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◆サ行の部 ささら踊り 剣理を弁えず、ただ竹刀を持って打突するだけに専念する剣道を「ささらを持った踊りなのだ」と比喩したものであり、「所作くらべ」「奴踊り」も同じ蔑視の表現である。いずれも真剣味のない、なり振りかまわぬ剣道を忌み嫌う精神である。 悟り 悟りとは仏教でいう「迷いからさめる」ことであり、剣道的にいえば剣の四戒を脱却して超然たる心境に達し。生死を以って二つにせぬ剣の極所を極めることである。「一瞬の悟りに半生の夢あり」といわれるように多年に亘る難行苦行の結果到達できる境地である。 三ウン一味 「先」「断」「残」の三つを三ウンという。 断は一刀両断であり、残は残心である。すなわち先の気と一刀両断の信念とさらに残心の心構えとが一体となり、一元的に機能して始めて完全なる「一本」となるもので、気剣体一致などと表現は異なるがその内容に於いては大同小異である。 山海の替り 相手が山と思えば海と変わり、海と思えば山とでて常に相手の意表をつくことであり、又三回の変わりとも言い二回は是非なし三回は悪しで、同じ攻め口を何度もやってはいけないという教えである。(宮本武蔵) 三磨の位(さんまのくらい) 剣道には「習い」「稽古」「工夫」の三つの要素が大事であり、」これを一体的に練り磨かなければならない。 これを三磨の位という。(柳生蓮也斎) 三位の格(さんみのかく) 「露の位」「石火の位」「梵鐘の位」を古来三位の格として貴んでいるが、「露の位」とは木の葉に落ちた水滴が静かに凝集して機満つればポタリと落ちるように決して無理な打ちを出さず静かに気の至るを待つことであり、「石火の位」とは火打石を打てば火が出るように機至れば間髪を入れず鋭い打ちを出すことである。 さらに「梵鐘の位」とは打てば即ち梵鐘のように余韻嫋々たる気の残心を漂わすことである。一本の打ちに理想的内容を示したものであるが、実に麗しい適切な表現である。 三無の剣 「無理なく、無駄なく、無法なし。これを三無の剣といい剣の至高なるものなり。音なしの剣はこの境地より出るものなり」 (桃井春蔵) 残心(ざんしん) 打突した後も、油断することなく、相手の反撃に対応できる身構え、心構えをいう。一般的には、打突後に間合いをとって、中段の構えになって相手に正対する。剣道のルールでは、残心のあることが有効打突の条件になっている。 四戒(四病) 正しい剣を使う上に精神的障害をなすものが四つある。それは恐、驚、疑、惑の迷妄である。 これを剣の四戒といい惑は四病ともいう。 恐(おそ)れる(懼)―相手の体躯態度あるいは風聞等に恐怖心を抱くこと。恐るれば我が全機能を発揮することができない。 驚(おどろ)く―相手の構え、あるいは技前(わざまえ)に於て全然予知しないことが起き、その異常さに驚いて平常心を失うこと。平常心を失えば事の正かつを誤る。 疑(うたが)う―相手がどう出るであろうか。何をしかけるであろうかなど疑心暗鬼を生ずることで、疑えば決断ができない。 惑(まど)う―相手に対してどう仕かけようか、どう応じようかといろいろと思い惑うこと、惑えば適切なる判断ができず果敢なる攻撃ができない。 只管打座(しかんだざ) ひたすら打座れということで、あれこれ雑音に惑わされることなく只一向に念仏を唱えて打ち座っているうちに道は自然にひらけると言う法然(ほうねん)の教えである。 剣道もこの精神で、あれこれ思い煩うことなく只一向に稽古にはげめば道は自らひらけ、理も明らかになり、稽古も必ず上達するという教訓である。 直心是道場(じきしんこれどうじょう) これは唯摩居士(ゆいまこじ)と光厳童子(こうごんどうじ)とのやりとりの言葉だそうであるが「直心」すなわち素直な心をもって精進修行すれば天地到るところが道場であり修行の場所ならざるはないという唯摩居士の教えそのままとったものである。 止心(ししん) 止心とはある一つのことを心に留め、そのため肝心のことがすべておろそかになって、失敗することで、剣道で最も嫌うことである。 例えば面を打とうと面にばかり執心すれば他の部位がおろそかになってそこを打たれる。相手が小手がうまいからと小手ばかり用心すれば面を打たれる。すべて止心のなせる罪である。よく例に出される千手観音の話であるが千の手を持っていても一本の手に心が留まればあとの九百九十九本の手は皆死に手となって何の役にも立たない。一本の手に心を止めなければ千本の手はそれこそ千手観音の用をなして全機能を発揮できるということである。 地蔵肩に不動腰(じぞうがたにふどうごし) 地蔵さんの肩はまるく無駄力が入っていない。不動さんの腰は頑丈で堅確である。 剣道でも肩は地蔵さんのように脱力したなで肩であり、腰は不動さんのように強く重厚であれという剣の理想の姿を説いている。 撓競技(しないきょうぎ) 昭和二十年終戦と同時に剣道は禁止されたが、剣道を愛好する人々は何とかして剣道を復活させたいと種々内容を検討改変したが、どうしてもGHQの許可をえられなかった。 その理由は占領軍極東理事会の決議により剣道という字はいっさい使えなかったからである。そこで先ず名称を撓競技と改称し、形態は異なってもそのないように剣道的要素を織りこんで作ったものが撓競技である。しないも現在のような四つ割りではなく、竹を四つ割りから八つ割り、先端は十六割りと先に行く程こまかく割り、それを布袋に包んだものである。競技方式も一定時間にポイントを多く取った者が勝ちであり、かけ声はいっさい禁止された。戦争中の突貫のイメージがあるからである。 それもこれも剣道を発展させるための一時的カムフラージュであれば仕方がないと、多くの人の理解と強力をえて次第に普及し、体協加盟も許され、昭和二十七年からは中学校以上の学校教育に採用されるまでに充実した。 その後講和条約が締結されて元の剣道も自由にできるようになったので、両者合体してその長所を採り、始めは剣道撓競技連盟と称したが、やがて現在のような剣道という名称のもとに統一されて今日に及んでいる。 師なきは外道(げどう) 禅家の教えであるが、良師なきものは外道に落ち、いつまでたっても本物にはならない。 剣道も初めから良い師について学ばなければ外道に堕ち邪剣になり変剣に堕する恐れがある。最初から良師について正しきを学べという教えである。 師はローソク ローソクは身を焼き尽くして周囲を明るくするものであり、世の指導者も又身を犠牲にして世のため人のために挺身せよという垂訓である。 守・破・離 仏教では習。絶・真ともいい、あらゆる道の修行における順序段階を教えている。 守―教えを守り私意をさしはさむことなく、ひたすら基本を身につける段階である。書道の楷書にあたるもので、一点一画をゆるがせにしない心配りが大切である。 破(は)―守の殻を破り躍進する時代である。いままでの教えを基礎とし、中核として、自己の知能や個性を発揮して次第に自己の剣道を創造する時代で書道の行書にあたる領域である。 離(り)―孔子の七十にして矩(のり)を超えずの境地であり、あらゆる修行の結果我が思いのままに行動して、いささかも規矩にはずれることなく、一つの形や流儀流派にとらわれることもなく、自由闊達に自己の剣風を発揮できる時代である。 書道の草書の位である。 上丹田(じょうたんでん) 寸田(すんでん) 丹田に対する言葉で、これは目と目の間(小鼻)又は眉と眉の間(眉間)(みけん)のことで一刀流では寸田と呼んでいる。 ここは小さいけれども人間の急所である。丹田は胆力精気の無限に生じるところ、上丹田は智力判断力等の英智の沸き出ずるところと解すべきだろう。 序・破・急 物の動きの順序を教えたもので、初めは静かに次第に早く、最後は最も急にやれということで、居合いの刀の抜き方がこの方式である。先ず鯉口を切り、静かに抜き初め、次第に速度を増し、そして最後は抜きつけの鞘ばなれであり、この瞬間が最も早く、最も鋭い。 剣道の打突もまさにこの通りであり、初めは心静かに始動し、最後の打突のところが一番強く一番鋭くなければばらない。 随所に主となる これは臨済宗の教是であるが、どこに行ってもそこを支配するだけの器量人になれということで、剣道的に言えば宮本武蔵の「将卒の訓え」であり、相手の自由に引き廻す将となるべしという心の位を教えたものである。 捨て身 文字通り身を捨てることであり剣道の極意でもある。「身を捨てて又身をすくう貝勺子」という一刀流の歌は身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれという究極の心境を教えている。 宮本武蔵も真剣勝負は「我が身切られに行くと思え」といっているが、これも捨て身であり、針谷夕雲の「相抜け」も又捨て身である。 上杉謙信は「生を必すれば必ず死し、死を必すれば必ず生く」と死を必する捨て身の精神を説いているが、これが剣の心であり戦いに臨む精神である。 素振りと素打ち 素振りと称して空間の連続正面打ちをやっているが、これは素振りでなく素打ちである。振るということは棒の一端を持って他の一端を動かすことで打つのではない。自分の力を意識的に作用させてはならない。 剣道で一番嫌うことは空間打突であり、空間で打突すれば必ず無駄な力でこれを空間でとめなければならない。その無駄力のブレーキが剣道上達の障害をなすものであり、それがいけないのである。素振りはどんなに早く激しくやってもよいが素打ちはいけない。 今でも正面打ちを分解して一、二、三と掛声をかけながら昔式の空間打突をやらせているところがあるがこれは即日改めるべきであろう。その場連続正面打ちもやり方によっては同様の意味で弊害がある。重心の上下動は剣道では禁物であり、正面打ちや上下振りも重心を落着けてすり足でやることが望ましい。 西江水(せいこうずい) 西江水とは碧巌録(へきがんろく)に出る言葉でそれを柳生流の秘伝書に取り入れられたものだと伝えられている。 柳生流の秘歌に、「兵法の数の習いを打ち捨てて、西江水を一口に呑む」というのがあるが西江水を一口に呑むとは揚子江の水を一口に呑むことであり、宇宙を呑吐し自然と一体になれということであろう。 剣の極致はいかなる流儀流派も皆「無」であり自然に帰することである。柳生流においても「西江水」をもってその真髄を表現したもののようである。 施無畏(せむい) 無畏を施すこと。種々の畏怖を取り去って救うことで剣道的にいえば恐れを知らぬ不動心を教えること。 普段はあまり聞きなれない言葉であるが剣道ではその心境を説く時によく使われる言葉である。浅草の観音様に「施無畏」の字が大書してあるのは観世音菩薩を施無畏長者と呼び、この菩薩が無畏を施す威力を持つためであるといわれている。 禅(ぜん) 禅とは梵語のジュハーナ(禅那)ということで沈思黙考のことだそうであるが、今では「無」の境地に入る修行法をさしている。 私共は禅といえば座禅であり、何日間も結跏趺座(けつかふざ)して行ずるものと思っていたが、禅には久米平内がいうように座禅、掛け禅、仁王禅があり、椅子にかけても仁王様のように立ち上がってもその中に禅があると教えられている。さらに普家(ふけ)禅、吹(すい)禅というような尺八禅もある。 宮本武蔵は、「見よいかに加茂の競馬の駒くらべ、駈けつ返すも座禅なりけり」とよんで馬に乗って駈け廻るのも禅だといっているが、これ言うなれば一種の動禅であり、何をやってもいかなる方法を以ってしても「無」の境地になり切ればそれは皆禅である。 剣道も結局一生懸命にやっても「無」の境地に達すれば武蔵流にいえばあきらかに動禅である。座禅も公案もなくても剣によって生死超越の妙境に達すれば、それは明らかに禅であり剣禅一致の妙境というべきであろう。 争心あれば壮心なし 剣道で攻撃精神や闘争心は最も必要なことであるが、それが勝敗を争う功名心となり争心となれば本当に道を修める壮大なる心を失うものである。「争い碁に名句なし」といわれるように争いの心があれば名句は生まれない。剣道も勝敗にこだわる卑怯な争心あれば壮大なる名試合は生まれない。 ▲ページ上へ ◆タ行の部 大強速軽(だいきょうそくけい) 初心者指導の幼諦は「大きく正しく」ということで大強速軽はその上達への過程を教えたものである。 すなわち最初は大きく振り冠(かぶ)って強く正しく打つ。そのうちに技もだんだん速くなり、無駄力をなくして次第に軽妙になり、冴えのある立派な剣道になるということである。 丹田(たんでん) 丹田の丹は赤であり、物の精粋である。 中国では昔不老不死の薬を丹といい、日本でも森下の仁丹、越中富山の反魂丹(はんごんたん)などがある。田は物を生ずる所であり、結局丹田とは精気精粋の生ずるところという意味である。貝原益軒はその養生訓に「臍下三寸を丹田といい、これは身命の命根のある所なり」と説いている。座禅をし静座するのも皆丹田の力を養うためである。 畜生剣 針谷夕雲は「相抜け」を以って剣の極意とし、平素工夫もせず鍛錬も怠り、ただ自分だけ勝とう勝とうとあせるのは畜生心であり、その剣を畜生剣としていやしんだ。 月の抄(つきのしょう) 柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)が祖父石舟斎(せきしゅうさい)、父但馬守(たじまのかみ)より受けた教えを柳生家秘伝書として書きとめ、その精粋ともいうべきものが月の抄である。この中に柳生流の秘伝秘剣がことごとくしるされている。 鍔で打割れ八幡座(天真正伝伸道流) 八幡座は鉢真座で頭の真ん中である。真剣勝負の時はどうしても体が遠のくものであるから、思い切り踏み込んで鍔で相手の頭(ず)がい骨を打ち割るくらいの気概を持てという教えである。 又天心流には「鍔で突き破れ面部流」という言葉もあるように真剣勝負には身を捨てて鍔で戦う気力が必要だとその踏み込みの精神を教えたものである。 強きを論せず正しきを説くべし 強いこと勝つことばかりをいわず、正しい剣の道を教えなければならない。 それが一番大事だという指導上の留意点を示したものである。 手元が堅い 構えが堅確で、いかなる攻撃にも剣先に狂いがなく、打込む隙のないこと。 (竹刀をかたく握って握りのかたいのとは意味が違う) 天地の足 剣道では天地に踏めという教えがある。 両足を同じようにべったり踏みすえたり、両足とも爪先で立つようなことはしないで、一方はやや高く、一方はやや低めにし進退自由なる如く踏めということである。 道場訓 道場訓はその道場の教育方針であり道場の精神である。 したがって道場訓を見ればその道場の教育方針が一目で分かる簡明なものでなければならない。むずかしい文句や長たらしい冗文をいくら並べても修行者に理解されなければそれはゼロである。道場訓は裏から見れば修行者の心得であり日々修行の目標になることが又大切である。 参考までに玉川大学修行訓を下に掲げる。 一、正しきを学べ。心を正し、身を正し、技を正し、行いを正せ。 二、己に克て。人に勝たんとすれば先ず己に克て。苦しみに堪えよ、人のしない努力をせよ。 三、心常に剣を離れず。絶えず研究工夫せよ。言動は常に剣の教えに違わず 参照:「剣道用語辞典」より http //www.budogu.jp/column/kotoba.html 榎本劍修堂 / 劒人倶楽部 埼玉県さいたま市見沼区大谷399 剣道具 通販 / 竹刀 通販
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名前 イオナンタ 所属 パイナップル科ティランドシア属 種類 イオナンタ.xxxという名前がイッパイ。 育て方 日光 たっぷり。でも夏は半日陰。 水 ソーキングを夏と冬は月2回くらい、春と秋は月3回くらい。霧吹きでの水遣りをたまに。水をやったらよく乾かすことに注意。蒸れたらすぐ死ぬ模様。このため、水やり後~乾くまでの間、日光厳禁。夕方~夜に水をやるのが好ましい。 増やし方 株分け 特徴 青紫色の花が咲きます。 花が咲く頃に、葉っぱが赤く染まってきます。 エアプランツなので、土とかいらないです。 通販 楽天市場 イオナンタ 履歴 2007-10-20 購入
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登録日:2018/01/14 (日) 09 57 05 更新日:2024/04/11 Thu 13 14 48NEW! 所要時間:約 11 分で読めます ▽タグ一覧 YAIBA スサノオ ツンデレ バトルマニア 下駄 中学生 主人公 仮面ヤイバー 侍 剣士 剣道 勇者 覇王剣 鉄刃 雷神 雷神剣 食いしん坊 高山みなみ 龍神剣 鉄刃、日本一のサムライでぃッ!! 鉄刃とは、漫画『YAIBA』の主人公である。 名前の読みは「くろがね やいば」。 CV:高山みなみ ●目次 人物 活躍 他作品において 主な技 人物 日本一のサムライを目指している少年。いつも道着のような着物とゲタを身に着けている。 背は低くパッと見は小学生だが、本当は中学2年生の峰さやかと同い年。 小柄なので帯剣する時には大体背負っている。 父・剣十郎やハゲタカの庄之介と共に、幼い頃からジャングルで剣の修行を行っていた。 そのため父親譲りの剣の腕前と、ジャングルで培った常識破りのパワーと野生の勘が自慢。 ゲロ左衛門からは「剣が無いヤイバなんかただのアホだゲロ」呼ばわりされていたが身体能力はやたらと高く、 焼き菓子のプレス機に押し潰されても自力でプレスを破って抜け出してきたほどの怪力を持つ。 戦いの際のひらめきもピカイチで、相手の弱点や癖を瞬時に見抜いたり、普通では考え付かないような奇策を用いて幾度となく窮地を脱している。 戦いの最中に新たな技を編み出す事もあり、相手の技を真似た事もある。 戦いで大敗を喫しても諦める事はなく、強敵に勝つためならばどんな修行にも耐え、必ずリベンジをしている。 「野生児」という言葉がよく似合う豪快かつ大胆な性格で、とにかくやる事が型破り。 礼儀と言うものを知らないので基本はため口。初期の頃は正々堂々とはほど遠い汚い手を使っていた事もある。ムサシが弟子に取るわけだ 人一倍仲間想いでもあり、戦いで仲間が傷ついていく事には耐えられない。 中でもさやかに対する想いは特別で、戦いを終えた後とかにたまにいい雰囲気になるが、照れくさいのか決まって刃のほうが茶を濁すためなかなか進展しない。 今までジャングルで育ったため一般常識がまるでなく、当初は日常でよく見る物の名前や使い方もほとんど分からなかった。 日本に来たばかりの時にはタクシーの運転手に「こいつ(タクシー)もお前が倒して家来にしたのか?」と尋ねたり、 さやかと一緒に中学校へ登校した時には「そーとーすげーヤツが住んでいそう」などと言って不安になっていた。 戦い以外で頭を使うのは苦手であり、計算はしょっちゅう間違え、人の名前もなかなか覚えない。 チキチキグランプリでスフィンクスにクイズを出された時には2万8459問連続で間違えたので「頼むから当ててくれ」と泣きつかれていた。 ちなみに日本に来るまで女性を見た事がなく、さやかと初めて会った時には彼女の体をあちこち触り、会う女性に片っ端から抱きついていた。 そんな出自故に最初の頃はスケベな本には無関心であったが、徐々に女性の裸にも興味を持つようになり、 いつしか武蔵や小次郎共々嫌らしいスケベ顔を披露するようになった。 本人曰く嫌いなのは猿とゴリラ。因果関係はないが鬼丸軍団の中で一番苦しめられたのも日本猿と合体した松尾芭蕉だった。 父の剣十郎は刃をそのまま大人にしたような人物で、剣の達人ではあるがいい加減な性格。 母親は剣十郎曰く「ジャングルでライオンに食われた」そうだが… 活躍 ジャングル~学園編 剣十郎と共にジャングルで暮らしていたある日、パイナップルを詰め込んでいた木箱の中に剣十郎、カゲトラ(この頃にはまだ名前がない)と一緒に落ちてしまい、 そのまま梱包・空輸されて日本の成田空港に降り立った。 そこでたまたま来ていたさやかと出会い、剣十郎の一存で峰家に転がり込む事となる。 数日後にはさやかの通う中学校に行き、そこで早速問題を起こすもなんやかんやで入学した。 そしてそこで剣道の達人の鬼丸猛と出会い、剣道で叩きのめされた後は彼を一方的にライバル視するようになる。 しかし鬼丸に相手にしてもらえなかったので、彼の防具を盗んだり落とし穴に落としたりして彼を怒らせる。 戦いの中でも、土管を投げつけたり彼の頭に噛み付いたりするなど卑怯千万な事をするが、勝負はつかず終いとなった(*1)。 風神剣、雷神剣登場~国会議事堂決戦編 鬼丸に勝つために剣の特訓をしているある日、風神剣によって鬼と化した鬼丸が現れ、圧倒的な力の前に敗れてしまう。 その後、剣十郎から雷神剣の事を聞くと、さやか達と一緒に天狗岳に向かい、そこで伝説の剣豪・宮本武蔵と出会った。 雷神剣に伝説のサムライだと認められ、それをあっさり抜いた後はすぐに鬼丸を倒すために鬼丸城へと向かう(すぐにUターンしたが)。 天狗岳に戻った後は、鬼丸の刺客を倒しながら東京へ向かい、ゲロ左衛門や佐々木小次郎などを仲間にしながら雷神剣の力に取り込まれないための修行を続ける。 鬼丸城での決戦では雷神剣の力と必殺技の雷斬りを駆使し、鬼丸の風神剣を折る事に成功。 だがその後で鬼丸に雷神の玉を奪われ、いずこへと逃げられてしまった。 玉収集~富士山決戦編 鬼丸に雷神の玉を奪われ、空飛ぶ鬼丸城に乗り込む手段もなかったため、新たな力を得るために伝説の玉「龍神の玉」を探し求める旅に出る。 日本全国に散らばる玉を集め、その道中で新たに柳生十兵衛光厳も仲間に加える。 7つの玉を集めた後は富士山で龍神の試練に挑むが、そこで仲間が次々と死んでいき、遂には1人となる。 だがそれこそが龍神の与えた「心の試練」であり、その試練を乗り越えた後で仲間と再会し、龍神に認められてようやく龍神の玉を手に入れた。 その直後に鬼丸に決戦を挑み、互角の勝負を繰り広げるのだが… 月の女王かぐや編 鬼丸との決戦時に、月からかぐやが襲来。ある理由で龍神を目の敵にしているかぐやに追い回される。 かぐやが真の力を出す前に突然苦しみだしたため、その隙に東京まで逃走し、体力をつけるための修行をする事になる。 しかし、ひょんな事で鬼丸とかぐやが激突している事を知り、修行を放り投げて彼らの勝負に乱入した。 その最中、鬼丸がカーボンフリーズ砲で一瞬にして固められてしまい、彼を拾っている好きにかぐやを逃がしてしまった。 その後は東京に襲来するかぐや一味を次々と退けていくが、ベイブリッジでの戦いでゲッコーの持つ魔王剣の力に敗れ、さやかを連れ去られてしまう。 かぐやに対抗するために武蔵の意見を受けて鬼丸を復活させ、彼と協力してかぐやに決戦を挑む。 鬼丸との合体技「風雷波」でゲッコーを撃破し、囚われのさやかを救出しようとするが、 その前にかぐやがさやかのエキスを吸収してしまい、さやかは老婆の姿となってしまう。 変わり果てた姿となったさやかは「お願い刃…見ないで…」と涙するが、そんな彼女に向かって… 好きだぜさやか… これからも ずーーっと ずーーっと、 大好きだからな!! …と笑顔で言い、真の姿となったかぐやに最後の勝負を挑んだ。 途中でかぐやは地球と一体化してしまい、龍神の最後の力を使わなければ勝ち目がないところまで追いつめられる。 最後の力は地球をチリにしてしまうほどの強大な力であり、それを撃つ事を思わずためらうが、 鬼丸の「あれは地球ではない…きさまの女を老婆に変えた化け物だ…」という言葉で目を覚まし、本気の一撃をかぐやに打ち込んで遂に勝利を収めた。 その一撃でかぐやを封じ込める事に成功し、さやかも元の姿に戻る。 そしてさやかにさっきの言葉について詰め寄られるが、「武蔵も小次郎も十兵衛もゲロ左衛門もみーんな大好きだ」と言って誤魔化したので、 さやかからゲンコツとビンタを食らう事となった。 中編連作時代 鼠に薬を盛られてさやか共々小さくなってドラ猫軍団と大捕り物を繰り広げたり(この時は天井裏を砦にして戦うなどかなり策謀を巡らせている)、 蕎麦屋の坊主…ではなく大和撫子と再会したり、ナマコ男と共に過去に飛んで若かりし日の武蔵に余計なことをして消滅しかけたり、 過去改変を防ぐために巌流島で小次郎と闘ったりと様々な冒険を繰り広げる。 地底人出現編 さやかと買い物をしている時に大地震に遭遇。その直後に岩男に襲われ、全治一ヶ月の怪我を負う。 岩男を十文字斬りで撃破した後は、謎の少女灰原哀エメラルドと遭遇。彼女に導かれて関東平野に突如現れたピラミッドに行く事に。 ピラミッドの主である地底人の目的は地上の制圧であり、それを阻止するために刺客を倒しながら地下帝国へと突入した。 戦いの最中でエメラルドを失った後で、地底人と手を組んで巨人を操っていた黒幕が鬼丸であった事が発覚。 鬼丸に裏切られた地底人を救うため、そして二度とエメラルドのような悲しい戦士を生ませないために、鬼丸の残していった巨人・ゴールドに戦いを挑む。 戦いの最中で風神剣と雷神剣が融合し、覇王剣が誕生。ゴールドを撃破した後は地底人に感謝され、地上に現れたピラミッドも地中へと戻っていった。 ヤマタノオロチ最終決戦編 久々に中学校に登校するが、初日に鬼丸の新たな刺客と遭遇。 峰家で別の刺客と戦った時に、鬼丸が日本各地の8つの封印を解除していっている事を知り、それを阻止するために再び旅立つ。 その旅で自分がスサノオの血を引いている事が判明するが、力及ばず封印を全て解かれてしまい、日本列島が巨大なヤマタノオロチと化して襲い掛かってくる。 ヤマタノオロチに敗れた後は地底人に助けられ、対抗するために地球に封じ込めたかぐやを復活させ、さやかに封じ込める事になる。 かぐやと化したさやかの協力でヤマタノオロチの上に舞い戻り、そこで待ち受けていた鬼丸と最後の決戦を繰り広げる。 覇王剣と魔王剣がぶつかりあったため激しい戦いとなり、覇王剣が砕け散った後も自らの闘気を刃に変えて魔王剣にヒビを入れる。 しかし全力で戦っているうちに徐々に限界が近づき闘気も小さくなってしまうが、それでも諦めずに鬼丸に立ち向かう。 それに驚愕した鬼丸に「なぜそうまでしてオレにたち向かってくる!?」と問われると、傷つきながらも笑みを浮かべてこう答えた。 オメーが強えーからだよ… そして闘気を一瞬消すことによって鬼丸に隙を作り、鬼丸の角を斬ってようやく勝利する。 その後はオロチの角を斬って日本を元の姿に戻し、かぐやが抜け出したさやかと無事再会。鬼丸もこの戦いによってようやく正気に戻った。 最後の仕上げに覇王剣を大地に突き刺してオロチを封印するが、オロチの向きを全く考えていなかったので日本が逆さまになってしまった。 織田信長御前試合編 日本剣道選手権大会に出場し、危なげなく優勝して全国制覇を果たす。 その後、目の前に諸羽という少女が現れるが、諸羽に「あなたは本当のサムライじゃない!」と断言され驚く。 諸羽はとある財閥のお嬢様であったが、なんと彼女は刃の妹でもあった。 そして死んだと思っていた母親が実は生きていた事を知り、大グループの跡取りであった事も発覚。 しかし諸羽が「あなた(刃)は父の名を騙るその人(剣十郎)に攫われて育った」、 その母親・美智子が「あなた(諸羽)の父親はあの男(剣十郎)に殺された」などと剣十郎の事を罵ったため、 彼に確かめるまで諸羽が実の妹である事や母親が生きている事を信じようとはしなかった。 そして剣十郎に会えるという諸羽の話に乗り、織田信長御前試合への出場を決意。後に美智子と再会するが、彼女が止めるのを振り切って屋敷を出て行こうとする。 その時に彼女から剣十郎(美智子の死亡したとされる夫)が愛用していた木刀を譲り受け、会場のあるヨロイ島に向かった。 大会では世界中から集まった様々な戦士達と対決。六代目沖田総司やかつての仲間である十兵衛などの強敵とも戦い、辛くも勝利を収める。 そしてようやく剣十郎と再会するが、決勝戦の相手は永遠のライバルである鬼丸であった。 鬼丸にはかつてのような鬼の力は残されていなかったが、剣十郎の元で修行を積んでいた事もあり、(純粋な剣技は)これまで以上に強くなっていた。 鬼丸のすさまじいパワーの太刀を目の当たりにした事で、初めて真の強敵が目の前に立ちはだかる事への恐怖を覚える。 恐怖を感じた途端戦意を喪失して逃げるようになり、終いには誰と戦っているのか分からなくなるほどまでに錯乱するが、 さやかの応援を聞いた事で闘志に火がつき、極限まで闘気を上げてそれを鬼丸に叩き込み、純粋な剣の腕だけで遂に鬼丸に勝利した。 その後剣十郎に「強くなったな…」と認められ、美智子が自分の母親である事と剣十郎が諸羽の父親である事が判明する。 そしてさやかといつものように喧嘩しながら、家族と一緒に自分の生まれた鉄の屋敷へ帰るが…… エピローグ 屋敷へ帰った後、すぐに仲間達と新たな旅へ出る。 その後3年間何の音沙汰もなかったが、何の前触れもなくさやかの通う高校へと現れた。 この3年間で身長が急激に伸びたので、さやかを見つけて開口一番に「オメーずいぶんチビになったな」とボケをかます。 そして現在変な洞窟ですごい化物と戦っている事をさやかに伝え、「来るか?」と彼女を誘う。 さやかは涙を浮かべながらその誘いを了承。 旅で新たに見つけた魔剣クサナギ(*2)に乗って、化け物のいる火星へと向かっていった。 他作品において まじっく快斗 番外編『刃vs快斗の巻』に登場。 世間を騒がせる怪盗キッドが峰家の宝刀を狙うと予告状を出したので、それを守るためにキッドと対決する。 得意の剣技でキッドと宝刀争奪戦を繰り広げるも、途中で鬼丸一味が邪魔をしたため勝負はつかなかった。それでも一応宝刀は死守している。 名探偵コナン 作中作の主人公として何度か登場。 そして『紅の修学旅行』File.1005「濃紅の予兆」では、顔ははっきり書かれていないが沖田が惚れている少女(諸羽)の兄として成長した姿で久々にサンデー本誌に登場した。 ちなみにOVA版では主人公の江戸川コナンと共演を果たしている。 余談だがDVD-BOXの外箱やコナンの単行本のおまけページで久々に描かれた時には、コナンの影響で頭のよさそうな顔つきになっていた(この事に関して作者自身もツッコミを入れている)。 主な技 旋風剣 玉無し雷神剣に指を入れ、剣をクルクルと回す。 すっぽ抜けるとかなり危険だが、結構使い勝手がいいため序盤はよく使用されていた。 ちなみに名付け親は武蔵だが、最初は「扇風機みたい」と不評であった。 しかし好評だったゲロ左衛門案「ヤイバローリングサンダースペシャル」なる長い名前を刃が発音できなかったため定着。 雷斬り 雷のようにジグザグに切りつける技。 玉の無い状態の時に使われる事が多い。 土砂降り斬り 上から峰家にある大量の刃物を落とす。とてもヒーローの技ではない。にしてもなぜ峰家にそんなに大量に包丁やナイフがあったのか…。 風車 剣を大きく振りかぶった後で剣を足で挟み、足を放す事で勢いをつけて手裏剣のように回転しながら突撃する。 水車に刺さった剣を引き抜く時に偶然生まれた技。 風雷波 刃の雷神剣と鬼丸の風神剣を使って繰り出す合体技。 金棒博士曰く「銀河を貫くパワー」を誇り、一撃で大都市や島を吹き飛ばす威力を誇る (本人のセリフによれば日本列島そのものを破壊可能な)ゲッコーの半月剣をも跳ね返した。 十文字斬り 風神剣と雷神剣のパワーを剣先に集中させ、二刀流で十文字に切り裂く。 パワーを溜めるのに時間がかかるが、その威力はダイヤモンドすら砕くほど高い。 『からくり剣豪伝ムサシロード』というアニメで似たような技が出ていたのは禁句だ。 横一文字 かつて鬼丸が生み出した居合の究極系。 腰だめに降りぬくと同時にかまいたちを巻き起こし射線上数mに渡って対象を切断する。 斬撃を飛ばす技ではなく間合いを伸ばす技のため避けるのが難しい。 魔王鬼丸が使ったのを見て御前試合決勝で使用したが、鬼丸や沖田のと比べるとどこか「飛ばす」ことに重きを置いているように見える。 青山先生が描くのが面倒だったからとか言ってはいけない 闘刃 剣の道を極めた者が極限状態になった際に生み出すと言われている幻の刃。 幻なので実体はないが、相手が達人であればあるほどその幻に惑わされ、本物の刃を見失ってしまうという。 その正体は闘気そのものであるため、刃は土壇場で横一文字と組み合わせ、幻ではなく自身をブーストする使い方を編み出した。 「いくぜ必殺!!追記・修正剣!!」 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] そういや日本列島反対になってたんだな・・・ -- (2018-01-14 13 59 53) >頭のよさそうな顔つき 元々頭自体はいいと思う。知識と経験がないだけだから歳を重ねたらかなりのものになりそう。しかしコナン世界とYAIBA世界が一緒だとしたら恐ろしい世界だ -- 名無しさん (2018-01-15 09 41 01) 今現在どこにいるんだろうか。未だに火星行ってんのかな -- 名無しさん (2018-01-30 10 15 40) 横一文字って最初に鬼丸が使ってそれをヤイバが沖田戦で使用して、沖田が真似したんじゃなかったっけ? -- 名無し (2019-05-18 03 16 07) 地底人編で風雷風車もあるでよ。 -- 名無しさん (2019-08-20 21 55 47) 犯沢さん最新作で火星から戻ってきたけど、沖田と戦闘して京都を火の海にしてた -- 名無しさん (2020-03-15 10 06 49) 火炎風車とか巨大火炎風車なんていう派生技もちょいちょい使ってるね。あと不発だけど竜巻切りも -- 名無しさん (2020-10-09 08 17 37) 犯沢さん時空だと日本列島が上下逆なん? -- 名無しさん (2023-09-29 01 12 56) 名前 コメント
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問題 表示 解答 補足 3世紀ごろに邪馬台国と争ったという記録が残る国 狗奴国 くなこく 528年に「磐井の乱」を鎮圧した豪族は「物部○○○」? 麁鹿火 あらかひ 603年に推古天皇が豊浦宮から場所を移した宮殿 小墾田宮 おはりだのみや 645年の乙巳の変後の新政府で旻と高向玄理がついた役職 国博士 くにのはかせ 645年の大化の改新で自殺させられました 蘇我蝦夷 そがのえみし 645年の大化の改新で蘇我入鹿が暗殺された政変のこと 乙巳の変 いっしのへん 645年の大化の改新で自殺させられました 蘇我蝦夷 そがのえみし 647年頃に蝦夷に対する日本海方面の防衛のため築かれた城柵 渟足柵 ぬたりのきぬたりのさく 658年に軍船180隻を率いて蝦夷を討ったと伝えられます 阿倍比羅夫 あべのひらふ 663年に倭国と新羅・唐の連合が戦ったのは「○○○の戦い」? 白村江 はくすきのえはくそんこう 664年に対馬・壱岐などに防人とともに設置された狼煙の一種 烽 とぶひ 740年から744年まで聖武天皇が都としました 恭仁京 くにきょう 780年に東北で反乱を起こした蝦夷の豪族は伊治○○○? 呰麻呂 あざまろ 810年に藤原冬嗣と巨勢野足が初代に就任した役職です 蔵人頭 くろうどのとう 811年に嵯峨天皇の命で蝦夷地平定に向かった公卿 文室綿麻呂 ふんやのわたまろ 842年に承和の変を起こした平安時代の貴族です 伴健岑 とものこわみね 842年に承和の変を起こした平安時代の貴族は橘○○? 逸勢 はやなり 866年の応天門の変で濡れ衣を着せられた人物 源信 みなもとのまこと 901年に菅原道真が左遷されて付いた役職は大宰○○? 権帥 ごんのそち 939年に乱を起こし「新皇」を名乗った武将 平将門 たいらのまさかど 1156年、この事件のあと崇徳上皇は隠岐に流されました 保元の乱 ほうげんのらん 1177年に後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた事件は「?の陰謀」 鹿ヶ谷 ししがたに 1189年に鎌倉幕府に対する反乱を起こした奥州藤原氏の残党 大河兼任 おおかわかねとう 1189年に源頼朝と奥州藤原氏が激突したのは○○○○山の戦い 阿津賀志 あつかし 1246年に宮騒動を起こして伊豆国に流された武将です 名越光時 なごえみつとき 1326年に次期執権を巡り長崎氏と安達氏が争ったのは○○の騒動? 嘉暦 かりゃく 1331年の元弘の乱で捕らえられた日野俊基が斬首された鎌倉の地名 化粧坂 けわいざか 1333年に新田義貞と鎌倉幕府が激突したのは○○○○の戦い? 小手指原 こてさしがはら 1335年、北条高時の遺児・時行が起こした反乱は「○○○の乱」? 中先代 なかせんだい 1336年に足利尊氏が後醍醐天皇の軍に敗れたのは○○○○の戦い? 豊島河原 てしまがわら 1336年に楠木正成が戦死した戦いは○○の戦い? 湊川 みなとがわ 1609年に対馬の宗氏が李氏朝鮮と結んだ貿易に関する条約です 己酉約条 きゆうやくじょう 1946年に群馬県の岩宿で打製石器を発見した考古学者 相沢忠洋 あいざわただひろ 1999年に発掘され注目を浴びた和同開珎以前の通貨 富本銭 ふほんせん 「安和の変」で源高明を失脚させたのは藤原○○? 師尹 もろただ 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている奈良時代の歌人です 山部赤人 やまべのあかひと 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている平安時代の歌人です 大江千里 おおえのちさと 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている平安時代の歌人です 春道列樹 はるみちのつらき 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている平安時代の歌人です 良暹法師 りょうぜんほうし 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている平安時代の歌人です 文屋朝康 ふんやのあさやすぶんやのあさやす 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている平安時代の歌人です 壬生忠岑 みぶのただみね 『小倉百人一首』にも和歌が収められている和泉式部の娘 小式部内侍 こしきぶのないし 『小倉百人一首』にも和歌が収められている女流歌人 赤染衛門 あかぞめえもん 『小倉百人一首』にも和歌が収められている女流歌人 大弐三位 だいにのさんみ 『小倉百人一首』第11首目の和歌の詠み人である歌人です 小野篁 おののたかむら 『小倉百人一首』にも和歌が収められている平安時代の歌人 蝉丸 せみまる 『懐風藻』の編者ともいわれる奈良時代の文人 淡海三船 おうみのみふね 『後漢書』や『魏志倭人伝』に記されている倭人の国 奴国 なのくに 「聖徳太子」のことを、最近の教科書ではこう教えています 厩戸皇子 うまやどのおうじ 「図田帳」とも呼ばれた鎌倉時代に作られた土地台帳 大田文 おおたぶみ 『太平記』に新田義貞の妻として登場する女官 勾当内侍 こうとうのないし 『日本書紀』や『万葉集』に登場する「幻の人工池」 磐余池 いわれいけ 『義経記』に源義経が自刃に用いたと書かれている短刀 今剣 いまのつるぎ 足利直義派として尊氏と戦った南北朝時代の武将 桃井直常 もものいただつね 足利義昭を支援するため毛利輝元が寺社に課したとされる労役 鞆夫 ともふ 足利義政の時代に権力を握るも文正の政変で失脚した僧侶 季瓊真蘂 きけいしんずい 安土桃山時代に盛んになった極彩色を使った障壁画 濃絵 だみえ 安土桃山時代に活躍した寺や城の石垣を作った職人 穴太衆 あのうしゅう 安土桃山時代に中院通勝が著した『源氏物語』の注釈書 岷江入楚 みんごうにっそ 兄の第12代室町幕府将軍・義晴を一時京都から追放した人物 足利義維 あしかがよしつな 有間皇子をそそのかして謀反を企てさせた人物 蘇我赤兄 そがのあかえ 厳島の戦いで毛利元就に敗れた室町時代の武将 陶晴賢 すえはるかた 院政において上皇の側近が命を賜り書状にして示したこと 院宣 いんぜん 宇治川の先陣争いで有名な鎌倉時代の武将です 梶原景季 かじわらかげすえ 恵美押勝の乱を平定した奈良時代の文人 吉備真備 きびのまきび 奥州藤原氏の初代当主は「藤原○○」? 清衡 きよひら 奥州藤原氏の最後の当主は「藤原○○」? 泰衡 やすひら 応仁の乱の最中に斯波義敏と斯波家の当主を争った人物 斯波義廉 しばよしかど 応仁の乱で叔父の足利義視と対立した室町幕府第9代将軍 足利義尚 あしかがよしひさ 大阪夏の陣以降の平和な時代を指します 元和偃武 げんなえんぶ 岡山県にある弥生時代の遺跡は○○○遺跡? 百間川 ひゃっけんがわ 織田信長も切り取った、東大寺正倉院に収蔵されている香木 蘭奢待 らんじゃたい かつて豪族の田荘を耕していた私有民のこと 部曲 かきべ かつて日宋貿易で栄えた神戸市にあった港です 大輪田泊 おおわだのとまり 鎌倉・室町時代、港や大都市で運輸や取引を行いました 問丸 といまる 鎌倉時代初期に一族もろとも滅ぼされた御家人です 比企能員 ひきよしかず 鎌倉時代初期に幕府を打倒するため建仁の乱を起こした武将 城長茂 じょうながもち 鎌倉時代初期の1213年に反乱を起こした御家人です 泉親衡 いずみちかひら 鎌倉時代に茨城県水戸市に水戸城を築城した武将です 馬場資幹 ばばすけもと 鎌倉時代に執権の北条氏に仕えた武士のことです 御内人 みうちびと 鎌倉時代に順徳天皇が著した有職故実の解説書 禁秘抄 きんぴしょう 鎌倉時代の執権・北条氏において嫡流の当主を指した言葉です 得宗 とくそう 鎌倉時代に蒙古襲来に備えて博多湾沿岸一帯に築かれた防塁 石築地 いしついじ 鎌倉時代に始まった相互扶助組織 頼母子講 たのもしこう 鎌倉幕府が朝廷の動きを監視するために設けた機関 六波羅探題 ろくはらたんだい 鎌倉幕府第17代執権だったという説もあるのは北条○○? 貞将 さだゆき 鎌倉幕府で御家人統制や警察の役割を担った機関 侍所 さむらいどころ 鎌倉幕府の最後の将軍 守邦親王 もりくにしんのう 鎌倉幕府の第5代将軍です 九条頼嗣 くじょうよりつぐ 鎌倉末期に正中の変に参加するも倒幕計画を漏らしたとされる人物 土岐頼員 ときよりかず 神に誓って熱湯に手を入れさせた古代の裁判 盟神探湯 くかたち 仮名書道の手本とされる『古今和歌集』最古の写本 高野切 こうやぎれ 嘉吉の乱で殺された室町幕府第6代将軍 足利義教 あしかがよしのり 桓武天皇が軍団兵士制を廃し郡司の子弟から登用しました 健児 こんでい 北野大茶会で朱塗りの傘を立てて秀吉を驚かせた伝説の茶人 丿貫 へちかん 九州で多く発見される埋葬専用の土器です 甕棺墓 かめかんぼ 京都の犯罪などを取り締まった平安時代に置かれた役職です 検非違使 けびいし 清原夏野らが編集した養老令の官撰注釈書 令義解 りょうのぎげ 楠木正行と正時が高師直らに敗れた場所 四條畷 しじょうなわて 百済より渡来した秦氏の祖とされる人物 弓月君 ゆづきのきみ 熊本県山鹿市にある古墳時代の遺跡は○○古墳群? 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実休 じっきゅう 受領の貪欲さを表した逸話で有名な平安時代の貴族は藤原○○? 陳忠 のぶただ 将軍・足利義晴が一時期仮の幕府を設置した滋賀県のお寺 桑実寺 くわのみでら 聖徳太子によって纏められたとされる仏教書 三経義疏 さんきょうぎしょ 聖徳太子の母親は穴穂部○○皇女? 間人 はしひと 聖徳太子のブレーンとして活躍した豪族 秦河勝 はたのかわかつ 承久の乱に際し、北条義時追討の院宣を作成し、処刑された公卿 葉室光親 はむろみつちか 前九年の役で源頼義が大敗した1057年の戦いは○○○の戦い 黄海柵 きのみのさく 蘇我入鹿暗殺の舞台にもなった奈良県にあった都は飛鳥○○○? 板蓋宮 いたぶきのみや 蘇我馬子と戦い討ち死にした飛鳥時代の豪族です 物部守屋 もののべのもりや その下で源義経と梶原景時が論争したという大阪市にあった松 逆櫓の松 さかろのまつ 大化の改新後に6歳以上の男女に配られました 口分田 くぶんでん 大化の改新以前の大和朝廷における大臣と並ぶ最高官 大連 おおむらじ 大化の改新で廃止された朝廷の直轄地 屯倉 とんそうみやけ 大宝律令を撰定した天武天皇の皇子 刑部親王 おさかべしんのう 代表作に法隆寺金堂の釈迦三尊像がある飛鳥時代の仏像彫刻師は? 鞍作止利 くらつくりのとり 高倉天皇と安徳天皇の治世を扱っている鎌倉時代の歴史書 弥世継 いやよつぎ 壇ノ浦の戦いで熊野水軍を率いた武蔵坊弁慶の父と伝えられる僧 湛増 たんぞう 地方武士の生活を描いた鎌倉時代の絵巻物は『○○三郎絵巻』? 男衾 おぶすま 著書『往生要集』で有名な平安時代の僧侶です 源信 げんしん 鶴岡八幡宮で源実朝を暗殺 公暁 くぎょうこうきょう 天智・弘文・持統天皇が誕生の際に産湯に用いたという泉です 閼伽井 あかい 天智天皇の妃である7世紀後半の女流歌人です 額田王 ぬかたのおおきみ 天武天皇が制定した八色の姓の1つです 朝臣 あそみ 天武天皇の孫に当たる奈良時代の皇族 道祖王 ふなどおうふなどのおおきみ 伝説上の存在とされている初代琉球国王 舜天 しゅんてん 東京都大田区と世田谷区にまたがるのは○○○古墳群? 荏原台 えばらだい 中先代の乱に乗じて護良親王を殺害した足利直義の家臣 淵辺義博 ふちのべよしひろ 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏討伐の密談を交わした奈良の山 多武峰 とうのみね 奈良・平安時代に大学寮で漢文学や歴史学を教えた令外官 文章博士 もんじょうはかせ 奈良県天理市の石上神宮にある百済から伝来したとされる刀 七支刀 しちしとう 奈良時代に鑑真を招請するために唐へ渡った僧侶です 栄叡 ようえい 奈良時代に設置された地方行政を監督する令外官の官職です 按察使 あぜち 奈良時代に創建された東大寺の門で現在も残る唯一のものは? 転害門 てがいもんてんがいもん 奈良時代に建てられた日本最初の図書館です 芸亭 うんてい 奈良時代に東大寺を開山した華厳宗の僧です 良弁 ろうべん 奈良時代に始まった、日本の神々と仏を同体と見て一緒に祀る思想 本地垂迹 ほんじすいじゃく 奈良時代に平城京を中心に栄えた南都六宗の一つです 成実宗 じょうじつしゅう 奈良時代の743年に発布された法律は「○○○○私財法」? 墾田永年 こんでんえいねん 南朝の再建を図った勢力が1443年に京都を襲撃した事件 禁闕の変 きんけつのへん 南朝の征西大将軍を務めた後醍醐天皇の皇子は○○親王? 懐良 かねよし 南北朝時代に書かれた作者不詳の軍記物語です 梅松論 ばいしょうろん 南北朝時代に大覚寺統と交互に皇位を継承した皇室の系統です 持明院統 じみょういんとう 南北朝時代の北朝初代天皇とされている人物です 光厳天皇 こうごんてんのう 日明貿易では、これと区別するために勘合符が使われました 倭寇 わこう 新田義貞の軍勢が鎌倉幕府軍を打ち破った鎌倉市にある地名 巨福呂坂 こぶくろざか 日本の律令制の役人・国司はここで政務をとりました 国衙 こくが 後に義稙と改名した室町幕府第10代将軍は足利○○? 義材 よしき 白村江の戦いで百済が滅亡した後に日本に亡命した陰陽家 角福牟 ろくふくむ 白村江の戦いの後、熊本県に築かれた朝鮮式山城は○○城? 鞠智 きくち 白村江の戦いの後、佐賀県に築かれた朝鮮式山城は○○城? 基肄 きい 藤原兼家に欺かれて出家した第65代天皇は○○天皇? 花山 かざん 藤原純友が挙兵の拠点としたことで有名な愛媛県宇和島市にある島 日振島 ひぶりしまひぶりじま 藤原不比等の4人の息子が死んだ後に権力を握った奈良時代の皇族 橘諸兄 たちばなのもろえ 仏教が儒教や道教よりも優れていることを示した空海の著書 三教指帰 さんごうしき 仏具を入れる飛鳥時代の工芸品 玉虫厨子 たまむしのずし 文永の役で日本軍の総大将を務めた鎌倉時代の御家人です 少弐景資 しょうにかげすけ 平安貴族の間に流行した民謡を雅楽風にした歌謡 催馬楽 さいばら 平安時代、一夜を共にした男女が翌朝別れたこと 後朝 きぬぎぬ 平安時代、嵯峨天皇が蔵人頭に任命しました 巨勢野足 こせののたり 平安時代後期に奥州で起きた後三年の役の発端となった武将 吉彦秀武 きみこのひでたけ 平安時代初期に編纂された六国史の2番めに当たる歴史書 続日本紀 しょくにほんぎ 平安時代前期の888年に起こった政治事件です 阿衡事件 あこうじけん 平安時代に神道資料『古語拾遺』を著した貴族 斎部広成 いんべのひろなり 平安時代に十二単と共に礼装とされた貴族女性の髪型 大垂髪 おすべらかし 平安時代に追補使として活躍した人物です 小野好古 おののよしふる 平安時代に始まった、朝廷に寄付した代わりに官位を得ること 成功 じょうごう 平安時代の貴族が履いていた古代の靴下です 下沓 しとうず 平安時代の京都で、安倍晴明とライバル関係にあった陰陽師 蘆屋道満 あしやどうまん 平安時代末期に二条親政派の中心となったのは美福門院○○? 得子 なりこ 平安時代に尾張国郡司百姓等解文で訴えられた国司は藤原○○? 元命 もとなが 平安時代の宮廷の儀式などを詳細に記した藤原実資の日記 小右記 しょうゆうき 平安中期から室町時代にかけて僧兵が為政者に要求をしたこと 強訴 ごうそ 平安末期に城資盛が築城した新潟県胎内市にあった城 鳥坂城 とっさかじょう 平氏討伐を企てたが失敗した後白河天皇の第三皇子 以仁王 もちひとおう 別名を儀同三司母という平安時代の歌人 高階貴子 たかしなのたかこ 別名を檀林皇后という嵯峨天皇の皇后です 橘嘉智子 たちばなのかちこ 北条時宗に招かれ来日し円覚寺を開いた南宋の僧侶 無学祖元 むがくそげん 三木一草の一人に数えられた南北朝時代の武将です 千種忠顕 ちぐさただあき 三木一草の一人に数えられた南北朝時代の武将です 結城親光 ゆうきちかみつ 右肩を出して着る袈裟の着用の仕方 偏袒右肩 へんだんうけんへんたんうけん 源義経が奥州平泉に逃げる手助けをしたとされる平安末期の商人 金売吉次 かねうりきちじ 源義仲と平家軍の合戦があった石川県と富山県の県境 倶利伽羅峠 くりからとうげ 源頼朝の異母弟にあたる平安末期から鎌倉初期の僧侶 阿野全成 あのぜんじょう 蒸した玄米をタマゴ型に固めた平安時代の食べ物です 頓食 とんじき 謀反を疑われて処刑された孝徳天皇の皇子 有間皇子 ありまのみこ 室町時代の書院造りを代表する建築物は慈照寺○○○? 東求堂 とうぐどう 室町時代中期に唯一神道を創始した京都の神道家です 吉田兼倶 よしだかねとも 室町時代に日明貿易の輸入品に対して課せられた輸入税のこと 抽分銭 ちゅうぶんせん 室町時代に農民が団結し、耕作を放棄して他の領地に行くこと 逃散 ちょうさん 室町時代の第14代将軍です 足利義栄 あしかがよしひで 室町時代の第2代将軍は足利○○? 義詮 よしあきら 室町時代に奉公衆として仕えた細川藤孝の兄にあたる戦国武将 三淵藤英 みつぶちふじひで 毛利元就の献上金で即位式をした第106代天皇は「○○○天皇」? 正親町 おおぎまち もともとは庶民の平服だった鎌倉時代以降の武家の礼服 直垂 ひたたれ 桃山時代によく見られた屋根の形です 唐破風 からはふ 山崎の戦いで明智光秀が本陣を置いたのは京都府の○○○古墳? 恵解山 いげのやま 邪馬台国の女王・卑弥呼と対立した狗奴国の王 卑弥弓呼 ひみここ 邪馬台国の女王です 壱与 いよ 邪馬台国の女王です 卑弥呼 ひみこ 邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の遺跡です 纒向遺跡 まきむくいせき 大和朝廷に仕えた渡来人の機織技術者 漢織 あやはとり 弥生時代後期の木製の鎧がみつかった奈良県の遺跡です 大福遺跡 だいふくいせき 弥生時代に製造されたこの青銅器は何? どうたく 律令制下で、国司が農民を土木事業などに駆り出した制度 雑徭 ぞうようざつよう 律令制において大蔵や内蔵の出納をつかさどった役職 監物 けんもつ 若くして亡くなった室町幕府第5代将軍は足利○○? 義量 よしかず 和気王の変で称徳天皇を呪うよう命じられた奈良時代の巫女 紀益女 きのますめ
https://w.atwiki.jp/hikoushiki/pages/41.html
+はじめに はじめに 戦前、南北朝の時代解釈が制限的であったことを述べ、導入部としている。 参考→ 南北朝正閏論 (Jiyu) +公武水火の世 公武水火の世 後醍醐天皇は1288年(正応元)に生まれた。二度目の蒙古襲来から八年後である。この当時、皇室は持明院統、大覚寺統の二系に分かれて皇位を争っていた。鎌倉幕府の調停により、三十一歳でようやく皇位についた。後醍後は朝廷と幕府の利害調整のために即位させられた天皇であり、その地位は「一代限り」と通知されていた。そのため、彼の権力に対する執着心は尋常ではなく、最期まで徹底した専制政治・マキャベリズムを展開させることになる。後醍醐天皇は以前からあった貴族間の主張を発展させ、国家権力が天皇に集中するのが理想であると考えていたのである。 後醍醐は二度倒幕運動を行うも、いずれも失敗している。後醍醐は隠岐に流されるも、その皇子護良親王は畿内の地でゲリラ戦を続ける。1333年(正慶二)に後醍醐は隠岐を脱出し、また幕将足利高氏の協力も得て、京都の六波羅を倒す。六波羅が倒れたと聞いて、近隣の武士は後醍醐側に次々と付いた。 しかしここで後醍醐の予想外のことが起きる。『太平記』によると、高氏は六波羅を倒すと同時に、京都近隣の御家人を次々と吸収し、権力基盤を固めだしたという。護良は高氏の野望を知り、彼を滅ぼすために兵を起こそうとする。後醍後は 護良 を征夷大将軍に任命する。武家政治を否定したがっていた後醍後にとって、これは苦渋の決断であった。 後醍後新政は芳しくなかった。それにはいくつかの原因がある。まずは司法制度の欠如である。万事を天皇の直接採決とする制度では、仕事が間に合うはずがない。また、武士の間での法的慣習の無視や、所領没収方針に対する旧幕府系武士の反発という政策も反発を招くものであった。彼らの不満を代弁できる人間は、六波羅探題の後継者足利高氏ただ一人である。こうして高氏勢力と護良勢力の対立は深まっていき、後醍後はその間で板挟みとなる。 後醍後は高氏の動きに合わせて、旧領地回復令と朝敵所領没収令の修正を行う。その内容は適用範囲の縮小であり、すなわち新政の後退である。しかしながら、但し書きで天皇は拘束されないと付け加え、専制体制を維持することは忘れなかった。 そのほか、地方分権から中央集権へ遷移させるため、国司制度の改革も後醍後は行った。国司の権限が縮小されたのである。同時期、高氏が武蔵守に任命される。彼は後醍後の名「尊治」の一字を与えられ「尊氏」と改名する。尊氏は武蔵の守護と国司を兼ねて、完全にこの国を握れるようになった。同時期に御家人制度も廃止されたと考えられており、公と武は水火の仲となっていく。 護良は後に征夷大将軍を解任され、次第に勢力を失っていく一方、尊氏はますます隆盛を極めていった。 (Jiyu) +建武の新政 建武の新政 1334年(元弘四)、十一歳になる恒良親王が皇太子となった。後醍後はその年に「建武」と改元する。幕府を倒して王朝を復興したという偉業を示す意図があったといわれている。後醍後はこの他にも大内裏の造営・造幣を行い。天皇の絶対的地位を天下に知らしめんとしたが、いずれも頓挫している。 その原因は、先に述べた旧所領回復令による被害者の反発である。後醍後は適用除外規定を設け、幾分この令の適用範囲を縮小した。誤判再審の範囲も同様に縮小した。建武新政において、裁判の負担は異常なものであった。一つの裁判は提訴から判決まで数年を要し、十年二十年かかることもあった。加えて訴訟進行も当事者がやらなければならなかった。これらの原因もあり、萎縮して訴訟を諦めたり、途中で打ち切らざるを得ない事例が多発した。 後醍醐の権威は政治的失敗により徐々に失墜していった。事態を挽回しようとして出されたのが徳政令・官社解放令である。鎌倉幕府が1127年(永仁五)に発行した徳政令では将軍の下文(売買確認書)がある場合には徳政令の適用除外になると記載されていた。しかし、今回の徳政令においては、承久の乱以後の下文を持っていても適用除外とならないとされていた。後醍後は承久の乱以後、王朝の政権は北条氏に奪われたと考えていたため、この時期の下文を正当なものではない。徳政令はあくまで後醍醐天皇の権威に基づいて行われる、と強調したかったのである。質主、貸主はこれに対処するために、ありとあらゆる迂回措置を試みた。官社解放令は、諸国の 一宮 ・ 二宮 を荘園領主から解放し、天皇の直接支配下に置く趣旨のものである。 後醍後の専制は次々と批判者・反対者を生んだ。彼らの鬱積を解消してくれるものは誰か。「今は」尊氏である。「今は」というのは、他に有力なものが現れたら彼らはそちらに与するであろうという意味だ。後醍後と尊氏の勢力が拮抗していた当時、後醍後はこのような尊氏勢力の弱みを見逃さなかった。後醍後は彼自身の布陣を強化する努力を怠らず、常に巻き返しの機会を狙っていた。 護良もまた勢力の挽回を狙っていた。だが、征夷大将軍を解かれ、求心力を失った彼にもう復帰するだけの力は残っていなかった。尊氏暗殺の計画(捏造であるとも言われている)が尊氏側に発覚し、護良は逮捕される。そして尊氏の手で鎌倉へ護送されたのち、禁錮の身となった。翌年直義の手にかかり、非業の最期を遂げる。当時武士の間では、私闘の解決策として加害者の身柄を被害者に引き渡しその処分にゆだねるといった慣習があった。後醍後は尊氏の強い請求に屈して、これを私闘とみなし、慣習法による解決を認めたのである。 護良は 義経 と似ている。すなわち、卓越した武略と忠誠によって肉親に尽くすが、その後は疎んじられて反逆者のレッテルを張られるといった面である。忠才併せ持つ人物はその才により疎んじられ、その忠により滅びるのである。 義経と同じく護良を英雄視する見方が死後に生まれ、『太平記』にもそれが反映されている。歴史書はともかく後の世代によって誇張や改変されたりするので、それをもとに忠実に歴史を再現するのは難しい。 (Jiyu) +新政の挫折 新政の挫折 この章では後醍醐帝の専制体制、そしてその目標について述べられる。 建武新政下においては、後醍醐帝によって正当性が独占されていた。しかしそれは必ずしも公家らに受け入れられたわけではなく、北畠親房さえも批判対象としている。 また彼の重用した千草忠顕・楠木正成・結城親光・名和長年の孰れもが、鎌倉幕府統治下では決して出世できる人間ではなかった。しかしこれは門閥性を打破するという点で、後醍醐帝の専制政治には欠かせない物であったと言える。 八省を独自に掌握するため、官位相当制を打破して上級貴族たちを省の長たる卿に任じ、これらを個人的に把握せんと図っている。 当時、官職の多くは一定の貴族によって世襲されるものとなっていた。しかし、後醍醐帝はこの先例をも崩している。だが、このことは官職世襲を行っていた下級貴族の大きな反感を蒙る結果ともなった。 しかし、決断所における綸旨の混乱は一向に収まらず、様々な確認手段等が取られることとなる。しかしこれは却って綸旨の効力の減退を誘引することになる。 このような状況にあって、地方各地で反乱が勃発している。これは北条氏の旧領で発生していることが多く、北条氏の家人が参加している場合がほとんどであった。一方で地元の豪族もそれに参加している場合が多く、中央の状況を上手く利用している場合もあった。また、足利尊氏に与えられた所領での反乱も発生している。 この状況において、北畠顕家は諫奏文を後醍醐帝へと提示している。これは天皇政治の前提として、天皇が貴族の支配者であり、門閥の保護者であることを示しており、彼の貴族的立場をよく示している。しかしこれは後醍醐帝の貴族制解体の政策とは大きく異なっていた。 このような後醍醐帝の政策は、宋学のみならず宋朝の制度の影響も大きく受けていたと考えることができる。しかし、官僚層が欠如していること、そして兵農分離がなされていないことから、この政策は非常に難しいものであった。 (Spheniscidae) +足利尊氏 足利尊氏 北条氏の残党である北条時行が信濃で挙兵するとその軍はたちまち鎌倉を攻め落とした。これを中先代の乱と言う。鎌倉を守る足利直義は三河に逃れ、その元に監禁されていた護良親王は殺害された。 この三河は足利従来の所領であると同時に、東国と西国の分かれ目である。直義はここで、自らは留まる一方で従っていた成良親王を京都へと返している。これは足利政権の樹立を意味していたとも考えられるだろう。 この事件に際し、尊氏は征夷大将軍と総追捕使の称号を後醍醐に要求している。これは尊氏が武家政権を作ろうとしていることの意思表示であるということができるだろう。尊氏は出発までにこの公認を得ることはできなかったが、尊氏東上の知らせを聞くと後醍醐帝はこれを追認している。 尊氏は時行を瞬く間に壊滅させると、そのまま直義の勧めに応じて鎌倉に留まっている。ここに尊氏は武家政権の樹立を明示し、後醍醐帝との対決姿勢を明示した。その結果として各地での争乱は一気に拡大してゆく。 この争乱で、後醍醐帝は新田義貞を利用している。これは義貞もまた源氏の棟梁、そして武家の棟梁を狙う存在であって、尊氏の対抗馬たりえたからである。 また、この時期の尊氏の行動には複雑性が見られる。これは凡そ尊氏に躁の気質があり、また足利家当主の側面と尊氏個人の側面に挟まれたからと解釈することができるだろう。 一方で政治的には鎌倉幕府の状況へ戻すという反新政的なスローガンを掲げている。これは基本的に、執権専制以前の守護体制への回帰であるが、一方で執権専制を踏襲せざるを得ない部分もあった。 これに対し後醍醐帝側でも、新政に対する不満が噴出している。公家衆の申し入れを受けて建武を改元したことや楠木正成が足利尊氏との講和を提言したことが挙げられる。 その結果、遂に京都を陥落せしめられた後醍醐帝は、延暦寺に籠って猶半年の籠城を行う。延暦寺は京の流通を握っており、抵抗は頑強であったが陥落は時間の問題であった。 一方、尊氏は新帝を持明院統より擁立し、政権の合法化を図っている。 (Spheniscidae) +南北朝の分裂と相克 南北朝の分裂と相克 1336年中ごろ、100日に及ぶ後醍醐軍と尊氏軍の攻防の末、凡その勝敗が決し、尊氏は比叡に居る後醍醐の下に講和の使者を送った。後醍醐はこれを受け入れ10月に下山、帰京した。尤も、この講和交渉は後醍醐の独断であり、義貞の家来が、自分の奉じる帝が一人帰京したら我々は逆賊になってしまう、と猛烈な抗議を申し入れている。 また、この際の講和の条件が何であったか史料は残されて居ないが、後醍醐・光厳の和睦を建前として後醍醐の面目を保つと共に、大覚寺・持明院両統の迭立の案が出されただろう事は想像でき、実際後醍醐が上皇とされ、尊氏側の光明天皇に神器授受が行われ、後醍醐の皇子成良の立太子があり、尊氏側が両統迭立の約束履行の意思を示している。 後醍醐が下山したのち、後醍醐側の者はそれぞれ後醍醐に与する勢力のある伊勢、吉野、紀伊、河内などへ下り、敗走していた義貞も越前で勢力の立て直しを図っていた。各地に勢力を配した後醍醐は下山から僅か2ヶ月ほどで京都を脱出、吉野へ赴いた。 一方京都では、軍事を担当する尊氏に対し、弟の直義が政務を担当していたが、彼は後醍醐を「先帝」から「廃帝」と呼び変えた。ちなみに、直義は後醍醐脱出の事を知って直後、これを捜すように指令したが、尊氏の態度は大らかであった。これは前章で述べられた後醍醐と尊氏の性格によるものと思われる。とかく、此処に南朝と北朝が出現した。筆者は、この二つの王朝がどの程度、どの時期まで権力を持ちえたのか、という点を扱うのが本巻の課題であると述べている。 北朝は先ず、光明天皇に神器授受が行われた5日後に2項17条からなる建武式目を制定した。この式目では鎌倉幕府全盛期を模範にすべしとしている。また、この式目は普通の法令ではなく、施政者の心構えと当面緊急の施策とを扱った答申書の形式を取っていた。 式目に依って京都市中の混乱を治めて京都市民の支持を得んとし、後醍醐のスローガン「延喜・天暦の徳化」を「義時・泰時父子の行状」と共に模範とすることとして、反対派の存在理由を失わせた。 また、先程述べたように軍事を尊氏が、弟の直義が政務を担当する二頭制としていたが、前幕府の将軍が武家の棟梁として、北条氏執権が幕府の権力を握っていたことに倣っている。 さて、陸奥の北畠軍が本拠地奥州での反乱で足止めをくい、京に進出してこない為、北陸の義貞が足利軍の標的となった。尊氏は若狭の守護に斯波家兼を任じ、義貞の軍勢を攻撃させた。この時の義貞軍の実態は国の土豪である、或いはやはり土地の小土豪が足利軍に与しており、地方の土豪たちが国々の情勢を動かしていた。結局、義貞は1337年金ヶ崎城で敗退、後醍醐から託された彼の皇子は自殺、或いは捕らえられ、義貞も翌年7月戦死した。翌月、この戦勝に合わせ、光明天皇より、かねてから望んでいた征夷大将軍に任命された。 また、金ヶ崎城の陥落から5ヵ月後、8月11日にようやく北畠顕家軍が上洛に向け進軍を開始した。下野小山氏との攻防で手間取ったが、小山城攻略から40日余りで美濃に迫った。さらに此処で足利軍を破ったが、北畠軍も痛手を負ったらしく、更に顕家の父親房が武家を嫌うために義貞との合流を諦めて伊勢路をとり、ここで幕府軍に敗北、1338年5月に和泉で戦死した。 主力の北畠・新田軍が相次いで敗北した南朝は勢力再建が緊急の課題となった。 後醍醐は吉野から方々に指令を下したが、中央集権では情報の伝達がうまく行かなかった。その為、死の直前に顕家が記した諫奏等より、各地方に然るべき人を派遣し、これに軍事民政の両権を与えることとし、顕家の弟顕信に陸奥・関東に於ける将軍の地位を与えた。足利に対抗するために、足利と同じ体制をとらざるを得なくなっていたのである。 1338年9月には然るべき人達がそれぞれの地方へ赴いた。そして、後醍醐は翌年8月に後村上天皇に帝位を譲り、翌日吉野で没した。贈名は生前の希望どおり後醍醐となった。 (NINN) +動乱期の社会 動乱期の社会 南朝の武将の多くが死んで、北朝の有利なるかに見えたが、北朝内でも尊氏党、直義党の内訌が発生し、三者鼎立する。この根幹には寝返り・離散集合の激しさがある。当時の武士達の忠誠の義務はその主人一代限り、子の代になれば話は別というものであった。鎌倉の御家人達も鎌倉将軍が廃された以上主従関係はなくなり、誰につくかも自由であったし、1335年の新田足利両軍の激突必死の頃の武士達は、尊氏・義貞の優劣はいかんと見守り、その結果によって去就を決めようとしていた。 また、鎌倉の頃から降参人の所領は半分、或いは3分の1没収して許すという慣習があり、後に法制化された。そのため、所領を半分棒に振る覚悟であれば投降できた。これを降参半分の法という。 また、これまで一族の分裂というものも頻繁にあったが、これは己が仕える支配階級が分裂した場合、一族が二つに分かれて分裂した支配階級のそれぞれに味方する。したらば、どちらが勝っても家名は存続する。更に13世紀初めからは、敗者の没収地を同族の者に再給付する慣習が成立しており、財産も維持されていた。 だが、鎌倉末期~南北朝期にかけて、庶子が惣領を圧倒、自分が惣領になろうとして袂を分かつというケースが増えてきた。鎌倉幕府も惣領が一族を治める体制を利用し、惣領を支配することにより、全国を支配していた。が、惣領に一族の庶子が従わなくなっており、その為に幕府の支配が行き渡らなくなっていた。これらは、財産の分割相続が原因で、嫡子が庶子をに対してなんらかの権力を持つことに対する庶子の反感、そして相続の際、分割された所領を庶子も受け取れるので、独立の足がかりとなっていた。 このため発生したのが単独相続で、こうなると庶子は嫡子の家臣という地位に転落していった。 また、古来の戦闘ルールを破り、楠木正成が悪党と共に歩兵を用い、ゲリラ的戦法をとっていたが、騎兵の一騎打ちから歩兵が大幅に用いられるようになった。同様にその他の戦闘ルールも変わり始め、戦功確認も首を持って軍忠状(戦果を記し、指揮者の認めをもらう書類。行賞の際の証拠となる)をつかったものから、戦闘中に近くに居るものに取った首を示して戦功を確認してもらうものに変わった。騎馬から歩兵に変わり、失った機動力を補うためである。 戦闘の方法も、騎兵の馬を狙って射るようになるし、歩兵の持つ槍が現れる。鎧も軽くなり、斬撃戦中心となる。こうした変化は、武士以外の者が武士になる道を開いた。 (NINN) +直義と師直 直義と師直 南北朝の対立は北朝の勝利に終わった。しかし北朝においても新たな内紛と分裂が起こる。この章においては、幕府を代表する足利直義と、尊氏の執事高師直を中心に論じていく。 直義は尊氏が政務を譲った時、いったんは辞退しようとしたが、尊氏に強請されて職についてからは仕事に専念した。熱心で論理を好み、自制心があってけれんみのない誠実な人であったらしい。わかる人には信頼されるが、大衆受けはしないタイプである。 直義が管轄した政治機関の中で規模が最も大きいものは引付方という裁判所である。官僚には足利一族以外の武士も多く登用した。北条一族の轍を踏まないためであろう。 政治は直義と尊氏の 二頭制 であった。軍事的な危機にあるときは尊氏、政局が安定しているときには直義の意向で人事が決まったので、党派が形成され党派同士の対立が強まった。荘園管理に関しても直義と尊氏はその立場の違いから対立を深めていく。そこに高師直という人物が登場する。 師直はかつては尊氏の親衛隊長に過ぎなかったが、尊氏の出世に伴い、一族と共に勢力を強めていく。師直・師泰兄弟は直義とは対照的なタイプの人間であった。彼らは既存の権威を徹底的に蔑視し、古い秩序に一片の価値も認めず、力こそ正義と考えた。北条氏という昔の権威に軽んじられていた彼らは、伝統的権威というものをまるで信頼していなかった。朝廷や幕府の瓦解によりそれは確信となり、伝統的価値観のもとでは反倫理的な言動を彼らは次々と行った。後醍醐然り、尊氏然り、直義然り、外部の環境が彼らの人間性を決定づけたのである。 師直・師泰は幕府の首都である京都への外敵を駆除する任務を与えられていた。既存の価値観にとらわれない彼らは、神社・仏閣でさえも必要とあらば次々と焼き討ちにした。仏罰も神罰も天皇も恐れず、ただ目的を達成するためだけの純粋な戦闘行為を彼らは行った。時代が変わればルールも変わる。彼らはいち早く新しいルールを見抜き、実行し、慣習にまで昇華させた。 北朝で尊氏と直義の対立が進む中、南朝でも対立の兆しが現れ始めていた。南朝の豪族は、強者の圧力に対していかに自立を保つかということを強く意識していた。ゆえに南朝に勢力が集中することがなく、有力者を中心とした小国がいくつも分立する形に近かった。公卿の 北畠親房 は王民論、すなわち天皇を尊重してこそ民の繁栄がある、尊重せねば民は滅びるという考えを持って各所の武士を説得しようとする。親房著 神皇正統記 も武士の説得を目的とした著書といわれている。しかし武士はそれを主従関係の基本と考えない。権威ある王は欲しいが、王に実際に支配されるのは好まないのである。王民論的な古来の風儀は、鎌倉時代のもので、時代が変わった今となっては古びて魅力のないものでもあった。武士の不満は高まっていく。 1341年(暦応四)、藤氏一揆が起る。前関白、近衛常忠が藤原氏の子孫と称する関東の豪族小山氏・小田氏らを呼び掛けて一揆を結んだのである。親房の王族支配的考えに反対であった勢力が、有力武士の支配を目指して反親房運動を起こした結果がこの一揆といわれている。藤氏勢力は北朝との講和を望んだ。力を失った親房は幕府軍によって滅ぼされた。 (Jiyu) +天下三分の形勢 天下三分の形勢 幕府への軍事的脅威が遠のくにつれて、文を重んじる直義の声望が上昇した。これに呼応して、師直の声望は失墜する。戦いこそが彼の武名をあげるものである。彼ら一族が南軍討伐の将として派遣された理由の一つとしてそのような背景がある。1348年(貞和四)、河内で激戦が行われた。結果は何軍の惨敗であった。師直と師泰はこの戦いで活躍し、声望を取り戻した。これにより、直義派、師直・尊氏派、南朝という三者で覇権を争うという構図が次第に形成されていく。 師直がクーデターを起こし、直義は敗れる。尊氏は両者調停というスタンスで巧みに振る舞い、弟を守ると共に息子を後任に据えるという最大の収益を得た。尊氏の政治手腕が光る。その後、直義は共同執政の約束を破られ、出家させられてしまった。しかし直義は京都をのがれ、態勢を立て直し、諸国に蜂起を呼び掛けて師直を破った。直義は尊氏・師直の両者を出家させる旨の和議を結んだが、帰京途中で上杉能憲によって師直をはじめとした高一族は皆殺しにされる。争ったのは師直と直義であり、尊氏自身には敗軍の将という認識はなかった。尊氏と直義は共同執政という形式をとったが、実際には権力のほとんどは直義が握っていた。その後再び尊氏が反乱を起こし、防衛のために京都を離れて北国に向かった。北陸一体の守護職は直義が固めていたので、北へ向かったのである。このほかにも、直義は九州とのつながりもあった。これに対して尊氏は、東海・四国および山陽の勢力を頼って畿内で勢力を固めた。南朝もまた畿内から京都進出を狙った。 直義が北へ向かうと、尊氏は即座に南朝と直義に和平の使者を送った。交渉は共に失敗する。尊氏派その後鎌倉に入り、直義を滅ぼす。しかし直義を中心とした直義党の勢力はこれによってますます強まり、天下三分の情勢はますます激化していく。 (Jiyu) 後編 へ
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<日本と東アジア・年表>先史~紀元千年 (mac w32/F13,win Gungsuhche,F8) 1000万年前 類人猿よりゴリラ分岐 /600万年前 類人猿よりヒトとチンパンジー・ボノボ系統とが分岐 500万年前 中国雲南省[禄豊猿人] 400万年前 華奢型猿人(アウストラロピテクスなど)出現 300万年前 南アフリカの華奢型猿人出現(のち絶滅?)。地球寒冷化 270万年前 頑丈型猿人(パラントロプス)と原人(ホモ・ハビリス)分岐。原人、言語使用か(左脳ブローカ野の痕跡より) 260万年前 華奢型猿人のアウストラロピテクス・ガルヒ、オルドヴァイ型石器を発明 (石器による動物の解体。肉食開始。)前期石器時代の開始 230万年前 ホモ・ハビリス出現(脳の増大、歯の縮小化)。 200万年前 巫山県竜骨坡遺跡【重慶市】[巫山人]。旧石器。これらを含む地層は200万~204万年前のものと確定され、中国ないしアジア最古のホモ・ハビリスの化石。 180万年前 ホモ・ハビリスの出アフリカ。ユーラシアへの拡散 170万年前 中国北緯40度に石器・元謀遺跡【雲南省】[元謀人] 160万年前 ホモ・エレクトス出現。現代人に近い身体/100万年前 ジャワ原人(ホモ・エレクトス) 73万年前 藍田遺跡【陝西省】[藍田原人]。石器使用。 60万年前 アフリカで旧人。ネアンデルタール人と人類の分岐。エチオピアのボドから石器で切り付けられた頭骨 50万年前 ヨーロッパ旧人 46万年前周口店遺跡猿人洞【北京】[北京原人]火、石器の使用。 38万年前 仏テラ・マタ遺跡で最古の小屋。 30万年前 ネアンデルタール人(-35000年前、絶滅?) 言語使用 28万年前 石龍頭洞窟遺跡【湖北省】剥片石器。23万年前 大茘遺跡【陝西省】 20万年前 ユーラシア旧人(ユーラシア原人からの進化かアフリカからの拡散か) 13万年前 ラザーレ遺跡で住居 12万年前 丁村遺跡【山西省】[丁村人]鶴嘴形で尖状石器。 10万年前 赤黄茶の中間色のオーカー(クレヨン)出土。線刻 /イスラエルのカフゼーとスフールで埋葬の痕跡。 骨器。獅子岩遺跡【広東省】[馬覇人]。 8万年前 カフゼー・スフール集団、ネアンデルタル人に土地を明渡し、消失。 7万5千年前 南アフリカのブロンボス洞窟で赤色オーカーに幾何学模様の線刻→世界最古の抽象模様。象徴操作能力の証左。 貝製ビーズ,骨器,錐か槍。 7万年前 細石器。ネアンデルタール人、積極的に埋葬 6万3千年前 アフリカ人、東ユーラシア人系統集団、西ユーラシア-に分岐 6万年前 ナミビアのアポロ11遺跡より岩板に動物壁画/ネアンデルタール人、ポルトガルで構造的な炉。ウクライナのモロドヴァ遺跡でマンモスの骨で作られた小屋ないし風除け構造物。サフル大陸に遺跡 5万年前 カフゼー遺跡で線刻石片。サフルに原アボリジニ。舟。 4万5千年前 ケニヤのエンカプネ・ヤ・ムト遺跡よりダチョウの卵殻製ビーズ/ユーラシア大陸で骨角器。サフルで大型動物絶滅。狩猟によるか。 4万3千年前 日本列島で遺跡 /3万7千年前 独のガイセンクレステレで鳥骨フルート■沖縄山下町洞穴。舟。 3万5千年前 クロマニヨン人大地母神崇拝(ヴィーナス像)、壁画/【内蒙古自治区】[オルドス人]・【湖北省長陽】[長陽人]・【広西チワン族自治区】[柳江人 麒麟山人]・【北京市】[山頂洞人]洞窟で赤いビーズ、縫い針・【四川省】[資陽人]■日本で局部磨製石斧(世界最古)(磨製石斧は3~4万年前に集中し、その後は草創期にならないと出現しない)■シベリアのC3系統が列島に移住。 21500年前 フローレス島で身長1mの小型人類(ホモ・フローレシエンシス) /21000年前 最終氷期の最寒冷期。夏の気温、15度下がる。 18000年前 沖縄で港川人 /18500年前 アルタミラ洞窟壁画。クロマニヨン人 16500年前 青森で縄文土器(大平山元I遺跡) 16000年前 長江【湖北省】玉蟾岩遺跡(〜BC12000)、稲モミ発見、栽培か? 15000年前 ラスコーの壁画。クロマニヨン人。絵の具の配合など、原始的な化学的な操作。石のランプ、松明の使用■D2系統、列島へ移動(D2系は大陸では絶滅。北米へも移動)同時期、インド系のD1系統、南九州へ。局部磨製石斧、骨製釣針、隆起線文系土器。 14000年前 静岡で浜北人。長江で仙人洞・呂桶環遺跡:稲の栽培。 13000年前 ■旧石器時代の終わり。中石器文化。マンモス、バイソンはいなくなっていた。ツンドラステップは北方へ後退、樹林がひろがる。鹿、猪、鳥、魚介類、木の実。弓矢、石臼の普及。他方、壁画の伝統は途絶える。■海進により日本列島が大陸より分離。 12000年前(BC10000)列島、完全に大陸から分離。弓矢、尖底土器、貝塚、屈葬。 11000年前シュメール人(イラン高原かインドよりメソポタミアに渡来)農耕開始。シュメール人は自らをsaa-gi-ga黒い頭の人と名乗る。■長江の彭頭山遺跡・パシータン遺跡で稲栽培、高床式住居 (〜BC6100) 10500年前 レバントで新石器時代開始 10000年前 八十ダン遺跡【湖北省】:栽培稲の籾殻。 9000年前■新石器時代■黄河中流域で裴李崗文化(紀元前7000?~紀元前5000?) 円形・方形の竪穴式住居、粟作などの畑作農業。艶出しした紅褐色の陶器や磨製石器■彭頭山文化【湖南省】(紀元前7000?~紀元前6000?)最古の環濠集落、稲の散播農法。■西アジアから伝わった農耕、牧畜が欧州で開始。土器、村落社会、交易システム。フリント、石斧、琥珀、貝殻、金、銅、錫など。巨石文化もはじまる。 8000年前 日本でも稲作、丸木船、漆、繊維土器、勾玉。人口10万5500人/メソポタミアでウバイド文明:灌漑農耕/■河姆(かぼい)渡(と)文化(浙江省):稲栽培、木造ホゾ組みの高床式住居、機織り、うるしを使用、豚を家畜に。■老官台文化(紀元前6000?~紀元前5000?)陝西省華県老官台。円形の竪穴式住居、粟作などの畑作農業。暗紅色の夾砂陶。本格的な農耕の開始。北辛文化【黄河下流域】(紀元前6000?~紀元前5000?)山東省滕県北辛。黄褐色陶器。磁山文化【黄河中流域】(紀元前6000?~紀元前5000?)河北省武安県磁山。円形・楕円形の竪穴式住居、粟作などの畑作農業。紅褐色の夾砂陶。 7000年前 ■江南のヘムドゥ遺跡で稲栽培、農耕具■馬家(まか)浜(ほう)文化【浙江省】(紀元前5000?~紀元前3500?)河姆渡文化を継承。紅陶や玉器。■列島で植林農法。人口26万1300人。朝鮮で磨製石器。仰韶文化 (紀元前5000?~BC2500)河南省。粟・黍栽培、豚犬飼育。鹿狩猟。竪穴住居。彩陶は薄赤色の地に赤・白・黒などの色で文様、素焼きの土器で甕・鉢・碗型。仰韶文化半坡類型【黄河上中流域】(紀元前5000?~紀元前4800?)陝西省西安市。紅陶。母系制、農村の階層化。 6800年前 仰韶文化後崗一期類型【黄河上流域】(紀元前4800?~紀元前4000?)河南省安陽市後岡。北辛文化を継承。 6500年前紅山文化【遼寧省西・内蒙古東南・河北省北】(紀元前4500~紀元前3000)彩陶文化の系統で、黒彩土器。細石器、玉器。小河沿文化【内蒙古自治区赤峰市】:祭文の痕跡。男女合葬墓、身分差で分葬。列島に丸木船遺構。 6400年前 大渓文化【四川省】(紀元前4400?~紀元前3300?)紅陶、灌漑農法が確立、葛を用いた織物。 6300年前 大汶口文化(〜BC4000):山東省。紅陶、のちに黒陶・灰陶。 6千年前 西アジアで青銅器使用/仰韶文化廟底溝類型【黄河上中流域】(紀元前4000?~紀元前3500?)ろくろ使用■列島東北で環状列石。人口16万300人。 5500年前シュメール人、楔形文字使用/ドラヴィダ人、地中海からインド北西部に移住。 5300年前 長江の下流域で良渚文化(〜BC2200) 浙江省:馬家浜文化を継承、玉器、絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造。稲・豆・ゴマ・落花生。父系社会に移行し、階級制のある都市国家。西ヨーロッパで巨石文化(‐1000)。 5100年前ウバイドで洪水 5000年前 エーゲ文明/■長江の中流域の屈家嶺文化(〜BC2600) 大渓文化を継承、職集団分業化、城壁都市、黒陶、城内には運河。貧富の差。中流域では黄河の二里頭文化がのちに移植→黄河文明(竜山:父系制 夏につながる遊牧系)による征服か→黄帝による三苗征服伝説(三苗はミャオ族の祖 母系制) 以後、500年間、緊張状態? 4800年前■四川省で三星堆文化(〜BC1000):青銅器の仮面、仮面王国。城壁都市。金器・青銅器・玉器・象牙・子安貝、「立人像」「神樹」「縦目仮面」。史書によると古代四川省では蚕叢・柏灌・魚鳧・杜宇・鼈霊(開明)の王朝が出現、太陽神信仰。天府の国と呼ばれ、長江上流域の中心地。内部抗争で紀元前850年ごろに滅び、新たにこの地方に拠点を作った勢力が「蜀」、「巴」という氏族国家。「巴蜀文字」はインダス系か。■石家(せきか)河(が)文化【湖北省】(紀元前2800?~紀元前1500?)長江中流域最大級の都城遺跡。屈家嶺文化を継承し、灰陶器、銅器。城壁、運河。石家河の住民は三苗民族とされ、堯・舜・禹に代表される黄河流域の勢力と死闘を繰り返した。■日本:木製太刀、夜臼式土器。人口7万5800人/チベット高原でカロ文化 4600年前インダス文明(〜BC1800) 青銅器、レンガ、服は綿、牧畜、氾濫農耕、ビーズ、メソポタミアと交易。 4500年前■龍山文化(〜BC2000)。山東省で黒陶。後期には銅器鋳造。このころ黄河の部族が長江に侵攻か(石家河文化 江漢平原 三苗)/アーリア人のアンドロノヴォ文化がアラル海から東トルキスタンで展開。 4300年前 丁公村出土陶片 4350年前 アッカド王サルゴン、メソポタミア最初に統一(-BC2200) /4100年前 ウル第三王朝、メソポタミアを支配。 4070年前 禹、夏を興す。二里頭文化(〜BC1800/BC1500):青銅器使用 。夏王朝か?同時期に五つの青銅器文化があった。東の岳石文化、河南省北部の下七垣文化、遼寧西・モンゴル東南の夏家店下層文化、西の四ハ文化、東南の馬橋文化(良渚文化の継承)。 4055年前 斉家文化(-3900年前) 農耕・家畜飼育、氏族社会でなく父権制社会:青銅器を多用。 4000年前気候変動か地殻変動でインダス乾燥/カッシート人、バビロニアで活動。アッカド語でカッシュ、自称はガルズ/アーリア人、古代アフガニスタンのアーリヤーナに移住(-3500年前) 3900年前 アムル人、バビロン第一王朝建国 3800年前 ガラス製品 3725年前 フルリ人、西へ移動:北シリアで痕跡。 3700年前 フルリ(ホリ)人、ミタンニ王国を建国(-BC1500) アッカド語の楔形文字、シュメール表意文字を使用。膠着語、サンスクリットも流入?/ハンムラビ、第六代バビロニア王。 3600年前(BC1600) 殷(商)、夏を滅ぼし、興る:黄河の二里岡文化:甲骨文字(亀甲獣骨文字)と青銅器。殷は「夷」で北方民族か。王家の姓は「子」ないし「好」。祖先は契。河北省南部のショウ水から山東省にかけて活動。遊牧民族。鳥トーテム。ツバメ(玄鳥)を祖。/北方に鬼方:姓はキ(媿:女偏に鬼) 3595年前 鉄器を発明したヒッタイト、バビロニアを滅ぼす。 3500年前 アーリア人、イラン高原から南下、パンジャーブ地方を征服/朝鮮半島に中国から農耕伝わる■呉城文化【江西省】(紀元前1400?~紀元前1000?)青銅器王国。殷代後期の大規模な墓。独特の青銅器。 3475年前 カッシート王ウラム・ブリアシュ、バビロン第二王朝(海の国第一王朝)を滅ぼしバビロニアを統一し、バビロン第三王朝(カッシート王国)を興す。カッシートとエジプトとの外交書簡アマルナ文書残存。 3400年前 呉城文化(〜BC1000)では磁器使用:長江文明と黄河の二里岡文化の融合。 3450年前 カッシート王国、アッシリアやエラムと紛争 / 3300年前 アーリア人、ドラヴィダ人を支配するためにカースト制度を構築 3345年前 カッシートのクリガルズ二世、エラム侵攻、スサ陥落。しかしアッシリアに敗れる。 3225年前 カッシート王カシュ・ティリアシュ四世、アッシリアのトゥクルティ・ニナルタ四世に敗れ、アッシリアに連行される。バビロニアは以降、アッシリアの支配。 3200年前(BC1200)ヒッタイト突然滅ぶ。アッシリアがバビロン占領。同世紀にアーリア人がインドに侵攻。 3160年前 カッシ-トでザババ・シュマ・イディナ即位、アッシリアと戦うが敗れる。エラムがバビロン侵攻、マルドゥク神像やハンムラビ法典がスサに持ち去られる。 3155年前 カッシート王国(バビロン第三王朝)滅ぶ。 3100年前(BC1100) 衛国、黄河中原に起こる。アッシリア帝国、馬・戦車・鉄器で勢力拡張。 3046年前 周、殷(商)を滅ぼす。周の国姓は姫(キ)で漢民族。/殷の箕子、周を逃れ北方へ亡命。朝鮮に建国。 3000年前(BC1000)■中国語、統辞構造変化:殷は南方系で修飾語は後ろの順行構造[猶大(大いなる道),丘商(商の丘。タイ語、カンボジア語、マレー語なども]。周代以降、とくに春秋時代(前8c)以降、逆行構造へ[大道、甲祖]。(佐々木‘97 55,橋本‘78)■周が諸民族を統合し、漢民族を形成。南方系民族は百越。■弥生時代・部族戦争。環濠集落。高地性集落。 BC1122 周の武王、殷の箕子を朝鮮王 BC1100 晋、建国(国姓は姫)。このころ宋も建国(殷の末裔、国姓は 燕も建国(国姓は姫) BC1046 太公望により斉が建国(国姓は姜-BC386) BC949 九州北部で弥生時代早期(-BC915)。 BC810 弥生時代前期(-BC350) BC806 鄭が建国(国姓は姫)。 BC800 ■O2aは南下、O2bは北上し山東、列島へ。(崎谷) BC770 周の幽王が西の犬戎に殺害され春秋時代へ。翌年、鄭の武公の協力により洛陽に遷都、東周。武公の権勢を疎んじた周の桓公は、武公死後、鄭に侵攻。 BC745 アッシリアのティグラト・ピレセル3世、メソポタミア、シリア、パレスチナ支配。BC772 アッシリア、北イスラエル王国を滅ぼす。 BC700 朝鮮半島に青銅器。北方スキタイの影響。大同江等流域にドルメン(~前3世紀) BC671 アッシリア、エジプト併合により、オリエント地域の大帝国へ。 BC667 斉の桓公は周王より覇者として認知。 BC660 衛国、狄により滅ぼされる。 BC638 泓(おう)水(すい)の戦い 楚と宋→楚が勝利 BC632 城濮の戦い 晋と楚→晋の文公が覇者に。 BC612 新バビロニアとメディア、アッシリアの首都ニネヴェ陥落。 BC609アッシリア滅亡。メディア、新バビロニア、リディア、エジプトの四帝国時代へ。 BC593 南ユダ王国と新バビロニアが戦争 BC 585 太伯,句呉(春秋の呉)を興す。 BC586 ユダヤ人、新バビロニアに捕囚。 BC575 鄢陵の戦い 晋と楚→晋が勝利 BC539 アケメネス朝ペルシア帝国、オリエントを支配。 BC500(2500年前) 日本へ大陸文化の影響。日本で青銅器使用。イト地域に首長。 BC475 晋の趙無恤、代を滅ぼす。 BC473 越により呉滅ぶ:日本列島へ?:『翰苑』倭人、太伯の苗と称す。 BC457 晋で范・智(荀)・中行(荀)・趙・韓(公族)・魏の各氏が台頭。 BC453 趙・韓・魏、協力して智氏を滅ぼし、独立、晋を分割。 ■前4‐3世紀、半島で鉄器使用。燕の明刀銭分布→燕の満の建国との関連。この頃より半島では北方文化より中国文化の影響が強くなる。 BC403〜221 趙・韓・魏、正式に諸侯となる[戦国時代] BC386 斉、田和のクーデタ。 BC371 馬陵の戦い 斉、魏を破る。 BC359 秦、 公孫鞅(こうそんおう)の改革(変法):民を五戸一組に分け、相互に監視させる。法を暴力的に強制。 BC352 秦、 魏に侵攻。 BC350 秦で公孫鞅の第二次変法 父子兄弟が一つの家に住むのを禁止、区画整理、度量衡統一。 BC341 斉、 魏を破る。 BC340 秦の公孫鞅、 魏に侵攻。 BC338 公孫鞅(商鞅)反対派から追われ殺害。 BC318 韓・趙・魏・燕・斉の五国とともに匈奴ら連合軍、秦を攻撃するが惨敗。 BC316 秦、蜀(古蜀)を滅ぼす。 BC307 趙の武霊王、胡服騎馬軍隊を編成。 BC300 このころより月氏、タリム盆地で活動。カッシート、チベット、モンゴル系か?/朝鮮半島に鉄器。辰国(扶余系)→のち列島へ? BC277 高句麗建国 BC286 斉、宋を滅ぼす。 BC260 長平の戦い:秦、 趙を破る(戦死5万,坑刑40万) 趙の平原君、魏楚に救援。 BC256 秦、周を滅ぼす。ディドトス反乱しバクトリア王国を建国。北のソグディアナ、西のマルギアナを併合。 BC228 秦、 趙を滅ぼす。趙の公子嘉、代に移り、代王を名乗る。 BC222 秦、燕を滅ぼす。 BC221■秦による統一。斎、滅ぶ。斎(江蘇省)の徐福ら三千人、山東半島の連雲港を出、朝鮮を経由し、日本列島へ。平原広沢の王となる。 BC214 朝鮮王否、秦に服属。その子(箕準)準王の時代には燕・斉・趙より半島へ亡命者増加、王は西方に居住させる。 BC209匈奴の冒頓単于、クーデタで父頭曼単于らを殺害。東胡王、馬や土地を匈奴に要求、争い、匈奴に滅ぼされる。東胡の残党は烏桓(BC1世紀-AD4世紀)、鮮卑(BC1世紀-AD6世紀)、柔然(5世紀―6世紀)となっていく。 BC206 楚漢戦争(-BC202)。前漢興る。劉邦による。匈奴の冒頓単于、東胡を滅ぼす。(烏桓山に逃げた勢力は烏桓・烏丸といい、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑といった)また、月氏へも侵攻。 BC200 冒頓単于、40万で代へ侵攻。代王、韓王信を寝返らす。白登山で漢の劉邦軍を破る。漢、匈奴に朝貢。 /北部九州で BC195 燕の衛満,半島に亡命。 BC194 衛満、逃亡民勢力とともに王権簒奪、半島北部に建国。 BC176 冒頓単于、再び月氏を攻撃。月氏、西のイリ地方に逃走(大月氏)。一部は甘粛省と青海省に残り、小月氏とよばれる。 BC175 バクトリアのデメトリオス、印のパンジャーブ侵攻。本国をエウクラティデスに奪われる。 BC162 冒頓の息子・老上単宇によって、月氏の王殺害。そのご月氏は西のソグディアナに逃れ大夏を滅ぼし大月氏国をたてる(大夏はバクトリアかスキタイ系のトハラ人の国か)。/デメトリオス、エウクラティデス軍に敗死。バクトリアは北西インドのグリーク朝と分裂。 BC130 前漢の張騫が対匈奴戦のため大月氏に同盟を求めるが、大月氏は断る。/大月氏、バクトリア征服、トハラ国へ。 BC128 衛氏朝鮮に反対する濊(かい)君(くん)南(なん)閭(りょ)ら28万を率いて遼東郡に降る。武帝は滄海郡を置いて支配しようとするが三年で失敗(南(なん)閭(りょ)ら漢への服属も中止か) BC108 満の孫の右渠、漢への朝貢をせず、また真番諸国の朝貢を妨げたため、漢、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡設置(他侵攻の原因には匈奴との連合を防ぐこと、朝鮮が発展したことを怖れたため)→衛氏軍の一部、南下。この頃、茶戸里遺跡で筆・刀子が使用。 BC100頃 青銅器・鉄器日本へ。北九州・山口で青銅器細形短剣出土。 BC75 楽浪で人口40万人。 BC57 新羅興る。 BC50? 扶余国 BC37 高句麗、朱蒙(チュモン)によって建国。 BC18 百済興る。 BC2大月氏国の使者伊存(いそん)が中国の景蘆に『浮屠教』を口伝、最初の中国への仏教伝来。 8年 王莽、新を興す。 12年 王莽、高句麗に匈奴出兵を要求するが、高句麗王スウが拒否したため高句麗に侵攻。半島の諸族が反乱。中国周辺の諸族は統一はされていないが、場合によっては中国の権力への反対運動で団結する。範囲は極めて広大で、匈奴から西の羌(きょう)・氐、南の滇(しん)・閩までに至る/新(8 -23)の貨幣=貨(か)泉(せん)、一支国、伊都国ほかで出土。(志摩町御床松原遺跡、原の辻遺跡) 25年 後漢、新を滅ぼす。 27年 高句麗、北沃沮(よくそ)接収。 30 楽浪郡の中国系豪族王調が反乱。後漢、内政自治を認める。 42 南越でハイ・バ・チュン(徴姉妹)の乱(当時南越は女系社会か) 44 半島南部の韓人の廉斯の人蘇馬諟(そばし)より楽浪へ朝貢。 57 奴国王、後漢に遣使。半島南部の倭、韓族の朝貢。(井上p44) 100 大月氏国でトハラ人のクシャーナ朝に変る。中国ではこのクシャーナ朝も大月氏とよぶ。 105 高句麗、遼東侵攻。中国の蔡倫、紙を発明。 107 倭面土国王、後漢に遣使。倭国王帥升、後漢に遣使。 111 扶余、楽浪へ侵攻。 118 高句麗、楽浪・玄と郡に侵攻。 121-2 高句麗、馬韓や濊(わい)貊(はく)らとともに遼東郡の玄と城を攻撃。このとき扶余は遼東側につき、高句麗らと戦う。扶余と高句麗は元は同一種族であるが、この頃は互いに牽制しながら遼東平野への進出を目指していた。 146-189倭国大乱(『後漢書』『隋書』) 167 扶余王の夫台は二万で玄と郡に侵攻するが失敗。後漢書の記述はこの年まで。以後は三国史や魏書。 168 鮮卑族・濊(わい)貊(はく)族が河北省北部に侵入。 169 度(たく)遼(りょう)将軍橋(きょう)玄(げん)の支援で玄と郡、高句麗を破る。 172 高句麗は自律し、遼東郡と対立。遼東軍、高句麗へ侵攻するが、失敗。 173 卑弥呼、新羅に遣使。 178-184倭国大乱あるいは卑弥呼即位?(『梁書』『北史』) <200年代 倭国で古墳文化>。 190 高句麗、公孫度に従い、富山討伐軍を派遣。 197 高句麗の故国王、没。発(はっ)岐(き)と延優の兄弟、争う。当時継承はモンゴル的なクリルタイ方式:五部族による選挙。兄発(はっ)岐(き)を支持するのはケン奴部のみだったが公孫氏に救援を求め王位につく。弟延優と四部は新国を建国。のち高句麗は新国に吸収され、新国が高句麗を名乗る。それゆえ高句麗の政治体制は五部(ケン奴・絶奴・順奴・灌奴。桂ろ部)構造。 204、楽浪の公孫氏、楽浪郡南部を分割し、帯方郡とし、南部の韓・倭族を支配。 220 魏、後漢を滅ぼす。 233年10月 公孫淵、呉の使者を斬り、魏への忠誠を示す(呉が遼東の公孫氏と国交すると、背後を脅かされた魏は公孫氏の両属政策を非難したため)。この時呉の秦旦ら高句麗に逃れる。高句麗の東川王、呉と同盟をむすぶ。 236、7月、高句麗、呉の使を斬る。 237 魏、幽州の毌(カン)丘倹(キュウケン)に高句麗討伐を命じる。公孫氏を襲うが撤退。 238、8月、毌(カン)丘倹(キュウケン)、遼東半島の公孫淵を滅ぼす。魏、後漢以来放置されてきた二郡を復活するとともに、東方民族とむすび呉に対抗する戦略。 239、邪馬台国、難升(なし)米(め)と都市牛利らを帯方郡と魏に遣使。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では(238年))。 240 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受。 242 高句麗、魏に侵入。 243 邪馬台国、魏に朝貢。倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。 244 毌(カン)丘倹(キュウケン)、高句麗侵攻、王都丸都城陥落(なんらかの理由で魏と高句麗とが対立)。邪馬台国の掖邪狗 245(正始六年)毌(カン)丘倹(キュウケン)、高句麗を攻め、粛清に至る。東川王、ハム鏡南道まで逃れる。 韓人、魏に抵抗。難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。 246 帯方郡を通じて難升米に黄幢(旗さし)を仮授(帯方郡に保管) 247 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。卑弥呼没(『梁書』では正始年間240- 249に没)。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千余人が死んだ。 卑弥呼の宗女・台与=壹与を十三歳で王に立てると鎮定。女王壹与は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。 248 邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史張政、倭国へ。 261 韓人、魏に朝貢。 265(泰始元年)司馬炎、晋建国。『晋書?』 邪馬台国?からの最後の入貢。 266 倭女王壱与、晋に遣使。(「晋書」) 280 西晋が暫し統一するが、以降、300年に渡り戦乱が続く。 286 高句麗、帯方郡を襲う。 289 三国志の『魏書』編纂。 294 鮮卑の慕容廆(カイ)、高句麗の大棘城を占拠。 300 西晋で八王の乱 ■ 4世紀 倭国は半島より鉄輸入 312 扶余系の高句麗、楽浪郡を滅ぼす。韓族・ワイ族、帯方郡滅ぼす。 319 高句麗、慕容廆を攻め敗れる。 331 高句麗美川王没。 336 前燕より冬寿が高句麗に亡命。以後、中国の文化・文字、高句麗に普及。 346 百済建国。 355 高句麗、鮮卑系の前燕に服属。※4世紀 倭国は半島より鉄輸入 ※5世紀 経済発展を遂げた倭国、鉄資源を求めて半島進出 364 4月倭、新羅侵攻。 366(神功46)倭国、斯摩宿禰(しまのすくね)(シマ国)を伽耶諸国の卓(とく)淳(じゅん)国に派遣。百済の肖古王と正式に国交開始。肖古王より鉄テイ40枚が贈与。宗像君が対外交渉に関与、また沖ノ島祭祀を開始。 367 百済の使者、来倭。 369 倭国軍、百済と通じ、新羅を破る。倭国、氏族社会。/高句麗、百済を攻め、敗れる。 371 百済、高句麗の故国原王を殺す。 372 前秦の僧・順道が高句麗に仏像・経文を伝える。百済の久氐ら、倭に七支刀を奉献。 391 倭国軍、百済・新羅を破り、臣民となす(碑文)。 392 高句麗南下。 393 倭、新羅王都包囲。新羅奈勿王、挟撃で倭を破る。 397 百済、阿莘王の王子腆支を人質に倭に送り、国交を結ぶ。 399 百済、高句麗を裏切り倭と通ず。倭、新羅侵攻。新羅、百済に求援(碑文)。 ■ 5世紀 経済発展を遂げた倭国、鉄資源を求めて半島進出 400 倭人、新羅王都の金城占領。高句麗の広開土王が兵力五万で新羅を助け、倭軍と戦う。倭軍は任那・加羅に退く。高句麗、伽耶まで侵攻(碑文)。 402 2月新羅奈勿王、没。その子未斯欣、人質として倭へ。 404 倭国軍、帯方郡まで侵攻、高句麗と戦争(碑文)。腆支、倭により百済王として即位。 ※倭の五王、中国に朝貢→渡来人増加。 ※五世紀中葉、対国内「治天下大王」と呼称→中国王朝と異なる別の天下:小中華主義 ※部(べ)民(みん)制・氏姓(うじかばね)制度=ウジ組織。雄略天皇VS諸王 ※五世紀中葉、国内で「治天下大王」と呼称→中国王朝と異なる別の天下 413 倭国、晋に朝貢(「晋書」) 414 高句麗、広海土王碑を立碑。また中原碑も。 420 倭王讃、宋の武帝より除授。/430 宋に朝貢。/438 倭王珍、宋に朝貢。安東将軍の号を得る。/443 倭王済、宋に遣使。 450 高句麗、新羅征伐。 456 , 8月 安康天皇、眉輪王派に暗殺。大泊瀬皇子、八釣白彦皇子、坂合黒彦皇子 ・眉輪王、市辺押磐皇子・御馬皇子を殺害し、11月に大王になる。(市辺押磐皇子の子億計・弘計、逃亡)平群 真鳥、大臣に。 460・462 倭王興、宋に遣使。 463 吉備氏の乱:任那に出兵していた吉備田狭、新羅と結託し、朝廷に反乱。雄略が田狭の妻稚姫を奪ったため。(のち稚姫は雄略の子星川稚宮皇子を産み、雄略死後に、星川皇子の乱を起す。吉備田狭ら水軍40艘を率いて来援するが、皇子敗死により戻る) 464,2月 任那日本府軍、高句麗を破る。 465,5月 倭国軍、新羅に侵入。紀小弓宿禰が戦死し、敗走。(「新羅本紀」では462,5月に倭、新羅の活開城を落とし、463,2月にも侵入したが、倭を撃退。 469 雄略、 播磨の文石小麻呂を討伐。 471 稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王=大泊瀬幼(おおはつせわか)武(たけ)=雄略天皇。 474 雄略、伊勢の朝日郎を討伐。 475,9月高句麗南下、百済王を殺害、百済陥落し熊津に遷都。(このころ高句麗は遼東半島、満州も領有)→倭にとっては鉄輸入減少。ヤマト王権混乱。 477,雄略、百済に任那を与える。 478 倭王武、宋に遣使。 479 星川皇子の乱。4月百済の三斤王が没。入質の昆支王の次子未多王を筑紫兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。8月雄略、没。 481 億計・弘計、発見。 482 億計、皇太子に。 484 清寧天皇没。 485 弘計,顕宗天皇に(-488没)。 488 億計、仁賢天皇に。 493 高麗へ日鷹吉士を派遣。 494 小泊瀬稚鷦鷯皇を皇太子に。 498, 8月仁賢天皇没。平群真鳥、政権を握る。11月、大伴金村と平群真鳥を討伐。武烈天皇に(10才)。 ■ 6世紀 継体天皇により統一、磐井の乱(新羅軍との連合軍)。以降、対外志向弱まり、内向化・内政強化 500,9月 11才の武烈天皇、猟奇行動。 502 、梁の武帝、倭王武(雄略)に征東将軍に進号(「梁書」) 503 新羅、迎日冷水碑を立碑。和歌山・隅田八幡宮人物画像鏡。 507,1月 武烈天皇、没(武烈は雄略の部分伝承で非実在とも)。大伴金村ら、越前の大迹王に推戴。継体天皇へ。 512 大伴金村、伽耶四県を百済に割譲。 513 百済、五経博士を献ず。 520 新羅、律令制定。 521 百済、新羅を伴い梁へ遣使。 524 新羅、蔚珍鳳坪碑。※蔚(うる)珍(ちん)は秦氏の故郷。 526 大倭(のちの大和)に遷都。百済へ救援軍、派遣。 527 磐井、新羅と結び反乱。以降、対外志向弱まり、内向化・内政強化。磐井の子・葛子が糟屋の地を献上。那津、筑後、豊、火国に屯倉(みやけ)(官家)を設置。肥(ひの)君(きみ)を志摩に派遣(肥(ひの)君(きみ)は肥後南部出身) 532 伽耶金官国、新羅に投降。 536 那津官家修造。(対新羅) 538 百済王、倭国に仏像と経文を献ず→廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏とが対立。百済、扶余遷都。 539 欽明天皇、即位。 540 大伴金村、失脚。以後、物部氏と蘇我氏の二極体制。 544 粛慎人、佐渡に来る。 545 新羅、丹陽赤城碑。552(または612)新羅、壬申誓記石を立碑。 553 新羅、百済から漢山地域を奪取し、新州を設置。 554 百済聖王、新羅と戦い敗死。倭、高句麗に軍隊派遣(『三国史記』) 556(欽明17)正月、百済王子恵を本国へ護送するため、筑紫火君(嶋郡の肥君か)ら千名派遣。 561 新羅、昌寧碑。新羅、安羅の波斯山に築城し、倭軍に備える。 562 新羅、伽耶を滅ぼす。倭、新羅侵攻:新羅、白旗を立て欺く(書紀、新羅本紀)。 564 新羅、北朝の北斉に朝貢。 568新羅、南朝の陳に朝貢。磨雲嶺碑、黄草嶺碑、北漢山碑を立碑。 577 百済の扶余で王興寺建立 578 初の官寺 四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より三人の宮大工を招聘(内一人が金剛重光で、最古の企業・金剛組の創業者) 581 隋による統一。高句麗遠征を4度→弱体化 585 用明天皇、即位 586高句麗、長安城(平壌)に遷都。 587 用明天皇没、蘇我馬子/厩戸皇子との武力闘争で物部氏滅ぶ。/蘇我氏か百済の客(元興寺縁起)が、法興寺(のち飛鳥寺)建立を計画 588 百済より技術者を呼び、 法興寺建設開始。 589 隋、270年振りに中国統一→高句麗・新羅、倭国とむすぶ ※律令制:王土王民による統治。均田制で土地を百姓に配給また律令格式に基づく精緻な官僚機構が構築。律令制は日本、新羅、渤海、吐蕃も導入。 591、紀・巨勢・大伴・葛城の四大将軍、筑紫に派遣。 592 蘇我馬子、東漢駒に崇峻天皇を暗殺させる。推古天皇を擁立。 593 四天王寺創建。 595 高句麗から僧慧慈が来日。厩戸皇子に隋の官僚制と仏教国教化について教示。 600 倭、新羅征討軍。遣隋使:倭王、姓は阿(あ)海(ま)、字は天足彦(たりしひこ)。天を以て兄とし、日を以て弟となし:幽祭形式による祭政二重政権(鳥越04,179) 602 倭、新羅征討軍:将軍に来目皇子(聖徳太子の弟)。筑紫兵2万5千。来目、暗殺さるか→遠征は中止。百済、新羅侵入、敗れる。 603 冠位十二階 604 憲法十七条 607 高句麗、百済侵入、敗れる。倭国「日出處天子」と称し、後再び倭を称す。煬帝怒るが高句麗遠征のため諌めるにとどめる。法隆寺創建。 609(推古17)4月、肥後国葦北津に百済僧ら85人来着。 618 煬帝が殺害。唐が興る。 620 『国記』『天皇記』編纂 622 厩戸皇子,没。 623(627) 百済、新羅を侵す。 628 唐による統一 630 唐、突厥を破る。倭、遣唐使開始。 634 石国(タシケント)、唐に朝貢。 635 5月、吐火羅、唐に朝貢(吐火羅はタシケントの隣)(唐会要・初回遣使年次1)。 639 田村皇子、百済大寺を建立。 642,8月 百済、新羅の大耶城を攻める。金春秋、高句麗に救援、失敗し監禁、のち脱出。 643 百済、高句麗と同盟(麗済同盟) 644 唐、西域の高昌国を支配、高句麗を三度攻めるが(-647)失敗。 645 ,唐、高句麗侵攻。 6/11中大兄皇子(諱は葛城),蘇我入鹿を殺害。高向玄理(魏の曹操の末裔を自称する渡来人)、旻(日文)、国博士に。八省百官の制を立案。 647 玄理、訪新羅:「任那の調」廃止と引き換えに「質(人質)」差出し交渉。金春秋、来日(人質として:日本書紀25,孝徳3年)。 648 金春秋、唐へ救援。 649 玄理、八省百官を定める。 651 新羅の使者、来日、新羅が唐制に改めたと聞き、追い返す。巨勢徳多,中大兄皇子に新羅進軍を進言、採用されず。 653 難波宮から中大兄皇子らが飛鳥へ戻る(孝徳天皇は失意) 654 ,3月新羅の真徳女王没、 金春秋、武烈王として即位。/4月、吐火羅国4人、舎衛国女1名、来日(トハラかタイのドヴァラーヴァティか。舎衛はソグドか)。/5月、律令整備。玄理、長安で客死。宗像の尼子娘が大海人皇子の子、高市皇子を産む。 655,1月、新羅に高句麗・靺鞨・百済連合軍が侵入。新羅、百済の刀比川城を攻撃。 658 阿倍比羅夫、蝦夷征伐。 659 百済、新羅に侵入。斉明天皇、遣唐使。 660,3月 新羅・唐、百済討伐、7/16吐火羅の乾豆*波斯 達阿(カンドのダラーィ)欲歸本土、求請送*使曰、願後朝於大國。所以、留妻 爲表。乃與數十人于于西海之路」:ササーン朝最後の王族ペーローズとダラーィか。 7/18百済滅亡。百済レジスタンス;鬼室 福信・黒歯 常之ら、倭に滞在していた扶余豊璋を擁立し、倭へ救援。 661 斉明天皇、難波から九州へ出兵、邦の津にて急死(暗殺か)。5月安曇 比羅夫ら第一派、半島上陸。/ 新羅・唐、高句麗へ侵入、6月武烈王没。 662,3月阿倍比羅夫ら第二派 663,豊璋王、鬼室 福信を殺害。8/27-8白村江の戦い。新羅・高句麗・唐の連合軍(唐水軍は女真族)、倭・百済軍を破る。倭と新羅は殆ど直接戦闘せず。 →国政整備がすすむ→律令制導入 氏姓制度 統治技術として、「名前」が一般民衆(部民)にまで拡大 664(天智3) 「甲子の宣」で複姓は消滅(例:阿部布勢、蘇我石川) 665 唐の劉徳高が戦後処理で来日。2千の唐軍が進駐。 666 唐・新羅、高句麗討伐。 667 天智天皇,大津京へ遷都、防衛体制を完成。 668 唐・新羅、高句麗を滅ぼす:この間の戦力を支えたのは伽耶の鉄。戦後、唐は新羅にも圧力。第一回遣新羅使 669 天智天皇,河内鯨を遣唐。新羅と旧高句麗、反唐蜂起。 670 国号を日本に更む(『三国史録』)。庚午年籍(最古の戸籍)/新羅、旧百済領に侵攻、唐軍を駆逐/第二回遣新羅使。 671 天智天皇,没(暗殺か) 672 壬申の乱。 675 唐と新羅、和睦により、新羅の半島統一。第三回遣新羅使676 第四回遣新羅使 681 天武、大宝律令編纂開始。第五遣新羅使。群馬県高崎市の山之上碑。 684 「八色の姓」。第六遣新羅使687 第七遣新羅使 690 契丹、暴動。 692 第八遣新羅使695 遣新羅使 698 高句麗遺民(粟末靺鞨人)の大祚栄、唐軍を破り震国を建国。 700 遣新羅使。那須国造碑。 701 大宝律令完成。倭国、国号を正式に「日本」とし(『旧・新唐書』には「日本が倭国を併合」)また天皇(てんわう:明治に-のう)と称す:唐の高宗(在位649-683)が道教由来の天皇(神格化された天の北極=宇宙の中心)を称し、死後は天皇大帝の諡(おくりな)を付与。 702 まだ無姓の者、族姓の者がいた※氏姓制度の緻密な浸透によって、人々は漏れなく国家身体に「登録」された。 703 遣新羅使704 遣新羅使706 遣新羅使 711 多胡碑(群馬県吉井町) 712古事記成立。遣新羅使 718 遣新羅使719 遣新羅使 720 日本書紀完成。この頃、薬師寺出土千字文木簡、平城京二条大路と長屋王家から出土木簡(変体漢文)。半島で雁鴨池遺跡出土木簡・鉄製鍵。 722 遣新羅使724 遣新羅使732 遣新羅使 735 新羅使、国号を「王城国」と改称した旨、日本に伝えると、無断で改称したことを責め、追い返す。 736 阿部継麻呂、新羅へ。冷遇され以後、暫く 新羅使を太宰府にとどめ、入京を許さず。 740 遣新羅使 742 遣新羅使 752 新羅王子金泰廉ら来日、入貢。遣新羅使 753 遣新羅使 756 怡土城築城開始(768完成) 759 恵美押勝、渤海と連合し新羅討伐計画。 779 遣新羅使 780 正規の遣新羅使を停止。 797 『続日本紀』 804 最澄、空海、菅原清公、唐へ 818 菅原清公、朝廷儀式・風俗の唐風化を建議。人名称を、二文字訓読みか一文字訓読みにし、女性の名前を「-子」という形式にすることを提言(例:坂上田村麻呂は四字→菅原道真のように二文字か、源信のように一文字) ■9世紀の藤原時代/臣籍降下(桓武から平朝臣、清和から源朝臣の氏姓が誕生)→律令的氏姓制度が破綻していく。 845 唐・道教に傾斜した武宗が会昌の廃仏:仏教・マニ教・ゾロアスター教・ネストリウス派弾圧。 892 甄萱(けんけん、キョンフォン)、挙兵。/900 甄萱、後百済建国。 901 弓裔、後高句麗を建国。 907 唐が滅亡する。五代十国時代にはいる。 918 後高句麗の王建将軍、高麗を興す。/920 後百済、高麗と戦争。/922 後百済、日本に救援、拒絶さる 926 遼、渤海を滅ぼす。高麗、渤海遺民を吸収。 935 後百済、 甄萱長男の神劍の反乱。甄萱を幽閉。甄萱は高麗へ亡命。 936 高麗、後百済を滅ぼす。半島統一 939 日本で将門と純友が反乱をおこす。 960 宋が成立。 日本は平安中期。国交なしか。 993 契丹、高麗に侵入。 1004 喫丹の遼による侵略 1010 契丹、高麗に再侵入。1013,1015にも再侵入。 1018 契丹10万軍、高麗侵攻。高麗14万軍勝利。 1019 女真、日本侵攻(刀伊の入寇) 1107 女真、高麗侵攻。1115 女真、金を建国。 1125 宋、金と同盟し遼を滅ぼす 1126 南の宋と北の金に分裂(南北朝時代)。日本は源平の対立。清盛による日宋貿易。 1145 高麗で「三国史記」完成 1220 チンギス、ソグディアナ再建のため行政機構整備 1221 承久の乱:後鳥羽上皇、鎌倉幕府に対して挙兵。上皇は配流、後鳥羽の兄・守貞親王を新天皇とする(武家による天皇廃位)。以降、幕府に無断で行われる皇位継承は無効とされる→1629 1223 倭寇、高麗沿岸を侵す(新羅末期の動乱期には半島人が日本を侵す) 1225オゴディ「帝国の征服は馬上でできた。だが馬上では統治できない」→行政機構整備・外国人官僚の登用 1231 モンゴル、使節遭難で高麗侵攻。江華島で3年抵抗→半島は荒廃。 1234 モンゴル、金を滅ぼす 1235 オゴディ=ハン、南宋とキプチャク草原・欧州方面への二大遠征を決定。交通環境整備→商業・金融の発展:パクス・モンゴリカ:相対的に平和と安定。:法制度整備・信教の自由→1260 カトリック活動開始。1281フランシスコ会中国で布教。元は厚遇するが、ネストリウス派と衝突。 1247 モンゴル、高麗侵攻。 1246 天皇家、皇位継承を巡り、大覚寺統と持明院統に分裂(→幕府仲介で交互即位へ) 1259 モンゴル、高麗を服属 1270 三別抄の乱:モンゴルへの高麗抵抗。 1271 クビライ、大元ウルス建国。救貧政策。 1273 三別抄の反乱者、済州島で抗戦、鎮圧さる。 1274 モンゴル、日本侵攻:忠烈王、日本侵攻を積極的に提言。 /81 元寇:太宰府からの蒙古牒状を朝廷の院権力は幕府に委ねる:天皇による外交権の自発的な放棄。 1301 大元ウルス、チャガタイ・ハン国、キプチャク・ハン国、イル・ハン朝の連合王国体制へ(モンゴルは同化政策をとらず、言語を属国に強要せず) 1321 ◆大覚寺統の後醍醐天皇、親政開始→1331 後醍醐挙兵。幕府、後醍醐を廃位し、隠岐に流す。 1333 名和一族によって島より脱出、伯耆船上山(鳥取)で倒幕の綸旨発布=挙兵。幕府から派遣された尊氏、後醍醐側に寝返り、鎌倉幕府滅亡。建武の親政:中国的な天皇専制を目指す。 1335 尊氏、恩賞を巡り離反、持明院統の光厳上皇を擁立[北朝]、後醍醐、吉野へ→南北朝動乱は王権の形態(親政か院政か)を巡る争いでもあった。 1350 倭寇、活発に。 1351 紅巾の乱(白蓮教;弥勒下生:終末論・メシアニズム的・ミトラス教系・革命思想) 1352 南朝軍、光厳上皇を拉致。幕府、受禅儀式を行うために弥仁の祖母を「治天の君」と見たてる→天皇を欠いたままでは、権力の正統性立たず。 1354 近江土一揆。 1368 ◆朱元璋、大明を興す。大元ウルスは北走(以後、北元)→モンゴル帝国の終わりでなく、イラクのジャライル朝や、1370に建国されたティムール朝(後身ムガル帝国1526-1858)など、様々な継承帝国が続く。 文字の獄:光・禿・僧などの文字を使うとあてこすりとして処刑。文人・功臣粛清は朱の死まで続いた(〜1398)。 1372明、海禁。私貿易を禁じる 1380 クリコーヴォの戦い:キプチャク=ハン帝国からのロシア独立運動開始 1385 ポルトガル王国、カスティーリャ(スペイン)から独立 1388 高麗の武将李成桂クーデタ。 1387 朱元璋、北元をほぼ壊滅する。 1393 高麗、滅ぶ。李成桂、朝鮮を建国[李氏朝鮮]。 1395 ◆義満出家、法皇に擬し、綸旨を上回る御教書を発給:武家による皇位の簒奪。義満は百王思想を意識、また朱元璋を憧憬。皇位簒奪は死によって挫折(暗殺か) 1415 ポ、モロッコのセウタ攻略。エンリケ航海王子 1419 応永の外寇:李氏朝鮮、対馬侵攻。 1428 1月籤で義教将軍跡目。9月正長の土一揆(日本開闢以来とされる) 1438 後南朝・大和土豪・関東公方ら連合し、永享の乱:義教、朝敵征伐の「治罰」の綸旨を得る:天皇権威の復活。治罰綸旨の復活は極秘にされたが(幕府の権威にとっては問題)、義教が赤松満祐に暗殺され(1441)、赤松討伐に治罰綸旨が適用。以後、天皇の名による平定戦争(秩序回復)が定着。 1453 オスマン、東ローマ帝国を滅ぼす。
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〈出版社による紹介〉 強大なカリスマ性をもって、絶対主義政策・中央集権化を支持する官僚・公家・寺社勢力を操り、武家の身で天皇制度の改廃に着手した室町将軍足利義満は、祭祀権・叙任権などの諸権力を我が物にして対外的に〈国土〉の地位を得たが、その死によって天皇権力纂奪計画は挫折する。天皇制度の分岐点ともいうべき応永の時代に君臨した義満と、これに対抗した有力守護グループのせめぎあいの中に、天皇家存続の謎を解く鍵を模索する。 〈レビュー〉 足利義満の権力について新しい理解を示した。 Amazon.co.jp ウィジェット 〈目次構成〉 はしがき 天皇家権威の変化 一、親政・院政・治天の君 院政の成立 治天の君 承久の乱後の院政 権門体制 後光厳の践祚 二、改元・皇位継承・祭祀 天皇の世俗権喪失 改元 皇位継承 祭祀 足利義満の王権簒奪計画 一、最後の治天――後円融の焦慮 緊迫する公武関係 義満と後円融の関係 義満に肩入れをした宮中の有力者 追従する廷臣たち 後小松天皇即位問題 後円融の怒り 後円融の窮状 崇賢門院の収拾 治天の君の沈黙 二、叙任権闘争――廷臣・僧職の官位 室町期の官位制 武家の官位除目介入 義満の「仰」 「宸筆を申し出ずるに及ばず」 室町第で舞踏する公卿 武士の官職辞令の変化 僧職・神職の官位叙任 新儀の案出 三、祭祀権闘争――国家祈祷権の獲得 廻祈祷 北山第での「院政」 北山第に移された祭祀権 陰陽道祭 中国崇拝思想 攘敵祈祷 四、改元・皇位への干与 改元への干与 葬られた洪徳の年号 改元干与断念 皇位継承干与 天照大神以来の正統失墜 国王誕生 一、日本国王への道 出家素懐の動機 国王御教書の成立 日本国王源道義 二、上皇の礼遇 太政大臣拝賀 山門講堂供養 北山第の紫宸殿 書札礼 相国寺大塔供養 三、百王説の流布 百王とは 「野馬台詩」の謎 終末観的百王説と天皇家の盛衰 百王流竭と義満 四、准母と親王元服 乗っ取りへの階梯 准母冊立案 国母選定工作 天皇の准父 繧繝縁に座った義満 義満の急死とその後 一、義満の死と簒奪の挫折 義満の真意 尊号辞退 簒奪反対の勢力 ”万世一系”維持の動き 二、皇権の部分的復活 後小松の反撃 錦の御旗 綸旨頻発 天皇親政復活のきざし 三、戦国時代の天皇 式微説と没落説 高まった猟官運動 織豊政権と天皇 調停権の復活と封じ込め むすびにかえて 参考文献 html2 plugin Error このプラグインで利用できない命令または文字列が入っています。
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2: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 46 50 このネタは、個人的な意見と考えから基づいて書かれています。 また、その意見と考えにより、転生者であると考えた人物が多く登場します。 加えて、その意見と考えにより、史実では誕生しなかった皇族も登場します。 異論が有る方も御座いますでしょうが、どうか寛大なお心でご覧ください。 このネタには石人さんの意見をもとにした転生者の名前が登場します。 石人さんより、登場の許可はもらっています。 このネタにはテツさん、石人さんの支援SSのオリキャラ転生者が登場します。 この作品には、名無し三流さんの作品「華族も楽じゃない」に登場する、蜂須賀政氏の設定を用いています。 このネタは提督たちの憂鬱のネタであり、実在の人物・団体・国家・家族構成等とは一切関係ありません。 また、それらを貶めるものではありません。 以上を留意してお読みください。 3: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 47 25 夢幻会には、伏見宮博恭王や北白川成久王のように、皇族の転生者もいる。 そして、それらは彼らだけに留まらない。 さらに、それは華族でも・・・ 提督たちの憂鬱 ネタ 夢幻会皇族・華族会議 "紀"州徳川家、"尾"張徳川家、彦根"井"伊家。 各親藩・譜代大名の江戸藩邸が存在したことから、各家から一字ずつ取り名付けられたのが、紀尾井町である。 現実世界の今ではホテルニューオータニが存在するこの土地に伏見宮邸は存在する。 弁慶濠を挟んで南東の赤坂見附には閑院宮邸(現・衆参両院議長の各公邸)、西には迎賓館、そして赤坂御用地が存在する一等地である。 その一等地の邸宅の中で、夢幻会に属する二人の重鎮、伏見宮博恭王と近衛文麿がいた。 共に表の顔でさえも注目される二人がいるため、周囲は何やら企みを考えているのかと邪推しがちであるが、実際は互いに愚痴を言い合っていた。 そんな二人の元に、来客の知らせが入る。 「失礼します。 秩父若宮様、閑院宮様、久邇宮様、徳川様、寺内様が御出でになられております。」 下働きの者がそう伝え、伏見宮たちは部屋に招き入れる。 来客は、秩父宮進仁親王、閑院宮篤仁王、久邇宮朝融王、徳川慶光、寺内寿一。 いずれも皇族、そして華族でも名門や新興ながらも重鎮として活躍する人達である。 そして、彼らにはある共通したことがあった。 「御加減はどうですかな、博恭王?」 「なぁに、まだまだ元気ですよ」 篤仁王に、そう元気に答える博恭王。 それに対し、娘婿の朝融王が言う。 「それはなにより。 最も、万が一であっても、同人誌については今後は婿の私が引き継ぎますゆえ・・・」 これに対し、眉をわずかに動かし博恭王は答える。 「逆の掛け算をするお主に儂の萌えが引き継げるというのか? 生意気を言いおって」 言い合っていることは残念な事だが、この岳父にこの娘婿と言った感じで萌えの対立をする二人の宮様。 「いやいや、萌えよりも燃えをですね・・・」 「また始まったよ・・・」 「いつものことでしょう」 4: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 48 08 これに、近衛公も乗り、それらにやれやれと寺内が肩を竦める。 そんな彼に慶光公が肩に手をやり宥める。 さらに賛同するように篤仁王が言う。 「やっぱりスポーツで健全な汗を流しすべきだな。もっと野球の拡大を」 「いや、サッカーだろ、JK」 「こっちもかよ・・・」 篤仁王に進仁親王が口を挟み、さらに寺内は頭を抱える。 このいつもの馬鹿騒ぎに、比較的常識人を自負する寺内は気苦労に襲われた。 もう気付いているだろうが、全員が転生者である。 史実での彼らを軽く紹介すると、進仁親王は流産。 篤仁王は、生後間もなくに死去。 朝融王と慶光公は女性関係で問題を起こし、寺内は陸軍軍人として悪評をもっている。 この世界での彼らは、転生により趣味に生きつつも、皇族、華族としての務めを果たし、問題も起こさずにいた。 秩父宮進仁(ゆきひと)親王は、秩父宮家では史実で流産した御子で、 史実と変わって二・二六事件は起こらず、それによる昭和天皇からの雍仁親王の召喚もなかったため、極寒の列車旅行をすることもなく、医療技術が進歩したこともあり、お生まれになった。 父王、雍仁親王の名から隹部をもらった名を名付けられた彼は、史実で生まれなかった人物という条件か、彼はスポーツ、特にサッカー好きの転生者であった。 そのため、日本をサッカー大国にしようと情熱を燃やしている。 閑院宮篤仁王は、読者諸兄も知っているが、某支援SSに登場する野球好きの宮様で、ロマノフ朝ニコライ2世の忘れ形見、アナスタシア皇女の夫である。 久邇宮朝融王は、久邇宮家の現当主で、フシミンの3女、知子女王の夫である。 転生者の彼は、博恭王と同じく同人制作に精を出し、今では「フシミン」「コノミン」に並ぶ第三の著名同人作家「クニノン」と呼ばれていた。 ちなみに、史実では婚約破棄問題を起こしているが、これについては同人誌関係で仲良くなったことから、酒井菊子と婚約する前に、知子女王と婚約した事で回避された。 なお、一応、同人誌については黒歴史の自覚はあるので、知子女王のみならず家族には全力で秘密としている。 何か間違っている気がするが、気にしないでほしい。 余談だが、昭和天皇とは学習院で同じクラスだったこともあり、乃木とともに陛下がフリーダムなった原因の犯人扱いを受けている。 また、フシミンとはカップリング等の嗜好の違いから、同人誌に置いては度々対立している。 一応、公私の区別をつけ、公務ではそれを表に出さないのだが、私のほうでは常識人の嶋田の頭痛薬と胃薬の量が増える要因にもなっているらしい。 合唱。 徳川慶光は、歴史の教科書でもご存じの江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の直系の孫で、慶喜系の徳川公爵家(徳川宗家とは別)の第3代当主である。 史実では戦後に料理や野菜作りなど趣味に没頭して生きたからか、転生前はいわゆる家事男だった男が転生し、料理を中心に家事に没頭する毎日を送り、調理師免許まで持っていたりする。 また、その経緯からか、史実と同様に徴兵を受けた際は、炊事兵となり、自慢の料理の腕前を振るい、兵士達の士気向上に貢献していた。 加えて、北一輝と北白川宮成久王とは料理仲間でもある。 なお、母親が有栖川宮實枝子女王であることから、有栖川宮家祭祀継承の経緯のために、昭和天皇の弟君、高松宮宣仁親王に嫁いでいるので、皇族の外戚でもあったりする。 そのため、同僚の炊事兵と上層部は、皇弟妃の兄ということもあって恐縮しっぱなしであった。 余談だが、史実では高松宮家は子女に恵まれなかったこともあり、有栖川宮家の継承に備え、慶光も有栖川流書道を伝承するために同流派を心得ている。 そして、寺内寿一は影が薄いながらも大正期の夢幻会の陸軍転生者として列席し、今も陸軍の長老として君臨している。 まぁ、さすがに最近は、史実での寿命もあり老いを見せているが。 5: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 48 41 「ところで、どうかね、即売会は?」 「好評です。各サークル共に頑張っています」 伏見宮の問いに、同人誌即売会を取り仕切っている久邇宮がそう答える。 久邇宮は近年、体調が悪化の一途を辿っている伏見宮に替わり、即売会の運営(+フシミンのサークル活動)を任されていた。 嶋田が聞いたら、頭痛薬と胃薬の追加を求めている所だが、彼らとしても趣味ではあるが、日頃の皇族としての気苦労から、ある種ストレスの発散になっているのだから、止めるわけにもいかなかった。 「それは良かった。・・・で、御客さんのほうはどうだ?」 ニコニコと満足げに喜びつつ、伏見宮は直ぐに真顔になって問う。 久邇宮もそれに動じず、伏見宮の問いに答える。 「まぁ、大人しく売り子をしていますが、一部は大手に売り込もうと色々していますよ。 さすがに、こっちの眼もあるので、派手にはやっていないようですがね」 彼らが言っているのは、英ソを中心とする国外の諜報組織の工作員たちである。 彼ら工作員たちは、日本の政府や軍を中心とするの高官らとのコネクションや情報収集を目的としての参加であった。 夢幻会の転生者、特に即売会を楽しみにしていた人間にとっては、はた迷惑な事ではあったが。 「必死なのは分かるけど、ただの文化祭なのになぁ・・・」 常識人を自負する篤仁王は、天井に目をやる。 彼としても、このようなことに全力を注がれるのは、正直、困惑するしかない。 「仕方なかろう。例の婚約話の件もあるしの・・・」 「あれか・・・。あれは正直、こっちの歴史を勉強しているのか?と問いたくなったな。最も大使館が全力で止めてくれたらしいが」 寺内の言葉に、全員が嫌な事を思いだしたように気分が悪くなる。 イギリスは悪化した日英関係の改善のために、日本の天皇家とイギリス王室との縁談を望んでいた。 特に皇太子殿下との婚姻を望んでいたが、皇室の歴史を詳しく見ると、これは日本側としてはどうしても許せなかった。 日本の皇室は世界でも類を見ない、2600年も続く血統と、国内貴族や大名から血は入れど、国外王室から一切血を入れなかった万世一系の純血の血筋を持っている。 ここに、いきなり国外王室の血を、しかも直系に入れろとなれば、日本の国民感情からして「喧嘩を売ってきやがった!!」と取られるだろう。 おまけに、イギリス王室はヴィクトリア女王以来血友病による遺伝病が、イギリス、そして欧州の各王室に広まっていたことも余計な足かせとなっていた。 史実では昭和天皇と香淳皇后の婚姻に際し、香淳皇后の血筋に色盲の疑いがあるとして問題となった宮中某重大事件が発生している。 英国王室の血友病が周知となっている以上、もし皇太子殿下の妻に捻じ込めば、日英関係は完全に終わることが容易に想像できた。 ロマノフ皇室の忘れ形見であるアナスタシア皇女の婚姻も、大正天皇の意向と直系から外れ、血縁が比較的薄い宮家である閑院宮家であるが故に出来たが、それでも困難が多かったことに変わりは無かった。 もっとも、担当員が来日後、イギリス人一日本の事を良く知る知日家で、最近なにやら影響を受けている駐日大使館の商務参事官サンソム卿に相談した際、 「本国は日本と戦争をしたいのか!?」と驚愕すると同時に罵倒し、詳しい説明、そして叱責文付のレポートを速達したことで直ぐに御破算となった。 だが、円卓を始めとするイギリス上層部は諦めきれず、「同じように、伏見宮系皇族に対してなら・・・」と計画を進めており、フシミンの孫である次期伏見宮家当主、博明王を筆頭として候補を探していた。 「弟宮の3宮家も当然無理だろうな」 「当然ですよ」 篤仁王の言葉に、弟宮の一つ、秩父宮出身の進仁親王がそう言った。 昭和天皇には、大正天皇第2皇子の雍仁親王、第3皇子の宣仁親王、第4皇子の崇仁親王が、それぞれ秩父宮家、高松宮家、三笠宮家を創設している。 世継ぎのことを考えれば、直系である3宮家でも、英国王室との婚姻は絶望的であった。 もっとも、史実では三笠宮家以外は御子に恵まれなかったが。 ただ、史実と変わって、二・ニ六事件発生によるゴタゴタもなく、医療技術も進歩していることもあり、 秩父宮家では史実で二・ニ六事件で東京に極寒の列車で急行したことが身体に障り流産した御子(進仁親王)がお生まれになり、ちょっとした騒動となっていたが、これは一時置いておく。 6: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 49 13 話を戻し、彼ら皇族・華族転生者たちはイギリスの婚姻外交に、正直に言って、頭を痛めていた。 日本の皇族や華族は、欧州の王侯貴族と違って、国家間の婚姻には否定的な風潮が存在している。 ゆえに、気安く婚姻外交を仕掛けようとするイギリスの行動に不満がないといえば嘘であった。 「今年の終わりに蜂須賀がカナダに行くが、連中、カモが来たと攻勢をかけるだろうな」 「成久王の縁談を受けておけと言ったのに、あいつは・・・」 彼らが言っている蜂須賀とは、彼らと同じ華族の転生者、蜂須賀政氏のことである。 旧徳島藩主、蜂須賀家の生まれで、1933年に侯爵の爵位を継承した第18代当主である。 史実では政治家を望んだ父の意向に反して、生物学に興味を持ち、動物学者の英国貴族、第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドと親交を結んで、財力に物を言わせて探検活動を行った。 一方で、女性関係が非常に派手であり、さらに米国へ秘密裏に財産を移送して隠匿しようとしたり、戦争末期に自家用機で日本脱出を図ったり、白金の密輸に加担したりと醜聞塗れで、あまりの品行不良ゆえに宮内省から華族礼遇停止処分を受けた。 戦後は、在米中に結婚した夫人との壮絶な離婚訴訟や遺産相続の揉め事、財宝の行方不明事件、貸し金をめぐる訴訟などで週刊誌に数多くのゴシップを提供した。 この世界の蜂須賀正氏は、史実における蜂須賀正氏とは間逆で、謹厳実直、そして些か女嫌いが過ぎ、かといって男色趣味があるわけでもない、独身主義者だった。 また、史実での冒険や探検といった類のものを敬遠し、史実において彼の挙げた生物地理学や鳥類学上の功績を同じ逆行者達に譲り渡し、彼本人はその趣味人達に金銭的バックアップをするに留まった。 彼は生来の女嫌いから周囲の縁談を断り続け、そのうち「蜂須賀のには何を言っても無駄だ」という評判が高まって、 日本華族のどこからも縁談が来なくなってしまったっていた。 夢幻会も「さすがに独身はマズいだろ」と史実通り成久王の第一王女、美年子女王と縁談を勧めたことは有ったが、「辻だって独身じゃないか!」と断固として拒否を示し、夢幻会も完全に匙を投げた。 なお、蜂須賀が断った理由として挙げられた辻も、「自分のお嬢様学校の学生と結婚するなんて■リコン趣味晒してないでさっさと結婚しろ!!」と、とばっちりを食らったのは余談である。 さて、そんな蜂須賀政氏は、彼は45年末からカナダ大使に任命されることが内定していた。 年齢的にはやや若いといえるかもしれなかったが、彼の普段の素行や西洋史についての見識を知る者は皆これに賛同していた。 あまり派手な立場になる事は好まなかった政氏も、周囲の期待を裏切るような真似を平気でできるような男ではなかったため、これを受けた。 だが、42歳にして未だ独身である侯爵家の当主。 こんな優良物件を英国紳士が見逃すとは思えなかった。 「蜂須賀ついては正直、自業自得としか言えん。戻ってきて文句を垂れても、こっちの話を断ったあいつが悪い」 政氏とは従兄弟(政氏の母と慶光の父は異母兄妹)の関係にある慶光は、そう切って捨てた。 夢幻会は確かに未来人たちが日本を改革(?)するために結成された組織であるものの、さりとて慈善団体ではない。 政氏は同じ転生者でありながら、夢幻会の根回しを自分の好みで断ったのだ。 彼が彼の地で英国人女性と結婚しようが、それで夢幻会、そして世間から疎まれようが、夢幻会としては知ったことではなかった。 薄情なようだが、無能者、組織の言うことを聞かない者をいつまでも援助するようなお人よしでは、派遣国家となった日本の舵取りに支障が出てしまう。 ゆえに、彼らとしては自分たちの根回しを自身の理由で断った彼が受ける問題は、自己責任と判断するしかないのだ。 「まぁ、蜂須賀のことはどういう結果になるかは、受動的に対応するしかないからこの際置いておこう。 問題は皇族との婚姻問題だ。 英国紳士と密会した辻から情報だが、連中はどうも伏見宮殿下の博明王を狙っているという話だが・・・」 寿一の言葉に、伏見宮家の当主であるフシミン当人としては難色を示した。 「ウチ(伏見宮家)はいい加減、血縁が薄くなってきたから、正直イギリスよりは皇室からが望ましいんだがなぁ・・・」 7: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 49 46 伏見宮家は南北朝時代の北朝第3代天皇、崇光天皇の第一皇子栄仁親王によって創設された、この当時最も歴史のある宮家である。 南北朝時代、北朝側は崇光天皇のみならず、その父である北朝初代光厳上皇、先代であり叔父である北朝2代光明上皇が南朝側に拉致されるという大事件が発生する。 これにより、公事が一時停止状態になり、困った室町幕府は、崇光天皇の弟、弥仁親王を北朝第4代、後光厳天皇として即位させた。 そして、崇光天皇らが解放されて北朝側に戻ると、当然というべきか、揉めた。 崇光天皇も後光厳天皇も、共に自身の皇子に天皇の譲位を主張したのだ。 結局これは、後光厳天皇側が押し切る形で、後光厳天皇の第2皇子緒仁親王が後円融天皇として、即位。 その後も、今度は足利義満ら幕府が介入するなどして、結局栄仁親王は即位できず、以後、彼の王子が皇室累代の御料の一つである伏見御領で続いていくことになった。 これが伏見宮家の始まりである。 そして、伏見宮家は博恭王の代で25代。 桃園天皇第二皇子、貞行親王が伏見宮第17代として入ることはあったが、その世継ぎは貞行親王の王子ではなく、第15代貞建親王の第2王子を還俗して継いでおり、血縁的にはかなりの遠縁と化していた。 おまけに伏見宮家は、多くの宮家のみならず、現在の皇室も初代の栄仁親王の孫、彦仁王が後花園天皇として即位して以降続いており、宮家の中でも一番のビッグネームである。 そこへ海外王室の血が入るのは、さすがに憚られた。 そのため、博恭王個人としては、血縁を戻したいところであった。 これには、同じ伏見宮系皇族である篤仁王と朝融王も同意せざるを得なかった。 「ウチ(閑院宮家)も嫌だぞ。既にロマノフの血を引いているところにイギリス王室なんて、後継争いの種でしかない」 次に拒否の意向を示したのは、篤仁王であった。 篤仁王の閑院宮家は、伏見宮に次ぐ歴史を持つ宮家であり、江戸時代中期に創設された四親王家の一つである。 第110代、後光明天皇が22歳の若さで崩御したとき、天皇の近親の皇族男子は殆ど出家していて、当時院政を敷いていた後水尾法皇が望んでいた高貴宮も生後間もなく、その後継問題で紛糾した。 最終的に、四世襲親王家の一つである有栖川宮から良仁親王を、高貴宮が成長するまでの間の中継ぎとして践祚して後西天皇としたが、その苦い経験から皇統の断絶を危惧した新井白石の提案によって創設されたのが閑院宮家である。 そして、今の閑院宮家には、ロシア帝国のロマノフ王朝の忘れ形見、アナスタシナ皇女が嫁いでいる。 これは、アナスタシナ皇女が亡命した際に篤仁王が救助部隊に加わっており、救出作戦以来の知己である事と閑院宮家が四親王家の家格を有している事、 一時断絶し、伏見宮邦家親王第16王子載仁親王(篤仁王の父王)を招いたため、血縁が比較的薄くなった事(第119代光格天皇は閑院宮家より招いたため、載仁親王以前の血縁では閑院宮家は比較的皇室に近かった) さらに大正天皇の意向も加わったことから、成し得た事であった。 そんな閑院宮家であるが、篤仁王としてもイギリス王室との婚姻はお断りであった。 ソ連の現状では、最終的に史実よりも早くソ連崩壊を招き、諸国乱立状態となることが予想されている。 日本としては、そこにロマノフ王朝の血縁者を担ぐことで、シベリアに親日政権を打ち立てたいところである。 そのためにも重要なロマノフの血縁者にイギリス王室の人間を入れることは余計な混乱を招きかねなかった。 「そもそも、イギリス王室で未婚の子女は誰が居たか?」 ふと、寺内の言葉に、全員がイギリス王室の現状を思い出そうとする。 婚姻を結ぶにしても、まずは相手について考えなくてはならない。 「現国王、ジョージ6世の子女は後のエリザベス2世とマーガレット王女で、それぞれ19歳と15歳だったな。 ジョージ6世の弟妹の子女だと、ハーウッド伯爵夫人メアリーの長男ジョージが22歳、次男ジェラルドが21歳。 グロスター公爵ヘンリーの長男ウィリアムが4歳、次男リチャードが1歳。 ケント公爵ジョージの長男エドワードが10歳、長女アレクサンドラが9歳、次男マイケルが3歳。 あとは、3代前の国王エドワード7世の孫のサウスエスク伯爵ジェームズ・カーネギーが16歳、だな。 皆、今年末での年齢だが」 伏見宮系皇族の中で分家が多く、次代のまとめ役としても期待されている朝融王が答えた。 同人趣味に感ける彼ではあるが、皇族の若手、特に海軍軍人となった皇族たちのまとめ役として期待されており、海外の王族についてもそれなりに勉強はしていた。 8: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 50 18 「イギリス側としては皇室に近いのをお望みだろうな・・・」 慶光の言葉を、皆、否定しなかった。 イギリスのやらかしは大きく、日英関係改善のためにもそれくらいの事は望んでいるのが容易に想像できたからだ。 「なら、明治天皇の血を引く4宮家ですか?」 「東久邇、北白川、朝香、竹田、か・・・」 進仁親王の言葉に、思い浮かべる宮家を朝融王が呟く。 明治天皇の皇子女は5男10女であるが、成人したのは大正天皇を除くと4女しかいない。 その4女は、東久邇宮家、北白川宮家、朝香宮家、竹田宮家の各宮家に嫁いでいた。 「血縁で言えば、一番近いのは東久邇か・・・」 東久邇宮家は久邇宮家初代朝彦親王第9王子、稔彦王より始まった宮家である。 稔彦王の夫人は、明治天皇の第9皇女、泰宮聡子内親王であり、 さらに二人の第1王子、盛厚王の夫人は、昭和天皇の第1皇女、照宮成子内親王、 加えて、昭和天皇の皇后である香淳皇后は、稔彦王の姪であり、昭和天皇の義理の叔父になることから、 伏見宮系の宮家の中では一番皇室と血縁が近い宮家であった。 しかし、この宮家には一つ大きな問題があった。 「東久邇は親仏家だし、それに稔彦は・・・」 「「「「「「ああ・・・」」」」」」 東久邇宮家初代当主、東久邇宮稔彦王。 この当主は史実では皇族で唯一総理大臣になったことでも知られるが、一方で自由人であり、かなりの問題児でもあった。 度々重責から逃れようと臣籍降下を願い出たり、 日本での息苦しい生活が嫌で、大正天皇の危篤でも留学先のフランスから中々帰らず、 戦後には、なんと新興宗教団体を立ち上げてしまった。 もちろん旧皇族が新興宗教を立ち上げるのは大問題なため、当時の法務府(後の法務省)と東京都から教名使用禁止通告と不認可を受け、解散させられたが。 憂鬱世界では、皇族と華族と周りの転生者達が何とか矯正を試みているが、それでも、史実の問題行動からして、不安要素に変わりは無かった。 また一方で、フランス留学でクロード・モネやジョルジュ・クレマンソー、ジョゼフ・ジョフル元帥やフィリップ・ペタン元帥らのフランス著名人と交友を結んでいたため、親仏家であった。 英仏は遺伝子レベルで対立が根深く、近年の状況からして、何らかの火種となるのでは?という危惧が存在した。 「北白川は首相が内定しているからビックネームだけど、女児のほうは一時期、皇太子様の御妃候補だったから、下手すると問題になりかねん」 現在、副総理という役職で稲荷計画を推進している北白川宮成久王の北白川宮家も、成久王の妃、房子内親王が明治天皇第7皇女であることから、皇室に近い家柄であった。 しかし、北白川宮家の未婚の子女は、成久王の孫である、道久王と肇子女王で、それぞれ今年で8歳と6歳になる。 肇子女王は、史実で皇太子明仁親王のお妃候補として有力視されていたこともあり、万が一、婚約となる可能性もあった。 もっとも、夢幻会内の一部佞臣たちによる「史実通り、美智子様を!」という声や画策も動いていることから、可能性は低くなっているが。 また、男児についても、なまじ副総理と稲荷計画のためにビッグネームとなっている宮家の唯一の跡継ぎに英国王室の血が入って、何らかの化学反応が起きてはたまらないという恐れもあった。 一応は候補としつつ、彼らは他の宮家についても考えた。 「血縁関係で残るは朝香と竹田か・・・」 朝香宮家と竹田宮家は、それぞれ久邇宮家と北白川宮家の分家として興った宮家であり、共に初代当主が、明治天皇の女児を妃に迎えている。 9: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 50 52 「朝香と竹田の子女たちは、まだ5歳以下だったから、イギリス側の適齢は男子しかいないぞ」 「となると、向こうに嫁ぐことになるか・・・」 現時点のイギリス王室の女児たちは最低でも9歳以上であり、年上女房を避けることを考慮すると、どうしても日本側から輿入れする形しか選択が無かった。 「向こうから輿入れすると色々と苦労するだろうから、あちらさんは良いかもしれんが・・・」 同じく国外皇族を迎えている篤仁王はそう言った。 日英関係が冷え切っている中で日本に輿入れすることは、周囲からの目を考えると様々な苦労が容易に想像できる。 それを考えれば、逆にイギリスに輿入れする方が気が楽であろうという考えだった。 最も、それはそれで別の苦労が有るだろうが。 「一応、他にも考えておくか?」 博恭王の意見により、他の宮家の皇族も検討しだした。 選択肢が多い事は、良い事なのだから。 「梨本と東伏見は無理だ。後継は望めず、断絶が必至だ」 多くの伏見宮系皇族が博恭王の祖父、邦家親王の男児からである中、 唯一、博恭王の曽祖父、貞敬親王第9王子、守脩親王により創設された梨本宮家は、守正王とその妃、伊都子の夫妻は既に60歳以上で、世継ぎも居ないため、断絶は必至であった。 邦家親王の第17王子、依仁親王が興した東伏見宮家も、依仁親王が子女を創らずに薨去されたことにより、依仁親王妃周子が薨去となり次第、断絶が決まっていた。 「ウチ(久邇宮家)は止めてくれ。博恭王のところ(伏見宮家)に次いで分家の多い宮家だから家長としての体面が有る」 そう言ったのは朝融王だった。 朝融王の久邇宮家は、伏見宮家からの分家であるが、そこからさらに東久邇宮家、朝香宮家、賀陽宮家の3宮家が分家として誕生していた。 加えて、昭和天皇の皇后、香淳皇后も久邇宮家の出身であり、伏見宮系皇族の中でも特に抜きんでている宮家であった。 故に、久邇宮系皇族の家長としての体面からして、イギリス王室の血筋を入れるのは避けたかった。 「山階は・・・」 「駄目だ。将来空軍を作る上で、空軍に皇族を入れる関係だと、あそこほど最適な宮家は無い」 山階宮家の現当主、武彦王は海軍航空隊に属し、パイロットを務めた縁から、航空発展に寄与したため、「空の宮様」と呼ばれていた。 史実では関東大震災で佐紀子女王の死により、武彦王は精神を病み、屋敷の一室に引き籠ったが、 憂鬱世界では、防災訓練による事前対策の影響から、佐紀子女王が無事であったため、子宝に恵まれつつ、航空関係にも精力的に活動していた。 故に、将来的に空軍を創る関係上、博恭王のように軍上層部に属する皇族の有力候補と目されていた。 そんな有力候補の宮家に、トラブル要素であるイギリス王室の血筋が入るのは避けたかった。 「あとは・・・あそこか?」 伏見宮系の各宮家は全てで11家。 ここまで出てきた宮家は10家であるため、彼らが話しているのは最後の候補の宮家になる。 「一応、後継のあいつは転生者だし、男子も多い。 おまけに血が薄いから、問題も少なめ・・・か」 「しかも男子は全員独身と来たもんだ。あいつも23だしな。俺達で相手を決めちゃうか」 「だな」 10: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 51 24 「へっくし!」 「風邪ですかな、邦寿王?」 「いや、そういう訳ではないが・・・」 とあるゴルフ場でプレーをしている皇族と華族がそれぞれ2人ずつ。 朝香宮鳩彦王、賀陽宮邦寿王、岩倉具張、西園寺公一が、グリーンでそんな会話をする。 自分の番である若宮様と呼ばれた皇族、賀陽宮邦寿王は、パターを手に持ち、打とうとしている最中にクシャミをしたのだ。 しかし、先ほどのクシャミは無かったのようにボールを打ち、見事カップインを決めて、次のホールへ移動を開始する。 「次は誰がオナーだったか?」 「たしか、西園寺公のはずですな」 朝香宮鳩彦王に、次のホールで一番最初に打つ人(オナー)について訊ねられた岩倉具張がそう答えた。 「しかし、このメンバーでやれるのは本当に気楽でいいなぁ。他だと前世の接待ゴルフみたいで息苦しいからなぁ・・・」 「まぁ、互いに立場がありますからね」 西園寺公一の呟きに、邦寿王はそう苦笑する。 再びの紹介となるが、彼らも転生者である。 朝香宮鳩彦王は、朝香宮家の初代当主で、北白川宮成久王がフランスで交通事故を起こした時の同乗者であり、彼もまた重傷を負い、その時に転生した。 史実でも大のゴルフ好きで、「ゴルフの宮様」として知られていたためか、ゴルフ好きの転生者であり、同じ転生者の皇族や華族とゴルフのプレーをよくしていた。 また、陸軍大将として、陸軍皇族の重鎮の一人として北白川宮や閑院宮らを支えている。 賀陽若宮様こと、賀陽宮邦寿王は、賀陽宮恒憲王の第1王子で、賀陽宮家の次代第3代当主の未来を嘱望された身である。 史実では戦後に身分違いの女性問題を起こして一騒動させたことで知られている。 この世界では球技が好きで、父王、恒憲王は野球好きのため、「野球の宮様」と呼ばれているが、 邦寿王は同じスポーツでもゴルフやテニス、特にテニスを好み、「庭球(テニス)の宮様」とも呼ばれていた。 もっとも、当人は王子様と呼ばれたいとか(笑) 岩倉具張は、維新の功労者、岩倉具視の孫で、岩倉公爵家の現当主である。 史実では、土地投機に大失敗し、芸者通いで放蕩し、ついには一族の財産を一代で破産させ、自宅を差し押さえるという大スキャンダルを起こし、親族会議で強制的に隠居させられた。 あげく、借金を踏み倒そうと姿をくらます等して、告訴された人物である。 この世界での彼は、芸者通いにも手を染めず、投機についても、史実知識を用いつつ、前世での経験も加えて堅実な財テクを行って、順風満帆な生活を送っていた。 また、華族達のまとめ役として、辻や阿部と協力し、不良華族の粛清と更生に表と裏の両方からを手を廻して、骨を折っていた。 西園寺公一は、同じく維新の功労者、西園寺公望の孫で、西園寺家の次代当主ある。 史実では、共産主義に関心を持ち、尾崎秀雄と交友を持っていたことからゾルゲ事件に連座し逮捕されたため、爵位継承権を剥奪され、戦後中国に移住した。 その後は文化大革命で日本に追放され、自らを追放に追いやった文化大革命を礼賛するも、既に言動から非難を買っていた上、文化大革命について的外れな言論であったと証明されると、完全に立場を失った。 この世界では、夢幻会の関係で尾崎と交友は有れど、史実とは違い、前世日本人としての知識などを助けにして、外務省の試験になんとか合格(史実では日本式の答案に不慣れだったため不合格)。 史実通りオックスフォード大学を卒業したこともあり、外務省職員として活躍していた。 また、岩倉具張の娘で、史実では赤化華族事件(共産主義に走った華族子女が検挙された事件)で逮捕された岩倉靖子を妻に迎え、具張を補佐している。 また、尾崎と共に共産主義の二重スパイとなって、主に華族の赤化防止のために裏で暗躍している黒い面も持っている。 ちなみに、その靖子も転生者で、公一と共に前世でも夫婦だった事実が判明し、夢幻会しっと団の怨敵になったのは御愛嬌である。 11: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 51 56 「そういえば、岩倉君。シンデレラ計画は順調なのかね?」 「正田貞一郎と麻生太賀吉の二人は、無事に華族入りを果たしました。子女の方々も皆、学習院に順調に御入学、あるいは編入されるでしょう。 鳥取滋治郎については、一族が高額納税者で、農家、地主から始まり、今は取締役も努めていますが、それだけです。華族入りの理由には・・・」 「分かった。鳥取家については、まだ御生まれになっていないので余裕がある。しばらく様子見だが・・・一応、失敗時の手段も進めておく」 シンデレラ計画とは、夢幻会転生者の、いわゆる奸臣達(ミッチー派)主導によって進められている平民子女と皇族の婚姻計画である。 史実の戦後に置いて、今上天皇(継宮明仁陛下)の御妃に正田家から皇后美智子様が御入内したことに代表されるように、多くの平民子女が御入内された。 そのため、彼女らが入内に際して苦労しないように、日米戦の勝利により史実と違って存続できた華族制度を利用し、彼女らを華族入りにし、入内の障害の一つである学習院卒業歴を付けさせようとしていた。 彼ら奸臣達の主目標は「美智子様は陛下の嫁! 異論は認めない」であるが、美智子様だけとはいかず、他の方々についても暗躍していた。 そして、先述の3人は彼女らの父、あるいは祖父である。 正田貞一郎は、美智子様の祖父で、日清製粉の創業者である。 麻生太賀吉は、三笠宮寬仁親王妃信子様の父で、麻生セメントの会長であり、 同時に吉田茂の娘婿で、現在第二次安倍内閣の副総理として活躍している元総理大臣、麻生太郎の父である。 鳥取滋治郎は、高円宮憲仁親王妃久子の父で、香川の旧家の地主出身の実業家である。 この3人の内、正田貞一郎と麻生太賀吉は実業家としての実績がしっかりとしているため、問題なく華族入りを果たしていた。 一方、鳥取滋治郎は、華族入りするには功績が十分といえず、難航していた。 「柊の場合は、宮家と旧華族から選ぶことも検討したほうがいいだろうな。 新華族ばかりだと、皇族と旧華族の不満が大きいから、何人かは皇族ないし旧華族から選んで不満を逸らしたほうがいいだろう」 「新華族は旧華族に対する不満を持つ者が居るから、増長するのは防ぎたいので、賛成です」 鳩彦王の言葉に、華族を取り纏めるの岩倉が頷く。 伊藤博文や山縣有朋などの本来の公家や大名などの出身ではなく、勲功でのみ上り詰めた華族らは、公家及び大名等出身を旧華族と呼ぶのに対し、新華族と呼ばれる。 華族入りを果たした正田貞一郎や麻生太賀吉も、国家に対する功労からによる勲功で華族になったため、彼らも新華族に数えられる。 彼ら新華族は旧華族などから「成り上がり」と見られることがあり、そのことに不満がないとは言い切れなかった。 また、新華族は家を保つためのノウハウや経験も不足しているため、家の財政が困窮することが多く、皇族の子女が嫁ぐ際に、多額の嫁入り費用が掛かることから、皇族との婚姻はほとんどが旧華族であった。 そんな彼ら新華族から次々と皇族の花嫁が出てはそれまでの不満から増長が予想できたため、過度の婚姻推奨は控えるべきだと考えていた。 「あと考えるのは、反対派の首魁たる皇族女性、華族女性か・・・」 「特に鍋島出身の連中は御成婚後も煩かったからな」 史実での婚姻反対派には、昭和天皇の妃である香淳皇后こと、昭和天皇妃良子を始め、秩父宮雍仁親王妃勢津子、高松宮宣仁親王妃喜久子、梨本宮守正王妃伊都子、(会津)松平信子、柳原白蓮らが居た。 特に貞明皇后に仕えてその信頼を得て、宮廷内に大きな発言権を有していた松平信子は、その権勢は時の皇后をも凌ぐほどで、「影の昭和の女帝」または「昭和の妖怪」と陰で呼ばれ、他の皇族・華族女性が昭和天皇の意向を聞いて賛成に転じる中、最後まで反対を続けた人物である。 そんな信子は、佐賀藩主の鍋島侯爵家の出身であり、同じく反対派の梨本宮守正王妃伊都子は信子の姉、秩父宮雍仁親王妃勢津子は信子の娘になる。 二人もまた、反対派の領袖として君臨していた。 もっとも、昭和天皇の意向を受けた後は、勢津子は賛成に転じ、伊都子は表立っての批判を取りやめたが。 「反対要因に挙げていた学習院出身の問題は解決されつつある。 反対派の中でもタカ派である白蓮は、転生者の義光の御蔭でなんとか矯正しているが、義光も歳だ。長くはないから早めに対応しないとな。 一応、娘婿の直泰経由で伝手はあるから、影の女帝のほうは、私がなんとかしよう」 鳩彦王はそう言った。 12: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 52 35 白蓮こと柳原白蓮は、史実では右翼団体を動かして正田家に辞退を迫ったと伝えられている。 それでなくても、駆け落ちによる白蓮事件を起こしたことで不評を買っている人物であった。 この世界での白蓮事件は、転生者である白蓮の異母兄、義光が回避に動いたために回避されているが、 その代わり、白蓮が華族女性の地位を失わなかったため、美智子様御成婚のハードルが上がったとして奸臣達が発狂していた。 また、鳩彦王の娘婿の直泰とは、鍋島侯爵家13代当主の鍋島直泰である。 史実通り、鳩彦王の第一王女紀久子と結婚している彼の伯母が、信子と伊都子になる。 実はこの縁もあって、今回のシンデレラ計画の片棒を担がされていたりする。 「勢津子様については、進仁親王にも頑張ってもらうしかないでしょうな」 西園寺の言葉に、皆が頷く。 まだ10歳にも満たないが、御成婚の頃となる1959年頃ならば、20代なので、彼らの巻き添えとなることは半ば確定していた。 なお、この時、伏見宮邸で歓談中の進仁親王が何故か寒気を感じたと伝えられている。 「ところで、良子様についてですが・・・」 「それについては、やはり陛下に説得してもらおうと思う」 「やはりですか・・・」 邦寿王の問いに鳩彦王が答え、予想通りの答えにため息をつく。 御成婚後の生活を考えると、皇后との対立はなんとかしたいのが、彼らの考えでもあった。 もっとも、こればっかりは陛下でなければなんともならないという結論であった。 「陛下も弟宮たちもゴルフが大好きだ。 御成婚の頃に、一緒にゴルフをして、話すつもりだ」 「皇太后陛下に御協力を頂くというのは如何でしょう?」 「節子様にか?」 皇太后陛下こと、後に貞明皇后と呼ばれる大正天皇妃節子は、昭和天皇妃良子(香淳皇后)とは仲が悪かったと伝えられている。 また、貞明皇后も伝統を大事にするが、一方で、幼少の頃に農家に里子に出された経験から香淳皇后とは価値観が根本的に異なっていた。 そのため、それまでの慣例を打ち破って夫の身辺の世話を自ら見るなど、革新的なことを行っていた。 「しかし、節子様は・・・」 鳩彦王はそう言葉を濁す。 史実において、貞明皇后は1951年に狭心症により崩御されている。 美智子様御成婚の年は1959年。 とても協力を仰げるとは思えなかった。 だが、岩倉は鳩彦王の言葉を隔てて発言する。 「未来知識で底上げをしている医術を見くびっては困ります。 既に抗生物質で秩父宮様をお救いしたのです。 節子様もお救いしてみますよ」 岩倉の言葉に、鳩彦王は納得しかけたが、あることに気づいて思いとどまる。 「確かに、節子様はお救いできよう。 だが、節子様が反対の立場をとる可能性だってある」 「っ!」 「結局は『たられば』でしかないのだよ。歯がゆい限りだがな」 重苦しい雰囲気のまま、彼らは次のホールについた彼らは、再びプレーを始める。 皇族、そして華族。 高貴なものに転生した彼らには、我らが主人公、嶋田繁太郎とは違った難題が伸し掛かる。 それは長く積み重ねられた伝統と歴史に繋がる国家の大事であり、転生前は平民だった彼らには気苦労が多過ぎるものである。 彼らが趣味に走ってしまうのは、この気苦労からなのかもしれない。 13: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 54 24 以上です。 以前投稿した、宮家設定の頃から、「架空戦記だからだけど、皇族や華族の転生者って、少ないなぁ・・・」と感じ、 「だったら自分で設定を書いてみよう!」と思い立ってから、8ヵ月・・・ようやく完成しました。 今回は個人的な意見と考えから基づいて転生者の皇族と華族、史実では誕生しなかった皇族を登場させました。 ただ、そのため、賛否が激しいことが予想されるため、支援SSではなく、ネタとして、投稿することにしました。 秩父宮進仁親王は、秩父宮家では史実では1936年の二・二六事件の頃に流産した秩父宮雍仁親王とその妃、勢津子様との御子です。 史実と変わって二・二六事件は起こっていないため、流産の原因となった極寒の列車での青森県弘前市からの上京は無く、転生者の活躍で医療技術が進歩したことを考慮し、誕生したと考えました。 雍仁親王の名前から隹部をもらった名付けは、三笠宮崇仁親王の3人の御子が皆、崇仁親王の『崇』の字のウ冠が必ず付くように名付けられたことに由来しました。 サッカー好き転生者というのは、この当時の宮様だと野球派が2人(閑院宮篤仁王、賀陽宮恒憲王)もいて、サッカー派が不利だろうから、バランスで考えてみました。 閑院宮篤仁王は、テツさんオリジナルの転生者です。 久邇宮朝融王は、派手な女性関係で知られ、大正天皇の裁可を受けた婚約を理由不明で一方的に破棄したり、その婚約者が夫を亡くしたら求婚するという女性関係の問題の多さから悪評をもらっている人物です。 この世界では、フシミンノ後継者として同人誌制作に勤しんでいます(笑)。 徳川慶光は、徳川慶喜から始まる慶喜系徳川公爵家の3代目です。 史実では兵役中に肺炎で入院して、皇族の血縁者ということで方面軍司令官や旧水戸藩藩士や旧幕臣の子孫の将官らから見舞いに来て、急に病院内が慌ただしくなり、慶光は「ご迷惑をかけてしまった」と述懐していますが、 この世界では、中身が家事夫なので、料理を担当する兵士らにご迷惑をかけてみました(笑)。 また、史実では中国哲学を専攻していましたが、この世界では料理というわけにはいかず、あくまで趣味とし、別方向に転向しています。 有栖川宮流書道は、有栖川宮の家業ゆえに、史実での断絶に備えて習得させました。 まぁ、高松宮に継嗣が生まれれば別だけど。 寺内寿一は、本編の第二話にチラッと登場しています。 まず最初に会議をしていた英国王室の婚姻ですが、これはよくよく考えると、皇室は万世一系ゆえに、かなり排他的なので、英国王室に入る隙間もないでしょうし、 おまけに、血友病が周知されているのに入れるなんて、絶対騒動必至なので、避けることにさせました。 まぁ、血友病が知られている血筋を入れるなんて、どこだってノーサンキューでしょうし。 蜂須賀正氏は名無し三流さんの作品に登場した人物です。 よくよく考えれば、家族で妻子無しは、さすがにマズいですよね・・・。 あと、辻~んについては本編中のセリフと本スレで話された辻は結婚しているか否かの話を基にしましたw 各宮家との婚姻事情については、個人的な意見と考えを基にまとめました。 伏見宮、久邇宮は現在の皇室との血縁的に中々に重要な宮家なので、外国王室を受け入れるのは難しいと判断しました。 北白川宮は、現副総理で、次期総理というビッグネームゆえに、避けることにしました。 山階宮は、空の宮様である武彦王ほど、空軍に入る皇族としてうってつけの人物はいないので、同じく避けました。 なお、史実と違い妻子は生存しています。 これは、石人さんの支援SSを参考にしました。 東久邇宮は、稔彦王のエピソードから、「あ、こりゃダメだ」という感じなので、除外としました。 朝香宮と竹田宮は、イギリスに嫁ぐ方向ならば、大丈夫そうかな? 史実でも韓国王室とは嫁ぐ方向で進めたし。 賀陽宮については、実は当初の御話の構想ではこことしていました。 朝香宮と竹田宮は、追々調べてこちらも好条件なので、少し悩んだところ。 まぁ、かといって当初の御話の構想から変えるのが、大変だったので、このままで進めました。 14: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/15(木) 22 55 01 朝香宮鳩彦王は、北白川宮成久王の交通事故に際して、同乗者であり、 史実と違い存命している成久王の転生理由としては、やはりこの交通事故かな?と考え、同乗者の彼も転生者とさせました。 賀陽宮邦寿王は、史実では戦後の女性問題が個人的にこれは悪評では?と考え、転生者としました。 「庭球(テニス)の宮様」は完全にネタですが(笑) 岩倉具張は、史実での散々な有様があまりにも酷いので、転生者と認定しました。 なお、構想としては世界恐慌のインサイダーでも夢幻会に資金提供しつつ、個人的にも稼いでいる設定です(笑) まぁ、皇室財産も使って稼いだから、協力している華族の資産も使っていておかしくないし、見返りをもらってもおかしくないですしね。 西園寺公一は、こちらも史実の行動が非難されている人物で、転生者としました。 夫婦揃って転生者で、前世も同じなのはネタです。 まぁ、こんな転生者がいてもおかしくないよね?(笑) 他にも、西郷隆盛の孫の西郷吉之助や木戸幸一らも加えようと思っていましたが、さすがに限界なので、断念。 さて、こちらのほうでは、前半の英国王室とは別に、美智子様の御成婚の障害排除に尽力する転生者を描いてみました。 調べていて驚いたのは麻生太郎の妹が皇族ということ。 改めて知って驚きましたね。 作中での柊は、高円宮憲仁親王のことです。 御印の柊に由来し、この当時は御生まれではないし、密談ということから、暗号的な意味で使わせました。 柳原義光については、石人さんからアイデアを頂きました。 柳原白蓮は、史実の反対派の中でも過激派なほうなので、奸臣たちとしては白蓮事件で潰したかったでしょうが、残念ながら叶わず。 まぁ、義光からすれば、転生して得た人生が台無しになるのは防ぎたいから仕方ないね。 最後のほうは異論があるかもしれませんが、やはり「たられば」であるため、こうなる終わり方になりました。 個人的な意見と考えに基づいた駄文に御付き合い頂き、ありがとうございました。 23: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/16(金) 01 56 53 18さん これは憂鬱本編での世界線ですよね? えぇ、そうですよ。 ああ・・・書き忘れていました。申し訳ありません。 この御話は、ちょうど戦後編第26話の冒頭の頃を設定にしています。 前半は、戦後編第26話冒頭でフシミンとコノミンが話をした後の出来事になります。 27: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/16(金) 08 14 39 25-26 アナスタシア皇女は、ビクトリア女王から数えて第四世代です。 血友病は、男子だけに発症する病気で、 伴性遺伝では、男子だけに異常が現れる場合、 保因者から生まれた女子から、血友病の因子を持たない正常な遺伝子を持つ確率が50%で、 確率論などから考えても、保因者として生まれる確率は半々です。 そして、発見されたニコライ2世の遺体の調査した結果、4姉妹中、3人が正常で、 その中に、アナスタシア皇女が含まれていました。 なので、アナスタシア皇女の遺伝子には血友病の因子は入っていません。 40: ham ◆sneo5SWWRw :2017/06/16(金) 20 53 27 35さん 高野新笠は既に邦人扱いですか。確かに、百済の武寧王(日本の支援で即位できた日本の藩屏を自任した王)の末裔ですが、百済王家(ここにしけ)の宗家ではなく、帰化して五代を経ていますから。 すいません。全く知りませんでした。 調べてみたら、桓武天皇の母ですか・・・ ま、まぁ、帰化して五代経ってますもんね・・・(眼逸らし)
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【日本人メジャー】 ●外野手(登場名五十音順) 登場名 モデル選手名 所属球団 厚井英憲 松井秀喜 巨人 NYY 田原翔 田口壮 オリックス STL PHI ツヅキ イチロー オリックス SEA 福利孝平 福留孝介 中日 CHC 【OB】 外野手 あ行 登場名 モデル選手名 所属球団 藍田健 青田昇 巨人 阪急 洋松/大洋 赤井基晴 若井基安 南海/ダイエー 赤池敦志 長池徳士 阪急 阿藤真治 江藤愼一 中日 ロッテ 大洋 太平洋 阿倍悟 安部理 西武 近鉄 嵐山信二 五十嵐信一 日本ハム 粟田滋 栗橋茂 近鉄 井草淳 井上純 大洋/横浜 ロッテ 井草慎司 井上真二 巨人 池名真治 川名慎一 日ハム 阪神 池山元 池辺巌 大毎/東京/ロッテ 阪神 近鉄 岩里大 宮里太 大洋/横浜 岩元卓 石本努 日ハム 浦上隆幸 村上隆行 近鉄 西武 大嶋康弘 中島治康 巨人 大洋 大伴歩 大友進 西武 中日 緒川純次 小川淳司 ヤクルト 日ハム 緒川透 小川亨 近鉄 忍竹春雄 吉竹春樹 阪神 西武 忍足孝 長内孝 広島 横浜 音無厚大 本西厚博 阪急/オリックス 阪神 日ハム ロッテ 小野尚 大野久 阪神 ダイエー 中日 尾上大 大下弘 セネターズ/東急/急映 西鉄 か行 登場名 モデル選手名 所属球団 影山真佐志 景浦将 タイガース/阪神 嘉納寛一 加藤博一 西鉄 阪神 大洋 金本栄一 金森栄治 西武 阪神 ヤクルト 辛嶋清司 長嶋清幸 広島 中日 ロッテ 阪神 河端米蔵 川又米利 中日 北浦克美 西浦克拓 日ハム 北岡良成 西岡良洋 西武 巨人 ロッテ 北嶋輝史 北村照文 阪神 西武 中日 北田晋二 西田真二 広島 橘高義朝 立花義家 クラウンライター/西武 阪神 金城毅 新庄剛志 阪神 NYM SF 日ハム 日下徳文 山下徳人 ロッテ 熊沢明光 熊野輝光 阪急/オリックス 巨人 呉慎一 秦真司 ヤクルト 日ハム ロッテ 小西崇志 大西崇之 中日 巨人 小松原善哉 小松崎善久 中日 日ハム 紺野和宏 近藤和彦 大洋 近鉄 さ行 登場名 モデル選手名 所属球団 坂利雄 中利夫 中日 坂内哲弘 垣内哲也 西武 ロッテ 阪村隆徳 岡村隆則 西武 志摩郁郎 島野育夫 中日 南海 阪神 嶋田一夫 島田一輝 日ハム 縞畑信盛 嶋田信敏 日ハム 嶋畑誠 島田誠 日ハム ダイエー 城之内雅志 竹之内雅史 西武 阪神 城永益雄 広永益隆 南海/ダイエ- ヤクルト オリックス 末広利満 末次利光 巨人 関谷潤治 関口清治 巨人 西日本/西鉄 阪急 関谷裕三 関根潤三 近鉄 巨人 た行 登場名 モデル選手名 所属球団 高梨賢 高橋智 阪急/オリックス ヤクルト 辰己昌弘 内匠政博 近鉄 玉森雅弘 山森雅文 阪急/オリックス 辻島正剛 藤島誠剛 日ハム 辻立四郎 藤立次郎 近鉄 オリックス 中日 西武 辻波由紀夫 藤波行雄 中日 続木貴広 鈴木貴久 近鉄 鶴田誠 小鶴誠 名古屋/中日 急映 大映 松竹 広島 鶴山勉 亀山努 阪神 戸川真治 古川慎一 ロッテ 渡久地克己 宮地克彦 西武 ダイエー/ソフトバンク 毒山省三 毒島章一 東映 な行 登場名 モデル選手名 所属球団 中浦優 中村豊 日ハム 阪神 永作慶二 長崎啓二 大洋 阪神 中竹亮 佐竹学 オリックス 楽天 中塚満二 大塚光二 西武 長渕祥三 永淵洋三 近鉄 日ハム 中柳英夫 高柳秀樹 南海/ダイエー 名塚政治 中塚政幸 大洋 並井光厳 平井光親 ロッテ 並塚克己 平塚克洋 大洋/横浜 オリックス 阪神 西武 二浦郁 仁村薫 巨人 中日 は行 登場名 モデル選手名 所属球団 畠野淳 畠山準 南海/ダイエー 大洋/横浜 羽生利克 羽生田忠克 西武 羽野範好 佐野仙好 阪神 浜口雄司 山口裕二 南海/ダイエー 浜崎謙三 山崎賢一 大洋/横浜 ダイエー 浜本一範 山本和範 近鉄 南海/ダイエー 早田和美 早川和夫 日ハム 中日 肥後利克 彦野利勝 中日 平尾満泰 平野光泰 近鉄 福山康太 副島孔太 ヤクルト オリックス 別府慶 別当薫 阪神 毎日 堀友昭 城友博 ヤクルト ま行 登場名 モデル選手名 所属球団 益村大蔵 益田大介 中日 近鉄 楽天 松浦透 杉浦亨 ヤクルト 間宮連次郎 田宮謙次郎 阪神 大毎 南村豊彦 南牟礼豊蔵 阪急/オリックス 中日 阪神 三村直美 二村忠美 日ハム 大洋 や行 登場名 モデル選手名 所属球団 山口翔太 山内一弘 毎日/大毎 阪神 広島 矢藤一彦 パンチ佐藤 阪急/オリックス 矢藤晋一 佐藤真一 ダイエー ヤクルト 矢藤幸広 佐藤幸彦 ロッテ 柳川真晴 柳田真宏 西鉄 巨人 阪急 横山真由 横田真之 ロッテ 中日 西武 ら行 登場名 モデル選手名 所属球団 わ行 登場名 モデル選手名 所属球団
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