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徴兵事務所 [部分編集] TSUから引っこ抜いてきたデータです。 2008/07/09時点で人口60人以上の村だけです。 勧誘した事がある村は削除してください。 これはメモ代わり。(-30|30)から30popsで抜き出しました。 -- yaobang.hu (2008-07-10 00 55 26) 勧誘したところは削除して行っちゃおうか? -- yaobang.hu (2008-07-10 00 56 08) コメント欄追加したよ -- yaobang.hu (2008-07-10 01 16 00) 番号も振ってみた -- yaobang.hu (2008-07-10 01 19 30) エラーでみれません(TT) -- waon (2008-07-10 07 32 04) (-46,58)のOKRさんをかんゆうしました。こちらにはのっていないようです。ざひょうのならびのほうがみやすいかもしれません。 -- waon (2008-07-10 09 35 14) (-45,45)のayukisaさんを勧誘中です。 -- H.P.Lovecraft (2008-07-10 12 57 05) waonさんが勧誘されているOKRさんを追加してみました。 -- H.P.Lovecraft (2008-07-10 13 03 02) waonさんエラーは解消されましたか?編集中だとときたまエラーになるみたいです。 -- VillageKeeper (2008-07-10 15 24 25) 別室にもう一つ表を作ってみました。どっちが良いですか? -- VillageKeeper (2008-07-10 15 25 18) 別室の表は座標順(中心地~)になおしてあります。 -- VillageKeeper (2008-07-10 15 28 46) 座標が中心から並んでいるので地区を考えながら勧誘できるので便利そうですね!<別室 -- H.P.Lovecraft (2008-07-10 16 23 11) 別室の表の方が良かったら入れ替えてもらいましょう。 -- yaobang.hu (2008-07-10 18 03 03) データー範囲外なのでこちらに書きます。(-65|63)arc様勧誘いたしました。良い返事をいただきましたが、大使館建立後再度連絡くださるそうです -- curlin (2008-07-10 20 14 57) bom33 (-32|60)さん勧誘ちゅう。 -- waon (2008-07-11 01 10 36) syounan(-29|30) 勧誘中です -- curlin (2008-07-12 00 02 41) パス茶のパスワード「passtray」です。 -- yaobang.hu (2008-08-01 02 47 30) こんばんは -- 函館太郎 (2008-08-14 18 58 19) 名前 コメント table_edit エラー(指定先ページのページ閲覧権限がありません。)
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融合徴兵(アニメ) 通常魔法 (1):自分のエクストラデッキの融合モンスターカード1枚を選択して発動できる。 自分の墓地・デッキから、選択した融合モンスターカードによって決められた 融合素材モンスター1体を手札に加える。 この効果で手札に加えたモンスターは召喚・特殊召喚できない。 デッキサーチ 融合モンスター補助 魔法 同名カード 融合徴兵(OCG)
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在日ベンツ君AAコレクションhttp //engawa.open2ch.net/test/read.cgi/nida/1396729842/ ベンツ君語録@ ウィキhttp //www62.atwiki.jp/benzgoroku/ オカルト板の方々、どうやら何かに憑かれてるベンツ君(ネット芸人)にアドバイスをhttp //toro.open2ch.net/test/read.cgi/occult/1400082016/ 登場人物 ・ベンツ君:このスレの主人公 ・ブックさん:ベンツ君の見張り役?7号ぽい。ベンツ君のプロデューサー??(≧∇≦)ミテルヨで工作員に圧力かける。ヘリボーンの上司でお嬢様??? ・オフレッサー上級大将:ベンツ君の働く店が社宅代わりにしているレオパレスのオーナー ・貞子:熊手を装備したしっかりブス。オフレッサー上級大将の娘で現在おつむの弱い人が入る隔離病棟に居る ・クロエ(マミ):(≧∇≦)キャピ、餓鬼憑き暴飲・暴食・すべてがおかしい本国のBBA。ベンツ君と一線を越えたw巴マミを名乗る。ベンツ君11号を愛しい彼と呼ぶ。 ・ヘリボーン引越しセンター:ブック・クロエ・黒服3人組などが偽装した引越し屋。プッーケット(死神)から指令を受けて動く部隊 ・プッーケットさん:死神。同胞の裏切りものの始末者。ヘリボーンの発令者 ・除霊タクシー:何かに憑かれてるベンツ君たちにコンビニでお清めの塩を買ってきてくれて、 「くれぐれもあすは神社いきなさい」とアドバイス。 ・幽霊? :①パーカーさん:パーカーを着たゆらゆらして、「俺が見えるのか」と言った。 ②手:宿泊するホテルの天井から出てきた手 ・叔母さん(レオパ管理人):たぶんオフレッサー上級大将の系譜。貞子が隔離された事件で部屋に登場。貞子にビンタ一発 ・ランドセル:デリヘルから来たランドセルを背負った女。ブックさんとつながっていたようでベンツ君に「合格」と不吉な判定を下した ・住職:ある夜、玄関で待ち伏せていた貞子に追い込まれた寺の住職。後日謝りに行ってベンツ君は「不浄」と断ぜられる 歴代ベンツ君 ・1号,2号…伝説はここから始まった。即、徴兵。 ・3号…プリキュアベンツ。痴漢の1号と性技の2号を受け継いだベンツ君。雪の中、プリキュアと叫ぶのを最後に拉致され徴兵。 ・4号…ポスコベンツ。ポスコの暴露は祖国に大打撃を与えた。火消し工作員の手により徴兵。 ・5号…東京ベンツ。もっとも暴露記事を出した優秀なベンツ。東京風俗めぐり中に拉致、徴兵される。 ・6号…ブックベンツ。ブックさんのなりすまし。5号を受け継ごうとしたが本国人の傲慢気質が垂れ流され住民に不快感を与える。即アボン。 ・7号…代打ベンツ。ポンコツ。6号の命によりベンツに成った在日。が戦闘力が足りず。役立たずとして徴兵される。 ・8号…レオパベンツ。5号の正当な継承者としてあらわれたベンツ。レオパ○レスに住み、怪人熊手貞子と戦う。が、貞子に勝利するも、徴兵される。 ・9号…フグベンツ。ガチホモ。その気質故、本国のアナルレイパー達に目をつけられる。カリフォルニダを暴露し、本国の兄貴達に拉致。徴兵&破菊。 ・10号…菌股間ベンツ。歴代のベンツの呪を受け性病を継承する。尚、歴代ベンツの中でも運転技術は優れ、頭文字Bという異名を持つ。が、黒服三連星に敗北し徴兵。 ・11号…オカルトベンツ。新たな仲間、クロエと共に大阪、兵庫、名古屋、伊勢と悪霊を身にまといながら冥府魔道の旅を続ける。しかし、その旅の終着駅は徴兵だった。 ※現在、生きて帰還したが精神が崩壊、「あー」「うー」しか喋れない状態で入院中。オムツ装備。「○んこ食えない」と言う ・12号…クロエベンツ。ベンツ君の携帯を奪い、ベンツ君の人気にあやかろうとする工作員。しかし、力が足りず、住人から劣化ベンツと怒りを買う。2日でアボン。 ・9号改…フグベンツ改。再びベンツ君として復帰するも、相変わらずの戦力不足で住民達を怒らせた。就任二日後、死神プーケットが現れ今度は海の底に永遠の徴兵となった。 ・13号…ゆとりベンツ。徳島からパチンコホール正社員に釣られて引越し13号を襲名。だが、それはクロエの徴兵への罠であり、婚約したテヨンとの仲を引き裂かれ徴兵される。 ・ ムサッシ(代打ヘリボーン)…13号の出荷後、11号帰還までの代打で登場。「(*`Д´)ノ!!!あとは察してほしい」が決め台詞。ヘリボーン引っ越し センターの黒服三連星の内の一人。徴兵から生きて帰ってきた勇士。その為か現実を見据える力を持つ特異な朝鮮工作員。漢。14号を選定。14号の前では冬 月と名乗っている? ・14号…クズ(ムサッシ談)ラッパー。モンキー(バイク)所有。俺様成り上がってジャマイカで本場のラッパーになるんだオイエー。レオパに引越したその 夜に貞子の凸を受ける。パチ屋の仕事1日目で泣き言ばかりのヘタレ。専用携帯置いてベンツで逃亡し、ヘリボーンに追跡後、確保され、ションベン漏らし た。両親が強く徴○希望 ・15号…ズルベンツ。秘密工作員の俺カッコイイ♪(うっとりw)で、ムサッシさんの愛猫に噛まれ手を上げ逆鱗に触れる、最速ベンツ君、2:44:05 で出荷wwwwww ・16号…デブベンツ。アラツー。あだ名はドンブリ君。八百屋でアルバイトのベンツ君。謎の?姉さんからスカウトされ「ここで 質問すれば 徴兵逃亡出来ると 聴いてきました」ネット応募、クロエさんが都内で面接、20日位放置、 突然電話で夢のナマポせいかつしたいでしょ?いいほうほうがあるの?でベンツ君採用w
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大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日))は、幕末期の長州藩(現・山口県)の医師、西洋学者、兵学者。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)。諱は永敏。位階は贈従三位、後に従二位。家紋は丸に桔梗。 生涯 村医 周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の門下となり、1844年6月まで学ぶ。弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎で1年間遊学し、その後適塾の塾頭まで進んだ。 嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家の娘琴子と結婚した。だが口数が少なく無愛想で、村人が診てもらうと身体のしくみ等を何やら小難しい言葉でくどくどと説明したので「大坂で何の勉強したのやら」とあまり評判のよい医者ではなかったという。 講武所教授 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代となり、大村は伊予宇和島藩の要請で出仕する。このとき藩主伊達宗城は参勤交代で不在、家老も京都へ出張中であった。宇和島藩の役人たちは、2人扶年10両という低い禄高に決めた。このあと帰ってきた家老は役人たちを叱責し、100石取の上士格御雇へ改めた。役人たちにしてみれば、高待遇との約束で来ていながら、役人に事情も説明せず汚い身なりで現れた益次郎に対して、親切心をもってした待遇であったらしい。 大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行し、文政年間に出島へ来航したドイツ人医師シーボルトの弟子であった敬作から、シーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され蘭学を教える。イネは後年大村が襲撃された後、蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、最期を看取っている。宇和島では提灯屋の嘉蔵(かぞう)(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではない。大村はこの謙虚で身分の低いほとんど無学の職人・嘉蔵の才能に驚かされたという。この頃村田蔵六と改名。 安政3年(1856年)4月、江戸に出て「鳩居堂」を開塾して蘭学・兵学・医学を教える。宇和島藩御雇の身分のまま、同時に幕府の蕃書調所教授方手伝となり、月米20人扶持・年給20両を支給される。安政4年(1857年)、幕府の講武所教授となった。万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵。文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。 長州征討 文久3年(1863年)、萩へ帰国。西洋学兵学教授となり、博習堂での講義を行う。長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられた。このあだ名は周布政之助が付けたとも高杉晋作が付けたとも言われている。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し保守派が政権を握ったが、慶応元年(1865年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。 高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、大村にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名。明倫館兵学寮総官・教授として歩・騎・砲兵士官教育を行った。大村は山口では普門寺を宿舎としていたため、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。大村は西洋兵術書を翻訳したばかりでなく、それを現状に即し実戦に役立つようわかりやすく書き改めた。さらにその教え方も無駄がなく的確であったという。 慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、6月に戦闘が開始される。大村は石州口方面の実戦指揮を担当する。その才能は遺憾なく発揮され、優れた戦術により幕府側をことごとく撃破し、中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃。浜田城を陥落させた。長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は大村を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦した。 戊辰戦争 明治元年(1868年)2月、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。4月には大坂から江戸に進駐し、江戸府判事を兼任する。彰義隊の反乱に対して討伐軍を指揮し、わずか1日でこれを鎮圧する。この上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で大村が発した「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せたこと等が、海江田による大村暗殺関与説の根拠となっている。 同年5月、鎮台府の民政会計を任される。北関東で幕府残党勢力を鎮圧したのち、新政府軍の総司令官として東北地方、新潟で北部政府(奥羽越列藩同盟)と事実上の“南北戦争”である「東北戦争」を戦った。北部政府の盟主、仙台藩らの降伏後、明治2年(1869年)、函館五稜郭で幕府残党勢力の榎本軍も降伏し、戊辰戦争は終結した。 兵制論争 大村は戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び新政府の幹部となった。大村は軍制改革の中心を担い、明治2年(1869年)6月には政府の兵制会議で大久保らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開している。兵制会議は6月21日から25日にかけて開催された。そこで、藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図る大村らと、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保らとの間で激論が闘わされた。 この兵制論争中、6月21日段階での争点は、京都に駐留していた鹿児島・山口・高知藩兵の取り扱いをめぐってのものであった。大村を支持する木戸も論争に加わり彼を援護したが、23日、大久保の主張に沿った形で、京都駐留の三藩兵が「御召」 として東下することが決定され、この問題については大久保派の勝利に終わった。また23日の会議では、先の陸軍編制法の立案者であり、大久保の右腕ともいえる吉井友実も議論に加わり、今後の兵卒素材についての議論も始まった。ここでも大久保・吉井らの主張する「藩兵論」と大村や木戸が主張する「農兵論(一般徴兵論)」が激しく衝突し、議論は翌日も続いた。しかし会議の結果、兵制問題は後日改めて議論することとされ、大村の建軍プランの事実上の凍結が決定され、この日、25日まで続く兵制論争がほぼ決着した。 大村の建軍構想は、この会議の結果、ことごとく退けられることとなった。さらに25日には、大久保が大村の更迭を主張し始めている。憤懣やるかたない大村はほどなく辞表を提出したが、当時の政府内には、軍事に関して大村に代わるべき人物はなかった。そのため木戸も、二官八省への官制改革が行われる前日の7月7日に大村と面会し、彼を慰留するとともに改めて支持を約束し、軍務官を廃して新たに設置される兵部省に出仕することを求めた。その結果として、翌日大村は兵部大輔に就任することとなった。 暗殺 当時の兵部卿(兵部省の最高官)は仁和寺宮嘉彰親王であり、名目上だけの存在であった。大村は事実上、日本陸軍の建設を指導することになる。大村は戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任した。山田は山口藩諸隊からを中心に約百名を選出し、9月5日からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始した。 また大村は、明治2年(1869年)6月の段階で大阪に軍務官の大阪出張所を設置していたが、9月には同じく大阪に兵部省の兵学寮を設けた。このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設することも決定された。このように大村が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、大村が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある。 このように着々と既成事実を構築していた明治2年(1869年)9月4日、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負った。兇徒が所持していた「斬奸状」は、大村襲撃の理由が彼の急進開化主義に対する強い反感にあったことを表している。辛くも一命をとりとめた大村は山口藩邸に移送され、数日間の治療を受けた後、大坂の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、11月5日容態が悪化し死去した。享年46。墓所は山口市鋳銭司にあり、靖国神社にも合祀されている。明治21年(1888年)孫(養子の嫡男)の大村寛人は益次郎の功により子爵を授爵、華族に列せられた。 大村の軍制構想は山田顕義、船越衛、曽我祐準、原田一道らによってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。大村の「農兵論」は、山田らによって、明治4年(1871年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって実行に移されるも、同規則も同年内には事実上廃棄されている。その後、兵部省・陸軍省内の主導権が山田から山縣有朋に移った後、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定されることとなる。 人物 維新戦争後に西からの反乱(西南戦争)を予言していたとされる。西郷隆盛を全く評価していなかった1人であり(大隈重信も同様)、西郷を建武の新政で反旗を翻した足利尊氏に見立てていたという。 まだ若かった西園寺公望は大村に師事しており、京都にいた西園寺が大村を訪問しようとしたとき、旧友に会ったために訪問できなくなったところ、そのとき大村は刺客に襲われ、西園寺は巻き込まれずに済んだといわれている。 日本初の軍歌・行進曲とされる、品川弥二郎作詞の「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)の作曲者とも言われている。この曲は、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に就任して京都を発った慶応4年2月頃から一斉に歌われるようになったものといわれ、歌詞を刷った刷り物も頒布されて、東征軍将兵のみならず一般民衆にも広められた。 明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策している。 大村益次郎に関する碑や像など 靖国神社に大村益次郎の銅像がある(日本初の西洋式銅像)。 大阪市西区江戸堀の江戸堀フコク生命ビル前に「大村益次郎先生寓地址」がある。 大阪市中央区上町交差点に「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」がある。 大阪市北区同心町の龍海寺に「大村兵部大輔埋腿骨之地」がある。遺言により師の緒方洪庵の側に片方の足が埋葬されている。 京都府中京区木屋町に大村益次郎遭難の碑がある。 生誕地の鋳銭司村には西南戦争の翌年に顕彰碑が建てられた。 大村益次郎の登場する作品 伝記 丹潔編『大村益次郎』(マツノ書店、1999年) 糸屋寿雄『大村益次郎』(中公新書) 稲葉稔『大村益次郎 軍事の天才といわれた男』(PHP文庫、1998年) 史料 村田峰次郎編『大村益次郎先生事蹟』(マツノ書店、2001年) 内田伸編『大村益次郎文書』(マツノ書店、1977年) 内田伸編『大村益次郎史料』(マツノ書店、2000年) 論文 竹本知行「大村益次郎の建軍構想-『一新之名義』と仏式兵制との関連を中心に-」(『軍事史学』第42巻第1号、2006年) 竹本知行「大村益次郎の遺策の展開-大阪兵学寮の創業-」(『同志社法学』第59巻第2号、2007年) 小説 『花神』(司馬遼太郎)新潮文庫全3巻ほか 『鬼謀の人』(『人斬り以蔵』等に収録、司馬遼太郎)新潮文庫ほか テレビドラマ 『花神』(NHK大河ドラマ)…中村梅之助 『奇兵隊』(日本テレビ年末時代劇スペシャル)…片岡鶴太郎 『翔ぶが如く』(NHK大河ドラマ)…平田満 映画 『長州ファイブ』…原田大二郎 漫画 『風雲児たち』(みなもと太郎) 『陽だまりの樹』(手塚治虫) 『お〜い!竜馬』(武田鉄矢原作、小山ゆう作画) 舞台 『彦馬がゆく』…(三谷幸喜) 関連項目 Template commons? 幕末の人物一覧 中国地方の史跡一覧 外部リンク 大村益次郎 | 近代日本人の肖像 大村益次郎の墓 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月5日 (金) 06 58。
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融合徴兵(OCG) 通常魔法 「融合徴兵」は1ターンに1枚しか発動できない。 (1):エクストラデッキの融合モンスター1体を相手に見せ、 そのモンスターにカード名が記されている融合素材モンスター1体を 自分のデッキ・墓地から選んで手札に加える。 このカードの発動後、ターン終了時まで 自分はこの効果で手札に加えたモンスター及びその同名モンスターを通常召喚・特殊召喚できず、 そのモンスター効果は発動できない。 デッキサーチ 融合モンスター補助 魔法 同名カード 融合徴兵(アニメ)
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徴兵保険とは何ぞや? 日本の生命保険会社が明治の創生期から、急激に伸びた理由はなんでしょう?そのころの日本国民は、みんな貧しかった。ですから、生命保険など入る余裕も無いはずですが・・・ 実は、戦前の生命保険の最大の使途目的は、「徴兵保険」、つまり徴兵(戦争)で死亡する際の保険金受け取りだったのです。 http //www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/7891/coffee/42.html 「富国徴兵」はスローガンではなくて社名だったのですね。初めて知りました。 富国徴兵(現富国生命)、第一徴兵(元東邦生命、消滅)、第百徴兵(元第百生命、消滅)、日本徴兵(現やまと生命)・・・ 富国生命 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%9B%BD%E7%94%9F%E5%91%BD 根津嘉一郎 (初代) http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%B4%A5%E5%98%89%E4%B8%80%E9%83%8E_%28%E5%88%9D%E4%BB%A3%29 大和生命 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%94%9F%E5%91%BD%E4%BF%9D%E9%99%BA
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前半は西郷隆盛参照 参議 大政改革と廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して『丁丑公論』に詳しい、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五。12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。 明治4年(1871年)1月3日、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を以て上京するため鹿児島を出帆した。8日、西郷・大久保らは木戸を訪問して会談した。16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事山内豊範・板垣退助と会談した。22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。東京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で青年東郷平八郎に会い、勉強するように励ました『西南記伝』引東郷平八郎実話。 2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。このときに西郷は再び正三位に叙せられた。7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14日、天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった『西南記伝』(ただし、外務卿岩倉の右大臣兼任だけは10月中旬にずれ込んだ)。 太政大臣(三条実美) 右大臣兼外務卿(岩倉具視) 参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信) 大蔵卿(大久保利通) 文部卿(大木喬任) 兵部大輔(山縣有朋) 大蔵大輔(井上馨) 文部大輔(江藤新平) 工部大輔(後藤象二郎) 司法大輔(佐々木高行) 宮内大輔(万里小路博房) 外務大輔(寺島宗則) この経緯については、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。 留守政府 明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞村田新八もいた)。西郷らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置いた。5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した。明治6年5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった。 なお、明治4年(1871年)11月の岩倉使節出発から明治6年(1873年)9月の岩倉帰国までの間に西郷主導留守内閣が施行した主な政策は以下の通りである。 府県の統廃合(3府72県) 陸軍省・海軍省の設置 学制の制定 国立銀行条例公布 太陽暦の採用 徴兵令の布告 キリスト教禁制の高札の撤廃 地租改正条例の布告 明治六年政変 対朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題は、明治元年(1868年)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことに端を発しているが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷・板垣退助・副島種臣らは、調査のために、明治5年(1872年)8月15日に池上四郎・武市正幹・彭城中平を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣し(鹿児島県史料・忠義公史料』第7巻)、27日に北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣した国立公文書館、文献参照。 明治6年(1873年)の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記森山茂が釜山から帰って、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は6月12日から7参議により審議された。 議案は当初、板垣が武力による修好条約締結(征韓論)を主張したのに対し、西郷は武力を不可として、自分が旧例の服装で全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立した。しかし、数度に及ぶ説得で、方法・人選で反対していた板垣と外務卿の副島が8月初めに西郷案に同意した。西郷派遣については、16日に三条の同意を得て、17日の閣議で決定された。しかし、三条が天皇に報告したとき、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。 以上の時点までは、西郷・板垣・副島らは大使派遣の方向で事態は進行するものと考えていた。ところが、9月、岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が表面化してきた。大久保らが参議に加わった9月14日の閣議では大使派遣問題は議決できず、15日の再議で西郷派遣に決定した。しかし、これに反対する木戸・大久保・大隈・大木らの参議が辞表を提出し、右大臣岩倉も辞意を表明する事態に至った。これを憂慮した三条は18日夜、急病になり、岩倉が太政大臣代行になった。そこで、西郷・板垣・副島・江藤らは岩倉邸を訪ねて、閣議決定の上奏裁可を求めたが、岩倉は了承しなかった。 9月23日、西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。翌24日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。このとき、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されなかった(岩倉・木戸・大久保らは、これらを許可しないことによって、西郷ら遣韓派をいずれ政府に復帰させる意図があることを示したのであろう)。 翌25日になると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。 このとき、西郷の推挙で兵部大輔大村益次郎の後任に補されながら、能力不足と自覚して、先に下野していた前原一誠は「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」「前原一誠年譜」という内容の書簡を太政大臣三条実美に送り、明治政府の前途を憂えた。 下野 - 西南戦争 私学校 下野した西郷は、明治6年11月10日、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で過ごした。猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた明治7年(1874年)3月1日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し、翌日、指宿まで見送った(江藤は土佐で捕まった)。これ以前の2月に閣議で台湾征討が決定した。この征討には木戸が反対して参議を辞めたが、西郷も反対していた。しかし、4月、台湾征討軍の都督三弟西郷従道の要請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を長崎に送った。 西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治6年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になった(この状態が私学校創設後も続いたことは『西南役前後の思出の記』に詳しい)。そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県令大山綱良の協力を得て、明治7年6月頃に旧厩跡に私学校がつくられた(『大山県令と私学校』。この論文では建設が始まったのは12月頃としていて、説得力がある)。私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。この他に、明治8年(1875年)4月には西郷と大山県令との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)もつくられた。 明治8年から明治9年(1876年)にかけての西郷は自宅でくつろぐか、遊猟と温泉休養に行っていることが多い。西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、県令大山綱良もこの力を借りることなしには県政が潤滑に運営できなくなり、私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、明治8年11月、明治9年4月には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。このようにして別府・辺見・河野・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は私学校党の支配下に半ば独立状態にあると見なすようになった。 西南戦争前夜 明治9年3月に廃刀令が出、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。11月、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞き、 前原一誠らの行動を愉快なものとして受け止めている。 今帰ったら若者たちが逸るかもしれないので、まだこの温泉に止まっている。 今まで一切自分がどう行動するかを見せなかったが、起つと決したら、天下の人々を驚かすようなことをするつもりである。 などを記した書簡を桂久武に出し、「起つと決する」時期を待っていることを知らせた。この「起つと決する」が国内での決起を意味するのか、西郷がこの時期に一番気にかけていた対ロシア問題での決起を意味していたのかは判然としない。 一方、政府は、鹿児島県士族の反乱がおきるのではと警戒し、年末から1月にかけて、 鹿児島県下の火薬庫(弾薬庫ともいう)から火薬・弾薬を順次船で運びださせる。 大警視川路利良らが24名の巡査を、県下の情報探索・私学校の瓦解工作・西郷と私学校を離間させるなどの目的で、帰郷の名目のもと鹿児島に派遣する。 などの処置をした。 これに対し、私学党は、すでに陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の醵出金で購入したり、つくったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた『薩南血涙史』。また、多数の巡査が一斉に帰郷していることは不審であり、その目的を知る必要があると考えていた。なお、まだこの時点では、川路利良が中原尚雄に、瓦解・離間ができないときは西郷を「シサツ」せよ、と命じていたことは知られていなかった(山縣有朋は私学校党が「視察」を「刺殺」と誤解したのだと言っている。明治5年の池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現していることから見ると、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった)。 挙兵 Template see also? 明治10年(1877年)1月20日頃、西郷は、この時期に私学校生徒が火薬庫を襲うなどとは夢にも思わず、大隅半島の小根占で狩猟をしていた。一方、政府は鹿児島県士族の反乱を間近しと見て、1月28日に山縣有朋が熊本鎮台に電報で警戒命令を出した。29日、従来は危険なために公示したうえで標識を付けて白昼運び出していたのに、陸軍の草牟田火薬庫の火薬・弾薬が夜中に公示も標識もなしに運び出され、赤龍丸に移された。これに触発されて私学校生徒が、同火薬庫を襲った。 left|thumb|300px|[[ル・モンド(Illustré)の速報記事に描かれたその姿写実性はなく想像によって描かれたものと考えられる。(1877年)]] 2月1日、小根占にいた西郷のもとに四弟小兵衞が私学校幹部らの使者として来て、谷口登太が中原尚雄から西郷刺殺のために帰県したと聞き込んだこと、私学校生徒による火薬庫襲撃がおきたことなどを話した。これを聞いて西郷が鹿児島へ帰ると、身辺警護に駆けつける人数が時とともに増え続けた。3日に中原が捕らえられ、4日に拷問によって自供すると(8日に口供書に拇印を押させられる。口供書は『薩南血涙史』に掲載)、6日に私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決したので、翌7日に県令大山綱良に上京の決意を告げた。このようにして騒然となっていた9日、川村純義が高雄丸で西郷に面会に来たので、会おうとしたが、会えなかった。同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した(野村の口供書は『薩南血涙史』に掲載)。西郷は、その自白内容から、大久保も刺殺に同意していると考えるようになったらしい。 募兵、新兵教練が終わった13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、桐野が総司令を兼ねることになった。淵辺群平は本営附護衛隊長となり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。別府は加治木で別に2大隊を組織してその指揮長になった(のちにこの2大隊を六番・七番大隊としたが、人員も正規大隊の半分ほどで、装備も劣っていた)。翌14日、私学校本校横の練兵場(旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『翔ぶが如く』など、伊敷練兵場としているものが多いが、誤りである。『西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について』)で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し(西南戦争開始)、17日、西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。 熊本の戦い 2月20日、別府晋介の大隊が川尻に到着。熊本鎮台偵察隊と衝突し、これを追って熊本へ進出した。21日、相次いで到着した薩軍の大隊は順次、熊本鎮台を包囲して戦った。22日、早朝から熊本城を総攻撃した。昼過ぎ、西郷が世継宮に到着した。政府軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が乃木希典率いる第14連隊の軍旗を分捕った。一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には陥ちないと見なされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、政府軍の正規旅団は本格的に南下し始めた。この軍議では一旦は篠原らの全軍攻城策に決したが、のちの再軍議で熊本城を長囲し、一部は小倉を電撃すべしと決し、翌23日に池上四郎が数箇小隊を率いて出発したが、南下してきた政府軍と田原・高瀬・植木などで衝突し、電撃作戦は失敗した。 これより、南下政府軍、また上陸してくると予想される政府軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山弥一郎に海岸線を抑えさせ、篠原国幹(六箇小隊)は田原に、村田・別府(五箇小隊)は木留に、桐野(三箇小隊)は山鹿に分かれ、政府軍を挟撃して高瀬を占領することにした。しかし、いずれも勝敗があり、戦線が膠着した。 3月1日から始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次など)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。このような犠牲を払ってまで守っていた田原坂であったが、20日に、兵の交替の隙を衝かれ、政府軍に奪われた。この戦いに敗れた原因は多々あるが、主なものでは、砲・小銃が旧式で、しかも不足、火薬・弾丸・砲弾の圧倒的な不足、食料などの輜重の不足があげられる。これらは西南戦争を通じて薩軍が持っていた弱点でもある。こうして田原方面から引き上げ、その後部線を保守している間に、上陸した政府背面軍に敗れた永山が御船で自焚・自刃し、4月8日には池上が安政橋口の戦いで敗れて、政府背面軍と鎮台の連絡を許すと、薩軍は腹背に敵を受ける形になった。そこで、この窮地を脱するために、14日、熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から3月16日に二本木、4月13日に木山、4月21日に矢部浜町と移され、西郷もほぼそれとともに移動したが、戦闘を直接に指揮しているわけでもないので、薩摩・大隅・日向の三州に蜷踞することを決めた4月15日の軍議に出席していたこと以外、目立った動向の記録はない。 薩軍は浜町で大隊を中隊に編制し直し、隊名を一新したのち、椎葉越えして、新たな根拠地と定めた人吉へ移動した。4月27日、一日遅れで桐野利秋が江代に着くと、翌28日に軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった。そこで本営を宮崎に移すことにした。西郷は池上四郎に護衛され、5月31日、桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着いた。ここが新たな本営となった。この軍務所では、桐野の指示で、薩軍の財政を立て直すための大量の軍票(西郷札)がつくられた。 宮崎の戦い 人吉に残った村田新八は、6月17日、小林に拠り、振武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊の約1000名を指揮し、1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで小戦を繰り返した。7月10日、政府軍が加久藤・飯野に全面攻撃を加えてきたので、支えようとしたが支えきれず、高原麓・野尻方面へ退却した。小林も11日に政府軍の手に落ちた。17日と21の両日、掘与八郎が延岡方面にいた薩兵約1000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたが、これも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。 24日、村田は都城で政府軍六箇旅団と激戦をしたが、兵力の差は如何ともしがたく、これも大敗して、宮崎へ退いた(都城の戦い)。 31日、桐野・村田らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが、再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。8月1日、薩軍が佐土原で敗れたので、政府軍は宮崎を占領した。宮崎から退却した西郷は、2日、延岡大貫村に着き、ここに9日まで滞在した。2日に高鍋が陥落し、3日から美々津の戦いが始まった。このとき、桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡にいて諸軍を指揮したが、4日、5日ともに敗れた。6日、西郷は教書を出し、薩軍を勉励した。7日、池上の指示で火薬製作所・病院を熊田に移し、ここを本営とした。西郷は10日から本小路・無鹿・長井村笹首と移動し、14日に長井村可愛に到着し、以後、ここに滞在した(『大西郷突囲戦史』)。その間の12日、参軍山縣有朋は政府軍の延岡攻撃を部署した。同日、桐野利秋・村田新八・池上四郎は長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れたので、延岡を総退却し、和田峠に依った。 8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍に対し、西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野・村田・池上・別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。16日、西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼いた。この後、負傷者や諸隊の降伏が相次いだ。残兵とともに、三田井まで脱出してから今後の方針を定めると決し、17日夜10時、長井村を発し、可愛嶽(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300~500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田、後軍は中島健彦・貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した(『大西郷突囲戦史』に依る。「鎮西戦闘鄙言」では村田と池上が中軍を指揮し、西郷と桐野が中軍で総指揮をとったとする)。突囲が成功した後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、鹿児島へ帰った。 城山決戦 9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。19日、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍川村純義のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は城山決死の檄を出した。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍山縣からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。 9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷・桐野・桂久武・村田・池上・別府・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介(『西南記伝』では小倉壮九郎)が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫び介錯した。享年51(満49歳没)。 西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められた(折田邸門前説が最も有力。ただ異説が多く、『西南記伝』には9説あげている)。西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。 午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で参軍山縣・旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令岩村通俊が記した(『西南戦争と県令岩村通俊』)。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。また、西郷の首も戦闘終了後に発見され、総指揮を執った山縣有朋の検分ののちに手厚く葬られた 首発見時の様子とその前後のいきさつについては、例えば今村均著『私記・一軍人六十年の哀歓』(芙蓉書房)に詳しく記されている。西郷の首を発見した一人が、今村の岳父である千田登文であった。 死後 追贈 明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが、黒田清隆らの努力や明治天皇直々の働きがあって明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。 墓所と祭祀 墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。また西郷隆盛を祀る南洲神社が、鹿児島県鹿児島市を始め、山形県酒田市、宮崎県都城市、鹿児島県和泊町の沖永良部島にある。 思想 影響を与えた人々と思想 島津斉彬 西郷は水戸学派や国学の皇国史観に止まってはおらず、開国して富国強兵をし、日・清・韓の三国同盟をするという島津斉彬の持論の影響で、東アジアと欧米諸国の対置という形の世界観を持っていた。列強の内、特にロシアとイギリスに対し強い警戒観を持っていた。 当時の清国が列強の侵略下にあり、朝鮮がその清の冊封国であるという現状を踏まえて、まず三国が完全に独立を果たす、次いで三国の同盟を目指すという形で将来の東アジア像を描いていた。そしてそこに、維新に成功し、列強の侵略を一応は防いだ日本の経験が活かせるとしていた。 しかし、この世界観・史観には、後の石原莞爾の大東亜共栄圏論ほどの強い日本のリーダーシップ論は無かった。これは西郷の思想が儒学を一方の柱にしていたことと無縁ではないだろう。 勝海舟 福沢諭吉 坂本龍馬 龍馬の西郷評「西郷という男はどれだけ大きいかわからぬ。釣鐘の様な奴で、小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく響く。こちら次第に応ずる。得たいの知れない大人物さ」。 藤田東湖 「先生と話していると清水を浴びたような心に少しも曇りない心になってしまい帰る道さえ忘れてしまった。」と西郷自身洩らしていた。西郷の著書に名前が出てくるほど最も影響を与えた人物の一人である。 橋本左内 朱子学 朱熹『近思録』 西郷はお由羅騒動(高崎崩れ)の後に朱子『近思録』を読み、その影響を強く受けた。朱子学では、自己と世界には共通する原理(理)があるので、自己を修養して理を会得すれば、人の世界を治めることができるということになっている。西郷の思想は武士の道徳と朱子学を二本柱にしてできていて、この朱子学の根本理論を終世、信じていた。 特に大義名分論は西郷の行動の規範になったもので、日本古来の文化・伝統(天皇も含む)・道徳を大義とし、これを帝国主義諸国の侵略から守り、育てることが、その実践であると考えていた。 これは水戸学派や国学が日本とそれ以外との対置と捉える世界観・史観(皇国史観。朱子学の華と夷を対置する世界観・史観を日本風に改めたもの)を基にしている。 佐藤一斎『言志四録』(言志録) 西郷が手写した「言志録」が残っており『西郷南洲遺訓 附 手抄言志録及遺文』山田済斎編、岩波書店〈岩波文庫〉、1939年、ISBN 4-00-331011-X / 〈ワイド版岩波文庫〉、2006年1月、ISBN 4-00-007265-X に収録された「手抄言志録」を参照。、西南戦争のときにもこの書を座右の書として持ち歩いていたことからみると、最も影響を受けた書であると考えられる。 陽明学 西郷は短期間とはいえ、伊藤茂右衛門から陽明学を学んでいる。陽明学は知行合一を理念としているので、知識を世人の役立つようにしようとする点では、この学の影響を受けたかもしれない。しかし、西郷の行動は、その大半が大義名分にもとづく行動であるという面から見れば、その積極的な行動は朱子学から導き出されたものであるとも言え、どのくらい影響を受けたは判然としない。 春日潜庵 西郷は幕末に潜庵とつきあいがあり、明治4年(1871年)に村田新八を潜庵の元に派遣し、対策12ヶ条を得て、それを持って大政改革のために上京している。また明治になってから四弟小兵衛を潜庵の元に留学させてもいる。これらから西郷が陽明学者の潜庵を高く評価していたことは分かるが、思想としてどの部分を学んだかはよく分からない。 川口雪篷 沖永良部島に遠島されたときに西郷と知遇を得た書家であり、西郷没後に遺族の扶養に勤めた人物である。頭山満の回想では、西南戦争後の明治12年(1879年)当時に西郷家を訪れた折に、応対した雪篷から西郷が愛読し手書きの書き込みがある、幕末の陽明学者大塩平八郎の書『洗心洞剳記』を見せられ、西郷がいかに大塩を慕っていたかを知らされたとある。 自身の思想 敬天愛人 「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」『南洲翁遺訓』より。近代デジタルライブラリー所蔵の『言志録講話』に収録された「西郷南洲翁遺訓」を参照。 家族・親族 系譜 隆盛は菊池氏が出自であることを知っていたが、菊池氏のどの家から分かれたかわからないので、藩の記録所にある九郎兵衛以下のみを自分の系譜としている。九郎兵衛より前は西郷家の出自とされる増水西郷氏の系譜に繋いでつくった系譜である(香春建一説による)。家紋は抱き菊の葉に菊。 藤原鎌足─不比等─房前─(11代)─道隆─隆家─政則─菊池則隆(肥後熊本菊池郡)─西郷政隆―隆基―隆季―隆房―基宗―基哉―隆邑―基時―隆任―隆吉=隆政―隆連―隆政―隆圀―武治―隆朝―太郎政隆(肥後熊本菊池郡増水城)―隆従―隆永―武国―政隆―隆盛―隆定―隆武―隆純―九郎兵衛昌隆(島津氏に仕える)=吉兵衛宜慶─覚左衛門─吉左衛門─竜右衛門隆充─吉兵衛隆盛─吉之助隆永─寅太郎―隆輝=吉之助(寅太郎三男)―吉太郎 家族 西郷には三度の結婚経験がある。 1度目は嘉永5年(1852年)28歳のとき両親にすすめられて伊集院兼寛の姉すが(須賀)と結婚した。しかしながら藩主の代わりに江戸におもむくなど隆盛は不在が多く、彼女は実家に帰り別れた。 2度目は奄美大島の龍郷村で6石扶持一軒家で自炊していた際、島の名家であった龍家の佐栄志の娘・愛加那(あいがな、意味は愛子)と結婚。35歳の安政7年(1860年)1月2日 (旧暦)に菊次郎(後の京都市市長)・文久2年(1862年)にお菊(のち菊子、大山巌の弟と結婚)の二人の子供をもうけた。この子供たちは庶子として扱われた。文久元年(1861年)末に、鹿児島に帰る際、島妻は鹿児島へ連れ出せない規則があったので別れた。愛加那は明治35年死去。陶芸家の西郷隆文は、菊次郎の四男・隆泰の子。 3度目の妻は慶応元年(1865年)岩山八郎太の23歳の娘、糸子で、39歳のときに結婚。寅太郎[1](侯爵)・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子菊次郎、お菊を引き取った。第2次佐藤内閣第2次改造内閣の法務大臣西郷吉之助は寅太郎の子。ちなみに、寅太郎は武豊・武幸四郎の曾祖父の兄弟である園田実徳の娘・ノブと結婚しているため、彼らは遠縁に当たる。系図で見る近現代 第37回。 持病 肥満 高島鞆之助の言では西郷は大島潜居の頃から肥満になったとしているが、おそらく沖永良部島流罪当時は痩せこけて死にそうになっていたというから、沖永良部在島後半期に座敷牢にいて運動不足から肥満し始めたというのが真相だろう。 鹿児島は養豚の盛んな地であり、西郷は脂身のついた豚肉が大好物だったので、それが肥満に拍車をかけたと推測される。また、甘い物も好物であった。明治6年(1873年)の征韓論当時は肥満を治そうとしてドイツ人医師ホフマンの治療を受けていた。 治療方法は2種用いられていた。一つは蓖麻子油(ひましゆ)を下剤として飲む方法であり、もう一つは運動をする方法であった。後者については『池上四郎家蔵雑記』(市来四郎『石室秘稿』所収、国立国会図書館蔵)中の池上四郎宛彭城中平書簡にこの治療期間中に西郷先生が肥満の治療のために狩猟に出かけて留守だと書いている。 フィラリア 西郷隆盛は、流刑先の沖永良部島で、風土病のバンクロフト糸状虫という寄生虫に感染したとされ、この感染の後遺症である象皮症を患っていた。これによって陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていた。そのため晩年は馬に乗ることができず、もっぱら駕篭を利用していた。 西南戦争後の、首の無い西郷の死体を本人のものと特定させたのは、この巨大な陰嚢である『西南役側面史』。ただし、比較的近年に至るまでバンクロフト糸状虫によるフィラリア感染症は九州南部を中心に日本各地に見られ、疫学的には必ずしも感染地を沖永良部島には特定できない。明治44年(1911年)の段階の陸軍入隊者の感染検査で、鹿児島県九州本島部分出身者の感染率は4%を超えていたし、北は青森県まで感染者が確認されている『ハエ・蚊とその駆除』。 後半は西郷隆盛-3参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月23日 (水) 11 18。
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No. KBA_ シャード名 タイプ 属性 レベル コスト 効果 フレーバー illust.
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レアリティ C 職業 ウォリアー 強化 効果 MP 3 ★0 デッキからカードを3枚引き、ユニットカードだけを待機枠に入れる。残ったカードはデッキのランダムの位置に戻る 入手方法 備考 テキストでは「ランダムの位置」とあるが実際にはデッキの一番上に戻す コメント 名前
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種類攻撃力守備力属性最大移動Pリーチ技術階級値雇用金人数 雑兵00歩10100金 10 10 人雇う 護衛兵武力×0.2武力×0.2歩121501000金 20 10 人雇う 槍兵武力×0.6武力×0.1歩1226006000金 90 10 人雇う 衙軍武力×0.65武力×0.35歩1316006000金 80 10 人雇う 近衛兵武力×0.8武力×0.7歩141110015000金 160 10 人雇う 禁軍武力×1.2武力×0.8歩151200025000金 240 10 人雇う 重槍兵武力×1.2武力×.6歩132200025000金 260 10 人雇う 弓兵武力×0.3武力×(-0.5)弓94501000金 20 10 人雇う 長弓兵武力×0.8武力×(-0.4)弓1056006000金 80 10 人雇う 床子弩武力×1.05武力×(-0.4)弓107150015000金 160 10 人雇う 砲兵武力×1.5武力×(-0.45)弓108250025000金 240 10 人雇う 軽騎兵武力×0.3武力×0.1騎171501000金 25 10 人雇う 侍衛親軍武力×0.7武力×0.3騎1716006000金 90 10 人雇う 弓騎兵武力×0.7武力×(-0.2)弓騎1536006000金 100 10 人雇う 楊家軍武力×0.95武力×0.55騎191150015000金 175 10 人雇う 鴉軍武力×1.4武力×0.6騎201250025000金 260 10 人雇う 竜騎兵武力×1.3武力×0.1弓騎173275025000金 290 10 人雇う 衝車-武力(攻城時+武力×2.3)10(攻城時+武力×2.0)機1212001000金 60 10 人雇う 車輪舸武力×0.8武力×0.1水2029006000金 150 10 人雇う 楼船武力×1.6武力×(-0.45)水165400025000金 410 10 人雇う 神衛水軍武力×1.3武力×0.8水301300025000金 370 10 人雇う ■統率官■ 種類攻撃力防御力属性最大移動Pリーチ技術階級値雇用金人数 賊兵統率力×0.5統率力×0.2歩121501000金 20 10 人雇う 神策軍統率力×1.0統率力×0.2歩1316006000金 60 10 人雇う 重装歩兵統率力×1.2統率力×0.6歩141110015000金 120 10 人雇う 牙軍統率力×1.7統率力×0.7歩151200025000金 180 10 人雇う 弩兵統率力×0.85-(武力×0.5)統率力×(-0.5)弓94501000金 20 10 人雇う 連弩兵統率力×1.1統率力×(-0.5)弓1056006000金 60 10 人雇う 廂軍統率力×1.4統率力×(-0.4)弓106150015000金 120 10 人雇う 銃兵統率力×2.0統率力×(-0.5)弓107250025000金 180 10 人雇う 驃騎兵統率力×0.6統率力×0.1騎161501000金 25 10 人雇う 槍騎兵統率力×1.0統率力×(-0.1)騎1626006000金 80 10 人雇う 鉄騎兵統率力×1.1統率力×0.1騎1716006000金 70 10 人雇う 重騎兵統率力×1.3統率力×0.5騎181150015000金 135 10 人雇う 黒雲都統率力×1.9統率力×0.5騎201250025000金 200 10 人雇う 忠敢水軍統率力×1.4統率力×0.6水261200015000金 180 10 人雇う ■文官■ 種類攻撃力防御力属性最大移動Pリーチ技術階級値雇用金人数 詐術兵(知力+書物)×0.8-武力0歩10100金 10 10 人雇う 邪術兵(知力+書物)×0.85(知力+書物)×0.15歩121501000金 15 10 人雇う 幻術兵(知力+書物)×1.2(知力+書物)×0.2歩1316006000金 50 10 人雇う 儀仗兵(知力+書物)×1.2(知力+書物)×0.55歩141110015000金 120 10 人雇う 道士(知力+書物)×1.3(知力+書物)×0.5歩151200025000金 180 10 人雇う 呪術兵(知力+書物)×1.05(知力+書物)×(-0.3)弓103501000金 15 10 人雇う 禁術兵(知力+書物)×1.3(知力+書物)×(-0.45)弓1056006000金 50 10 人雇う 妖術兵(知力+書物)×1.45(知力+書物)×(-0.3)弓106150015000金 120 10 人雇う 神術兵(知力+書物)×1.5(知力+書物)×(-0.25)弓107250025000金 180 10 人雇う 咒騎兵(知力+書物)×0.95(知力+書物)×0.05騎161501000金 20 10 人雇う 幻騎兵(知力+書物)×1.3(知力+書物)×0.1騎1716006000金 60 10 人雇う 仙術兵(知力+書物)×1.35(知力+書物)×0.4騎191150015000金 135 10 人雇う 方士(知力+書物)×1.4(知力+書物)×0.4騎201250025000金 200 10 人雇う 仙人(知力+書物)×1.35(知力+書物)×0.1弓騎173250025000金 210 10 人雇う 攻城兵0(攻城時+(知力+書物)×2.6)10(攻城時+(知力+書物)×2.0)機1212001000金 50 10 人雇う 雲梯0(攻城時+(知力+書物)×3.3)70(攻城時+(知力+書物)×2.5)機101200015000金 230 10 人雇う 投石機0(攻城時+(知力+書物)×3.9)100(攻城時+(知力+書物)×3.0)機106350025000金 350 10 人雇う ■仁官■ 種類攻撃力防御力属性最大移動Pリーチ技術階級値雇用金人数 黄巣軍人望×0.7-武力10歩10100金 10 10 人雇う 義勇兵人望×0.9人望×0.2歩121501000金 15 10 人雇う 志願兵人望×1.45人望×0.2歩1316006000金 50 10 人雇う 郷兵人望×1.55人望×0.7歩141110015000金 130 10 人雇う 民兵人望×2.2人望×0.8歩151200025000金 240 10 人雇う 弾弓兵人望×1.1人望×(-0.3)弓103501000金 15 10 人雇う 民弩兵人望×1.55人望×(-0.5)弓1056006000金 50 10 人雇う 民弓兵人望×1.8人望×(-0.4)弓106150015000金 130 10 人雇う 狙撃兵人望×2.5人望×(-0.45)弓107250025000金 240 10 人雇う 突厥騎兵人望×1.0人望×0.1騎171501000金 20 10 人雇う 韃靼騎兵人望×1.55人望×0.1騎1816006000金 60 10 人雇う 義児軍人望×1.7人望×0.55騎191150015000金 145 10 人雇う 契丹騎兵人望×2.4人望×0.6騎201250025000金 260 10 人雇う 海賊人望×1.5人望×0.2水2312001000金 40 10 人雇う 遊艇人望×2.0人望×0.35水25110006000金 120 10 人雇う 走舸人望×2.1人望×0.7水271175015000金 240 10 人雇う 艨衝人望×2.35人望×(-0.35)水164200015000金 270 10 人雇う 闘艦人望×2.45人望×0.8水311300025000金 360 10 人雇う 虎翼水軍人望×2.75人望×(-0.45)水175400025000金 400 10 人雇う 澄海水軍人望×2.45人望×0.6水252400025000金 380 10 人雇う ■特殊■ 種類攻撃力防御力属性最大移動Pリーチ技術階級値雇用金人数 光学兵(武器+書物)×1.4+知力+人望+(統率力×0.75)武器+書物機172999940000金 1000 10 人雇う ●衝車の効果:攻城時ターン数+1 ●攻城兵の効果:攻城時ターン数+1 ●雲梯の効果:攻城時ターン数+2 ●投石機の効果:攻城時ターン数+2