約 1,872 件
https://w.atwiki.jp/reikozemi/pages/117.html
第3章 ブラジル人の日本での教育の現状 日系ブラジル人は一般的にブラジル人学校と日本の公立学校に通う場合が多い。 文部科学省が平成17~18年に1県11市を対象に行なった「外国人の子どもの不就学実態調査」によると、全国で6割ほどが日本の公立学校、約2割が外国人学校(日系ブラジル人の場合はブラジル人学校)に通っている。この章では、ブラジル人学校と日本の公立学校で行われている施策を分析する。
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/246.html
公立の義務教育学校については、市町村に学校設置義務がある。そして、設置した学校に関して、通学に関しては、教育委員会に権限がある。 地方教育行政の組織及び運営に関する法律 第二十三条 教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務で、次に掲げるものを管理し、及び執行する。 四 学齢生徒及び学齢児童の就学並びに生徒、児童及び幼児の入学、転学及び退学に関すること。 学校教育法施行令 (入学期日等の通知、学校の指定) 第五条 市町村の教育委員会は、就学予定者(法第十七条第一項 又は第二項 の規定により、翌学年の初めから小学校、中学校、中等教育学校又は特別支援学校に就学させるべき者をいう。以下同じ。)で次に掲げる者について、その保護者に対し、翌学年の初めから二月前までに、小学校又は中学校の入学期日を通知しなければならない。 一 就学予定者のうち、視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者又は病弱者(身体虚弱者を含む。)で、その障害が、第二十二条の三の表に規定する程度のもの(以下「視覚障害者等」という。)以外の者 二 視覚障害者等のうち、市町村の教育委員会が、その者の障害の状態に照らして、当該市町村の設置する小学校又は中学校において適切な教育を受けることができる特別の事情があると認める者(以下「認定就学者」という。) 2 市町村の教育委員会は、当該市町村の設置する小学校又は中学校(法第七十一条 の規定により高等学校における教育と一貫した教育を施すもの(以下「併設型中学校」という。)を除く。以下この項、次条第七号、第六条の三、第六条の四、第七条、第八条、第十一条の二、第十二条第三項及び第十二条の二において同じ。)が二校以上ある場合においては、前項の通知において当該就学予定者の就学すべき小学校又は中学校を指定しなければならない。 3 前二項の規定は、第九条第一項の届出のあつた就学予定者については、適用しない。 この規定に基づいて、これまでの多くの地域では、学校毎の通学区域を教育委員会が定め、その地域に住む学齢児童及び生徒の通うべき学校を指定してきた。しかし、通学区域をめぐっては、これまで全国で様々な紛争が生じている。現在でも同様である。訴訟も数多く起きている。その代表的な事例を紹介しよう。 昭和50年、富山県中新川郡立山町教育委員会は、町立立山小学校の廃校を決めたところ、町民が廃校処分の取り消しを求める訴訟を起こした。続く51年に立山小学校通学の生徒を統合新設校である立山新小学校への転校を決め、旧立山小学校を施錠廃止した。その後住民は、就学指定の取り消しを求める訴えを起こした。 訴えの理由は、10キロの通学は、バス通学が保障されたとしても、教育条件を著しく低下させ、回復不能な損害を与えるというものだった。 しかし、富山地裁は、「電車やバス通学は広く行なわれており、教育水準の低下はあるとしても、回復不能なものではない」として、原告の訴えを退けた。しかし、控訴審では異なる判決であった。 この裁判で争われたのは、いくつかの論点がある。 第一に、教育委員会の通学校指定は絶対的なものであるのか、それはいかなる理由によるのか。 第二に、通学条件は教育条件となるが、その低下による不利益を、児童・生徒はどこまで甘受しなければならないのか。 第三に、教育委員会の義務教育学校設置義務は、どの程度の学校を設置する義務なのか。 第四に、こうした訴訟を提起できるのは、学齢児童・生徒をもつ親だけなのか、地域住民も含まれるのか。 原告の主張は、「教育委員会は、学習上の不利益がないように学校を適正配置する義務があり、通学条件の悪化で教育条件が低下する場合には、住民はその指定の変更を求める権利がある。また、学校は単に就学させている住民だけのものではなく、将来就学させる可能性がある親、また、学校は単に子どもだけのものではなく、住民も利用するから、住民もその適正配置についての権限をもつ」というものだろう。 教育委員会の見解は、「電車やバスで通学を保障すれば、回復不能な水準低下とはいえず、通学区の指定は教育委員会の法的な権限である」というものだろう。 教育委員会が通学区を指定できるのは、教育条件を「標準」を定めて一定にしてあるという前提があった。この限りで、文部省もまたその批判的立場にたつ人びとも同じ見解をもっていた。この標準規定は、校舎、学級編成、教師の資格や人数等々の教育水準を規定する基準や標準の法令で規定され、教育行政によってこれはかなり厳格に実施されてきた。しかし、その中に「通学時間」や「通学条件」は明確な基準としては存在しなかった。(オランダでは、最低基準として4キロ以内に必ず一校あり、目標基準として2キロが設定されている。)この訴訟は、まさしく通学条件がいかなる教育条件であるのかが問われたといえる。 住民の訴訟については「訴えの利益」の法理によって退けたが、教育条件については、住民の訴えを基本的に認めた。 「抗告人らの児童がその居宅から統合小学校まで片道各9キロメートルないし10キロを通学のために往復しなければならず、旧小学校への通学距離より著しく増大することになる。立山当局は、通学用バスを用意する旨言明し、また、、徒歩と右バスによる以外に電車その他の交通手段がないわけではない。しかし、右廃校処分によって右児童らことに低学年児童らにとっての旧小学校への徒歩通学による居住地域の自然との接触、それについての理解、また、右抗告人らと右児童らにとっての旧小学校と家庭との親密感、近距離感等旧小学校への就学によって維持される人格形勢上、教育上の良き諸条件を失うこととなり、回復の困難な損害といわねばならない。」 「統合小学校への就学する場合、通学はバスによるにしても冬季豪雪時の遅刻、不参はさけがたいものであり、また、児童の緊急事態に際しての保護者とのれんらく、応急措置上の不都合、或いはバスによる交通事故の危険等がよそされ、これは一種の教育的条件の低下といべく、それが統合小学校への就学によってえられる諸々の利点を考慮しても、なお、回復の困難な損害といわねばならない。」「これらの損害を避けるけとが緊急の要するものであることもいうまでもない」『別冊ジュリスト 教育判例百選』p58-59 以上のように、かなり通学条件が教育条件を構成することを重視した判決であった。 学校統廃合は、現在でもさかんに行なわれており、ホームページには具体的な事例が多数掲載されている。ひとつには少子化によって、学校の人数が少なくなり、学校数が多いという現実もあり、また、市町村合併に伴っての学校統廃合もある。 通学区の問題では、区域外就学の問題もある。これは、学校選択制度が実施されるようになって、少なくなったが、学校選択制度を実施していない地域では、現在でも起こり得る問題である。 しかし、この点については、社会的背景が大きく変わってきた。戦後しばらくの間は、区域外就学は比較的自由に行なわれていた。いわゆる「越境入学」であり、戦前の名門を継承した一流高校に進学する数の多い中学、そして、その区域にある小学校への越境入学が1960年代まで続いた。その典型が番長小学校 → 麹町中学 → 日比谷高校というコースであった。麹町中学は3割程度が越境入学で占められたとさえ言われた。 しかし、受験競争が激しくなり、その弊害への批判が強くなるに従って、こうした越境入学を禁止する政策が実行された。その後東京では私立の中高一貫校の人気が高まった。 その後1980年代に入るまで、越境入学は厳しく制限されたが、いじめによる自殺が増加するようになって、いじめから逃れるための転校(区域外就学)を認めるようになる。 そして、90年代に入り、アメリカの新自由主義的教育改革が日本でも導入されるようになり、その中で競争主義的な学校選択制度がいくつかの自治体で実施されるようになった。そこでは越境入学というという概念自体が消失する。そして、学校選択制度が実施されないところでも、少子化の影響で生徒の減少した自治体では、他の地域からの生徒の流入を歓迎する傾向も生じている。 さて、このような通学区指定制度の変遷があるにせよ、基本的に指定通学区が法的に存在しており、大部分の地域では、通う学校を指定されているために、その変更を求める保護者がいることも事実である。ここでは、多少古いが、区域外就学が争われた事例を取り上げる。 佐賀県に三日月町と小城町という隣合わせの町があり、三日月町の甘木・本告地区は小城町に隣接しているので、明治六年小城町に桜岡小学校が設置されて以来、ふたつの地区は隣町の小城町桜岡小学校に通学してきた。三日月町は相応の経費負担をしてきたという。桜岡小学校が改築を必要とするようになり、三日月町に負担を求めたところ、拒否。そして、小城町は、一方的に話し合いなしに、ふたつの地区の生徒の就学を拒否したので、訴訟になった。判決要旨は以下の通りである。 就学をめぐる法律関係は、公権力の行使を本質とするものであって対等な当事者間の法律関係ではない、区域外就学の承諾等の処分がなされる前においては特定の小学校への就学を求める具体的な権利があるわけではない、処分がなされた後に直截に救済を受ける手段(取り消し訴訟等)がある、等から実質的当事者訴訟の要件を具備しておらず、訴えの利益を欠き、不適法である。 予防的確認訴訟としても、区域外就学を認めるか否かは小城町教委が教育行政上の裁量権を行使して判断すべきものであり、本件確認の訴えによってその判断を拘束することは許されない、事前の救済を認めるべき緊急の必要性もなく、事後的な直截な救済手段があり、この手段によっては回復し難い重大な損害が生ずることも考えられない。 以上が判決要旨である。この事例自体は極めて特異なものであるが、紛争の性質としては共通の事例が日本の至るところで起こり得るものである。特に新興住宅地域では、新たな学校が設置されて、通学区域が変更になるときに、これまで通っていた学校に通えなくなる子どもが出てきて、地域のトラブルになることが少なくない。 そして、この判決は、様々な検討課題を提起してもいる。 第一に、就学をめぐる法律関係が「公権力の行使」であり、「対等な当事者間」の問題ではないとしている点である。しかし、実際には、対等であるかは別として、通学区域の変更の必要性が出てきたときには、教育委員会と住民が協議を行なう事例が多くなっている。また、学校選択が権利として認められるようになると、この法律関係は大きく変わることになる。就学の対象学校を決めるのが、教育委員会ではなく、親と子どもになるからである。 以下のような規定に基づいて、実際の変更はあり、それをゆるやかにした東京都足立区の動きから、「変更理由」を求めない変更措置としての学校選択制度が品川区から始まったのである。 第八条 市町村の教育委員会は、第五条第二項(第六条において準用する場合を含む。)の場合において、相当と認めるときは、保護者の申立により、その指定した小学校又は中学校を変更することができる。この場合においては、すみやかに、その保護者及び前条の通知をした小学校又は中学校の校長に対し、その旨を通知するとともに、新たに指定した小学校又は中学校の校長に対し、同条の通知をしなければならない。 つまり、現在においては、就学の法律関係は、必ずしも公権力の行使としての教委の裁量権に専ら属するものとしては、あまり運用されていない。 第二に、住民の権利が、訴訟があるのだから、という理由で制限されているが、実際にその訴訟で訴えを退けているという矛盾がある。 第三に在学関係に関する問題があるが、これは別の章で述べる。
https://w.atwiki.jp/verwaltungsrecht/pages/41.html
地方教育行政の組織及び運営に関する法律(平成19年 5月23日法律第53号による改正前のもの) (教育委員会の職務権限)第23条 教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務で、次に掲げるものを管理し、及び執行する。 一 教育委員会の所管に属する第30条に規定する学校その他の教育機関(以下「学校その他の教育機関」という。)の設置、管理及び廃止に関すること。 二 学校その他の教育機関の用に供する財産(以下「教育財産」という。)の管理に関すること。 三 教育委員会及び学校その他の教育機関の職員の任免その他の人事に関すること。 四 学齢生徒及び学齢児童の就学並びに生徒、児童及び幼児の入学、転学及び退学に関すること。 五 学校の組織編制、教育課程、学習指導、生徒指導及び職業指導に関すること。 六 教科書その他の教材の取扱いに関すること。 七 校舎その他の施設及び教具その他の設備の整備に関すること。 八 校長、教員その他の教育関係職員の研修に関すること。 九 校長、教員その他の教育関係職員並びに生徒、児童及び幼児の保健、安全、厚生及び福利に関すること。 十 学校その他の教育機関の環境衛生に関すること。 十一 学校給食に関すること。 十二 青少年教育、女性教育及び公民館の事業その他社会教育に関すること。 十三 スポーツに関すること。 十四 文化財の保護に関すること。 十五 ユネスコ活動に関すること。 十六 教育に関する法人に関すること。 十七 教育に係る調査及び指定統計その他の統計に関すること。 十八 所掌事務に係る広報及び所掌事務に係る教育行政に関する相談に関すること。 十九 前各号に掲げるもののほか、当該地方公共団体の区域内における教育に関する事務に関すること。
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/111.html
近代以前は、学校教育を受けることは上流階級の特権であった。近代社会になり、身分制度が打破され、経済活動が拡大し、国民の教育水準の向上が求められるようになって、大衆的な教育制度が発達した。日本の江戸時代、武士は幕府や藩が設立した学校に通っていたが、農民以下の身分の人々は一切学校に通うことを強制されなかった。しかし、多くの人々は「寺子屋」と呼ばれる教育機関に通って、文字や計算を学んでいた。江戸時代の識字率は国際的に見て最も高かったと言われているが、このような民衆の自発的な教育組織は決して日本だけにあったわけではなく、かなり多くの国で発展していたのである。そして、19世紀後半になって、先進国において義務教育制度が成立した。しかし、それは決して権利としての教育を国民に保障するためではなかった。あくまでも国家政策の一環として、つまり、支配の安定や国際競争に勝つための手段と考えられていた。つまり文字通り「国民の義務」としての教育が展開していった。 しかし、教育を権利として考える教育権の思想はそうした制度化に先立って、発展していた。その代表はフランス革命のときに活躍したコンドルセである。4)堀尾輝久は全ての者の教育を受ける権利、家庭教育の延長としての公教育(私教育の組織化)、知育限定論という内容で整理しているが、「統一学校の父」としてのコンドルセ思想という視点からみると、多少異なった検討が必要である。堀尾輝久『現代教育の思想と構造』岩波書店参照 コンドルセの主張は次のように整理することができる。 1.公教育が全ての人に対する社会の義務であること。5)コンドルセ『公教育の原理』松島均訳 明治図書 p9-15 全ての国民という時、障害者をも含んで言われていることは銘記すべきであろう。6)Condorcet 'Troisieme Memoire──sur l'instruction commune pour les hommes' in "Auvres de Condorcet" vol.12 M.F.Arago p325 教育は三つの種類が考えられている。第一に、自分の能力や教育に充当出来る時間的余裕に応じて、職業や趣味のいかんを間わず、全ての人が承知していることが良いと思われる事柄を、国民の全てに教えること。第二に、一般的利益のためにそれを利用しうるように、それぞれの問題についての特質を知る手段を確保すること。第三に、将来生徒たちが従事する職業が必要とする知識を彼等に用意すること。7)コンドルセ 前掲 p22 2.これらの教育を各々子供のための教育と成人のための教育に区分し、適用されるべき原理を区別したこと。 コンドルセの公教育論は、知育限定論で知られるが、成人教育については、必ずしもそうではない。むしろ、画一化されない形での道徳教育、原理・動機にまで及ぶ政治教育を主張している。8)Condorcet op.cit. p328 3.普通教育を階梯として組織すること。9)コンドルセ 前掲 p25-27 その理由として、公職が一つの職業とならぬように国民が公職を遂行することができるようにするため、仕事や職業の区分が人民を愚味にすることがないようにするため、一般教育によって虚栄心と野望とを減少するための三つをあげている。 4.国家から給与を支払われる専門職としての教職の確立。 しかし、この原則は「教師は団体を形成してはならない」いう原則と結びついていた。「これこそが、野心に変ぜず、好策に堕さない競争心を教師の間に維持する唯一の手段であり、教育を習慣的な精神から守る唯一の手段」だからである。10)同上 p100 これは社会の義務性を純粋に表現したものと考えられる。 5.普遍的有用性をもつものとしての科学教育、芸術教育。11)Condorcet op.cit. p337 以上のようなコンドルセの主張は、その後のフランスの教育改革の長い指針となった。 コンドルセの主張は、教育の条件を整えることが社会の義務であって、教育を受けることが国民の義務ではない、とするものであるが、実際の国家制度としての教育制度は、「義務教育」制度として成立した。「権利としての教育」を放棄することができるかどうかについては、論者によって意見の相違があるので、立ち入ることはしないが、「放棄できない」とする立場にたつと、「義務教育」であるか、「権利教育」であるかは、大きな相違はないことになる。 ここではとりあえず、歴史的概観であるために、実際に成立した「義務教育」について、みておく。 日本の義務教育は、極めてあいまいな形ではあるが、「学制」で規定された。 第十二章 一般人民華士族農工商及婦女ノ学ニ就クモノハ之ヲ学区取締ニ届クヘシ若シ子弟六歳以上ニ至リテ学ニ就カシメサルモノアラハ委シク私塾家塾ニ入リ及巳ムヲ得ザル事アリテ師ヲソノ家ニ招キ稽古セシムルモ皆就学ト云フヘシ しかし、これは現在のような明確な法的規定ではなく、国家的努力目標に近いものがあった。最初に義務教育の規定を具体的に盛り込んだのは、明治12年教育令である。 第十三条 凡児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス 第十四条 凡児童学齢間少クトモ十六箇月ハ普通教育ヲ受クヘシ 第十五条 学齢児童ヲ就学セシムルハ父母及後見人等ノ責任タルヘシ但 事故アリテ就学セシメサルモノハ其事由ヲ学務委員ニ陳述スヘシ 12)http //202.244.24.5/v100nens/index-14.html\#ss1.3.1.2 この教育令は「自由教育令」と呼ばれ、国家が強制的に義務教育を実施しようとするよりは、むしろ国民の自発的意志に依拠しようとしたものとされている。学制百年史によれば、学制による就学強制は、当時の経済力ではとても負担が大きく、当初は授業料が徴収されたので農民の反感を買ったが、アメリカの分権的な教育行政に関心をもっていた文部大輔田中不二麻呂が、地方の実情にあったやり方を求めたのが、教育令である。 そこでは、学校に行くだけではなく、ほかの道も容認していたこと、学校を設立することが困難な地方は教員巡回のような手段も認めていたこと、学務委員を選挙で選ぶことを規定していたことなどが、特色とされていた。しかし、そうした自由なやり方によって地方の教育は崩壊寸前となり、より強制的な色彩の強い改正教育令が、明治13年に出された。改正教育令に定められた小学校に関する規定を教育令と比較して、文部省「学制百年史」はその改正の要点を、まず就学義務の強化に注目している。 (1)教育令における小学校就学の最短規定一六か月を改めて三か年とし、毎年少なくとも一六週間以上就学させる義務があるとした。また三か年の課程を終了しても相当の理由がなければ毎年就学すべきものとしている。 (2)学齢児童の就学を督励するため、就学督責規則を定めるものとし、その規則は府知事県令が起草して文部卿の認可を受けることとした。 (3)学齢児童を学校に入れず、また巡回授業にもよらないで別に普通教育を授けようとするものは郡区長の認可を要し、郡区長は児童の学業をその町村の小学校で試験させることとした。 (4)小学校の年限は三か年以上八か年以下とし、授業日数は毎年三二週間以上とし、授業時間は一日三時以上、六時以下とした。13)http //wwwwp.mext.go.jp/v100nen/index-22.html\#ss2.2.2.2 この後一貫して、戦前のみならず、戦後も含めて、教育の国家的な教育制度は政府の強い統制下に置かれてきた。しかし、当初においては、地方の実情にあった教育のあり方を許容した姿勢もあったことは、極めて興味深い。また、就学義務ではなく、家庭教育のような形態も容認していたことは、銘記されてよい。 日本には教育を権利として把握する考え方はなかったのだろうか。 明治22年に制定された大日本帝国憲法は「臣民権利義務」という章があるが、そこには「教育」の規定は存在しない。国民の三大義務とされる「兵役・納税・教育」というのは、憲法的には前二者のみ規定され、教育は勅令によって規定されている点で位相の違う概念・制度であった。 日本の内的な思想の発展として権利概念が発達したとはいえないが、しかし、教育が人を育て国を作るという意識は古くから存在した。江戸時代の識字率が当時の世界で最も高かったことは、欧米の研究者によって明らかにされた。(ドーア『江戸時代の教育』岩波書店) 戊辰戦争における「米百表」の言葉は、小泉潤一郎首相が広めて大衆化したが、教育界では以前から有名な逸話であった。米百表の考えは日本社会に強く根付いていた感覚であったといえる。そして明治維新後から始まった自由民権運動はそれ自体が教育・学習運動であった。第一次大戦後の大正自由主義の時代に自由主義教育がさかんになり、多くの学校が作られたのも重要な事実であった。 そのような権利意識をもった教育論があったとはいえ、やはり総体としては戦前の教育は義務意識を涵養し、出世のための手段と考えられ、次第に軍国主義的な色彩に染まって行った。戦後のアメリカによる教育改革は日本に権利としての教育という考えをもたらしたが、どの時点でそれが日本社会に根付くようになったのか、あるいはまだ根付いていないのかはそれぞれの世代の教育感覚を検証してはじめて明らかになるかも知れない。 日本国憲法は、26条で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と規定し、この権利を充足させるために、保護者にはその保護する子女に、普通教育を受けさせる義務を負わせ、国地方公共団体には、教育条件を整備する義務を追わせている。 憲法改正の最初期の私案とされる松本案(昭和21年1月4日)では、権利は帝国憲法よりも簡略であり、http //www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/058c/058ctx.html 教育については何も触れていない。 昭和21年2月14日に出された「東京帝国大学憲法研究委員会」の文書では、具体的に記されていないが、権利として付加されるべきものとして、「教育に関するもの」が提起されている。 政府がGHQに提出した憲法改正要綱においても、教育については触れられていない。http //www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/074a/074atx.html 昭和21年2月に出されたいわゆるマッカーサー草案で、はじめて、教育や子どもの福祉に関する規定が現れる。 Protect and aid expectant and nursing mothers, promote infant and child welfare, and establish just rights for illegitimate and adopted children, and for the underprivileged; Establish and maintain free, universal and compulsory education, based on ascertained truth; Prohibit the exploitation of children; http //www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/147/147tx.html これを受けて政府は3月に草案を閣議決定し、GHQに提出した。いくつかの修正文書があるが、3月2日の「入江文書」として保管されている文書に、現行の条文に似た文言がでている。 第二十三条 凡テノ国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ能力ニ応ジ均シク教育ヲ受クルノ権利ヲ有ス。 凡テノ国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ保護スル児童ヲシテ普通教育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ。其ノ教育ハ無償トス。http //www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/088/088tx.html このような制度によって、日本国民はほぼ100%が義務教育を受けているだけではなく、95%以上が高校教育を、また半数が高等教育を受けている。 国際的にも「教育を受ける権利」は条約として規定されていった。「世界人権宣言(1948年12月10日、第3回国際連合総会採択)は、第26条で次のように規定している。 1 すべて人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない。技術教育及び職業教育は、一般に利用できるものでなければならず、また、高等教育は、能力に応じ、すべての者にひとしく開放されていなければならない。 2 教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。 3 親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する。
https://w.atwiki.jp/peaceonpeace/pages/111.html
第35条 中学校は、小学校における教育基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする。 第36条 中学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。 1.小学校における教育の目標をなお充分に達成して、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。 2.社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。 3.学校内外における社会的活動を促進し、その感情を正しく導き、公正な判断力を養うこと。 第37条 中学校の修業年限は、3年とする。 第38条 中学校の教科に関する事項は、第35条及び第36条の規定に従い、文部科学大臣が、これを定める。 第39条 保護者は、子女が小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部の課程を修了した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満15才に達した日の属する学年の終わりまで、これを、中学校、中等教育学校の前期課程又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の中学部に就学させる義務を負う。 2 前項の規定によって保護者が就学させなければならない子女は、これを学齢生徒と称する。 3 第22条第2項及び第23条の規定は、第1項の規定による義務に、これを準用する。 第40条 第18条の2、第21条、第25条、第26条、第28条から第32条まで及び第34条の規定は、中学校に、これを準用する。この場合において、第18条の2中「前条各号」とあるのは、「第36条各号」と読み替えるものとする。
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/2362.html
クンクルーシブ教育の推進の観点から、就学免除や猶予になっていた、あるいは特別支援学校で学んでいた児童生徒が、普通学級で学ぶことを可能にするための行政措置。 「文科省「障害のある児童生徒の就学について」(通知)認定修学者の認定」
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/1954.html
教育法規2解答 (1)原理的には受けなければならない。何故ならば、親(保護者)がその子女に教育を受けさせる義務を負うのだから、子どもは結果として受けなければならないことになる。しかし、子ども自身が、どうしても学校に行けない場合、つまり不登校の場合には、親は義務を果たさなかったとして罰せられることはないから、この場合には、教育を受けなくてもよいという解釈も可能である。 この問題は、法的な意味での義務・権利という概念も重要であるが、基本的に人間社会の中で全く教育を受けずに生きていくことはできないことは自明であり、誰もがそのことは理解しているのだから、教育を受ける権利を、国家が提供する教育だけではなく、それが自らの教育的信念と異なる場合には、違う教育(アメリカで言われる「オルタナティブ」)を容易に受けることができる状態を保障することが大切であるというように考えるべきものだろう。自らが望む教育を用意に受けることができれば、現在の日本のような膨大な不登校の生徒など生じないはずである。 (2)子どもの身体的な状態によって、教育を受けることが困難な場合、そして、外国に居住している場合である。 (参考)学校教育法23条「前条の規定によつて、保護者が就学させなければならない子女(以下学齢児童と称する。)で、病弱、発育不完全その他やむを得ない事由のため、就学困難と認められる者の保護者に対しては、市町村の教育委員会は、文部科学大臣の定める規程により、前条第一項に規定する義務を猶予又は免除することができる。 」 (3)10万以下の罰金に処せられる。 (参考)学校教育法91条「第二十二条第一項又は第三十九条第一項の規定による義務履行の督促を受け、なお履行しない者は、これを十万円以下の罰金に処する。 」 なおこの問題は各国で悩み多き問題となっており、特に日本のように教育熱心な親ばかりではない先進国では、子どもを学校にやらない親の対策がいろいろと講じられている。極端な例では、刑務所に入れる場合もある。しかし、子どもは親の所有物ではないという批判もあり、また、親がいくら学校に行くように説得しても、子どもが行かない場合もあるから、単純に刑罰を課して解決する問題でもない。 (4)様々なある考えられるが、代表的なものは ア 学校を設立し、教師を配置すること イ 教師の養成を行うこと ウ 就学のための条件を保障すること
https://w.atwiki.jp/marowiki002/pages/237.html
目次 【概要】 【参考】関連項目 タグ 最終更新日時 【概要】 3年間就労すると高校卒業相当の資格を得る。 時給100円程度日給800円程度 週給3500程度 月給15000円程度 ギフト券で支払われる。 【参考】 関連項目 項目名 関連度 備考 創作/カルチャースクール計画 ★★★ 創作/ギフト券 ★★★ タグ 事業 社会 設定 最終更新日時 2012-09-10 冒頭へ
https://w.atwiki.jp/reikozemi/pages/154.html
先行研究 私たちが本稿で論ずる分野においては、さまざまな議論が行われている。総合調査「人口減少社会の外国人問題」(松尾、吉田ほか2006‐2007)の報告を基に、この分野の議論の整理を以下に行う。 背景 1989年の「出入国管理及び難民認定法」の改正により、日系ブラジル人が主に就労のため来日するようになった。当初は単身で来日し、短期間で「デカセギ」を行う傾向が強かったが、次第に家族を帯同して定住化するケースが増加したため、日本語を話せない子女の教育が問題となっている。 3つのグループ 松尾と吉田は日系ブラジル人で学齢期にある子どもたちを、大きく3つのグループに分けている。 ①日本の公立の小中学校に通い、日本のカリキュラムに沿って日本語で授業を受けているグループ 日本語指導が必要な児童・生徒への対応を迫られる。現在の対策としては、教員の加配制、バイリンガル教員、ブロック別集中システムがとられており、後者二つは特に外国人が集住している地域において見られる。問題点として挙げられるのは、文化、生活習慣の違い、本国との学校システムの違い、教師との関係が異なること、親とのコミュニケーションに支障をきたす(母語を急速に忘れる)が挙げられる。 ②外国人学校に通い、母国語で母国のカリキュラムに沿って学んでいるグループ 外国人集住地域に多く存在する。将来母国に帰国できるよう母国のカリキュラムで学ぶが、日本政府から学校として認可されないため(最高で各種学校まで)、資金面に不安がある。このことから現れてくる問題点としては、運動施設の不足、敷地の狭さ、耐震基準不足、財政的支援がない(ブラジル・日本政府)、授業料などの金銭的負担→家庭の経済状況で入退学が頻繁、通学時間が長い、教職員は不安定な雇用で、社会保険に加入していない、などが挙げられる。 ③いずれの学校にも通わない不就学・不登校のグループ 我が国の法令においては、外国人子女に対する教育についての定めはない。外国人子女の義務教育諸学校への就学に関しては、義務ではなく許可である。そのため、就労のため移動を繰り返す不安定な状態の家庭にいる子どもたちは、不就学に陥りやすい。その結果として、犯罪の増加などの問題が指摘されている。 また、公立学校における日本語指導についての研究についての整理もここで行う。 (以下あかぎちゃんのやつ) コメント 経団連のやつとか、中長期的視野をいれるかどうか。いずれにせよ詰まったのでちょっと保留
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/29.html
では保護者にとっての義務とは何なのか。日本では学校教育法に規定されているように、子どもを学校に通わせる義務である。 学校教育法第22条 第二十二条 保護者(子女に対して親権を行う者、親権を行う者のないときは、未成年後見人をいう。以下同じ。)は、子女の満六才に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二才に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部に就学させる義務を負う。ただし、子女が、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまでに小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部の課程を修了しないときは、満十五歳に達した日の属する学年の終わり(それまでの間において当該課程を修了したときは、その修了した日の属する学年の終わり)までとする。 ○2 前項の義務履行の督促その他義務に関し必要な事項は、政令でこれを定める。 義務教育が「就学義務」であることを規定した条文である。中学校も義務だが、その条文は39条となっている。 「義務教育」といっても、実はいくつかのタイプがある。大別すると、就学義務、つまり、法律の定める学校に通う義務である場合と、学校に行く必要は必ずしもなく、家庭で教育を与えてもよいという場合とがある。 伝統的に、上流階級では、子どもが小さいときには家庭教師のような個人教授で教え、大きくなってから、特別な学校に通うスタイルが一般的だった。だから、こうした教育スタイルが強かった国では、義務教育制度が国家的に整った後も、家庭での教育を認める国があった。代表的には、イギリスとデンマークである。 また別の形態として、以前は就学義務であったのに、家庭教育を近年認めるようになったのがアメリカで、アメリカでは、ホームスクールとか、ホームエデュケーションなどといっている。 家庭で本当に教育をしたかどうかは、チェックする場合とそうでない場合があり、国によって違う。 また、もうひとつの検討点として、国民が外国にいるときに、義務は有効か、そして、国内にいる外国人に対しても義務教育条項を課すのか、ということがある。 日本はいずれも課していない。日本人が外国にいくと、教育義務から免れることになる。それを利用して、日本の義務教育を受けさせなかった有名人がいた。また、日本にいる外国人は就学義務はない。もっとも、入りたいといったら拒むことはできないことになっている。 オランダは国内にいる外国人も就学義務がある。 日本ではブラジル人の子弟が多く、学校の授業についていけないので、不登校になり、そのままになってしまう場合が少なくないようだ。しかし、義務違反ではないので、行政的には放置されてしまいます。子どもが親の管理からも、また、学校の管理からも逃れていると、あまりいいことはないから、こうした体制は改善の余地がある。 ではどういう場合でも保護者にとっては「義務」なのか。 学校教育法第23条 第二十三条 前条の規定によつて、保護者が就学させなければならない子女(以下学齢児童と称する。)で、病弱、発育不完全その他やむを得ない事由のため、就学困難と認められる者の保護者に対しては、市町村の教育委員会は、文部科学大臣の定める規程により、前条第一項に規定する義務を猶予又は免除することができる。 就学義務の免除規定です。義務教育の発生当時は、通常経済的理由と身体的な理由による義務免除規定があるのが普通である。日本でも例外ではなかった。しかし、貧困による免除が廃止されたのが、1941年で、このとき日本はヒトラーの教育改革にならって、小学校を国民学校と改称し、私立学校などを抑圧した。「窓際のトットちゃん」のトモエ学園が廃止されたのもこのときである。つまり、国民を兵隊として育成するために、免除規定をひとつ取り去ったわけで、逆に兵隊になりえない身体の発育を理由とする免除は維持したのである。そして、その維持は現在でも続いていることになる。ただ、義務就学というのは国家が学校を設立することと対応している必要があり、学校がなければ就学できないので、障害者がいく養護学校は実際にはほとんど設立されていなかったので、障害者に対してはかなり安易にこの免除規定が適用されていた。 自治体に養護学校設立義務を課し、養護学校で学ぶことのできる人たちに対しての就学義務を実現させたのは、1979年のことである。 この就学義務免除という規定については、いろいろと議論する必要がある。