約 412 件
https://w.atwiki.jp/chikugogawa/pages/34.html
Allegro部分の作り方。ピアノパートを見てみればスタッカートが続いている。歌ってみれば、まさにそのスタッカートをやりたくなるような楽しい音楽が書かれていることに気づく。少し小さい音量の指示も、むしろ力で押すのではないという音楽の基調を伝えてくれているようだ。 しかし、よくよく見てみると合唱パートにはスタッカートが書かれていない。さて困った。私たちはスタッカートしていいだろうか。 自然にわき上がってくる音楽をつくる立場から、スタッカートしているといっていいような軽快な音楽に仕上げていくという方法。やるなとは書いてないのだからやると良さそうなことはやればよいのではないかと。とくに最初の「す、が、」の2つの音ははっきりさせた方がいいだろうという作り方だ。もちろんベースはレガート。 これに対して、ここであえてピアノパートだけにスタッカートを書いていて、次のページの「走り出す」には女声にスタッカートを書いているくらいだから、この書法は作曲家からの「ここはスタッカートではない」という強いメッセージだと理解してみる立場。レガートはあり得ないにしても、テヌートと思わせない程度に音価いっぱいまで歌い、安易な気分に流されない繊細な気品を描き出してみせる。2回のフレーズの中でそれぞれのクレシェンド・デクレシェンドをわき上がらせるフレーズ全体の流れを演出し、大人の音楽に仕上げていく。 前者の方がはるかに多数派な気がするが、こんくるだとどう採点されるのだろう?
https://w.atwiki.jp/sangaku/pages/323.html
写真 NO IMAGES 復元想像図 NO IMAGES 奉納年 弘化4年(1847)6月18日 掲額者 伊藤裕春次男崑野千代佐好文 緒元 縦42cm ×横177cm うち枠7cm 問題数 2 奉納先住所 岩手県一関市藤沢町黄海熊館(不詳) 奉納先名称 岡田太子堂 別保管住所 岩手県一関市藤沢町徳田字金山沢69 別保管名称 八幡神社 文化財指定 拝観時注意事項 図 額文 注 現代文等 問1 今有三斜内如図設三角黒積及四等積只云黒積若干問得等分積一段術如何 答1 答曰 如左 術1 術曰五個開平方加二個乗黒積得等積一段合問 解1 解曰仍図各求之【以下傍書法につき省略】 問2 今有側円内設甲乙丁戊四円(乃随側円長短隣周相切或離或組合也)如図容円己円(切丙周己周各側円周之同処)只云側円短径(五寸)長径(一十三寸)甲乙円径和(八寸)丁戊円径和(八寸二分)問丙径己径差幾何 答2 答曰丙己径差三分三厘八毛 術2 術曰丁戊径和甲乙径和相減余乗長径巾以短径巾四段除之得丙径己径差合問 関流九伝 伊東裕春次男崑野千代佐好文 弘化四(丁未)六月十八日 額文は「和算 岩手の現存算額のすべて」による。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/22shisakki/pages/264.html
283.薛居正五代史 宋太祖開寶六年四月,詔修梁、唐、晉、漢、周書,其五代史者,乃後人總括之名也。七年閏十月,書成,凡一百五十卷,目録二卷。監修者爲司空同中書門下平章事薛居正,同修者爲盧多遜、扈蒙、張澹、李昉、劉兼、李穆、李九齡。(見宋史及晁公武讀書志,玉海所引中興書目。)皆本各朝實録爲稾本。此官修之史也。其後歐陽修私撰五代史記七十五卷,藏於家。修沒後,熙寧五年,詔求其書刊行,(見宋史)於是薛、歐二史並行於世。至金章宗泰和七年,詔止用歐史,於是薛史漸湮。惟前明永樂大典多載其遺文,然已割裂淆亂,非薛史篇第之舊。恭逢我皇上開四庫館,命諸臣就永樂大典中甄録排纂,其缺逸者則採宋人書中之徴引薛史者補之。於是薛史復爲完書,仍得列於正史,遂成二十三史之數。今覆而案之,雖文筆迥不逮歐史,然事實較詳。蓋歐史專重書法,薛史專重敘事,本不可相無。以四五百年久晦之書,一旦復出,俾攷古者得參互核訂,所以嘉惠後學,誠非淺鮮也。
https://w.atwiki.jp/sangaku/pages/163.html
写真 H30.5.2 復元想像図 NO IMAGES 奉納年 元治2年(1865)3月 掲額者 国分伝右衛門門人 緒元 縦16cm ×横38cm 問題数 3 奉納先住所 岩手県一関市藤沢町藤沢道場11 奉納先名称 藤勢寺 薬師堂 別保管住所 別保管名称 文化財指定 拝観時注意事項 普段は閉扉されているが、庫裏でお願いすると開けていただける。 図 額文 注 現代文等 奉納 問1 一今有如圖容方面交(二箇)乃小圓圣(三個)外円圣一十寸問方面幾何 答1 答曰方面四寸一分一厘四毛余 答 術1 術曰置外徑(四段)為實斜率(六段)為法實除得方面合問 段 乗→率 段. 問2 一今有如圖容方面之内隔斜小圓(六箇)只云方面一十寸問小圓徑幾何 答2 答曰小円圣二寸七分五厘余 術2 成式(傍書法部分は省略)此筭木開取得小円圣合問 問3 一有如圖外圓之内容甲圓(二箇)乙圓(四箇)丙圓(二箇)丁圓(二箇)外圓徑一十寸丁圓徑幾何 答3 答曰丁円圣一寸六分二厘四毛有奇 術3 術曰置外円圣(四段)内減五箇商之因外円圣得數以一十一除之得丁円圣合問 于時 元治二(乙巳)年三月吉祥日國分傳右衛門盛嚭門人菊地三之助盛常敬白 額文は「現存 岩手の算額」を参考とし、実物によった。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/netto/
■高校野球wiki、「熱闘!@高校野球wiki」にようこそ! 当wikiは、ブログ「熱闘! 太陽は知っている」の後継サイトです。 高校野球好きが集まって、ああだこうだと、サイトを構築できたらなと思い、当wikiを立ち上げました。 まだ作りかけもいいところですが、観戦記をアップしたり、高校野球への思いや意見などをアップしたり、いろいろ利用してもらえれば幸いです。 公序良俗に反するもの、的外れな中傷及び差別表現などは削除させてもらう場合があります。 ※ wikiの書法など、わからないことは、以下のトピックスを参照にしてください。 ■ 新しいページを作りたい!! ページの下や上に「新規作成」というリンクがあるので、それをクリックしてください。 ■ 表示しているページを編集したい! ページ上の「このページを編集」というリンクや、ページ下の「編集」というリンクを押してください。 ■ ブログサイトの更新情報を自動的に載せたい!! お気に入りのブログのRSSを使っていつでも新しい情報を表示できます。詳しくはこちらをどうぞ。 ■ ニュースサイトの更新情報を自動的に載せたい!! RSSを使うと簡単に情報通になれます、詳しくはこちらをどうぞ。 ■ その他にもいろいろな機能満載!! 詳しくは、FAQ・初心者講座@wikiをみてね☆ 分からないことは? @wikiの詳しい使い方はヘルプ・FAQ・初心者講座@wikiをごらんください。メールでのお問い合わせも受け付けております。 ユーザ同士のコミュニケーションにはたすけあい掲示板をご利用ください
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/89.html
Ts.ナツァグドルジ(Tsogzolyn Natsagdorj, b.1951) ドンドゴビ県生まれ。66年中学校からウランバートルの師範学校音楽教育科に入り、70年卒業後72年まで同校で音楽理論、和声学講師。72年にウラル音楽院に留学。作曲科でN.プゼイに師事。78年に帰国し音楽舞踊中学校にて理論、書法、和声学の講師を務めた後82年から2年間文化省芸術課長、84~87年国立歌劇場長、87年より作曲科同盟器楽作品部会代表、同同盟国際部長、84~90年同同盟書記長。94年より再び国立歌劇場長。93年に国家賞。それまで作曲家がひとりで何でもこなす(音楽活動においても作風においても)のが普通だと考えられていたモンゴル音楽界において、ハンガルやナツァグドルジの世代からは個々の作曲家が独自の路線で活動を始めた。同世代でナツァグドルジと同じく管弦楽作品の多いハンガルが感傷性や現代的な激しい表現主義的な作風を押し出したのに対し、ナツァグドルジは穏健で均整の取れた作風が特徴といわれている。また管弦楽作家を自負し多くの交響曲、管弦楽序曲・組曲、協奏的作品を書いている。また民族楽器と西洋オーケストラの協奏曲(馬頭琴のために書いた4曲の他、横笛、角笛、三線、揚琴など)が多いことでも知られる。 代表作 オペラ《雲のごとき運命》(台本:Sh.シャジンバト)(1988)、オペラ《オゴタイ・ハーン》(1991)、序曲《ウルガ(都)の祭》(1994)、揚琴とオーケストラのための協奏曲(1999)、《馬頭琴とオーケストラのための協奏曲第3番》(2004)、交響曲第5番(2002)など
https://w.atwiki.jp/sakat/
sakatのちらしの裏へようこそ。 献立 K R読書会2008開催中。 IEEE 754自習ページ。 読書中 OpenMPによる並列プログラミングと数値計算法 K R Fortran 90/95 for Scientists and Engineers Common Lisp入門 はじめて読むMASM 読書感想文 はじめて読む486 (2008-03-17) プログラミング作法 プログラム書法 ソフトウェア作法 FORTRAN 77 数値計算プログラミング (2008-02-17) 科学技術計算ハンドブック 基礎編C言語版 (2007-12-04) 定本 Cプログラマのためのアルゴリズムとデータ構造 C言語による最新アルゴリズム事典 @wikiへようこそ ウィキはみんなで気軽にホームページ編集できるツールです。 このページは自由に編集することができます。 メールで送られてきたパスワードを用いてログインすることで、各種変更(サイト名、トップページ、メンバー管理、サイドページ、デザイン、ページ管理、等)することができます まずはこちらをご覧ください。 @wikiの基本操作 用途別のオススメ機能紹介 @wikiの設定/管理 分からないことは? @wiki ご利用ガイド よくある質問 無料で会員登録できるSNS内の@wiki助け合いコミュニティ @wiki更新情報 @wikiへお問い合わせ 等をご活用ください @wiki助け合いコミュニティの掲示板スレッド一覧 #atfb_bbs_list その他お勧めサービスについて フォーラム型の無料掲示板は@bbをご利用ください 2ch型の無料掲示板は@chsをご利用ください お絵かき掲示板は@paintをご利用ください その他の無料掲示板は@bbsをご利用ください 無料ブログ作成は@WORDをご利用ください 大容量1G、PHP/CGI、MySQL、FTPが使える無料ホームページは@PAGES おすすめ機能 気になるニュースをチェック 関連するブログ一覧を表示 その他にもいろいろな機能満載!! @wikiプラグイン @wiki便利ツール @wiki構文 @wikiプラグイン一覧 バグ・不具合を見つけたら? 要望がある場合は? お手数ですが、メールでお問い合わせください。
https://w.atwiki.jp/k-project/pages/69.html
エクリ・レカ・チェール(ミ・デア語:Ekli Reka-Čēl,Ekli Reka-Che l)とは、十三国世界活劇録の主要登場人物の一人である。 登場作品 十三国世界活劇録 プロフィール 出身 - ミ・キーヴォム、ラス・シュフィール 種族 - 鳥人間、亜人 ベース - オカメインコ(ルチノー種) 家族 能力 現時点では、乗り物なしの自力で空を飛ぶ力が確認される。 自身や他人に対し、身体やその一部を軽くも重くもできる力がある。 その他は不詳。 性格・外見など 21歳の真人で、アンティックゴールドの髪色にウェーブの掛かったボブへアー。 肌は白く、中性的な外見であるが、外見がその人の扱いを左右するという鳥人間特有の風習もあって、派手な濃色の化粧が目立つ。 目の色は濃い赤ワインレッド。 性格も見た目通り中性的で、幾分頑固な側面も持つ。 又、平時は静かで大人しそうな雰囲気で心配性、しかも気分屋ながら、その実皮肉屋で毒舌家でもある。 一方で内面は打たれ弱く、派手な化粧によってその性格を隠している。 だんだんと自らの生き方の将来像が見えて来たため、冷めた目で俯瞰する一方、世間様に対しどこかやりきれない気持ちでもいる。 特に差別や偏見、古い習慣・決められた役割が許せない性分であり、自身も判断・強要を嫌う。 そのため音楽や服飾・化粧などのアート活動で自らのメッセージを発信し、変えようとしている。 外観も内面も、総じて智紀に似ている。 特技 歌、服飾、化粧などが好きで才能がある。 外界で言うロックバンドを組んでいる。 おもにギターとヴォーカル担当であり、メッセージ性のある力強い曲を歌う。 読解能力が高い。 その他 名前の由来はエクリチュール(仏:écriture、書き言葉、書法等の意)であると思われる。 キャラクター原案提供者はécrire(仏:自動詞、他動詞の両方)にちなんだ派生語も含め、命名を依頼。 関連人物 藤崎智紀 十三国世界活劇録におけるパートナー 外部リンク
https://w.atwiki.jp/tokaiteki/pages/10.html
70 芸術. 美術 701 芸術理論.美学 分析美学の道具箱 -Lichtung 71 彫刻 72 絵画. 書道 720 絵画 【2019年版】パブリックドメインで無料!世界の名画500万枚をダウンロードできる美術館サイト16個まとめ -PHOTOSHOPVIP 725 素描・描画 絵が下手な人と描ける人の「よく見る・観察する」の違い -Togetter 727 グラフィックデザイン、図案 Canva (シンプルで直感的にデザインをつくれる) PALLETTABLE (配色を自動で決めてくれる) Muzli Search (Webデザインの横断検索。カラーコードからも検索可能) 727.8 装飾文字:レタリング,モノグラム WhatTheFont (画像を挙げるとフォントを判別してくれる) フォント選びに迷ったら見返したい、おすすめ定番フォント31選まとめ (欧文編) -note (原田佳樹さんによる定番欧文フォントのまとめ) 728.4 漢字の書体および書法 MOJIZO (木簡・くずし字の解読システム) 73 版画 74 写真. 印刷 749.12 版下作成.組版:写真植字,電算写植 山田竹志「『哲学の探求』編集のための組版ガイド」 75 工芸 76 音楽. 舞踊 760 音楽 いちにの 音楽だいすきクラブ (音楽が好きな人なら誰でも参加自由のブログ。「ネットの音楽オタクが選んだ……」というタイトルでランキングも) "works." 24/7 stream work music radio BPM120 -Youtube (音楽レーベルDiverseSystemによる作業用BGM配信) 760.9 レコード音楽.オーディオ機器 listenonrepeat (youtubeの動画をエンドレス再生できる) 763 楽器、器楽 spleeter (楽曲をヴォーカル/ドラム/ベース/ピアノなどトラック別に分離できるフリーソフト) 77 演劇. 映画 778 映画 Amazonプライム・ビデオ、Netflix、Hulu 、U-NEXT、Disney DELUXE (映画やドラマのサブスクリプションサービス) Ritlweb動画検索 (動画の横断検索) 78 スポーツ. 体育 ダンス ダンス初心者の方必見!おすすめダンス講座をまとめました! -YUUNOSUKE@WEB 79 諸芸. 娯楽
https://w.atwiki.jp/awata/pages/41.html
宋史紀事本末敍(陳邦瞻) 『宋史紀事本末』とは、宋朝の事柄を並べ、袁氏の『通鑑』に続けたものである。これ以前、宗伯の馮公がこの書をものにしようとされたが、成し遂げられなかった。そこで〔馮公の門下であられた〕侍御の斗陽の劉先生は、馮公の遺稿幾許かを手に入れると、京兆の徐公に示された。徐公は門下の沈生に校正させるとともに、小生にこの書を完成させるよう仰ったのである。概ね、小生の増編したものは十に七であるが、ほとんどは侍御〔劉先生の〕趣旨であると共に、宗伯〔馮公〕の遺志である。さて、書物の編成には叙を述べねばなるまい。 叙に曰く―― 史に紀伝の外、さらに編年が加わり、歴代に全書あること久しいものがある。事は前を改めず、詞は旧より改めることなく、配列して集めるのみ。これによって論評を加えるのはすぐにできることである。これでは述作のあり方として、末のことではなかろうか。否、そうではない。楊氏に善い言葉があるではないか。――「事の微かなるものを明らかなるものの前に掲げ、事の成りたるものをその萌しの後に取り置く。その隠れるたる本情は漏れ出で、その所以は竭くされながらも簡要である」と。これこそ本末を述作するものの宗旨であろう。そして小生は宋の一事に於いて、特に感慨を抱くものである。 そもそも史とは、往古を戒めとして来世の訓とし、世変を考えて治体を定めるものである。五帝三王の事は、既に存亡相半ばし、漢唐の盛事は、智者勇者の功名のみ、語るものの羨望するところとなっている。しかしそれらの世を考えているほどの余裕はない。 宇宙の風気は、その変化の大なるものに三つある。太古の昔が一変して唐虞となり、周に至り、七国を一つの極とする。再び変じて漢となり、唐に至り、五季を極とする。宋はその三変目であるが、私はまだその極を見ないのである。変化がまだ極まらぬ間は、治体は前後因襲せざるを得ない。現在、国家の制度、民間の風俗、官司の行うところ、儒者の守るところ、一つとして宋に近からぬものがあるだろうか。宋の世を慕い、喜んで赴くのではない。勢いがそうさせるだけなのである。 舟は水を進むため、風に従って南北を決めるしかないように、治体は人間に係るゆえに、世変に従って上下を定めるしかない。そのため周以前に世を動かしたものは道徳により、漢以後に世を動かしたものは武力によったのである。それらはみな運りあわせなのである。宋になると、〔太古の〕仁義礼楽の風俗は既に彼方にあり、〔漢唐の〕詐偽権力の運用もまた行き着くところまで来ていた。芸祖と太宗はそれを知ったが故に、宋朝一世の治体を悉く格律によって縛りあげ、一世の才を悉く規矩に納めてしまった。粛々と法令を守ることで、和らぎ慕うようになり、ようやく世が治まったのである。 大抵、宋朝三百年の間、家法は厳しく、呂后や武則天のような混乱は後宮に起らなかった。国体は従順であり、王莽や董卓の災禍は朝廷に起らなかった。官吏は慈しみを根本としたため、天下に苛酷な取り締りが行われることもなかった。人々は法を守りあったため、盗賊まがい仁侠が民間に受け入れられることもなかった。世変を制し、風俗を定めること、漢唐といえども及ばぬものがあったのである。ただその〔武力の〕弱勢を矯め、煩らわしい議論を黜け、権力の奪いすぎを厭い、律儀すぎる法令を厭えばよいのである。要するに、枉ったものを矯めることで正しきを得たなら、それで善いのである。東西南北の如く、互いに取り替えることのできぬものでもなく、寒暑昼夜の如く、必ず互いに交代しなければならぬものでもないのである。だから、世変のまだ極まらぬところ、治体は前後因襲せざるを得ないというのである。 うまく〔前世に〕因襲するものは、その得失の道理を知るものである。そこには微かなことと明らかなこと、成りたるものとその萌し、先にすべきことと後にすべきこととがある。つまりこの書によって、それらを窺い知り得るのである。私は殊更にその所以を論ずることをせず、世の君子のため、ここに一考を与えたいと思う。 万暦乙巳の年(1605)の仲春、南京吏部稽勲清吏司郎中、高安の陳邦瞻、書す。 刻宋史紀事本末序(劉曰梧) 古今の歴史書はどれも事柄を記したものだが、軸の取り方は異なっている。左氏や馬遷の書法は精到で、かたや年を軸にし、かたや人を軸にしたが、建安の袁先生はまた別に門戸を開き、事柄を軸にしてその顛末を余すところなく記した。〔書法の〕得失に心を遊ばせ、門戸の見にこだわる学士らは、みなこれに赴いたのである。私はかつて次のように評したことがある。――袁先生の書は、事柄は前代の歴史書を改めないのだから、その範囲は左氏や馬遷の埒内にある。書法はまとめることにあるのだから、その標目は二氏の功績である。試みに紀事の一つについて論じてみよう。盛時を記すとき、衰時も挙げるならば、世の升降は明かになろう。成功を鏡に映すとき、失敗も照らし出すならば、世の道理は明かになろう。変化を著すとき、その経過を示すならば、分かり難い変化のきっかけも明かになろう。事件によって人間を観察すれば、人材の高下も較べられよう。こうすれば編年と紀伝に記されるところは、一つとして合わせ見られぬものはないのである。 袁氏は漢唐のことを記すのみで宋に及ばなかった。枢はもともと宋の人であるから、伏すべきことが多かったのだ。今の国家から見れば、宋は近古ということになる。高皇帝が天地を定められたもうた後、国の強弱や大小、法度の粗密について、〔明と宋を〕同日に語ることはできない。しかし三代以後、世の綱紀や風俗といったものについて、〔宋の〕建徳の世と少しでも違いがあるだろうか。周は二代に鑑みたという。ならば〔私達が〕宋に鑑みないでよいだろうか。そもそも〔宋に生れた〕濂洛の教えは、二百年ものあいだ〔それ以後、明に至るまで〕用いられているのだ。古人は三皇のことは存亡相半ばしているといったが、時は流れて今日に至るや、漢唐のことも存亡相半ばするようになった。では〔北宋の都〕汴都や〔南宋の都〕臨安のことについて、歴史書は完具しているといえるだろうか。一体、なんと蕪雑なことであろう。士大夫として宋の事跡を修めるべく心ざしながら、素王の教えに従わず、龍門(司馬遷)や扶風(班固)に断を取り、袁氏の後塵を拝そうと務めるなら、有益であるか否か、もとより知る由もない。しかし事理を並べること切実明白であるならば、物事を論ずるきっかけや過去に徴する道具とはなり得よう。 我が師・臨朐の馮先生はここに心を動かされ、少しく編修なされたのだが、書法が定まったというときに、天は余命を与えなかった。その後、私は旧都に視察に赴いたとき、京兆の徐公のところに於いて、今は亡き沈侍御の手になる『事紀』を遺児の朝陽から得ることができた。編修の方法は馮先生と全く同じだったが、まだ彫磨し遺したところもあり、条理も少しく不完全だった。ちょうど私と郷里を同じくする司勲の陳公徳遠は――彼は万巻の書に目を通しており、精神によって千載の後から古人を理解するという風だったが――〔本書の編輯を続けるにあたり、〕時勢に関係ある事柄のみを抜き取り、枝葉にわたる言葉は選ばず、ときに語数を費やして〔他書から〕合わせ取り、ときに僅かな言葉で思いを著し、前人未発の主旨を一瞬で宣揚するかと思えば、穿鑿附会〔の空疎な説〕を高邁だと考えることもなかった。本書はこの三公の手を経てようやく出来上がった。建安〔袁先生〕に功ありと言うべきであろう。そもそも両宋近古のことについて、天下に碩学の乏しくないこのとき、書物を編修しつつ、完成を望みながら達し得なかったこと数百年、偶然にも機縁のよるところ、この一日に集まることになった。古諺に文章は経国の大業とあるが、偶然のことではあるまい。 士君子が天下の書を読むのは、世の役に立てるためであり、前世は後世の師たりとは、いにしえより語られたところである。己の心に従い、空疎な道理に心を遊ばせるばかりで、やがて失敗するようでは、訓戒とするに足りない。これを要するに、舟を漕ぐのに方式に従わず、車を進めるのに途轍に合わないようでは、物事をなし遂げることなど決してできないのである。明朝は天下安平といわれるが、折々に事件もあった。しばらく宋の事に借りて論じてみようと思う。霊州の議論、澶淵の策略、濮園の論弁、洛蜀の党争――現在にも彷彿たるものがあろう。成功と失敗の理由は、彼此一々あろうが、これも得失を論ずる備えにはなろう。すぐれた棋譜も碁の変化を極め竭くしてはいないが、棋譜を学ばずに碁を打つものはおるまい。私は宗伯〔馮〕先生の遺志を受け継ぎ、ついにこれを上梓することができた。その上、私の弟がちょうど国子祭酒だったので、本書を与えて学宮に置かせ、四方の学士の観覧に備えさせた。 万暦三十三年乙巳の歳、仲春の吉日、京畿道監察御史、南昌の劉曰梧陽生、撰す。 宋史紀事本末後序(徐申) 両漢以来、連綿と史書は存在した。史は往昔により将来に訓ずるものであり、なくてはならぬこと余りに明白である。しかし当今の学士はまことに経術を名誉と考え、末流はこれに趨り、史家に学んだと称すものは、百に一も及ばない。また年を取りて後に史書を読み、まま従うべきところを知ったところで、浩瀚な書物に苦しみ、博通に難しく、片言の筆削など、いかにしても得られはしない。これを喩うれば、〔地を掘って〕江河の流れを〔正しく〕導こうとするものが、ただここに流れる水に目を向けるのみで、江河がどこからどこに流れゆこうとするのか知らぬようなものである。これでは毎日のように〔江河の水を流すべく〕地を掘っても、正しき流れに当りはしないだろう。 南雍の地には、かつて建安の袁機仲がおり、彼は『通鑑紀事本末』を編修したのだが、宋と元については欠けていた。馮宗伯はこの書の続編を作るべく、何度も手直しを加えたが完成しなかった。直指使者の劉公は宗伯の門下の士である。甲辰の歳(万暦三十二年)、〔劉公は〕少しく都に停留し、陳司勲徳遠に依託して、馮宗伯の事業を完成させようとした。しかし私はこう聞いていた――今は亡き沈侍御にも著述があり、遺児の朝陽は京兆府の弟子員となり、よく家業を守っている、と。そこで沈子にも司勲を助けるよう勧めたのである。かくして司勲は宋の歴史をひとまとめにし、〔馮氏と沈氏の〕二書を合わせ、本筋と末節とを結びつけ、各々事柄を題目に繋げ、その論評を事柄に繋げた。このやり方は全く仲氏と同じであった。とりわけ宋代は議論が多く、功成ることが少なかったが、大奏議についての記述は少しく詳述し、世を論じるもの考察に供すことにした。本書の叙述は高尚であり、記された物事はまとめきられ、〔宋の歴史〕上下三百年あまりにつき、貫珠のごとく筋が通されている。まことに浩瀚なる書物の宗旨となるだけでなく、世を治むるものがまず手助けとすべきものであろう。 劉公はこの事業を終えると、溜息をついてこう言った。――「古諺に言うではないか、『千金の裘も、一狐の腋に如かず』と。全くその通り。機仲氏は碩学と称されたが、それでも史臣や世本を捨て置いて、別に取るものなどなかったろう。之を要するに、諸々の言葉を折中することで、かえって旧作に倍する功績が得られるのだ。かの龍門(司馬遷)や蘭台(班固)は各々一家の業を成し、両者ともに世に伝えられたではないか。本書はまことに建安の不足を補うものなのだ。」かくして私とともに校訂を加え、これを版元に渡した。後日、なおも元の書を編修し、世の学ぶ者に〔戦国より元に及ぶまでの〕全時代の史事を知り得るようするつもりでいる。続報を待たれたい。 万暦乙巳の仲春、応天府丞、勾呉の徐申、書す。 本館の『宋史紀事本末』序文三種を参照。