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【名前】角縫 拭衣(かどぬい ぬぐい) 【性別】女 【所属】科学/警備員 【能力】無し。 【能力説明】能力開発を受けていない。 【概要】 第一三学区に位置する道順小学校に勤める体育教師で、二十代後半の女性。 警備員活動第二〇一支部所属の警備員(アンチスキル)。 明朗快活という言葉がぴったり当てはまる典型的な体育会系女で、少々鬱陶しくなるくらいエネルギッシュ。 無駄に声が大きく、度々同僚から注意されている……が、なかなか矯正できずにいる。 腕立て伏せ二〇〇回程度では根を上げないかなりのガッツの持ち主(体力馬鹿とも言う)だが、デスクワークになると普段の元気ハツラツぶりが一転して急に萎びる。書類仕事が大の苦手らしい。 これと決めたら一直線に突っ走るタイプ。猪突猛進が行き過ぎて無鉄砲な独断行動に出ることがあり、その度に支部長にとっちめられているが、この悪癖も直りそうにない。 学校では『今時珍しい熱血教師』として通っていて、教卓でも持ち前の熱血ぶりを発揮していることが窺える。 休み時間には校庭で子供と一緒になって遊んだりと、非常に生徒と仲が良い。 誕生日にクラスの子供達が教員用アパートまでやって来て誕生日ケーキをプレゼントしてくれたこともあるとか。 子供と触れ合っているうちに『この子達の笑顔を守りたい』と思い始め、それがきっかけで警備員に志望したらしい。 そのため彼女の行動方針は児童最優先のものとなっており、毎日下校時刻後の見回り(パトロール)を行うなどして子供の安全のための活動に精を出している。 【特徴】 二十代半ばくらいの女性。 小柄で細身。やや筋肉質な体つきだが服の上から分かる程ではない。なお、胸は薄い。 肩にかかる程度の茶髪をサイドテールにまとめている。 体育教師ということもあってか、ジャージやスポーツウェアといった身軽な服装を好む。 ちなみに家では下着オンリーで生活する派。自宅にいる時は常に風呂上がりのような格好で過ごしている。 【台詞】くだけた敬語口調。人称は「私、先生」、「あなた」、「あの人」など。警備員活動中も同僚を「○○先生」と呼ぶ。 「ちょっとちょっと! どーなってるんですか支部長! 作戦前会議(ブリーフィング)と全然話が違うじゃないですかーっ!」 「まあいっちょやってみましょう! 案ずるより生むが易しですよ、光厳先生!」 「こーいう時は笑って誤魔化すのが角縫流です。さあご一緒に! あっはっはー!」 「よーし。先生一肌脱いじゃうぞー!」 【SS使用条件】 ご自由に。
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京都御所 京都御所は、南北朝時代の光厳天皇が元弘元年(1331)に里内裏だった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)を皇居と定めたものです。以後、信長・秀吉・家康らが修理、造営を行いましたが焼失し、現在の建物は総奉行・松平定信によって安政2年(1855)古制にのっとって再現されたものです。広さは20.2haで、主な建物として紫宸殿(ししんでん)、清涼殿、小御所(こごしょ)、御学問所、常御殿(つねごてん)、迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、皇后御殿などがあります。また、京都大宮御所、仙洞御所が隣接しています。 御所の正面には建礼門という正門がありこの門を入り、さらに、承明門を潜ると正面に紫宸殿があります。 紫宸殿は御所の正殿で、天皇の即位式、立太子礼などの最重要儀式が執り行われた最も格式の高い建物で、檜皮葺、総桧造りの高床式宮殿建築で清楚な感じの建物です。33メートル×23メートルほどの規模があり、建具として蔀戸(しとみど)が使われています。規模は大きいが、華美な装飾のない簡素な建物です。内部は板敷きの広い空間になっていて、中央に高御座(たかみくら、天皇の座)、その東に御帳台(みちょうだい、皇后の座)が置かれています。 清涼殿は中殿とも言い、紫宸殿と同じように檜皮葺、総桧造りで、寝殿造りの建物です。また、建具に蔀戸を使っている点も紫宸殿と共通しています。元々天皇の居所兼執務所で、平安朝では天皇の日常の住居として使われていましたが、天皇が常御殿に居住するようになってからは、清涼殿も儀式の場として使われるようになっています。居住の場であった名残で、建物内は紫宸殿よりは細かく仕切られています。中央の母屋には天皇の休憩所である御帳台(みちょうだい)があります。その手前には2枚の畳を敷いた昼御座(ひのおまし)があり、ここが天皇の公式の執務場所になっていました。 御所の東南にある大宮御所と仙洞御所は上皇の住居で、寛永7年(1630)小堀遠州が後水尾上皇の隠居邸を造営したことに始まり、以後上京区5人 の上皇が居住しましたが、安政元年(1854)に焼失してしまいました。再興されることはなく、現在は庭だけが残っています。東西100m、南北200m の長方形域の苑に北池と南池があり、池にはもみじ橋、八ツ橋が架かっています。 京都御所・仙洞御所・大宮御所などを包む、南北1.3km、東西700mの緑地が京都御苑です。東京遷都までは、宮家や、約200の公家の 屋敷もありましたが、現在では芝生と玉砂利の広い道に変わっています。また、御苑の四方には9つの門(石薬師・清和院・寺町・ 堺町・下立売・蛤・中立売・乾・今出川)があります。
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霊場会 霊場会の名称 不詳 霊場会サイト 事務局所在地 事務局TEL そ の 他 気になること スペック 開 創 不詳 専用納経帳 不詳 納 経 料 不詳 対応時間 不詳 注意事項 札所一覧 地図 札番 寺社名 所在地 電話番号 霊場本尊 宗派 納経所 第1番 永心寺 群馬県富岡市七日市884 0274-62-0891 聖観音 第2番 寿福寺 群馬県富岡市富岡1318 0274-62-1205 十一面観音 第3番 光厳寺 群馬県富岡市下高瀬724 0274-63-7284 十一面観音 第4番 貫前神社 群馬県富岡市一ノ宮1535 0274-62-2009 如意輪観音 第5番 施無畏寺 群馬県富岡市田島189 0274-63-0781 聖観音 第6番 西林寺 群馬県富岡市下丹生1651 千手観音 第7番 古柳観音 群馬県富岡市原 聖観音 第8番 群馬県富岡市南蛇井 馬頭観音 第9番 群馬県甘楽郡下仁田町上小坂 聖観音 第10番 群馬県甘楽郡下仁田町上小坂 十一面観音 第11番 妙義神社 群馬県富岡市妙義町妙義6 0274-73-2119 千手観音 第12番 金剛寺 群馬県安中市松井田町新堀1058 027-393-0252 聖観音 第13番 不動寺 群馬県安中市松井田町松井田987 027-393-0480 千手観音 第14番 崇徳寺 群馬県安中市松井田町松井田325 027-393-0092 子育聖観音 第15番 西見寺 群馬県安中市松井田町新井1345 聖観音 第16番 群馬県安中市松井田町小日向 聖観世音 第17番 三ツ木観音堂 群馬県安中市中後閑 聖観音 第18番 北野寺 群馬県安中市下後閑1252-3 027-385-9678 十一面観音 第19番 群馬県安中市東上秋間 千手観音 第20番 群馬県高崎市倉渕村三ノ倉 勢至観音 第21番 榛名神社 群馬県群馬郡榛名町榛名山849 027-374-9050 千手観音 第22番 群馬県群馬郡榛名町中室田 聖観音 第23番 礼応寺 群馬県安中市中秋間 聖観音 第24番 正観寺 群馬県安中市小俣 聖観音 第25番 正龍寺 群馬県安中市安中4丁目9 馬頭観音 第26番 窪庭寺(妙光院) 群馬県安中市安中3丁目1-34 027-381-0356 馬頭観音 第27番 群馬県安中市簗瀬 馬頭観音 第28番 普門寺 群馬県安中市下磯部146 027-385-6804 十一面観音 第29番 群馬県安中市鷺宮 聖観音 第30番 藤木観音堂 群馬県富岡市藤木 馬頭観音 第31番 蓮華寺 群馬県安中市中宿689 027-381-1294 雉子観音 第32番 称名寺 群馬県安中市板鼻2212 027-381-2155 聖観音 第33番 恵徳寺 群馬県高崎市赤坂町77 027-323-1015 千手観音 第34番 清水寺 群馬県高崎市石原町2401 027-323-3214 千手観音 ※平成24年10月現在のhttp //www.geocities.jp/the_hanji/さんのサイトの情報を基としています。 名前 コメント
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テンノウ(天皇) 日本固有の地位。 日本神話の神から続く神格とされていたが、現在は日本の象徴。 内訳: ジンムテンノウ (神武天皇) スイゼイテンノウ (綏靖天皇) アンネイテンノウ (安寧天皇) イトクテンノウ (懿徳天皇) コウショウテンノウ (孝昭天皇) コウアンテンノウ (孝安天皇) コウレイテンノウ (孝霊天皇) コウゲンテンノウ (孝元天皇) カイカテンノウ (開化天皇) スジンテンノウ (崇神天皇) スイニンテンノウ (垂仁天皇) ケイコウテンノウ (景行天皇) セイムテンノウ (成務天皇) チュウアイテンノウ (仲哀天皇) オウジンテンノウ (応神天皇) ニントクテンノウ (仁徳天皇) リチュウテンノウ (履中天皇) ハンゼイテンノウ (反正天皇) インギョウテンノウ (允恭天皇) アンコウテンノウ (安康天皇) ユウリャクテンノウ (雄略天皇) セイネイテンノウ (清寧天皇) ケンゾウテンノウ (顯宗天皇) ニンケンテンノウ (仁賢天皇) ブレツテンノウ (武烈天皇) ケイタイテンノウ (継体天皇) アンカンテンノウ (安閑天皇) センカテンノウ (宣化天皇) キンメイテンノウ (欽明天皇) ビダツテンノウ (敏達天皇) ヨウメイテンノウ (用明天皇) スシュンテンノウ (崇峻天皇) スイコテンノウ (推古天皇) ジョメイテンノウ (舒明天皇) コウギョクテンノウ (皇極天皇) コウトクテンノウ (孝徳天皇) サイメイテンノウ (斉明天皇) テンジテンノウ (天智天皇) コウブンテンノウ (弘文天皇) テンムテンノウ (天武天皇) ジトウテンノウ (持統天皇) モンムテンノウ (文武天皇) ゲンメイテンノウ (元明天皇) ゲンショウテンノウ (元正天皇) ショウムテンノウ (聖武天皇) コウケンテンノウ (孝謙天皇) ジュンニンテンノウ (淳仁天皇) ショウトクテンノウ (称徳天皇) コウニンテンノウ (光仁天皇) カンムテンノウ (桓武天皇) ヘイゼイテンノウ (平城天皇) サガテンノウ (嵯峨天皇) ジュンナテンノウ (淳和天皇) ニンミョウテンノウ (仁明天皇) モントクテンノウ (文德天皇) セイワテンノウ (清和天皇) ヨウゼイテンノウ (陽成天皇) コウコウテンノウ (光孝天皇) ウダテンノウ (宇多天皇) ダイゴテンノウ (醍醐天皇) スザクテンノウ (朱雀天皇) ムラカミテンノウ (村上天皇) レイゼイテンノウ (冷泉天皇) エンユウテンノウ (円融天皇) カザンテンノウ (花山天皇) イチジョウテンノウ (一条天皇) サンジョウテンノウ (三条天皇) ゴイチジョウテンノウ (後一条天皇) ゴスザクテンノウ (後朱雀天皇) ゴレイゼイテンノウ (後冷泉天皇) ゴサンジョウテンノウ (後三条天皇) シラカワテンノウ (白河天皇) ホリカワテンノウ (堀河天皇) トバテンノウ (鳥羽天皇) ストクテンノウ (崇徳天皇) コノエテンノウ (近衛天皇) ゴシラカワテンノウ (後白河天皇) ニジョウテンノウ (二条天皇) ロクジョウテンノウ (六条天皇) タカクラテンノウ (高倉天皇) アントクテンノウ (安徳天皇) ゴトバテンノウ (後鳥羽天皇) ツチミカドテンノウ (土御門天皇) ジュントクテンノウ (順徳天皇) チュウキョウテンノウ (仲恭天皇) ゴホリカワテンノウ (後堀河天皇) シジョウテンノウ (四条天皇) ゴサガテンノウ (後嵯峨天皇) ゴフカクサテンノウ (後深草天皇) カメヤマテンノウ (亀山天皇) ゴウダテンノウ (後宇多天皇) フシミテンノウ (伏見天皇) ゴフシミテンノウ (後伏見天皇) ゴニジョウテンノウ (後二条天皇) ハナゾノテンノウ (花園天皇) ゴダイゴテンノウ (後醍醐天皇) ゴムラカミテンノウ (後村上天皇) チョウケイテンノウ (長慶天皇) ゴカメヤマテンノウ (後亀山天皇) ゴコマツテンノウ (後小松天皇) ショウコウテンノウ (称光天皇) ゴハナゾノテンノウ (後花園天皇) ゴツチミカドテンノウ (後土御門天皇) ゴカシワバラテンノウ (後柏原天皇) ゴナラテンノウ (後奈良天皇) オオギマチテンノウ (正親町天皇) ゴヨウゼイテンノウ (後陽成天皇) ゴミズノオテンノウ (後水尾天皇) メイショウテンノウ (明正天皇) ゴコウミョウテンノウ (後光明天皇) ゴサイテンノウ (後西天皇) レイゲンテンノウ (霊元天皇) ヒガシヤマテンノウ (東山天皇) ナカミカドテンノウ (中御門天皇) サクラマチテンノウ (桜町天皇) モモゾノテンノウ (桃園天皇) ゴサクラマチテンノウ (後桜町天皇) ゴモモゾノテンノウ (後桃園天皇) コウカクテンノウ (光格天皇) ニンコウテンノウ (仁孝天皇) コウメイテンノウ (孝明天皇) メイジテンノウ (明治天皇) タイショウテンノウ (大正天皇) ショウワテンノウ (昭和天皇) 北朝: コウゴンテンノウ (光厳天皇) コウミョウテンノウ (光明天皇) スコウテンノウ (崇光天皇) ゴコウゴンテンノウ (後光厳天皇) ゴエンユウテンノウ (後円融天皇) ゴコマツテンノウ (後小松天皇) 別名: アキツミカミ (現御神) アラヒトガミ (現人神) アラミカミ (現神)
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天照山 龍珠院 りゅうしゅいん 東京都あきる野市にある、臨済宗建長寺派の寺院。 本尊は観世音菩薩。 所在地 東京都あきる野市乙津 URL http //homepage2.nifty.com/ryuusyuin/ 地図 より大きな地図で 東京都 を表示 開山:日峰朝和尚(戸倉光厳寺10世) 開創:1363年(貞治2年) 本堂 竣工:1792年(寛政4年) 参考サイト 多摩川夢の桜街道 75番龍珠院 関連項目 2012年度/行った所写真 この項目のタグ 2013年 2013年3月 2013年3月31日 あきる野市 おすすめ 寺院 東京都 桜 歴史 自然 花 タグ「あきる野市」がついた項目 2008-09-28 / 2011-04-10 / 2011-06-04 / 2012-01-08 / 2013-09-29 / 2013-12-01 / 2013-12-22 / 2014-01-19 / 2015-05-04 / 2016-05-08 / 2016-10-10 / 2016-11-13 / 2016-12-10 / 2016-12-11 / 2017-01-21 / 2017-02-05 / 2017-08-12 / 2017-08-13 / 2017-09-18 / 2018-04-29 / 2018-04-30 / 2018-06-17 / 2018-11-19 / 2022-09-04 / 秋川 / 阿伎留神社 / 秋留台公園 / 阿伎留の四季 / 石舟橋 / 五日市郷土館 / 魚治 / 魚鶴 / うめや / 尾崎観音 / 乙訓おやき店 / 旧市倉家住宅 / 黒茶屋 / 広徳寺 / 金比羅公園(あきる野市) / 寿庵忠左衛門 / 十里木ランド / 初後亭 / 瀬音の湯 / 大悲願寺 / 東京裏山ベース / 東京サマーランド / 山梨県道・東京都道33号 / 二宮神社(あきる野市) / 東秋留橋 / 桝屋 / 山猫亭 / 龍珠院 タグ「寺院」がついた項目 新井薬師 / 池上本門寺 / 岩本寺 / 永保寺 / 円覚寺 / 円融寺 / 尾崎観音 / 甲斐善光寺 / 戒壇院 / 海福寺 / 覚翁寺 / 崖ノ観音 / 笠森観音 / 川崎大師 / 寛永寺 / 観世音寺 / 世田谷観音 / 観音寺 / 吉祥寺(文京区) / 紀三井寺 / 清水寺 / 九品仏浄真寺 / 講安寺 / 光前寺 / 光泉寺 / 広徳寺 / 豪徳寺 / 光明禅寺 / 粉河寺 / 護国寺 / 五大堂 / 西澄寺 / 佐竹寺 / 三居沢不動尊 / 慈照寺 / 柴又帝釈天 / 出釈迦寺 / 松月院 / 常堅寺 / 正覚寺 / 承教寺 / 常幸院 / 深大寺 / 真如堂 / 神野寺 / 浄光寺 / 瑞巌寺 / 誓閑寺 / 西願寺 / 清見寺 / 清澄寺 / 清土鬼子母神堂 / 泉岳寺 / 千光寺 / 浅草寺 / 善光寺 / 善通寺 / 早雲寺 / 増上寺 / 大円寺(目黒区) / 大善寺 / 大悲願寺 / 誕生寺 / 中尊寺 / 築地本願寺 / 天龍寺 / 東禅寺(港区) / 東大寺 / 桃林寺 / 等々力不動尊 / 成田山新勝寺 / 南禅寺 / 西新井大師 / 日本寺 / 仁和寺 / 根来寺 / 梅岩寺 / 橋立堂 / 深川不動堂 / 富貴寺 / 布施弁天 / 普門寺(つくば市) / 豊楽寺 / 宝泉寺 / 法然院 / 法明寺 / 法養寺 / 法華経寺 / 萬徳寺 / 三瀧山不動院 / 明善寺 / 妙正寺 / 妙福寺 / 目黒不動尊 / 薬王寺 / 薬王寺(青梅市) / 山寺 / 祐天寺 / 野沢龍雲寺 / 蓮華王院
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対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 一味同心する農民たち 文永(1264-1274)のころ、炎天が続き、全国的に飢饉が蔓延した。中世においては、水量豊かな大河川を灌漑に利用するに至っていなかった。そのため、干ばつによる飢饉が今回起った。農民たちは苦しみ、彼らの不満と鬱積が次の社会を作り出すエネルギーとなる。 中世は農村の時代であった。農民を始め、武士・僧侶・商人、手工業者も主に農村に住む。京都・奈良・鎌倉などの中枢都市を別とすれば、国の中心は農業であった。彼らは公領として国司に年貢を納めるか、私領として荘園領主に年貢を納めるかをした。 農民の生活は貧しかった。彼らは汚れた小屋に住み、家財道具はほとんどなかった。日の出とともに起きて働き、夜が来れば藁に潜って寝る生活を繰り返していた。 鎌倉初期、農民は鉄・塩などの必需品を除き自給自足していた。ゆえに農民は市場にかかわることがなかった。ところが中期になると市場が発達し、農民は作物を市で売り、年貢を貨幣でおさめるようになった。市場での商売および市場の管理を専業とする元小作人も現れ始めた。しかしながら、ほとんどの農民の生活は豊かにならなかった。彼らは地頭からの厳しい年貢の取り立てや、非法な略奪にしばしば苦しんだ。 農民間でもしばしば争いが起きた。境争論という、土地の境界を争うもめ事である。農業・漁業において土地の広さは重要である。農民たちは自らの利益を守るため、一致団結して行動し、しばしば訴訟や実力行使を行った。彼らが団結したのは境界の問題だけではない。領主の支配に苦しんでいたという共通の条件にも強く依存している。 (Jiyu) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 地頭と領主の対立 荘園の支配権を巡る紛争が各地で頻発していた。そのうち最も多いのが、地頭と 雑掌 の境界紛争である。農民も市場に関与してくることになったので、支配権の存在はさらに重要になり、紛争がさらに増えた。幕府は紛争はなるべく和与(示談)で解決するように勧めた。しかし、後ほど不服を訴えて蒸し返す例も少なくなかった。 彼らのうちどちらが善玉で、どちらが悪玉であったかと考えると、どちらも悪玉である。立場は違えど、彼らは自らの利益を最大化するために数多くの非法な取り立て、農民の搾取を行った。法に従わぬ彼らの暴虐は、幕府の最大の悩みの種となっていく。 そのような情勢の中、農民は現実を見据えて生きるようになる。旧来の伝統的な恩情関係を破棄し、結束して交渉を行うといったスタンスにシフトしたのである。彼らはしばしば不作などの理由をつけて、なるべく年貢を支払わぬようにふるまった。貧農だけでなく、成り上がりを目指す有力な農民も彼らと強調し、共に戦った。彼らは時に農業的要所を押さえて、その活動はより政治的になっていく。 この時期はすべての階級が泥臭く打算的なふるまいをした時期である。崇高さや高尚さはなく、人間のむき出しの欲望があらわとなった。伝統や権威が次第に泥にまみれていく。時代が変わっていく。 (Jiyu) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 分裂する天皇家 1272年(文永九)後嵯峨法皇が崩御する。法皇亡きあと、誰が政務の実験を握るかが問題となった。第三子である後深草上皇の系列か、第七子である亀山天皇の系列になるかが主な焦点だった。後嵯峨法皇は皇統のことは何も遺さなかったので、揉める元となった。 天皇が政治の実権をどれほど握ったか、一言で言い表すのは難しい。摂関家や幕府などの社会的勢力関係で相対的に変動するからである。天皇家は膨大な荘園を直接的・間接的に支配できた。天皇制は既に形式と化していたが、天皇家は最高級の権威を持った集団として存在していた。その惣領の地位が誰に移るかというのは、皇太子個人の問題ではなく、血統集団としての皇族派閥や彼らに与する貴族の趨勢に大きくかかわっていた。 後深草と亀山の争いは前者に軍配が上がった。伏見天皇が即位し、後深草院の院生が始まる。亀山院希望を失い出家してしまう。天皇家はこの対立により、事実上二つに分裂してしまう。亀山院方では、後宇多上皇が京都嵯峨の大覚寺を再興し、以後もその子孫が大覚寺と関係が深かった。後にこの系統は「 大覚寺統 」と呼ばれた。同様に後深草院側は、持明院を仙洞御所(上皇が住む場所)とし、子孫も深くかかわったので「 持明院統 」と呼ばれた。 この時代の天皇は、政治には関与せずにもっぱら儀礼のみを行った。院生が始まってからの平均即位年齢は八歳と十カ月、平均在位期間は約十年であることからも、たんある形式的な地位であったことがうかがえる。しかし、現在のような象徴的存在かというとそうでもなかった。膨大な荘園群という経済的基盤に裏打ちされた権威は残っていたので、「御心のままに」権力をふるうことがしばしばあった。豪奢にはふるまえるが、あくまでも政治の覇権は幕府に、といった二重構造が存在していた。 (Jiyu) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 御家人制の崩壊 この時代になると御家人は、零細化してまた権力を失い、無力化していた。その要因の一つは、非御家人・凡下・山僧による高利貸しであった。このような御家人以外の人々は、鎌倉時代には多く存在しており、また反幕府的な傾向が強かった。これは、幕府が非常に強固な権力組織であり、彼らをもまた従えんとしていたことに他ならない。 彼らは、主に寺社や朝廷につかえている者が多かった。寺社・朝廷は当時、莫大な荘園を抱え、非御家人らの人々はこの門閥的政治勢力と密接に関連していた。この寺社・朝廷らは孰れも京都・奈良に集中的に存在し、それゆえこれらの場は物資の移動・集積・交換を通して物流の要となったのである。この時代、京都には既に商人が発生して富裕の者もおり、また京都から各地の港、さらに東アジアへと至る大きな交易ネットワークも存在していた。そしてこの動きが、社会へも大きな影響を与えることになる。 この時代の商人は、主に座の商人である。寺社朝廷などに課役を支払う一方で、特権的に特定生産物の流通を支配したのである。 この商業の浸透は御家人にも影響を与えることになり、税なども銭貨による支払いも行われるようになってゆく。すると、御家人も所領へ送る代官として、銭勘定に詳しい山僧や借上(高利貸し)を利用するようになるが、やがて彼らに所領も奪われて没落してしまう者も出た。この傾向は泰時代には既に現れていたものだが、この中世となっていよいよ深刻化したのである。 これに対抗して出されたのが永仁の徳政令である。これは越訴――上告の禁止、質流れ・売却地の返還・金の貸し借りに関する訴訟の禁止によって成り立っていた。しかし、これは却って経済に混乱を招き、却って非御家人らの所領押領を招くことさえあった。それゆえ、結局は徳政令を撤回することとなっている。 この結果は、非御家人層の勢力を幕府が圧殺することに失敗したことに由来する。しかしこれは、決して幕府の横暴ではなく、東国から発布したが故であったといえる。当時、東国は未だ商業発展せざるところであった一方、西国はもはや切り離せぬものとなっていたのである。そしてこの西国での商業発展が、新たな政治動向への影響をあたえるのである。 また、御家人の惣領制の動揺もあった。世代を重ねることに所領分割によって所領が狭小となり、また血縁関係も薄くなることによって、惣領を巡る一族内の争いが頻発しつつあったのである。そしてこれは惣領制を利用する幕府体制にも動揺を与えることになった。 (Spheniscidae) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 悪党横行 武士の中には、本所の支配に抵抗する者――悪党がいる。本来、本所はそれを自らの手で討伐するものであるが、本所が幕府にの権力を借りて討伐を図ることも多かった。それは、本所にそれだけの権力が無い者も多かったからである。 伊賀国黒田庄では、弘安ごろより悪党が跋扈し、本所・東大寺に対する反抗が非常に激しかった。東大寺は幕府の権力による鎮圧を図るも、地頭設置を迫られることとなり、なかなか鎮圧は進まなかった。彼らには、幾らかの与党も存在したものに、倫理的な面からすると住民の殺戮も辞さず、ために住民との敵対関係があったといえる。 このような状況故、浪人や流浪の僧といった、体制の外にある人々は、幕府の警戒の対象となった。このころになると、異形の者と呼ばれる武装集団が、各地に出没するという事態にもなっている。そしてこのような動きは幕府を揺り動かすことになる。彼らの中には、開墾に踏み出す人々もいた。 当時、叡山をはじめとする寺社では仏法と王法とは車の両輪であるように考えられていた。しかしその中で、人法興隆という言葉が叫ばれるようになる。人法とは世俗での生活を表し、仏法や王法では非難されるものもこれを通して行われることがあった。 悪党や悪僧と呼ばれる人々は、銭をもっとも重要とした。彼らはまず交易とそれを通して得られる銭をその行動理由としていたのである。幕府はこれを討伐しようとしたが、討伐は必ずしも成功しなかった。悪党は御家人や守護とも結びついていたためである。そうして勢力を伸ばした悪党は、愈々時代を動かしていくことになる。 (Spheniscidae) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 「主上御謀反」 後醍醐天皇が帝位へつくと、記録所が設置された。これは、天皇が親政するための裁決機関であり、後醍醐天皇が非常に政治へ意欲的であったということが言える。また、後醍醐は宋学の勉強会を数度開いていたが、これは討幕相談という側面があり、また無礼講の宴会も行って、それによって武士をもその計画に引きこもうとした。しかし、この計画は一度は失敗に終わる。正中の変と言うが、これはあっさり露見することとなる。結果、天皇の側近は流刑に処せられることになる。 このころより、「主上御謀反」という言葉が使われるようになる。主上より幕府を上に見る風潮があった、ということは否定できないだろう。 一方、奥州ではこの時代より内乱が勃発。北条氏はこの対処に苦労することになった。また同時に幕府内でも、権力闘争が起こっていた。 立太子について、幕府の介入について後醍醐天皇は思うのままにすることができず、幕府への反感を募らせることになる。やがて後醍醐天皇は流通統制を行う一方で、討幕の計画をいよいよすすめた。しかしこれは吉田定房の密告によって再び露見。後醍醐天皇は笠置山で挙兵するも、陥落し、譲位させられてしまったのであった。 (Spheniscidae) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 楠木合戦 日本歴史上、楠木正成ほど有名で、素性のわからぬ人物もない。本拠地も家系も謎であった。はっきりしていることは、かれが名もない河内の小土豪にすぎなかったこと、それだけにかれの周辺には「悪党」ムードが漂ってもいたであろうことだけである。 一三三一年の赤坂城合戦では、幕府軍と楠木正成の軍が戦ったが、楠木の智略により赤坂城はなかなか落ちなかった。そのまま四五日過ごしたが、急な籠城であったため城中に食料が尽きてしまったらしく、正成は風雨の夜に城に火をかけ、闇にまぎれて脱出して行方をくらました。 こうして赤坂の楠木の城は落ち、備後の桜山も自刃したので、天下平穏に帰したかに見えた。 関東の大軍は十月末から十一月のはじめにかけて鎌倉へ帰還し、鎌倉からは後醍醐天皇の謀叛にくみした公卿や武士の処罰のため、二人の奉行人が京都へ派遣された。いよいよ戦後処理である。 幕府の奉行人は持明院方に公卿・僧侶らの罪名のリストを示し、処分方法について「聖断」をあおいだが、これに対し幕府の判断に任せるという仰せがあった。 そこで十二月二十七日、関東の使者は後醍醐天皇を隠岐に、第一宮尊良を土佐に、妙法院宮宗良を讃岐に配流すると奏上した。 こうして一三三二年三月七日、後醍醐天皇は隠岐へと流された。これを手始めに、この三月から六月にかけて諸皇子・公卿・僧侶・武士の配流・処刑がつぎつぎに行われた。 一三三二年四月二十八日、京都では改元して正慶というめでたい年号がえらばれたが、この翌年、後醍醐天皇が隠岐から帰還したあと、光厳天皇も年号もみな否認してしまったから、元弘の年号は息を吹き返し、三年まで(正確には四年正月二十八日まで)あることになった。本書では便宜上元弘で通す。 その年の春から夏のころ、後醍醐の皇子尊雲法親王すなわち護良親王は、吉野・十津川方面の土豪たちを味方に組織して廻っていた。 親王のほかにも楠木正成がどこかで挙兵の準備をしていたし、またここ数十年のあいだ欲求不満をたえず暴発させていたかの悪党的な武士どもが無数にいた。そして隠岐の配所にある後醍醐「先帝」も強靭な意志をもって再起のときを待っていた。 一三三二年も冬に入ったころ、楠木正成は河内・和泉から摂津にかけての一帯に出没し、十二月には赤坂城を急襲していっきょに奪回してしまった。 翌年の正月には正成は摂津の天王寺から渡辺まで兵を進めていたが、もちろん六波羅もてをこまねいていたわけではない。暮れの十二月九日には畿内・近国の武士たちに、護良親王および楠木正成の征伐のために京都へ参集するように命令を発していた。 正月には正成は河内の各所で戦い、幕府方の軍勢を追い落とした。その後六波羅の派遣した軍勢もまたこれをたくみに追い落とした。 正成がこうした兵力を持ちえたのは、摂・河・泉一帯の小土豪をたくみに把握していたためと思われる。いわばひろい意味での悪党が、こうして軍事力の重要な要素になってきていた。 このころになると、正成のほかにも護良親王の令旨をうけて挙兵する者が各地にあらわれてきた。 機内・西国にまたもや兵乱おこって大動揺を来しているという報告に、幕府はふたたび東国の軍勢を召集して大軍を西上させた。軍勢は五万ともいい三十万ともいう。 京都へ着いた東国の軍勢は諸国の軍勢と共に、大手(河内路をへて赤坂城へ向かう軍勢)、搦手(奈良路をへて金剛山へ向かう軍勢)、もう一手(紀伊路から吉野山へ向かう軍勢)の三手に分けられ、正月の末から二月はじめごろ三方同時に進軍を開始した。 それぞれ激烈な戦いが行われたが、赤坂城は城中へ水を引く樋を発見され、水を絶たれて陥落した。 正成がかまえた城はこの方面に多数あったらしいが、しだいしだいに陥落し、残るところは正成がこもる金剛山の千早城のみとなった。 金剛山へ押し寄せていたのは搦手の軍勢であるが、いまやこれに赤坂・吉野の寄手もくわかり、三方の大軍を挙げて千早城を総攻撃することになった。二月も末ごろのことである。 千早城合戦は百万あまりの幕府軍と千人に足らぬ軍勢で城にたてこもる正成軍との争いであるが、城はなかなか落ちなかった。『太平記』によれば、正成は用水の便もしらべ水は確保していたし、大石を投げかけたり矢を射続けたりと智略を尽くして戦った。また、わら人形をおとりに、攻めてきた兵を返り討ちにしたりもした。 これに対し幕府側は梯を作り深い堀に橋を渡して城へ斬りこむ計略を考え、実行するなどしたが、油と火矢によって橋は炎上、数千の兵が一人残らず焼け死んでしまったという。 そうこうしているうちに、吉野・十津川・宇陀・宇智一帯の野伏ども七千人余りが大塔宮の命をうけて峰や谷にかくれ、千早の寄手の補給路をふさいだため、寄手の軍勢は引き揚げはじめた。野伏どもはこれを待ち受けて討ち取った。 千早城の寄手ははじめ百万ともいわれたが、こうして減ってゆき、いまでは十万しかいなくなってしまった。 これが『太平記』の語る千早城合戦の内容である。 『太平記』が狙ったのは千早城合戦の正確な記録を伝えることではなく、功名や恩賞に目がくらんだ鎌倉武士の大群とそれを手玉にとる正成の智略や奇抜な戦術を対比することで、鎌倉武士を笑いとばすことであった。 では、正成の戦術なるものがでたらめな作り話かというと、そんなことはなかったと考えられる。 このような合戦が、このころ少なくとも機内・西国では一般化していたと筆者はみる。こうした戦術は、蒙古襲来から半世紀間、連年どこかで行われていた悪党の合戦により編み出されたのである。正成の戦術は、悪党や郷民のさまざまな合戦のなかで鍛えられた戦術にほかならない。 一三三三年閏二月二十四日の暁、後醍醐天皇は隠岐を脱出した。 天皇は船上山を行在所ときめて、さっそく諸国の武士へあてて綸旨を発し、味方について忠勤をはげむよう促した。西国各地の武士にはすでに動揺の色が濃く、かなりの者が船上山に馳せ参じた。 三月には天皇方の軍勢はかなりの勢力になっており、京都への進発の方針がきめられたが、先陣として千種忠顕が山陰道を進撃することになった。 (Shade) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 鎌倉の最期 千早城攻防戦が膠着状態に陥る以前、幕府軍を背後から牽制する合戦が西国の播磨、伊予、および肥後から起こっていた。 播磨の赤松則村は京都の六波羅の軍勢と戦ったが、一三三二年に護良親王の令旨を受け、翌年正月に挙兵、近辺の武士たちを従えるとともに備中と播磨の境の船坂峠をおさえて西国軍の上洛を遮断した。 また閏二月から三月にかけては摂津の西北部一帯で六波羅の軍勢と合戦をくりかえし、三月にはさらに東へ進み、京都の西南、山崎・八幡方面へ拠点を移した。赤松勢は、このときから五月までずっとこの辺りに拠点をおき、たえず京都をおびやかしつづけた。 赤松勢が度重なる合戦にやや衰えたころ、山陰道からは千種忠顕の軍勢がせまり、やがて入京したが、この公卿の大将は六波羅軍との合戦に敗北し、丹波まで退却してしまった。とはいえ、忠顕はその後も丹波を根拠にして京都をうかがっていた。 こうして六波羅の軍勢は、合戦に勝ち続けながらも次第に不利になっていった。 伊予に蜂起した土居通増・得能通綱・怱那重清らの勢力も次第に大きくなり、瀬戸内海に幕府にとって由々しい敵対勢力をつくりあげた。 九州では鎮西探題に反感をいだいていた少弐・大友両氏と、肥後の菊池武時が令旨が届いたのを契機として挙兵の密約をかわしたが、探題の北条英時が彼らの挙動を警戒し始めたため、少弐・大友は変心してしまった。武時は自分だけで挙兵したが、敗死。これが九州における北条氏にたいする叛逆の最初であった。 鎌倉ではこうした各方面の情勢への対策として、足利尊氏・名越高家の二人にそれぞれの軍勢をひきいて上洛させた。三月末ごろのことである。 尊氏はかねてより北条高時に不満をいだいていた上、今度の出陣命令もかれの病気中であったということもあり、いよいよ反感をいだいた。 そこで三河の矢矧まで来たとき、かれはいよいよ北条氏に叛旗をひるがえす決心をした。 そして、一度京都に入り、丹波へ越え、同国の篠村で挙兵した。そこまで行ったのは、一つには山陰道を進撃するとみせかけるためであり、もう一つには千種忠顕の軍勢と合流して京都を攻めるためであった。 五月七日ごろには尊氏の軍勢は六波羅勢と対峙した。この合戦は激烈をきわめたが、六波羅勢はしだいに敗退し、ついに六波羅の城郭にたてこもった。 探題の仲時と時益は光厳天皇と後伏見・花園の両上皇を伴い、夜半に六波羅をすてて東へはしった。しかし、山科四宮河原あたりにさしかかると、落人をねらう野伏がひしめき、また夜も明けて近江平野に入って、守山あたりからもまた野伏がひしめいていた。 それらの襲撃に多く疵ついた一行は、翌九日、番場で峠がふさがれており、先行きにも希望が持てないことを思い、蓮華寺の前で自刃した。六波羅の軍兵はこうして全滅したのである。 一三三一年、後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、正慶の年号を元弘に復し、光厳天皇の名による官爵をことごとく削り、すべてを光厳天皇の即位以前に戻すという詔を発した。後醍醐天皇は自分が天皇として続いていたというたてまえを押し通したのである。 天皇は六波羅の攻略がすべて天皇一身から出たものであるかのように初めからそういう態度をとりつづけていた。 これに対し、足利尊氏もまた、六波羅攻めにおいてあたかもかれが天皇からすべて委任された大将軍の地位にあるかのごとくに天下の武士に臨んだのである。そのため、六波羅を攻略したのは赤松則村や千種忠顕をはじめ多数の武士の協力であったにかかわらず、成果はあたかも尊氏一人の号令によるかのような印象を与えた。 五月八日、その前夜に六波羅が陥落した日、新田義貞は北条氏を討つ挙兵の旗をかかげた。 新田義貞は武家の名門であったが、北条氏の執権のもとでは足利氏よりもさらに冷遇され、世間ではあたかも足利の一支族であるかにさえ軽視されていた。新田義貞が北条氏に叛逆をくわだてるにいたった理由、および足利氏に終始対抗的であった理由はこの点に深くかかわっていた。 新田義貞の場合、いわば動乱に乗じて北条氏から覇権を奪取しようというのが主たる目的であった。 義貞は利根川をこえて武蔵国に入り、ひたすら鎌倉をめざして南下した。義貞に呼応して関東各地の武士団がぞくぞくと馳せくわわり、軍勢はみるみる大きくなっていった。 あいつぐ合戦はいずれも激烈をきわめた。 挙兵以来わずか十日で戦局はすでに鎌倉の攻防戦をむかえたのである。 幕府は三方へ討手を差し向けた。一方は下道、つぎの一方は武蔵路、もう一方は中道である。諸方へ軍勢が配置され、十八日朝からいまを最期の合戦が開始された。 二十一日から二十二日にかけ、鎌倉の防禦はやぶれ、最期のときがきた。高時が自刃し、百五十年にわたる鎌倉幕府はこうして滅亡した。 (Shade)
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霊場会 霊場会の名称 不詳 霊場会サイト 事務局所在地 事務局TEL そ の 他 気になること スペック 開 創 不詳 専用納経帳 不詳 納 経 料 不詳 対応時間 不詳 注意事項 昔から巡拝とご詠歌奉詠が主なもので、札所のご朱印などはなかったようです。 札所一覧 地図 札番 寺社名 所在地 電話番号 霊場本尊 宗派 納経所 第1番 徳倉不動尊 東京都あきる野市戸倉 不動明王 第2番 鷲峯山光厳寺 東京都あきる野市戸倉328 042-596-0363 釈迦如来 臨済宗建長寺派 第3番 長福庵 東京都あきる野市戸倉328 観音 臨済宗建長寺派 廃寺 第4番 眞鏡山西蓮寺 東京都あきる野市戸倉盆堀 阿弥陀如来 廃寺 第5番 鳳凰山玉林寺 東京都あきる野市五日市926 釈迦如来 臨済宗建長寺派 第6番 龍角山広徳寺 東京都あきる野市小和田234 観世音菩薩 臨済宗建長寺派 第7番 天王山地蔵院 東京都あきる野市留原 地蔵菩薩 廃寺 第8番 宝生山大光寺 東京都あきる野市高尾218 042-596-0306 十一面観音 真言宗豊山派 第9番 流王山成就院 東京都あきる野市伊奈1568 042-595-2148 不動明王 真言宗豊山派 第10番 寄福山普門寺 東京都あきる野市伊奈 如意輪観音 廃寺 第11番 薬王山明光寺 東京都あきる野市伊奈1463 042-596-1848 薬師如来 臨済宗建長寺派 第12番 白華山瑞雲寺 東京都あきる野市山田496-1 042-595-1877 観世音菩薩 臨済宗建長寺派 第13番 興国山真城寺 東京都あきる野市上代継344 観世音菩薩 臨済宗建長寺派 第14番 薬王山長泉寺 東京都あきる野市草花 釈迦 廃寺 第15番 鎮守山大行寺 東京都あきる野市草花3036 042-559-0853 文殊菩薩 真言宗豊山派 第16番 草花山花蔵院 東京都あきる野市草花1740 042-559-3805 不動明王 真言宗豊山派 第17番 福寿山慈勝寺 東京都あきる野市草花1811 042-558-1171 聖観音 臨済宗建長寺派 第18番 光雲山宝蔵寺 東京都あきる野市菅生263 如意輪観音 曹洞宗 第19番 塩沢山宝光寺 東京都西多摩郡日の出町平井3392 042-597-0031 正観音 曹洞宗 第20番 芙蓉山松岩寺 東京都あきる野市伊奈376 阿弥陀如来 臨済宗建長寺派 第21番 金色山大悲願寺 東京都あきる野市横沢134 042-596-0141 千手観音 真言宗豊山派 第22番 五日市観音堂 東京都あきる野市五日市 聖徳太子ほか 第23番 幽遠山開光院 東京都あきる野市五日市691 042-596-0668 文殊菩薩 臨済宗建長寺派 第24番 佛頂山楞巌寺 東京都あきる野市五日市576 薬師如来 臨済宗建長寺派 廃寺 第25番 佛石山安養寺 東京都あきる野市小中野 観音 廃寺 第26番 福王山普光寺 東京都あきる野市戸倉1056 正観音 臨済宗建長寺派 第27番 龍峯山養沢寺 東京都あきる野市養沢 阿弥陀如来 廃寺 第28番 梅園山常香(光)寺 東京都あきる野市養沢 観音・阿弥陀 廃寺 第29番 天狗岩 東京都あきる野市養沢 - 第30番 魔王山明光庵 東京都あきる野市乙津 阿弥陀如来 第31番 龍化山徳雲院 東京都あきる野市乙津511 042-596-2652 薬師如来 臨済宗建長寺派 第32番 長栄山東渓院 東京都あきる野市養沢 薬師 廃寺 第33番 天照山龍殊院 東京都あきる野市乙津1422 042-596-4647 観世音菩薩 臨済宗建長寺派 第34番 大光山吉祥寺 東京都西多摩郡桧原村485 042-598-0051 十一面観音 臨済宗建長寺派 ※平成24年9月現在の東大和と武州散策さんのサイトの情報を基としています。 秋川札所については、33番の龍殊院さんが詳しいようです。 -- 名無しさん (2014-09-21 11 00 35) 名前 コメント
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霊場会 霊場会の名称 那須三十三所観音霊場会 霊場会サイト 【Webサイト】 事務局所在地 事務局TEL そ の 他 気になること 21番頂蓮寺の本尊が頂蓮寺ってwww スペック 開 創 不詳 専用納経帳 あり(@1,200) 納 経 料 不詳 対応時間 不詳 注意事項 札所一覧 札番 寺社名 所在地 電話番号 霊場本尊 宗派 納経所 第1番 高岩山密蔵院明王寺 栃木県大田原市黒羽向町185 0287-54-0717 聖観音 真言宗智山派 第2番 明王山大聖寺不動院 栃木県大田原市久野又467 0287-59-0403 厄徐十一面観音 真言宗智山派 第3番 正覚山実相院光厳寺 栃木県大田原市寺宿303 0287-59-0350 聖観音 臨済宗妙心寺派 第4番 妙賀山医王寺養福院 栃木県那須郡那須町蓑沢656 0287-54-0717 千手観音 真言宗智山派 第5番 補陀楽山正福寺 栃木県那須郡那須町伊王野2003 0287-75-0401 聖観音 真言宗智山派 第6番 普門山蓮乗院会三寺 栃木県那須塩原市寺子1246 0287-63-6913 聖観音 真言宗智山派 第7番 米澤山金光峯寺最勝院 栃木県那須郡那須町芦野2870 0287-74-0037 聖観音 曹洞宗 第8番 台明山明星院三光寺 栃木県那須郡那須町芦野2836 0287-74-0054 千手観音 高野山真言宗 第9番 東蘆山法性院揚源寺 栃木県那須郡那須町芦野2901 0287-74-0548 聖観音 天台宗 第10番 抜苦山補陀洛院与楽寺 栃木県那須郡那須町寄居1083 0287-74-0529 聖観音 真言宗智山派 第11番 瓔珞山実相院長久寺 栃木県那須郡那須町豊原丙2204 0287-72-6097 聖観音 高野山真言宗 第12番 小島山金剛院長楽寺 栃木県那須郡那須町寺子丙1404 0287-72-1089 准胝観音 真言宗智山派 第13番 医雲山清光院薬王寺 栃木県那須塩原市塩野崎270 0287-65-1504 聖観音 高野山真言宗 第14番 湯王山観音寺慶乗院 栃木県那須塩原市井口291 0287-36-6599 聖観音 高野山真言宗 第15番 日照山宗源寺 栃木県那須塩原市東町1-8 0287-36-0168 白衣観音 曹洞宗 第16番 十善山雲照寺 栃木県那須塩原市三区町659 0287-36-0824 准胝観音 真言宗東寺派 第17番 沼瀧山密蔵院長泉寺 栃木県大田原市花園1207 0287-28-1711 聖観音 真言宗智山派 第18番 月江山慈雲寺実相院 栃木県大田原市佐久山2244 0287-28-0025 施無畏観音 曹洞宗 第19番 宝持山伝法寺金剛寿院 栃木県大田原市福原1127 0287-28-0240 聖観音 真言宗智山派 第20番 月桂山明覚寺宝寿院 栃木県大田原市片府田1075 0287-98-3285 十一面観音 真言宗智山派 第21番 明王山龍泉院頂蓮寺 栃木県大田原市蛭田444 0287-98-3196 真言宗智山派 第22番 霊牛山威徳院極楽寺 栃木県大田原市湯津上1350 0287-98-2100 聖観音 真言宗智山派 第23番 光丸山実相院法輪寺 栃木県大田原市佐良土1401 0287-98-2606 玉持観音 天台宗 第24番 紫雲山迎照寺宝蔵院 栃木県那須郡那珂川町三輪769 0287-96-2467 如意輪観音 真言宗智山派 第25番 白久山青龍院長泉寺 栃木県那須郡那珂川町白久477 0287-96-2427 十一面観音 曹洞宗 第26番 三峰山養山寺 栃木県那須烏山市滝田861 0287-83-1711 朝日聖観音 曹洞宗 第27番 医王山宝生院安楽寺 栃木県那須烏山市田野倉285 0287-88-2072 聖観音 真言宗智山派 第28番 南台山曹源院天性寺 栃木県那須烏山市南1-4-25 0287-82-3156 聖観音 曹洞宗 第29番 高根山他方院宝蔵寺 栃木県那須烏山市小木須1969 0287-84-3254 十一面観音 真言宗智山派 第30番 武茂山十輪寺馬頭院 栃木県那須郡那珂川町馬頭188 0287-92-2603 馬頭観音 真言宗智山派 第31番 宝珠山曻覺院総徳寺 栃木県那須郡那珂川町大山田下郷1724 0287-93-0019 子安観音 真言宗智山派 第32番 日光山東光院松慶寺 栃木県那須郡那珂川町谷川172-10 0287-92-4611 如意輪観音 真言宗智山派 第33番 吉利倶山玉泉院光照寺 栃木県那須郡小川町小川710 0287-96-2045 千手観音 高野山真言宗 ※平成24年9月現在の霊場会公式サイトの情報を基としています。 名前 コメント
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天皇制度 和訓は「スメラミコト」である、7世紀後半までは大王(おおきみ)とよばれた日本国憲法で日本の象徴とされているものは何でしょう? 天皇 直接名指しすることを憚ったため「御所の門」から転じて天皇を呼ぶ場合に使われる言葉は何でしょう? ミカド 歴代天皇 ☆1 縦棒で 神武(じんむ)天皇 2 綏靖(すいぜい)天皇 3 安寧(あんねい)天皇 4 懿徳(いとく)天皇 5 孝昭(こうしょう)天皇 6 考安(こうあん)天皇 7 孝霊(こうれい)天皇 8 孝元(こうげん)天皇 9 開化(かいか)天皇 10 崇神(すじん)天皇 11 縦棒で 垂仁(すいにん)天皇 12 景行(けいこう)天皇 13 成務(せいむ)天皇 14 仲哀(ちゅうあい)天皇 15 縦棒で 応神(おうじん)天皇 16 縦棒で 仁徳(にんとく)天皇 17 履中(りちゅう)天皇 18 反正(はんぜい)天皇 19 允恭(いんぎょう)天皇 20 安康(あんこう)天皇 21 縦棒で 雄略(ゆうりゃく)天皇 22 清寧(せいねい)天皇 23 顕宗(けんそう)天皇 24 仁賢(にんけん)天皇 25 武烈(ぶれつ)天皇 26 継体(けいたい)天皇 27 安閑(あんかん)天皇 28 宣化(せんか)天皇 29 縦棒で 欽明(きんめい)天皇 30 縦棒で 敏達(びだつ)天皇 31 縦棒で 用明(ようめい)天皇 32 縦棒で 崇峻(すしゅん)天皇 ☆33 縦棒で 推古(すいこ)天皇 34 舒明(じょめい)天皇 35 皇極(こうぎょく)天皇 36 孝徳(こうとく)天皇 37 斉明(さいめい)天皇 38 縦棒で 天智(てんじ)天皇 39 縦棒で 弘文(こうぶん)天皇 40 縦棒で 天武(てんむ)天皇 41 持統(じとう)天皇 42 縦棒で 文武(もんむ)天皇 43 710年に藤原京から平城京への遷都を行った、奈良時代の女性天皇は誰でしょう? 元明(げんめい)天皇 44 元正(げんしょう)天皇 45 縦棒で 聖武(しょうむ)天皇 46 764年に史上二人目となる重祚を行って称徳(しょうとく)天皇となった人物で、自身の看病に当たった看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛した事でも知られるのは誰でしょう? 孝謙(こうけん)天皇 47 淳仁(じゅんにん)天皇 48 縦棒で 称徳(しょうとく)天皇 49 光仁(こうにん)天皇 50 縦棒で 桓武(かんむ)天皇 51 平城(へいぜい)天皇 52 縦棒で 嵯峨(さが)天皇 53 淳和(じゅんな)天皇 54 仁明(にんみょう)天皇 55 縦棒で 文徳(もんとく)天皇 56 縦棒で 清和(せいわ)天皇 57 陽成(ようぜい)天皇 58 光孝(こうこう)天皇 59 縦棒で 宇多(うだ)天皇 60 縦棒で 醍醐(だいご)天皇 61 朱雀(すざく)天皇 62 縦棒で 村上(むらかみ)天皇 63 冷泉(れいぜい)天皇 64 円融(えんゆう)天皇 65 縦棒で 花山(かざん)天皇 66 縦棒で 一条(いちじょう)天皇 67 三条(さんじょう)天皇 68 後一条(ごいちじょう)天皇 69 後朱雀(ごすざく)天皇 70 後冷泉(ごれいぜい)天皇 71 後三条(ごさんじょう)天皇 72 縦棒で 白河(しらかわ)天皇 73 縦棒で 堀河(ほりかわ)天皇 74 縦棒で 鳥羽(とば)天皇 75 縦棒で 崇徳(すとく)天皇 76 近衛(このえ)天皇 77 縦棒で 後白河(ごしらかわ)天皇 78 二条(にじょう)天皇 79 六条(ろくじょう)天皇 80 縦棒で 高倉(たかくら)天皇 81 縦棒で 安徳(あんとく)天皇 82 縦棒で 後鳥羽(ごとば)天皇 83 土御門(つちみかど)天皇 84 縦棒で 順徳(じゅんとく)天皇 85 仲恭(ちゅうきょう)天皇 86 後堀河(ごほりかわ)天皇 87 四条(しじょう)天皇 88 後嵯峨(ごさが)天皇 89 後深草(ごふかくさ)天皇 90 亀山(かめやま)天皇 91 後宇多(ごうだ)天皇 92 伏見(ふしみ)天皇 93 後伏見(ごふしみ)天皇 94 後二条(ごにじょう)天皇 95 花園(はなぞの) 南96 縦棒で 後醍醐(ごだいご)天皇 南97 後村上(ごむらかみ)天皇 南98 長慶(ちょうけい)天皇 南99 縦棒で 後亀山(ごかめやま)天皇 北1 縦棒で 光厳(こうごん)天皇 北2 光明(こうみょう)天皇 北3 崇光(すこう)天皇 北4 後光厳(ごこうごん)天皇 北5 縦棒で 後円融(ごえんゆう)天皇 100 縦棒で 後小松(ごこまつ)天皇 101 称光(しょうこう)天皇 102 後花園(ごはなぞの)天皇 103 縦棒で 後土御門(ごつちみかど)天皇 104 後柏原(ごかしわばら)天皇 105 後奈良(ごなら)天皇 106 正親町(おおぎまち)天皇 107 後陽成(ごようぜい)天皇 108 縦棒で 後水尾(ごみずのお)天皇 109 縦棒で 明正(めいしょう)天皇 110 後光明(ごこうみょう)天皇 111 後西(ごさい)天皇 112 霊元(れいげん)天皇 113 東山(ひがしやま)天皇 114 中御門(なかみかど)天皇 115 桜町(さくらまち)天皇 116 桃園(ももぞの)天皇 117 縦棒で 後桜町(ごさくらまち)天皇 118 後桃園(ごももぞの)天皇 119 縦棒で 光格(こうかく)天皇 120 仁孝(にんこう)天皇 121 縦棒で 孝明(こうめい)天皇 122 縦棒で 明治(めいじ)天皇 123 縦棒で 大正(たいしょう)天皇 124 縦棒で 昭和(しょうわ)天皇 125 縦棒で 今上(平成)天皇 赤字は女帝
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刃はサンダース。技はかみなり、にどけり、とっておき(秘策)、アイアンテール(斬撃)とか? さやかはクチート、ムサシはローブシンあたり。 -- (名無しさん) 2011-06-17 22 54 04 龍神をレックウザにしてみては? -- (名無しさん) 2011-06-18 00 36 02 ↓ ↓↓ 追加しました。 -- (名無しさん) 2011-06-18 04 24 19 ゲロ左衛門は体型的にガマゲロゲが似合いそう -- (名無しさん) 2011-06-22 18 21 52 宮本武蔵はじいさんだからサンムーン解禁でジジーロンがいいのでは -- (名無しさん) 2016-07-30 23 21 25 草案 鉄刃 フライゴン 鉄剣十郎 ガブリアス 峰雷蔵 カイリュー 鬼丸君 メガボーマンダ 峰さやか メガクチート -- (名無しさん) 2016-08-26 22 17 57 かぐや サザンドラ さやか(クチート)と相性補完きくため -- (名無しさん) 2016-08-27 08 53 55 草案 佐々木小次郎 エルレイド(雰囲気&美剣士 女好きでメロメロ必須) 柳生十兵衛 キリキザン(色が黒かったので) -- (名無しさん) 2016-08-28 02 02 24 サンムーン発売後に トゲデマル:鉄刃 ツツケラ:峰さやか バクガメス:宮本武蔵 -- (ユリス) 2016-08-28 09 39 20 カゲトラはレントラーの方が良いのでは -- (名無しさん) 2016-08-29 22 07 52 カゲトラはレントラーの方が良いのでは -- (名無しさん) 2016-08-29 22 08 36 かぐやは名前的にテッカグヤとかどう? -- (名無しさん) 2017-01-24 18 29 57 サンムーン解禁後 ナマコ男 ナマコブシ 戦闘キャラでなく仲間のサポートキャラなので -- (名無しさん) 2017-08-15 20 55 08 草案 ダークライ:鬼丸 雰囲気&クレセリア(かぐや) の対になる -- (名無しさん) 2019-03-13 16 51 21 草案 パルシェン 五代目沖田総司 特性スキルリンクで五連突きを再現できるから -- (名無しさん) 2020-04-06 21 20 46 ユキノオーorヒヒダルマ(ガラルのすがた):雪だるま戦士 モロバレル:キノコ戦士 ペンドラー:ムカデソルジャー -- (ロケット・ガチャット) 2020-09-23 17 30 57 ハスブレロ:ケロ吉 ルンパッパ:ケロ介 ホウオウ:ゴールド ルギア:シルバー -- (ロケット・ガチャット) 2020-11-09 21 17 38 キャラクター エースバーン:ゲッコー -- (ロケット・ガチャット) 2020-12-08 22 39 19 オンバーン:こうもり男 -- (名無しさん) 2020-12-10 22 56 38 その他 フーディンorオーベム:金棒博士 ダークライ:ダーク -- (ロケット・ガチャット) 2020-12-24 12 28 31 その他 アルセウス:神様 -- (ロケット・ガチャット) 2021-01-05 17 12 38 その他 トゲキッス:天使 -- (ロケット・ガチャット) 2021-01-06 16 46 31 その他 カメール:シオジ -- (ロケット・ガチャット) 2021-01-18 21 53 03 その他 イーブイ:鉄諸羽 -- (ロケット・ガチャット) 2021-03-01 19 38 02 オトスパス:三好清海入道 -- (ロケット・ガチャット) 2021-03-02 07 49 20 その他 色違いサンダース:鉄剣十郎 -- (ロケット・ガチャット) 2021-03-26 16 15 18 その他 ドサイドン:須堂先生 -- (ロケット・ガチャット) 2021-04-01 15 58 24 サンダース♀:鉄美智子 -- (ロケット・ガチャット) 2021-04-05 23 04 33 マルヤクデ:ムカデソルジャー -- (ロケット・ガチャット) 2021-04-16 22 56 06 ウォーグル:風魔小太郎 -- (ロケット・ガチャット) 2021-04-18 17 19 51 デンチュラ:クモ男 -- (ロケット・ガチャット) 2021-04-22 22 29 46 ミロカロス:佐々木小次郎 美男子 -- (名無しさん) 2021-04-27 21 01 13 キリキザン:佐々木小次郎 -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-01 12 32 46 バッフロン:武蔵坊弁慶 -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-05 09 52 33 ゼラオラ:カゲトラ -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-07 16 13 49 その他 ルガルガン:ハンゲツ -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-11 12 52 12 その他 ネギガナイト:柳生十兵衛光厳 -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-12 17 03 07 フーディン:宮本武蔵 -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-27 22 25 29 サダイジャ:ズポポタマス -- (ロケット・ガチャット) 2021-06-14 21 16 27