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第四章 1931年9月18日当日及其後に於ける満州に於いて発生せる事件の概要(その2) (その1より続き) 10月初め、嘗て馬占山、萬福麟と同地位を保有し彼等に代わりて黒龍江主席たらんとせしことあるトウ南守備隊長張海鵬は明らかに強力により省政府を奪取するの目的を以てトウ南―昴々渓鉄道に沿い進出を開始せり。支那側参与員提出文書第三号には、進出が日本側の煽動によるものとなし居れるが中立の方面より得たる情報もこの見解を支持し居れり張海鵬軍の進出を防止せんがため馬占山は漱江橋梁の破壊を命じ両軍は広大且沼沢地たる同河流域を隔てて相対峙せり。 トウ昴線は南満州鉄道提供の資本により建設せられ右線路は借款の担保とされ居るを以て南満州鉄道当局は北満よりの農産物運搬の特に必要なる時に当り同線の運輸妨害を続くることは許す可からずと感じたり。在齊々哈爾日本総領事は政府の訓令により10月20日齊々哈爾に到着せる馬占山に対し成るべく早く橋梁の修理をなすべきを求めたるが、右請求には期限は付せざりき。日本当局は交通途絶により張海鵬軍を一定距離外に止め得べきを以て馬占山としては出来得る限り橋梁の修理を遷延するものと信じ居りたり。10月20日、トウ昴線及南満州鉄道使用人の一隊は軍の護衛によらず橋梁破損の観察をなさんとしたることろ、予め黒龍江省軍将校に説明し置きたるに係らず射撃せられたり。之が為め事態悪化したるにより10月28日、在齊々哈爾本庄中将代表者林少佐は11月3日迄に橋梁修理の完成を要求し若し同日迄に実行されざるにおいては南満州鉄道修理員が日本軍保護の下に之に当るべき旨を述べたり。支那当局は期限の延長を求めたるも右要求には何等の回答なく、右修理事業遂行保護の目的をもって日本軍四平街より派遣せられたり。 11月2日迄交渉は進捗せず何等の決定を見ざりき其の日林少佐は馬占山将軍及張海鵬将軍に対して両軍何れも鉄道を作戦上の目的に使用すべからざること及各自の軍隊を河の両側より10kmの地点に撤退せしむべき旨の通牒を手交せり。 右通牒は若し右両将軍の何れかが南満州鉄道会社の技術員の鉄橋修理を妨害するときは日本軍は之を敵軍と見做すべき旨を表明し11月3日より効力を発生することとなり居りたり。而して日本救援隊は其の峡谷の北側なる大興に11月4日迄に到着すべき命令を受け居りたり。中国参与員(第三号文書)在齊々哈爾日本総領事及第二師団の将校は何れも馬占山将軍は中央政府の訓令有る迄彼の独断を以て仮日本軍の要求に応ずべき旨回答越せりとの意見に一致せり。然れども一方日本側の証人は馬将軍が破壊されたる橋梁を迅速に又は有効に修理することを許す意無きことを明白なりしを以て其の誠意を信ぜざりざきと付言したり。11月4日に於いて日本総領事館代表者林少佐中国将校及官吏を含む共同委員会は2度も敵対行為の開始を防止するため橋梁に赴き且中国代表者は日本軍の前進を延期方依頼せり。右要求は容れられず歩兵第十六連隊長濱本大佐は彼の命令通り其の連隊中の一個大隊、野砲兵二個中隊及一個中隊の技術員を率い日本軍の最後通牒条項に従い修理作業開始のため橋梁に前進せり。技術員は花井大尉の指揮の下に11月4日の朝作業を開始し歩兵一個小隊は同日正午迄に二箇の日本国旗を押し立てて大興駅に向かい前進を開始せり。 戦闘は実際においては前記共同委員会が再度努力をなし居りたる最中、即ち11月4日の昼過ぎ中国軍を撤退せしむべく最後の努力を試みたるため再度現場に赴きたる際開始せられたり。発砲の開始せらるるや濱本大佐は彼の部下の頗る苦戦の状況に在るを曉り其の用うべき全兵力を率いて之が救援に赴けり。彼は直ちに全面は沼地なる為め正面攻撃は不可能にして此の苦境を脱するには敵の左翼を包囲攻撃するより他に方法なしと信じたり。仍て彼は其の補充中隊を分派して敵の左翼の占拠せる丘陵を攻撃せしめたるも兵力の寡少なると砲の有効射撃距離迄充分接近せしむることを得ざりしたる黄昏迄には右地点を占領するを得ざりき。丘陵は午後8時30分に占領せられたるも同日は夫れ以上の前進不可能なりき。 関東軍司令部は状況の報告を受くるや直ちに強力なる増援部隊を派遣し歩兵1個大隊はその夜の裡に到着したるを以て同大佐は11月5日未明攻撃を再開するを得たり。数時間後支那軍の第一線に到着せる時においても依然として約七十余挺の自動機関銃及機関銃を以て防禦せる塹壕に拠る頑強なる敵兵に遭遇せることは同大佐自身の委員会に対して陳述せる所なり。彼の攻撃は阻止され中国軍の歩兵、騎兵の包囲逆襲に遭い彼の部隊は多大の損害を蒙りたり。日本軍は已む無く退却し夜に入る迄その陣地を支えるほかなかりき。11月5日より6日に亘る夜間において新に二個大隊到着せるを以て日本軍は苦境を脱するを得、6日中国軍の全線に亘り攻撃を再び開始し、同日正午迄に大興停車場は日本軍の掌中に帰したり。 濱本大佐の使命は橋梁修理援護の為大興駅を占領するに在りたるを以て退却する中国軍を追撃せざりしも日本軍は停車場付近に留まれり。中国参与員は前記第3号文書中に林少佐は11月6日黒龍江省政府に対して新に(1)馬占山将軍は張海鵬将軍のために省主席を辞職すること(2)治安維持委員会を組織すべきことを要求せる旨を主張し居れり。林少佐の是等要求を含める書簡の真贋は聯盟調査委員に呈示せられたり尚右文書は11月7日、日本軍は黒龍江省の回答を待たずして当時大興の北方約20哩の三軒房に駐屯せる同省軍に対して新に攻撃を開始せること及11月8日、林少佐は再応書簡を送り馬占山は張海鵬に代わるため黒龍江省政府主席を辞職すべく之に対しては同日夜半迄に回答すべき旨の要求を繰り返したることを述べ居れり。更に中国側の報告に依れば11月11日、本庄将軍自ら電報を以て馬占山将軍は辞職の上齊々哈爾を撤退すべきこと、日本軍の昴々渓前進の権利有ることを要求し、之に対する回答も同様同日迄に回答すべき旨を要求したり。11月13日、林少佐は第三回要求中に日本軍は昴々渓のみならず齊々哈爾停車場をも占領すべしとの一項を増加せり。馬占山将軍は其の回答中に齊々哈爾停車場はトウ昴鉄道と何等無関係なる旨を指摘せり。 11月14日及15日、日本混成部隊は飛行機四機の援護の下に攻撃を再開せり。11月16日、本庄将軍は馬占山将軍は齊々哈爾の北方に退却すること、中国軍隊は東支鉄道以北に撤退すること、如何なる方法に依るを問わずトウ昴鉄道の交通運輸を阻害せざることを保証すること、是等の要求は同月15日より十日間に実行せらるべきこと、右に対する回答は在哈爾賓日本特務機関に送付すべきことを要求せり。馬占山将軍が右要求を容るるを拒むや多門将軍は11月18日、新に総攻撃を開始せり。馬占山将軍は最初齊々哈爾に退却せるが同地は省政府行政官署を移転せり。現場において指揮せる日本軍諸将の証言に拠れば、右新軍事行動は11月12日以前に於いては開始せられたること無しとの趣なり。当時馬占山将軍は既に麾下軍隊二万を三軒房の西方に集中し黒龍江省屯墾軍及丁超将軍の軍隊も集めたり。益々威嚇的態度を示せる之等大部隊に対して日本軍は天野、長谷部両将軍麾下の二個旅団より成る近々漸く集中せる多門師団のみを以て対抗し得るのみなりき。此の緊張せる事態を救う為11月12日、本庄将軍は全黒龍江省軍は齊々哈爾の北方へ撤退し日本軍をして北進しトウ昴鉄道を守備するを得せしむべき旨を要求せり。11月17日、支那軍が其の騎兵部隊をして日本軍の右側を包囲攻撃せしむるまで日本軍は前進を開始せざりき。多門将軍は委員会に対し彼の部隊は歩兵三千、野砲二十四門より成る小部隊に過ぎざりしも敢えて支那軍を攻撃し11月18日、完全に之を撃滅したる結果、同19日朝、齊々哈爾を占領したりと述べたり。一週間後第二師団は馬占山軍に対抗し齊々哈爾を防守せしむる為天野将軍を歩兵一個連隊、砲兵一個大隊と共に同地に残し原駐地に帰還せり。此の小部隊は後に新に編成せられたる「満州国」軍隊の増援を得たるも吾人が1932年5月、齊々哈爾を訪問せる当時は未だ馬占山将軍の軍隊に対抗し得と認むるを得ざりき。 項中の付属軍事状況地図第三号は、聯盟理事会第一回決議当時に於ける双方の正規軍の配置を示す。当時特に遼河東西及間島地方に出没せる武装解除兵及匪賊に関し叙述せられ居らず双方互いに匪賊を使嗾せる旨を非難し合い居れり。即ち日本側は支那側において満州の失地の秩序を擾乱せんとする動機より之を使嗾すと言い支那側が支那の国土を占領し益々其の軍事行動を拡大すべき口実を発見せんため之を使嗾せりと言う。是等無頼の徒の勢力及其の軍事的価値は頗る漠然活不定なるを以て右軍事状況図解の中に其の重要性の正確なる評価を記入することは不可能なるべし。同地図は東北軍の指揮官が遼寧省の東西地方において著しく強力なる部隊を組織したるを示し居れり。此の部隊は日本軍の最前線に間近き大凌河の右岸に強力なる塹壕陣地を建設するを得たり。斯かる形勢が日本軍当局をして右部隊の正規軍の全兵力は三万五千人或は当時日本が満州に於て有すと認められたる兵力の約二倍なりと評価し、相当の不安を感ぜしめたるは無理からざることならん。 本事変は11月中、天津に於いて惹起せる或事件の結果執られたる行動に依り発生せるなり。紛争の発端に関する報告は非常に相異なり居れり。 11月8日及同26日の再度の擾乱ありたるが事件全体が極めて曖昧なり。「ヘラルド。オフ・エシヤ」所載の日本側の説明に拠れば天津の支那住民が張学良元帥の支持者及其の反対者に分れ後者が11月8日、支那街において武装団体を組織し公安保持当局を攻撃し、政治的示威運動を為したりとの趣なり。右支那人両派間の紛争において日本軍司令官は最初より厳密に中立を守りたるも日本租界付近の支那警衛隊が日本租界に向けて矢鱈に発砲するに至るや已む無く日本側も砲火を開始せり。同司令官は交戦中の支那軍に対し日本租界より300ヤード外に離るべき旨要求せるが事態は緩和せず極度に緊張したるを以て11月11日又は12日、一切の外国軍隊警備を整うに至れり。 天津市政府の陳述は右と頗る異なれり。彼らは日本側が支那人無頼漢及便衣隊を傭いたるものにして是等は支那街に於いて事件を惹起せしむるため日本租界内において軍事行動を為す暴力団に編成せられたりと主張し居り幸いにして警察当局が其の諜報者より此の形勢の報告を受けたるを以て右無秩序なる暴徒が日本租界より闖入するを撃退せるが右暴徒中逮捕されたるものの自白により暴徒は日本租界において編成せられ日本製の銃器及弾薬を以て武装せることを証明するを得と述べ居れり。彼らは9日朝、日本軍司令官が其の部下数名流弾に依り負傷せるに対し抗議し300ヤード外に撤退すべき旨要求せることは認めたるも支那側において右諸条件を受諾せるにも拘らず日本正規軍隊は支那街を装甲自動車を以て攻撃し且砲撃を加えたりと主張し居れり。天津市政府側は11月17日、300ヤード外に撤退することに関する詳細なる付則を有する協定成立せる旨を述べ日本側は協定による義務を履行せざりしため事態は益々悪化せりと主張し居れり。 11月26日、凄まじき爆破聞こえ次いで直ちに大砲機関銃及小銃の発射起こりたり。日本租界の電燈は消され、同租界より便衣隊現れ付近の公安局を襲撃せり。 其の後起こりたる本擾乱に関する「ヘラルド・オブ・エシア」所載の日本側の報告によれば、26日事態頗る好転せるを以て日本義勇隊を解散したる処、同日夕刻支那側は日本兵営に向けて発砲を開始し抗議せるにも拘らず27日正午に至るも発砲を中止せざりしが故に挑戦に応じ支那軍と戦うより他無かりきとあり。戦闘は27日の午後和平交渉開催迄継続せり。其の際、日本側は戦闘の即時停止及支那軍隊並びに警察隊をして外国軍隊の駐屯する凡ての地点より20華里外に撤退すべきことを要求せり。支那側は、その軍隊の撤退に同意するも同地方の外国人の安全に対する唯一の責任者たる警察隊の撤退には肯ぜざりき。日本側の言によれば11月29日、支那軍側より日本租界付近より警察隊を撤退すべき旨申越したるを以て之を容れたるが、支那武装巡警に29日朝撤退し30日防禦工事を除去せる由なり。 26日の天津における緊張せる状態は関東軍参謀をして司令官に対し危機に瀕する天津の小部隊に対して錦州及山海関を経て直ちに増援部隊を派遣すべしと提議せしむるに至れり。単に輸送上の問題としては増援隊を大連を経て海路派遣する方、一層容易且迅速なりしならん。然れども戦略上より考慮せんに右経路によれば前進部隊をして途中錦州付近に集中せる邪魔になる支那軍隊を片付けるを得せしむる利益ありたり。此の経路を執るも支那軍の抵抗は皆無又は殆ど無しと想像し得るを以て左程延着すとは思われざりき。右定義は容れられ、11月27日、一連の装甲列車、二機の飛行機遼河を越え支那国軍の前線を攻撃せるのみにて塹壕に拠る支那軍の撤退を開始せしむるに充分なりき。 装甲自動車隊も、亦陣地を変更せり。日本軍は抵抗のために装甲列車、歩兵列車及砲兵列車の数を増し兵力増強を為すに至れり。又日本軍はしばしば錦州に爆弾を投下せるも天津の事態好転せる報道達するや直ちに出動は本来の目的を失い、11月29日、日本軍隊は新民屯へ撤退し、支那軍をして大いに驚異せしめたり。 当省の天津事件の他の結果は日本租界に居住し居りし前清皇帝が土肥原大佐と会談の後、1月13日旅順より安全なる避難所を求められたることなり。 日本国の撤退せる地方は支那軍に依り再び占領せられ此の事実は広く宣伝せられたり。支那軍の士気稍々昴り、不正規兵及匪賊活動増大せり。彼等は冬期を利用し氷結せる遼河の諸所を渡り奉天付近地方を襲いたり。日本軍当局は現在の位置を維持するにさえも増援軍必要なることを語り是等援軍を以て錦州に支那軍の集合する危険を除かんことを希望するに至れり。 其の間、満州に於ける事態はジュネーブにおいても猶も論争の議題なりき。12月10日の決議を承認したるとき日本代表は「本項第二は日本軍が日本臣民の生命財産を満州各地において跳梁し居れる匪賊及無法なる徒輩の活動に対して直接保護を為すに必要なる行動を執ることを妨ぐる意図に出でたるに非ずとの了解」に基づき受諾するものにして斯かる行動は明らかに「満州に於て頻発し居れる特殊の事態のため必要なる例外的手段」にして同地方が「常態に復す時は不必要となるならん」と声明せり。之に対し支那代表は「紛争当事国に対して事態を拡大すべからずとの命令は満州に於ける現状に依り惹起せる無秩序状態の存在を口実として違反すべからず」と応答し、右討論に列席し居りたる数名の理事は「日本臣民の生命財産に危険を及ぼすが如き事態発生すること有り得べく斯かる緊急の場合には其の付近の日本軍が行動するは已むを得ざるべきこと」を容認したり。 日本将校が本問題に関して委員に対し証言を提供したる際、該将校は常に12月10日の決議は「日本に対し」満州に於て「其の軍隊を維持するの権利を賦与し」若は日本軍をして同地方に於ける馬賊討伐の責に任ぜしめたりと主張せり。爾後の軍事行動を説述するに当り、日本将校は遼河付近において土匪軍に対し叙上権利を行使するに際し同時に錦州付近に残留せる支那軍隊と衝突し其の結果支那軍隊は関内に撤退せられたりと主張す。即ちジュネーブにおいて保留を為したる後日本が其の計画に拠り引続き満州の形勢を処理せんとしたるは事実存す。 齊々哈爾守備隊を除き第2師団は奉天西方に集中せられたり。援軍は相次いで速やかに来着し第八師団の第四旅団は(茲に記載せる日本軍の部隊の番号及兵力は総て日本側の公報に依る)12月10日より15日の間に到着せり。更に12月27日朝鮮より第二十師団司令部並びに一個旅団派遣の御裁可を得たり。又長春並びに吉林は差当り独立鉄道守備隊に依りてのみ保護せられたり。 錦州に対する日本軍進撃が切迫せる為め支那外交部長は、三乃至四個師団が錦州北方及南方に中立地帯維持を保障するの意あるに於いては支那軍隊の関内撤退を提議し以て戦争の進展を阻止せんことを企図したるも、この提議は何等効果を収めざりき。一方北平において張学良と日本代理公使との間に交渉行われたるも之亦諸般の理由に依り失敗に終われり。支那側は其の調書第三号付属書「ホ」中に12月7日、25日、及29日に於ける訪問の度毎に日本代理公使は支那軍隊の退却に関する其の要求を増大し且つ日本軍の抑制に関する其の約束は益曖昧となれりと主張し居れるに対し、他方日本は支那の撤退に関する約束は決して真摯なるものに非ざりしと論難す。 日本軍の集団的攻撃は12月23日を以て開始せられ而シテ支那第19旅団は其の陣地を放棄するの已む無しに至れり。支那軍司令官は総退却の命令を発したるに依り、其の日より日本軍の進撃は整然として行われ殆ど何等抵抗を受けざりき。斯くて錦州は1月3日朝占領せられ、日本軍は山海関即ち長城直下に至るまで進撃を続け、同地に於ける日本守備隊と恒久的接触を遂げたり。 張学良軍の完全なる満州撤退殊に相手に対し殆ど一撃をも加えずして撤退せるは長城以南の内部的情態と関係なかりしものに非ず。相拮抗する諸将領間に幡まれる確執に就きては前章に記述せる所なるが此の確執が当時終息せざりしことを記憶するを要す。 山海関に至る進撃が比較的容易に遂行せられたることは日本をして其の軍隊を原駐地より移動し之を他方面の進撃に使用するを得せしめたり。乃ち従来殆ど戦闘の全局を担当せる第2師団の主力は休養の為め遼陽、奉天並びに長春の駐屯地に復帰したり。一方随所において受くる虞ある馬賊の襲撃に対し保護を加うべき鉄道線路の延長は多数の軍隊使用を必要とせるが、該軍隊は斯くの如き広範なる地域に分駐せしむる為め其の戦闘力は殺減せられたり。第二十師団司令部の隷下に在る二個旅団は此の目的に対し新占領地帯に残留せしめられ、而して第八師団の第四旅団は更に北方に於いて両旅団と連結したり。日本軍憲は此等の守備完全なる地域内においては安寧秩序は速やかに確立せられ而して爾後数週間に馬賊は遼河の両岸において殆ど其の影を潜むるに至れりと確言せり。此の声明は6月に余等に対し為されたるが而も本報告書を記述しつつある際に当り余等は義勇軍が営口並びに海城を盛んに侵攻し奉天及錦州をさえ襲撃せんと威嚇しつつある報道に接したり。 本年初頭に於いて最も紛乱を来たせるは哈爾賓の北方並びに東北地方にして該地方に於いては予て旧吉林及黒龍江政府当局の残存せる追従者が移動したり。該北方地域に於ける支那将領等は北平の本拠と若干の接触を保持し居たりしものの如く、北平より随時或る支援を受けたり。曩に齊々哈爾に対し行われたる如く、哈爾賓進撃は支那両軍間の遭遇戦を以て開始せられたり。1月初旬、熙哈将軍は哈爾賓占領を目的とし北方に遠征軍派遣の準備を為せり。当時、吉林と哈爾賓間には反吉林軍と称せられたる軍隊を率いる丁張、李杜両将軍幡距したり。我々の仮報告書が討議に付せられつつありし際、日本参余員より北平当局の声援だに莫かりせば両当事者間の交渉に依り満足なる条件を設定し得べしとの情報を与えられたり。事実交渉は開始され而して交渉進行中熙哈将軍は麾下の軍隊を率いて双城子に進撃し1月25日、同市を占領せるも翌朝同市南方隣接郊外において激戦を交えるに及んで右進撃は忽ち阻止せられたり。斯くして発生せる形勢は在哈爾賓多数日本居留民並びに鮮人にとり大いに危険なるものと日本人をして思惟せしめたり。蓋し同市隣接地域における多少とも不正規なる二個の支那軍隊の間の戦闘は敗退せる軍隊が同市に向け退却するの結果となりしならん。而して其の結果幾多の惨事を惹起したるべきは支那近世史上多くの実例を見るなり。故に至急救援の要請は関東軍に向け発せられ、日本人の確言する所に拠れば支那証人等すら其の財産の刧掠せらるべきを恐れ此の要請に賛同したりと言う。 此の危急時に当り日本特務機関事務局管理引継ぎの為め26日哈爾賓に派遣せられたる土肥原大佐(現時少将)は委員会に対し同市付近に於ける支那両軍の戦闘は約十日間継続し、而して脅威せららたる地区に主として居住せる四千の日本居留民及哈市郊外普家甸の支那街にありて虐殺の危険に曝され居りたる一千六百の鮮人に付多大の脅威存したりと述べたり。尤も反吉林軍は戦争の続行せられたる10日間、同市を保持せるも日鮮居留民の死傷数は比較的僅少なりき。其の際日本居留民は義勇隊を組織し、同胞の郊外支那街より脱出し来ることを助けたり。同所を脱出せんとするに当り日本人一名、鮮人三名が虐殺されたりと云う。加之此の危急なる形勢偵察の為め派遣せられたる日本軍飛行機中の一機は、機関の故障の為め着陸を余儀なくせられ而して搭乗者は丁張軍の為めに虐殺せられたりと云う。叙上の事件は日本軍憲をして戦闘に干渉するの決意を為さしめるに至り、第二師団は再び危険に瀕せる同胞救助の任務を帯ぶることとなれり。然るに其の際長春以北の鉄道が露支合併たる関係上如何にして軍隊を輸送すべきか、戦闘よりも重要なる問題なりしなり。東支鉄道の南部線における車輌は大いに減少し居たるを以て第二師団司令官は第一着手として僅かに長谷部将軍の率いる歩兵二個大隊を派遣するに決し鉄道当局と交渉を開始せるも該交渉遷延すべしと見るや日本将校は軍隊輸送を強行するに決したり。鉄道当局は之に対し抗議し列車の運転を拒絶したるも、其の反対に拘らず1月28日夜、日本軍憲は三個の軍用列車の仕立てに成功せり。右列車は松花江の第二鉄橋迄北上し、同所において同鉄橋が支那軍により破壊せられたるを発見したり。其の修理は翌29日に行われたるを以て日本軍は30日双城子に達したり。翌払暁、天未だ明けざる時、此の少数の日本軍隊は闇に乗じて来襲せる丁張軍の攻撃する所となり、激戦の結果、支那軍隊は撃退せられたるも、其の日は前進すること能わざりき。此の間、露支鉄道当局は日本軍隊が単に在哈爾賓日本居留民保護の目的を以て前進しつつありとの諒解の下に、東支鉄道に依る日本軍隊輸送を許可する同意したり。是に於いて其の乗車賃は現金を以て支払われ、2月1日、日本軍隊は続々到着し第二師団の主力は2月3日朝、双城子付近に集結せられたり。更に援軍は既説の如く11月19日以来第二師団の一部が駐屯せる齊々哈爾よりも亦招致せられたり。而も哈爾賓齊々哈爾間の鉄道は支那軍の為に破壊せられたるが故に猶幾多の困難を克服せるを要せり。支那軍は又同時に各処に於いて東支鉄道南部線沿線の独立鉄道守備隊を攻撃したり。是れより先、2月3日、今や砲16門を有し其の総兵力一万三千乃至一万四千と算せられたる友吉林軍は同市南方境界に沿いて塹壕陣地を構築したり。同日、第二師団は此の陣地に対し前進を開始し3日夜より4日に至る間に双城子の北方約20哩の南城子河に達し、翌朝戦闘は開始せられたり。4日夕、支那軍陣地の一部は日本軍の占領する所となり越えて5日正午迄に最後の始末を告げたり。哈爾賓は同日正午占領され、支那軍は三姓に向け退却したり。 第二師団の攻撃成功に依り哈爾賓市は日本軍憲の手に帰したるも右攻撃に次ぐに直ちに敗退支那軍の以て追撃を以てせざりし為め全局的には北支の形勢には何等し変化を齎さざりき。哈爾賓北方及東方の鉄道並びに松花江の重要なる水路は依然反吉林軍及馬占山軍の支配に委せられたり。故に占領地域が北に於いては海倫、東に於いては方正、海林地方に拡大せらるる迄援軍の増派、当方並びに北方に向けての遠征軍の反復的派遣及6箇月に亙る戦闘は行われたり。日本側の公表に依れば馬占山軍と合わせる反吉林軍は全く撃破せられたりと伝えらるるも支那側の公報に依れば同軍は今猶存在すと云う。其の戦闘力は減殺せられたりと雖も反吉林軍は絶えず日本軍の行動を妨げ同時に戦場に於ける実際的会戦を回避しつつあり。新聞報道に拠れば東支鉄道東部、西部両支線依然哈爾賓海林間の各所に於いて襲撃を受け破壊せらるるの現状なり。 2月初頭以来の日本軍の行動は次の如く略説するを得べし。 3月末頃第2師団の主力は丁張及李杜の反吉林軍討伐の為め方正方面に向け哈爾賓を出発せり。同師団は三姓地方迄前進したる後4月初旬哈爾賓に帰還せり。此の部隊は約1ヶ月間その主力を以て三姓付近において又その小支隊を以て海林方面に於いて東支鉄道東部線に沿い反吉林軍と不断の戦闘に従いたり。 5月初旬、北満の日本軍は更に第14師団の増援を受けたり。同師団の一支隊は反吉林軍との戦闘に参加し三姓の南方牡丹江渓谷に進出し敵対軍をして吉林省の最北方隅に退却するの余儀なきに至らしめたり。而も5月下旬に開始されたる第14師団の主要行動は哈爾賓の東方地方に行われ馬占山軍攻撃を目的としたり。同師団は呼蘭―海林鉄道に沿いて哈爾賓の北方まで主要なる攻撃を遂行し又小部隊を以て齊々哈爾―克山鉄道の終点たるべき克山より東方に向かいて攻撃をなせり。日本側は8月初旬、馬占山軍は再び有効に撃破せられ且つ馬占山が死亡せる確証を有すと主張するも、支那側は馬占山は今猶生存せりと確言す。此の戦闘に於いては日本より新に到着せる騎兵部隊も亦参加したり。 8月中、数回の小規模なる戦闘は奉天熱河両省の境界主として鉄道に依り熱河に至る唯一の途たる(京奉鉄道の)錦州―北票支線付近に於いて行われたり。支那に於いては此等の戦闘は単に日本分の熱河占領を目的とする一層大規模なる軍事行動の序幕に過ぎずとの危惧広く行なわる。今も猶支那本部と満州に於ける支那軍との間に存する主要交通路は熱河を貫通するを以て、既に満州国領土の一部と主張せらるる熱河省に対する日本軍攻撃の危惧は強ち兵稽の事に非ず。右攻撃の切迫せるは日本新聞の公然論議する所なり。 最近の事件に関し日本参与員が委員会に提出したる日本側の説明は左の如し。 石本と呼ぶ関東軍付官吏は7月17日、支那「義勇軍」の為め熱河省内に於いて北票錦州間に運転せらるる一列車より拉致せられたり。軽砲を有する日本軍の歩兵小部隊は直ちに同氏救出を企てたるも其の目的を達する能わず。其の結果、日本軍は熱河省境の一村落を占領せり。 7月下旬並びに8月中、日本軍の飛行機は熱河の同地方上空を数回飛行し数個の爆弾を投下したるも而も慎重に「諸村落外の無住地域」をば選びたり。次いで8月19日、日本参謀将校1名石本氏釈放交渉のため北票と省境間に位する小都邑南嶺に派遣されたるが少数の歩兵部隊を随へて帰還の途中、同将校は射撃されたるを以て自衛上応戦し他の歩兵部隊の到着と共に南嶺を占領せるが翌日同地を撤退せり。支那参与員は熱河省長湯玉麟の報告中より摘録せるものを委員会に提出せるが右報告は叙上戦闘は遥かに大規模に行われ而して鉄道守備隊の支那兵一個大隊は装甲列車に支持せられたる優秀の日本軍歩兵部隊と交戦したること並びに日本側の謂う所の爆撃は同地方大都邑の一つたる朝陽を目標とせること並びに其の結果、軍隊及住民間に三十名の死傷を出せることを主張す。8月19日、日本軍の攻撃は一装甲列車の南嶺攻撃と共に再び開始されたり。 日本参与員の提供せる情報の末尾に於いて熱河に於ける秩序の維持は「満州国国内政策の一事項たりと雖も日本は満蒙に於ける平和と秩序の維持に関し其の重要なる責務を有するに鑑み同地方の形勢に無関心なる能わず、且つ熱河に於ける如何なる紛乱も直ちに満蒙全体に重大なる反響を惹起すべき」ことを説叙す。 一方、湯玉麟は其の報告の末尾に於いて日本軍の攻撃再開せらるる場合は有効なる抵抗を為すべく、あらゆる可能的方法を採用しつつありと述ぶ。 此等の報告に顧みれば此の地方に於ける戦闘地域の拡大は正に考慮せざるべからざる事項なり。 支那軍の主要部隊は、1931年末、関内に撤退せられたるも日本軍は満州各地において絶えず不規則的なる抵抗に遭遇せり。会て嫩江に於て行われしが如き戦闘は最早起らざりしも戦闘は不断にして且広汎なる地方に亘りて諸所に之を見たり。日本人は現今自己に反抗するあらゆる部隊をば無差別に「匪賊」と称するを常とせり。事実に於いては匪賊の他日本軍隊若しくは「満州国」軍隊に対する組織ある抵抗をなすものに截然たる2種別あり。即ち支那正規軍隊並不正規軍隊是なり。 右両軍隊の兵数を概算するは至難にして、委員一行は依然戦闘に従事しつつある何れの支那将領とも会見するを得ざりしを以て下記情報の確実性に就き留保を為すの必要あり。支那当局は満州に於て今猶日本軍に対する抵抗を持続しつつある軍隊に関する正確なる情報を与えるを欲せざるは当然なり。他方日本当局は自己に抵抗を続けるある軍隊の戦闘価値を最小限度に局量せんとする傾向あり。 旧東北軍の残党は全く吉林黒龍江両省においてのみ之を看る。1931年末、錦州を繞りて行われし軍隊の改編は是等の全ての部隊が其の後関内に撤退せられたるを以て永続せざりき。而も1931年9月以前松花江地方並びに東支鉄道沿線に駐屯せられたる支那正規軍隊は未だ嘗て日本軍と激戦を交えたることなく、従来日本軍隊並に「満州国」軍隊に対し多大の困惑を与え今猶与えつつある奇襲戦を継続す。馬占山、丁張、李杜の三将領は此等軍隊の指揮者として支那全土を通して盛名を博したり。右三将領は曩に北満に於ける護路軍若は駐屯軍の司令たりし旅長なり。恐らく其の麾下に在りし軍隊の大半は各其の指揮者及張学良政府破壊後の支那の主張に忠誠を尽くしたるならん。馬占山の勢力は同将軍が其の忠誠を改変せるを以て容易に測定するを得ず。黒龍江省長として馬占山は省軍隊全部を統率したるが余等に提示せられたる兵数は合計7個旅団を算せり。4月以降彼は日本並びに「満州国」に対し明らかに反対の立場を執れり。呼蘭河、海倫、大平河間に在りて馬占山の有せし兵力は日本当局の概算に依れば六個連隊即ち七千乃至八千なり。丁張並びに李杜は旧張学良軍の六個旅団を支配し且爾来同地方に於いて更に三個旅団を徴募し、仮報告作成当時は其の総兵力を約三万と概算したり。然れども馬占山軍及丁張、李杜軍は4月以来著しく其の兵数を減じ、現今叙上概算数以下に在りと看るは恐らく妥当ならん。 下段に記す如く此等両軍は哈爾賓占領以来日本正規軍の集中攻撃に依り大損害を被れり。現在両軍は日本軍の如何なる行動をも阻む能わずして努めて公然日本軍と会戦するを回避す。日本軍の飛行機を使用するに反し支那軍が全然此の武器を欠如せることは従来支那軍の被りたる損害の大半の原因をなすものなり。 不正規軍を考慮するに当りては丁張李杜軍と協力したる吉林省各種義勇軍を区別すること必要なり。1932年4月29日の調査団仮報告に於いては調査団は第5項に義勇軍なる題下に三種義勇軍及七種の小集団を掲げたるが後者の一つは敦化及萬寶山間にありて丁張李杜軍隊と連絡を保ちつつあるものなり。右集団は之等地域における鉄道及其他交通機関の欠如に依り今尚其地位を保持しつつあり。其の長たる王徳林は各種反満州国軍を集め之を堅く其の支配下に置き居れり。本集団は日本軍(日本軍は敦化以東においては何等活動を示し居らざるが)に比し其の重要さ僅少なるやも知らざるも満州国軍には対抗し得るが如く見え、吉林省の広き地域において其の地位を維保し居れり。 王徳林と連絡を有し間島地方において相当妨害をなせる大刀会の現在の活動については何等確証を得られず。他方、日本軍は大刀会に対し何等重要なる軍事行動を執らざりき。 多数の所謂路軍及他の支那軍を掲記せる日本側の一公式文書、調査団に提出せられたり。右路軍及支那軍は各々2百乃至4百名より成り。右は義勇軍の小単位をなすものなり。之等支那軍の活動区域は奉天及安奉線付近の地区、錦州、奉天、熱河省境、東支鉄道西部線及新民屯奉天間の地方に及ぶ。斯くの如く義勇軍及反吉林軍連合の占拠し居る地域は満州の大部分を含む。 8月中旬奉天近郊、南満州鉄道の南段各地殊に海城及営口において交戦行われたり。数度日本軍は苦戦せるが義勇軍は何れの地においても何等重要なる勝利を得る能わざりき。満州の一般状態が近き将来に於いて何等か変更を見ること予想せらるべきや否やは疑わしきが如きも本報告完成の際には交戦は広汎なる地域に亙り継続せられ居れり。 支那に於けると同様満州に於ても匪賊は常に存在したりき。職業的匪賊は政府の強弱に応じ其数或は大となり或は小となりて東三省の凡ゆる地域に存し、政治的目的の為め各党派に依り用いられたり。支那政府は調査団に対し最近二十年又は三十年の間に日本側の手先が其の政治的目的を遂ぐる為め非常に匪賊を使嗾せる旨述べたる書類を提出せり。右書類には南満州鉄道出版の「1930年に於ける満州開発に関する第2階報告」の一節引用せられあるが右に依れば付属地内においてすら匪賊の数は1906年の9件より1929年の368件に増加したる由なり。上述支那側書類に依れば匪賊は大連及関東州よりの大規模の武器密輸に依り奨励せられたる由。例えば有名なる馬賊頭目蔆印情は去年11月所謂独立自衛軍組織の為武器弾薬其他供給せられたる旨述べられあり。右自衛軍は三人の日本側手先の助力に依り組織せられ且錦州攻撃を目的とせるものなり。右企てが失敗せる後他の匪賊頭目が同様の目的の為日本側の助力を得たるが日本製品の材料と共に支那軍の手に捕われたり。 勿論日本官憲は満州匪賊に関し別種の見方をなし居れり。日本官憲に依れば匪賊の存在は全然支那政府の無能に基づくものなり。日本官憲は又張作霖は或程度迄其領土内に匪賊の存するを支持したりと称す。何となれば張作霖は非常時には匪賊は容易に兵卒に改編せられ得べしと思考したればなり。日本官憲は張学良政府及其の軍の完全なる打倒が大いに満州匪賊数を増加せしめたる事実を肯定する一方日本軍が満州に在る結果、2,3年間に主要匪賊団は掃討せられ得べき旨主張す。日本官憲は満州国警察及各部族に於ける自衛団の組織が匪賊を消滅せしむるに役立つべきことを望み居れり。現在の匪賊の多くは元来良民にして其の財産を凡て失いたる為め現在の職業に投ずるに至れるものと信ぜられ居れり。農工の業を再び営む機会あらば之等匪賊は従前の平和的生活に復帰すべきこと望まれ居れり。 目次
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479 :ひゅうが:2013/11/17(日) 17 25 05 435 436-439の続きです。 ネタ――大陸日本の日露戦争 その8 11、哈爾浜対陣 奉天会戦の結果は、ロシア陸軍に衝撃を与えた。 これまでの戦いの中で日本軍の強さは分かったが、まだ数的優勢を確保したためである、恐れるに足りないという判断があったのだ。 だが、日本側の予想を超えた火力と錬度は、ロシア側からこの時点までに常備兵力の25パーセント近くを削り取っており、これが偶然ではないと思われた。 首脳部からはクロパトキン大将の罷免要求が出たが、これをかばったのは意外にも皇帝ニコライ2世だった。 講和の是非やその条件こそ内閣に一任したものの、ころころと司令官を変えたのならば勝てる戦争にも負けるというその主張には一定の理があった。 折しも、ロシア西部では社会不安が高まっていた。 首都ペテルブルグでも、プレーヴェ蔵相が暗殺未遂にあうなど社会革命党のテロは激しくなりつつあり、かつ、100万もの大軍を極東へ動員したために抑えがゆるんだポーランドならびにウクライナでは大規模なデモやテロが相次いでいた。 ロマノフ王朝の専制のツケが払われたかたちであるが、これには英国情報部と結託した日本陸軍の明石元二郎大佐たちが深くかかわっていた。 彼らは、開戦前夜から欧州でポーランドやウクライナの革命派指導者に接触しており、「一時的に活動を手控えさせた」のである。 さらには彼らを通じて、首都近辺の社会主義者たちに資金提供をするのも忘れない。 この結果、テロに明け暮れたペテルブルグやモスクワの革命党員に対し西方国境地帯周辺は平穏を保ち、ロシア側は大動員で兵力を東へ向けることができた。 だが、それを見計らってウクライナとポーランドの革命集団は蜂起。 首都でもこれに呼号するかのように大規模なゼネストが呼び掛けられはじめたのである。 大軍団を極東に送りつつ、革命鎮圧用にさらに動員を続行。そして負担は大帝国ロシアに重くのしかかり社会不安をさらに増大させる――悪辣極まりない手段であった。 さらに、奉天の敗北によりロシアの戦時国債は暴落。戦費は不足に陥りつつあった。 ロシアは大軍勢をもって日本軍を破り、しかる後に革命を鎮圧するしか進む道がなくなってしまったのである。 話を戻そう。 罷免をまぬがれたクロパトキン大将だったが、中央からの命令により副司令官にそれまで後備のザバイカル方面軍を指揮していた猛将ニコライ・リネウィチ中将を任じることを余儀なくされた。 彼は、猛将といわれるだけあって決戦論者である。 そのためクロパトキンと事あるごとに対立を余儀なくされ、結局は「今年中の決戦」に同意せざるを得なくなってしまった。 それでもまだ救いはあった。 ロシア政府と陸軍中枢をせっついた結果として100万の大軍団がシベリア鉄道に載せられ東進しつつあり、来年1月末にはすべてが現地に到着する予定であったのだ。 これに加え、あらかじめ備蓄が行われていた哈爾浜の巨大な補給基地にはこの大軍団を養えるだけの食糧や武器弾薬が存在していた。 腐ってもロシアは大帝国なのである。 冬が来る前に哈爾浜で日本軍に一撃を加え、そして冬季の間に失った国土(すでにロシアとしてはこういった認識であった)を回復すればよい。 クリミア戦争でも同様な窮地はあった。しかし、ロシアが誇る主力軍団は失われていないのである。 481 :ひゅうが:2013/11/17(日) 17 25 43 一方の日本側では、奉天会戦の結果生じた1万5000の犠牲者とそれに倍する負傷者の数が国内新聞各社に衝撃を与えていた。 彼らにしてみれば、旅順要塞攻防戦は要塞攻防戦でしかたがなく、黒溝台会戦という「間抜けな奴らのミス」で生じた被害は許しがたい(そのため大山元帥宅に三流新聞社が手引きして話題作りのために投石が行われ治安警察法違反で検挙され編集部全員が衆人環視の中引き立てられるという事態も起きている)にしても、勝ちいくさでこれだけの大被害が生じるというのは恐ろしい。 ことに、海外特派員が撮影した機銃陣地へ突撃して全滅したロシア兵とその死体で味方塹壕陣地が埋まり、その中で味方が見るも無残な状態となって死んでいる白兵戦後の写真は世界はもとより日本人にも大きな衝撃を与えていたのだった。 そのため、主戦論とは逆に講和の追求を行うべきという抑制的な世論が盛り上げりつつあったのである。 (註:神の視点から見ると、夢幻会はこの世界では史実とは逆に厭戦感情に対処する羽目になったのであった。) これを受け、ロシア側は「日本側の戦意が失われつつある」と判断。 「より厭戦感情が蔓延するのを待って」哈爾浜前面での「決戦」を決定する。 参加兵員は120万余。 日本側は、牡丹江市方面へ牽制をかける第5軍集団を除き、予備隊すべてを投入したうえで135万ほどであった。 ここまでしてなお、ウラジオストクには「要塞」が構築されており、20万のロシア兵たちが入ったという。 まさに、大陸軍国の意地であった。 この「史上最大の野戦」による動員記録は、第1次大戦における総力戦でも片手で数えられるくらいしか破られることはなかった。 そしてロシア帝国はこれにあわせて10月30日、バルト海のもっとも奥、リバウ軍港からバルト海艦隊を出発させる。 戦艦15 海防戦艦5 装甲巡洋艦5 巡洋艦7 ほか52隻。 ロシア海軍が保有する艦艇の大半、黒海艦隊まで強引に投入して編成された恐るべき大艦隊である。 隻数の上でも開戦時の旅順艦隊の倍以上、やや古い艦が3割ほどを占めるものの、大半は旅順艦隊同様に日清戦争から今日までの日本海軍の軍拡を受けてフランスやドイツに大量発注された軍艦たちだった。 旗艦は、ツェザレウィーチ級戦艦2番艦「リューリク」。同型艦4隻を率いるのは、ニコライ2世の信任も厚いロジェストヴェンスキー大将。副司令官には長距離航海の経験を持つ海軍作戦本部長ステファン・マカロフ大将が志願して乗り込んだ。 公私ともに二人は友人であり、大艦隊の遠征という初の試みにおいてよい潤滑油となるだろうと期待されていた。 ――10月中旬、いつもより早い冬の訪れにより日露両軍主力は、長春・奉天と哈爾浜において越冬準備に入った。 日本側は、来るべき大攻勢を行えるまでに必要な大量の物資を備蓄し、かつ困難な冬季作戦行動の間予想されるロシア側の逆襲をしのぎ切るために。 ロシア側は、恐るべき日本側の大戦力に対抗できるだけの戦力を整えるために。 こうして1904年10月15日の時点で戦線は膠着、自然休戦期間に入ったのであった。 (自然休戦期に日露双方の司令部がメッセージカードを送りあったり、両軍の兵士たちがクリスマス期間中に雪合戦をしたりといった微笑ましいエピソードもあるがそれは省く。) この後3か月ほどの厳しい冬季期間は、「哈爾浜対陣」と呼ばれる。 482 :ひゅうが:2013/11/17(日) 17 26 56 【あとがき】――以上です。 とりあえず1904年中の大規模な戦いはこれで終わりです。
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590 :ナイ神父MK-2:2016/01/17(日) 01 01 44 日蘭世界 日露戦争 開戦まで 日露戦争の開戦の大きな原因は、当時のロシア帝国の軍部が日本の戦力を甘く見たことと朝鮮半島に手を出してきたことが 原因として挙げられる。日清戦争後、不凍港を求めたロシアは南に勢力を拡大し旅順や哈爾浜などを始め清国の領土を 手に入れていた、しかし徐々に朝鮮半島にもその領土欲を向け始め日本との対立の大きな原因にもなった。また、海路に 置いても北海道周辺や日本海沖で度々漁船等を威嚇・酷い時には拿捕を行い始め、更なる日本の姿勢硬化を招いたとされている。 しかし、この状況になってもロシア軍部は戦争でダメージを負った日本は動かないだろうし、オランダも保護国について一々構いは しないだろうと考えていた。だが、朝鮮半島という日本に対して突きつけられた短刀を奪われるという危機感は相当に大きい物であり さらに同盟国である日本に欧州の手が伸びることを恐れたオランダは早期に行動に移していた。 オランダでは、日露の状況が安定するまでの戦闘艦の海峡通過を禁止し日本では主力戦艦の本土回航が行われていた、しかしその最中で ハワイ事変が発生し米露に対する両面作戦を行うことを恐れた日本は、米国に対する処理を早々に済ませて戦艦メインを本土に回航して 戦力増強を図っている。そして、1904年日本はロシア帝国に宣戦を布告当初は開戦は無いと言う軍部の言葉を信じていた皇帝も この事態には関係者ほ呼び出して怒鳴ったといわれているが、既に始った物は止められずこうして日露戦争の幕は上がることとなる。 両国の戦略 ロシア軍としては当初、開戦した場合はヨーロッパより艦隊を太平洋へ回し、日本海軍を撃滅する積りでいたがオランダの海峡封鎖により 開戦前にその策は意味を失った。また、当時の太平洋艦隊の能力では日本が所有していた艦隊と対等に戦うには戦力が足りず、まともに戦えば 大打撃を受けることが予想されたいた、そこでロシアが取った作戦は上陸してきた日本に対する哈爾浜での撃退と旅順要塞での篭城戦術である。 さらに、当時日本が整備していた飛行艦隊を真似て飛行船を利用した空中艦隊を編成して、日本を爆撃するという物である。 それに対しての日本は、朝鮮を経由して旅順を制圧その後後方の安全を確保した上で哈爾浜へ進行を拡大するといって作戦を立ていた、また、 投入が予想される敵空中艦隊については新たに建造された33式硬式飛行船(LZ112相当)を旗艦とした空中艦隊で対抗する取った物であったとされている。 日本海空戦 日本が大連に上陸する前、旅順要塞からは複数の飛行艦隊が日本へ向けて出撃した。コレを確認した日本でも空中艦隊が出撃、世界初の空中艦隊同士の 初めての艦隊決戦はこうして幕を開ける。しかし、この艦隊戦は終始日本がリードすることとなる。元々ロシア側が想定していたのは相手も装備しているであろう 機関銃による射撃戦だったのだが、日本が持ち出してきたのは火中車であった。対地攻撃用とは言え元々はロケット弾であり、命中すれば飛行船を一撃で 仕留めることすら可能となるこの兵器の使用により、ロシア側の飛行船は回避不可能な一撃の下に次々に海面に叩きつけられていった。更に運の無いことに 日本とロシアの飛行船では元の限界高度にも大きな差が出ており、それが仇となって上空から一方的に火力を叩きつけられた飛行船たちは結局一隻も日本の 大地を見る事無く消えていくことと成る。 591 :ナイ神父MK-2:2016/01/17(日) 01 02 14 旅順要塞攻略戦 旅順要塞は元々清国が建造され、ロシアが満州などを手に入れる際に同時に獲得して強固な堡塁を増設更に機関銃などを初めとした兵器で大幅に強化されていた そんな強固な要塞に対して日本がとった戦法は余りにシンプルだったと言って良い、その方法とは圧倒的な火力により攻撃である。その為に用意されたのは 74門(内訳は80cm砲4門、41cm砲30門、36cm砲40門である)もの列車砲と数えることが億劫に成るほどの迫撃砲を初めとした火砲であった。中でも観戦武官たちを 驚愕させたのは元は自国に匹敵する要塞都市や強固な防衛拠点対して有効打を与える為に開発が計画されていた80cm列車砲であり、郵送部隊や運用部隊を用意して現地で組み立 てられたこの巨砲は全長50m近い巨体も相俟って見るものを圧倒した。 攻撃が開始される前から心理的な圧迫を掛ける巨大列車砲であるが、実際の攻撃でも遺憾なくその火力を発揮した。本来は強固な防衛能力を持った堡塁や永久砲台は 容易くその防壁ごと吹き飛ばされ、偶々地面に命中した際は幅10mものクレーターを作ったといわれている。また、用意されていた専用のべトン弾の前には 要塞の壁など無いも同じであり、立てこもる兵士たちは恐怖日々をすごしていた。勿論、ロシア軍側も指を咥えて見ていた訳ではなく反撃を試みるが、反撃の倍近い 砲弾が打ち返された沈黙するという有様であり、観戦武官からは「どちらが要塞か解からない」と言われることと成る。そして更なる悲劇は旅順内に居た太平洋 艦隊であった。元々戦力的な不利から要塞内にいた艦隊にも陸の列車砲からの砲撃を受けて出向する前に大打撃を受ける艦が続出し、危険を感じて脱出した艦も その全てが包囲していた日本艦隊により撃沈又は鹵獲される運命を辿った。 こうして、僅か一ヶ月で堅牢な要塞だった筈の旅順要塞は陥落し、日本の実力を欧米各国に見せ付けることとなる。 哈爾浜の陸戦 旅順要塞の余りにも早い陥落はロシア軍の上層部に日本の北京で見せたあの火力が見せ掛けでないことを証明するには十分な結果であった。この敗北でロシア軍は日本を 物量で押し潰す作戦に切り替え決戦の地を哈爾浜に定めた、一方の日本軍もロシアが次は野戦を仕掛けてくると予想し、戦力として新たにガントラックやバイクで自動車化 した部隊を約10個師団投入して決戦に臨んだ。 圧倒的な砲撃力を持つ列車砲部隊と高い機動力を持つ自動車化部隊の連携は、未だ中世に近い戦争を想定していたロシア軍を驚愕させ、混乱させるには十分すぎるほどの効果を 発揮し、包囲と大火力の集中により降伏までに膨大な死者を出している。また、観戦武官からは見えない位置では通信機を背負った通信兵がバイクで移動し部隊の正確な情報を本部に伝え 迅速な行動を実現していた。そして、この戦いでは表に出ることは無かったがロシア軍が万一塹壕戦術を駆使してきた場合に備え初期型の戦車を用意していたことが明らかになるのは 20c後半に入ってからのことである。 停戦 哈爾浜の大規模な陸戦によりロシア軍は大打撃を受け、その回復には相当な年月が掛かると予想がされた、一方態々欧州方面まで攻める積りのなった日本軍も妥協線を探していた。 その後の、ロシア内部での反乱の危険性が高まったことでロシアが求める形で講和が行われ、翌月オランダ領インドネシアにてオランダ仲裁の元講和会議が行われ正式に講和が 成立している。その後条約にて一旦ロシアが手に入れた地は清に返還されるも、露清間での交渉により再獲得が行われている。また、講和ごは比較的早い段階で通商が再開し、 、またロイヤルファミリー同士の交流も進むことによって日露の関係は早期に修復されていくこととなり、これがロシア革命時のニコライ皇帝家族の救助やOCUへの加入に繋がって いく。
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翼龍的藏寶庫 任務探索時間 任務內容詳細 [#s385d2a6] 翼龍的藏寶庫 貪心的龍將其翅膀下所有財寶聚集在此。因牠的貪婪而犧牲的靈魂們現在也仍在財寶周圍飄盪。 任務探索AP ♡6 任務實行AP ♡6,BOSS♡9 任務Lv 一般任務Lv0、Lv15、Lv20,龍的寶物庫Lv0,BOSS地圖Lv30 任務達成度 +1 BOSS出現達成度 70 出現道具 白色石楠1,抽獎券鐵幣,銅幣,銀幣,白金幣,記憶的碎片,時間的碎片,靈魂的碎片 出現角色卡 阿貝爾,利恩,佛羅倫斯 出現怪物卡 M1:妖蛇、初生龍M2:幼龍M3:飛龍 出現事件卡 劍2,劍3,劍4,防禦2,移動1 ※以下時間表僅供參考,並非絕對。若您搜索到未在表上的資料,可於下方留言區回報。感謝您的提供。 任務探索時間 任務名稱 ☆ 0分 3分 10分 30分 1小時 2小時 4小時 8小時 16小時 1天 3天 敘述 翼龍的寶物庫1 ☆6 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 貪心的龍將所有財寶聚集在其雙翼之下。 翼龍的寶物庫2 ☆6 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 翼龍的寶物庫3 ☆7 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 龍人的雕像1 ☆1 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 位於寶物庫入口的龍人雕像。 龍人的雕像2 ☆1 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 龍人的雕像3 ☆2 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 龍尾道路1 ☆2 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 作成龍尾形狀的神祕通道。 龍尾道路2 ☆2 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 龍尾道路3 ☆3 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 虛假的財寶1 ☆3 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 捕捉想要竊取財寶之小偷的偽裝陷阱。 虛假的財寶2 ☆3 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 虛假的財寶3 ☆4 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 結冰的台地1 ☆4 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 建造於不受日光照射環境中的冰之台地。 結冰的台地2 ☆4 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 結冰的台地3 ☆5 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 龍的巢窟1 ☆5 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 飛龍於日常飛行往來的巨大洞窟。 龍的巢窟2 ☆5 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 龍的巢窟3 ☆6 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 暴風之眼1 ☆6 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 完全無風的天然遺跡。 暴風之眼2 ☆6 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 暴風之眼3 ☆7 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 飛龍王的休息地1 ☆8 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 據說是飛龍王居所的暴風不斷之休息地。 飛龍王的休息地2 ☆8 ○ ○ ○ 飛龍王的休息地3 ☆9 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 飛龍王的休息地4 ☆10 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 飛龍王的休息地5 ☆9 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 飛龍王的休息地6 ☆8 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 龍的寶物庫1 ☆10 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 藏有寶藏的地圖。 龍的寶物庫2 ☆10 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 龍的寶物庫3 ☆10 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 大陸的飛龍王1(BOSS) ☆8 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 吐息造就了風之大陸的千年飛龍王。 大陸的飛龍王2(BOSS) ☆9 ○ ○ ○ ○ 大陸的飛龍王3(BOSS) ☆10 ○ ○ ○ ○ ○ 任務內容詳細 任務名稱 第一階 第二階 第三階 第四階 第五階 備註 翼龍的寶物庫1 M2機械兵(紅) 右 M2食人白魔中 M2幼龍左 M2半龍 (GOAL)M1龍人↑HighLow HighLow 翼龍的寶物庫2 M2機械兵(紅)↑50Gem 右 M2幼龍中 M2半龍左 M2食人白魔 (GOAL)M2半龍↑HighLow HighLow 翼龍的寶物庫3 M3機械兵(藍)↑綠箱(劍4) 右 M2半龍中 M2食人白魔左 M2幼龍 右 M3屍龍中 M3屍龍左 M3屍龍 (GOAL)M3屍龍↑HighLow 劍4HighLow 龍人的雕像1 M1龍人 右 M1透明布↑30Gem中 M1咒怨劍左 M1巴風特 (GOAL)M2黃昏夢魔 龍人的雕像2 M1龍人 右 M1透明布↑30Gem中 M1巴風特↑30Gem左 M1咒怨劍 (GOAL)M1斬影夢魔 龍人的雕像3 M1龍人 右 M1巴風特↑綠箱(移動1)中 M1咒怨劍左 M2邪氣布 (GOAL)M2黃昏夢魔 移動1 龍尾道路1 M1哈爾庇厄 右 M1夜光鳥中 M1妖花左 M1妖蛇 右 M1毒鼠中 M1炎鬼左 M1骸骨兵 (GOAL)M2半龍 龍尾道路2 M2賽蓮 右 M1夜光鳥↑30Gem中 M2妖魔草左 M2海蛆 右 M1毒鼠中 M1炎鬼↑30Gem左 M1骸骨兵 (GOAL)M2半龍 龍尾道路3 M2賽蓮 右 M1夜光鳥↑綠箱(防禦2)中 M1妖花左 M1妖蛇↑紅箱(妖蛇) 右 M1炎鬼左 M2骸骨劍士 (GOAL)M2半龍 防禦2妖蛇 虛假的財寶1 右 M2吸魂劍↑50Gem中 M2黑山羊左 M2半龍 右 M1白蜘蛛中 M1白蜘蛛 (GOAL)50Gem 虛假的財寶2 M2鋼鐵蜘蛛 右 M2吸魂劍中 M2半龍左 M2黑山羊↑50Gem (GOAL)50Gem 虛假的財寶3 右 M2半龍左 M2黑山羊↑50Gem 右 M2鋼鐵蜘蛛中 M2鋼鐵蜘蛛左 M2鋼鐵蜘蛛 (GOAL)50Gem 結冰的台地1 右 M1妖花中 M1哈爾庇厄左 M2迷彩偵察機 (GOAL)M2幼龍 結冰的台地2 150Gem 右 M1妖花↑50Gem中 M2賽蓮左 M1魯比歐那偵察機 M2幼龍 結冰的台地3 150Gem 右 M2妖魔草中 M1哈爾庇厄左 M2迷彩偵察機 右 M1哈爾庇厄左 M1哈爾庇厄 (GOAL)M2幼龍↑50Gem 龍的巢窟1 M1龍人 右 M2半龍左 M1初生龍 右 M2幼龍中 M1初生龍左 M1龍人 (GOAL)M3飛龍 龍的巢窟2 M1龍人 右 M1初生龍↑30Gem左 M2幼龍 右 M1初生龍中 M1龍人左 M2幼龍 (GOAL)M3飛龍↑100Gem 龍的巢窟3 M1龍人 右 M2半龍左 M1初生龍↑30Gem 右 M1龍人中 M2幼龍左 M1初生龍 (GOAL)M3飛龍↑HighLow HighLow 暴風之眼1 M3百鬼蜘蛛 右 M1白魔左 M2食人白魔 M1機械兵 (GOAL)M2迷彩偵察機 暴風之眼2 M3百鬼蜘蛛 右 100Gem左 M2食人白魔 右 M2機械兵(紅)左 M1機械兵 (GOAL)M2迷彩偵察機 暴風之眼3 M1白蜘蛛↑30Gem 右 M1白魔左 100Gem 右 M2機械兵(紅)↑綠箱(劍3)左 M1機械兵↑綠箱(劍2) (GOAL)M2迷彩偵察機↑50Gem 劍3劍2 飛龍王的休息地1 M1炎鬼 右 M2半龍左 M2妖魔草 (GOAL)M3飛龍 飛龍王的休息地2 M1炎鬼↑30Gem 右 M2海蛆左 M2半龍 (GOAL)M3飛龍↑100Gem 飛龍王的休息地3 M1炎鬼↑30Gem 右 M2半龍中 M2海蛆↑50Gem左 M2妖魔草↑50Gem M2幼龍 (GOAL)M3飛龍↑100Gem 飛龍王的休息地4 M1炎鬼 右 M2半龍左 M2妖魔草 (GOAL)L3佛羅倫斯↑紅箱(佛羅倫斯) 佛羅倫斯 飛龍王的休息地5 M1炎鬼↑30Gem 右 L4利恩↑紅箱(L2利恩)左 M2半龍 (GOAL)L2帕茉↑藍箱(精靈之藥) 利恩精靈之藥 飛龍王的休息地6 M1炎鬼↑30Gem 右 M2半龍中 M2海蛆↑50Gem左 M2妖魔草↑50Gem L1布列依斯↑藍箱(白色石楠1) (GOAL)L1阿修羅↑藍箱(白色石楠1) 白色石楠1 龍的寶物庫1 紅箱(鐵幣) 右 紅箱(鐵幣)左 紅箱(鐵幣) 右 紅箱(記憶的碎片)左 紅箱(鐵幣) (GOAL)紅箱(銅幣) 鐵幣記憶的碎片銅幣 龍的寶物庫2 紅箱(銅幣) 右 紅箱(銅幣)左 紅箱(銅幣) 右 紅箱(時間的碎片)左 紅箱(銅幣) (GOAL)紅箱(白金幣) 銅幣時間的碎片白金幣 龍的寶物庫3 紅箱(銀幣) 右 紅箱(靈魂的碎片)左 紅箱(銀幣) (GOAL)藍箱(抽獎卷) 銀幣靈魂的碎片抽獎券 大陸的飛龍王1(BOSS) M1龍人 右 M3屍龍中 M1初生龍↑30Gem左 M2幼龍 右 M1初生龍左 M2賽蓮 右 M1魯比歐那偵察機中 M1妖花左 M2食人白魔 (GOAL)M3飛龍M10飛龍王梅爾基努↑紅箱(初生龍) 初生龍 大陸的飛龍王2(BOSS) M1龍人↑30Gem 右 M3屍龍中 M1初生龍↑30Gem左 M1初生龍↑30Gem 右 M1初生龍中 M1龍人↑30Gem左 M2賽蓮 (GOAL)M3飛龍M10飛龍王梅爾基努↑紅箱(幼龍) 幼龍 大陸的飛龍王3(BOSS) M1初生龍 右 M3屍龍中 M1初生龍↑30Gem左 M1初生龍↑30Gem 右 M2幼龍中 M1龍人↑30Gem左 M2賽蓮 (GOAL)M3飛龍M10飛龍王梅爾基努↑紅箱(飛龍) 飛龍 怪物使用事件卡組合: ※ 「大陸的飛龍王」M3飛龍,M10飛龍王梅爾基努 劍8 x2,槍8 x2,移動3 x3,機會2 x1,機會3 x2,機會5 x2,回復2 x3,聖水 x2,詛咒5 x1 大陸的飛龍王2地圖有誤哦 - 名無しさん 2015-08-16 14 37 08 肉搜8hr,出了3個 - 名無しさん 2016-01-08 12 56 47 求佛羅倫斯 - 名無しさん 2016-01-24 21 11 01 搜三天八次 沒有半張抽獎券? - 名無しさん 2016-12-02 03 10 03 更新 搜3天24次沒半張 - 名無しさん 2016-12-02 17 20 46 idEVERYFROG - 求大陸的飛龍王2 3 2017-04-02 11 18 11 一直搜到「翼龍的寶物庫3 」 如果都少了第一字該有多好 - 名無しさん 2017-05-21 12 07 20 送 大陸的飛龍王2 (ID 小徨蜂 - 名無しさん 2017-06-17 13 40 19 idEVERYFROG 求大陸的飛龍王2已加 - 名無しさん 2017-06-19 02 23 06 idEVERYFROG的朋友 我是要送飛龍的那位 有空記得看我發的訊息呦!! - 名無しさん 2017-06-20 18 22 30 名前
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559 :ひゅうが:2013/11/17(日) 20 38 38 486-487の 続きです。 ネタ――大陸日本の日露戦争 その10 13、哈爾浜決戦 【艦隊大遠征】 1904年10月21日、北海洋上のドッガーバンク(浅瀬)において、出航したばかりのロシア第2・第3太平洋艦隊(以後バルチック艦隊と呼称)が操業中の漁船を日本の水雷艇と誤認し砲撃するというドッガーバンク事件が発生。 勇戦する日本への同情論が出始めていた英国の朝野は激昂し、英国海軍はジブラルタル海峡前面においてバルチック艦隊の阻止行動をとることを宣言。 英仏協議によって、スエズ運河の通航の可否について議論が白熱した。 バルチック艦隊は英国の妨害を予期して余分に石炭を積み込んでいたため、針路を南にとりアフリカ沿岸のフランス領へ寄港しつつ太平洋を目指すことになる。 それは、予定されていた翌年2月の哈爾浜決戦に艦隊が間に合わないことを意味していた。 バルチック艦隊のお粗末な顛末もあって欧州諸国に疑念が深まる現状は将兵に一時的にではあるが深刻な士気への影響を与えた。 しかし、副司令官のマカロフ中将は艦内のレクリエーションを積極的に企画し、上陸ができないフランス植民地などの沖合でスポーツ大会や、軍紀すれすれの賭け事まがいの「ゲーム」で士気を良好に保つことに成功していた。 この後、バルチック艦隊はマダガスカル沖で長期にわたってウラジオストク突入の日時を定めるロシア政府からの指令を待つことになるが、フランス側の黙認をもって密かに上陸したり(それがレクリエーションの商品ともなった)、時には実弾演習を行うなどして錬度を維持していた。 よくいわれるように、日本海に突入したときにすでに士気が崩壊していたというのは誤りである。 日本側は、英国の協力によってこれらの情報を把握しつつ、哈爾浜での決戦を急ぐことになる。 【決戦前】 年が明けて1905年1月、いわゆるクリスマス休戦の期間が終了した時点で日露両軍は盛んな索敵行動を開始した。 中には挑発ににた行動もあり、とくに牡丹江市前面ではさかんに騎兵による牽制が続いていた。 クロパトキン大将は日本側の攻撃目標が哈爾浜であると確信していたものの、ロシア陸軍内部では意見が分かれており、ついにウラジオストク方面の20万名を哈爾浜に配備することはできなかった。 だが副司令官のリネウィチ中将の努力もあり、兵の質自体は良好なものを揃えることができている。 とりわけ、欧州から送り込まれてきたドイツ製28センチ榴弾砲は日本軍のそれ同様に大きな成果を上げるはずであった。 また、火砲も改造され迫撃砲的な運用ができるようになっている。 火砲を戦場の神というロシアならではだといえるだろう。 特筆すべきなのは、ロシア全土から集められたとさえいわれる機関銃の数である。 232丁。 それは、旅順要塞に配備されていたものの1.5倍にも達する。 塹壕線を構築できれば、日本軍の突撃を受け流せると彼らは考えていた。 動員されたのは、ドイツ前面に配置されている主力部隊 ポーランド軍団、豊かな穀倉地帯ゆえに30万もの数を誇るウクライナ軍団、ウラル軍団、カザフ軍団、コーカサス軍団、そして、中央軍からバルト軍団とモスクワ軍団。 合計135万名。 広大なロシアの第一線から引き抜けるだけの戦力を引き抜いたようなものであった。 一方の日本側は、第1から第5軍集団まですべてを投入。 後方には、予備第3軍団および予備第4軍団が沿海州方面への陽動を行っており、警備用に予備第5軍団が遼陽に展開。 臨時動員された予備第6軍団と第13方面軍の残存部隊は遼東半島から鴨緑江にかけてゲリラ戦を警戒している。 第1線に150万名、後方にさらに50万が形だけとはいえ動員されていた。 今回の決戦兵力が敗北すれば、日本陸軍は一気に遼東半島まで後退を余儀なくされることだろう。 そして、日本本土に残るのは老齢な後方後備役部隊のみ。 海軍力がほぼ無傷であるのが救いであったが、彼らがいなくなれば日本は両手を上げるか、なりふり構わぬ動員を用いての日本本土決戦を余儀なくされたことだろう。 そして未だ寒さが厳しい2月15日、吹雪の中で日本陸軍は行動を開始する。 560 :ひゅうが:2013/11/17(日) 20 39 13 【決戦】 2月15日、奉天で越冬を終えた満州総軍主力部隊は、兵站部隊に見送られて進軍を開始。 同時に、長春を発した先遣隊は騎兵による掃討戦を実施しつつ北上を開始する。 この動きを見たロシア極東軍は、哈爾浜越冬地を引き払い、構築が図られていた陣地へと移動。 砲兵の配置を開始する。 また、ハバロフスクに配されていた予備部隊をも召集し、「決戦」の準備を開始したのである。 2月26日、日本側第1軍集団先鋒は哈爾浜前面に到達。 同日夜半前には第2・第3軍集団が戦場に到達し、翌日までに第4・第5軍集団も現地に到着した。 凍結した大地のために野戦築城が難しいと予想していたロシア側の期待を裏切り、日本側は蒸気建機を用いて野戦陣地を構築。 後方ではもはやおなじみとなる工鉄兵団による砲兵陣地構築がなされた。 互いの戦力は互角。 2月28日には両軍は正面から対峙し、睨みあいが開始された。 そして――3月1日、日本側による事前射撃により、会戦は開始された。 事前砲撃は、実に12時間も継続。 中に混ぜられた徹甲榴弾や榴弾によってロシア側陣地に甚大な被害が生じる。 「奴らの鉄量は無限か!?」 クロパトキン大将はそう絶句したという。 そして、最後の1時間はこれに大量のロケット弾が続く。 砲煙が晴れた時、ロシア側は絶句した。 そこには、至近距離にまで接近している日本側主力部隊が存在したのである。 日本側は、ロシア側に砲撃を加えるかたわらで陣形を整え、なおかつ接近し突撃するという一つ間違えれば戦線崩壊寸前の行動に出ていたのだ。 陣形は、「矢」。 Δの形でロシア側正面陣地を食い破ろうとする第1軍集団を先頭に、同様の陣形がピラミッドのように一段後方には2つ、その後ろには3つ、さらに後方には小さなものが無数にある。 側面からの攻撃を加えようとしたロシア軍右翼は、上空に舞う飛行船からの無線通報によって目標を変更した重砲群によりアウトレンジされ、あろうことか軍集団の外郭に配置されたロケット砲により行き足を止められた。 騎兵による接近を試みれば、これも機関銃によって薙ぎ払われる。 そして、同日午後3時、ロシア側中央部の前線陣地に日本側第1軍集団が接触した。 ここぞとばかりに機関銃射撃が開始され、砲撃もこのあとに加わる。 だが日本側はおかまいなしに進撃を継続。 ともかくも前へ前へ進もうとする日本側は、突撃に火砲が随伴し直接水平射撃を加えてまで前線陣地を突破していった。 しかし、そこにはロシア側の第2段陣地が待ち構えている。 と、第1軍集団の行き足が止まった。ゆっくりと左右へ分かれつつ先端中央部がつぶれてゆくのを見てクロパトキン大将は衝撃力が失われたと思ったという。 だが、そうではなかった。 第3段で待機していた第4軍集団が第2段の間を抜け、そして第1軍集団の中央部からまるで種から芽が出るかのように出現したのだ。 第1軍集団の損耗部隊はその間に後方で再編成し第3段へ下がった。その間に第4軍集団は元気いっぱいで突入を継続するのである。 3月2日午前3時、第4軍集団はロシア側第2次防衛線を突破、第3次防衛線の半ばまで至る。 3月3日未明、第4軍集団の衝力が鈍る。すると、さらに続いて第2軍集団が出現。 さらなる攻撃を実施した。 この間、第3段後方へ回り込もうとするロシア軍部隊に対し、後方へ下がった第1軍集団部隊が阻止戦闘を継続。 互いに騎兵部隊を出しての殴り合いが継続された。 もちろん、支援砲撃によって部隊が大隊単位で吹き飛ぶのも変わらない。 562 :ひゅうが:2013/11/17(日) 20 39 47 「まるでスチームローラーだ!」 クロパトキン大将はそう叫んだという。 3月4日午前6時、第2軍集団に続き、満を持して第3軍集団が前線に到達。 先鋒を勇猛極まりない第6軍(熊本)と第7軍(札幌)としたこの攻撃は、開始と同時に先鋒からわずか300メートルの距離に35式列車砲8門が一斉集中射撃が行われたこともあってロシア側の士気をへし折った。 「奴らは死ぬのが怖くないのか!?」 副司令官であるリネウィチ中将が叫んだのとほぼ同じころ、中央部を支えるため臨時に投入されていたカザフ軍団が士気崩壊。 半分敵前逃亡となるような避退機動をとった。 これをみてとった満州総軍司令部は全軍一斉前進を下命。 それまで両翼への阻止戦闘を行っていた後方第3段部隊(第4軍集団および第2軍集団)も一斉にこの脆弱点に殺到した。 再び起きた一斉射撃の後、ロシア軍が見たのは、中央部に大穴を穿たれ、まるで串刺しのようになった味方部隊の姿だった。 そして気が付けば、奇妙に動きが鈍重であった日本側騎兵、「秋山騎兵軍団」は大軍の中央を通る幅200メートルあまりの進撃路を通じてロシア軍の後方へ進出。 それに続いて予備部隊となっていた「第1予備軍団」、通称「梅沢軍団」が予備役兵とは思えぬ速度で喚声を上げながらこのルートを突撃した。 ロシア側による阻止砲撃にもかかわらずこの進撃は成功。 南側から地図を見れば、まるで噴水の水が左右に分かれて空気を包み込み落ちていくかのように満州総軍はロシア軍の中央を分断突破し、後方に展開していた。 ロシア側は、日本側の突破に対し防衛線等を行おうとするも、日本側の第2陣は中央突破する日本側第1および第5軍集団をもって急速に左右に両翼を伸ばし、その先端を後方の第2・第3・第4軍集団とつなげようとしていた。 包囲網が完成しようとしていたのだ。 この段階に入り、ロシア側は自分たちがこの場を動く以外では組織的にどちらかへ向けて衝力を発することができなくなっていることに気が付いた。 彼らは、中央突破を阻止しようと中央部に部隊を割きすぎていたのである。 そして、前方の部隊を突破しても、この5日間砲撃を続ける日本側の悪魔のような重砲群を排除するまでにどれだけが失われるかわからない。 クロパトキン大将とリネウィチ中将は最後の予備部隊であった近衛第2師団を投入し脱出路を構築しようとするも、日本側の砲撃と、第4軍集団による効果的な阻止戦闘、そして働き者でありすぎる秋山騎兵軍団による襲撃もあって限定的な効果しか発揮できない。 さらには、無線電信ではなく有線電信しか用いることができなくなっていたロシア側の指揮命令系統はこのときマヒをはじめており、迅速な行動は不可能となっていた。 この時点でロシア極東軍首脳部は一部の部隊を率いて夜陰に紛れた脱出を成功させるのがせいぜいであった。 3月5日午前4時12分、日本側による「哈爾浜大包囲網」は完成。 その内部にめがけて大量の重砲弾と機関銃弾が投射されはじめた。 誤射を警戒して精密観測が行われていた射撃は直接射撃に移行。瞬く間に逆ハの字型となっていたロシア軍部隊は数を撃ち減らされてゆく。 3月5日午後1時、包囲網内部に取り残されていたウクライナ軍団指揮官セミョーノフ中将の負傷と指揮能力喪失に伴い、ウクライナ軍団は降伏。 これに続いてポーランド軍団、カザフ軍団が午後3時には降伏し、残った部隊も5時までには次々に降伏した。 事後承諾になったものの、副司令官リネウィチ中将を脱出させたクロパトキン大将も遅滞戦闘を断念しこれを追認。 哈爾浜郊外で予備第2軍団から発せられた独立捜索騎兵連隊に捕捉され捕虜となった。 563 :ひゅうが:2013/11/17(日) 20 40 21 3月6日を待たず、日本陸軍満州総軍は、ロシア極東軍135万のうち18万2000名を戦死または行方不明に、34万を負傷後戦闘不能に、69万8000名を包囲下で降伏させた。 残る約13万名は、逃亡または脱出に成功している。 3月7日、降伏したロシア将兵を武装解除するべく後方の予備第3軍団を呼び寄せ、第4・第5軍集団を残置させた満州総軍は、第3軍集団を先頭にして哈爾浜に向け北上。 以後、周辺で散発的な戦闘はあったものの、3月10日にはロシアの満州最大の拠点である哈爾浜市に入城した。 日本側の犠牲者数は、死者4万8000名、負傷者12万4000名。 比較的軽いとはいえるが、これでも大被害であることに変わりはない。 しかし、この大勝利によって半径3000キロ以内にこの大軍勢を阻止できる存在はもはやなくなった。 唯一ウラジオストクに立てこもる残存部隊という懸念はあったものの、ロシア側はこれをハバロフスクやシベリア鉄道沿線に分散配置せざるを得ず、もはや日本軍の満州における優位は絶対的なものになっていたのである。 はるか遠いバイカル湖沿岸のチタ方面には辛うじてロシア軍30万あまりが集結しつつあったが、ロシア国内において大規模暴動が発生しつつある状況下において、これらが投入できるかどうかは未知数であった。 ――日本陸軍は、この時点で戦争に勝利しつつある。 564 :ひゅうが:2013/11/17(日) 20 43 01 【あとがき】――というわけで、投下いたしました。 一気に哈爾浜会戦まで進みました。参考は、ソンムの戦いとマルヌ会戦です。 ようやく終わりが見えてきました。
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486 :ひゅうが:2013/11/17(日) 17 45 11 479 481-482 の続きです。付け忘れてました(汗 ネタ――大陸日本の日露戦争 その9 12、樺太・神坂作戦 日露両国の大軍が哈爾浜前面で対峙する中、活発な動きはないはずだった。 沿海州ではバルチック艦隊を待ちつつシベリア鉄道で石炭や弾薬などを備蓄しつつあり、当の哈爾浜では大軍団がはるか欧州から送られはじめていた。 だが、日本側は強引な動きに出る。 樺太・神坂作戦と呼ばれる秋季着上陸作戦である。 これは、開戦直後にロシアが武力制圧していた樺太(雑居地とされていた)に対して行われた海軍主導での制圧作戦である。 本来は黒溝台会戦と同時期に行われるはずの作戦であったのだが、投入を予定されていた戦力の錬成のために繰り延べされ、冬に突入する寸前に僻地を一気に制圧してしまおうという強襲作戦へと変化した。 当時、日本陸軍第13軍(第13方面軍)は日本領である新須賀を守備する任務についていたが、気候が厳しいことを考慮して編成された第130師団以外は北海道に配され、交代で北方での着上陸訓練に明け暮れていた。 そして、前線で雪が降り始める10月半ばは、実はカムチャッカ半島と樺太においてはまだ冬ではない。 ハバロフスクや哈爾浜に位置する極東総督府はこの時間差を認識しているとは言い難いのだ。 だからこそ、ロシア軍は極東の根こそぎ動員を行いつつも樺太駐留の1個師団、カムチャッカには1個連隊を配備するのみで増強を行っていなかったのである。 ――海上機動は、日本軍のお家芸であった。 10月12日、荒須賀を発し、北海道の部隊と交代すると思われた陸軍第130師団と、交代要員と思われた第131師団は、第1艦隊の護衛のもとで樺太大泊湾に上陸。 翌日、室蘭を発した第132師団から抽出された「郡司兵団」はカムチャッカ半島のペトロパブロフスク=カムチャッキー市に上陸。 いずれも上陸への抵抗はほとんどなく、1か月ほどの戦闘の末に樺太とカムチャッカ半島は完全制圧された。 増援を送るまでもなく、最終的には樺太は3個師団および1個独立混成旅団で固められ、はるか遠方カムチャッカ半島は1個師団および1個兵団が駐留するに至っていた。 法的にロシア領土となっていた国土が日本軍に占領されるのは、これがはじめてのことである。そして、雪がすべてを閉ざす。 以後小競り合いは続くものの、1904年の戦闘はこうして終結したのであった。 487 :ひゅうが:2013/11/17(日) 17 45 45 【あとがき】――すいません忘れてました(汗
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華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が唱えられた。 こうして支那駐屯軍や関東軍は、それぞれ軍事力を背景に国民政府に対して高圧的な協定(6月10日の梅津・何応欽協定・6月27日の土肥原・秦徳純協定)を結ばせ、河北省から国民党勢力と中国軍を、察哈爾省からも国民党勢力と第29軍をそれぞれ撤退させた。 次いで、11月3日に中国が幣制改革を実行すると、日本軍は華北で国民政府の経済的支配力が強まることを恐れて、河北省・察哈爾省に親日的な傀儡政権を樹立しようとしたが国民政府の強硬な抵抗にあい、また日本軍が誘いをかけた諸軍閥にも応じる者がいなかったため、一時しのぎとして塘沽協定による非武装地域を管轄する傀儡政権として冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を11月25日に樹立した。それに対して、国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月18日に河北省・察哈爾省を管轄する冀察政務委員会を設置して、緩衝地帯を設定した。 1936年1月13日、日本は「第一次北支処理要綱」を閣議決定したが、これは華北分離方針を国策として決定したものといえた。4月中旬には支那駐屯軍の増強を決定し、5月~6月に北平・天津・豊台などに配置していった。これに対して国民政府は反対の意向を申し入れ、北平・天津などでは学生・市民による華北分離反対デモが起きる事態となった。中国人の抗日意識は大きく高まり、新たに日本軍が駐屯することになった豊台付近では、日中両軍による小競り合いがたびたび起こり、また中国各地で日本人襲撃事件が多発するようになった。 日本は8月11日には「第二次北支処理要綱」を制定。華北五省に防共親日満地帯設定を企図したものだったが、11月の綏遠事件において中国軍が日本軍(実質的には内蒙古軍)に勝利したことによって中国人の抗日意識はさらに大きなものとなり、さらに12月には西安事件が起こった。 それを受けて日本では、1937年4月16日の「第三次北支処理要綱」において、華北分離工作の放棄も検討されたが、それも確固とした政策とはならず、盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争に突入していくこととなった。 参考文献 臼井勝美『新版 日中戦争』中公新書、2000年 太平洋戦争研究会・編、森山康平・著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年 伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』吉川弘文館、2007年 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 19 10。
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クラブ名:FCバルセロナ Fútbol Club Barcelona ホームタウン:バルセロナ スタジアム:カンプ・ノウ(98,787人) オフィシャルサイト:http //www.fcbarcelona.jp/ Ps 11-12 12 名前 GK 1 1 1 ビクトール バルデス GK 13 13 13 ホセ マヌエル ピント DF 2 2 2 ダニエウ アウヴェス DF 3 3 3 ジェラール ピケ DF 5 5 5 プジョル DF 19 - マクスウェル →パリ サンジェルマン(FRA) DF 21 21 21 アドリアーノ DF 22 22 22 アビダル DF 24 24 24 フォンタス DF 26 26 26 マルク ムニエッサ ←昇格←バルセロナB DF + 15 マルク バルトラ ←昇格(バルセロナB) DF + 18 ジョルディ アルバ ←バレンシア(ESP) DF + 19 マルティン モントーヤ ←昇格(バルセロナB) MF 4 4 4 セスク ファブレガス MF 6 6 6 シャビ MF 8 8 8 イニエスタ MF 11 11 11 チアゴ アルカンタラ MF 14 14 14 マスチェラーノ MF 15 15 - セイドゥ ケイタ →大連阿爾濱(CHN) MF 16 16 16 ブスケッツ MF 20 20 -- アフェライ →シャルケ04(GER) MF -- - フレブ ←ヴォルフスブルク(GER) →クリリヤ ソヴェトフ サマーラ(RUS) MF + 12 J. ドス サントス ←バルセロナB MF + 25 A. ソング ←アーセナル(ENG) FW 7 7 7 ダビド ビジャ FW 9 9 9 アレクシス サンチェス FW 10 10 10 メッシ FW 17 17 17 ペドロ FW 23 23 23 クエンカ ←昇格←バルセロナB FW 37 テージョ バルセロナB
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名稱:孝賢純皇後 伺服器及顏色:5服綠 類型:文 性別:女 生命值:432 武力:33 智力:21 防禦:12 敏捷:35 運勢:85 敘述:(1712年2月22*-1748年3月11*),乾隆帝元配皇後,富察氏,滿洲鑲黃旗人,其父是察哈爾總管 李榮保,其弟是大學士傅恒。她出身於官宦之家。康熙五十一年二月二十二生,比乾隆帝小一歲,雍正五年七月十八經世宗指婚成為皇子嫡妃,雍正六年生皇長女, 雍正八年生皇二子永璉,即端慧皇太子,雍正九年生皇三女固倫和敬公主。乾隆二年十二月初四為她舉行皇後冊立禮。乾隆十一年生皇七子 永琮,乾隆十三年隨駕東巡,三月十一*死於回鑾途中的德州舟次,享年三十七歲。
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各施設への生産を希望される方は、大商のち、大行首ともみ までご連絡ください。伝書でもOKです。ヾ(´▽`* 利用状況区分 ○=空き ×=利用中 △=予約済み 獲秋(かくしゅう)中国工場 哈爾浜(はるぴん)武器工場 鍛冶 ○ 刀剣 ○ 鍛冶 ○ 刀剣 × 草薙剣 10月末 鍛冶 ○ 斧 ○ 工芸品 ○ 矛 ○ 紡績 × 絹 01/01 鉄砲 ○ 集安(しゅうあん)中国防具 ともみ 鷹潭(いんたん)武器工場 鎧 × 海王鎧 4/18 刀剣 × 草薙剣 4/26 鎧 × 悪霊鎧 4/22 刀剣 × 草薙剣 5/3 小手帯 × 雑貨 ○ 兜 ○ 弓砲 ○ 兜 ○ 矛 × 紫龍戟 8/5 澳門(まかお)中国工場 ともみ 阜寧(ふねい)中国工場 ともみ 鍛冶 × 武将の指輪 工芸品 ○ 鍛冶 × 光の指輪 工芸品 ○ 鍛冶 ○ - - 鍛冶 × 鉄靴 7/9 工芸品 ○ - - 鍛冶 × 鉄靴 6/6 - - - - 鍛冶 × 鉄靴 5/19