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鯉の羹食いたる日は、鬢のそそげずとなん。… (百十八段) 鯉の羹食いたる日は、鬢のそそげずとなん。膠にも作るものなれば、ねばりたるものにこそ。鯉ばかりこそ、御前にても切らるる物なれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなき物なり。雉・松茸などは、御湯殿の上にかかりたるも苦しからず。その外は心うき事なり。中宮の御方の御湯殿の上の黒御棚に雁の見えつるを、北山入道殿の御覧じて帰らせ給いて、やがて御文にて、「かやうの物、さながらその姿にて御棚にゐて候ひし事、見ならはず、様あしき事なり。はかばしき人のさぶらはぬ故こそ」など、申されたりけり。 口語訳 鯉の吸い物を食べた日は、精気がついて鬢(びん)の毛がけば立たないという。鯉は、膠にも作るものであるから、きっと粘り気のあるものであろう。 鯉だけは、主上の御前においても、料理されるものであるから、特別上等の魚である。鳥では雉が、たぐいのない上等なものである。雉・松茸などは、御湯殿の上の間の棚に載っているのも差し支えない。そのほかのものが載っているのは厭わしいことである。中宮様の御殿の御湯殿の上の間の黒御棚に、雁の見えたのを、北山入道殿がご覧になって、すぐさまお手紙で、「こんな雁のような物が、そのままの姿で、御棚に載っておりましたことは、見なれない、みっともないことです。しっかりした人が、おそばに伺候していないからに相違ありますまい」などと、申されたということである。 時の権力者、関東申次で西園寺実兼が中宮である愛娘の禧子のいる御殿の御湯殿(台所か)で見かけた有るまじき見苦しいもの、即ち中宮の台所で雉ではなく雁が死んだままの姿で棚に無造作に置かれているのを見て、居ても立って居られなくて北山の邸に帰るや否や、直ちに文をしたためて苦言を呈したという次第であるが、単に愛娘に対するやさしい父性愛の発露と見るか、それとも内包するもっと深刻な問題を感知して堪らず手紙を出したのかどうか興味のあるところである。一般には、兼好が、この百十八段の鯉の話に基づく京の伝統文化の有り様と、続けて百十九段の鰹の食習慣が次第に定着して来た話題を基に、新たに台頭しつつある鎌倉の文化を取り上げ、更に百二十段では海を越えて滔々と流入する唐物を珍重する風潮を厳しく批判して、この三つの文化のせめぎあいを通して、迫り来る鎌倉末期の時代の変革を鋭く切り取って表現していると言われている三つの段章である。(『徒然草』の歴史学 五味文彦)時代の流れの変化を嗅ぎ取る事としては確かに指摘の通りであるが、西園寺実兼個人に焦点を合わせて時代を眺めていくと、また別の実相が浮び上がってくるのではなかろうか。百十八段は中宮に関する話なので、彼女が中宮になるのは元応元年(1319年)であり、後醍醐天皇即位の翌年のことである。しかし、西園寺禧子は、既に正和二年(1313年)に皇太子時代の尊治親王(当時二十六才)によって西園寺実兼の屋敷から略奪されて結婚させられている。彼女は十才のころか。父親の実兼は当初この事実を知って怒ったが、皇太子尊治親王の将来性を買って目をつぶることにした。いわば先行投資の思惑であったろう。天皇即位のときに女御になり、翌年に中宮に遇されているのを見て、父の実兼も怒りを収めたことであろう。関東申次という絶大なる権力を保持している上に、なおかつ天皇の舅という立場を手にすれば権力強化のためにはこれ以上の好都合な条件はないからである。しかし、事は実兼の思惑通りにはいかなかったのである。一つには後醍醐天皇自身の政治姿勢による。御存知のように倒幕に執念を燃やし、死ぬまで武家政権打倒を目指して波乱万丈の生涯をおくり静穏の日々とてなかった。その倒幕運動の影響を蒙って京都の朝廷は北朝・南朝の争いも激化して、両統の対立も決定的になり不安定な政治情勢を醸しだして、既存の勢力の権威・秩序は混乱、破壊されて失墜していった。公武交渉の朝廷側の窓口である関東申次の地位もさしたる重きをなさず例外なく低下していった。しかし、実兼は元亨二年(1322年)没だから幕末の貴族たちの没落を目の当たりにすることがなかったことだけは救いだったか。もう一つは禧子自身の問題である。後醍醐天皇との間に懽子という一人の内親王を儲けたか(増鏡)、或いは「一生空しく玉顔に近づかせ給はず」(太平記)と、愛情の乏しいことが記述されて子のないことが示唆されている。皇子はいなかったようで、いずれにせよどちらの資料によっても、彼女自身子宝にはあまり恵まれなかったことだけは事実である。一方、かつて中宮・禧子の女房だった阿野廉子は後醍醐天皇に見初められて、直ちに側室に取り立てられている。それは、「阿野中将公康の女に、三位殿の局と申ける女房(廉子)、中宮(禧子)の御方に候れけるを、君(後醍醐)一度御覧ぜられて、他に異なる御覚あり」(太平記)と書かれ、一目ぼれの体をなしている。 後醍醐は美しく才気のある廉子に魅せられて、以後深い愛情注ぐようになっている。それを裏付けるかのように廉子は、正中二年(1325年)に恒良親王、翌嘉暦元年(1326年)成良親王、同三年(1328年)には義良親王(南朝の後村上天皇)といった具合に次々と皇子を生んでいる。その他に祥子、惟子といった皇女ももうけている。廉子は中宮・禧子の女房として仕えていたところを後醍醐天皇に見初められて引き抜かれて側室になったのは元応元年(1319年)以降より後の時期と考えて間違えのないところである。中宮・禧子の女房たちのチームから、機転のきく廉子が抜けて恐らく裳抜けの殻の状態だったのではないか。天皇の寵愛も廉子が去るとともに彼女ほうに移っていったであろうし、残った女房たちは意気消沈していたのではなかろうか。朝廷の伝統も何もあったものではなかったか。 徒然草の百十八段は、正に中心的な存在の廉子が抜けてあまり機能していない禧子の女房たちの様子を暗示しているかの如く、御湯殿の黒御棚の有様を見て女房たちの実態を見抜いた実兼が危機と感じて、「かやうの物(雁)、さながらその姿にて御棚にゐて候ひし事、様あしき事なり。はかばしき人(しっかりした人)のさぶらはぬ故にこそ」とすぐさま手紙で注意をしたというエピソードを披露している。はかばしき人とは恐らく廉子を意識してのことだろう。単なる女同士の寵を得るための争いではない。父親としての私情よりも、公権力の頂点に立つものの本能的な防衛手段が中宮・禧子の立場をより覚醒させるための行動であったかも知れない。 西園寺家は承久の乱(1221年)で公経・実氏親子が幕府に協力して鎌倉から認められ、それを機に前関白九条道家の後任に関東申次に実氏がなって以来代々当主が世襲してきて一段と政治的な力を蓄えてきた。北条氏の鎌倉幕府が強力なるのと比例してである。西園寺実兼(1249~1322)は実氏の孫で正応二年に内大臣になり、正応四年(1291年)には太政大臣まで登りつめた。関東申次は一旦息子の公衝に譲り渡したが、彼の死(1315年)で再び関東申次に返り咲いた。都の政界は京都と鎌倉の関係に加えて朝廷も二つに分裂して、複雑で難しい時期に差し掛かっているために若年の経験の浅い実衝には関東申次は任が重く、再び実兼が任に就いたのである。その実兼も元亨二年には亡くなる。兼好がこの文章に書いた内容の時期は後醍醐天皇が即位(1318年)した翌年に禧子が中宮になってから以降で、実兼が亡くなる以前と比定されてよいのではないか。更に絞れば後醍醐天皇が院政を停止して親政に切り替えた頃(1321年)としても当たらずといえども遠からずではないか。つまり父後宇多上皇の桎梏から解放されて自前の政治カラーを積極的に打ち出す頃と敢えて考えてもよいかも知れない。後醍醐天皇の後ろ楯のつもりが次第に己から離れ自由且つ大胆な行為が鮮明になり、関東申次として天皇をコントロール出来ない焦燥感を実兼自身は感じ取っていたのかも知れない。 また、実兼に関する話題を兼好は二百三十一段に取り上げている。「百日の鯉」を切る話として有名な段である。話の大要は、園の別当入道基氏は、比類のない料理人との評判である。ある人のところで、みごとな鯉が出されたので、居合わせた一同が別当入道の包丁さばきを見たいと思ったが、軽々しく言い出せないでいたところ、その気配を察した別当入道が、自分は今、百日の鯉の修行(百日間にわたって鯉を切る修行)をしているところなので、ぜひとも私に切らせて欲しいと申し出て鯉を切った。その場にふさわしい興趣のある行為だと居合わせた人々は感じ入った様子で、この話をある人が北山の太政入道(西園寺実兼)に話したところ、聞いた北山入道は、その言い様は自分にはわずらわしく覚えるとして、切る適当な人がいないならば私が切りましょうと、もっと自然にいうべきであって、どうして「百日の鯉」を切るなどといったのか、と批判したという。兼好はその話題を受けて、「大方、趣向を弄しておもしろみがあるよりも、おもしろみがなくとも、素直で穏当なのがまさっているものである。」と評して、何かにかこつけて物事を行なったり、ついでを装うのはよくないことだと指摘して、たとい北山入道と別当入道の間に多少なりの確執があったにせよ、自然体がモットーの北山入道に軍配をあげている。この段の話の頃は、実兼は関東申次として幕府と朝廷の連絡役として充分機能しいて、京都の政界では「北山の太政入道」として重んぜられていた。充分な権勢を背景に貫禄もあり、悠揚迫らぬ自然な振る舞いが身についていたことの反映であろう。百十八段の娘である中宮・禧子に苦言を呈する父親の姿とは打って変わって大いなる相違がある。実兼は、当初伏見院の近くに仕えていて持明院統と深い関係があったものの、伏見院の懐刀である京極為兼と対立するようになってからは、大覚寺統の後宇多院に接近して乗り換え、関東申次の立場を利用して後醍醐天皇の実現に向けて幕府に働きかけをする。事実持明院統から大覚寺統への政権交代が成功して(1318年、後醍醐天皇即位)、北山の太政入道としての実兼の地位にも一層の箔がつくのである。そこまではよかったが、後醍醐天皇が誰からも差配されずに次第に朝廷内でモンスター的な大きな存在に化していくと実兼の関東申次としての重みが相対的に軽くなり変調が感じられるのである。つまり「百日の鯉」の挿話と「鯉の羹食ひたる日」の挿話の間には実兼自身の上に微妙な立場の差異が透けて見えてくるのである。更に、中宮・禧子の存在が絡んでくるとなると父親としての苦悩も倍増されてくるのではあるまいか。 尊治親王(後醍醐天皇)が皇太子になったのは二十一才(ふつうなら天皇の座から上皇になってもおかしくない年令)で、異常に遅咲きの立太子である。母の出自が低いのと次男坊であることがアキレス腱となって出世が遅れたのである。期待されていなかった証拠に尊治親王の周囲には有力な貴族の子弟がブレーンとしてついていなかった。天皇に即位する可能性の高い皇子の周辺には早くから有力貴族の子弟がお相手仲間として送りこまれ、将来即位した暁には廟堂に参内できる有力な一員となることを見越しての先物買い的な措置を取るのが一般的である。尊治親王の周囲には有力貴族の子弟がいなかった。確かな後ろ楯が欲しいとの思いは常に懐いていたであろう。先にも述べたように、皇太子時代に禧子を略奪(1313年、尊治親王二十六才)という穏やかならぬ手段で西園寺実兼の姫君を手に入れたのも、関東申次西園寺家と姻戚関係を結び不安定な立場を強化して確かな後ろ楯を確保するねらいがあっての冷徹な計算ではなかったか。実兼も当初は戸惑い怒りもしたが、尊治親王が皇太子として頭角をあらわし且つ天皇の座が約束されていること、禧子への扱いがそれなりに穏当なものであったから、しだいに態度も軟化して禧子の結婚を追認する形となった。文保二年(1318年)尊治親王が践祚して後醍醐天皇になると禧子は女御になり、翌年正室の中宮(十六才、太平記)になっている。中宮には先にも述べたように皇子はいなかった。後醍醐天皇は嘉暦元年(1326年)、禧子の御産御祈の名目のもとに七仏薬師・冥道供の祈祷をはじめて、元徳元年(1329年)まで続けたが、この祈祷のねらいは幕府転覆の調伏にあって、安産祈祷は隠れ蓑にすぎなかった。しかも、正中元年(1324年)には、いわゆる正中の変を起こして失敗したばかりなのにである。並みの神経の持ち主では出来ない話である。後醍醐天皇の行動は朝廷内では最早誰にも阻止することはできなかった。突出する天皇の行動を見かねて側近の一人吉田定房が苦悩の末、倒幕計画の責任を日野俊基に押し付けて六波羅に密告してしまう。いわゆる元弘の変(1331年)である。倒幕運動の幕開けである。スタート時は後醍醐天皇側の失敗で、天皇は同年九月に幕府に捕らえられると、禧子は幕府の指示で同じく十一月実家に戻された。幕府の後押しのもと即位した持明院統の光厳天皇の朝廷は、後醍醐天皇(自らは退位せず)が隠岐に流された後の正慶元年(1332年)五月、禧子に「礼成門院」という院号を贈っている。彼女は同年八月に出家した。仏門に入って仏の教えに帰依しようとしたが、時代は目まぐるしく動いて翌年(1333年)五月幕府はもろくも倒壊して、光厳天皇は余儀なく廃位に追い込まれた。隠岐を脱出して京都へ凱旋した後醍醐天皇により、仏門に入っていた禧子はふたたび中宮(1334年)として内裏に召し出され、皇太后宮の尊号が贈られる。正に激動の時代に翻弄された激しい変わり様であった。しかし、この頃は既に彼女は病に冒されており(「御心煩はせ給ふ」太平記より)、同年十月に没した。死の直前後醍醐天皇は、禧子の「礼成門院」という院号を停止して、あらたに「後京極院」という院号を贈った。天皇のせめての餞であったのだろうか。享年三十才(太平記)である。誠に彼女の短い生涯ではあるが後醍醐天皇によって翻弄されたといっても過言ではない。庶民の感覚からいえば、愚痴のひとつも言いたくなるところではあるが、後醍醐天皇が元弘の変に失敗して六波羅に捕らわれ、しばらくの間留め置かれた折に天皇と禧子との間に取り交わされた歌がある。(増鏡の「第十六 久米のさら山」、六波羅の先帝後醍醐の章より)長く六波羅に留まっている先帝に中宮よりお慰めになるかとて御琵琶を奉ったついでにちょっとした紙片に歌を書きつけている。 思いやれ塵のみつもる四つの緒(琵琶)にはらひもあへずかかる涙を後京極院(禧子) (訳 思いやってください。(弾くこともなく、こんなに)塵ばかりが積もる琵琶に、払うひまもなく落ちかかるこの涙を。) それにたいして、いかにももっともだと思いやられるにつけても、たいそう悲しくて、先帝(後醍醐)も涙を雨だれのようにこぼされる。…として、お返しの歌 かきたてし音をたちはてて君恋ふる涙の玉の緒とぞなりける後醍醐天皇 (訳 その昔かき鳴らした琵琶の音も、すっかり絶ってしまって、その緒があなたを恋うる涙の玉を貫く糸になってしまった。) 後醍醐天皇は琵琶の名手としても鳴らした程の腕前ではあるが、倒幕という大博打にうって出て、琵琶なぞかき鳴らすゆとりはなかったのだ。それを見ての禧子の心配りなのであろうか。天皇によって自分の生涯がめちゃめちゃになったなどとはおくびにも出していない。天皇をお慕いしている切なさは訴えているものの、恨み言は述べていない。朝廷に連なる貴族の見事なまでの心根としかいいようがない、確固たる貴族の美学である。例え、後醍醐天皇に翻弄された生涯であっても貴族は貴族の世界(文化)に生きるしか術のなかった人のスタイルであったであろう。 なお、準勅撰集「新葉集」巻十八の雑下には次のように収められている。 「いかなる時にかありけむ、御琵琶を召されけるを、奉らせ給ふとて」の詞書のもとに 思いやれ塵のみつもる四つの緒にはらひもあへずかかる涙を後京極院 御返し 涙ゆゑ半ばの月はくもるともなれて見しよの影は忘れじ後醍醐天皇御製 新葉集は禧子の歌は増鏡と変らないが、後醍醐天皇の歌は大分変更になっている。増鏡の歌は女々しいとでも感じたからなのだろうか、新葉集の方はさりげなく追慕の念を打ち出して詠んでいる。 後醍醐天皇にとっては、禧子はある意味で大事な人の一人違いなかった。彼女の持って生まれた血筋がそれである。天皇が、一度仏門に入った禧子を内裏に呼び戻して再度中宮としているのも、実質の后である廉子では務まらない血統の高さがあっからである。かつて母の談天門院忠子が家格の低さから我が身が苦労しているのを経験しているにも拘らずである。血統の高貴さは何物にも変えがたい貴重なものであった。彼女は過酷な運命を強いられたのではなく、高貴なるが故の当然の帰結であったともいえのである。京の朝廷ではいかに美しく才気があったとしても廉子は中宮にはなれなかったのである。 兼好が開けた歴史の小窓から、西園寺実兼・禧子親子にスポットを当てて時代の風景を眺めたが、貴族世界の思わぬ人間模様を垣間見た思いがするが如何であろうか。 西大寺靜然上人、腰かがまり、眉白く… (百五十二段)」に続く。 参考文献 増鏡 井上宗雄 全訳注 講談社学術文庫 講談社刊 「徒然草」の歴史学 五味文彦 朝日選書 後醍醐天皇 森 茂暁 中央公論新社刊 太平記の群像 森 茂暁 角川書店刊
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問題文 答え × 「エバラ焼肉のたれ」の名前の由来となった荏原区があったのは今の何区? 品川区 大田区 港区 目黒区 「女子大生シンガー」として話題の女性歌手・JYONGRIが通っている大学は 早稲田大学ですが、青山テルマが通っている大学は? 上智大学 東京大学 早稲田大学 慶應義塾大学 「女子大生シンガー」として話題の女性歌手・JYONGRIが通っている大学は? 早稲田大学 東京大学 上智大学 慶應義塾大学 「東京マラソン」が始まったのは西暦何年? 2007年 2006年 2008年 2005年 『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラが車体に描かれた「鬼太郎バス」が走っている東京の都市は? 調布市 武蔵野市 府中市 三鷹市 1877年に第1回内国勧業博覧会が開かれたのはどこ? 上野公園 代々木公園 芝公園 井の頭公園 1958年に初めてバイキング料理を出した東京のホテルは? 帝国ホテル 赤坂プリンスホテル ホテルオークラ 都ホテル 1988年に東京ドームのこけら落としコンサートを行ったグループは? THE ALFEE B z globe サザンオールスターズ 1989年から1995年まで東京藝術大学の学長を務めた、シルクロードをテーマとした作品で知られる画家は? 平山郁夫 山下清 横山大観 竹久夢二 2000年に完成した地上27階のボアソナード・タワーといえばどこの私立大学の建物? 法政大学 明治大学 慶應義塾大学 立教大学 2002年にオープンした電通四季劇場「海」がある観光スポットはどこ? 汐留シオサイト 天王洲アイル 六本木ヒルズ 東京ミッドタウン 2003年から05年までディスコ「マハラジャ東京」があったのは東京のどこ? 六本木 銀座 原宿 渋谷 2003年公開の映画『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS』でゴジラが破壊した東京の観光名所は? 東京タワー 東京都庁 六本木ヒルズ フジテレビ本社 2004年に安藤忠雄の設計による「東京アートミュージアム」がオープンした東京都の都市は? 調布市 三鷹市 国分寺市 武蔵野市 2004年公開の映画『ロスト・イン・トランスレーション』の舞台となっている東京のホテルは? パークハイアット 京王プラザ ロイヤルパーク ホテルニューオータニ 2009年に女優の井上真央、北川景子が卒業した大学は? 明治大学 法政大学 立教大学 慶應義塾大学 2010年度より年間予算の一部を積み立て運用し、その運用益を原資に2020年度から区民税減税を実施するのは東京都何区? 杉並区 渋谷区 江戸川区 世田谷区 2016年の夏季五輪開催地が東京に決定した場合、近代五種の馬術・ランニング・射撃が行われる競馬場は? 大井競馬場 川崎競馬場 中山競馬場 東京競馬場 JR山手線で駅と駅の距離が最も長いのは何駅と何駅の間? 品川-田町 日暮里-西日暮里 東京-有楽町 新宿-代々木 江戸時代の有名な刑場で鈴が森刑場跡があるのは東京都 品川区ですが、小塚原刑場跡地があるのは東京都の何区? 荒川区 目黒区 港区 品川区 お正月の初詣で有名な明治神宮があるのは東京の何区? 渋谷区 新宿区 港区 文京区 これにちなんだ「自由が丘女神まつり」も開催される、東急自由が丘駅前正面口のロータリーに立つ女神像の名前は? あおぞら きぼう ゆうじょう ゆうき もともと「環状5号線」として整備された道路の通称は? 明治通り 甲州街道 晴海通り 靖国通り ラグビー部が日本一になったとき『荒ぶる』という歌を歌う慣わしがある大学は? 早稲田大学 大東文化大学 慶應義塾大学 法政大学 画家・岡本太郎の代表作『明日の神話』が現在展示されている東京の駅は? 渋谷駅 有楽町駅 上野駅 新宿駅 芥川賞・直木賞の選考が行われる場所として有名な東京の築地にある料亭、新喜楽の設計者は? 吉田五十八 安藤忠雄 丹下健三 岡田信一郎 外国人タレントのデーブ・スペクターが1972年に留学した日本の大学は? 上智大学 明治大学 早稲田大学 法政大学 気象庁が桜の開花の目安とする標準木がある東京の神社はどこ? 靖国神社 東京大神宮 大国魂神社 明治神宮 江戸時代の画家・尾形光琳の国宝『燕子花図屏風』を所蔵している東京の美術館は? 根津美術館 サントリー美術館 東京国立美術館 東京富士美術館 次のうち、千代田区一ツ橋二丁目三番にある出版社は? 小学館 三省堂 新潮社 講談社 次のうち、大田区に実際にある橋は? ガス橋 水道橋 電気橋 電話橋 次のうち、東京に実際ある博物館は? ボタンの博物館 ファスナーの博物館 靴紐の博物館 眼鏡のフレーム博物館 次のうち、東京に実際にある博物館は? ブレーキ博物館 エンジン博物館 ギヤ博物館 アクセル博物館 次のうち、東京都豊島区のナムコ・ナンジャタウン内にあるフードテーマパークはどれ? 池袋餃子スタジアム 池袋カレースタジアム 池袋焼き鳥スタジアム 池袋ラーメンスタジアム 次のうち、郵便番号「100-0001」にある施設は? 皇居 東京都庁 東京駅 国会議事堂 次のうち目黒区に実際にある地名は? 五本木 六本木 三本木 四本木 松方コレクションを基にして1959年に設立された東京都台東区の上野公園内にある美術館は? 国立西洋美術館 サントリー美術館 東京富士美術館 東京都美術館 正式名称を「東京都道302号新宿両国線」という道路の通称は? 靖国通り 明治通り 甲州通り 晴海通り 千代田区を基点とする国道246号線はかつて何街道と呼ばれていた? 大山街道 甲州街道 中原街道 鎌倉街道 多摩美術大学がある東京都の都市はどこ? 八王子市 町田市 三鷹市 調布市 代表作に「そりのあるかたち」シリーズがある彫刻家で、東京スカイツリーのデザイン監修を安藤忠雄とともに務めるのは? 澄川喜一 戸谷成雄 宮田亮平 土屋公雄 東京・お台場の博物館「船の科学館」があるのは東京都 品川区ですが、「日本科学未来館」が位置するのは東京都何区? 江東区 品川区 港区 江戸川区 東京・お台場の博物館「船の科学館」が位置するのは東京都何区? 品川区 中央区 港区 江戸川区 東京・赤坂にある和食料理の店「菜之家 わいんち」の店主であるお笑い芸人は? 田村亮 山口智充 蛍原徹 矢部浩之 東京23区を除く東京都の都市で最も人口が多いのは 八王子市ですが、2番目に人口が多い都市は? 町田市 多摩市 八王子市 三鷹市 東京ドームシティ内の複合施設「ラクーア」にある世界初の中心軸のない観覧車の名前は? ビッグ・オー レッドバロン キングゲイナー グラヴィオン 東京にある観光名所、六本木ヒルズがある場所は江戸時代に何家の屋敷が建っていた? 毛利家 細川家 前田家 島津家 東京のJR池袋駅西口近くにある「BIG TREE THEATER」「BOX in BOX THEATER」「BASE THEATER」の3つからなる小劇場は? シアターグリーン シアターブルー シアターレッド シアターホワイト 東京のJR池袋駅北にある歩行者専用トンネル「雑司が谷隧道」の愛称は? WE ROAD OUR ROAD MY ROAD I ROAD 東京のお笑い専門の劇場「ルミネtheよしもと」があるのは、JR新宿駅に隣接する「LUMINE2」の何階? 7階 6階 4階 5階 東京のお台場にある日本科学未来館の館長を務める宇宙飛行士は? 毛利衛 若田光一 野口聡一 土井隆雄 東京の三鷹にある三鷹の森ジブリ美術館のチケットを独占販売しているコンビニエンスストアは? ローソン am/pm サークルKサンクス ファミリーマート 東京の千代田区にある国会議事堂は何階建て? 9階建て 6階建て 7階建て 8階建て 東京の浅草や人形町にある老舗「今半」といえばどんな料理で有名なお店? すき焼き どじょう鍋 親子丼 お寿司 東京の田無駅近辺を舞台にしたアニメといえば? 『あたしンち』 『クレヨンしんちゃん』 『ちびまる子ちゃん』 『ケロロ軍曹』 東京都にあるお寺で唯一、坂東三十三箇所観音霊場の札所となっているのは? 浅草寺 禅林寺 泉岳寺 護国寺 東京都のすべての市町村の中で最も面積が大きいのは? 奥多摩町 大島町 八丈町 瑞穂町 東京都稲城市にある稲城中央公園と稲城第二公園を結ぶ歩道橋のことを、その独特の形から何という? くじら橋 ひらめ橋 ひとで橋 くらげ橋 東京都葛飾区にある寺で一般に「柴又帝釈天」の名前で知られ、映画『男はつらいよ』にも登場するのは? 題教寺 長雲寺 蓮華寺 上聖寺 東京都港区の表参道駅構内にある地下街「Echika表参道」のマスコットキャラクター、エチカちゃんはどんな動物? ウサギ ライオン カメ クマ 東京都青梅市で青梅マラソンが開催されるのは毎年何月? 2月 1月 4月 5月 東京都台東区浅草にある神谷バーの名物として有名な「電気ブラン」のベースになっているお酒は? ブランデー ジン ウォッカ ラム 東京都豊島区にある曹洞宗の寺で、「巣鴨のとげぬき地蔵尊」として多くの参拝者を集めるのは? 高岩寺 光厳寺 新井薬師 乗蓮寺 東京都墨田区に建設中の東京スカイツリーの設計者は? 安藤忠雄 丹下健三 前川國男 内藤多仲 東京農業大学の応援歌「青山ほとり」のことをある野菜の名前を使って何という? 大根踊り ごぼう踊り 蓮根踊り 玉ねぎ踊り 日本サッカーミュージアムがあるのは東京都何区? 文京区 豊島区 港区 渋谷区 日本で初めて半チャーハンとラーメンのセットを出した東京都千代田区神田神保町にある中華料理店は? さぶちゃん だいちゃん たかちゃん まるちゃん 俳優の役所広司がかつて勤めていたのはどこの役所? 千代田区役所 品川区役所 新宿区役所 渋谷区役所 毎年4月上旬に内閣総理大臣が主催する「桜を見る会」が開催される場所はどこ? 新宿御苑 寛永寺 上野公園 明治神宮 明治時代に小菅丹治が現在の秋葉原駅前で創業した、呉服店を前身とする百貨店は? 伊勢丹 大丸 高島屋 松屋 明治時代に浅草に建てられ関東大震災で崩壊した塔「凌雲閣」は何階建てだった? 12階 13階 14階 11階
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登録日:2018/01/21 (日) 17 17 14 更新日:2023/07/20 Thu 19 26 11NEW! 所要時間:約 7 分で読めます ▽タグ一覧 YAIBA エロジジイ エロ仙人 ジジイ スケベ チビ ナルシスト ブレーン ムサシ 亀の甲より年の劫 二頭身 佐藤正治 剣聖 剣豪 宮本武蔵 師匠 策士 若い頃はイケメン 解説役 長寿 長生き 食いしん坊 フン、お前も剣を志しているのなら、しっておろう… ようきけ!ワシの名は… 宮本武蔵じゃ… 漫画『YAIBA』の登場人物。 実在する剣豪をモデルにした人物だが、ここでは『YAIBA』に登場する「宮本武蔵」について解説する。 CV:佐藤正治 人物 巌流島の戦いで有名な剣豪「宮本武蔵」本人。 史実では1645年(正保2年)に死去したとされているが、この世界では今でも健在である。ちなみに年齢はもうすぐ410歳(ヤマタノオロチ編時点)。 昔はかなりの男前であったが今では見る影もなくヨボヨボになっており、身長の低い鉄刃よりさらに小さい二頭身の爺さんになっている。 長い髭と眉毛が特徴。よく「ヒョッヒョッヒョッ…」と笑う。 武蔵に憧れていた峰さやかの祖母は彼の現在の姿を見た途端に幻滅し、 かつてのライバルだった佐々木小次郎や弟子の柳生十兵衛も指摘されるまで彼が武蔵本人である事に気づかなかった。 刃の父・剣十郎とも知り合いだが、かつて名刀コテツを剣十郎に盗まれた事があり、今でもその事を気にしている。 現在まで負けを失った事がないらしく、二頭身になったもののその剣技は未だ衰えていない。自称「100万年に一度のスーパーグレイトストロング剣士」。 全盛期には屋根から落ちてきた木材を一瞬で2万回斬り、更に自身の銘を入れていたほど。 身体能力も高く機敏な動きをする事も出来るが、やはり歳には勝てず肝心な時にぎっくり腰になって動けなくなる事もしばしば。 刃一行のブレイン的存在で、豊富な知識や経験を生かして経験の浅い刃一行を導く。 また血気盛んな刃が後先考えずに行動しようとすると「バカモノ!!」と諌める事もある。 しかし、彼が立てる作戦は(所謂講談や小説に出てくる「武蔵」のように)ズルイ物も多く、さやかに「こういう卑怯な手は得意よね~」と褒められた(?)事がある。 刃が雷神剣を手にした事をきっかけに、彼を立派なサムライにするための修行を課すようになった。 そのため刃にとっては師のような存在だが、彼が刃に課している修行には剣の腕を磨くのに役立たなさそうなものも多くあり、 刃は「わけのわかんない修行」と半信半疑に思いながら修行に付き合っている。 ちなみに刃が戦っている時には解説役に回っている事が多い。 金にがめつく相当なスケベ。 これでも昔は硬派だったが、過去に起きたある出来事によって女好きとなった(詳しくは後述)。 また刃に負けず劣らず食い意地が張っており、山篭りしていた時には麓の村で頻繁に食料を盗んでいた。 小次郎を倒した事を鼻にかけており、「小次郎やぶれたり」という本に兵法はなんたるかを記して肌身離さず持ち歩いている。 ちなみに小次郎が現代に蘇るまでは、毎年彼の墓参りに巌流島を訪れていた(その度に憎まれ口を叩いているが)。 普段は仲が良いが実は未だにライバル心剥き出しであり、子供が父親に「ムサシとコジローってどっちが強いの」と質問した際には2人して自分だと主張したり、 TVの時代劇で巌流島の戦いを目にするとその都度お茶の間で乱闘を繰り広げたりしている。 活躍 風神剣、雷神剣登場~国会議事堂決戦編 伝説の「雷神剣」を抜く事が出来る伝説のサムライを見出すため、400年間ずっと天狗岳に篭っていた。 その雷神剣が光った事で鬼が現代に蘇った事を察知し、この剣を抜ける伝説のサムライが来るのを待ち望んでいたが、抜いたのはまだまだ未熟者であった刃だった。 自分ですら抜けなかった雷神剣を刃にあっさり抜かれた事で最初は「この世の終わり」だと嘆いていたが、 刃を天下無双のサムライに育て上げる事こそが自らに課せられた使命だと思い直し、刃を伝説のサムライに仕立てる事を決意した。 その後は刃に数々の修行を課しながら魔王鬼丸の待つ東京へと向かい、その道中で宿命のライバルである小次郎とも再会する。 鬼丸城での決戦では、鬼丸の刺客に苦戦する刃を知恵でサポートし、数々のピンチを切り抜けた。 また敵の作戦で急激に老化した刃と小次郎が玉手箱で元に戻ろうとした時には、便乗して自分も若返ろうとするも、煙を浴びても全く変化がなかった(クモ男曰く「歳の取りすぎ」)。 玉収集~富士山決戦編 空飛ぶ鬼丸城に乗り込む手段を考えていた時に、龍神の玉の在り処を示した(と思われる)地図を見つける。 その途端「雷神剣に龍神の玉をはめ込んだら自由自在に空を飛ぶ事ができる!!……はず」と言い出し、刃達と玉を探す旅に出る。 今回立ちはだかったのは鬼丸の手で蘇った剣士剣豪であり、その中には知り合い(三好清海入道など)もいた(*1)が、 その道中でかつての弟子であった柳生十兵衛光厳と再会すると、鬼丸の手で蘇ったと気づかずにそのまま仲間に加えた (十兵衛には鬼丸の手で蘇ったという自覚はなく、武蔵の変わり果てた姿を見てひどく落ち込んで切腹しようとしていたが)。 松尾芭蕉との戦いで石化した際には、刃とさやかのせいで自慢の眉毛がポキポキ折れてしまうが、接着剤で繋げた事でどうにかなった。 月の女王かぐや編 がくやから命からがら逃げた後で、刃に強靭な体力をつけさせる修行を課すが、そのすぐ後で鬼丸とかぐやの戦いが始まった。 それを知ると、彼らに潰しあいをさせて生き残ったほうと戦う事を思いつき、それまで刃にこの事を黙っておこうとするが、ひょんな事ですぐにばれてしまう。 さやかがかぐや一味にさらわれると、最終手段としてカーボン化した鬼丸の復活を決断し、刃と復活した鬼丸を協力させてかぐやと対抗しようとした。 最終決戦でも仲間や鬼丸一味と敵本拠地に乗り込み、刃の戦いをサポートした。 タイムスリップ編 時は慶応17年。 小次郎との決闘前日に、未来からやってきた刃とナマコ男と出会い、恋人のおつう(*2)とも再会する。 刃達から事情を聞いた後で「決闘にわざと遅れて小次郎に勝利した」と決闘の結末を聞き、 遅れないよう前の晩から張り切って身支度をするが、その事で歴史が狂い始めた事で雷神剣と刃そのものが消えかけてしまう。 それに気づいた刃は彼の気を引くために「未来のミニスカートの女の子」の話を切り出す。 その話に興味を持った武蔵は酒を飲みながらその話を聞き、朝になる頃にはぐっすり眠っていた。 その後はなんやかんやで武蔵は小次郎に勝利し、歴史は守られる事となったのだが、 刃のスケベな話に興味を持った事で「極楽のような未来を見るまで生き抜いてみせる」と決意し、現代まで生きながらえる事となった。 地底人出現編 地底からピラミッドが出現した後は峰家で待機していたが、ピラミッドが崩れそうになった時には庄之介と駆けつけ、完全に崩れる前に刃達を救出した。 その後は世界各地にピラミッドが現れ「ワシらの手にはおえん」と諦めかけるが、刃が雷神剣と風神剣が融合した新たな剣(覇王剣)を持っている事を知ると 「これなら渡り合えるかもしれん」と思い直し、地の民の企てを阻止するため一行と地下帝国へ向かった。 地の民が今回の黒幕だった鬼丸に裏切られた事で手のひら返しをした時には「誰がきさまらのために戦うか!!」と激怒する。 だが刃が「地の民にエメラルドのような悲しい戦士を作らせないため」に戦おうとしている事を知ると黙って彼を見送り、 刃が勝つまで人間の誇りにかけてここを動かないという決意を見せ、戦いの行く末を仲間と共に見届けた。 ヤマタノオロチ最終決戦編 鬼丸がヤマタノオロチの封印を解いて回っている事を知り、刃達とそれを阻止する旅に出る。 鬼丸との決戦では自らも刀を抜いて戦うが、力及ばずオロチが復活。完全に復活する前に何とか逃げるが日本列島がオロチと化してしまった。 その後はオロチの角を切ろうとする刃とさやかを送り出し、地下帝国で彼らの戦いを見守る。 そして鬼丸が倒されオロチの角が切られると、真っ先に刃のもとへ駆けつけ「終わったんじゃよ…長い長い戦いがのう…」と感慨を込めて言っていた。 織田信長御前試合編 刃の剣道の試合の応援に来ていた時に、謎の少女・諸羽と出会い、彼女の剣の癖が刃と似ている事を一瞬で見抜く。 そして彼女が刃の妹だと判明し、刃の母親とされる女性・美智子がかなりの美人だと知った時には驚いていた。 その後、諸羽によってルール無用の賭博試合・織田信長御前試合の第1回優勝者である事が発覚。 しかしこれは苦い経験であったらしく、武蔵は以降の御前試合には二度と出場していなかった。 何故そうなったのかについては、この後を読み進めていくと察することができるが、 「武蔵以外に賭けていた者たちからの恨みを大いに買ってしまい、刺客や追っ手を差し向けられ相当な苦労や迷惑をした」ことと、 「織田信長御前試合の、対戦相手にトドメを刺すまで戦い続けるルールが受け入れ難かった」ためだと思われる。 その試合に刃が出たいと言い出したので、さやか達と一緒に会場のあるヨロイ島へと向かった。 試合中には「戦いに情けは無用」と度々言う諸羽に対し侍とはなんたるかを説き、彼女の考え方を次第に変えていく。 そして刃が優勝を果たした後は、刃を「ギラギラしている抜き身の刀」に、さやかを「それを包み込むサヤ」に喩えるが、 その直後にいつもの口喧嘩が始まったので「まだまだあやつには修行が足りんわい」と嘆いていた。 エピローグ 帰ってからすぐに刃達と新たな旅に出る。 だが3年後、ある洞窟に入った時にとんでもない化け物に出くわし、仲間とともに捕まってしまう。 刃は彼らを助けるため、平穏な生活を送っていたさやかと再会。刃の旅に同行する事を決めたさやかは武蔵達を救出するために彼らのいる火星へと向かう事となった。 他作品において まじっく快斗 番外編『刃vs快斗の巻』に登場。 見事な身のこなしで刃と渡り合う怪盗キッドを見て、「まるでネズミ小僧次郎吉のようだ」と賞賛していた。 名探偵コナン OVA(上記エピソードにコナンが加わった回)を除けば出番が無いが、作中作『スターブレイド』ではYAIBAに登場する剣豪たちをもじったキャラが登場する。 武蔵は何なのかというと悪の帝王ダーク・サシム。う~む、なんという扱い…。 また、悪人に捕らえられた妃英理が暗号で使ったこともある。イメージでは流石に本作の二頭身の姿だと誰だか分かんないため、十兵衛の時と違い肖像画のほうが使われたが。 「項目を立てる修行が済んだら、今度は追記・修正の修行じゃ!!」 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 正真正銘普通の人間でありながら400歳以上まで生きていていまだ健在という恐ろしい人。ある意味鬼化した鬼丸やかぐやなんかよりよっぽど化け物だろう -- 名無しさん (2018-01-21 21 46 26) YAIBAの中で一番異質な存在だよ。 -- 名無しさん (2018-01-22 13 51 11) 小次郎が妖刀持ってるくらいだから、本人も知らない間に何かの影響を受けてそう -- 名無しさん (2018-01-24 07 05 34) 名前 コメント
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包括団体名 名称 所在地 電話番号 本務 住職在 朱印 霊場等 二ツ名 天台宗 安楽寺 市原市安久谷252 真言宗豊山派 正寿院 市原市安須745 真言宗豊山派 蓮蔵院 市原市引田94 上総三十四ヶ所観音霊場上総八十八ヶ所 日蓮宗 永久寺 市原市永吉69 0436-52-2845 天台宗 円光寺 市原市奥野265 天台宗 竜蔵寺 市原市奥野406 0436-88-3562 新義真言宗 満光寺 市原市荻作279 0436-74-3667 日蓮宗 本泰寺 市原市下野440 0436-75-5408 天台宗 善性寺 市原市下矢田191 日蓮宗 法円寺 市原市下矢田910 日蓮宗 長栄寺 市原市加茂1-3-10 新義真言宗 長谷寺 市原市海士有木1643 0436-36-0136 上総三十四ヶ所観音霊場新上総国三十三観音霊場 顕本法華宗 泰安寺 市原市海土有木1680 0436-36-5052 曹洞宗 森厳寺 市原市海保686 0436-36-1777 真言宗豊山派 遍照院 市原市海保769 0436-36-2094 上総三十四ヶ所観音霊場新上総国三十三観音霊場上総八十八ヶ所 日蓮宗 妙蔵寺 市原市皆吉1321 0436-92-0156 曹洞宗 吉祥寺 市原市皆吉1474 曹洞宗 橘禅寺 市原市皆吉6 0436-92-2456 真言宗智山派 観音寺 市原市皆吉842 真言宗智山派 醫養寺 市原市栢橋775 曹洞宗 林泉寺 市原市栢橋906 天台宗 長善寺 市原市岩134 真言宗豊山派 自性院 市原市岩野見503 顕本法華宗 寿福寺 市原市喜多50-1 0436-74-1562 真言宗豊山派 福寿院 市原市菊間2004 03-3894-4056 真言宗豊山派 戒誓寺 市原市菊間2366 新義真言宗 千光院 市原市菊間2798 0436-41-3751 曹洞宗 鳳来寺 市原市吉沢244-1 0436-98-0140 曹洞宗 光林寺 市原市久保1 天台宗 長光寺 市原市久保796-1 0436-98-0231 顕本法華宗 本照寺 市原市久々津549-1 真言宗豊山派 明照院 市原市宮原454 0436-61-0909 上総八十八ヶ所 真言宗智山派 圓明院 市原市牛久905 0436-92-0740 上総三十四ヶ所観音霊場新上総国三十三観音霊場上総国薬師如来霊場上総八十八ヶ所 顕本法華宗 本宮寺 市原市金剛地171 0436-52-0852 真言宗豊山派 明光院 市原市君塚1-26-3 真言宗豊山派 正光院 市原市郡本3-25 真言宗豊山派 多聞寺 市原市郡本5-29 曹洞宗 永昌寺 市原市月崎1098-1 0436-96-0660 天台宗 東漸寺 市原市月出982 真言宗豊山派 満蔵院 市原市権限堂24 日蓮宗 安立寺 市原市犬成610-1 単立・仏教系 本伝寺 市原市原田216 0436-92-1116 日蓮宗 本伝寺 市原市原田216 0436-92-1116 日蓮宗 長妙寺 市原市古市場95-1 0436-41-3608 天台宗 西蓮寺 市原市古敷谷294 0436-96-0307 曹洞宗 長楽寺 市原市古敷谷574 0436-98-0361 日蓮宗 行福寺 市原市古都辺164 0436-52-0598 単立 出世観音立國寺 市原市戸面401 有? 出世観音 真言宗豊山派 龍善院 市原市五井2753 0436-21-1533 浄土宗 守永寺 市原市五井2874 綾徳禅寺 市原市五井5076-2 0436-23-0550 真言宗善通寺派 徳修寺 市原市五井5076-2 真言宗豊山派 千光寺 市原市五井5094 0436-21-2298 真言宗豊山派 善養院 市原市五井5254 0436-21-2005 上総八十八ヶ所 真言宗豊山派 千光寺 市原市五井中央西2-11-12 浄土宗 光明山 清昌院 守永寺 市原市五井中央西2-21-1 0436-21-3449 真言宗豊山派 満蔵寺 市原市五所1535-1 0436-41-2725 上総三十四ヶ所観音霊場 真言宗豊山派 薬王寺 市原市高坂227 顕本法華宗 高福寺 市原市高倉347 真言宗豊山派 金蔵院 市原市国本96 0436-96-1068 真言宗豊山派 延命寺 市原市今津朝山424 真言宗豊山派 能蔵院 市原市今津朝山584 0436-61-1920 真言宗豊山派 金蔵院 市原市今津朝山724 真言宗豊山派 明王院 市原市今津朝山882 043-271-5089 真言宗豊山派 円満寺 市原市今富692 0436-36-4104 上総三十四ヶ所観音霊場上総八十八ヶ所 真言宗豊山派 正光院 市原市今富726 曹洞宗 祥雲寺 市原市今富971 曹洞宗 秀善寺 市原市今富991 0436-36-2603 日蓮宗 根立寺 市原市根田3-8-7 浄土真宗本願寺派 西光寺 市原市根田723-1 真言宗智山派 明性院 市原市佐是1059-1 曹洞宗 光福寺 市原市佐是1097 0436-92-1335 天台宗 放光寺 市原市山口735 曹洞宗 長泉寺 市原市山小川896 0436-88-2576 真言宗豊山派 仙蔵寺 市原市山倉1068 0436-36-5777 天台宗 円薬寺 市原市山倉760 0436-36-3975 真言宗豊山派 正覚院 市原市山田290 日蓮宗 仏蔵寺 市原市山田295 曹洞宗 養福寺 市原市山田橋1-16-5 善福寺 市原市山田橋232 0436-41-7369 真言宗山階派 中和院 市原市山田橋五三前298-1 0436-41-8898 新義真言宗 常徳院 市原市山木637 日蓮宗 妙栄寺 市原市山木943 0436-41-7232 顕本法華宗 長遠寺 市原市姉崎115 0436-61-1673 顕本法華宗 円能寺 市原市姉崎2452 0436-62-0790 顕本法華宗 宝蔵寺 市原市姉崎2462 安誠寺 市原市姉崎3571 0436-62-2900 浄土宗 無量山 壽經院 最頂寺 市原市姉崎44 0436-62-4985 顕本法華宗 妙経寺 市原市姉崎453 0436-61-0242 浄土真宗本願寺派 弘教寺 市原市姉崎638-10 真言宗豊山派 光善寺 市原市市原196-1 真言宗豊山派 円乗院 市原市糸久320 03-3970-7887 真言宗智山派 玉泉寺 市原市寺谷11 0436-95-3009 真言宗豊山派 高沢寺 市原市十五沢225 上総三十四ヶ所観音霊場 天台宗 長栄寺 市原市宿223 0436-92-2300 真言宗豊山派 神光寺 市原市出津93 日蓮宗 光福寺 市原市潤井戸1915 0436-74-0045 顕本法華宗 泰行寺 市原市潤井戸647 新義真言宗 龍性院 市原市勝間889 曹洞宗 金光寺 市原市小草畑60 0436-89-3001 単立・仏教系 妙典寺 市原市小谷田581 新義真言宗 寶泉寺 市原市小田部375 真言宗豊山派 神照寺 市原市松崎107 日蓮宗 円成寺 市原市松崎5 真言宗豊山派 光徳院 市原市上原36 真言宗智山派 寳壽院 市原市上高根1261 真言宗智山派 宝性寺 市原市上高根518 真言宗智山派 稱禮寺 市原市上高根643 0436-95-3704 天台宗 安楽寺 市原市新井149 曹洞宗 正福寺 市原市新巻28 0436-36-4580 曹洞宗 祐巌寺 市原市新生539 日蓮宗 法光寺 市原市新堀1317-1 0436-36-1834 新義真言宗 無量寿寺 市原市深城564 0436-66-7653 真言宗智山派 太子堂寺 市原市真ケ谷21 日蓮宗 正蓮寺 市原市瀬又134-1 0436-52-0207 真言宗豊山派 西広院 市原市西広3-6-2 0436-22-5444 曹洞宗 渕竜寺 市原市西国吉1546-1 真言宗豊山派 医光寺 市原市西国吉185 0436-92-1204 曹洞宗 永徳寺 市原市西国吉687 真言宗豊山派 徳蔵寺 市原市西野223-1 真言宗智山派 養福寺 市原市青柳1-6-14 新義真言宗 正福寺 市原市青柳1004 上総三十四ヶ所観音霊場 新義真言宗 光明寺 市原市青柳1052 0436-21-2262 上総八十八ヶ所 養福寺 市原市青柳1401 曹洞宗 龍渓寺 市原市石川1121-1 0436-88-2117 天台宗 福円寺 市原市石川413 真言宗豊山派 明王院 市原市千種1-16-4 曹洞宗 西福寺 市原市川在491 真言宗豊山派 正善院 市原市浅井小向116 真言宗豊山派 真蔵院 市原市浅井小向76 真言宗豊山派 国分寺 市原市惣社1-7-23 0436-21-0754 上総八十八ヶ所 真言宗豊山派 普門院 市原市相川93 上総三十四ヶ所観音霊場 日蓮宗 行光寺 市原市草刈1328-1 0436-74-0847 真言宗豊山派 観音寺 市原市村上1384 上総八十八ヶ所 曹洞宗 永昌寺 市原市村上1421 新義真言宗 延命寺 市原市大厩1018 0436-74-0958 天台宗 甘露寺 市原市大桶480 日蓮宗 法行寺 市原市大作243 曹洞宗 龍興寺 市原市大坪210 0436-36-6023 真言宗豊山派 福楽寺 市原市大坪340 上総三十四ヶ所観音霊場 真言宗豊山派 光厳寺 市原市大和田380 上総八十八ヶ所 新義真言宗 延命寺 市原市大廐1018 顕本法華宗 本妙寺 市原市滝口122 天台宗 光明寺 市原市池和田701 0436-88-2113 関東百八地蔵尊霊場関東九十一薬師霊場 天台宗 厚福寺 市原市中52 真言宗豊山派 常住寺 市原市中高根1006 0436-95-3653 上総八十八ヶ所 真言宗智山派 秀明院 市原市中高根50 真言宗智山派 圓明院 市原市中高根599-1 日蓮宗 光徳寺 市原市中野123 0436-52-0831 曹洞宗 宝林寺 市原市朝生原783 0436-96-0255 浄土宗 靈光山 桂林院 瑞安寺 市原市椎津131-1 0436-51-0216 顕本法華宗 行伝寺 市原市椎津137 0436-61-0774 真言宗智山派 金剛寺 市原市椎津159 信貴山真言宗 霊光寺 市原市椎津2478 0436-66-5223 顕本法華宗 安誠寺 市原市天羽田119 曹洞宗 林祥寺 市原市田尾1120 0436-88-3434 天台宗 西光寺 市原市田尾1351 真言宗豊山派 竜田寺 市原市田尾364 0436-88-2091 曹洞宗 耕昌寺 市原市田淵536 0436-96-0611 真言宗豊山派 能満寺 市原市田淵73 曹洞宗 東林寺 市原市土宇1103-1 0436-36-0873 真言宗豊山派 宝前院 市原市島野1196-1 顕本法華宗 善竜寺 市原市島野707 顕本法華宗 妙照寺 市原市東国吉325 0436-52-0522 日蓮宗 本泉寺 市原市奈良184 真言宗智山派 南蔵寺 市原市南岩崎588 0436-95-3649 曹洞宗 報恩寺 市原市南岩崎679-1 0436-95-3829 真言宗豊山派 大光院 市原市二日市場475 真言宗豊山派 恵光院 市原市廿五里1439 上総八十八ヶ所 真言宗豊山派 東泉寺 市原市廿五里65-1 真言宗豊山派 恵光院 市原市廿五里781 新義真言宗 釈蔵院 市原市能満582-1 0436-41-7666 新上総国三十三観音霊場上総国薬師如来霊場 曹洞宗 金剛寺 市原市馬立110 0436-95-1462 曹洞宗 竜源寺 市原市馬立1124 0436-95-2888 天台宗 根元寺 市原市馬立65 真言宗豊山派 仏眼寺 市原市馬立893 真言宗豊山派 持宝院 市原市柏原291 上総八十八ヶ所 真言宗豊山派 徳蔵院 市原市白塚549 真言宗豊山派 医王寺 市原市畑木418 0436-61-0909 円頓寺 市原市八幡1015 真言宗豊山派 満徳寺 市原市八幡1086-1 上総三十四ヶ所観音霊場上総八十八ヶ所 浄土宗 龍燈山 光明院 稱念寺 市原市八幡1436 0436-43-1364 上総三十四ヶ所観音霊場 浄土宗 信樂山 寶樹院 無量寺 市原市八幡29 0436-41-0913 日蓮宗 妙長寺 市原市八幡998 0436-41-1866 法行寺 市原市板倉26-1 新義真言宗 西光院 市原市不入斗1406 新義真言宗 薬王寺 市原市不入斗62 天台宗 法泉寺 市原市武士159 0436-36-1205 真言宗智山派 日光寺 市原市風戸81 上総三十四ヶ所観音霊場上総八十八ヶ所 真言宗豊山派 慈眼寺 市原市分目193 0436-36-0225 上総三十四ヶ所観音霊場 天台宗 西願寺 市原市平蔵1360 0436-89-3021 天台宗 東陽寺 市原市平蔵2204-2 0436-89-2131 真言宗豊山派 長福寺 市原市平田1178 曹洞宗 大通寺 市原市米原2083 0436-89-2321 源空院円光寺 市原市別所7 0436-11-4949 新義真言宗 法蓮寺 市原市片又木169 曹洞宗 満蔵寺 市原市奉免1411 0436-92-0578 新義真言宗 不動院 市原市豊成15 曹洞宗 西光寺 市原市本郷543 0436-98-0140 曹洞宗 竜本寺 市原市妙香452 0436-92-2129 曹洞宗 宝積寺 市原市門前2-220 0436-41-2827 顕本法華宗 法泉寺 市原市野毛399 天台宗 常徳寺 市原市薮35 天台宗 宗円寺 市原市薮424-1 天台宗 竜福寺 市原市薮449 曹洞宗 大泉寺 市原市薮652 0436-92-2386 新義真言宗 地藏院 市原市葉木659 上総八十八ヶ所 曹洞宗 長泉寺 市原市養老457 真言宗豊山派 満光院 市原市櫃挟291-2-292 0436-95-3653 日蓮宗 真浄寺 市原市神埼444 0436-74-8680 真言宗豊山派 神光院 市原市神代314 0436-36-0908 日蓮宗 本念寺 市原市福増615 0436-36-1557 曹洞宗 真高寺 市原市飯給1143 0436-96-0058 真言宗豊山派 運泉寺 市原市飯給13 0436-96-1068 曹洞宗 竜昌寺 市原市飯沼888 043-622-5382 真言宗豊山派 西蓮寺 市原市鶴舞198 0436-88-3025 信隆寺 市原市諏訪1-7-11 0436-23-4900 新上総国三十三観音霊場
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包括団体名 名称 所在地 電話番号 本務 住職在 朱印 霊場等 二ツ名 日本山妙法寺大僧伽 古川小僧伽 南房総市安馬谷2203-5 真言宗智山派 福性院 南房総市安馬谷935-1 0470-46-2114 曹洞宗 明賢山 宇田院 善性寺 南房総市井野260 曹洞宗 善導寺 南房総市井野262 真言宗智山派 智恩院 南房総市下滝田1372 0470-36-3885 長谷寺 南房総市下滝田486-1 0470-36-4086 安房国札三十四ヶ所観音霊場 真言宗智山派 圓鏡寺 南房総市加茂1992 0470-46-3209 日蓮宗 日運寺 南房総市加茂2124 0470-46-2196 浄土宗 三峯山 紫雲院 正林寺 南房総市海老敷390 0470-36-3260 天台宗 安楽寺 南房総市丸本郷518 0470-46-3572 臨済宗建長寺派 永興寺 南房総市丸本郷729-1 真言宗智山派 青龍寺 南房総市岩糸1052 真言宗智山派 大聖寺 南房総市岩糸538 真言宗智山派 成願寺 南房総市吉沢214 0470-58-0458 浄土宗 護国寺 南房総市吉沢518 浄土宗 金乘山 久枝院 蓮台寺 南房総市久枝629 0470-57-2220 真言宗智山派 眞野寺 南房総市久保587 0470-46-2590 安房国札三十四ヶ所観音霊場安房国白寿六地蔵尊霊場関東八十八ヶ所霊場安房七福神 曹洞宗 瑞岩寺 南房総市宮下108 0470-46-2814 天台宗 来福寺 南房総市宮下340-1 天台宗 高雲寺 南房総市宮下614 浄土宗 量寿院 南房総市宮谷377 真言宗智山派 東光院 南房総市沓見1179 0470-46-4195 天台宗 迎接寺 南房総市沓見1597 浄土宗 本誓山 大勝院 超生寺 南房総市検儀谷668 0470-57-2812 浄土宗 大勝院 南房総市検義谷668 日蓮宗 日宣寺 南房総市犬掛360-1 真言宗智山派 實藏院 南房総市御庄2125 曹洞宗 天徳寺 南房総市御庄884 真言宗智山派 圓照寺 南房総市高崎1163 0470-57-3354 真言宗智山派 壽藥寺 南房総市高崎677 0470-57-2584 真言宗智山派 普門院 南房総市合戸540 真言宗智山派 福滿寺 南房総市合戸569 0470-57-2846 安房国札三十四ヶ所観音霊場 真言宗智山派 薬王寺 南房総市三坂427-1 浄土宗 無量院 南房総市山下430 曹洞宗 高照寺 南房総市山田1162 0470-58-0743 安房国札三十四ヶ所観音霊場 真言宗智山派 智光寺 南房総市山名1370 0470-36-3624 安房国札三十四ヶ所観音霊場 曹洞宗 智蔵寺 南房総市山名386 0470-36-3748 臨済宗妙心寺派 見星院 南房総市四方木92 曹洞宗 福聚院 南房総市市部343-1 0470-57-2347 安房国白寿六地蔵尊霊場 臨済宗建長寺派 西光寺 南房総市珠師ケ谷239 臨済宗建長寺派 慈雲寺 南房総市珠師ケ谷329 0470-46-2742 天台宗 善性寺 南房総市珠師ケ谷526 真言宗智山派 長福寺 南房総市上滝田1038 0470-36-3985 安房国白寿六地蔵尊霊場 曹洞宗 竜喜寺 南房総市上滝田1063 真言宗智山派 勧修院 南房総市上堀35 0470-36-2679 可 安房国札三十四ヶ所観音霊場 日本山妙法寺大僧伽 天津清澄中僧伽 南房総市清澄479 天台宗 慈眼寺 南房総市西原883-1 天台宗 普賢寺 南房総市石堂2 天台宗 石堂寺 南房総市石堂302 0470-46-2218 可 東国花の寺安房国札三十四ヶ所観音霊場安房国白寿六地蔵尊霊場関東百八地蔵尊霊場関東九十一薬師霊場 天台宗 常円寺 南房総市石堂原315-1 天台宗 医王寺 南房総市石堂原75-1 日蓮宗 蓮重寺 南房総市千倉町宇田69-1 0470-44-1848 浄土宗 善性寺 南房総市千倉町宇田968 真言宗智山派 積藏院 南房総市千倉町久保1454 曹洞宗 雲竜寺 南房総市千倉町久保76 0470-44-3432 真言宗智山派 能藏院 南房総市千倉町忽戸146 0470-44-0588 有? 東国花の寺 真言宗智山派 永福寺 南房総市千倉町忽戸409-2 真言宗智山派 金仙寺 南房総市千倉町瀬戸1211-1 0470-44-3958 真言宗智山派 圓明院 南房総市千倉町瀬戸1419-1 真言宗智山派 正福寺 南房総市千倉町瀬戸2293-1 0470-44-0399 真言宗智山派 照明院 南房総市千倉町千田1571 0470-43-8727 真言宗智山派 長性寺 南房総市千倉町千田1635 0470-43-8233 真言宗智山派 盛徳寺 南房総市千倉町川戸289 真言宗智山派 高徳院 南房総市千倉町川口418 0470-44-1787 日蓮宗 顕本寺 南房総市千倉町川合690-1 0470-44-1062 真言宗智山派 地藏院 南房総市千倉町川合725-1 真言宗智山派 小松寺 南房総市千倉町大貫1057 0470-44-2502 有 安房国札三十四ヶ所観音霊場東国花の寺 真言宗智山派 大瀧寺 南房総市千倉町大貫1699 真言宗智山派 東漸寺 南房総市千倉町大川323-1 0470-43-1264 真言宗智山派 大聖院 南房総市千倉町大川817 0470-43-8717 有? 関東三十六不動尊霊場 高塚不動尊 真言宗智山派 住吉寺 南房総市千倉町南朝夷1353-1 0470-44-1865 安房国札三十四ヶ所観音霊場 真言宗智山派 東仙寺 南房総市千倉町南朝夷1355 真言宗智山派 観音寺 南房総市千倉町南朝夷2028-1 0470-44-1103 真言宗智山派 海雲寺 南房総市千倉町白間津467 0470-43-8407 真言宗智山派 圓正寺 南房総市千倉町白間津62-1 0470-43-8408 真言宗智山派 金剛院 南房総市千倉町白子661-1 0470-44-2941 浄土宗 慶崇院 南房総市千倉町白子71 真言宗智山派 観養院 南房総市千倉町平磯418 0470-43-319 真言宗智山派 徳蔵院 南房総市千倉町平館1062 0470-44-2696 真言宗智山派 圓藏院 南房総市千倉町北朝夷2392 真言宗智山派 圓乗院 南房総市千倉町北朝夷2393 0470-44-2004 真言宗智山派 西養寺 南房総市千倉町北朝夷861 0470-44-1103 真言宗智山派 正覺院 南房総市千代27-1 曹洞宗 宝樹院 南房総市川谷158 天台宗 西光寺 南房総市川谷273 天台宗 善通寺 南房総市増間622 真言宗智山派 大徳院 南房総市大井220 0470-46-8318 真言宗智山派 蓮花院 南房総市谷向910 真言宗智山派 極楽寺 南房総市池ノ内111 真言宗智山派 海福寺 南房総市天津1553 0470-94-0537 浄土真宗本願寺派 善覚寺 南房総市天津1568-1 0470-94-0002 日本山妙法寺大僧伽 天津小僧伽 南房総市天津3474 真言宗智山派 自性院 南房総市天津72 0470-94-0800 天台宗 西蓮寺 南房総市天津小湊町内浦1726 0470-95-2618 浄土真宗本願寺派 善竜寺 南房総市内浦2738 0470-95-2038 日蓮正宗 蓮生寺 南房総市内浦877-1 0470-95-2424 真宗大谷派 勝善寺 南房総市二部1344-2 0470-57-2657 真言宗智山派 金福院 南房総市白子681 真言宗智山派 正榮寺 南房総市白浜町乙浜51 真言宗智山派 海福寺 南房総市白浜町根本1879 0470-38-2173 安房国白寿六地蔵尊霊場 真言宗智山派 紫雲寺 南房総市白浜町滝口1084 0470-38-4740 真言宗智山派 長福寺 南房総市白浜町滝口1484 真言宗智山派 東福院 南房総市白浜町滝口2404 0470-28-0644 真言宗智山派 千光寺 南房総市白浜町滝口4298 0470-38-3876 真言宗智山派 観乗院 南房総市白浜町滝口6350 真言宗智山派 石戸寺 南房総市白浜町滝口7290 曹洞宗 福寿院 南房総市白浜町白浜2225 0470-38-2140 曹洞宗 満願寺 南房総市白浜町白浜3225 0470-38-3607 曹洞宗 杖珠院 南房総市白浜町白浜4295 0470-38-2249 真言宗智山派 法界寺 南房総市白浜町白浜452 0470-38-2406 白浜海洋美術館 南房総市白浜町白浜628-1 0470-38-4551 安房七福神 真言宗智山派 寶泉寺 南房総市白浜町白浜7098 0470-38-2174 真言宗智山派 金剛院 南房総市白浜町白浜7932-1 真言宗智山派 吉祥院 南房総市白浜町白浜7939 真言宗智山派 慈眼寺 南房総市白浜町白浜870 臨済宗円覚寺派 永福寺 南房総市富浦町宮本23 臨済宗円覚寺派 宝鏡寺 南房総市富浦町原岡174 0470-33-3796 曹洞宗 安勝院 南房総市富浦町原岡185 臨済宗円覚寺派 興禅寺 南房総市富浦町原岡275 0470-33-3289 安房国札三十四ヶ所観音霊場 日蓮宗 法華寺 南房総市富浦町原岡370 0470-33-3378 浄土宗 金地山 極樂院 西方寺 南房総市富浦町原岡76 0470-33-2334 日蓮宗 全昌寺 南房総市富浦町原岡916 浄土宗 深廣山 長泉寺 南房総市富浦町原岡980 0470-33-2246 日蓮宗 妙蓮寺 南房総市富浦町手取22 0470-33-4004 臨済宗円覚寺派 常禅寺 南房総市富浦町深名1012 0470-33-3818 真言宗智山派 常光寺 南房総市富浦町深名434 0470-33-3878 真言宗智山派 眞勝寺 南房総市富浦町青木173 0470-33-3419 安房国札三十四ヶ所観音霊場 曹洞宗 光厳寺 南房総市富浦町青木232-1 0470-33-3895 臨済宗円覚寺派 長福寺 南房総市富浦町多田良34 0470-33-2841 日蓮宗 釈迦寺 南房総市富浦町多田良702 日蓮宗 妙福寺 南房総市富浦町南無谷119 0470-33-3153 真言宗智山派 海光寺 南房総市富浦町南無谷187 0470-33-2087 真言宗智山派 金光寺 南房総市富浦町南無谷2218 臨済宗円覚寺派 満蔵寺 南房総市富浦町豊岡330 0470-33-2837 臨済宗円覚寺派 海禅寺 南房総市富浦町豊岡767 0470-33-4051 真言宗智山派 正覚寺 南房総市富浦町豊岡887 0470-33-4469 臨済宗円覚寺派 萬福寺 南房総市富浦町福沢149 0470-94-0399 曹洞宗 善導寺 南房総市富山町井野262 0470-58-0594 真言宗智山派 宝珠院 南房総市府中687 0470-36-2581 可 安房国札三十四ヶ所観音霊場 真言宗智山派 龍泉寺 南房総市平久里下1136 真言宗智山派 勝藏寺 南房総市平久里下265 真言宗智山派 正壽院 南房総市平久里下545-1 0470-58-0250 神照寺 南房総市平久里中205 0470-58-0444 安房国札三十四ヶ所観音霊場 曹洞宗 泉竜寺 南房総市平久里中413 0470-58-0444 真言宗智山派 東福院 南房総市本織1167 真言宗智山派 宝積院 南房総市本織1701-1 曹洞宗 延命寺 南房総市本織2014-1 0470-36-2166 安房国札三十四ヶ所観音霊場 真言宗智山派 普門院 南房総市本織652 真言宗智山派 長泉寺 南房総市和田町花園317-1 0470-47-3380 曹洞宗 法慶院 南房総市和田町花園910 曹洞宗 長香寺 南房総市和田町花園932 0470-47-3489 真言宗智山派 建福寺 南房総市和田町海発1383 臨済宗建長寺派 自性院 南房総市和田町海発1459 0470-47-2412 天台宗 正運寺 南房総市和田町海発1523-1 真言宗智山派 眞言院 南房総市和田町黒岩767-2 0470-47-3803 真言宗智山派 西福院 南房総市和田町柴559-1 0470-47-3152 日蓮宗 妙達寺 南房総市和田町小川503 0470-47-3951 臨済宗建長寺派 海雲寺 南房総市和田町松田709 真言宗智山派 寳樹院 南房総市和田町沼636 真言宗智山派 沼蓮寺 南房総市和田町沼763-1 0470-47-8792 真言宗智山派 寶性院 南房総市和田町上三原1426 0470-47-4550 日蓮宗 善道寺 南房総市和田町上三原196 真言宗智山派 威徳院 南房総市和田町真浦137 0470-47-2237 ぼけ封じ関東三十三観音霊場 浄土宗 大悲山 地蔵院 心行寺 南房総市和田町仁我浦594-1 兼務 日蓮宗 正文寺 南房総市和田町中三原270 0470-47-3728 安房国札三十四ヶ所観音霊場 日蓮宗 普門寺 南房総市和田町和田494 0470-47-3023
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南禅寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 南禅寺(なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗?南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は正式に「太平興国南禅禅寺」と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門?(大明国師?)である。皇室の発願になる禅寺としては日本最初のもので、京都五山?の上位(第一位の天龍寺よりさらに上に位置する)の別格扱いの寺院として、最も高い格式を誇る。 歴史 正応4年(1291)、亀山法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門?を開山として「龍安山禅林禅寺」と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇を悩ましたが、無関普門?が弟子を引き連れて入り、座禅をしただけで妖怪は退散したので、法皇は無関?を開山に請じたという。開山として招かれたのは無関?の没年であったため、無関?の死去に伴い、伽藍の建設は実質的には2世住職の規庵祖円(南院国師)に引き継がれ、永仁7年(1299)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299~1302)のことという。正中2年(1325)には夢窓疎石が住している。建武元年(1334)には後醍醐天皇によって京都五山?の第一とされた。至徳3年(1385)、足利義満は自らの建立した相国寺を五山?の第二位に、さらに南禅寺を「別格」として五山の上位に位置付けた。当時は約10万坪の境内に塔頭子院数十を擁したという。明徳4年(1393)、文安4年(1447)、応仁元年(1467)と火災で主要伽藍を焼失して衰退。応仁の乱以降は再建も思うにまかせなかったが、慶長10年(1605)、以心崇伝?(金地院崇伝?)が入寺したのち、崇伝?と徳川家の外護のもと主要伽藍が復興された。のちに明治期の廃仏毀釈により寺領が大幅に縮小されたものの、現在でも12ヵ寺の塔頭を抱える大寺院である。 伽藍 方丈 大方丈と小方丈からなる。大方丈は天正年間(1573~1592)に建てられた女院御所?の対面御殿を下賜・移築されたもので、入母屋造、こけら葺。屋根のゆるやかな勾配や高欄をめぐらせた広縁などに住宅風の趣を残す。内部には狩野派による障壁画があり、柳の間、麝香の間、御昼の間、花鳥の間(西の間)、鶴の間、鳴滝の間の6室にある襖、壁貼付など計160余面が絢爛豪華に彩られている。これらは旧御所?の障壁画を引き継いだものであるが、移築に際し配置構成が大幅に変更されており、本来ひと続きであった襖が別々の部屋に配置されているものも多い。大方丈南庭は小堀遠州作と伝わる枯山水庭園で、龍安寺方丈庭園と同じく「虎の子渡しの庭」の別称でも呼ばれ、国の名勝に指定されている。また方丈の西側には枯山水庭園の「如心庭」が、小方丈の隣には苔むした坪庭「六道庭」もある。小方丈は寛永年間(1624~1644)の建築。障壁画は狩野探幽作と伝わるが、作風からは数名の絵師による作と思われる。 法堂 豊臣秀頼が寄進した法堂が明治28年(1895)に焼失したため、明治42年(1909)に再建されたもの。一重裳階付、入母屋造、本瓦葺の禅宗様建築。仏殿も兼ねており、問禅や行事、法要の行なわれる場所である。須弥壇中央には釈迦如来像、文殊菩薩騎獅子像、普賢菩薩騎象像を安置する。天井には今尾景年?による雲龍図が描かれている。 三門 歌舞伎『楼門五三桐』で石川五右衛門が「絶景かな」と見得を切るシーンで有名な門(これは架空の話で、三門は五右衛門の死後に建てられた)。五間三戸の二重門で、入母屋造、本瓦葺の典型的な禅宗様。別名「天下竜門」。大坂夏の陣で戦死した武士の冥福を祈るため、津藩主藤堂高虎が寄進したもので、寛永5年(1628)の建築。上層は「五鳳楼」と称され、須弥壇には仏師左京による宝冠釈迦如来像を中心に脇侍の月蓋長者(がつがいちょうじゃ)、善財童子と十六羅漢像のほか、藤堂家の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌を安置する。天井画は狩野探幽の筆と伝わり、天人や鳳凰などが極彩色で描かれている。また門前の巨大な石灯籠は佐久間勝之の奉献したもので高さ6m余。大ささでは東洋一といわれており、「佐久間玄藩の片灯寵」と呼ばれる。 本坊(庫裏) 寛正年間(1789~1801)の再建という。本坊左手の大玄関は、国賓を迎えるときに使用される。右手にある滝の間では、清涼の滝を眺めながら抹茶をいただける(有料)。 勅使門 境内の一番西側に建ち、切妻造、檜皮葺の四脚門。御所の「日の御門」を寛永18年(1641)に移築したもの。 水路閣 琵琶湖からトンネルをくぐって山科、蹴上、南禅寺横を通る琵琶湖疏水?は、南禅寺より北に折れて哲学の道沿いに北上する。水路を通すため境内に2基の橋台と13基の橋脚に支えられた全長93mの水路閣が造られた。ローマの水道橋を手本とし、赤レンガが築かれた西洋建築。 主な塔頭 南禅院 境内から水路閣をくぐった南側にある。南禅寺の発祥地ともいえる亀山天皇の離宮跡に建つ。方丈は元禄16年(1703)に桂昌院の寄進によって再建された。入母屋造、こけら葺で、内陣中央には亀山天皇像が安置され、狩野養朴(常信)とその子如川(周信)と隨川(岑信)の筆になる水墨画の襖絵がある。南禅寺山を背にした庭園は当時のおもかげを残した鎌倉時代末の池泉回遊式庭園で、鶴亀、蓬莱、神仙の4島を配する曹源池を中心に北東隅には滝石組を備える。国の名勝及び史跡に指定されている。 天授庵 三門の南側にある。無関普門?を祀る塔所で、暦応3年(1340)に光厳天皇の勅許を得た南禅寺第15世住持、虎関師錬が創建した。現在の建物は応仁の乱で焼失後に、慶長7年(1602)細川藤孝(幽斎)が再建したもの。本堂の32面の襖絵は伝長谷川等伯筆(非公開)。枯山水の本堂前庭(東庭、渕黙庭とも)と池泉回遊式庭園の書院南庭がある。前庭は明治期の作庭ながら、幾何学模様の石畳は創建当時のものと考えられている。南庭は南北朝時代の特色を留め、秋の紅葉が美しい。 金地院 境内の南西角に位置する。本尊は地蔵菩薩?。応永年間(1394~1428)に南禅寺第68世住持、大業徳基が鷹峯に創建、慶長10年(1605)頃、以心崇伝?によって現在地に移転して再興された。方丈は伏見城の遺構を移築したもの。上段の間は床や違い棚、附書院などを備え、折上格天井という豪華な造り。襖絵は狩野探幽と弟尚信の作と伝わる。小書院の奥には長谷川等伯の筆という「老松図」「猿猴捉月図」が描かれている。三畳台目の茶席「八窓席」は小堀遠州が設計した。方丈の南側、小堀遠州の作庭による「鶴亀の庭」は、白砂に鶴島と亀島の石組を配した枯山水庭園。両島の間にある大きな平石は、境内の南側奥に祀られた東照宮を遥拝するための「礼拝石(らいはいせき)」で鶴島の前には弧を描く切石の飛び石がある。国の特別名勝に指定されている。 文化財 国宝 南禅寺方丈 亀山天皇宸翰禅林寺御祈願文案 絹本著色秋景冬景山水図(金地院所蔵) 紙本墨画渓陰小築図(金地院所蔵) 重要文化財(建造物) 南禅寺三門 南禅寺勅使門 金地院本堂 金地院茶室(八窓席) 東照宮 重要文化財(美術工芸品) 木造聖観音?立像 大方丈障壁画 絹本著色大明国師?像 南院国師像 絹本著色釈迦十六善神像 紙本墨画達磨像 絹本著色仏涅槃図 絹本墨画江山漁舟図 絹本淡彩葉山李翺問答図 紙本著色群虎図(小方丈障壁画、伝狩野探幽筆) 絹本墨画聖僧文殊像 絹本著色大明国師?像 鎌倉彫牡丹模様香盒 紙本墨書清凉殿拝領由緒書 南禅寺一切経 南禅寺仏殿指図 木造亀山天皇御坐像(南禅院所蔵) 木造一山一寧坐像(南禅院所蔵) 絹本著色細川幽斎・夫人像(天授庵所蔵) 絹本著色平田慈均像(天授庵所蔵) 紙本墨書淡彩聖一国師?像(天授庵所蔵) 絹本著色無関普門?像(天授庵所蔵) 方丈襖絵(禅機図・商山四晧図・松鶴図、伝長谷川等伯筆、天授庵所蔵) 紙本墨画山水図(狩野元信筆、金地院所蔵) 紙本墨画山水図(金地院所蔵) 紙本墨書本光国師?日記(金地院所蔵) 紙本墨書異国日記(金地院所蔵) 紙本墨書異国渡海御朱印帳・異国近年御書草案(金地院所蔵) 紙本墨書異国日記御記録雑記(金地院所蔵) 紙本墨書慶長十九年林道春及び五山衆試文稿(金地院所蔵) 紙本墨書濃比須般国へノ返書案(以心崇伝?筆、金地院所蔵) 武家諸法度草稿(以心崇伝?筆、金地院所蔵) 絹本著色細川蓮丸像(聴松院所蔵) 絹本著色天境霊致像(聴松院所蔵) 大方丈障壁画120面は、以下の4件に分けて重要文化財に指定されている。 (1) 廿四孝図14面、琴棋及群仙図17面(各紙本金地著色) (2) 瀑布図8面、宮嬪図8面、桜花渓流図6面、梅竹禽鳥図4面(各紙本金地著色) (3) 瀑布垂柳白鵞図8面、牡丹麝香猫図5面、松鷹白鷺図10面、松紫陽花図4面、枇杷雉子図4面、菊萩図6面(各紙本著色) (4) 群鶴図10面、桃花小禽図4面、白梅禽鳥図4面、水辺鴨雁図4面、桧鴛鴦図2面、桐花小禽図2面(各紙本著色) 特別名勝 金地院庭園 名勝 南禅寺方丈庭園 南禅院庭園 史跡 南禅寺庭園 拝観情報 住所 京都市左京区南禅寺福地町86 電話番号 075-771-0365(南禅寺)、075-771-0365(南禅院)、075-771-0744(天授庵)、075-771-3511(金地院) 拝観時間 南禅寺 8:40~17:00(12月1~2月は8:40~16:30) 南禅院 8:40~17:00(12月~2月は8:40~16:30) 天授庵 9:00~17:00(冬期は9:00~16:30) 金地院 8:30~17:00(12月~2月は8:30~16:30) 拝観料 境内自由、方丈拝観500円、三門拝観500円、南禅院拝観300円、天授庵拝観400円 金地院拝観400円、茶席の拝観は原則として事前申込みが必要だが、時期によって公開されている アクセス 市バス「南禅寺・永観堂道」下車徒歩5~10分 地下鉄東西線「蹴上駅」下車徒歩5~10分 駐車場 駐車場あり(120分以内1,000円) 主な行事 1月1日 改旦祝聖 2月15日 涅槃会 10月5日 達摩忌 11月11日~12日 開山忌 12月8日 成道会 その他 ライトアップ・夜間拝観 南禅寺天授庵で11月中旬~下旬に行われる。 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定3級出題 「南禅寺の塔頭、金地院の「鶴亀の庭」の作者は誰といわれているか。」 平成17年(2005)第2回京都検定3級出題 「琵琶湖疏水の支流にある水路閣は、明治21年(1888)ローマ帝国の水道を参考に建築されたといわれるが、どの寺院の境内にあたるか。」 「南禅寺は( )が正応4年(1291)に( )を開山に迎えて(中略)京都五山の( )とされ、至徳3年(1386)には( )により五山の上に格付けされて繁栄した。江戸時代初期、塔頭金地院の( )が徳川家康の外交、寺社政策のブレーンとして重用されたことから(後略)」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「華道や茶道に造詣が深く、昭和を代表する造園家である重森三玲が造った庭園はどれか。 (ア)金地院「鶴亀の庭」 (イ)東福寺「八相の庭」 (ウ)城南宮「平安の庭」 (エ)本法寺「三巴の庭」 平成17年(2005)第2回京都検定1級出題 「寛永5年(1628)に再建された南禅寺の三門は、誰の寄進によるものか。」 リンク 南禅寺オフィシャル http //nanzenji.com/ 南禅寺の四季―水野克比古写真集 (京・古社寺巡礼)
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ささら踊り 剣理を弁えず、ただ竹刀を持って打突するだけに専念する剣道を「ささらを持った踊りなのだ」と比喩したものであり、「所作くらべ」「奴踊り」も同じ蔑視の表現である。いずれも真剣味のない、なり振りかまわぬ剣道を忌み嫌う精神である。 悟り 悟りとは仏教でいう「迷いからさめる」ことであり、剣道的にいえば剣の四戒を脱却して超然たる心境に達し。生死を以って二つにせぬ剣の極所を極めることである。「一瞬の悟りに半生の夢あり」といわれるように多年に亘る難行苦行の結果到達できる境地である。 三ウン一味 「先」「断」「残」の三つを三ウンという。 断は一刀両断であり、残は残心である。すなわち先の気と一刀両断の信念とさらに残心の心構えとが一体となり、一元的に機能して始めて完全なる「一本」となるもので、気剣体一致などと表現は異なるがその内容に於いては大同小異である。 山海の替り 相手が山と思えば海と変わり、海と思えば山とでて常に相手の意表をつくことであり、又三回の変わりとも言い二回は是非なし三回は悪しで、同じ攻め口を何度もやってはいけないという教えである。(宮本武蔵) 三磨の位(さんまのくらい) 剣道には「習い」「稽古」「工夫」の三つの要素が大事であり、」これを一体的に練り磨かなければならない。 これを三磨の位という。(柳生蓮也斎) 三位の格(さんみのかく) 「露の位」「石火の位」「梵鐘の位」を古来三位の格として貴んでいるが、「露の位」とは木の葉に落ちた水滴が静かに凝集して機満つればポタリと落ちるように決して無理な打ちを出さず静かに気の至るを待つことであり、「石火の位」とは火打石を打てば火が出るように機至れば間髪を入れず鋭い打ちを出すことである。 さらに「梵鐘の位」とは打てば即ち梵鐘のように余韻嫋々たる気の残心を漂わすことである。一本の打ちに理想的内容を示したものであるが、実に麗しい適切な表現である。 三無の剣 「無理なく、無駄なく、無法なし。これを三無の剣といい剣の至高なるものなり。音なしの剣はこの境地より出るものなり」 (桃井春蔵) 残心(ざんしん) 打突した後も、油断することなく、相手の反撃に対応できる身構え、心構えをいう。一般的には、打突後に間合いをとって、中段の構えになって相手に正対する。剣道のルールでは、残心のあることが有効打突の条件になっている。 四戒(四病) 正しい剣を使う上に精神的障害をなすものが四つある。それは恐、驚、疑、惑の迷妄である。 これを剣の四戒といい惑は四病ともいう。 恐(おそ)れる(懼)―相手の体躯態度あるいは風聞等に恐怖心を抱くこと。恐るれば我が全機能を発揮することができない。 驚(おどろ)く―相手の構え、あるいは技前(わざまえ)に於て全然予知しないことが起き、その異常さに驚いて平常心を失うこと。平常心を失えば事の正かつを誤る。 疑(うたが)う―相手がどう出るであろうか。何をしかけるであろうかなど疑心暗鬼を生ずることで、疑えば決断ができない。 惑(まど)う―相手に対してどう仕かけようか、どう応じようかといろいろと思い惑うこと、惑えば適切なる判断ができず果敢なる攻撃ができない。 只管打座(しかんだざ) ひたすら打座れということで、あれこれ雑音に惑わされることなく只一向に念仏を唱えて打ち座っているうちに道は自然にひらけると言う法然(ほうねん)の教えである。 剣道もこの精神で、あれこれ思い煩うことなく只一向に稽古にはげめば道は自らひらけ、理も明らかになり、稽古も必ず上達するという教訓である。 直心是道場(じきしんこれどうじょう) これは唯摩居士(ゆいまこじ)と光厳童子(こうごんどうじ)とのやりとりの言葉だそうであるが「直心」すなわち素直な心をもって精進修行すれば天地到るところが道場であり修行の場所ならざるはないという唯摩居士の教えそのままとったものである。 止心(ししん) 止心とはある一つのことを心に留め、そのため肝心のことがすべておろそかになって、失敗することで、剣道で最も嫌うことである。 例えば面を打とうと面にばかり執心すれば他の部位がおろそかになってそこを打たれる。相手が小手がうまいからと小手ばかり用心すれば面を打たれる。すべて止心のなせる罪である。よく例に出される千手観音の話であるが千の手を持っていても一本の手に心が留まればあとの九百九十九本の手は皆死に手となって何の役にも立たない。一本の手に心を止めなければ千本の手はそれこそ千手観音の用をなして全機能を発揮できるということである。 地蔵肩に不動腰(じぞうがたにふどうごし) 地蔵さんの肩はまるく無駄力が入っていない。不動さんの腰は頑丈で堅確である。 剣道でも肩は地蔵さんのように脱力したなで肩であり、腰は不動さんのように強く重厚であれという剣の理想の姿を説いている。 撓競技(しないきょうぎ) 昭和二十年終戦と同時に剣道は禁止されたが、剣道を愛好する人々は何とかして剣道を復活させたいと種々内容を検討改変したが、どうしてもGHQの許可をえられなかった。 その理由は占領軍極東理事会の決議により剣道という字はいっさい使えなかったからである。そこで先ず名称を撓競技と改称し、形態は異なってもそのないように剣道的要素を織りこんで作ったものが撓競技である。しないも現在のような四つ割りではなく、竹を四つ割りから八つ割り、先端は十六割りと先に行く程こまかく割り、それを布袋に包んだものである。競技方式も一定時間にポイントを多く取った者が勝ちであり、かけ声はいっさい禁止された。戦争中の突貫のイメージがあるからである。 それもこれも剣道を発展させるための一時的カムフラージュであれば仕方がないと、多くの人の理解と強力をえて次第に普及し、体協加盟も許され、昭和二十七年からは中学校以上の学校教育に採用されるまでに充実した。 その後講和条約が締結されて元の剣道も自由にできるようになったので、両者合体してその長所を採り、始めは剣道撓競技連盟と称したが、やがて現在のような剣道という名称のもとに統一されて今日に及んでいる。 師なきは外道(げどう) 禅家の教えであるが、良師なきものは外道に落ち、いつまでたっても本物にはならない。 剣道も初めから良い師について学ばなければ外道に堕ち邪剣になり変剣に堕する恐れがある。最初から良師について正しきを学べという教えである。 師はローソク ローソクは身を焼き尽くして周囲を明るくするものであり、世の指導者も又身を犠牲にして世のため人のために挺身せよという垂訓である。 守・破・離 仏教では習。絶・真ともいい、あらゆる道の修行における順序段階を教えている。 守―教えを守り私意をさしはさむことなく、ひたすら基本を身につける段階である。書道の楷書にあたるもので、一点一画をゆるがせにしない心配りが大切である。 破(は)―守の殻を破り躍進する時代である。いままでの教えを基礎とし、中核として、自己の知能や個性を発揮して次第に自己の剣道を創造する時代で書道の行書にあたる領域である。 離(り)―孔子の七十にして矩(のり)を超えずの境地であり、あらゆる修行の結果我が思いのままに行動して、いささかも規矩にはずれることなく、一つの形や流儀流派にとらわれることもなく、自由闊達に自己の剣風を発揮できる時代である。 書道の草書の位である。 上丹田(じょうたんでん) 寸田(すんでん) 丹田に対する言葉で、これは目と目の間(小鼻)又は眉と眉の間(眉間)(みけん)のことで一刀流では寸田と呼んでいる。 ここは小さいけれども人間の急所である。丹田は胆力精気の無限に生じるところ、上丹田は智力判断力等の英智の沸き出ずるところと解すべきだろう。 序・破・急 物の動きの順序を教えたもので、初めは静かに次第に早く、最後は最も急にやれということで、居合いの刀の抜き方がこの方式である。先ず鯉口を切り、静かに抜き初め、次第に速度を増し、そして最後は抜きつけの鞘ばなれであり、この瞬間が最も早く、最も鋭い。 剣道の打突もまさにこの通りであり、初めは心静かに始動し、最後の打突のところが一番強く一番鋭くなければばらない。 随所に主となる これは臨済宗の教是であるが、どこに行ってもそこを支配するだけの器量人になれということで、剣道的に言えば宮本武蔵の「将卒の訓え」であり、相手の自由に引き廻す将となるべしという心の位を教えたものである。 捨て身 文字通り身を捨てることであり剣道の極意でもある。「身を捨てて又身をすくう貝勺子」という一刀流の歌は身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれという究極の心境を教えている。 宮本武蔵も真剣勝負は「我が身切られに行くと思え」といっているが、これも捨て身であり、針谷夕雲の「相抜け」も又捨て身である。 上杉謙信は「生を必すれば必ず死し、死を必すれば必ず生く」と死を必する捨て身の精神を説いているが、これが剣の心であり戦いに臨む精神である。 素振りと素打ち 素振りと称して空間の連続正面打ちをやっているが、これは素振りでなく素打ちである。振るということは棒の一端を持って他の一端を動かすことで打つのではない。自分の力を意識的に作用させてはならない。 剣道で一番嫌うことは空間打突であり、空間で打突すれば必ず無駄な力でこれを空間でとめなければならない。その無駄力のブレーキが剣道上達の障害をなすものであり、それがいけないのである。素振りはどんなに早く激しくやってもよいが素打ちはいけない。 今でも正面打ちを分解して一、二、三と掛声をかけながら昔式の空間打突をやらせているところがあるがこれは即日改めるべきであろう。その場連続正面打ちもやり方によっては同様の意味で弊害がある。重心の上下動は剣道では禁物であり、正面打ちや上下振りも重心を落着けてすり足でやることが望ましい。 西江水(せいこうずい) 西江水とは碧巌録(へきがんろく)に出る言葉でそれを柳生流の秘伝書に取り入れられたものだと伝えられている。 柳生流の秘歌に、「兵法の数の習いを打ち捨てて、西江水を一口に呑む」というのがあるが西江水を一口に呑むとは揚子江の水を一口に呑むことであり、宇宙を呑吐し自然と一体になれということであろう。 剣の極致はいかなる流儀流派も皆「無」であり自然に帰することである。柳生流においても「西江水」をもってその真髄を表現したもののようである。 施無畏(せむい) 無畏を施すこと。種々の畏怖を取り去って救うことで剣道的にいえば恐れを知らぬ不動心を教えること。 普段はあまり聞きなれない言葉であるが剣道ではその心境を説く時によく使われる言葉である。浅草の観音様に「施無畏」の字が大書してあるのは観世音菩薩を施無畏長者と呼び、この菩薩が無畏を施す威力を持つためであるといわれている。 禅(ぜん) 禅とは梵語のジュハーナ(禅那)ということで沈思黙考のことだそうであるが、今では「無」の境地に入る修行法をさしている。 私共は禅といえば座禅であり、何日間も結跏趺座(けつかふざ)して行ずるものと思っていたが、禅には久米平内がいうように座禅、掛け禅、仁王禅があり、椅子にかけても仁王様のように立ち上がってもその中に禅があると教えられている。さらに普家(ふけ)禅、吹(すい)禅というような尺八禅もある。 宮本武蔵は、「見よいかに加茂の競馬の駒くらべ、駈けつ返すも座禅なりけり」とよんで馬に乗って駈け廻るのも禅だといっているが、これ言うなれば一種の動禅であり、何をやってもいかなる方法を以ってしても「無」の境地になり切ればそれは皆禅である。 剣道も結局一生懸命にやっても「無」の境地に達すれば武蔵流にいえばあきらかに動禅である。座禅も公案もなくても剣によって生死超越の妙境に達すれば、それは明らかに禅であり剣禅一致の妙境というべきであろう。 争心あれば壮心なし 剣道で攻撃精神や闘争心は最も必要なことであるが、それが勝敗を争う功名心となり争心となれば本当に道を修める壮大なる心を失うものである。「争い碁に名句なし」といわれるように争いの心があれば名句は生まれない。剣道も勝敗にこだわる卑怯な争心あれば壮大なる名試合は生まれない。 参照:「剣道用語辞典」より http //www.budogu.jp/column/kotoba.html#ka 榎本劍修堂 / 劒人倶楽部 埼玉県さいたま市見沼区大谷399 剣道具 通販 / 竹刀 通販
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645-650 大化(たいか) 650-654 白雉(はくち) 686 朱鳥(しゅちょう) 701-704 大宝(たいほう) 704-708 慶雲(けいうん) 武蔵国から「ニギアカガネ」と呼ばれる銅が朝廷に献上されたことを祝し改元された元号は何でしょうか? 和銅 708-715 和銅(わどう) 715-717 霊亀(れいき) 美濃国のとある地に行幸した元正天皇が、そこにあった滝に因み改元した元号は何でしょうか? 養老 717-724 養老(ようろう) 724-729 神亀(じんき) 729-749 天平(てんぴょう) 749 天平感宝(てんぴょうかんぽう) 749-757 天平勝宝(てんぴょうしょうほう) 757-765 天平宝字(てんぴょうほうじ) 765-767 天平神護(てんぴょうじんご) 767-770 神護景雲(じんごけいうん) 770-781 宝亀(ほうき) 781-782 天応(てんおう) 782-806 延暦(えんりゃく) 806-810 大同(だいどう) 810-824 弘仁(こうにん) 824-834 天長(てんちょう) 834-848 承和(じょうわ) 848-851 嘉祥(かしょう) 851-854 仁寿(にんじゅ) 854-857 斉衡(さいこう) 857-859 天安(てんあん) 859-877 貞観(じょうがん) 877-885 元慶(がんぎょう) 885-889 仁和(にんな) 889-898 寛平(かんぴょう) 898-901 昌泰(しょうたい) 901-923 延喜(えんぎ) 923-931 延長(えんちょう) 931-938 承平(じょうへい) 938-947 天慶(てんぎょう) 947-957 天暦(てんりゃく) 957-961 天徳(てんとく) 961-964 応和(おうわ) 964-968 康保(こうほう) 968-970 安和(あんな) 970-973 天禄(てんろく) 973-976 天延(てんえん) 976-978 貞元(じょうげん) 978-983 天元(てんげん) 983-985 永観(えいかん) 985-987 寛和(かんな) 987-989 永延(えいえん) 989-990 永祚(えいそ) 990-995 正暦(しょうりゃく) 995-999 長徳(ちょうとく) 999-1004 長保(ちょうほう) 1004-1012 寛弘(かんこう) 1012-1017 長和(ちょうわ) 1017-1021 寛仁(かんにん) 1021-1024 治安(じあん) 1024-1028 万寿(まんじゅ) 1028-1037 長元(ちょうげん) 1037-1040 長暦(ちょうりゃく) 1040-1044 長久(ちょうきゅう) 1044-1046 寛徳(かんとく) 1046-1053 永承(えいしょう) 1053-1058 天喜(てんぎ) 1058-1065 康平(こうへい) 1065-1069 治暦(じりゃく) 1069-1074 延久(えんきゅう) 1074-1077 承保(じょうほう) 1077-1081 承暦(じょうりゃく) 1081-1084 永保(えいほう) 1084-1087 応徳(おうとく) 1087-1094 寛治(かんじ) 1094-1096 嘉保(かほう) 1096-1097 永長(えいちょう) 1097-1099 承徳(じょうとく) 1099-1104 康和(こうわ) 1104-1106 長治(ちょうじ) 1106-1108 嘉承(かしょう) 1108-1110 天仁(てんにん) 1110-1113 天永(てんえい) 1113-1118 永久(えいきゅう) 1118-1120 元永(げんえい) 1120-1124 保安(ほうあん) 1124-1126 天治(てんじ) 1126-1131 大治(たいじ) 1131-1132 天承(てんしょう) 1132-1135 長承(ちょうしょう) 1135-1141 保延(ほうえん) 1141-1142 永治(えいじ) 1142-1144 康治(こうじ) 1144-1145 天養(てんよう) 1145-1151 久安(きゅうあん) 1151-1154 仁平(にんぺい) 1154-1156 久寿(きゅうじゅ) 1156-1159 保元(ほうげん) 1159-1160 平治(へいじ) 1160-1161 永暦(えいりゃく) 1161-1163 応保(おうほう) 1163-1165 長寛(ちょうかん) 1165-1166 永万(えいまん) 1166-1169 仁安(にんあん) 1169-1171 嘉応(かおう) 1171-1175 承安(じょうあん) 1175-1177 安元(あんげん) 1180年から1185年の6年に渡って続いた源平合戦のことを、この期間中に用いられた2つの元号から何と言うでしょうか? 治承・寿永の乱 1177-1181 治承(じしょう) 1181-1182 養和(ようわ) 1182-1184 寿永(じゅえい) 1184-1185 元暦(げんりゃく) 1185-1190 文治(ぶんじ) 1190-1199 建久(けんきゅう) 1199-1201 正治(しょうじ) 1201-1204 建仁(けんにん) 1204-1206 元久(げんきゅう) 1206-1207 建永(けんえい) 1207-1211 承元(じょうげん) 1211-1213 建暦(けんりゃく) 1213-1219 建保(けんぽう) 1221年、鎌倉幕府による政権を快く思っていなかった後鳥羽上皇が院近臣や西国御家人と共に京で挙兵しのちに敗れた出来事を当時の元号から何と言うでしょうか? 承久の乱 1219-1222 承久(じょうきゅう) 1222-1224 貞応(じょうおう) 1224-1225 元仁(げんにん) 1225-1227 嘉禄(かろく) 1227-1229 安貞(あんてい) 1229-1232 寛喜(かんぎ) 鎌倉幕府3代執権北条泰時が1232年に制定した御成敗式目の事を、制定当時の元号から何と言うでしょうか? 貞永式目 1232-1233 貞永(じょうえい) 1233-1234 天福(てんぷく) 1234-1235 文暦(ぶんりゃく) 1235-1238 嘉禎(かてい) 1238-1239 暦仁(りゃくにん) 1239-1240 延応(えんおう) 1240-1243 仁治(にんじ) 1243-1247 寛元(かんげん) 1247年、執権北条氏やその外戚の安達氏らによって、有力御家人であった三浦氏が滅ぼされた戦いのことを当時の元号から何と言うでしょうか? 宝治合戦 1247-1249 宝治(ほうじ) 1249-1256 建長(けんちょう) 1256-1257 康元(こうげん) 1257-1259 正嘉(しょうか) 1259-1260 正元(しょうげん) 1260-1261 文応(ぶんおう) 1261-1264 弘長(こうちょう) 1264-1275 文永(ぶんえい) 1275-1278 建治(けんじ) 1278-1288 弘安(こうあん) 1288-1293 正応(しょうおう) 徳政令の中でも、分割相続や元寇などによって疲弊した御家人の救済と幕府基盤の維持を目的に1297年に出された日本最初の徳政令のことを当時の元号から何と言うでしょうか? 永仁の徳政令 1293-1299 永仁(えいにん) 1299-1302 正安(しょうあん) 1302-1303 乾元(けんげん) 1303-1306 嘉元(かげん) 1306-1308 徳治(とくじ) 1308-1311 延慶(えんきょう) 1311-1312 応長(おうちょう) 1312-1317 正和(しょうわ) 1317-1319 文保(ぶんぽう) 1319-1321 元応(げんおう) 1321-1324 元亨(げんこう) 1324-1326 正中(しょうちゅう) 1326-1329 嘉暦(かりゃく) 1329-1331 元徳(げんとく) 1331-1334 元弘(げんこう)※1 1332-1333 正慶(しょうきょう)※1 1333年の鎌倉幕府滅亡後に、後醍醐天皇が主導するも武士の反発にあい、わずか2年余りで頓挫した天皇親政のことを当時の元号から何と言うでしょうか? 建武の新政 1334-1338 建武(けんむ)※2 1338-1342 暦応(りゃくおう) 1342-1345 康永(こうえい) 1345-1350 貞和(じょうわ) 1350-1352 観応(かんのう) 1352-1356 文和(ぶんな) 1356-1361 延文(えんぶん) 1361-1362 康安(こうあん) 1362-1368 貞治(じょうじ) 1368-1375 応安(おうあん) 1375-1379 永和(えいわ) 1379-1381 康暦(こうりゃく) 1381-1384 永徳(えいとく) 1384-1387 至徳(しとく) 1387-1389 嘉慶(かきょう) 1389-1390 康応(こうおう) 1334-1336 建武(けんむ)※2 1336-1340 延元(えんげん) 1340-1346 興国(こうこく) 1346-1370 正平(しょうへい) 1370-1372 建徳(けんとく) 1372-1375 文中(ぶんちゅう) 1375-1381 天授(てんじゅ) 1381-1384 弘和(こうわ) 1384-1392 元中(げんちゅう)※3 1391年、一族で11か国を領し「六分の一衆」と言われていた山名氏が室町幕府に対して起こした反乱を当時の元号から何と言うでしょうか? 明徳の乱 1390-1394 明徳(めいとく)※3 1419年、朝鮮軍が倭寇の根拠地と考えていた対馬を襲撃した事件のことを当時の元号から何と言うでしょうか? 応永の外寇 1394-1428 応永(おうえい) 1428年、近江国の坂本や大津の馬借の蜂起を機に発生し、畿内全域に波及した徳政を要求する一揆のことを当時の元号から何と言うでしょうか? 正長の徳政一揆(土一揆) 1428-1429 正長(しょうちょう) 1438年将軍職就任を果たせなかった鎌倉公方・足利持氏が関東管領上杉氏との対立をきっかけに起こした反乱を当時の元号から何と言うでしょうか? 永享の乱 1429-1441 永享(えいきょう) 1441年、室町幕府6代将軍足利義教が播磨守護・赤松満祐によって暗殺された事件を当時の元号から何と言うでしょうか? 嘉吉の変 1441-1444 嘉吉(かきつ) 1444-1449 文安(ぶんあん) 1449-1452 宝徳(ほうとく) 1452-1455 享徳(きょうとく) 1455-1457 康正(こうしょう) 1457-1460 長禄(ちょうろく) 1460-1466 寛正(かんしょう) 1466-1467 文正(ぶんしょう) 1467年、管領家や将軍家の家督争いに端を発し起こった、11年に渡って続いた内乱を当時の元号から何と言うでしょうか? 応仁の乱(応仁・文明の乱) 1467-1469 応仁(おうにん) 1469-1487 文明(ぶんめい) 1487-1489 長享(ちょうきょう) 1489-1492 延徳(えんとく) 1492-1501 明応(めいおう) 1501-1504 文亀(ぶんき) 1504-1521 永正(えいしょう) 1521-1528 大永(たいえい) 1528-1532 享禄(きょうろく) 1532-1555 天文(てんぶん) 1555-1558 弘治(こうじ) 1558-1570 永禄(えいろく) 1570-1573 元亀(げんき) 1573-1592 天正(てんしょう) 1592-1596 文禄(ぶんろく) 1596-1615 慶長(けいちょう) 1615年、大坂の役終結により応仁の乱以来続いてきた戦乱の世が終りを告げたことを当時の元号から何と言うでしょうか? 元和偃武(げんなえんぶ) 1615-1624 元和(げんな) 1624-1644 寛永(かんえい) 1644-1648 正保(しょうほう) 1651年、軍学者の由比正雪らを中心に起こった幕府転覆計画事件のことを当時の元号から何と言うでしょうか? 慶安の変(慶安事件) 1648-1652 慶安(けいあん) 1652-1655 承応(じょうおう) 1657年に発生した、江戸城天守閣消失の原因ともなった振袖火事のことを当時の元号から何と言うでしょうか? 明暦の大火 1655-1658 明暦(めいれき) 1658-1661 万治(まんじ) 1661-1673 寛文(かんぶん) 1673-1681 延宝(えんぽう) 1681-1684 天和(てんな) 渋川春海が中国の授時暦を元に日本に適応させ作り上げた、国産初の暦のことを採用された当時の元号から何と言うでしょうか 貞享暦 1684-1688 貞享(じょうきょう) 人形浄瑠璃の近松門左衛門や俳諧の松尾芭蕉、浮世草子の井原西鶴らが活躍した、江戸中期に上方を中心に栄えた文化のことを当時の元号から何と言うでしょうか? 元禄文化 1688-1704 元禄(げんろく) 1704-1711 宝永(ほうえい) 江戸幕府6代将軍家宣、7代将軍家継の頃、儒学者・新井白石や側用人・間部詮房らが行った一連の文治主義政治改革のことを当時の元号から何と言うでしょうか? 正徳の治 1711-1716 正徳(しょうとく) 1716-1736 享保(きょうほう) 1736-1741 元文(げんぶん) 1741-1744 寛保(かんぽう) 1744-1748 延享(えんきょう) 1748-1751 寛延(かんえん) 江戸中期、幕府や摂関家に不満を抱いていた公家たちと彼らに尊王論を説いた竹内式部が処分された事件のことを当時の元号から何と言うでしょうか? 宝暦事件 1751-1764 宝暦(ほうれき) 尊王論者である山県大弐が、江戸攻略の軍法を説いたことから不敬罪として処刑された事件のことを当時の元号から何と言うでしょうか? 明和事件 1764-1772 明和(めいわ) 1772-1781 安永(あんえい) 1781-1789 天明(てんめい) 1789-1801 寛政(かんせい) 1801-1804 享和(きょうわ) 浮世絵の葛飾北斎や歌川広重、国学の本居宣長、洋学の伊能忠敬などといった人物が活躍した、江戸後期に江戸の町人を中心に栄えた文化のことを当時用いられた2つの元号から何と言うでしょうか? 化政文化 1804-1818 文化(ぶんか) 1818-1830 文政(ぶんせい) 1830-1844 天保(てんぽう) 1844-1848 弘化(こうか) 1848-1854 嘉永(かえい) 1854-1860 安政(あんせい) 1860-1861 万延(まんえん) 1861-1864 文久(ぶんきゅう) 1864-1865 元治(げんじ) 1865-1868 慶応(けいおう) 1868-1912 明治(めいじ) 1912-1926 大正(たいしょう) 1926-1989 昭和(しょうわ) 1989- 平成(へいせい) 赤字は北朝、青字は南朝 ※1鎌倉幕府方は倒幕を画策する後醍醐天皇が改元した「元弘」を認めず光厳天皇を擁立、元号を「正慶」とし幕府滅亡まで使用した ※2「建武」は南朝では二年後に改元したが、北朝では四年後に改元した ※3南朝方の後亀山天皇が退位し南北朝合一、元号が「明徳」 文責 T道雪
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ゴコウゴンテンノウ(後光厳天皇、後光嚴天皇) 北朝4代天皇。 関連: イヤヒトシンノウ (弥仁親王、本名)
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イヤヒトシンノウ(弥仁親王、彌仁親王) 皇族の系譜に登場する人物。 北朝4代天皇ゴコウゴンテンノウ(後光厳天皇)となる。 関連: カズヒトシンノウ (量仁親王、父) サンジョウヒデコ (三条秀子、母) ヒロハシチュウシ (広橋仲子、妻) オヒトシンノウ (緒仁親王、息子) エイジョホウシンノウ (永助法親王、息子) ギョウニンホウシンノウ (尭仁法親王、息子) ギョウショウホウシンノウ (尭性法親王、息子) リョウニンホウシンノウ (亮仁法親王、息子) ギョウジョホウシンノウ (行助法親王、息子) カクゾウホウシンノウ (覚増法親王、息子) ハルコナイシンノウ (治子内親王、娘) カクエイホウシンノウ (覚叡法親王、息子) ドウエンホウシンノウ(2) (道円法親王、息子) ショウジョホウシンノウ(2) (聖助法親王、息子) ミョウショウホウシンノウ (明承法親王、息子) カンシュホウシンノウ (寛守法親王、息子) カンキョウホウシンノウ (寛教法親王、息子) ケンシナイシンノウ(5) (見子内親王、娘) ゴコウゴンテンノウ (後光厳天皇)