約 5,441 件
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/16.html
全般予備役の兵士って、普段は何やってるんでしょうか?どんな人がなるのかな?傭兵に近い感覚だろうか。 国民皆兵制と徴兵制の違いはなんでしょうか? よく予備役が多い方がいいみたいなこと言う人がいますが予備役が多い国はそのぶん、兵器、弾薬、燃料、食料など確保しているんでしょうか? 「職業軍人」という単語について 徴兵のメリットって何ですか? 徴兵制てその国の経済にはどういう影響与えるんでしょうか 野戦任官という制度がありますが、具体的にどのように運用されているのでしょうか? 徴兵制度がある国は、喧嘩は強い? 負けてても軍隊って給料出るのか? 先進国で徴兵制が今や一般的でないのは、軍事的側面からですか?それとも政治的側面が要因? フルメタルジャケットや愛と青春の旅立ちを見ていて気になったのですが、 徴兵制についての質問なんですが、徴集兵で整備兵やら戦車兵やらパイロット、船の運転、砲撃、みたいなの出来るんですか? 国家が民兵を組織する場合は,どうやってるの? 訓練された正規兵と民兵は,どの程度能力が違うのでしょうか? 徴兵制は人件費抑制のため? 第二次世界大戦ごろから女性兵士が登場するようですが、列強各国で女性を軍人として採用したのはいつごろからなんでしょうか? 職業軍人と志願兵に違いあるんですか? 近代の軍隊においては徴兵が無意味あるいは有効でないと聞きましたが 現代の徴兵制ではない先進国の兵士の採用の仕方って自衛隊と大体同じ感じですか? 軍隊を就職先として考えた場合、やはり公務員だから、人気なんですか? 大男が軍隊に組み込まれたケースはあるのでしょうか? 志願制常備軍と徴兵制の非常備軍の、その国の総人口に対する割合はどの程度になるのか教えていただけませんか? 障害者でも兵士になれるのでしょうか? 史上最年少の軍人を教えて下さい。 ただの人がいきなり義勇兵になったり、ゲリラに参加したりしても役に立つもんなんですか? 徴兵を拒否出来る宗教ってどういったものがありますか? 男女平等を謳う国は多いのに女性を徴兵する国がほぼ無いのは何故? forced to work の訳は 強制労働? 日本の兵役制度旧日本軍には何度も営倉に入れられた問題兵がいて、しかも営巣に入った回数を自慢しているような奴もいたとの事。 過去、徴兵制度があった国では有力者や金持ちの子息は特別扱いされる事はあったのでしょうか? 戦時中の日本において、心身ともに健康な民間の成人男子が合法的に徴兵を回避するにはどのような手段があったのでしょうか? 旧制中学を卒業して志願して日本陸軍に入隊する人はいたのでしょうか? 徴兵逃れについて、 赤紙(召集令状?)はどのような手続きで交付されたの? うちの祖父は旧帝大の理学部でしたが、陸軍にいたみたいなんです。理系の大学生でも徴兵の対象になったんですか? 徴兵令が廃止されて兵役法が施行されてから、赤紙が届くという事は独仏のWWIなどの単純な予備役召集という意味ではなくなったのでしょうか? 太平洋戦争中、日本の徴兵年齢ってどのように変わっていったのですか? 日本で徴兵回避の手段として、鉄砲の引き金を引けなくなる様に、利き手の人差し指を切り落とした人がいたという話は事実なんでしょうか? 太平洋戦争中、軍に召集されなかった人はどんな人ですか? 第二次世界大戦時に日本の少数民族ともいえるアイヌや、山家の人達も召集されたんでしょうか? 徴兵検査で甲種合格をした人が31歳のとき日中戦争で召集されるというのはありえる話でしょうか? 旧日本軍では女性を軍人として採用する考えはあったのでしょうか。 対米戦が開始されていない状況で、二度目の召集を受けるというのはよくある話でしょうか? 戦前の日本で徴兵検査うけて、兵科を決められるときに、自分から希望は述べられたんですか? 戦時中の日本は、金持ちは徴兵されなかったのですか? 旧制中学を卒業して志願して日本陸軍に入隊する人はいたのでしょうか? 日本で戦前にあった予備役、後備役というのは? 旧軍の徴兵時の身体検査で、色神・色覚で異常があった場合は徴兵免除されたんでしょうか? 徴兵を回避するための犯罪での懲役志願は少なかったと思いますが? 旧軍での徴兵の際、どんな基準で「おまいは陸軍、おまいは海軍」とか決めていたんですか? 日本が植民地人の軍事的利用に消極的だったのって何故ですか? 旧陸軍では新兵を徴兵前の職業に応じて適材適所に振り向ける事を行っていたのでしょうか? 警察官の職種の人は召集免除になると聞いたのですが、召集がくる事があったのでしょうか? 旧日本軍の場合、どれくらい視力が悪いと徴兵を免れることができのでしょうか? 大戦期の日本軍の将校の予備役招集はどのような状況だったのでしょうか? 15~16歳でも特攻に動員されるのでしょうか? 徴兵される時、主に身長で海軍、陸軍に分けられたと聞いた事あるのですが本当ですか? 40台のオッサンが再徴兵されるようなことって結構頻繁にあったのでしょうか? 徴兵逃れは昔からありますが、偽病を見抜くにはどんな訓練をしたんですか? 国民義勇隊に引っ張られるのは徴兵とは違うんですか? 太平洋戦争中、公務員や国鉄職員等は徴兵は免れたんでしょうか? 徴兵された時は近くに別の連隊があっても遠くにある県の所在地の連隊に行くんですか? 全般 予備役の兵士って、普段は何やってるんでしょうか?どんな人がなるのかな?傭兵に近い感覚だろうか。 国にもよりますが、基本的には兵役の終わった、あるいは退役した軍人が 予備役になります。定期的に再訓練を受けるのが普通です。それ以外の 時は、ごく普通の軍人辞めた人として、別の仕事や年金生活やってるわけです。 (8 system) 国民皆兵制と徴兵制の違いはなんでしょうか? 選抜徴兵制ってのが有る。20歳男子の全てを二年徴兵したら人口の1%を超えるのは分かるだろう。 「国民皆兵」ってのは絵に描いた餅である事が多いの。 (21 74) 「国民皆兵」ってのは、兵役の「適用範囲」であって兵役の「種類」ではないよ。 兵役>自由兵役>志願兵 >義勇兵 >傭兵 >群民兵(便宜上ここに分類される) >強制兵役>徴兵 >民兵 で、国民皆兵ってのは「兵役年齢の人間は(例外を除き)兵役を課す」 って事なので、老人子供は別。 対義語は「選抜~」って事になるのかな?「選抜徴兵制」みたいな感じで。 (59 ミリ屋哲@モバイリ ◆4EZIX.r92I) ちょうはつ 【徴発】 (名)スル (1)強制的に物を取り立てること。特に、軍需物資を民間から集めること。 「民家から食糧を―する」 (2)強制的に人を呼び集めること。「堤防工事に人員を―する」 {(59 470) よく予備役が多い方がいいみたいなこと言う人がいますが予備役が多い国はそのぶん、兵器、弾薬、燃料、食料など確保しているんでしょうか? 予備役出動で人数が増えた分、武器や食料はあるの?という意味だと思いますが、 はい、たいていの国ではちゃんとその分の備蓄があります。 (10 system) 「職業軍人」という単語について 徴兵制の軍隊の場合、士官や下士官などの職業軍人は通常、定年になるまで常に軍務に就いています。 それに対し一般の兵は何年かの現役期間が終われば除隊し一般社会に戻ります。 社会に戻った兵は戦争などが始まれば召集されて再び軍務に就きます。 そして戦争などが終われば復員してまた一般社会に戻ります。 (41 955) 徴兵のメリットって何ですか? 徴兵のメリットは確実に一定数の歩兵数を確保できることです。 しかも、同数の職業軍人を雇うより人件費等は安くなります。デメリットは流石に徴兵期間を 10年とか長くは設定出来ないので、兵士としての意識・質は職業軍人より劣る事があったり します。ちなみに徴兵=歩兵配属ってわけでもないんですよ。 歩兵はとても重要なものです。特に半島のような大規模な陸戦、ゲリラ戦が想定される場合には 歩兵は必須。というより欠かせません。 爆撃でいくら向こうの軍隊を叩いても、最終的に地域を実際に支配下にに置くのは歩兵を中心と する陸軍力で、ソレが無いとどうしようもありませんから。 (44 462) メリット 人が一杯来てウマー 国民の国防上の意識改革が可能(と言われてる) デメリット 徴兵で只みたいな値段で人が手に入っても、 結局教育やら何やらで人件費が掛かる罠。 人は喰わにゃ生きてはいけないからね。 基本的に国防上陸戦を重視してる国は徴兵制は結構メリットがある。 何故かと言うと、どちらかと言うと陸戦は兵士の質より頭数が重要。 逆に空海を重視してる場合は、量より質となる為メリットよりデメリットが多い。 (106 170) 経済的にはデメリットしかない。徴兵された人間は「世間で貰える給料-糧食費」を 労働力の形で収めてるのだから、増税と変わらない。 所得税を増税して職業軍人を雇っても同じ。 軍事的には「奇特な志願者以上の頭数を揃えられる」というメリットがある。 しかし、実際の費用(社会全体に対する負担)では志願制とコストは変わらないのだから、 本気で全員徴収すれば経済は破綻する。 (106 178) 徴兵制てその国の経済にはどういう影響与えるんでしょうか むしろ、問題は国力(経済規模、人口等)と保有兵力数の問題であって、 徴兵制か志願制かはたまた民兵制かという「どの兵役制度を採用するか」 とはあまり関係ない。 それと、失業対策に関しては、あらゆる国家事業そのものが失業対策の 側面がある。 (59 ミリ屋哲@モバイリ ◆4EZIX.r92I) 野戦任官という制度がありますが、具体的にどのように運用されているのでしょうか? また、どのような規定がありますか? 戦死者が多く、人手が足りない。民間人(保護した避難民のような人たち)に必要な能力を持っている人物がいて、 志願してくれた。しかし、その人物は未成年で、しかも中立国市民……という場合、 その人物を採用することは可能ですか? 国、時代によって違います。 戦時における採用・昇任に関する権限は法令で規定されています。 「兵の採用は良いけど将校は駄目」とか「師団長は尉官の昇任は出来るけど、佐官は駄目」等 自衛隊の場合、「野戦」の為の特別規定は有りません。 (84 380) 徴兵制度がある国は、喧嘩は強い? 弱い。頭数で勝負するしかないから徴兵するのだ。 ハイテク兵器を駆使した現代戦には少数の優秀な兵士をそろえた国の方が 100倍くらい強い。(アメリカ軍対イラク軍がいい例) (86 530) 徴兵制って言うのは軍から抜けた後でも予備役などに編入して国家の非常事態のとき ある程度のレベルの兵士がコンタクトに供給できる利点がある。 しかしながら国民感情は必ずしも良いとは言えない。 (86 531) 負けてても軍隊って給料出るのか? 「機密費」として現金で将校ひとりにつき3000~10000円が支給されてた。 小野田少尉はルバングのジャングルでは役に立たないから煮炊きに使っていた。(良く燃えたそうだ) (92 201) 先進国で徴兵制が今や一般的でないのは、軍事的側面からですか?それとも政治的側面が要因? 韓国とイスラエルは軍隊の効率性というより 常に臨戦態勢にあるという現状が徴兵制を存続させているな。 (94 165) 両方 付け加えれば経済的側面も ハイテク兵器で戦争をするようになったため人数よりも兵器運用に長けたスペシャリストの方が重視されること 兵役という義務は有事の可能性がない時は国民受けしない また経済的に安定すれば軍隊で寄食するより一般的な経済活動のほうが個人的にも社会的にも効率がいいこと など (94 167) まあ兵器のハイテク化でやる気の無い奴を無理やり引っ張ってきて持た せるには勿体無いし使いこなせないという部分が大きいでしょうね。 (94 168) フルメタルジャケットや愛と青春の旅立ちを見ていて気になったのですが、 これらの映画に出てくるような先任軍曹の教官はどのような過程を経て養成されるのでしょうか? あと、あの独特の口調も何かの過程で訓練されるものなのでしょうか? 各部隊で勤務している下士官の中から、有能な者をピックアップして訓練 教官に充てています。 あ、下士官そのものは兵隊が経験値積んでレベルアップしたってことです。 無能な兵隊は下士官になる前に退役します。 あの独特な口調その他教育のテクニックは、マニュアル化されたもの、口 伝で代々の教官に引き継がれていくものなどがあります。 口調なんかは、聞き取りやすく、インパクトがあるということであのあた りに落ち着いているのでしょう。 (96 496) 徴兵制についての質問なんですが、徴集兵で整備兵やら戦車兵やらパイロット、船の運転、砲撃、みたいなの出来るんですか? 他にも下士官とか務まりますか?イスラエルや韓国は二年、三年だけど、ノルウェーやスウェーデン、フィンランドは半年、一年だから到底無理だと思うんですが… 徴兵制のある国で「義務」としての兵役期間に歩兵科以外の職種になることはまずない。 あと、下士官になるには兵役期間が過ぎたあとに試験を受けるなりして「職業軍人」に なる必要がある。 ただ、戦時に急速に軍隊を拡大させてるような場合は、徴兵でも最初の段階で適性を 選抜して、いきなり歩兵以外の兵科に配属したり、下士官としての教育を受けさせて 下士官で始めたり、ということをすることもあるけど。 (初心者質問スレ477) 旧軍の場合は、平時ならば徴集期間満了時に志願することで下士官への道が開かれています。 この場合は、徴兵期間満了後も軍で生活することになります。 もう一つは、徴集期間が満了して、上等兵として除隊する場合、下士官適任証を受けると、再召集の 際に下士官として任用されるケースがあります。 また、高等教育機関(中学校卒業以上)ならば、先ず士官学校の受験を奨められます。 これに応じて幹部候補生になり、将校にならなかったら、下士官に任命されます。 戦時の場合は、兵としての在隊期間が長くなり、勢い、志願に拠らない下士官が多く生まれていますね。 (513 504:眠い人 ◆gQikaJHtf2) 国家が民兵を組織する場合は,どうやってるの? 簡単に説明すると,あらかじめ一般市民に兵士としての訓練をし,有事の際には動員して企業,学校,自治体単位で部隊を編成し,任務に就けるようにしています. 一般的に言って,武装は国軍が使用していた旧式装備などを中心としていますが,戦車や火砲などの重装備は使用しない場合が多いです(アメリカとかは例外). 民兵を保有している国の多くは,国民皆兵制をひき,徴兵の終わった成人男子に対して年何日間かの訓練を施し,それをもって「民兵」としている場合が多いです. 有事以外にも大規模な自然災害の際に,市民の支援や治安警備のために自治体が動員する場合があります. アメリカだとハリケーンの季節などに州兵が動員されることがありますが,これがそうです. 国単位で大規模な動員が必要な際は,これらの民兵機構に重装備を与えて再訓練し,国軍に編入する場合もあります. 旧西ドイツの「郷土防衛隊(だったかな? ^^;)」の場合,その主任務は有事の際の市民の避難の支援や,後方の警備などとされていました. 日本の場合はほぼ無理でしょう. 訓練のために定期的に民兵を徴集することを,企業や経済団体(=与党 ^^;)が許さないでしょう. (軍事板) 訓練された正規兵と民兵は,どの程度能力が違うのでしょうか? 特に歩兵同士を比較すると,ヘルメットやボディアーマーの有無以外,差を感じません. 戦闘技術や戦術に大きな差はあるのでしょうか? 「訓練された正規兵と民兵」と単純に言っても,そう簡単に比較できないよ. 文から察するに,単純に歩兵個人の戦闘力の差だけを考えてるように思えるが,実際の戦闘じゃ民兵と,大規模な火力支援が望める正規兵の差まで考慮するのかによって,答えは違ってくるし. 民兵.と単に言っても,麻薬代が欲しくてAKを持ってただ駆けつけたようなアフリカのゲリラみたいなのも居れば,アメリカのPMCの様に元特殊部隊軍曹みたいなのも居るんで,単純にはいえないし. 中には統制が余り取れていない組織も在れば,LTTEの様に統制が取れている組織もある.つまり,組織によって大きな違いがある. ちなみにイスラム・ゲリラの場合は,攻撃作戦は各地で無関係に行われて,その戦果だけを共有する形が多いそうだ. またアフリカの民兵の場合は装備が旧式な場合が多い. ただし,現在のソマリアでのイスラム法廷戦闘員とエチオピア兵を比較した場合はどちらも旧式と言う状況もあるので,装備に大きなレベルの差があるとも言いがたい. 戦意についても、程度問題. 野盗に毛が生えた程度の民兵もいれば,宗教的過激派のゴリゴリのヤツもいるわけで. (軍事板) 徴兵制は人件費抑制のため? 臨時徴兵ならば,これは税とおなじで国民の義務なので,給料らしい給料は払わなくてよい. 難しい兵器は職業軍人に,銃を担がせて量を求める歩兵には徴兵兵員で充分? はっきりいって金はかかります. 最低限当然の給与払わなけりゃいけないし,徴兵されたやつでも腹はへるし,電気も使うし制服,戦闘服いろいろ支給しなきゃいけないし,徴兵専門の教育隊も作らないといけないし,それを教育するためには,もっと維持するのに金のかかる下仕官を助教として大量に迎えないといけないし,当然教官の仕官もいる. しかも,徴兵した兵士に最低限教え込まないといけないことは,これだけあります. 自分が使う兵器の整備分解組み立て. 上官の命令に従うこと. 自軍と敵の見分け方. 捕虜になったときのアレ…つーか捕虜関係. とりあえずこれぐらいは教えとかないと自軍の邪魔になります. さて,これを臨時徴兵して,そして教え込んでから戦争に行く閑はあるでしょうか. 徴兵制の大きいメリットは,ちょっと再訓練したら使い物になる兵士になる一般国民がいる,ということです. (軍事板) 第二次世界大戦ごろから女性兵士が登場するようですが、列強各国で女性を軍人として採用したのはいつごろからなんでしょうか? 米国では1940年頃から、陸軍婦人部隊が採用されており、主に後方勤務に就いて います(一部はジャクリーヌ・コクランの様に航空機輸送に従事していますが)。 英国では第一次世界大戦中から既に陸軍婦人補助部隊(WAAC)が出来ていましたが、 第二次世界大戦に活動したのは、1938年9月9日に国王勅令によって婦人国防軍(ATS)が 設立されてからです。 この組織は陸軍の指揮系統とは別で、23~75名で小隊を構成し、2~5個小隊で1個 中隊を構成、更に数個の中隊を束ねて、群となり、1つの群には250名前後の隊員がい ました。 彼女たちは、当初、調理員、事務員、運転手、電話交換手として活躍しましたが、ダンケ ルク撤退後は、探照灯操作員、レーダー手、高射砲補助員にも就いています。 また、空軍の方にも数個中隊の部隊が配属され、これらは後に婦人補助空軍となって います。 海軍では、1917年に王国婦人部隊(WRNS)が創設され、一旦解体されたものの、1939年に 再結成されました。 ちなみに、英連邦諸国でも同じ時期に創設されています。 ソ連は革命当初の干渉戦から女性兵士が積極的に採用されており、こちらは一線勤務に なっています。 対して、枢軸国では、ドイツで親衛隊の女子補助隊員が採用されていた位で、余り積極的 に採用はされませんでした。 (132 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 職業軍人と志願兵に違いあるんですか? 某書籍に韓国軍の兵制について「職業軍人制と志願兵制と徴兵制の混在型」と書かれてたもので。 その国の制度がどうなっているかによって微妙に違いますが、 通常、職業軍人とは、志願あるいは徴兵によって服する兵役期間を満了した後、 「兵役期間ではなく、定年によって退役するまで」軍に雇用される軍人となります。 例) 志願→任期→任期満了→継続して職業軍人になる →一般人に戻る 徴兵→任期→任期満了→継続して職業軍人になる →一般人に戻る また、国によっては「志願により、最初から定年まで勤めて退役する職業軍人になる」 という制度になっている場合もあります。 志願→職業軍人→定年により退役 (初心者質問スレ483 311) 近代の軍隊においては徴兵が無意味あるいは有効でないと聞きましたが ではなぜドイツや韓国、北欧諸国では徴兵制が続いてるんですか? 「徴兵が無意味あるいは有効でない」というのは正確ではない。 どの国の軍隊でも技能習得に長期間を要する兵科(職種)もあれば比較的短期間で習得できる兵科もある。 経済学的にいえば前者は高技能労働者、後者は低技能労働者となる。 基本的に徴兵制にすれば労働市場において民間企業との競合が無いため一定コストで 定員を集めることが出来るメリットがある。 また(国によっては)徴兵制により社会福祉コストを抑えることができる。 例えば総志願制のアメリカ軍の場合勤続20年で年金の受給資格を得る事ができ、 退役時の基本給の半額を一生受け取ることが出来る。このため早い者なら38歳で 退役して年金生活に入るため、社会福祉コストを増大させているという指摘もある。 徴兵制ならば、日本で問題となってる派遣社員や期間工のように兵士を短期間で 使い捨てることが出来るため、社会福祉コストが削減できるというわけだ。 上記のメリットは低技能労働者の多いローテクの労働集約型軍隊ほど多い。 逆に高技能労働者の比率が高いハイテク化した近代の軍隊は、装備コストの高い 資本集約型の傾向が強く「徴兵制のメリットは比較的少ない」というのが正確。 またドイツの場合徴兵制といっても良心的徴兵拒否によって福祉活動に就いている者の方が多く、 社会福祉のコストを抑えるというメリットもある。 なお徴兵制は単に軍事的、経済的合理性からのみ行われているのではない。 「市民」は公共財の維持に参加すべきであるというのが民主主義の原則。 逆に参加せず公共財へただ乗りする者はフリーライダーとして批判される。 (これは右翼の愛国主義とは全く異なる脈絡からの批判であることに注意) ドイツや北欧などの民主主義国家はどこかの国のプロ市民と違って「市民」と しての自覚を有しているからこそ徴兵制が今も存続してると考えることも出来る。 (508 195 経済板住人 ◆ebHA.RI.WI*一部改編) 旧来の短期の任期制ってのは現役時代に元をとる必要がなかったんだよ。 徴兵で一人前にしたらその後何十年か予備役として戦争に備えてもらう。 1人の兵を10年養うより5人の兵を2年づつ養うことで潜在的な動員数を5倍にする これがいわゆる国民皆兵。 今は予備役を動員するような戦争が減ってるから、ずっと現役でいてもらった方がいいんじゃね? って風潮が強い。 良い例が自衛隊で任期満了手当が必要な任期制隊員を削減して、曹候を大幅に増やしてる(一万人ぐらい)。 日本の場合、任期制隊員がなかなか予備自衛官になってくれれないしね・・・ もちろん大規模な戦いや長期戦がなくなったわけじゃないので、そういう時予備役が十分にいないと イラクの米軍みたいに兵力不足に苦しむ。 (508 222:モッティ ◆uSDglizB3o) 現代の徴兵制ではない先進国の兵士の採用の仕方って自衛隊と大体同じ感じですか? 士官は士官学校か幹部候補生のような制度、兵は2~3年の任期制って感じなんでしょうか? 大きなところはその通り。 ただ日本は雇用慣習から下士官になること前提のコースの 曹候補[学生、補士、補生]などが用意されていることが特徴。 あと航空学生もこれに含めていいかもしれない。 (514 505) アメリカだと地方のショッピングモールを制服を着て勲章ぶらさげた軍人が 歩いている。何やってる人かといえば募集官。ソースは華氏911。 士官については、ROTC(予備役将校課程)というのが大学によってはある。 無い大学、かつてあったけど無くなった大学もある。 いわゆる士官学校卒の士官は25%くらいを供給している。その他、士官候補生学校 (下士官、兵からの昇進)やROTCなどが供給している。最近ではOCS(士官候補生学校) 卒の者が増えているとのこと。 (514 506) 軍隊を就職先として考えた場合、やはり公務員だから、人気なんですか? 自衛隊でも、幹部や曹になれば、生活は安定しておりますよね? 例えば米軍(っていうか多くの国)では、軍人は公務員だけど生涯雇用じゃない 一定年齢までに決められた階級に昇進出来なければ、自動的に除隊(将校は予備役編入) 決して安定した職場ではないし、そこで生き残れるほどの優秀な人材なら他の職場でも出世出来る ただ、エントリーは楽だから、能力を実証して出世するためのステップとしては人気 退役後の就学や資格取得支援もあるし 自衛隊だって派遣やフリーターと比べりゃ安定してるかもしれんが、公務員って枠の中では最下層の不人気職 海外含めた全国転勤有りの職場が、安定してるとはいいがたい 逆に不人気だから、同期との出世競争が有利になると踏んで、外務省課長よりは防衛次官目指すってのもいいかもな 日本の場合、曹以上だと、公務員と言う安定性を求める人がいることは否定できない。 アメリカの場合、兵階級は人気が無く、奨学金や、市民権取得のためのステップということをニンジンにして人をつってる。 当然ながら、そんなのにつられる人以外に、使命感に燃えて入隊する人がいることを否定できない。 (522 450,452) 大男が軍隊に組み込まれたケースはあるのでしょうか? チェホンマンという大男の韓国人格闘家が、徴兵を逃れたことでバッシングを受けています。 彼のような大男が軍隊に組み込まれたケースはあるのでしょうか? 218cm 160kgです。 フリードリヒ1世のころのプロイセン軍には大男を集めて擲弾を投げつける「装甲擲弾兵」という兵科があった。 とはいえ、近代以降になると「合う軍服がない」「行軍するにしても歩調が合わない」ってんで あまりに背が高すぎるヤツと低すぎるヤツは兵役を免除されることが多い。 旧日本軍にしても身長180以上で免除されてたはず。 台湾や韓国軍もそうだね。(基準は各国によって違うけど) (523 737) 志願制常備軍と徴兵制の非常備軍の、その国の総人口に対する割合はどの程度になるのか教えていただけませんか? 出来れば、中世と近代のをお願いします 切羽詰っての根こそぎ動員なんてやらない限り、徴兵で兵を増やすとてきめんに 農作物の収穫量が減るし、面倒みないといけない兵隊の数が増える。 三国志の時代の蜀の末期が、2割超えてたはずだけど、それも人口が多く兵も多い魏と 直接ぶつかってたからという話。 あとあの北朝鮮でも人口2000万人で、兵隊数が70万人だから、3.5%になる。 (615 42) 障害者でも兵士になれるのでしょうか? 末期的症状を呈している軍隊ならあり得ます。 流石に手足欠損の人間を兵士にすることは滅多にありませんが、弱視、片目のみ正常、 難聴、精神薄弱については、召集令状が発行されることがありました。 (319 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 史上最年少の軍人を教えて下さい。 史上最年少の軍人は、アフリカかアジアの国で、年齢を記録されることもないまま、 強制徴募された人であろうと、想像します。 過去も、現在も、国際法違反の少年少女の兵士は多数存在します。 第二次世界大戦中の日本海軍でも、特年兵の14歳がありました。 ウィキペディアには、写真付で、「中国国民党の兵士、10歳。」とあります。 Wikipedia - 少年兵 - 「国際法では、18歳未満の子供は強制的徴兵されないとしている。 しかし、紛争が頻発している地域では多くの子供たちが強制的に徴兵されている。」 下記、海軍特別年少兵を参照ください。 http //www.geocities.jp/bane2161/kaiguntokunenhei.html 下記、ウィキペディアの少年兵を参照ください。 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%85%B5 (635 霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.) ただの人がいきなり義勇兵になったり、ゲリラに参加したりしても役に立つもんなんですか? スペイン内戦の時に集った義勇兵達は、兵役経験者も多かったにもかかわらず、 内ゲバまで始める始末で、共和国軍の混乱を加速させた、という意見すらあります。 はっきり言って役に立つ可能性は低いと言わざるを得ません。 ハイテク兵器花盛りの現代の戦場でやることはたいして無いというのもありますし 「上の命令に忠実に従って遂行する」訓練を受けていないのは痛すぎます。 自爆テロ要員ぐらいには使えるかもしれんけどね。それはもうゲリラ戦ですら無い。 (295 300) 徴兵を拒否出来る宗教ってどういったものがありますか? 819 特定の宗教だから拒否できるというより、 その国が良心的兵役拒否を認めてるがどうか次第 一昔前のドイツみたく宗教に関わらず本人の意志で兵役か社会奉仕かを選択できたような国もあるわけで (俺初質スレ435 820) 男女平等を謳う国は多いのに女性を徴兵する国がほぼ無いのは何故? 徴兵で集めるのは高度な知識や技術を必要とせず 単に体力さえあれば良いような職種の兵士だが 絶対的な体力という面では男性より女性が劣るから (俺初質スレ436 544) 大戦中は女性が活躍してたがな (俺初質スレ436 545) 伝統・社会慣習上、男の役目とされているから 軍側として、大量の女性徴兵の受け入れには困難が多い。 設備や部隊編成、与えるべき任務/役割(能力+慣習上、後方支援的なものが多い)変えないと… 加えて、現在は選抜徴兵制の国が多いので、「徴兵による兵士選抜で求められる素質」 =青年男子として平均を超える頑健さ。を殆どの女性は満たさない。 北欧なども含めて、(バイトや腰掛など)短期雇用を前提とした非スキル型の労働者 は経済構造上必要。若い女性は伝統的にこの役割を担っている 軍事上は様々なコスト掛けてまで女性徴兵を導入するメリットが無い。平等の理念で 推すなら、例外なく徴兵する事になる(選抜徴兵どころか、虚弱~障害者など含めて) って事で、入れないのかなと。 加えて言えば、北欧やドイツなどの国では、兵役に行かない若者(女性+漏れた男)は 社会奉仕活動を行う事が慣習化※しており、徴兵対象者も軍務に換えてコレを行う事 も認められる国が多い。そういう所では実質的な平等が実現してるとも言える ※例えばドイツでは、20代半ばまでに1年以上の公的ボラ活動を行う男女が8-9割程。 これは法的な義務ではないが、兵役かボラの経歴が無いと(公民問わず)就職では 非常に厳しい事になる (俺初質スレ436 546) 543 イスラエルが兵士に困って女性兵士を前線に立たせたら、 撤退命令無視が相次いでいたずらに被害が拡大したと言う話を聞いたことがある 女性兵士が『仲間を見棄てて撤退する』ことが出来なかったのか 男性兵士が『女性兵士を見棄てて撤退する』ことが出来なかったのか どっちなのかは知らんが (俺初質スレ436 548) forced to work の訳は 強制労働? いや、強制労働と訳したら間違い 当時、日本には徴用という制度があって、日本国民(植民地人、つまり朝鮮人含む)なら応じる義務があった 「やりたくない」というのは自由だが、やらなかったら法的に処罰の対象になるので、日本国民なら政府が 勝手に決めた場所で労働につかなきゃいけなかった それを英語で簡単に言い表すと「forced to work」になる こういう問題は歴史的背景を抜きにしたら、まったく見当違いの場所で戦うことになっちゃう (戦争板初質7 587) 日本の兵役制度 旧日本軍には何度も営倉に入れられた問題兵がいて、しかも営巣に入った回数を自慢しているような奴もいたとの事。 1度だけならともかく何度も営倉行きになるような兵がクビにならないのはなぜでしょうか 重営倉までなら何とか部隊内で処理できるためです。 軍法会議にかけられるような重い罪(脱走・傷害事件等)でもない限り犯罪者を出すことは 部隊の名誉にかかわるため、上官への反抗程度なら重営倉で済ませていました。 しかし、軍隊内兵役拒否(灯台社の明石真人など)ともなれば軍法会議は免れず、 不敬・抗命の罪名で懲役二年の刑を受けたりしています。 それから兵役は国民の義務ですから、途中でクビなんてありません。 (67 38) 過去、徴兵制度があった国では有力者や金持ちの子息は特別扱いされる事はあったのでしょうか? 日本では、徴兵制度が制定された初期の頃は、代人料270円を納入すれば 兵役につく必要はありませんでした。 もっとも平均年収が200円を切っていた時代のことですから、こんな大金 を納められる人など滅多にいません。 たいていの軍隊では、大学生には徴兵猶予の特権を与えています。 現代の日本では大学もかなり大衆化していますが、戦前の日本では大学に 進学できたのはごく一部のエリート様だけでしたし、今でもそういう国は いくつもあります。これも一種の金持ち優遇策と言えるでしょう。 (96 410) 戦時中の日本において、心身ともに健康な民間の成人男子が合法的に徴兵を回避するにはどのような手段があったのでしょうか? 上級の公務員とか。 理研に勤務してるとか。 納税額1万5千円を超えると免除。 (103 582) 1 志願する 2 事故に遭い不具者になる 3 理系大学生になる 4 軍属になる (103 583) 徴兵検査をする軍医に賄賂。 往年の阪神タイガースの名一塁手松木選手は、戦争末期は会社勤めの身の上でしたが、 やり手の営業部員であったため会社側が軍医に手を廻して徴兵逃れの手続きを取ってくれたそうです。 あいにく、手違いから買収した軍医とは別の軍医に検査を受けてしまったため合格となり 沖縄戦に参加することになりました。 今は絶版になっていると思いますが、松木選手が執筆した沖縄戦の手記に載っていた話です。 (103 654) 旧制中学を卒業して志願して日本陸軍に入隊する人はいたのでしょうか? そういう人たちは一体どんな部隊に所属してたのでしょうか? 旧制中学→陸軍士官学校というパターンが多かったようです。 一兵卒として従軍する人もいたようですが(こちらは徴兵の方が多いのかな?) どういった部隊に行くのかは、人によって違います。 士官学校卒業者については、出身地に関係なく、どこの部隊にでも配属されます。 (107 157) 戦前の場合は、中等学校以上の学校卒業者に対しては、一年志願兵制というのがありました。 これは、予備、後備役の幹部を養成する為のもので、一年の在営期間中に伍長に昇進させて予備役に 編入、勤務演習の後に合格すれば予備役将校に任官させる制度です。 一年しか軍に属さない代わり、在営期間中の費用は自弁で、将校に任官した時も被服費は自弁だったり します。 この費用自弁制は1933年に廃止されていますが、幹部候補生制度と名を変えて残ります。 但し、中核人材の確保から、入営期間が延長されています。 幹部候補生は、入営後直ちに一等兵になり、二ヶ月後に上等兵になります。 この時に甲種と乙種の幹部候補生に分かれ、甲種は一ヶ月後に伍長、三ヶ月後に 軍曹となり、兵科毎に陸軍予備士官学校、各種兵科学校で十一ヶ月の集合教育の後、 曹長となり、本隊に帰って四ヶ月後に本務に必要な勤務習得後、少尉となって退役 します。 しかし、日中戦争の進展に伴う幹部の払底から、予備役に編入されてもすぐに充員召集、 臨時召集対象者となったので、予備役から現役になる道も開かれていました。 乙種幹部候補生は、四ヶ月後に伍長に進み、一年三ヶ月後に試験を行ない、約半数を軍曹に 任命します。 また、そのうち優秀なものについては、将校勤務適任証が渡されています。 1943年から航空、船舶、通信、兵技、航技の現役下士官補充の為に、特別幹部候補生というのも 作られています。 入隊または入校後直ちに一等兵となり、六ヶ月後に上等兵、更に六ヶ月後に兵長、課程修了後伍長任官 となります。 このうち、中等学校課程修了者については、軍曹に任ぜられる場合もあります。 海軍の場合は下士官任用特例という制度があり、現役兵から選抜され、水兵科、飛行科、整備科、機関科、 工作科、看護科、主計科の各兵科で、兵長に任じた後、各種学校での六ヶ月間の教育修了後、二等下士官 とするもので、これも成績優秀な場合は、一等下士官となっています。 (107 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 補足すると昭和14年の時点で、 陸軍の兵科の中尉、少尉の7割以上が幹部候補生出身になっています。 日華事変直前の甲種幹部候補生の採用が毎年3000名以上、 それに対して士官学校卒業生は500名です。 また甲種幹部候補生の半分近くは中学卒です。 (107 161) 徴兵逃れについて、 祖父は視力検査の際に近視であると偽り、丁種不合格となって大戦を生き延びたと語っていました。 こんな適当な徴兵拒否工作で乗り切れるほど、当時の検査は甘かったのでしょうか? 其処はそれ、極めて日本的なナァナァの世界ですから、その辺の徴兵逃れはやろうと 思えば何とでも成ります。 検査するのは同じ街の医者ですから、その人が知り合いであれば、工作は容易いこと です。 徴兵されても、即日帰郷、以後召集に適せずの烙印を押される場合もありました。 この場合は、それなりの金がそれなりの要路に渡っていますが…。 また、徴兵検査直前に醤油を飲むなど各種の欺瞞工作は行われていました。 各市町村には、徴兵係が一名専任で置かれており、彼と懇意の場合は、徴兵を免れる 場合もあったようですし、会社勤めで、事務屋をしていた人が、徴兵を逃れる為に、工場 勤務と偽っていたケースもあります。 但し、徴兵逃れが発覚した場合の罪は重く、即刻召集、最前線送りというケースか、 その代わりに常磐炭坑などの炭坑で炭坑夫となるケースがあります。 また、本人ばかりでなく、市町村長、徴兵係も連帯責任と言うことで懲戒処分を受ける 場合もありますので、徴兵係は、滅多に徴兵逃れの片棒を担ぐことはありませんでした。 (124 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 赤紙(召集令状?)はどのような手続きで交付されたの? 赤紙と言うのは、俗称です。 召集には、充員召集と臨時召集に分けられます。 充員召集は、軍中央で決定され、参謀総長が天皇に動員実施を上奏して承諾を得て動き始めます。 これにより、軍から各警察署を通じ、各役所に対して、「動員令予報」と言うものが届けられることになり、 これをトリガーに各役所の兵事係は、動き始めます。 間もなく、赤紙の入った封筒が警察から各役所に届けられます。 封筒には師団名と動員符号が記入され、地方自治体名と動員数が書かれ、警察署長からの送付状も同封されています。 この送付状に兵事係が受け取り日時を記入し、警官に返します。 封筒は、首長以下三役立ち会いの下で開封され、誰が召集されるのか、この時点で明らかになります。 兵事係は在郷軍人名簿と照合して、記載内容に誤りがないか確認します。 ちなみに、氏名の文字に誤りがあるだけでも、赤紙は交付出来ません。 点検後、応召連名簿(赤紙の発行記録簿)に氏名の記入をした後、役場職員が急使として各家庭に赴き、 交付することになります。 赤紙を受け取った対象者の家庭では、受領証を切り取って日時を記入し、急使に手渡します。 対象者が地域から出ている場合は、予め決められた通報人が代理受領し、本人に知らせることになります。 交付が終わると、兵事係は礼状発想交付終了通知書を作成して警察に届け出、一連の業務が完了します。 臨時召集の場合は、各師団で発行します。 これも同様に兵事係が手渡しを行います。 (337 眠い人 ◆gQikaJHtf2) うちの祖父は旧帝大の理学部でしたが、陸軍にいたみたいなんです。理系の大学生でも徴兵の対象になったんですか? 当時徴兵は男性の義務で徴兵検査は全員が受けます。 うち合格者が召集の対象になり、選抜されて兵役に尽きます。 理系、医系の学生は27歳まで召集が免除されており、27歳以降であれば 学徒出陣以前でも兵役についた可能性があります。 (335 401) 徴兵令が廃止されて兵役法が施行されてから、赤紙が届くという事は独仏のWWIなどの単純な予備役召集という意味ではなくなったのでしょうか? 赤紙ってのは再召集のことだぞ やっぱり赤紙が来る人ってのはそれより以前に基礎訓練を受けているということでいいんですよね。 昭和二年の徴兵令を改定した徴兵法で、戸籍法の適用を受ける満二十歳のものは 全て徴兵検査を受けることが定められた。 この徴兵検査で甲乙丙丁戊種に分け、甲種合格の者が二年の兵役に就くものとさ れた(時節によっては就かなくてもいい場合もあった)。 この兵役が終わると予備役→後備役兵→ 第一国民兵となっていく。 この期間を在郷軍人と言い、これを再召集するのが通称「赤紙」の充員召集令状、 臨時召集令状。 また、兵役に就かなかった者は補充兵→第二国民兵となり、こちらは教育召集 (赤紙ではなく白紙)されて教育を受けた後、実戦部隊等に送られる。 (296 118-183) 太平洋戦争中、日本の徴兵年齢ってどのように変わっていったのですか? また、40台のオッサンが再徴兵されるようなことって結構頻繁にあったのでしょうか? 1927年の兵役法(法律第47号・徴兵令は太政官布告でそれに変わるもの)では、 戸籍法の適用を受けるもの、即ち、内地と樺太に本籍を有するもの、つまり、内地人の男子については、 17歳~40歳まで、兵役に耐えぬ者を除き、全て兵役に服することを定めています。 従って、たまたま、召集を免れただけで、その範囲内の男子は兵役に服することがある訳です。 これが、1943年になると、軍医の払底から、徴兵年齢の上限を引き揚げることになります。 (軍医だけを狙い打ちにすると、不満が出るので、全員の年限を引き上げた) これにより、17歳~45歳まで召集可能となりました。 40歳(1943年以降は45歳)で、兵役は終了しますが、1945年、義勇兵役法(法律第39号)によって、 男子15歳~60歳、女子17歳~40歳の全員(現役と召集中を除く)が義勇兵役に登録され、国民義勇 戦闘隊に召集を受ける場合があることになります。 40代の再召集は特に医者に多かったようです。 (216 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本で徴兵回避の手段として、鉄砲の引き金を引けなくなる様に、利き手の人差し指を切り落とした人がいたという話は事実なんでしょうか? 人差し指を落したり、屈曲出来ない様に装ったり、動かなくしたりなどをやったケースはあります。 但し、それ以外の身体的機能が問題なければ、下手すれば乙種、最低限度でも丙種程度の合格には なります。 乙種なら十分に召集の対象、丙種でも末期なら召集の対象となり得ます。 尤も、その前に、徴兵忌避が知れてしまえば、常磐炭坑などで働くという選択肢が有無を言わさず待って いますけどね。 (284 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争中、軍に召集されなかった人はどんな人ですか? 男は根こそぎ軍に動員されていたようにイメージしますが、役所などの公務員は徴兵されてたんですか? 旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部で行ないます。 この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状 を作成します。 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するもの です。 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった 場合、管轄地域で召集令状を発行しました。 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが 記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、 特有の技能が記入されています。 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能 召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、 召集令状は来ることがありませんでした。 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象 となる人です。 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。 1. 侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫 2. 陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者 3. 鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象) 4. 船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象) 5. 民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象) 6. 国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者 7. 陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象) 8. 都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象) 9. 帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官 10. 帝国議会の議員 11. 国民学校教員中必要なる者(一般国民対象) 12. 上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、 教師も一部が召集対象から外れています。 また工場の熟練労働者も対象となっています。 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて召集延期者 として選出させた事例もあります。 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。 これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この 対象となって、召集を延期されています。 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者 は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となって います。 この制度も1944年から開始されています。 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上 差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、 軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には 85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は 1943~45年で4.3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に 召集されなかった人も多かったようです。 (105 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第二次世界大戦時に日本の少数民族ともいえるアイヌや、山家の人達も召集されたんでしょうか? 民族によって違う 朝鮮人は徴兵された。台湾の高尾族や南洋信託統治領の一部民族もだ アイヌや千島列島の諸民族は徴兵こそされていないが、部族丸ごと日本軍に強制的に協力 させられたりしている 概括的まとめ、かつ個々の事例は平岡正明の30年ほど昔の著作に詳しかった (283 763) 徴兵検査で甲種合格をした人が31歳のとき日中戦争で召集されるというのはありえる話でしょうか? 甲種合格でその年まで入営をしていないとなると、甲種合格者が多かったために 抽籖による徴集を行って、それに漏れたということが考えられます。 その場合は第一補充兵役と呼ばれる兵役区分に分けられ、甲種合格者が少ない場合に そこから徴集されることになります。 補充兵役の服役年限は十二年四ヶ月ですので、31歳というのはかなりぎりぎりの年齢です。 (280 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 軍曹氏の指摘に加えて、充員召集ではなくて、本当に足りなくなって からの召集と言うことは考えられることがあるでしょうし、後は、召集時に身体 を壊して、召集延期になったと言うことも考えられるのではないでしょうか。 (280 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧日本軍では女性を軍人として採用する考えはあったのでしょうか。 女性を軍人にすることは考えも付かない状態です。 そもそも、枢軸国の場合は、人口の基、子育ての担い手としての女性という立場 があり、それを戦力化する方向にはなかなか進んでいません。 どん詰まりの1945年に国民義勇兵として採用しようとはしていましたが、結局、 それもどんな形になるのか明確になる前に、敗戦となっています。 (280 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 対米戦が開始されていない状況で、二度目の召集を受けるというのはよくある話でしょうか? 所謂「赤紙」に関しては、NHK特集で昔やっていたのが、本になっています。 図書館でも探せばあると思いますので、調べてみては如何でしょう。 最初の召集の際に、幹部候補生に志願して、再招集で将校となった場合とか、将校担当官 (経理担当とか軍医とかそう言う専門職の人々)は、本籍の部隊よりも、様々な部隊に回され ます。 複数回の召集ということは十分あり得ます。 戦時の小隊長などの下級将校要員が不足し、幹部候補生を召集してそれに充てる、あるいは 兵科将校よりも将校担当官のエキスパートが不足したので、その業務が必要な人々を召集する と言うことは、戦時体制の移行に伴い起きています。 ちなみに、我が祖父は3回召集を受けていますが、兵役義務は1回行ったからと言って 消えるものではありません。 原則的には、兵籍簿に「軍務に適さず」という朱印が押されない限り、召集の対象となり ます。 召集は、動員下令により、動員部隊の要員を充足するのが、充員召集。 臨時に召集するのを臨時召集としており、前者が、防衛計画に基づいて年度初めに 予め誰を召集するのか、きちんと決めて聯隊区司令部とか役所の金庫に召集令状 が保管されていましたが、後者は、聯隊が、本隊の人員滅失状況を受けて、兵籍簿 から、充員召集令状の対象者以外を召集するものです。 (280 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦前の日本で徴兵検査うけて、兵科を決められるときに、自分から希望は述べられたんですか? また、学歴や職業などは重視されたんでしょうか? 電気技師やってるから工兵とか。 兵科は自ら決めるものではありません。 希望を出すことはほぼ不可能でした。 但し、大学を卒業するなど高等教育を受けていた場合は、士官への登用を上司から促される ことはありますし、学部に依っては、それに相応しい科に進むことは可能ですし、その方面は 非常に有利になります。 例えば、経済学部の場合は経理部、法学部の場合は法務部、獣医、医者の場合は軍医とか 獣医部とか…。 また、徴兵の場合、充員召集であれば、職業や職歴が考慮されることが多いです。 特に手に職を付けている、例えば、蹄鉄師なんかは、何度も召集されることがありましたし、 運転免許を保持している人も同様です。 臨時召集ではそんなことは考慮されず、ただ頭数を揃えるだけと言うケースが多いので、 熟練工を一兵卒にしてしまうことも多かった訳で。 山本七平の著書(「私の中の日本軍」か「一下級将校の見た日本陸軍」のどちらか)で、徴兵検査を受ける時に キリスト教徒で非戦主義の先輩に言われて「衛生兵」を志願するが徴兵係に馬鹿にされ、恥ずかしくなって取り下げる…。 その横でW大学の学生が「自分は大学で学生砲兵隊に所属していたので、砲兵を希望いたします!」と名乗り出て徴兵係が書類に記入する… というシーンがあったのですが、これは彼らが大学生だからですか? それとも一般でもあったことですか? 時代によるのではないでしょうか。 特に陸軍は、外部で高等教育を受けた人物に対しては、異常なほど敵愾心を燃やしていた部分 がありますから。 その希望は、あくまでも徴兵検査時に「聞き置く」と言うレベルのものであり、実際の兵科への配属は、 入隊後の教育状況で適性を見極めて決める場合が多いです。 因みに、漏れの祖父の場合は、大学出の教師だったのですが、何処をどう間違ったのか、親が医者 だったから、と言う理由で(後で聞いたらそんなことだったらしい)、衛生科に配属されて衛生兵になった 訳で、別に徴兵検査で希望を出した訳ではなかったりします。 (280 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦時中の日本は、金持ちは徴兵されなかったのですか? 納税額1万5千円を超えると徴兵免除と聞きましたが。 んなこた~ないです。 金持であっても、近衛の息子のように、徴兵された場合もありますし、中野正剛による 東条批判事件では、その弾圧に批判的な対応をした検事(43歳で国民兵に編入)、毎 日新聞記者は、戦局批判をしたために、四国丸亀の機関銃中隊に徴兵され、松前重義 逓信省工務局長も本来は少将待遇だったのが、召集されて二等兵として南方の第一線 に飛ばされています。 但し、徴兵されても、元居た所が必要と言うことで、軍に陳情するルートを持っていれば、 即日帰郷という場合もありました。 このほか、徴兵忌避の方法として、「軍事警察雑誌」には以下のケースが上げられています。 強度の眼鏡を使用し、近視眼となるもの/全く故障無き眼を近視の如く訴ふるもの/眼に刺激性のものを入れ眼球を充血せしむるもの/ 前夜睡眠を為さずして他に眼病有るが如く訴ふるもの/耳穴に奥深く豆類を挿入したるもの/鼓膜に鳥の羽のものを付着せしめ聴力の 故障を起こさしむるもの/強き刺激性の食物を採りて耳鳴りを起さしめ故障有るが如く訴ふるもの/歯を故意に抜き取るもの/醤油の類 を多量に飲み心臓の鼓動を高くし心臓その他の疾病あるが如く訴ふるもの/受検二三日前より絶食し身体を衰弱せしむるもの/指を切断 するもの/肛門に漆を塗り痔疾の如く訴ふるもの/神仏に徴兵を免るべく祈願するもの 他に、「徴兵検査研究録」では、 卵黄を外聴道内に注入し、化膿性中耳炎を疑はしめしもの/角膜を刺傷または火傷せしめて角膜えいを作為せるもの/魚鱗を角膜に貼 して角膜えいを作為せるもの/右示指(人差し指)を故意に長日間伸展位もしくは屈曲位に緊縛し置き該指の萎縮、強剛を作為せしもの と言うケースも語られています。 徴兵逃れと懲罰的徴兵を混同されていませんか? 小金持ちが金を積んで徴兵逃れした例として、戸籍を北海道や沖縄に移す(実際は居住しない)夏目漱石・芥川龍之介など。 失礼、太平洋戦争中の事例を見ていたもので、戦前の事例は確認していませんでした。 ただ、戦前の場合は有り得たものの、昭和19年10月18日の兵役法施行令改正以降は、 第二国民兵として丁種以外の壮丁は全員召集可能になった訳で、そう言う意味での 理論上、徴兵逃れが出来なくなったはずと記憶しています。 また、昭和20年6月には義務兵役法によって、男子は15~60歳、女子が17~40歳という 根こそぎ動員も掛けられるようになっていますね。 (103 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧制中学を卒業して志願して日本陸軍に入隊する人はいたのでしょうか? そういう人たちは一体どんな部隊に所属してたのでしょうか? 戦前の場合は、中等学校以上の学校卒業者に対しては、一年志願兵制というのがありました。 これは、予備、後備役の幹部を養成する為のもので、一年の在営期間中に伍長に昇進させて予備役に 編入、勤務演習の後に合格すれば予備役将校に任官させる制度です。 一年しか軍に属さない代わり、在営期間中の費用は自弁で、将校に任官した時も被服費は自弁だったり します。 この費用自弁制は1933年に廃止されていますが、幹部候補生制度と名を変えて残ります。 但し、中核人材の確保から、入営期間が延長されています。 幹部候補生は、入営後直ちに一等兵になり、二ヶ月後に上等兵になります。 この時に甲種と乙種の幹部候補生に分かれ、甲種は一ヶ月後に伍長、三ヶ月後に 軍曹となり、兵科毎に陸軍予備士官学校、各種兵科学校で十一ヶ月の集合教育の後、 曹長となり、本隊に帰って四ヶ月後に本務に必要な勤務習得後、少尉となって退役 します。 しかし、日中戦争の進展に伴う幹部の払底から、予備役に編入されてもすぐに充員召集、 臨時召集対象者となったので、予備役から現役になる道も開かれていました。 乙種幹部候補生は、四ヶ月後に伍長に進み、一年三ヶ月後に試験を行ない、約半数を軍曹に 任命します。 また、そのうち優秀なものについては、将校勤務適任証が渡されています。 1943年から航空、船舶、通信、兵技、航技の現役下士官補充の為に、特別幹部候補生というのも 作られています。 入隊または入校後直ちに一等兵となり、六ヶ月後に上等兵、更に六ヶ月後に兵長、課程修了後伍長任官 となります。 このうち、中等学校課程修了者については、軍曹に任ぜられる場合もあります。 海軍の場合は下士官任用特例という制度があり、現役兵から選抜され、水兵科、飛行科、整備科、機関科、 工作科、看護科、主計科の各兵科で、兵長に任じた後、各種学校での六ヶ月間の教育修了後、二等下士官 とするもので、これも成績優秀な場合は、一等下士官となっています。 (107 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本で戦前にあった予備役、後備役というのは? 基本的に、徴兵検査で甲種合格した人を中心に召集が行われ、次いで乙種に召集が行きます。 それで足りない場合は、予備役、更に人材が払底すると後備役になる訳で。 (354 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧軍の徴兵時の身体検査で、色神・色覚で異常があった場合は徴兵免除されたんでしょうか? 平時を除けば、徴兵免除はされません。 甲種合格は難しいでしょうが、視力さえあれば、第一乙種もしくは第二乙種で 合格したでしょう。 視力が著しく低くとも、片目の矯正視力が0.3以上であれば丙種合格ですし、 片耳が聞こえなくとも第二乙種になり、両耳の著しい難聴でも丙種合格となり ます。 徴兵の場合、丙種合格までは少なくとも第二国民兵役に服し、免除は為され ません。 (562 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 徴兵を回避するための犯罪での懲役志願は少なかったと思いますが? 軽犯罪で短期の懲役はすぐに出所して徴兵されそうですし。 えー、犯罪白書には再犯率の推移の説明において「刑務所出所後3月未満で再入所する者の 比率は,戦時中に高かった」とあります。「すぐ出所して徴兵」される「前に」また刑務所に行く人 間がいたことを示すわけで、前提が崩れます。 さらにいえば、戦局が悪化して以降、受刑者数は上昇に転じています。 http //hakusyo1.moj.go.jp/jp/30/image/image/h004027e.jpg そしてこれ。 http //hakusyo1.moj.go.jp/jp/30/image/image/h004032e.jpg 昭和15年以降「初めて刑務所に入る」という人間が急増しています。入所する人間の70パー セントとか80パーセントが初めての懲役刑となるのは、戦局の悪化と戦後の混乱の時期の みの現象であり、ポピュラーでもない、自慢にもならないが、手段の一つと見るだけの傍証 となります。 5年以上の懲役の比率は5パーセント以下、戦時下で急増したのは3年以下、5年以下の懲 役刑です。罪状で一番多いのは窃盗で、強盗や殺人は減少しています。 http //hakusyo1.moj.go.jp/jp/30/image/image/h004029e.jpg (562 ふみ) 旧軍での徴兵の際、どんな基準で「おまいは陸軍、おまいは海軍」とか決めていたんですか? まず徴兵検査は全員が共通に受ける。 その際に、本人が配属先の希望を言うことはできたらしい。あくまでこれは参考。 甲種とかの判定基準は陸海軍で異なり、さらに時代でかわるが、海軍のほうが視力優先で、陸軍は体格重視。 甲種合格者から、陸海軍とも欲しい分だけ取る。これが現役入隊。 戦況悪化すると、乙種も現役入隊となってる。 増員の必要が出れば、予備役を使う。この際は、当然、現役時代の配属先に従う。 それでも足りないときは現役経験の無い残りから、召集する。 このときはもはや数合わせに近い。陸海の別も適当。 (658 453) 予備役召集の基準としては、在郷軍人名簿の種々の記載を参考に取る 体格などが補充先で最低限度使い物になるかどうか見るのはもちろん 海軍では視力と思想を重視したという あと陸海軍とも補充先の職種などを考慮して、特殊技能者を優先的にもらう 例えば、陸軍の輜重部隊なら、自動車の運転免許があれば欲しがったようだ 陸海軍の区別というよりは、補充予定先の部隊に合わせていろいろな基準という感じがする 輜重部隊とか陸戦隊に呼ぶのは、安物で我慢しようみたいな (658 454) 基本的に海軍は志願兵主体であって、平時は徴兵で海軍に振り分けられた人は少なかった様です。 徴兵で引っ張られたとしても、充員招集なので、高等小学校卒業以上の学歴を有している甲種合格者で、 技能者(大工とかボイラー手など手に職の付いている人々)が殆どでした。 しかし、太平洋戦争が進んで、兵力が払底しだしたときは、甲種合格者以外に召集源を確保していないため、 昭和18年勅令第421号で、陸軍より、第一補充兵役者(第二乙種合格者)を海軍の兵員供給源に振り替えて 貰っています。 (175 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本が植民地人の軍事的利用に消極的だったのって何故ですか? 朝鮮においては、正規の軍人として徴兵を始めたのは、1944年からですが、 志願兵制は1938年から存在しています。台湾では志願兵制の導入は1942年から 徴兵は朝鮮と同じく1944年からです。 理由は色々あるでしょうが、一番の理由は極実務的なもので、当時の植民地 において行われていた日本語教育のレベルでは、軍務に耐えるだけの日本語 能力を持った人間を養成できなかったためでしょう。軍務に就くためには、日本語 (文語体旧仮名遣い)で書かれた兵器操作法などのマニュアルを読みこなす 必要があったわけですから。 実際、陸軍の要請により、当時の日本語教育関係者やその他有識者によって 日本語の表記の簡素化と日本語口語の教授法についての研究が行われています。 そして、この軍が研究した表記の簡素化は、現代仮名遣いにつながっています。 この辺に関心持たれたのならこの本をどうぞ。 「海を渡った日本語―植民地の「国語」の時間」(川村湊) ちなみに、兵補・軍属としてならば、日本軍の軍政下にあった東南アジアの占領地からも 多くの住民が自発的・強制的に参加しています。 (107 385) 旧陸軍では新兵を徴兵前の職業に応じて適材適所に振り向ける事を行っていたのでしょうか? 特技を持っている人は、充員召集令状での召集の場合は考慮されることが ありました。 後、医者とか獣医とかの専門職とか。 但し、末期の根こそぎ動員の様に、誰が何でもとなると、そうも言っておられず、 適当に引っ張って適当に一兵卒にしています。 (273 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 警察官の職種の人は召集免除になると聞いたのですが、召集がくる事があったのでしょうか? 一般に警察官と言えば、治安維持に必要な人材と言うことになりますから、憲兵とか警備部隊への 充員召集対象者になっていた可能性があります。 それと、何らかの特殊技能(例えば運転技術など)を有していた方の場合は、充員召集に 充分掛かります。 また、当時の警察官は、現在の治安維持、犯罪捜査、交通行政をやっていた訳ではなく、厚生関係の 例えば、健康保険取扱い、工場などの安全対策、建築確認、獣医、防疫、医事関係、衛生対策、消防と、 現在の厚生労働省、消防庁などの仕事までやっていました。 ですから、警察官と言っても治安警察任務ではなければ、もしかしたら、上記のような技能の持ち主として 召集された可能性があります。 (133 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧日本軍の場合、どれくらい視力が悪いと徴兵を免れることができのでしょうか? 徴兵検査時に失明していると丁種となり兵役原簿には載りません。 視力1.0で甲種合格者、それ以外は乙~丙種合格者となり、兵役原簿に載ります。 平時の際は兵役原簿の甲種合格者の中から優先して現役兵として徴集されます。 (248 247) 平時ならば、甲種合格者が多すぎて徴兵できない状態になるので、 視力が足りない乙2種まで徴収する余裕はありません。 しかし戦時になると、甲種・やや病弱の乙1種だけでは足りないので、乙2種合格者も赤紙をもらいました。 当然ながら、目をよく使う騎兵にはなれません。 力仕事の砲兵や工兵、物資管理と物資輸送を担当する輜重兵によく配当されました。 ぶっちゃけ、大戦末期には実質的に不合格の丙種合格者もしょっぴかれたわけで 目さえ健康なら甲種をもらえた乙2種では徴兵逃れはできませなんだ。 (248 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 甲種では、各眼の裸眼視力0.6(後に0.3となり、かつ矯正視力0.8以上を可とする)以上 を合格としています。 つまり、逆に言えば、各眼裸眼視力0.6(後に0.3、矯正視力0.8)未満の者は身体壮健でも、甲種合格から外れました。 太平洋戦争進展に於ける、兵力の枯渇で、緩和されるまでは、視力に関しては以下のようになります。 第一乙種:矯正視力0.8以上0.5未満 第二乙種:矯正視力0.5以上0.8未満 第三乙種:矯正視力0.3以上 丙種:どちらか一方でも良い方の目の矯正視力0.3以上 丁種:矯正視力0.3未満 なお、一眼が見えなくても他眼視力0.3以上であれば第三乙種に認定されます。 徴兵は丁種以外で行われるので、回答としては、両眼とも矯正視力0.3未満「以外の人」の場合は 徴兵されると言うことになります。 (248 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大戦期の日本軍の将校の予備役招集はどのような状況だったのでしょうか? 現役将校の場合は、現役定限年齢に達するまで現役に服するのが普通です。 予備役編入は何らかの事情で、現役から退いた場合のみであり、現役定限年齢まで予備役扱い となります。 それ以外の予備役は戦時要員なので平時になったら復員出来ます。 大学、高等学校、専門学校、師範学校の卒業生、或いは学徒出陣の場合、陸軍へ入隊するとき、 多くの人は、幹部候補生を志願しました。 この場合、少尉に任官すると同時に予備役に編入、そして、即日召集という形で服しています。 また、1944年に作られた特別甲種幹部候補生制度の場合、大学、高等学校、専門学校1年以上 在学者、師範学校卒業者が対象で、兵科と経理部将校を短期養成する目的で作られました。 これは、採用と同時に伍長となり、1年の予備士官学校、経理学校で教育した後、半年の見習士官 の後に予備役少尉となるものです。 また、大学、高等学校、専門学校、師範学校の在校生を対象に、特別操縦見習士官制度が1943年に 設けられています。 これも始めから曹長に任官し、仙台陸軍飛行学校で1年半教育後、予備役航空将校への任官が行われ ていました。 この制度の前に、逓信省航空乗員養成機関で操縦教育を受けた者を仙台陸軍飛行学校で1年間養成し、 予備役操縦将校とする操縦候補生制度がありましたが、対象者は少ないです。 更に1918年~1927年の間、師範学校卒業の小学校教員は、一年志願兵と同じ 仕組みの1年現役兵制度があり、在営1年で予備役少尉になりました。 彼等が、太平洋戦争中に召集されるケースもありました。 但し、この制度は兵役制度逃れに利用されていたので、1928年以後は廃止され ています。 また、1933年には士官候補生出身の現役中少尉の不足、即ち1936年危機説という のがあり、幹部候補生または一年志願兵出身の在郷中少尉の志願者を、召集扱いで 軍務に服させる特別志願将校制度が作られ、1939年には現役に採用されることとし、 佐官、憲兵の予備役も、少尉候補者出身予備役から志願できるものとしています。 一方、海軍の場合は、戦時の要員確保のため、「予備」将校という制度がありました。 1934年までは、高等商船学校を卒業して船員免状を取得することで、海軍予備将校と なります。 航海科は海軍予備少尉、機関科は海軍予備機関少尉に任官されます。 後に、水産講習所、水産専門学校遠洋漁業科卒も同じ扱いとなりました。 1934年、大学、大学予科、高等学校、専門学校卒業生から採用される海軍予備学生制度 が出来、これで1年教育を受ければ、海軍予備少尉になりました。 これは兵科…と言っても、陸戦、対空、対潜、通信にのみ採用されています。 (247 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 15~16歳でも特攻に動員されるのでしょうか? 学徒動員は有名ですが、このほか、1927年から兵役法(法律第47号)が公布され、17~40歳(1943年より45歳に)の内地人の 壮丁全員が第二国民兵役になり、1945年からは義勇兵役法(法律第39号)制定に伴い、召集されていない男子15~60歳、女子 17~40歳の全員が義勇兵役となりました。 このうち、義勇兵役に就いた人はあまり無いです。 が、志願兵の場合、陸軍では少年飛行兵、少年戦車兵、少年通信兵、少年砲兵、少年防空兵という制度があり、 彼らは15~18歳の高等小学校卒業程度で軍に入隊しており、この中から、多数の特攻隊による戦死者を出して います。 海軍では、甲種飛行予科練習生、乙種飛行予科練習生と言う制度があり、前者は16歳(1943年に15歳、1944年 には14歳)に、後者は15歳(1941年から14歳)から入隊が可能でしたし、志願兵の水兵、機関兵、軍楽兵、看護兵、 主計兵、船匠兵は17歳(1929年から14歳)、海軍少年水兵は14歳、海軍練習兵は15歳から志願可能です。 沖縄特攻の大和とかにも14歳の水兵が乗り組んでいたのもありましたね。 (158 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 徴兵される時、主に身長で海軍、陸軍に分けられたと聞いた事あるのですが本当ですか? 1943年の昭和18年勅令第421号に於いて、海軍の召集源を、陸軍第一補充兵役者に振り替えています。 ちなみに、第一補充兵役とは、原則的に第一乙種、平時では甲種と第一乙種、戦時では第二乙種を指します。 甲種合格は、身長155cm(後152cm)以上なので、それに満たない場合は乙種以下の合格となります。 従って、身長で陸軍、海軍に分けたと言うのはあながち間違いではありません。 (227 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 40台のオッサンが再徴兵されるようなことって結構頻繁にあったのでしょうか? 1927年の兵役法(法律第47号・徴兵令は太政官布告でそれに変わるもの)では、 戸籍法の適用を受けるもの、即ち、内地と樺太に本籍を有するもの、つまり、内地人の男子については、 17歳~40歳まで、兵役に耐えぬ者を除き、全て兵役に服することを定めています。 従って、たまたま、召集を免れただけで、その範囲内の男子は兵役に服することがある訳です。 これが、1943年になると、軍医の払底から、徴兵年齢の上限を引き揚げることになります。 (軍医だけを狙い打ちにすると、不満が出るので、全員の年限を引き上げた) これにより、17歳~45歳まで召集可能となりました。 40歳(1943年以降は45歳)で、兵役は終了しますが、1945年、義勇兵役法(法律第39号)によって、 男子15歳~60歳、女子17歳~40歳の全員(現役と召集中を除く)が義勇兵役に登録され、国民義勇 戦闘隊に召集を受ける場合があることになります。 40代の再招集は特に医者に多かったようです。 (216 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 徴兵逃れは昔からありますが、偽病を見抜くにはどんな訓練をしたんですか? 1921年の『軍事警察雑誌』第15巻第3号に、「徴兵忌避の予防について」と言う論文があります。 これによると、徴兵忌避の方法としては、 1. 強度の眼鏡を使用し近視眼となるもの 2. 全く故障無き眼を近視の如く訴ふるもの 3. 眼に刺激性のものを入れ、眼球を充血せしむるもの 4. 前夜睡眠を為さずして他に眼病あるが如く訴ふるもの 5. 耳穴に奥深く豆類を挿入したるもの 6. 鼓膜に鳥の羽類のものを付着せしめ聴力の故障を起こさしむるもの 7. 強き刺激性の食物を採りて耳鳴りを起こさしめ故障あるが如く訴ふるもの 8. 歯を故意に抜き取るもの 9. 醤油の類を大量に飲み心臓の鼓動を高くし心臓其他の疾病あるが如く訴ふるもの 10.受検二三日前より絶食し身体を衰弱せしむるもの 11.指を切断するもの 12.肛門に漆を塗り痔疾の如く訴ふるもの 13.神仏に徴兵を免る可く祈願するもの が挙げられており、13以外はチェック出来ます。 他にも、1928年の『徴兵検査研究録』では、 1. 卵黄を外聴道内に注入し、化膿性中耳炎を疑はしめしもの 2. 角膜を刺傷または火傷せしめて角膜翳を作為せるもの 3. 魚鱗を角膜に貼して角膜翳を作為せるもの 4. 右示指を故意に長時間伸展位若は屈曲位に緊迫し置き該指の萎縮、強剛を作為せしもの と具体的な症例を引いて、詐病の見破り方法を軍医に教えています。 (203 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 国民義勇隊に引っ張られるのは徴兵とは違うんですか? 義勇兵役法では、男子15~60歳、女子17~40歳の現役と召集中の者を除く全員が 義勇兵役になっています。 義勇兵役は、国民義勇戦闘隊に召集されることを言います。 国民義勇戦闘隊は、参謀総長配下に鉄道義勇戦闘隊、軍司令官、鎮守府司令長官配下に連合義勇戦闘隊 があり、連合義勇戦闘隊は、分隊→区隊→義勇戦闘隊という編成が軍令第二号国民義勇戦闘隊統率令にて 行われています。 なお、国民義勇戦闘隊教令では、「戦闘隊ハ敵ノ上陸又ハ空挺部隊ノ降下ニ際シ軍隊ニ協力シ或ハ独力ヲ 以テ郷土職域ヲ護リ又遊撃戦ヲ行ヒテ一般軍隊ノ作戦ヲ容易ナラシム而シテ戦闘隊直接戦闘ヲ行フ場合ハ 攻撃精神ヲ発揮シ従ヒ肉弾ヲ以テスルモ敵撃滅スルノ概ナカルヘカラス」と軍隊的な役割も期待されていました が、兵器もなく、服装も勅令第385号国民義勇戦闘隊員服装及給与令で、徽章と腕章を定めたのみでした。 (204 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争中、公務員や国鉄職員等は徴兵は免れたんでしょうか? 郵便局員だった大叔父は徴兵されてインパールで戦死した。 (俺初質スレ2049 902) 徴兵された時は近くに別の連隊があっても遠くにある県の所在地の連隊に行くんですか? 基本、本籍地がある都道府県の連隊 なので、本籍地近くに住んでれば近くの連隊だし、遠く離れた土地に住んでれば本籍地まで行く (俺初質スレ2049 904)
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/472.html
Template 軍隊資料? 近衛師団(このえしだん)とは、日本陸軍に置かれた師団の一つ。 なお、イギリス陸軍等でも禁闕守護を任務とする師団を「近衛師団」と呼称する。日本以外の近衛師団については近衛兵を参照のこと。 時代により変遷があるが、近衛歩兵第一、第二、第三旅団が基幹となりその他騎兵、砲兵、工兵等各種兵科による部隊が置かれていた。 沿革 最初期 Template 日本陸軍? 江戸幕府を倒し、明治新政府が樹立された当初、明治政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的に薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。 そのため1871年(明治4年)、明治政府は「天皇の警護」を名目に薩摩、長州、土佐の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設した。この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。 この御親兵は、1872年(明治5年)に近衛都督西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組され、「天皇および皇居の守護」という任務が課せられた(この当時の近衛兵については近衛参照)。 1873年(明治6年)に徴兵令が制定され鎮台兵として配備されると、近衛兵は鎮台兵の軍事訓練も担うこととなった。 1891年(明治24年)、鎮台が廃止され、代って師団が編成されることとなり、山縣有朋によって近衛兵は近衛師団へ改称され、陸軍大臣管轄の下、平時は天皇や皇居の警護などに当たり、戦時には戦線に参加することとなった。 師団編成となった近衛師団は、数個近衛歩兵連隊を基幹として、それに騎兵・砲兵・工兵・輜重兵部隊などが統合されていた。その後、近衛師団は第二次世界大戦終結による陸軍の解散まで、天皇及び皇居の警護に当たりながら各地の戦いに参戦していった。 第二次世界大戦 1943年(昭和18年)6月1日に、スマトラ方面で作戦中の近衛師団は近衛第2師団に改称され、東京にあった留守近衛師団を基幹として近衛第1師団が編成される。更に、1944年(昭和19年)7月18日に近衛第3師団が編成される。終戦時の近衛第3師団は千葉県成東にあって連合軍の関東上陸作戦に備えていた。また、近衛第2師団は第7方面軍第25軍隷下でスマトラ島メダンにあった。近衛第3師団と第2師団がそれぞれ作戦地に赴いていたため、本来の近衛兵としての任務は近衛第1師団が担当した。 1945年(昭和20年)8月10日未明にポツダム宣言受諾が決まり、それを天皇自ら国民にラジオ放送を通じて知らせることが決まった。8月15日未明に陸軍省軍務局軍務課課員らが森近衛師団長へ決起を促すが、あくまで昭和天皇の思し召しに従い終戦を受け入れる決意の固い森赳師団長はこれを拒絶する。拒否された将校らは、森師団長及び第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの反乱を知り、反乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる(宮城事件)。のちにこの事件は半藤一利(初発表時は諸事情により名義上大宅壮一の名で出版)により『日本のいちばん長い日』として小説化され、映画化も行われた。 ポツダム宣言受諾後、近衛連隊でも軍旗奉焼、復員が行われた。一部の将兵は禁衛府皇宮衛士総隊に移ったが、禁衛府解体に伴い完全に消滅した。 また、近衛師団司令部庁舎は現在、東京国立近代美術館工芸館となっている。 300px|right|thumb|旧近衛師団司令部(現[[東京国立近代美術館工芸館)]] 師団長 近衛師団長 代数補職日師団長名備考 1明治24年12月14日小松宮彰仁親王 2明治28年1月28日北白川宮能久親王台湾征討を指揮する。戦病死。 3明治28年11月9日野津道貫 4明治29年5月10日佐久間左馬太 5明治29年10月14日黒木為楨 6明治30年10月27日奥保鞏 7明治31年1月14日長谷川好道 8明治37年9月8日浅田信興 9明治39年7月6日大島久直 10明治41年12月21日上田有沢 11明治44年9月6日閑院宮載仁親王 12大正元年11月27日山根武亮 13大正4年2月15日秋山好古 14大正5年8月18日仁田原重行 15大正6年8月6日由比光衛 16大正7年8月9日久邇宮邦彦王 17大正8年11月25日藤井幸槌 18大正11年2月8日中島正武 19大正12年8月6日森岡守成 20大正14年5月1日田中国重 21大正15年7月28日津野一輔 22昭和3年2月28日長谷川直敏 23昭和4年8月1日林銑十郎 24昭和5年12月22日岡本連一郎 25昭和7年2月29日鎌田弥彦 26昭和8年8月1日朝香宮鳩彦王 27昭和10年12月2日橋本虎之助二・二六事件では宮城警備を指揮する。 28昭和11年3月23日香月清司 29昭和12年3月1日西尾寿造 30昭和12年8月26日飯田貞固 31昭和14年9月12日飯田祥二郎 32昭和16年6月28日西村琢磨シンガポールの戦いを指揮する。 33昭和17年4月20日武藤章昭和18年6月1日近衛第2師団に改称 近衛第1師団長 代数補職日師団長名備考 1昭和18年6月10日豊島房太郎留守近衛師団長から転じる。 2昭和18年10月29日赤柴八重蔵 3昭和20年4月7日森赳玉音放送盤を奪う反乱計画に反対して殺害される。 4昭和20年8月15日後藤光蔵師団の復員を指揮した後に初代禁衛府長官に転じる。 近衛第2師団長 代数補職日師団長名備考 1昭和18年6月1日武藤章 2昭和19年10月5日久野村桃代 近衛第3師団長 代数補職日師団長名備考 1昭和19年7月18日林芳太郎 2昭和20年5月23日山崎清次 近衛師団に属した軍人 滋野清彦(長州藩):日清戦争時、現役復帰して留守師団長を務めた。 梅沢道治(仙台藩):日露戦争では、近衛歩兵第4連隊長から近衛後備混成旅団長となり、沙河会戦で梅沢旅団の名を挙げる。 森林太郎(津和野藩):明治31年(1898年)10月-近衛師団軍医部長(陸軍一等軍医正)となる。 土屋光春(陸軍兵学校卒):明治時代に近衛歩兵第1旅団長。 鮫島重雄:明治16年2月に近衛師団参謀。明治22年に近衛師団参謀。明治27年6月18日近衛師団参謀長(工兵大佐)。日清戦争中の師団参謀長。後に陸軍大将正三位勲一等功二級男爵。 白川義則(陸士旧1期):明治19年近衛工兵中隊(工兵科下士官)。明治35年2月に近衛師団参謀。後に陸軍大将勲一等功二級男爵。 大谷喜久蔵(陸士旧2期):明治30年10月11日-明治31年近衛師団参謀長(大佐)。 橘周太(陸士旧9期):明治21年(1888年)12月に近衛歩兵第4連隊附となる。明治28年(1895年)12月に近衛歩兵第4連隊中隊長となる。後に陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級を受け、軍神と称えられる。 久松定謨(仏サンシール陸軍士官学校卒(旧11期相当)):明治24年12月に近衛歩兵第2連隊附(歩兵少尉)。明治28年1月近衛師団副官(中尉)。日清戦争に出征。明治30年12月近衛歩兵第2連隊中隊長(歩兵大尉)。大正3年5月11日に近衛歩兵第1連隊長。後に陸軍中将正二位勲一等伯爵。旧 伊予松山藩主。 三井清一郎(陸士6期):明治30年代に近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる(陸軍歩兵大尉)。後に陸軍主計中将従三位勲一等功四級、貴族院議員。 真崎甚三郎(陸士9期):近衛歩兵第1連隊長。 篠塚義男(陸士17期):1914年(大正3年)9月歩兵第1連隊中隊長(大尉)。 東條英機(陸士17期):近衛歩兵第3連隊中隊長(大尉)経験あり。後に陸軍大将従二位勲一等功二級。 前田利為(陸士17期):大正12年(1923年)年8月7日-近衛歩兵第4連隊大隊長、後年に近衛歩兵第2連隊長となる。加賀前田侯爵家当主。 栗林忠道(陸士26期):昭和18年(1943年)6月-留守近衛第2師団長(陸軍中将)。 李王垠(陸士29期):昭和14~15年(1939~1940年)に近衛歩兵第2旅団長。李王家当主。 小畑信良(陸士30期):1940年(昭和15年)5月~1941年(昭和16年)に近衛輜重兵連隊長として、1942年(昭和17年)2月~1943年(昭和18年)に近衛師団参謀長として勤務。後に少将。 西久保豊成(陸士33期):大正10年10月26日-近衛歩兵第3連隊附(陸軍歩兵少尉)。 北白川宮永久王(陸士43期):昭和6年10月-近衛野砲兵連隊附(陸軍砲兵少尉)、昭和12年3月-近衛野砲兵連隊中隊長(陸軍砲兵大尉)。皇族。 小泉親彦(東京帝大医学部卒):昭和7年(1932年)-近衛師団軍医部長(陸軍軍医監(少将相当官))。後に軍医中将となり厚生大臣となった。 黒田長久(東京帝大理学部動物学科卒):第2次世界大戦中、近衛師団に属した。 最終所属部隊 近衛歩兵第3連隊(東京) 近衛歩兵第4連隊(甲府) 近衛歩兵第5連隊(佐倉) 鉄道連隊 特徴 近衛師団は他の師団と異なり、特定の地域からの徴兵によるのではなく、全国からの徴兵から選抜された兵によって充足されていた。 軍服にも特徴があり、正装が他の部隊と異なっているほか、軍帽の帽章が五芒星の周囲を桜葉が囲む意匠となっていた。 東宮(皇太子)は近衛歩兵第1連隊付となるのが通例で、嘉仁親王(後の大正天皇)・裕仁親王(後の昭和天皇)も近衛歩兵第1連隊付となった。 近衛師団の活躍 日露戦争中の明治37年(1904年)6月15日には、輸送されていた後備近衛歩兵第1連隊が玄界灘で太平洋艦隊の装甲巡洋艦3 隻の攻撃を受け、軍旗を奉焼し連隊長以下千余名が戦死する事件があった(常陸丸事件)。 太平洋戦争中は南方戦線で活躍し、昭和16年(1941年)12月8日から昭和17年(1942年)1月31日のマレー作戦には第25軍に属し、近衛歩兵第3連隊、同第4連隊、同第5連隊及び近衛捜索連隊等が加わった。また、同年のシンガポールの戦いでも活躍した。 関連項目 近衛兵 禁衛府 大日本帝国陸軍師団一覧 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月11日 (土) 04 16。
https://w.atwiki.jp/84gzatu/pages/82.html
罠カードフォーマット 風林火山 通常罠 風・水・地・炎属性モンスターが全てフィールド上に表側表示で存在する時に発動する事ができる。 次の効果から1つを選択して適用する。 ●相手フィールド上モンスターを全て破壊する。 ●相手フィールド上の魔法、罠カードを全て破壊する。 ●相手の手札を2枚ランダムに捨てる。 ●カードを2枚ドローする。 光霊術-「暁」 通常罠 自分フィールド上に存在する光属性モンスター1体を生け贄に捧げる。 相手フィールド上に存在する表側表示のカード1枚を選択し、ゲームから除外する。(オリカ) 合身 通常罠 融合カードに定められたモンスターを融合する。(オリカ) リビングデッドの呼び声 永続罠 自分の墓地からモンスター1体を選択し、攻撃表示で特殊召喚する。 このカードがフィールド上に存在しなくなった時、そのモンスターを破壊する。 そのモンスターが破壊された時このカードを破壊する。 働き蜂の報酬 永続罠 自分フィールド上のモンスターが相手プレイヤーに戦闘ダメージを与える度に、自分はカードを1枚ドローする。(オリカ) 便乗 永続罠 相手がドローフェイズ以外でカードをドローした時に発動する事ができる。 その後相手がドローフェイズ以外でカードをドローする度に、カードを2枚ドローする。 メタル・リフレクト・スライム 永続罠 このカードは発動後モンスターカード(水族・水・星10・攻0/守3000)となり、 自分のモンスターカードゾーンに守備表示で特殊召喚する。 このカードは攻撃をする事ができない。(このカードは罠カードとしても扱う) 炸裂装甲 通常罠 攻撃モンスター1体を破壊する。 同姓同名同盟 通常罠 自分フィールド上に表側表示で存在するレベル2以下の通常モンスター1体を選択して発動する。 自分のデッキから選択したカードと同名のカードを可能な限り自分フィールド上に特殊召喚する。 重力解除 通常罠 自分と相手フィールド上に表側表示で存在する全てのモンスターの表示形式を変更する。 玉砕指令 通常罠 自分フィールド上に存在するレベル2以下の通常モンスター(トークンを除く)1体を選択して発動する。 発動後、選択した通常モンスターを生け贄に捧げ、相手フィールド上の魔法・罠カードを2枚まで破壊する事ができる。 火霊術-「紅」 通常罠 自分フィールド上に存在する火属性モンスター1体を生け贄に捧げる。 生け贄に捧げたモンスターの元々の攻撃力分のダメージを相手に与える。 マジック・ジャマー カウンター罠 手札を1枚捨てる、魔法カードの発動と効果を無効にし破壊する。 聖なるバリア-ミラーフォース- 通常罠 相手モンスターの攻撃宣言時に発動、相手フィールド上の攻撃表示のモンスターを全て破壊する。 マインドクラッシュ 通常罠 カード名を1つ宣言する。 相手の手札を確認し宣言したカードを持っていた場合、そのカードを全て墓地に捨てる。 持っていなかった場合、自分はランダムに手札を1枚捨てる 。 徴兵令 通常罠 相手のデッキの一番上のカードを1枚めくる。 めくったカードが通常召喚可能なモンスターだった場合、自分フィールド上に特殊召喚する。 それ以外のカードだった場合、そのカードを相手の手札に加える。 天罰 カウンター罠 手札を1枚捨てる。効果モンスターの発動と効果を無効にし、そのモンスターを破壊する。 マクロコスモス 永続罠 自分の手札またはデッキから「原始太陽ヘリオス」1体を特殊召喚する事ができる。 また、このカードがフィールド上に存在する限り、墓地へ送られるカードは墓地へは行かずゲームから除外される。 強欲な瓶 通常罠 自分のデッキからカードを1枚ドローする。 和睦の使者 通常罠 発動ターンだけ相手モンスターからの全て戦闘ダメージを0にする。 D.D.ダイナマイト 通常罠 相手の除外されたカードの数×300ポイントダメージを相手に与える。 名前 罠 名前 罠 名前 罠 名前 罠 名前 罠 名前 罠 名前 罠 融合モンスターフォーマット 竜魔人 キングドラグーン 闇属性 ドラゴン族 レベル7 ATK2400 DEF1100 「ロード・オブ・ドラゴン-ドラゴンの支配者-」+「神竜 ラグナロク」 このカードがフィールド上に表側表示で存在する限り、 相手はドラゴン族モンスターを魔法・罠・モンスターの効果の対象にする事はできない。 1ターンに1度だけ、手札からドラゴン族モンスター1体を自分フィールド上に特殊召喚する事ができる。 闇魔界の竜剣士 ダークソード 闇属性 戦士族 レベル7 ATK2400 DEF1500 「闇魔界の戦士 ダークソード」+「騎竜」 このカードは融合召喚でしか特殊召喚できず、このカードは1ターンに2回まで攻撃宣言を行う事ができる。(オリカ) 青眼の究極竜(ブルーアイズ・アルティメット・ドラゴン) 光属性 ドラゴン族 レベル12 ATK4500 DEF3800 「青眼の白龍」+「青眼の白龍」+「青眼の白龍」 真紅眼の守護竜(レッドアイズガーディアンドラゴン) 闇属性 ドラゴン族 レベル11 ATK3800 DEF4500 「真紅眼の黒竜」+「真紅眼の黒竜」+「真紅眼の黒竜」(オリカ) 十二眼の暴攻竜(ツウェルブアイズ・バスタードラゴン) 地属性 ドラゴン族 レベル12 ATK6500 DEF6000 「青眼の究極竜」+「真紅眼の守護竜」 このカードは融合召喚でしか特殊召喚できず、このカードの融合召喚に成功した場合、カードを3枚ドローする。(オリカ) 創始界竜総督(ドラゴンアドミラル・オブ・ジェネシス) 光属性 ドラゴン族 レベル12 ATK8000 DEF8000 「カオス・ソルジャー」+「十二眼の暴攻竜」 「青眼の究極竜」+「黒炎防護戦士」 「真紅眼の守護竜」+「究極竜騎士」 このカードは融合召喚でしか召喚できず、上記の3組の内の1つを融合しなければならない。 またこのカードのコントローラーのターン中、このカード以外の全てのカードの攻撃力・守備力は0となり、効果は無効となる。 (このカードは自分のスタンバイフェイズに融合デッキに戻る。)(オリカ) アルティメット・インセクト LV9 風属性 昆虫族 レベル9 ATK3400 DEF2100 「アルティメット・インセクト LV7」+「表側表示で自分フィールドに存在している魔法カード」 アルティメット・インセクト LV7が戦闘でモンスターを破壊した時、上記の融合素材をゲームから除外する事でのみ特殊召喚できる。 (融合の魔法カードは必要とせず、アルティメット・インセクトLV7が召喚・反転召喚・特殊召喚されたターンや他の方法では召喚できない。) またこのカードは魔法カードの効果を受けず、相手フィールド上の全てのモンスターの攻撃力は半分として計算される。(オリカ) 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 通常モンスターフォーマット 戦士ダイ・グレファー 地属性 戦士族 レベル4 ATK1700 DEF1600 ドラゴン族を操る才能を秘めた戦士。過去は謎に包まれている。 闇魔界の戦士 ダーク・ソード 闇属性 戦士族 レベル4 ATK1800 DEF1500 ドラゴンを操ると言われている闇魔界の戦士。邪悪なパワーで斬りかかる攻撃はすさまじい。 コスモクイーン 闇属性 魔法使い族 レベル8 ATK2900 DEF2450 宇宙に存在する、全ての星を統治していると言う女王。 甲虫装甲騎士 地属性 昆虫族 レベル4 ATK1900 DEF1500 昆虫騎士の中でも、エリート中のエリートのみが所属できるという「無死虫団」の精鋭騎士。 彼らの高い戦闘能力は無視できない。 ギロチン・クワガタ 風属性 昆虫族 レベル4 ATK1700 DEF1000 ハイエルフの森に生息するクワガタ。 人の親指ほどの大きさしかないが、 鋼鉄をも切り裂く強力な顎をもつ。 異次元トレーナー 闇属性 悪魔族 レベル1 ATK100 DEF2000 異次元に吸い込まれてしまった哀れなゴブリン、しかし、今新たな向かって日々努力している。 大木炭18 炎属性 炎族 レベル3 ATK100 DEF2100 完全に燃え尽きてしまった巨木の化身。 この炭で焼く肉は絶品と言われ、重宝されている。 サイバティック・ワイバーン 風属性 機械族 レベル5 ATK2500 DEF1600 メカで強化された翼竜。ドラゴンにやられ、死にかけたところを飼い主にサイボーグ化された。 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 名前 属性 族 レベル ATK00 DEF00 効果モンスターフォーマット 共鳴虫 地属性 昆虫族 レベル3 ATK1200 DEF1300 このカードが戦闘によって破壊され墓地へ送られた時、 デッキから攻撃力1500以下の昆虫族モンスター1体をフィールド上に特殊召喚することができる。 融合モンスターフォーマット 共鳴虫 地属性 昆虫族 レベル3 ATK1200 DEF1300 このカードが戦闘によって破壊され墓地へ送られた時、 デッキから攻撃力1500以下の昆虫族モンスター1体をフィールド上に特殊召喚することができる。 通常モンスターフォーマット 共鳴虫 地属性 昆虫族 レベル3 ATK1200 DEF1300 このカードが戦闘によって破壊され墓地へ送られた時、 デッキから攻撃力1500以下の昆虫族モンスター1体をフィールド上に特殊召喚することができる。 儀式モンスターフォーマット 精霊術師 ドリアード 光属性 魔法使い族 レベル3 ATK1200 DEF1400 「ドリアードの祈り」により降臨、このカードの属性は「風」「水」「炎」「地」としても扱う。 魔法カードフォーマット 貪欲な壺 通常魔法 自分の墓地からモンスターカードを5枚選択し、デッキに加えてシャッフルする。 その後、自分のデッキからカードを2枚ドローする。 罠カードフォーマット おジャマトリオ 通常罠 相手フィールド上に「おジャマトークン」(攻撃力0・守備力1000・地属性・獣族・星2)を3体守備表示で特殊召喚する。 このトークンは生贄にできず、破壊された時、トークンのコントローラーは1体につき300ポイントダメージを受ける。
https://w.atwiki.jp/ocg-o-card/pages/12097.html
《若すぎる徴兵》 通常魔法 自分のデッキからレベル2以下のモンスターを1体選択し、手札に加える。 part21-103 作者(2007/10/08 ID k0eFwc9h0)の他の投稿 part21-110 / part21-129 / part21-141 / part21-145 / part21-147 コメント 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/mochewiki/pages/1165.html
《融合徴兵》 通常魔法 ①:自分のエクストラデッキの融合モンスターカード1枚を選択して発動できる。 自分の墓地・デッキから、選択した融合モンスターカードによって決められた 融合素材モンスター1体を手札に加える。 この効果で手札に加えたモンスターは召喚・特殊召喚できない。 使用キャラクター 紫雲院素良 タグ一覧 融合 通常魔法 魔法カード
https://w.atwiki.jp/kaiben100/pages/7.html
◆大韓民国兵務庁からのお知らせ 1988年生まれの大韓民国国籍の男性のうち、24才以前に韓国を出国後、継続して国外に滞在している方は、2013年1月15日までに必ず兵務庁からの国外旅行許可を得なければなりません。 http //jpn-osaka.mofa.go.kr/webmodule/htsboard/template/read/legengreadboard.jsp?typeID=16 boardid=10583 seqno=681393 c= t= pagenum=1 tableName=TYPE_ENGLEGATIO pc= dc= wc= lu= vu= iu= du= 万が一、許可なしで国外に滞在したり、許可期間内に帰国しない場合は、兵役法第94条によって告発され、旅券発給制限等の行政制裁を受けることになりますので、必ず国外旅行許可を得て不利益を被らないように前もってご準備下さい。 ※ 許可義務違反者に対する措置(兵役法第94条、76条) 1) 3年以下の懲役 2) 37才まで兵役義務付加対象者として管理 3) 旅券発給制限、入国時出国禁止 4) 40才まで就業・官許業の許可制限 ◆兵役法第83条(戦時特例) 10.第72条第1項の規定による現役・予備役・補充役の兵と第2国民役の兵役義務期間の45歳までの延長http //www.law.go.kr/lsLinkProc.do? lsNm=%EB%B3%EC%AD%EB%B2%95 joLnkStr= chrClsCd= efYd=20070222 mode=21#0000 ◆永住権者等の入隊希望願い制度 http //jpn-osaka.mofa.go.kr/webmodule/htsboard/template/read/legengreadboard.jsp?typeID=16 boardid=10583 seqno=696927 c= t= pagenum=1 tableName=TYPE_ENGLEGATIO pc= dc= wc= lu= vu= iu= du= 兵務庁では、永住権を取得したり、国外移住を理由として国外旅行許可を受けた者が兵役義務の履行を希望する場合には、徴兵検査日付、場所、入隊日を本人が 直接選択し、ご希望の時期に兵役履行ができるよう『永住者等の入隊希望願い制度』を実施しております。兵役義務の履行を希望する在日同胞の皆さんは、下記 を参考にしください。 ◆国外旅行(期間延長)許可申請案内 http //jpn-osaka.mofa.go.kr/webmodule/htsboard/template/read/legengreadboard.jsp?typeID=16 boardid=10583 seqno=681394 c= t= pagenum=1 tableName=TYPE_ENGLEGATIO pc= dc= wc= lu= vu= iu= du= しかし、25才になる年の2013年1月1日以後も続けて国外に滞在する場合は、2012年中に前もって国外滞在の目的に合わせて国外旅行(期間延長)許可を得なければなりません。 万が一、国外旅行許可を得ないまま国外に滞在した場合は、兵役法第94条により国外不法滞在者として告発されますので、ご注意下さい。 ◆第94条(国外旅行許可義務違反) 第70条第1項又は第3項の規定による許可を受けずに出国した人々は、国外に滞在している人または正当な事由なく許可された期間内に帰国しない者 (第83条第2項第9号の規定による帰国命令に違反して帰国しない者を含む)は、3年以下の懲役に処する。 改正2002.12.5 ◆「国外不法滞在者」を見つけた場合は、日韓友好のためにこちらにご連絡を! 発信元:駐大阪大韓民国総領事館 電話番号 (06) 6213-1401-1405 ファックス番号 (06) 6213-0151 E-mail osaka@mofa.go.kr 東京の領事館については民団韓国中央会館内にあるため、「国外不法滞在者」が多く電話しても無理かもしれません。 ◆兵役法施行令 第156条(兵務行政事務の委任) ③兵務庁長は、法第78条第3項に基づいて、次の各号の権利を在外公館の長に委任する。 5.第128条第6項に基づく在外国民2世の確認 6.戦時・事変または動員令が宣布された場合は、管轄区域内に居住する兵役義務者の帰国措置http //www.law.go.kr/lsInfoP.do?lsiSeq=147063 chrClsCd=010202 urlMode=lsInfoP efYd=20140101#0000 ◆犯罪人引渡しに関する日本国と大韓民国との間の条約 第二条 引渡犯罪 1 この条約の適用上、両締約国の法令における犯罪であって、死刑又は無期若しくは長期一年以上の拘禁刑に処することとされているものを引渡犯罪とする。https //www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/jpkorextradition.htm ◆在日同胞のための兵役義務者の国外旅行案内http //jpn-tokyo.mofa.go.kr/webmodule/htsboard/template/read/legengreadboard.jsp?typeID=16 boardid=7848 seqno=708412 c= t= pagenum=1 tableName=TYPE_ENGLEGATIO pc= dc= wc= lu= vu= iu= du= 1. http //i.imgur.com/n45qxrx.jpg 表紙 2. http //i.imgur.com/MkdYagz.jpg 兵役義務移行過程図 3. http //i.imgur.com/dQRph9l.jpg 目次 4. http //i.imgur.com/JH4iNHL.jpg 01.在外国民と兵役義務 5. http //i.imgur.com/udDg6wD.jpg 02.国外移住理由国外旅行期間延長許可 6. http //i.imgur.com/wSqe5oJ.jpg 同Q&A 7. http //i.imgur.com/tMOkMd1.jpg 03.国外旅行許可の取消 8. http //i.imgur.com/94iAckO.jpg 同Q&A 9. http //i.imgur.com/MkKffYJ.jpg 04.複数国籍者の兵役義務 10. http //i.imgur.com/EDfDZ8X.jpg 同Q&A 11. http //i.imgur.com/Yvqc6gX.jpg 05.在外国民2世と兵役義務 12. http //i.imgur.com/BIRT8Rt.jpg 同Q&A 13. http //i.imgur.com/Xydwr03.jpg 06.永住権者等の入営希望願制度 14. http //i.imgur.com/kDxIwGx.jpg 続き 15. http //i.imgur.com/tLOPmt9.jpg 続き 16. http //i.imgur.com/Mys765m.jpg 裏表紙
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/584.html
大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日))は、幕末期の長州藩(現・山口県)の医師、西洋学者、兵学者。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)。諱は永敏。位階は贈従三位、後に従二位。家紋は丸に桔梗。 生涯 村医 周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の門下となり、1844年6月まで学ぶ。弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎で1年間遊学し、その後適塾の塾頭まで進んだ。 嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家の娘琴子と結婚した。だが口数が少なく無愛想で、村人が診てもらうと身体のしくみ等を何やら小難しい言葉でくどくどと説明したので「大坂で何の勉強したのやら」とあまり評判のよい医者ではなかったという。 講武所教授 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代となり、大村は伊予宇和島藩の要請で出仕する。このとき藩主伊達宗城は参勤交代で不在、家老も京都へ出張中であった。宇和島藩の役人たちは、2人扶年10両という低い禄高に決めた。このあと帰ってきた家老は役人たちを叱責し、100石取の上士格御雇へ改めた。役人たちにしてみれば、高待遇との約束で来ていながら、役人に事情も説明せず汚い身なりで現れた益次郎に対して、親切心をもってした待遇であったらしい。 大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行し、文政年間に出島へ来航したドイツ人医師シーボルトの弟子であった敬作から、シーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され蘭学を教える。イネは後年大村が襲撃された後、蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、最期を看取っている。宇和島では提灯屋の嘉蔵(かぞう)(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではない。大村はこの謙虚で身分の低いほとんど無学の職人・嘉蔵の才能に驚かされたという。この頃村田蔵六と改名。 安政3年(1856年)4月、江戸に出て「鳩居堂」を開塾して蘭学・兵学・医学を教える。宇和島藩御雇の身分のまま、同時に幕府の蕃書調所教授方手伝となり、月米20人扶持・年給20両を支給される。安政4年(1857年)、幕府の講武所教授となった。万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵。文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。 長州征討 文久3年(1863年)、萩へ帰国。西洋学兵学教授となり、博習堂での講義を行う。長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられた。このあだ名は周布政之助が付けたとも高杉晋作が付けたとも言われている。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し保守派が政権を握ったが、慶応元年(1865年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。 高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、大村にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名。明倫館兵学寮総官・教授として歩・騎・砲兵士官教育を行った。大村は山口では普門寺を宿舎としていたため、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。大村は西洋兵術書を翻訳したばかりでなく、それを現状に即し実戦に役立つようわかりやすく書き改めた。さらにその教え方も無駄がなく的確であったという。 慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、6月に戦闘が開始される。大村は石州口方面の実戦指揮を担当する。その才能は遺憾なく発揮され、優れた戦術により幕府側をことごとく撃破し、中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃。浜田城を陥落させた。長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は大村を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦した。 戊辰戦争 明治元年(1868年)2月、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。4月には大坂から江戸に進駐し、江戸府判事を兼任する。彰義隊の反乱に対して討伐軍を指揮し、わずか1日でこれを鎮圧する。この上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で大村が発した「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せたこと等が、海江田による大村暗殺関与説の根拠となっている。 同年5月、鎮台府の民政会計を任される。北関東で幕府残党勢力を鎮圧したのち、新政府軍の総司令官として東北地方、新潟で北部政府(奥羽越列藩同盟)と事実上の“南北戦争”である「東北戦争」を戦った。北部政府の盟主、仙台藩らの降伏後、明治2年(1869年)、函館五稜郭で幕府残党勢力の榎本軍も降伏し、戊辰戦争は終結した。 兵制論争 大村は戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び新政府の幹部となった。大村は軍制改革の中心を担い、明治2年(1869年)6月には政府の兵制会議で大久保らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開している。兵制会議は6月21日から25日にかけて開催された。そこで、藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図る大村らと、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保らとの間で激論が闘わされた。 この兵制論争中、6月21日段階での争点は、京都に駐留していた鹿児島・山口・高知藩兵の取り扱いをめぐってのものであった。大村を支持する木戸も論争に加わり彼を援護したが、23日、大久保の主張に沿った形で、京都駐留の三藩兵が「御召」 として東下することが決定され、この問題については大久保派の勝利に終わった。また23日の会議では、先の陸軍編制法の立案者であり、大久保の右腕ともいえる吉井友実も議論に加わり、今後の兵卒素材についての議論も始まった。ここでも大久保・吉井らの主張する「藩兵論」と大村や木戸が主張する「農兵論(一般徴兵論)」が激しく衝突し、議論は翌日も続いた。しかし会議の結果、兵制問題は後日改めて議論することとされ、大村の建軍プランの事実上の凍結が決定され、この日、25日まで続く兵制論争がほぼ決着した。 大村の建軍構想は、この会議の結果、ことごとく退けられることとなった。さらに25日には、大久保が大村の更迭を主張し始めている。憤懣やるかたない大村はほどなく辞表を提出したが、当時の政府内には、軍事に関して大村に代わるべき人物はなかった。そのため木戸も、二官八省への官制改革が行われる前日の7月7日に大村と面会し、彼を慰留するとともに改めて支持を約束し、軍務官を廃して新たに設置される兵部省に出仕することを求めた。その結果として、翌日大村は兵部大輔に就任することとなった。 暗殺 当時の兵部卿(兵部省の最高官)は仁和寺宮嘉彰親王であり、名目上だけの存在であった。大村は事実上、日本陸軍の建設を指導することになる。大村は戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任した。山田は山口藩諸隊からを中心に約百名を選出し、9月5日からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始した。 また大村は、明治2年(1869年)6月の段階で大阪に軍務官の大阪出張所を設置していたが、9月には同じく大阪に兵部省の兵学寮を設けた。このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設することも決定された。このように大村が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、大村が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある。 このように着々と既成事実を構築していた明治2年(1869年)9月4日、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負った。兇徒が所持していた「斬奸状」は、大村襲撃の理由が彼の急進開化主義に対する強い反感にあったことを表している。辛くも一命をとりとめた大村は山口藩邸に移送され、数日間の治療を受けた後、大坂の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、11月5日容態が悪化し死去した。享年46。墓所は山口市鋳銭司にあり、靖国神社にも合祀されている。明治21年(1888年)孫(養子の嫡男)の大村寛人は益次郎の功により子爵を授爵、華族に列せられた。 大村の軍制構想は山田顕義、船越衛、曽我祐準、原田一道らによってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。大村の「農兵論」は、山田らによって、明治4年(1871年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって実行に移されるも、同規則も同年内には事実上廃棄されている。その後、兵部省・陸軍省内の主導権が山田から山縣有朋に移った後、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定されることとなる。 人物 維新戦争後に西からの反乱(西南戦争)を予言していたとされる。西郷隆盛を全く評価していなかった1人であり(大隈重信も同様)、西郷を建武の新政で反旗を翻した足利尊氏に見立てていたという。 まだ若かった西園寺公望は大村に師事しており、京都にいた西園寺が大村を訪問しようとしたとき、旧友に会ったために訪問できなくなったところ、そのとき大村は刺客に襲われ、西園寺は巻き込まれずに済んだといわれている。 日本初の軍歌・行進曲とされる、品川弥二郎作詞の「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)の作曲者とも言われている。この曲は、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に就任して京都を発った慶応4年2月頃から一斉に歌われるようになったものといわれ、歌詞を刷った刷り物も頒布されて、東征軍将兵のみならず一般民衆にも広められた。 明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策している。 大村益次郎に関する碑や像など 靖国神社に大村益次郎の銅像がある(日本初の西洋式銅像)。 大阪市西区江戸堀の江戸堀フコク生命ビル前に「大村益次郎先生寓地址」がある。 大阪市中央区上町交差点に「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」がある。 大阪市北区同心町の龍海寺に「大村兵部大輔埋腿骨之地」がある。遺言により師の緒方洪庵の側に片方の足が埋葬されている。 京都府中京区木屋町に大村益次郎遭難の碑がある。 生誕地の鋳銭司村には西南戦争の翌年に顕彰碑が建てられた。 大村益次郎の登場する作品 伝記 丹潔編『大村益次郎』(マツノ書店、1999年) 糸屋寿雄『大村益次郎』(中公新書) 稲葉稔『大村益次郎 軍事の天才といわれた男』(PHP文庫、1998年) 史料 村田峰次郎編『大村益次郎先生事蹟』(マツノ書店、2001年) 内田伸編『大村益次郎文書』(マツノ書店、1977年) 内田伸編『大村益次郎史料』(マツノ書店、2000年) 論文 竹本知行「大村益次郎の建軍構想-『一新之名義』と仏式兵制との関連を中心に-」(『軍事史学』第42巻第1号、2006年) 竹本知行「大村益次郎の遺策の展開-大阪兵学寮の創業-」(『同志社法学』第59巻第2号、2007年) 小説 『花神』(司馬遼太郎)新潮文庫全3巻ほか 『鬼謀の人』(『人斬り以蔵』等に収録、司馬遼太郎)新潮文庫ほか テレビドラマ 『花神』(NHK大河ドラマ)…中村梅之助 『奇兵隊』(日本テレビ年末時代劇スペシャル)…片岡鶴太郎 『翔ぶが如く』(NHK大河ドラマ)…平田満 映画 『長州ファイブ』…原田大二郎 漫画 『風雲児たち』(みなもと太郎) 『陽だまりの樹』(手塚治虫) 『お〜い!竜馬』(武田鉄矢原作、小山ゆう作画) 舞台 『彦馬がゆく』…(三谷幸喜) 関連項目 Template commons? 幕末の人物一覧 中国地方の史跡一覧 外部リンク 大村益次郎 | 近代日本人の肖像 大村益次郎の墓 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月5日 (金) 06 58。
https://w.atwiki.jp/inuninn/pages/26.html
統率依存 貢献10 階級と適正が達していれば、その兵を雇うことが出来る。
https://w.atwiki.jp/nijiseihaitaisen/pages/101.html
正午。聖杯大戦、その全ての参加者たちの懐の中で、端末は甲高い電子音を響かせた。 聖杯、その管理者からの定時報告。その一回目。 聖杯を手に入れんと野望する者も、逆に聖杯を破壊しようと反抗する者も、あるいは未だに立ち位置を決めていない者の元にも。 等しく、その報告は届けられた。 『現在ムーンセル内に各陣営11組、全22の主従を確認。 "聖杯大戦"の開始を確認。 同時に現時刻より各陣営のみに開示される掲示板を生成。各自の端末からアクセス可能』 業務的な、たった三行の文章。 それが聖杯大戦の参加者たちには、戦争への徴兵令のようにも感じられた。 いや。事実、これは彼らへの《聖杯戦争》への徴兵に他ならなかったのだが。 ◆ 「全部で22組、ですか。存外に多いですね。 事前に頭に入っていた説明から考えれば、14……多くても16組だと思っていましたが」 太陽が中天に登る時刻であろうと、それでもなお昏い場所はある。 例えば。冬木郊外の森の中、チンピラたちが根城にする廃墟であるとか。 「俺みたいな亡霊以下が呼び出されるんだ。イレギュラーなんて、最初から起こっていると見るべきだよマスター」 あるいは、昏く思えるのは。 死の気配が、深く纏わりついているからか。 普段其処此処を根城にしていた無頼漢達の姿は、最早この場には存在し得ない。 彼らがこの世に残した痕跡は、廃墟の壁や床の赤黒い染み、そして広間、その中央に敷かれた、"染みと同じ液体で描かれた幾何学模様の陣"、それだけだ。 「ウォーミングアップには丁度いい運動だったよ。おまけに後処理までやってくれるなんてサーヴィスがいい」 「こちらとしても目的はありましたのでね。容量は屑石ですが、賢者の石が手に入ればこの先の動きにも幅が出ます」 此処に居るのは、二人の死人。 人造人間に取り込まれ、賢者の石、人の魂から生まれ、人の怨嗟の声という"情報"の中へと消えていく運命にあった錬金術師。 あるいは一夜の夢、人の噂という"情報"から生まれた殺人鬼。 ゾルフ・J・キンブリーと、そのサーヴァント、七夜志貴であった。 「しかし掲示板とは。この情報端末とやらもですが、文明が進歩すると便利なモノもあったものですね。 これだけの通信設備があれば、聖杯戦争の関係のない、現実の戦争でも大層役に立つでしょう」 「実際、元は戦争で生み出された技術の転用らしいよ? 俺が習ったわけじゃないがね」 割れたガラス、欠けた石壁から野外の空気が入ってくる。 しかしそれでも血腥い臭いが色濃く残る室内で、殺人鬼の主従は事もなげに世間話に興じる。 「成程。この世界の法則にも、ある程度の興味はありますが……やはりそのような横道に逸れている時間はなさそうですね」 「当然。さてどうするマスター? 好きにやれとは言われたが」 この"通達"を境に、間違いなく戦争は激化する。 彼らには、その確信があるのだ。ならば、それに乗り遅れるわけにはいかない。 「ふむ、そうですね……まずは、この聖杯戦争の参加者と会ってみたい。この戦争に放り込まれた彼らが、何を考え、目的とするのか知ってみたい。貴方には、いくらか我慢を強いるかもしれませんが」 「それくらいなら構わないさ。雇い主の趣味に合わせられないくらい、無理解な従者じゃないつもりでね。それに――最後はやるんだろ?」 風を切る音と共に、七夜が手にした短刀を弄ぶように空に振る。 刃に滴っていた血液が飛び散り、幾らかキンブリーが顔を顰めさせた。 「ええ。この聖杯戦争に参加した者達がどのような信念を持ち、そしてそれを貫けるのか。そして聖杯は最後に何を選ぶのか。同じように、貴方にも貴方らしく動いてもらわなければ。 ……それと、そういう真似は控えてもらえますか? 一応このスーツは気に入っていましてね。返り血がつくと気分がよくないのですよ」 「おっと、そりゃ失礼マスター。 ……しかし、マスター……マスターね。まさか二度もマスターができるとは思わなかった」 「おや、以前にもサーヴァントをやったことが?」 「そういうわけじゃないさ、夢みたいなもんだ。 ……しかしおかしな身の上だな。まさか俺が英霊とは。こんな殺人鬼、亡霊もいいところだろうに」 なにかを思い出すような眼で、七夜は自嘲の笑みを浮かべる。 キンブリーはその様子を見、帽子を目深に被り直してから今まで座っていた椅子から立ち上がった。 「なに、亡霊と言えば私も似たようなものです」 「だからこそ、今度は趣味に走るとしましょう。ねえ?」 ◆ *** ――夢の始まりは、その背中だった。 *** 掌の中で電子音を鳴らす端末を、二、三の操作で黙らせて、男は溜息を吐いた。 「ファック。失敗した」 男は魔術師だった。魔術師達の学舎、時計塔の講師。 その"特殊な来歴"から、彼は、偶然耳に入った月の聖杯戦争の噂を調査しようと、月の石を知り合いの伝手で取り寄せ、自らの手元置いた。 それがいけなかったのだ。 届いてすぐに、他の者の手で管理させるべきだった。 願いを持つ者を月へと呼び寄せる。その効力を正しく理解していなかった。 いや――あるいは、理解していて、心の底では望んでしまっていたのか。 あの王と、再び出会う事を。 「……くだらないな」 結論から言えば、その目論見を内心で男が持っていたとしても、これは失敗したと言う他ない。 召喚された英霊は弓兵《アーチャー》。何の因縁か、かの王を打ち倒した英雄王と同じクラス。 結局、男はあのライダーに出会うことは叶わなかった。 夢想の代償は、再びの聖杯戦争。今度も生きて帰れる保証はない。 だが、生きて帰らなければならない。約束を守るために。 「随分と不満気な顔だな、マスター。 ――まあ、こんな英霊くずれを召喚したとなれば仕方がないか」 傍らに待機していた英霊が、皮肉気に語りかけてくる。 ――召喚されて早々に、「出番のない事を望んでいたのだが」などと言って来たサーヴァントだ。皮肉は性分らしい。 「そういうつもりはない。君とはいい関係でいたいからな。 ……それよりもだ。本当に聖杯は必要ないのか?」 「理由はマスターが言ったと思うが? 黒の陣営の聖杯が汚染されている可能性があるならば、それを使おうとするサーヴァントなどそうはいまい。 聖杯の魔力のみを抽出し、直接願望を実現できるレベルのキャスターならばともかくだが、私はそういったサーヴァントではないのでね。 一応魔術は嗜んでいるが、余技程度に過ぎん。得意分野以外では、マスターと大して差はあるまい」 「……それは皮肉か? いや、話を逸らすな。何故私の話をそうもすんなりと信じるんだ? 虚偽の可能性について考えないのは何故だ?」 「嘘を言ったとして、マスターが得をするわけではあるまい。 敵陣営の聖杯が汚染されている、という虚報ならば意味があるが、しかし味方陣営の聖杯が汚染されているなどと嘘を吐いても味方の士気を下げるだけだ」 アーチャーの理屈は、筋は通っている。 だが、同時に妙な違和感を男は覚えた。 言うなれば、"答えを予め知っている問題"に対して、もっともらしい答えを返しているような。 (……考えすぎか? どちらにせよ、聖杯が汚染されていること自体は納得しているのだから深く突っ込むまでもないか……?) その不審さに、突っ込むべきか、あるいはそっとしておくべきか。 考え込む男の耳に、 「しかしイスカンダル、か。 かの征服王の元マスターがマスターとは、光栄と言っていいものか」 不意打ちじみて、アーチャーの言葉が飛び込んだ。 「……なんだと?」 「失敬。おそらくは休息時に、パスからマスターの記憶が流れ込んだらしい。 ほんの一部、それこそかの征服王にまつわる記憶だけだが」 「……あまり品のいい所業ではないな、アーチャー」 「見たくて見たわけではないのだがね」 「だとしてもだ。わざわざ人の記憶に口を出されるのは、正直いい気分ではない」 「それは失礼した」 悪びれる様子もなく、肩を竦めるアーチャー。 その様子が気に障ったからか。 ――あるいは、記憶の裡に触れられたからか。 つい、踏み込んでしまった。 「あの二騎の裁定者《ルーラー》。因縁のある英霊か、アーチャー」 二騎の裁定者《ルーラー》の英霊。彼女たち自体は、男も見たことがある。 選定の剣を抜いた、ブリテンの騎士王。 男が第四次聖杯戦争で戦うこともあった、セイバーのサーヴァント。 その側面が彼女たちだ。 ――あれを見た時、アーチャーは明らかに動揺した。 この赤い弓兵に、かの英霊とどのような因縁があるというのか。 「……いや、そんなことはないさ」 しかしアーチャーは、その疑問を一言で否定した。 嘘だ、と男は直感する。理由のない、しかし確信。 「……そうか」 けれど男は、それに触れるのを避けた。 その傷を抉れば、きっと自らにも返ってくる。そう理解できたから。 *** かつて喚んだ英霊に憧れた、それが始まり。 ウェイバー・ベルベット。それがかつての男の名で、 ■■■■■■。それがかつての彼の名。 そして、その憧れた背中を追った者。 ロード・エルメロイII世。それが今の男の名で、 無銘。それが彼の名だった。 【クラス】 アーチャー 【真名】 無銘 【パラメーター】 筋力D 耐久C 敏捷C 魔力C 幸運E 宝具E-~A++ 【属性】 中立・中庸 【クラススキル】 対魔力:D 一工程による魔術を無効化する。 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。 単独行動:B マスターからの魔力供給が無くなったとしても現界していられる能力。 【保有スキル】 心眼(真):B 修行・鍛錬によって培った洞察力。 窮地において自身の状況と敵の能力を冷静に把握し、その場で残された活路を導き出す“戦闘論理” 逆転の可能性が1%でもあるのなら、その作戦を実行に移せるチャンスを手繰り寄せられる。 千里眼:C 視力の良さ。遠方の標的の捕捉、動体視力の向上。 魔術:C- オーソドックスな魔術を習得。 得意なカテゴリは不明。 【宝具】 無限の剣製(アンリミテッドブレイドワークス) ランク:E-~A++ 種別:対人宝具 レンジ:30~60 最大補足:??? 錬鉄の固有結界。 一度目視した剣を登録し複製することができる。 【weapon】 干将・莫耶 赤原猟犬(フルンディング) 偽・螺旋剣(カラドボルグII) 熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス) 永久に遥か黄金の剣(エクスカリバー・イマージュ) 自身の投影魔術によって模倣した武具の数々を使用する。 【人物背景】 無銘の正義の味方。 【サーヴァントとしての願い】??? 【マスター】ロード・エルメロイII世@Fateシリーズ 【参加方法】月の石を取り寄せ、それに引かれて月へと召喚された。 【マスターとしての願い】ない。あるいは―― 【weapon】簡易魔術礼装である葉巻 【能力・技能】 魔術師としての腕は平凡。 しかし、その講師としての才能は非凡極まるものである。 【人物背景】 かつて征服王の背中に誓いを立てた、現代にただ一人の彼の家臣。 【方針】 聖杯の調査。 投下順で読む Next.Fearless
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/699.html
前半は西郷隆盛参照 参議 大政改革と廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して『丁丑公論』に詳しい、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五。12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。 明治4年(1871年)1月3日、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を以て上京するため鹿児島を出帆した。8日、西郷・大久保らは木戸を訪問して会談した。16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事山内豊範・板垣退助と会談した。22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。東京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で青年東郷平八郎に会い、勉強するように励ました『西南記伝』引東郷平八郎実話。 2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。このときに西郷は再び正三位に叙せられた。7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14日、天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった『西南記伝』(ただし、外務卿岩倉の右大臣兼任だけは10月中旬にずれ込んだ)。 太政大臣(三条実美) 右大臣兼外務卿(岩倉具視) 参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信) 大蔵卿(大久保利通) 文部卿(大木喬任) 兵部大輔(山縣有朋) 大蔵大輔(井上馨) 文部大輔(江藤新平) 工部大輔(後藤象二郎) 司法大輔(佐々木高行) 宮内大輔(万里小路博房) 外務大輔(寺島宗則) この経緯については、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。 留守政府 明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞村田新八もいた)。西郷らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置いた。5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した。明治6年5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった。 なお、明治4年(1871年)11月の岩倉使節出発から明治6年(1873年)9月の岩倉帰国までの間に西郷主導留守内閣が施行した主な政策は以下の通りである。 府県の統廃合(3府72県) 陸軍省・海軍省の設置 学制の制定 国立銀行条例公布 太陽暦の採用 徴兵令の布告 キリスト教禁制の高札の撤廃 地租改正条例の布告 明治六年政変 対朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題は、明治元年(1868年)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことに端を発しているが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷・板垣退助・副島種臣らは、調査のために、明治5年(1872年)8月15日に池上四郎・武市正幹・彭城中平を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣し(鹿児島県史料・忠義公史料』第7巻)、27日に北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣した国立公文書館、文献参照。 明治6年(1873年)の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記森山茂が釜山から帰って、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は6月12日から7参議により審議された。 議案は当初、板垣が武力による修好条約締結(征韓論)を主張したのに対し、西郷は武力を不可として、自分が旧例の服装で全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立した。しかし、数度に及ぶ説得で、方法・人選で反対していた板垣と外務卿の副島が8月初めに西郷案に同意した。西郷派遣については、16日に三条の同意を得て、17日の閣議で決定された。しかし、三条が天皇に報告したとき、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。 以上の時点までは、西郷・板垣・副島らは大使派遣の方向で事態は進行するものと考えていた。ところが、9月、岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が表面化してきた。大久保らが参議に加わった9月14日の閣議では大使派遣問題は議決できず、15日の再議で西郷派遣に決定した。しかし、これに反対する木戸・大久保・大隈・大木らの参議が辞表を提出し、右大臣岩倉も辞意を表明する事態に至った。これを憂慮した三条は18日夜、急病になり、岩倉が太政大臣代行になった。そこで、西郷・板垣・副島・江藤らは岩倉邸を訪ねて、閣議決定の上奏裁可を求めたが、岩倉は了承しなかった。 9月23日、西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。翌24日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。このとき、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されなかった(岩倉・木戸・大久保らは、これらを許可しないことによって、西郷ら遣韓派をいずれ政府に復帰させる意図があることを示したのであろう)。 翌25日になると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。 このとき、西郷の推挙で兵部大輔大村益次郎の後任に補されながら、能力不足と自覚して、先に下野していた前原一誠は「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」「前原一誠年譜」という内容の書簡を太政大臣三条実美に送り、明治政府の前途を憂えた。 下野 - 西南戦争 私学校 下野した西郷は、明治6年11月10日、鹿児島に帰着し、以来、大半を武村の自宅で過ごした。猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた明治7年(1874年)3月1日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し、翌日、指宿まで見送った(江藤は土佐で捕まった)。これ以前の2月に閣議で台湾征討が決定した。この征討には木戸が反対して参議を辞めたが、西郷も反対していた。しかし、4月、台湾征討軍の都督三弟西郷従道の要請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を長崎に送った。 西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治6年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になった(この状態が私学校創設後も続いたことは『西南役前後の思出の記』に詳しい)。そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県令大山綱良の協力を得て、明治7年6月頃に旧厩跡に私学校がつくられた(『大山県令と私学校』。この論文では建設が始まったのは12月頃としていて、説得力がある)。私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。この他に、明治8年(1875年)4月には西郷と大山県令との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)もつくられた。 明治8年から明治9年(1876年)にかけての西郷は自宅でくつろぐか、遊猟と温泉休養に行っていることが多い。西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、県令大山綱良もこの力を借りることなしには県政が潤滑に運営できなくなり、私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、明治8年11月、明治9年4月には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。このようにして別府・辺見・河野・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は私学校党の支配下に半ば独立状態にあると見なすようになった。 西南戦争前夜 明治9年3月に廃刀令が出、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。11月、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞き、 前原一誠らの行動を愉快なものとして受け止めている。 今帰ったら若者たちが逸るかもしれないので、まだこの温泉に止まっている。 今まで一切自分がどう行動するかを見せなかったが、起つと決したら、天下の人々を驚かすようなことをするつもりである。 などを記した書簡を桂久武に出し、「起つと決する」時期を待っていることを知らせた。この「起つと決する」が国内での決起を意味するのか、西郷がこの時期に一番気にかけていた対ロシア問題での決起を意味していたのかは判然としない。 一方、政府は、鹿児島県士族の反乱がおきるのではと警戒し、年末から1月にかけて、 鹿児島県下の火薬庫(弾薬庫ともいう)から火薬・弾薬を順次船で運びださせる。 大警視川路利良らが24名の巡査を、県下の情報探索・私学校の瓦解工作・西郷と私学校を離間させるなどの目的で、帰郷の名目のもと鹿児島に派遣する。 などの処置をした。 これに対し、私学党は、すでに陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の醵出金で購入したり、つくったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた『薩南血涙史』。また、多数の巡査が一斉に帰郷していることは不審であり、その目的を知る必要があると考えていた。なお、まだこの時点では、川路利良が中原尚雄に、瓦解・離間ができないときは西郷を「シサツ」せよ、と命じていたことは知られていなかった(山縣有朋は私学校党が「視察」を「刺殺」と誤解したのだと言っている。明治5年の池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現していることから見ると、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった)。 挙兵 Template see also? 明治10年(1877年)1月20日頃、西郷は、この時期に私学校生徒が火薬庫を襲うなどとは夢にも思わず、大隅半島の小根占で狩猟をしていた。一方、政府は鹿児島県士族の反乱を間近しと見て、1月28日に山縣有朋が熊本鎮台に電報で警戒命令を出した。29日、従来は危険なために公示したうえで標識を付けて白昼運び出していたのに、陸軍の草牟田火薬庫の火薬・弾薬が夜中に公示も標識もなしに運び出され、赤龍丸に移された。これに触発されて私学校生徒が、同火薬庫を襲った。 left|thumb|300px|[[ル・モンド(Illustré)の速報記事に描かれたその姿写実性はなく想像によって描かれたものと考えられる。(1877年)]] 2月1日、小根占にいた西郷のもとに四弟小兵衞が私学校幹部らの使者として来て、谷口登太が中原尚雄から西郷刺殺のために帰県したと聞き込んだこと、私学校生徒による火薬庫襲撃がおきたことなどを話した。これを聞いて西郷が鹿児島へ帰ると、身辺警護に駆けつける人数が時とともに増え続けた。3日に中原が捕らえられ、4日に拷問によって自供すると(8日に口供書に拇印を押させられる。口供書は『薩南血涙史』に掲載)、6日に私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決したので、翌7日に県令大山綱良に上京の決意を告げた。このようにして騒然となっていた9日、川村純義が高雄丸で西郷に面会に来たので、会おうとしたが、会えなかった。同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した(野村の口供書は『薩南血涙史』に掲載)。西郷は、その自白内容から、大久保も刺殺に同意していると考えるようになったらしい。 募兵、新兵教練が終わった13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、桐野が総司令を兼ねることになった。淵辺群平は本営附護衛隊長となり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。別府は加治木で別に2大隊を組織してその指揮長になった(のちにこの2大隊を六番・七番大隊としたが、人員も正規大隊の半分ほどで、装備も劣っていた)。翌14日、私学校本校横の練兵場(旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『翔ぶが如く』など、伊敷練兵場としているものが多いが、誤りである。『西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について』)で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し(西南戦争開始)、17日、西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。 熊本の戦い 2月20日、別府晋介の大隊が川尻に到着。熊本鎮台偵察隊と衝突し、これを追って熊本へ進出した。21日、相次いで到着した薩軍の大隊は順次、熊本鎮台を包囲して戦った。22日、早朝から熊本城を総攻撃した。昼過ぎ、西郷が世継宮に到着した。政府軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が乃木希典率いる第14連隊の軍旗を分捕った。一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には陥ちないと見なされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、政府軍の正規旅団は本格的に南下し始めた。この軍議では一旦は篠原らの全軍攻城策に決したが、のちの再軍議で熊本城を長囲し、一部は小倉を電撃すべしと決し、翌23日に池上四郎が数箇小隊を率いて出発したが、南下してきた政府軍と田原・高瀬・植木などで衝突し、電撃作戦は失敗した。 これより、南下政府軍、また上陸してくると予想される政府軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山弥一郎に海岸線を抑えさせ、篠原国幹(六箇小隊)は田原に、村田・別府(五箇小隊)は木留に、桐野(三箇小隊)は山鹿に分かれ、政府軍を挟撃して高瀬を占領することにした。しかし、いずれも勝敗があり、戦線が膠着した。 3月1日から始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次など)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。このような犠牲を払ってまで守っていた田原坂であったが、20日に、兵の交替の隙を衝かれ、政府軍に奪われた。この戦いに敗れた原因は多々あるが、主なものでは、砲・小銃が旧式で、しかも不足、火薬・弾丸・砲弾の圧倒的な不足、食料などの輜重の不足があげられる。これらは西南戦争を通じて薩軍が持っていた弱点でもある。こうして田原方面から引き上げ、その後部線を保守している間に、上陸した政府背面軍に敗れた永山が御船で自焚・自刃し、4月8日には池上が安政橋口の戦いで敗れて、政府背面軍と鎮台の連絡を許すと、薩軍は腹背に敵を受ける形になった。そこで、この窮地を脱するために、14日、熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から3月16日に二本木、4月13日に木山、4月21日に矢部浜町と移され、西郷もほぼそれとともに移動したが、戦闘を直接に指揮しているわけでもないので、薩摩・大隅・日向の三州に蜷踞することを決めた4月15日の軍議に出席していたこと以外、目立った動向の記録はない。 薩軍は浜町で大隊を中隊に編制し直し、隊名を一新したのち、椎葉越えして、新たな根拠地と定めた人吉へ移動した。4月27日、一日遅れで桐野利秋が江代に着くと、翌28日に軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった。そこで本営を宮崎に移すことにした。西郷は池上四郎に護衛され、5月31日、桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着いた。ここが新たな本営となった。この軍務所では、桐野の指示で、薩軍の財政を立て直すための大量の軍票(西郷札)がつくられた。 宮崎の戦い 人吉に残った村田新八は、6月17日、小林に拠り、振武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊の約1000名を指揮し、1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで小戦を繰り返した。7月10日、政府軍が加久藤・飯野に全面攻撃を加えてきたので、支えようとしたが支えきれず、高原麓・野尻方面へ退却した。小林も11日に政府軍の手に落ちた。17日と21の両日、掘与八郎が延岡方面にいた薩兵約1000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたが、これも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。 24日、村田は都城で政府軍六箇旅団と激戦をしたが、兵力の差は如何ともしがたく、これも大敗して、宮崎へ退いた(都城の戦い)。 31日、桐野・村田らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが、再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。8月1日、薩軍が佐土原で敗れたので、政府軍は宮崎を占領した。宮崎から退却した西郷は、2日、延岡大貫村に着き、ここに9日まで滞在した。2日に高鍋が陥落し、3日から美々津の戦いが始まった。このとき、桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡にいて諸軍を指揮したが、4日、5日ともに敗れた。6日、西郷は教書を出し、薩軍を勉励した。7日、池上の指示で火薬製作所・病院を熊田に移し、ここを本営とした。西郷は10日から本小路・無鹿・長井村笹首と移動し、14日に長井村可愛に到着し、以後、ここに滞在した(『大西郷突囲戦史』)。その間の12日、参軍山縣有朋は政府軍の延岡攻撃を部署した。同日、桐野利秋・村田新八・池上四郎は長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れたので、延岡を総退却し、和田峠に依った。 8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍に対し、西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野・村田・池上・別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。16日、西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼いた。この後、負傷者や諸隊の降伏が相次いだ。残兵とともに、三田井まで脱出してから今後の方針を定めると決し、17日夜10時、長井村を発し、可愛嶽(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300~500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田、後軍は中島健彦・貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した(『大西郷突囲戦史』に依る。「鎮西戦闘鄙言」では村田と池上が中軍を指揮し、西郷と桐野が中軍で総指揮をとったとする)。突囲が成功した後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、鹿児島へ帰った。 城山決戦 9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。19日、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍川村純義のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は城山決死の檄を出した。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍山縣からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。 9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷・桐野・桂久武・村田・池上・別府・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介(『西南記伝』では小倉壮九郎)が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫び介錯した。享年51(満49歳没)。 西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められた(折田邸門前説が最も有力。ただ異説が多く、『西南記伝』には9説あげている)。西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。 午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で参軍山縣・旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令岩村通俊が記した(『西南戦争と県令岩村通俊』)。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。また、西郷の首も戦闘終了後に発見され、総指揮を執った山縣有朋の検分ののちに手厚く葬られた 首発見時の様子とその前後のいきさつについては、例えば今村均著『私記・一軍人六十年の哀歓』(芙蓉書房)に詳しく記されている。西郷の首を発見した一人が、今村の岳父である千田登文であった。 死後 追贈 明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが、黒田清隆らの努力や明治天皇直々の働きがあって明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。 墓所と祭祀 墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。また西郷隆盛を祀る南洲神社が、鹿児島県鹿児島市を始め、山形県酒田市、宮崎県都城市、鹿児島県和泊町の沖永良部島にある。 思想 影響を与えた人々と思想 島津斉彬 西郷は水戸学派や国学の皇国史観に止まってはおらず、開国して富国強兵をし、日・清・韓の三国同盟をするという島津斉彬の持論の影響で、東アジアと欧米諸国の対置という形の世界観を持っていた。列強の内、特にロシアとイギリスに対し強い警戒観を持っていた。 当時の清国が列強の侵略下にあり、朝鮮がその清の冊封国であるという現状を踏まえて、まず三国が完全に独立を果たす、次いで三国の同盟を目指すという形で将来の東アジア像を描いていた。そしてそこに、維新に成功し、列強の侵略を一応は防いだ日本の経験が活かせるとしていた。 しかし、この世界観・史観には、後の石原莞爾の大東亜共栄圏論ほどの強い日本のリーダーシップ論は無かった。これは西郷の思想が儒学を一方の柱にしていたことと無縁ではないだろう。 勝海舟 福沢諭吉 坂本龍馬 龍馬の西郷評「西郷という男はどれだけ大きいかわからぬ。釣鐘の様な奴で、小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく響く。こちら次第に応ずる。得たいの知れない大人物さ」。 藤田東湖 「先生と話していると清水を浴びたような心に少しも曇りない心になってしまい帰る道さえ忘れてしまった。」と西郷自身洩らしていた。西郷の著書に名前が出てくるほど最も影響を与えた人物の一人である。 橋本左内 朱子学 朱熹『近思録』 西郷はお由羅騒動(高崎崩れ)の後に朱子『近思録』を読み、その影響を強く受けた。朱子学では、自己と世界には共通する原理(理)があるので、自己を修養して理を会得すれば、人の世界を治めることができるということになっている。西郷の思想は武士の道徳と朱子学を二本柱にしてできていて、この朱子学の根本理論を終世、信じていた。 特に大義名分論は西郷の行動の規範になったもので、日本古来の文化・伝統(天皇も含む)・道徳を大義とし、これを帝国主義諸国の侵略から守り、育てることが、その実践であると考えていた。 これは水戸学派や国学が日本とそれ以外との対置と捉える世界観・史観(皇国史観。朱子学の華と夷を対置する世界観・史観を日本風に改めたもの)を基にしている。 佐藤一斎『言志四録』(言志録) 西郷が手写した「言志録」が残っており『西郷南洲遺訓 附 手抄言志録及遺文』山田済斎編、岩波書店〈岩波文庫〉、1939年、ISBN 4-00-331011-X / 〈ワイド版岩波文庫〉、2006年1月、ISBN 4-00-007265-X に収録された「手抄言志録」を参照。、西南戦争のときにもこの書を座右の書として持ち歩いていたことからみると、最も影響を受けた書であると考えられる。 陽明学 西郷は短期間とはいえ、伊藤茂右衛門から陽明学を学んでいる。陽明学は知行合一を理念としているので、知識を世人の役立つようにしようとする点では、この学の影響を受けたかもしれない。しかし、西郷の行動は、その大半が大義名分にもとづく行動であるという面から見れば、その積極的な行動は朱子学から導き出されたものであるとも言え、どのくらい影響を受けたは判然としない。 春日潜庵 西郷は幕末に潜庵とつきあいがあり、明治4年(1871年)に村田新八を潜庵の元に派遣し、対策12ヶ条を得て、それを持って大政改革のために上京している。また明治になってから四弟小兵衛を潜庵の元に留学させてもいる。これらから西郷が陽明学者の潜庵を高く評価していたことは分かるが、思想としてどの部分を学んだかはよく分からない。 川口雪篷 沖永良部島に遠島されたときに西郷と知遇を得た書家であり、西郷没後に遺族の扶養に勤めた人物である。頭山満の回想では、西南戦争後の明治12年(1879年)当時に西郷家を訪れた折に、応対した雪篷から西郷が愛読し手書きの書き込みがある、幕末の陽明学者大塩平八郎の書『洗心洞剳記』を見せられ、西郷がいかに大塩を慕っていたかを知らされたとある。 自身の思想 敬天愛人 「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」『南洲翁遺訓』より。近代デジタルライブラリー所蔵の『言志録講話』に収録された「西郷南洲翁遺訓」を参照。 家族・親族 系譜 隆盛は菊池氏が出自であることを知っていたが、菊池氏のどの家から分かれたかわからないので、藩の記録所にある九郎兵衛以下のみを自分の系譜としている。九郎兵衛より前は西郷家の出自とされる増水西郷氏の系譜に繋いでつくった系譜である(香春建一説による)。家紋は抱き菊の葉に菊。 藤原鎌足─不比等─房前─(11代)─道隆─隆家─政則─菊池則隆(肥後熊本菊池郡)─西郷政隆―隆基―隆季―隆房―基宗―基哉―隆邑―基時―隆任―隆吉=隆政―隆連―隆政―隆圀―武治―隆朝―太郎政隆(肥後熊本菊池郡増水城)―隆従―隆永―武国―政隆―隆盛―隆定―隆武―隆純―九郎兵衛昌隆(島津氏に仕える)=吉兵衛宜慶─覚左衛門─吉左衛門─竜右衛門隆充─吉兵衛隆盛─吉之助隆永─寅太郎―隆輝=吉之助(寅太郎三男)―吉太郎 家族 西郷には三度の結婚経験がある。 1度目は嘉永5年(1852年)28歳のとき両親にすすめられて伊集院兼寛の姉すが(須賀)と結婚した。しかしながら藩主の代わりに江戸におもむくなど隆盛は不在が多く、彼女は実家に帰り別れた。 2度目は奄美大島の龍郷村で6石扶持一軒家で自炊していた際、島の名家であった龍家の佐栄志の娘・愛加那(あいがな、意味は愛子)と結婚。35歳の安政7年(1860年)1月2日 (旧暦)に菊次郎(後の京都市市長)・文久2年(1862年)にお菊(のち菊子、大山巌の弟と結婚)の二人の子供をもうけた。この子供たちは庶子として扱われた。文久元年(1861年)末に、鹿児島に帰る際、島妻は鹿児島へ連れ出せない規則があったので別れた。愛加那は明治35年死去。陶芸家の西郷隆文は、菊次郎の四男・隆泰の子。 3度目の妻は慶応元年(1865年)岩山八郎太の23歳の娘、糸子で、39歳のときに結婚。寅太郎[1](侯爵)・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子菊次郎、お菊を引き取った。第2次佐藤内閣第2次改造内閣の法務大臣西郷吉之助は寅太郎の子。ちなみに、寅太郎は武豊・武幸四郎の曾祖父の兄弟である園田実徳の娘・ノブと結婚しているため、彼らは遠縁に当たる。系図で見る近現代 第37回。 持病 肥満 高島鞆之助の言では西郷は大島潜居の頃から肥満になったとしているが、おそらく沖永良部島流罪当時は痩せこけて死にそうになっていたというから、沖永良部在島後半期に座敷牢にいて運動不足から肥満し始めたというのが真相だろう。 鹿児島は養豚の盛んな地であり、西郷は脂身のついた豚肉が大好物だったので、それが肥満に拍車をかけたと推測される。また、甘い物も好物であった。明治6年(1873年)の征韓論当時は肥満を治そうとしてドイツ人医師ホフマンの治療を受けていた。 治療方法は2種用いられていた。一つは蓖麻子油(ひましゆ)を下剤として飲む方法であり、もう一つは運動をする方法であった。後者については『池上四郎家蔵雑記』(市来四郎『石室秘稿』所収、国立国会図書館蔵)中の池上四郎宛彭城中平書簡にこの治療期間中に西郷先生が肥満の治療のために狩猟に出かけて留守だと書いている。 フィラリア 西郷隆盛は、流刑先の沖永良部島で、風土病のバンクロフト糸状虫という寄生虫に感染したとされ、この感染の後遺症である象皮症を患っていた。これによって陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていた。そのため晩年は馬に乗ることができず、もっぱら駕篭を利用していた。 西南戦争後の、首の無い西郷の死体を本人のものと特定させたのは、この巨大な陰嚢である『西南役側面史』。ただし、比較的近年に至るまでバンクロフト糸状虫によるフィラリア感染症は九州南部を中心に日本各地に見られ、疫学的には必ずしも感染地を沖永良部島には特定できない。明治44年(1911年)の段階の陸軍入隊者の感染検査で、鹿児島県九州本島部分出身者の感染率は4%を超えていたし、北は青森県まで感染者が確認されている『ハエ・蚊とその駆除』。 後半は西郷隆盛-3参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月23日 (水) 11 18。