約 165,679 件
https://w.atwiki.jp/fantabe/pages/18.html
特訓(消費3)獲得経験値「大成功+50、成功+30、失敗+15」 出題内容 正解回答 2004~13年シーズンで、開幕戦の勝利数が最も多いチームは? ソフトバンク 2011~13年の3シーズンで、合計勝利数が最も多いチームは? 巨人 2011~13年の3シーズンで、合計勝利数が最も多い投手は? 田中 将大 2011~13年の3シーズンで、合計打点数が最も多い選手は? バレンティン 2011~13年の3シーズンで、合計奪三振数が最も多い投手は? 田中 将大 2011~13年の3シーズンで、合計登板数が最も多い投手は? 平野 佳寿 2011~13年の3シーズンで、合計盗塁数が最も多い選手は? 聖澤 諒 2013年、オープン戦の勝率が最も高かったチームは? 巨人 2013年、オールスター3試合で出た合計本塁打数は? 0本 2013年、オールスターファン投票の両リーグ最多得票選手は? 糸井 嘉男 2013年、シーズン開幕戦と最終戦の両方で先発した投手はオリックス・金子千尋と誰? 成瀬 善久 2013年、シーズン開幕直前に川本良平とのトレードでヤクルトに移籍した選手は? 田中 雅彦 2013年、パ・リーグのシーズン最多犠打記録を更新した選手は? 今宮 健太 2013年、ファーム日本選手権のMVPは? 田上 秀則 2013年、フレッシュオールスターのMVPは? 加藤 翔平 2013年、楽天の日本シリーズ球団初打点を記録した選手は? 銀次 2013年、広島・前田智徳が現役最後の試合で出場したポジションは? 右翼手 2013年、阪神・桧山進次郎がクライマックスシリーズで迎えた現役最終打席の結果は? 本塁打 2013年3月29日、開幕戦で来日初打席初本塁打を放った選手は? ロペス 2013年3月29日、日本ハム・大谷翔平のプロ公式戦初打席の結果は? 三振 2013年4月8日、育成選手出身では初となるプロ初登板初勝利を挙げた投手は? 西野 勇士 2013年4月14日、プロ初勝利を挙げた北海道出身の投手は? 鍵谷 陽平 2013年4月14日、阪神・藤浪晋太郎がプロ初勝利を挙げた球場は? 甲子園 2013年4月20日、パ・リーグタイ記録の3試合連続三塁打を放った選手は? 鈴木 大地 2013年4月27日、楽天が球団通算500勝目を挙げた試合の勝利投手は? 則本 昂大 2013年4月8日、育成選手出身では初となるプロ初登板初勝利を挙げた投手は? 西野 勇士 2013年5月12日、プロ初打席初球本塁打を放った選手は? 加藤 翔平 2013年5月20日、中日の球団最年長満塁本塁打を放った選手は? 和田 一浩 2013年5月22・23日、2試合連続で初回先頭打者本塁打を放った選手は? 長野 久義 2013年5月31日、稲尾和久に並ぶ月間18試合登板を記録した投手は? 益田 直也 2013年6月13日、91球の“省エネ投球”で完封勝利を挙げた投手は? 木佐貫 洋 2013年6月22日、プロ6年目で初勝利を挙げた投手は? 大田 阿斗里 2013年6月28日、中日・山井大介がノーヒットノーランを達成したが、中日では誰以来の快挙だった? 山本昌 2013年7月13日、自身11年ぶりの完封勝利を挙げた投手は? 藤井 秀悟 2013年7月24日、DeNA・三浦大輔が通算3000投球回を達成した試合の相手先発は? 山本昌 2013年7月25日、広島が東京ドームでの連敗を14で止めた試合の勝利投手は? 前田 健太 2013年8月、セ・リーグ新記録の月間46安打を放った選手は? 村田 修一 2013年8月1日、リーグ史上2番目の若さで満塁本塁打を放った選手は? 高橋 周平 2013年8月11日、一塁塁審に当たるゴロの打球を放った選手は? 菊池 涼介 2013年8月22日、ロッテは1イニング2本の満塁本塁打を記録したが、打ったのは井口資仁と誰? 鈴木 大地 2013年8月24日、巨人・山口鉄也に1打席で19球投げさせた選手は? 鶴岡 一成 2013年8月25日、巨人の球団通算9500本塁打目を放った選手は? ロペス 2013年9月17日、1試合150球を投げた投手は? メッセンジャー 2013年9月18日、中日・岩瀬仁紀が日本人最多の通算382セーブをマークした球場は? ナゴヤドーム 2013年9月22日、巨人が2年連続リーグ優勝を果たした試合の勝利投手は? 菅野 智之 2013年9月25日、広島がクライマックスシリーズ進出を決めた試合の勝利投手は? バリントン 2013年10月5日、中日・山崎武司の引退試合で先発した中日の投手は? 山本昌 2013年シーズン、12球団で最も登板数が多かった投手は? 西村 健太朗 2013年シーズン、12球団で得点圏打率が最も高かった選手は?(規定打席以上) ブランコ 2013年シーズン、12球団で唯一、主催試合を全て本拠地球場で行ったチームは? ロッテ 2013年シーズン、1点差での勝率が最も高かったチームは? ロッテ 2013年シーズン、2度の退場処分を受けた監督は? 中畑 清 2013年シーズン、NPB通算2000安打を達成した選手は何人? 3人 2013年シーズン、サヨナラ満塁本塁打を放った選手は阪神・福留孝介と誰? 畠山 和洋 2013年シーズン、セ・リーグで唯一、全試合にスタメン出場した選手は? 鳥谷 敬 2013年シーズン、ビジターの試合での勝率が最も高かったチームは? 楽天 2013年シーズン、ヤクルト・バレンティンが最も多く本塁打を放った相手投手は? 大竹 寛 2013年シーズン、ヤクルト・小川泰弘が最も多く勝利を挙げた相手チームは? 広島 2013年シーズン、リリーフでの勝利数が最も多かった投手は? サファテ 2013年シーズン、リリーフでの投球回数が最も多かった投手は? 佐藤 達也 2013年シーズン、開幕から21試合連続無失点を続けた投手は? 河内 貴哉 2013年シーズン、外野手で補殺を最も多く記録した選手は? 荒波 翔 2013年シーズン、完封勝利が最も多かったチームは? 阪神 2013年シーズン、逆転勝利が最も多かったチームは? 巨人 2013年シーズン、交流戦で最も多く安打を放った選手は? 長谷川 勇也 2013年シーズン、阪神・藤浪晋太郎がプロ初登板で投げた第1球の球種は? ストレート 2013年シーズン、守備で3度のライトゴロを完成させた外野手は? 長野 久義 2013年シーズン、西武・浅村栄斗が唯一、内野で守備に就かなかったポジションは? サード 2013年シーズン、田中将大と並んで、交流戦での勝利数が最も多かった投手は? 帆足 和幸 2013年シーズン、両リーグで最も多く犠飛を記録した選手は? 今江 敏晃 2013年シーズン、両リーグで最も多く得点を挙げたチームは? ソフトバンク 2013年シーズンオフ、FAの人的補償で移籍した選手は何人? 5人 2013年シーズンの最短試合時間は?(コールドゲームは除く) 2時間20分 2013年シーズンの最長試合時間は? 6時間1分 2013年シーズン終了時点で、通算本塁打数が最も多い現役選手は? 中村 紀洋 2013年に引退した中日・山崎武司が通算400本塁打を達成した時の相手投手は? 菊池 雄星 2013年日本シリーズ第6戦で、楽天・田中将大が投じた球数は? 160球 2014年、10シーズンぶりに巨人と阪神の開幕戦が組まれたが、10年前の阪神の開幕投手は? 井川 慶 2014年、12球団で最年長の監督は? 星野 仙一 2014年、12球団で新しく選手会長に就任した人数は? 9人 2014年、12球団で選手兼任監督と選手兼任コーチは合わせて何人? 3人 2014年、7シーズンぶりに西武と楽天の開幕戦が組まれたが、7年前の西武の開幕投手は? 西口 文也 2014年、阪神のGM付育成、打撃コーディネーターに就任した人物は? 掛布 雅之 2014年4月22日、サンマリンスタジアム宮崎で予定されている巨人主催試合の対戦相手は? DeNA 2015年に予定されている野球の国際大会「プレミア12」の開催地は? 日本 レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークは、メジャー全球団の本拠地で何番目に古い球場? 1番目 楽天・ユーキリスがMLB時代に記録したシーズン本塁打の自己最多本数は? 29本 楽天・銀次は2013年の日本シリーズで打点をいくつ挙げた? 5打点 楽天・美馬は2013年のクライマックスシリーズ、日本シリーズを通して何イニング連続無失点だった? 20回2/3 球界再編問題が起きた2004年当時のプロ野球選手会会長は? 古田 敦也 次のうち、2013年シーズンに一軍の公式戦が開催されなかった都道府県は? 長崎県 次のうち、育成選手出身で初めて新人王に輝いた選手は? 山口 鉄也 次のうち、開幕からの最長連勝記録を持っているチームは? 中日 次のうち、楽天が2013年4月5日に達成した記録は? 野手全員得点 次のうち、沢村栄治賞の選考基準7項目に含まれないものは? 完封勝利 次のうち、日本プロ野球名球会の会員になる条件は? 250セーブ 谷繁元信と中村紀洋、通算2000安打を達成した日付が早いのは? 中村 紀洋 コメントフォーム 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/actors/pages/4052.html
クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンをお気に入りに追加 クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンのリンク #blogsearch2 クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンとは クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンの59%は苦労で出来ています。クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンの33%は世の無常さで出来ています。クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンの5%は柳の樹皮で出来ています。クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンの2%は毒電波で出来ています。クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンの1%は税金で出来ています。 クイントン・“ランペイジ”・ジャクソン@ウィキペディア クイントン・“ランペイジ”・ジャクソン クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンの報道 オリンピック金メダリストのクロアチア人・石井慧&グレイシー一族に恨みを買った大山峻護、波乱万丈の格闘家対談(2021年12月3日)|BIGLOBEニュース - BIGLOBEニュース 【ベラトール】”引退ロード”ヒョードルが106秒の衝撃KO勝利!母国ファンの前でヘビー級2位ジョンソンを豪腕フックで沈める(イーファイト) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【Bellator】母国ロシアでのラストマッチの皇帝ヒョードル×ヘビー級2位ジョンソン、14kg差で計量パス(ゴング格闘技) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース “ラウンドガール是非”論争、皇帝ヒョードルがまさかの参戦!?「もう少し肌の露出を抑えた方が」(イーファイト) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 9.18大会に向け“暴れん坊”ジャクソンの壮絶KO、“世界最恐女子”サイボーグの怒涛ラッシュKOなど、壮絶デビューKO映像を公開=ベラトール(イーファイト) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【Bellator】ヒョードルの相手がランキング2位のティム・ジョンソンに決定=10.23 ロシア(ゴング格闘技) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 元PRIDE王者ヒョードルが10・23母国でティム・ジョンソンと対戦 - ニッカンスポーツ 【Bellator】ピットブルを117秒フィニッシュ! 父子鷹AJ・マッキーが優勝賞金1億円を賭けて団体の枠を超えたスーパーファイトを提案「ベルトを統一したい」(ゴング格闘技) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 元UFC王者ランペイジ・ジャクソン、MMA選手のボクシング挑戦にうんざりも「ボクサーがMMAの試合も行うなら」と元ヘビー級王者との試合を承諾へ - イーファイト 元PRIDE王者ヒョードルが10・23ベラトール大会参戦発表 - ニッカンスポーツ 埼玉で生まれた“ド迫力のパワーボム” 頭部打ち付ける失神KOに反響「殺人級だ」 - THE ANSWER 43歳ヒョードル、日本ラストマッチKO勝ち「感激している」 - スポーツニッポン新聞社 【ベラトール】ヒョードル 日本ラスト試合でジャクソンに1R・KO勝ち (2019年12月29日) - エキサイトニュース ヒョードル 日本最終戦でランペイジを右フック葬!「最後の試合となりました」 - デイリースポーツ 【Bellator×RIZIN】“ランペイジ”・ジャクソンがヒョードルとの一戦「全盛期を過ぎた?そんなものくそくらえ」 - イーファイト 【『RIZIN.20』『BELLATOR JAPAN』大会直前見所特集コラムVol.2】12・29、米メジャーBELLATOR初上陸 ヒョードル日本最終戦を観逃すな! - http //spice.eplus.jp/ ジャクソンが怒り ヒョードル戦は”全盛過ぎた”との質問に「クソ食らえ」 - ENCOUNT ヒョードルの日本ラストマッチのほか『BELLATOR JAPAN』全14カードの試合順が決定 - http //spice.eplus.jp/ ランペイジが“勝てばいい”と思っている若いファイターにチクり【12・29 BELLATOR】 - 株式会社ヘッドライン ヒョードルやマイケル・チャンドラーが参戦! 『BELLATOR JAPAN』 - http //spice.eplus.jp/ 【SNが選ぶ2010年代最高の選手】 男子MMA編:ジョン・ジョーンズ - Sporting News JP “皇帝”ヒョードル、日本最後の勇姿―― 『BELLATOR JAPAN』『RIZIN.20』の先行受付開始 - http //spice.eplus.jp/ 【BELLATOR × RIZIN 全面対抗戦 緊急記者会見】12・29 ベラトール初の日本大会「BELLATOR JAPAN」開催!ヒョードルvsランペイジ決定!12・31「RIZIN.20」と2大会で対抗戦を計画! - http //spice.eplus.jp/ 【ベラトール】ヒョードル日本ラストマッチは「美しい最後」お見せします (2019年10月10日) - エキサイトニュース ヒョードル 12.29日本でのラストマッチでジャクソンと対戦 - スポニチアネックス Sponichi Annex ヒョードルの日本引退試合は12・29さいたま 相手は“ランペイジ” - ENCOUNT 令和初の大晦日は格闘技で締めくくれ! 29日「BELLATOR JAPAN」 31日「RIZIN.20」の開催が決定 - PR TIMES 皇帝ヒョードル、12・29日本ラストマッチ 対戦相手は“狂犬”ランペイジ・ジャクソン - ORICON NEWS ジャクソンがシウバにTKO勝ち、対戦成績五分に - 格闘技 - ニッカンスポーツ 【ベラトール】ヴァンダレイ・シウバ復帰、宿敵“ランペイジ”・ジャクソンとの4度目の再戦が決定 - イーファイト 【ベラトール】“ランペイジ”・ジャクソン、シウバに再戦呼び掛け - eFight【イーファイト】格闘技情報を毎日配信! - イーファイト 【RIZIN】榊原委員長がジャクソンの9月トーナメント出場について言及 - イーファイト 【ベラトール】計量クリアーした石井、ジャクソンとの殴り合いに自信 - イーファイト 柔道金メダリストの石井慧、ランペイジ・ジャクソンと再起戦 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト - サイクルスタイル UFC-究極格闘技-日本人ファイター五味&水垣ダブル参戦、王者ジョン・ジョーンズ初防衛戦! - PR TIMES GBR ニュース 【UFC】ランペイジ・ジャクソン直撃インタビュー!俳優、格闘家の今後について語る - 格闘技WEBマガジンGBR 遺恨のランペイジ vs エバンス戦。勝者はショーグンの王座挑戦か?・・・UFC114をWOWOWで放送! - PR TIMES (プレスリリース) 冬のソナタ またでるよ 冬のソナタ 韓国KBSノーカット完全版 DVD BOX(初回限定 豪華フォトブックレット&スペシャル特典ディスク付) 本当に長い間、待たせてごめんなさい。「冬のソナタ」韓国KBSノーカット完全版をいよいよお届けします。 映像は韓国KBSのオリジナルそのままに、音楽に関してもユン・ソクホ監督が想いを込めて監修し、一部楽曲を変更しました。初回限定特典にはぺ・ヨンジュン 独占インタビュー/ユン・ソクホ監督&田中美里の対談スペシャルDVDの他、DVDオリジナルポストカード、シリアルNo付 豪華フォトブックレット(20P)を封入しております。 今までの日本用編集版よりも約166分長いノーカット映像(本編後のエンドロールも収録!)に加えて、映像特典の【スペシャル短編集】には、ペ・ヨンジュンのスノーボードシーンの撮影風景も収録しています。 【ここが違う!8つのポイント】 ◆今までの日本用編集版よりも約166分長いノーカット映像(本編後のエンドロールも収録!) ◆ファン待望の「ダンシング・クィーン」「白い恋人たち」をついに収録。 ◆日本語吹替を再収録。萩原聖人さん、田中美里さんが担当、その他主要人物もなつかしいあの声で。 ◆本編は日本語字幕に加えて韓国語字幕も収録 ◆一部変更した楽曲をユン・ソクホ監督が想いを込めて監修!(一部BGMはオリジナル版より変更されています) ◆<初回限定特典1>スペシャルDVD:★ぺ・ヨンジュン 独占インタビュー/★ユン・ソクホ監督&田中美里の対談 ◆<初回限定特典2>豪華フォトブックレット:シリアルNo付(20p) ◆<初回限定特典3>DVDオリジナルポストカード3枚 クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンのキャッシュ 使い方 サイト名 URL クイントン・“ランペイジ”・ジャクソンの掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ クイントン・“ランペイジ”・ジャクソン このページについて このページはクイントン・“ランペイジ”・ジャクソンのインターネット上の情報を集めたリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新されるクイントン・“ランペイジ”・ジャクソンに関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/nmowmochiko/pages/17.html
倉持明日香 1989年9月11日生まれ 神奈川県出身 女性アイドルグループAKB48チームAのメンバーでキャッチフレーズは、「もっちぃこと倉持明日香です」 ニックネームはもっちぃ・明日香・もちくらさん・けろちゃん・もちこ・ちょっちゃん メンバーに対して独特のニックネームを付けることでも有名 野球とプロレスと耳をこよなく愛する 野球は千葉ロッテマリーンズと埼玉西武ライオンズのファンで、里崎智也(千葉ロッテ)と中島裕之(埼玉西武)推し プロレスでは、プロレスリング・ノアの小橋建太の大ファンとして有名。また、新日本プロレスの中邑真輔・真壁刀義のファンでもある 好きな食べ物は①手羽先、②チャプチェ、③もやしのナムル 好きな漫画は犬夜叉・ちびまる子ちゃん・クレヨンしんちゃん・MONSTER・20世紀少年・笑ウせぇるすまん・今日恋・ママレードボーイ・花より男子・パラキス 2007年 5月27日 『AKB48 第一回研究生(4期生)オーディション』に合格。 7月1日 劇場公演デビュー。 2008年 3月4日 ひまわり組公演にて旧チームKメンバーへの昇格が発表される。 2009年 3月4日 11thシングル『10年桜』で初選抜。 7月8日 『AKB48 13thシングル選抜総選挙「神様に誓ってガチです」』では21位で、シングル選抜入り。 8月23日 『読売新聞創刊135周年記念コンサート AKB104選抜メンバー組閣祭り』の夜公演にて同年10月よりチームAに異動することが発表された。 2010年 6月9日 『AKB48 17thシングル選抜総選挙「母さんに誓って、ガチです」』では23位で、アンダーガールズ入り。 9月7日 神宮球場で開催された東京ヤクルトスワローズ対広島東洋カープ第17回戦で始球式を行った。 9月8日 柏木由紀、高城亜樹とともにフレンチ・キスとしてCD「ずっと 前から」でデビュー。 9月21日 開催された『AKB48 19thシングル選抜じゃんけん大会』では10位で、メディア選抜入り。 2011年 6月9日 『AKB48 22ndシングル選抜総選挙「今年もガチです」』では21位で、シングル選抜入り。 7月16日~31日(東京公演)8月10日~14日(大阪公演) 舞台『DUMP SHOW!』に、星組として大家志津香と共に主演。 2012年 3月3日 Google+の秋元康の投稿においてぐぐたす選抜が発表され、ぐぐたす選抜入り。 4月2日、TBS系情報番組「ひるおび!」でお天気キャスター(ワタナベエンターテインメント所属のAKBメンバーが日替わりで)を担当。 4月14日 BS朝日スポーツバラエティー「SPORTS X(スポーツクロス)」でスポーツキャスターに就任。 5月 柏木由紀、高城亜樹、大家志津香、佐藤夏希とともにビスケットエンターティメントからワタナベエンターテインメントへ移籍。 6月6日 『AKB48 27thシングル選抜総選挙』では22位で、アンダーガールズ入り。 7月18日 横浜スタジアムで行われた横浜DeNAベイスターズ対東京ヤクルトスワローズ第13回戦で死球式を行なった。 8月24日 東京ドームで行われたコンサート『AKB48 in TOKYO DOME ~1830mの夢~』にて再び組閣することが発表され、チームKに異動となった。 12月23日 JRA主催のGⅠレースを5週連続で予想する企画『AKB48のガチ馬2 リベンジ』で最終戦となる有馬記念で予想を初めて的中させ逆転優勝を飾る。 2012年を詳細に振り返ってみよう 2013年 2月23日 倉持明日香、佐藤亜美菜、中村麻里子の3人でニコニコ生放送に出演。翌日、この時に収録し3人が歌う「もうこんなじかん」がiTunesにて配信される。 3月24日 MAZDA Zoom-Zoomスタジアムで行われたオープン戦、広島東洋カープ対福岡ソフトバンクホーク戦のにて始球式を行った。 4月6日 幕張メッセで開催された握手会で、ソロデビューCD発売、CM主演、写真集発売が発表された。 5月4日 ソロデビュー曲のMV撮影で訪れたグアムで窃盗の被害に遭う。 5月11日 日本武道館で行われた小橋建太の引退試合にて花束贈呈を務める。 第80回日本ダービーのテレビCM「7197頭分の1」篇が、全国でオンエアを開始。 5月15日 日本ダービースペシャルWEBコンテンツ「倉持明日香のガチレポ!」の企画で美浦トレーニングセンターを取材。 5月18日 明治神宮野球場で行われた東京ヤクルトスワローズ対千葉ロッテマリーンズ第2回戦で父である明氏と親子で始球式を務める。 5月19日 日本ダービースペシャルWEBコンテンツ「倉持明日香のガチレポ!」の企画で東京競馬場を取材。 5月29日 ソロデビューシングル曲「いつもそばに」発売。 6月8日 『AKB48 32ndシングル選抜総選挙〜夢は一人じゃ見られない〜』では36位で、ネクストガールズ入り。 8月15日 ソーシャルゲーム『AKB48ステージファイター』の第イベントで3回ステージファイター選抜入り。 9月11日 1stソロ写真集『耳たぶ』発売。 2013年を詳細に振り返ってみよう 2014年 2月20日 大島チームKウェイティング公演Ⅱ『最終ベルが鳴る』公演初日。 2月24日 『AKB48グループ 大組閣祭り~時代は変わる。だけど、僕らは前しか向かねえ!~』にてチームBへの移籍とチームBキャプテン就任が発表される。 3月26日 ニッポン放送『大谷ノブ彦 キキマス!』水曜日の中継リポーターに梅田彩佳・中村麻里子とともに抜擢される。 4月2日 ニッポン放送『大谷ノブ彦 キキマス!』に水曜日の中継リポーターとして初登場。 4月6日 Fm yokohamaにて『もちくらさんでーらじお』放送開始。 4月16日 大島チームKウェイティング公演Ⅱ『最終ベルが鳴る』公演が千秋楽を迎える。 4月28日 倉持チームB『パジャマドライブ』公演開始。 5月22日 猫のしろみくんが倉持家入り。 6月7日 『AKB48 37thシングル選抜総選挙』では52位で、フューチャーガールズ入り。 7月1日 フレンチ・キス 初のTV冠番組・テレビ東京「フレンチ・キスのキス旅」スタート。 9月24日 ニッポン放送『大谷ノブ彦 キキマス!』水曜日の中継リポーターのラスト出演。 9月29日 芸能界入りする前からずっとファンだったラジオ番組Fm yokohama『Tresen+』にゲスト出演。 10月1日 フレンチ・キス6thシングル『思い出せない花』発売。Type-Dではソロ曲『心の鍵』も収録。 10月22日 『フレンチ・キス プレミアムライブ』をZepp Tokyoにて開催。 10月28日 AKB48全国ツアー2014「あなたがいてくれるから~残り27都道府県で会いましょう~」で倉持チームBの北海道公演。 11月6日 AKB48全国ツアー2014「あなたがいてくれるから~残り27都道府県で会いましょう~」で倉持チームBの熊本公演。 11月22日 AKB48全国ツアー2014「あなたがいてくれるから~残り27都道府県で会いましょう~」で倉持チームBの鹿児島公演。 12月6日 AKB48全国ツアー2014「あなたがいてくれるから~残り27都道府県で会いましょう~」で倉持チームBの徳島公演。 12月25日 AKB48全国ツアー2014「あなたがいてくれるから~残り27都道府県で会いましょう~」で倉持チームBの山形公演。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/9517.html
登録日:2011/06/27 Mon 23 30 15 更新日:2024/04/26 Fri 17 27 47NEW! 所要時間:約 6 分で読めます ▽タグ一覧 10番 INAC神戸 MVP なでしこジャパン クイーン サッカー サッカー選手 バロンドール ポニテ 今度は長友と共演 大黒柱 女子サッカー 姉御 府中市 日本の誉れ 日本三大♀兄貴 日本三大姐御 日本代表歴代通算得点第一位 ←男子含む 有言実行 東京都 漢女 澤さん 澤穗希 なでしこジャパン それは、サッカー日本女子代表チームの愛称である。 彼女たちの活躍により、今でこそ市民権を得た女子サッカーだが、それよりも前、黎明期より女子サッカーを支え続けている名選手をご存知だろうか? 彼女の名は澤(さわ) 穂希(ほまれ)。 日本が世界に誇る姉御である。 ◆プレースタイル 身長は165cmで、パワーやスピードといったフィジカル能力は高くない。 しかし豊富な運動量でピッチのあちこちに顔を出すうえに、パス、ドリブル、シュートなど全ての仕事をハイレベルでこなせる技術を持つ万能MF。 ポジションはトップ下からボランチまでをこなす。 やはり決定的なパスを多く出すことから司令塔と表現されることもあるが、中盤の底で相手の攻撃を潰したかと思えばゴール前ではエースストライカーにも変身する。 ◆経歴 1978年9月6日生まれ、東京都府中市出身。 幼い頃、兄の所属していたサッカーチームにコーチの勧めで参加した事が、その長いキャリアのスタートとなる。ちなみに同じチームに中村憲剛がいた。 その後、鮮やかに才能を開花させていった澤は1991年、僅か12歳で日本女子サッカーリーグにデビュー。 日本最高峰のリーグで揉まれながらメキメキと頭角を現し、ついには1993年、現在も最年少記録となる15歳でフル代表に選出された。 同時期の男子同様、女子も世界とは厳然たるレベル差のある時代から戦い続けた猛者である。 以降、現役引退まで常に日本の主力として背番号10番を背負い、205の代表キャップを刻み、83得点を記録した。 代表キャップ205という数字、男子だとCR7クラスである。 2011年からはINAC神戸レオネッサ所属。 2015年8月に元ベガルタ仙台のDFで現在はベガルタスタッフの辻上裕章と結婚。 2015年12月16日今季限りでの引退を表明、引退試合となる12月27日の試合で決勝ゴールを挙げ、有終の美を飾った。 2016年3月、イギリスのサッカー専門サイト「Squawka」により「歴代最高の女子フットボーラー10傑」の1人に選出された。 引退後は夫の住む仙台に移住し、2016年7月に第一子を出産して育児をしながら、時々インタビューやイベント出演で公の場に顔を出している。 ◆アジアの頂点への道 90年代のアジアの王、中国は次第に衰え、00年代その座を明け渡す事になる。そう、北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国である。 澤という世界屈指の才能を加えた日本は、アジア最強の座を賭けて北朝鮮と幾度となく死闘を繰り広げていく。 2003年のAFC女子選手権。順調にグループリーグを突破した日本は準決勝で最強北朝鮮と激突する。しかし、このとき両者の間には絶対的な力の差があった。 3対0 スコア以上の惨敗であった。 リベンジのチャンスは四年後に訪れる。奇しくもAFC女子選手権の舞台。そして、今回は決勝での再戦であった。 北朝鮮に敗れてからの四年。日本は地道に力を蓄えていた。組織の整備、永里などの若手の台頭。今度こそアジアの頂点へ。チームの士気は高かった。 しかし、蓋を開けてみれば北朝鮮に圧倒される試合展開。 澤や、DF陣の奮闘により、どうにか延長戦を無失点で凌ぎきりPK戦に持ち込む事には成功した。しかし、そこまでだった。 延長戦で力を使い果たした日本はPK戦の末、涙を呑んだ。 三度目の挑戦はまたも四年後。因縁のAFC女子選手権で、今回も決勝だった。 試合は互角の展開が続くなか、CKから岩清水がゴール。それが決勝ゴールとなった。北朝鮮の猛攻をかろうじて凌ぎ切った日本はついにアジアの頂点に立ったのだ。 なお、この大会のMVPは主将で大黒柱の澤。代表デビュー時中学生だった彼女は既にチームの最古参となっていた。 ◆なでしこの10。世界への道。 なでしこの名を一躍有名にしたのは、北京五輪の大健闘だろう。 GL最下位で姿を消した男子代表とは異なり、なでしこは4位入賞を果たした。 そのなでしこの躍進の裏にこんなエピソードがある。 うだるような猛暑。 しかも会場は日本と複雑な歴史関係の中国。 日本の対戦相手には拍手を送り、日本には容赦のないブーイングを浴びせる観客(国歌さえブーイングでかき消した。無礼千万!)。 会場の雰囲気に呑まれたのか、およそ公正公平とは言えない審判。 そして、経験の浅い若きなでしこ。 これだけの悪条件のなかで、それでも日本が躍進出来たのは何故か? あるメンバーは澤のおかげだと答えた。彼女の一言で最後の一秒まで頑張れたと言うのだ。 苦しい時は私の背中を見なさい 十五年、日本の誇りを背負い続けた澤だからこそ言える言葉だった。 ◆そして世界の頂点へ 北京五輪での四位入賞。 アジアの王者。 名実ともに、なでしこは世界の強豪となった。 そして2011年6月。 恐らく澤の最後の大舞台が開催された。 ドイツでの女子W杯である。 日本が誇る10番は本気で優勝を狙っていた。 特に今大会での、世界トップレベルの中盤を構成する阪口とのコンビネーションは圧巻であった。 GL第2節メキシコ戦でハットトリックの大活躍。決勝トーナメント進出を決める。 この試合のハットトリックによって、釜本邦茂の持つ日本代表の通算得点75の記録を塗り替え単独一位となった。 姉御…流石です! 準々決勝の相手はW杯2連覇、自国開催のドイツ。 押される展開が続く中、延長後半3分、丸山のゴールで1-0で勝利。初のベスト4進出を決めた。 アシストは澤だった。 準決勝、スウェーデン戦。 立ち上がりこそ先制を許す苦しい展開を強いられたものの、今大会初先発の川澄が2ゴール、 さらに澤が決勝点となる2点目を決める活躍で日本サッカー史上初のW杯決勝進出を決める。 そして決勝のアメリカ戦… 圧倒的な個の力で押し込まれるものの、驚異の粘りで1-1とし延長に持ち込む。 その延長前半、再びアメリカに勝ち越され、万事休すかと思われた。 かつてならここでもう諦めていたかもしれない。だが、今のなでしこ達は違った。 延長後半、宮間のコーナーキックを澤がフリックで流し込む神業同点ゴールを決めPKに持ち込む。 またこのゴールで得点ランキング単独トップに躍り出た。 オウンゴール疑惑があるのは内緒だ。 そしてPKの末、遂にアメリカに勝利。 日本サッカー史上初の、国際大会制覇。 東日本大震災の年、なでしこジャパンはそれを成し遂げることになった。 澤は大会MVPを獲得し、それどころか中盤の選手なのに得点王にまで輝いた。 疑いようもなく日本初優勝の立役者、最高のプレーヤーと呼ぶに相応しいものを見せつけた。 そして2012年1月10日、澤はサッカー選手最大の名誉であるバロンドール賞(女子部門)を受賞。 これは、日本はもちろん男女含めてアジア人初の快挙である。 正真正銘、「世界最高の女子フットボーラー」澤穂希がここに誕生した。 最後と言ったが、すまんありゃ嘘だった。 その後、病気に苦しみながらも2012年のロンドンオリンピック、それどころか2015年のカナダ女子W杯にも36歳で招集され、後者は流石に途中出場がメインだったものの両大会の準優勝に貢献、女子史上初のW杯6大会出場を果たした。 ~澤語録~ 苦しい時は私の背中を見なさい 代表の10番は重い。その重さが私を走らせる お前、良い臭いするな(中村俊輔に対して) サッカーの神様などいない、頼れるのは自分だけ ごめん、ミスした分点取るから許して(W杯準決勝のハーフタイムに発言、なお実際に澤はこの15分後に決勝点となる逆転弾を決めている) 誉れ高き穂希シュート!←※言ってません 日の丸せおって澤ほ丸ってね←※言ってません 追記・修正に困った時は私の背中を見なさい △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 女子サッカーを男子サッカーと同列に扱うなボケ。 -- 名無しさん (2014-05-26 01 15 21) そんなこと言うとラモス瑠偉がキスしに来ますぞ -- 名無しさん (2014-06-01 06 28 46) サワホマレってカタカナで書くとコメの品種みたいに見えない? -- 名無しさん (2014-06-01 06 48 30) 競馬の馬かな? -- 名無しさん (2014-06-01 07 04 43) ご結婚おめでとうございます -- 名無しさん (2015-08-11 16 21 08) 澤もドリブルがうまい -- 名無しさん (2016-05-08 23 48 35) 荒らしコメントを削除しました -- 名無しさん (2018-07-08 00 58 58) なぜ男子と比較してるんだろ?身障者が優勝したら、健常者と比べたりするのか? -- 名無しさん (2018-09-03 12 39 24) ここのコメントで書かれるほど男女のサッカーは差があるの? -- 名無しさん (2023-05-02 13 05 41) 大体中学強豪か高校のチームにA代表がボコられるぐらいのはず -- 名無しさん (2023-06-11 15 36 08) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/washisen/pages/234.html
エキサイティングリーグ パ! 我らのパシフィック・リーグのこと。 かつて用いられていたパ・リーグのキャッチコピー。 パのスレでは、勝利時「エキサイティングリーグ!」と誰かが言ったら「パ!」と返すのが恒例となっている。 恐ろしいゆかいな仲間たち 北海道日本ハムファイターズ 東京時代は「ビッグバン打線」を売り物にした超攻撃的チームだった。 北海道移転後は広い札幌ドームという地の利をいかし、鉄壁の守備を誇る。毎試合、ヒットになりそうな当たりが1、2回は阻止されるのがお約束。 しかも最近は攻撃力が増し、むちゃくちゃ守るわむちゃくちゃ打つわと超こわいチームになった。 外野からはレーザービームやトマホーク(巡航ミサイル)が飛んできて走者を仕留めていく。 チーム防御率・チーム打率は常に上位。勝負強い打者が多い。 ダルの一本釣りや中田・ハンカチの獲得などドラフト戦略が上手く、くじ運もよい。その為、いい選手が多く集まっている。 他球団と比較的大型のトレードをすることが多く、主力レベルでもトレードされることも。 ハムファン的には貧打のチームらしい。これで貧打なら楽天はどうなるのかと小一時間(ry 千葉ロッテマリーンズ サブロー↑ ←好評にお応えして復活しました うーてーいぐちーたっのっむっぞっいぐちー♪カキーン! 50年ぶりに誕生した新球団にプロの厳しさを教えてくれた。 風が試合を左右する本拠地QVCマリンフィールド、そして一人打ちだすと止まらないマリンガン打線を有する。 俊足巧打の選手が多く、それを生かした鉄壁の外野守備を誇る。 親会社がロッテなのでベンチにガムや飴などのお菓子が置いてある。2軍のロッテ浦和球場もロッテの工場の隣であり、チョコレートの甘い匂いが漂う。 2005年開幕戦、2006・2007年シーズン最終戦・2009年ホーム最終戦など、何かと縁のある球団である。 また、飯田哲也、カツノリ、関川浩一、吉田豊彦の引退試合もロッテ戦である。 マリンは小山がサヨナラHRを打たれるところ。 応援スタイルは球界随一の人気とも言われ、わしせん民にもロッテの応援が好きという人間は少なくない。 2009年からKスタで16連敗しており、その中で数々の名試合を生み出した。 激しい3位争いの末CSを勝ち抜いた2010年、史上初のレギュラーシーズン3位からの日本一を達成。この年楽天は最下位だったが、ロッテにだけ13勝11敗で勝ち越し。楽天は日本一の球団に勝ち越した最下位球団となった。 ええと……なんか色々すまん。 埼玉西武ライオンズ リーグ優勝21回、日本一13回と輝かしい勲章を持つ。なんでも黄金期は「優勝するのは当たり前。練習は日本シリーズのためにやる」というチームだったとか。 埼玉に来てから最下位になったのは初年度、ただ1シーズンのみらしい。近年はAクラスとBクラスを行ったり来たり。福岡本拠地時代の末期は黒い霧事件の震源地となり、10年間で4回最下位を記録した暗黒時代だった。そのせいか、近年まで西武的に福岡時代は黒歴史にされていた。 でもそれ以外は普通に強かったし。そもそも暗黒時代と言っても(ry 白にゃんこ打線と呼ばれたのも今は昔、1番ヒット+盗塁→2番タイムリー(orホームラン)で確実に得点してくる。 仮に主力が故障しても、同じくらい打つ若手がすぐ上がってくるチート打線。 ところが最近、楽天打線と苦手投手が被っているような。……猫打線から猛狗鷲魂を感じる? 2009年はCSをかけて激しく争った相手。今思えばあのときは本当に楽しかった。 監督のナベQはくじ運がとてもいい。2009、2010年ドラフトであたりを引く。神の手の力を奪われたか? 若手が多いからか、それとも野武士軍団と呼ばれた西鉄を受け継ぐからか、血の気が多い。過激な住民からは、おとなしい楽天は西武を見習えという声も。 袖達に対し、俺達のいるところ。というかこっちが本家である。そのため、先発は比較的長いイニングを投げてくることが多い。 よくネタにされる俺達ではあるが、楽天打線は俺達を苦手にしている。 中島、中村、菊池、牧田など、楽天の選手と同じ苗字の人が多くて紛らわしい(ただし、読み方が違う場合も)。 シーズン終盤の対猫戦では、想像の斜め上を行く出来事が毎年発生中。(ホセの本拠地胴上げ阻止GS、セギリンデン中谷の3連発、9回裏5点差逆転サヨナラ勝ちなど)サーセンwwwwwwwwwwwww ええと……なんか色々(ry オリックス・バファローズ 阪急ブレーブス、オリックス・ブルーウェーブの流れを汲む古豪。 ほっともっとフィールド神戸は内外野天然芝。ガチでいい球場なので、機会があれば訪れてみては。 近鉄と合併した影響なのか、チーム編成が「打」偏重のような気がする。外国人やベテランが多い重量級打線で、盗塁も少なめだった。 しかし坂口やT-岡田などの若手も台頭。また、リリーフの層も厚い。 応援歌がとてもかっこよく、また鳴り物禁止のKスタでは聞けないが応援団のトランペットは一聴の価値あり。なかでも「丑男」はガチ。全鷲連も見習って欲しい……。 ホームゲームでのスタメン紹介ムービーに代表されるように、イベントでのビジョン演出が凝っている。 2011年からの新マスコット、バファローベルは野球ファン以外からの人気をも得ている。 最近は相手も自分も得する、win-winのトレードをするやり手。どこかの編成部も見習って(ry 札ドでの檻ファンは注目。球団の垣根を越えた、一野球ファンとして胸を打つ数々の名言を残している。 東北地方太平洋沖地震でKスタ宮城が使用不可能となったとき、HMF神戸を貸し出してくれた。ありがたい。 超特大ゴーヤは元気だろうか……。 福岡ソフトバンクホークス HRの出にくいヤフドで三冠王を輩出するなど、とにかくむちゃくちゃ打つ。 それに加え、近年はSBM48など中継ぎが鉄壁。 楽天とここの試合は「ドミンゴwwwww」「真中中央」「薄暮」「あーやめて(ry」など妙な事件がやたらと起こる。 三本柱は基本的に鷹に強いはずだったのだが、積年の恨みを受けて?2010年は大きく負け越し。苦手意識がなかったのは、南海ホークスOBのノムが監督だったからという噂。 左腕、またはイケメンを多数抱える。監督からして男前である。 プレーオフ、クライマックスシリーズなどポストシーズンには異常に弱い。一部野球ファンからは「秋の風物詩」と呼ばれるほど。 近年、FAなどに積極的で補強が多く、層もかなり厚い。風物詩払拭を目指しているのか。また、選手の流出も激しい。しかし、補強で来た選手や若手がその穴を埋めてしまう。 スペランカーやプブをはじめ、故障者が多い。しかし前述の層の厚さで補ってしまう。 ホークスの専スレであるたかせんとわしせんが他の専スレの住民にとってはごっちゃになるのか、どう見てもソフトバンク向けの内容の誤爆も少なくなかった。たかせん側が〓(SBのマーク)をスレタイにつけることで誤爆は減少したものの、たまーに起こることも。 孫オーナーは試合に勝つとtwitterで喜びをあらわにするなど、チームを愛しているのが伝わってくる。どこかのオーナーも見習っ(ry 大阪近鉄バファローズ いてまえ打線を中心とした典型的な打のチーム。 猛牛マークは岡本太郎がデザインした。 勝っても負けてもドラマチック。「江夏の21球」「10.19」「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」など球史に残る数々の名場面を生み出した。 2004年をもって、その55年にわたる歴史に終止符を打つ。 分配ドラフト上、初期イーグルスには近鉄出身者が多かった。現在分配ドラフト経由での近鉄戦士は山村、高須、有銘、牧田が残るのみ。岩隈は一度オリックスに所属し、金銭トレードでの入団という形式になっている。 野村監督曰く、自己中心的な選手が多かったとのこと。 いろいろあったので、イーグルスの前身とする人間もいるが、全く逆に、系譜は絶たれたので関係ないという人間もいる。ちなみに2011年には、オリックスが近鉄復刻デーを開催。商標権はオリ側にあるのかも。 要するに「複雑」なんです……。 ノリさんは楽天にかすかに漂う猛牛のかほりにつられて仙台へやってきたとの説もあり…。 関連語 【パ・リーグ ライブTV】
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/18792.html
登録日:2012/10/27 Sat 07 39 36 更新日:2024/08/04 Sun 20 02 38 所要時間:約 6 分で読めます ▽タグ一覧 1988年生まれ おねだり王子 さいてょ アニヲタ野球選手名鑑 ハンカチ ハンカチ世代 ハンカチ王子 プロ野球 プロ野球選手 北海道日本ハムファイターズ 太田市 小谷野の嫁 投手 斎藤佑樹 日ハムフロントの嫁 早稲田の三羽烏 早稲田大学 早稲田実業 栗山監督の嫁 森福の嫁 甲子園優勝投手 群馬県 過去の栄光 野球 野球選手 開幕投手 「『斎藤は持っている』と言われたこともありました。」 「でも本当に持っていたら、いい成績を残せたでしょうし、こんなにケガもしなかったはずです。」 「ファンの皆さんも含めて、 僕が持っているのは『最高の仲間』です。 」 「皆さんと過ごした時間は、僕の一生の宝物です。」 2021年10月17日現役引退セレモニーでのスピーチより 斎藤佑樹とは、日本のプロ野球選手。 そして日本を代表するピッチャーの1人である。 1988年6月6日生まれ。 群馬県太田市出身。 Mr.MINTIAと並んで「持ってる男」として認知されている…はずだった。 略歴 【甲子園のアイドル】 彼が脚光を浴びたのは高校生の時である。 当時の高校野球は甲子園大会三連覇を目指す駒大苫小牧の田中将大を初め、 前田健太、坂本、大島、宇高、2年ながら怪物と言われた中田翔など通常では考えられないほどタレント揃いであった。 甲子園は毎日熱戦が繰り広げられ、この年の甲子園は近年で最も盛り上がったという人も少なくない。 その中で斎藤はこの世代を代表する投手になったのである。 MAX147キロの速球は終盤まで球威を落とすことなく、追い込んだら最後ストライクから鋭くキレるスライダーで三振の山を築く。 何より優れていたのがコントロールであり、1試合通して甘い球を投げることはほぼなかった。 そして彼をさらに有名にしたもの、それはポケットに忍ばせていたハンカチ(*1)で汗を拭う姿だ。 「ハンカチ王子」の愛称で呼ばれ、世の中の女性をおおいにキュンキュンさせた。 彼の青いハンカチはブランド等が不明だったが、それでもそれっぽいハンカチがオークションに出る始末。 マスコミも話題にし始め、2006年の流行語大賞トップ10にもノミネートされるほど一大ブームとなった。 そして8月20日、田中を擁する駒大苫小牧と斎藤率いる早稲田実業は決勝戦で火花を散らすことになる。 両者一歩も譲らぬ白熱した投手戦が繰り広げられ1対1のまま試合は終了。 実に37年ぶりとなる決勝戦引き分け再試合が行われることとなった。 次の日、それまでの疲れか田中は4点を奪われる苦しい試合となる。 4対1で迎えた最終回。 だが、まだ夏は終わらない。 1点差に迫る2ランホームランが駒大苫小牧から飛び出した。 しかし後続が倒れ、ついに9回裏2アウトランナー無し。 ここでバッターはなんと田中。 野球の神様の悪戯としか思えない展開に甲子園もテレビの前の全国民も最高潮にヒートアップした。 追い込まれてなおファールで粘る田中。 ここにきて147キロを計測する斎藤。 1球ごとに甲子園はどよめいていた。 そして7球目、田中のフルスイングはボールに当たらなかった。 この瞬間、あの王貞治も成し得なかった早稲田実業の初優勝が決まったのである。 それからの斎藤フィーバーは凄まじく、まさに斎藤は日本を代表するピッチャーになったのである。 同年秋の国体決勝でも同じ顔合わせとなり、やはり斎藤が田中に投げ勝ち優勝を決めている。 なお、この夏の甲子園で斎藤が投げた球数は948球。一大会の投球数としてはダントツの1位である。(2位は820球) 【早稲田進学】 高校卒業後、田中はプロ入りして楽天に指名されるものの、斎藤はプロ志望届を提出せずに早稲田大学への進学を選択した。 しかし、この判断が彼の野球人生を大きく狂わせることになる。 大学ではその知名度もあり1年次から先発として起用。斎藤も期待に応え、2年次まで無双と言っていい成績を残す。 しかし本来身体作りに専念すべき時期に実戦起用を繰り返され、また9日間5先発という無茶な酷使起用もあり少しずつ調子を落としていく。 試合を見にくる客はほとんどが斎藤目当てであり、彼が登板しないと客が来ないという理由から、とにかく実戦で起用された。 3年次には球速を求めてフォーム改造に挑戦するも失敗。 ろくな指導者のいない状況でのフォーム改造は無謀であり、大学時代初の防御率3点台を記録するなど劣化が垣間見えていた。 それでも4年次は主将を務め、30勝300奪三振を記録するなど早大の優勝に大きく貢献した。 【NPB入り、そして…】 2010年ドラフトで4球団競合の結果日本ハムファイターズに指名を受け入団。 翌年4月17日ロッテ戦でプロ初勝利。ASにも出場し、6勝を上げるなどまずまずのスタートを切った。 2012年は2年目にして開幕投手を務め、9回1失点でプロ初となる完投勝利。「今は持ってるのではなくて、背負ってます」という言葉を残した。 しかし夏に入る頃から不振に陥り二軍落ち、5勝に終わる。日本シリーズでも中継ぎとして登板し1イニングを抑えるも2イニング目で捕まり2回2失点。 この年オフに肩関節唇損傷と診断される。 (※肩の酷使が原因で起きる怪我。この時点で投手生命は尽きたと言ってもいいレベルの怪我である。) 2013年は二軍スタート。しかし二軍でもまともに抑えられない日々が続く。二軍守備に対する批判をするなど苛立ちが垣間見えるようになる。 (ちなみにハム二軍守備は内野陣だけで100失策を記録したこともある程の酷さなのは事実) 一度一軍に上がるも炎上して即降格。 2014年もパッとしない出だしだったが、先発陣不調のタイミングで一軍に昇格、785日ぶりとなる勝利を上げる。 終盤にも勝てばCSという試合で勝利投手となり、久々の2勝を記録。 ちなみに久々の勝利の少し前にヤンキースへ移籍した田中が怪我で離脱し、「田中の危機を感じついに復活したか」と期待されたが、気のせいだった。なお田中は9月に復帰している。 2015年は一軍ローテとしてスタートするも、1巡目は抑え2巡目に打たれるの繰り返し。成績を残せず一軍と二軍を行ったり来たり、先発と中継ぎも行ったり来たり。 終盤に1勝をあげるもそれ止まり。 2016年以降(1勝した2017年を除き)は勝利数0以外はほぼ同じような感じの成績だった。 毎年オフシーズン間際になると斎藤の進退情報が出つつもなんだかんだ残留していたが… 2021年10月1日、現役引退を表明。 そして17日にオリックス・バファローズ戦で引退試合と引退セレモニーが執り行われた。 7回表にオリックスの福田周平の打席に登板し、四球を与え1人で降板したものの、スタンドからは温かい拍手が送られた。 試合は4-3で日本ハムが勝利し、試合後には引退セレモニーを執り行い、栗山監督、斎藤を見出した梨田昌孝氏、早実の先輩である王貞治氏からのビデオメッセージや、 斎藤が一番過ごしたであろう、そして一番苦楽を共にした最高の仲間 でもある鎌ヶ谷の選手がビデオメッセージで斎藤の登場曲である『佑樹勇気100%』を合唱し、引退試合に華を添えた。 プロ11年での通算成績は 89試合、15勝26敗、投球回364.2回、209奪三振、防御率4.34 。 上記のように、現状では『甲子園で活躍したのにプロでは……』というよくある例の一つと化してしまっている。 甲子園でのライバルと言われた田中がNPBをほぼ制圧し、MLBでも活躍している現状と比較すると悲しくなるほどの差がついてしまった。 「ハンカチ世代」ももはや死語と化し、同世代の選手からは「僕らはマー君世代。ずっと彼を目標にやってきた」とこの呼び方を明確に拒絶されている。(*2) (ちなみに、2012年に田中将大、坂本勇人、前田健太の3人が中心となって“1988年度生まれ”にちなんだ「88年会」というグループが発足した) 同様に甲子園で活躍した後進学し、目も当てられなくなっている島袋洋奨などと並んで、 「高校時点で有望な投手は進学すべきではない」という例として引き合いに出されることも多い。 なお、贔屓起用と揶揄されることもあるが実際はそこまで贔屓されているわけではない。 単に日本ハム先発陣の現状が酷過ぎて(斎藤自身もその一員だが)、二軍でそこそこの成績を残している斎藤を使わざるを得なかったという状況なだけである。 引退後 大学時代に人気が殺到した関係で止むに止まれず両親がマネジメント会社を設立していたため、引退後はその会社の代表になっている。 野球を愛する気持ちは引退しても変わらず、野球の未来を育てるために活動して行くらしい。 テレビ番組で高校野球を取材したときには、自分がプレーしないのに練習風景を見て嬉しそうに話すなど、野球への愛は引退しても変わらないようだ。 また、彼はカメラが趣味であり、現役時代から一眼レフカメラで風景などを撮影していたらしい。 引退後、テレビのレポーター役で高校野球を取材した際にはその練習風景なども撮影しているが、腕は悪くないようだ。 余談だが日ハムは2022年シーズン終了後、阪神とのトレードで「斎藤友貴哉(さいとうゆきや)」選手を獲得したのだが漢字が「さいとうゆうきや」と読めるせいで「さいとうゆうきが去ってさいとうゆうきが来た」等とネタにされた。 ビッグマウスについて 後述の迷言集にもあるように、彼を語る上で欠かせないのがビッグマウスである。 高校・大学・プロでも常にマスコミに付きまとわれ、コメントを求められる度に飛び出るビッグマウスに反感を持つ人は少なくない。 たとえ大炎上した試合でも「方向性は間違っていない」「課題は見つかった」と言い出す。 ポジティブな事自体は悪くはない(栗山監督も姿勢自体は非難していない)し、揚げ足取り上等なマスコミにそこまで踏まえてしっかり対応せよ、というのも酷な要求ではあるだろうが、 いつまで経っても結果が伴わない現状からか妄言と取られてしまう。 ドキュメンタリーでの「カイエン乗りてぇ。青山に土地買うってヤバいですか?」発言を揶揄して「カイエン」や「カイエン青山」とも呼ばれたりする。 2016年は「鎌ヶ谷の二軍練習場に通うための車が欲しい」とベースボールマガジン社の社長へポルシェをおねだりして見事マカンをゲットした事が発覚してからは「おねだり王子」「マカン鎌ヶ谷」と新たな蔑称愛称で呼ばれたりもしている。 ただし、カイエンに乗りたいという目標自体はプロ野球のスーパースターとしての可能性も(当時の時点では)現実的に見えていた若者が語る夢としては別に不思議でもなく、カイエンの価格自体もドラフト上位の選手ならば契約金で購入可能な範囲である。 これらの事情から「金のある若者に対する単なる妬みではないか」「斎藤の立場から見れば無理でもない目標で馬鹿にされることでもない」としてこのネタに対する反論もあり、後に呼び名として「さいてょ」が定着したことや斎藤自身が引退したこともあってあまり見かけなくなっている。 ちなみに、かつてDeNAや楽天に所属していた熊原健人が学生時代にTwitterにてカイエン青山のネタを揶揄したことがあったが、2017年に1軍の交流戦において先発投手として直接対決することになり、結果は斎藤が勝利を収めた。 【名(迷)言集】 「大勢の観客の中で投げるのに慣れた。今じゃあれがないと物足りない」 「高校で注目されすぎた。大学で騒がれる予定だった」 「秋頃のフォームに戻れば自分は今でも普通にプロで通用するレベルにいる」 「大学野球くらい今の自分なら普通に抑えられる」 「六大学にはライバルと思える人はいない」 「自分が調子が悪くても抑えられる大学野球のレベルに萎えたのは事実」 「大学野球の投手は大した事ない」 「(ドラフト)一位指名ならいってやる」 「いずれ160キロ出したい」 「(田中は)基本的には四年前と変わらない印象」(これは「田中は今でも甲子園の同級生の印象」という意図だったが、「今でも俺と同格」というニュアンスで報道された) 「マジですか!フハハ!」 「何かを持っていると言われ続けてきたが、今日何を持っているかが分かった。それは仲間」 「カイエン乗りてぇ。青山に土地買うってヤバいですか?うわぁ頑張ろうビッグになろう」(※実際の彼の現在の愛車はスバル・レガシィアウトバックとマツダ・デミオ) 「(記者に)"斎藤世代、襲来"っていう見出しはどうですかね?」 「北海道民の皆様、ファンの方、こんにちは。東京都の早稲田大学から来た投手です」 「50歳まで現役でやりたい」 「プロ野球だけが仕事じゃない」 「これからも10割の力で投げることは無い」 「先発と中継ぎは違いますよね。自分は先発でやりたい」 「日本一の18番といえば斎藤?それを目指したい」 「持ってるんじゃない。背負ってます」(後にこの発言を自身で振り返って「言わなきゃよかった」と後悔) 「二年目のジンクスという言葉があるなら使いたい」 「筋肉がいなくなった」 「(3回までは好投だったが4回から11失点で)四回以降はなしと考えて次に進む。気にしない。進んでいる方向は間違っていない」(悪いところを気にしすぎず良いところを良くするという考え方は間違っていないが、大炎上しているため気にしないという表現は大変に語弊がある) 「来季の目標は25勝です!」(インタビュアーの失笑に対し)「本気なんですけど」 【あだ名】 ハンカチ王子 第一のあだ名。甲子園での活躍の際、ハンカチで汗を拭く姿が印象的であったこと、端正な容貌から。 かつての栄光を称えるあだ名であり、現在ではほとんど皮肉を込めてしか使われない。 さいてょ 第二のあだ名。2011年3月21日の阪神タイガース戦で、女性ファンが掲げた「SAITHO」のプラカードから。「SAITOH」のスペルミスと思われ、これを日本語入力で打つと「さいてょ」となることから。 微妙に間の抜けた響きから、低迷が目立ち始めた彼を嘲笑うあだ名として定着している。 カイエン青山 前述通り、「青山に土地買うってヤバいすか?」「カイエン乗りてぇ」という発言から。 マカン鎌ヶ谷 前述通り、マカンに乗っていること、日ハム二軍の練習場がある鎌ヶ谷にひっかけて。カイエンからマカン、青山から鎌ヶ谷というランクダウンへの皮肉を込めたもの。 おねだり王子 前述通り、ベースボールマガジン社社長におねだりしてマカンを買ってもらったこと、ハンカチ王子というかつての愛称から。 追記してぇ。項目に追記修正するってヤバイですか?うわぁ頑張ろう。ビッグになろう △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- 特定個人や団体への愚痴や批判的な書き込み、誹謗中傷等を行った場合、IP規制・コメント欄の撤去等の措置がされる可能性がありますのでご了承下さい ▷ コメント欄 [部分編集] 大谷がメジャーに行った時こそ斎藤の時代だ -- 名無しさん (2017-02-05 08 25 55) ↑自分がパワプロ2013をプレイしてたころは、野球留学させて強化し使って、準エースだから、たぶんそれなりのポテンシャルはあるんだよ。素人考えだけど。1番をもらったことだし、これに奮起して、秘められた力を全開放してがんばっていただきたい。 -- 名無しさん (2017-02-09 19 27 29) 怪我さえしなきゃな・・・ -- 名無しさん (2018-01-11 22 26 50) ノーヒットノーコンって・・・よくもまぁ失点一で済んだもんだ・・・ -- 名無しさん (2018-04-10 20 46 31) 島袋もそうだけど高校で湧かせた投手は大学行かない方が良いと思う。 -- 名無しさん (2018-05-08 16 30 23) 高卒ドラ1ならもっと酷い成績でもこの年までなら残れるしな。セカンドキャリアと学歴の関係は否定できないが -- 名無しさん (2018-11-12 12 38 04) 斉藤和巳を終わらせた怪我と、杉内を終わらせた怪我をしたのにまだ投げられんのはスゲェわ -- 名無しさん (2020-02-16 16 54 43) 逆にこれからはどれだけプライドを捨てられるかだど思う。バラエティ番組には引っ張りだこじゃない?しくじり先生とか -- 名無しさん (2020-03-20 23 17 25) 同僚からは白い目で見られるしネットでも叩かれるけど1250万円の仕事 -- 名無しさん (2020-12-18 19 50 07) でも、ここが正念場かもしれないな。監督、「もう情は捨てる」みたいなこと言ってたし、来シーズン結果出せないと、今度こそ戦力外にされてしまうかも -- 名無しさん (2020-12-18 20 24 30) 同じように同い年に世界に出てる人間がいるゴルフの石川遼は「日本国内ならプロとして十分通用してるし世界にもたまには顔を出せるぐらいには凄腕」ってのがまた・・・ -- 名無しさん (2020-12-18 21 03 44) ある解説者は、『もう選手生活には見切りをつけて、他の野球関係の道に進む準備をするべき』と言ってるけどねぇ…… -- 名無しさん (2021-02-09 09 29 52) 某漫画の表現借りればこれだけの年「株式会社プロ野球」にいられるのはそれはそれで十分凄いことなんだよな。本当に鳴かず飛ばずならとっくにクビになってる。 -- 名無しさん (2021-02-09 12 09 03) 行動や言動に多少アレな部分はあるにしろ、結果を出せなくて相当苦しい思いもしてるんだろう。指導者の道に進むのなら、その経験をしっかり教え子に伝えて欲しいが。 -- 名無しさん (2021-02-09 13 35 46) 選手としてはダメだがコーチとしてなら優秀って人もそれなりにいるし、ある意味彼の経験は貴重と言えば貴重だし。もしかしたら既にそちらに軸足を移し始めているかも… -- 名無しさん (2021-02-09 13 45 15) カイエン青山呼びだけは本当に嫌い。契約金や年俸を資産価値のある高級車や土地に投資しておく側面もあるから野球選手では良くある事って微塵も知らないバカ丸出しで。って言っても当時の野球を見ないゴシップ好きなだけの奴らは聞く耳も持たなかった…… -- 名無しさん (2021-02-09 13 53 36) おねだりの件は斎藤本人も悪いけど、週刊ベースボールの社長は一体何を考えてたんだかな・・・。スポーツジャーナリストとしてそれだけは絶対やっちゃいけないだろうと。 -- 名無しさん (2021-02-09 14 59 13) 應武がやってた時の早稲田ってロクな選手輩出してないんだよな、はっきり言って斎藤佑樹は大学野球の被害者だよ 股関節やったら杉内だってどうにもならなかったのに -- 名無しさん (2021-08-23 22 11 20) 酷使にどこまで本人の意志あったかしらんが、高校野球や大学野球をプロへの登竜門と思ってたなら被害者ではある。建前通りクラブ活動の一環のつもりだったら当たり前というか。 -- 名無しさん (2021-08-23 22 26 11) 早実からそのままプロ入りしてれば、入る球団にもよるけどもっとまともに活躍出来たんじゃないか -- 名無しさん (2021-08-24 11 37 18) ついに引退か…何年も前からヤメロヤメロと言われてきたが、いざ辞めるとなると感慨深いものがあるな。ドラゴンボールの連載終了の時みたいな。 -- 名無しさん (2021-10-02 16 11 41) ビッグマウスだって、自分を追い詰めて向上心を保つ意味では一方的に悪いわけじゃない。彼の場合体の不具合は向上心ではどうにもならずその辺が裏目に出てしまって、自分のビッグマウスに自分で潰されたんじゃないかと思うことがある。 -- 名無しさん (2022-04-04 11 08 30) 野村克也から「マー君は神の子やけど、斎藤は神頼みやな」と皮肉られたのがまた…。 -- 名無しさん (2022-10-27 11 01 21) 一応初年度はそこそこ活躍できてたし -- 名無しさん (2024-07-11 12 13 04) ↑飛ばない統一球の年じゃなかったっけ・・・斎藤がそれなりの成績遺せたの -- 名無しさん (2024-07-24 08 44 20) ↑3 それプロ入りしてからの話だからなあ… -- 名無しさん (2024-08-03 14 47 47) 今年の甲子園は同姓同名の高校球児が出てきたな。 -- 名無しさん (2024-08-03 15 59 14) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/karakuri_ss/pages/240.html
『闘犬(とうけん)』。 犬と犬が戦うブラッド・スポーツ(動物に暴力をふるう、あるいは動物同士を戦わせて楽しむスポーツ)の一種。 中世では、「犬くい」とも、「犬合わせ」とも呼称(表記)されていた。 犬型の獣人かつ、四足歩行形態の戦闘形態を持つ、オオウ星人の間でもまた『闘犬』は行われていた。 闘犬と言う1事情だけ見れば、人間との関わり合いは蜜月の関係にあり、 人間はトレーナーとしてオオウ星人に接し、オオウ星人もまたそれを良しとしていた。 そして物語の舞台は『シコク』へと移る。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ○クロガネの賛歌 第7章 “死闘!惑星オオウ” 第 4 話 「 ベ ニ ザ ク ラ v s ア ラ シ 」 ○惑星オオウ シコク 闘犬場 「ベニザクラァァァァァアアアアアアアアアアアアアアア!!!」 「アラシィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!」 観客席から絶叫がこだまする。 今日は過去の戦績が300勝300敗の宿命のライバル同士の横綱対決…!! “海坊主”ベニザクラvs“鳴門(なると)の牙”アラシの試合があるのだ!! そして、二人はこの試合が『最終試合』である事を公言していた!! この試合で全ての決着を付けるのだ!!嫌が応でも闘犬場は盛り上がる!! そんな場に…。 大柄な淑女(しゅくじょ)、QueenX(クイーンエックス)と、 イガ忍犬の総帥・アカメもまた、この闘犬場の観客席に居た。 Queenは感嘆(かんたん)する。 「Excellent(エクセレント)!凄い盛り上がりです!!」 アカメはこう言う。 「わし等、オオウ星人としても、 四足歩行形態の戦闘形を、存分に発揮出来る場だからな。」 「この場所は有り難いものだ。」 Queen。 「オオウ八犬士の残り二人が、この闘犬のチャンプである…。」 「『“海坊主”ベニザクラ』と『“鳴門の牙”アラシ』とはね。」 「綿密に繰り返された『その闘いの人生』…!」 「年齢が年齢ではあるものの、頼りになると言うしかないでしょう!!」 アカメ。 「ああ。戦いの数は八犬士の中でも、 ダントツでナンバー1だな、あの二人は。」 「老いたとは言え、その歴戦ぶりは、わし等の手本となるだろう。」 Queen。 「おっと、入場の様ですよ。ミスター・アカメ。」 アカメ。 「まずはベニザクラだ。」 オオオオオオオ オ オ オ オ オ オ オオ オ オ オ オオ オ ! ! ! 歓声が沸き上がる。 四足歩行形態の戦闘形態にて、『ベニザクラ』の入場である。 地球で言うトコロの『土佐犬』の特徴を持ったオオウ星人だ。 幾多の戦闘に置いて、両耳が千切れ、 その風貌(ふうぼう)から“海坊主”と呼ばれる。 引き連れるは少年トレーナーのノブオ。 13歳。父から受け継いだ、闘犬トレーナー業を引き継いだ少年。 他の所属闘犬が居ない為、この試合は彼にとっても最後の試合となる。 ノブオ。 「ベニザクラ。しっかり戦うんだぞ。」 ベニザクラ。 「ああ、しっかり目に焼き付けるだぜ。坊主。」 オオオオオオオ オ オ オ オ オ オ オオ オ オ オ オオ オ ! ! ! 歓声が沸き上がる。 四足歩行形態の戦闘形態にて、『アラシ』の入場である。 地球で言うトコロの『土佐犬』の特徴を持ったオオウ星人だ。 非常に鋭い牙を持っている事から『鳴門の牙』と呼ばれ恐れられている。 引き連れるはトサマル星出身のトレーナーのコジロー=イヌカイ。26歳。 代々、トサマル星で、闘犬トレーナーを生業(なりわい)としていたが、 惑星オオウの闘犬の奥深さに触れ、星から移り住んできた。 コジロー。 「アラシ。今日も頼んだぞ。」 アラシ。 「言われるまでも無い事だ、コジロー。」 ベニザクラとアラシ。2人とも闘犬場に入った。 ベニザクラ。 「・・・・・・!」 アラシ。 「・・・・・・!」 両者とも唸り声すらあげない。 闘犬では、先に鳴いた方が敗北となる。 故に吠えない。 闘志は内に秘める。 そして程なく…!! ド ン ! 太鼓が鳴った!! ベニザクラ。そしてアラシ。 両者はにらみ合っていた。 そして。 ジリ…。 ジリリ…。 接近をする。 ガァァァアア ア ア ア ア ア ア ア ア ! ! ! 両者、ほぼ同時に跳びかかる!! そ し て モ シ ュ リ … ! ! お互い、首根っこにかぶり付く…!! ブチリ…! ブチブチ…! ブゥチィ…!! “鳴門の牙”と呼ばれ、鋭い牙を持つ、 アラシの牙が深く食い込む…!! そ の 瞬 間 ! グォォオオオオ オ オ オ オ ! ! ベニザクラが、アラシを投げ飛ばした!! “海坊主”と呼ばれる、闘犬ベニザクラ! その本領はその怪力にある…!! ベニザクラとアラシは共に同程度の体格であるが、 その力はベニザクラに分があるのだ。 ドシィ!! ベニザクラは前足でアラシに張り手を喰らわす!! ゴロロ!! アラシは転がり飛ばされる!! スッ! アラシは何とか立ち上がる!! それに対しベニザクラ!! 「……………ッ!!」 頭突きを試みるッッ!! ゴ ッ ッ ! ! 鈍い音がする!! 額と額とがぶつかり合う音だ!! ズズ…!! アラシが頭突きの威力で弾かれる!! ベニザクラ!! 「……………ッ!!」 再び頭突きを試みるッッ!! ッ ッ ! ズシャァァァアアア ア ア ア ア ! ! それは!『殺人タックル』であった!! トレーナー・コジロー=イヌカイの出身星、 『トサマル星』に二つの名物あり! 一つ!『闘犬』!! 二つ!『殺人野球』!! 殺人野球の中で、スライディングの最中、 シューズのスパイクで相手を切り裂く事は日常茶飯事である!! その技術をアラシは使ったのだ!! ベニザクラの頭突きを、アラシは後ろ足で下方に突っ込みつつ、 爪を上を向ける事により、ベニザクラの腹を切り裂いた!! 結果! ジワ…!! 出血!! 闘犬の硬い皮膚により、 成果は芳(かんば)しくないが、 その腹を切り裂いたッ!! ベニザクラ! 「……………ッ!!」 アラシ! 「……………ッ!!」 共に五分!! 10分が経った。 ベニザクラ。そして、アラシ。 差は無かった。 共に疲弊し。共に限界が近づいていた。 ガァァァアア ア ア ア ア ア ア ア ア ! ! ! 幾度噛み付いた事であろうか。 噛み付いても噛み付いても共に引かない…!! グォォオオオオ オ オ オ オ ! ! 幾度投げ飛ばしただろうか。 幾ら投げ飛ばしても共に立ち上がる…!! これが最後の試合…! 共に老齢…! 御年(おんとし)400歳!! 最早…!思い残す事は無い!! コイツとの決着が着きさえすれば!! 2人は共に狙い定めた。 狙いは…! 『 喉( の ど ) 』ッ ! ! そこを掻(か)っ切れば、動きを止めるだろう。 そして…!命もまた、鼓動を止める事となろう…!! それでも…!! それでも構わない!! 俺はコイツに勝ちたいのだ! アイツもそうだ! アイツは俺に勝ちたいのだ!! 何に替えても…! 何に替えても!! だから戦おう!! 全力を持って!! 今、ヤツの喉を牙で持って掻っ切ってやる!! そ う ら ! ! こ う や っ て ! ! ッ ッ ガァァァアア ア ア ア ア ア ア ア ア ! ! ! 2人とも狙いは喉であった!! ド ズ ゥ ! ベニザクラが頭突きで、アラシを吹っ飛ばす!! ド ゥ ! ベニザクラがアラシの喉を狙う!! し か し ! アラシは、すぐに体勢を戻し!! ド ゥ ! アラシも同じく、ベニザクラの喉を狙う!! 今 ! グジュルブワァァァアアアア ア ア ア ア ア ア ! ! 正 に ! 一 瞬 の 出 来 事 で あ っ た ! ! 喉 を 掻 っ 切 っ た の は … ! ! “ 海 坊 主 ” ベ ニ ザ ク ラ で あ っ た ! ! ア ラ シ は 苦 し み … ! ! 呼 吸 困 難 に 陥( お ち い )り … ! ! そ し て ア ラ シ は 絶 命 し た ! ! 凄 惨( せ い さ ん )な 結 末 が そ こ に は あ っ た ! ! ー アラシ 男 年齢 400歳 必殺技 『 鳴 門 の 牙 』 ・・・ ・ ・ ・ ・ 『 死 亡 ッ ッ ! ! ! ! 』 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ Queenは拍手をする。 「Excellent(エクセレント)!正に引退試合に相応しい!!」 「オオウ八犬士『ミスター・アラシ』の死亡は残念ですが、7人も揃えば十分でしょう!!」 アカメは口を挟む。 「その事なのだが…。」 Queenは問う。 「どうしましたか、ミスター・アカメ?」 アカメは答える。 「オオウ八犬士が欠いた時の為、一人だが補欠が居てな。」 「こうなった以上、その者のトコロに行かねばなるまい。」 Queenは再び問う。 「ほう…。それは一体誰ですか?」 アカメは答えた。 「ベン王に『撃・閃通臂抜刀牙(げき・せんつうひばっとうが)』を伝授した、 先代のオオウ八犬士であった勇士…!!」 「 “ 鉄 人 ” 『 ム コ ン ガ 』 ! ! 」 ーーーーーー 戻る リンク集に戻る ・・・続く。
https://w.atwiki.jp/puyopuyo-player/pages/95.html
≫English ミスケン 概要 1990年代後半から2004年頃にかけてACぷよぷよ通において一時代を築いた、伝説的な全一プレイヤー。現在は引退。 階段積みや鍵積みなどのいわゆる定形連鎖が常識であった時代に、GTR(考案はタナカッチ)やサブマリン、だぁ積みなどの「不定形」の研究を独り進め、これを実戦レベルに昇華して抜きんでた強さを体得した。1997年以降の大会・格付け勝負では無敵を誇り、数々の伝説とともに全一の名をほしいままにした。今でこそGTRなどはもはや逆にテンプレの積み方となっているものの、当時その革新的な連鎖スタイルはプレイヤーたちに衝撃を与え、また、連鎖構築において将来的に使う形を想定しながらぷよを設置し後からつなぎ合わせるという、先置き「合体」の概念を初めて確立した。 戦術面では、相手の画面を注視する「凝視」や相手の連鎖を打たせる「発火催促」といった既知の基礎戦術や、相手の中盤手に連鎖を合わせる「クロス」(現代ではあまり用いられない語となったが、「シンクロ発火」もしくは限定的な「置き去り」に近い)などの概念を自身の実践によって広く普及し、同世代のseta(千葉聡)と並んでこれらの戦術面の発展を大きく推し進めたプレイヤーと認識される。圧倒的な強さで長年全一に君臨したカリスマ的存在であったと同時に、戦術史の面からみれば、ぷよぷよが「連鎖を組むゲーム」から対戦型パズルゲームへと革新する上での現代の競技性に通ずる基礎を形成した“始祖”の全一プレイヤーであると言える。 出身は神奈川県。 1996年、コンパイルが主催した各都道府県での大会「ばよえ~んツアー'96 」宇都宮大会で優勝し、続く全国大会では敗退した。後年に振り返って「当時は無名だったが、全一への手応えを感じており、全国でも優勝する自信はあった」と語っている。 全国大会敗退後、当時用いていた鍵積みを辞め、新しい形の開拓に可能性を見出し、ちぎりなしの不定形連鎖の練習を開始した。これを1、2カ月で実用レベルまで習得すると、同年末にはプレーステーション大会の場で実践した。この時期には、近所に住む千葉兄弟(千葉聡とその兄)の家に出入りして対戦を繰り返し、ともに実力を磨いた。 翌1997年3月、幕張メッセで行われ延べ3万人を動員した「第3回全日本ぷよマスターズ大会」に出場した。実に2万人もの参加者から本選の64人の中に残っていたが、ベスト4手前で、鎬を削り合ったライバルの千葉聡と当たり、お邪魔ぷよを受けて不利を被るなか置きミスで3列目を埋めてしまい窒息。ベスト8で敗退した(千葉はその後優勝)。 そして、昨年のリベンジを期して臨んだ「ばよえ~んツアー'97 」では、不定形を用いて宇都宮大会を優勝。優勝後のエキシビションで前年度全国覇者のぷよまつ(松金輝久)と対戦して3−0で完勝を収めた。その後、東京大会でもくまちょむ(服部崇)との決勝を制して優勝。その後、1997年9月に行われた全国大会(ファイナル)でも優勝を果たし、一気に最強プレイヤーの座に躍り出て、その一強時代が幕を開けた。 1997年12月には、「第2回ぷよぷよ名人戦」に出場し、予選の組み分け抽選では2ブロックのうち、高橋健太郎、村田篤史、服部(くまちょむ)、亀山(Kamestry)、山川藤彰、古橋充ら当時の強者が偏って集った予選Bブロックに配された。しかし、これを物ともせず、22人の総当たりを村田に1敗したのみの21勝1敗(勝率95%)で1位通過すると、本選でも全勝で優勝した。これにより名人位挑戦権を得て初代名人の田中浩生にも5-4、5-1で勝利し、2代目「ぷよぷよ名人」の称号を手にした。 その後は、1998年3月にコンパイルが経営破綻したことで大規模な公式大会の場はなくなったが(『ぷよぷよ』の版権は2002年8月まで保持)、ACぷよぷよ通の聖地に数えられるゲームセンター明大前ナミキの公認大会・対戦会に現れては「異次元」と評されるプレーでギャラリーを魅了した。 1999年には、kuroroの誘いを受けて田中浩生宅でkuroroと100先を行い、100-36で勝利。この対戦は録画されており今でもニコニコ動画で見ることができるが(→動画リンク)、連鎖の技術もさることながら当時からすでに高い凝視精度と中盤意識をもって対戦していることがうかがえる。この録画ビデオ(VHS)はその場に居合わせたくまちょむによってすぐにダビング(複製)を重ねられ、各所に配られて鑑賞・研究された。 2001年10月に公式で行われた最後の「第7回昇段戦」では、予選・本選ともに全勝で「2段」に昇格した。 一方で、上級者同士では100先での格付け勝負が行われ、その中で他の追随を許さない桁違いの強さを示し、圧倒的全一としてその名を轟かせ続けた。同世代のプレイヤーで後に「四強」と称されるくまちょむ、Kamestry、kuroro、そして同じ横浜セブンアイランドで台頭した直弟子ALFらとの100先は常に50〜60本以下に抑えていた。 2001~03年には、関西に招かれて現地のプレイヤーらと連戦を繰り広げるイベント「ミスケンフェスタ」が計3度開催された。ここでも圧倒的な戦績を挙げ、各地のプレイヤーや後進の実力伸長にも大きな影響を与えた。 2003年頃にはぷよぷよのプレー頻度がやや低下したものの、実力的にはいまだ一強を保った。しかし、成長めざましかったくまちょむとの2003年3月に行われた100先では100-77と、初めて70本台を許した。 2004年5月16日、明大前ナミキにて引退試合となるくまちょむとの100先を行った。当初は30先想定で行われ、29-30で先に30本を許したものの、その後そのまま続行することになり100先に移行した。最終的に100-95の僅差でこれに勝利し、無敗のまま引退した。 引退後は格付け勝負はもちろん、人前でプレーする機会はほとんどなくなったが、稀に対戦会に姿を見せることはあり、ぷよぷよを楽しむ様子が見られた。 2013年11月には「Redbull 5G 2013」の東日本オフライン予選に参加した。 2018年9月、大阪のK1スタジアム内「関西ぷよぷよ道場」にて、Kamestryと30先を行った(結果は23-30)。 2019年1月には、埼玉県のデイトナ蕨にて行われた「momoken連戦祭」でmomokenと組手の10人目(最後の対戦相手)として対戦。11-30で敗れた。 エピソード 第3回マスターズ大会で千葉聡に敗れて帰宅した後は、徹夜でCOM相手に連鎖練習をしたという。「優勝できなかったことではなく、聡に負けたことが悔しかった」と後年振り返っている。 100先などの連戦は、ほとんどが「今からやろう」の突発で行われたが、それでも常に圧倒的な戦績であった。 SFC版『マリオカート』では、レインボーロードの最速記録を持っていた。 テレビ東京「マリオスタジアム」に出演したことがあり、『マリオカート64』のマリオサーキットのタイムアタックに挑戦。番組記録を大きく更新した。 2002年頃、明大前ナミキの対戦会でいつも以上に異常な強さと技術を発揮した日があり、途中で「爪が割れて血が出てきた」と呟き、「血の日」と言われている。 2003年頃にkuroroがミスケンの家に初めて訪れた際、モニタとキーボードが異様に離れていることを不思議に思い、その理由を聞くと「目が疲れないよう、長時間集中できるため」と答え、その姿勢に感嘆させられたという。 数々の伝説・逸話を持つが、中には「ぷよをやらない日でも3連鎖」「ガッツポーズしただけで5連鎖くらい起きた」などの大喜利的なエピソードもまことしやかに語られている。 ジャグリングを特技としていた。お手玉7個の日本最年少記録を立てたことがある。 主な戦績 ばよえ~んツアー'96 宇都宮大会 優勝 第3回全日本ぷよマスターズ大会 ベスト8 ばよえ~んツアー'97 ファイナル 優勝 第2回ぷよぷよ名人戦 優勝 呼称・二つ名 宇宙人、超人、ぷよぷよ名人、三須健太郎(本名) チャンネル・SNS Twitter:@misuken_now 生年 1981年
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/15870.html
登録日:2011/04/06(水) 09 26 52 更新日:2024/09/05 Thu 15 01 18 所要時間:約 30 分で読めます ▽タグ一覧 4強1弱1ベイス NPB ☆に願いをカード どうしてこうなった セ・リーグ チーム ネタチーム ピストル打線 プロ野球 プロ野球チーム ベイスターズ ベイスボール ホモ差別 マシンガン打線 マシンガン継投 他球団捕手の育成場 大洋 左門 所要時間30分以上の項目 打低投壊 指名回避 横浜を出る喜び 横浜市 横浜銀行 焼肉 球団 球界の産廃処理場 短い黄金期 神奈川県 選手の最終就職先 野球 野球チーム 横浜ベイスターズとは横浜に本拠地をおくプロ野球チームである。 テーマソングはtvkでよく流れる『熱き星たちよ』。 かつてはマシンガン打線を中心にAクラス争いをしたが、2000年代中頃から末期までは球界屈指のネタ球団であり、 そして12球団で一番弱く、前身・後身チーム含めてでさえ、優勝経験が過小であるチームでもあった。 この球団はかつて大洋ホエールズという名であり、巨人の星で左門豊作も所属していた事でも有名であった。 大洋ホエールズ時代は優勝・日本一こそ1960年の1回のみだが、守備に定評があるチームとして名を馳せ、 長嶋・王と言った歴史に残る大スターを擁した絶頂期の読売ジャイアンツ相手に渡り合えた数少ない球団であった。 球団創設地は山口県下関市だが、松竹ロビンスとの合併(*1)により本拠地は大阪球場、次いで川崎球場に移動し、1978年より現在の横浜スタジアムに落ち着いた(*2)。 やがて、1993年に親会社の大洋漁業がマルハに社名変更すること、ホエールズの名前の由来となった捕鯨事業の規制が年々強化されておりこれ以上球団イメージをクジラに頼ってはいられないことを受けて球団は生まれ変わり、横浜ベイスターズが誕生した。 ベイという名前の通り本拠地横浜スタジアムから歩いて数分で海があるのが特徴。 しかし、球界でスターになったのは18年で1度だけ。 □歴史 ◆発足から黄金期へ(1993年~1997年) 大洋時代の選手をベースに外国人のローズとブラッグスを獲得。 この頃はまだ前身時代から籍をおく選手が多数在籍しており、ベイスターズとしての生え抜きはまだいなかった。4年連続Bクラスというスタート。 1994年は借金わずか8という勝率の高さや日本一の巨人に勝ち越したことから史上最強の最下位と呼ばれ、 1995年は勝率5割でBクラスだった。 だが1996年は低迷し最下位の阪神とはわずか1ゲーム差であった。 しかし、1997年。転機が訪れた。巨人、中日の低迷もありヤクルトと優勝争いを演じ翌年の優勝候補チームになったのだ。 この時が後身である横浜DeNAベイスターズ時代含めて、ベイスターズが最も前途洋々だった時代であった。 ◆優勝そして、一瞬の黄金期(1998年~2001年) 前年優勝争いを演じた勢いそのままにマシンガン打線が爆発し38年ぶりの優勝、日本一を達成。 権藤監督の放任野球が上手くハマった形である。 1(遊)石井琢 2(中)波留 3(左)鈴木尚 4(二)ローズ 5(一)駒田 6(右)佐伯or中根 7(捕)谷繁 8(三)進藤 この打線はベイファンは忘れないスタメンであろう。 投手陣は中継ぎローテーション制度。 大魔神佐々木が神懸かり的な活躍をしMVPと流行語大賞を獲得。 チームは黄金期を迎える。この年のベイスターズがベイスターズ史上最強のナインと言っても過言ではなかった。 後にも先にも、優勝経験メンバーはこの時の選手だけなのだから。 1999年は野村、佐々木の故障により3位に終わるもローズの活躍もありチーム打率は前年を上回った。 しかし、2000年。 佐々木のメジャー移籍を皮切りにVメンバーが次々と離脱。 順位こそ3位で、金城、木塚の大ブレイクもあったが、この年からベイスターズ崩壊の足音が聞こえ始めた。 オフには権藤監督、ローズ、駒田が退団。 翌年は西武黄金時代を築いた森が監督に就任。徹底したミーティングとサインプレーを重視した野球を目指すも、180度違う野球観に選手が混乱。後述する選手同士の関係の悪さも追い討ちをかけた。 ルールや移籍組の活躍に救われ3位は死守したものの波留と進藤がトレードにより退団。更にオフには球団と森に不信感を抱いた谷繁が移籍。トドメに本業の経営悪化を受けて親会社のマルハが球団株の売却(=球団運営からの離脱)を発表。 そして、ここから長い暗黒時代が始まった… ◆TBS時代…暗黒時代(2002年~) 野球規則で揉めたためTBSが仕方なく親会社になった(*3)。 黄金期はAクラス争いを続けた横浜が前身の大洋時代以上の弱小チームとなることになるとは誰が思ったのだろうか?それも急激に…… TBS就任後の簡単な成績 2002年…春先大型連敗をし全日程最下位+サヨナラ勝ちなし 2003年…打線爆発も投手陣炎上、春先大型連敗+90敗越え 2004年…春先首位に立つも最後は最下位 2005年…投打が噛み合い3位と久しぶりのAクラス 2006年…一時期巨人と最下位争いをするも最下位に逆戻り+オープン戦、交流戦、シーズンの最下位三冠達成 2007年…移籍組の活躍もあり首位に立つが夏場の失速でプレーオフを逃す 2008年…ダントツ最下位に逆戻り、5年振りの90敗。首位打者内川の打率がチーム勝率を上回る奇跡(?) 2009年…再びダントツ最下位+2年連続90敗+3年ぶりの最下位三冠達成 2010年…序盤は最下位脱出(創設時の楽天よりも長く最下位にいた)も交流戦で失速しダントツ最下位+3年連続90敗の快挙達成 2011年…11年ぶりに開幕カード勝ち越しも5月以降失速でダントツの最下位 ど う し て こ う な っ た!! …とりあえず落ち着こう。 なぜ弱体化してしまったのか? 結構この点については沢山あるのだが、大まかに挙げるとこの辺になってくる。 ①世代交代に成功した時期もあったが、末期になるとドラフトで獲得した選手が活躍しない事が増えてきた(ただし、黄金期メンバーの頃は育成が成功していたので、裏方の世代交代もある) ②移籍選手の大半が35歳前後(既に全盛期を過ぎて下り坂の年齢である)。しかも、補強ではなく補充 ③連れてくる助っ人外国人の大半が何故かいつもいつもダメ外人 ④代々続く派閥の歴史。からの内部関係悪化 ⑤そもそも親会社から見放されている ①に関しては投手陣はフォームを魔改造され劣化。 野手陣は主力選手の後釜を発掘せず移籍した際にポジション不在という事態が頻繁に起こる。 そのため横浜では一軍半の選手が移籍すると一年間二軍暮らしになることが多々ある。 またスカウト陣も世代交代に失敗したことで有力選手を取れなくなったという側面がある。 例えば東海大学で、2002年ドラフトの自由枠で久保裕也の指名を予定していたのだが、フロントが担当スカウトに無断で別選手の指名方針に切り替えてしまい、キレたスカウトが久保が代わりに逆指名して入団したジャイアンツに移籍。 これにより東海大とのパイプを持ったスカウトが居なくなり、長く東海大系列から直接横浜に入団する選手が現れない事態に陥ってしまった。 え、別選手?もはや笑うしかないスキャンダル起こしたから指名回避しましたが何か ②は即戦力しか考えないのに球団経営が赤字なためどうしてもお払い箱にされ、能力が加齢で劣化した選手を獲得せざるを得ない。 それらの選手はもう一度花開くこともなく消えて行く。 光山、山北、森笠、入来弟、野口、佐久本、大西、デニーetc... 一昔前のパワプロ経験者なら聞いたことのある名前がズラリ並んでます…。 まぁ、種田、門倉、土肥、工藤、仁志、寺原、渡辺直、中村紀洋など一部例外もいる。 一応補足すると、各球団が全盛期を過ぎても下り坂の年齢で獲得する理由はちゃんとあり、若手の為の教科書的なポジションが多かったりする。しかし当時のベイスターズには教科書的な存在は意味が無かった。 ③はローズ、ブラッグスを境に連れてくる助っ人外国人がネタだらけ 以下数々のネタ ウドの大木ターマン ホームランしか打てないヤング 広島相手しか打てないグラン 3億払って一軍帯同数日コックス 荒れ球のみホワイトサイド 何故か楽天が拾ったウィット いきなり打たれたソニア 出れば打たれるヒューズ 決め球なしウィリアムス 脅威の負け運ウッド&グリン 二軍のリーダージェイジェイ 打撃が売りの投手ホセロ コーラガブ飲みチアソン ドーピング疑惑ビグビー 敗戦処理ブーチェック 原発と地震が恐いけど帰ってきたリーチ でも寸前×(1勝7敗)だったリーチ などなどネタ外人だらけ。 後に中日入りしてセ・リーグファンのトラウマとなったT.ウッズや、巨人で剛球を武器に活躍し胴上げ投手となったクルーンなど大物も発掘したが、本格化する前に放出してしまった感が強い。 あとはハーパーくらいしか当たり外人を発掘できなかった。 助っ人が使えない=戦力の計算が外れる→代わりがいないの負の連鎖が発生してしまう… ④はそもそも選手同士の仲が基本良くなかったのが発端。これについては波留や石井などといったマシンガン打線関係者も認めており、一方で試合の時は団結していたという状態であった。そして関係の悪さゆえに派閥が誕生し、権藤監督退任の原因や森監督の解任に繋がるレベルまでに至った。2000年代後半からは派閥状況が悪化してしまい、プロとは思えない姿勢や態度をとる選手が続出した。 ⑤は親会社に愛がないこと これが横浜弱体化の最大最悪の元凶。 仕方なく親会社になったTBSのため球団経営も適当。 そこに一場裏金問題で本業関係ないところで社長のクビを飛ばされ、さらに同時期のプロ野球再編問題の末にプロ野球の地上波放送が減り、買収の目当てであった巨人戦放映権ビジネスが成り立たなくなってしまう。 おまけに違約金含め7億円以上払ったコックスや5億円払った那須野巧がろくすっぽ活躍しなかったりで、加速度的に経営へのやる気が落ちる始末。 そもそも本業自体が相次ぐ改編失敗や不祥事による視聴者離れが深刻だった時期なので、球団の面倒を見る余裕もない。 前述のダメ外人や的外れ補強の原因でもある。 チーム運営に関しては監督が2年くらいで交代するためにチームの方向性が定まらず主力選手が退団。 さらには牛島監督時代に補強の要望を無視して揉めたことからその後イエスマン体質の監督を起用した事で本格的な負の連鎖へ落ちてしまった。 2010年オフはフロントの対応や負け癖のついたチームに関して選手から契約更改で批判された。 タイアップに関しても、 聴取率が取れず1年でラジオの中継を終了 野球中継=ドラマの番宣枠(番宣の方が多い) H2の実写版で無理矢理メインキャラをベイスターズに入団させる リンカーンで横浜対阪神戦の始球式を行なうも阪神と巨人ネタしかやらない 親会社なのに巨人と野村監督時代の楽天ばかりプッシュする こうして、選手やファンの反感を買う様な行為ばかりやらかし、ファンからはTBSの所在地にかけ「赤坂の悪魔」とまで呼ばれる様になった。 あまりの弱さからTBSが親会社になってから資産価値が50億近く下がった。 この暗黒期は敢えて言えば「4強1弱1論外」時代であった。勿論、広島を「弱」、横浜を「論外」と定め、残りを「強」と位置付けるのが適切である(*4)。 本業での不祥事について、代表的なものは以下の通り。 『筋肉番付』収録中に頸椎損傷の重傷者を出すなど、番組収録中の負傷事故が多発 『サンデーモーニング』で石原慎太郎東京都知事の韓国併合に関する発言を捏造したテロップを付けて放送した 公式スポーツサイトに掲載されていたコラムにて、編成制作本部スポーツ局担当部長が各新聞社から記事を盗用した上、フリーライターがやったように偽装した 格闘技番組に関連して掲示板の書き込みを捏造 また時期が異なる上、何度も書いている通り本来球団運営する気がなかった会社なのでもはやアンチのこじつけの域だが、「TBSビデオ問題」を契機として発生してしまったオウム真理教の「坂本堤弁護士一家殺害事件」の舞台が横浜だったという点でとやかく言われることも。 そして売却へ そして2010年オフ、ついに身売り騒動が起きた。 TBSがファンから嫌われてるためこのニュースにファンも大喜びした。 結果は… 交渉失敗しました 結局2011年も親会社はTBSです。 これに業を煮やした内川聖一は、球団を徹底批判してFA。 更には地元財界の有力人物である横浜スタジアムの社長・鶴岡博や、スタジアム会長で「ハマのドン」と呼ばれている地元港湾事業者社長の藤木幸夫が激怒し、 「横浜から出て行け!!」 と発言。 ベイスターズの未来はどうなるのか? ……かと思われたが2011年オフ、モバゲータウンの運営会社のDeNAが親会社に。 チーム名を横浜モバゲーベイスターズにしようとしてたが、ナベツネ「将軍様」が「モガベーは野球協約に違反する」と言ったため、 最終的に横浜DeNAベイスターズに落ち着いた。 …落ち着いた?まあ今は落ち着いてるからいいか。 この後は後身である横浜DeNAベイスターズを参照。 以下数々のネタ ここでは2002年以降のネタの数々を紹介 「古木、あーっと!」に始まる古木克明の数々の伝説 種田のガニ股打法にあやかりタネダンスなる応援の存在 スペランカー多村仁志 マシンガン継投 いつしか生まれたやる大矢のスレ シーズン途中にいなくなった大矢 監督が秋季キャンプ中に決まった 獲得した外人が来日前にドーピング疑惑発生 ドラフトで一場に裏金が発覚 数年後ドラフトで那須野に裏金5億円が発覚 直後に那須野とくまきりあさみの交際発覚 水差し野郎高宮 グラウンドで練習しないでサッカーしてる 遊び>>>(越えられない壁)>>>試合と練習 故障が癒えたランドルフを再契約→すぐに再発し解雇 尚典と琢朗と佐伯の退団方法がお粗末 ファン感謝デーでいきものがかりのライブ バット投げの名手早川が在籍(でも使えなかった) 中山エミリの妹と交際してから劣化した吉村 牛田の入場曲がパチスロエヴァ スタメン表の記入ミスにより翌日先発予定だった投手が急遽先発 フロント批判により弥太郎を1年で放出 代わりに総帥大沼を獲得→炎上 尾花監督試合中に居眠り疑惑 2011年5月1日探偵オペラ ミルキィホームズとコラボ 実力、人気共に最下位レベル(地元人気がない) 引退試合でホームランを放つメモリアルクラッシャー村田(被害者 佐々岡・矢野) ブラックホッシーの存在 シーズン中に合コンのセッティング 1試合9併殺を記録 TBS身売りから2011年までの通算で借金600越え 総帥大沼の不倫発覚 西武二軍とほぼ一軍ベストメンバーで練習試合をして、5-13でボロ負け 二軍が社会人野球チームと練習試合をして、0-8でボロ負け 93年から2011年までの歴史を作った選手達 ◇創世記から黄金期に入るまで 〇佐々木主浩 ご存じハマの大魔神。落差のあるフォークで幾多の記録を作った最強の守護神。 米のマリナーズを経て2004年に復帰したが、この頃には度重なる怪我と自身の加齢で、前半こそは活躍したものの体力が続かず失速。2005年引退。国内250セーブを達成して去っていった。 だが、絶頂期の活躍は紛れも無く最強の守護神であり、この当時を知るの人々が横浜ベイスターズのピッチャーは?と聞かれると、 まず最初に名が上がるのは間違いなく彼である。 なにせ、「登板すれば横浜の勝ちパターン」「横浜戦は8回までが勝負」などと、他球団ファンを絶望に追い込んでいたのである。 現在はニッポン放送・TBSの野球解説者。野球と離れたところでは、馬主としても有名で、ヴィクトリアマイル2連覇を達成したヴィルシーナやジャパンカップ勝ち馬シュヴァルグラン、秋華賞とドバイターフを制したヴィブロスなどの名馬を所有していた。 〇ロバート・ローズ 元々は守備が出来る二塁手として取ったが蓋を開けてみれば打つ方も凄かった最強助っ人。 8年で打率3割を7回記録。99年153打点はチーム記録にして歴代2位の記録。チャンス時の打率が安定して高く、対戦チームの悩みになっていた。 その打棒には他球団も戦々恐々としており、特に巨人は投手陣の査定条件を「ローズに打たれても単打ならプラス査定」にしていたとまで伝わる。 2003年ロッテに入団したが、キャンプの最中に退団してしまった。 なお、55本に並んだタフィ・ローズと区別するため「白ローズ」「白薔薇」とも呼ばれる。 〇石井琢朗 元は投手で登録名も「石井忠徳」だったが、大洋最終年に三塁手へと野手転向し験担ぎで「琢朗」に登録名を変えると創設1年目に盗塁王を獲得。 さらに遊撃手への転向を経て、その後は不動の1番打者としてチーム歴代1位の安打数を記録したが2008年に引退勧告、からの自由契約となり広島に拾われる。 2012年引退。何の縁か最後の試合はハマスタでのDeNA戦だった。引退試合で両ファンが見せた応援歌の大合唱は語り種となっている。 その後広島の打撃コーチとなり、2016年の広島25年ぶりの優勝の影の立役者となった。後にヤクルト、巨人のコーチを務めた後2022年にDeNAに復帰。 野手転向時に猛練習を行った話は有名だが、前述した派閥の中心人物としても有名。 〇谷繁元信 創設初年度は守備の不安から控えに回ったが元捕手・大矢の鬼指導を経て不動の捕手になった。 2001年オフ球団や森監督との関係が悪化し、FAで中日へ。2014年からは選手兼任監督となり、2015年に引退した後も2016年途中まで監督を務めた。引退まで27年間主力であり続け、通算出場試合数は3021試合で歴代1位。2006年WBC日本代表。 DeNAのコーチとして呼ばれるという記事も出たが、身内のトラブルによりお流れになったとか。 〇三浦大輔 スローカーブを武器に初年度から暗黒時代終焉まで主力として活躍し続けたハマの番長。背番号18を背負って18年目になる2016年初のCS進出決定を見届けて引退。2004年アテネ五輪日本代表。 背番号18は「横浜ナンバー」とされ、引退後は解説者兼馬主を務めた後、2019年からは「横浜ナンバー」を背負いコーチに。 その後2021年からは数字をひっくり返した「81」を背負い監督を務めている。 〇グレン・ブラッグス 初年度にやってきたメジャーリーガー。引退までの4年間不動の4番を務めた長打力に加えて外野守備も優秀。ものすごく短気。 〇鈴木尚典 張本勲を彷彿とさせる天才的な打撃から「ハマの安打製造機」の異名をとった名打者。 95年からレギュラーとして活躍し球界を代表する打撃力で首位打者を2回獲得。 しかし守備の面ではこれまたハリーを彷彿とさせるほど難があり、優秀だった横浜守備陣の唯一の穴となっていた。 98年シーズンには首位打者を獲得し優勝の原動力に、日本シリーズでは打率.480と大暴れしシリーズMVPを受賞する大活躍で日本一に貢献した。最終回で照明が目に入ってやらかしたのは秘密。 2004年から成績が落ち込み2008年自由契約。石井・佐伯と異なりそのまま引退し球団職員になった。 〇進藤達哉 当時の日本人最高レベルの守備に加え意外性の打撃の持ち主として大洋末期から黄金期まで主力だったが、故障で半分離脱した2000年オフにオリックスに移籍、福本豊以来空き番の7を引き継いだ。2003年引退。 その後コーチとして帰ってきて現在はDeNAのフロント。 〇盛田幸希 シュートを武器に佐々木と共にダブルストッパーを形成。しかし、先発転向を境に不振となり97年オフ近鉄へ移籍。 その後脳腫瘍から復活という伝説を残した。 2002年を最後に引退。その後も脳腫瘍の再発に悩まされ続け、2015年に45歳という若さで死去。 〇屋敷要 大洋時代のスーパーカートリオの一人にして当時の球界屈指の好守の持ち主。 晩年のため控えとして活躍したが93年オフに駒田獲得の資金確保のため解雇されるも、長嶋茂雄に拾われて巨人で2年間活躍。 現在は大学野球のコーチをしながらSLの撮り鉄をしている。 〇高木豊 屋敷同様スーパーカートリオの一人。 衰えとローズの加入から二塁から一塁転向で結果を残したが屋敷と同じ理由で解雇。日本ハムに拾われるも翌年引退。 現在はタレント兼解説者で、近年は「野球解説YouTuber」の先駆け的存在にもなったことでも知られている。 また3人の息子が全員Jリーガーになったことからサッカーにも関わりがある。 〇山崎賢一 こけしバットで人気を博したベテラン。これまた駒田獲得のため初年度終了後に解雇。 〇畠山準 「はたけやま」ではなく「はたやま」。 元々は池田高校やまびこ打線のエースで、鳴り物入りで南海に入団した。 その後打者転向と移籍を経て横浜で大活躍した。 波留・鈴木・佐伯の台頭から控えに回り代打要員で優勝に貢献。 〇野村弘樹 PL時代は立浪和義・宮本慎也・片岡篤史・橋本清らと共に甲子園春夏連覇を果たした、制球力抜群の初代エース投手。 優勝翌年から故障で劣化し、33歳の若さで引退。 なお、投手にしては打撃力もあり、高校時代には立浪や片岡を押しのけて4番に座り、黄金期には「マシンガン打線の9人目」などと呼ばれ、応援歌はDeNAになった後左腕先発テーマとして流用された。 〇斎藤隆 96年初の二桁勝利をあげ覚醒するも故障で1年の離脱。 その後は復帰し黄金期はエース、暗黒期初期は守護神として活躍。先発再転向後は衰えから劣化し、複数年契約に見合わなくなった結果ファンからは「アレ」と呼ばれる程のヘイトを集めるに至ってしまう。 その後アメリカ挑戦を表明、ファンからは思い出作りとみられていたがリリーバーとして大復活。特に2011年にプレーオフであの最強打者・プホルスと2度対戦して2度共抑えたという活躍は当時41歳という事もあり強烈な印象に残った人も多いだろう。 2013年、故郷杜の都にて日本球界に復帰、楽天を日本一に導いて2015年に引退した。 〇駒田徳広 94年巨人からFAでやって来た元祖満塁男。 勝負強い打撃と守備を武器にキャプテンとして優勝に貢献。2000安打達成後、短気な性格が災いし球団や監督と揉めた。現役続行を希望し自由契約となったが結局引退。引退会見の物寂しさは伝説的。 馬面で野次られることの多い選手とネタにも事欠かなかった。アニメ版CLANNADで岡崎汐が彼の打撃フォームを物真似したため話題になり、AAまで作られた。 〇佐伯貴弘 初年度ルーキー。勝負強い打撃とお笑い芸人に匹敵する話術で愛された。 暗黒期は3番4番として活躍したが2010年に自由契約。中日に拾われて翌年引退。後に中日の二軍監督やコーチを勤めるが、谷繁の解任と共に佐伯も解任となる。 〇斉藤明夫 大洋後期のエース。衰えからベイスターズ元年の93年は特に活躍することはなく引退・コーチ転向。 現役時代から怒らせると怖く、96年のVS巨人戦での乱闘劇は有名。 〇秋元宏作 谷繁の控えとしてチームを支えた捕手。 谷繁がイマイチだった時は主に佐々木専用捕手として使われていたが、その谷繁の守備が改善されて以降は出場が減り、さらに2000年に相川と鶴岡が台頭したことにより引退。 〇波留敏夫 石井琢朗と超攻撃的1・2番を、また佐伯とお笑いキャラ同士タッグを組み愛された走攻守そろったムードメーカー。 2001年シーズン途中不振と干され気味だったことで中日にトレード移籍し会見で涙を流した。 その後さらにロッテに移籍するも2004年に引退。その後は横浜含めコーチを歴任、根性論的な言動や上層部とのトラブルもあるが選手の成績向上の実績も持つなど評価が割れている。 〇五十嵐英樹 初年度ルーキーの一人。ヒゲ魔神の愛称で親しまれた中継ぎ投手。 後に彼の背番号13は着用した選手が軒並み活躍出来なかった…どころか野球関係ないところで散々な目に遭った事で「呪われた背番号」扱いされる事になる。 〇島田直也 打たせて取るピッチングでチームを支えた中継ぎエース。 引退後は紆余曲折を経て母校である常総学院高校の野球部監督に。 〇小桧山雅仁 バルセロナ五輪代表の初年度ドラフト1位。1年目はフル回転したが酷使が祟りその後は低迷。彼の背番号19は先代が大洋時代の91年オフに起こした事件も相まって、DeNA売却後に山﨑康晃が不動の守護神として活躍するまで「呪われた背番号」扱いされていた。 〇永池恭男 石井と共に将来の担う内野手として期待されたが万永とタイプが被ったことにより97年オフ巨人に移籍。 〇デニー友利 ドラフト1位入団と甘いマスクということで毎年期待されていたが結果を残せず97年に西武へ移籍し覚醒。 2003年横浜復帰するも活躍できずアメリカ挑戦を経て中日優勝に貢献した後引退。熱い男で近年ではデニキというニックネームでも呼ばれる一方母子家庭の苦しみを知る事から西武時代は西武ドームのシーズンシートを購入して母子家庭を招待していた。 その後横浜と中日で投手コーチを務めた。 〇有働克也 初年度から2年連続で開幕投手を務めた先発ローテの一員。96年シーズン途中に登録名を「有働勝次」に変更したが同年限りで戦力外、中日に移籍。 〇宮里太 初代選手会長で主に左の代打として活躍。黄金期初年度の97年に引退。 〇万永貴志 内野のスーパーサブとして2005年まで長きにわたってチームを支えた。応援歌がイメージと合わないことで有名。 〇井上純 左の代打兼代走要員でチームを支えた外野手。黄金期は代打の切り札を務めた。ロッテの2005年の日本一にも貢献。 ◇黄金期 〇川村丈夫 1年目から二桁勝利をあげ黄金期はエースとして活躍、優勝翌年の99年にはリーグ3位の17勝を記録。一時期の低迷を経て、暗黒期前半はクアトロKの一員として中継ぎエースを務めた。 被弾が多く、ルーキーイヤーとその翌年はリーグ最多の被本塁打数を記録してしまっている。 〇金城龍彦 黄金期最終年の2000年野手転向2年で首位打者と新人王を獲得。その後2年は低迷するが2003年から3年連続三割二桁本塁打を記録し復活。 その後は安定した打撃や強肩を武器にミスターベイスターズとして活躍。2006年WBC日本代表。2014年オフ、引退勧告を蹴る形でFAし巨人へ移籍するも、翌2015年は怪我が祟って二軍暮らしを強いられ引退。 現在は巨人コーチ。 〇多村仁志 怪我を乗り越え2000年に1軍定着。 2003年中盤から覚醒し、チームの顔として2006年WBCで活躍するが故障が原因で同年オフにソフトバンクへトレード。しかし、2013年古巣へ帰還し、スーパーサブとして活躍。2016年に中日に育成契約で移籍するも引退。 故障の多さや内容からスペランカーとも呼ばれるが、故障してない時はトップクラスの成績を残しているのもまた事実。 〇中根仁 98年脱税で出場停止を食らった波留の穴埋めとして、盛田とのトレードで近鉄から移籍。 勝負強い打撃で右の代打兼左投手先発時のスタメンとして活躍したチームの兄貴。2003年多村が一人前になるという願いが叶い引退。 〇阿波野秀幸 投壊近鉄でエースとしてフル回転し優勝を支えた左腕。巨人で低迷していたところをかつての恩師権藤に拾われ98年に移籍。2年間中継ぎとして優勝に貢献した。 〇西清孝 万年二軍暮らし⇒打撃投手を経て開花した苦労人。97年から2年間中継ぎとして活躍。 〇木塚敦志 現役での登板機会が全てリリーフという鉄腕。1年間から活躍し長きにわたり活躍した闘志むきだしのサイドハンド。クアトロKの一人。 引退後投手コーチになり、DeNAになって以降の投手陣底上げに貢献した。 〇戸叶尚 ノーコンながら97年には二桁勝利を記録するなど次期エースとして期待されたが、99年に呪いの背番号19を着用してから低迷し、2000年オフトレードでオリックスへ移籍。球団合併分配で行った楽天で引退。 〇福盛和男 97年から先発中継ぎ抑えと便利屋として活躍するが2003年オフトレードで近鉄へ。 移籍後は近鉄最後の守護神と楽天最初の守護神としても活躍。戸叶と共にイケメンとして人気もあった。 〇川端一彰 97年は少ない打席で打率三割を記録し、98年は複数ポジションの守備固めで優勝に貢献したユーティリティ選手。 〇荒井幸雄 ヤクルト黄金期を支えた大ベテラン。移籍初年度の98年から2年間左の代打として活躍。 〇小宮山悟 2000年FAを恐れたロッテから自由契約で移籍してきたベテラン右腕。 移籍2年目は三浦とのダブルエースで活躍したがオフにFAでアメリカ挑戦。その後1年の浪人を経てロッテに復帰すると、井上同様優勝に貢献した。 〇森中聖雄 99年から4年間中継ぎとして活躍した左腕。ゴジラ松井の大好物。 〇河原隆一 地元出身94年ドラフト1位左腕。97年から左のワンポイントとして活躍し、優勝にも貢献。CDに収録された応援歌は応援歌ファンの間では名曲…とされるがいかんせん演奏機会がなかった(*5)。 〇横山道哉 98年ハマの中魔神として1軍に定着。その後は伸び悩んだが日ハムへ移籍後、北の大魔神として復活。2007年自由契約で復帰し中継ぎとして活躍。 長くスコアラーを務めていたため、ベンチに座る彼の姿を見かける機会も多かった。 〇石井義人 2000年に代打兼右投手先発時のスタメンとして1軍定着。打撃はチーム屈指のレベルだったが守備のまずさが原因で2003年西武へ移籍。 才能が本格的に開花した西武ではスタメン、巨人では代打の切り札として優勝に貢献。 〇相川亮二 2000年に秋元から2番手捕手を奪い、2004年から正捕手を務めたが2008年オフチームに不信感を抱きFAでヤクルトに、2014年に巨人に移籍し2017年に引退。選手時代はリーグ優勝や日本一に縁がなかった。 弟はテニミュの亜久津仁、所謂「白菜」だったりする。 2004年アテネ五輪、2006年・2013年WBC日本代表。 〇田中一徳 98年に2年生ながら甲子園でPL学園高の一員として活躍し、2000年高卒ルーキー開幕1軍の快挙を成し遂げた俊足の外野手。 極端なクラウチング打法や代打の切り札としてファンから愛されたが盗塁技術の無さが響き、2006年解雇。 ◇暗黒期前半 〇村田修一 ルーキーイヤーの2003年から主軸をはった主砲。2006年中盤から4番を務め本塁打王を獲得。 2008年北京五輪ではミスを連発したが2009年WBCでは故障離脱まで大活躍。しかし、最終年に不信感を抱きFAで巨人へ移籍。通称男村田及びケデブ(*6)。 悪くない成績かつ2000本安打目前であったが2017年に巨人を戦力外に。どこか獲るだろうと思われたがどこも獲らず、BC栃木へ。 なんやかんや注目された末に2018年引退。独立リーグでの引退試合後、改めてその年の巨人対DeNAの最終戦(巨人主催)で引退セレモニーを開いてもらえた。 さらにコーチとして巨人に戻ってきた後、2023年からはロッテでコーチを務める。 良くも悪くも「お山の大将」意識が最後まで抜けきらず、巨人在籍時には村田のプロとしての意識の低さを嘆いた駒田による暴露記事が出てしまった有名。 〇内川聖一 高卒2年目から1軍に定着。守備に不安はあるが打撃力はチーム屈指で、2004年に覚醒......かと思われたがレギュラーに定着しきれずしばらくは控え。 2008年に一塁コンバートしたことで首位打者獲得と覚醒。しかし、上記でも触れたように肝心のチームはというと、勝率が内川の打率を下回っているという有り様だった。 その事もあってか、2010年チームと完全に決別しFAでソフトバンクへ移籍。2020年に球団に頼み、自由契約となる。そしてヤクルトに移籍、チームのリーグ二連覇を見届ける形で2022年に退団。2023年は地元大分の独立リーグのチームでプレーを続けつつ、野球解説者としても活動していたが、その年限りで選手として現役引退した。 上記のFA移籍の際の言動や本人の歯に衣着せぬ性格もあり一時期はベイスターズファンから目の敵にされていた。 だが、近年では親会社の交代や、暗黒時代におけるチーム状況のあまりの酷さを物語るエピソードが他選手の口から語られる機会も増えたことから「内川がこれだけ言うのも当然」とファン側での理解が進んだこともあり雪解け。球団史を振り返る公式映像でインタビューに答えFA移籍についても触れるなど、関係は改善している。 右打者としての最高打率を更新し、6年連続打率3割を達成した球界最高打者の一人。チームリーダーとしても大きく貢献していた。通称チック。2009年、2013年、2017年WBC日本代表。 内川コピペはあまりにも有名。 〇種田仁 2001年シーズン途中に波留とのトレードで中日から移籍。ガニマタ打法といぶし銀の打撃で2年連続打率三割を記録するなどファンから愛された選手。 〇タイロン・ウッズ 2003年から2年間4番を務めた怪物。年俸で揉めたため中日に移籍し、2008年まで活躍した。 コックスのオマケで取ったはずなのだが… 〇小池正晃 98年横浜高校の1番打者で2005年にリーグ最多犠打+20本塁打を放つなど活躍したがその後は伸び悩み2008年シーズン途中に中日移籍。 優勝に貢献した後FAでDeNA初年度に復帰。引退試合で2ホーマーという伝説を残した。 〇古木克明 日本一に輝いた98年オフにドラフト1位(松坂大輔のハズレ)指名を受け入団。2002年僅か1ヶ月半で9本塁打を記録するなど将来を期待されたが、2003年には打率.208・22本塁打・38打点とある意味凄まじい成績を残す。 チャンスに弱いうえに守備が当時の日本球界最低レベルだった(実は極度のドライアイだった事が引退後に判明したので、それが原因だと考えられる)こともあり、出番を失い2008年トレードでオリックスに移籍するが結果を残せず解雇。 一時期格闘家転向⇒野球再開と現在に至るまでネタが絶えないある意味伝説の男。 小学校時代には卒業文集で「(当時低迷していた)大洋とロッテ(オリオンズ)だけは絶対に行きたくない」と書いていたが(*7)、よりによってその大洋の後身であるベイスターズにドラ1で入団することに。当時は日本一になったばかりだからね、仕方ないね。なお入団後。 〇マーク・クルーン 2005年不振の佐々木に代わり3年間守護神を務めたクアトロKの一員であり日本球界最速男。 制球難で劇場型ではあったがファンサービスを欠かさない性格で人気も高かった。 07オフに巨人に移籍しそちらでも守護神になるが巨人3年目に炎上が目立ったため解雇された。 〇加藤武治 1年目からリリーフとして活躍した右のサイドハンドでクアトロKの一人。先発転向が失敗し、日ハム移籍後も復活ならず解雇。 〇ドミンゴ・グスマン 2002年から先発ローテを務めた助っ人右腕。中日移籍後は二桁勝利を記録。 ネットで使われる〇〇ンゴの由来はこの人の楽天時代の炎上活躍から。 〇若田部健一 地元神奈川(鎌倉市)生まれで、幼少期は横浜の全身である大洋ホエールズのファンクラブ(友の会)に入っていた。ダイエーを暗黒時代の黎明期から支え続け、99年・2000年の連覇に貢献した元エース。 02年オフにFAで幼少期からの憧れだったベイスターズに移籍。ファンからも先発ローテの救世主として期待されたが、2年間でわずか1勝のみに終わり、一軍登板なしに終わった05年オフに解雇され引退。同時期に高額複数年契約を結びながら思わしい成績を残せていなかった佐々木・斎藤隆・鈴木尚とともに不良債権カルテットを形成してしまった。 ○エディ・ギャラード 中日で剛腕守護神として活躍していたが、2003年に起用法で首脳陣と揉めて自由契約になったところを拾われて加入した(*8)右腕。 しかし2004年は佐々木の復帰でまた同じく起用法で首脳陣と揉める事になり、シーズン途中で退団となった。ちなみに同年は呪いの背番号である19を着用していた… 〇門倉健 2004年福盛とのトレードで近鉄から移籍。 佐々木の代役を務めた翌年の2005年に最多奪三振を獲得し復活したが、 翌年オフ球団から「10勝しても10敗する投手はいらない」という伝説の発言を言い放たれたことでFAで巨人に移籍するも活躍できず。 〇土肥義弘 西武で左の中継ぎエースとして活躍したが先発転向の要望を叶えるため2004年シーズン途中に移籍。 横浜では希望通り先発を務め無類の巨人キラーとして活躍したが2008年に解雇。 〇セドリック・バワーズ 2004年から2年間先発として活躍した左腕だったがノーコンがたたり解雇。 06年は楽天に移籍するも(本当に)何もしないまま退団した。 〇吉見祐治 2002年二桁勝利をあげて次期エースとして期待されたがその後は便利屋となる一方伸び悩み、2010年シーズン途中ロッテに移籍。 2014年のみ阪神でプレーし、オフに引退。翌2015年からは打撃投手としてチームに復帰。 打撃力が異常に良く、「打てる投手」を通り越して「投げれる野手」と言われたことも。 ロッテへの移籍時も「打席が見られなくなる」というズレた嘆きの声が多数上がったほど。 〇中村武志 2002年谷繁と入れ替わりで中日から移籍。 出場機会を求めて移籍したものの体の衰えは隠しきれず、2004年には第2捕手という立場すら奪われる。後に創設初年度の楽天に移籍し後に引退。 〇鶴岡一成 2004年相川の五輪離脱期間中に打ちまくり、中村から第2捕手を奪い一軍定着。しかし、2008年シーズン途中相川のFA移籍が確実なのにトレードで巨人へ移籍。 DeNA初年度の2012年FAで復帰し正捕手として活躍したが、久保の人的補償で2013年オフに阪神へ移籍し3年後引退。 移籍先では併用あるいは第2捕手として非常に重宝され、巨人ではリーグ優勝と日本一、阪神では投手育成とプレーオフに大きく貢献した。 〇竹下慎太郎 2001年から2年間活躍した左腕。入団時30歳というオールドルーキーだった。 〇野中信吾 高卒3年目で横山とのトレードで日ハムから移籍。チーム1の俊足で2005年から代走要員として活躍。2011年トレードでオリックス移籍。 〇中野渡進 2001年中継ぎでフル回転した長身右腕。性格の悪さが原因となりわずか4年で引退。 その後はもつ鍋屋に転身し、歯に衣着せぬ言動が評判を呼びコラムニストとしても活動。 現在は飲食業からは身を引き工場経営を行う。 〇木村昇吾 2003年村田と共に新人で開幕1軍入り、便利屋として1軍に帯同していたが出番がなく2008年に広島移籍、2016年にはFAしても獲得先がなかった中拾われるような形で西武に移籍。移籍した先々でスーパーサブとして活躍するも、西武移籍後に故障し戦力外、クリケット選手に転身。 〇那須野巧 2005年ドラフト1位。 大学No.1左腕という評価をひっさげて入団するが、1年間中継ぎでフル回転しただけで終わり、2009年オフ、ロッテに移籍するが出番なく解雇。 向上心、闘争心がなく、とにかく練習嫌いだった事でも知られる。また2007年に入団前5億の裏金を貰っていたことが発覚。 アニヲタ的には「てーきゅう」の登場人物・高宮なすのの由来としてお馴染み。 ◇暗黒期後半 〇吉村裕基 2006年に覚醒した長距離砲。 村田との東福岡高校コンビで本塁打を量産していたが2010年から成績が低迷(*9)。 GW前後だけ絶好調(解凍)される成績を繰り返し、2013年多村らのトレードで地元福岡へ帰還した。2014年は復活し優勝に貢献するも、2018年に戦力外。 〇石川雄洋 地元横浜高校から入団、2007年から台頭した遊撃手。 若返りの一環で石井からレギュラーを奪い守備に難はあるものの2010年は盗塁王争いを演じるなど暗黒期末期の希望の星の一人だった。 暗黒期を脱した後は二塁手に移ったが、若手の台頭で出番が減っていき2020年に引退。その後はアメフト選手に転向した。 〇藤田一也 コンスタントに3割前後を記録するバットコントロールと堅実な守備が売りの二塁手。 一時は同期入団の石川と共に将来の二遊間と期待されたが、球団が嫌がらせかの如く二塁手の補強を繰り返したため代打守備要員が大半だった。 2012年DeNA初年度の夏に楽天へ移籍。移籍後はパリーグ屈指の二塁手になった後、2021年に戦力外を受け、ベイスターズに復帰した。2023年に惜しまれながら現役引退。 〇寺原隼人 2002年超高校級右腕として鳴り物入りでダイエーに入団するも3年目から故障で伸び悩み2007年多村とのトレードで移籍。 1年目は自身初の二桁勝利、2年目はチームの弱さから登板機会が少なくヒ魔神と揶揄されながらも代理守護神で20Sと活躍。 だが2009年から故障などで不振となったことやダイエー時代から続く尾花監督との確執から2011年トレードでオリックスへ… オリックスでも二桁勝利をあげたが2014年FAで地元九州のソフトバンクへ帰還。 〇工藤公康 2007年門倉の人的補償で巨人から移籍した歴史に残る左腕投手。 ハマのおじさんの愛称で1年目は先発として活躍したが2年目は故障でリタイア、3年目は中継ぎで1軍に復帰したが衰えは隠せず4年目に解雇。 その後2015年から7年間ソフトバンクの監督として元チームメイトの内川、寺原、吉村を指揮。3度のリーグ制覇と5度の日本一(2回CS突破しているため)を達成した。 〇仁志敏久 長きにわたり巨人を支えた二塁手だったが小坂誠の加入と原辰徳監督との確執からトレードで2007年移籍。 1年目は石井とのベテラン12番二遊間コンビで活躍。しかし、3年目極度の不振に陥り解雇され、翌年アメリカに渡り引退。 現在は二軍監督を務めている。 ダウンタウンの浜ちゃんが仁志の移籍で巨人ファンをやめてしまったという話も有名。 〇高宮和也 2006年ドラフト1位左腕。炎上を繰り返して某毒舌実況アナからは「水差し野郎」とボロクソに言われたのは有名。 しかし、後にトレードでオリックスへ移籍したオリックスでは貴重な中継ぎ左腕として1年活躍し、FAの人的補償で移籍した阪神でもプレーオフ制覇に貢献。2017年に戦力外。 那須野同様、「てーきゅう」の高宮なすのの名前の由来として知られる。 〇石井裕也 生まれながらに難聴のハンデを持ち、サイレントKという異名をとる地元芹が谷出身の左腕。 2009年シーズン中盤に同じく地元松原商店街出身の小池とのトレードで中日から移籍、 1年目は中継ぎ抑えで活躍したが2年目は開幕から炎上、春先に江尻とのトレードで日ハムに移籍。 それ以降は長きにわたりリリーフとして活躍、2018年まで現役を続けた。 〇山口俊 愛称はどすこい。2006年高校ドラフト1位右腕。高校時代から150キロを投げる剛腕として将来を期待されると2008年シーズン後半から覚醒。 2009年から4年間守護神を任され最年少100セーブを達成するなど暗黒期末期希望の星の一人だった。 2014年中盤から先発にコンバートされ復活。初の二桁勝利を挙げた2016年オフにFA、巨人に移籍。 移籍初年度こそ怪我と不祥事でシーズンを棒に振るも、翌年以降は先発の柱として見事な活躍を見せメジャー挑戦。しかしそれ以降はさっぱりとなり、2021年途中に巨人に復帰した後翌年戦力外に。 〇牛田成樹 2006年中盤から先発で台頭するも病気や故障で数年低迷。2010年に中継ぎで1軍に戻るとフォークだけで三振を量産し山口に繋ぐ中継ぎエースに成長。 しかし、極度の故障癖が原因でDeNAになってからは低迷し2013年引退。 〇真田裕貴 2002年高卒1年目で巨人の優勝に貢献したドラ1投手。 鶴岡とのトレードで2008年シーズン中盤に移籍すると中継ぎでフル回転した。しかし、調子にのってアメリカ移籍を表明し横浜最終年終了後退団。 当然オファーはなくその後は古巣巨人で炎上し解雇→台湾で無双→ヤクルトで炎上し解雇。 〇下園辰哉 2009年中盤からレギュラーを掴んだイケメン外野手。 走攻守全てで中途半端だったりネタの宝庫だったが暗黒期末期は彼の選球眼だけが楽しみとファンは口を揃えて語っていた。 チームが強くなってからは代打要員として活躍、選手会長も務めた。守備もさすがにかつてよりかは成長していた しかし、2016年後半から急激に成績が低迷、2017年引退。 〇松本啓二朗 ハンカチ王子ら早稲田大学黄金期メンバーの一員として2009年大学ナンバーワン外野手の評価を引っ提げて入団した逸材…だったが、 打撃面で期待外れとなりドラフト1位ながらも伸び悩み続け、2017年戦力外。 〇細山田武史 松本と同じく早稲田大学から入団した捕手。主食は牛丼。 1年目からスタメンとして名を連ねたが打撃と肩が2軍レベルだったため2011年の黒羽根の台頭から年々出番が減少し2013年解雇。 拾われたソフトバンクで3軍正捕手を務めたあと、社会人野球のトヨタ自動車に入社、扇の要として都市対抗優勝に貢献した。 〇スティーブン・ランドルフ 2009年中盤から加入した日本生まれのベテラン左腕助っ人。 1年目は救世主となり翌年は開幕投手となるが故障で大不振に陥り解雇。2011年震災にビビったリーチの穴埋めで復帰したが故障が再発し1ヶ月で解雇。 〇ダン・ジョンソン 2009年移籍、現役メジャーリーガーとして期待された長距離砲。選球眼にも定評があった。 20本塁打はクリアしたが外野手で獲ったのに外野が出来ない、打率が2割前半、チャンスに弱い、年俸が高いという理由で解雇。 〇ライアン・グリン 2009年前年のムエンゴが理由で日ハムから移籍した先発右腕。 しかし、横浜では炎上とムエンゴが重なり防御率5点台の15敗と散々で解雇。 〇ホセ・カスティーヨ 2010年加入した二塁手の助っ人。彼の加入で藤田はベンチに… 打力はまずまず、肩は良かったが守備に不安がありレギュラーだったのに解雇されロッテへ。 〇ターメル・スレッジ 2010年日ハムから移籍した長距離砲。 調子にムラはあったが日ハム時代を含めて3年連続20本塁打(しかも最終年は違反球)と活躍したが年俸の高さと守備面の弱さもあり2年で退団し日ハムへ復帰。 〇ブレット・ハーパー 2010年シーズン中盤に仁志のアメリカ土産で来た長距離砲。 クルーンから逆転サヨナラグランドスラムを放つなど3ヶ月で19本塁打と驚異的なペースで打ち続けたが翌年は違反球に苦しみ中盤からは中村紀洋と併用となり解雇、楽天で1年プレーした。 フェンス直撃シングルヒットなど驚異的な鈍足としても知られた。 〇江尻慎太郎 故障で1年離脱した結果2010年開幕直後に石井裕也とのトレードで日ハムから移籍。 中継ぎ配置が滅茶苦茶だった暗黒期末期の横浜では経験豊富な中継ぎとしてフル回転しオールスターにも選ばれた。 2013年多村復帰のトレードでソフトバンクへ移籍し2014年引退。 〇小林太志 2008年ドラフト1位右腕として1年目は先発ローテに名を連ねたが、それ以降は低迷と復活目前を繰り返した結果2014年に解雇。 〇小関竜也 西武を長きにわたり支えた外野守備の名手。巨人を解雇され2008年に移籍すると開幕直後は絶好調となりスタメンに名を連ねた。しかし、その後不振を極め解雇。 〇大西宏明 2008年に同い年で仲の良い古木とのトレードでオリックスから移籍した左キラー。 最初の2年は期待に応えたが、2010年尾花監督に干されるとブログで首脳陣を批判したことが原因で解雇。 〇内藤雄太 少年時代試合中にした約束を佐伯が果たして以来佐伯に憧れた外野手。 2011年開幕戦でサヨナラタイムリーを放ったり、地元出身で駒田の応援歌が流用されるなど左の代打として人気はあったが、DeNAになってからは出番を失い2013年不可解な形で解雇され引退。 内川「お、ナイトゥー!」 〇新沼慎二 鶴岡と相川の移籍で30手前から1軍に定着を果たした捕手。 イケメンであり選手会長を任されるなど人望はあったが武山、黒羽根、細山田の捕手争いに敗れ2012年DeNA初年度に引退し現在はコーチ。 中畑「新沼慎二、大した選手じゃありません!!!」(引退セレモニーでの言葉) 〇加賀繁 暗黒末期の希望の星の一人だった右のサイドハンドリリーフ。 1年目は先発を務めるも3勝12敗と驚異のムエンゴっぷりを披露。 2年目からは中継ぎに戻りヤクルトの主砲・バレンティンの天敵として立ちはだかったことで知られた。 だが2017年にとうとう攻略されてしまったことあり翌年引退。引退試合で流れた映像ではそのバレンティンもメッセージを寄せた。 〇高崎健太郎 暗黒期末期のエース投手。2008年に中継ぎでフル回転した後に先発に戻り、2011年は防御率3点台ながら5勝15敗とムエンゴではあったが孤軍奮闘。 よく高めに抜けた球を痛打される事が多く、その名前そのものから「高さ危険太郎」とも。 一時の低迷を経て復調気味だったが、痛風になったのが原因からかまたも低迷、2017年に引退。 〇山本省吾 通称山省。2011年に寺原とのトレードでオリックスから移籍。 横浜最終年は消去法で開幕投手を務めたが、2勝11敗防御率5点台と何もできず。2013年に多村復帰の生贄で吉村、江尻共々ソフトバンクへトレードされ、その後引退。 〇清水直行 2010年まさかの移籍でやってきた元日本代表でロッテのエース投手。通称ジミ様。 1年目は二桁勝利をあげ期待に応えたが2年目から劣化を隠せず2012年解雇された。 〇黒羽根利規 少年時代地元上大岡で行われたイベントにて三浦といつかバッテリーを組む約束をした捕手。願いを叶えると横浜最終年から強肩と右打ちを武器に1軍定着。 だが、DeNAになってから獲得した若手捕手陣に押され気味で二軍暮らしが続き、2017年にトレードで日ハムへ。 〇武山真吾 暗黒期末期の消去法正捕手。肩は悪くなかったがリード、キャッチングの雑さに加え投手レベルの打率が原因で最終年後半からベンチへ… その後、移籍した西武では捕手失格と言われたが捕手不足の中日に移籍するとまたしても消去法で1軍の捕手に。 〇篠原貴行 かつてはダイエー黄金期の中継ぎエースだったが故障と年齢から大幅劣化し解雇されたところを恩師の尾花監督に拾われ2010年移籍。 1年目は防御率11点台で1軍帯同という暗黒期の象徴と言われたが2011年は連続試合無失点記録を果たすなど復活。 人望があったことから2013年引退後コーチに就任。この人もまたDeNAになった後の投手陣再建に辣腕を振るう。 〇渡辺直人 カスティーヨに変わる二塁手として2011年松井稼頭央の移籍の煽りをうけ楽天から移籍。 守備の上手さもさることながらその人望の厚さから在籍した球団全てで関係者とファンから愛された人格者。西武で内野のバックアッパーになった後楽天に復帰し2020年引退。 〇森本稀哲 2011年FAで日ハムから移籍したムードメーカーにしてラーメンマン。 守備と足は一級品だったが故障で不本意な成績に終わり、暗黒期の終焉の中解雇された。 西武で外野のバックアッパーになったが引退。在籍球団全てで生え抜き扱いされた程の人格者。 〇筒香嘉智 2010年地元横浜高校の4番という超高校級の評価を引っ提げて入団。横浜最終年の後半戦から違反球にも関わらず8本塁打を放つなど最後の希望となった。 その後、一時期の低迷を経て2014年覚醒し4番打者に成長、チームリーダーの立場となり侍ジャパンの4番も務めた。 その実績を引っさげ2019年オフ長年の夢だったメジャーに挑戦したが…。 〇国吉祐樹 最終年の後半戦に先発ローテ入りを果たした育成出身のイケメンハーフ。 一時期の低迷を経て昨季から中継ぎで成長するかと思いきや伸び悩み、横須賀四天王になってしまう。 2019年に覚醒し中継ぎとして定着したが2021年途中にロッテにトレード。 〇中村紀洋 ノリの愛称で近鉄最後の4番としてかつては日本人屈指のスラッガーだったベテラン。行く先々でパワハラや内部批判を起こし退団を繰り返した問題児。 最終年にTBSのツテで入団するも期待ハズレに終わる。DeNAになってからは復活したが2014年また内部批判で解雇。 〇大沼幸二 ネタの宝庫と呼ばれた西武中継ぎ陣、通称俺達の初代総帥としてネタを提供し続けたノーコン速球派のドラ1右腕。 2011年、首脳陣批判で1年で解雇された坂元とのトレードで移籍してきたが、故障明けに加えて開幕から炎上、三浦の勝ちを消した際の反省の気配0な笑顔など相変わらずネタを提供。 その後は2軍で幽閉、翌年に不倫が発覚したことに加え故障が重なりDeNA初年度の初夏に引退(*10) 西武時代から素行不良だったらしく、OBに協力的な西武においてスタッフになれないことが全てを表していると言われた。引退後は消息不明となったのも素行が問題だと噂されている。 〇坂元弥太郎 高卒2年目から便利屋としてヤクルト・日ハムで活躍した右腕。 2010年投壊状態のチームにおいて貴重な防御率3点台の投手だったが、首脳陣批判が怒りを買い1年で大沼とのトレードで西武へ。 〇荒波翔 2011年26歳で入団を果たした遅咲きの外野手。 最終年の終盤からスタメンに名を連ね、DeNA初年度からゴールデングラブを獲得するなど主力選手に成長。 だが急激に衰え2018年に戦力外通告を受ける。 〇井手正太郎 尾花監督がダイエー時代から起用したがっていたという意向もあり、2010年春に吉川とのトレードでソフトバンクから移籍。 横浜時代は成績の割に優遇されていると非難するファンもいたが、DeNAになってからは時にクリーンナップも打つ外野のバックアッパーとして一軍定着。 2016年に戦力外となり引退。 〇須田幸太 早稲田期待の星。ドラフトで大石達也を外したためハズレ1位で入団。 早速先発起用されるがイニングがあまり食えない上に飛翔癖などの問題が露呈したためほとんど勝てず。ヤクルトに9点差を追いつかれた伝説の試合の先発も彼。 その後は先発で6勝した年もあったが中継ぎに転向し、2016年にはセットアッパーとして定着した。しかしシーズン終盤での故障離脱からCSでの無理な復帰が祟って翌年以降は活躍できず2018年に戦力外に。 2019年は出身元のJFE東日本に復帰。故障を癒やした結果同年の都市対抗では全5試合に救援登板し防御率0.64で4勝とフル回転。チームの初優勝に貢献し、プロ野球経験者としては初となる橋戸賞を受賞した。 2021年シーズンを最後に現役を引退。現在はJFE物流社員として働く傍ら横浜商科大の非常勤コーチや解説者としても活動している。 やけにバッティングとフィールディングが上手く、投手として伸び悩んでいた時期は毎年のように野手転向した方がいいと言われていた。 他にもネタは沢山あるがベイスターズの未来を信じる方から追記・修正求む △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 反対意見もなかったようなので、コメント欄のリセットを行いました。 -- 名無しさん (2016-01-03 23 59 45) 黄金期到来や! -- 名無しさん (2019-07-31 21 22 01) TBS時代も別にケチでやる気がないわけではなかったんだけどな。あまりにも弱すぎて忘れられてるけどさ。使い方がおかしいだけで金自体はそこそこ使ってた。 -- 名無しさん (2020-08-08 18 43 17) 文字通りの草も生えない荒れ地だった、このTBS時代からよく立て直せたもんだ -- 名無しさん (2022-04-27 20 38 32) TBSがやる気なかった以外に何をやらかしたのかいまいちわからんな、ドラフトや外国人のチョイスが悪かっただけ? 会社主導で改悪強制したとかはないの? -- 名無しさん (2023-04-30 18 23 33) タグが酷いな ...幾らTBS時代が弱かったとはいえ、さぁ... -- 名無しさん (2023-05-29 00 39 09) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/flavor/pages/16.html
中学の入学式が終わっ2日後、突然母親が蒸発したんだ。 理由は分からない。女手1つで俺と兄貴を育ててたから生活は楽ではなかったんだ それは分かるが、それでも俺は楽しかったし、母も兄貴も楽しくやってると思ってた でも本当に突然、母がいなくなった 最初は2、3日帰ってこないだけだど思ってた。兄貴が何も言わずに普通にしていたから・ 1週間2週間たっても母は帰ってこなかった。その間俺の食事や家のことは、 当たり前のように兄貴がやっていた。 何もいわないで、ずっと以前からそれが日常だったみたいに。 当時高2だった兄貴には付き合い始めたばっかりの彼女がいたはずだった。 放課後一緒にいたかったはずなのに、スグに学校からかえってきて、 家の事をして俺の食事を作ってくれて、俺の弁当も毎日作ってくれてたっけ・・・ それから県内1の進学校に通っていたから、夜遅くまで勉強もしていたみたいだった。 そんな兄貴の苦労も知らずにいたおれは今までどーリ学校にいって、 放課後は好きなバスケに打ち込んで、本当に今までどーリだった。母親がいない寂しさを感じないくらいに 兄貴が俺にかまってくれたりしていた。 それでもある日俺は言ってしまった 「母さんどこ行ったの?もう帰ってこない?そんなんいやだ・・なんで帰ってこんの?」 一度泣き言言い出すともう止まらなかった。自分でも気づかなかったけどやっぱり 無理してたんだと思う。兄貴は俺が泣き止むまでずっとそばにいてくれた。 その後、母親が蒸発したこと・理由は分からないこと・1度だけ母から電話があったこと を教えてくれた。もう帰ってこないことも教えてくれた。おれは又泣いた。 すると兄貴はこういった 「寂しい思いはさせない。兄ちゃんがいるから大丈夫だ。御飯だっておいしいのを作ってやるさ」 本とはもっと違う言葉だったかもしれないけど興奮していた俺はよく覚えてない。 もちろんガキだったおれはその言葉で泣き止むことはなく、ずっと泣いていた。泣きつかれて眠るまで兄貴はずっと そばにいた。 それからの俺は荒れた。 別にタバコとか警察沙汰とかはなかったが学校で教師ともめたり同級生と喧嘩になって相手に怪我させたりもした そんな時いつも兄貴が学校にきて謝っていた。同級生の親に謝りに行った事もあった 本当に迷惑かけたとおもう そんな感じで1年が過ぎた。 当然の疑問だけど生活費はどうしているんだろうと思っていた。 聞いて見ると前からもらっていた生活保護金とバイト代を使っているって答えが返ってきた。 俺に内緒でバイトをしていたらしい。 どうも母が蒸発した翌月から始めていたらしい。 何のバイトなのかはどうしても教えてくれなかった。 でも生活保護金とバイト代だけで生活を支えてたんだから ホントに大変だったと思う。 おれは高校に進学した。兄貴が勉強教えてくれたから特待生で入学して 費用は一切かからなかった。 兄貴は進学せずに就職して生活を支えてくれていた 俺はバイトして少しでも兄貴を助けたいと思った。 でも兄貴がそんな時間があるならバスケと勉強してろって言ってくれた。 俺はそれに甘えた。今思い返してみれば俺はどれだけ駄目な弟だったんだって思う・・・ そんな俺たちの生活を見かねた親戚が離婚していた親父を連れてきた。 今からでも一緒に暮らそう。そういった親父に兄貴はこういった。 俺たちを1度捨てた人間には頼らない。でも弟には苦労をさせたくない。 弟だけでよいから一緒に暮らしてやってくれ。 兄貴は泣いていた。後で聞いた話だが自分ひとりで俺の面倒や大学進学費用を支えられないのが 悔しくてたまらなかったらしい。そんな兄貴の気持ちが嬉しかった でもこれ以上兄貴に迷惑をかけたくなかったおれは、親父と一緒に暮らし始めた。 それでも兄貴とは手紙で連絡をとってた。1月に2、3通ぐらいきてたっけ 次第に兄貴からの手紙が少なくなり、最後には来なくなった。 最近昇進して忙しいって手紙に書いてあったのと 大学受験2ヶ月まえだったことからそんなに気に止めてなかった 晴れて大学に合格して兄貴に報告の手紙を出したら、3週間後知らない女の人がたずねて来た 兄の恋人だったと言った。その人はこういった。 「あきおさんね、もう君には会えないんだ。あえないだけじゃなくて、手紙もかけない ううん、君だけじゃなくて私ももう会えないんだ」 そういって3つの封筒をだした。1つは兄貴の遺書だった。 兄貴から手紙が来なくなったのは、兄貴が入院したからだった。 入院なんてかくとお前心配するから、大学受験控えてるから 昇進して忙しいってウソついた。ごめんな。 医者が言うにはもう助からない見込みが高いって。 お前の卒業式とか入学式とか見に行けないかな。ごめんな そういえばお前の引退試合も仕事で見に行けなったな。ごめんな お前さびしがりやだから俺がいなくなって大丈夫かな? でももうずっと俺がそばにいなくても大丈夫だったから大丈夫か? 何か文章おかしいな。いざこんな事書こうとしたら中々かけないもんだね。 もっといっぱい書きたいことがあるはずなのにな。なんでかな、言葉が出てこないよ。 いまさらだけどこの手紙をお前が見てるときは、俺はもういないんだよな。 お前の成長をまだまだ見たいし、お前が本気でほれる女の子も見てみたい。 なんて自分の子供に言う言葉みたいだな。 それなんだ。お前に言いたいのは。 母さんがいなくなってから俺がお前の親父代わりで母親代わりだったつもりだ。 それでもやっぱり寂しい思いをさせたよな? 最初の頃は料理も下手くそだったよな? 全然駄目な兄貴でごめんな 頼りになんない親父だったな、ごめんな お前の悩みひとつ聞いてやれない母親だった。ごめんな 身内自慢になっちゃうけど、こんな俺の弟なのにお前は最高にいい男だよ お前の兄貴だったこと、親父だったこと、母親だったこと 全部がおれの自慢だよ。これから先もっといい男になって、立派な父親になってくれ あ~何書いてんだろう俺、馬鹿みたいだな これ以上書くと情けないこと書いちゃいそうだから そろそろ終わりにするよ じゃあ元気でな。 いつもの手紙とちがって、子供が書いた手紙みたいな 兄貴の遺書がとても暖かった。残り2つの封筒は兄貴の日記と、 兄貴が恋人に宛てた手紙だった。 手紙を読んで分かったんだけどこの女の人は兄貴が高2の時から付き合ってる人だった。 その日記や手紙には俺のことがたくさん書いてあった。 俺のことで悩んでる兄貴がそこにいた 俺のことをとても考えてくれてる兄貴がいた 俺の前では決して見せなかった弱い兄貴がいた 兄貴の苦労が始めて分かった 兄貴が抱えていたつらさが初めて分かった もう兄貴に会えないと思った 悲しくてたまらなかった。 いままで長々書いてきたけど結局おれは兄貴にありがとうが言いたい 6年間で兄貴にありがとうなんて言った覚えがないんだ。恥ずかしい話だけど ほんとだめだな俺。 なあ兄貴 こんな俺が自慢の弟だなんて言ってくれてありがとう 俺を6年間守ってくれてありがとう それから兄貴を6年間支えてくれたナナさん どれだけ感謝してもたりないけど本当にありがとう