約 12,004 件
https://w.atwiki.jp/sengokuhime3-wiki/pages/36.html
弱小勢力でクリアを目指す勇者たちのページ 難易度「普通」でクリアできた人は適当に攻略メモをよろしく(切腹なしモードはOKとしましょう) 小田家(常陸)難易度★★★★ 1ターン目から攻めてくる鬼真壁の恐怖に震える小田氏治たん!持ってるのはダメスキル。弓隊?なにそれ?これ勝てるの!? 1ターン 小田氏治、ひぇぇぇ!挙兵なんかするんですかぁぁぁ?? 2ターン 佐竹義重率いる5800の軍勢が土浦に侵攻。小田氏治は3400の兵で迎え撃つ。 天候は晴れ。自信満々に突っ込んだ佐竹義重。 小田・菅谷・別働隊の集中砲火を浴び壊滅、退却を余儀なくされた。 そのとき鬼真壁は新しく購入した鉄砲100丁を撃って遊んでいた。 3ターン 佐竹義重率いる4100の軍勢が土浦に侵攻。小田氏治は3400の兵で迎え撃つ。 天候は晴れ。奇跡が二度起こり、小田の完勝であった。 4ターン 小田氏が水戸城(大)に侵攻、大将の真壁氏幹を破り、占領した。 無銘の刀を入手。 5ターン 小田氏が太田城(大)に侵攻、占領した。 佐竹義重は降伏し、小田の配下となった。 常人の書物を入手。 5ターン 空き城の真壁城を包囲攻めで奪った。 5ターン 小田氏は小大名と称されるようになった。 6ターン 佐竹を継いだ真壁氏幹を大館城(中)で撃破し、配下にした。佐竹一族は滅亡。 6ターン 下館城(中)で水谷正村を撃破し、配下にした。並みの馬を入手。 常陸国を統一。 姉小路家(飛騨)難易度★★★★★ 0万石からのスタート。なけなしの軍資金100も、秋には赤字でごっそり持って行かれちゃう。 しかも武田の騎馬隊の蹄の音が聴こえてくるぜ・・・ 1ターン:高山城を姉小路で大将撃破で制圧。 2ターン:高原城を姉小路で大将撃破で制圧。政治+3のアイテムゲット。 飛騨を統一し小大名になる。 3~4ターン:姉小路に政治アイテム装備して臨時徴収。 5ターン:越中へ進軍。城生城を姉小路兵1000、雑魚武将兵100×2で大将撃破で制圧。 統率+3のアイテムゲット。 6ターン:姉小路に統率アイテム装備。松倉城を姉小路兵1000で大将撃破で制圧。 上杉軍が越中に進攻開始。 7ターン:蓮沼城を姉小路1300、雑魚武将兵100×2で大将撃破で制圧。 守山城を三木直頼兵1000、三木頼綱兵1000で大将撃破で制圧。 8ターン:上杉軍富山城を制圧。 その間、魚津城が空き城になったので姉小路で攻城戦、制圧。 上杉軍主力、退路を絶たれる。上杉第二部隊は武田と抗戦中。 9ターン:軍資金25。雑魚武将に政治+3アイテムを装備し、越中で臨時徴収。 三木直頼兵1200、雑魚武将兵100で大将撃破で春日山制圧。 上杉軍、守山城に攻める来るが落とせず。 10ターン:北条城を姉小路兵2600で大将撃破で制圧。 上杉主力は雑魚武将突撃で足止めする。斉藤軍が飛騨へ攻めてくる。 11ターン:越中で臨時徴収⇒軍資金337。与板城を姉小路兵3300で大将撃破で制圧。 板戸城を三木頼綱1300で大将撃破で制圧。上杉主力は雑魚武将突撃で足止め。 12ターン:富山城を姉小路兵3800、雑魚武将兵100×2で上杉主力を大将撃破で撃破。 上杉謙信、小島弥太郎、宇佐美定満降伏。 新発田城を三木直頼兵1200、雑魚武将兵100で大将撃破で制圧。 栃尾城を三木頼綱兵1300、雑魚武将兵100で大将撃破で制圧。 13ターン:越後守護の官位を受ける⇒軍資金167。 鳥坂城をを三木直頼兵1200、上杉謙信兵100で大将撃破で制圧。 14ターン:本圧城を上杉謙信兵1300で大将撃破で制圧。越後統一。 斉藤軍に落とされていた飛騨・桜洞城を 姉小路兵3800、宇佐美定満兵100で制圧。 15ターン:美濃へ進軍。兼山城を姉小路兵3800、宇佐美定満兵100で大将撃破で制圧。 16ターン:濃守護の官位を受ける⇒軍資金369。 稲葉山城を宇佐美定満兵600で大将撃破で制圧。 岩村城を上杉謙信兵2000、雑魚武将兵100で大将撃破で制圧。 17ターン:北方城を上杉謙信兵2000で大将撃破で制圧。 墨俣城を宇佐美定満兵600、雑魚武将兵100で大将撃破で制圧。 能登へ進軍。七尾城を雑魚武将兵500、雑魚武将兵100で大将撃破で制圧。 総石高が100を越え、戦国大名となる。 富樫家(加賀)難易度★★★★★ 能力はALL1だ!一向一揆が凶暴すぎて生きるのがつらい。こんな国もうイヤや・・・ 山名家(但馬)難易度★★★★ 大名1人でスタート、山名四天王は独立勢力で全員敵、統一したはずの因幡山名も・・・ 伊東家(日向)難易度★★★ 僕、伊東義祐、部下は居ない。ひとりぼっち。こんな僕でも天下取れますよね?優秀な子供が授かるよう、仏様にお祈りだ。 1ターン 伊東義祐、挙兵。 2ターン 松尾城の豪族・土持親成は、伊東義祐の二倍の軍勢に果敢に野戦で立ち向かったが敗れ、降伏した。 3~5ターン 伊東義祐は空き城の飫肥に計略を仕掛けた。土持親成は徴兵を行った。 6ターン 伊東の将・土持親成は北原氏を破り、加久藤城(小)を奪った。 7ターン 伊東、土持の軍が都城城(大)を奪った。匠の剛弓を入手した。敗れた北郷忠親と肝付兼演は飫肥城へ逃走。 8ターン 伊東氏は小大名と称された。飫肥城(中)を奪い、日向国を統一した。 9ターン 伊東氏は肥後国への進出を狙った。島津氏、龍造寺氏、大友氏も順調に勢力を伸ばしていた。 9ターン 伊東氏は阿蘇氏に大勝し、岩尾城(小)を奪った。阿蘇惟豊は伊東氏に降り、伊東氏にとって貴重な弓部隊となった。 10ターン 伊東義祐軍が熊本城(大)を奪い、同時に土持軍が高森城(小)を奪った。名将・甲斐宗運が伊東氏に降った。 11ターン 相良家の古麓城に良将・赤池長任が仕官した。 11ターン 相良家と独立勢力が反撃に出、伊東氏の空き城を攻めた。だが伊東氏は熊本から菊池城(小)を奪い、匠の名槍を入手。 12ターン 大津山城(大)を伊東義祐軍が、古麓城(小)を土持軍と阿蘇惟豊軍が奪った。敗れた独立勢力は北へ逃亡。 13ターン 伊東氏が人吉城(中)を奪い、肥後国を統一。相良家が滅亡。無銘の弓を入手。赤池長任と上村頼興を配下に。 14ターン 伊東氏は、肥前を統一したばかりの[[龍造寺家]]に侵攻。日之江城を包囲攻めで奪った。無銘の刀を入手。 15ターン 伊東氏が龍造寺四天王の成松信勝・信常江里軍を破り、大村城(中)を奪った。 16ターン 熊本城で犬童頼安が伊東氏に仕官した。 16ターン 伊東軍と龍造寺主力が武雄(小)の合戦。龍造寺隆信、鍋島直茂ほか4800の軍を、わずか兵200の損害で破った犬童頼安の大手柄。 16ターン なお伊東の別働隊として平戸城(大)を攻めた赤池長任は、ここを守る神代勝利軍に苦しみつつも辛うじて勝利し、陥落させた。 17ターン 伊東氏はさらに岸岳(小)で龍造寺軍を破り、殿を務めた四天王の成松・信常は行方不明となった。 17ターン 本拠地、佐嘉へ落ち延びようとする龍造寺を、犬童頼安が追撃し、さらに敗走せしめた。 18ターン 甲斐宗運軍が勢福寺(小)で龍造寺の残党を殲滅。 龍造寺隆信・鍋島直茂・百武賢兼・木下昌直・円城寺胤が降伏した。 18ターン 大隅国を統一した島津軍が、勢いに乗って伊東氏の都城城を攻撃した。 少弐家(肥前)難易度★★★★★ 1ターンもてば上出来さ! 1ターン 少弐冬尚、挙兵します。で、挙兵とは何だ? 2ターン 鉄砲1を購入。これが鉄砲か…私以外の四人で佐嘉城を攻めるぞ! 木下と円城寺相手に野戦で即撤退。怖い怖い。 3ターン 神代勝利に徴兵100人。佐嘉城(大)を少弐政輿と神代以外の3人で攻める。 木下昌直と円城寺胤が怖いから即撤退。 4ターン 神代に徴兵100人。佐嘉城(大)を少弐政輿と神代以外の3人で攻める。 空き城だけれどびくともしなくて即撤退。 5ターン 4ターン目と同じ。強くなれ神代! 6ターン 石高1増えて5になった。馬場鑑周を解雇。神代に徴兵100人。 龍造寺隆信1人が1000の兵で攻めてきた。籠城で無傷。 7ターン 鉄砲1を購入、神代に持たせる。神代に徴兵100人。佐嘉城(大)を攻めたら誰もいないから帰る。 8ターン 神代に徴兵100人。百武と木下が総兵800で攻めてきた!籠城して無傷。怖い怖い。 9ターン 神代に徴兵100人。江上武種と少弐政輿で佐嘉城(大)に侵攻。空き城だから何もしない。 10ターン 神代兵800人、少弐政輿兵200、江上兵300で佐嘉城(大)を攻める。野戦で大将撃破、初勝利。 11ターン 少弐政輿に徴兵200人。神代兵800、少弐政輿兵400、江上兵300で岸岳城(大)を攻める。 時間切れ撤退。 12ターン 神代に徴兵200人。神代兵900、少弐兵400、江上兵300で武雄城(大)を攻める。 野戦の大将撃破で勝利。 13ターン 少弐政輿に徴兵300人。神代兵900、少弐政輿兵700、江上兵300で岸岳城(大)を攻める。 大将撃破で勝利。龍造寺隆信、円城寺胤、百武賢兼を家臣に。 14ターン 龍造寺に徴兵300人。神代兵900、少弐政輿兵700で大村城(大)を攻める。大将撃破で勝利。 15ターン 龍造寺に徴兵900人。神代兵900、少弐政輿兵700、龍造寺兵1300で大村城(大)を攻める。 大将撃破で勝利。信常エリ、成松信勝、木下昌直を家臣に。 16ターン 龍造寺に徴兵900人と鉄砲1。神代兵800、少弐政輿兵700で日之江城(大)を攻める。 大将撃破で勝利。肥前国統一。 姉小路とか小田でクリアできた人いる? -- 名無しさん (2011-06-25 07 12 01) とりあえず両方石高600以上行けたよ……優しいで始めたけど。 -- 名無しさん (2011-06-26 01 16 41) それよか、九州地方 日向、伊藤家のクリアを頼む -- 名無しさん (2011-06-26 01 17 44) 難易度「優しい」はダメですw とくに姉小路は貧乏なのが売り(?)なので。 -- 名無しさん (2011-06-26 02 39 50) 小田はまだ城も二つあるし兵もいないことはないから良い。少弐とかもっと泣けるぞ。竜造寺の動向と乱数次第で最初のターンで滅びることもある -- 名無しさん (2011-06-26 18 11 30) とがちゃんは? -- 名無しさん (2011-06-27 11 00 59) 姉小路クリアできるかもしれない!できたらまた報告来ます!! -- 姉小路挑戦中 (2011-06-28 13 14 07) 姉小路家クリアはしてないけど支配国10越え、上杉に続き織田、武田と滅ぼしたので序盤だけメモ残します。鍵は①大将撃破②早期の統率UPアイテム③徴収④上杉の対処だと思います。 -- 姉小路挑戦中 (2011-06-29 00 00 31) ぶっちゃけ序盤さえ越せばあとは余裕だと思うので最後まで書く必要もないよね -- 名無しさん (2011-06-29 00 41 19) 少弐はともかくとして、小田は初期武将4人なのに攻めるべき水戸城が戦場(大)、統率の高い真壁の槍部隊に対して、こっちの初期武将は三人が騎馬という部分が地味に痛い。義重は比較的相手しやすいけど真壁の相手が大変。独立勢力の水谷正村が統率9なので、先にとって頭数揃えたほうが安定するのかもしれんとも思う。 -- 名無しさん (2011-06-30 23 24 30) ↑一武将出撃で即退却による足止めありでの話。 -- 名無しさん (2011-06-30 23 25 06) 少弐家、普通で17ターンでとりあえず肥前統一完了。 -- 名無しさん (2011-07-02 01 40 55) 結城家が超強化された関係で古河足利家も結構厳しい。まず攻めることになる千葉家も城の野戦場が大で兵力でも負けているし、しかも高確率で徴兵できない状況(できたところで届かないが)のためまさしく板挟み -- 名無しさん (2011-07-05 22 19 57) 姉小路のレポ書いてくれた人、1ターン目は何もできないはずだけど1ターンズレてない? -- 名無しさん (2011-07-07 00 18 36) 700前後ターン行ったけど、姉小路難易度「普通」でクリアできたぜ・・・疲れた -- 名無しさん (2011-07-08 18 20 34) 富樫は最悪の場合、1ターン目(表示は2ターン)で臣従が来るまで最初からやり続けて、武将を出来るだけ引き抜いてから始めるという裏技がある。普通に越前を目標に定めていった時とどっちが早いかは知らないが… -- 名無しさん (2011-07-10 21 54 59) 小大名になると維持費等ケタが違ってくるので、姉小路や能登畠山なんかのビンボー勢力は4ターン目の秋を過ぎてから国内統一したほうがいいという裏技 -- 名無しさん (2011-08-15 00 48 43) 普通で小田ちゃんに天下取らせてみた。2ターン目の土浦防衛で佐竹の兵数を根気よく削るのがポイント。 -- 名無しさん (2011-10-17 01 36 20) 普通モードで小田氏治天下統一。土浦から毎ターン水戸攻めして佐竹を封じ、水谷を家臣にして兵力を集中させれば大将撃破で進める。時間はかかるけど。 -- 名無しさん (2011-11-06 23 44 14) 遊戯強化版の姉小路無理ゲーなんだけど・・・ -- 名無しさん (2012-11-23 10 27 51) 波多野は難しいのだろうか・・・ -- 名無しさん (2012-12-29 05 30 26) 富樫家5ターン目で朝倉滅ぼす快挙達成 -- 名無しさん (2013-01-07 14 22 57) 小田家でなんとかクリア。佐竹倒せればあとは楽だろう・・・なんて甘いこと考えていたが北条、そのあとの織田がきつすぎた;; -- 名無しさん (2013-07-02 13 47 23) 伊東家、肥後を制圧するまでが以外ときつかった。★★★ではないと思う -- 名無しさん (2013-07-05 22 31 20) 姉小路はクリアしたことあるが少弐は・・・・ -- 名無しさん (2013-07-25 15 24 09) 少弐は無理ゲーすぎる。時間かけて乱数調整すればなんとかなるのかもしれないが最初から攻めてこられるとどうしようもない。独立勢力頼み。 -- 名無しさん (2013-08-01 14 17 07) 小田家クリア。北条に攻めるのが早すぎて時間とりすぎました。 -- 名無しさん (2013-08-19 17 31 44) ↑佐竹制圧直後は厳しいだろうな。下野を制圧してから北進するのが吉。 -- 名無しさん (2013-08-26 01 22 24) ↑下野は後にまわした方がいいかも。 -- 名無しさん (2013-09-04 03 31 42) ↑北条と同盟組むかによるな -- 名無しさん (2013-09-19 15 57 07) 少弐家クリアすげぇな。小田と姉小路はどうにかなったがさすがにやる気失せるわ -- 名無しさん (2013-09-28 12 40 56) とりあえず姉小路クリア。上杉と武田の対応つかれた・・・ -- 名無しさん (2013-10-02 12 30 08) ↑3 同盟結ぶのがおすすめ。東北は硬い城多いからそれなりに時間かかる。 -- 名無しさん (2013-10-02 20 31 30) 姉小路クリア。上杉、攻めてくるの早すぎる・・・・ -- 名無しさん (2013-10-30 04 27 19) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/186.html
大聖寺城の戦い 大聖寺城の戦いは永禄5年に姉小路家と朝倉家との間で行われた戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・御山御坊兵 先鋒隊:足軽隊10000 竹中重治、博麗霊夢、小島職鎮 旗本隊:足軽隊13253:姉小路頼綱 、蜂須賀正勝、霧雨魔理沙 (7月20日)援軍揺さぶりのため、小谷城から敦賀港へ遠藤直経が小谷城兵7000を率い出撃。 朝倉・大聖寺城兵総勢8810 守将:朝倉宗滴 援軍13500:朝倉景鏡、アリス・マーガトロイド 迎撃部隊:足軽隊8000:朝倉景鏡 第二部隊:足軽隊7500:アリス・マーガトロイド(9月5日) 姉小路側は御山御坊の城兵の全力を出撃させており、計略を担当する乱波も多く参加させている。 当然、攻城に失敗すれば加賀における兵力の一切を失うことになる。逆にこれを落とせば対朝倉の状況を決定づける、まさに決戦となる。 朝倉側は先の御山御坊の戦いのため兵力を損耗しているものの、大聖寺城は支城であるため城壁はそう固くはないが、守将である朝倉宗滴の指揮により極めて強固なものになっている。 加えて鉄砲隊をも配備しており、落城せしめることは困難であろう。 ただ一人の将によって難攻不落と成す。戦の妙、これに尽きる。 概要 姉小路家は御山御坊の戦いで朝倉家に大きな損害を与えたが、朝倉宗滴を中心に堅い守りであった大聖寺城を攻めることは難しかった。 そこで1年間もの間加賀に兵を集め、浅井家を滅ぼすことと平行して朝倉家に内部工作をしかけた。 竹中重治、蜂須賀正勝によって朝倉家領内のすみずみに至るまで流言、調略が行われ、朝倉家当主朝倉義景の名望の無さも手伝って兵士達の士気は削がれ、 領内各勢力も朝倉家に援軍を出すことは絶対にないとすら思えるほどであったという。 朝倉宗滴は苦慮して兵士の士気を高め、豪族達を説得しようとしていたが上手くいかずもはや大勢は動かない状況であった。 そのような姉小路側としては必勝とすら思える状況を作り、7月5日姉小路頼綱を総大将とした竹中重治及び蜂須賀正勝率いる大軍が大聖寺城を攻撃した。 大聖寺城を守るのは朝倉宗滴率いる兵であった。戦況不利とみた多くの兵が姉小路勢に投降したがそれでもなお宗滴を信じて戦う将兵もおり、竹中蜂須賀両隊の損害も小さいものではなかった。 全体としては姉小路側が圧倒的有利であったが宗滴が辛うじて兵を統率して膠着状態を作っているという状況であった。 姉小路家が攻めてきたという報が入った時から義景は各豪族に使者を送って兵を集め、朝倉家の重鎮であった朝倉景鏡をなんとか説得して援軍を組織してアリス・マーガトロイド、朝倉景鏡に救援に向かわせた。 援軍入城後も朝倉方の士気は上がらず投降するものは後を絶たなかったが、それでもなおアリスと景鏡に兵を預け城下にうって出させた。 しかし、竹中重治は城の守備兵の一部を内応させ景鏡を攻撃させるという奇策を行う。 この奇策により朝倉軍全体が大混乱に陥り、景鏡隊は混乱を鎮めるために城内に後退せざるを得なくなった。 この時点でもはや軍の形を成していることすらが不思議な状況であったという。しばらくしてアリス隊も奮戦むなしく城内に後退している。 その後も抗戦を続けるも兵力は倍以上の圧倒的な差がついており士気も低く、結局10月10日に落城した。主だった武将達は落城寸前に脱出している。 この戦いの影響 この戦いの結果朝倉家は動員できる兵力のほぼ全てを失い、滅亡がほぼ確定となった。 姉小路家は一乗谷を攻略する上で重要な軍事拠点である大聖寺城を手に入れたため、越前攻略、朝倉家併合の流れができた。 朝倉家の援軍について 援軍が13000も集まったことに対して、越前、若狭の多くの勢力が姉小路家に通じているような状況で朝倉義景がいかにして豪族や一門を説得できたのかは分かっていない。 一説にはアリスが義景に頼み込んで自身を使者に任じてもらい各豪族に兵を出させるように説得したと言われている。 朝倉景鏡を説得したことで朝倉一門からも兵を出すこととなり、13000もの兵を集めることが出来たといわれている。 客の身分であり、朝倉家に対してさほど恩を感じる立場にない彼女が多くの豪族や一門に見捨てていた朝倉家の為に熱心に動いたのかは分からないが、その後に一将として軍を率いていることからこの説はそれなりの信憑性を持っている。 逸話 この戦いの後、竹中重治は運に助けられた部分も大きかったと述懐している。 内応させて同士討ちの形をさせた計略は成功する見込みが高いと思って行ったことではなく、あの計略が失敗していれば勝敗の行方はわからなかっただろうと言ったといわれている。 後に家中に入る朝倉宗滴を慮ってのことでもあるだろうが、これは本心でもあるだろう。蜂須賀正勝、姉小路頼綱も似たような述懐をしている。 援軍の大将の朝倉景鏡は朝倉家の重鎮であり、たびたび義景の代理として儀式を行ったり、軍を率いたりなど朝倉家一門として宗滴に次ぐ地位にあった。 ただ、いかに重鎮である景鏡に率いさせたとはいえ、朝倉家存亡のかかった戦いに義景自身が援軍に赴かなかったことは内外から批判が多かった。 この戦いの最中、城に押し寄せた姉小路軍の足軽達がアリスの人形に襲われた。 このことは蜂須賀正勝をはじめ多くの者たちに目撃しており、足軽達を震え上がらせたという。 この様子は後に諸国でも怪談として伝わるようになった。 「小さく美しい人形どもが談笑しながら泣き叫ぶ足軽を引き裂いた。」やら「人間を鍋にして食べていた。」などと過激に誇張して語られるようになり、多くの老若男女を恐れさせたという。 後に怪談話の定番として諸国百物語に収録された。 この戦いに敗れた朝倉方では落城と共に自決をしようとする者もいたが、朝倉宗滴はそれらの者を止めて朝倉家の滅亡を見届けてからでも遅くないといったという。 遠からぬ朝倉家の滅亡を予測していた言葉であると共に、朝倉家と運命を共にしようという者が居たということが伝わるエピソードである。 脱出後、敗走中に朝倉宗滴は配下の将達と多くの言葉を交わしたと伝えられている。 遺言のように取れる言葉もあったという。アリスには今までの非礼を詫びると共にまがりなりにも戦いができる状況を整えてくれたことへの感謝の言葉が述べられたという。 宗滴は一乗谷城に着いた後、軍の指揮をしていない。理由については、一門の内から敗戦の責を問われたという説や怪我をしていたという説などいろいろあるが分かっていない。 ただ、宗滴は当主の代理として指揮をしていたので当主がいる城は当主が指揮するのは当然であるとも思われる。 BGM 人形裁判 ~ 人の形弄びし少女 『幻葬旋律曲 Necromanza』より
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/370.html
岩村城の戦い ☆このページでは、霧雨の野望における岩村城の戦いについて詳細に解説しています。 史実での岩村城の戦いについて詳しく知りたい方はwikipediaなどの岩村城の戦いを調べてください 岩村城の戦いとは永禄11年11月に武田と姉小路の間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路家 八雲弾幕隊:鉄砲隊9500:八雲紫、堀秀政、仙石秀久 本隊:騎馬隊14500:竹中重治、六角義治、可児吉長 紅魔弾幕隊:鉄砲隊9500:十六夜咲夜、レミリア・スカーレット、斎藤龍興 前衛足軽隊:足軽隊9500:羽柴秀吉、柳生宗厳、鵜殿氏長 第一遊撃騎馬隊:騎馬隊14000:赤井直正、前田玄以、橙 第二遊撃騎馬隊:騎馬隊8500::籾井教業、八雲藍、前田利益 第一支援弾幕隊:鉄砲隊5000:丹羽長秀、関一政 第二支援弾幕隊:鉄砲隊5000:羽柴秀長、宮部継潤 第三支援弾幕隊:鉄砲隊5000:滝川益重、蒲生賢秀 第四支援弾幕隊:鉄砲隊5000:荒木氏綱、淡河定範 第五支援弾幕隊:鉄砲隊5000:小野寺輝道、中川清秀 武田家 岩村城守城山上照久→真田幸隆→武田義信 岩村城所属総兵力57000+援軍26000(12月5日前後)+援軍6500(12月20日) 迎撃部隊 第一迎撃隊:足軽隊8000:上泉信綱 第二迎撃隊:騎馬隊8000:小幡信貞 第三迎撃隊:足軽隊9000:原虎胤 第四迎撃隊:騎馬隊8500:相馬義胤 第五迎撃隊:騎馬隊8500:山上照久 第六迎撃隊:騎馬隊5000:大関高増 第七迎撃隊:足軽隊7500:保科正俊 旗本隊:騎馬5000:武田義信、佐竹義重 背景 美濃岩村城は武田家の美濃攻略及び信濃防衛のための最も重要な出城の一つであった。美濃での数度にわたる合戦の結果武田家は多くの兵を失って次第に劣勢になったが、なおも武田家東山道方面軍の大将である武田義信が八万もの兵力を率いて岩村城を守っていた。この時点で姉小路家の美濃に駐在していた兵力はおよそ9万ほどであり、兵力が均衡していたために双方手が出せなかった。ところが永禄十二年八月の戦いで姉小路家は北信濃の海津城を得たことから状況は変化した。武田義信は姉小路家の海津城領有を良しとせず、奪回のために岩村城から2万6千を率いて出陣した。これによって美濃方面の武田家と姉小路家の兵力の均衡は破られたのである。 概要 竹中重治は武田義信出陣の報を得ると即座に軍の編成を命じた。急編成であり、率いる武将は半月以内に出陣できる者に限ったため参加武将は美濃駐在諸将及び尾張駐在の将のごく一部であった。 総兵力はおよそ8万。先陣は竹中重治本隊が勤めた。 対する武田家は岩村城の外堀というべき岩村川の東岸に布陣した。岩村に残る兵力は5万7千以上で決して少ない兵力ではなかったが、率いるべき将が不足しており武田の迎撃部隊は上泉隊、小幡隊の2部隊わずか1万6千と寡兵であったため、渡河点全てを守りきる事ができなかった。 竹中隊と羽柴秀吉隊が上泉隊、小幡隊両隊を引きつけたため、姉小路の他の部隊は容易に岩村川を越えて城攻めを開始することができた。 一方の武田義信は海津城へ進軍していたが、守将の黒田孝高が海津城を破却して越後へと撤退したため何も得るところ無く岩村城へ退却することとなった。この部隊が岩村城へと帰ってきたのが12月5日前後だが、その頃には岩村城の城門は焼け落ちていた。 しかし、武田方も主力の武将が揃ったため合戦は激しくなった。中でも姉小路家の鉄砲隊へと攻撃を加えようとする武田の諸部隊と、それを防ごうとする羽柴秀吉隊の戦いは熾烈を極めた。 秀吉隊は武田騎馬隊の波状攻撃を受けてなお硬く陣を守っていたが、守るばかりではなく12月5日のように陣から突出し逆襲。秀吉隊が武田諸隊に与えた打撃自体は軽微であったが、常に武田の攻撃を引きつけて他の姉小路諸部隊の被害を軽減した。 その後の戦況は姉小路勢に有利に推移した。紅魔弾幕隊の集中砲火で精鋭の義信隊を退却させることに成功すると、八雲隊も乱戦の中、保科隊の将の保科正俊を包囲することに成功、保科正俊は自らの武勇でなんとか脱出できたものの保科隊は大混乱に陥った。 前線の一角を担っていた保科隊の急な崩壊に武田勢が対応できず、全出撃部隊をも一時混乱に陥らせた。 だが、何よりも姉小路勢を有利にしていたのは竹中重治配下の優秀な薬師による傷兵の治療である。姉小路勢は常に兵力の補給を受け続けているも同然であった。 損害の殆どは秀吉隊で押さえ込んだために秀吉隊は大きな被害を出し、終結まで最前線での戦闘を続ける事はできなかったが、 秀吉が前線から後退した頃には勝敗は決していた。翌永禄13年1月2日、岩村城は陥落した。 この戦いの影響 永禄8年美濃防衛戦以来の美濃の中心部を巡る武田と姉小路の戦いはこの戦いで武田が岩村城を失った事で幕を下ろした。 姉小路家は信濃攻略を企図していたが、信濃深志城への道は大変な難路続きで通行には街道周辺の住民の慰撫と協力が必要であったため拙速を避けた。 以降、この地方では岩村城代の羽柴秀吉によって住民への調略が行われ、将来の信濃攻略への準備が行われていく。 武田義信は多くの兵を失い、深志城へと退却。東海道方面からの将兵の補給を受けてこれを守備する事となった。 逸話 この合戦の功によって羽柴秀吉は岩村城の城代に任命された。 この岩村城代は武田家の部隊はもちろん、 美濃国内の撹乱や諜報を行う間者を防ぐ任務を帯びており、いわば美濃の大田園地帯を守る楯であった。 それと同時に甲斐に次ぐ最重要拠点である信濃を攻略する為の諜報と調略を行う任務も帯びており、いわば武田領に突き出した矛でもあった。 戦略担当の竹中重治が、軍議中に「蜂須賀殿が二人欲しい」と嘆いた逸話があるほどの重職である。 この職に武将としてが中堅程度の地位であった秀吉を抜擢するのは異例中の異例であった。 岩村城駐在の武将には赤井直正のような守護や守護格の上級武将も含まれているため、 中堅武将の秀吉ではまとめられない恐れから本来であれば通らない人事であったが、 この合戦での秀吉の活躍は諸将を納得させるのに十分な功績であったし、 岩村城駐在の中では最大級の実力を持つ八雲紫率いる旧幕臣衆という強力な推薦者がいたため、この異例の抜擢となったのである。 この戦いで秀吉隊は山上道及隊、相馬義胤隊、原虎胤隊などの敵部隊から集中的に攻撃された。 これは姉小路家の中では足軽隊が技術的に最弱であることが大きな要因である。 にもかかわらず、同部隊は合戦の最初からほぼ最後まで敵部隊を食い止め、友軍の被害を抑えた。 ただし、その勇戦ゆえに羽柴隊の被害は大きく、全軍の戦死及び行方不明率だけで実に3割を超え、部隊死傷率はおよそ99%。 しかも、一度負傷して竹中隊の治療によって戦闘に復帰した者が多く居り、延べ死傷率では150%を超えるという説もある。 この被害状況でこれほど戦えたのは羽柴秀吉の部隊統率力が優れていた点が大きい。 ちなみに、死傷率の高さによって当合戦で秀吉隊は一度の合戦における最多の感状獲得記録を更新した。 (これまでの最高記録は山口館の戦いにおける博麗霊夢隊。秀吉隊同様に非常に高い死傷率で知られている。)
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/178.html
越中防衛戦 越中防衛戦(えっちゅうぼうえいせん)は越中国舟橋において越後の大名長尾景虎と姉小路良頼の間で起こった戦い。 正式名称は富山合戦もしくは舟橋の戦いであるが、ここではより一般的な呼称である越中防衛戦として説明する。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・富山城兵総勢13826 (2月15日-2月25日) 迎撃部隊:騎馬隊4500 :斎藤義龍 弾幕部隊:鉄砲隊500x5:博麗霊夢・リグル・ナイトバグ・明智光秀・霧雨魔理沙・明智秀満 奇襲部隊:足軽隊3000 :竹中重治 (2月25-3月20日) 奇襲部隊:足軽隊3000:斎藤義龍 迎撃部隊:足軽隊5000:竹中重治 弾幕部隊:鉄砲隊500x4:霧雨魔理沙・博麗霊夢・明智秀満・リグル・ナイトバグ 長尾・春日山城兵 先鋒隊:騎馬隊8000:長尾景信、村上義清、大熊朝秀 柏崎港守備兵 本隊:騎馬隊8000:宇佐見定満 騎馬隊5000:チルノ、他最上義守、色部勝長、佐瀬種常が従軍。 姉小路側は対越後防備として街道沿いに櫓を設置している。 長尾側は精強で知られる騎馬隊であるが、出撃地点の違いから連携の不備が見られる。 兵力はほぼ同数であり、以上の要素が戦局を左右する。 概要 越後の大名長尾景虎は重臣である長尾景信を総大将に命じて越中に侵攻させた。先鋒として景信隊、中軍に宇佐美定満隊、後軍には新参の将であったチルノ隊として組織されていた。 しかし、突出しすぎた景信隊が、斎藤義龍の足止めをうけているうちに竹中重治の奇襲を受けて恐慌状態に陥り、鉄砲隊によって討ち減らされ宇佐美定満隊が戦場に到着する前に全滅、長尾景信は捕虜になった。 宇佐美定満隊は粘るもチルノ隊が斉藤義龍に奇襲されあっけなく壊滅、左右に櫓、前後に竹中隊と斉藤隊に挟まれ、さらに遠巻きから鉄砲隊による銃撃に襲われるという絶望的状況になり壊滅。 後、禅僧の沢彦宗恩の仲介により長尾姉小路間で停戦協定が結ばれた。 この戦いの影響 この戦いで長尾勢が敗れたが長尾家の規模から言えばこの戦いは小競り合い程度であり、さしたる損害ではなかったと言われている。 一方、姉小路家にとっては初の大規模な防衛戦であり万全を期して望んだ戦いであった。この戦いにおいて姉小路家の矢櫓は大いに威力を発揮し、その防衛力を大いに見直すこととなった。 このことは後に一国を丸ごと要塞化するという圧倒的大国に対する防衛思想に発展した。 長尾軍の敗因 景信隊が突出したために中軍および後軍との連絡が悪く、各個撃破されてしまったというのが定説である。 本来の総大将は景信であるが適切な指示を出すことが出来ず、先鋒の実質的な指揮をしていた村上義清、中軍の指揮をしていた宇佐美定満、2人が各々全軍に指示を出してしまった為指揮系統が混乱してしまい、混乱につながってしまったという説がある。 また、チルノ隊は元々は宇佐美の一部であったと言われており、チルノの独断で軍を割ってしまったという。さらに冬の積雪により行軍も困難であり、伝令を行き来させることすら困難であった。 以上のような状況から士気も低く、こういった要素が敗北につながったと言われている。 要約するならば、冬季の長距離行軍による士気の低下、各軍の連絡不備と、姉小路側による鉄砲、富山城の要塞化(或いは野戦築城)、竹中重治の知略が合わさった結果だと言える。 なお、姉小路家はこのときの戦訓を最大限に生かし、後の第二次越中防衛戦、美濃防衛戦につなげていくのである。 このことを考えれば、この戦いはまさに新時代合戦の萌芽と呼ぶべき戦いといえる。 また、長尾家の敗退理由の一つに、当時の長尾家の状況もまた挙げられる。旧守護・上杉家の支配体制をそのまま利用している長尾家においては、中央集権化が未熟であり、依然として国人衆の力が強大であった。 それを、長尾景虎という一人のカリスマ的指導者がそのカリスマ性によってまとめ上げておるにすぎず、長尾家はカリスマ指導者個人への崇拝とも言うべき忠誠心のみによって支えられているにすぎなかった。 それゆえ、そのカリスマ指導者が不在であり、総大将がやはり国人のひとりである宇佐美定満である今回の侵攻軍においては、宇佐美は本来同列である国人衆へと采配することとなるため、その軍事行動には従軍する国人衆の意向を受け入れた上で行わなければならず、大きな制約があった。 一方の姉小路家は、飛騨を統一する過程において中央集権化を推進。飛騨を統一しさらに他国を下すその強大な軍事力と、自らの手で完全に掌握した飛騨の諸金銀山の財力を以て、すでに国人を家臣として城下に集住させ、所領の武士から農民まですべてを末端まで掌握できる体制を構築することに成功していた。 その点においてこの戦いは、中世的地方分権的支配の長尾家と、近世的中央集権的支配の姉小路家という側面を持っていた。かつ、その体制的脆弱性を補い長尾家を強国へと押し上げていたカリスマ的指導者・長尾景虎が不在であったこの戦いにおいては、長尾家は体制的に先進国である姉小路家に敗北せざるを得なかったのである。 出兵の理由 長尾家の出兵の規模から言って、この戦いが越中国の制圧を目的としていたとは思われず、出兵理由としていくつかの説がある。 能登畠山家への援軍 当時、七尾城下の合戦が行われている最中であり、能登畠山家が危機に陥っているため、救うために姉小路領越中を攻めたという説である。 長尾景信の暗殺 長尾景信は越後長尾家において元々は主家であり、景虎が後の憂いとなることを恐れて姉小路家の兵を使って暗殺しようとしたという説である。 その説によれば後に捕虜返還の使者を送ったのは家中の意見が強くやむを得ずだったということになる。しかしながら景信が戦後も景虎に変わらず仕えていることからこの説は薄いとされている。 新たに仕官した武将の能力試し この戦いでは、チルノや村上義清、最上義守などの新たに長尾家に仕官した武将が主力として参加している。長尾家での彼らの働きぶりを見定めるための戦いではないかという説である。 しかし、数万の軍を起こす理由としては例のないことで考えにくい。ただ、軍の人選については、このような意図が働いたという可能性はある。 ただし、この出兵理由については必ずしも政治的理由のみならず、社会的理由も鑑みねばならない。すなわち、当時農業生産に乏しく収入の安定性を欠いた越後において、農民たちはその副収入を得る必要があった。 その一つに他国への侵攻が挙げられる。彼らは他国侵攻によって侵攻地域の集落から上納金を得ていたのである。ゆえにこの戦いの要因としては、農民たちの副収入を確保するため、ということがあげられるのである。 この戦が農閑期である冬に行われているのは、その傍証であろう。 姉小路家の対応 このときの富山城の兵は13000、対する越後軍は総勢21000であり、防御側の三倍原則に則れば、姉小路側が優勢と見られていた。しかし精強で知られる長尾騎馬軍が相手ではそれなりの損耗が覚悟された。 しかし、結果を見れば敵軍壊滅、長尾景信捕縛、自軍の損耗はごくわずかという、大勝利であった。 この戦いにおいて、各個撃破戦術を提案したのが竹中重治であることは姉小路良頼(三木嗣頼)や明智光秀らの日記からも明かであるが、驚くべきことに近衛前久などの公家、浅井朝倉を始めとする周辺大名など、この戦勝が竹中重治の知略によるものだと広く知られていた。 これは姉小路頼綱 (三木自綱)による宣伝工作であり、周辺大名に姉小路家が長尾家と抗する力を持つ認識させるのに十分な効果があった。 同時に「姉小路に今孔明あり」とすることで竹中重治がいるだけで相手を威圧できる状態を作り上げていたのである。 なお、この戦いでの評価が後の武田包囲網に、上杉が姉小路を参加させようとする動きに繋がったと思われる。 宇佐美定満の手記 この戦いに敗れた宇佐美定満は敗れた後の逃走劇について詳細な記録を残している。後に道中記としてまとめる意図があったと思われる。 味方がちりじりに散ってしまい、馬も失ってしまった宇佐美は徒歩にて逃走していた。 「戦場からやや離れたある一村にたどりついたところでチルノを発見保護し、その後は孫づれの旅人として逃走した。」「二人連れになった後の道中でチルノがあまりに目立つ上に奇抜な行動をとったので大いに難渋した。」とある。 自分が捕虜になった後のことを考えると「心を鬼にして見捨てるべきだとも思ったが、哀れではあるし、馬鹿な孫のようで本当に可愛くもあったので見捨てることが出来なかった。」と複雑な心境が切々と書き綴られている。 実際にチルノは各地で目立っていたようで、戦地から程近い村の農民の記録に「面妖ナル女童アリ。彼ノ者当家に食ヲ乞フ」という宇佐美との合流前の記録が残っているなど、彼女の逃走時の記録は多い。 それにもかかわらず彼女が捕まらなかったのは、彼女があまりに目立ちすぎて落ち武者と認識されなかったが故である。 ちなみに先程の農民もそれほど重大なことと思わずに、チルノと会った5日後に役人に問われて初めて妙な子供が居たと報告したそうである。 二人の旅の最大の難所は越中の越後口を固める宮崎城の城下町での出来事であった。多くの落ち武者を阻んだこの町であったが、定満の巧みな話術と孫連れの行商人風の外見から越後方の武将と怪しまれることはなかった。 この町でチルノは風車を買ってもらって、それを回して遊んでいた。風車を持って走り回るチルノを見て、戦さで荒んだ人々の心も和んだようである。 ところが、風車を回すのに夢中になり、よりスピードを求めてうっかり空を飛び回ってしまった。人々は驚いてあたりは騒然。 定満は急いでこの町からでて北陸道を進んだ。後に国境を守るために城につめていた兵がこの噂を聞きつけて後を追ったが、親不知にさしかかった時に突如季節はずれの雹に襲われ、城兵は追跡を断念せざるを得なくなったという。 この記録はチルノ発見からその後の道中、最後にチルノが景虎に大いに叱られたところまでを詳細に記録しており、宇佐美定満の死後公開された。 発表後、宇佐美定満の武将としての厳格な人柄に隠れた優しさとチルノのほほえましく愉快な行動が身分を問わず大いに人気となったという。 BGM おてんば恋娘 ~ the Foolish Gir dBu music「紅魔狂詩曲 Scarlet Rapsodia」
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/190.html
筒井城防衛戦 筒井城防衛線(つついじょうぼうえいせん)とは永禄8年に北条家と姉小路家の間で起こった合戦である。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・筒井城兵総勢23405 迎撃部隊: 前衛部隊:騎馬隊8000:武田信虎、松永久秀、前田利益 前衛部隊:足軽隊8000:浅井長政、蜂須賀正勝、富田景政 弾幕部隊:鉄砲隊100×6:姉小路頼綱 (三木自綱)・荒木村重、遊佐続光・原長頼、乃美宗勝・滝川雄利・小島職鎮・生駒親正 観音寺城兵 遊撃部隊:騎馬隊8000:朝倉宗滴、紅美鈴、真柄直隆 北条・亀山城兵・霧山御所守備兵 第一部隊:足軽隊14500 北条氏康 第二部隊:足軽隊7000 北条綱成 第三部隊:足軽隊6000 射命丸文 第四部隊:足軽隊6500:北条氏照 第五部隊:足軽隊11500:北条氏邦(戦闘には参加せず) 越中以来二度目の防衛戦である。前回と異なり、櫓は鉄砲櫓であり、かつ鉄砲技術も飛躍的に向上している。 北条家きっての猛将である北条綱成と当主である北条氏康など重厚な顔ぶれではあるが、結末はかつての長尾軍と同様であろう。 概要 永禄8年1月、北条氏康率いる兵が姉小路家領の筒井に攻め込んだ。 当時、北条家は武田家と同盟関係にあり、武田家と敵対関係にあった姉小路家を攻撃することで同盟国としての義理を果たそうという意図であったと思われる。 対する姉小路家は姉小路頼綱の指揮の下、武田信虎、浅井長政が前線に立ち、荒木村重、滝川雄利、乃美宗勝などが鉄砲隊を率いて後方から支援して防戦した。 この時、筒井城は周辺に数多くの鉄砲櫓を立てて高度に要塞化されていたため、四方から鉄砲を撃たれることとなって北条軍は非常に苦戦することとなった。 だが、名将と謳われている北条氏康や北条綱成の激しい攻撃の前に武田信虎隊の損害も激しく、浅井長政隊に至っては一時は壊滅寸前まで追い込まれたという。 そのときは辛うじて浅井長政隊所属の蜂須賀正勝が陣を固めて北条綱成隊の突撃を未然に防いだので長政隊は戦闘を継続できたほどであった。 しかし、さすがの北条軍も四方からの銃撃に残り少なに討ち減らされ、観音寺城からの援軍である朝倉宗滴が北条軍の退路を断ったところで壊滅した。 敗れた将兵は後詰で出陣していた北条氏邦隊に拾われて3月5日、亀山城に帰城した。 この戦いの戦術は基本的には越中防衛戦で行った戦術と同じである。 ただ、その規模は遥かに大きくなり、今回は大和国の東半国が要塞化された。 このような広域にわたる鉄砲櫓による要塞化と多数の鉄砲隊での防衛法は「弾幕結界」と名付けられ、姉小路家の強国に対する基本的な防衛法になった。 この戦いの影響 この戦いで敗れた北条氏康であるが、実際のところ北条家の規模から言えばさほど大きな痛手ではなかったと言われる。 主だった将が戦死や捕虜にならなかったのもやはり義理出兵であり、最後の最後まで戦う必要が無かったからであろう。 この戦いで北条家は武田家に対する一応の義理は果たしたこととなる。 一方、姉小路家は追撃するに十分な兵力を持ちながら追撃を控えている。 たとえ、北条家を攻めて伊勢を手に入れても武田軍とまともにぶつかり合うこととなる為、維持できないとの判断であろう。 逸話 この戦いが起こったのは雑賀城の戦いの最中である。北条氏康は竹中重治の出陣中を狙って攻撃したと言われている。この話を聞いたとき、武田信虎は愚かしい事と大笑したと言う。 武田信虎隊の前田利益が派手な格好で皆朱の槍を手に名馬松風に乗り回している様は戦場で大いに目を引いた。 多くの者が彼に挑んだが皆一撃で弾き飛ばされたという。あまりの派手さに天狗も驚き、彼の周りで戯れるように飛び回っていたという。 筒井城の堅固さは近隣諸国にも知れ渡っていたが、名将北条氏康が3万4千も率いて城壁にすらたどり着けないと、この戦いで一層有名になった。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/182.html
筒井城の戦い 筒井城の戦い(つついじょうのたたかい)は永禄7年に織田家と姉小路家の間で行われた戦いである。 戦いの規模自体は小さかったが後の日本全体の情勢に大きな影響を与えた。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・観音寺城兵 攻城部隊:足軽隊10000:竹中重治、富田景政、ルーミア 火力部隊:鉄砲隊9500 :浅井長政、霧雨魔理沙、蜂須賀正勝 野戦部隊:騎馬隊9500 :朝倉宗滴、アリス・マーガトロイド、紅美鈴 織田・筒井城兵総勢18168+傷兵(交戦開始時3582) 守将:織田信長 (12月10日時点で、羽柴秀吉10500、毛利新助5000が鈴木家迎撃、両隊帰還時5252) 織田家は良将が多くいるものの、武田・北条・鈴木・姉小路から一斉攻撃を受けており(この戦いの時点で尾張・伊勢志摩失陥)本来の実力が発揮できる状況ではない。 概要 この戦いの前に尾張を武田5万、伊勢を北条3万の兵で同時に攻められた織田家は敗走し、残った2万の敗残兵と将が筒井城に逃げ込んだ。 さらにタイミングで雑賀衆が筒井城を襲撃し、織田家は辛うじて撃退したものの多くの負傷兵を抱えさらに物資兵糧は尽きかけていた。 この状況に乗じた姉小路家の竹中重治、浅井長政、朝倉宗滴が率いる2万9000の兵が筒井城を急襲、 対して織田信長は良く将兵を統率し、矢弾が尽きてもつぶてを投げつけるなど激しく抵抗した。 しかしながら、結局は兵糧が尽きて抵抗することができなくなり、開城することとなった。 この戦いは雑賀衆が和泉岸和田城と大和筒井城の連絡を遮断することにより兵糧攻めの形となった。 城そのものに大きな損害を与えず、こちらの損害も小さくて済み、多くの投降兵を手にすることが出来る兵糧攻めの有効性が再確認された戦いでもある。 姉小路側の戦略 この戦いにあたって竹中重治は急場にもかかわらず幾重にも策をめぐらしている。 例えば、雑賀衆に岸和田城と筒井城の連絡を絶たせて物資の運搬を阻害していること、 完全に城を包囲せず、筒井城に各地からの敗残兵がよりいっそう集まるように仕向け、兵糧をより一層枯渇させ尚且つ多くの将兵を投降させようとしていることである。 結局はこの策があたって織田家はさらに多くの将兵を失い、再起不能な状況にまで追い込まれたこととなる。 また、城を無傷に近い形で落すことにより武田北条連合軍の西進を防ぐことを狙ったとも言われている。 兵糧攻めでなく力攻めで城を大きく傷つけしまったら、姉小路軍が筒井城を落城させた直後に北条氏康が攻めてきて、城を盾に戦えず、支えきれずに城を失うことを恐れがあったためだといわれている。 織田軍の団結に関する逸話 織田側の記録によれば、織田勢は既に尾張、伊勢で大敗しており、姉小路勢と戦った兵士の多くは辛うじて武器を持てるだけで弓すらも満足に引けないような怪我を負っている者も多かったらしい。 さらに一度に多くの兵がなだれ込んできたため、筒井城に常備していた兵糧物資もすぐに底を尽き、和泉からの物資の搬入も出来ない状況であった。 このような状況下でも配下の部将達は勇敢に立ち向かった。自身の愛馬を割いて兵の糧とした将も多かったという。 また兵士も少しでも戦える兵士は勇敢に戦い、戦えない者達も城内の草の根を掘り木の皮を剥いで戦える者たちに食料を供給したという。 しかしながら最終的には戦える者がいなくなり、開城せざるをえない状況に追い込まれた。この時に入城した者の報告によると、すでに衰弱して足腰が立つ兵は稀であり諸将も辛うじて槍を杖にして立っているような状況であったという。 しかし、軍全体がこれほど衰弱していたのにも関わらず、戦意は旺盛であった。戦後処理で捕虜になった武将達は仕官の勧誘を受けたが一切応じず、岸和田城が落城して織田家が滅亡したときに初めて登用に応じた。 ちなみに筒井城が開城する寸前に織田信長は僅かな護衛と将を引き連れて城を脱出したが、雑賀衆の関を突破する際にも護衛兵が犠牲となり、結局は岸和田城にたどり着けたのは僅か数人であった。 もちろん、全ての織田軍兵士が勇敢に戦ったわけではなく脱走兵も少なくなかった。筒井城の戦いが終わった後、ほとんどの兵士は姉小路軍に降伏し編入された。 しかし他の軍より遥かに強い忠誠心を持っており、固く団結していたことは確かであろう。なぜこれほどの忠誠心を得ていたかは分かっていないが、本人の資質によるところが大きいと思われる。 この戦いの影響 この戦いに敗れた織田家は多くの領土と兵を失い大半の武将が捕虜になってしまったため大いに弱体化された。 織田家は岸和田城に篭って抵抗を続けるも、結局は姉小路家によって滅亡させられることとなる。 対して、姉小路家は主だった織田家家臣の大部分を捕虜にし、多くの兵を手に入れた。 また、大和一国を確保することに成功した。 しかし、なによりも大きかったのは筒井城をほぼ無傷で手に入れたことにより、武田北条連合軍の西進を食い止めたことであろう。 北条氏康はこの戦い以前に霧山御所を落し、伊勢国も制圧しつつあった。制圧後は西進して筒井城を確保する予定であったが、姉小路軍がほぼ無傷で筒井城を落してしまったため、断念せざるを得なくなった。 もし北条家が筒井城を落していれば、武田軍が北条家に道を借りて京に上洛していたことは十分に考えられる。 また、北条家の近畿における勢力もより安定しただろうことを考えると、この筒井城の戦いは規模こそ小さかったものの、天下の趨勢に大きな影響を与えたことになる。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/231.html
稲葉山会戦 稲葉山会戦(稲葉山会戦)とは永禄9年に姉小路家と武田家、北条家の間で起こった戦いである。 この時代の合戦において屈指の激戦であったことで知られる。 合戦以前の情勢 前将軍弟足利義秋は足利幕府滅亡後西国諸侯を渡り歩き、次いで武田信玄に保護された。 義秋は武田信玄に姉小路家を討って幕府を再興することを要請し、信玄はこれを承諾した。信玄は上杉謙信及び北条氏康と和解し、西国諸侯も含めた足利義秋を中心とする姉小路包囲網を形成。 参加各国は対姉小路家の前線に軍を集合させた。特に武田家は信濃深志に続々と兵を集め、先の美濃防衛戦を上回る13万もの大軍となった。 合戦までの経過 3月10日に武田信玄は深志の筑摩神社に全軍を集結。上洛を宣言し、稲葉山城へ出陣した。上杉、北条もこれに呼応して出陣。 どの軍も同日に姉小路軍と交戦を開始していることから前もって申し合わせていたものと思われる。 加えて北条軍は美濃攻略軍以外にも北条幻庵率いる2万の兵を筒井城へ出陣させている。牽制のためであったらしく、この軍はすぐに敗走している。 対する姉小路軍は西国戦線にいた異能の者数名を対武田、上杉のために美濃、越中に呼び戻している。また、観音寺城で全軍の統括を行っていた竹中重治もこの戦いに参加するため美濃へ向かった。 なお、松永久秀は稲葉山城の防衛のために筒井城の守備兵から1万5千を割いてこれを大垣城に配した。竹中重治、霧雨魔理沙、博麗霊夢はこの軍を率いて稲葉山城救援に赴いている。 参加兵力及び戦力評価 姉小路:稲葉山城兵116719 守将:赤井直正、蜂須賀正勝、柳生宗厳 結界部隊 :鉄砲隊9500:八雲紫、橙、山崎片家 駆逐部隊 :騎馬隊13500:武田信虎、前田利益、八雲藍 第一弾幕隊:鉄砲隊5000:小野寺輝道、中川清秀 第二弾幕隊:鉄砲隊5000:羽柴秀吉、宮部継潤、後藤高治 第三弾幕隊:鉄砲隊5000:細川藤孝、鵜殿氏長 第四弾幕隊:鉄砲隊5000:羽柴秀長 第五弾幕隊:鉄砲隊5000:丹羽長秀、六角義治 第六弾幕隊:鉄砲隊5000:籾井教業、滝川益重 大垣城兵14500 遊撃隊(紅):鉄砲隊4500:博麗霊夢、寺島職定 遊撃隊(黒):鉄砲隊5000:霧雨魔理沙、淡河定範、斎藤龍興 遊撃隊本隊:鉄砲隊5000:竹中重治、荒木氏綱、長野藤定 武田:深志城兵132000 第一部隊:騎馬隊22000:武田信玄 第二部隊:騎馬隊11000:高坂昌信: 第三部隊 騎馬隊5500:太田資正 第四部隊:騎馬隊20000 諏訪勝頼 第五部隊 騎馬隊8000:北畠晴具 第六部隊 足軽隊6000原虎胤 第七部隊:足軽隊9000真田昌幸 第八部隊:弓隊9000真田幸隆 第九部隊:破城槌14000:武田信繁 第十部隊:破城槌15500:松平元康 北条尾張清洲城兵62000 第一部隊:足軽隊17000:北条氏康 第二部隊:足軽隊9000:北条氏照 第三部隊:足軽隊8500:北条氏邦 第四部隊:足軽隊7500:魂魄妖夢 合戦概要 先の戦いのように街道沿いに巧妙に設置された鉄砲櫓で多くの兵を失いながらも北条武田両軍は稲葉山城周辺に到着した。 北条軍は概ね東門から南門付近、武田軍は西門から南門付近に布陣した。対する姉小路軍は後述のような防御体制をとり、八雲紫隊を東門門外で守備を固め、多数の弾幕部隊を配備した。 特に西門を攻撃していた武田信玄隊には魔理沙隊、霊夢隊、竹中隊あわせて一万五千もの弾幕隊が当てられた。 緒戦において武田北条連合軍は城壁への破壊工作が行なった。また山本晴幸や高坂昌信などが調略を試みている。 しかし、ことごとく蜂須賀正勝によって未然に防がれている。その間にも姉小路軍の弾幕部隊も次々に武田、北条軍を打ち減らしていき、いくつかの部隊を壊滅に追い込んでいる。 武田軍が得意とする土竜攻めが封じられ、このままでは武田北条連合軍が稲葉山城壁を越えるには今しばらくの時間が必要となると思われた。しかし、信玄が行った策は土竜攻めよりもさらに効果的であった。 信玄は以前武田軍に属して美濃防衛戦で敗れた際に姉小路軍についた多数の元武田兵に働きかけ、内応を起こさせたのである。姉小路軍は全軍が混乱状態に陥り、一部では同士討ちを行うなど多大な損害を受けた。 特に魔理沙隊の混乱は酷く、この会戦が終結するまでほぼ無力化されてしまった。稲葉山城西門においても内応がおき、内応した兵士と城門を守る兵が争っている間に信玄隊が城門に攻撃、これを破壊して城内に突入した。 指揮系統が破壊された姉小路軍ではこれを止めるすべはなく、信玄隊は本曲輪にまで乱入し、そこで指揮を執っていた蜂須賀正勝も危険にさらされた。 しかし、あわやと言うところで八雲紫が救出、次いで全軍に呼びかけてこれを鼓舞し、指揮系統を建て直した。その後に銃身が真っ赤に焼け付くまで弾丸を撃ち込んで信玄隊を本曲輪の外にまで押し返した。 その活躍の一部始終を見た正勝は、彼女をある古代中国の将になぞらえて評し、「八雲紫は一身之胆なり」と絶賛したという。 この騒ぎで南門も破壊され、武田の諏訪勝頼隊や北条の北条氏康隊を初めとする南門攻撃隊も激しく攻撃を加えた。 これらの攻撃に対して蜂須賀正勝及び彼を補佐していた赤井直正、柳生宗厳は後に獅子奮迅と評される活躍を見せた。一方、その間も東門外で守備していた八雲紫隊への激しい攻撃は続いていた。 しかし、巧みに陣を動かして弾丸を浴びせる彼女の軍の前に北条軍は次々に壊滅、敗走していった。結局、他の弾幕部隊や信虎騎馬隊の援護もあって、八雲紫隊は完璧に東門を守りきったのである。 北条軍が退き、武田軍の損害も大きくなってきた頃になっても、稲葉山城には4万もの兵が詰めていた。いかに城壁が破壊されていてもこれを落とすのは不可能と見たか、突如武田軍は退却を開始した。 殿軍の高坂昌信隊が踏みとどまり、わずかのうちに高坂隊は壊滅したが、武田全軍が退却するための時間かせぎはそれで十分であった。 一部の姉小路軍は退却の動きを察知して退路をふさぎに回っていたが、武田軍はあっさりとすり抜けた。武田信虎隊は追いすがったが、足の遅い足軽隊や破城槌隊すら捕捉することが出来ず、木曽川河畔に至って引き返し、この戦いは終結した。 美濃の防備体制 前回の美濃防衛戦にて勝利を収める事ができたものの、真田幸隆が使った金山衆による城への破壊工作の対策を図る事が急務となった。 ただ当時の姉小路家は建築に秀でた将は羽柴秀吉、松永久秀、明智光秀らと揃っていたものの、姉小路首脳部は武田騎馬軍団と野戦を行えるだけの足軽部隊、騎馬部隊の装備の更新や配備を優先していた為に築城技術を発展させるだけの余裕が存在していなかった。 また武田の次の侵攻は騎馬軍団を前回以上の規模で動員する事などが予想出来る等の点から、現場での工夫でもって損害を削減する必要が生まれ、羽柴秀吉や、羽柴秀長ら建築術に優れた諸将が前回よりも発展させた防備計画を構築した。 その発展させた防備計画とは、城の虎口の前を中心に土塁や柵を作ると共に鉄砲隊を守備隊として予め城外に配置しておく事により、城の死角となる所からの敵の侵入を防ぎ、敵の接近を遅らせるというものであった。 この策は上記のように守備隊を配置する事によって金山衆らの死角からの侵入を防げるものの、塀の外側に居る為に、城内に比べてたやすく騎馬部隊の接近を許してしまうという弊害が発生する事が予想された。 その為、弾幕部隊及び八雲紫東門守備隊を守るために、武田信虎は稲葉山城が有する騎馬部隊を率いて予め城外に待機し、守備部隊らと連携する事により守備隊の損害を抑えた。 補足: この防御方法と似た方法は同時期に発生した第二次越中防衛戦でも実施された為、現地での工夫ではあったが、姉小路領国内では既に伝えられていたものと思われる。 当時の中国明王朝においてはオイラート等の遊牧騎馬民族に悩まされており、予め城門の外に防壁を作り騎馬射撃や騎馬突撃を防ぎ、その間に城壁から守備兵が射撃を行い相手を寄せ付けないという築城技術が存在していた(甕城等と言われている城外に建てられた防御設備である)。 そのような例を知った秀吉らは城外に本格的な設備を作ろうとしたものの、作る余裕の無かった為、代用として兵士たちに急造で柵や塁を作らせ、保険として騎馬部隊と連携させたものと思われる。 この戦での城の塀や堀の外に防御区画を作る事の有効性に気づいた各国は、城の設営の際に馬出、出丸等と言われる設備を作るようになったといわれ、築城技術革新が進んだ原因となっていると言われている。 この守備隊は姉小路側では、虎口を守る結界のような部隊であるという事から、結界部隊と呼ばれ、またその結界部隊を見事に扱う様から八雲紫を「結界の操り手」と呼ぶ者まで現れたという。 北条軍について 北条氏康は北条家の存続をかけた乾坤一擲の覚悟をもってこの戦いに臨んだと言われる。美濃の鉄砲櫓は西側に多く配置されており、戦いに負けて敗走する部隊を容赦なく全滅するよう設計されている。 勝たねば全滅以外の選択肢はなかった。 北条軍は鉄砲櫓の射撃を潜り抜け、稲葉山城に布陣した。北条軍は四方八方からの銃撃に耐えて善戦した。幾度も城壁によじ登り、門の破壊工作を繰り返している。 また、城門を信玄が破った際には南門から城内へ攻め込んで激しく攻め立てた。その際に北条綱成が城兵の混乱に乗じて調略を試みている。 しかしながら、蜂須賀正勝の防戦は巧みであり、北条軍に対して最後まで隙をみせなかった。 決死の覚悟で臨んだ北条軍は最後まで戦い抜いたが、火の出るような勢いで弾丸を打ち込まれた各部隊は次々に壊滅。東門攻撃隊の北条氏邦隊を最後に完全に敗れた。 死者、負傷者は数え切れないほどの大敗であった。北条軍の陣地跡はまさに死屍累々であったという。主だった将は少数の近習に守られて尾張清洲城に敗走している。 武田軍に対して北条軍の被害が大きかったのは美濃の鉄砲櫓の配置もあったが、なによりも兵科の問題もあったと思われる。 武田軍は半数が騎馬隊であり、鉄砲櫓地帯をすばやく潜り抜けることである程度被害を抑えることができた。 しかし、北条軍は馬の生産に向かない地を根拠地としているため、足軽を主力としていた。足軽ではいかに行軍しようとも、馬の機動力には劣る。 また、個人個人では足軽の方が的が小さいが、大勢が固まって行軍するとなると騎馬隊も足軽隊も大して変わりはない。このあたりの差が如実にでたものと思われる。 この戦いの影響 この戦いは結果としては姉小路軍の辛勝である。 北条軍はその実働部隊の殆どを失い、大和からの尾張を目標とした攻撃に対する抵抗力はもはや存在しない。この敗戦を以て事実上北条は包囲網から脱落したと言っていい。 武田軍に関しても、多数の将が負傷し、約半数の兵を失ってその損害は小さいとはいえなかった。ただ、余力を残して退却したことでかなりの戦力は温存されており、また、高い生産力を持っている国であるので決定的な打撃を与えたとはいえなかった。軍の再編、近隣国からの増援を含めれば、7、8万規模の再攻撃が可能であると予測される。 姉小路軍にとっては勝利ではあったが、勝って勝ち切れなかったと言える。しかし、武田北条の両軍の猛攻を凌いだことで全軍の意気があがったのは間違いないであろう。 逸話 この戦いにおいて、竹中重治は異能の者と約一万五千の鉄砲隊を率いて、大垣方面から武田軍本隊を遊撃した。しかし、武田信玄の計略によって部隊は混乱状態に陥り、遊撃隊としての機能を無力化された。 その間隙を縫って、信玄は旗本騎馬隊による突撃を敢行、自ら城内奥深くに進入した。姉小路側の増援によって撤退を余儀なくされたものの、その勢いと威風は、一時、蜂須賀正勝に最期を覚悟させたほどだったという。 結局、稲葉山城陥落は成らなかったが、奇才・竹中重治の軍略を躱し、総大将自ら敵陣深くに切り込んだ信玄の勇名は、田楽狭間の織田信長に匹敵する武名として鳴り響いた。 戦略的には姉小路軍の勝利であったが、この一戦は「日の本に甲斐の虎あり」と、改めて天下に知らしめることとなった。 稲葉山七本槍 この戦いの後、美濃防衛戦・稲葉山会戦の戦功を讃え、姉小路家本拠である近江観音寺城で当主・姉小路良頼自ら「稲葉山七本槍」の感状を与えた。 羽柴秀吉を筆頭とし、次席に羽柴秀長、小野寺輝道。次いで滝川益重、中川清秀、六角義治、斎藤龍興。 ただし、武田信虎が言うには、この手のものは武名に乏しい者に対して与えられるもので、名のある猛将に加えさらなる強者ありと示すことができる。それを狙い新たな強者と見込んだ者に名誉を与えて天下に喧伝する目的がある、とのこと。 羽柴秀吉は元織田家の重臣で、織田家時代でも名の知られていたから、今回彼が筆頭とされたのはそれまでの経歴を上書きさせる意味もあったと思われる。その弟である秀長も同様。 小野寺輝道は近江・越前攻略の時期から姉小路家に加わった古参武将であり、今までの功も含めた選出である。 滝川益重は元六角家家臣で中堅の武将。その鉄砲の腕を買われての選出。 中川清秀は織田滅亡後の仕官と比較的新参ではあるが、美濃防衛戦において剣聖・上泉信綱を狙撃・負傷させるという武功を上げているので彼が加わったのは当然と言える。 六角義治は大馬揃えでの武芸披露で弓術の腕を見せているが、同じく大馬揃え・防衛戦に参加していた吉田重政の方が適当ではとの憶測があるが、吉田は既に武名が広く知られているため、義治が選出されたと思われる。 斎藤龍興は重臣・斎藤義龍の嫡男であるという点が配慮されたと思われる。特に宣伝が目的であることを考えれば、龍興が武名高い武将となれば「斎藤は三代続いて傑物也」との風聞を得るができる。ついでに言えば、猛将・義龍の嫡男が武名がないと後に家を継ぐとき支障が出かねないためとも考えられる。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/293.html
浜田城の戦い 浜田城の戦い(はまだじょうのたたかい)は永禄10年に毛利家と姉小路家との間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 月山富田城兵 先鋒隊:騎馬隊9000:磯野員昌、海北綱親、紅美鈴 本隊 :足軽隊15500:三木顕綱、遠藤直経、立原久綱 吉田郡山城兵 弾幕隊:鉄砲隊9000:明石全登、明智秀満、鈴仙・U・イナバ 浜田城兵12772 主将:因幡てゐ、島清興 迎撃部隊:足軽隊8500:島清興 奇襲部隊:足軽隊3000:毛利元清 姉小路側の圧倒的優勢である。毛利側は援軍を出せる余裕はなく、浜田城陥落は時間の問題であろう。 概要 姉小路頼綱は毛利家を山陽山陰道より駆逐する最後の布石として浜田城の攻略を弟三木顕綱に命じた。 浜田城は石見、長門国境の石見側に位置し、毛利領の山陰における最後の拠点であった。 しかし、石見、安芸における連戦連敗によって周防、長門からの援軍は望めない状況であり、守るのは難しい状況であった。 島清興は篭城の不利を悟り、12月25日、城下の浅井川河畔に布陣した姉小路軍本隊に島清興隊が攻撃を仕掛けたことで戦いの火蓋は切られた。 島隊は顕綱本隊と磯野騎馬隊の攻城を妨げることに成功したが、 明石明智隊が島隊の南へ回り込んで浜田川から渡河し、城を攻撃したためやむなく島隊は城へ引き上げた。 この後も堅い守りを見せる毛利方であったが、 地理に詳しい立原久綱、武人でありながら諜報活動に優れる遠藤直経の両参軍の助けによって 的確に軍を指揮する顕綱によってじわじわと追い詰められていった。 野戦にあっては奇襲による状況の打開を目論んだ毛利元清三千の軍を一鼓して全滅させた近江騎馬隊の目覚しい活躍があった。 二月二十日、本曲輪を制圧された毛利軍は城の放棄を決定。主だった将は西門より脱出した。 この戦いの影響 毛利家は以前もっていた石見における影響力を全て失った。 その上、姉小路軍により周防長門に匕首を突きつけられる形となった。また、尼子領は完全な後方となり、安定した銀山経営をすることができるようになった。 逸話 姉小路軍の西部戦線では一月程度で落ちる城が多い中、支城にすぎない浜田城が2ヶ月も抵抗する事ができたのは恐るべき事である。 浜田城は戦う以前から既に落ちざるをえない状況にあった。とはいえ、浜田城を放棄して周防、長門を守るのも焼け石に水といってよいほどの兵力の格差であった。 あるいは島清興の意図は時間稼ぎであり、浜田城で耐えている間に四国の本隊に何らかの策をこうじてもらう所にあったのではないかと推測する研究者もいる。 BGM 不可視隠月 ~ Pupil of Frenzy 「夢幻夜想曲 Eternal Nocturne」どぶウサギより
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/181.html
観音寺城の戦い 観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は永禄5年に観音寺城において姉小路家と六角家の間でおこった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・小谷城兵 先鋒隊 :騎馬隊9500:武田信虎、斎藤義龍、紅美鈴 第二部隊:騎馬隊9500:朝倉宗滴、博麗霊夢、アリス・マーガトロイド 火力部隊:鉄砲隊9000:明智光秀、霧雨魔理沙、リグル・ナイトバグ 六角・観音寺城総勢14891 守将:六角承禎 迎撃部隊:弓隊5000:六角承禎 第二部隊:弓隊5000:吉田重政 六角は弓に秀でているものの、多数の勇将を揃える姉小路の敵ではない。戦力差は歴然である。 概要 浅井朝倉両家を屈服させ、後顧の憂いをとりはらった姉小路家は畿内制圧の足がかりとするために南近江にある観音寺城を攻撃した。 兵を率いる将は武田信虎、朝倉宗滴、明智光秀と錚々たる面々であった。 対する六角家では弓の名人であり前当主でもある六角承禎とその弓の師匠である吉田重政が弓兵を率いて迎え撃った。 実際の戦闘でも二人の弓の実力は素晴らしく一矢の無駄もなかったという。このとき吉田重政が一町先から鉢金を射抜いて射殺したという伝説が残っている。 思わぬ遠矢に姉小路勢は大いに驚かされたが、猛将武田信虎は足を止めるどころか意にも介さず突撃し一気に陣を壊乱させてしまった。 そのまま攻城戦になだれ込み、朝倉宗滴の計略や明智光秀の鉄砲隊によって六角側には観音寺城を守るだけの気力も兵力も失われ、わずかな抗戦の後、降伏してしまった。 この戦いは個人の武勇が戦局に影響を与えなかった好例であろう。 吉田重政と六角承禎は確かに弓の名人であったが、彼らは兵を率いて戦うことを得意としていなかった。 逸話 この戦いは武田信虎が姉小路家に突然仕官してきた後の始めて戦いであり、さして規模の大きな戦いでなかったのにも関わらず彼自身の知名度もあいまって内外から大いに注目されていた。 結果としては非常に鮮やかな勝利であったため、世間に「武田信虎健在」を大いにアピールすることが出来たという。 このことは武田家臣団にも若干の動揺があったらしい。 武田信虎と斉藤義龍という2人の騎馬隊を扱う名将が同じ部隊に所属するという極めて珍しい人事が行われた戦いでもある。 この際、主将が信虎で義龍が副将にとどまっているのは、上で述べたような効果を狙って義龍が進言したと言われている。 また、万が一信虎の実力が指揮するに耐えないほど衰えている場合は義龍が指揮するという配慮もなされていた。しかし、結局はこの心配は杞憂に終わった。 信虎は部下に厳しいと言われており、実際とある女性武将が行軍の休憩中に昼寝しているのを見つけて大いに怒鳴ったという。 その際、その武将はシエスタであることを主張したが当然聞き入れられなかった。 降伏に際して、蜂須賀正勝が降伏勧告の使者として訪れた。 六角義治は大いに怒って一時は使者を斬ろうと言い出したほどであったが、そのときは義治の側近と後藤賢豊の必死のとりなしで事なきを得た。 正勝は既に義治の側近達を懐柔しており、六角家家臣達も既に抗戦できる状況でないことは重々悟っていたため、結局義治は周りの者に説得され押し負ける形で降伏勧告を受諾した。 この戦いが始まる前に日食のように天守閣の一部が欠けたかのように見えるという珍事があったという。このことは多くの農民や六角家家臣が目撃している。六角家が滅びる凶兆であると人心を動揺させたという。 この戦いの影響 この戦いの結果、大名としての六角家は滅び、姉小路家は南近江を手に入れた。また、近畿各地に侵略する足がかりを得た。後に姉小路家は観音寺城に本拠を移すこととなる。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/206.html
輪島港防衛戦 輪島港防衛戦(わじまこうぼうえいせん)は永禄9年に上杉家、姉小路家間で起こった戦いである。海戦であったので、輪島海戦とも呼ばれる。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・輪島港守備兵総勢21397 守将:高城胤辰 弾幕部隊:鉄砲隊500×5:鈴木重秀(雑賀孫一)・鈴木重泰・佐々成政、鈴木重兼・小島職鎮・鈴木重意 上杉・春日山城兵(先発) 第一部隊:小早船隊8000:斎藤朝信 第二部隊:小早船鉄砲隊11500:上杉景勝、最上義光 第三部隊:小早船隊9000:直江景綱、本庄実乃 第四部隊:小早船隊9000:色部勝長 第五部隊:小早船隊8500:水原親憲 安東愛季、ミスティア・ローレライも与力として参戦 柏崎港守備兵(後詰) 第一部隊:小早船隊8000:安田景元 第二部隊:小早船隊5000:太田康資 第三部隊:小早船隊5000:富田氏実 上杉軍は大軍であるが、軍船が戦闘には向かない小船である。また、陸においては抜群の才を持つ将が多いが水軍の心得がある将は安藤愛季ぐらいしかおらず、兵も海戦に慣れていない。対する姉小路軍は当代最強の鉄砲に加えて雑賀衆が万全の構えで迎え撃つ。上杉軍は大軍であるので油断はならないが、姉小路軍圧倒的有利は変わらないであろう。 概要 上杉景勝は永禄三年(1560年)における敗戦から越中、北陸方面への地上侵攻は危険だと判断し、能登の輪島港へ総勢65000の水軍を持って攻め入った。 これに対し輪島港の守備に当たったのは雑賀衆の鈴木一門衆と織田家家中の鉄砲上手として知られた佐々成政、そして越中守護に任じられた小島職鎮であった。 彼らは地上にて鉄砲隊を配置、上杉水軍を迎え撃った。 戦況は序盤から姉小路有利に進んだが、最上義光が敗走を装いながら後退し、釣られる形で姉小路軍の一部が港から引きずり出されるという事態に見舞われた。 鈴木重意・佐々成政隊が壊滅したものの、辛うじてこれを撃退した。 最終的に、上杉は水原隊・後詰隊は撤退、斎藤・景勝・色部・直江隊は壊滅により4万もの兵力を損失。しかも本庄実乃が戦死、上杉景勝は捕縛されるという大敗を喫したのである。 この戦いの影響 これにより上杉家は南越後の戦力を疲弊させ、当分の間姉小路への攻撃は不可能となった。 上杉家の作戦評価 越中への地上侵攻を避けた理由は以下のものがあげられる。 1.守将が朝倉宗滴である 2.越中には美濃同様鉄砲櫓が街道沿いに配置されており、美濃における武田12万の壊滅を知っていたから 3.富山城兵は5万を越え、南越後の兵のほとんどを投じても落とせるかわからない 4.上に加え武田に南越後に攻め入る隙を与えさせないため 朝倉宗滴の武勇はもはや全国に知らぬ者なしと言われ、かつ越中の防備が永禄三年のときに比べ極めて強固になっていた。 さらに鉄砲隊は最強を謳われた雑賀衆であるならば、地上侵攻はまったくの愚策である。 なお、4については杞憂に近く、信濃武田軍は美濃への侵攻で兵力を疲弊させている。 これに対し輪島港は守備兵23000程度であり、防御もさして厚くない。このことを考えればまったく妥当だ、と思われた。 しかし、南越後から能登の輪島港までは距離があり(南越後-越中間も同様)、姉小路に一ヶ月以上の時間的余裕を与えてしまったのは失策であった。 この間に富山城に駐屯していた雑賀衆が輪島港の守備についてしまい、精鋭鉄砲隊の手荒い歓迎を受けるはめになったのである。 上杉家は地上軍は極めて強力であるが、水軍は二流と言う感が否めない。 安東家を吸収したことにより整備は進んでいたものの十分とは言い難い。 防御力が皆無に等しい小早舟では鉄砲を防ぐことなどできるはずもなかったのだ。 このように姉小路の対上杉守備は十全であり、姉小路への攻撃自体が愚策であったと断ずる他ない。 姉小路軍輪島港出撃異説 多くの軍学者の通説では、姉小路が港から出船したのは最上義光の計略によるものとされているが、最近になって新たな異説が発表されている。 これは近年発見された輪島港防衛戦に参加していた鈴木重意の日記の記述による。 合戦の最中、女の歌声が聞こえてきたかと思えば、突然上杉の船団の姿が消えた。 しかし、船団が消えたのではなく我々の目がきかなくなったのだと判断し、子息の鈴木重秀を先頭に敵船へと討って出た。 とのことである。 その歌の内容は以下の通りである。 たゆとう小舟に 御力宿りて 波の江うらうら 入らばや眠りに 御恵みあまねし 護らせたまえな 安らかに眠らな たゆとう小舟に しかし、これは最上義光や共に従軍していた安東愛季らなど上杉方の武将の記録には残っておらず、 これが異能の者によるものだったのか、はたまた日本海に潜む海魔の仕業であったかは定かではない。 ちなみに重意が戦の後、家中の異能の者にこのことについて尋ねたところ、 異能の者の仕業だと即答された、と記述していることから上杉家にいた異能の者によると思われる。 用語集・みすちーの歌参照のこと。 なお、この歌を聞いた佐々成政隊の兵5名が突然海へ飛び込み、敵船へ泳いでいったと言う。冬なのに。未だ意味不明な奇行である。 この説は以前から俗説として有名であったが、兵学者達の間では単なる伝説にすぎないと言われていた。 しかし、最近になって鈴木重意の日記が発見され、簡潔ながらもこの件に関する記述があったことからにわかに信憑性がましてきた。 逸話 この戦いに参加した雑賀衆の一人が鈴木重秀の戦いぶりを語った記録がある。以下要点を述べる。 重秀はわずか500の兵とともに関船に乗り込み、5000を超える上杉景勝の小早に船を寄せては矢倉から弾丸を雨あられと降らせて次々に沈めていった。 勇敢な上杉方といえども彼らの船を阻むことは出来なかったほどの激しさである。 上杉景勝の船は運悪く強風によって座礁してしまい、身動きが取れない状況にあった。 そこへ鈴木重秀は船を寄せて乗り込んだ。 周囲の数千人が乗り込む上杉方の船も景勝の一大事と援護に向かったものの、 関船の矢倉からの銃撃で近づくこともかなわず、景勝と近習達は重秀と激闘を繰り広げたが結局力尽きて捕虜となった。 景勝を失った景勝隊は戦意を奪われてしまい、兵達は降伏、諸将は辛うじて後巻きに拾われて越後へ帰ったという。 内容は多少の誇張が加えられていると思われるが、概ね当時の軍の記録とあっている。 この戦いに関する民話に、姉小路軍の将兵が美声に誘われて出撃した、という話がある。 また、各地で色々な改変が行われたため、民話もいくつかの種類がある。 勝利の女神が姉小路軍を勝利に導くために歌ったという話、 歌に誘われて海に飛び降りた兵士が竜宮城にたどり着くといった浦島太郎と混ざったような話、 または鉄砲名人の鈴木重意が昔撃ち落したウミネコの呪いであったという都市伝説風の話、 夜雀のいたずらだったという怪談風の話、などなどである。 全国的に有名になったのは、輪島港で出来た元の話が北前船によって全国に広められたからと言われている。 ただ、どの民話でもそのときに歌われたとされる「たゆとう小船」は鈴木重意が日記に残した物とまったく同じ物である。 有名となったこの歌は海の神に奉げる歌として、或いはこの民話にあやかって千客万来を願う歌として多くの船頭達に愛されるようになった。 この戦いの後、鳥目に悩まされる将兵が多くいた。 そういった者達のために八意永琳は特定の食物を多く食べるようにと薦めた。 その中でも特に評判が良かったのはウナギであった。 美味くて夏バテに効く上に精もつくと大評判で多くの者達が好んで食べたという。 一説によるとウナギの蒲焼は八意永琳が考案したといわれるが定かではない。 俗説ではこの戦いが起こった日が冬の土用の丑の日であると言われており、このことから毎年冬の土用の丑の日にウナギを食べる習慣が出来たといわれている。 (実際には戦いが起こった日は土用の丑の日ではないが、売り文句として広まったものと見られる) なお、この風習は後に越後出羽陸前にも伝わるが、こちらの地方では普通のウナギではなくヤツメウナギを食べるのが主流となっている。 これは、越後出羽陸前ではヤツメウナギが沢山獲れるということとに由来すると言われているが、これらの地方でもウナギが獲れないわけではないので理由は良く分かっていない。 ただ、ヤツメウナギのほうが需要が少ないため安価である上に、こちらの方が鳥目にも良いという利点がある。