(楚漢戦争含む) 後漢(新や魏・蜀・呉以外の後漢末群雄含む) 南北朝(晋統一~隋統一) 隋唐(隋末群雄も勿論含む) 宋(五代から元の統一まで) 元(元成立後の明成立までに活躍した元末群雄含む) 明(例によって明末群雄も含む) 清(まんま、清代に活躍した人々) 異民族枠(漢化されたとおぼしき異民族は含まれない、 純粋な異民族と思われる、 ある程度中国史に影響を与えた人物のみここに含まれる) 856 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 28 42 X4iTQwFd0 元の解説の冒頭部分(元成立後の)は無視してくれ。 857 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 40 46 X4iTQwFd0 すまん、後漢と南北朝の所で大きく矛盾していたことに気付いた。 これでは、魏・蜀・呉は何処にも含まれない事になる。 で、改めて後漢枠を(新成立~晋統一まで[魏・蜀・呉も含む])に変更したい 858 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 41 49 7T6YDn+60 五代・北宋・遼と金・元・南宋に分けるのがいいんじゃね? 宋は全部で300年あるから、それとくっつけられるとどうしても不利になる というわけで 【五代・北宋・遼】 朱温 李存勗 郭威 柴栄 趙匡胤 曹彬 楊業 狄青 耶律休哥 以上9名 【金・元・南宋】 完顔宗望 完顔宗弼 アジュ バヤン ココ・テムル 宗沢 岳飛 孟? 以上8名 これでどうか? 個々の人物が適当かは改めて議論するとして 859 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 44 03 Y6NaSUK20 852 人間の能力って特定の時代に偏ることはないと思う、についてだが、 動乱期には平時とは比較にならないぐらい将才・知略に長けた人物が湧き出るもんだと思う。 (平時には将才があっても確かめる術がないから) 855 異民族枠にはモンゴル初期の将帥(トゥルイ、スブタイなど)も入るの? スブタイは完顔陳和尚を倒して金を絶望のどん底に叩き込んだから、そこそこ歴史に影響してると思うが。 860 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 48 02 X4iTQwFd0 859 俺の主観では、モンゴル帝国関係は、 元成立以前の蒙古人なら全て異民族枠に入る。 後金のヌルハチやホンタイジもまた然り。 861 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 54 22 X4iTQwFd0 859 すまん、質問の意図を少し履き違えていた。 トゥルイとスブタイに関してだが・・・ ぶっちゃけ元は元末動乱期ぐらいしか詳しくないので、何とも答えられん。 しかし、先述したヌルハチやホンタイジぐらいの影響力があれば充分この枠に入る。 862 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 02 25 Y6NaSUK20 858 概ね同意だが元の将は元時代で別にしていいんじゃなかろうか。 一緒にするとなんとなく分かりづらいというか、元は独立させて 史天沢 忽必烈(フビライ) 兀良合台(ウリャンハタイ) 阿朮(アジュ) 伯顔(バヤン) 劉整 李庭芝 張弘範 脱脱(トクト) 拡廓帖木児(ココテムル) ぐらいがよくないか? ちなみに李庭芝は南宋最後の砦ってことで入れた。呂文煥でもいいけど。 863 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 10 59 rkWscUeh0 858 隋唐は300年以上、しかも世界帝国として対外的に膨張していた時代にもかかわらず きっちり10人枠で収めたんだから、とりあえず今は我慢しようや 五代~宋は文化的には飛躍していた時代であっても、軍事的には常に劣勢であったことを 考えれば、10人枠内に入るヤツラは、自然と決まってくると思うんだが ちょっと過大評価しすぎでないかい? 855 新~晋統一までか、一番枠組みが変わるところだな 南北朝時代だけだと、非常に狭い意味合いしかない言葉になるので「両晋南北朝」と 呼称したほうが分かりやすいと思う 864 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 22 19 /wJgecFi0 859 確かめる術がないだけであって能力自体が跳ね上がるわけじゃないだろ? 各時代でバランスがとれた配分にまとめることがこのスレの住人の腕の見せ所なわけだ。 865 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 14 24 30 X4iTQwFd0 863 うん、確かに。 それじゃ、南北朝は両晋南北朝に変更という事で。 866 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 49 32 Y6NaSUK20 両晋~南北朝だと 祖逖 桓温 慕容垂 劉曜 石勒 劉祐 韋叡 拓跋珪 斛律光 于謹 楊素 こんなもんか? すげぇキツキツだが。 867 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 51 22 Y6NaSUK20 いかん、11人挙げてるわ。とりあえず劉曜を抜くってことで。 868 名前:858 投稿日:2006/12/27(水) 14 57 26 7T6YDn+60 863 統一秦~前漢 約230年 新・後漢 約210年 魏晋~五胡十六国 約220年 南北朝 約200年 隋唐 約330年 どちらかというと、隋唐が例外的に長いと思う もし五代・宋・遼・金にすると他の時代の倍近い約370年になってしまう 俺としては時代を短めに区分して沢山名前があがったほうが面白くていいんだが 869 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 59 16 uGKfilRi0 五代十国の混乱は中原に限っては半世紀あまりで終わったが、 北宋は統一王朝でも覇権国家でも何でもないと思う。 中原の大半を支配してるだけの史上最も栄えた南朝。 その比類ない文化と思想的、言論的、制度的先進性が過大評価を生んでるだけ。 実際の東アジアの本流の覇権は遼と金が握っていた。 870 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 15 00 54 uGKfilRi0 1:春秋戦国時代(前770~前221) 2:秦漢時代(前221~220) 3:魏晋南北朝時代(184~589) 4:隋唐時代(581~907) 5:五代十国二宋遼金時代(907~1279) 6:元代(1271~1368) 7:明代(1368~1644) 8:清代(1636~1912) 871 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 16 41 09 5lDL98+e0 言うのも野暮かと思っていたが、魏晋南北朝期の門閥主義と、最下層の農民でさえ手柄を立てれば栄達できるチャンスが多かった唐末五代とでは、「人」の層が断然に違うということ。 玉石混交ではあっても、能力のある人間が世に出る機会が多いのであって、その厚みは他の時代とはずいぶん違う。 それだけ優秀な人材が出るということにもなる。 それでも、その武人主導の期間が短かったのは、中国王朝では異常事態だったから。 872 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 17 33 34 rkWscUeh0 871 中国史上、唯一の奴隷出身者の皇帝がいる時代が、門閥主義最盛期の魏晋南北朝期なわけだが すごい奴が出るのに、身分の壁なんて実際は何の縛りにもなっていないのが中国史の醍醐味でしょ? それを実際世に示したのが、他ならぬ市民階級出身の高祖劉邦なんだし 873 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 17 40 21 +BkRsUoPO 南北朝期の皇帝も軍人出身者ばかりだしね 874 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 18 54 01 5lDL98+e0 872 身分の壁なんて実際は何の縛りにもなっていないのが だからその壁がなくなるのが乱の時代であって、壁を作るのが治の時代なわけですよ。 五胡や五代などの戦乱期は、あるいは戦国時代もそうだけど、こういう時代は特に名将といった類の人間が立身しやすいので、多く出る。 つまり、方々に同じような実力を持ったものが出て、平均化して見えてしまうわけですよ。小粒に見えるのはその辺が影響しているんじゃないですか? 873 軍人でも門閥主義からは、そう遠くないですよ。 875 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 19 09 10 5lDL98+e0 と、言ってみたものの、時代区分は 858がそれなりの出していた。 すまない、よく見てなかった。 宋は、北と南で随分違うから、分けるのは妥当。 その王朝の性格も、 869の認識で大筋当たっているわけで、王朝の支配領域が大きい=優秀というわけではない。 しばしば指摘されているけど、この時代はユーラシア規模での活性期に入っているから、そこも考慮してほしい。 それだけ、中華王朝が、以前のようにデカイ顔できない状況だった。 876 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 19 21 23 L003U+Q+0 中華王朝が圧迫されてたのは五代に限った話でもない。 877 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 19 50 51 rkWscUeh0 春秋戦国(紀元前771年~紀元前221年 550年間) 統一秦~前漢(紀元前221年~紀元前8年 213年間) 新・後漢(紀元前8年~紀元220年 228年間) 三国~両晋(220年~439年 219年間) 南北朝(439年~589年 150年間) 隋・唐(589年~907年 318年間) 五代~北宋・遼(907年~1127年 220年間) 南宋・金~元(1127年~1368年 241年間) 明(1368年~1644年 276年間) 清(1636年~1912年 276年間) 今の流れだと、こういう枠組みか? まあ、もともと元代100年ちょっとに10人枠設けていたのが、無理があったのかな 878 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 20 31 23 X4iTQwFd0 乱の時代に英雄が現れ易いというのは、皆さん納得してくれる事と思う。 やはり、ここは乱の時代に別枠を設ける事が妥当な線ではないだろうか? そこで、 春秋 戦国 楚漢戦争 新~後漢統一 後漢末~晋統一 西晋崩壊~隋統一 隋末~唐統一 五代 元末~明統一 明末~清統一 の十大戦乱期を特別枠とし、それぞれの時代から6名づつ人物を選出し、 その他の治の時代は 前漢 後漢 唐 北宋・遼 南宋・金 元 明 清 に区分し、それぞれ5名づつ名将を選出するというのは如何だろうか。 879 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 20 34 48 X4iTQwFd0 ああ、さっきと同じでまた時代区分に矛盾が出た。 後漢末~晋統一 西晋崩壊~隋統一 は 後漢末~西晋 西晋崩壊~隋統一 に変更します、すんません。 880 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 20 40 46 X4iTQwFd0 隋末~唐統一も、 隋~唐統一に変更ね。 西晋も隋も、短すぎて忘れちゃうんだよ。 881 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 25 16 uGKfilRi0 ≪大乱枠≫ 1春秋戦国 2魏晋南北朝 3五代十国 ≪乱世枠≫ 1秦末漢初 2新末後漢初 3隋末唐初 4宋末元初 5元末明初 6明末清初 7清末 ≪治世枠≫ 1漢 2唐 3宋 4元 5明 6清 概ね 878に賛成だが、 春秋戦国、魏晋南北朝、五代十国を重点的に評価したい。 治世の中国は国力次第で何でも出来るのだから。 882 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 50 26 HSzgT7Nb0 個人的に、隋は南北朝に入れていいんじゃないかと思う。 隋末の戦乱期までは入れられないというか唐枠だろうけど。 883 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 55 45 x7kdsMxE0 春秋と戦国は分けてほしいかな 884 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 59 07 4ydpZOqp0 883 春秋と戦国を分けると、五人に一人が春秋戦国の人ということになるが、 それではあまりに偏り過ぎないか? 885 名前:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/12/28(木) 00 09 32 mlOO4O9J0 同じだからバランスが取れるということもあるさ。 886 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 01 00 30 6jrvXozE0 878 881 見かけ上治世でも全く争いがなかったわけじゃないしなぁ 自分が気持ちよくオナニー垂れ流しできないからって振り出しに戻すのもいかがなものか。 三戦とかで、この手のスレがオナニー垂れ長しのためにダメになってるの見てきてるんで落ち着いてほしい。 っていうかお前ら自演だろ? 887 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 01 40 38 4X3fe2D2O 861 トゥルイは金滅亡の最大の功労者 スブタイは……世界史に与えた影響は大きいだろうが、中国史としては微妙かな 862 元の成立が1271年だから、厳密に元の武将の活躍としてカウント出来るのは、その後の南宋戦辺りからになる そう観ると、世代が一つ前の史天沢やウリャンハタイは「元」の「名将」とは見なしにくいのでは? 888 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 01 50 42 a9G7RoU50 調整するなら 877の枠がいいかな 今更複雑に設定するわけにもいかないだろう。 隋と南北朝をくっつけると結構バランスがとれてそう。 戦争が激しかった時代を足して平時と比べてみたけど4:6~半々くらい 結局一定の年数で機械的に枠を振っていっても問題無さそうだ。 889 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 04 02 KPx3WXvZ0 886 X4iTQwFd0ですけど、自演ではないですよ。 スレが荒れるのを危惧する気持ちは分かるけど、 何でもかんでも自演と決め付ける姿勢は改めてもらいたい。 890 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 18 17 TIs7a1Ga0 今更枠組みでウダウダ言うなんて荒らしと変わらん もう一回春秋戦国からやり直せというのか?アホ お前がこのスレ出てけば丸く収まるわい 891 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 34 54 wnF4QzZ10 888 同意。隋唐は長いから隋末、あるいは唐初あたりまでを南北朝にくっつけて あとは 877の枠組みでいい 892 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 38 54 SADQNtyQ0 890のいいたいこと。 俺が多数派の主流で正義。それに異を唱える輩は嵐の自慰厨。 889はアホ。 889は出てけ。 889は自演。 ビューティフルな議論に 889は不要。少数派も傍流もみんな死ね。 893 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 40 11 SADQNtyQ0 俺のIDが凄いな。 SADでDQNかよw 894 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 44 05 KPx3WXvZ0 890 まぁ、確かに 844、 842辺りのレスみて 五代で一枠?アホかと思い、 こりゃ正さなあかんなと思って書き込んだのが始まりで、 そこそこ反応あったからつい調子に乗ってしまったのも事実だ。 分かりましたよ、そこまでいうなら俺は自粛する。 だが、これだけは言わしてくれ、 今まで議論されてきた 神話~春秋戦国 秦・前漢 新~後漢 魏晋~五胡十六国 南北朝 隋唐 五代十国宋遼金 元 明 清 の枠組みで話し合うにしても、 王朝末期に活躍した群雄は前王朝に含まれるのか、 新王朝に含まれるのか、この定義だけでもハッキリしてくれ。 何か、曖昧になってこれまで議論されていた気がする。 895 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 44 35 AwZNOsK/0 正直、隋辺りに俺の語りたい時代だから枠をたくさんよこせってのが出てきてからぶち壊しになってるよ。 平時からも隠れた名将を発掘し、決められた枠内に絞り込んでいく過程が面白かったのに。 896 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 48 52 KPx3WXvZ0 842じゃなくて 849ね 897 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 04 25 38 A41Cy64XO 隋を南北朝とくっつけると今度は南北朝時代の枠がキツくなりそうな気がするんだけど。 タダでさえ南北朝時代は候補が多いのに… 898 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 06 23 52 ecDWMsPY0 877に賛成。南北朝を三国~五胡にくっつけるとあまりに自由度低くなるし、 五代~宋朝は侵略王朝の武将がいろいろいるから南北に分けて考えたほうが望ましい。 隋唐は10人枠で収まる事が実証されてることだし、これでいいと思う。 899 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 09 42 30 n8Nr0VPf0 五代宋金遼を10人枠で収めるなら 李存勗 趙匡胤 曹彬 楊業 耶律休哥 狄青 宗沢 岳飛 完顔宗望 孟? でなんとか収まらんことはないな。 両宋を分けて元まで入れるなら 【五代・北宋】 朱温 李存勗 柴栄 趙匡胤 曹彬 楊業 耶律休哥 范仲淹 狄青 チュウ師道 【南宋・金・元】 宗沢 岳飛 完顔宗望(オリブ) 完顔宗弼(ウジュ) 孟? 李庭芝 忽必烈(フビライ) 伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ) 張弘範 あたりが妥当だと思う。「賽存孝」劉整が入らんのが残念だが。 900 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 09 48 07 JLEugHZl0 曹彬なんかがどっちにも入って、柴栄入らん理由はなんなんだろうか。 901 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 09 59 27 n8Nr0VPf0 曹彬は十国討伐の最大功労者。対するに柴栄は英雄的君主ながら危険な目にもあってるし、 即位後たった四年で病死。結果趙匡胤に衣鉢を託すことになった。 ・・・ってのが評価基準だったんだが、お気に障ったか? 902 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 10 44 37 wnF4QzZ10 899 フビライは直接軍の指揮をとったのはモンケの死の直後とナヤアの反乱の時 だけだからここには入らないと思うが 曹彬と柴栄、どちらか一方を選ぶなら柴栄じゃね?曹彬は二度も遼に大敗しているし 903 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 11 11 47 n8Nr0VPf0 902 フビライはモンケ時代にモンケとは別ルートで蜀入りしたんじゃなかったっけ? 実際戦う前にモンケが死んだわけだが、軍を統率する器量はあったんじゃないか? まぁフビライの代わりに劉整入れられたら嬉しいがな。 曹彬は遼に負けながらも上手い具合に退却してるから「決定的敗北」はしてないだろ。 太宗を守って整然と退却する統率力と人望は並々ならぬものがあったと思うんだが。 まぁ統率力と人望なら柴栄のほうが上か。・・・悪い、そんじゃ柴栄と曹彬入れ替えで頼むわ。 904 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 11 16 28 n8Nr0VPf0 903 戦う前に→釣魚城にかかる前に、に訂正。 905 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 14 22 01 D5luvRkF0 もいっちょ連投。とりあえずこのスレで清朝まで行っときたいんで叩き台。 【明朝】 朱元璋 陳友諒 張士誠 徐達 常遇春 朱棣 王守仁 戚継光 袁崇煥 鄭成功 落とす候補は真っ先に陳友諒と張士誠。隋末唐初の群雄ほどの強烈な個性がないから 擁護したい気にならん。 かわりに入れるとしたら個人的には馬芳、兪大猷あたり。 あと鄭成功は李自成か呉三桂に代えてもいいかもしれん。 【清朝(後金含む)】 奴児哈赤(ヌルハチ) 阿巴泰(アハタイ) 多爾袞(ドルゴン) 費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁 岳鐘琪 策稜(ツェリン) 僧格林沁(サンゴリンチン) 宋景詩 関天培 個人的にはこれで確定なんだが、費英東と関天培は外す候補になるかも。 特に関天培入れたのは完全に個人的な趣味だからな。 費英東は「佐命第一」の元勲だが実際どこでどう戦ったって記述が少ないんで外してもいい。 入れ替え候補としては郷勇代表・羅思挙とか。 田中某氏の推す楊遇春は内乱鎮圧専門だから入れる必要なかろう。 内乱が起こること自体民衆が国政に不満を持ってる証拠みたいなもんだし。 実のところ康熙帝以後の名将ってよく分からんので詳しい人よろしく。 906 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 09 09 1kdzBspu0 905 明だったらまず鄭成功を外す。軍事功績という点ではたいしたことしてない。 盛庸は、功績は十分だがやはり他の候補に比べると格が落ちるか。あと推薦は 張輔と鄭和。鄭和は指揮官としての実績は文句なしだと思う。ただこれを将と しての功績とみなせるかどうかで議論は分れるかな?他には明末の祖大寿とか 洪ショウチュウ(字が判らん)、呉三桂は清にはいるのかな?李成梁は、候補 には入れてもいいか?兪大猷はむしろ確定でいいんじゃないかと。 清は…「内乱が起こること自体民衆が国政に不満を持ってる証拠」その通りだが、 それと名将かどうかになんの関係がある?その基準でいくと、前漢の周亜夫や 隋の張須陀は外すか?楊遇春は確定だと思う。 907 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 10 30 1kdzBspu0 書き忘れた。 明の王守仁も外征で活躍したなんて記録あったか? 908 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 25 07 4JDH215a0 906 確かに。内乱が起きるのは朝廷の責任であって、将帥の才覚とは関係ないよな。 すまん。どーも名将=民衆の味方って色眼鏡で見てたが、職業軍人なんだから叛乱が起こったら討伐に赴くのは当然だったな。 909 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 34 24 IvVHov+w0 905 明代の名臣于謙が抜けてるね おそらく、一発屋ということで外したかもしれないが、50万の大軍を破ったエセンをして撃退せしめ 更に明側が有利な講和、軍制改革を一挙にやり遂げた手腕は、十分に名将に値すると思うよ ということで、明代の個人的十傑+α 【確定組】 拡廓帖木児(元に入っていなかったから) 朱元璋 徐達 常遇春 朱棣 戚継光 袁崇煥 【候補】 陳友諒 (元末群雄として一時期最大勢力を築いた、劉基がいなければ朱元璋も滅亡していたかも) 方国珍(経済力と元にはない海軍力とにより、徹底的に元を翻弄した手腕は尊敬する) 湯和(ココティムール、方国珍、陳友定を破り、また明朝の倭寇対策の基礎を築いた) 李文忠(徐達、常遇春と並び称される名将、北伐、征蜀に活躍した) 藍玉(西蕃、北元攻略に活躍、驕慢な振る舞いから後に大疑獄の元凶となる) 于謙(上述) 兪大猷(一生を倭寇鎮圧に捧げる、彼の時期に有力な後期倭寇の多くが討伐されている) 王守仁(他の王朝の反乱鎮圧した地方官と比べて、押しなべて功績が高いとは言えないと思う) 呉三桂(ダメ軍人の鑑、でもこいつが山海関守っている限りは、絶対に清は侵入できなかっただろうな) 李自成(明朝を滅ぼした大順皇帝、人生のキャリアハイから転落までが急転直下過ぎる) 鄭成功(正直、真っ先に候補から落ちそう、他時代の群雄は軒並み落選しているからね) やっぱ呉三桂はダメすぎる、しかしそれを補って余りあるくらい将軍としては優秀だなあ 10傑に入るとしたら、彼かも 910 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 59 52 4JDH215a0 909 于謙、あなどってたかもしれん。南宋の虞允文レベルの一発屋かと。 新帝即位、新朝廷での軍制改革。いろいろやってんだよなぁ。 はっきり言って所詮は文人と思って嘗めてた。そーいや南宋の宗沢だって本来なら文人だもんな。 拡廓帖木児は完全な入れ忘れ。 徐達&常遇春最強のライバルを忘れるとは度し難いな、俺は。 911 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 17 08 46 wa6RT03RO (及時雨・呼保義)宋江が最強、最高!! 912 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 17 21 22 oDoNLXsZ0 于謙といい袁崇煥といい、忠臣には徹底して冷たいのが明朝の特徴だな。 功績をあげて天寿を全うできた戚継光や李成梁や湯和は素直に褒められても良いと思う。 907 兵部尚書として寧王の反乱や農民反乱を鎮圧しているが 外征に関してはベトナム進軍に反対している。 913 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 17 28 39 6yn+hwPD0 陳友諒、張士誠、鄭成功は外していいだろう。方国珍も。 于謙に関しては、講和とか軍制の改革は名将としての評価には ならないんじゃないかな。そういった政治家としての功績を 除くとやっぱり一発屋。 明初は馮勝を入れてもいいかもしれん。 徐達がココテムルに負けたときも彼一人だけ敵を破ったし 功績も藍玉に劣るもんじゃないだろう。 戦利品着服とかしてよく朱元璋に怒られてるけど。 912 戚継光ってうしろだての張居正が死んだらクビにされて そのあと病死だから天寿をまっとうと言っていいのか悩むな。 処刑されなかっただけマシなのか。 914 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 18 28 04 nxvCkIQ60 張輔も候補に入れてくれ。 靖難の変で活躍し、ベトナムを征服した名将だ。 915 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 18 38 38 oDoNLXsZ0 永楽帝の下で働いた武将の中では割合メジャーな方だけど 英宗時に土木の変を止められなかったのがマイナスだな>張輔 自身もそれで戦死しているし。 913 戚継光と李成梁は晩年、中央の支援者が死んだので罷免・引退。 湯和は倭寇対策を任されるも、中風で半病人状態だった。 まあそのお陰で朱元璋の粛清を免れたという面もあるが。 (ちなみに湯和の叔父は土地私有で不正して朱元璋に殺されてる) 916 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 19 49 23 d8dT/wTh0 これまでの流れで行くと・・・ 拡廓帖木児 朱元璋 徐達 常遇春 馮勝 朱棣 王守仁 戚継光 兪大猷 ・・・これで残り枠一名か。 于謙には涙を呑んで諦めてもらうとして。 馬芳入れたいんだけどな。戚継光、兪大猷の時代の陸戦での無敵将軍。 兵法に通じ大小百余戦を経て負けなしの名将なんだが、残念なことに歴史の動きにはほとんど寄与してない。 歴史の動きに大きく寄与してる、って点では呉三桂のほうが絶対的に上だな。こいつが寝返らなかったら女真族が中原に現れることすらなかった。 さぁどっちだ?(諸兄に任せた) 917 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 19 52 53 d8dT/wTh0 袁崇煥忘れた!! そんじゃ兪大猷を落として、改めて馬芳vs呉三桂で。 918 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 19 58 12 KPx3WXvZ0 個人的に張士誠の弟である張士徳は候補に入れてもらいたい。 張士誠の起兵当初から付き従った名将軍だ。 比較的初期に朱元璋に倒されたので、 あまり印象に残らない方もいるとは思うが、 『国初群雄事略』の張士誠伝を見れば、 彼の活躍が張士誠政権の基盤を作る為に どれほど大きな意味を持っていたかが手に取るように分かる。 常熱、常州、湖州、杭州などの江浙の要所を陥落させ、 蘇昌齢や陳基など、多くの有能の士人を見出して自己の参謀としている点も評価していいだろう。 常州での朱元璋軍との最後の決戦では、 徐達、常遇春、湯和、廖永安、胡大海、趙徳勝等名だたる名将を相手に、 鄭という名の朱元璋軍の将を離反させるなどして善戦を続けた。 この際徐達は 「張士徳は智勇に優れた人物で、まともに当たるべきではない」 と述べているし、 張士徳を捕えたことを知った朱元璋は大いに喜んで 「張士徳は智勇に優れた人物で、張士誠の謀主である」 とその人物を評している。 善戦の末破れ、朱元璋に捕えられた張士徳は朱元璋の再三の降伏要請を跳ね除け、 兄の張士誠に密書を送り元朝と結ばせ、獄死した。 その見事な最期も名将と呼ぶに相応しいと俺は思う。 919 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 00 09 wnF4QzZ10 なんか一気に明までいってしまったな 宋は二つに分けるってことでいいのか? 以前の議論をもとにまとめると 【五代・北宋・遼】 確定 朱温 李存勗 郭威 柴栄 趙匡胤 曹彬 楊業 狄青 候補 耶律休哥・・・遼は中華王朝? 【南宋・金・元】 確定 宗沢 岳飛 完顔宗望 孟? ココ・テムル 候補 完顔宗弼・・・賛否両論なので候補にとどめる バヤン・・・・ほとんど議論されていないので アジュ・・・・同上 899とたいして変わらないんだが、李庭芝や張弘範をここに上がっている 連中と同列に並べるのは無理があると思ったので外した 范仲淹とチュウ師道についてはよく知らないので詳しい人よろしく 既に明に入っているのに邪魔して悪いが、確認ってことで 920 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 01 32 nxvCkIQ60 917 兪大猷落とさないで、そのままでいいんじゃね? 921 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 05 19 KPx3WXvZ0 916 個人的に、朱元璋は名将と呼ぶ部類の人間ではないと思う。 君主としては、間違いなく中国史上でベスト10には入るだろうけど。 朱元璋を候補に挙げている方は、その根拠を述べて欲しい。 922 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 05 45 6yn+hwPD0 916 ココテムルは元に移動させて、明の枠を確保したほうがいいかも 朱元璋 徐達 常遇春 馮勝or李文忠 朱棣 王守仁 戚継光 兪大猷 袁崇煥 馬芳or呉三桂 こんな感じで 923 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 08 12 1kdzBspu0 915 土木の変を張輔に責を負わせるのは無茶じゃないか? この時の彼には指揮統率権もなかったのだから。 例えば、宋代だと曹彬や楊業は太宗の遼遠征を止められず、結果は大敗北。 だから曹彬や楊業をマイナスにしろと? 924 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 15 42 d8dT/wTh0 両宋は本来まだ議論してていいんだよ。一枠か二枠かも含めて。 とりあえずこのスレ中に一応清朝まで顔出ししとかないとまずいかなーってことで叩き台出して、 とりあえずこいつは確定、こいつは候補、ってとりあえずの10傑を選別してる段階に過ぎないわけだし。 918 確かにそのあたり凄そうだが、明初には徐達、常遇春、馮勝がいるからなぁ。 徐達(こいつに「まともに当たるべきではない」って言わせたのは確かに凄いが)と常遇春は外れないとして、 残る一名枠は馮勝。確実に馮勝より上、って+α的なものがあればいいんだけど、馮勝は天下の「常勝将軍」だしな。 925 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 19 50 d8dT/wTh0 なんか俺のコメント「とりあえず」多いな。ちょっと文章的にヘンかも。 926 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 25 41 d8dT/wTh0 921 韓信も言ってただろ、高祖には「将に将たる才覚がある」って。朱元璋はまさにそれだよ。 まぁ、将軍達をさんざコキ使った挙句疑心暗鬼が昂じて人材大粛清を行ったのは人としてあまりにむごいけどな。 927 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 30 36 nxvCkIQ60 926 このスレで議論しているのは「兵に将たる」人物のことであって、 「将に将たる」人物のことではないと思う。 928 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 38 14 d8dT/wTh0 927 若かりし頃の朱元璋は郭子興の下で将軍として活躍してる。 呉王になって以後の戦は徐達・常遇春コンビに任せることが多くなったとはいえ、 将才が衰えたってわけでもないだろう。その軍事的才能を色濃く受け継いだのが燕王朱棣であって、 朱元璋を落とすなら朱棣も同レベルとして落としてしまえるのでは? 929 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 39 13 KPx3WXvZ0 909 陳友諒は既に候補から外れているので、 まぁこんなことは言わなくてもいいとは思うけど・・・ 元末群雄として一時期最大勢力を築いた、 劉基がいなければ朱元璋も滅亡していたかも とか、陳友諒を偉く高く評価しているけど、 陳友諒の大漢政権内部って成立当初からがたがたで、 同じ倪文俊配下で戦友であった筈の明玉珍は独立を宣言するし、 裏切りを恐れて趙普勝は殺すし、 応天攻撃の失敗後、欧普祥や祝宗・胡廷瑞には見限られるし、 配下であるはずの熊天瑞は全然命令聞かないし、 そんな感じで酷い状態だったことは知っている? 全然一大勢力を築いていないんだよ、陳友諒は。 それどころか、天完の大勢力を縮小弱体化させただけ。 930 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 41 52 6yn+hwPD0 >朱元璋を落とすなら朱棣も同レベルとして落としてしまえるのでは? これはちょっと意味がわからないな 血がつながってるから同レベルなの? それぞれの実績を別々に見てみれば、朱元璋を落として朱棣を残すという 選択肢があっても別におかしくないと思うが。 931 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 45 02 wnF4QzZ10 921 朱元璋は江南の平定までは自ら軍を率いていたんじゃなかったかな だから入れてもいいと思うが 932 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 56 24 d8dT/wTh0 930 「軍事的才能を色濃く受け継いだのが朱棣」ってちゃんと読んだ? 血が繋がってるから同レベル、というのは朱元璋>朱棣という意味。 だから朱棣より上の朱元璋を落とすなら、それ以下で同列扱いの朱棣も、ってこと。 俺としては朱棣より朱元璋のほうが将才があると思ってるんだよ。 そんくらいの才能がなきゃ乞食から皇帝まで登れるか? 933 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 58 04 1kdzBspu0 931 いや、長江を渡る頃にはすでに徐達・常遇春らが揃っている。 郭子興の勢力自体がそれほどのものではなく、朱元璋が郭子興勢力を伸張させる なにか大きな功績を樹てたこともないし、そもそも朱元璋は郭子興からそれほど 重んじられていたわけでもない。郭子興が死んで分離行動を取ってから大きく なったが、その頃にはもう軍の指揮は部下に任せるようになっている。 934 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 01 21 1kdzBspu0 932 それだと、同じく貧農出身の劉邦にはどれほどの軍才があったと? まったくないとは言わないが、彼が皇帝になれたのは彼個人の将才が凄かったからだ、 なんて主張する人はいないだろう。 935 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 01 45 KPx3WXvZ0 930 将才というより、君主としての才だろう。 実際劉邦には、将才があったとはとても言えないし。 まぁ、郭子興集団で台頭する為には多少の将才は必要だが、 郭子興配下時代の朱元璋の同僚の将軍には、 弓矢を射られて驚き、十歩も進まずに敵前逃亡した奴がいる位だから、 正直、大した才能がなくても将として取り立てられそうじゃない? 936 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 02 50 KPx3WXvZ0 930は 932ね、すまん。 937 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 05 02 6yn+hwPD0 932 >そんくらいの才能がなきゃ乞食から皇帝まで登れるか? 「出世する才能」じゃなくて「軍事的な才能」が問題なんだから 軍事の実績にしぼって話をするべきだと思うんだけどどうかな。 たとえば朱元璋の戦績と朱棣の戦績を比べるべきで、 「徐達や常遇春に任せることが多かったけど才能は朱棣以上」とか 検証不能な失われた可能性は考慮に入れないほうがいいと思う。 で、軍事的な実績に限れば朱棣>朱元璋じゃないかと思うんだが。 938 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 06 45 ocUad3ZF0 少し遅れたが、フビライについて一言。 フビライはモンケが生きてた時からウリャンハタイと一緒に雲南遠征を成功させてるし、死後の帝位継承争いでも自分で軍を率いてアリクブカを倒したりしているから、候補くらいには入れておいて欲しい 939 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 24 29 d8dT/wTh0 937 そうだな。妙に熱くなってた。 確かに俺の提言は仮説的な発現が多くて実際的じゃなかった。 すまん、 921。どうも俺のほうに非があったようだ。 ま、朱元璋落ちたら明からもう一人枠が増えるしな。悪いことばかりじゃないと自分を慰めよう。 940 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 35 32 KPx3WXvZ0 939 結構、誰が明代十傑に挙がっても名将たちも結構挙がっているしね。 慈愛に溢れる朱元璋陛下がその仁徳によって席次を一つ空けてくれたと思いましょう。 941 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 36 55 KPx3WXvZ0 何か意味不明の文章になってしまった。 結構、誰が明代十傑に挙がっても名将たちも結構挙がっているしね は 誰が明代十傑に挙がってもおかしくない名将たちも結構挙がっているしね。 に変更します。 942 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 46 41 d8dT/wTh0 ちょっと告白するけどね。 「将に将たる」を否定されたトコで半キレモード突入、なんとか論破してやろう、 って馬鹿みたいにムキになったわけさ。改めて20レスほど遡ると恥ずかしいな、俺。 この場は「将に将たる」人材を探す場所ではない、と言われてそこでああ、そうだなって引き下がればいいものを、阿呆か俺は。 と、いうわけで 921にも諸兄にもいろいろ迷惑かけたよな。すまんかった。 943 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 57 55 bha33n5H0 ところで、ハ陽湖の戦いの勝利って朱元璋の戦歴には入らないのかな? あれが入れば、十傑入りも可能なんだが 944 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 22 03 07 oDoNLXsZ0 943 個人的な意見だが対元北伐までが朱元璋の戦歴に入ると思う。 945 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 22 46 22 KPx3WXvZ0 943 確かに、?陽湖の戦いは確かに朱元璋が指揮したもの(ということになっている)だが、 ?陽湖で陳友諒と決戦に挑まざるを得なくなったのは朱元璋の失策によるもの。 朱元璋が張士誠の攻撃を受け、救援を求める韓林児のために、 劉基が止めたのにも関わらず、自ら兵を指揮して救援に向かった為、 陳友諒に対して大きな隙を与え、この隙を衝いて陳友諒が大兵を動かした。 ちなみに、ここで二つのIFが生じると、 朱元璋は自身の失策により陳友諒によって 壊滅的な打撃をこうむることになった。 一つ目のIFは、陳友諒が大艦主義に走らず、 倪文俊から奪い取った快速船を主体とする高速水軍を用いていれば、 ?陽湖の戦いの結果は変わっていたという点。 二つ目のIFは、陳友諒が洪都を無視し、 一気に応天を衝いていれば、 間違いなく朱元璋に帰る場所が無くなったという点。 そもそも、朱元璋が名将と呼べる人物であったなら、 このように戦略的にどう考えてもおかしい軍事行動は行わず、 おとなしく劉基の意見に従っていたと思うよ。 実際、韓林児を自ら助けに言ったのは完全に失策だったと 朱元璋は後から劉基に謝罪している。 946 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 22 59 11 wnF4QzZ10 938 少し前にフビライ外せって言った者だが、言われてみればフビライの戦歴は 雲南平定 アリク・ブカを破る ナヤアの反乱を鎮圧 と、これだけあるので十分ここに入る資格があると思う 呉三桂とほぼ同じ時期には洪承疇・祖大寿がいる 持久戦でホンタイジの攻撃を食い止めたが、朝廷からの命令でやむなく攻撃に 出て敗北した 947 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 10 55 21//h9D90 明に関しては、 徐達 常遇春 朱棣 戚継光 袁崇煥 の五人は確定でいいだろう。残りは 朱元璋 湯和 李文忠 馮勝 張輔 鄭和 王守仁 馬芳 兪大猷 呉三桂 から五人といったところか 948 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 31 25 KPx3WXvZ0 947 張士徳も入れてけれ。 皆、元や明以外の元末群雄を下に見すぎ。 個人的には戴寿、毛貴、張定辺、呂珍…と、 他にも推薦したい奴はいっぱいいるんだけど、 グッとこらえて、 明以外の元末群雄代表でこいつを選出したのに無視しないでくれよ。 949 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 34 05 bha33n5H0 947 その中だと、兪大猷、呉三桂は確定で良くない? 逆に、朱元璋を候補に落とす方向で流れているのを考えると、鄭和も候補止まりだろう 李文忠 馮勝 王守仁 兪大猷 呉三桂 の5人が十傑入りでいいと思うよ 950 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 48 05 21//h9D90 948 ごめんよ やっぱ最終的に負けると印象悪くなっちゃうよな 951 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 02 31 57 V9Kmb/lFO 王守仁は一発屋 それも外敵からの一大決戦じゃなくて内乱 いや神がかってるのは判るが外れるならまずこいつだろう 952 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 03 53 53 ndRE+ASzO 王守仁は思想家としてのイメージの方が強いからなぁ。 953 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 08 56 43 gBMleC/l0 王守仁の戦歴と言うと 寧王の乱鎮圧 思恩・田州の叛乱鎮圧→帰途で死去 ぐらいか? 確か、タタール対策の上奏もあったはず 于謙も外れてるし、ここは落としたほうが良いのか? でも、一発屋、一発屋って言われても、結構萎えるよ このスレ、周亜父とか周瑜も外されかけてるし 朱元璋が外れる理由が分からなくなってきたな ほぼ断続的に江南で戦い続けてるし、数々の危地を配下の献策と持ち前の強運で切り抜いてきている 運のよさは名将の条件じゃないのかねえ? 954 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 09 12 22 g2ntYcbi0 953 名将と呼ぶには運の良さだけじゃダメだろ。 戦略眼や指揮能力+運の良さでなけりゃ。 戦略の失敗を運でフォローした奴は名将とは呼べないと思う。 955 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 09 49 39 Our7SalQ0 954 戦略上のミスと言っても、このスレで名前の挙がった歴代群雄の連中見ても結構ポカは多いぜ 項羽・曹操は言わずもがな、李世民も竇建徳を処刑して河北での反発を招き、統一を遅らせている 朱元璋の場合は、上記の人間達と比較しても専門的な軍事教育を受けていないにもかかわらず 軍の指揮能力や掌握術は、この時代で群を抜いて優秀であることや 早い段階での集慶攻略や地盤固め、多くの幕僚の招聘を見ても将軍としてかなりの部類だよ 仁政家、謀略家、独裁者としての面ばかり見てると確かに軍事面は物足りないかもしれないが 相対的に将軍としての評価が下がるとは思えんのだがね あと、運の良さは朱元璋に限って言うならば、中国史最凶だろう 956 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 09 57 39 xXDa2IYVO そうだそうだ!! 武将としての朱元璋を過小評価するのは納得いかぬ。 957 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 10 10 27 g2ntYcbi0 955 じゃあ、劉邦も名将の部類に入れるのか? 対秦戦、配下の献策を受け入れたこと、戦歴、危機を強運で切り抜けたこと、 地盤固めや多くの幕僚の招聘なんかは劉邦にも言えることだが。 958 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 20 05 Our7SalQ0 957 当然候補には確実に入るだろうよ、秦漢を代表する不屈の将軍だぞ 冒頓単于、韓信、項羽、彭越、潅嬰あたりには劣るけどな 朱元璋は劉邦よりも軍事的失敗、敗戦が少ないからこそ名将に推しているんだよ 人の下でもよく働くし、人の上に立ってもよく将兵を使いこなせる 突き抜けてはいないけど、オールラウンダーな名将ってのが朱元璋だと思うんだが 入れる理由が弱いかもしれないが、外す理由の方がはるかに少ないでしょ 戦略うんぬん言い出すと、北伐の敢行(及び華南が華北を制圧した唯一の成功例)や 諸王の北辺配置によるモンゴル対策とか、結構時宜を得た優秀な戦略もあるよ 軍事政策は名将の条件に入らないと言うのであれば、別に評価しないでもいいけど 959 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 26 43 eFPCVhJ80 943 一度おかしな行動をとったからといって名将ではないと断言するのもどうかと思うが 誰にだってミスはあるわけで、自分のミスを補いつつ最終的に勝利を収めることができれば 十分名将というに値するだろ 954 敵の失敗は幸運だとしても、それを上手く利用して戦局を挽回するのは 平凡な将ではできないと思うが もし朱元璋が全ての危機を相手のへまだけで乗り切ったのなら それはそれで最凶ではあるなw 名将とはいえんだろうが 敵のへまに 960 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 32 20 9Ql2f9Sj0 実際に兵を率いての評価だよね? 戦略眼を評価に含めると 張良とか劉基入れないとだめになるから、あくまでも戦略の良し悪しは 補助的な項目だと思うけどな だから前線に出てもいない北伐を朱元璋の実績に含める 意見には同意できないが、 ハ陽湖の戦いを朱元璋の実績に含めるならば十人に入れてもいいと思う 今でも外すわけじゃなく候補には挙がってるわけだし、 他のメンツと比べてどうかという点だけだな 961 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 37 39 g2ntYcbi0 958 不屈の将軍や将に将たるってのは名将じゃないってのがこのスレでの話だと思ったが。 それに言っておくが朱元璋の10選入りに反対してるわけじゃない。 ほぼ断続的に江南で戦い続けてるし、数々の危地を配下の献策と持ち前の強運で切り抜いてきている 運のよさは名将の条件じゃないのかねえ? この考え方がおかしいんじゃないかと言ってるだけだ。 962 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 49 27 Our7SalQ0 961 確かに評価の論点がズレてるな、すまない 集慶攻略や応天府での逆撃、番陽湖の戦い(さらにそれ以前からの郭子興軍での戦いぶり) これらの戦績があっても、スレの上の方で十傑入りから外す意見が出てたんで 「じゃあ、運の良さや人材活用、壮大な戦略の持ち主といった+αで掩護しよう」と思ってしまった しかし、劉秀、曹操、趙匡胤あたりの人間に劣るかねえ 朱元璋 963 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 12 17 56 hz/RCBl20 劣らんと思うよ。 趙匡胤にしても、皇帝になってからは陣頭指揮なんかしてないし。 劉秀もそうだったんじゃなかったけな… 964 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 13 25 46 ndRE+ASzO 劉秀は統一するまでは自分で軍を指揮してるよ。 965 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 15 25 52 hcv+uacn0 そろそろ、次スレに備えて、 今まで決めた分について、まとめないとね。 966 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 19 24 22 BqiSUfrv0 朱元璋は戦術のみに絞った場合、劉秀はともかく曹操や趙教員には劣るんじゃない 967 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 19 48 57 fifT6twd0 966 趙教員って趙先生かw 968 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 21 24 27 hz/RCBl20 このスレでは久しぶりにネタを見たなw たまにはいい… 969 名前:まとめてみました 投稿日:2006/12/30(土) 00 27 17 i2+ksOwN0 これまでのまとめ 時代区分は 877の案を採用しました。 春秋戦国 347 【確定組】 楽毅、魏無忌(信陵君)、白起、李牧、王翦 【候補】 墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 統一秦~前漢 418 【確定組】 韓信、霍去病、衛青、灌嬰 【候補】 項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 新・後漢 501 劉秀、耿エン、馮異、岑彭、呉漢、廉范、班超、張奐、虞[言羽]、賈復または馬援 三国~両晋 582 【確定組】 曹操、鄧艾、石勒、祖逖、王猛 【内定組】 周瑜、劉曜、慕容垂 【論争中】 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真 劉淵、劉聡、冉閔 南北朝 604,605,633 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 拓跋珪、高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 隋・唐 687,720,737 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬00 970 名前:まとめ2 投稿日:2006/12/30(土) 00 28 09 i2+ksOwN0 まとめつづき 五代~北宋・遼 769,858,899 【確定組】 朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、 任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【論争中】 耶律休哥 南宋・金~元 827,899,919,862 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、ココ・テムル 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、拡廓帖木児(ココテムル)、呂文煥 明 905,916,947 【確定組】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 【候補】 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁 呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳 清 44,905 奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁、岳鐘琪、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン) 、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福 971 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/30(土) 10 09 25 AbbdykaO0 970 元末群雄が明の枠に入ってんだから、 李自成は清代の名将候補に挙げるべきじゃね? 呉三桂も私的には、清代の名将という印象のほうが強い。 972 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/30(土) 13 10 15 LTr8Eucy0 970 呉三桂は清の攻撃を食い止めたことを評価されて入ってるんだから明代でいいんじゃないか 元末の群雄は「朱元璋とその他の勢力」と見なされているから明に入っても違和感ないが 李自成を清代に入れるのはおかしいような気がするが・・・。 973 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/30(土) 21 04 19 awsYTO710 919 范仲淹とチュウ師道ね、遅れてすまん。 まず范仲淹ね。 仁宗時代の官僚。進士でありながら硬骨で上に阿らず、地方官を歴任させられた。 対西夏戦において韓琦とともに活躍、厳明ながら士卒を愛す范仲淹軍は士気も高く、 西夏軍はあえて国境を侵すことがなかった。 西夏の李元昊が和議を求めるとその功績で枢密副使となり中央に返り咲き。 主に俗官を除き民を思いやる政策をかかげたが政敵の反発にあい、わずか三年でまた中央を逐われた。 人物鑑識にも長け、狄青の将才を見込んで抜擢したのもこの人。 で、チュウ師道。 対西夏、対金戦線において顕著な戦功を挙げた人。 基本的に慎重論者だが戦となればやたら強かった。 童貫らが新興の金と組んで遼を滅ぼそうとしたとき、「信義にもとる」と反論したが朝廷の意向には逆らえず従軍。 北伐は失敗したがチュウ師道のみは大敗を免れた。 金軍南侵に際しては第一線に立ってこれに抵御。数回にわたって金軍を敗走させているある意味最初の抗金名将。 しかし病にかかり、金軍再度の侵攻を前に病没(戦死説あり)した。 974 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 02 19 43 U/gHRU/H0 年末予定なくて973書き込んでからあっちゃこっちゃのサイトを除いてきた訳だが。 人がいない。これが年末進行ってやつかい? 5時間の間まったくレスなし。みんな年の瀬で忙しいのか・・・。俺はすげぇヒマだというのに。 愚痴だけで投下するってのもなんだからちょっとこのスレらしいコメントするか~。 南宋の李庭芝(with姜才)と張弘範に代わる名将っている? 地味ながら最後まで元軍に抵抗した闘将と南宋を滅ぼした功労者なのに。 まぁ岳飛やら孟?に比べると確かに、同列ではないか。 さておき、完顔宗弼(ウジュ)は確定に繰り上げていいよな、いろいろ議論されてるが騎兵戦無敵、 岳飛・韓世忠の南宋最強コンビをも破った実績があるってことで。 忽必烈は将器より大政治家としての功績が大きいから微妙。武勲的に十分だとは思うけど。 と、なると多爾袞も十傑より候補扱いかな。 武勲がないわけじゃないけど、実のところ軍を率いるってより呉三桂を徹底的に利用して明を滅ぼした人だから。 あと清朝の初期には海戦無敵の施琅なんかいたよな。すっかりわすれてたけど。 あ~、レス欲しい。孤独だぁ。 975 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 04 57 52 acbD+iobO 怒られる覚悟でレスしますが、ただ清代にもの凄く詳しい人がいないのでは? 明末清初までなら任せろって御仁なら居そうですが。 年末だろうが自分みたいな寡人もいるし・・・ 王徳禄、會国藩 を一応挙げときますよ。 976 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 05 52 17 21FEe0/y0 975 もうちょい辞書ひけや・・・ 977 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 06 28 11 dp6G3jYx0 974 宗弼は確定でいいとだろうが、誰もいないんじゃ決められないな・・・ ただ、騎兵戦無敵といっても、相手の南宋軍は歩兵が主力だったようだから その辺割り引く必要はあるが 金・元・南宋の確定は今のところ5人しかいないから、仮に宗弼・フビライ バヤン・アジュを入れても1人余るんだが、誰がいいだろう?決定的な人間 がいないんだよな。ウリャンハタイを入れていいなら確実に入ると思うけど 978 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 10 16 55 rSji0iDK0 977 元末群雄の張士徳を入れたらどうや? よくよく考えてみたら張士誠の勢力は一時的に元朝に属していたし、 元朝に帰属しろと張士誠に献策したのはこの張士徳だからな。 朱元璋、陳友諒と並んで江南の三大勢力といわれた、 大勢力の基盤をほぼ彼一人で造り上げた人物といわれているから 候補に入る資格は充分だと思う。 979 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 13 09 20 0SMqDUW/0 978 仕切り屋気取ってる奴によると元末群雄は個性がないからアウトらしいお。 980 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 14 55 52 Dki/eEXM0 そろそろ次スレ、頼みますよ。 981 名前:978 投稿日:2006/12/31(日) 19 07 53 rSji0iDK0 979 905のことか、 正直、元末群雄の何処に個性が無いのか説明して欲しいね。 朱元璋や徐達、劉基等の業績が後世称えられているのも、 陳友諒や張士誠等、個性的なライバル群雄があってのことだと俺は思うけどね。 982 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 15 35 Rt/n1s/90 979 おそらく仕切り屋気取ってる奴=俺のことだと思うが。 別に元末群雄全員アウトなんて言ってないぞ。 陳友諒と張士誠の二人を出したところで、隋末唐初のアクの強い連中と比べて印象薄いから擁護する気にならん、って言っただけ。 元末だろうが明末だろうが良将・名将が輩出されてれば関係ないだろう。 まぁ、俺の態度が仕切り屋臭くて鼻についたなら謝る。すまん。 あと、誰か詳しい人、スレ立て頼む。俺は立て方知らんし。 983 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 25 34 tiw+OcvT0 じゃあ朝鮮してくる 984 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 40 22 tiw+OcvT0 立てた。必要そうなのを全部貼ったせいで糞長くなってしまったスマソ 【中々】 中国名将百選 其ノ弐 【決まらんね】 http //hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167560946/ 985 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 43 40 7gf30xQx0 乙 次スレは清からになるのか? 986 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 00 10 S9hq2M950 なあ、随唐に詳しくないから聞きたいんだが、 李勣と徐勣って別人なのか? 隋・唐 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣 987 名前:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/12/31(日) 20 02 26 AGK+BCTy0 竇建徳、李密、劉黒闥、徐世勣 いいんじゃないだろか。なんとなく。 988 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 16 23 08fwNLml0 986 随唐に詳しくない私が答えよう。 同一人物ですな。 989 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 18 08 7gf30xQx0 ココテムルも二人いるしな まあそのへんはしょうがないんじゃないか? まとめただけみたいだし 990 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 19 57 tiw+OcvT0 すまん そのあたりは 969-970をコピペしただけだから知らなかった 991 名前:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/12/31(日) 20 21 27 AGK+BCTy0 つか「勣」が表示できるのを初めて知った。 992 名前:969 投稿日:2006/12/31(日) 23 11 27 tVZGpy6W0 ごめんよ。 いくつかミスりました。 993 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/01(月) 11 39 32 Jy54tJOt0 スレも残りわずかだが 969の南北朝時代 はたしてこれが確定で良いんだろうか? 宇文泰は政治家、組織の長としての能力は高いけど 軍事的には常に劣勢だったわけだし(まあ、もともとの兵力自体貧弱だったわけだが) 最近の群雄低評価の流れを受けると、高歓、宇文泰あたりは敗戦も結構あるので 再度吟味する必要があると思われ 群雄の評価は確かに難しいな、純軍事的行動のみで軍閥に成り上がったヤツは少数派だろ 大抵、政治的能力で勢力築いているわけだし 李密や張士誠あたりは、このスレでは不遇なのも仕方ないと言えば仕方ないな 994 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 06 14 01 QLLLMOgIO 埋め 995 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 08 17 46 WDP2bpSM0 一応告知というか・・・ 1000レス越えたら全表示できなくなることでもあるし、 現段階で次スレに移っていいんじゃない? すでに移住してる人も何人かいるみたいだし。 996 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 15 16 34 O8SaJtfJ0 じゃあ、これ以降は埋め記念カキコってことで 997 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 15 19 26 jqm9xRH00 じゃあ、俺もume 998 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 19 23 22 BOU9MbBfO 梅 999 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 19 43 05 +c0794LtO 1000なら、はたらく 1000 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 20 02 48 VPzo4uEX0 999 俺が1000取っても働けよ 1001 名前:1001 投稿日:Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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701 転載 sage 2007/04/01(日) 22 34 28 ID inohJBGt0 ↑の見解はなりきり(太陽板)の「蔡京 ◆GtkPmKwSp2」氏のもの。 実に面白い。 一応、このスレの住人にも紹介しときたい。 702 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 01 51 ID IbwTPFXu0 狆師道 子供の頃は張戴(知らんけど、多分学者)に学び、試法(科挙)に及第、 熙州の官に推され同谷知県を兼任する。同谷県では田産訴訟が二年にわたって 未判決のままであり、狆師道もこれをおしつけられて難儀したらしい。 文官時代にもいろいろあるが、とりあえずはしょる。なんか蔡京やら童貫 やらに気に入られず不遇だった模様。でも皇帝からは気に入られた。それがまた 奸臣たちには気に入らんかった様子で、西安州の知事とされる(実質的な左遷)。 西夏が定辺を侵し、仏口城を築城すると狆師道は兵を率いて仏口城を破壊。 兵士たちが喉の渇きを訴えると山の西麓を指し、「水はここにある」といって 井戸を掘らせ、潤沢な水脈を確保した。またいらんこと昇進するが割愛。各路 の兵士たちを督して席葦平に築城、敵が到来すると葫蘆河に退き、川辺に布陣、 戦況を見守る。夜中、偏将の曲充を小道から横嶺に出し、大声で援軍到来を 叫ばせる。敵が驚いて背後を見ると楊可世が後方から敵軍を襲い、さらに姚平仲 が精兵を率いて進撃する。狆師道軍は算を乱した敵を大敗させ、斬首50級を 挙げ、牛、馬、駱駝などの家畜たち数万を獲る。敵の酋長はわずかな供を連れて 逃げ去ったが、自分の城に還ったところで死んだ。 また陝西、河東七路の兵を率いて臧底城を攻め、十日でこれを降せと命ぜられた。 城に近付くと頑強な抵抗を受け、敵の士気の高さが知れる。対するに官軍は怠惰で 将校の中には勝手に休息するものもいる始末。狆師道はそういう輩を斬り捨て、 軍門にさらして「今日この城を抜けなければこうなるぞ」と言って綱紀粛正。 士卒は恐怖にせきたてられてわれ先に城に登り、瞬く間に城を落とした。 八日目のことだった。皇帝に報告するとまたも昇進。割愛。 都統制、保静軍節度使となった童貫は、燕回復の謀を立てる。狆師道以下の 諸将はいかにも嫌がり、狆師道が代表して「それは盗人のやることだ」と反駁、 しかし童貫はそれを黙殺して白溝まで出陣、遼軍に察知されて宋軍は多大な 損害を蒙る。狆師道が自ら身を挺して兵士たちを収容したおかげで大敗には いたらずに済んだ。 遼からの使者が女真族挟撃をもちかける。童貫が返答する前に狆師道が 「そう言うやり方は義にもとります」と諌めたのだが童貫はこれをまた無視、 狆師道の官位を落とし、代わりに劉延慶を起用した。劉延慶は盧溝で大敗、 帝は「やっぱり狆師道じゃのう」とか言ったが実権を蔡京、童貫に握られて いるのでなにも出来なかった。ちなみに貶められた狆師道の官職は憲州刺史、 環州知事、保静軍節度使で、案外高位なままだったりする。文官だからか。 金軍が南下すると朝廷は大慌てで狆師道を呼び、たっぷり官職を授けてから 金と戦ってくれと懇願、狆師道は姚平仲とその麾下7000騎を率いて出陣、洛陽 にいたり、京城に向かうオリブに対峙する。朝廷に「敵の勢い盛ん、今しばらく 汜水に駐屯するのが万全の計かと」と呼びかけつつ、部下たちには「我らは寡兵 といえどもだからといって遅疑し進まぬことのないように。事情がばれれば一気に やられるのだ。鼓を撃って前進し、きゃつめらに我らの虚実を見抜かせないよう にするのが重要なのだ。京城の人、我らを見れば自然と意気振るう。なんぞ 敵人を憂慮することがあろう!!」とアジる。彼は行く先々でビラをまき、 种少保危急と知った人々が集まって100万の大軍となる。汴京に至り汴水の南に 兵を進め、敵の陣営に兵力を直撃させると、金軍は大いに恐れ、戦わずして 北に還った。 当時狆師道といえば“种老”と呼ばれるほどの有名人となり、欽宗皇帝もよく その意見を聞くようになった。欽宗曰く、「今ウチの国ってヤバくない?」 狆師道「女真族なんぞ兵法を知らんイノシシばかりでござる。孤軍他国を侵略 するほどのことは出来申さん」と頼りがいのある返事。欽宗「講和したんよ」 狆師道「軍旅のことは私めにお任せを。しかし講和はまずかったですな」という ほのぼのトーク。ちなみにこの間も狆師道はまたまた出世したんやが、それより 副官の姚平仲が都統制に出世したのが大きい。 703 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 23 02 45 ID ERvMR/+10 700 転載にレスするのもなんだけど 軍隊の精鋭化 後周の世宗柴栄が、禁軍の改変を大々的に行ったことは有名なことでした。 当時、中原の王朝というのは、後唐から後周に至るまで、同一勢力からの派生ということで 皇帝直属の親軍たる、近衛がほとんど入れ替えられることがなかった。 しかも、後唐荘宗李存勗の親軍というのは、かの楊師厚が編成した銀槍隊であり、 銀槍隊は、楊師厚という節度使の牙軍(節度使に密接に関係した兵)であったので 傭兵的性格を色濃く持っていた。 それは、給金をしぶると不満を抱き、厚遇すればつけあがるという、とんでもないものだった。 しかしその武力に頼らなければ、いくさにも勝てないし、皇帝権力の維持も難しい時代だった。 後唐明宗が、侍衛親軍を創設して、一旦分散はしたものの 後晋、後漢と、侍衛親軍に属する将兵に、大きな異動はなく 良く言えば古強者、悪く言えば老弱兵が多数在籍していた。 後周太祖郭威はそれを慮って、新たに殿前軍を創設するも、改変する前に死去。 後周世宗柴栄は、即位直後の「高平の戦い」において、この不安定な殿前軍と老兵およびつけあがりの侍衛軍を 率いて戦わねばならなかった。 侍衛親軍の馬軍と歩軍の指揮使(大将)が、北漢の猛将張元徽の攻撃にビビり、敵前逃亡を図ったため 後周軍右翼は潰走。 柴栄は中軍本隊の先頭に踊り出て自ら敵兵を切り伏せることで士気を保持させ 張永徳、趙匡胤に命じて、敵の中央突破を成功させた。 北漢には野戦で勝利したものの、太原攻めには失敗し(自身の判断ミスで)、大敗してしまったが それを置いても、敵前逃亡した将兵に腹立ちと改変の必要性を痛感した。 侍衛親軍に属する老兵はすべて解雇され、新たに募った壮丁をもって補充し 殿前軍には趙匡胤に特別審査を行わせ、武芸に秀でた者を登用していった。 これによって、禁衛軍の総兵力は減少したものの、近代無比と言われる後周禁軍が誕生した。 と、何が言いたいかというと、柴栄の言葉にある 「およそ軍隊というものは、数が多ければよいというわけではなく、その質こそ肝要。今、農家百人で一人の兵を養うありさまだ」 ということで、北宋もいつの間にか、そういった根幹を忘れて、軍隊を肥大化させてしまったのだろうか。 ま、建国期と統一状態が何年か続いたときとでは、比較にはできないけどね。 これはチラ裏だけど、一応、柴栄確定の根拠の一つとしてトリビアにでもしてもらえれば幸いです。 704 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 03 34 ID IbwTPFXu0 狆師道の2 ときに狆師道、病を得て、皇帝から拝謁の礼をとる必要なしと赦される。堅物の 狆師道は腰が曲がらんなら膝をついて拝謁しようとしたが、欽宗は笑ってそれも 必要なしと説く。この時期すべての門が閉ざされ、市に新しい野菜が入ることもなし。 狆師道は皇帝に請うて西と南の両門だけを開くよう頼んだ。 金に馬忠という偏将があり、彼の前軍隊が遮ったという罪で6人ほど斬る殺人嗜好者だった。 これに恐れをなした士卒たちが南に流れ、狆師道に附く。彼らは自分勝手な規範を作り再び金と 宋との境界線を越えようとしたので、狆師道は金を支払って彼らを郷里に帰した。黄河を扼守す るために彼らを使おうと言う意見も出たが、狆師道はそれを黙殺した。 种氏、姚氏はともに山西の大族姚平仲の父姚古は熙河軍に入援した。姚平仲は 功名を独占するわけには行かないと父を帰したが、この頃になると士卒が速戦 に向かず命令系統が途中で途絶えるなどの不都合が出るほどの増加傾向にあった。 李綱はそれについての議上で、城下の兵が命令を聞くようになるまで姚平仲の 節度下に置けば宜しいと述べた。欽宗は毎日人を派遣して狆師道に作戦を諮問し、 狆師道は弟の狆師中と兵を分かっての分撃作戦が可能であると上奏。8日後、 金の軍営に襲撃をかけた狆師中はみごとに敗北した。敗戦後、李邦彦に軍権の 3割を奪われたが、狆師道は紛争の種になるとしてなにもいわなかった。 金軍が退いたのち、御史中丞の許翰が狆師道の軍権を解くよう欽宗に上奏した。 理由としては「狆公は老年であり、これ以上の任に堪えられるとは思えない。 陛下は彼を信任しすぎている」とのこと。実際は狆師道と欽宗が太いパイプで 繋がっているのが気に入らないだけなわけだが。狆師道が黙っていると許翰は 嵩にかかって、「国家危急のときに書生なんぞにまかせられぬ」とか言った。 狆師道の反論「彼は少なく我は多く、分担して結営すれば要地を守ることは たやすい。彼の糧道を截ち持久戦に持ち込めば、必ず勝てるのです」許翰は 狆師道に心酔し、狆師道は老年と言えど往年の智謀衰えず、なお用うべきと 上奏したほどの変わり身を見せる。狆師道、太尉に。 金兵再来に際し、狆師道は各地の軍を召集、大敵を捕退すべく出陣するも、 まもなく狆師中が戦死、姚古が敗北し、朝廷は震撼、狆師道に軍を還すよう 要請する。太原が陥とされ、とりもどすべく彼は進軍を決意する。金軍が一挙 攻め寄せてくることを警戒しつつ各個撃破、欽宗より下賜された鉾を振りかざし、 長安までを回復する。大臣たちの怯えるさまに仕方なく京師に軍を還す。京師に たどりついたところで逝去。76歳であった。欽宗は彼を喪い大いに慟哭したと言う。 京城の守りは喪われ、皇帝の胸に穴が開く。「狆師道の謀を用いず、どうやって たたかえというのか!!」そしてその後、靖康の難が起こり徽宗、欽層は北に連れ 去られる。狆師道は建炎年間、少保を追贈され、忠憲と謚された。 チュウの字が変換できなかったので狆の字で代用。すんません。 705 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 23 28 54 ID ERvMR/+10 チュウの字が変換できなかったので狆の字で代用 サブでみたら「・」になってる。 メインでは楽勝で見えているのに。 チュウは簡体字にもあって、それは「種」に対応しているんですけど、これでは漢字が違いますよねぇ。 となると、洺州(めいしゅう・シ名州)もだめか? 706 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 50 08 ID IbwTPFXu0 そーなんです。変換できんのですよ。ところどころ“・”になっとるし。 それはさておき、 狆師道も挙げたし、ここいらで五代~北宋の最終選考に移りたいのですがよろしいか? 【確定組】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光) 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 耶律休哥、狆師道、劉昌祚、李継遷、賈嵓、潘美、楊延昭、顧全武 楊師厚、史建瑭、王景、康壊貞、劉鄩 【候補落ち】 朱温(朱晃)、郭威、曹彬 過去最大の候補数。なんといっても魔の定義論含め300レス近くこの時代で 続いたけんね。あと、十国からは顧全武と劉仁贍の二人ぐらいでいいかもと 思うが、いかがか? 707 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 52 57 ID IbwTPFXu0 あ、楊師厚と劉鄩、すでに挙がっとったね。重複してしまった。すんません。 708 ○ sage 2007/04/01(日) 23 58 04 ID Yep9d0/00 702 704 ◆oOLAqFKRBさん 乙です >奸臣たちには気に入らんかった様子で、西安州の知事とされる(実質的な左遷)。 まあ北宋って左遷とか日常茶飯事なんですよね。 新法派・旧法派なんて互いに足の引っ張り合いしてたぐらいですし、 名前はちょっと思いだせないんですがw 最終的に海南島に左遷された後、朝廷に復帰した人物とかいるぐらいですし… またまた何時もの寝言言ってみましたw 締切もう一日待ってもらってもいいてすか? 郭崇韜の推薦文を挙げたいのですが今日はもう寝たいです。 ダメなら諦めますが… 709 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/02(月) 00 09 58 ID 3SOpQK0D0 勿論OK。つーか俺が決めることじゃないし。 みんなで納得して決めんと、 後々(俺はこいつを挙げるつもりやったぁぁ!! ならば俺はこいつをー!!)みたいな確執が怖いしね。 710 ○ sage 2007/04/02(月) 22 13 03 ID BY7tkA820 郭崇韜(?-926年) 代州雁門の人。字は安時。己を郭子儀の後裔だと自称した。 李克用、李存勗(荘宗)父子に仕えて中門使に至る。 李存勗が皇帝となり後唐を建国した際には、兵部尚書・枢密使とされ重用される。 後梁を滅ぼすと、論功第一に挙げられ、侍中・成徳軍節度使となる。 郭崇韜の位は人臣を極め、権勢を奪われるのを恐れて魏国夫人劉氏を皇后に立てるよう密奏し、 また「時務利害二十五条」を説いて、宦官を排斥。 後唐建国から三年後の同光三年(925)に なかなか飛躍の機会が得られなかった宦官勢力に、絶好のチャンスが到来。 (おいおいw) この年に王衍が割拠する前蜀政権の併合を企図した荘宗は、 太子の魏王李継岌を名目上の総大将として、 実際の指揮を郭崇韜に執らせ遠征軍を派遣。 この前蜀攻めで郭崇韜は東北面行営都招討使を勤めた。 前蜀は後継者争いのために国力が低下、遠征軍は一戦しただけで王衍を降伏させることに成功。 前蜀攻めは領土拡大と同時に 後唐は荘宗が浪費家だったこともあって財政面が苦しく、 豊な四川地方を併合し、財政の回復をさせる第二の目的を含んでいた。 王衍の降伏後に荘宗は、成都からの戦利品を心待ちにしていたが、王衍降伏後の戦後処理に 手間取った郭崇韜は遅々として戦利品を送ることができなかった。 荘宗は期待を裏切られたと苛立ちを見せ始めた。 この事態をチャンスとばかりに宦官勢力は行動を開始。 (全く宦官って奴は悪知恵だけは働くよな) 李継岌にも猜疑を受け、同時に恨みを持っていた宦官達に誣告された。 それを信じた荘宗は激怒し宦官の馬彦珪を蜀に遣わして郭崇韜・廷晦の父子を成都で処刑させた。 (ひでぇ完全に冤罪じゃん) 郭崇韜は政戦両略と王佐の才ありといわれ、郭子儀の再来と評され、 郭崇韜は李克用・李存勗(荘宗)の二代に仕え、後唐建国時に 「第一の功臣」と評されるほどの功績を挙げた彼を推薦。 東はオルドスから西は敦煌まで領土を拡大、 宋軍に勝利し、賀蘭山で遼に勝って、宋・遼・西夏の鼎立の形勢をつくった、 西夏の李元昊も推薦します。 これで自分は推薦打ち止めです。 昨日は流れ止めてごめんなさい。 711 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/03(火) 03 12 00 ID P41V3Neb0 お、郭崇韜ですか。 ○さん乙です。 さて、けちでもつけるかw(いや、冗談です) 軍政官としての力量になんの疑問もない人ですが、急速な領土拡大(河東から華北政権へと) となる過程ということもあるでしょうが、結構蓄財に余念がなかったような面があります。 後唐は荘宗が浪費家 これ、建国以前にも郭崇韜は李存勗を諫めているんですよね。 李存勗としても煙たいところでもあったのだろうか。あまりに軽々に宦官の言を信じたのは 芸能にうつつを抜かしてしまった李存勗の、統治者としての決定的な資質不足でしょう。 いくさでは神がかった強さを発揮するのに、人心掌握や統治では為すところが無い。 なんか項羽を連想させます。 郭崇韜が少しでも金銭を蓄えようとした故事では任圜との確執もあげることができます。 任圜は最初、潞州(上党)の李嗣昭(李克用の仮子)の幕僚だったのですが 胡柳陂の時には李嗣昭隊の一部を率いて果敢に戦ったため、李存勗から「仁者の勇」と絶賛されます。 ただし、根っからの官僚で、荒事は苦手なタイプでした。 鎮州(常山真定)で、張文礼が乱を起こし、討伐に赴いた李嗣昭が戦死すると、その残存兵を見事に統率してのけ また、張文礼の子、張処球をして説得し、降伏にまでこぎつけることに成功していました。 もっとも、そのときは油断した鎮州軍を、李存審が強襲したので、張処球は戦死しましたが。 戦後、鎮州の節度使として郭崇韜が赴任すると、任圜は真定尹としてその幕下に入り この二人の黄金コンビの統治によって、鎮州の傷は癒えていくのでした。 任圜は意外に人を見る目がなく、これは、と思った人物を推官したのですが、 その男が任圜の目の届かないところで、公金横領に耽っていました。 その男は、そのことが発覚するのを恐れ、溜め込んだ私財を郭崇韜に包み隠さず報告しましたが 郭崇韜はそれを受け取って、不問にふしています。 それを知った任圜は、鎮州の行軍司馬職を辞し、工部尚書のみに専念することになります。 やや、郭崇韜との友誼に溝ができた形で。 さて、ここから本題。 前蜀討伐戦の折、郭崇韜は実質上の指揮権を与えられ遠征軍を統率しました。 任圜も、魏王付きの参軍として従軍しました。 そのとき、郭崇韜軍の先鋒を担ったのが、候補にも挙がっている康延孝。 康延孝はもとは後梁の将です。段凝という後梁の将帥の指揮下にいたわけですが、 それを脱して李存勗のもとに降ったのでした。武勇に優れていますので、李存勗は喜び 彼に姓名を与え、李紹琛(りしょうちん)と名乗らせました。 その李紹琛が、李厳という将とともに1万を率い、鳳州、固鎮、興州を陥とし、 前蜀の三招討使、王宗勲、王宗儼、王宗昱ら3万の迎撃軍を三泉の戦いで大破した。 さらに利州を陥とし、督戦に出向いていた蜀帝王衍を遁走させ 蜀軍は撤退するにあたり、民家や義倉を焼き、綿江の橋をも切って落とし、舟も沈めて李紹琛軍の 足止めを図ったが、李紹琛は李厳と相談し 「我らは敵地にあって、速戦しなければならず、橋の修理を待っていては敵に態勢を整える余裕を与える」 と言って、河を強行突破した。そのとき渡河できたもの千人、溺死したもの千人だったと言います。 鹿頭関から漢州を制圧した李紹琛は、ここで蜀の重臣王宗弼から降伏の申し出を受けました。 李厳はこの遠征軍の企画者の一人なので、その処理を行い、ここに前蜀は平らぎました。 李紹琛の功、最も大である、と史書に明記されていますが、 この人、郭崇韜や朱友謙らが冤罪で殺されたことに動揺し(誣告による粛清が相次いだ)、 西川節度使を自称して叛旗を翻します。 その李紹琛を、漢州の戦いで、あっさり撃ち破ったのが、魏王付きの参軍だった任圜。 彼は董璋に弱兵を率いさせ、李紹琛の突出を誘い、自ら精鋭を率いて、その側背を横撃しました。 李紹琛は任圜をただの文官と侮っていましたが、足をすくわれました。 漢州城に逃げ込んだ李紹琛は任圜の火攻めにどうしようもなくなって、ふたたび出陣しましたが 今度は正面から戦って破れ捕らえられました。 一体、誰が一番強いのかわからない状態ですが、前蜀戦かように入り乱れておりました。 712 ○ sage 2007/04/03(火) 05 27 49 ID hLnQoVG30 次スレです 三国志二十四大英雄 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/ 713 ○ sage 2007/04/03(火) 06 49 14 ID L/JUw1yu0 712はガチで偽物 ちなみに三戦版にも同じ様なスレたってるけどな… 714 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 16 24 01 ID zAFfeCHo0 【みんなで】 選抜 三国志二十四大英雄 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/ こうしろ 715 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 16 43 23 ID 3AtpUj+u0 ttp //www.geocities.jp/kaysak864/n-mayuan.htm 馬援評伝。 これ面白い。 特に興味深い考察を引用しとく。 >もしも馬援がアスペルガー症候群とするなら、 >光武帝と高祖の比較の言葉も意味が違ってくる。 >そもそも馬援は光武帝と意気投合すること甚だしく、その評価もべた褒めである。 >それをさらに劉邦が上と評するのは極めて不自然であり、隗囂もその言葉についていけなかった。 >これも自閉症者の持つ言語特性と考えることで謎が氷解する。 >自閉症者の言語の特徴は含意を理解できず、言葉のそのままの意味に用いるということである。 >馬援の言葉「不如也。高帝無可無不可;今上好吏事,動如節度,又不喜飲酒。」をその言葉そのままに理解すると >「比べられません。高祖は特別な能力はありませんから。今の皇帝は事務処理にも長け、行動にも節度があり、お酒を好みません」となる。 >劉邦は事務が嫌いで、行動に節度がなく、お酒好きだったから、この3つは光武帝が上回る点をさらにだめ押しで追加したのである。馬援は、高祖劉邦はただの凡人であって、 >光武帝と比較するのも馬鹿馬鹿しいと言いたかったのかもしれない。 716 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 17 07 42 ID EZmiygYlO 715 スレ違い乙 717 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 19 08 57 ID rtGwnu5o0 714 ここじゃなくあっちのスレに陳情しろよwww 718 ◆RQdk7scN8s 2007/04/03(火) 19 58 38 ID P41V3Neb0 前に李晟に相当するのは、五代では誰? という質問があって、自分は良く知りもしないくせに、テキトーに寇彦卿、とか言ったけど これは完全な誤りでした。 似ているのは、お互いに皇帝の腹心であり、親軍の将として信頼されたところだけ。 戦場での洗練さは、李晟のほうが非常に上でした。 つうことで、「五代群雄」スレに怪しい訳とともに紹介しておきましたので、興味ある方は御覧ください。 あと、添削もできれば… 713 なんでいきなりニセモノが現れたんでしょうね? 719 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 20 40 12 ID EZmiygYlO 718 ◆RQdk7scN8sさんご親切に有難うごさいます。 以前に李晟について質問した者です 「五代群雄」スレの方に見に行ってきます 本当に有難うごさいました 720 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/03(火) 21 12 11 ID RlL9Cbtn0 いきなり風邪ひいて昨日からダウンしてた俺ですが、 起きたついでに唐末~宋にかける漢族と異民族間の考察をば開陳します。 中国の歴史においては唐代にいたるまで、漢民族と北方民族の関係は比較的 単純な方式にしたがっていた。まず好戦的な北方民族がはじめは略奪、やがては 制服の意図で中国に対する侵入を繰り返す。もしも中国の社会が健全な組織を 持っているなら、中国は容易にこの侵入を撃退することができる。なぜならば 北方民族が恃みとするのは当時の戦闘に最も大きな威力を発揮する騎馬戦術 であり、遊牧民族はその出自ゆえ生来騎射に優れているので優れた軍人的 素質を持つ。それでもって中国に攻撃を仕掛けるわけだが、漢族と北方民族の 戦力を総体的に比較した場合、数において漢族が圧倒的優勢に立つ。さらには 富力の差だが、これはさらに開きが大きい。だからもし長期戦ということに なれば、北方民族のほうが疲弊して軍を還すということになる。漢代、中国が 匈奴にさんざん苦しまされながらも最終的には反撃し是を屈服させたのはこの 良い例といえる。 しかし、唐末五代~元までの時期にかかるとこの事情が変わってくる。 唐末頃から北方民族と中国との関係は非常に複雑なものとなり、一筋縄では いかなくなってきた。第一には北方遊牧民族の知力が発達したことにある。 彼らは以前よりも中国文化をよく理解し、その長所と短所を同時に見抜く力 を持つようになった。その長所を知ることは彼らに中国人民を利用しようと いう気持ちを起こさせ、その短所を知ることは彼らに中国文化をむやみに崇拝 したり憧憬したりする態度を棄て、中国文化にないかれら自信のうちにある 美点を保存しようと言う希望を起こさせるにいたる。これは中国に対する 異民族の民族的自覚であり、いわゆる国粋保存的な政策が底から生まれる。 その結果、遊牧民族の国家の性質に柔軟性が加わり、従来のように強いばかり で同時にもろいのと違い、弾力を持った耐久性のある国家が現れてきた。 遼およびそれ以後の西夏、金、元などの国はいずれもこの例に当てはまる。 つぎに中国人のほうでも、異民族国家に対する分析が進んでくる。中国人も やはり異民族の弱点を見抜き、それは経済的に微弱であることだと結論した。 そこで以降の対異民族政策には多かれ少なかれ、経済が武器として用いられる。 ときにはそれが濫用されてかえってみずからの首を絞めることになることも あるが、全体的に見て政策の進歩であることは間違いない。 ・・・概ね宮崎市定氏の論に拠りました。まぁこの程度はこのスレ的には常識 で、いちいち言うまでもないとは思うんやけどまぁ、それ以前の匈奴やら柔然に 比べて遼、西夏や金、元が一線を画す存在であるという事を提起したかったわけ です。つーか寝起きの独り言なんでスルーしてください。 で、五代~北宋の空き枠三名には、 五代から劉仁瞻、西夏から李継遷、北宋の劉昌祚を推します。 721 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 22 06 27 ID mpJSp2SR0 論に拠ったというより、ところどころ端折ったり言い換えただけでほぼそのまんまと言ってもいいよね 722 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 22 52 49 ID 05omaE1q0 独り言ならスレに書き込むなと小一時間 723 ○ sage 2007/04/03(火) 22 56 46 ID L/JUw1yu0 711 718 ◆RQdk7scN8sさん 乙&㌧です。 偽物についてなんですが多分このスレで自分がやたら 五代と三国志の比喩論を述べていたからではないかと推測しています。 711に李厳なんて名前あったら反応しちゃうしw 朝スレ見てたら自分の書いた憶えのないレスが載ってたのにはビックリしましたよw で思わず憤慨しちゃいましたwww あとですね郭崇韜と任圜についてちょっと 自分なりに意見を述べてみようと構想中です。 (◆RQdk7scN8sさんのレスと被る箇所が多々あるかと思いますが) 720 ◆oOLAqFKRBさん風邪の具合は大丈夫ですか? 無理しないで寝ててくださいよ!! 一日も早い復帰、心よりお待ちしてます。 さて自分は西夏なら李継遷より孫の李元昊を推します。 五代なら楊師厚を北宋からは楊延昭(楊六郎)か潘美を推します。 724 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/04(水) 01 40 12 ID 6Y9RtpAAO 723 李元昊を推すなら推すでかまわないですが、 何をもって中国の武将とするか理由を明記してくれませんか? 李元昊が入るならば、大越(現ベトナム)の李常傑、元代の陳興道、 明代からはオイラートのエセンを推す人が出てきたとき、反論できません。 どうじに耶律休哥など国号から遼を外し、契丹のみにしてる時代の人物を推すひとは、 何をもって中国の名将であるとするか書き込むか、時代を戻して、 過去の中華風の国号をしてない北方民族も、選考の対象にするのか意思表示して下さい。 私は遼を選考から外したい人を強引に納得させ、スレを進めた人物です。 最後まで遼をはずそうとした人が、言い放った言葉を思い出して下さい。 私は、遼が中華王朝か否か?の論争はスレ違いだと思いますが その人物が中国の名将か否か?はスレ違いじゃないと思ってます。そうですよね? 誠に申し訳ないですが、お手数をかけますが、理由を書いてもらえませんか? 725 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 01 47 03 ID 0uxFM+xa0 李元昊 当人がもし生きてこのスレ見たら血吐いて死にそうだよなw 726 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 05 14 00 ID YB6QMW6K0 喉が痛くて眠れやせん。今日は朝一で病院行こう。 さて、 724さんの言う「中国の名将か否か」ですが、 「守勢(中華からの侵略に対する防衛)ではなく積極的に 中国本土に攻め入り、多大な武勲を挙げて自国の版図を広げた(あるいは橋頭堡を作った)」 でどーでしょ? 陳興道は赫々たる戦果を上げたがその戦いは元朝の侵略に対する防衛戦やったし、 エセンは明領内に攻め入って大勝したものの結局中国本土にオイラートの領土を広げてない。 よって上二名は「中国の武将」ではないということで。 李常傑は・・・すんません、よく知らんわ。 で、俺の推す李継遷はというと夏州から宋軍を撤退させてその版図を奪い、 さらに霊州を取り、宋軍15万を全滅させるという十分な戦功も立てとるから、 中国の名将で(最後流れ矢に当たって死んだのが間抜けやが)いいのではないかなぁと思うがどうか。 そんで○さんの推す元昊はどーやろ? ウイグルを攻めて甘州を取ったけど、 これは中国本土の土地にカウントされん気がする。でも宋仁宗の時代に陝西地方で37万の精兵を率い、 当時弱体化していた禁軍100万を蹴散らしたけんが武勲は十分。けど韓琦・范仲淹に阻まれて中国の土地は奪えずじまい。 しかも経済封鎖された挙句和睦して、その条件に「西夏は宋に対して臣下の例をとる」ことで調印しとるしなぁ。 敦煌やら西北方面への領土は広げたけど、中国の武将ではないか? つーかそもそもこの人、西夏が漢化するのを嫌っとったし。 ま、俺の意見に納得できん諸兄もおるやろーし、 ここは合議制の場なんやから大勢が両者とも資格なし、となればそれに文句は言いません。 727 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 13 40 32 ID X6a7+FA80 「中国」の中身は長い期間の混血によって変化している。 当然、その範囲も時代によって変化していると考えた方が良さそうだ。 だからこの際、支那≠中国と考えるべきだ。 「文化に漬けられた弱い南人=漢族」で「支那の王朝だから正統な中国」の論理は見飽きた、聞き飽きた。 天命も領土も保ち得ない文弱王朝は元々正統ではないし、そもそも正統の王朝なんてものは最初から存在しない。 正統云々は時の為政者たちの都合次第。 士大夫どもがその宣伝を鵜呑みしてたただけ。 忠義の対象が一つしかなければ、そうせざるを得ない。 極東の島国の俺たちにその論理を盲従する必要性は全く無い。 狂的な漢人イデオロギーを妄信してた宋にしたって沙陀色が濃いし。 728 ◆RQdk7scN8s 2007/04/04(水) 20 57 47 ID PeGUb0ID0 723 ちょっと関係ない雑談なんですけど ○さんは、五代史に関して、どんな資料を参考にしてますか? それは岩城さんにも聞きたいのですが。 自分は基本、《五代史》、《五代史記》、《五代史書彙編》(十国春秋もこの中)、五代絡みの概説書(むろん日本書籍) あと、『五代群雄傳』くらいなんですが。 関連論文も読みたいところですが、そういう機会はなさそうです。 729 ○ sage 2007/04/04(水) 22 45 35 ID rYwHrifH0 728 企業秘密ですw(もちろん冗談ですが) ◆RQdk7scN8sさんの様に五代史、五代史記など読める環境、読解力があればいいのですが なかなかそうもいかないのが現状です… 参考資料としては資治通鑑の注釈本、陳舜臣氏の中国の歴史などですかね。 まあ覚束ない知識ながら語らせて貰ってます。 (ちなみに漢文は大して読めませんし…) あと海南島にまで左遷された人物は蘇軾でした。 訂正 海南島から帰って来た時は朝廷には復帰できず常州で死去してました。 730 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 22 51 35 ID LTCrPQz60 728 ◆RQdk7scN8sさんへ。 俺は新旧《五代氏》と《十国春秋》のみ。 あとは《続通志》の一部に五代の人物列伝が載ってるのと、 概説書として宮崎市定教授の「五代・宋」ぐらいですか。 あ、《史治通鑑》と《通鑑紀事本末》もその都度時代を敷衍してみるには便利ですね。 偉そうに紹介文挙げたりしてる割に 実は五代は苦手というか、そんな詳しくなかったりします。 資料は喉から手が出るほど欲しいのに、どんな伝手で手に入れるかわからんという。 一応近所に官籍専門輸入書店があることはあるんやけど、ここの品揃えがあんまりよくないのですよ。 731 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 22 54 22 ID LTCrPQz60 730 変換ミス。官籍→漢籍で。 732 ○ sage 2007/04/04(水) 23 24 45 ID rYwHrifH0 724 何をもって中国の武将とするかについては 取り敢えず自分 21で示されてる定義に添って推薦しているつもりです。 あと 726で述べられてる>「守勢(中華からの侵略に対する防衛)ではなく積極的に 中国本土に攻め入り、多大な武勲を挙げて自国の版図を広げた(あるいは橋頭堡を作った)」 自分もこの意見に近いですね。 それに西夏も一応認めることで話が進んでますよね? なのに西夏から一人も推薦挙がらなかったら後からただ入れろ入れれと言ってたたけかよと!! と苦情が出るかもしれないし、そう言うのも考慮してます。 李元昊は西夏の建国に前後して三川口・好水川・定川砦において北宋軍に勝利してますし 資格については問題無いと思っています。 西夏(夏)についてですが 李徳明の跡を継ぎ、検校太師・侍中・定難軍節度使となり、西平王に封ぜられた。 西夏と呼ばれてますがこれは北宋が勝手にそう呼んでるだけで本来は夏。 李元昊は現在の寧夏回族自治区銀川の興慶府を首都と定めてる。 唐始に拓跋赤辞は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れれ 慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。 唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、 それ以降、夏国公として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。 国の成立を見る限り西夏は中華の国として扱ってもいいのではというのが持論です。 もちろん遼・金・元も同様です。 陳興道は陳朝(大越) モンゴル軍の自国への三度に渡る侵攻を全て撃退 李常傑は北宋軍の攻撃が始まる前に10万の大軍をもって中国領土内へ進攻し勝利したんですよね?。 それに大越(李朝)の李常傑はベトナム救国英雄と呼ばれる人物の一人ですよね? さすがに大越(ベトナム)の武将は選外とするべきでしょう。 オイラートのエセンですがモンゴル帝国崩壊後、オイラートはケレイト、ナイマン、バルグトなどを含む部族連合集団に変容し、 後にモンゴル高原のほとんどすべての部族を制するに至ったんですよね?。 いくら元(北元)と称していても部族連合集団であり国家としての様相を呈してないので 選考基準から外れるのではないでしょうか? 以上が自分の持論です。 諸兄が李継遷・李元昊は中華の武将ではないと反対するなら自分は従います。 733 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 23 34 51 ID 1tmtmtZF0 李元昊の夏は諸部族連合でなかったと? 諸部族連合だから国家じゃないというのなら遼や元の組織だって変わりはありませんよ? 734 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/05(木) 00 41 40 ID 0wO0KLdZO 732 西夏を入れるのと、その人物を中国の武将であると見なすのとは違いますよ。 だから、李元昊の名が出てもスルーされていたと感じていましたが。 ヴェトナムは唐代まで、戦乱期の一時的な時代以外は、中国の支配化にあったんですよ。 阿倍仲麻呂が派遣された話とか有名ですよね? この時代、ようやく独立を果たしたにもかかわらず、 朝廷から贈られたのは「安南都護」でした。 李常傑の活躍で、安南国になるんです。彼ら自身は越と称してるんですけどね。 自治権は認めても、領土的には中国本土であると考えられてます。 だから後の中華王朝が度々、征伐に来るのです。 李元昊のように独自の文字を制定したわけでもなく、 独自の文字もなく、制度は中国と変わらなかった安南の 李常傑を外すのは矛盾があると思うのです。 李元昊自身も、中国の武将だと思ってないはずです。 外すのが無難かと。 735 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 00 46 30 ID CWGq96lM0 733 726の定義を提起した博多の岩城ですが、○さんに援護射撃。 西夏も遼・金・オイラートなども諸部族連合によって成立する国家という 点では同根だと思う。ただ、李継遷時代の西夏は自ら夏州・雲州を奪って 陝西地方に橋頭堡を作ったということで中国の王朝でありそこに所属した 武将は中国の将と愚考する次第(元昊はむしろ中華文明からの脱却を 目指したから中国武将とは言いがたいところがある)。で、オイラートは 諸族連合国家ということでは西夏と同じであるものの、南下して中国の 土地に領土を獲得したわけでないので中国の国家ではないと。翻って遼は あらかじめ燕雲16州という橋頭堡を持ち、それを保持するために南下して 北宋に攻勢を仕掛けたこともあるので中国、というか半中原国家という感じ。 金は最初から南進してきて中国の土地を版図に加えたから問題なく中国の国家 だろうし、元というかその前身たる蒙古はチンギス即位後、ムカリあたりが 金に攻めよせて各地を獲り、転戦して橋頭堡を築いたのでこれも中国でいいかと。 これに関して 733さんおよび諸兄の意見を聞きたいと思いますが。 736 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 01 01 23 ID L2DsHe8+0 735 そうですね逆に質問します。 仮の話ですが、琉球が日本に侵攻して九州を占領した過去があったとしたら、その 時に琉球王朝は日本の一部となりますか?その武将は日本の武将と呼びますか? さらに進んで中国・四国地方くらいは征服したが、王は那覇を離れず日本の占領地 へは代官を派遣するくらいの支配で。 現実の例だったら(たとえとしては無理があり適当でないと承知の上ですが)、英仏 百年戦争でパリを含むフランスの半分以上の領土を支配したイングランドはフランスと なるんですかね?エドワード黒太子はフランスの武将になるんですかね? 737 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 01 31 58 ID CWGq96lM0 736 九州を占領した過去があったら その場合九州の武将たちは琉球の将となるでしょう(好むと好まざると、また 支配の緩急に関わらず)。王が那覇を離れなくても一度支配した土地に派遣 した代官、将軍たちはやはり琉球王朝の臣下となるのでは? また、百年戦争 でフランスの広大な版図を手に入れたエドワード黒大使はやはりイングランド の皇子であると思います。日本の大半を琉球王が支配した場合、やはり彼が 琉球王であるまと同じで。一番顕著な例は蒙古であろうと思いますから蒙古を 引き合いに出しますが、チンギスがムカリを中国路の王として派遣し、自らは 中国に目もくれず西方経略に本腰を入れたとして、ムカリが切り取った金の 国土はやはり蒙古の版図・橋頭堡としていいと思うのですが。 質問の意図を間違って捕らえていたらすいません。なにぶん阿呆なので。 738 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 01 49 34 ID CWGq96lM0 追記。 そして完全に敵国を併呑したところで、あらたな国家を創建する問題が でてくるのだと思います。空想の話ですがエドワード皇子がフランスを 完全支配下に置いたら古い国名からイングランド領ガリアとされたかも しれませんし、蒙古はある程度の領土拡大を果たしてからモンゴルの正統、 元と各ウルスがそれぞれ創建されたわけですから。 739 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 02 55 39 ID sh07ZMUM0 李克用と李存勗は親子で名将なんですね かっこいい! 740 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 03 08 02 ID H9XH0T7U0 >黒太子の英仏完全併合 その場合、プランタジネット家領仏蘭西で首都は巴里だと思う。 支那だって劉家領支那=漢で李家領支那=唐で愛新覚羅家領支那=清だった。 741 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 11 58 07 ID 16153irr0 740さんへ 首都が遷ったにしても広大な土地を占有したにしても、根本にある国家 精神は変わらんでしょ。仮にイングランドがフランスを制圧したとして 「こっちのほうが土地広いから、今日からウチもフランスを名乗ろう」 とはならんわけで、言ってみれば居心地のいい仮住まいを手に入れた程度。 仮のさらに仮の話になってしまいますがプロイセンとかに英国領フランス の土地が全部奪われたとしても、本当の拠点はあくまでイギリス本土 だからフランス駐留軍と国家上層部さえイングランドに帰還させれば 国家的にさほどのダメージを負う事はないでしょう。翻って中国に 当て嵌めると金だって支那の北半分を獲りながらあくまで金という国家 のままだったわけだし(現地の文化に耽溺した、というのはあるけども)、 蒙古にボロ負けして支那本土の拠点を失っても、下層階級は本来の故地 である満州の方に逃れたから、すっかり支那文化にかぶれた上層部以外は たいした問題なく、女真族そのものは部族をまとめる巨大な統率者を 失った以外、さほど巨大なダメージを被ったわけではなかった(もとの 遊牧騎馬民族に戻っただけ)と思います。実際、数百年の雌伏ののち 新たな統率者が出て、清(最初は後金か)として復活することができた わけだし。 ・・・なんでこの時間にお前がおるんやとか突っ込まれそうやけど、 風邪が悪化して自宅謹慎を命ぜられとるんですわ。やから暇なのです。 742 ○ sage 2007/04/05(木) 14 05 02 ID 0H4+iB4c0 ◆oOLAqFKRBさん 乙&援護射撃㌧です アンタなんでこの時間に居るんや、暇でも安静にしとかんかい と一応突っ込んどきますわw さて李常傑を中国の武将として認めるにしても 726の定義に当てはめた場合、李常傑はどうなんだろう? 李常傑は北宋の進軍をいち早く察知し、逆に北宋領土へ進軍し北宋軍を撃破したんですよね? これは先取防衛の為ではないでしょうか? 諸兄の意見をお聞かせねがえませんか? あと李元昊を外すことに異論はありません。 743 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 17 23 24 ID VjMOowo3O あんまり深く考えないでさ。歴代中国、若しくそれらと実際矛を交えた国の武将と言うことでもいいんじゃね? せっかく選んだ武将が○○に負けたのに名将かよ。プwとか思われるの嫌だし 744 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 18 15 27 ID dy96S1BTO 743 そんなのでよかったら定義とかあれこれ話合ったりした意味ねーな 745 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 18 20 21 ID Qs7ILgkC0 738 百年戦争はイングランド王がフランスの王位継承権を主張したわけだし アキテーヌに領地を持ってたフランスの諸侯だったんだから イングランド領ガリアはないよ 746 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 19 39 34 ID H9XH0T7U0 0:フランス王 1:ノルマンディー公 2:イングランド王 3:アキテーヌ公⇒3´:ガスコーニュ公 4:アンジュー伯 5:ブルターニュ公 6:ウェールズ公 7:スコットランド王 8:アイルランド卿 所領と爵位を0~8と定義する。 ノルマン朝初代:ウィリアム1世(1、2) ノルマン朝二代:ロベール2世(1)vsウィリアム2世(2) ノルマン朝三代:ヘンリー1世(1、2) ノルマン朝四代:女帝モード&ジョフロワ4世(1、4)vsスティーブン(2) プランタジネット朝初代:ヘンリー2世(1、2、3、4、5、8) プランタジネット朝二代:リチャード1世(1、2、3、4、5) プランタジネット朝三代:ジョン(1、2、3、4)vsアーサー(5) プランタジネット朝四代:ヘンリー3世(2、3´、8) プランタジネット朝五代:エドワード1世(2、3´、6、7、8) プランタジネット朝六代:エドワード2世(2、3´、6、8) プランタジネット朝七代:エドワード3世(2、3、3´、6、8ほか)&エドワード黒太子(3、3´、6) プランタジネット朝八代:リチャード2世(2、6、8ほか) ランカスター朝初代:ヘンリー4世(2、6、8ほか) ランカスター朝二代:ヘンリー5世(2、6、8ほか) ランカスター朝三代:ヘンリー6世(0!、2、6、8ほか) 初期のプランタジネットはフランスのルーアンが事実上の首都。ほぼフランス人。 カペー朝に対するプランタジネット朝は後漢末の魏みたいなもの。 カペー家の殻を突き破れなかったのがおかしいくらいだ。 フィリップ2世、シャルル5世&デュゲクラン、シャルル7世&ジャンヌダルクのどれか一つがいなければ、 英仏統一王朝が誕生してた可能性が高い。 特にフィリップ2世はおかしい。なんだコイツ。 …まあスレ違いだが、たまにはいいだろ。 747 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 19 50 31 ID GljYhMi60 745さん うあぁ、西洋史の知識がろくにないことを露呈してしまった。 でもまぁ、“フランスの王権を手に入れたとしても実際重視されるのはあく まで英国”“フランスの肥沃な農場地帯と貴族文化、ヨーロッパ本土への 橋頭堡としての価値は魅力的だが、いざとなったらシッポ切りするのに 問題なし”という部分が言いたかったわけでして。そこが金や元における 中国本土とかぶるかな、と。 ろくな知識もなしにとくとくと偉そうなことを書き込んだこと、謝罪します。 748 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20 12 59 ID L2DsHe8+0 やっぱり百年戦争のたとえではずれてしまいますね、すいません。 ちなみに私個人の考えだと 金や元は中国王朝とは言いがたい(特に元)が、中国の征服王朝にはなった。 遼や西夏は中国王朝でもなく、征服王朝にもなれなかった。 749 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20 20 33 ID H9XH0T7U0 747 項羽を例に当てはめてみます。 ”秦を手に入れたとしても実際重視したのはあくまで楚” ”関中の肥沃な田地と行き届いた法治支配、政敵の劉邦を四川に押し込めておく拠点としての価値は魅力的だが、他人にくれてやって問題なし” …やはり生活文化が違うので金や元のケースとは違うでしょう。 この場合、対仏政策が破滅に直結するでしょうから。 750 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20 28 32 ID dy96S1BTO 746 カペー朝に対するプランタジネット朝は後漢末の魏みたいなもの。 カペー家の殻を突き破れなかったのがおかしいくらいだ。 またまたスレ違いな話だがカペー家かどこかの家宰に曹操みたいな奴いなかったっけ? 734 いくら自治権は認めても、領土的には中国本土であると考えられていても やはり大越の李常傑を中国の武将とするのは無理があるんじゃない? 751 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 21 01 17 ID H9XH0T7U0 メロビング朝フランク王国の宮宰カールマルテルだと思う。 トゥールポワチエ間の戦でイスラム軍を虐殺し、カロリング朝フランク王国の基礎を築いた男だろう。 >越南 実態は中原勢力の植民地。風俗も違ったし。朝鮮みたいなもんだと解釈した方がいい。 752 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/05(木) 21 44 37 ID 0wO0KLdZO 750 李常傑はあくまで喩えです。李元昊は入るとしながら、李常傑は入らないというのは 間違っているという例として出しただけです。 今の時代に生きてるから、安南=ヴェトナムだから他国と思うだけで、 中国の歴史から見たら、間違いなく中国本土であるにもかかわらず、 その人物を中国の武将じゃないというのであれば、 当然、その概念はそれ以外の人物にも適用されるんですよね ?中国固有の領土であろうと、なかろうと、外れる場合はあるんですよね? 私が問いたいのは、何をもって中国の名将であるとするか?なのです。 つまり、その条件に当てはまらない場合は、たとえ中華王朝の漢人武将であろうとも、 中国の名将とは認められない――そんな条件なんです。 726がそれだと言うのであれば、それはそれで構いませんが、 それだと選定作業をやり直す必要がありませんか? 753 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22 14 48 ID dy96S1BTO 751 トンクス そうかカールマルテルだったか 750 それならシンプルに李元昊は外す、李常傑も入らないでいいじゃん たとえ中国の歴史から見たら、間違いなく中国本土であっても 実際ヴェトナムの人々は俺たちの国は中国だと思っていたかな? 俺は違うと思うぞ インドの人々は俺たちの国はイギリスと思ってたかな? 名将の定義は取り敢えず 21にあるのでいいんじゃないかと思うけど プラス遼・金・元は含めるそれでダメなのか? でそりゃあ違うだとという人物は今回の李元昊のように指摘する そんなんじゃダメなのか? 俺はそれ以上思いつかないよ・・・ 754 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22 15 41 ID 0zYnzRwq0 752 私が問いたいのは、何をもって中国の名将であるとするか?なのです。 つまり、その条件に当てはまらない場合は、たとえ中華王朝の漢人武将であろうとも、 中国の名将とは認められない――そんな条件なんです。 なんらかの定義はできるでしょう。 しかし万人が異論ない定義が可能だと思ってるわけですか? そもそも、自分自身の案を提示もせずにそういうないものねだりをするのは、 無駄にかき回して議論の収束を妨げてるだけにしかならないですよ。 既に出てる案にそういうものがなく、あくまで賛同できるものがないというのであれば、 ぜひともあなたの理想とするところに近い定義を提案してください。 自分は正史ベースの 505を推します。 中国武将が何たるかなんて定義は、中国とは何かと同様で、 万人に納得できるものを作ることは不可能だと考えるので、 既に評価の確立した正史に習うのが妥当ということで。 あとこのまま収束しないようなら、少人数で定義決定する方式にしたほうがよいと思います。 それに納得できない人は、反論するに値する定義の対案を出さない限りは反論を認めない。 で、少人数を誰にするか、というところは、このスレに多数の名将を紹介して貢献度が高いと思われる、 ◆oOLAqFKRB.さん、◆RQdk7scN8sさん、○さんだったら不満もすくないんじゃないかな・・・と思ったり。 どうですかね? 755 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22 20 28 ID dy96S1BTO 753 すまん遼・金・元に西夏を含めるの忘れてた 756 ○ sage 2007/04/05(木) 22 57 36 ID 0H4+iB4c0 754 自分はですね正史ベースの 505はいいんじゃないかなと思いますよ。 でこれに西夏(夏)も含め あとは推薦した人物に対し諸兄が納得してくれれば良し、 今回、自分が推薦した李元昊の時みたいに そいつは「ちゃうやん、あかん、あかんてそいつは認められへんで」みたいに指摘してくれたらいいかなと思いますけど こんな感じでとうでしょうか? なんか 754さんに博識な御両人と一緒に指名されてますが 本当に自分なんかでいいんですか? 757 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 23 15 07 ID HcEYfMrF0 754さん 俺が選定員に推戴されたらムカリ、トゥルイらのモンゴル武将や ヌルハチ、アハタイら後金武将(つまり元、清の建国を担った人々)を 「正史にあるけん」の一言で平然と組み入れてしまうんで、反発派は かなりの数に登るかと。それでいいなら選定員の一翼を担うのも 問題なしですが、「モンゴルは違うだろ」「清は入関後だ」って言う人は 今のうちに俺を潰しといたほうがいいかと。 758 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 23 31 45 ID HcEYfMrF0 757に追記 俺としては 505案に自分で出した 726を併せて折衷すると言う 方向で行きたいと思います。これに反対の人は俺の選定員入りを 阻んでくれると後腐れなくてむしろさっぱりします。 ところで◆RQdk7scN8sさんが沈黙を守ってますね。迷ってるんだろーか。 759 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 23 47 20 ID H9XH0T7U0 「正史に記載されてれば入選資格有り」 このスタンスでいいだろ。 それで夷狄に椅子を奪われる程度の指揮官が名将なものか。 760 あの~ 2007/04/06(金) 00 12 36 ID Bbv/dSjkO 754 実は私が 505なんですけど。。 トリップつけないと不味いですか? 過大解釈案 この際、正史にのる戦役は全て対象として、 その戦いに参加した人物が名将であるか否かを議論する。 ただし、その人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合、 その人物が中国の名将であると、推薦者が立証する。 例えば、耶律徳光を推薦した場合、国号は中華風の遼も名乗っており、 少なくとも本人は、中国に対する憧憬と、 中国を支配下に置く意思があったと推測されるから――など。 この推薦文だと、国号が契丹だけの時代の耶律休哥は外れますね。 あと、遼を外すと主張してる人は、遼将を外すならば、誰を入れたいのですか? ただ単に揚げ足取りしたいわけでは、ないですよね? 李元昊の代わりに李継遷を推薦します。 李元昊にくらべ、民族独立色が薄いから。 耶律休哥のかわりに、耶律徳光。理由は先に書いたので、かつあいします。 小説から、李元昊、耶律休哥に興味を持ち、資料を調べたうえで、 この人物を好きになりこそしれ、嫌いになれないだけに、 選考の対象外にするのは、非常に心苦しい気持ちでいっぱいです。 761 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/06(金) 00 40 53 ID 8gXNJR8p0 760さん 同じく李継遷を推す同志と勝手に呼ばせていただきますが、 むしろ元昊のほうが英雄的気概にあふれとるんですよね。 前に書き込みましたが 中華から独立して敦煌以西に自分たちの国家を作ろうとする企画力とか、 弱体化してたとはいえ陝西で禁軍100万を37万の精兵で撃破した用兵とか。 中国からの独立を望んだために中国武将ではない、という一事がなければ 間違いなく俺も継遷よりこちらを推しただろうだけに、元昊は本当に惜しい人物だと思います。 彼を推していた○さんも諦めをつけるのは断腸の思いだったでしょう。 762 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/06(金) 04 36 59 ID iwgs9pHW0 中国の影響力が強すぎたのが全部悪い 763 ○ sage 2007/04/06(金) 06 51 44 ID 4zOHtfGs0 761 >李元昊を諦めたのは断腸の思いだったでしょう。 確かに李元昊を諦めたのは断腸のでした… では自分も◆oOLAqFKRBさん、あの~さんと同じく、 李元昊の祖父である李継遷を推したいと思います。 実際、李元昊を推した時に李継遷と李元昊のどちらにしようかかなり迷いました。 しかし諸兄の賛同を得られなかったのでそれは仕方ないかなと思っております。 (節操ねーなとか言われせうだが…) 764 ○ sage 2007/04/06(金) 13 50 04 ID 4zOHtfGs0 760 あの~さん(勝手に呼んでますがいいのかな?) >小説から、李元昊、耶律休哥に興味を持ち、資料を調べたうえで、 >この人物を好きになり とカキコなされてますが その李元昊、耶律休哥に興味を持つきっかけとなった小説の題名をお教え願えませんか? ちなみに自分は陳舜臣氏の小説十八史略にて李継遷・李元昊を 楊家将にて耶律休哥に興味を持ちました。 誠に厚かましいお願いですがよろしくお願いします。 765 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/06(金) 18 57 30 ID 0u9nFGkN0 ああ、なんかヤボ用で時間費やしている間に、すっかり話題が。 自分は遼を外そうと考えましたが、基本は正史にならうという意見ではありました。 遼を外す理由は古来からある中華政権の支配がおよぶ範囲 制度によって及ぼしていた範囲というものがあるじゃないですか。 温度差(サーモグラフィ)みたいなもので考えるとわかりやすいかな? (京師あたりは色が濃くて、地方になれば薄くなる) そういうところに対する、領土的な影響力というものが、遼(契丹)は薄い、というあたりを論拠としています。 まぁ、政治的な影響力は大きいのだから、別に入れることに頑強に反対はしません。 入れれば、太宗と休哥は確定するのかな? で、李継遷ですが たしかにコヤツが西ではねっ返ったおかげで、宋は遠征し敗れ あまつさえ遼に援助までとりつけて引き入れ、究極的には岐溝関の敗北を招かせたようなもんですので 結構なやり手ではあります。 宗主国から独立を獲得する契機となった、というあたり後漢の周瑜に似ている節はありますが そのあたりはどうでしょう。 と言っても、自分、拓跋思恭はわかりますが、この代になるとほとんどわかりません(をい)。 そうですね、「草原王朝特別枠」とかいって、別に設けてみるとか、そういうのはなしでしょうか。 766 ○ sage 2007/04/06(金) 21 43 35 ID 4zOHtfGs0 765 李継遷に似てるのは李元昊ではないでしょうか? どうでしょうか? 二人共、始めは宋に従ってましたが 後に反旗を翻し幾度となく武力衝突を繰り返したり、遼にも対抗したりしてますし、 吐蕃(チベット)を討ってたりしますよね、 それに李継遷は霊州を陥れて、西平府と改称、国都とし 片や李元昊は河西回廊を占拠し、興慶府に都を置いてます。 ちなみに史書には李元昊が ―英雄の生は当に王覇なるべきのみ。錦綺、何をか為さん。― と興奮した際、李徳明に向って言ったとされています。 (民族独立に対する意気込みなんでしょうね) 767 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/07(土) 12 51 23 ID 8Dz7hZN3O 764 井上靖の敦煌です。 そこから、この時代の異民族国家に興味をもち、図書館で調べはじめて、 耶律休哥の名を知りました。 小説としてはやはり楊家将で、この小説により歴史書の中の人物が、 血の通った人間になった感じです。 768 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 13 00 06 ID pG/HJowa0 このスレにいる人が楊家将読んでてちょっと嬉しいw 769 ○ sage 2007/04/07(土) 14 46 04 ID I3JbP16L0 767さんご丁寧に有難うございます。 >血の通った人間になった感じです。 全くもって同感です。 自分もですね楊家将を読んだ時、耶律休哥及び楊業に非常に人間味を感じました。 768さんもナカマー あと 760の 過大解釈案とその中で推薦文の例題として挙げられている事についてなのですが >ただし、その人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合、 >その人物が中国の名将であると、推薦者が立証する。 >少なくとも本人は、中国に対する憧憬と、中国を支配下に置く意思があったと推測されるから――など。これですと中国を支配下に置く意思があったの部分はいいのですが 中国に対する憧憬のないであろうモンゴル武将や清初期の女真族の武将が 外されてしまう様な気がしますけどいかがですかね? それならその人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合は 王朝樹立の際の戦闘及び樹立以降に功績のある武将は認める しかし明らかに中華の武将として認められるのを本人が明確に表している人物は不可 (ヌル八チとかどうなんだろうか…) 建国後遼は契丹に国号を変更してる時期も認める。 こんな感じでいかがでしょう? おかしな部分があれば手直しして頂ければうれしいです。 770 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 15 31 08 ID isOCtAs70 乾隆帝以後は完璧にチャイニズムに毒されてるよ。 順治、康煕、雍正の三代の遺産を食い潰す毒虫ぶりに秦始皇、漢武帝、隋煬帝、唐玄宗の風を見る。 トップの方向性が入選で云々されるなら、 乾隆帝以後の清は確実に歴代中国王朝のエピゴーネンと言えるだろう。 771 ○ sage 2007/04/07(土) 16 03 34 ID I3JbP16L0 770 あのさー乾隆帝以後は完璧にチャイニズムに毒されてるのはわかってるよ。 中華思想に触れて感化されない奴なんて略いないだろう また傍にいる漢人が染め上げようとするし。 それに定義を決めるのって当然、一筋縄じゃいかないのわかってるよね? だからわざわざ手直ししてくれませんか?と付け加えているんだし、 文句言うだけなら誰でもできるじゃないのか!! じゃあどうすればいいか貴方の意見をぜひ聞きたいね。 772 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/07(土) 16 12 05 ID PaG7IIxw0 ちなみに自分も『楊家将』は読んでます。 記述の少ない楊業を、よくもあそこまで書けたものですよ。 耶律休哥も楊業に会っては、分厚い壁にぶち当たった感じで書いているのは特によかった。 って、小説の話はこのへんで。 遼(契丹)を入れるとして、じゃあ誰が確定になりますかね。 太宗・耶律徳光は、自ら親征して一気に澶州にまで南下しており そこではじめてまともな後晋軍と対峙した。 一応、青州の楊光遠との挟撃という態勢であったが、名将たる高行周(高懐徳の父)が粘り 耶律徳光の南下を容易には許さなかった。 (高行周が出撃すると、耶律徳光は軍を退かせ精騎で中央を狙うと、晋帝石重貴がそれを迎え撃つ… など) 驚いた耶律徳光は、 「楊光遠は晋の兵は半ばが餓死したといっていたが、このように勢い盛んではどうしようもない」 と言って、一旦本国に引き上げた。 悲惨なのは楊光遠で、契丹との挟撃をもくろんでいたのに、それが崩れ取り残される形になった。 契丹は撃退できたものの、主戦論を唱えていた景延広は為すところが無く、かえって醜態だったので 地方に転出され、替わって桑維翰を呼び戻し、中書令兼枢密使として国難に対処させた。 枢密使・桑維翰のもと、河東の劉知遠、恒州(常山)の杜重威、宋州節度使兼禁軍大将となった高行周、 滑州の皇甫遇、徐州の趙在礼、孟州の符彦卿、河中の安審琦など、15節度使を 対契丹用に編成し、その南下に備えた。 桑維翰の軍略、決裁はいささかも遅滞することなく端から流れるようだったので、諸将は心服したという。 桑維翰の軍略のもと、兗州の李守貞が叛将たる楊光遠を討ち、これを敗死させることに成功した。 その年末に、ふたたび耶律徳光は南下し、恒州に本拠を置き、邯鄲まで陣を進めた。 桑維翰はすぐさま、皇甫遇や安審琦らを向かわせたので、戦線は一時膠着した。 皇甫遇が契丹軍の包囲を受け、少数で粘っているのを、張従恩等は「もう手遅れ」としたが 安審琦は「皇甫太師にもしものことがあれば、何のかんばせあって天子にまみえようか」 といって、麾下の兵だけで突撃したので、耶律徳光は晋軍が総攻撃に移ったと勘違いして 即座に恒州まで逃げ出したという。 膠着した戦線を打開するのに、皇帝石重貴は親征を決意し、開封を出発した。 勢いを盛り返した晋軍は、定州より進み、恒州を降し、ついには耶律徳光をちからづくで追い返した。 耶律徳光は幽州まで逃げ帰ると、敗戦に猛り狂い、各将たちを鞭で打ったという。 しかし桑維翰はあくまで講和論者であり、この後すぐに講和を具申するも、耶律徳光の返書に 怒りのこもった文章が見受けられたので、一時見合わせることにした。 戦勝で気が緩んだか、石重貴は桑維翰の諫言や進言を受け付けなくなった。 当時朝廷には、馮玉という奸臣がおり、皇帝の外戚だったが、桑維翰の影響下にあって発言力は低かった。 皇帝が桑維翰を疎んじていることを敏感に察し、李守貞を巻き込んで誣告した。 桑維翰は執政職を追われ、朝廷に出ることはなくなった。 馮玉らは実権を手にすると、燕雲への攻勢を実行したが、それは耶律徳光の自在の駆け引きに翻弄され 攻撃軍を担った杜重威や張彦澤といった有力者が、契丹に寝返るにおよび 契丹の大攻勢の末、開封は陥落した。 寝返った張彦澤は、耶律徳光が桑維翰を憎んでいると勘違いし、許可無く殺してしまったが 耶律徳光は「なぜ殺した」と、その遺族を手厚く遇したという。 耶律徳光の話をしていたはずなのに、また途中から違うのが出てきたな… まぁ、耶律徳光と契丹に拮抗する軍略の持ち主、桑維翰と、それさえいなければ破竹の進撃を誇った耶律徳光 ということで、判断してみてください。 ちなみに、このときの後晋領は石敬瑭の末年から石重貴が契丹に北へ連れ去られる直前くらいまで すさまじくひどい天災に見舞われており、国力は最悪だったということを付け足しておきます。 773 ○ sage 2007/04/07(土) 17 24 35 ID I3JbP16L0 772 耶律徳光(太宗)は石敬塘の後晋建国を助け 後に後晋が遼に背くと、南征するものの、 高行周・桑維翰らの活躍で一時は敗走しましたが最終的には 後晋を滅ぼし、華北一帯を占領してますよね。 たとえ後晋が最悪の状況にあったのを加味しても 耶律徳光の功績は凄いと言わざるえないのかな? (確かに途中で誰のこと推してるのか分からなくなってましたねw) 774 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/07(土) 20 01 14 ID PaG7IIxw0 【確定組】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 耶律休哥、狆師道、劉昌祚、李継遷、賈嵓、潘美、楊延昭、 史建?、王景、康壊貞、 【候補落ち】 朱温(朱晃)、郭威、曹彬 【確定有力候補】 李存審、顧全武、劉仁贍、耶律徳光、李継遷、劉昌祚、楊延昭、耶律休哥 かなりカオスになってますので、この辺でそろそろ決めたいと思います。 (いい加減、南宋以降の話も聞きたいし) 顧全武はいわゆる地方政権の名将であって、地域が極限定されているので10選に入れるにはためらう部分が大きい。 劉仁贍は10選確定の柴栄や趙匡胤相手に不敗というのが大きいが、いかんせんそれだけ。 耶律徳光は中原制覇を短期間で為した。維持できなかったのは政治力の問題とするならば確定間違いない ただし、遼のことなので、予備枠とする。 耶律休哥も確定予備枠みたいな感じとする。 楊延昭は武勲において、並ぶものなしと思える。 劉昌祚…狆師道のほうがよくはないですか? 自分が考える10選 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷 (契丹枠として)耶律徳光、耶律休哥 こんなところか。 775 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 21 39 14 ID isOCtAs70 >○ 771が俺を貶める為か、自らを誇る為のものか判らぬ。 だが、そんなことはどうでもいい。 君子はそのどちらもしないのだから。 二十五史だけでなく四書五経も読んでから来い。 俺を罵倒したことが許せないのではなく、その人柄を自ら損なったことがただ悲しい。 議論を壟断したいのならブログでも開けばよい。 776 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 21 42 29 ID neOBtDwl0 ○はスルーするに限る 777 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/07(土) 22 00 07 ID G49b2+p90 774 ◆RQdk7scN8sさんへ。劉昌祚より確かに狆師道のほうが適任と思います。 ただ北宋中期の武将が少なかったので一応名を挙げました。 耶律徳光と耶律休哥は燕雲以南の地を掠取していない守勢の人、休哥より 短期ながら中原を席巻した創業の人、徳光が10選入りの栄誉を受けるべきかと。 (耶律休哥は民衆から契丹最高の名将、と言われとるわけですがここは心を鬼にして) そんでもって以前選定者の一人に選ばれたわけですが、 505と 761の折衷というだけでは具体的な形が見えないのでここに概論を書きます。 ・基本は正史ベース。二次資料から引いてくる場合は典拠を明らかにする。 (資治通鑑より、とか出典・十国春秋、とか) ・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外、 中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。 ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 ・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、 そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。 ・・・こんなんで。 俺の頭ではこれ以上波風立たせずに全員を納得させる案は立てられんです。 ◆RQdk7scN8sさんや○さんがもっと洗練された定義案を出してくれるのを希望。 778 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/08(日) 00 45 57 ID z/gk5cja0 2時間ばかり休憩を挟んだから、そろそろ南宋に入っとるかと思ったけど。 進んどらんね。南宋に移行するんは明日からになるんかいな? さておき、誰も間に入らんので、柄にもなく俺が仲裁に入らせていただきます。 775さん、 776さん。 人の一度の過失をそう責めんめーや。俺も前スレで場を荒らしてしまった 経験ありやけど、再度やり直させてもらった事やし。寛容を求めます。 ○さんも落ち着いてカッカした自分を見つめ直そう? 一度自論を否定されたくらいで怒らんで、それこそ丸い心を保ちましょうや。 779 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/08(日) 00 57 04 ID 4I+oH72ZO 先の話だけど郭侃、伯顔、拡廓帖木児の扱いでまた揉めるんだろうな 780 770 sage 2007/04/08(日) 01 52 22 ID /v/LzJsE0 <紀元前> 11世紀:牧野の戦(周武王)、三監の乱(周公旦) 10世紀: 09世紀: 08世紀:犬戎の乱 07世紀:葵丘の盟(桓公 管仲)、泓水の戦(楚成王)、城濮の戦(晋文公 先軫) 06世紀:邲の戦(楚荘王)、鞍の戦(郤克)、鄢陵の戦(晋厲公 苗賁皇)、呉楚戦争(闔閭 伍子胥) 05世紀:呉越戦争(勾践 范蠡)、晋陽の戦(趙襄子) 04世紀:桂陵の戦(田忌 孫臏)、馬陵の戦(田忌 孫臏) 03世紀:燕斉戦争(楽毅、田単)、長平の戦(白起)、抗秦名将(信陵君、李牧、項燕)、陳勝呉広の乱(章邯)、楚漢戦争(項羽、韓信) 02世紀:白登山の戦(冒頓単于)、呉楚七国の乱(周亜夫)、石に立つ矢桃李言わざれども下自ずから蹊を成す(李広)、対匈奴戦争(衛青、霍去病)、百聞は一見に如かず(趙充国)、 01世紀: <紀元後> 01世紀:赤眉の乱(樊崇)、緑林の乱(光武帝)、大樹将軍(馮異)、矍鑠たる翁(馬援)、虎穴に入らずんば虎子を得ず(班超) 02世紀:鮮卑大人(檀石槐)、黄巾の乱(皇甫嵩) 03世紀:官渡の戦(曹操)、鳳や鳳や(鄧艾)、破竹の勢い(杜預) 04世紀:(王猛、慕容垂)、淝水の戦(謝玄) 05世紀:最初の可汗(社崙) 06世紀:六鎮の乱(爾朱栄) 07世紀:薩水の戦(乙支文徳)、玄武門の変(唐太宗)、(李靖)、高句麗遠征(李勣) 08世紀:タラス河畔の戦(高仙芝)、安史の乱(郭子儀) 09世紀:黄巣の乱(李克用)、五代名将(李存勗) 10世紀:南唐遠征(柴栄)、陳橋の変(趙匡胤)、千載不決の議(趙匡義) 11世紀:澶淵の盟(遼聖宗) 12世紀:方臘の乱(童貫)、靖康の変(呉乞買)、抗金名将(岳飛 、韓世忠) 13世紀:世界征服(チンギスハーン、ツルイ、スブタイ、ムカリ、モンケ、ウリャンハタイ、バヤン、郭侃)、抗元名将(完顔陳和尚、孟珙、呂文煥)、崖山の戦(張世傑) 14世紀:紅巾の乱、鄱陽湖の戦(洪武帝)、北伐(徐達、ココテムル) 15世紀:靖難の変(永楽帝)、大航海(鄭和)、土木の変(エセン、于謙) 16世紀:庚戌の変(アルタン)、万暦の三征 17世紀:サルフの戦(ヌルハチ)、寧遠の戦(袁崇煥)、李自成の乱(呉三桂)、三藩の乱(康熙帝) 18世紀:十全武功(乾隆帝) 19世紀:阿片戦争(林則徐、関天倍)、太平天国の乱(曽国藩、李鴻章) 11世紀~19世紀に区切って百の天下分け目の決戦(政変含む)を揚げ、 そこから百選を決めようと思ったが戦例を集めるのに飽きた。 「中国(史の)名将」なら二十五史に載ってればおkということで宜しかろう。 「中国(人の)名将」なら先秦以前のは明らかな夷狄以外はゆるく、 漢族成立後は拓跋、慕容、耶律、完顔、愛新覚羅等の連中を一人残らず排除すれば良い。 778 俺は○氏の論の何を 770で否定し、攻撃し、批判したのでしょうか? 「(彼にとって)判りきったことを俺が言ったのが、 彼を無知であるかのように扱うことと同じであり、 それが彼の矜持を傷付けた」と言われても謝る気はありません。理不尽だ。 また俺に対する彼の謝罪をも求めておりません。そもそも争いになるのがおかしい。 彼自身が自分自身に謝ればこの件はそれで終りとして頂きたい。 781 ◆RQdk7scN8s 2007/04/08(日) 02 25 24 ID BRC5l4KI0 なんか行き違いがあったようだけど、原因は 771のレスですかね。 ○氏は落ち着いてくださいね。 カッカしている理由はいまひとつ忖度できませんが、語気を強めることもないと思いますよ。 前に自分をなだめてくれたのに、らしくないですね。 また異民族枠の議論だから、 770氏もまとめる方向の対案を示せばベターでしたね。 とりあえず、自分が契丹特殊枠入れときましたので、異論ある人はそれを外せば良いし、 また候補からこれは、と思う将を格上げすればよろしかろう。 草原王朝については、各々モチベーションも違うだろうから、よりよい妥協点を探すしかないのでしょう。 できれば、これからも論拠と対案は併せて提示いただけると助かると思います。 特に反対が無ければ、この線で南宋へと突入したいと思います。 五代に長々とつき合わせて申し訳なかったことです。 782 ○ sage 2007/04/08(日) 04 32 23 ID m5io4n1t0 770さん、◆oOLAqFKRBさん、◆RQdk7scN8sさんお手間取らせて申し訳ない。 別に自論を否定されたとは思っていませんよ。 自分は皆でいろいろと前向きに思案すればいいかなと思っていますし。(念のため) 770さんが>彼自身が自分自身に謝ればこの件はそれで終りとして頂きたい。 と仰ってる様に自分はかなり冷静さを欠いていたのはあるかも… 770さん不愉快な思いをさせまして申し訳なかったです。 出来れば最初のレスに 770さんが 定義に対する自論を提示して頂ければ有り難かった部分はあります。 (しつこいとか怒らないでくださいね) 781 五代に長々と~ いやー自分は五代に大した知識の無い方なので◆RQdk7scN8sさんのレスはいい勉強になりました。 雑談もかなり入れちゃいましたけどねw 783 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/08(日) 05 07 40 ID F0HzLaWF0 最近見始めたんだけど、晋の厲公とかも入ってるんだなあ 784 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 18 55 59 ID FOH6MPFEO 777 一応、確認しておきたいのですが、 505案であれば、 金末期の金将の戦いは入りますが、元の外征は外れます。 しかし、この案ならば、異民族の金将による自国内の戦いは入らない。 されども元の漢人武将であれば、一般的な感覚からすると中国領土外での 活躍であっても評価する――と解釈して宜しいんですか? このスレでは基本的に、防衛戦よりも領土拡大を高く評価するので、 守勢云々は外しても変わらないと思います。 元という王朝がなければ征服王朝も含め、中国統一後の領土拡大に貢献した人物は、 戦場が中国本土外であっても、評価に入れるにすれば、 民族に拘る必要がない基準になるのですが…。 785 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/08(日) 19 59 41 ID iqf5zjHk0 784さん 伝わりにくい書き方ですんません。 俺の意図としては中国領土外での活躍は除外、です。 つまり中国本土に攻め入ったトゥルイは入り、バトゥなどは西域で大暴れしてるけどもアウト、という感覚で。 あと郭侃などの両方に戦功がまたがっている人物も、基本的に中国本土での戦果のみ、ということで。 俺は民族の枷は可能なら無視したい派ですが、戦場が中国以外におかれる場合は除外と言う姿勢で書いてます。 ただ、俺なぞの案にとらわれる必要はないですよ。 784さんがこうだと思ったらその武将を推挙して、それについて皆で論ずればいいと思います。 786 ◆RQdk7scN8s 2007/04/08(日) 21 51 00 ID BRC5l4KI0 あらためて読み返していて気がついたので 自分の考える五代~北宋枠の10選を訂正します。 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷 (契丹枠として)耶律徳光 楊業は息子の方がどちらかというとすごい感じ… というか、記録が少なすぎてわかりづらい。 不確定なところがあるので、申し訳ないが息子に譲ってもらうとして かわりに、楊師厚を入れました。 (忘れていたなんて、とても口に出して言えない…ガクブル) 787 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 22 30 43 ID FOH6MPFEO 785 スミマセン、頭の中では次の時代に移っており、そちらに意識が行ってました。 この時代の10選は私個人としては、 786で異存がないです。 漢や唐、宋に明であれば、中国本土外の地域であってもカウントし、 中国本土征服後の清朝であっても、中国本土外の戦い、 (他国との戦い)が外されるのは、可哀想だと思うんです。 元朝の問題がうまく処理されたら、 777案をもって このスレの中国の武将の定義になると思ったまでです。 私としては、少しの修正、補足で、すべての時代で通用する、 定義となりえると感じたので、あえて意見させてもらいました。 788 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/09(月) 00 22 27 ID 7CdWDV6X0 787さん 777を全時代に適応できる汎用定義にすることについてアップデート。 ・中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。 唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。 まだまだ完全な定義足りえないのは承知ですが、そこは諸兄に任せます。 本音を言うと他の人が完璧な定義を持ち出してくれると助かるんやけど、怠慢はよくないわな。 786◆RQdk7scN8sさん、 五代・北宋の10選は異議なしです。 次はいよいよ南宋時代、いろいろと各自の自論がぶつかりそうですな。特にモンゴルがらみで。 789 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/09(月) 00 51 34 ID rTbI/Ux70 <審査条件> 〇、其の人物が名将である。 一、其の人物が中国人である。 二、其の事跡が中国史である。 三、其の場所が中国領である。 <優先順位> 一:審査条件を全てクリア。 二:審査条件を二つクリア。 三:審査条件を一つクリア。 例えば、甲と乙が候補に残り、どちらか一つを決めるとする。 其の場合、審査条件の〇の比較で甲>乙だったとしても、 優先順位のクリアで甲<乙の場合は乙を入選とする。 これで如何だろうか? 790 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/09(月) 19 47 09 ID TnVZNl3/0 楊延昭は名将というには実績が少ないような気がする。 潘美を入れたほうがいいように思う。 791 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/10(火) 21 40 26 ID UAtebvBkO 流れ止まっちゃってるな 792 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 08 25 09 ID 3jvERdIMO どの武将も一長一短で悪く言えば小粒だから 時代もマイナーで語れる人が少ないんだよ 793 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 09 29 51 ID qimM40B0O 792 でも◆oOLAqFKRB.氏の超得意分野だろ南宋とモンゴル武将 794 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 18 50 21 ID FXlcrX3a0 これで 岳飛、韓世忠、孟珙、完顔陳和尚、張弘範、郭侃 成吉思汗、木合黎、速不台、伯顔、拡廓帖木児 この中から一人落として終わりだろ。 795 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/11(水) 20 35 25 ID +N39LNeU0 韓世忠はこの中ではちょっと見劣りするんじゃなかろうか 796 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21 04 37 ID 6rx9YgF50 793 まあなんですか。超、というか最も得意とする時代やね。 で、俺的10選を挙げさせていただくと 宗沢 岳飛 完顔宗望(オリブ) 完顔宗弼(ウジュ) 拖雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ)もしくは木華黎(ムカリ) 孟珙 伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ)もしくは兀良合台(ウリャンハタイ) こんな感じで。ココテムルは徐達のライバルやし、明朝頭に送るべきと するとだいたいの10人が決まると思うわけやが、どーでしょ。あと韓世忠 入れるんやったらむしろ劉錡を入れたい。正史でウジュの拐子馬を破った のは多分この人一人か・・・あと岳飛も野戦で勝っとるかな。 797 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 21 11 15 ID qimM40B0O 俺は南宋とモンゴル武将が超得意分野な ◆oOLAqFKRB.氏の推薦文とか読みたいし、南宋・金・元のいろいろな話とかも聞いてみたい 折角、定義について話し合ったんだし、みんなで議論しようよ 798 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21 18 26 ID 6rx9YgF50 拖雷(トゥルイ) チンギスの第四子、オゴタイの同母弟。チンギスの後継者と目されたが その座を兄・オゴタイに譲った。燕京に盗賊が出るという話を聴きみずから 取り締まりに出馬、賊十六人を斬り捨てる。 巳丑年(って何時?)の夏八月、オゴタイが京城に帰ると即位式を行う。 翌年秋、オゴタイの金朝征伐にトゥルイも兵を率いて従軍、天城堡を破り 蒲城県を抜き、金の完顔合達が西に赴いている隙を突いて黄河を渡り、 鳳翔を撃つ。引き返してきた合達に攻め立てられ不利となるがここで トゥルイが兄を助けて奮戦、合達を斥ける。翌年春、洛陽を落とし 河中の諸城を抜いた。 オゴタイは官山に還ると文武百官、諸侯王を集め、彼らに向かって言った。 「人は言う、国家の損害は実に寇敵によってもたらされると。今、金はいまだ 倒れず。我らの敵なり。諸君、寧ろ謀はないか?」対するにトゥルイが 投降した金人の献策を紹介して強く推した。オゴタイは大いに喜び、 諸王大臣たちを呼び寄せて「(金伐は)かつて父が志し有りながら果たせなかった。 今トゥルイが能くこれを言う、これぞ真に賽因(大いに好ましいこと)なり!!」 オゴタイは即断即決、大軍を発した。 オゴタイは碗子城から南下し、黄河を渡り、洛陽を向けて進発。 斡陳那顔(アッチンナヤン?)率いる左軍を淮南経由で進発させ、 トゥルイの右軍は鳳翔から渭水を超えて宝雞経由で出陣させる。トゥルイは 小潼関を抜き、宋との国境線を通って漢水の下に出た。計画によれば翌年二月、 金の王帥が汴京に遷るはずだった。トゥルイは南宋に部下を派遣して 金朝を挟撃しようと求めたのだが、なにを血迷ったか宋の上層部は使者を 殺してしまう。激怒したトゥルイは「やつらは以前苟夢玉が結んだ同盟関係を どう思っているのか!? 自ら喰らい(多分領土のこと。確証ないが)自ら叛くとは!!」 キレたトゥルイは兵を分かって南宋の諸城堡を攻め下し、長躯漢中まで攻め入って四川を襲い、 閬州を陥とし、南部を打ち据えてようやく軍を還した。そして金の王帥を 房州で補足、武当山で追いついて先鋒部隊三千で金兵十万の中に突撃、 均州まで奔らせる。どれほど激しい戦いぶりだったかは漢水が騎兵の死体で 埋め尽くされたという記述から類推できるかと。トゥルイは部下に千人を つけてオゴタイのもとに派遣、報告し、オゴタイは金の王帥を取り逃したことを 責めたが、部下がいないところでトゥルイを慰労、迅速に京師・官山に引き上げた。 799 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21 20 00 ID 6rx9YgF50 トゥルイ続き 漢水にとどまったトゥルイは金の大将・合達と鄧州で交戦、金軍の伏兵二十万を 見抜き隘路に拠して敵を待つ。このときトゥルイの兵は四万だったが、 間諜の報告によると金軍も二十万全員が兵士というわけではなく、かなりの 数の輜重部隊が存在することを知って強気の攻めに出る。十二月、禹山で 金軍と交戦、わざと逃げて見せて北に引き寄せる策を使うがこれは失敗。 それならと今度は火計を仕掛け、これが大当たり。合達らは鄧州に奔走し、 トゥルイは三日間の猛攻でこれを撃滅。北に追い立てて部下に三千騎を 与えて追撃させるも、翌朝の霧で視界を遮られた蒙古軍は金軍の奇襲を 受け、珍しい敗戦を経験する。トゥルイは敗戦の部下(札刺)を罷免して 野里知給歹(読めん)に替えた。まもなく金軍を破る。 壬辰(やからそれじゃ分からんのよ)春、トゥルイは陝西・四川・河南の 難路を強行突破して着実に版図を広げる。北に還りつつあるトゥルイに一矢を 報いようと金の合達は歩・騎兵合わせて十五万の大軍で追撃に出た(二十万で三千に負けたくせに)。 このときトゥルイの軍は1万3千。総軍馬から下りて塹壕を掘り、金軍の攻勢を しのぎにしのいで持久戦に持ち込んだ。日暮れ、軍中に「敵の休息したところを撃つ。 夜、鼓を騒がしく鳴らすのがこれだ」と命令。時にオゴタイが黄河を渡り、親王クオンブカら 万騎をつれてやってきた。空に大寒波到来、大雪も降り、金人は凍えて動けず、 顔色も青ざめて到底戦うどころの話ではなくなる。そこを好機と見たトゥルイ(およびオゴタイの援軍)が 襲撃をかけ、曰く「機を失うべからず。やつらは城内に逃げ込んだ。未だ囲むは易からず。 大敵を前に、況や敢えて父君のごとくあれ!!」奮撃して三峰山を抜き、大いに金軍を破る。 さらに十里に渡って追撃し、流血が道を染めざるは無し。金の精鋭はここにおいて尽く失われた。 予衆を狩って雎州まで走り、伏兵が立っても逆に是を潰滅させる。 鈞州に逃げた合達に従うは数百騎。蒲阿は汴に逃走し望京橋に至ったが、蒙古に擒らわれる。まもなくオゴタイが到着、 戦地にとどまって視察し、トゥルイに「はたして汝でなかったなら、この大勝利はなかったであろう」と賞賛した。 諸侯王がオゴタイに進言して曰く「誠に聖愉(?)です。しかるにトゥルイの功、社稷に著しいかと」 それはオゴタイとトゥルイの後継者争い(争ってないけど)でトゥルイを支持したものの言だった。 トゥルイは従容として曰く、「臣に何の功がありましょうや。この天の威、皇帝の福なり」その言には 聞いたものすべてを佩腹させるものがあった。トゥルイはオゴタイに従い、鈞州を抜き、宿敵合達を 殺し移刺蒲阿、完顔陳和尚をも屠る。更に許州を攻め、これも抜く。 オゴタイの先鋒として河南諸郡平定に奔走し、四月、半渡から真定に入り、 中都を過ぎて北口に出る。夏の官山に還った。 五月、オゴタイが身体に変調をきたし、六月、いよいよ病篤くなる。 トゥルイは天地の神々に祈りを捧げ、代われるものならオゴタイと自分の身を代えよと叫んだ。 怪しげなシャーマンを呼びつけて病気治癒の祭祀を執り行わせたりとかなり 必死で兄を心配する。数日が経過してオゴタイがやや回復すると、トゥルイは一緒に北に還り、 阿刺合的思の地にいたる。そこでトゥルイのほうが病魔にやられ、逝去。 本当にオゴタイの代わりに死んだ。享年四十余歳。英武皇帝と諡号を贈られた。廟号は睿宗。 チンギス時代の武功、オゴタイ時代の河北計略における活躍などから人望頗る厚く、 それゆえ以後蒙古の嫡流はトゥルイ家から選出されることとなった。 800 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 22 45 06 ID oZd1YRNi0 速不台の華々しい戦績は西方遠征ってイメージがあったんで、 777の定義からすると資格なしかと思ってた・・・対金戦でもけっこう功績があるのかな? ◆oOLAqFKRB.さんの推薦文が楽しみですね。 801 ○ sage 2007/04/11(水) 22 46 03 ID t4yNDFjl0 ◆oOLAqFKRBさん 乙です すいません劉?の?の部分は本来、何となっているのですか? 自分のボロPCでは劉 になっちゃってるもので・・・orz それと韓世忠はなんか嫁さんとセット扱いされてる様な気がしますが… 自分はですね張弘範を推します。あと阿里海牙(アリハイヤ)の評価はどんな感じですか? >最も得意とする時代やね。 いやいや自分の中のイメージでは十分、超が付きますよ。 前々スレから得意な時代と言ってましたし。 あとですね 788で >中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。 >唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。と仰ってますが 郭侃はフラグの西方遠征に従い、ペルシア、バクダード、アッバース朝のカリフを降伏させ、 シリアへ侵入して十字軍と戦った功績も審議の範疇に入れるのでしょうか? 中国統一政権下における外征は東アジア(ベトナムを含む)に限定するにしてはどうかなと個人的には思っています。 諸兄、◆oOLAqFKRBさんいかがでしょうか? 802 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 22 55 10 ID oZd1YRNi0 801 脇からですいません。劉キ[金奇]になってます。 803 ○ sage 2007/04/11(水) 23 04 49 ID t4yNDFjl0 802 なるほど劉キ[金奇]ですか。 802さんご親切にありがとうごさいました。 804 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23 42 42 ID soE3kzWL0 貼っておきます 南宋・金~元 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、 拡廓帖木児(ココテムル)、 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、呂文煥 796 自分もココムテルは、この次の時代のリストに並べる人物だと思う 時代で区分してるしね 805 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23 50 29 ID Bvy9586Q0 李庭芝、候補にも入れなかったっけ?別にいいけど 806 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23 51 02 ID 3jvERdIMO 郭侃は元の武将でしょ。だったらOKでない? 10選入り確定ですな 807 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 23 55 30 ID R5Kxdx8b0 速不台 通称スブタイ・バアトル。兄貴・フルコンとともにやたら勇猛、頑強で騎射 を善くした。少年時代、強盗を槍で刺し殺しその一族郎党を遁走させたという 逸話を持つ。 兄貴が将となったので人質の意味でチンギスの傍仕えとなる。壬申(?)年、 金伐戦に参加。恒州攻めで真っ先に城壁を登り、城を落とす。まもなく投降者 滅吉里を部下に加え、蟾河の戦いで一戦にして二将を擒らえる。さらに欽察部 と玉峪で戦いこれを破る。 イスラム討伐から還るとまた欽察討伐を上奏、許される。太和嶺のどてっ原 に工兵を動員して穴を開けさせ、欽察部の予想を超える場所から突撃をかける。 縦横に奮戦するスブタイ軍の前に欽察の軍は潰滅、遁走した。現地の余衆を ことごとく降し、これらの土地を占領下に置き、阿里吉河で斡羅思部の大、小 密赤思老と戦い、一撃のもとに彼らを投降させる。阿速部を獲って帰還。 征西前に東伐戦に参加、撒里畏吾特勤、赤閔ら諸部を倒し、徳順、鎮戎、 蘭州、会州、洮州、河州を抜いて母馬五千を獲て朝廷に献ずる。チンギス 逝去のため第二次征西は一事見合せとなった。 オゴタイが即位すると公主を娶わせられ、皇室の一員に連なる。潼関攻撃 に従軍、利なく、オゴタイが怒った時、勝敗は兵家の常、功を立てて埋め合 わせすればよろしい、とトゥルイに救われた。トゥルイの節度下に入り河南 経営を任される。牛頭関で金将・完顔合達の軍数十万とはちあわせるも、軍 を三峰山に集合させて持久戦の構えを見せる。おりからの大雪と大寒波に乗 じて猛攻をかけ、敵のほとんどを殺しつくすという大戦果をあげる。つーか ここはトゥルイ伝に同じ、でいいんやが。これにより金の対北方戦はまったく 振るわなくなる。翌年夏、トゥルイが官山に帰還するとスブタイが統帥権を 譲渡され、黄河北方に逃れる金主を黄龍岡に追撃、撃破して首級万余を挙げる。 最終的に金軍を蔡州に追い詰め、汴を降し、后妃および珍宝の数々を手に入れ オゴタイに献上、1234年の蔡州の戦いを見届けてのち、バトゥの副将として 征西に出る。これ以降はヨーロッパ戦線での戦いやから必要ないかと。 808 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 00 19 59 ID KgSsk+G50 801 すんません。確かにヨーロッパ遠征組のことを忘れとりました。 征西はモンゴルの仕事やから無視していいか、とか思っとったら郭侃おったし。 788 の定義やと確かにヨーロッパでの戦功も込みになりますわな。 そーすっと郭侃が確定確実に昇格、郭侃を落としたいわけとは違うけど、 やっぱりヨーロッパは違和感あるしなぁ。 ○さんの言うとおり東アジア圏に収めとくほうが無難か。 そこらへん、諸兄の意見はどんな感じなんやろ。 809 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 00 51 14 ID gfCpSYNA0 1曹操=後漢末 2李克用=唐末 3拡廓帖木児=元末or北元≠明初 4呉三桂=明末or清初 810 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 00 59 00 ID HyfEY1CkO 東アジア圏に収めるとか枠を決めてしまう方が違和感ある。 強すぎてヨーロッパまで届いちゃったってだけで基本的には歴代王朝が行ってきた外征と同じように考えていいのでは。 811 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01 09 11 ID PdOk3TRp0 というか、南宋滅ぼす前、フビライによる元朝の成立前のモンゴル帝国は 世界帝国ではあっても中国統一政権という枠には当てはまらないんでは? 元朝以前のモンゴルは 777でいうところの「征服王朝の先行政権」にあたると思われるので、 ・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、 そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。 に適合する、金もしくは南宋攻略での功績に限って評価すべきでは? あと拡廓帖木児について、徐達の遠征を撃退したのって既に北方に逃亡した後ですし、 777の ・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外 にあたって候補外になるんではないのでしょうか?詳しい業績まではわかってないんで見当外れかもしれませんが・・・ 812 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01 36 49 ID gfCpSYNA0 周 BC1046~BC256 ↓ ● 秦 BC256~BC206 ↓ ● 楚 BC206~BC202 ↓ ● 漢 BC202~8 ↓ ○ 新 8~23 ↓ ● 漢 25~220 ↓ ○ 魏 220~265 ↓ ○ 晋 265~420 ↓ ○ 宋 420~479 ↓ ○ 斉 479~502 ↓ ○ 梁 502~557 ↓ ○ 陳 558~589 ↓ ● 隋 589~618 ○禅譲による交代 ●放伐による交代 813 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01 38 08 ID gfCpSYNA0 隋 589~618 ↓ ○ 唐 618~907 ↓ ○ 梁 907~923 ↓ ○ 唐 923~936 ↓ ○ 晋 936~946 ↓ ○ 漢 947~950 ↓ ○ 周 951~960 ↓ ○ 宋 960~1279 ↓ ● 元 1279~1368 ↓ ● 明 1368~1644 ↓ ● 清 1644~1912 ○禅譲による交代 ●放伐による交代 814 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 08 40 10 ID DNpsFED/O 811 それでもモンゴルは東西両方で活躍してる奴多いしなぁ 815 ○ sage 2007/04/12(木) 09 27 23 ID 9MPvgVfh0 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、郭侃 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範 張俊、呉?、呉リン、劉キ[金奇] 、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、脱脱(トクト)、呂文煥、 孟sル、完顔陳和尚、 bヨ雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ)、木華黎(ムカリ) もし候補から抜けてる人物がいる場合は補修お願いします 814 取り敢えずは推薦文挙げて貰ってからアレコレ議論してみては? 816 ○ sage 2007/04/12(木) 09 30 56 ID 9MPvgVfh0 連投ですいません 五代~北宋・遼 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷 (契丹枠として)耶律徳光 楊延昭より潘美を入れたほうがいいように思うと言う意見もありますが 取り敢えず以上の十名を確定でということで宜しいですか? 817 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 10 44 17 ID 6PWL2b6B0 バヤンは確定に入っていいと思うんだけどなあ。 818 ○ sage 2007/04/12(木) 14 35 33 ID 9MPvgVfh0 すいません自分が 801で 中国統一政権下における外征は東アジア(ベトナムを含む)に限定するにしてはどうかな? と提案しましたがまだ結論が出ていないのに 815で勝手に 郭侃を確定入りにしちゃってますがよかったのかな? 817さんの仰る様に伯顔(バヤン)は確定入りでいいと思います。 819 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 17 04 33 ID LWmQ/ydr0 郭侃はオゴタイ時代に百戸長として対金戦争に従事しているし 晩年でもフビライの下で南宋戦に従事しているので 中国の名将扱いにしてもいいと思う。 中近東での戦果は別モノとして考えればいいし。 820 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 17 51 13 ID DNpsFED/O 815 あまり詳しい訳じゃないからなんとも言えないけど、チンギスが居ないのは何故? 彼の頃のモンゴルも 777の「征服王朝の先行政権」として良いんだよね チンギスの中華方面の戦績だと他のモンゴル武将に見劣りするから? 819 郭侃は「征服王朝の先行政権」の「漢人武将」だから、 西方の戦績が考慮されて確定にいたのだと思ったんだが、無しにするの? 821 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 20 53 48 ID agTVIqMpO 820 せめて 784-785、 788を読んでもらえませんか? その上での話なら、それはそれで話し合いをしますが… 822 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 19 22 ID 40NYG0oU0 確定枠の人やけど、孟〔王共〕の紹介文落としていいかいな。 今更いらんなら控えるけども、好きなんでどーせなら開陳したいなーと。 823 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 21 24 02 ID oljSW7kuO ぜひお願いしやす!! あとチンギスハーンは候補入り可能なの? 824 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 34 08 ID 40NYG0oU0 そんじゃ孟珙の1 曽祖父・孟安、祖父・孟林は岳家軍の将帥として功績を挙げ、父・孟宗政は 制置使・趙方麾下の有力な将帥という武門の家に育つ。若くして優れた才覚 を見せ、團山の戦いで父とはぐれたとき、それを見つけるや単騎金軍の重囲 に突撃、これを破って父を救った。翌日の敵の動きを予測して父に献策、これ を見事的中させて金軍を破るという戦術眼も備える。制置使趙方に謁見し、 一見して只者で無いと直感した趙方より異例の抜擢を受けた。 父が唐・鄧・蔡三州の壮士二万を募って編成した“忠順軍”を受け継ぐ。6年、 金の武仙と5回にわたって交戦、ことごとく捷ち、将校452名、兵士33万余 を俘虜とし、44万の民衆を解放した。功績により顎州江陵府副都統制となる。 端平元年、元軍と連携しての蔡州の役にあたって、元の総帥タチャルのもとに 兵糧2万石を届け、意気投合してタチャルと義兄弟の契りを交わした。忠順軍 を率いて戦役に参加、元の漢人諸侯・張柔が流れ矢に当たって落馬しそうになると 二度に渡ってこれを救った。金軍が老人や稚児を殺して絞った油で放つ“人油砲” を使うと道士を派遣してこれを諭し、人油砲の使用をやめさせた(やめるんかい)。 端平元年正月、蔡州の役で金を滅ぼす。金主・完顔守緒は自ら火をつけて自殺 したので、遺骨をタチャルと分かち、帰国した。功により建康府都統制兼権侍衛馬行事職司。 制置使趙方(この時期は趙葵か?)により襄陽兼鎮北軍の都統制に任命される。 鎮北軍で壮士を募り、兵士一万五千人を獲て隟北、樊城、新野、唐、鄧に配備する。 まもなく枢密院より武器を授かる。 翌年、皇帝に謁見。「卿は名将の子、忠勤に励み国に礼を尽くし、蔡州に金を 滅ぼす。功績昭著なり」との褒め殺しに「これは宗廟社稷の威霊、陛下の聖徳と 三軍の将士の労によるところ。臣はなにほどのこともしておりません。臣、 陛下に願わくは民衆に寛容であり、人材を蓄え、機会を待たれますよう。臣は 所詮武辺の士、戦を望み和議を望まず」と答え、厚い賞与を下賜される。 端平三年、元軍が薪州を攻めると呂文徳とともに現地に急行、囲みを解く。 さらに逆撃して襄陽を攻めるも、江陵の形勢が危急を告げたのでそちらに向かい、 元の寨24個を一夜のうちに覆滅して大勝する。嘉熙元年、顎州諸軍都統制となる。 825 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 36 35 ID 40NYG0oU0 元の大将テモチエ(?)が漢陽から、大将クオンブカが淮甸から南宋領に侵入、 現地の将士は逃亡し、投降し、あるいは敗北する。孟〔王共〕が現地に到着する と民衆は「わが父きたれり」と喜んだ。孟〔王共〕は楼上に帷幕を構え、防衛戦の 指揮をとり、失われた諸州を取り戻した。将士は毎月の苦戦に苦しみ、病人、 けが人が後を断たず。孟〔王共〕は彼らに医師を遣わし、その厚遇に将士は感涙した。 嘉熙二年春、枢密副都承旨、京西湖北路安撫制置使を授かる。郢州、荊門軍を回復し、 十二月、冢頭、樊城、郎神山を攻撃、ことごとく捷つ。翌年正月信陽軍、樊城、 襄陽を回復し、枢密都承旨、制置使となる。光化軍、息州、蔡州を降す。降ったものの 中から百余人を選抜、忠衛軍を創建する。 襄陽がどれだけ重要な地であるかを説明、兵士十万の常駐を請うも認められず。 とりあえず先鋒軍を置く。元のタハイが80万の大軍を擁して蜀土に攻め入ると、 孟〔王共〕は塞を増設し戦艦を分布して防衛ラインを築き上げる。結果元軍は 侵攻できずに撤退、翌年、子爵に封ぜられた。防衛ラインを三層に分けてそれぞれ の州郡に千~一万の精兵を置くことを上奏するも、やはり認められず。王堅、 劉整らを派遣して元の造船所に焼き討ちをかけ、船材と食糧を焼く。淮以下五県から 精兵を359人を募り、“寧武軍”と名付ける。 その後江陵にあって各地の防衛ラインに増援を送ったりいろいろと活躍するも、 孟〔王共〕自身が具体的に戦争の描写があるのはここまで。あとは元軍が攻めて きても孟〔王共〕が守りに出ると向こうから逃げ去るのでほとんど交戦してない。 とにかく上奏するはしから潰されて、武勲の割に相当不遇やった人。死後忠襄と 謚され、吉国公を追贈された。廟号は威愛。 ・・・だいぶ省略、割愛しました。 特に後半の先頭描写がない部分はガリッと削ったけどまあ、いいでしょ。 で、 チンギスは入らんと思う。 「先行政権の武将で、かつ中国本土の領土を切り取るか橋頭堡を作る」 かしてないと資格なしやから。 領土を一時的に取っても引き上げるとまた中国側に取り戻される、を繰り返しよった チンギス時代の蒙古は資格なしっちゅーことになるかなと。 826 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 40 05 ID 40NYG0oU0 825 変換ミス。先頭描写ってなんや、俺。 戦闘描写です、すんません。 827 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 21 43 29 ID agTVIqMpO 基本的には自分自身が、その人物が中国の武将であると確信し、 名将であると考えるのであれば、推薦するべきだと思います。 鉄木真が中国の名将であると考えるのであれば、推薦文を書き込んで下さい。 その意見が通る、通らないは別問題ですから。 828 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 21 57 32 ID gfCpSYNA0 冒頓単于 拓跋珪 社崙可汗 木杆可汗 耶律阿保機 完顔阿骨打 鉄木真 努爾哈赤 全部outで。 あと、三衒の決めた定義が気に入らないなら終わるまで待つことだな。 829 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22 12 51 ID DNpsFED/O 821 失敬 となると、 788の定義で郭侃の西方の戦績は考慮外という事になるのですかね 彼が参加した西方遠征はモンゴルの中華統一(≒南宋滅亡)以前のことだし 830 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22 35 49 ID oljSW7kuO 824-825 ◆oOLAqFKRB氏ありが㌧ やっぱチンギスハーンは資格無しですか 831 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22 48 57 ID 6PWL2b6B0 チンギスはあんまし中国支配に熱心じゃなかった感じだしなあ。 ムカリならともかく。 832 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 23 02 33 ID agTVIqMpO 830 ですから、鉄木真が中国の名将であると考えるなら、推薦文を書き込んで下さい。 モンゴル統一の為の戦いは入らない、中国本土内の戦闘なら入るも、 その地域を複数年支配し続けてる(短期間ではなく、次の代まで支配する) その条件をクリアしていれば、説得力がますと思いますよ。 833 ○ sage 2007/04/12(木) 23 04 34 ID 9MPvgVfh0 820 テムジン時代のタタル、ケレイト、ナイマン、メルキトの諸部族を破り、 モンゴル高原全体を支配や 金、ホラズム・シャー朝を征服やジャラールッディーンを撃破など 功績はすごいのですが、定義に適合しないと思いましたので候補に入れませんでした。 孟[王共]= 孟sルなんだあまり詳しくないのですいません… 834 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 10 35 ID uB3PX48c0 チンギス・カン 第一次対金戦 内蒙古で金軍を破る 第二次 黄河以北の全域を蹂躙。免れたのは中都を含む十一の 都市のみ。講和成立後、内蒙古に撤退。 第三次 軍を派遣し中都を攻略。 西へ出かける前にかつての燕雲十六州に相当する地域は確保しているから 「中国本土を切り取り橋頭堡を築いた」ことにはなると思うが。 835 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 11 47 ID oljSW7kuO 832 ??? 俺はチンギスハーンを推薦するつもりも中国の名将として 扱うつもりも端からないんだけど… なんか勘違いしてない? 836 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 13 29 ID CZs6aAA10 こら 他人が考えて書いたことを自分が考えたように書くもんじゃない 前にも何度かあったね みっともない 837 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 14 40 ID CZs6aAA10 836は 833 838 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 18 18 ID JPGjroiF0 821 郭侃は最終的に元にいたんだよね? 名将か否か判断するのに○○時はのぞくなんておかしい。途中どこにいようが関係ない、 趙亡命時の楽毅だけをみて燕時代を無視するのと同じだろ 全体を見て判断しないといけないと思う 839 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 24 08 ID DNpsFED/O 833 まあ、あの定義だとチンギスもありにはなるはずでは、と思っただけでして 確かに完全に遊牧民だし西征で有名だけど、統一王朝の先行政権を開いて中華地域で戦っているのは事実なんで 840 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 23 29 26 ID agTVIqMpO 835 ならばスレ違いですね。ここは中国の名将を選ぶスレなんですから。 841 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/13(金) 20 38 52 ID eTh9VGg00 人がおらんよーなので、人寄せの意味も含めて紹介文落とします。 張弘範(字は仲疇。○さんが推すゆった名将やね) 張柔の第9子。よく馬槊を使い、かつ詩文の才にも長けた。二十歳のとき、 兄が順天路をはなれることになると代行を任され、民吏の諸問題をたちどころ に採決して人々を感服させる。蒙古の軍がやってきて暴力を振るうと弘範は 杖刑をもって彼らを痛めつけた。順天路に彼がいる間、蒙古と言えども非道な 真似はできなかった。 中統三年、行軍総管とされる。合必赤親王が済南の李壇討伐に向かうと副将 として従軍、弘範が城の西に野営地を置くと、李壇が兵を発した。諸将が色めき 立つ中弘範は一人冷静で、「我、険地に営す。壇すなわち我に弱を見せ、必ず 奇兵をもって襲い来る。我の謂わざれども悟るものなり」として準備を進める。 弘範の策を知らずに攻め寄せた李壇の軍はあるものは壕に埋まり、あるものは 伏兵にやられて全滅した。弘範の勝報を聞き、張柔は「真にわが子なり」と喜んだ。 至元元年、兄が出世したことで順天路の守りを任されることとなった。翌年、 洪水で家は流され、到底租税が納められる状態ではない。しかしそれを言って 聞くような朝廷の文人どもでもない。弘範は直接京師に赴き、フビライに面と 向かって説教。フビライも話の分かる人で、「それを問うなかれ」と謝罪した。 至元六年、南宋の襄陽(せっかく孟珙が必死こいて取り戻した要地)を囲む。 万山に回回砲を据え付け、試し撃ちをしようとした瞬間、南宋軍が攻め寄せた。 部下たちは弘範を置いて城に逃げ込む体たらく。「敵を前にしてあえて退くと いうものには死を!!」との叫びに偏将・李庭が飛び出し、他の将がそれに続く。 弘範は二百騎を長く布陣させ、「我の鼓を聞く、すなわち進め。鼓なかりせば 動く勿れ」南宋軍が突出してくるが、弘範の軍は動かず、南宋軍は再び進んだ かと思えば退却した。南宋軍の士気が低下していることを見抜いた弘範は鼓を 鳴らし、弘範の軍千人が一斉に襄陽を襲う。南宋軍は奔潰した。 面倒なので、こっからアジア歴史事典の丸写し。 南宋討伐に参加し、各地に転戦したが、とくに張世傑の水軍を焦山に破り、 戦艦80艘を奪った功が大きい。毫州万戸に任ぜられ、抜都(英雄)の名を 下賜される。南宋の首都、杭州臨安府陥落ののち軍を還すが、翌1278年、張 世傑、陸秀夫らが衛王を立てて皇帝とし、元朝に反抗したので討伐軍の総帥 となり、水陸二万の軍を率いて南進し、まず文天祥を擒らえ、つづいて張世 傑らの水軍を崖山に破った。こうして輝かしい武功を立てて79年凱旋した が、まもなく病没した。謚は献武。 842 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/13(金) 21 44 40 ID PpLGyfJ60 孟[王共]は全時代の十人でも入るなあ 843 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/13(金) 21 48 39 ID GvRJnFDj0 842 入るでしょうねぇ。 彼に皇帝たるの地位があれば、かなり強固な国家体制を作れたことでしょう。 前線の一司令官は戦略的な視野や構想力より、戦術的な手腕が必要だけど 孟珙はその両方を兼ね備えた稀有な人物といえるから。 844 ○ sage 2007/04/13(金) 23 26 01 ID yKT0Xcnd0 ◆oOLAqFKRBさん 乙です 843 ◆RQdk7scN8sさん古巣での活躍ぶり(?)拝見してますよ。 (もし別人ならごめんなさい) 張弘範は、阿朮(アジュ)、伯顔(バヤン)の元で華々しい活躍を見せ、 更に南宋を滅亡に追いやったのは彼の力に因るものが大きいかと思います。 あと阿里海牙(アリハイヤ)なんかも自分は推したいですね。 845 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/13(金) 23 31 58 ID +sNzR0sV0 この時代区分は、全世界全時代の十人に入るようなのがうろついてますよね 846 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/14(土) 00 47 00 ID VTU7cCbT0 842さん、◆RQdk7scN8sさん、 孟珙を高く評価してくれて中国史で一番孟珙が好きな俺としては 嬉しい限りです。本当に、彼が構想しある程度までは完成させた防衛 ライン(完成しなかったのは朝廷の援助を受けられなかったから)が 機能している間は、孟珙死後までモンゴル、元朝も南宋に手を出せん かったわけやし、完全に自由な権限さえ与えられれば南宋長久の策が 実現したかも知れんのですよ。長期戦になったとしたら攻めあぐねる 元朝と対等以上の講和が結べたかも知れんし、後任が軍事の分からん 賈似道のバカでなかったら、と心から思うところです。ちなみに俺の中 で中華史上名将ベスト3は孟珙、李靖、韓信の三人で、奥ゆかしい性格 と優れた教養から孟珙を一位に押し上げたいところ。まぁ俺の中での ランクづけやからそうではない、という意見の諸兄も多々おるやろーけど。 ○さん アリハイヤですか。 彼もアジュの副将格でいろいろ活躍してますね。アジュが襄陽・樊城の 要地を陥として一旦帰還した後も南征を続け、東西58州(56州?) を切り取ったつわもの。しかも性格は温厚で戦場でも無闇な殺戮を戒め、 占領した土地の人々をいたわって租税を軽くして人々から賛美された 広義での名将。張弘範もやけど○さんは人民をいたわる名将が好きなん かなーと個人的に思ったりしますが、どーなんでしょか。 847 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/14(土) 02 44 23 ID h02UpDZjO で、郭侃は確定でいいのかね? 848 ○ sage 2007/04/14(土) 03 22 05 ID YWuWyns60 846 ◆oOLAqFKRBさん レス㌧あんた領土切り取り杉やろ、なんて思っていますアリハイヤ。 845さんのご指摘通り凄いのがゴロゴロし杉なんですけどねw 自分の名将ベスト3は韓信、孫武、岳飛というところですかね。 韓信は頭の中が普通じゃないし、孫武はマルチ杉、岳飛は戦上手なだけでなく忠義の塊ってとこに魅力を感じます。 それに孟sルもかなりのやり手で狄青みたいに上司さえに恵まれていれば 良かったのにそこら辺が悔やまれてならないっていうのが自分の印象です。 >人民をいたわる名将が好きなんかなーと個人的に思ったり~ はいそうです。 自分の場合は基本的に農民など下層出身で尚且つ義理人情に厚いか忠義の人で、 そのくせ戦争には滅法強い(奇策を得意としたり、読書家なら尚良い)という人物が好みのタイプですね。 岳飛、狄青、薛仁貴とか、あと楽毅、徐達なんかも好きです。 849 ○ sage 2007/04/14(土) 03 29 36 ID YWuWyns60 847 諸兄が郭侃の西征での功績を含めるべきというなら確定でいいと思います。 850 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/14(土) 07 12 11 ID 9iDv5RQB0 「誰某が名将としてどの程度か」と問うならば、 全ての手柄を斟酌してその手腕を量るべきだろう。 一部だけ切り抜いて量ることなど不可能だし意味がない。 そもそも漢人でも戦歴をぶつ切りにされるというのはおかしな話である。 蒙古帝国が中国ではない、というのは判る。 だが彼を選外とするのは「漢人が中国人ではない」と言ってることと同じだ。これはおかしい。 民族の一個人として見れば、その手柄の立てた場所とか相手を区別して云々する必要はない。 それに1127年の靖康の変で宋は南北支那の統一王朝としての面目を完全に失っている。 燕雲十六州を支配したのみの遼を北朝と呼ぶことは難しいかもしれないが、 中原を完全に支配した金はそう呼んで差し支えないだろう。 支那史のお約束通りに考えるならば、 その金は1234年に蒙古の攻撃で滅んでいるので、北朝としての天命は蒙古勢力に移行したのだ。 以後の西征は紛れもなく北半分の統一王朝の遠征であるので除外する必要はない。 その論理は無茶だと言うならば、五胡の蛮兵や、統一した隋以前の北朝の指揮官、唐の外国人の客将は全て除いて頂きたい。
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/39.html
1 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/14(火) 13 26 14 ID cwVjzMAO0 中国の長い歴史の中で登場した数多くの武将たちの中から、特筆に値するであろう名将百名を選ぼうというスレです。 要は作家の田中某氏の著作「中国武将列伝」と同じ企画ですが、田中某氏の評価に従う必要はなく、各人それぞれの 評価によって、百選に入れるべき武将を推挙して下さい。 ・推挙する武将については、その理由を述べること。 ・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。 ・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。 以上の三点に留意して、中国名将百選を決めましょう。 2 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 14 05 37 ID KM7ddCw40 君は含まれるの?それとも臣だけ? 軍師、謀臣はNG? 3 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 14 08 32 ID YBw/bV9U0 それも含めて、まずは話し合ったらいい。 4 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 14 44 50 ID yQpFrdGM0 個人的には皇帝もいれるべきだと思う。全ての創業の君主が歴史に名を残すほどの軍才を 示したわけでもないのだから。 あとはどこまでを中国の武将とするかの範囲が必要。 例えば外国人だが中国本土(これも定義が必要か?)で活躍した武将や、逆に漢人だけど 中国の外でのみ活躍した将はどうするのか? 前者だと耶律休カを入れるのだったらアヘン戦争、太平天国戦争で活躍したヨーロッパ人 はどうするのか?後者だったらイル・ハン国の郭侃とか。 5 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 14 47 41 ID jchs3O4hO 田中の百選は電波がきつ過ぎたからな 趙雲入れようとしてたし 6 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 15 07 58 ID YBw/bV9U0 範囲は、白蓮教の乱までにしたらどうか。 7 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 18 47 07 ID 1kk6Cs2h0 5 いい加減その電波をはねかえせよ。 いつまで引っかかってんだ。 それはともかくとして… 中国というものの範囲だけど、土地的なもので言えば「中華本土」と呼ばれる範囲とするが、中華王朝という枠組みで、漢化政権あるいは中国風の国号を用い、なおかつ中華本土内に領土のある政権、とすればよくはないか? 南詔とか西夏はどうなるんだろ… 詳しい人がいれば入ってもよさそうだけどね。 その規範でいけば、チンギス・ハーンの蒙古は除外するけど、中国風の国号となったフビライ・ハーンの「元」は含む。 また、女真は含まないが、「金」は含む。 あるいはキタイはだめでも「遼」はいい、と。 でないと、北魏はおろか隋や唐まで含まないなんてことになりそうだから。 漢民族だけが中国人ではない! で、国籍は出身国というより所属国で判断すればよろしいかと。 高仙之や李光弼は「中国の名将」としてランキングされるが、郭侃などは紹介はされてもランキング除外、とか。 そんなところでどうかな? 田中ヨッシが先鞭をつけているだけに、そうそう違う武将が出てくるとも思えないけど、どういう判断で紹介するのか興味深い。 8 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 18 57 59 ID yxgR08jb0 とりあえずみんなで何人かづつランクイン入りすると思われる人物の名前を上げていくか? いきなり100人づつ上げていくわけんもいかんしw 9 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 00 31 ID jchs3O4hO 中原指向を持つかどうかで分けた方がよい 渤海や遼、西夏などは広義における中国文化圏と言えるけど 支那の地に入って中華帝国になろうとしなかったから中国じゃない 金や清は歴とした中華王朝 要は支那兵を率いれば中国の武将扱いでいいだろ 契丹人やモンゴル人を率いた武将が中国武将とはいえん 逆に異民族出身でも漢人を率いてれば中国の武将だ 10 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 12 30 ID 1kk6Cs2h0 9 でもなぁ、遼は間違いなく中国兵を率いているぞ? 趙延寿や楊袞(名将とは言えにくいが)などは燕雲十六州に鎮した将だし、遼はキタイと漢人とを住み分けしてもいたし。 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。 11 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 28 22 ID 2mD79BmXO 9 でもさ、中華戦線のモンゴル軍の中には漢人も多いんじゃなかったか? (モンゴルは現地の兵をよく使うし) 12 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 35 28 ID yxgR08jb0 10 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。 それも一理あるが、やはり遼や金を中国にいれるのは抵抗あるなあ。 13 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 37 28 ID 1kk6Cs2h0 12 名前に抵抗あるわなw 耶律とか述律とか完顔とか… それはわかるが、それだと漢人マンセーな田中ヨッシ風味満載になって、おれは構わないが、アンチが沸きまくると思うけどな… 14 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 43 36 ID yxgR08jb0 13 ただ抗金というジャンルがあるからね。 他の時代なら異民族の王朝だってほとんど違和感ないんだけど。 先入観かな? とりあえず境界は曖昧にして名前を上げつつ論じていった方がいいんじゃないか? 15 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 20 31 35 ID jchs3O4hO 中国戦線における元の将はもちろん中国武将ですよ でも漢人でも西域で西域の兵で戦ったら、その戦績を中国武将としてカウントするのはアウト 郭侃は中国戦線の功績だけ評価 16 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 21 39 04 ID yQpFrdGM0 所属国家というか王朝で判定するという手もある。 まず基本二十六史の大部分はそのまま認める。 で、遼とか金とか元とかは部分的に認める。中原進出を果たして以降を認める、 とか(これだと遼は除外だな)。 さすがに南詔とか西夏は外国でしょ。 17 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 22 36 32 ID YBw/bV9U0 まずは、細かいことにこだわらずに、自由に名前をあげていってはどうか? そのうち、自然とまとまっていくだろう。 18 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 22 41 17 ID FiGiSZS30 自治のような流れだなおい 19 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 22 54 04 ID 1kk6Cs2h0 とりあえず、 16で異議なしとする。 20 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 22 58 12 ID 2mD79BmXO 16 ヌルハチやホンタイジは駄目って事か 21 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 23 02 53 ID 1kk6Cs2h0 残念ながら切るしかないよな。 これってたしかに自治のような問答になってるな…w まここは、ズバっと切り裂いてしまおう。 で、それぞれ得意な分野・時代があると思うが…? 22 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 23 11 30 ID YBw/bV9U0 だから、まずは、これという名前を挙げていこう。 それで、百選に入れるに相応しいかどうか議論する。 とりあえず、明代より、武将?な于謙はどうか? 23 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 00 42 00 ID h1iyOIfd0 墨子を入れたい 24 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 02 36 59 ID MH53qoBd0 ヌルハチを敗死させた明の袁祟煥は、入って当然なので俺的に心配が要らなくて助かる。 鄭成功とか名ばかりのより優先権がある。 25 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 09 49 40 ID DowRg+mm0 関羽のような実績は史実においてはそれほどでもないが、後代の創作や信仰の影響大である将軍はどう扱うの? 26 名無しさん@お腹いっぱい。 age 2006/11/15(水) 10 04 50 ID 3SWE8QAF0 24 確かにヌルハチは袁祟煥の新型大砲の破片をくらって死亡してるからな。 清朝初代皇帝を殺してる袁祟煥は100人に入れてまったく問題ないと思う。 というか、これほどの功績を立てた武将って他にいるだろうか。 27 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 10 21 49 ID 3QntCpK40 しかし百って多いなw 一人で垂れ流すならまだしもw 28 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 11 45 12 ID JqGXKrAc0 ひきこもりの過酷さを思えば、数年単位で籠城を果たした人は 降伏の如何に限らず、文句無しで名将に推してもいいんじゃないかとは思う。 29 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 12 47 13 ID wfX1flJU0 28 呂文カンなんかはモンケ・ハーンが四川に攻め入った時、兄の下で働いていたりするのだろうが、 救援に行った時にあっさり退けられているのを見る限りだとあまり強いようにも思えない。 やはり、なるべく長く、広い範囲で戦い、さらに高い勝率を保持している連中を優先するべきでないかと とりあえず、 16の基準だとモンゴルはジェベは駄目で、スブタイはOK、て感じかな? それじゃあ、元朝のモンゴル将軍を適当に トゥルイ(チンギスの四男。金朝を倒した際の主力軍司令官で、金主力軍を殲滅した) スブタイ(モンゴル帝国最強と名高いおっさん。活躍の主な舞台が中央ユーラシアやヨーロッパなのが微妙だが) ウリャンハタイ(スブタイの息子。ベトナムの陳朝を朝貢させたり、一万かそこらの戦力で南宋を南北に突っ切った) バヤン(南宋を滅ぼし、中央ユーラシアでフビライのライバル・ハイドゥと渡り合った) とりあえず、この時代なら他に誰を切っても入りそうな面々を並べてみました。フビライの軍事能力はこの面々と比べるとかなり見劣りするし 30 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/15(水) 13 22 10 ID 7VNkZOK80 なんか切り方が不自然だな。。 っていうか金を中国に含めないとかって田中厨の香りがプンプンする。 31 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 14 19 37 ID hqzFzTu30 じゃあどこまで区切るんだ? 吐藩なんかまで加えたらまた問題だろうし 32 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 14 24 03 ID M8Yjj2bc0 なんだかんだで、田中の中国武将列伝と半分以上は重なるだろうな。 33 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/15(水) 15 06 19 ID vdBHZZuN0 俺的には神話や現代中国(中華民国and中華人民共和国)も含めていいと思うな。 34 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/15(水) 15 20 13 ID vdBHZZuN0 俺の知っている時代の範囲から一通り推挙するよ。 楽毅,呉起,白起,田単,韓信,項羽,謝玄,李克用 35 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/15(水) 15 22 56 ID vdBHZZuN0 三国からは司馬懿,周瑜 36 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 15 34 19 ID Q9gLDeT+0 じゃ、北宋から范仲淹と狄青を推薦。 37 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/15(水) 15 48 36 ID y2nd5Huh0 http //ishinoue3.servebbs.com/uploader/src/up0188.jpg http //ishinoue3.servebbs.com/uploader/src/up0189.jpg 38 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 15 52 44 ID fsKxhlJu0 さっそく田中を貶める輩が沸いている、言わんこっちゃない。 文句つけるだけでスレにも沿わないのはただのバカということで。 【時代】晩唐 【名前】李存孝 【所属】晋 【理由】晋軍の主砲として、少数精鋭騎兵を率いて潞、邢、シ名、磁などの重要拠点を次々と陥とし、一騎討ちにおいても勝利し続けた。 ただし、逆ギレ八つ当たり略奪や、敵方への寝返りなど、潔癖あるいは完全無欠とはいかない。 【時代】後梁 【名前】李嗣源 【所属】晋 【理由】後梁との争覇戦激化の最中、幽州に侵攻してきた契丹軍に対し、倍道兼行して救援に向かい、契丹後で怒鳴りつけつつこれを蹴散らした。 また、横衝隊と称する部隊を率いたので、李横衝と呼ばれ神出鬼没な用兵とあいまって、晋王軍の切り札とされた。 【時代】後唐 【名前】郭崇韜 【所属】後唐 【理由】晋のころから、軍務に政務にとその才をいかんなく発揮し、後唐建国の功臣第一とされる。 特筆すべきは、前蜀討伐のとき。 総大将はかたち的に魏王である李継岌だったが、実質は郭崇韜が指揮を執っており、進むごとに敵をやぶる快進撃っぷり。 その下で実戦部隊を掌握した康延孝の存在も無視できないが、帷幄にあって謀をめぐらし、わずか70日で四川軍閥を平らげた。 ただし、その直後宦官の嫌疑によって誅殺され、不名誉な死を遂げた。 【時代】後周 【名前】劉仁贍 【所属】南唐 【理由】後周世宗の江北侵攻のとき、要衝・寿州を守り、世宗を苦しめた。 味方の不甲斐なさに憤り、病に倒れるが、死ぬ直前までその精神力で寿州城を守り通した。 劉仁贍の死によって、南唐は絶息の一歩手前まで叩き落されることになる。 39 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 19 20 42 ID JqGXKrAc0 韓信は文句無しで百人に入るよな。正直、こいつは凄すぎて褒め言葉に何を言えばいいのかワカラン。 40 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 21 04 33 ID 3SWE8QAF0 39 ,、‐ "  ̄ `` ‐- 、 /イハ/レ /V\∧ド\ / ^ ´ i、 \ ‐ 7 ハ ハ |ヽ ;、 丶 / /!i /|/ ! ヾ リハ |;!、 l /´7 〃|!/_,,、 "゛_^` `‐ly ト /|;ィ N,、‐ ゛_,,.\ ´ "" ヽ !;K ! |ハト〈 ,r "゛ , リイ)| `y t ヽ // ! ぃ、 、; ==ヲ 〃 ` へ、 ` ‐ ゜ .イ 「韓信は凄いと言えばいいと思うよ」 `i;、 / l 〉 ` ‐ ´ l`ヽ / ! レ ヽ_ _,、‐7 i| i´ l ` ‐ 、_ ,、-‐ "´ ノ,、-、 / 、,_ ,.、- {,ヘ 、_ `ヽ、_ / i ,、イ ∨ l.j__,,、..-‐ - ;」,ハ、 、` ‐、_ ,`ヽ / l ,、‐ ´ // ,/! ;、--ァ / `` ‐ ` 7゛ , / l i ´ く ; l / / / , / ! l \ ; l , / i/ , 41 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 22 56 24 ID 4OibmrCs0 とりあえず各時代から十名ずつ選んでみよう。 春秋時代 戦国時代 秦時代 楚漢戦争時代 前漢時代 後漢時代 三国時代 両晋時代 南北朝時代 隋・初唐時代 唐時代 五代十国時代 宋遼金時代 元時代 明時代 清時代 42 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 23 02 34 ID h1iyOIfd0 秦や三国志や両晋などから10人って無茶ですぜ、ダンナ 43 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 23 47 46 ID T4ruAg3pO 一応参考までにヨッシーの百選を 春秋時代 1孫武 2伍員 3范蠡 4趙無恤 戦国時代 5呉起 6孫濱 7楽毅 8田単 9廉頗 10趙奢 11魏無忌 12李牧 秦~漢楚争覇時代 13白起 14王翦 15蒙恬 16項籍 17張良 18韓信 前漢時代 19周亜夫 20李広 21衛青 22霍去病 23趙充国 24鄭吉 25陳湯 後漢時代 26トウ禹 27馮異 28岑彭 29馬援 30班超 31曹操 32関羽 33周瑜 三国時代~両晋時代 34司馬懿 35陸遜 36トウ艾 37杜預 38王濬 39陶侃 40祖逖 41謝玄 南北朝時代 42檀道済 43韋叡 44楊大眼 45斛律光 46高長恭 47蕭摩訶 44 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 23 52 00 ID T4ruAg3pO 隋唐時代 48韓擒虎 49劉方 50張須陀 51李靖 52李勣 53秦瓊 54尉遅恭 55蘇烈 56薛礼 57王玄策 58裴行儉 59高仙之 60郭子儀 61李愬 62李克用 五代~宋遼金時代 63王彦章 64周徳威 65曹彬 66楊業 67耶律休可 68穆桂英 69狄青 70宗沢 71岳飛 72韓世忠 73宗弼 74虞允文 75孟キョウ 76完顔陳和尚 77張世傑 元明時代 78伯顔 79郭侃 80拡廓帖木児 81徐達 82常遇春 83姚広孝 84鄭和 85于謙 86王守仁 87戚継光 88エン崇煥 89秦良玉 90鄭成功 清時代 91多爾袞 92明亮 93楊遇春 94李長庚 95関天培 96僧格林沁 97李秀成 98石達開 99劉永福 100候補 趙雲 沈光 王式 劉キ 呉リン 宗望 李文忠 なんか見にくくてすいません… 45 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 00 03 35 ID iuNqv0hS0 知り合いの中国人は断然安禄山って言ってた。あっちじゃ評価高いのか? 46 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 00 06 33 ID lqij+qXT0 春秋戦国時代の戦争とはるか後代の戦争では形態が違う感じなので一概に比較できない気がするなあ。 47 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 00 10 05 ID 9XAWhsQa0 46 その比較がそもそもナンセンス。昔の時代で上手くやった奴は今の時代でも適当に上手くやれるさ。 48 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 00 19 35 ID AnPXP3PC0 いつ見ても、両晋南北朝期の異民族武将が少ない 石勒、石虎、王猛(あ、こいつは違う)、慕容恪、慕容垂、拓跋珪あたりは ガイエの大好きな韋叡と比較しても、何ら遜色ないのに…… 桓温、劉裕がいないのも違和感ある もしかして人格も選考項目に入ってたのかな? 上記数名は人格がブラックホールなみに暗黒空間だからそりゃ選考外になるな 49 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 00 26 50 ID chwNDKJt0 48 田中の意見は聞いてない。 なぜそこで人物を挙げないんだ? 挙げたら紹介する、これ基本。 50 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 01 03 45 ID koXVh3E50 冉閔もいれよう 51 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 01 04 33 ID fOZOO/nn0 43-44 劉秀、劉裕、李世民、柴栄、朱元璋、朱棣あたりが入ってないってことは、皇帝は除外したのか? まあ親の遺産を受け継いだ皇帝はともかく、己の力で王朝を創始した武将は入れてもいいんじゃないかな。 52 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 03 12 01 ID sPz0sb8O0 一応田中芳樹の百選では 皇帝は除く 軍事的業績より政治的業績が大きい人物を除く 清朝滅亡後の近代の人を除く あとは名将の条件として 異民族の侵略を退けた 現実に天下統一を成し遂げた(それに関わった) あと例外として 異民族であり制服王朝の樹立に功があった 独創的な軍事行動によって歴史を動かしたり時代を象徴する存在となった こんなところか。 ぱっと見でも、この条件から外れている人物がいるよなあ。 53 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 03 12 02 ID 0gVNQWtkO 48 確か入れてたはずだな 51 君主や政治家は選外になってたはず 54 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 09 11 23 ID I7l2r3sB0 三国志に置ける候補: 魏: ○曹操:同時代で言えば実績は他に比べ一歩リード。赤壁、その後の漢中戦で勝ちきれなかったため統一を逃す。 ○司馬懿:孟達、公孫淵討伐はお見事。が対蜀、対呉は意地悪い言い方をすれば現状維持が精一杯。 ○鄧艾:対蜀戦線で姜維を完封。征蜀戦においても姜維をくじき、本隊が足止め食ってる間に成都を陥とすなど功抜群。 △司馬師、司馬昭:それぞれ毋丘倹、諸葛誕を平定。対蜀・対呉戦線を含めての統括者としての能力は高し。 △曹仁:攻めて良し、守って良しの名将。ただ守りに入った時の粘りは特筆ものだが、江陵においても樊城においても独自に打開は出来てない。 △張遼:合肥だけでなくその勇猛さで何度も功を上げる。 ×他満寵、徐晃など候補多数。 呉: ○孫策:はじめ寡兵で持って他勢力を討ち、瞬く間に江南の地に孫呉の礎を築く。 ○周瑜:赤壁で曹操を挫き、曹仁守る江陵を陥とす。こいつがいなければ三国時代になってない。 △呂蒙:部将時代の勇猛さもさることながら2度に亘る荊州侵攻戦で見せた知略と実行力は一流。 △陸遜:夷陵で劉備を完封。対魏戦線においては可もなく不可もなし。 △陸抗:守成の時期の将軍だが、西陵鎮圧の手腕は名将の名に恥じない。しかし蜀降伏時に永安を抜けなかったのはなあ。 ×他孫堅など。 蜀: △劉備:一流どころに比べると戦績は落ちるが、歴戦の将としては蜀としては随一。 △諸葛亮:北伐は志半ばに終わるも、こと会戦に至った時の強さは特筆物。 △姜維:大勝を上げることがあるも多くは企図を果たせなかった。ただし、その機動力には目を見張るものがある。 △張嶷:馬忠の片腕として南蛮平定に尽力。蛮族相手とは言え知略に武勇に活躍。 ×他張飛、王平、魏延など。 その他勢力、後漢、晋は割愛。 ○が候補、△×は落選。 呉において周瑜が候補にあって呂蒙・陸遜が落選なのは対魏での功績による。 陸抗の西陵鎮圧については晋の侵攻を防ぎつつの鎮圧であることを考えれば候補に入れても良いかも。 雑なところもあるけど勘弁ね。 55 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 10 22 38 ID d/LRvGyi0 ガイエの百選に光武帝陣営から鄧禹が入っているのに、呉漢と耿弇が入っていないのが納得いきません。 この二人は光武帝陣営では間違いなくTOP2の名将だと思うのですが。 鄧禹は戦術戦略ではなく、むしろ人事担当の人で、到底百人の中に入る人とは思えません。 56 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 10 28 14 ID HuT/SgV/0 田中芳樹マンセーでヨッシーとか呼ぶきもい奴の主張 『田中の本が気に入らないなら読まなければいい』 『田中を批判しているようなヤツラが作家になって、自分の言が正しいことを証明すればいいんだよ』 【隋唐演義】 田中芳樹 【徳間書店】 ttp //hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161872878/ 上のスレで集中砲火にあい、このスレに逃げこんでおります。 田中芳樹を批判すると脊髄反射のように上述のように喚くので注意。 57 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 11 50 07 ID SiQqzkT90 43-44 春秋戦国以外は知らないが、まるでダメだというのはよくわかる 58 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 12 30 53 ID chwNDKJt0 55 鄧禹は事実、大敗してるしねぇ。 名将に入りはしないが、光武帝陣営には欠くべからざる人物であることは間違いない。 そういう選定の仕方であればまだよかったかもしれないが、岑彭にならぶ名将とされると、勉強不足を指摘するしかない。 呉漢は所業においてゆずるとして、なぜに耿弇が… 彼は若くして名将たるの手腕を発揮して、なおかつ第一線から退くという、どうみても田中ヨッシの好みのタイプなはずなのに。 ましてや、上谷太守の御曹司とくれば、美形であったのではなかろうかという妄想だって入る余地が大きい。 それ以外のところでも、唐末五代では周徳威と王彦章だけ? おいおい。 知らないというより、出し惜しみしていると曲解してしまう(自分が短編書いてる最中だから)。 五代に関しては、 38だけじゃなくて、もう少し足してみようかと思います。 それで、誰をランキングさせるかは、 56あたりの有識者にお任せしよう。 59 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 12 57 03 ID XU+WJy990 田中芳樹は、神話の時代で不確定だからと春秋から開始したけど、 ここでは太公望を入れたい。 60 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 13 05 22 ID zctZD3M5O 確かにヨッシーの言うとおり呉漢は何度か虐殺略奪を行ってるけど 他にランクインしてる白起、項羽、曹操だって虐殺をやってる 何故その三人はよくて呉漢はダメなんだろうか 基準がよく分からない 61 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 13 29 26 ID 3NqHV1bh0 不確定ってことだったら、穆桂英もかなり不確定なんだけどなあ。 62 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 14 16 04 ID chwNDKJt0 ヨッシー個人の好みと、中国ではこんなのが人気なんだぜ、お前ら知らんだろ、というのと、やはり中国人にとっての知名度… そのあたりなんでしょうよ。 45さんの言ったように、安録山なんかも入れてもいいのだけどな。 100人に絞ってしまうと、大方が武将列伝にかぶるのはしょうがない。 そこで、名将、名臣、あと帝王あたりでカテゴリーわけするのもいいかも? 63 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 16 22 40 ID koXVh3E50 43 范蠡・趙奢・蒙恬・張良・周亜夫・トウ禹・関羽・蕭摩訶・李愬・姚広孝・鄭和・于謙・王守仁 十四人は確実に開いたな 64 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 16 43 11 ID chwNDKJt0 開いたって? 65 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 16 53 29 ID 0gVNQWtkO 64 こいつらは確実に選外になるって言いたいんでしょ 田中選の99人と殆ど同じになるとか言われてたから まあ名軍師や名参謀ではなく名将として張良入れるのは納得できないっていうのは同意だが 66 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 17 31 12 ID chwNDKJt0 65 そういう意味ですか。。。 張良は、まぁそうだろう。 しかし、蒙恬、周亜夫、李愬もダメか… できれば、どうしてそう思うのか教えて欲しいところだが。 67 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 18 26 21 ID UD5gw58wO 呉楚七国の乱はほぼ奴らの自壊だし周亜夫が外れんのに異論は無い 王守仁も寧王の一戦だけで百人に選ばれるにはつょっとな それこそ明には李文忠や藍玉、兪大南犬や胡宗憲いるんだし 68 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 18 49 08 ID sPz0sb8O0 63ではないが、私もそのあたりが外れるのは同意。全部じゃないけど。 芳樹の百選は実績よりもその勢力を代表する人物として挙げられているのが多い。 すでに名前が出ている鄧禹がそうだし、関羽も実績をみるととても挙げられない。 范蠡、張良、姚広孝は参謀、于謙は名臣列伝の人でしょやっぱ。 蕭摩訶は十分つよいけど、この人は誰かに使われてなんぼだと思う。歴史的に何か 大きな影響を与えたわけでもないしね。呂布みたいなもん。 蒙恬は鄧禹と同じで、政権の重要人物であっても具体的な実績がねえ。 周亜夫、李愬は国家を安定させた功績を認めて入れてもいいと思う。 鄭和は…指揮統率力は文句なしだが、これを軍事活動とみるかどうか? 69 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 18 53 10 ID sPz0sb8O0 追加 あと抜くべき人物としては 王玄策、穆桂英、虞允文、秦良玉、鄭成功、劉永福 このあたりか。 70 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 19 21 59 ID chwNDKJt0 なるほど。 周亜夫はともかく、李愬あたりをどうするかは、もう少し藩鎮仕置きの経緯を眺めないとなんとも言えませんな。 今現在では、淮西平定の勲功をもってするが… で、結局、皇帝などは含まないことにするのだろうか? とすると、やはり唐末五代は選抜が難しくなるし、一段下がる観は否めないなぁ。 71 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 19 40 10 ID sPz0sb8O0 皇帝はいれていいと思うけどねえ。唐末五代もそうだが、東晋末十六国の連中が。 72 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 19 51 26 ID I7l2r3sB0 71 100選だと25史基準なら各時代4人くらいしか上げられない。 乱世の時代の皇帝に成り上がったヤツとか入れるとあっという間に100をオーバーしちゃうからなんらかの制限はやむを得ないんじゃないかな? 73 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 19 55 30 ID 9PN2UtxG0 各時代4くらいとなるとここの住人がひけらかしたいマイナーな奴はほとんどアウトだな。 74 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 20 04 54 ID 3NqHV1bh0 73 んじゃ、表の100人とマイナーな100人に分けるってのは?w 75 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 20 05 09 ID 6hQtLBSM0 織田信長 チンギスハーンこと、テムジン。 他に中国の英雄って聞かないな…ってか、中国ってどこにあんの? 76 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 20 57 28 ID zctZD3M5O 皇帝に即位した人物を除外ということになると 曹操や宇文泰みたいな事実上の創業者であっても皇帝に即位してない奴は有りなの? 77 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 23 05 25 ID x454C0+E0 孫子って孫子の著書は高く評価されているけど、 武将として何かした人ではないよね? だから孫子は外すべき。 75 元朝を開いたクビライなら未だしもテムジンはモンゴル人だし、 元朝を開いた訳ですらない。 中国英雄にカウントするのは難しいのではないの? 78 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 23 28 16 ID /owm887r0 皇帝は入れた方がいい気がするな。 77 でも、その元朝の前身を開いたわけだから、入れてもいいんじゃないの。 79 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 23 44 06 ID 0oMTvrfI0 皇帝は皇帝で、10~20選していけばいいんじゃないか? 80 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 12 36 ID BtxdAmoaO 77 名義的にはイェケ・モンゴル・ウルスがダイオン・イェケ・モンゴル・ウルスに変わっただけだぞ それにクビライだって間違いなくモンゴル人でモンゴル帝国の皇帝だし この場合モンゴル帝国が中華帝国を取り込んでいるだけだ 81 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 17 13 ID QztdyMPq0 取り敢えず、ここら辺は確定だと思うもの 光武帝 李世民 朱元璋 永楽帝 康煕帝 (統一王朝の皇帝でかつ名将) 項羽 石虎 慕容垂 劉裕 蕭道成 宇文ユウ 李克用 柴栄 (分裂時代の強国の皇帝で名将) 韓信 呉漢 李勣 曹彬 徐達 洪承疇 (統一王朝建国の代表的名将) 祖逖 桓温 斛律光 郭子儀 宗沢 孟キョウ 戚継光 袁崇煥 左宗棠 (戦力差をはね除けて国を支えた名将) 宇宙大将軍 (2chで最も愛される名将w) 82 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 23 58 ID Sh04GUhw0 78 テムジンは中国の英雄ではないよ。 この人、中原に王朝を開いた訳でも無いし モンゴルを中心に活躍した人だからテムジンは中華英雄ではない。 モンゴル帝国=中華帝国ではないし、また違う。 テムジンは外すべき。 あと名君と名将を混合するのは止めるべき。 83 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 26 50 ID Sh04GUhw0 孫子とテムジンは外すべき。 孫子はあくまで名著作家であって名将とは違う。 テムジンはモンゴルの英雄であって元朝すら開いていないし 中国で活躍した訳でもない。 84 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 30 21 ID Sh04GUhw0 三国からは周瑜と司馬懿だけでいいと思う。 三国時代の人間ばかり選んでいたら他の時代から人を選出できない。 それと曹操と諸葛亮は武将とは違うと思う。 曹操って名君か名政治家のどちらかであって、 諸葛亮も武将ではなくて名政治家であるのならば選んでいいと思うし。 85 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 40 01 ID QztdyMPq0 三国志は 曹操は赤壁と漢中が痛すぎだし 周瑜・孫策はもうちょっと生きてもらわないとだし 陸遜はあれで領土を拡げててくれればだし 陸抗は西陵はスゴイんだけど……だし 司馬懿・鄧艾は基本的に国力で上だし と、主な候補が殆どケチが付くせいで、絶対に入るとまでは断言できない 86 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 40 12 ID BtxdAmoaO 82-83 ぶっちゃけモンゴルはどこから含めるんだ? 中華地帯を領有したとき?中華地帯に首都が移ったとき?中華文化と同化したとき? 初めなら中華の範囲によるが、チンギスの時代の後半とするかオゴデイの時代からかのどちらか 二番目ならクビライの時代から。三番目ならモンゴルはなしになると思うが 87 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 06 47 ID Sh04GUhw0 86 元朝を開いたクビライ以降だけを含めるべきだと思う。 モンゴルと元朝を同一に扱うべきではないし、 元朝とモンゴルは切り離して考えるべき。 88 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 18 13 ID BtxdAmoaO 87 ようするにモンケの死後にモンゴル帝国が分裂(まだ連邦的だが)したときに モンゴリアと中華地方に直接的な影響力が限定してしまった大元ウルスは中華帝国にと言っても良いというわけ? (細かい話を語り出すと絶対に纏まらないから適当な定義作って適応させた方が楽だと思うんだけど) 89 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 19 10 ID CHI7BtZZ0 81 康煕帝は世襲皇帝だからなぁ・・・実力で王朝創始or皇位を獲得した他の4人に比べると かなり見劣りする。 あと、光武二十八将から一人選ぶなら呉漢より耿弇か岑彭にしたいな。 90 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 27 08 ID Sh04GUhw0 元朝は中華王朝だけどモンゴル帝国は中華王朝とは別個の存在だからね。 中華王朝の創始者であるクビライとクビライ以降は中華英雄に含めるべきで、 モンゴル帝国の創始者でしかないテムジンを中華英雄に入れるべきではない。 91 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 51 26 ID BtxdAmoaO 90 元朝(ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス)だって名目的にも性格的にもモンゴル帝国ですよ ただ政権交代時の政争で西側に大ハーンの直接的な影響力が及ばなくなり、地盤が中華地帯になったという事で (だがら異民族の政権では中華帝国の定義付けがややこしくなるから、 16みたいなルール作って適応させていった方が早いって) 92 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 55 36 ID QztdyMPq0 89 ん、まぁソレを言ったら李世民だって世襲は世襲ですよ 有能な父と兄が居たからより活躍したけども 康煕帝はアレだけ外征してるんだから見劣りすることも無いと思うけどな どこぞの10勝皇帝とは違ってちゃんと勝ってるし 93 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 03 50 45 ID erQng9E40 兵力3万の呉軍を率いて兵力20万の楚軍を破り、楚都を陥落させた 名将、孫武に対して武将として何かした人ではないとか名著作家であって名将ではないとかよく言えたものだな。 田中選から外すべきは政治家であって武将ではない伍員(子胥)だろ。 94 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 07 12 27 ID MejN4BBU0 84 しかしそれでも、後漢末の動乱を一応治めた人物として、曹操の軍事的功績は 過小評価できるもんでもないでしょう。 95 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 07 23 51 ID q996BlU10 85 それはそれでちょっと過小評価しすぎ。 96 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/17(金) 11 06 21 ID kfN7ayGBO 曹操は入れてもいいかもしれない 確かに負けは多いけど三国時代を代表する指揮官といえば曹操しか浮かばない 97 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/17(金) 12 00 03 ID xjaWDLbK0 オゴタイの代ですでに金を滅ぼしてるのにその部分まで除外するとかおかしいだろ。 98 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 14 33 36 ID BtxdAmoaO 97 俺もそう思う オゴデイの時代で華北支配はなったんだから、その時点で中華の帝国になっていると言っていい 元という国号だってあれはモンゴル帝国が元という名前になったにすぎないんだから モンゴル帝国は華北支配の成立からそれを失うまでの期間を含めればいいかと (ただ、大ハーンからある程度分離したウルスは、その分離した時点で分けておくべきだろうが) 99 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 15 23 47 ID Ih508dKX0 百人って結構多いよね。 100 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 23 23 26 ID ohSXd1rj0 名将とすると、いろいろややこしい問題が出るんだな。 英雄百選にしたらどうなるだろう? もっとややこしくなるか・・・ 101 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/18(土) 03 46 50 ID ai7xtiDW0 100 そうかもしれんね、項籍なんか名将と呼ぶには先見性に乏しく度量が狭いように思えるもんな 范増の助言もことごとく退けていたし 102 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/18(土) 23 51 03 ID 2KVJZBJD0 いっそ、各人で百人のリスト作ってみるか? 103 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. sage 2006/11/18(土) 23 58 47 ID pmvkUtfS0 各人ごとなら10人でいいって。 104 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 00 10 25 ID 0rNQUyZBO 101 項羽は確かに組織のトップとしては難がありすぎるが、将としての能力は(戦術レベルまでは)確かだ 名将が必ずしも軍事以外の分野で活躍できて、英雄になれるとは限らないし 102-103 個人が中華通史から100人挙げるのは大変だし、10人だと少なすぎるでしょ どうせ10人挙げるなら、その人の詳しかったり好きだったりする王朝・時代から10人挙げた方が良くないか? 105 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 00 51 24 ID 6DbIZCRc0 そうだね、一つの時代に5~10人くらいづつあげて紹介してもらえると、こんなヤツがいたのか なんてマイナーな人物も知ることができていいと思う。 106 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/19(日) 10 24 49 ID Wxz1vDO/0 100人に絞るスレだから小粒な奴を挙げてオナニーされても困るわけで。 107 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 10 32 33 ID 9j3NaZkn0 マイナー≠小粒 108 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 13 10 48 ID QktPeHmE0 106 小粒なら小粒であげてみて、どこがいけないか、論評すればいいんじゃないか。 小粒と思っていても、人によって大きく評価する者がいるかも知れないし。 109 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 13 51 16 ID 0rNQUyZBO 106 ていうか100人以上挙げて貰わないと絞りようがない 110 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 17 22 07 ID bHZW8t1e0 106 ほんと、手より口の動くタイプだよな… ま、言ってることはわからんでもないが、小粒と判断するのもこのスレの役割ということにしないか? で、だ。 皇帝などは省くという話を蒸し返しますが、例えば曹操を例にとってみよう。 仮に曹操が皇帝だったとして、その陣営で曹操を差し置いて誰か一人代表者を挙げよ、と言われたら結構迷うと思う。 これは田中ヨッシーも言ってたことだけど… しかし、10人くらいまでなら挙げることは可能だよね? 小粒かどうかは置いといて。 夏侯淵、夏侯惇、曹洪、曹仁、李典や張遼、あと曹彰あたりも入る余地も出てくる… とか。 なにが言いたいかというと、五代後周世宗の陣営で、代表者を挙げろと言われたら、これと同質の悩みが生じるのだ。 世宗の強烈なリーダーシップで覇業に邁進するわけだけど、その陣営の司令官たちが、時代に冠絶するような名将か? と言われれば自信がない。 じゃあ小粒か? と言われれば、当時では名将の類だ、と言えるそういう連中がいる。 以下、それら。 小粒かどうかの判断は他に委ねる。 自分では贔屓目が働いて、それこそ 106の格好のエジキにしかならないから。 【名前】李重進 【所属】後周 【理由】後周太祖の縁者。郭威の頃より作戦に参与し、幾つかの進言をしている。 世宗期には節度使を兼ねつつ、禁軍の大将を努め、第一次寿州攻めのとき南唐の劉彦貞を完膚なきまでに叩きのめす。 江北平定のおりは別働隊を任され、各州を次々と平定する勲功がある。 世宗北伐の折は、淮南節度使となり新領土の鎮撫を任された。 世宗亡き後、趙匡胤のために挙兵に追い込まれ家族もろとも火中に投じた。 【名前】韓通 【所属】後周 【理由】郭威の李守貞討伐に参加し、勇猛をもって鳴る。高平の戦いののち、北面の防備を担い一度ならず契丹軍を退ける。 対後蜀相手の秦・鳳奪還戦のとき向訓の援軍として参加。鳳州を取るなど武勲を立てる。 江北平定のときは開封府の防衛と外城の建設を任され果たす。 燕雲十六州奪回のための北伐のとき、ときの禁軍は趙匡胤と二分され、水軍の趙、陸軍の韓と目されるほどとなる。 世宗が没すると趙匡胤を容認せず、早まった王彦昇のために殺された。 【名前】向訓 【所属】後周 【理由】郭威のとき潞州に配属され、北漢軍との戦いで勲功があり、高平の戦いにも参加した。精騎をもって陣中にあり崩れる味方を支えた。 勇猛さと剛毅さを世宗に買われ、対後蜀戦の大将として隴西に出兵した。 大散関に出て蜀軍と戦い膠着するも、蜀軍の糧道と退路を断って大勝した。 翻って江北平定戦に呼ばれ、淮南節度使として全軍の指揮を委ねられる。不利な状況の敵中にあって寿州城を1年ほど包囲し、再度世宗が親征するまで淮南へのくさびをゆるがせにしなかった。 世宗死後は趙匡胤に従い、李筠の討伐などに従軍し、あと幾つかの節度使を歴任後75歳で倒れる。 【名前】符彦卿 【所属】後周 【理由】父は李克用の仮子、李存審。 五代を通じての重鎮で生粋の武人。 幼い頃から騎射に通じ「符第四」との渾名を持って親しまれる。 契丹南下のとき奮戦するも味方に足を引っ張られるかたちで捕らえられるが、人物の剛毅さによって許され、自鎮に還された。のち後漢、後周と仕えた。 主に契丹との戦いで武名を上げる。後周皇后符氏の父ということから、趙匡胤からも礼遇された。 五代十国って単純に15の国として、1国に1人目立つ武将を挙げると、それだけで15人に… かといって、一つの時代でみるには、世代交代もあるし… この辺の判断は難しいか。 これでは五胡十六国時代が思いやられるかもね。 111 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 19 42 07 ID 9OQIosZb0 中国名将百選より東アジアの名将百選の方がいいと思うな。 112 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/19(日) 19 57 18 ID Ki586nPRO 111 それだと日本史の人物も入ることにならない? 113 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 21 10 22 ID 9OQIosZb0 112 うん、当然入るよ。何せ東アジア名将百選なんだから。 東アジア全体から選抜すれば選びやすいと思うし。 114 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/19(日) 21 19 41 ID ZrkXNwMm0 適当な時代・勢力で区切って、それで100を等分してその枠内で絞るべき。 清(後金含む) 明 元(モンゴル帝国) 五代十国宋遼金 隋唐 魏晋南北朝 後漢 前漢 春秋戦国 神話~殷周 10等分して各時代に詳しい香具師が10人挙げて詳しい香具師同士で議論すればいい。 115 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/19(日) 21 45 48 ID HC3rwp8K0 http //money4.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1163202722/191 乱交パーティー開催!【関西地方】 116 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 21 58 40 ID /m0nm0ym0 後漢から10人も選べるのか? 117 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 22 14 24 ID 6DbIZCRc0 神話~殷周はさすがに外したら?と思う。 ただ、時代区分をもうけてそれぞれごとに議論していくというのは賛成。 で、10人に絞るんじゃなくて、10人枠に入れてもいい候補を挙げていくと。 118 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 22 22 20 ID bHZW8t1e0 無秩序でもいいから、そろそろ挙げていこうよ。 なんなの、この平行線。 119 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/19(日) 22 40 47 ID LEtdPQjk0 神話~春秋戦国 秦・前漢 新・後漢 後漢末~西晋 南北朝 隋唐 五代十国宋遼金 元(モンゴル帝国) 明 清(後金含む) 10等分にこだわってやや苦しいところもあるけどこんな感じで。 120 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 23 35 14 ID R9h/KX1G0 周代より前は、太公望一人でいいかな? 121 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/20(月) 00 05 00 ID Lsn3codY0 119 五胡十六国が消えてる……南北朝に入れろってことか? 【名前】石勒 【所属】羯族小部落-山東地方で家内奴隷-公師藩軍-前趙-後趙 【理由】西晋系軍閥の苟晞(青州)、劉昆(并州)、王浚(幽州)を悉く討ち平らげる 鮮卑段部、祖逖の北伐を撃退して関東に覇を唱えると、前趙のくびきを断ち切り自立 前趙帝劉曜と洛陽を巡り一進一退の攻防を繰り広げ、329年ついに前趙を滅ぼす 生涯に坑殺した兵卒、漢人官吏、匈奴部族、乞活集団は100万を越え、 300万人以上の漢人、胡人を強制移住させるなど、華北において暴虐の限りを尽くす その一方で仁政家の一面を持ち合わせ、評価が非常に難しい人物 軍人としてなら五胡最強、本人評では劉邦>劉秀=石勒>曹操、司馬懿 君主だが、どうしても名将にいれなきゃ気がすまん 122 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/20(月) 00 15 04 ID vTAQtGq80 というか 石勒、石虎、石閔で後趙から三名 慕容恪、慕容垂で前燕から二名 十六国もあるのに、二つの国で半分を独占してしまうw 123 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/20(月) 04 29 01 ID +opae4v10 太公望は政治家であって武将ではないと思う。 124 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/20(月) 05 59 23 ID XPxurIiN0 戦術レベルで軍隊を指揮したか否かで分ければいいんじゃない? ここの武将百選てのは単純な軍事能力だよな それなら張良のように主君の幕下で戦略レベルで活躍した人物は外せる 劉淵or劉聡 石勒 謝艾 慕容恪 慕容垂 赫連勃勃 苻堅 王猛 個人的に十六国から挙げてみた 叩き歓迎なんで意見よろ 125 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/20(月) 06 46 55 ID Xuwy/ECtO 韓信はナンバー1でおながいします 126 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/20(月) 15 01 21 ID n6HmCdud0 永楽帝なんかもいいの? 127 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/21(火) 00 11 22 ID b6r/E8hhO 石勒が一番高く評価した劉邦は百選に入れなくていいんだろうか 128 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 00 27 16 ID +v5f23T10 とりあえず、どんな条件でも絶対入るってヤツ挙げていかね? 楽毅・白起・韓信・李靖・李勣・宗沢・岳飛・孟珙・… 拙い知識故、偏った例えで申し訳無いが 129 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 00 57 11 ID 1v/odRrT0 つ 81 130 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 04 15 06 ID U5u5b7gyO 127 将の将としての評価だろうから、単なる名将としては入れなくても良いかと 131 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 05 52 01 ID bPU4XNbx0 128 袁崇煥・郭侃・郭子儀・陳慶之・班超らへんもほぼ確定じゃね? 韋叔裕・斛律光・王猛は個人的に推薦したい 132 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 07 06 16 ID s34TCRik0 田中の百撰を叩き台としてそこから外れるべき人物と替りに入れるべき人物を挙げていった方が話になりやすくない? 133 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 08 05 30 ID CmHHV0oq0 田中氏の百選で明らかにおかしい人物は誰になるだろう? 134 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 08 23 35 ID s34TCRik0 とりあえず32.関羽。 関羽は決して無能じゃないけど、劉備軍の中にあって独自に軍を動かして大功を上げたとかないから。 135 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/21(火) 08 56 10 ID b6r/E8hhO ところで君主はアリになったの? それと前の方で出てた日本史等からも選ぶという案はどうなったの? 136 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 09 48 19 ID bPU4XNbx0 124で書いてるみたいなんでよくね? 自身が兵を率いて戦った将軍ってのを条件としたらわかりやすくないかい? 武将としての戦績のみでランクインするなら君主でもおk 例えば「皇帝になった」のを評価するのは評価対象外だが 皇帝になるまでの過程で「~の戦いで大勝」とかは評価する そうすれば劉裕やら永楽帝やらもランクインできるかも・・・と思うのだが そもそもガイエの皇帝になった人物は除外ってのが意味不明な分け方だし と、意見を出してみるがどうかな? 137 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 11 21 24 ID s34TCRik0 135 それと前の方で出てた日本史等からも選ぶという案はどうなったの? どうなったかは知らんが、反応が薄いということはスルーされてるんじゃないの? 138 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/21(火) 12 54 31 ID b6r/E8hhO 136-137 ということは君主はアリで地域は中国に限定という事でいいのかな? だとすると長命王朝を創建した劉秀、李世民、趙匡胤、朱元璋の四人は確定でいいんじゃないかな 139 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 13 33 42 ID bPU4XNbx0 138 俺 136だけど長命王朝の創始者というのは政治的業績だと思うんだ 136でもいってるけどそういう政治力は抜きであくまで将軍としての能力でつけないと 名将ではあっても粛清された人物などが不利じゃないかなと・・・ 俺一人の意見なんで、名将百選の定義を練る叩き台にでもしてくれたら光栄です まあ、その四人は将軍としても十分名将だと思うんで異論はないんたがw 140 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 13 53 26 ID 1v/odRrT0 133 つ 63 138 趙匡胤って将軍としてはそれ程優秀だろうか? 劉邦と同じ将の将に見えるが 141 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 16 42 17 ID /s6u8nvX0 139 その創業の4人は、軒並み超一流の戦術家でもあるから、名将に分類しても差し支えないよ。 140 趙匡胤は呂布に知恵がついておおらかになったような人物。 つまり、万夫不当の猛将でありながら、冷静さも兼ね備えた用兵家でもある。 皇帝になったあとは、劉邦のような人情家になったけど、一介の将軍のときは、それは凄まじい戦いぶりだった。 2千で3万やぶったりとか、一騎討ちしたりとか。 142 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/22(水) 00 18 01 ID lwp9gOS/O 今思い付く限りで統一は果たせなかったが名将と言える君主を挙げてみる 項羽、曹操、石勒、北魏の道武帝・太武帝、宇文泰、宇文ヨウ、 劉裕、蕭道成、陳覇先、後唐の荘宗、後周の世宗… 他には誰がいるかな? 143 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/22(水) 00 30 46 ID GL8xgk7S0 142 北宋の趙匡胤。意外だが、統一したのは弟の代。 144 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 00 31 54 ID GL8xgk7S0 後金のヌルハチも追加。 145 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 03 05 58 ID 9DlPkjh00 142 曹操は帝位にはついてないぞ。 魏になったのは曹丕から。 項羽も西楚覇王とはいえ王止まりで皇帝にはなってない 146 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 03 10 22 ID DDIXYAe+O 145 そもそも項羽が皇帝制を良しと思ってたかは微妙だと思うけどね 147 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 05 19 30 ID lwp9gOS/O 145 あと宇文泰もね そう言われるだろうと思って「君主」って表現にしたつもりだったんだけどダメかな 148 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 06 08 46 ID 7APkT7MzO 金正日大将軍 149 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 07 58 00 ID 7CIG5RwY0 143 どの範囲を制して統一かにもよると思う。 150 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 17 31 29 ID uJssoiv50 147 曹操や宇文泰はその気になれば帝位に就けたのに敢えて臣下の立場を通したから、 君主扱いするのは本人が望まないだろう。 151 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 17 34 22 ID H/jdHPnR0 142 後唐の李嗣源は忘れないでくれ。名将でもあり名君でもある。 152 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 19 26 37 ID G4DYdvtx0 耶律休哥は如何だろう? 中華最強の騎馬軍団だと思う。 153 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 20 12 04 ID DDIXYAe+O 152 別に100に入れることに反対する訳じゃないが、キタイを「中華」で「最強」かと言われると…… 154 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 20 24 54 ID H/jdHPnR0 耶律休哥はふうつにランクインするだろう。 中華ではないが… 杉山センセに撲殺されかねん… 155 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 23 43 24 ID lYP8weru0 153 あまりそういう細かいことはこだわらなくていいと思う。 お遊びみたいなものだし。 156 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 00 00 49 ID MuJdUfyUO 名将の定義ってそもそも何なんですかね? 自分は「寡兵で以て多兵を制す」 という事が第一条件と思っとるんですが 157 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 00 10 14 ID I+MVYV5bO 155 俺がモンゴル好きだから変に思っただけだ 他意はない 158 152 sage 2006/11/23(木) 00 23 59 ID 8NmFC1hT0 趣旨を理解できてなかった、すまん。 最強とかそういうのは言わない方がいいな。 159 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 06 15 44 ID DRQZSx5n0 156 それを名将の定義にしたら一体どれだけの将軍が候補から外れるんだ? 確かに寡兵で大軍破るのは評価には大きくプラスされるだろうが 160 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 16 46 31 ID LQHeYnTE0 60万の兵がいないと楚に勝てません って言った秦の王翦は真っ先に失格ですな 161 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 17 03 37 ID cJLOjJ4M0 「寡兵で以て多兵を制す」のを、そういう状況を自ら作って実行するやつもいれば(後漢・耿弇、晋・周徳威など)、相手の政治的不安や命令系統の不一致などを見越してやるやつもいる(梁・陳慶之など)。 高仙之のように、華麗な勝利を華々しい敗北でチャラにするのも存在するし。 だけど、「少数が大軍に勝った」という一事例だけなら、結構存在すると思う。 ただし、同じ将がそのまま勝ち続けることができているか、は別な話。 寡兵で大軍を破って、華々しい戦果を誇っても次には大敗、とかってよくあるパターン。 162 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 18 34 36 ID 5rs75kiF0 とりあえず、勝ち続けることの出来る将軍、ていうのが一番でないかと。 戦場や戦況は多様なんですから、勝利を収め続けることが出来るというだけで偉大です。一回や二回の大敗も、玉に瑕程度だと思います。 それに、拘りすぎると百人いかない、てことになりかねないので、基準はほどほどが一番ですけどね。 それとも、政治的、戦略的にどう見ても勝てそうにない相手を戦場の采配だけで倒してのける、ていうそれこそ世界中探しても百人いきそうにないのでも探します? 163 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 19 18 29 ID Rxa0WtZT0 敵地で平坦な地形での野戦で寡兵を持って大兵を破ったなら評価しようw 164 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 20 40 47 ID I+MVYV5bO まあ数がすべてというわけではないし 極端な話だが、近代装備をした軍はそんな装備をしていない軍にはまず負けない(イタ公除く)ように 士気、練度、補給、装備、地の利などによっては寡兵でも戦略的優位に立ってる場合もある 165 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 20 47 30 ID fKnUg09R0 状況が許さず仕方なく寡兵で戦うことはあっても 始めから寡兵で大軍に勝とうと思ってるやつは馬鹿 孫子にも「少なければ則ち能く之を逃れ、若かざれば則ち能く之を避く」とある 166 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 20 52 54 ID fKnUg09R0 まぁ野球ではよく言われることだが本当の名手は始めから 打球の方向を予測してよいポジションをとってるから ファインプレーはしないということだ 167 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 21 20 35 ID CLesudU10 兵法でも言う 良い将は平々凡々にやってりゃ勝てる状況を作り出せるので 見た目派手な活躍はあまり無い ってやつだ 168 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 21 34 20 ID esbFkjV80 騎兵1万で歩兵10万に勝ったというのは中国の歴史でも10回ぐらいはあったような… 騎兵対策をとらずに平地で戦えば騎兵がこの戦力差でも勝つらしい。 169 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 21 44 12 ID fKnUg09R0 168 長い歴史から見て10回という数字はかなり少ないと思うが、 まぁ武装が違えばね、武装が同じなら双方の被害はだいたいランチェスターの あの公式がほぼ正確な数字を出すらしい しかしまぁ俺の意見なら本当の名将は歴史的にスポットライトを浴びたことがない人物になるなw 君主と実戦の指揮官では立場も違うし、高度な戦術を用いて寡兵で大軍を倒した指揮官なら名将と呼べるのでは 170 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 21 57 21 ID cJLOjJ4M0 163 柏郷の戦いはまさにそれだ。 8万の歩兵相手に1万の騎兵で勝つという、戦史に記された勝利。 百戦奇略で、劉基もとりあげている。 誰の戦いかは自分で調べような。 165 まったくそのとおりだ。 軍事ロマンを語るのはいいが、それはあくまで例外。 寡兵で大軍を破るのは、ふつう非常識と考えねばならない。 勝ち続けた将軍なんているのかな? 致命的な敗北を喫さなかった、というあたりならいるが、それは戦略で補っていると考えられよう。 171 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 23 13 31 ID Veef+XQ+0 >本当の名将は歴史的にスポットライトを浴びたことがない人物 んなわかなかろう 確実な勝利でも勝利は勝利でちゃんと史書に残される訳だし それこそ戦国末の秦ってのは国力で他の国を圧倒してた訳で それでしっかり勝った秦の将の名前はちゃんと残ってるし、ここでも上げられてるじゃん 172 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 23 30 06 ID uT7wtS330 そんなことよりもっと名前を挙げて、個別に論評していこう。 173 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 23 38 30 ID cJLOjJ4M0 わたしゃ最初からずっと名前挙げてるのに、誰も追従しないのはなぜ? 174 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 05 24 02 ID +v3YHYxZ0 170 田中はん?もしかして田中はんやおまへんか 175 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 10 45 38 ID V7rHQYkj0 張弘範は? 一国を滅ぼした武将はやっぱり名将とすべきだと思う ……っと、実質滅ぼしたのは伯顔で亡宋の三傑が相手でも残敵掃討に過ぎないか? 176 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 16 16 32 ID M+Rr1LWp0 174 いや… 田中なんて武将は知らないぞ? 冗談はおいといて。 沙陀騎兵の馳突は、あらゆる会戦のほとんどが敵より少数での勝利が多い。 李克用にしても、皇軍となって黄巣と戦ったおり、1万7千で15万を丸1日かけて撃砕したとか(五代史記-唐本紀荘宗上など)。 177 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 17 01 41 ID 298gNi5/0 175 言っちゃ悪いが、三傑もモンゴルにとってはおまけみたいなものじゃないか? 当時は帝国西側が拙い事になってたし それにモンゴル帝国が屠って来た国・政権はかなりの量になるしね 176 あまり数だけ見るのもよくないけどね 数字が不正確なこともあるし、戦略的優位は別に数だけで決まるものでもないし 178 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 17 39 15 ID 24eJS0wk0 時代で分けるよりは、1世紀に3人くらいの方が公平じゃないか? 179 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 17 59 39 ID ZR5XNFEv0 178 同じ一世紀でも治世と乱世を一律には扱えんだろ。 180 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 18 23 16 ID tvbUH3ce0 177 というより、三傑は本当に「名将」なのか? どうみても勝ち目がない国に殉じた、っていう情念の部分で有名になったけど。 劣勢を挽回したわけでもなく負けるべくして負けたわけで。 皇帝が降伏しちゃったのに戦争を継続して結果死人を増やしただけではないか 181 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 18 26 36 ID aFoe9IfI0 180 最後の一行は蛇足だと思うが、そのとおりだと思う 名臣ではあっても名将ではないな なぜかガイエは張世傑を百人にいれていたが 182 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 18 26 51 ID N9GGpCSa0 騎兵1万に何も対策もせずに平地でぶつかれば10倍いてもひとたまりも無い。 まして斥候も出さずに行軍しているところを騎兵に襲われたら20倍いても負けるだろう… 少数で多数を破ったとしても対戦相手が無能なら凡将でも大勝利できる。 名将とはお互いに相手を察知して不意打ちではなく正面から戦いその時代の代表的な敵国の将を相手に完膚なきまでに叩きのめすぐらいの戦果がないとだめだろう。 183 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 18 52 36 ID +v3YHYxZ0 あんまりハードルを挙げすぎると100人集まらないよ まず文句なく名将を決めて次にかなり名将、やや名将、ちょっとだけ名将と ハードルを下げていくのもいいかもね 184 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 19 17 08 ID M+Rr1LWp0 182 たとえば誰? ちなみに、柏郷での戦いは、王景仁率いる梁軍を、大軍のゆえに怯懦せず、その質がさほどではないことを見抜いた周徳威が3千ほどの歩騎で攻撃を仕掛けたけど、王景仁はこのときとばかりに一気に総攻撃をしかけた。 周徳威は8万の梁軍と戦いつつも後退し、やがて広大な平野部に誘い込み、しかも戦い続けていたので、敵兵の腹が減っていることも見越し、待機させてきた残りの騎兵をもって、完膚なきまでに叩きのめしている。 最初から恵まれた地形にあったわけでもないし、統率者である王景仁が無能でもない。こういう戦史に残される鮮やかな勝利を演出した周徳威も、後の胡柳陂の戦いでは、混乱する味方を抑えられず乱戦の中に沈んでしまった。 185 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 19 20 32 ID M+Rr1LWp0 177 数字は誇大表記が基本だしね。 五代史では、趙匡胤率いる部隊2千(うろ覚え)が、南唐李景達の2万と戦ったとき、斬首5千なのに宋書太祖本紀では1万余に水増しされているというワロス記述もある。 186 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 20 52 24 ID 298gNi5/0 172-173 単純に今誰が出てるかよくわからないから語りにくいだけだろう という事で既出人物のリストを作ってみた ・神話~春秋戦国 呂尚(西周、斉) 孫武(斉、呉) 墨?(墨家) 呉起(魯、魏、楚) 楽毅(燕) 田単(斉) 白起(秦) ・秦・前漢 楚:項籍 前漢:韓信、周亜夫 ・新・後漢 後漢:劉秀、耿弇、呉漢、岑彭、班超 ・後漢末~西晋 魏:曹操、鄧艾 呉:孫策、周瑜 司馬懿(魏、晋) ・南北朝 前涼:謝艾 前趙:劉淵、劉聡 東晋:祖逖、桓温、謝玄 後趙:石勒、石虎 前燕・後燕:慕容恪、慕容垂 冉魏:冉閔 前秦:苻堅、王猛 北魏:拓跋珪、拓跋燾 侯景(北魏、東魏、梁) 大夏:赫連勃勃 劉宋:劉裕 南斉:蕭道成 梁:陳慶之 北斉:斛律光 韋叔裕(?) 北周:宇文泰、宇文? 宇文ユウ(北周?) 陳:陳覇先 ・隋唐 唐:李世民、李靖、李勣、郭子儀、李愬 ・五代十国宋遼金 晋・後唐:李克用、李存孝、李存勗、李嗣源、郭崇韜 南唐:劉仁贍 後周:柴栄、李重進、韓通、向訓、符彦卿 北宋・南宋:趙匡胤、曹彬、范仲淹、狄青、宗沢、岳飛、孟珙 遼:耶律休哥 ・元(モンゴル帝国) トゥルイ、スブタイ、ウリャンハタイ、郭侃、張弘範、バヤン ・明 朱元璋、徐達、李文忠、藍玉、兪大南犬、朱棣、于謙、胡宗憲、袁祟煥 ・清(後金含む) ヌルハチ、康煕帝、左宗棠 洪承疇(明、清) 時代区分は 119に従ったが、複数の勢力に在籍した奴や事実上の建国者やその部下なんかは 勢力の分類に困ったんで適当だw ところで、韋叔裕、宇文ユウ、兪大南犬ってよく知らないんで誰だかわからなかったんだが 187 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 21 07 49 ID +Ir5WLM80 186 兪大南犬 じゃなくて、兪大「猷」のことじゃないかな? ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AA%E5%A4%A7%E7%8C%B7 188 186(携帯) sage 2006/11/24(金) 21 53 28 ID 3D0YGq2uO 187 そりゃいくら検索しても見つからないわけだorz 189 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 22 27 35 ID 2cNyWYaOO 100か 50毎に確定リストを更新していった方がいいと思う 名前があがってるリストじゃなくて ほぼ確定だろ?リストが何回かでてるから それがまずテンプレ で、次の 100か 50レスまでに2~5人ぐらいづつ増やしていこう 190 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 23 29 35 ID Ie5xHdgTO 宋の李顕忠 秦の王翦 191 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 23 42 39 ID EGMyDZUi0 狄青 192 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 23 49 37 ID Z+3QIUdNO 186 個人的には好きな人物だけど符堅は外してもいいんじゃなかろうか 彼の軍事的成功は王猛の力に依る所が大きいしなによりヒ水の敗戦が痛過ぎる 193 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 02 27 34 ID jsisnWo/0 五胡十六国・南北朝に偏りすぎてるな。 194 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 02 35 47 ID 4BifWSnJ0 秦の王翦 前漢の衛青 北斉の高長恭 金の宗望、宗弼 明の常遇春 あたりは? 195 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 02 37 32 ID 4BifWSnJ0 とりあえず、今は候補者をガンガンだしていって数を揃えるべきかと。 んで後になって削っていくでいいんでない? 196 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 02 38 20 ID mdViCXj60 高長恭は戦績が少なすぎるとオモ 蘭陵王の話で過大補正がかかってるかと 名将には違いないが 197 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/25(土) 02 42 03 ID jsisnWo/0 金の完顔陳和尚も入れてやれよ。 おまいらの好きな寡兵で大兵のモンゴル軍を破った武将だお。 198 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 07 06 24 ID PBHUP4WG0 歩兵で10倍の騎兵を破った人とかいない? いたら名将確定だけど 199 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 14 32 31 ID 6ELxZNZq0 史上最強の宇宙大将軍は当然当確だよな。 200 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/25(土) 16 42 26 ID WTJAOlZO0 192 ヒ水を理由に符堅外すなら 赤壁を理由に曹操外すべき 201 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 16 48 30 ID a64clY1X0 200 いやぁ… 苻堅はまさに淝水のあと転落するように退場したろ。 曹操はその後も最大勢力を保ったじゃないか。 202 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 17 25 38 ID O+t4uNTE0 赤壁の戦い自体が胡散臭いのだが 大敗したはずの魏の主だった武将が全然死んでないし 203 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 17 32 15 ID a64clY1X0 そういう天下分け目の戦いというわけでもなかったろうが、曹操自身その後大軍をもっての南征をしてない以上、南北統一の機会といえば赤壁の河下りということになるのだろう。 204 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 18 30 55 ID FO5X8KYBO 武将の仕事はもちろん戦いに勝つことだが、春秋戦国以降の武将の最終目的はやはり天下統一 建国の名将は実績的な面で最大評価をするべき 建国のための戦いで数多く勝利をおさめ、功績の大きい人物は外すべからず 205 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 20 05 01 ID RJlXylR30 話題が散漫になるから、時代毎に議論していった方がよくないか? その時代時代に得意な人と苦手な人もいるだろうし。 最初は春秋戦国からで、大体の候補を決めてく感じで 206 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 20 40 34 ID mdViCXj60 それは自分の詳しい時代に差し掛かるまではROMってろと? 207 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 00 25 30 ID iN7+lkg5O 王翦を超える統一貢献度の高い名将などいない といってみる 208 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/26(日) 00 35 19 ID aYuH8mUGO 王翦の時は秦が他の六国を圧倒してたからなぁ 個人的には長平の戦いを勝利に導き秦の絶対的優位を決定付けた白起の方が凄いと思う 209 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 00 36 46 ID PjYcxhT50 嬴政は除外? 210 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. sage 2006/11/26(日) 00 39 05 ID TRtUvO3j0 名将の定義に依るかと。 211 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 00 40 49 ID h9FmfRDt0 209 嬴政って親征してたっけ? 212 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 00 54 39 ID yucqavKU0 王翦の凄いところは、水陸両面でオールマイティに采配を揮い、 君主の軍事的行動の要求に必ず応え、それでいて自らの生を 全うさせたことだね。 213 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 01 02 38 ID tMZdmYLG0 211 してないよ。 214 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 01 04 32 ID h9FmfRDt0 213 だよね。 上の方で「自分で軍を率いた」というのを条件としようというレスがあったので、それに従うんなら嬴政は除外されるべきだね。 215 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 02 46 30 ID iN7+lkg5O 信陵君が救援に駆けつけた趙、魏、楚連合軍に負けた (白起はこのへんで処刑されてる) その後も魏の救援に駆けつけた信陵君率いる連合軍に負け 春申君率いる楚、趙、魏、韓連合軍が秦地に侵入、函谷関まで迫った 趙では李牧に惨敗 (このへんまで六国全て残ってる) 楚では項燕に大敗 確かに秦一国抜きんでたけど予断は許されない状況 白起は確かに名将だが長平の大勝利は現実には趙括が無様な負け方をしただけ 王翦の活躍は国を、一つのまとまった勢力そのものをきちんと倒した 征服戦争をも遂行したという点で注目される この結果、中国という領域を確立させた秦帝国の登場をみる 216 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 03 01 46 ID siZxMZWd0 そういや、リストに李牧がいないな。さすがにこいつは外せないだろう。 あと個人的には宋のチュウ師道と金の僕散忠義を推す。 217 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 05 16 30 ID AVEMiy6a0 白起が処刑されてるとか 長平の戦いを趙括が無様な負け方をしただけとか 物凄くバイアスを感じる 218 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 05 51 26 ID PjYcxhT50 その鬱憤を日本にぶつけられても困るよな 219 ↑ sage 2006/11/26(日) 05 51 57 ID PjYcxhT50 すまん。誤爆だ 220 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 06 18 17 ID d1YGtSzc0 215 後半のまとめはガイエの武将列伝まんまじゃないか・・・ 確かに王翦は秦代随一の名将だと思うが・・・ 戦国時代で楽起・白起・王翦・魏無忌・李牧あたりはほぼ確定かな? 田単を推す声もあるけど俺的には百人に絞るとランクインは苦しいと思うんだがどう思う? 221 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 08 46 38 ID qhzh+sRx0 212 戚継光 222 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 08 52 35 ID siZxMZWd0 220 いいたいことは判る。 田単こそ、田中芳樹がいう「平均点が出しにくい」武将だと思いますよ。 陸遜を削る理由にあげたような。 223 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 09 13 56 ID D//XtrXV0 田単は楽毅とワンセット扱いでいいんじゃね? 楽毅無しで語れないし、一発屋感強いし 224 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 10 46 07 ID lUKgVANzO 一応ちょっと名前がでてた墨子と孫武は? あと個人的に管仲はどうなのか聞いてみたい 225 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 11 54 35 ID yucqavKU0 墨子は、戦術家に徹してたから、戦略面の評価が出来ない という点で微妙かと。 孫武は、実戦指揮官としても優秀だし名将で良いと思う。 君主が交代しなければ、もっと戦績を残していたはず。 管仲は、将として斉領土内でなら抜けた存在であったけど、 強力な将帥と戦っていない点で評価を下げて良いかも。 226 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 13 51 12 ID inVAQlXj0 孫武が軍を率いて敵を倒した話なんて知らんぞ 愛妾を斬った話と郢を攻めるのを時期尚早と諌めた話しか知らん 227 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 14 33 28 ID lUKgVANzO 93によるとあるらしいが 228 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 15 44 43 ID inVAQlXj0 227 >兵力3万の呉軍を率いて兵力20万の楚軍を破り、楚都を陥落させた これの出典は何?楚都郢を陥落させた話は簡潔にしか書かれてないんだが 3万、20万の数字はどこから出てきたの? 229 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 16 02 42 ID lUKgVANzO 227 俺に言われても困るが、93が電波飛ばしてたって事でいいんだよな 一応93が言ったあとに誰も反論しなかったんで一応ほじくり返してみたんだが 230 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 16 19 54 ID inVAQlXj0 229 いや、単に俺が知らないだけでデムパと決め付けるのもあれだと思うが 自らの著書「孫子」通りの戦い方をしたのなら普通に勝つべくして勝つ戦いをして 勝ったわけだから特に記述するようなこともなく簡潔に書かれるわけで 3万で20万と戦うという戦い方は「孫子」に矛盾するし、なにより楚都郢を 攻めたいという呉王闔盧に時期尚早と再三再四慎重論を唱えてきた それまでの行動と矛盾するのだが まぁ寡兵で大軍を撃破するような華々しい軍功がなくても孫武は名将に違いないと思うが 231 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 16 32 13 ID iN7+lkg5O 217 仕方ないやん、事実やん 長平の戦いで趙括がとった行動は三流もいいとこ 220 王翦をどうしても残したかったので頑張ってみた 俺が頑張らなくとも残っただろうけどね 232 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 16 38 52 ID iN7+lkg5O 逆に四十万もの捕虜を与えた趙括を感心すらするわ 233 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 17 31 01 ID AVEMiy6a0 白起のあれを処刑とは言わんでしょ、少なくとも中国感覚では 長平の戦いで白起のとった戦略、戦術がが平凡もいいとこだったら 趙括が無様な負け方をしただけとも言えるかもしれないけど、自分にはそうだとはとても思えないんだ 40万の兵士を40日以上にわたって封じ込め続けるなど、名将ならとるに足らないことなんだろうか 234 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 19 32 19 ID iN7+lkg5O 233 処刑は言い方が悪かったかもね 長平の戦いは白起だからあれほど鮮やかに勝ったってのは確かにあるかもね 235 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/26(日) 23 15 09 ID aYuH8mUGO 白起はもう確定でいいんじゃないかな 春秋戦国時代に白起を超える将軍はそうそういないと思われる 236 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 23 36 33 ID yucqavKU0 孫武について分かるだけ書いてみる(長文すまん) 呉王闔閭(在位前514~前496)は春秋五覇の一人に数えられることもあ る。呉は新興の小国で、楚は中原を狙うことも可能な大国であり、それ 以外にも斉という大国とも隣接していた。 その代、伍子胥・孫武の両将を主力として、紀元前506年には楚の首都・ 郢を陥落させた。 伍子胥・孫武は、闔閭の即位後に呉に仕え8年間の間に、これらの大国 と対抗できる軍備を整備し、その大国を滅ぼすだけの軍事的な成功を収 めている。 闔閭の太子・夫差が即位し、伍子胥が誅殺(前484)されるのと前後し て孫武は呉国から姿を消す。なお、呉国はほどなくして滅亡する。 ここからは推測が混ざります 伍子胥は、郢の陥落後に闔閭の政治的補佐役として宰相を務める。孫武 は、軍事の中枢にあったと思われる。よって、当時の呉国で軍事的に最 も優れていたのたのは、孫武でしょう。 237 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 00 01 11 ID Ku2AkQqc0 236 他の春秋戦国の名将と比べても、際立って強そうじゃないな。 リストから外していいかも。 238 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 00 26 23 ID K9wU4VUH0 237 楽毅と同じレベルのことはしてると思うんだがな 239 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 06 02 44 ID xlFKxEyi0 確かに戦功だけで言うと100人入りは難しそうだな 中国史の中でもかなり古い時代だから資料も史記オンリーだしな 孫子の兵法書を書いたネームバリューのが上だろうな 俺的には外したいところ 240 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 06 16 09 ID /aMHH+wq0 後の世の名将たちに与えた影響がでかい、ってことで評価したいなあ 241 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 06 26 39 ID pZ0Y872aO 春秋戦国から十人出すんなら入れてもいいんじゃないか 242 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 08 09 14 ID QkWuDOXb0 春秋戦国時代は500年を超える期間だから10人は入れてもいいんじゃない 243 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 08 40 58 ID JQ5ysuUDO 119の時代区分なら西周春秋戦国から10人は出せるよ (他の時代との兼ね合いから削られる可能性もあるけど) 補欠を加えて12人位は出しておいて良いんじゃない? 244 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 10 10 02 ID rtP8fock0 つーかね、一人名前を挙げてはゴチャゴチャ言ってうやむやになったまま 次の武将の話題に移ってまたゴチャゴチャ言って、って全然前に進んでないな とりあえず暫定的に100人前後名前を挙げて そこから武将を足したり引いたりする方法をとらない? 245 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 10 21 08 ID pqfV9W4L0 10等分10人枠のなかで調整してった方がいいだろ 白起 呉起 王セン 李牧 楽毅 孫武 田単 墨子 呂尚 管仲 とりあえず神話~春秋戦国は今までに10人候補あがった。 補欠入りやリスト外しするなら今のうち。 246 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/27(月) 11 20 58 ID OE/Lc3tCO 墨子は外してもいいんじゃないだろうか 代わりに伍員を推す 247 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/27(月) 11 25 20 ID XWrjbjEY0 GOOD! 248 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 11 25 31 ID wghAKR4O0 しかし… 史料を漢籍に頼らざるを得ない時代でも、ここまで熱く語れるだろうか。 正史全編もってる人いる? あるいは特定の時代でもいいけど。 自分は猫に小判ながらあるにはあるが… 全史に精通した人がいればなぁ 249 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 11 45 48 ID 1ygseA6i0 廉頗は? 蘭相如と両名が健在なうちの趙は、秦に侵攻されなかったということでも、 相当な将帥なのでは? 250 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 13 56 08 ID JQ5ysuUDO 245 魏無忌忘れてやるなよ あと王翦は戦国秦と統一秦のどっちに入れる?
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