約 200,343 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/172.html
タイトル: 最後の殿様 徳川義親自伝 責任表示: 徳川義親 著 出版地: 東京 出版者: 講談社 出版年: 1973 資料形態: 231p 肖像 680円 注記: 書誌注記 付 徳川義親関係略年表 最後の殿様 徳川義親自伝中国侵略軍を慰問する机上で戦争する幕僚 慰問団長として上海へ 麻薬で軍資金を調達 "あれを撃て" 最前線ヘ 忘れられぬ老兵 徳川 義親(とくがわ よしちか) 最後の殿様 徳川義親自伝 p168-178 中国侵略軍を慰問する 机上で戦争する幕僚 蘆溝橋事件が起こる前の六月四日に、近衛文麿くんが内閣総理大臣になった。近衛くんは頭のいい人だが、実行派ではない。頭がよすぎて目先が見える。見えすぎるために大胆になれない。ぼくのように無謀なことはできない。長所が短所となる。近衛くんを首相にしたのはよかったのか、悪かったのか、歴史家は掘りさげて研究する必要があろう。 蘆溝橋事件が起こると、近衛くんは軍のいいぶんを聞いて中国への軍隊派遺にふみきった。日本人は不思議な民族で、こういう事態になると上下が一致し、なだれをうって近衛体制を支持してしまう。共産党は転向し、転向者は軍に協力し、宣撫班となって中国に進出した。共産党が事実上、革命を放棄し、壊減したと同様に、国家改造運動に熱中した人たちも、いわゆる右翼革命派も近衛体捌に参加した。ほんらいなら、近衛くんやぼくは特権階級として打倒される側なのである。それが、近衛くんが首相になると右も左も、上も下も一致したのである。外国人には理解できないことで、この民族的本質は将来も変わらないだろう。 中国侵略戦争が無謀なことは、ぼくにはわかっていたし、大川周明君もわかっていた。ぼくは大川くんに、 「日本のような小国が、あの広大な中国を制しきれるものではない。地図を見ればわかることだが、どうして軍は戦争を拡大するのだろうか」 「そのとおりです。中国相手に戦って、とても勝ちきれるものではありません」 だが、大川くんはぼくに賛成しながら、近衛体制を支持してしまうのである。 当時、軍部は統制がきかず、内部はばらばらになっていたようである。部下がてんでに勝手なことをしても、きっぱりと押さえる人物が軍首脳部にいなかったと思う。その根源は陸軍大学校制度にあったことは、衆目の一致するところだろう。 陸軍大学校を卒業すると、幹部将校になって、将軍に出世する道が保証されていた。そこで、出世を目指す秀才たちは士官学校を出ると、同期生が隊付きで兵隊と共に苦労しているのをしり目にガリ勉の受験準備をする。受験に熱中して、自分が担当した隊の兵隊の名前も覚えない。それが合格して卒業すると、陸軍省、参謀本部に勤務して兵隊とは完全に離れてしまう。同期生さえ見くだす。このひとたちを幕僚という。 幕僚は机上で戦争を計画する。戦地の現状を一度も見たことのないものが、現地作戦を指導する。つねに出世と功績が念頭にあるので、作戦が失敗すると、現地の部隊長の責任に帰して自分はまぬがれてしまう。こういう幕僚によって、今次大戦では、めちゃめちゃにされた部隊もあるということだ。 慰問団長として上海へ 蘆溝橋事件から二週問目に、陸軍は華北に侵入した。八月十三日にはふたたび上海開戦となって、松井石根大将の軍団が杭州湾に上陸、南京にむけ進撃した。松井さんはぼくと心やすく、中国との戦争には反対であった。反対だが命令で、いやいや出陣した。この部隊に名古屋第三師団が加わった。 十一月に、貴族院では慰問団を北支と上海方面に派遣することになった。ぼくは尾張の人が多く出征しているので、志願して慰問団にいれてもらった。すると年少のぼくに団長になれという。考えてみると侯爵はぼくだけで、団員は伯爵樺山愛輔、子爵井上勝純、子爵三島通陽、男爵岡義寿。ほかには油井徳蔵、風門八左衛門であった。団長を引きうけて十一月十七目に神戸から上海丸で出発し、十九目に上海についたが、街は無惨にも破壊しつくされていた。陸海軍の武官室をそれぞれ慰問して戦闘状況をきいた。 上海で日本軍と戦った中国軍は精鋭で、八十個師団もいて、師団を三つの縦列にわけ、息つくまもなく、くり返しくり返し攻撃してきた。日本軍は防戦で疲労しきったが、中国軍はいまひと息という五十メートルほどより近よらず、突撃もしないので助かったという。 上海には軍艦出雲が停泊していた。中国側がどのように狙っても、一発の砲弾も出雲に当たらない。そこでアメリカ人のロバートソンが、出雲の撃沈を五十万ドルで請負った。ロバートソンは豆潜水艦をつくり、アメリカ製魚雷を二発とりつけた。請負金の半額二十五万ドルを受け取ると、上海放送局に勤めていたロバートソンの細君がこれを持ってアメリカに帰った。やがて潜水艦が完成し、魚雷をとりつけたが、そのとたんに魚雷が爆発して、ロハートソンは残る二十五万ドルの夢とともに消えたという話があった。 麻薬で軍資金を調達 野戦病院にも行き、絵葉書やタバコを贈ったが、負傷兵には尾張の出身者が多く、徳川ときいて涙を流してよろこんでくれた。その夜、メトロポール・ホテルにいくと、藤田勇くんが待っていった。藤田くんはぼくが東京を発つとき、 「今年はもう柿もたべられないね」 と、いったのを聞き覚えて、柿を一箱、持ってきてくれていた。藤田くんはそういう心のこもったひとである。 藤田くんが上海に現われたのは、麻薬二十万ポンドを上海に密輸したあと始末にきたのである。麻薬は陸軍省に頼まれて、三井物産を通じ、イランから密輸した。二十万ポンドの麻薬はばくだいな量だが、陸軍はこれで戦争資金を調達するため、藤田くんに陸軍大臣の印鑑をおした注文書を発行した。 麻薬の密輸には多くの経費がいる。その費用を二百万円、今の金で二十億円を藤田くんに報酬として支払う契約であったが、その報酬が藤田くんに渡れば、藤田くんは何をしでかすかわからん、という不安が陸軍におこった。革命でもやられてはたまらない。そこで軍は違約して報酬を藤田くんに払わないことにした。 藤田くんは怒って、陸軍大臣の注文書を盾にして裁判所に訴訟を起こした。最初、弁護士は陸軍を恐れて、一人として引きうけてくれるものがいなかった。東京中の弁護士にあたって、百何十人目かに引きうけてくれる弁護士が二人できた。訴訟になると問題が公然化し、陸軍側に不利となるので、陸軍省は閉口して、藤田くんに謝罪した。しかし報酬は値切って、二十万円しか支払わなかった。藤田くんはそれで承諾した。この時の訴訟関係の書類は今でも残っているという。 この麻薬は、中国の秘密結社青幇の手に渡って売却され、中因貨幣となって日本軍の手にはいった。今目の金で、何十億円になるか何百億円になるか、額はわからない。藤田くんは不思議な人で、自分では麻薬を見たこともないのに、青幇からは特別の大物として遇され、頭領の黄金栄と親しかった。 "あれを撃て" ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮を行なった。殺戮の内容は、十人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかいうようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。 藤田くんは、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橘本欣五郎中佐の子分になって、十月事件では、橘本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田君を大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田君にこう語ったという。 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、 「人を殺すのはこうするんじゃ」 と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が白慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、 「長、その話だけはだれにもするなよ」 と厳重に口どめしたという。ぼくら慰問団は海軍のランチで漢口に行き、十一月二十七日にまねかれて松井石根大将の軍司令部がある音楽学校に行った。松井さんがそのとき、書いてくれた詩が現存する。 拝受紹勅 即吟孤峯 湖東戦局日漸収 遙望妖気西又北 何時皇道治亜州 徳川侯檠正 孤峯は松井さんの号である。なにか孤独感がある。松井さんは終戦後、戦犯として処刑された。好まぬ戦争であったが、命じられれば軍人として戦わぬわけにいかぬだろう。だが処刑が正当か否かは別である。ぼくは真の戦争責任者は巧妙にのがれて、処刑された六割は無実ではないか、との疑問を持つ。 最前線ヘ 貴族院の慰問団は二十八日に解散した。そのあとぼくは、ひとりで朝日新聞のモーターボートに乗せてもらい、蘇州河をさかのぼった。 蘇州は日本軍が占領していた。ぼくは「法大菜館」と書いた中国人経営のホテルにはいったが、中国軍は退却にさいし、同胞のホテルを掠奪したので、屋内は足のふみ場もない。兵隊がぼくの荷物を運んだり、ベッド造りをしてくれる。兵隊の仕事は早くて荒っぽい。荷物をはこぶのに家の欄干がじゃまになると、ノコギリで切り落としてしまう。扉がつかえると、蹴とぼして壊してしまう。お礼に絵葉書や雑誌を出すと、子どものように喜ぶ。 翌朝ぼくは、掠奪でちらかった部屋の掃除をした。朝日の特派員である足立和雄くんが不思議がって、 「殿様が掃除をするんですか、したことあるんですか」 「ぼくは冷飯だから、水くみも掃除もします」 足立くんは、殿様はなにもせずに、遊んでいるものと信じているのか、どうにも不思議で納得しかねていた。 ぼくは無錫に行くと、十月事件のさい、橋本欣五郎くんと行動を共にし、満州に追い出された和知鷹二くんが大佐になって和知部隊をひきいてそこにいるのを知った。訪ねると和知くんはびっくりして喜び、地図をくれた。 和知くんは羅店鎮で長津部隊とともに数十倍の中国軍と戦った。要所要所に少数の守備兵を配し、大部隊を握って、見通しのきく高所に待機し、中国軍が攻めてくるとその方向に増援して戦う。長津くんは逆に、要所要所に多数の守備兵を配置し、自分は小部隊を握って、中国軍が攻めてきた箇所に応援する。戦法はちがうが、どちらも協力して羅店鎮を死守したという。 十二月四日に、ぼくは中嶋今朝吾隊長の世話で馬に乗り、最前線の白兎鎮にたどりついた。そこは第十六師団で、旅団長は草場辰巳少将、旅団の連隊長は大野宣明大佐、片桐護郎大佐、野砲連隊長が三国直福大佐であった。 この部隊は四日四晩、中国軍を追撃しつづけ、その夜は宿営し、兵を休ます予定であった。そこへ追撃命令がきて、南京攻撃のため休養もなく出発するという。ぼくもこの部隊についていった。 草場部隊長のところで、兵隊がつくった菜と鶏の汁と、南京米の飯をたべたが、なかなかにおいしい。夕飯がすむと、追撃戦である。兵隊はもくもくと行動していく。 江南の広野ははてしがない。カキ色の丘陵がつづき、まっ赤な太陽が沈む。その夕陽をあびて砲車がいく、連隊砲がいく、歩兵の部隊がいく。闇がせまって、馬と兵士の黒い影がどこまでもつづく。砲車の音や軍靴の音はするが、人声はまったくしない。はるかむこうで、火炎がたちのぼっている。ぼくははじめて見たが、大陸の戦場でみる夕景は凄愴たるものであった。 部隊本部の中隊も行動を起こし、ぼくも草場部隊長とならんで歩いた。前方から兵隊が三人きた。部隊本部にくると、くるりと向きをかえ、引き返した。将校が不審がって、 「おい、兵隊、どうした」 「はい、タバコであります」 「そうか」 すると別の兵隊が吸いかけのタバコを出した。その三人の兵隊は、順ぐりに、うまそうに吸い、タバコを返すと、ぺこんと頭をさげて行ってしまった。兵隊は実に不思議であった。 十二月五日の夜があけて、午前七時に大平圧鎮にきたとき、尖兵と中国軍の潜伏斥侯が衝突して、日本兵が一名戦死、一名負傷の知らせがきた。だが戦闘らしいものはなく、部隊はどんどん進んでいく。中国軍の退却がはやく、追いつけないのである。 兵隊はまったく不思議であった。部隊が休止すると、どこからともなく食糧を集めてきて、ぼくに食べ物をつくってくれる。トリ、ブタ、マメ、油、砂糖、マッチ、なんでも持ってくる。料理もうまい。その夜も菜とアヒルと豆そうめんを醤油で煮て、大きなどんぶりに盛ってくれたが、うまかった。 五日の午後、高い塔のある句容を占領した。そこから南京への街道がまっすぐで、道路をはさみ、十門ほどの野砲が左右に砲列をしき、砲撃していた。前方に中国軍の防御陣地が見えた。九百メートルの近い距離で、双眼鏡でのぞくと、鉄兜の中国兵が見えた。そこが最前線であった。 十二月八日は南京包囲戦となるが、ぼくは二日前に句容を発って帰国の途についた。娘の百合子の結婚式があり、まにあうように帰国したければならなかったからである。ぼくが去った翌日、新聞特派員が死傷し、師団長が負傷したときいた。 忘れられぬ老兵 帰途に白兎鎮に行き、中嶋部隊をたずね、馬を返して世話にたった礼をいった。中嶋部隊も前線に行った。白兎鎮の城門外に野戦病院があるが、その前の家で火をたいて一人の兵隊がたき火にあたっていた。三十歳をすぎた老兵で、髭がのび憔悴している。ぼくも黙って火にあたった。 やがて老兵は、胸のポケットから汚れた紙つつみを出した。ひらいて短かくなった一本の巻タバコを出し、半分にちぎり、半分はまた紙につつんでポケットにしまいこみ、半分をパイプにさして、ゆっくりと、一口ずつ吸う。目ははるか彼方を見ていて、ひと言も発しない。 見ていて涙が出そうであった。ぼくはタパコを吸わないのでタバコがない。慰問に持ってきた分もつきた。ぼくは黙ってこの老兵のしぐさを見ていたが、ついにひと言のなぐさめの言葉も出せなかった。出せばぼくのほうが先に涙がこぼれそうであった。ぼくは今も前かがみになったこの老兵の姿が忘れられない。 秦王の夢淋し ぼくは東京に帰りついた。 橋本欣五郎くんから軍用葉書がきていた。 出征本日(十六目)山海関を通過仕侯 皇師迎ふ長城の秋 秦王の夢淋し 北支橋本欣五郎部隊長 橋本くんは二・二六事件のあと、処分されて退役になった。それが、日中戦開始とともに再召集され、野戦重砲連隊をひきいていたのである。山海関は満州から北京へ通じる要衡で、万里の長城の起点であった。 橋本くんは満州事変の謀略に参画したが、山海関から先へ、長城をこえて中国本土には絶対に侵入しない、すれば日本の敗北である、と確信し、公言もし、ぼくにも語っていた。だが召集されて一部隊長となると、命じられるままに白分の意思に反しなければならなかった。軍用葉書に書かれた短かい一文のなかで、とくに、 皇師迎ふ長城の秋 秦王の夢淋し には、橋本くんのやるせない思いと、日本の将来がひめられているように思える。橋本くんはすでにこのとき、日本の敗北を予想していたのだろう。橋本くんはかねてから近い将来に、マッチ箱ほどの大きさの爆弾で、何万人、何十万人と殺裁できる時代がくる。だから決して、戦争はしてはならない、といっていた。 (この章終わり) 徳川 義親(とくがわ よしちか) 明治十九年(一八八六)十月五日、越前・福井藩主であった松平慶永(春嶽)の末子として生まれる。 幼名、錦之丞。明治四十一年、学習院高等科に在学中、尾張徳川家の養子となリ、徳川義親と改名。同年五月養父義礼の死後、かつて御三家の筆頭であった侯爵徳川家の十九代目当主として家督を相続。東京帝国大学国史科、生物学科に学ぶ。学生時代から始めた「木曽林政史」の研究業績は、わが国経済史研究の草分けとして評価が高い。大正十年のマレーでのトラ狩りは有名。豊かな学殖と幅広い行動力をもった異色・型破りの「殿様」として、現代史に多彩な足跡を残している。 ※ここに書かれている「殿様」の「盟友」たちはどうやら、 1931年、尾張徳川家の古文書や家宝を管理する目的で、財団法人徳川黎明会を組織。同年、陸軍と右翼のクーデター未遂事件三月事件に資金面で関与する。>wikipedia徳川義親 の関係らしい。 こちらのサイトが徳川義親紹介としては面白い 谷底ライオン>徳川義親(とくがわ よしちか)
https://w.atwiki.jp/nikuq-niuniu/pages/1769.html
真の変革 依頼主 :アルフィノ(イシュガルド:上層 X11-Y11) 受注条件:レベル57~ 概要 :フォルタン伯爵邸付近のアルフィノは、悲しみの中で成すべきことを考えているようだ。 アルフィノ 「今はただ、できることをするだけか・・・・・・。 タタル、君は「忘れられた騎士亭」に戻って、 引き続き、情報収集を頼む・・・・・・。 Nikuq。 我々は、「神殿騎士団本部」へ行こう。 「アイメリク」卿が心配だ・・・・・・。」 神殿騎士団総長室のアイメリクと話す タタル 「皇都全体が張り詰めたような雰囲気でっす・・・・・・。 お客さんたちも、何だか落ち着きがない様子でっす。」 神殿騎士団の衛兵 「アイメリク総長に御用ですか? 取り次ぎますので、こちらへどうぞ・・・・・・。」 アルフィノ 「こんな時、どう振る舞えばいいのか・・・・・・ 私にはわからないよ・・・・・・。」 エスティニアン 「・・・・・・蒼天騎士の連中め。」 ルキア 「アイメリク様も、かなり落ち込んでいてな・・・・・・。」 アイメリク 「・・・・・・世話をかけたな、ご両人。」 アルフィノ 「何をおっしゃいます。 怪我の具合は、いかがですか?」 アイメリク 「オルシュファン卿を失ったことを想えば、 怪我の痛みなど・・・・・・。」 (過去視) アイメリク 「トールダン王の裏切りこそが、すべての発端であり、 正教はその真実を隠し、偽りの建国神話を作った・・・・・・ それを千年もの間、民にひた隠しにしてきた! いや、その民ですらも、 すべては十二騎士の血に連なる者だったのだ・・・・・・。 そうなのですね、父上!」 トールダン7世 「如何にして知り得たのかについては、あえて問うまい。 ・・・・・・ただ、それは正しいと答えておこう。 イシュガルド建国の祖であるトールダン王は、 配下十二騎士を率いてラタトスクをだまし討ち、 双眸を奪って喰らい、人知を超えた力を得た。 それは紛れもない、友たる竜への裏切りだ・・・・・・。 ニーズヘッグが怒り狂ったのも、無理からぬこと。 その後の顛末は、お主も知るとおり・・・・・・。」 アイメリク 「七日七晩に渡る激しい戦いの末、王は死に、 十二騎士の半数ほどもまた、討ち死にした。」 トールダン7世 「・・・・・・だが、ニーズヘッグもまた倒れ、 ふたつの「眼」が、生き残りの騎士たちの手に渡ったのだ。 誤算だったのは、両眼を失ってなお、邪竜が生きていたことよな。 奴はフレースヴェルグの眼を借り受け、蘇ったのだ。」 アイメリク 「一方、トールダン王の息子であり、 十二騎士のひとりであったハルドラスは、 邪竜の眼から力を引き出し、戦う術を編み出し対抗した・・・・・・。」 トールダン7世 「そう、初代「蒼の竜騎士」の誕生だ。 以来、歴代の蒼の竜騎士たちは、 邪竜が目覚めるたびに、死闘の果てにこれを退けてきた。 さて、我が息子よ、ここで問おう。 果たして父が犯した罪は、子が償うべきだろうか? ・・・・・・その孫は? そのまた子はどうだ?」 アイメリク 「・・・・・・なにが言いたいのです?」 トールダン7世 「人の命は短い・・・・・・。 一代でその罪を贖えぬというのなら、 いつの世代まで、償いを続けねばならぬ? 蜜月関係にあった竜を裏切った、 王と十二騎士の行いは、まさしく罪よな。 だからといって、罪人の子孫であるという理由をもって、 イシュガルドの民が、永遠に苦しまねばならんのか? ワシにはできんよ。 父祖の罪のため、我が子が、イシュガルドの民が、 殺されてゆくのを黙って見過ごすことなどな・・・・・・。 竜は、悠久の時を生きる存在・・・・・・。 裏切りの記憶を抱えた奴らに、謝罪など通用せん。 なればこそ、子らを守るためには、命がけで戦わねばならん。 そして、命を賭すために、人は理由を必要とし、 戦いに身を投じるためには、正義を求めるものなのだ。 ・・・・・・たとえそれが、作られた正義であったとしてもな。」 アイメリク 「いいえ、それは違う、断じて違う! なぜ、自らの世代で遺恨を断ち切ろうとせぬのです? なぜ、未来にその枷を背負わせ続けるのです? 父上のおっしゃりようは、支配する側の詭弁だ。 子を守ると言いながら、その子らにこそ、 血を流せと命じているにすぎないッ!」 トールダン7世 「・・・・・・そうだ。 貴族と平民とを隔てる仕組みもまた、 効率的に戦い、子らが暮らす国を護るための方便よ。 千年後の謝罪が何になろう? お主の言っていることは、赤子の道理にすぎぬ。 では問おう、戦で父を、夫を、そして子を失った民に、 そなたらの家族は、偽りの正義のために死んだのだと、 それが真実なのだと、そう伝えるのだな?」 アイメリク 「・・・・・・グッ。」 トールダン7世 「歴代の教皇が、偽りと知りながら、 千年の長きに渡り、戦い続けてきたのは何故か・・・・・・。 どうやらお主には、まだ見抜けてはおらぬようだな。 失望したぞ、我が息子よ・・・・・・。 だが、千年の禍根を断つという点においては、 ワシもまた、決意を固めている。 ・・・・・・真の変革のためにな。 其奴は、地下牢に繋いでおけ。 ほかに「真実」を知り得た者がいないか、 よくよく調べることも、忘れぬようにな。」 ゼフィラン 「御意・・・・・・。」 アルフィノ 「・・・・・・その様子、過去を視たようだが・・・・・・大丈夫か?」 アイメリク 「これが「超える力」・・・・・・その能力・・・・・・。 星の光が、君に宿した力なのだな・・・・・・。 今、君が語ったことが、すべてだ。 私は、父上の・・・・・・いや、トールダン7世の言葉に、 これ以上、切り結ぶ刃を持たなかった。」 アルフィノ 「言葉とは、時に空虚なもの・・・・・・。 人の意思こそが、真理を貫くのだと、私は友に教えられました。 しかし、その言葉が気になります。 歴代の教皇が「千年戦争」を続けた理由と「真の変革」・・・・・・。」 アイメリク 「その点については、私も考えてみた。 教皇庁でまみえた蒼天騎士たちは、 人知を超えた力を見せた。」 ルキア 「・・・・・・確かに、オルシュファン卿を倒した際の、 ゼフィランの力は異様なものでした。」 アイメリク 「建国の神話に謳われる、トールダン王の円卓に集う、 十二人の騎士たち・・・・・・ナイツ・オブ・ラウンド。 彼らは、聖なる力を帯びていたという・・・・・・。」 アルフィノ 「歴史は人によって綴られ、宗教は神話を作り出す。 やがて、人の想いで作られた「嘘」は、 人々が望む物語に変わり、「偽りの真実」となる・・・・・・。 ・・・・・・まさか!」 アイメリク 「「氷の巫女」が、その身体にシヴァを宿したように、 彼らもまた、己の身に、伝説の存在を降臨させたとすれば?」 ルキア 「まさに蛮神、すなわち神降ろし・・・・・・!」 アルフィノ 「なんということだ・・・・・・。」 アイメリク 「飛空艇で逃げ去る際、教皇はこう言い残した。 「魔大陸」と・・・・・・。 それが何を示すのかはわからない。 しかし、蛮神の力に手を染めた者たちを、 放置することもできない、そうだろう? 彼らを追わねばならん・・・・・・。 教皇・・・・・・いや、蛮神「ナイツ・オブ・ラウンド」を・・・・・・。 Nikuq殿、アルフィノ殿・・・・・・ 「暁の血盟」に依頼したいことがある。」 アルフィノ 「蛮神「ナイツ・オブ・ラウンド」の力を得た、 教皇と蒼天騎士たちの追撃・・・・・・ですね?」 アイメリク 「そのとおりだ。 これがイシュガルドの内政問題に端を発していることは、 重々承知のうえ・・・・・・当然、断る権利はある。」 (どう答える?) (教皇「トールダン7世」を追う) アイメリク 「ありがとう、Nikuq殿・・・・・・。 蛮神問題と口にすれば断れぬと知りながらも、 君の力に頼らねばならぬ、私の非力さを許してほしい・・・・・・。」 (オルシュファンの仇を討つ) アイメリク 「そうか・・・・・・君はオルシュファン卿を・・・・・・。 いや、すまない・・・・・・立ち入った事を聞くつもりはないのだ。 申し出を受けてくれて、助かるよ・・・・・・ありがとう。」 (答えない) アイメリク 「・・・・・・心に葛藤があることは、わかっているつもりだ。 蛮神問題と口にすれば断れぬと知りながらも、 君の力に頼らねばならぬ、私の非力さを許してほしい・・・・・・。」 アルフィノ 「蛮神に挑むのは、「暁の血盟」の大きな役割・・・・・・。 私も持てる力のかぎり、 Nikuqを支援します。」 アイメリク 「ありがとう、アルフィノ殿。 悔しいが、教皇が去った今、私は皇都を動くことができない。 教皇不在の政治的空白を、埋めなくてはならないのだ。 生まれた時より、正教の教えを受けてきた民にとって、 「教皇」とは「父」も同然の存在・・・・・・。 その教皇が消えたとなれば、動揺は大きいだろう。 私は、フォルタン伯爵をはじめとする有力な大貴族に加え、 平民の実力者たちにも協力を要請し、国をまとめるつもりだ。 邪竜「ニーズヘッグ」が堕ちたとはいえ、 眷属の竜たちすべてが死した訳ではなく、情勢は危うい。 エスティニアン、ルキア・・・・・・私に力を貸してくれ。」 エスティニアン 「言われるまでもない・・・・・・。 蒼の竜騎士として、残るドラゴン族の脅威から、 全力で皇都を守り抜くと誓おう。」 ルキア 「「暁の血盟」の支援は、お任せください。 Nikuq殿、アルフィノ殿。 現状の情報について、共有したいことがある。 この後、いいだろうか。」 アルフィノ 「行こう、Nikuq! 「暁の血盟」として、新たな蛮神を追うんだ!」 アルフィノ 「しかし、教皇を追うと言っても、 どこに向かえばいいものやら・・・・・・。」 タタル 「知り合いになったお婆ちゃんから、 お裁縫の指導を受けることになりまっした。 フフフ・・・・・・マイスタータタルも遠くないでっす!」 手先の器用な老婆 「ひと針、ひと針に、想いを込めるんだよ、嬢ちゃん。 どうか無事でありますようにと・・・・・・。 それが針仕事ってもんさね。」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/991.html
史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー 琉球新報 週刊新潮1968年4月6日号記事を読んだ沖縄の新聞、琉球新報は、急遽大阪支局員を赤松氏宅に向かわせ、4月8日にフォローアップ記事を特集した。 それは、『渡嘉敷島の集団自決 "悪夢の惨事"二つの真相?』と題するもので、23年ぶりの「戦闘報告」を語った元戦隊長赤松氏と、「戦記」を書いた元村長古波倉氏、二人のインタビューを対峙させるものだった。 史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー 琉球新報 "悪夢の惨事"二つの真相?盆地を血にそめ329人自決恩讐の23年、戦記は偽りか 開き直る赤松元大尉"命令しなかった”「正しい歴史」を作りたい "弁明”に怒る生存者大尉の"報告"はうそ "反省の色なく許せない" ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用開始) 赤松氏デビュー1968.4.8琉球新報 "悪夢の惨事"二つの真相? 【関西支局】沖縄戦の最中、戦闘に巻き込まれていった住民の悲劇のうち、渡嘉敷島の集団自決、住民の斬殺は旧日本軍の手で行われたといわれているだけに、23年たったいまも恩讐を込めて語りつがれている。その「無知と暴虐をともなった悪夢のような悲劇」を命じたといわれる赤松嘉次氏(48)=当時渡嘉敷島駐屯海上てい身隊第3戦隊隊長=が兵庫県加古川市に住んでいた。「私はどう中傷されようとかまわないが死んだ戦友がかわいそうだ」という赤松氏は。このほど本誌記者とのインタビューに応じて「集団自決は命じたものではない。気の毒だと思うが私の取ったその他の処置はあの時点ではやむをえなかった」と語った。一方、この弁明に対し当時同島にいて暴虐ぶりを目の当たりに見た同島生き残りたちは「事実を曲げるのもはなはだしい。罪の意識にかられていると思ったら、なんということをいい出すのか」とカンカン。生存者の語る"二つの真相"は沖縄の戦記にどう書き加えられて行くのだろうか。 盆地を血にそめ329人自決 恩讐の23年、戦記は偽りか 「渡嘉敷島における戦争の様相」という記録がある。終戦当時渡嘉敷島の村長だった古波倉惟好さん、村役所経理員で防衛隊長をしていた屋比久孟祥さんの二人が渡嘉敷島での戦闘と住民の模様を書きつづったもので、その中で赤松大尉はひきょう者となり、住民を圧迫した張本人となっているが、当時二十五歳の赤松大尉は防衛隊、男女青年団員、婦人会員など二百四十余の協力で爆雷を積んだ舟艇百隻を海辺に並べ出撃を待った。ところが「赤松大尉は出撃の命を下さずごうの奥に退避し、戦闘意欲を全く失っていた」ばかりか「気が狂ったのか全舟艇の破壊を命じた」という。二十年三月二十六日未明のことである。 さらに「あしゅらのごとき阿鼻叫喚の地獄」がくり広げられる。同二十八日午前米軍の上陸に危機を感じた住民が西山の軍陣地北方の盆地に集結した。「記録」によると集団自決のもようは次のようなむごたらしいものだ。 「防衛隊員の持つ手榴弾(二個ずつ)二、三十人が集まり、瞬時にして老若男女の肉は四散し死にそこなったものは棍棒で頭を打ち合い、カミソリで自らのけい部を切り、すきで親しいものの頭をたたき割るなど世にも恐ろしい情景がくり広げられた」このとき三百二十九人が死んだ。手榴弾が不発で死を免れた住民が軍陣地へ押し寄せると、赤松隊長はごうの入り口に立ちはだかり「軍のごうに入ってはいけない。すみやかに軍陣地を去れ」と厳しくかまえ、住民をにらみつけた―という。記録には赤松隊長が"自決命令"を出したとは書いてないが、自決はしいられたもの―というふうにとれ、生存者の中にははっきり「命令だった」と断定するものもいる。 また赤松大尉の部下は住民にスパイの容疑をかけ切り殺し「山をさまよい歩く古波倉樽を敵に通じるおそれありとして軍刀にかけ」あるいは米軍の要求で投降を勧告に来た伊江島の男女6人を斬殺した。少年二人も米軍に通じたとして首をつらせ、渡嘉敷小学校訓導の大城徳安氏は「防衛隊員のくせに家族の元に帰ってばかりいた」ので斬首された。そして血のにじむような記録は「沖縄本島の降伏に遅れること1ヶ月。二十年八月二十三日、渡嘉敷島の戦闘はその幕を閉じた」と結んでいる。 これまでこの記録や生存者の証言をもとに赤松大尉のことが数多く書かれてきた。そのたびに旧部下で生存者の人たちが抗議したが取り上げられず、赤松氏もあまり語らなかった。だが戦死者までひきょう者呼ばわりされるのは可愛想―と最新号の「週刊新潮」で意見をのべ、近くかつての同僚が手記などを持ち寄って「正しい戦史」を作る計画もある。 加古川市にある肥料問屋、赤松嘉次商店の応接室で記者のインタビューに答えて語る「渡嘉敷島集団自決の真相」は次のようなものだった ~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用おわり) 週刊新潮で紹介された戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」の復習のあとは、加古川市にある肥料問屋、赤松嘉次商店の応接室での赤松元隊長インタビュー。「正しい歴史をつくりたい」とは、沖縄で書かれた戦記は間違っている、という断定なだけに挑戦的だ。沖縄地元紙の見出しには怒りが込められている。 ~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用はじめ) 開き直る赤松元大尉 "命令しなかった”「正しい歴史」を作りたい ―広く沖縄戦史などによる「あれほど自分の口で玉砕をさけび、自らはゴウの中に避難して暴虐の限りを尽くしながら、倣岸な態度で捕虜になり…」などと書かれているが―。 住民は軍の任務を知らないのだから、そう思えたのだろう。舟艇の出撃は軍司令官が出すものだ。私の判断で出撃を準備していたら……「敵状判断不明、戦隊は状況有利ならざる時は本島、糸満付近に転進せよ」と電報がきた。 しかし、そのころ渡嘉敷島に来た大町大佐(沖縄全陸軍船舶隊隊長)に出撃体制に入っているのをとがめられ、敵の偵察機に発見されたので破壊して沈めよ―と命令されたのだ。そして体当たりは私も考えていたが、命令できなかったというのが事実で、防衛庁の記録にも私の処理が正しかったことが書かれている。ゴウにいたのは中隊への非常用食糧、弾薬の確保を指示していたためだ。 ―集団自決は命令したのか。 絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬよう―という気持ちだったと思う。村長が機関銃を貸してくれ、自分が全部殺すというのを押しとどめたほどだ。 軍のゴウといってもお粗末なもの、住民が入れるようなところではなかった。同じようなケースの自決は、沖縄にはいくらでもあったはずだが、なぜ渡嘉敷島だけ問題にするのか、私にはよくわからない。日本が勝っておれば自決した人たちも靖国神社にまつられたはずだ。 ―スパイ容疑で殺された人たちのことを聞きたいのだが。 私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、伊江島の6人、2人の少年はいずれも死を選ばせた。気の毒だが、当時の状況からやむをえなかった。 ―なぜ赤松隊長は悪評をかっているのか。 部隊の華々しい戦闘を期待したのだろうが、われわれは特攻を主任務にしており、地上戦をまるで考えていなかった。それが大町大佐の命令ですべて徒労に終わったからだろう。それに小さな共同体のこと、わたしを悪人に仕立てた方が都合がよかったのではないか。住民には決してうしろめたいことはない。 ―戦記の発行を計画しているとか。 わたくし自身は、そっとしてほしいのだが、いろいろ中傷されると戦死者の名誉のためにも黙っておれなくなる。1月に初めて第3戦隊の同窓会をした。60人ほど集まったが、そのとき新しい戦史を作ろうと話し合った。いずれ沖縄、とくに渡嘉敷島にも行ってみたい。70年までには―と計画している。 ―現在の計画は わたくしの取った措置は、万全のものではないだろうが、あの時点では正しかったと思う。なにしろ戦闘なのだから。現在の感覚と尺度でははかりようがない。週刊誌に若気のいたりとか、不徳のいたすところなどとわたくしが言ったとあるが、あれはいわば社交辞令だ。しかし、命令でやり、任務であったことがすべて個人の責任となるような社会には戻りたくない。 ~~~~~~~~~~~~~(記事引用おわり) 対立する当事者が言ってることは、それぞれ単独で聞けばどちらも正しい。芥川龍之介の羅生門の世界だ。 したがって現場を知らないわたしたちとしては、他の記録との照合や何よりも同一人の証言の変遷を辿って、その信頼性を検証するしかない。慌てず騒がず試みたいと思います。 琉球新報の特集は、戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」を書いた、集団自決体験者のインタビューへとつづく 週刊新潮の記事と、赤松元隊長の矛先になった戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」の筆者の一人が反論し、これまで書かなかったという秘話も語る。赤松氏に行状についての新証言にもまして興味深いのは、戦後永きに渡って渡嘉敷村村長をつとめ、この報道の時もそうであり、2年後の慰霊祭に赤松氏を招いた玉井氏が、集団自決の時には島にいなかったという事実である。 ~~~~~~~~~~~~~(記事引用はじめ) "弁明”に怒る生存者 大尉の"報告"はうそ "反省の色なく許せない" 戦後23年になって、急に「わたしは島民に集団自決をしいて、自ら戦わずして生き延びようとした卑きょう者ではない」と開き直った赤松大尉の戦闘報告に、当時渡嘉敷島で辛酸をなめた同島の生き残りたちは「これはどうしたことか」とその心境をはかりかねて当惑している。やっと悲惨な傷跡がいやされ、にくしみも角がとれて、平和な島として再出発しているときだけに、同氏の意外な発言は眠りかけた胸のうずきをゆすぶられたというか、にくしみがむらむらとわいてきたようである。 戦争当時、渡嘉敷村長の職にあって軍隊と住民の板ばさみになって苦悩した米田(旧姓古波倉)惟好さん(57)(那覇市 略)琉球通運搬船共済会副会長は、週刊新潮の記事を読んで「でたらめもはなはだしい」と怒りをぶちまけた。 「赤松氏の戦闘報告はすっかり事実を曲げてなされている。戦後20余年をひっそりとして音さたもないので、謹慎して反省しているのだろうと思い、いまさら彼一人を責めることはよそう、と思っていたのに、このソラを切った態度は常識では考えられない。これでは自決をしいられてなくなった人たちの霊も浮かぶまい」と声をふるわせた。 米田さんの話によると、赤松氏が戦闘報告で行った弁明は、住民を一ヶ所に集めたとき「西山の陣地に集合せよ、といったのではなく西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ、といった」ということ以外は全部まっ赤なウソで、集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だという。 「彼は島民を斬ったことのは軍紀だ、とうそぶいているようだが、20余年も過ぎているので忘れている、とでも思ったのだろうか。住民が陣地に押しかけては攻撃のまとになるとして、わずかに離れた盆地に追いやって集団自決の命令を出したのは赤松大尉でなくてだれだったのか」と声を荒立てる。 あの混乱の中の地獄絵が、まざまざと脳裏によみがえってきたらしく、悲痛な表情で語りつづける。「それにわたし個人としてどうしても許せないのは、"村長がきて機関銃を貸してくれ足手まといの島民を打ち殺したいと申し入れてきた"といっていることです。どうしてわたしに村民が殺せるのですか。ことの真相はこうです。盆地に追いやられたわたしたち住民は、敵軍と友軍の間に置かれ敵軍からの砲撃も激しいので、このままでは皆殺しにされると思い、わたしが友軍のもとへ行って、"軍民で総攻撃したいからわれわれにも機関銃を貸してほしい"といったのです。 結局、銃は借りられず逆に足手まといになるとして自決を強いられたわけだが、同氏の報告では敵に銃を向けるということが住民に向けるとすりかえられている」と事実を明らかにした。 その他、赤松氏が弁明している「私刑」についても、ことごとく事実に反すると反論する。 「少年二人が自分で首をつって死んだとか、いろいろつくろっているが、これらも確かに赤松大尉の命令で処刑されたのです。 いまさら戦争の傷跡をほじくるまい、と思っていましたが、相手に反省の色がなく、史実を曲げるような言動をしている以上、すべてをはっきりさせざるを得ません。これは戦記にも書かなかったのですが、実をいうと赤松大尉は捕虜になるまで一歩もごうから出ず食糧も独り占めして他の将兵たちは住民から食物をもらって自給生活をしていた。兵隊は住民に先がけて戦うものであるにもかかわらず、戦闘意欲は全くなく、わたしに面と向かって"オレは生き延びて大本営に戦況を報告する義務をおわされている"とはっきりいっていました。 平和な世の中になったいまになって考えると軍人であろうと命を粗末にするべきではありませんが、しかし当時の状況の中で住民を殺し自らは隠れて生還するというのは総指揮官がとるべき態度だったでしょうか」と語る。この米田さんも、赤松大尉の命で手りゅう弾の引きがねを引いて自決しようとしたが不発になって捕虜になった一人である。 当時の村長として、この残酷史が赤松氏の弁明によってぬり変えられることを警戒した米田さんは、近く週刊新潮に対しことの真相を投書、赤松氏の弁明を改めて告発するという。 一方、現渡嘉敷村長の玉井喜八氏は「赤松氏はそんなことをいってるのですか」と語り、わたしは戦争当時島にいなかったが、戦記にある通りまさに地獄絵だったといいます。戦後23年もたった現在では島の人々の赤松隊に対する反感も薄れて、すべては戦争が悪かったという気持ちになっており、いまごろになってどうのこうのいってくる赤松氏の態度は逆効果でしょう。いまさら責任をなすり合っても自決した同胞が生き返るわけではないし、二度とむごい戦争を起こさないように努力しあうことが重大です」と多くを語りたがらなかった。 このように当時の体験者たちが「全てを許そう、そして平和な島を築こう」と誓い合っているとき、こんどの赤松氏の出現で心を乱されたかたちだ。島民たちの立場にたてば、沈みかけた怒り、悲しみをゆり起こした事体が赤松氏の"第二の罪"になりはしないか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用おわり) これは資料だから、あまり感想は述べたくないが、ひとつだけ言わせていただけば、米田氏の意見は『ある神話の背景』では、これに較べてやけにトーンダウンしているように思えるがどうだろうか? 曽野綾子氏の批判の的になっているからだろうか? いったい、どちらの米田氏が本当の姿なのか? やはり、資料は結論を急がずに読み比べなければいけない。 1.20追記 米田(旧姓古波蔵)元村長の意見が『ある神話の背景』ではトーンダウンしているように思われる理由がわかりました。 曽野綾子氏は、『ある神話の背景』の雑誌『諸君』連載時には、古波蔵氏からの聞き取りを素のまま記載して「判断は読者に委ねる」という姿勢をしめしていましたが、単行本を上梓するにあたって、古波蔵氏からの聞き取りの一節一節に、元赤松隊隊員の「そんなことはなかったはずです・・・」といった反論を挟み込みました。 古波蔵氏の証言を読むシーンが、古波蔵氏への反論を聞くシーンへと、変更されているのです。 追って詳しくレポートいたします。 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/490.html
政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(4) 第4巻:http //www.awf.or.jp/pdf/0051_4.pdf 目次(第四巻) 政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(4)一、国立公文書館・大英帝国戦争博物館 所蔵資料【内閣・内務省関係】4項目4点 【軍関係】10項目16点 二、厚生省関係公表資料 5項目5点 一、国立公文書館・大英帝国戦争博物館 所蔵資料 【内閣・内務省関係】4項目4点 一 渡支邦人暫定処理ニ関スル件[内務省讐保局長](昭16・8・16)(未作成) … 5 二 行政事務ノ整理簡捷化及中央官庁ノ権限ノ地方委譲等ニ関スル件[閣議決定](昭18・12・14)(未作成) … 27 三 第二次許可認可等行政事務簡捷化ニ関スル件[閣議決定](昭19・1・6)(未作成) … 33 四 朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正ノ件[閣議決定](昭19・7・12)(未作成) … 43 【軍関係】10項目16点 一 恤兵金ノ処分二関スル件〔閣譲決定](昭7・7・19)(未作成) … 133 二-(1) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・3・21~31)(未作成) … 159 二-(2) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・11~20)(未作成) … 167 二-(3) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・21~30)(未作成) … 173 二-(4) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・5・1~10)(未作成) … 183 二-(5) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・7・1~10)(未作成) … 197 二-(6) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・7・11~20)(未作成) … 203 二-(7) 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・8・11~20)(未作成) … 211 三 満州事変陸軍衛生史第四巻[陸軍省](昭10・8・1)(未作成) … 217 四 北支那並満州国視察報告[工兵第4大隊中隊長](昭9・3)(未作成) … 233 五 飛行第一二連隊長ニ与フル注意事項[関東軍司令部](昭10・7・17)(未作成) … 241 六 陸軍軍事讐察月報[北支那派遺軍憲兵隊司令部](昭20・8・4)(未作成) … 247 七 駐屯地慰安所規定[「マンダレー」駐屯地司令部](昭18・5・26)(未作成) … 281 八 第五野戦輸送司令部駐屯地業務規定[第5野戦輸送司令部](昭18・10・3)(未作成) … 295 九 「マンダレー」駐屯地業務規定[第5野戦輸送司令部〕(昭18・10・20)(未作成) … 305 一〇 「マンダレー」駐屯地動務規定[第5野戦輸送司令部](昭20・1・2)(未作成) … 321 二、厚生省関係公表資料 5項目5点 一 日本派遺南方軍最高司令官宛聯合国指令書第一号[仏領印度支那聯合国軍司令官】(昭20・9・7)(未作成) … 339 二 沖縄本島ノ状況[歩兵第22連隊附軍医大尉](昭21・1・9)(未作成) … 341 三 南部セレペス賣淫施設(慰安所)調書〔セレペス民政部第2復員班長](昭21・6・20)(未作成) … 343 四 法務部(GHQ)少佐からの記録要求の件[終戦運絡事務局連絡官](昭22・1・9)(未作成) … 361 五 「俘虜名票」に関する調査結果概要[厚生省社会・援護局](昭22・1・9)(未作成) … 363 『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2641.html
http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/100323/plc1003231938012-n1.htm 【日韓歴史研究】「共同研究は不毛」 共通認識形成にはほど遠く 2010.3.23 19 35 日韓両国の超えられない政治課題を民間に「丸投げ」の形で委託された日韓歴史共同研究は、そもそもの立ち上がりから政治の手段だった。このための埋めがたい溝は第2期研究でより明白になった。政治的には「緩衝地帯」、学会間ではお互いを知る意味はあるものの、「歴史」の共通認識形成にはほど遠い現実が浮き彫りとなった。 教科書小グループ新設は平成17年6月の小泉純一郎首相と盧武鉉大統領の首脳会談で決まった。小泉氏の靖国神社参拝で冷却した日韓関係修復に向けた日本側の配慮の色彩が濃かった。 安倍晋三政権でスタートした第2期。安倍氏は韓国側の狙いは承知の上で、主力委員に「がんばって闘ってください」とエールを送り、「健全な議論」に期待を表明していた。 しかし韓国側は、日本の歴史教科書を「日本の近代史を帝国主義の侵略と戦争を擁護し正当化する立場」(金度亨延世大教授)とひとくくりにし、採択率約0・4%の扶桑社「新しい歴史教科書」などを過半数以上の採択率の東京書籍の教科書と同等に扱い、「右翼」「軍国主義」などの用語で攻撃した。 http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/100323/plc1003231938012-n2.htm 一部には『日本の教科書は戦争の拡大過程と占領地の事情についても記述している』(鄭在貞ソウル市立大教授)などと、バランスをとろうとした韓国側委員もあったが、「従軍慰安婦」と「(女子)挺身隊」と混同したままの『重大な欠陥を有した論文』もあり、大半の議論は平行線。このため『2年半にもわたる「歴史共同研究」を行いながら…はっきりした点がある。それは日韓の歴史教科書共同研究が不毛だったということである』(山室建徳帝京大准教授)と書いた委員もいたほどだ。 教科書小グループ幹事の古田博司筑波大教授は「韓国側のサンプリングは恣意(しい)的。当初から善玉・悪玉史観があり、それに合わせて資料を張り付けた観が否めない。日本側は多くの資料からの帰納的研究を目指したが、議論は全くかみ合わなかった」と総括した。 一方、植民地時代を含む19世紀中盤から現代までの近現代をあつかった第3分科会の日本側委員は「今年は日韓併合100年。植民地時代は35年だが、日韓にはその後の65年、日々新たに積み重ねた歴史がある。今研究では近代をトータルにみようと、共存の65年に文化や女性、人の動きといった違う視覚からのアプローチを試みた」と述べる。 だが、このテーマ設定に加え、韓国側は近現代分科会でも日本の教科書記述を扱うべきだと主張するなど紛糾。委員の一人は「文化的なテーマ設定に韓国側はことごとく反対し、議論は“格闘技”だった」と振り返った。(久保田るり子) 日韓歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/716.html
正論2006年9月号(産経新聞社・扶桑社) 靖国特集 沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実 弁護士 徳永信一 訂正された家永著作 『ある神話の背景』を発表して以後、曽野氏は沖縄のジャーナリズムから激しいバッシングを受けたという。しかし、沖縄県史を編集した沖縄史料編集所の大城将保元主任専門員は、『沖縄戦を考える』(ひるぎ社・昭和58年発行)の中でこう述べる。「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の神話に対して初めて怜例な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。『鉄の暴風』や『戦闘概要』などの記述の誤記や矛盾点などをたんねんに指摘し、赤松元隊長以下元隊員たちの証言をつき合わせて、自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。この事実関係については今のところ曽野説をくつがえすだけの反証はできていない」。 『ある神話の背景』出版の翌年、『沖縄問題二十年』は絶版となった。そして、昭和61年に発行された家永三郎著『太平洋戦争』の第二版は、初版本(昭和42年)にあった「赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に拠出して自殺せよと命じ」の部分を削除、訂正した。いうまでもないが、家永三郎氏は、自らが執筆した教科書の南京虐殺、七三一部隊等の日本現代史に関する記述に付された検定意見に反駿し、教科書検定制度そのものを違憲であるとして訴えた家永教科書裁判の原告である。一連の裁判は昭和40年の第一次提訴から平成7年に下された第3次訴訟の最高裁判決まで実に32年にわたって続けられ、世界一長い民事訴訟としてギネスブツクに記録されている。この裁判では沖縄の《軍命令による集団自決》の有無も争点となっており、家永氏が、裁判継続中に、著書から《赤松命令説》を削除したのは、それが歴史に耐えられないものであるとの評価を自ら下したからにほかならない。これによって《赤松命令説》を記述する岩波書店の書籍は、大江健二郎の『沖縄ノート』1冊だけとなった。 しかし、もう一つの神語――座間味島の《梅澤命令説》――は、そのまま残された。『太平洋戦争』は、次のように書いている。「座間味島の梅沢隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が命を失った」。 目次 | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1228.html
神戸新聞社説2008年3月29日 http //www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0000895231.shtml 集団自決判決/「関与」認定の意味は重い 太平洋戦争末期の沖縄戦では多くの住民が犠牲になった。米軍に殺された人だけではない。旧日本軍に死を強いられた人もいた。慶良間諸島の座間味島や渡嘉敷島の集団自決は、特に悲惨な例で知られる。 作家の大江健三郎さんは「沖縄ノート」(岩波新書)で惨劇に触れている。その記述で名誉を傷つけられたとして、旧日本軍守備隊長らが出版差し止めなどを求めた裁判で、大阪地裁は請求を退けた。 「集団自決には軍が深くかかわり、元隊長らの関与も十分推認できる」「自決命令があったと信じる理由があり、名誉棄損は成立しない」などと述べている。 沖縄戦については、悲惨な体験をくぐり抜けてきた人が、今も多く生存する。豊富な資料や米軍の作戦資料も残る。 判決は、そうした証言や資料から丹念に情報を集め、集団自決と日本軍の関係は動かしがたいものだとした。 「沖縄ノート」は、日本人と日本の民主主義を問い直した本だ。沖縄が本土に返還される二年前に出版された。 集団自決について「住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」という軍隊の命令があった、と記す。 両島の元守備隊長については「生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している」などと批判した。 元守備隊長らは「耐えがたい苦痛」を提訴の理由にしている。発刊から三十年以上たって法廷に持ち込まれた背景に、二〇〇三年の有事法制や、昨年の教科書検定意見での「軍の強制」排除など、右傾化の動きと結びつける指摘がある。 昨年の検定では、日本軍に強いられたという記述や軍の関与そのものも文部科学省によって削られた。大きな波紋を呼び、沖縄では抗議の県民集会に発展し、政治問題化した。その結果、日本軍による「強制」を、事実上認める表現が復活した。 検定で右往左往し、あらためて注目された問題が、判決で動かしがたい事実と認定された意味は重い。 判決後の会見で、大江さんは戦争を拒むことが戦後の民主主義が生んだ新しい精神と語った。検定で危うく歴史がゆがめられそうになったばかりである。同様の流れが検定などで再び起きないとも限らない。 道を踏み誤らないためにも、歴史と向き合う勇気を持つことが重要だ。今回の判決の重みをよくかみしめたい。 (3/29 09 27) 大阪地裁判決に対する各紙論評など
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2495.html
http //www.shinmai.co.jp/news/20100202/KT100201ETI090002000022.htm 日中歴史研究 継続で理解を深めたい 2月2日(火) 継続は力なり-。日中の有識者による歴史共同研究委員会の報告書に、そんな言葉を思い起こした。 報告書は、それぞれの研究論文をならべて公表したものだ。歴史観の違いは当然ある。 ここで目を向けたいのは、両政府の肝いりで始まった研究が一定の成果を挙げつつあるという事実である。課題を一つ一つ乗り越え、両国による歴史研究を粘り強く続けてもらいたい。 両政府が2006年に合意したプロジェクトである。双方が10名の研究者からなる委員会を設置し、「古代・中近世史」と「近現代史」の分野にわたって意見交換を続けてきた。 報告書は、これまでの積み重ねを論文として公表している。執筆者名を記した個人の論文の形をとっているが、「討論を経て得られた共通認識」や「相手方の主張でも共感できるもの」は、「論文中に体現されている」という。 報道された論文の要約を比較するかぎり、重要な事件について見解の差が目につく。 例えば、しばしば論議される南京大虐殺。犠牲者数について、日本側は「20万人を上限」とし、さまざまな推計があるとした。これに対して、中国側は「30万人以上」との見方に言及し、食い違いを見せている。 一方で、日本側は、日本軍による「集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦(ごうかん)、略奪や放火も頻発した」と明記。日中戦争についても、「中国に深い傷跡を残した」「原因の大半は日本側がつくり出した」などと書いている。 歴史を見る目がそれぞれの当事国によって違うのはやむを得ない。にもかかわらず、戦争についての大きな流れでは、共通の見方が深まりつつある印象を受ける。 共同研究は安倍晋三政権下で始まり、政権交代後の今日まで引き継がれている。共同研究の存在自体が、日本政府の歴史認識や対中外交にプラスの影響を及ぼしているとみるのが自然だ。これをてこに、文字通りの「一衣帯水」の関係を築いてもらいたい。 日本の歴史教育は近現代史が弱いと指摘されてきた。学校現場でも、研究の内容を授業に生かす工夫をしたらどうか。双方の論述を読み比べていけば、歴史がもっとよく分かるだろう。 経済成長著しい中国はいま、国際社会のなかで責任ある役割が求められている。今回の歴史研究の成果を踏まえたより柔軟な歴史観が必要とされるときである。 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/698.html
2005/7/24産経新聞記事 裁判の提訴日は8月5日だが、産経新聞はそれに先駆けたこの日、同時に2つの記事を掲載した。「裁判」と「教科書検定」と2つのプロモーションが密着連動していることを物語っている。 2005/7/24産経新聞記事沖縄戦集団自決「軍命令」…出版物・教科書で独り歩き 沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損 沖縄戦集団自決「軍命令」…出版物・教科書で独り歩き 産経新聞 平成17(2005)年7月24日[日] 集団自決が軍の命令だったとされてきた“歴史”が法廷で争われることになった。沖縄戦が住民を巻き込んだ悲惨な地上戦だったことは事実だが、軍の残虐性を示す“証拠”の発端は、島の長老と生存者による遺族のための悲しい口裏合わせだったという。最初に書かれた沖縄タイムス社の『鉄の暴風』の記述は大江健三郎氏の代表作『沖縄ノート』だけでなく、故家永三郎氏の『太平洋戦争』など多くの出版物や教科書で独り歩きしている。主なものを拾った。(教科書問題取材班) ◆鉄の暴風 《恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた》 《住民には自決用として、三十二発の手榴(しゅりゅう)弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。…阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた》 《座間味島駐屯の将兵は約一千余、…隊長は梅沢少佐…。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。…村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した》 ◆沖縄ノート 《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞(ぎまん)と他者への瞞着(まんちゃく)の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう》 《那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭(ふとう)では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである》 ◆太平洋戦争 《沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺進隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民三二九名が恩納河原でカミソリ・斧(おの)・鎌などを使い凄惨(せいさん)な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。座間味島の梅沢隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため三〇名が生命を失った》 ◆教科書 《日本軍にスパイ容疑で殺されたり、「集団自決」を強制されたりした人々もあった》《軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した》(日本書籍新社の中学歴史) 《日本軍によって集団自決を強いられた人々やスパイ容疑・命令不服従などを理由に殺された人々もおり…》(実教出版の高校世界史) 《犠牲者のなかには、慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本軍によって「集団自決」を強要された住民や虐殺された住民も含まれており…》(桐原書店の高校日本史) 《日本軍に「集団自決」を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた》(三省堂の高校日本史) 《戦陣訓によって投降することを禁じられていた日本軍では、一般住民にも集団自決が強いられたり、スパイ容疑や戦闘の邪魔になるとの理由による住民虐殺もおこった》(東京書籍の高校日本史) 沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損 産経新聞 平成17(2005)年7月24日[日] 先の大戦末期の沖縄戦で日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする出版物の記述は誤りで、名誉を棄損されたとして、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こすことが二十三日分かった。 訴えを起こすのは、沖縄戦で座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長を務めた梅沢裕・元少佐(88)と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)。 訴えられるのは、『沖縄ノート』(岩波新書)の著者の大江氏と、他にも故家永三郎氏の『太平洋戦争』(岩波現代文庫)、故中野好夫氏らの『沖縄問題20年』(岩波新書)などを出している岩波書店。 訴状などによると、米軍が沖縄の渡嘉敷島と座間味島に上陸した昭和二十年三月下旬、両島で起きた住民の集団自決について、大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。 沖縄戦の集団自決をめぐっては、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。 疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。 その後も、昭和史研究所(代表・中村粲元独協大教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1611.html
http //www.okinawatimes.co.jp/news/2008-11-12-M_1-025-1_003.html 2008年11月12日【朝刊】 社会 元戦隊長側が上告/「集団自決」訴訟 太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍が「集団自決(強制集団死)」を命じたとする作家大江健三郎さんの「沖縄ノート」などの記述をめぐり、慶良間諸島の当時の戦隊長らが出版差し止めなどを求めた訴訟で、元隊長ら側は十一日、一審に続き訴えを退けた大阪高裁判決を不服として上告した。 上告について、元隊長ら側弁護団は「控訴審判決は一定評価できるものの、名誉棄損の最高裁判例を変え、人格権を著しく後退させた」と説明した。 一方、大江さんは弁護士を通じて「この訴訟が、高校教科書から『軍の強制』が削除されるきっかけとなった。最高裁判決が元に戻す力となることを信じる」とのコメントを出した。 沖縄戦ニュース