約 12,160 件
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/195.html
石山御坊の戦い 石山御坊の戦い(いしやまごぼうのたたかい)とは永禄8年から9年にかけて姉小路家と本願寺との間で起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・勝竜寺城兵 前衛部隊:足軽隊9000:蓬莱山輝夜、八意永琳、遊佐続光 本隊 :騎馬隊9000:朝倉宗滴、アリス・マーガトロイド、ルーミア 後衛部隊:鉄砲隊7578:鈴木重秀(雑賀孫一)、霧雨魔理沙、鈴木重意 本願寺・石山御坊城兵総勢10643+傷兵 迎撃部隊:足軽隊6000:本願寺顕如 波多野・八上城兵 第一部隊:騎馬隊13000:波多野晴通 第二部隊:騎馬隊10000:波多野宗高 第三部隊:足軽隊5000:波多野秀治 石山御坊は三層天守を備えるなど堅固なことで知られる城である。加えて同盟者である波多野からの援軍もあり戦闘単位としてはなかなかのものである。士気の高さも折り紙付きである。 対する姉小路はの陣容は半年前の洛南会戦を戦い抜いた精鋭であり、こちらの士気も天を衝かんばかりである。 本願寺側としては籠城し続ければ撃退する芽はあるだろうが、野戦に持ち込まれれば敗北は必死であろう。 概要 相次ぐ敗戦によって本願寺勢の資金は底を尽き、領国も疲弊して既に姉小路家と対峙できるほどの力は失われていた。 そのような状況の本願寺勢を完全に併合すべく、姉小路軍は総勢石山御坊へ向かった。 総大将は朝倉宗滴。鈴木重意と蓬莱山輝夜も各々軍を引き連れて帯同した。 鈴木重意は武力で屈服させることに反対しており、朝倉宗滴の同意を得て本願寺との交渉を行った。 しかし、その交渉の途中で波多野晴通率いる兵が本願寺への援軍として着陣したことで波多野軍と姉小路軍の衝突が起こり、それにつられる形で本願寺勢も城下で迎撃せざるを得なくなった。 波多野軍には丹波鬼波多野宗高、赤鬼赤井直正、青鬼籾井教業と三人の勇将がおり、嫡子波多野秀治も優秀であったが肝心の総大将であった波多野晴通は戦下手と言われていた。 また、晴通と家臣の間に溝があると知っていた朝倉宗滴は、波多野氏本拠八上城で謀反が起こったと偽の情報を流した。 晴通はこの虚報を真に受けて即座に引き上げ命令を出したが、攻撃命令直後に急に出した撤退命令であったため、陣内は大混乱に陥った。 友軍の混乱に本願寺軍も巻き込まれてしまって動きが取れなくなってしまった。 その隙を姉小路軍が見逃すはずも無く、総攻撃を加えたので本願寺、波多野両軍は敗走した。 残った本願寺勢は石山御坊に篭るも既に抵抗する力は無く、前田玄以の降伏勧告に応じて開城し、降伏した。 波多野参戦の姉小路家の反応 姉小路側はこの戦いに波多野家が参戦してくることを期待していた説がある。 当時、波多野家と朝廷との関係は深かった。波多野宗高は即位式の洛内の警備をして帝の覚えもよく、赤井直正は関白近衛前久の妹を妻にしていた。 よって波多野家を姉小路家から攻めるとなると、朝廷との関係の悪化が心配される。 しかし、波多野から攻撃を仕掛け、その反撃として姉小路家が攻め入るということならば朝廷に与える印象がずいぶんと違う。 また、少なくとも姉小路家は波多野参戦を予想していたと思われる。 本願寺に篭っていた1万程度を攻めるのに姉小路家は2万5千余りも率いている。 俗に城攻めには3倍いるというが、この場合は装備差、士気の差、訓練の差から考えて2万5千は多すぎる。姉小路家が波多野参戦を予想していたことの証左であろう。 波多野参戦と波多野晴通について 波多野晴通が本願寺との盟を守って出撃を決定したとき、家臣達は八上城が守りきれないと猛反対したという。 しかし晴通は反対意見をまったく聞き入れず独断でほぼ全軍で出撃して敗れ、その上この行動を姉小路家に咎められて犬上城を攻撃されて結局城を落とされた。 晴通はその判断の誤りや戦場での采配の悪さ、後に八上城が落ちたときの無様な進退もあって多くの者から暗君であると評価されている。 ただ、近畿の大部分を制圧している姉小路家と敵対するにはこの戦いしか機会は無く、他には姉小路家に降伏する以外の道は無かった。 本願寺との盟約を頑なに守ってあくまで姉小路家と対決するという意思を持っていたとすれば、一応の弁護の余地はある。 しかし、それにしても家臣を省みず希望的観測から決定的に判断を誤り自身の家名すら守れなかったというのは大名として失格の部類になってしまうだろう。 降伏後の本願寺勢のついて この戦いで降伏した一向宗教主の本願寺顕如や家老の下間頼廉など、優秀な能力を持った僧侶達は武将として姉小路家に仕えることとなった。 姉小路良頼は廃れかけていた一向宗を建て直し一大勢力にまで押し上げた彼らの手腕を高く評価していた。 かなり厚遇されていた様子で顕如などは良頼が直々に朝廷に奏して朝廷位を授けてもらったほどである。 しかし、良頼は自身の政権があまりに宗教的になりすぎることを好まず、彼らをあくまで武将として扱っている。 領国経営で一向宗の者達を抑えるために交渉させるなどは命じたようだが、敵国で一向一揆を扇動させることは禁止した。 この戦いの影響 この戦いに敗れて本願寺は降伏した。 姉小路家は本願寺顕如や下間頼廉など優秀な武将達が傘下に入れ、さらに家臣団が強力になった。 なによりも大きかったのは、姉小路家の領内に大勢いた一向宗の門徒達の統治がしやすくなったことである。 これ以降、姉小路家は一向一揆に悩まされることも無く、領国経営がさらに安定した。 また、波多野家は姉小路家に開戦の口実を与えた上に多くの兵を失い、八上城での戦いで実力を発揮することができなくなった。 逸話 この戦いの前に鈴木重意は本願寺勢に対して説得を試みている。総大将の朝倉宗滴は対一向宗鷹派であり、これを機に一気に攻め潰してしまうことを考えていた。 鈴木重意は自身が一向宗門徒でもあり対一向宗鳩派であったので戦わず穏便に事を済ませたいと考えていた。 朝倉宗滴はこのことを快く思わず、説得できなかった時は鈴木重意の責任問題にするつもりであった。 一説には説得できなかった場合、鈴木重意が一向宗に通じて時間稼ぎを行ったと判断し、総大将の権限で更迭する意思があったという。 軍内に亀裂を生みそうな処置であるのでそこまですることは考えにくいとはいえ、朝倉宗滴の一向宗に対する厳しい態度から言ってありえないことではない。 一方、本願寺側は鈴木重意の説得に一切耳を傾けなかった。説得のために許された約束の刻限まであとわずかな時間しか残っていない、そのタイミングで本願寺勢に援軍が到着し、姉小路軍と交戦になった。 これにより本願寺側も強制的に戦闘を行わざるを得ない状況となったので、鈴木重意が説得できなかったのはやむをえないこととして責任をとらずにすんだ。 この戦いの最中、顕如は戦場の真ん中でいきなり説法を始めた。 その声は合戦中にも関わらず遠くまで響いて戦場の多くの兵士達に届いたという。 その説法は毎日続けられ、将兵達は彼を幾度も討とうとしたが、その豪胆さと朗々たる声に圧倒されて触れることすら出来なかったという。 また、彼の迫力は凄まじさから頭痛を訴える者が続出した。戦後にこの戦いに参加した多くの兵士が一向宗に改宗している。 一説によると改宗した兵士は万を超えたという。異能の者たちや将の中にも心が動かされそうになった者もいたらしい。 この戦いで降伏の使者となった前田玄以は元延暦寺の僧侶であった。彼は美濃斉藤家に仕えていた当時は一向宗を嫌い、一時は弾圧まで考えていたほどであったという。 ただ、後方支援などで領民と交渉したり、領国経営などで対一向宗のために施策の必要性から教義を学ぶうちに、一向宗門徒に理解を示すようになった。 そういった経緯から家中で第一に一向宗に詳しい者となり、一向宗の盛んな加賀の民政改革の立案を任されたりしている。 各地で後方支援を担当しているうちにさらに多くの民とふれあって、この戦いが起こった頃には一向宗門徒よりも一向宗門徒に詳しいほどになっていたという。 前田玄以は使者となることを自ら志願した。顕如や高僧達は玄以が説得する前はなおも強硬であったが、 玄以に一向宗門徒達が戦いを望んでいないことを諄々に説かれていく内に、自分達があまりに足元を見なさすぎたことを悟り、降伏することに同意したという。 姉小路家の主力は鉄砲であり、火薬の原料である硝石は生命線であったがその多くを南蛮からの輸入に頼っていた。 雑賀は硝石の生産をわずかながら行っていたがその方法は古土法といって古い家屋の下の土を利用したもので一度採取すれば数十年採取できなくなるので大量生産には向かなかった。 一方、本願寺は4~5年で硝石を採取できる培養法による硝石生成に成功していた。 戦後、硝石生成の研究チームに八意永琳を加えたことでさらなる大量生産が見込めるようになり、越中国五箇山に生産拠点をおいて大量生産を開始した。 この結果戦後5年後には自国消費の五割を超えるの硝石を生産できるようになり、硝石を今まで以上に安定して手に入れることが出来るようになった。 BGM プレインエイジア Cradle -東方幻樂祀典-
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/188.html
岸和田城の戦い 岸和田城の戦い(きしわだじょうのたたかい)は永禄7年に織田家と姉小路家との間でおこった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・堺港守備兵 先発隊:騎馬隊4500 朝倉宗滴、霧雨魔理沙、紅美鈴 後詰隊:足軽隊5000:浅井長政、アリス・マーガトロイド、ルーミア 織田・岸和田城兵総勢4234 守将:織田信長 岸和田城は織田が三好から奪って以来城壁が放置されており、防御力既に皆無。加えて寡兵であり、落城は時間の問題である。 概要 武田、北条、姉小路の3家に敗れ、大半の領土を奪われた織田信長は、生き残ったわずかな将士と共に岸和田城に入った。 この後、雑賀衆や本願寺勢に攻められたが、苦戦しつつもかろうじて撃退した。 そのような風前の灯ともいえる状況の織田家を完全に併合するべく姉小路良頼 は朝倉宗滴、浅井長政に岸和田城の攻略を命じた。 岸和田城は相次ぐ雑賀衆や本願寺の攻撃を受けており、すでに大きく傷ついて補修もままならない状況であった。 織田家側も奮闘したが、長政の支援を受けて城内を縦横無尽に駆け回る宗滴の前に、次々と兵士が倒れていくありさまであった。 結局、10月5日に落城。尾張から始まり、一時は4カ国を支配していた大大名の織田家は滅亡した。 この戦いの影響 戦国の生んだ天才と言われる織田信長を滅ぼしたことは姉小路家の名声を高めるのに十分な戦果だった。 また、多くの優秀な元織田家家臣を配下にできたことは武田、上杉に対抗する上で非常に重要なことであった。 一方、敗れた織田信長は西国に落ち延び、三好長慶の元に庇護されることとなった。 三好家と姉小路家は同盟国であったが、やがてこの件がきっかけで関係が悪化していくこととなる。 逸話 姉小路家が攻撃する直前の岸和田城の様子は従軍していた右筆の記録に残っている。 矢倉は焼け落ち、大手門は破壊されて一応の応急処置がしてあるだけ、壁もところどころ崩れていたという。 岸和田城は和田高家が1334年に築城して以来、代々の城主が改修増築していたが元々規模の小さな平城であった。 このような城で雑賀衆や本願寺勢の攻撃を受けたのであるから、姉小路軍の攻撃を受ける前から城といえないほどの損害を受けていたと思われる。 姉小路良頼は信長やその家臣達を惜しんで竹中重治を通して、内々に降伏を打診したらしい。 しかし、織田信長は一切応じなかったという。また、城内にいる者達も姉小路家からの調略には一切のらず、岸和田城に篭った4234名は織田家が滅びる最後まで戦い続けた。 織田信光は姉小路家の捕虜になっていたが、岸和田城が落城寸前であることを知って、篭城に参加するために牢を破り脱出を試みている。しかし、結局は逃走途中に捕まっている。 姉小路家に捕虜にされていた織田家家臣たちが落城の報を聞いた時の反応は様々であったという。 信光は深く落胆し、羽柴秀吉はさばさばと受け入れ、松永久秀は無表情で反応が見られなかったという。 いずれにしても、後に捕虜になっていた者のほとんどは姉小路家に仕えている。 戦後、信長は捕虜になった後、その翌日に看守の隙を突いて牢を脱出している。 度重なる城攻めで城が崩れかけるほどの損害をうけていたこともあるが、厳重な警備を脱出できたのは、何者かによる外部からの手引きがあったのではないだろうか、と言われている。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/369.html
新発田城の戦い 新発田城の戦い(しばたじょうのたたかい)とは永禄12年に行われた姉小路家が揚北地方の新発田城を攻略した戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路家(春日山城) 本隊:騎馬隊16000 朝倉宗滴、紅美鈴、大宝寺義氏 第一弾幕隊:鉄砲隊5000 鈴木重秀、鈴木重泰、原長頼 第二弾幕隊:鉄砲隊5000 本願寺顕如、アリス・マーガトロイド、赤尾清綱 第三弾幕隊:鉄砲隊5000 浅井長政、小島職鎮、真柄直隆 第四弾幕隊:鉄砲隊5000 鈴木重意、朝倉景鏡、田中吉政 上杉家 春日山城兵6515:城主四季映姫・ヤマザナドゥ 概要 姉小路家は南越後攻略戦以降の一連の合戦の結果ほぼ越後全土を掌握しつつあり、残っているのは阿賀野川以北の揚北地方のみであった。 姉小路軍は大宝寺義氏を案内役に3万6千をこれの制圧へと向けた。 対する新発田城に篭る上杉家は僅か6千5百余り。新発田城は春日山城のような石垣などの近世的改修を一切受けていなかった。 攻撃開始は11月15日の未明であったが、わずか半月の11月30日に落城してしまった。 上杉謙信自身が僅かな手勢を率いて援軍に向っていたものの、12月2日、越後と出羽国境付近の小国村にて落城の報が届いたため、一部の旗本を偵察に残して山形城へと帰城した。 この戦いの影響 一連の戦いで姉小路家は越後を統一した。 しかし、その間に上杉家は十三年に及んだ奥羽及び蝦夷征伐にけりをつけた。 そのため、姉小路家は後顧の憂いを除いた上杉謙信と直接対峙することとなり、南越後攻略戦以来の快進撃はこの合戦にていったん終息した。 逸話 この戦いの直前に蠣崎家は上杉家に降伏した。 嫡男蠣崎舜広の毒殺、及び当主蠣崎季広の突然の危篤によって内乱が発生したためである。 この内乱は蝦夷諸勢力の介入を招き、上杉家によって鎮圧された時には、 主な一族郎党で生き残れたのは意識不明の重態のまま菩提寺で看病されていた蠣崎季広、 箱館港にいた蠣崎慶広、商家に保護された幼少の蠣崎守広の三名だけであった。 記録類は焼失し、主だった家臣の大部分が討死、 唯一の生き証人である季広も生涯沈黙をし通したので、この内乱の経緯について信頼できる記録はほとんど存在しない。 ただ、南条広継夫婦と蘭姫の悲話が民話として語り伝えられているだけである。 揚北地方に領地を持つ揚北衆は謙信が家督を継いだ当初は、 上杉家の純然たる家臣というよりは上杉傘下の半独立大名のような扱いを受けていた。 時が経つにつれて色部氏や中条氏のように譜代同然の忠誠を誓う者もいたが、 新発田氏や本庄氏のように依然として自立を志向している家も存在した。 姉小路家はこの本庄氏の自立志向を利用して捕虜にした本庄繁長を寝返らせようとしていた。 繁長は嫡男、次男を上杉家に人質に取られていた為に最初は応じる気配も見せなかったが、 揚北地方全土という条件を提示されて徐々に姉小路家に心が傾いていった。 しかし、外交僧の快川紹喜の交渉によって繁長は開放、姉小路家に下る事はなかった。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/177.html
御山御坊の戦い 御山御坊の戦い(おやまごぼうのたたかい)とは永禄3年に越前朝倉家、姉小路家、加賀一向一揆の3つの勢力の 間で行われた戦いである。 また、畠山家の拠る輪島港攻略を併せて行われた二面作戦でもある。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・富山城兵、七尾城兵 加賀攻略先鋒:騎馬隊7000:斎藤義龍、博麗霊夢 加賀攻略本隊:足軽隊7000:竹中重治、蜂須賀正勝 本願寺・御山御坊城兵5015 守将:本願寺顕如 朝倉・大聖寺城兵 第一部隊:朝倉宗滴 第二部隊:紅美鈴 御山御坊攻略部隊は姉小路家の看板武将と呼ぶべき二人が率いており、朝倉家の攻撃により消耗した城を落とすことはそう難しくないだろう。 ナイスハイエナ。 概要 この戦いは大聖寺城に侵攻した下間頼廉率いる一向一揆勢を朝倉家の実質的な当主であった朝倉宗滴が打ち破ったことをきっかけに始まる。 この敗北で一向一揆勢の兵力が大いにそがれたので、宗滴はこれを機に加賀一向一揆を完全に鎮圧しようと御山御坊に侵攻した。 一向一揆勢は野戦を挑んだが破れ、城に押し込まれた。 当時、当代の名将と謳われた朝倉宗滴の攻撃は苛烈を極めたが、本願寺門主顕如を中心に固く結束した一向一揆の前に攻めあぐねていた。 結局、朝倉勢が多くの死傷者を出したため一度後方にて軍を再編することとなった。 そこに突如として斉藤義龍を先方とした姉小路軍が介入。 紅美鈴隊は辛くも逃れたが、殿軍を務めて多くの負傷兵を抱え、疲労困憊していた朝倉宗滴隊は壊滅。 先の戦いで疲弊しきっていた御山御坊もすぐに落城するかに見えた。 しかし、その守りは依然として堅く、矢玉が尽きてもなおつぶてで攻撃し姉小路勢も損害をこうむった。 だが、斉藤義龍、竹中重治両将率いる倍以上の軍を支え続けることはできず、多勢に無勢の形で御山御坊は落城した。 この戦いで敗れはしたものの、一向宗門徒の結束の固さと戦闘能力の高さは大いに知られるようになった。 この戦いにおける影響 姉小路家は加賀国の大部分を手に入れた。また、以前から小競り合いの多かった本願寺の影響力がなくなることで、北陸における姉小路勢力が確固たるものとなった。 一方、本願寺側は北陸における勢力基盤を失ってしまい、今後は近畿における勢力拡大を目指すこととなった。 朝倉家もまた多くの兵を失ったが朝倉宗滴が健在であり大聖寺城の守りを固めたため姉小路としても攻める隙がなかったといわれる。 加賀における民政改革 この戦いによって姉小路家は大きな損害もなく加賀国を手に入れたが、問題はこの土地の治めにくさであった。 そこで、門徒の指導者として各地域を取り仕切ってきた豪農達を懐柔した。 武士に代わって徴税などを行わせるかわりに役料を徴収することを認めることで徴税を円滑に行うことが出来るようになり、 農民達にとっても直接の支配者が変わらないことから動揺が少ないなど、加賀の国勢は大いに安定したと言われている。 また懐柔の際、戦に負けて捕虜となった顕如を交渉の材料として使ったとされ、実際に顕如は無事に解放されている。 これらの施策を立案したのは前田玄以と言われており、後の加賀の民政にも大いに参考にされたという。 戦後の朝倉家 この戦いに朝倉家は敗れて、大聖寺城はの兵力の多くを失って非常に危険な状況であった。 しかしながら、朝倉宗滴は敗れた後に迅速に兵をかき集めて守りを固め、姉小路家に攻め入る隙を与えなかったという。 また、その際にアリス・マーガトロイドが朝倉義景を動かして一乗谷から非常に迅速に支援を行ったという説がある。 御山御坊の戦いに敗れる直前から既に支援する準備に入っていたという。 姉小路家の二正面作戦について 輪島港の戦いでも述べたが、この作戦は輪島港攻略と御山御坊攻略を同時に行う必要があった。 姉小路家は大国になりつつあり、二正面作戦を行うだけの戦力と人材が備わっていたが、万が一敗れることとなっては姉小路家の領する越中能登両国が危険にさらされることとなり、その作戦は慎重に立てられた。 朝倉勢と一向一揆勢の双方の疲弊が最大限に達したその瞬間を狙って攻撃を仕掛けるというのは情報を扱うのに長け、かつ機を見るのに敏でないとならない。 その点、姉小路家の将達の戦術眼は確かなものであったといえよう。主将副将4人全員がまさに今と判断して攻め入ったといわれている。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/180.html
小谷城の戦い 小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)は永禄4年2月に姉小路家と浅井家との間で行われた戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・稲葉山城兵 攻城部隊:足軽隊10000:竹中重治、博麗霊夢、霧雨魔理沙 浅井・小谷城兵総勢12500 守将:浅井長政 迎撃部隊:弓隊7000:浅井長政、浅井久政、磯野員昌 堅牢で知られる小谷城である。城門突破までに兵力をどこまで維持できるかが勝負である。 概要 姉川の戦いで浅井家を破った姉小路家は浅井家を制圧すべく、姉小路良頼は竹中重治に兵を預けて浅井家の本拠である小谷城を攻めさせた。 対する浅井家当主浅井長政は兵を率いて城下にうって出て姉小路軍に3割の損害を与えたが自身の軍も深く傷つき小谷城に引き返した。 それでもなお、この行動に浅井家家臣の面々の士気は上がった。 しかしながら攻城戦に移ってからは竹中重治の独壇場であった。 彼は堅城で知られる小谷城を正面から攻める愚を避け、この戦いの以前から多くの浅井家の小勢力と内通して姉小路家に下るという旨の密約を結んでいた。 そして密約の通り、攻城戦になると数千の兵が姉小路側に下った。 さらに竹中は数千の兵が姉小路側に下ったことによる浅井家側の動揺をも利用してさらに多くの兵を篭絡し、ますます小谷城を孤立させていった。 結局、小谷城は抵抗むなしく落城。久政を皮切りに主だった人物のほとんどが捕縛された。 重治は戦をするにあたって前もって間者を数十人も埋伏させておき多くの工作をさせていたという。この戦いでは姉川の戦いで浅井家を破った時に多くの間者を紛れ込ませ、内部から切り崩していったらしい。 この戦いの影響 この戦いで浅井家は完全に姉小路家に降伏することとなり、姉小路家の主だった家臣団の一つである近江衆を形成することとなる。 姉小路良頼は降伏する者は罪を問わないと寛容な態度を示したからであったという。優秀な近江衆を家臣に加えることとなった姉小路家はさらに興隆する。 浅井長政について この戦いにおいて多くの脱走者を出したが、いかに長政が優れた武将で大いに家臣に信頼されていたとはいえ、 姉川の戦いでの敗戦やその後の当主交代に関するごたごたによって浅井家から離れてしまった兵の心をわずか4ヶ月で取り戻すのは不可能であっただろう。 実際、姉小路家の妨害にもかかわらず彼はまがりなりにも戦をするにあたって12000もの兵を集めることが出来た。また、戦闘中も主だった家臣は裏切っていない。 篭絡されたのは足軽組頭や小豪族など小単位の部隊の長であり、むしろ、それらをまとめて100人ほども篭絡した重治の手腕を褒めるべきであろう。 後日談 この戦いの後ににわかに小谷城下で博麗霊夢と霧雨魔理沙が美人であると評判になった。 きっかけについてはよくわかっていないが、どうも浅井家直参の家臣の妻子が長政が話したこととして流した噂であるらしい。 ほどなくして、城下で女性が巨大な黒い三角帽子を被ったりや肩を出した服装をすることが一時的に大流行し、土地の古老達を大いに嘆かせたという。 また、彼女らのさまざまな恋愛物語や美人画も描かれたが、一部に卑猥に過ぎた物があった為貸本屋などで置くことができず、野天にて売られることが多かった。 盆と正月前などは広場などで数十店舗が並ぶなど大々的に売られることもあったという。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/359.html
柏崎港の戦い 柏崎港の戦いとは永禄十二年8月に姉小路家と姉小路包囲網勢力との間で起こった戦いである。 上杉家と姉小路家との戦闘が行われた柏崎の地名をとって呼称されているが、 姉小路家が上野沼田城、信濃海津城を占領した事についても包括して扱う。 参加兵力及び戦力評価 上杉家・柏崎港7155(+援軍5000) 姉小路家 柏崎港攻略隊 混成前衛隊:足軽隊5000:本願寺顕如、真柄直隆、小島職鎮 雑賀鉄砲隊:鉄砲隊6000:鈴木重秀(雑賀孫一)、原長頼、鈴木重兼 近江鉄砲隊:鉄砲隊5000:浅井長政、アリス・マーガトロイド、鈴木重泰 別働隊 海津城攻略隊:足軽隊10000:黒田孝高、伊吹萃香、レティ・ホワイトロック 沼田城攻略隊:足軽隊9000:磯野員昌、海北綱親、朝倉景紀 概要 上杉家では南越後攻略戦の大敗によって、対姉小路を担っていた兵力がほぼ消滅した。 姉小路家はこの好機を逃さず未だ戦塵くすぶる南越後の安定化と柏崎港に残る上杉家の残存兵力の掃討、加えて武田家への牽制を行うために三方面への同時侵攻を行った。 海津城攻略隊1万、柏崎港攻略隊1万6千が7月26日出陣。沼田城攻略隊9千は少し遅れて8月5日出陣。 対する柏崎には兵7155。海津城及び沼田城には兵が全くといってよいほど駐在していなかった。 なぜ全く兵を置いていなかったのかには諸説あるが、有力説に対姉小路包囲網の盟約で海津城及び沼田城を非武装地域として軍事的な空白地域とし、武田上杉間の紛争を予防していたという協定説がある。 いずれにしても海津城は8月20日、沼田城は9月4日に姉小路家の攻撃開始と同日に開城している。 一方、柏崎では上杉方は先の大敗で士気が下がり兵も少ないので部隊出撃もままならず、篭城を強いられていた。 篭城といっても柏崎の防備は堀と低い壁で囲まれている程度であるため、姉小路方の一方的な攻撃によって陥落を待つばかりとなっていた。 この閉塞感漂う柏崎に8月27日、庄内地方で開拓に従事していた北楯利長が庄内地方や揚北地方から集めた援軍5千を引き連れて到着した。この時点で兵力だけは1万を超え、8月29日村上義清が7千の迎撃隊を率いて出陣。 しかし手持ちの兵糧が少なかったことに加えて足軽隊によって港との連絡を遮断されたために9月1日に柏崎港へ撤退した。この後は抵抗らしい抵抗もできず、9月10日に柏崎港は陥落した。 この戦いの影響 姉小路方はこれまで上杉家の侵攻に脅かされていた輪島港が後方領となり、対上杉家の前線を柏崎港のみに収束することに成功した。加えて信濃のみならず上野の武田領にも圧迫を加え、武田の大生産拠点である関東8州に楔を打ち込んだ。 本来、越後から険しい三国峠を超えて三国街道の先にある沼田城を落とすのは困難である。これを、容易に落とす事ができたのはまさしく幸運であった。 武田は上述のとおり、信濃、関東を圧迫された。 上杉はさらに兵力を失って新発田城の陥落も時間の問題となってしまった。 逸話
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/187.html
一乗谷城の戦い ☆このページでは、霧雨の野望における一乗谷城の戦いについて詳細に解説しています。 史実での一乗谷城の戦いについて詳しく知りたい方はwikipediaなどの一乗谷城の戦いを調べてください 一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は永禄5年に朝倉家と姉小路家との間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・大聖寺城兵 先鋒隊:騎馬隊8500:斎藤義龍、霧雨魔理沙、蜂須賀正勝 火力支援:鉄砲隊8086:明智光秀、リグル・ナイトバグ、明智秀満 朝倉・一乗谷城総勢6660 守将:朝倉義景 一乗谷城は寡兵にて士気低く、守将も頼りなし。もはや落城より他なし。 概要 大聖寺城の戦いで勝利した姉小路家は朝倉家に立ち直るための時間を与えないよう、間髪を入れず一乗谷城に攻撃をしかけた。軍を率いたのは斉藤義龍率いる騎兵と明智光秀率いる鉄砲隊であった。対する朝倉家当主朝倉義景はかろうじて兵を掻き集め、一乗谷城に篭って抗戦した。しかし、実際は義龍、光秀の火の出るような猛攻になすすべもなく、ただただ城壁を頼っていただけであった。ただし、彼らの攻撃は頼りの城壁すら撃ち崩す勢いであり、日夜爆音や轟音が鳴り響く様子は城兵も住民もそろって怯えさせたという。あわてて停戦要請をするも姉小路良頼は受け入れず、12月20日に義龍が城内に突入し、義景を生け捕りにして一乗谷城は落城した。 朝倉家の降伏 朝倉義景は捕虜になるもすぐに放たれて、朝倉家領の若狭の港に護送されている。これは身一つの降伏ではなく家臣団を率いての降伏という形にすることで朝倉家の体面を保てるようにする配慮である。 朝倉宗滴については戦後敗走しているところを姉小路頼綱に発見されて説得を受けた後に、姉小路良頼に下った。 明けて永禄6年に朝倉義景は姉小路家の降伏勧告を受諾した。 ここにおいて朝倉家は姉小路家に完全に併呑された。 その際、朝倉家は越前一国を安堵されている。その後朝倉宗滴が朝倉家当主ということとなり、姉小路家を代表する将として前線において激戦を繰り広げることとなる。 一方、元当主の義景は越前の統治に専念した。 なお、朝倉降伏直前に山名家が敦賀港を狙い出兵しているが、宗滴の奇襲により壊乱、撤退している。 このとき、宗滴の実力を改めて姉小路家中に知らしめたのである。 この戦いの影響 姉小路家は朝倉家を併呑し、朝倉家家臣団を吸収してより強大になった。 この時点で日本の中で武田、上杉に次ぐ戦力に至ったと言える。 逸話 一乗谷城は巨城であり多くの公家や僧侶、文人、学者たちがいたといわれている。 その者達が落城後に京にてその攻撃の激しさを言い広めたため、京付近では義龍と光秀のことを鬼神と畏れられるようになった。 姉小路頼綱は朝倉宗滴が腹を切ることを予測しており、彼らの元へ文字通り飛んで行ったと言われている。 彼が発見したとき、朝倉宗滴は真柄直隆の介錯でまさに腹を切ろうとしていたところであったという。 頼綱が説得に成功したことを聞いた良頼は飛び上がって喜び、宗滴が自身の館に来たときには、自ら門前まで出迎えたという。 その後、宗滴は家中第一の扱いを受けることとなる。 また、頼綱は非常に宗滴を尊敬しており師事している。 竹中重治や明智光秀も、度々相談に訪れることがあったという。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/268.html
1567年1月現在の状況 本項では1567年1月(Act77)における姉小路家・姉小路包囲網参加勢力の状況を示す。 姉小路家 参加勢力の一つである山名家を降した矢先、宇喜多直家配下長船貞親が放った刺客により明智光秀が重傷を負い、前線を離脱。(明智兵部暗殺未遂事件) 時同じくして美濃での情勢不安定化に伴い、美濃防備を担当していた蜂須賀正勝はかつての国主・斎藤義龍の召還を要請。義龍もまた西国から離れる。(美濃の抱える諸問題) また、近江衆軍団長である浅井長政も、山名家の客将であったレミリア・スカーレットが毛利以外との戦いを望んだため、それに付きそう形で離脱。 これにより、西国勢の三軍団長が一気に抜けたが、姉小路頼綱 が陣頭指揮を執ることで結束した。 武田家 稲葉山会戦では参加兵力の半数を失ったものの、尾張撤退戦ではそれを上回る兵力を投入し尾張を奪取している。 また、美濃への扇動を始め妨害工作も引き続き実施している。 上杉家 第二次越中防衛戦での敗北後目立った動きを見せてはいない。次に姉小路領に攻め込むことがあれば、ついに上杉謙信が動く可能性もある。 今までの敗北は軍神たる彼の参加がなかったからと考えられる。 北条家 稲葉山会戦、亀山城の戦い、清洲城の戦いで兵力の大部分を失い、領土も伊勢・霧山御所と東海道のいくつのか港を残すのみとなっている。ただし、霧山御所は最新の築城技術が注ぎ込まれ、難攻不落となっている。 三好家 播磨防衛戦後、目立った動きはない。 山名 生野の戦いにおいて主力を喪失し、1567年1月に姉小路家に降伏。山名祐豊を始め、家臣団は助命され姉小路家配下となる。 毛利 正面から戦うのは不利と判断。宇喜多直家による明智光秀暗殺計画を始めとする妨害工作を実施。 尼子 山名家が降伏したことによって地上で姉小路に接する。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/185.html
堺港争奪戦 堺港争奪戦(さかいこうそうだつせん)は永禄7年に一向宗勢力と姉小路家との間で行われた戦いである。 大鳥郡深井における深井の戦いと境港における堺の戦いを合わせてこのように俗称されている。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・筒井城兵 前衛部隊:足軽隊10000:竹中重治、真柄直隆、ルーミア 後衛部隊:鉄砲隊9500 :浅井長政、霧雨魔理沙、アリス・マーガトロイド 後詰部隊:騎馬隊9500:朝倉宗滴、紅美鈴、小島職鎮(6月20日出撃) 本願寺・堺港守備兵総勢15817+傷兵 守将:本願寺顕如 迎撃部隊:足軽隊6000:本願寺顕如 第二部隊:足軽隊5000:服部友貞 増援:13000(本願寺教如、下間頼輝) 第三部隊:足軽隊5000:神保長職 第四部隊:鉄砲隊5000:下間頼輝 第五部隊:足軽隊6500:願証寺証恵 加賀以来の因縁の両家で、どちらも鉄砲に一家言ある勢力である。 港は防御には向かない故、本願寺は櫓で防備を固めているがこれがどこまで機能するかが鍵となろう。 概要 姉小路家は南蛮貿易の貿易港であり日本の物流の拠点であった堺港を奪取するために竹中重治、浅井長政に各足軽隊と鉄砲隊を預けて攻撃させた。 対する一向宗本願寺側は堺港を死守するため、服部友貞、顕如自身も兵を率いて和泉国大鳥郡深井にて迎え撃った。 戦いは既に名将と名高い竹中重治が浅井長政隊の鉄砲の支援もあって終始姉小路側の有利に進んでいた。 また、この頃になると姉小路家の兵は数多くの戦いを経験しており、本願寺勢は士気は高いといえど兵そのものの熟練度が明らかに劣っていたため一層の戦力差が生まれることとなった。 結局顕如隊は壊滅し服部友貞は潰走、顕如は捕虜になった(すぐに解放された)。 しかし、その直後に本願寺教如率いる兵が援軍として堺港に入り、再び兵力を盛り返した本願寺側はうってでた。 その際、七里頼周が敗走を装って後退、竹中隊の前衛である真柄直隆が深追いした為に後衛の竹中重治との間に僅かな隙が生じた。 竹中隊前衛が櫓の射程距離に入った瞬間に願証寺証恵率いる隊が側面から急襲、前衛と後衛の間に楔を打ち込んだ形となり、 さらに下間頼照隊が前進を食い止めるために立ちふさがり、竹中隊は半包囲された形となって身動きが取れない状況に追い込まれた。 この戦況の悪化を見た浅井長政は竹中隊の後退を妨げる願証寺証恵に集中砲火を浴びせた。 浅井隊によって証恵隊は壊滅、竹中隊自身の奮闘によって頼照隊も潰走させられたが、半包囲された挙句に矢櫓の集中攻撃をうけるなどで竹中隊の受けた損害も大きく半数が死傷してしまっている。 損害の大きさを考え堺港攻略は一時見合わせる形となるところであったが、竹中隊の苦戦を予感していた朝倉宗滴が騎兵をもって駆けつけた。 本願寺側としては竹中隊に大きな損害を与えたため本格的な堺港攻撃は遅れるであろうと予想していたため、この予想外の宗滴隊の出現に大いに驚かされたという。 結局、本願寺側は軍を立て直す暇もなく堺港は陥落した。 この戦いで本願寺側がとった竹中隊を半包囲して身動きできない形にし矢櫓によって損害をあたえるという作戦は越中防衛戦で竹中重治自身が指示した作戦に酷似している。 この戦いでの立案者は下間頼廉と言う説がある。 彼は加賀の本願寺勢力の重鎮であり、姉小路家との戦いを幾度も経験していたため、重治の戦術についてよく研究していたという。 堺商人 この戦いには今井宗久をはじめとした堺商人が暗躍していたと言われている。堺では商人達がある程度自治をしていた。 堺で起こる戦いについて普段の戦いであると彼らは統治者である本願寺側に協力的であるが、この戦いに関しては中立を保っている。 また、姉小路側は堺港の内部についての情報を彼らから得ていたといわれている。 元々、姉小路家は鉄砲に関して多くの堺商人と良好な関係を結んでいた。 また、近畿の大部分を統治しつつあった姉小路家の傘下に入ることは堺が戦火に晒される危険が少なくなるため好都合であったと思われる。 しかし、一方で姉小路側に積極的に協力したわけでもない。 一向宗勢力は日本各地の座において強力な影響力をもっていたため、多くの商人にとって本願寺と敵対することは死活問題となるからである。 戦後、姉小路家は堺の統治についてある程度の自治を許すかわりに年々上納金を納めることを要求している。 ただし、堺が自衛のための戦力を持つことは認めず、それまでにいた堺の自衛軍は自家の軍隊に編入している。 姉小路家の本願寺捕虜の扱いについて この戦いで顕如は2度も捕虜となっているがすぐに解放されている。 また、他の捕虜についても比較的良い扱いをされている。これは、自領土に多くの一向宗門徒を抱えている姉小路家ならではの配慮である。 一向宗の勢力は各地に及んでいて、特に北陸では強かった。 商売のおける座については本願寺の影響力が非常に強く、本願寺の重要な収入源の一つであった。 本願寺の直接の影響力が連年の敗戦によって失われつつあったとこともあって、奉行衆の努力によってかろうじて治まっていたが、 もし顕如が殺害されたり長期間幽閉されるようなことがあると各地の門徒達が強く反感をもつのは必至であり、悪くすると各地で一斉に一向一揆が起こる可能性もあった。 これらを避けるために顕如を即座に解放し、捕虜についても虐待を強く禁止する命令が出されている。 後に本願寺勢力を吸収するときのことまで考えての措置であるとも言われている。 この戦いの影響 この戦いで本願寺は和泉国を失った。また、瀬戸内海の物流の影響力の大部分を失い大きな収入減となった。 対して姉小路家が受けた恩恵は鉄砲に関することだけでもその恩恵は巨大であった。 鉄砲本体、火薬共に以前よりも遥かに容易に手に入れることが出来るようになり、製造技術についても多くのことが知られるようになって後の元込式銃への改造へとつながったなどである。 貿易の利益、瀬戸内海の諸勢力への影響力、その他恩恵は計り知れない。 逸話 真柄直隆はこの戦いで敵の計にかかり、一時は三方を敵に包囲され一方は矢櫓によって塞がれるという絶体絶命にあった。 しかし、直隆は奮戦し寡兵であったのにも関わらず下間頼照隊を逆に撃退した。 世間では「罠にかかってなお罠を食い破った」とその果敢ぶりが評価され、当時の多くの武士が彼を目標としたという。 下間頼照隊の敗走した兵士の中には錯乱していた者が多かったという。その多くが、味方の兵が闇に呑まれたと証言したと言われている。 このことは信心深い一向宗門徒たちを大いに動揺させた。竹中重治が行ったイメージ戦略の一つであるといわれている。 竹中隊の苦戦を知り浅井長政は朝倉宗滴に援軍を要請する早馬を飛ばしているが、その早馬が到着する頃には既に朝倉宗滴は出陣していた。 宗滴は戦況有利の報を聞いただけで状況を察知し、出陣に向けて行動を始めたという 。このように宗滴の経験豊かさは若い将の多い姉小路軍にとって非常に貴重であった。 この戦いの後に良頼は宗滴を激賞し感状を送っている。 宗滴は姉小路家臣下になる前にも名将で名高かったが、姉小路家の下で戦うようになった後にはよりいっそう名が知られるようになった。 他国の武士の間でも今回の戦いの話は特に好んで語られることが多かったという。 こういった逸話から各地を旅している武芸者は彼に会いたがったというし、他家の使者、果ては朝廷の使者までが姉小路家を訪れる度に彼に面会を求めている。 竹中重治は味方の損害を大きくした件で戦後に真柄直隆と共に良頼に処分を請うているが良頼は重治の罪を不問にしている。 重治はこの戦いでも味方よりも遥かに多い敵の軍勢を打ち破るなど多くの功績を残しており、この程度の瑕疵では処分に値しないと判断したのは当然であろう。 ただし、直隆については一ヶ月の謹慎を申し付けている。 これは、前もって深追いに気をつけるよう重治から注意を受けたのみもかかわらず誤った判断をしたということに対して反省を促す意味での命令であったという。 実際は良頼も直隆を高く評価したらしく、謹慎が解かれるとすぐに直隆にも恩賞と感状が送られている。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/348.html
第二次美濃防衛戦 第二次美濃防衛戦(だいにじみのぼうえいせん)とは永禄11年冬から12年春に姉小路家と武田家の間にかけて起きた戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路家 稲葉山城兵72154 守将:竹中重治 第一部隊:鉄砲隊3000:霧雨魔理沙、山崎片家、仙石秀久 第二部隊:鉄砲隊8000:博麗霊夢、関一政、ルーミア 第三部隊:鉄砲隊3000:明智光秀、六角義治、斎藤龍興 第四部隊:鉄砲隊3000:八雲紫、松本氏輔、橙 弾幕隊:鉄砲隊各1000:斎藤利三 山中幸盛、中川清秀 丹羽長秀、日根野弘就 宮部継潤 滝川益重 淡河定範 明智秀満、鵜殿長照 弓隊1000:赤井直正、吉田重政 武田家 岩村城兵 武田信玄:弓隊22000 高坂昌信:騎馬隊14500 榊原康政、大関高増、大田原資清:騎馬隊14500 太田資正:足軽隊9500 沼田祐光、保科正俊:足軽隊8000 藤原妹紅:9000 内藤昌豊:9000 長野業正、小幡信貞:破城槌隊16000 武田信繁:破城槌隊13000 諏訪勝頼、山本晴幸:破城槌隊20500 武田義信:破城槌隊14000 姉小路家は尾張攻略戦の勝利により東海道方面の武田軍を撃破したが、そちらに兵を多く回したため美濃の守りが薄くなっている。加えて、弾幕要塞を捨てているため防御力は落ちている。 武田家は尾張陥落により東海道方面の兵力は減少したものの、中山道方面は多数の兵を擁しており、未だ武田の驚異は衰えを見せていない。 背景 尾張攻略戦後の時点で対武田方面の姉小路家の兵糧は必ずしも余裕があるわけではなかった。 事実、同時進行で行われている対上杉家への侵攻作戦に必要な物資を考えれば 尾張かその次の三河が侵攻の限界点であった。 しかし、第二次稲葉山会戦によって武田の圧力が減殺したため、 姉小路家は弾幕要塞を破棄して美濃国の農業を振興していた。 この試みが成功すれば姉小路家の兵糧事情は大幅に改善されることは確実であった。 武田家にとってこれは姉小路家の侵攻の圧力が強まることを意味する。 武田家の侵攻は対武田最大の補給基地として生まれ変わりつつあった稲葉山城を叩いて、 美濃復興を妨げ、あわよくば奪取することを目的としていたと考えられる。 概要 一月二十日、武田軍の先陣、高坂昌信隊が南門付近に着陣。 以下、南門に武田信玄隊、西門に榊原康政隊、藤原妹紅隊、 北門に内藤昌豊隊、太田資正隊、沼田祐光隊など続々と配置に付いた。 ただし、武田一門衆、長野業正率いる破城槌部隊は行軍にやや手間取ってこの時点では着陣していない。 当時、武田家は馬不足に悩まされていた。清洲城での戦いで多くの軍馬を失っていたからである。 そのために騎馬部隊は榊原、高坂両隊のみであり、その他の部隊は足軽が主力となっていた。 信玄自身の部隊はあまり熟練していない農兵中心の弓兵であった。 これに対して姉小路家は敵の一隊に火力を集中させる方針をとる。 まず最初に交戦状態となった高坂隊に照準を定めた。 数万丁に及ぶ鉄砲の銃撃を受けた高坂隊はまたたく間に兵を損耗した。 彼は窮余の一策として早朝の濃霧に紛れて稲葉山城へ攻めかかり、放火を試みたが突然の雨で失敗。 逆に城方に気づかれて銃撃を受け、その上、撤退時に雨で濡れた岩肌で滑落する兵が続出。 隊は壊滅して高坂昌信は岩村城への撤退を余儀なくされた。 次いで北門内藤昌豊隊が標的となるも、霧雨魔理沙隊の強襲で兵の過半を失った上に陣屋を焼き払われ、 敗走するところを明智光秀隊に補足され全滅。 その次に標的となった沼田祐光隊は滝川益重によって主将が狙撃され討死。 副将の保科正俊が指揮を引き継ぐも八雲紫隊の銃撃の前に長くは持たなかった。 続いて内藤昌豊隊、藤原妹紅隊と各個に退けていった。 ここまで戦果を挙げられたのは戦えたのは稲葉山城を守る竹中重治が敵の攻撃を引き付け得たからである。 これによって弾幕隊を集中運用することが可能になった。 武田勢は完全に攻めあぐねたといって良い。 しかし、ここでようやく破城槌隊が到着、城門への攻撃を開始した。 4部隊、6万5千近い後続には流石に稲葉山城の城門が耐え切れず2月10日、 武田義信は城門の破壊に成功した。 榊原康政隊、太田資正がこれに続き、稲葉山城内で激しい戦いが行われた。 しかし、榊原康政隊は既に集中砲火を受けて副将が負傷しており戦力は長く戦うに耐えなかった。 八雲紫隊の攻撃で半壊。霧雨隊によって完全に壊滅した。 直後に太田資正隊も明智光秀隊の猛攻の前に壊滅。 この時点で戦場に残る武田軍は信玄弓隊と破城槌隊のみとなった。 城内に突入していた武田義信隊は引き返す間もなく崩壊。 不利となった武田軍は起死回生の一手として武田信繁、長野業正の稲葉山城へ調略を試みた。 しかし、内応するはずだった間者は捕らえられて失敗。 逆に反間計を仕掛けられて武田信繁隊は混乱に陥り、他の隊へも少なからぬ影響をだした。 長野業正隊は混乱こそしなかったものの、光秀隊の激しい銃撃によって6000もの兵力を失い、 その後も代わる代わる弾幕部隊に襲われ、吉田隊の弓の一斉射撃によって壊滅した。 ほぼ同時に混乱から立ち直ることができなかった武田信繁隊も総崩れとなった。 既に合戦は掃討戦となっており、信玄率いる弓隊は霧雨隊によって大きな損害を受けて駆逐され、 最後に殿軍の諏訪勝頼隊が隊伍をそろえて撤退にした時点でこの戦役は終結した。 この戦いの影響 この戦いは結果として一方的な姉小路方の大勝となった。武田家は多くの兵力を失い、姉小路家の侵攻に 耐える事は難しい状況であった。しかし、一方の姉小路家も侵攻するための兵糧が不足していた。 これは上杉家との戦闘が続く北陸に備蓄の大半を輸送していたからである。 よって武田領への逆撃はできなかった。 その後は姉小路方では武田の侵攻で中断した新田開墾を再開し、美濃や尾張の復興急ピッチで行った。 つまりは武田の美濃復興の妨害という目的は成功しなかったのである。 武田家では兵馬を補充し、姉小路家へ捕虜の返還を求めて交渉するなど戦力の回復に努めた。 逸話 この合戦が行われる直前に一部軍団長クラスの所属の変更が行われており、 これまで稲葉山城防衛に当たってきた蜂須賀正勝は清洲城代に着任、 武田信虎の軍団も清洲城に所属している。 そのため、姉小路頼綱は竹中重治、明智光秀、異能衆を初めとした諸将を美濃へと派遣した。 陣割では重治が守備を固め、博麗霊夢が東門守備を担当した。 これは基本的に、正勝、八雲紫の役割をそのまま交代させたものである。 東門守備がこれまでの八雲紫ではなく博麗霊夢なのは、長く同僚として勤めている 明智軍団及び竹中重治とのチームワークを優先したからであろう。