約 5,620 件
https://w.atwiki.jp/steptravel/pages/23.html
首里城祭り(沖縄) 首里城祭りのメインイベント「琉球王朝絵巻行列」は、琉球王朝時代、中国皇帝の使者である冊封使が訪れたときの行列をアレンジしたもので、豪華絢爛な行列が見物です。 琉球王朝の都であった首里の文化にふれることができる秋の一大イベントです。 唐津くんち(佐賀県) 曳山囃子の優雅な調べのなか「エンヤ、エンヤ」「オイサ、オイサ」と掛け声が響く。 漆の一閑張りという手法(木型に紙を張重ね造型する工法)で制作された14台の巨大な曳山は全国無比の芸術品です。 西条祭り(愛媛県) 木製の車が左右に付いた人の背丈ほどある屋台を30名程のかき夫連中が2本の太い梃子に体ごととりつき、巧みに操作して振り廻しては屋台ひしめく境内を暴れるように走り回る。 優雅で華麗なだんじりとは対照的に、御輿独特の激しい太鼓の囃子と非常に猛々しく豪快な迫力にあふれた屋台が幻想的。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/287.html
陸奥国 会津郡 原組 原村 大日本地誌大系第31巻 20コマ目 この村もと9区に分る。 天正18年(1590年)野の中に聚(あつ)まりて1村となれり、因て名けりという。 府城の東に当り行程3里19町余、家数79軒。 東西1町18間・南北5町51間。 西南は山に傍(そ)ひ四方に田圃(たんぼ)あり。 白川街道駅所にて村中に本陣を置き、官より令せらるる掟条目の制札あり。 府下よりここに継ぎ、ここより1里30町24間安積郡福良組赤津村駅に継ぎ、また1里17町20間赤井村駅に継ぐ。 村西に一里塚あり。 東14町18間・南5町16間、共に東田面村の界に至る。その村は東に当り14町50間余。 西15町西田面村の山に界ふ。 北7町6間西田面村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り14町10間。 また寅(東北東)の方14町34間、崎川村の界に至る。その村まで20町余。 小名 吉平(よしかたひら) 本村より戌(西北西)の方22町にあり。 家数4軒、東西30間・南北1町10間、山中に散居す。 この地もと葭平(よしかたひら)といへるを延寶6年(1678年)小出組桑原村の農民新田を開き今の字に改めしという。 端村 高坂 本村より辰(東南東)の方1里2町余にあり。 家数9軒、東西50間・南北1町30間、山中に散居す。 村南に白川街道あり。 田代 本村の南1里19町にあり。 家数13軒、東西50間・南北2町、両山の間にあり。 南北に田圃(たんぼ)あり。 山川 立山 村東4町にあり。 昔何人かここに館を築いて住せしという。今猶(なお)古瓦を得ることあり。 布引山(ぬのびきやま) 村より辰巳(南東)の方3里余にあり。 本村及び東田面・西田面・崎川・経沢5ヶ村入逢の山なり。 (本郡の条下に詳なり) 黒森峠 端村高坂の辰巳(南東)の方7町10間余、白川街道にあり。 左右に松樹多し。 絶頂に至て両岩相束ね狭隘(きょうあい)にして並行くべからず。 俗に咽究(のどつまり)という。 下路更に嶮しければ雪中には縄を下げ置きこれを牽て往来せり。 頂まで5町余、東は赤津村に属す。 西麓に一里塚あり。 原川 村東2町にあり。 布引山より流れ出て北に流れ山中の諸渓に合て田代川となり、2里30町計流れ東田面村の境内を経て村の東北に至り、小川を得て東に流るる事27町余崎川村の界に入る。 広7間計。 春夏の際鮠(はや)多く湖水より上がれり 小川(こかわ) 小名吉平の山中より流れ出て北に流れ五郎滝(ごらうがたき)となり、村北50間計を過ぎ3里30町余流れ原川に合す。 広3間余。 升滝 端村田代の辰巳(南東)の方1里30町計原川の上流にあり。 高10丈計。 波滝 田代の辰巳(南東)の方1里計にあり。 高15丈。断崖より瀉(そそ)ぐ。 原野 をさなかふし原 端村田代の辰巳(南東)の方29町にあり。 東西50間・南北8町。 関梁 橋3 一は東南2町東田面村に通る路にあり、長5間。 一は端村田代の北9町本村に通る路にあり、長5間。 共に土橋なり。 一は端村高坂の西白川街道にあり、長7間・幅1条、勾欄あり。 共に原川に架す。 水利 舟木橋 村より丑寅(北東)の方19町にあり。 東西30間・南北20間、崎川村の養水とす。 神社 守屋神社 祭神 守屋大連 鎮座 不明 村西3町にあり。 鳥居幣殿拝殿あり 伊勢宮 祭神 伊勢宮? 相殿 山神 鬼渡神 金沢神 境内にあり 神職 丸山主計 其の先は喜膳某と称す。 何の頃神職となりしか詳ならず。 今の主計は5世の孫なりとぞ。 麓山神社 祭神 麓山祇神? 鎮座 不明 村より辰巳(南東)の方22町余にあり。 鳥居あり。修験安楽院司なり。 伊勢宮 祭神 伊勢宮? 相殿 山神 鎮座 不明 端村高坂の北山腰にあり。 鳥居拝殿あり。丸山主計これを司る。 熊野宮 祭神 熊野神? 鎮座 不明 端村田代より4町計、丑寅(北東)の方小山の上にあり。 鳥居あり。赤津村修験真光院司なり。 諏訪神社 祭神 諏訪神? 鎮座 不明 田代より3町余丑寅(北東)の方山麓にあり。 鳥居拝殿あり。眞光院これを司る。 山神社 祭神 山神? 本社の北にあり。 寺院 観音寺 村中にあり。 山號を東海山という。耶麻郡川西組本寺村恵日寺の末山真言宗なり。 開基の始詳ならず。 もと湖浜にあり(今その地を知らず)。 観音の像を安ず。山號寺號これに因るという。 元和5年(1619年)尋音という僧ここに遷せりとぞ。 客殿に弥陀の像を安し本尊とす。 観音堂 境内にあり 古蹟 古碑 村の丑寅(北東)の方9町余、崎川村にゆく道にあり。 高4尺計の野面石に梵字を彫付、その下に許多(あまた)の文字あれども多くは見えず。 徳治三(1308年)戊申の数字ほのかに見ゆるのみ。 またここより2町余北に2基あり。極めて古代の物と見ゆれども文字を弁じ難し。 Google Map黒森峠 守屋神社 鬼渡神社
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/355.html
陸奥国 会津郡 中荒井組 中里(なかさと)村 大日本地誌大系第31巻 46コマ目 府城の西に当り行程1里12町。 家数21軒、東西2町・南北40間。 四方田圃(たんぼ)なり。 東1町58間・北4町46間、共に真渡村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り4町20間余。 西1町8間石原村の界に至る。その村まで1町20間余。 南2町55間下荒井村の界に至る。その村まで9町。 水利 思鑿堰 下荒井村の方より来り、田地の養水とし、真渡村の方に注ぐ。 寺院 徳善院 村中にあり。 山號を延命山という。 大永5年(1525年)の建立にて開基の僧を真観という。 真言宗府下大町一桂院の末寺なり。 本尊観音客殿に安ず。 観音堂 境内にあり。 北会津村誌中里村および白山村 Google Map徳善院 村社中里稲荷神社
https://w.atwiki.jp/tripofpipi/pages/155.html
2012年3月23日 http //hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1332417484/ 213 名前:新座市 ◆Sl25FmDWlY [] 投稿日:2012/03/23(金) 15 42 26.48 ID j5ASpOOM0 [2/11] よしいくぞう 19日 チャリにてピピさんを平林寺へご案内。総門の写真撮り忘れたorz 拝観受付にて心得を読むピピさん http //i.imgur.com/XxctM.jpg 総門をくぐり山門。 http //i.imgur.com/KZEQC.jpg http //i.imgur.com/wtqLC.jpg 続いて仏殿。 http //i.imgur.com/ZcbF8.jpg 215 名前:新座市 ◆Sl25FmDWlY [] 投稿日:2012/03/23(金) 15 51 25.98 ID j5ASpOOM0 [3/11] 鐘楼と、その後ろの桜と梅の花。まだまだ咲かない。 http //i.imgur.com/kpFjN.jpg http //i.imgur.com/btrX0.jpg 境内には大河内松平家廟所と松平信綱の墓が。 撮って良いのか分からなくて写真は撮れず、サーセン。 その付近に折れた桜の木が。こんなになっても咲くってすごい。 http //i.imgur.com/ieZhL.jpg 219 名前:新座市 ◆Sl25FmDWlY [] 投稿日:2012/03/23(金) 16 14 24.18 ID j5ASpOOM0 [4/11] 境内で樹齢500年の巨木を発見。 http //i.imgur.com/TTSKr.jpg どれだけ大きいか、なるべく分かりやすくしたのがこちら。 上の方は見上げて撮ってるので本当はもっと大きいはず! http //i.imgur.com/wQDx5.jpg 平林寺で撮った写真はこれでお終いだけど、桜が満開だったり紅葉の季節はもっと綺麗なんだそうだ。 ピピさんのお土産にポスカを買ったので気になった人は見てくれい。 http //i.imgur.com/CeJX7.jpg 228 名前:新座市 ◆Sl25FmDWlY [] 投稿日:2012/03/23(金) 16 33 11.56 ID j5ASpOOM0 [6/11] で今日23日、かの有名なラーメン屋さん「ぜんや」へ。 脱サラして人気ラーメン屋さんとかすごい。 開店一時間前にピピさんと並ぶ。 http //i.imgur.com/pxKuJ.jpg 開店! http //i.imgur.com/NMT9j.jpg 早めに並んだだけあって開店してすぐにラーメンが! ぜんやラーメン大盛りを頂きます、のピピさん。 http //i.imgur.com/w5OTD.jpg 後にもたくさん人がいらしたので長居は出来なかったけれど、本当に美味しかったです。 その後、アトムが居ると聞き役所近くの観光所へ。 いた! http //i.imgur.com/uUvXn.jpg ついでに市のイメージキャラクターとも。 そんなのが自分の市に居るなんて、おいさん知らなかったよ……。 http //i.imgur.com/i6LZi.jpg ぞうきりんwwwwww 今日までに撮った物はこれにてお終いです。 明日になったらピピさんは南部氏に引き継ぎです。ピピさんありがとう!
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/792.html
陸奥国 大沼郡 野沢組 塩坪(しほつほ)村 大日本地誌大系第33巻 169コマ目 村西4町塩田をいう所より往昔潮出し故名くという。 府城の西北に当り行程5里31町。 家数20軒、東西1町10間・南北50間。 西は揚川に臨み三方は山廻れり。 東西5町51間西羽賀・夏井両村の界に至る。西羽賀村は辰巳(南東)に当り17町30間余、夏井村は東に当り17町30間余。 西13町20間漆窪村の界に至る。その村まで15町30間。 南4町20間池原村の界に至る。その村まで13町10間余。 北24町河井村の山界に至る。その村は丑寅(北東)に当り23町40間余 端村 飱塩(くひしほ) 本村の北16町にあり。 家数3軒、東西40間・南北9間。 山麓に住し西北は揚川に望む。 山川 揚川 村西にあり。 河井村の境内より来り、西に流れ南に折れ端村飱塩の西北を経て戌亥(北西)に転じ漆窪村の界に入る。 境内を流るること1里余。 この川の岸村より9町計に遠面(とほもて)という所あり。土人相伝て昔この所に桜樹ありしが、小野小町ここを過ぎし時 陸奥のうとか(或いは尾止の)櫻と人はは會津のそとのとほもて(或いは十本)の里 と詠しけるという。その桜今はなし。 水利 堤5 一は村東3町にあり。周6町、薙野沢堤(なきのさはつつみ)という。天文23年(1554年)に築く。 一は村より丑(北北東)の方6町にあり。周1町40間、夏井堤(なついつつみ)という慶長9年(1604年)に築く。 一は村より丑(北北東)の方7町にあり。周3町20間、手前新田堤(てあへしんてんつつみ)という。正保元年(1645年)に築く。 一は端村飱塩の北5町にあり。周1町25間、上山堤(うへのやまつつみ)という。承應3年(1654年)に築く。 一は村より丑(北北東)の方7町にあり。周2町50間、覚右衛門堤という。延寶2年(1674年)に築く。 神社 若宮八幡宮 祭神 若宮八幡? 相殿 山神 2座 鬼渡神 御稷神 鎮座 不明 村南にあり。 鳥居あり。野沢本町伊藤対馬が司なり。 稲荷神社 祭神 稲荷神? 勧請 不明 端村飱塩の北1町10間にあり。 鳥居あり。伊藤対馬これを司る。 羽黒神社 祭神 羽黒神? 鎮座 不明 村より未(南南西)の方7町にあり。 鳥居あり。 別当 千手院 本山派の修験なり。夏井村に住す。 正徳3年(1713年)覚辨という者この社の別当となる。今の覚珍は5世の孫なりとぞ。 寺院 龍藏寺 村中にあり。 浄土宗鹽峯山と號す。開基詳ならず。 天正中(1573年~1593年)秀存という僧再興す。 府下徒町願成就寺の末山なり。 本尊弥陀客殿に安ず。 小野小町小野小町塚は利田村の条下を参照 Google Map喰塩地区 若宮八幡神社 龍蔵寺 西谷地神社
https://w.atwiki.jp/lovejinja/pages/44.html
御祭神 主祭神 浅間大神(あさまのおおかみ) 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと) 相殿神 瓊々杵尊(ににぎのみこと) 大山祇神(おおやまづみのかみ) 「日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」と万葉の歌人高橋蟲麻呂が詠んだ清らかで気高く美しい富士山。この霊山を御神体として鎮まりますのは、浅間大神・木花之佐久夜毘売命にまします。 木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の御息女にして大変美しく、天孫瓊々杵尊の皇后となられた御方です。命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち御出産になられました。そして、無事3人の皇子を生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として全国的な崇敬を集めています。 木花という御神名から桜が御神木とされています。境内には500本もの桜樹が奉納されており、春には桜の名所として賑わいます。また、申の日に富士山が現れた故事から神使いは猿といわれています。 ▲このページの先頭へ 起源 「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。 その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となりました。また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。 ▲このページの先頭へ 山宮鎮座 最初に祀られた「山足の地」は、特定の地名を指すのではなく、富士山麓の適所を選んで祭祀を行った事を示すと考えられています。特定の場所に祀られるようになったのは、山宮(現在の鎮座地より北方約6キロ)にお祀りされてから後のことです。山宮は社殿が無く古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の原初形態を残す神社で、祭祀形態の変化をうかがい知ることが出来ます。 社記によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の夷(えびす=賊徒)を征伐するため駿河国(するがのくに)を通られた際、賊徒の野火(野原で四方から火をつけ攻められること)に遭われました。尊は、富士浅間大神を祈念して窮地を脱し、その賊徒を征伐されました。その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝えられています。 ▲このページの先頭へ 大宮遷座(現在地) 大同元年(806)坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座されました。 富士山の神水の湧く地が御神徳を宣揚するのに最もふさわしかった為ではないかと考えられます。 ▲このページの先頭へ 朝廷の崇敬 当大社は、朝廷より篤い尊崇を受けてきました。 延喜の制では名神大社とされ、一宮制では駿河国一宮(するがのくにいちのみや)として勅使の奉幣・神領の寄進を受けました。神階については『文徳実録』に仁寿3年(853)従三位を加うとあるのを初見として、その後順次階位を授けられ、永治元年(1141)には正一位を授与されています。 ▲このページの先頭へ 武家の崇敬 歴代武将の事跡も多数ありますが、中でも特に篤い崇敬を寄せたのは、源頼朝・北条義時・武田信玄勝頼親子・徳川家康でした。 源頼朝公は、建久4年(1193)富士山麓において巻狩りを行った際、当大社に参拝、流鏑馬を奉納されました。現在、流鏑馬祭としてとして伝えられています。そのほか社殿の修復なども行いました。 武田信玄・勝頼親子は当大社を篤く崇敬し、神領の寄進、社殿の修造などを行いました。当大社には、信玄の願状をはじめ武田家奉納の品も多く残っており、崇敬の一端を知ることができます。ちなみに、境内にあるしだれ桜は信玄の寄進とされ、信玄桜と呼ばれて親しまれています。 徳川家康公は、関ヶ原の戦いに勝利した御礼として、本殿・拝殿・楼門をはじめ30余棟を造営し、境内一円を整備しました。現在、本殿・拝殿・楼門等が残っており、本殿は国指定重要文化財、拝殿・楼門は県指定文化財となっています。また、富士山8合目以上を境内地として寄進する等しました。 ▲このページの先頭へ 庶民の信仰 恐ろしい噴火を繰り返す富士山を、鎮め奉る浅間大神への敬慕の念によって信仰され、その頂きは浅間大神の御神域として尊ばれてきました。富士山の噴火が収まるに従い、その敬慕の念が富士登山という形に変化していきました。 平安時代、都良香(みやこのよしか)(834~879)の著した『富士山記』には、富士山頂上の様子が書かれています。 山に神あり。浅間の大神と名づく。この山高く雲表を極むること、幾丈なるをしらず、頂上に平地あり、広さ一里ばかり。その頂の中央窪く下りて、体炊甑の如く、甑の底に神池あり。池中に大石あり。石の体驚奇にして、宛ら蹲虎の如し。亦その甑底を窺へば湯の沸騰するが如く、その遠きにありて望む者は、常に煙火を見る。・・・中略・・・宿雪は春夏も消えず。(原文は漢文) 現在の山頂の状況と似た点が多く、早くから富士登山が行われていたことが分かります。同書には役居士すなわち役小角(えんのおづぬ)が富士山頂を極めたという伝説ものっており、信仰登山の兆しも有りますが、登山はまだ珍しい事であったと思われます。 久安5年(1149)末代上人が、浅間大神の本地仏が大日如来との本地垂迹説により、富士山頂上に大日寺を建てるなどし、富士登山信仰の素地となったと思われます。大日寺は程なく頽廃しましたが、室町時代には修験者による富士登山が盛んになると、再び大日堂・薬師堂などの祀堂が建てられ、崇敬されるようになりました。当大社所蔵の富士曼荼羅図(重要文化財)には、登山の情景が細かく描かれており、その様子を知ることができます。これによっても当時既に信仰登山が盛んに行われ、様式も整ってきていたことが分かります。 戦国時代末から江戸時代初め、長谷川角行が人穴に籠もり、修験とは異なる仙元大日神を信仰する教えを説きました。これは、関東を中心に広がり、江戸時代中期、富士講へと発展していき、富士登山は急激に増えていきました。各地では浅間神社が祀られ、富士塚などをつくって登るなど、独特の信仰も生まれました。 ▲このページの先頭へ 明治以降の大社 明治維新後、神社は国家管理となり、新しい階位が作られ各神社に付与されましたが、当大社は駿河国一宮であったことから、明治4年5月14日に国幣中社、さらに願いによって明治29年7月8日官幣大社に列せられました。第二次世界大戦終戦後、神道指令、宗教法人法の制定により、当大社も宗教法人となり、名称を富士山本宮浅間神社と変更しました。しかし、旧官幣大社は大社と名乗る例が多く、全国千三百余社ある浅間神社の総本宮たるにふさわしい名称とするため、昭和57年3月11日富士山本宮浅間大社と変更しました。 大宮に鎮座し1千2百余年を経た現在、全国1千3百余に及ぶ浅間神社の総本宮、また、駿河国一之宮として、全国的な崇敬をあつめる東海の名社となっています。
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/499.html
宇佐神宮 うさじんぐう 大分県宇佐市にある神社。豊前国の一宮。 全国四万四千社と称する八幡宮の総本宮。 他の神社と違って、二拝四拍手一拝で参拝する。 所在地 大分県宇佐市大字南宇佐2859 料金 境内自由 URL http //www.usajinguu.com/ 地図 本殿 様式:八幡造 国宝 二棟の切妻平入の建物が前後に接続した、八幡造と呼ばれる形式。 手前を外院、奥を内院といい、神様が昼は手前に、夜は奥に移動すると考えられている。 三つ並んでいて、左から応神天皇を祀る一之御殿が725年、比売女大神を祀る二之御殿が733年、神功皇后を祀る三之御殿が823年にそれぞれ建てられた。 関連項目 2005年3月16日 2005年春合宿 八幡神社 名数 歴史的建造物一覧 石清水八幡宮 この項目のタグ 2005年 2005年3月 2005年3月16日 一宮 国宝 大分県 宇佐市 歴史 歴史的建造物 神社 神社建築
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/3192.html
イスラエル、エルサレムの東側にある山。 名前の由来は、その斜面に生息するオリーブだったとか。 『旧約聖書』において、ソロモンが異教の祭壇を築いた場所でもある。 『新約聖書』「マタイによる福音書」で、イエス・キリストがエルサレムの神殿を訪れた後ここで座り、 弟子たちに終末について語っている。 また「ルカによる福音書」によれば、エルサレムに来てその滅亡を予言した後のイエスは、 日中は神殿の境内で教え、夜はこの山で過ごしていたという。 またイスカリオテのユダの裏切りによって拘束される直前にイエスが訪れたゲッセマネもこの山の近く。 「ゲッセマネ」はオリーブから油を搾る圧搾器の意味。 「ルカによる福音書」の最後、イエスが弟子たちと別れ「天に上げられた」とされる場所、ベタニアも オリーブ山の山麓にある場所。 参考文献 『聖書 スタディ版』 聖書スタディ版 改訂版
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/703.html
陸奥国 河沼郡 坂下組 細工名(さいくな)村 大日本地誌大系第33巻 121コマ目 府城の西北に当り行程2里12町。 南北2区に住しその間2町20間余を隔つ。 南を上細工名という。東西40間・南北1町12間、家数7軒。 北を下細工名という。東西38間・南北1町40間、家数16軒。村中に越後街道あり。 共に四方田圃(たんぼ)にて東は鶴沼川に近し。 東14間・南47間、共に塚原村の界に至る。その村は南に当り4町20間余。 西3町30間下茅津村の界に至る。その村まで9町40間。 北7町7間青津組村田村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り7町余。 また 戌(西北西)の方7間海老沢村の界に至る。その村まで8町10間余。 山川 鶴沼川(つるぬまかわ)(大川(おほかわ)) 俗に大川という。下同。 下細工名より5町寅(東北東)の方にあり。 塚原村の境内より来り、7町10間余北に流れ村田村の境内に入る。 水利 富川堰 塚原村の方より来り田地に漑(そそ)ぎ海老沢村の方に注ぐ。 寺院 妙福寺 上細工名の村中にあり。 山號を本光山という。開基の年月を詳にせず。 法華宗府下大町實成寺の末寺なり。 地蔵堂 妙福寺の東にあり。 3間半四面、南向き。 地蔵木佛、長3尺3寸5分。座像なり。運慶作と言伝う。 も村北8町計にあり。慶長19年(1614年)閏2月29日この処に遷れり。 相伝ふ。嘉元の頃(1303年~1306年)實成寺の開山日尊出羽国に趣んとて耶麻郡熊倉村に至りし時、何くともなく小僧1人来て日尊に向い「吾村老若疫に染て病苦に堪ず。願わくは師の法力を假てその苦を濟(すく)わん」という。日尊やがてその請に応じければ小僧日尊が行李(こうり)を肩にし1庵の前に至り禮謝の體をなし忽(たちまち)そのゆく所をしらず。日尊怪て門に入り庵主を見てこれを問う。庵主いい「吾庵に小僧なし。ただ地蔵の霊像のみあり。彼化身なるも測難(しりがたし)」とて共に地蔵堂に詣見れば、果たして日尊が行李を肩にせり。日尊感涙を催し庵主の請に従い木像の背に題目を書し、また石面に妙法蓮華経の5字を題し攘災(じょうさい)の法を修しければ、1村の老若忽その病苦を免れしと(今も堂前に日尊が書しという題目を彫ける石碑あり)。またこの像天文5年(1536年)の洪水(*1)にに漂流して越後国に至りしに、童子多く集まり手車にのせ村送にしてこの村まで送還せしとぞ。その時の童謡もこの辺の兒戯(じぎ)に残れり。 古蹟 館跡 上細工名の村中にあり。 東西36間・南北24間。 葦名盛興の臣谷津土佐(諱を伝えず)という者住し、その後皆川次郎吉村という者住せしという。 Google Map妙福寺 細工名館(さくらとおしろ)
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/1289.html
『日本書紀』において、山幸彦がなくした釣り針を呑んでいた魚を「赤女(あかめ)」としているが、 魚名研究において「アカメ」がヨロイダイあるいはフエフキダイを指す鹿児島県の方言とする報告があり、 またタイが網ではなく一本釣りの対象となる魚である事からも、「アカメ」がタイである可能性が高いという。 また、この神話と九州南部の関係性も推定される。 『彦火火出見尊絵巻』という絵巻が福井県小浜市の明通寺に伝わっている。これは江戸時代の模写だが、 室町時代には同市の新八幡宮に所蔵されていたと言われる。 この新八幡宮は若狭国一の宮・二の宮である若狭彦神社・若狭姫神社の近辺、もしくはその境内に所在していたと推定されている。 若狭彦神社の祭神若狭彦は、彦火火出見尊ともされる。 参考文献 『日本神話の考古学』森浩一 日本神話の考古学 (朝日文庫 も 10-1)