約 4,974,560 件
https://w.atwiki.jp/utauuuta/pages/686.html
【登録タグ S てぃーたいむP 曲 波音リツ】 作詞:てぃーたいむP 作曲:てぃーたいむP 編曲:てぃーたいむP 唄:波音リツ 曲紹介 いつもとちょっと違う作りの曲を作ろうとした結果こうなりました。歌成分が若干少なめになってますが、その分は他の楽器ががんばってくれています。(動画説明文より) 歌詞 蹴飛ばした憂鬱が 当てもなく転がり続けて 罪の無い子羊を 無造作に跳ね飛ばす 吐き捨てた憂鬱は 当てもなく漂い続けて 叫べない子羊を 閉じ込めるの 夢を見ていた 途方もなく長い長い長い夢を 夢から覚めた 悲しい度にいつだって一人で泣いてる いつか目を逸らすその一瞬を 見たいと願って 鏡越しに手を振った自分は 見えないままで いつか悲しみを忘れたれたら なんて嘘ついて 虚ろな目で見上げた星空は 嘲る様にに遠のいた (動画より書き起こし) コメント 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/vocaloidchly/pages/636.html
作詞:バルP 作曲:バルP 編曲:バルP 歌:初音ミク 翻譯:ca(ry 獨自一人 打著哆嗦 摸索 斷絕路途之線 拉至身旁的是乞求來之無物 懷抱著一顆鏽化之心 看似接近卻遙遠的明日都 如同逃走般遠遠離去 漸漸地消失 這是在遙遠 遙遠的從前 年幼的我所見到的故事 你所給予的 許多景色 現在依然無法描繪 尋求那令人思慕的模樣 卻是加深了傷口 不想承認 可是又不想遺忘 雖然察覺到 這真是任性 為什麼我哭泣了呢 在歷經歲月 空無一物的 舊箱子當中 春天夏天 多少次的輪迴 漸漸成長為大人 只有我.. 秋天冬天 單調的日子中 想聽聽 你的聲音呀 入睡中沉入 夢與現實的邊界 在黑暗之中試著伸出手 些微觸碰到那 溫和安詳的記憶是 虛幻 那天 與你交換之言語 至今仍還記得 至少 已經向你傳達了 「謝謝」 這是在遙遠從前之時 年幼的我所見到的故事 和你畫下的最後一頁 現在已經無法描繪 lala.....
https://w.atwiki.jp/visualstudio/pages/26.html
目次 IDE画像 発売年 概要 エディションの種類 エディション機能比較 対応OS 対応.NET Framework 含まれる開発環境 サポート終了日 Visual Studio 2008 アンインストール IDE画像 発売年 2007年 概要 .NET Framework 2.0、3.0、3.5対応 WPFデザイナ対応 LINQ対応 JavaScriptのデバッグ機能強化、IntelliSense対応 ASP.NET AJAX標準対応 Professional Edition以降にVisual Studio Tools for Office包含 Professional Edition以降に単体テスト機能搭載 Visual J#の提供終了 エディションの種類 Visual Studio Team System 2008Visual Studio Team System 2008 Database Edition with MSDN Premium Subscription Visual Studio Team System 2008 Architecture Edition with MSDN Premium Subscription Visual Studio Team System 2008 Development Edition with MSDN Premium Subscription Visual Studio Team System 2008 Test Edition with MSDN Premium Subscription Visual Studio Team System 2008 Team Suite with MSDN Premium Subscription Visual Studio Team System 2008 Team Foundation Server Visual Studio Team System 2008 Team Foundation Server Workgroup Edition Visual Studio Team System 2008 Test Load Agent Visual Studio 2008 Professional Edition Visual Studio 2008 Standard Edition Visual Studio 2008 Express Edition Visual Web Developer 2008 Express Edition Visual Basic 2008 Express Edition Visual C# 2008 Express Edition Visual C++ 2008 Express Edition エディション機能比較 Visual Studio 2008 各エディション 機能比較 http //www.microsoft.com/japan/msdn/vstudio/products/vs08/compare.aspx Visual Studio Team System 2008 機能比較 http //www.microsoft.com/japan/msdn/vstudio/products/vsts08/compare.aspx 対応OS Windows XP SP2 以上 Windows Server 2003 SP1 以上 Windows Vista Windows Server 2008 対応.NET Framework .NET Framework 2.0 .NET Framework 3.0 .NET Framework 3.5 含まれる開発環境 Visual Basic Visual C# Visual C++ サポート終了日 メインストリーム サポート終了日後継製品発売後 2 年間 延長サポート終了日メインストリーム サポート終了後 5 年間 参考 マイクロソフト プロダクト サポート ライフサイクル マイクロソフト サポート ライフサイクル Visual Studio 2008 アンインストール Visual Studio 2008 の各エディションと、インストールされたすべてのコンポーネントをアンインストールする方法。 手動でアンインストールする場合の手順と、それらを自動で行うアンインストール ツールが公開されている。 http //msdn.microsoft.com/ja-jp/vs2008/bb968856.aspx
https://w.atwiki.jp/flstudio2/pages/20.html
FL Studioのメリットとデメリット FL Studioを使用することで得られるメリットと、他のDAWと比較した際のデメリットについての説明をするページです。 FL Studioのメリットとデメリット 初心者から見たFL Studioを使う10のメリット1. 「無料」でプロジェクトを保存する以外のすべての機能が「無期限」で使える 2. 低価格帯のDAW + ライフタイムフリーアップデート 3. 起動が速い。低スペックのPCでも動く 4. 付属シンセが多い + 付属エフェクターの質が良い 5. デモソングのプロジェクトが多数付属している 6. チュートリアル動画が大量にある 7. 直感的な操作でPCキーボード・マウスだけの作曲も十分できる 8. サンプル素材に無限にアクセスできる "FL Cloud" が1ヶ月無料で使える 9. 耳コピをやりやすくする機能がいくつかある 10. まるでゲームのようにUIがアニメーションしまくるので使っていて楽しい メリット番外編ライセンスが比較的(かなり)ゆるい 機能追加やアップデートが頻繁に行われるので、アップデートが楽しみになる 有料のエフェクターを再現したPatcherのプリセットで用意されている 他のDAWとの併用に向いている 公式フォーラムで質問したり不具合報告したり、要望を出したりできる オートメーションのカーブが描きやすい ミキサートラックに波形が直接表示される FL Studioの欠点日本語が未対応 →2024.4.13追記:日本語化対応されました🎉 他の DAW での標準機能がない(劣っている) カスタマイズ性が低い 日本人ユーザーが少ない トラックが散らかりやすい 波形の扱いに弱い部分がある ミキサートラックの上限が1252023.12.29追記:ミキサートラック上限 "125" 問題についての対応状況 プラグインのネーミングが独特のセンス FL Studioと一緒に買ったほうが良いものおすすめの多ボタンマウス モニターヘッドホン スピーカー 初心者から見たFL Studioを使う10のメリット DTM初心者がFL Studioを使うことで得られる10のメリットをまとめました。 メリット 補足 無料版でも機能制限が少ない FL Studioを開いたままにすれば、無期限でほぼすべての機能を試して完成まで持っていくこともできます アップデート費用がゼロ 他のDAWでは「必要としない機能のアップデートに数万円の高い費用を支払う」必要がありますが、FL Stduioのアップデート費用は生涯無料です。これは「ユーザーにお金の支払いを要求するのは、ユーザーがその機能を欲しいと思ったときだけにする」という企業理念があるためです PCの性能が低くても動く FL Studioは低性能のPCでも動作することを想定して設計されているため、比較的軽快に動作します 付属プラグインが多い 高品質なシンセやエフェクター、ピッチ補正ソフトが標準で数多く搭載されています デモソングが多数付属している デモソングのプロジェクトを解析して作曲やFL Studioの使い方を勉強できます。また無償・有償のプロジェクトファイルが数多く配布・販売されており、それらを解析して勉強することもできます チュートリアル動画が多数ある 特にEDM系になりますが、FL Studioは世界中で使われているため海外のチュートリアル動画が多数存在して無限にスキルアップできます キーボード・マウスだけでも作曲できる マウスとショートカットキーを使った作曲に最適化された操作性となっています サンプル素材を無限に使えるFL Cloudが1ヶ月間無料 大量の素材が付属してくるのと同じで、これらの素材だけでも無限に曲作りしたり、音楽ジャンルの分析ができます 耳コピをやりやすくする機能が多数存在する Stem分離でパートごとに音を分離したり、ピッチ補正ソフトでピッチを解析できるので、耳コピがやりやすいです。これらの機能は楽曲分析にも役立ちます UIのアニメーションが心地よい ゲームのように使っていて楽しくなるUIのアニメーションが入っています。これに慣れてしまうと他のDAWやプラグインを使ったときに物足りなく感じるほどです 1. 「無料」でプロジェクトを保存する以外のすべての機能が「無期限」で使える FL Studioは有償のソフトウェアですが、体験版でも「プロジェクトを保存する」以外のすべての機能を「無期限」試用することができます。 (※一部例外あり。詳しくは「体験版でできないこと」を参照) つまり無料でも自分に合うかどうか好きなだけ試すことができます。またFL Studioを開いたままであれば曲を完成するまで作り込んで、MP3などのオーディオデータへの出力までできます。保存ができないため大きなプロジェクトは作れませんが、無料で一通りの曲作りができるため、最初に大きなお金をかけられない初心者にこのメリットは大きいです。 2. 低価格帯のDAW + ライフタイムフリーアップデート FL Studioはいくつかエディションがありますが、たいていの場合は 3万円程度の "Signature Edition" で事足りるため、競合する DAW よりも比較的安い部類に入ります。そして、バージョンアップによる定期的なアップデートに対する費用が "0円" となる「ライフタイムフリーアップデート」を採用しているため、余計な追加コストを基本的に必要としないのが特徴です。 またライセンスに対する考えも比較的ゆるく、購入者が個人で使用するなら複数台のPCに入れても基本的に問題ありません。例えば自宅PCと持ち運び用のノートPCにインストールすることも可能です。 3. 起動が速い。低スペックのPCでも動く 普通のDAWは起動までに色々な初期化(プラグインの読み込みなど)を行うため起動に時間がかかるのですが、FL Studioは瞬時に起動するため創作意欲を奪うことがありません。 2023.10.19時点の動作環境は以下の通りです。 OS Windows 10(64ビット), Windows 11 macOS 10.13.6 High Sierra 以降 CPU (Windows) Intel もしくは AMD をサポートします。ARM ベースのCPUとの互換性はありません (Mac) Intel もしくは Apple Silicon をサポートします メモリ 4GB 以上のRAM 引用:スペック | FL Studio - Image-Line Software 他のDAWがメモリ8GB以上やマルチコアを要求するのに対して、FL Studioは比較的低めの動作環境であるため「作曲するためにPCを新しくしなきゃ…」というケースも少ないと思います。(「◯◯というDAWは動作が重いから FL Studioにしたら快適で良かった」というユーザーの声もたまに聞きます) もちろん同時に重たいプラグインを多く使用する場合は動作が不安定になるのは、どのDAWでも同じです。その場合は性能の良いPCに買い替える必要があります。 4. 付属シンセが多い + 付属エフェクターの質が良い FL Studioに付属するシンセは多くプリセットも充実しています。例えばSytrusというシンセはとても良い音で愛用しているユーザーも多いのですが、標準のプリセット数が1000以上存在します。「FLEX」も人気の高いシンセで今どきの音が出るプリセットが1000以上あって、普通に買うと1~2万円ぐらいするのでは…と思うほど高品質なシンセです。 ※有料プリセットを600ほど買っているので画像では数字が大きいですが、無料プリセットだけでも1000以上あります。 そしてサンプル音源も数多く付属していて、使い始めてすぐに曲作りできるようになっています。 また付属のエフェクターもユーザーから「質が良くて視認性が高く、使いやすい」と評判が高く、外部のプラグインをあまり使わず付属のエフェクター中心で曲作りをするユーザーも多いようです。例えばSignature以降には、Gross Beatという スタッター、ゲート、スクラッチといったエフェクトを簡単に作れる高機能なエフェクターが付属しています。さらにNewtoneという高機能なピッチ補正ソフトが付属していて、基本的なピッチ補正であればこのプラグインのみで完結できます。 上記画像はピッチ補正プラグインのNewtone DTMをしている方は一般的に「外部プラグインを中心とした作曲」を行う傾向が強いですが、FL Studioは優れたプラグインが多数付属していることから「標準プラグインを中心とした作曲」を行う方も一定数見られるのが特徴です。 5. デモソングのプロジェクトが多数付属している FL Studioにはプロ・セミプロが作成したプロジェクトが付属していて、エフェクトの使い方やMIDIの打ち込みなど、参考になる情報が多く得られます。 ブラウザから "Demo projects Demo songs" に 30を超えるデモソングが入っています そして無償・有償含めて、プロジェクトを公開している方も多いため、それらをダウンロードして楽曲作りの参考にすることもできます。例えば MK / Shadw氏の「ジャンル別楽曲制作解説」ではプロジェクトファイルを格安で多数配布されていて、音作りやミックスをどのような設定にしているのか直接パラメータを見れるのでオススメです。また、W.A.Productionからプロが作成したFLPファイルを無料でダウンロードすることもできます。 さらに、プロジェクトのバージョン互換性が高く、古いバージョンのプロジェクトファイルでもたいてい開くことができるのも特徴です。 6. チュートリアル動画が大量にある 25年以上の歴史やEDMで数多く使われている実績などもあり、Youtubeなどにチュートリアル動画が大量にあります。(YoutubeでEDMの作曲動画を検索するとかなりの確率で FL Studioが使われています) その多くは英語音声ですが、DAW は動画の手順通りに操作するだけで近い音が出せますし、日本語字幕へ翻訳することもできるので、気合さえあれば無限にスキルアップできます。 FL Studio以外を含めた動画のリンクは以下のページにまとめています。 動画リンク 個人的な観測範囲ですが、Trance, Trap のチュートリアルは FL Studioの使用率が高めな印象です。 動画の探し方は「ジャンル名+FL Studio」というワードの他にも「ジャンル名+Free+FLP」で探すと、プロジェクトファイルが配布されている動画が見つかります。 7. 直感的な操作でPCキーボード・マウスだけの作曲も十分できる 作曲するには楽器が必要と思われがちですが、EDM向きという特性上、楽器は必須ではなく、またFL Studioはピアノロールの操作が快適 (公式によると業界最高峰のピアノロール) なこともあり、マウス操作(+PCのキーボード)だけで作曲を完結させることも十分可能です。 FL Studioのピアノロールが優れている点としては、ノートの入力が快適かつ素早くできることです。 例えばFL Studioでは「左クリックでノート配置、右クリックでノート消去」というように「ツールの持ち替えなしでも演奏データを作れる」という独特の操作性が採用されています(通常のDAWは、消しゴムツールに持ち変えたりなど1ステップ多いです)。 僕がFL Studioを使う一番の理由は、ピアノロールの便利さにあります。 例えば消去したいノートがある場合、右クリック一発でデリートできるので、 作業がサクサク進められます。 ささいな部分かもしれませんが、ここだけを取ってもかなり直感的だと思います。 引用:Ujico*/Snail's Houseが使う「FL Studio」第1回 FLStudioを使って「マウス」と「ヘッドホン」のみで、海外の大手レーベルと契約するような楽曲を作られた方もいます。 Rock oN ちなみにFL Studioを使う時、MIDIノートの入力は何でやっているんですか? Pharien 全部マウスでやってます。MIDIキーボードを使った事がないんですけど、 多分、絶対に苦手だろうなって思うんですよね(笑)。 オーディオインターフェースも使ってないので、パソコンとヘッドホンとマウスだけです。 家で集中出来なくてカフェとか外で作業する事が多いんです。 どうしても身軽な感じになっちゃいます。 引用:People of Sound 第43回 Pharien(ファリエン)氏インタビュー またPCのキーボードを鍵盤に見立てて演奏できるモードもあるため、MIDIキーボードがなくてもちょっとした演奏ならできてしまいます。 タイピングピアノモードの使い方 タイピングピアノモードを有効にすると、このようなレイアウトになります。これは、25鍵のMIDIキーボードを使うよりもPCキーボードの方が広い音域 (32鍵相当) を入力できてしまうこととなります。 そのため、MIDIキーボードは最初はなくても問題なくなるので初期投資が少なくて済みます。(さらに設定を変えると4オクターブ以上にもできるので、ある意味49鍵以上になります) 8. サンプル素材に無限にアクセスできる "FL Cloud" が1ヶ月無料で使える v21.2から始まったサービス FL Cloud。これは高品質なループ素材やワンショット素材を無限にダウンロードできるサービスです。 作曲のヒント/作曲の最初の一歩を進める方法にも書きましたが、ループ素材を使うと作曲を圧倒的なスピードで進めることができます。 有料のサービスではありますが、「1ヶ月お試しで使える」のでループ素材を使った作曲がどれほど効率的であるかを試すことができます。 また、FL Cloudの特徴として、素材が「無制限」にダウンロードできるメリットがあります。これはクレジット数が気になって素材を購入しづらい初心者におすすめのシステムです。 9. 耳コピをやりやすくする機能がいくつかある 作曲能力を向上させるには、耳コピの重要度はかなり高いです。(※耳コピとは、既存の曲を耳で聞いてメロディーやリズムをコピーすること) FL Studioでは耳コピをしやすくするツールがいくつか付属しています。 Stem分離 Newtoneを使ってオーディオからMIDIを抽出 初心者にとって難しい「ベース音が聞き取れない」という問題も「Stem分離」を使うことで独立したオーディオクリップに分割できるので、それ以外をミュートすることで比較的耳コピがやりやすくなります。 もう1つがNewtoneという標準プラグイン(Signature以降に付属)を使った「オーディオファイルをMIDIに変換」する機能です。和音やピッチの揺らぎが大きいパートは正確に変換できませんが、主要な音は拾えるので耳コピの時短になります。 10. まるでゲームのようにUIがアニメーションしまくるので使っていて楽しい ノートの消去エフェクトや項目がスライドしたり、明滅の中間アニメがあるなど、ゲームで使われるようなUIのアニメーションがふんだんに取り入れられているため、使っていてとても気持ちよく操作できます。 あと拡大縮小時のアニメーションとか…。 SendのルーティングをON/OFFしているだけなのに、やたらとかっこいい光り方をしてくれます。 細かいところでは、ノブのパラメータをリセットするときに緩急のついたアニメーションが入るのも、他のDAWではなかなか見ないような演出です。 設定画面がスライドアニメするDAWは、今後も登場することはないでしょう… メリット番外編 初心者にはあまり関係ありませんが、中級者以上に向けたFL Studioのメリットを書いていきます。 ライセンスが比較的(かなり)ゆるい 他のDAWでは別のPCに移行するとディアクティベーションが必要だったり、インストール可能なPC台数が制限されていたりとライセンス管理は厳しめです。ですがFL Studioはアカウントでログインするだけで環境を移行できたり、個人で使用するのであれば何台でもインストール可能です(ただし不正利用は当然NG)。 以下、DAWごとのライセンス管理についてです。 DAW 認証方法 インストール可能なPC台数 複数PCでの同時利用 ディアクティベート (※1) 譲渡 (※2) FL Studio オンライン認証 無制限 o 不要 x Logic Pro オンライン認証(Apple ID) 「5台」までインストール可能。 o 必要 x Studio One オンライン認証 アクティベーションは「3台」まで x 必要 o (有料 ※3) Cubase オンライン認証 アクティベーションは「3台」まで x 必要 o Ableton Live オンライン認証 「2台」のPCまでインストール可能 x オーソライズの解除申請が必要 (※4) o (※1) ディアクティベートとは、利用可能な台数を超えたときに使わなくなったPCのアクティベートを解除して利用可能台数を増やすこと (※2) ライセンス譲渡可能である場合、そのDAWを使わなくなったときに自分のライセンスを別のユーザーに売却・譲渡できます (※3) Studio Oneのライセンス譲渡費用は $25 です (2024.3.31現在) (※4) Ableton Liveは利用可能台数が少なく、ディアクティベート手続きを行うのにメールでの申請が必要となります ライセンス管理の緩さは、 FL Studio Logic Pro (越えられない壁) Studio One = Cubase Ableton Live といった印象です。 ソフトウェア開発において、ライセンスのセキュリティを堅牢にするほど管理コストが上がってDAWの価格に影響します。FL Studioが比較的安い価格に抑えられているのは、ライセンス管理の緩さも影響している気がします。 なお、Cubase, Studio One, Ableton Liveはライセンスの制限が多いですが、そのぶんライセンス譲渡が可能というメリットもあります。 機能追加やアップデートが頻繁に行われるので、アップデートが楽しみになる FL Studioは長い歴史を持つDAWですが、アップデートが頻繁に行われます。 以下は Lifetime Free Updatesのページに記載されているアップデートの頻度です。 すべては網羅できていないですが、2014年からのFL Studioの更新の歴史です。 年 アップデート回数 補足 新規プラグイン 2014年 3回 64bit対応 2015年 7回 v12リリース。ベクターグラフィックスに対応。タイムマーカー実装。ゴーストチャンネル実装 2016年 4回 リアルタイムオーディオストレッチ対応 Transister Bass,Transient Processor 2017年 4回 Fruity Delay 3 2018年 8回 v20リリース。macOSを正式サポート。変拍子のサポート・アレンジメント機能の追加。FL初の専用MIDIコン「Akai FIRE」発売開始 2019年 5回 SoundCloudへのエクスポート。SytrusにOlbaidのフリーPreset追加。複数のプレイリストを一度にレンダリング FLEX, Distructor 2020年 8回 MIDIスクリプト対応。FL Studio MobileとCloud同期のサポート Newtime, VFX Envelope, Frequncy Spliter, Tuner 2021年 5回 Apple Siliconサポート。Stretch ModeにStretch Proが追加。FLkey 37, FLkey Miniが発売開始 Pitch Shifter, Vintage Chorus 2022年 4回 v21リリース。オーディオの簡易フェード機能。テーマのカスタマイズ。ブラウザのタグ付け機能。SamplerにStreatch Proが追加 Luxeverb, Vintage Phaser,Multiband Delay,VFX Sequencer 2023年 7回 波形のカラー表示。ピアノロールでのスケールスナップ。Stem分離。FL Cloud。FLkey 48, FLkey 61が発売開始 Hyper Chorus, Kepler 2024年 3〜?回 日本語対応。バージョン表記が西暦に変更。コード進行生成ツール。FL CloudにW.AやUVIのプラグインが追加 Kepler Exo, Spreader,Low Lifter 過去10年の年平均アップデート回数は "5.5回" で、おおよそ "2~3ヶ月" ごとに行われています。またバージョンアップ時にはバグFixだけでなく、新機能や新しいプラグインがよく追加されます。 最近の例としては、v21.2.2 のマイナーアップデートにも関わらず、Keplerという新しいシンセの追加やStem分離機能が追加され、FL Cloudという新しいサービスが開始しました。v24ではコード進行生成ツールが実装されました。 そしてFL Studioはライフタイムフリーアップデートを採用しているので、バージョンアップ料金は無料です。 有料のエフェクターを再現したPatcherのプリセットで用意されている FL StudioにはPatcherという標準プラグインがあって、これは複数の楽器やエフェクターを自由に組み合わせられるものです。 例えば、以下は音をデチューンしてレイヤーするエフェクターのプリセット (X WiseLabs 1K Detuner) です。 これを見て「難しそう…」と思うかもしれませんが、実際に使うときにはつまみを回すだけでかかり具合を簡単に調整できるUIが用意されています。 そして、Patcherのプリセットには有料で販売されているエフェクターを再現したものもあり、それら有料エフェクターを買わなくても済むというメリットもあります。 プリセット名 説明 元ネタ 元ネタの価格 X Xenofish Disperser Gainを変えずにPitchを変えたりできるオールパス・フィルター。トランジェントシェイパーのようにアタック感を調整したり、Psytrance特有のPitchの高いKickを作りたいときなどに使えます Kilohearts Disperser $59 X Youlean Freq Glue – General / Mastering 耳障りな音 (突出した倍音) を自動でカットしてくれるレゾナンスサプレッサー&ディエッサー soothe2 €199 X Youlean Humanizer ローファイ系でよく使われるピッチと音量に揺らぎを出すエフェクター RC-20 Retro Color $99.95 X Youlean Vocal Rider ボーカルの音質変化なしに、音量を一定に整えることができる Vocal Rider $249 X Youlean Multiband Sidechain 特定の帯域でぶつかる音を自動で整理するマルチバンド・サイドチェイン Trackspacer €39 情報元 FL Studioの付属プラグイン”Patcher”実はめっちゃ強いプリセットが入ってるという動画 もちろん有料のエフェクターの方が多機能でUIが使いやすいなどメリットはありますが、それなりのクオリティで良いならPatcherのプリセットでもなんとかなります。 他のDAWとの併用に向いている 作曲されている方の中には、複数のDAWを併用していることもあります。そういったときに、FL Studioは他のDAWと組み合わせて使うのに向いています。 以下、併用に向いている理由です。 他のDAWからVSTとして呼び出せる 「ライフタイムフリーアップデート」なので、他のDAWがメインになっても更新費用を気にしなくて済む FLのプロジェクトファイルをそのまま開ける (Bitwig Studioのみ) 一番大きいのが、他のDAWからVSTとして呼び出せることです。 もし FL Studioから別のDAWに移行した際に、FL Studioの機能を再び使いたいときには、VSTとして呼び出すことができます。 例えば Ableton Liveは FL Studioと比較したときに優れた点がいくつもあり、FL Studioからの移行先として選ばれやすいです。 その一方、FL Studio独自 (唯一無二!) のワークフローを気に入っている方も一定数存在し、移行した後でも FL Studioを併用しているケースもよく見られます。そういったときに VST として機能を呼び出せる FL Studioは DAWの併用に向いていると言えます。 上記の理由から「FL Studio使ってみたけれど合わなかった」という場合でも、ストレスなく別のDAWに移行できます。 公式フォーラムで質問したり不具合報告したり、要望を出したりできる FL Studioの公式フォーラムは活発に議論が行われていて有益な情報が得られます。(※基本的に英語です) また不具合報告をしたり要望を出したりもできて、運が良ければ要望を実現してもらえたります。 個人的な話ですが、テキストからコード進行を入力するスクリプトに "sus4" や "add9" が対応されていなかったので、要望したら対応してもらえた…ということもありました。 オートメーションのカーブが描きやすい 昨今の楽曲ではオートメーションを描いてカットオフなどで展開を作ることが基本となっています。 やや操作方法に癖があるものの、使い方を覚えてしまうととても快適にオートメーションを作れます。 例えば標準プラグインの場合は、右クリックして「Create automation clip」で簡単に作成が可能となっています。 ミキサートラックに波形が直接表示される あるエフェクターの解説動画を見ていたときに「このエフェクターを使うとミキサートラックの波形が見れて便利ですね!」という説明がされていて、「??? FLのミキサーには常に波形が表示されているのですけど…」と違和感を感じました。 FL Studioだと、このようにミキサートラック一覧に常に波形が表示されます。これは時間軸に対しての波形の変化が視認しやすく、さらにdBのピークも色分けされていて、とても便利な機能です。 そこで調べてみたところ、他のDAWのミキサーだとトラック一覧に直接波形が表示されているものはなく(トラックの詳細からは見られるものがある)、これも FL Studioの独自性なのでは、と思って紹介しました。 ちなみにミキサーのここをクリックすると見慣れた dBメーターに表示を切り替えられます。 FL Studioの欠点 日本語が未対応 →2024.4.13追記:日本語化対応されました🎉 2024.4.13現在、日本語化対応が正式に行われました。 日本語表示するには、"OPTION General settings" から "Language" のところを "Japanese" にします。 もし "Japanese" の項目がない場合は "Update languages" を選ぶと言語データがダウンロードされます。 ※追記終わり UIが日本語未対応のため、英語に拒否反応があると厳しいかもしれません。ただUIが英語ということは、英語のチュートリアル動画と同じ表示なので、操作を覚えるときにはメリットとなる可能性があります。 ちなみに昔は「UIデザインの統一性のために日本語対応しない」との方針でしたが、最近は中国語対応されるなど多言語対応も進んでいるので、日本語対応もそのうち行われる可能性があります。 追記(2024.3.11) Image-Lineに直接連絡を取った方の情報によると、全く翻訳の進捗がなかったとのことです。そうなると翻訳が行われるのはまだまだ先かもしれません 追記(2024.4.3) 日本語翻訳を行った方からの報告によると、翻訳は完了済みで反映待ちの状態とのことです。なので次のアップデート時に日本語が追加される可能性があります 他の DAW での標準機能がない(劣っている) 独自路線を進みすぎたのか、他の DAW で標準機能となっている機能が FL Studioでは存在しなかったり、特殊な操作で使えるようになったりとややこしい部分があります。例えば、楽曲途中での拍やテンポ変更は少し独特でややこしいです。 とはいえ、別のDAWから乗り換えるときはネックになる可能性がありますが、FL Studioが最初のDAWである場合には、それほど気にする必要はないかもしれません。 ただ、以下の機能を期待している場合は別のDAWをおすすめします。 コード入力を支援する機能:例えばCubaseやStudio Oneでのコードトラック (コード進行の入力を支援するツール) やコードパッド (指一本でコード入力) 機能。FLではVFX Key Mapper (Patcher)やコードスタンプで代用できなくはないですが、少し使いづらいです。ただコード進行についてはv24でコード進行ツールが実装されました ARA対応:ARAとは「DAWとプラグインを統合する規格」のことです。ARA対応されていると特に Melodyne や Synthesizer V Studio を使うときにDAWとシームレスな連携ができて便利です。ですが FL Studio (とAbleton Live) は独自路線を進みすぎたのか、DAWの仕様的に対応ができない…と推測されています。ただSynthesizer V Studioについては ARAに相当するテンポ同期機能が専用に実装されています 個人的にはこのあたりの機能を使いたい場合は、Studio One との併用がおすすめです。 それと、ボーカル録音・楽器演奏のレコーディングについて、FL Studioでもマルチトラックレコーディングやパンチイン・パンチアウトはできますが、設定や手順がややこしいのでStudio OneやCubaseを使ったほうが間違いが起きにくいです。(※「打ち込み主体」の楽曲作成を行う場合、この問題は気にしなくても問題ないです) あと、自動作曲系についてはどのDAWも対応しているものはなさそうなので、別途プラグインを購入する必要があります。自動作曲系でオススメとしては、Image-Line傘下の W.A. Production が提供しているINSTACOMPOSER 2、コード生成ツールのSCALER 2やINSTA CHORD、メロディ生成ツールのMELODY SAUCE 2があります。 カスタマイズ性が低い FL Studioは、ショートカットキーや文字サイズやフォントの変更など、細かい部分のカスタマイズ性が低いのが欠点です。(スキンや背景を変えたりといった別な意味でのカスタマイズ性は高いですが…) 例えば Cubase が無限のカスタマイズ性を持っているのに比べると、FL Studioはカスタマイズ性が弱いかなと思います。ただ FLならではショートカットキーも覚えるととても便利という側面もあります。 これはFL Studio全体に言えることですが、FLの設計思想に合わせた楽曲制作をするなら快適ですが、「独自の制作スタイルに合わせたい」と考えるとやや不利なケースがあります。 2024.6.29追記 v24でショートカットのカスタマイズに対応しましたが、現状はかなり限定的なカスタマイズ機能でした。他のDAWのように自由なカスタマイズが可能になるのは、まだまだ先かもしれません…。 日本人ユーザーが少ない 日本ではJ-POPやボカロ、アニソンのような歌モノ主体のバンド系楽曲が人気です。そのため、リズムトラック中心のEDM向けであるFL Studioは日本人ユーザーが少なめです。 以下はSleepFreaksが調査した2019年、2021年、2024年の日本人のDAW使用状況です。 DAW 順位 得票数 比率 2019年 2021年 2024年 2019年 2021年 2024年 2019年 2021年 2024年 Cubase 1 1 1 1758 2807 1538 41.6% 37.3% 39.8% Logic Pro 2 2 3 1043 2069 843 24.7% 27.49% 21.8% Studio One 3 3 2 997 1838 1029 23.6% 24.42% 26.6% Ableton Live 5 4 4 504 773 402 11.9% 10.27% 10.4% FL Studio 4 6 5 549 621 282 13% 8.25% 7.3% 出典 最新のDAWソフトランキング 2019|DTMer 4226人に聞きました 【2021年版】DAWソフト 人気ランキング・ベスト10|DTMユーザー7526人に聞きました 【2024年版】最新の人気DAWランキング ベスト10を発表| DTMer3867人が回答 FL Stuidoの日本シェアが右肩下がりとなっていますが、個人的には以下の点が原因と考えています。 長らくメニュー項目が日本語対応していなかった (リリースから26年経過した「2024年」にようやく対応した) 日本の楽曲は打ち込み曲よりも生演奏系(バンド系)楽曲が人気なので、打ち込み主体のFL Studioは不利 他のDAWのシェアが拡大している 例えば、Ableton Liveは日本法人があり日本のシェア拡大に力を入れている Studio Oneは日本人ユーザーを取り込むために ARA対応などをしっかり行っている DTM初心者セット (ボカロやオーディオインターフェースなどがセットになった商品) にはたいてい Cubase や Studio Oneが付属している 他にもSNSでよくネタにされがちな「プロセカアカデミー」のボカロ曲の作り方の動画でも、FL Studioが存在しないことにされているほどの知名度です。 というように、日本での認知度や日本語の情報が他のDAWよりも比較的少ないです。ただEDMを作る場合は結局英語のサイトや動画を見ることになるので、どのDAWにも言えることですが、英語に抵抗感がない方がやはり有利です。 ちなみにFL Studioを使用している日本人アーティストは以下のページにまとめています。TranceやTrap、海外アーティストの影響やJ-CORE、音ゲー曲を作っているアーティストが多い印象です。 FL Studioユーザー(日本) なお FL StudioでJ-POPやボカロ曲が作れないというわけではなく、FL歴10年以上のCapchii氏はインタビューで FLが気軽にポップスを作れるという感想を述べています。 ──とりあえずパターンを作って貯めておけば、いつか何かが出来そうですよね。 本当にズボラに曲を作り始められるところが一番いいですね。普段はエレクトロミュージックを作っていますが、ポップスとかもそうやって作れます。 実際エレクトロの要素がかけらもない、ギター+ベース+ドラムみたいな普通のポップスを作ったんですけど、FL で全然行けました。 引用:Image-Line Software FL Studio ユーザートーク with Capchii ≪Hookup, Inc.≫ トラックが散らかりやすい FL Studioの設計思想上、柔軟にパターンやトラックを組み合わせることができるため、無計画に作業を進めるとトラックがごちゃごちゃになりがちです。そのためプロジェクトの初期段階では問題となりませんが、プロジェクトデータが複雑化していくと意図しないエフェクトやオートメーションが適用されたりして、問題の原因究明に時間がかかってしまうことがあります。 それに対して、例えばミニマルな設計思想である Ableton Live や Studio Oneなどでは、このような問題は起きづらいです。 ただこの問題は、Capchii氏が「FL Studioはズボラに作曲が始められる」と発言しているように、柔軟に作業を行えるメリットの裏返しと言えますので、どちらが良いかのは使う人次第なところもあります。 波形の扱いに弱い部分がある 演奏データをオーディオファイルにレンダリングしたり波形データを編集するときに、Ableton Live や Bitwig Studio などと比べるとやや編集の柔軟性に欠けるところがあります。 例えばFL Studioでは、レンダリングするのに Edison を通さなければならない上、Edisonの操作にやや癖があります。Edisonを使わないトラック単位のレンダリングもできますが、wavデータの存在を意識しなければならずシームレスな編集ではないという点も、やや時代遅れの印象を受けます。 ミキサートラックの上限が125 たびたびフォーラムやSNSで話題となる、ミキサートラック上限 "125"問題。 FLは、複数の楽器を1つのトラックにまとめたり、Sendのルーティングの自由度が高い、Patcherでトラック数を減らせるのですが、デメリットとしてたびたび話題に上がります。(FLの特性を理解した使い方をすれば、この制限が問題となることは基本的にありません) Image-Line公式の回答としては、「高い優先度で対応を進めているが、すぐに対応できるものではない」といったもので、しばらくはこの制限がなくなることはなさそうです。 2023.12.29追記:ミキサートラック上限 "125" 問題についての対応状況 ミキサートラックの上限 "125" について、FLチームは決してこの問題を軽視しているわけではありません。その証拠として、Image-Lineのテクニカルサポートを行っているHevy氏のコメントを引用しておきます。 ■「125を超えるトラック数を必要としている人は多くはない」という意見についての回答 トラック数の上限125を超える曲をアピールする必要はありません。 その問題が発生するのはジャンルに依存するもので、例えばhip-hopであれば10トラック以上を必要としませんが、私が取り組んでいるnuero-dnbプロジェクトでは40のミキサートラックと65のプレイリストトラックを必要としています。 これがorchestral, trance または psyであれば、かなり多くのトラックを消費するのは容易に想像できます。 ですので...、FLチームはその問題に取り組んでいます。 125トラック以上がほとんどの人に必要とされ、歓迎されていることは明らかです。 そして、あなたが125トラック以上を必要としない場合でも、トラックに余裕があることは「トラック数が足りなくなるかも…」という余計な心配に気を取られず作曲に集中できる大きなメリットであると思います。 引用(意訳を含みます):公式フォーラム - 21.3 Teaser Thread 上記スレッドのそれ以外のやり取りも読んでいたのですが、「最近のバージョンアップによるプレイリストやミキサー周りの新機能追加は少なく抑えている。その意味は分かるよな…?」という思わせぶりな発言もしていました。 プラグインのネーミングが独特のセンス プラグイン名に "Toxic Biohazard" やら ”Autogun”、"Fruity Blood Overdrive"、"Hardcore" など、やたらと中二病が考えた必殺技のようなカッコいい名前が採用されているので、気になる人は気になるかもしれません。 ただ、最近登場するプラグインは残念ながら無難な名前になっていることが多いです。 FL Studioと一緒に買ったほうが良いもの 以下、アフィリエイトを含む記事です。 商品リンクをクリックしてお買い物をすると、このサイトを支援することができます。 DAWと一緒に買ったほうが良いものとしては、以下のものがよく挙げられます。 モニター用ヘッドホン MIDIキーボード オーディオインターフェース ただ個人的には、FL Studioで必須なものは「多ボタンマウス」です。というのもFL Studioは「PCキーボード+マウス」に特化した操作ができて、それを覚えると作曲スピードが格段に上がるからです。 各種ショートカットキー(特に CTRL や SPACE) を多ボタンマウスに割り当てると、曲の再生・停止やウィンドウの切り替えなどがDAWの操作の大半がマウスで行えるようになります。 おすすめの多ボタンマウス Bluetooth(ワイヤレス)対応の6ボタンマウスとしては、以下のものがオススメです。 Logicool G ロジクール G G304 LoL K/DA LIGHTSPEED ワイヤレス ゲーミングマウス HERO センサー 軽量 6個 多ボタン バッテリー寿命250時間 League of Legends 公式 ゲームギア 国内正規品 2年間無償保証 ホワイト 「Gシフト」というボタンで左クリックや右クリックを別のボタンに割り当てられるので、実質ボタン数が2倍になります。 有線でも良いなら8ボタンの以下のマウスがあります。 Logicool G ゲーミングマウス G402 有線 ゲーミング マウス USB 接続 FPS ゲーム向け 4段階DPI切り替え 8個プログラムボタン ブラック PC windows mac 国内正規品 【 ファイナルファンタジー XIV 推奨モデル 】 6ボタンだと微妙に足りない (SHIFT や ALT に割り当てる余裕がない)ので、8ボタンマウスくらいがちょうど良いのではないかと思っています。 モニターヘッドホン モニターヘッドホンとしては、多くの人がおすすめしている "MDR-CD900ST" が安定です。 SONY 有線 密閉型スタジオモニターヘッドホン 黒 MDR-CD900ST モニターヘッドホンがないと、音作りやミックス時などに音が聞き取れずに正しく作ることができなくなるためです。(特にベース音はヘッドホンがないと聞き取りにくい) スピーカー スピーカーは安物で問題ないです。 例えば以下のものでも全然OK。ただしモニターヘッドホンは必須となります。 【Amazon.co.jp限定】ロジクール PCスピーカー パソコン用 Z120BW ホワイト ステレオ 2ch コンパクト USB給電式 3.5mm入力対応 PC スピーカー 国内正規品 2年間メーカー保証 もちろん良いモニタースピーカーとオーディオインターフェースを揃えると、普段の音楽鑑賞の質も上がるので、予算があれば買うのがオススメです。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2957.html
阪神教育闘争・文献リスト The association between education and society The educational struggle for Korean identity in Japan 1945-1948「教育と社会の関係:日本でおきた韓(朝鮮)identityを求める教育闘争1945-1948」(英文) In-duck Kim, SungKyunKwan University Korea 金仁徳, 成均館大学校 http //www.eric.ed.gov/PDFS/EJ835205.pdf contents The association between education and society The educational struggle for Korean identity in Japan 1945-1948「教育と社会の関係:日本でおきた韓(朝鮮)identityを求める教育闘争1945-1948」(英文)Introduction Education for Koreans in Japan before Liberation (before 1945) From Assimilation Education to Japanese Imperialism Independent Schools for Korean WorkersTable 1 Trends of the Number of Koreans in Japan during 1920-1950 Korean Identity Education after WW II The Korean Federation in Japan (KFJ) Dissemination of Korean Identity Education by the KFJTable 2 Korean Learning Programs in Tokyo, Osaka and Kobe in 1945 Table 3 Chronological Activities of Korean Federation in Japan (KFJ) for Korean Identity Education during 1945-1946 Table 4 List of Textbooks about Korean and History Published during 1945-1946 The HanShin Educational Struggle Social Constrictions The Struggle for the Autonomy of Korean Education in Osaka and KobeTable 5 Procedures of HanShin Educational Struggle in 1948 Epilogue Conclusions Notes References 翻訳文ご投稿 Asia Pacific Education Review Copyright 2008 by Education Research Institute 2008, Vol. 9, No.3, 335-343. The Association between Education and Society The Educational Struggle for Korean Identity in Japan 1945-1948 In-duck Kim SungKyunKwan University Korea In-duck Kim Academy of East Asian Studies, SungKyunKwan University, Korea. Correspondence concerning this article should be addressed to In-duck Kim, Academy of East Asian Studies, SungKyunKwan University, 53, Myungnyun-Dong 3-Ga, Jongno-Gu, Seoul 110-745, Korea. E-mail kid620827@hanmail.net This study attempts to elucidate the idea that education reflects the contemporary social structure. This inference is focused on the educational struggle for Korean identity led by the Korean Federation in Japan (KFJ) during 1945-1948. The KFJ disseminated the educational movement for Koreans in Japan (Zainichi). The General Head Quarters (GHQ) suppressed Korean identity education (KIE) and tried to disrupt the activities of the KFJ. KIE was identified and destroyed during the HanShin educational struggle as part of the conflict with the GHQ. However, HanShin movement survived to form the basis for the new start of the Korean educational movement in Japan and has served as the cornerstone of KIE. This case elucidates the ways in which education is strongly associated with the social structure and the status quo. Key words education, society, HanShin educational struggle, Korean identity education, Korean Federation in Japan 335 Introduction Education is a reflection of the social structure; history is the communication between the past and present and gives birth to future directions. However, little research has been published on the issue. The aim of this study is to evaluate the idea that education reflects the contemporary social structure and status quo. To evaluate and test this notion, the cases of the educational struggles for Korean identity, led by the Korean Federation in Japan (KFJ)1 from 1945 to 1948 were selected. Approximately two million Koreans were residing in Japan as workers and students on August 15, 1945 (Wagner, 1951). Opportunities to learn to read and write in Korean during the era of Japanese imperialism during 1910 – 1945 were largely denied or absent. After the Japanese surrender in 1945, the American Military Administration (AMA) started to rule Japan. Implicit in the AMA’s early democratization program was the emancipation of Koreans from the oppressive and discriminatory controls under which they had lived in during the occupation (Wagner, 1951). Soon, they adopted the ruling idea that the social structure and system should be as the same as that under the Japanese system except for the imperial system and the issue of Korean identity education2. Koreans in Japan (Zainichi Chosenjin Zainichi) were swept up in the wave of euphoria accompanying the liberation and maintained a strong desire to implement Korean identity education. They organized the KFJ in 1945 and disseminated the Korean identity educational movement for Koreans throughout Japan. During this process, the HanShin educational movement became part of the conflict between KFJ and the General Head Quarters of the AMA (GHQ). 336 In terms of Korean identity education in Japan, some results have been reported an assimilation concept based on the historical material approach (Ozawa, 1988); a chronological approach (Kim, 2002); a field survey approach (Yang, 1994; Park, 1979; Eo, 1998); and an approach with the issue of North Korea at the fore (Cho, Ryou, Han, 2002) have all been used. To make a logical inference regarding the links between education and society, this interpretation is based on the holistic view of the Korean identity encompassing South and North Korea. It applies the chronological approach using previous primary materials and survey materials the description of the administrational and societal conditions in Japan and the review of primary materials on their activities according to the three-stage concept of the KFJ (Kim, 2007). It starts with a description of the education for Koreans in Japan before liberation, using the cessation of World War II as a backdrop. It is followed by an interpretation of the educational movement of KFJ as a sprout of Korean identity education in Japan. Finally, it is highlighted by the interpretation of the HanShin educational struggle as a major piece of evidence for the interplay between education and society. Education for Koreans in Japan before Liberation (before 1945) During the Japanese colonial period, the Japanese education system consisted mainly of public schools for an assimilation education in both Japan and Korea; it also had night schools for Korean workers in Japan. The Japanese imperialists believed that Koreans could be assimilated and remodeled by this type of education and portrayed this policy as being progressive. However, Korean nationalists and liberalists thought that night schools focused only on literacy and education for children. From Assimilation Education to Japanese Imperialism As the population of Korean children increased in Japan, problems related to education worsened. Ozawa put forth the following statement “According to the Primary Education Act, Article 32, the education for Korean children in Japan should be mandatory. Compared to the children in Korea, it seemed to be the complimentary treatment” (Lee, 1999,p. 96). The number of Korean students attending these schools was very small and what they learnt was essentially how to live as Japanese rather than Koreans. The objective of this mandatory education was to prepare its students for the Japanese military and stifle any feeling of Korean nationalism (Chosen University, 1987). This form of mandatory education can be interpreted differently according to the given social structure as military education for imperialism; as education undertaken by a dictatorship; or as citizenship education within a democracy. Independent Schools for Korean Workers As many Koreans moved to Japan to work in the 1920’s (Chosen University, 1987), night schools were established to train such worers in basic. Table 1 shows the increasing trend in the number of Korean immigrants in Japan from 1920-1950. Korean immigrants increased to one million in 1940 and were up to more than 1.9 million in 1944, because Japan was preparing for the Pacific War. Since the number of Korean families increased in 1930, the objective of the night schools became increasingly geared to the education of these immigrants’ children. There were many night schools in Tokyo, Osaka, Hyogo, Kanagawa and Fukuoka; of them all, Osaka was the most active because of the huge numbers of workers. It was speculated that night schools were built as an alternative to the regular schools, because Korean workers were not able to go to regular schools due to having no time and low incomes as well as the fact that they retained strong sentiments regarding their Korean identity. As a result of many Koreans’ moving to Japan through the KyoseiRenko process, (the forced mobilization of Korean laborers) in 1940, night schools gradually faded out. The decreasing trend of night schools indicates clearly that the social situation also influences all types of education. Osaka night schools were both public and private. The former started in May, 1924. The Japanese Korean cooperation association (Naisenkyowagai) was organized to support Japanese Imperialists. In Osaka, Naisenkyowagai organized public schools to promote the living standards of Koreans and to ‘develop’ their character. It opened night schools along with boarding houses and help with finding jobs. The length of the course was three years; it was Table 1 Trends of the Number of Koreans in Japan during 1920-1950 Year Number Year Number Year Number 1921 38,651 1931 311,247 1941 1,469,230 1922 59,722 1932 390,543 1942 1,625,054 1923 80,415 1933 456,217 1943 1,882,456 1924 118,152 1934 539,695 1944 1,936,843 1925 129,870 1935 625,678 1945 1,115,594 1926 143,798 1936 690,501 1946 647,006 1927 165,286 1937 735,689 1947 598,507 1928 238,102 1938 799,878 1948 601,772 1929 275,206 1939 961,591 1949 597,561 1930 298,091 1940 1,190,444 1950 535,236 337 available to Koreans who were over the regular educational age. The number of students in this school was 150 (Higuchi, 1986). The Korean Trade Union in Osaka, which agitated against Japan, also founded a night school in Uro-Cho in July 1928 for the purposes of fortifying the trade union. Further indepndent schools were founded by private Korean residents. Some of these schools were similar in size to Japanese public schools; their levels of financial backing also rivaled their counterparts. Kosei Kakuin in Huse and Kansai-Kyomei Kakuin in Hikashinari-Ku were founded for children in 1930 and 1931, respectively; these schools provided education for students who had previously had no access to schools. At these independent schools, Korean workers were taught to value their Korean heritage. The teaching of Korean history; math; Korean culture and the history of the labor movement were stressed (Kim, 1997). Through these schools, some Koreans developed into workers with a class consciousness. These cases show that different social groups organized different educational programs in accordance with their separate ideologies. Korean Identity Education after WW II Due to the changed situation following the surrender of the Japanese imperialists, Korean identity education for Zainichies was led by the Korean Federation in Japan (KFJ) and is highlighted by the HanShin educational struggle. The Korean Federation in Japan (KFJ) A great many Korean organizations sprung up spontaneously, hard on the heels of the Japanese surrender, all of them seeking to protect the lives and property as well as to promote the rights of Koreans residing in Japan (Wagner, 1951). The KFJ was organized in Tokyo in October 1945 (Kim, 2007). Due to an administration vacuum for Koreans in Japan, Koreans in Japan needed an organization that could help them to return to Korea and to survive in Japan. It represented all Zainichies regardless of political standpoint; it organized programs to help those wishing to return to Korea. It fought for the improvement of the everyday lives of Zainichies. It independently undertook many Korean identity educational programs. It also found many Korean schools for Zainichies who wanted to live in Japan. Dissemination of Korean Identity Education by the KFJ In preparation for their return to Korea, Koreans independently started to take Korean programs in Tokyo, Osaka and Kobe just after the liberation in 1945 (Table 2). There were more than 200 programs with the number of students totaling more than 20,000 by the end of 1945. Text books for Korean programs were prepared independently 338 Table 2 Korean Learning Programs in Tokyo, Osaka and Kobe in 1945 City Area Founder Tokyo Kanda Korean YMCA Adachi Yoon, Byung-ok Totsuka Lee, Jin-kyu Arakawa Kim, Bo-hyun Idabashi Chung, Ku-il Toyoshima Eo, Dang Osaka Ikaino Church Yasakacho Kobe Nishikobe Factory of Odeng the most famous one was the “Text Book of Korean” edited by Lee Jin-kyu (Eo, 1998, p. 108). After liberation, Koreans wished to learn about their Korean identity as opposed to the kind of education for assimilation they had already experienced. These Korean programs show how education adapts itself to a prapidly evolving status quo. The KFJ started to organize Korean identity education actively from October 1945. They gathered previously dispersed resources and fortified their organizational power for these educational activities. Table 3 shows the activities of the KFJ for Korean identity education from 1945-1948. Their activities were three-fold nurturing teachers, publishing textbooks and opening schools. The KFJ was very active in nurturing teachers it organized “Continuing education courses for teachers” in December, 1945 and opened the first Korean language seminar for teachers. After discussing future teaching programs and practicing teaching skills, all 15 participants were dispatched to the Korean educational programs in Tokyo to work. The second special general assembly held in February, 1946 decided to install a committee for educational taskforces. Its roles were two-fold nurturing teachers and publishing textbooks (Kim, 2002). The second central committee in the assembly decided to install a committee for Table 3 Chronological Activities of Korean Federation in Japan (KFJ) for Korean Identity Education during 1945-1946 Time Title Feature October, 1945 Foundation of KFJ Chair, Yoon Keun November, 1945 Support for cultural activity (Document) About textbooks and teachers December, 1945 1st Seminar for Korean For teachers February, 1946 2nd Special General assembly Decision about the publishing textbooks and nurturing teachers March, 1946 Kenkoku technical school Osaka April, 1946 Learning by stage 3 stages by two grades April, 1946 Teachers union Osaka June, 1946 Chosen teachers Institute Osaka October, 1946 Chosen middle school Tokyo October, 1946 3rd Special General assembly Desion on organizing School managementUnion December, 1946 Teachers union Tokyo July, 1947 Educational system Same as Japanese 6-3 stytem August, 1947 Korean Teachers league in Japan Member 1,200 Chair Choi young-keun October, 1947 4th Special General assembly Decree of education Issue on education about democracy January, 1948 13th central committee Substantiality of facilities, systems and contents in schools 339 Table 4 List of Textbooks about Korean and History Published during 1945-1946 Subject Title Feature Korean Korean for primary schoo Published by Korean Federation in Japan (KFJ) Teaching manual for primary school KFJ Korean for children KFJ Korean Spelling KFJ Text of Korean KFJ History Draft of Chosen history I, II, III KFJ Chosen history I, II, III※ KFJ, Written ※Note. Chosen history was written by Lim Kwang-cheol and had the same context as “Chosen socio-economical history” by Paik Nam-woon and “Chosen societal history” by Lee Chung-won. primary school text publication in the department of culture. They agreed on bylaws for the committee it consisted of four chapters, thirteen articles in relation to publishing textbooks in eight subject areas, encompassing Korean, math, science, history, geography, music, art and morals. The committee installed in February, 1946 was guided through the leadership of the chair, Lee Jin-kyu. Table 4 shows the details of the list of textbooks pertaining to Korean and history published during the time period of 1945-1946. The members of the Korean Student Federation, Korean Artist Association and the Society of People’s Culture collaborated in these activities. As these activities grew, the courses were divided into three categories according to the age group low (first and second graders), middle (third and fourth graders) and upper (fifth and sixth graders). According to the vision of the KFJ, the text books were focused on Korean language and Korean History. The nature of these textbooks shows that education is deeply linked to social needs. In terms of nurturing teachers, the second special assembly decided to found several institutes including the 3.1 Political Institute in Tokyo and the 8.15 Youth Institute in Osaka. Other institutes included the Central Institute of the KFJ, The Central Teachers Institute of the KFJ, The Osaka Chosen Teachers Institute and Dressmaking School for Women of the KFJ. During the period between 1945 - 1946, it also opened many schools 525 primary schools with 42,182 students and 1,022 teachers; and 12 advanced schools for adolescents with 724 students and 54 teachers. The number of schools increased to a total of 578 by October, 1947 541 primary schools, 7 middle schools, 22 schools for adolescents and 8 high schools (Lee, 1999). In the third general assembly held in October 1946, four major tactics were adopted for Zainichies first, the promotion of a better life; second, education and enlightenment; third, the installation of a temporary government in Korea; and finally, the strengthening of the organization (Park, 1983). The priority lay on education and enlightenment. During the fourth general assembly in October, 1947, they discussed the issue of Korean schools. They established an agreement on “The decree of education” and “The direction of democracy education” (Park, 1983, p.24). It was focused on two issues first, how they can cope with the interference of the GHQ and the Japanese government upon Korean identity education; and second, attaining financial freedom from the Japanese government in order to maintain their rights to independent education (Kim,2006). It has been speculated that these activities were based on the idea of independence and the concept of education for democracy through learning, teaching and managing education. These activities show that a well organized society with common objectives can lead a well organized educational movement to meet common targets. The HanShin Educational Struggle The HanShin educational struggle refers to the two big struggles for Korean identity education in Osaka and Kobe in 1948. The goal of providing Korean identity education for Koreans in Japan was not able to be realized in Kobe and Osaka in Japan under the GHQ, because Japan was 340 unwilling to allow the existence of a Korean society lead by the left. The Hanshin educational struggle shows that education always touches the social structure per se and must exist within the governing politico-economical system. Social Constrictions Just after the Japanese defeat, the GHQ assumed an indifferent attitude to the Korean identity education of Koreans in Japan. They changed their policy in October, 1947 Koreans schools in Japan had to follow the direction of the Japanese government. This triggered the HanShin (Osaka and Kobe) educational struggle. The GHQ had this to say, The Japanese government was directed to ensure that all Korean schools in Japan should comply with all pertinent Japanese directives, the general rules of Ministry of education in Japan. The only exception was to teach the Korean language as an addition to the regular curriculum (Kim, 1988, p. 449). The been planning to institute radical changes in the structure of the Japanese school system and chose this occasion to bring Korean schools within the pale of Japanese law (Wagner, 1951). The Japanese ministry of education directed that Korean schools should get permission for opening schools and use Japanese textbooks. Although the KFJ contacted the Japanese government and discussed this with the GHQ, there were only negative responses. The Japanese government circulated a statement of policy with regard to Korean-operated schools, announcing their position in the document entitled “About handling the establishment of Korean schools” in January 1948 (Kim, 1988, p. 450). The order was for all Korean children to attend accredited schools and for all teachers to comply with Japanese government regulations. The only consolation for Koreans was the fact that their schools should be accredited, and that the Korean language could be taught as an extracurricular subject (Wagner, 1951). I speculate that this policy could be interpreted as “The first order to close Korean schools.” It was this attempt at oppressive control which was the source of the conflict between the rights Koreans to independently educate for the maintenance of Korean identity and the GHQ. The Struggle for the Autonomy of Korean Education in Osaka and Kobe Under the leadership of the KFJ, strenuous efforts were made to maintain the autonomy of Korean education. The KFJ organized a Counter Measure Committee on Korean identity education; participation was by representatives of various Korean groups. They developed a four point “principles of autonomy for the Korea education” program 1) Instruction in the Korean language; 2) The use of textbooks compiled by a Korean committee and censored by the Supreme Commander for Allied Powers; 3) The administration of schools on an individual basis by Korean parents; 4) The teaching of the Japanese language as part of the required curriculum (Kim, 2007, p. 202). The Japanese government released another document in March, 1948. It said that if the first order were not accepted, they would close down Korean schools. I believe that this move can be described as “The second order to close Korean schools.” The first struggle against this order occurred in Yamaguchi-Ken on March 31, 1948 (Park, 1989). It took the form of a demonstration in Yamaguchi-Ken consisting of more than 10,000 Koreans waiting to return to Korea. They rallied throughout the night in an attempt to negotiate with the administrative authorities of the district. Finally, the administrative authorities withdrew their previous order. From then on, various struggles occurred in Hiroshima, Okayama, Hyogo, Osaka and Kobe. Table 5 shows the detail procedures of the HanShin educational struggle. In Osaka, a Korean gathering opened against the oppression of Korean schools and developed into a rally on April 23, 1948 (Park, 1989). They tried to negotiate, but ended in failure. The leaders of the rally were arrested and sent to jail in Osaka. The next day, a demonstration took place in front of the police station, asking for the release of those arrested. More Koreans were arrested in that rally. Koreans in Osaka organized a big rally again and tried to negotiate with the administrative authorities. A big gathering of more than 10,000 Koreans was organized in Otemae Park on April 26; the authorities gave the crowd the ridiculous order to disperse within three minutes. When the crowd did not comply, the Osaka police 341 Table 5 Procedures of HanShin Educational Struggle in 1948 City Date Event Kobe April 7 Order of closing Korean schools April 11 Korean Gathering asks for withdrawing the order. April 15 70 Koreans were illegally arrested. April 16 Asking for releasing the arrested and withdrawing the order April 20 Meeting the governor. Governor suddenly closed the meeting. April 21 GHQ and mayor disclosed the evacuation of teachers. April 23 GHQ and city authority started to close Korean schools. April 24 A big rally in Hugo-Ken. The governor accepted the request of Koreans. April 24 Declaration of situation of emergence April 25 Mass were arrested. Osaka April 23 Big gathering of Korean peopleLeaders were arrested. April 24 Sporadic rally. More people were arrested. April 26 A big Korean Gathering April 26 Brutal suppression by police.Kim Tae-il was killed. mobilized more than 8,000 policemen including police school students and shot at the demonstrators. Kim Tae-il, aged 16, was killed and many were arrested. The latter were tried under the American court-martial and Kim Seok-song was forcefully exiled to Korea. The Osaka struggle was characterized by brutal suppression. This demonstrates that the state never gives up willingly the power for governing they will kill and exile people if need be in order to maintain power. In Kobe, the order to close down Korean schools was given on April 7, 1947. Parents of students protested against the order by blocking the school gates and a big rally of more than 10,000 attendants was organized, which forced the government to withdraw the order on April 24. The problem of the Japanese government’s attempts to suppress Korean identity education remained. On April 24, the GHQ declared a state of emergency in Kobe. Kobe became a nightmare for Koreans. On April 24, the Koreans in Kobe misinterpreted the event as a victory against the GHQ. The Kobe case shows that the government never negotiates with an anti-government group education is an indispensable means for them to maintain power stability. The HanShin educational struggle, as shown in Table 5, seems to have failed accompanied with great sacrifice one million people attended rallies; 212 were injured, one killed; more than 3,000 arrested; 212 prosecuted; and 36 jailed. A final solution to the problem of the conflict between the KFJ and the GHQ in terms of Korean identity educational was reached only with the destruction of the KFJ itself more than a year later. The HanShin Korean identity education struggle shows that educational problems should be resolved after taking into consideration the social and political issues in a given society. Epilogue After the HanShin educational struggle, the minister of education in Japan and the representative of the Counter Measures Committee of the KFJ agreed to make an exchange of notes to the effect that Korean identity education should be governed by the directives of the Japanese Ministry of Education. Thereafter, independent Korean identity education temporarily disappeared; however autonomous Korean identity education recommenced after the Korean War. The present Korean Identity Class in Osaka is one of the legacies of the HanShin educational struggle for the autonomy of Korean identity education. In order to maintain its leadership in the new era after 342 WWII, the United States of America hoped that Japan would take a central role in Eastern Asia. The oppression practiced by both the GHQ and the Japanese government of Korean identity education increased. It was natural that the KFJ, freshly invigorated with a sense of liberation and democracy would strongly rise against such oppression. The KFJ organized rallies to secure the right of autonomy in Korean identity education throughout Japan, but failed. In the 5th general assembly of the KFJ in October 1948, the KFJ designated April 24 as “a memorial day of education”, as a day of remembrance for preserving the Korean language (Kim, 1979, p. 109). The legacy of the HanShin educational struggle gave Zainichi Koreans in Japan the future direction for the autonomy of Korean identity education Korean language, independent education, democratic education and cooperation with Japanese educators who were of a democratic persuasion. Conclusions Under Japanese colonization, the education for Koreans in Japan was mainly that of assimilation by Japanese imperialists; it provided Koreans with the opportunity to spread Korean national identity via night schools for workers. After the Japanese surrender, the Korean independent education movement pushed Koreans to learn the Korean language. It also strengthened Korean organizations including the KFJ. The Korean identity educational struggle, peaking with the Hanshin education movement was indispensable under the AMA, which was more favorably disposed to the previous Japanese regime. Education is the process of developing knowledge, skills and character. Korean Identity Education focused on instilling the knowledge of where Koreans came from, who they are, how they think, and how they communicate with each other. Korean identity is composed of a common language, cultural and ethnic background. These features are rooted in the socio-cultural situation. Hence, education can not be totally separated from the social system. Education reflects the most conspicuous ideology of the governing social structure as the subsystem of the total system such as the politico-economical system. The HanShin educational struggle shows that any type of education may be permitted under the legal regulation of a given society in ordre to preserve and maintain the social system. This study shows that education reflects the social, cultural, economical and political structure of any society. The impact of education on society and its feedback functions are extremely important for the future direction of the society in question. Notes 1. “Zainichi Chosenjin Renmei” is translated as “The Korean Federation in Japan (KFJ)”, although it was translated as “The Korean League” and /or “The league of Korean residing in Japan” by Wagner (Wagner, 1951, p. 50). 2. “Korean identity education” represents the education about Korean national identity. Since “Korean nationalism education” could make a chauvinistic misunderstanding, I preferred “Korean identity education” instead. References Cheon, Z. (1979). Chochongryeon yeonku [The study of chochongryeon]. Seoul Korea University Press. Cho, J. N., Ryou, H. Y., Han, M. K. (2002). Bukhaneui jaieuidongpo cheongchaek [Policy for abroad Koreans].Seoul Jibmoon Dang. Chosen University, Institute of Korean identity education (1987). Jaiildongpodleeui minjokkyoyook [Korean identity education of Koreans in Japan]. Tokyo Hakwoosobo. Eo, D. (1998). Kaihogosoki no zainichichosenjin soshiki to choren no kyogaso hensan [Zainichis’organization and publication of textbooks in the early period after liberation]. Zainichi Chosenjinshi Kenku[A study of Koreans in Japan], (Vol. 28, p. 103-120). Tokyo Asiamondaikenkyuso. Higuchi, Y. I. (1986). Kyowakai [The harmony conference]. Tokyo Sakaiheironsa. Higuchi, Y. I. (2002). Nihon no chosenjin to kankokujin [Chosenjin and Kankokujin in Japan]. Tokyo Toseisa. Kang, C. (1994). Zainichichosenjin no zinken to nihon no horitsu [Human right of Zainichi and law of Japan]. Tokyo Yuzankaku. Kim, C. J. (1997). Zaini Korean hyakunenshi [A hundred Zainichi Korean Identity Educational Struggle Reflects the Societal Status of Japan just after Liberation 343 history of Zainichi Koreans]. Tokyo Sankokan. Kim, D. R. (2002). Chosengakko no zengoshi [Post-war history of Chosen school 1945-1972]. Tokyo Sakaiheironsa. Kim, I. D. (2007). Jaeilbonchoseninyeonmaing cheonchedaiheui yeonku [A study on the General Assembly of Korean Federation in Japan]. Seoul SeonIn press. Kim, K. H. (1979). Zainichichosenjin minzokukyoik no genten [The start of national education of zainichichosenjin]. Tokyo Tabatasoten. Kim, K. H. (Ed.). (1988). Zainichichosenjin minzokkyoik yogo toso shiryosu(I) [Collection of materials about supporting struggle on Korean identity education for Zainichies (I)]. Tokyo Akazisoten. Lim, K. C. (1949). Chosen Rekishi Tokuhon [Text book of history of Chosen]. Tokyo Hyakuyosa. Ozawa, Y. S. (1988). Zainichichosenjin kyoikron [The educational argument of zainichichosenjin]. Tokyo Akisobo. Park, K. S. (1979). Kaihochokugo no zainichichosenjinundo (4) [Zainichi movement in the early period after liberation(4)]. Zainichi Chosenjinshi Kenku [A study of Koreans in Japan] (Vol. 4, pp. 69-86). Tokyo Asiamondaikenkyuso Park, K. S. (Ed.). (1983). Chosen mondai shiryo soshyoVIIII [Collection of materials related to Korean affairs (VIIII)]. Tokyo Asiamondaikenkyuso. Park, K. S. (1989). Kaihogo zainichichosenjin undoshi [History of Zainichi movement after libration]. Tokyo Samil Sobo. Park, K. S. (1989). Taiken te kataru kaihogo no zainichichosenjinundo [Zainichi movement after libration telling through my experience]. Kobe Kobe Kakuseiseinen Center. Park, K. S. (Ed.). (2000). Zainichichosenjin kankei shiryo shusei(I) [Collection of materials related to Zainichi(I)]. Tokyo Hui press. Park, K. S. (Ed.). (2000). Zainichichosenjin kankei shiryo shusei(VI) [Collection of materials related to Zainichi(VI)]. Tokyo Hui press. Wagner, E. W. (1951). The Korean minority in Japan 1904 - 1950. New York Institute of Pacific relations. Yang, Y. H. (1980). Osaka ni okeru yon.niyonkyoiktoso no oboekaki(I) [Memory of April 24 educational struggle in Osaka (I)]. Zainichi Chosenjinshi Kenku [A study of Koreans in Japan] (Vol. 6, pp. 70-78). Tokyo Asiamondaikenkyuso. Yang, Y. H. (1994). Zengo osaka no zainichichosenjinundo [Post-war movement of Zainichies in Osaka]. Tokyo Miraisa. Received September 27, 2007 Revision received October 18, 2007 Accepted March 14, 2008 翻訳文ご投稿 名前 コメント すべてのコメントを見る ブランド時計コピーしてたくさん種類に分けます。たとえば:ロレックススーパーコピー時計、シャネルスーパーコピー時計、ガガミラノスーパーコピー時計、ブライトリングスーパーコピー時計、オメガスーパーコピー時計、IWCスーパーコピー時計、ウブロスーパーコピー時計、カルティエスーパーコピー時計、オーデマピゲスーパーコピー時計、フランクミュラースーパーコピー時計、パテックフィリップスーパーコピー時計、パネライスーパーコピー時計、タグ ホイヤースーパーコピー時計、ブルガリスーパーコピー時計、ショパールスーパーコピー時計、ゼニススーパーコピー時計、ルイヴィトンスーパーコピー時計、ピアジェスーパーコピー時計、フェラーリスーパーコピー時計各種ブランド時計コピーの2014年新作最N品:http //www.watchhighquality.com/ スーパーコピースカーフ http //www.cheapscarfcopy.com/ ブランド時計コピー http //www.watchhighquality.com/ -- (ブランド時計コピー) 2014-05-22 15 42 58 阪神教育闘争・文献リスト
https://w.atwiki.jp/latitude10/pages/14.html
・純正ケース はめ込み式+蓋。ちょっと重め。(300g) 4セルバッテリー搭載時は使用不可 ・100円均一ケース(CanDo) ・B5ノートPC用 [画像] それなりに余裕をもって入る。ACアダプターまでは入れにくい。 ・タブレット端末用 [画像] ぎりぎり入るが、常用は厳しいぎりぎりさ。 ・LIHIT LAB. SMART FIT キャリングポーチ B5 専用品ではありませんがACアダプタとかキーボードを一緒に持ち歩きたい場合に使えます。 本来文房具なのでペンホルダーもあってデジタイザペンを入れる事が出来ます。 http //www.lihit-lab.com/products/catalog/A-7576.html オプションのショルダーベルトでショルダーバッグとしても使えます。 http //www.lihit-lab.com/products/catalog/A-7578.html
https://w.atwiki.jp/englishlanguage/pages/133.html
KAT... Katamba, Francis. 1994. English Words. London Routledge. Katami, Akio. 2018. "The Medieval Vision through 'Bodily' and 'Ghostly' in English Devotional Prose", in The Pleasure of English Language and Literature, ed. Hideshi Ohno, Kazuho Mizuno Osamu Imahayashi. Hiroshima Keisuisha. Katami, Akio, Tomohiro Kawabata Shihoko Yamamoto. 片見彰夫, 川端朋弘, 山本史歩子. 2018. 『英語教師のための英語史』 東京:開拓社. Katami, Akio. 2014. 「中世イングランド神秘主義者の散文における説得の技法」金水敏・高田博行・椎名美智(編)『歴史語用論の世界:文法化・待遇表現・発話行為』東京:ひつじ書房. Katano, Masato. 2012. "Contrastive Research between the Folio Edition and the Abstracted Edition of Samuel Johnson’s English Dictionary". Lexicon 42. Kataoka, R. 2009. "A Study on Perceptual Compensation for/u/-fronting in American English". Annual Meeting of the Berkeley Linguistics Society 35(1) 156-167. Kato, Kazuo. 1986. "The first time and various tense forms," English Linguistics 18. Kato, Kazuo. 1986. "Gradable Gradability," English Studies 67. Kato, Naoyoshi. 加藤直良. 2011. 「英語圏の歴史と言語:オーストラリア英語の場合」『名古屋学芸大学短期大学部研究紀要』8 34-42. Kato, Naoyoshi. 加藤直良. 2014. 「英語圏の歴史と言語:アイルランド英語の2人称代名詞の用法と多様性」 The Journal of Liberal Arts, Nagoya University of Arts and Sciences (10) 95-108. Kato, Naoyoshi. 加藤直良. 1992. 「Sir Gawain and the Green Knight における二人称代名詞」 Memoirs of the Fukui Institute of Technology 22 89-97. Kato, Tomomi. 1993. "Some Scribal Differences in Malory", in Arthurian and Other Studies Presented to Shunichi Noguchi, ed. Takashi Suzuki and Tsuyoshi Mukai, pp. 180-99. Katz, Seth R. 2020. American English Grammar An Introduction. London Routledge.
https://w.atwiki.jp/niconicokaraokedb/pages/2731.html
Etude No.3 えちゆうとなんはあすりい【登録タグ:GUMI VOCALOID takamatt 曲 曲え 曲えち】 曲情報 作詞:takamatt 作曲:takamatt 編曲:takamatt 唄:GUMI ジャンル・作品:VOCALOID カラオケ動画情報 オフボーカルワイプあり オンボーカルワイプあり コメント 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/rozenrock/pages/668.html
※クリックしてダウンロード(パスワード:vip) Lyrics ID 6BJ/J1wZ0 氏(137th take) Music ID m5uGXvFr0 氏(143rd take) Lyrics 水銀燈 Music 蒼星石 独り残された私は 黒い夢の中を泳ぐ 私を私と認識するもの それ以外を壊したくて 永遠に近い時間を泳いできたの 歪んでいるのは 知ってるわ 涙なんて 流したくはない 歪みを強さに 変えるだけ あなたの 優しい思い出が 私をここに生かしているの 遠い過去の あなたの背中を 未だにココで 見詰めているの 独り扉の内側で あなたの笑顔を 覗いてるわ 私は私の信じるモノ それを貫いてゆくの どれだけ時間を越えたとしても 昔には戻れないのよ 涙だけは 流したくはない 壊れぬうちに あなたを壊すの あなたの 優しい思い出が 私をここに生かしているの 遠い過去の あなたの背中を 未だにココで 見詰めているの 解り合えるなら 貴方の優しさを素直に感じられたら… コラボ作品保管庫へ
https://w.atwiki.jp/gtavi_gta6/pages/2046.html
Wenger Institute 概要 解説 店舗、外見など 概要 日本語:ウェンガー研究所 業種:研究施設 所在地:バインウッド - バートン - カーサー・ウェイ沿い。ロスサントスカスタムの南向かい。 解説 ロゴ見る限りでは医療系の研究施設。 元ネタはCedars-Sinai Institute で、ロゴも似せている。が、うつ伏せになった女性がこちらに向けて股を開いているように見えなくもない。モデルによるとWenger InstituteはMount Zonah Medical Centerに属す研究施設。 建物のモデルはCedars-Sinai Outpatient Services Building 店舗、外見など