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いにしへのひじりの御代の政をもわすれ、民の愁、国のそこなはるるをも知らず、万にきよらをつくしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。「衣冠より馬・車にいたるまで、有るにしたがひて用ゐよ。美麗をもとむる事なかれ」とぞ、九条殿の遺誡にも侍る。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉り物は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。 口語訳 昔の聖天子の御代の政治の有様をも忘れ、人民の嘆き、国の疲弊してゆくのにも気づかないで、万事に華美をつくして、それを立派なことだと思い、あたり狭しと威張っている人こそ、何ともひどく思慮のないさまに見える。 「衣冠からはじめて、馬や車(牛車)にいたるまで、有り合わせのもので間に合わせて使うように。華美なものを求めることがあってはならぬ。」と、九条殿(右大臣藤原師輔、冷泉・円融両天皇の外祖父)が子孫に遺された訓戒の書にも、記されていることです。順徳院(後鳥羽上皇の皇子、順徳天皇。承久の乱後、佐渡に遷された。彼の書かれた禁秘抄をさす)が宮中の諸事について、お書きになっている御文にも、「天皇のお召し物は、質素なのをよいこととする。」と、お記しになっていることである。 聖天子の御治世とは、いわゆる<延喜の治>の醍醐天皇と<天暦の治>の村上天皇の治世をさす。10世紀の前半から中期にかけての律令政治の最盛期(=最終段階)と目されていた時代である。両天皇とも比較的在位期間が長く、醍醐天皇で33年間、村上天皇で21年間その地位にあり、藤原氏の専権を許さず天皇の権威を保つことが出来た時代である。醍醐天皇は、その初期には菅原道真を登用したり、古今和歌集などを編纂したことで著名である。また、村上天皇は後選和歌集を撰集したり、皇朝十二銭の最後となる乾元大宝の鋳造したりして意欲的に親政をしいた。しかし、それも一瞬のことで、その後は藤原氏の専横におされて天皇の権威は衰微するばかりであった。逆に、天皇の権威が衰えているからこそ、<延喜の治>とか<天暦の治>といって、天皇の輝きを強調しているのかも知れない。 天皇が頂点にあって、摂関以下の大臣たちがそれを支えて行くのが理想であるのだろうけれども、実際には摂関家が中心になって政治を運営していったのが平安時代の姿なのである。更に時代を経て兼好の頃ともなれば、藤原氏はおろか鎌倉幕府も衰え権力の趨勢は不安定な状況にあると言ってよかった。にも拘らず時の権力にしがみついている面々は、民の困窮や国の疲弊も顧みずに華美・贅沢に走り、やたらと威張っているだけで全く思慮のない人間とだと批判をしている。彼は歌人の一人であるから、出入りする上流社会の非難は立場上あまり出来ないのかも知れないが、九条殿の訓戒書や順徳院の禁秘抄に強調されている質素さを例に取り上げて朝廷や幕府にたいして精一杯の抗議をしたのであろう。 中国の最古の王朝は伝説上夏王朝(最近ではかなり史実近いとか)とされている。聖天子の誉れの高い堯が舜に位をゆずり、舜は禹に位をゆずり、禹が禅譲という形で夏王朝をはじめたと伝えられている。これをBC8世紀からBC3世紀にかけての乱世の春秋・戦国時代に儒家たちによってひとしきり語られ広められたのは興味のあることである。力づくやら策謀やら中国全体が覇権争いに渦巻いていた頃、遥かBC千年以上も前に理想のような王位継承の話が存在していたとは、孔子ならずとも憧憬の念をもって語り継いでいったのではないか。儒教が日本に流入されるとともに、聖天子つまり堯・舜・禹の名も業績も当然入ってきて不思議ではない。博学の兼好は中国の古代のことは当然知っていたであろうし、それを敷衍して当時の現状を照らし合わせて批判したとしても可能性としては十分あり得ることである。いずれにせよ当時の世の乱れに対して昔の聖天子の政治の様子を引き合いに出して批判したことだけは確かなところである。 ここで、少し太平記的な内容の記述を続けて見ようと思う。 鎌倉末期の時代の主役の一人は後醍醐天皇であることは疑いのないところであるが、天皇の行動はただ一つ自分の皇位を死守すること、それを妨げるものは何が何でも阻止しなければならない不動の信念であった。例え、相手が幕府であろうとも怯むところではなかった。倒幕の手段に訴えてでも自分の地位を守りたかった。彼は元々皇位につける環境にはなかった。彼は後宇多上皇の二番目の皇子で、母の出自は低く、少年期は放って置かれていた。しかも、両統迭立のレールは敷かれ、皇位継承の埒外に置かれていた。しかし、兄の後二条天皇が若くして薨じられてから事情は一変した。大覚寺統系の当面のエースとして持明院統系の花園天皇の下、21才で皇太子(1308年)に据えられた。およそ十年で交替のルール通り、31才で天皇(1318年)に即位する。異例の遅咲きの天皇であった。しかも皇太子は、父後宇多上皇の尽力で後二条天皇の皇子・邦良親王がなった。後醍醐天皇は天皇になったものの、父後宇多上皇より天皇はつなぎで一代限りと厳しい条件をつけられ、自分の子への継承は望めなかった。両統迭立の制約もあり、邦良親王への交替の動きもあり、後醍醐天皇の地位は不安定で非常に落ち着かないものがあった。座視していれば権力の舞台から消え去るのは目に見えていた。しかし、父後宇多上皇が1324年6月に崩御され、二年後には皇太子の邦良親王が薨じられ(1326年)、ライバルは持明院統系のみとなった。つまり邦良親王の後、量仁親王が立太子した。後の光厳天皇である。父後宇多上皇が亡くなられてから、後醍醐天皇は変った。何かにつけて積極的になった。立場が不安定でいろいろ制約があるが故に、逆に強気で周囲に立ち向かって自分を守る姿勢をとったともいえる。 期待されないで即位したために、天皇周辺には格式高い貴族たちは敬遠して二線級がスタッフとして集まった。しかし、却ってその方が天皇の独裁を推し進めるのには都合がよかった。幕末の不穏な情勢はすべて天皇の意向によって惹き起こされたと言っても過言ではなかった。後宇多上皇が亡くられた年の9月には倒幕計画・正中の変を起こして日野資朝・俊基等が六波羅に捕らえられて挫折をし、それに懲りずに1331年には元弘の変を起こして失敗し(倒幕の機密を吉田定房が六波羅へ密告)笠置に脱出するが捕らわれ、翌年隠岐に遷される。その時に、日野資朝は配流先の佐渡で斬られ、日野俊基は鎌倉に送られる途中、相模の葛原で斬られる。しかし元弘の変の波紋により、各地に楠木正成のような小豪族が立ち上がり反幕府(北条)戦線が出来上がった。 幕府は、先ず六波羅勢が緒戦に比叡山を討たんと向うが逆に僧兵に討たれる始末で、やがて鎌倉より大軍を率いて鎮圧に向うが、士気が上がらず、統率もばらばらで楠木正成等の意外な抵抗により一進一退の攻防をくり返す内に反幕府勢力側が勢いを増して全国的に打倒幕府の機運が盛り上がった。形勢を傍観していた最強ともいえる軍団を率いていた足利高氏(この時は、まだ尊氏ではない)は後醍醐天皇側に寝返り、倒幕の趨勢に決着をつけた。一方鎌倉では新田義貞が幕府を攻めて、北条高時以下の幕府首脳を倒して北条氏が滅びる。 後醍醐天皇は、配流先の隠岐を北条氏が滅びる前(1333年2月)に脱出し、伯耆国の土豪名和長年の協力で船上山に落ち着くことができた。ここより京都の形勢を眺め、北条氏の滅亡を確かめてから6月に都に遷幸した。不撓不屈の精神をもって不利な形勢を挽回して見事京に凱旋したのである。帝の得意や思い知るべしである。後醍醐天皇のことについてはまだまだ書くことはいっぱいあるが、一先ず措いて、光厳天皇のことについて少し触れておきたいたいと思う。邦良親王の逝去により途中から急遽東宮(量仁親王)になられたお方である。ピンチヒッター的な色合いが印象としてどうしても否めない。更に、十年過ぎても一向に退位しようとしない後醍醐天皇は正中の変の騒ぎを起こして京都を逃げ出す始末。ここで高時は東宮を擁立して光厳天皇として践祚する。しかし、後醍醐天皇は捕らわれても決して退位の意向は示さず、天皇のままであり続けた。そうこうしているうちに倒幕の火は各地に広がり幕府の方が耐え切れず崩壊してしまった。後醍醐天皇が京都に凱旋する直前に光厳帝は廃されてしまう。三年にも満たない短い在位期間である。しかも、戦火が京にも及び六波羅に避難していた光厳天皇は、後伏見・花園両上皇ともども六波羅探題の北条仲時等と鎌倉をさして落ち延びようとしたが、番場の峠(米原)までさしかかった時、後醍醐側の反幕府勢力に囲まれて進退きわまってしまった。ここで北条仲時以下一門の名ある武士たち四百人以上が寺に入り次々と腹を切って果てた。天皇を具しても彼等の護り神とはならなかった。光厳天皇および一族の方々が、血の海に伏す凄惨な光景を目のあたりにして立ちすくむばかりであった。やがて天皇たちは捉えられて都に連れ戻される。光厳天皇と後醍醐天皇の関係はこれで終わりでなく、不思議な宿縁で表裏一体となって以後いろいろと続く。後醍醐天皇の建武の新政は現実と合わず、開始から僅か3年で破綻をきたし、足利尊氏の反旗により吉野に奔り南朝を開く。退位した光厳天皇は尊氏に乞われて、弟の光明天皇が即位し、光厳院として院政を開始することになる。いわゆる南北朝の分裂である。 後醍後天皇は、武士主導の政治を破壊し、朝廷主体の政治を取り戻すべく革命を起こしているのだという信念で幕府に挑んだのである。朱子学を学びその影響からか大義名分論にこだわり、君と臣下の関係を明確にして分をわきまえ、君(天皇)は政治の中心にいなければならないとして、現状の逆転した幕府と天皇の関係を正そうとしたのである。だから大義名分の革命のために後醍醐天皇は屈せず己の信念に向って邁進して行ったのである。しかし、革命は新しいことを行なうために混乱や破壊はつきものだが、やがて大勢に理解され受け入れられるものでなければならない。後醍醐天皇の行なう改革は性急でしかも時代に逆行するもので空回りするところがあった。当時の社会に受け入れられなかった。混乱は更に長引き解決は次世代に受け継がれていく。 これが、「いにしへのひじりの御代の政をもわすれ…」と兼好を嘆かせた鎌倉末期の実態である。或いは兼好の嘆き以上に実際は深刻な事態であったのである。なにしろ南北朝という前代未聞の二王朝が60年間も続いた端緒であったからである。そうして長い混乱の内にも確実に後醍醐天皇の意図に反して朝廷を始めとして貴族階級の権力・地位や土地は武士階級によって確実に蚕食されて行ったのである。鎌倉時代は武士の世の幕開けと言ったところで、まだまだ朝廷の力も侮れないものを有していた。南北朝を経て室町時代になれば確実に武士が権力のヘゲモニーを握ったと言ってもよいのではあるまいか。後醍醐天皇の革命が王権の復活どころかかえって武士の権力の強化に貢献しているのである。後鳥羽上皇の承久の乱といい、後醍醐天皇の建武の新政といい、武力による権力の掌握を目指していずれも失敗に帰している。 後醍醐天皇の政治に、後宇多上皇の院政をやめて(1322年)親政を開始してから目指すものに、当時の商品流通・貨幣経済の中心地、ならびに公家をはじめ寺社権門が集住する京都を王土思想のもとに掌握することがあった。即ち京都の土地と人の支配である。ために、極めて厳しい専制政治的姿勢でこの課題に取り組んだ。元亨二年(1322年)に発せられた「神人公事停止令」と「洛中酒鑪役賦課令」の二法令がそれである。前者は、洛中を中心に集住する寺社権門に属して広汎な商業活動を展開してきている神人が本所(寺社)に納める諸公事を免除するという内容、後者は、寺社権門の神人として交易にたずさわっていた洛中の酒屋を宮廷経済の基盤として再編成しようというものである。この二つの法令のねらいは洛中神人(特権商人につながるものか)に対する寺社権門の本所支配権を断ち切り、彼等を天皇支配の供御人として編成することであった。この姿勢は在位中はある程度持続されたものと思われるが、如何にせん短命の政権であるが故に、着想は画期的でもほんとうの成果は見られることもなく後世に委ねられるのでる。 後醍醐天皇は吉野で、死に際して太平記では 「…玉骨はたとひ南山の苔にうづまるとも、魂魄は常に北闕(内裏)の天を望まんと思う.…」 と、京都制圧、天下統一の烈々たる望みを遺言しているが、これも混乱を長引かせただけで適わぬ夢に終わっているのである。 現代の政治も改革と称して政治をいじりまわしているが、見せ掛けの改革で実態はあまり変らずどころか富者と貧者の格差は拡大して、庶民のくらしは却って苦しく効果はないと批判されている。一方施政者は自分がやらねば誰が改革をしたのかと大いに自讃しているが、官僚制には手付かずで、福祉制度の負担は増やして、果たして改革に値するものだったのか、値しないものだったのか、いずれ歴史が審判を下すことになるだろう。 この章の参考文献 徒然草 日本の古典 小学館刊 史記一 徳間書店刊 太平記一 新潮日本古典集成 新潮社刊 後醍醐天皇 森 茂暁著 中央公論新社刊 「紫の朱(あけ)奪ふことを悪(にく)む…(二百三十八段)」につづく 名前 コメント すべてのコメントを見る
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【呼称】 【使用デッキ】 ダークシンクロ sm18615270 ダークネスシンクロ sm18874901 sm19592661 ダークネスワイト sm19965313 完全☆燃焼 sm21060483 sm22649680 聖痕電池 sm21060483 sm21578212 光厳格闘王 sm21578212 H因子(サウザンドブレード入手したら本気だす) sm23714181 完☆全☆再☆生 Ver.2014 sm24025817 ボクの考えた最強のカード sm24173799 忍者☆DE☆ビートバーン sm24566429 【出演動画】デュエルアークナンデス 【twitter】https //twitter.com/DELTA0127 【活動場所】新潟県 【備考】 名前 コメント
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居合構え ※Pはポイントを指しています。 青色表記…キャンセル可能 浮…浮かし技 崩…崩し技 投…投げ技 飛…ふっ飛ばし技 打…打撃技 連千鳥…85P 千鳥…40P△ 百千鳥…45P△ 浮 連無鳥…95P 千鳥…40P△ 無鳥…55P△ 浮 飛鳥三景…155P 千鳥…40P△ 百千鳥…45P△ 浮 幾鳥…35P△ 月夜…35P←△ 鬼夜行…170P 千鳥…40P△ 鬼夜…30P△ 百夜…55P△ 百鬼…45P→△ 飛 百鬼夜行…180P 血鳥…50P△ 浮 鬼夜…30P△ 百夜…55P△ 百鬼…45P→△ 飛 連観月…60P 観月…35P△ 朧月…25P△ 夜月雷々…140P 観月…35P△ 朧月…25P△ 浮月…35P△ 浮 落雷…45P△ 連名月…70P 名月…45P△ 浮 朧月…25P△ 双鶴…55P 双鶴…55P△ 紅花月…55P 紅花…25P△ 花月…30P△ 紅華月…65P 紅花…25P△ 華月…40P△ 浮 連通し…135P 踵通し…30P→△ 打 胸通し…25P△ 開…40P△ 発…40P←△ 喉通し…85P 踵通し…30P→△ 打 胸通し…25P△ 喉頸通し…30P△ 四連艶打…145P 霞桜…30P→△ 打 花艶…35P△ 香雲…40P△ 紅口…40P△ 飛燕…80P 帰燕…50P→△ 飛燕…30P△ 宿木…15P 宿木…15P→△ 曙光…75P 陽炎…35P←△ 打 曙光…40P←△ 浮 鈴虫…110P 陽炎…35P←△ 打 鈴揺…40P→△ 打 鳴蟲…35P△ 大刀掌…65P 大刀掌…65P←△ 打 宵口夜鳥…155P 宵闇…40P←△ 月夜…35P←△ 帰燕…50P→△ 百千鳥…45P△ 浮 四死雷々…110P 遠雷…30P←△ 疾雷…25P△ 渦雷…20P→△ 死雷…35P△ 光厳…140P 光厳…50P←→△ 崩 姫薊…90P△ 浮 幸御魂…110P 幸御魂…110P←→△ 崩 抜の抜…90P 抜の抜…90P←→△ 崩 百花繚乱…160P 百花繚乱…160P←→△ 崩 心帰一神法…140P 心帰一神法…140P←R1△ 投 座構え…180P 居…50P→←△ 行…35P△ 転…15P→△ 投 草摺返し…80P←△ 投 不抜の抜…5P 不抜の抜…5P→←△ 追記等がありましたらコメントをお願いします。 コメント ※送信ボタンを何回もクリックしないで下さい。多重投稿になってしまいます。;
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YAIBA キャラクター鉄刃 その他 コメント 青山剛昌先生による少年漫画作品。1988年から1993年まで週刊少年サンデーで連載されていた。 キャラクター 鉄刃 サンダース:髪がトゲトゲしている&電気タイプで素早い。しかも雷に対して耐性がある。 性別:♂ 性格:やんちゃ、ようきとか 個性:たべるのがだいすき、すこしおちょうしもの辺り 努力値:攻撃&素早さに252 持ち物:いのちのたま(龍神の玉) 捕獲日・孵化日:5月5日 技:かみなり(かみなり斬り)、とっしん(風車)、とっておき(秘策)、アイアンテール(斬撃)、ものまね(鬼丸の技を真似る)、にどげり等 その他 クチート♀orマリルリ♀:峰さやか 後者は声優ネタ 色違いサンダース♂:鉄剣十郎 サンダース♀:鉄美智子 ローブシン♂orジジーロン♂:宮本武蔵 エルレイドorミロカロスorキリキザン:佐々木小次郎 雰囲気&美剣士 女好きでメロメロ必須 ライコウor色違いレントラー♂:カゲトラ バルジーナ:庄之助 ♀しかいないのが難点 オニゴーリ♂orダークライ:鬼丸 後者は雰囲気&クレセリア(かぐや) の対になるので。 アリアドス♂orオニシズクモ♂:クモ男 ニョロトノ♂orガマゲロゲ♂:ゲロ左衛門 ハブネーク:ズポポタマス ヒトデマン:ヒトデ男 カラナクシ♂orナマコブシ♂:ナマコ男 ストライク♂:カマキリ男 マグマッグ♂orヌメラ♂:ナメクジ男 クロバット♂orオンバーン♂:こうもり男 ランターン♂:やきとりくん カクレオンorインテレオン:カメレオン・ボナパルト ケッキングorゴリランダー:ドライドライ カメックスorアバゴーラorカジリガメ:トータスヨーロッパ オクタンorオトスパス:三好清海入道 ゴルバットorウォーグルorムクホーク:風魔小太郎 前者は使い手のキョウと声優繋がり ゾロアーク:天草四郎時貞 リングマorウーラオス:石川五右衛門 ケンタロスorバッフロン:武蔵坊弁慶 ハスブレロ:ケロ吉 ルンパッパ:ケロ介 ものまね→かえんほうしゃ必須 ネギガナイト:柳生十兵衛光厳 ゴウカザル:松尾芭蕉 がんせきふうじ必須 レックウザ:龍神 クレセリアorテッカグヤorミミロップ:かぐや テッカグヤは名前繋がり エースバーン:ツキカゲ 色違いエースバーン:ゲッコー ルガルガン:ハンゲツ フーディンorオーベム:金棒博士 サザンドラ:ヤマタノオロチ パルシェン:五代目沖田総司 特性スキルリンクで五連突きを再現できるから ゴローニャorギガイアス:岩石戦士 ユキノオーorヒヒダルマ(ガラルのすがた):雪だるま戦士 モロバレル:キノコ戦士 アイアント:蟻戦士 ペンドラーorマルヤクデ:ムカデソルジャー グラードン:ルビー カイオーガ:サファイア レックウザ:エメラルド ディアルガ:ダイヤモンド ホウオウ:ゴールド ルギア:シルバー ダークライ:ダーク ペルシアン(アローラのすがた):ドクロ トゲキッス:天使 アルセウス:神様 カメール:シオジ ポケモン4コマ大百科ネタ。 ドサイドン:須堂先生 コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る サダイジャ:ズポポタマス -- (ロケット・ガチャット) 2021-06-14 21 16 27 フーディン:宮本武蔵 -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-27 22 25 29 その他 ネギガナイト:柳生十兵衛光厳 -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-12 17 03 07 その他 ルガルガン:ハンゲツ -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-11 12 52 12 ゼラオラ:カゲトラ -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-07 16 13 49 バッフロン:武蔵坊弁慶 -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-05 09 52 33 キリキザン:佐々木小次郎 -- (ロケット・ガチャット) 2021-05-01 12 32 46 ミロカロス:佐々木小次郎 美男子 -- (名無しさん) 2021-04-27 21 01 13 デンチュラ:クモ男 -- (ロケット・ガチャット) 2021-04-22 22 29 46 ウォーグル:風魔小太郎 -- (ロケット・ガチャット) 2021-04-18 17 19 51
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朝倉高景(あさくら たかかげ)、朝倉正景日本1314~1372統率:A 武力:A 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------朝倉家2代当主。朝倉広景の子。父と共に足利尊氏に従い、南朝側として戦った。貞治の政変では、幕府軍として主君に当たる斯波高経に反旗を翻して杣山城を攻めた。その功で越前の地頭職を賜り、越前朝倉氏の基礎を築いた。 足利尊氏(あしかが たかうじ)、源尊氏日本1305~1358統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------河内源氏の名門足利氏の嫡子。後醍醐天皇に協力し、鎌倉幕府を滅ぼした。しかし、後に後醍醐天皇と袂を分かった。持明院統から征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開き、初代将軍に就任する。 足利義詮(あしかが よしあきら)日本1330~1367統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------室町第2代将軍。足利尊氏の三子で嫡男。父の尊氏死後、将軍となり、南朝との講和を進める。 阿野廉子(あのの れんし、あの やすこ)、新待賢門院日本1311~1359統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------後醍醐天皇の側室。阿野公廉の娘で洞院公賢の養女。西園寺禧子の女官で、後醍醐天皇の寵愛を受けて後村上天皇、恒良親王、成良親王らの母となる。後醍醐天皇が流されると隠岐、吉野に同行する。才色兼備で、『新葉和歌集』や『李花集』に歌が収録されている。 宇都宮氏綱(うつのみや うじつな)日本(下野国)1326~1370統率:C 武力:D 政治:D 知力:C 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------宇都宮家10代当主。宇都宮公綱の子。下野守護、下野守、伊予守。南朝側に付いた父と反対に、足利尊氏の家臣として仕えた。鎌倉公方・足利基氏の家臣として仕え、上野・越後の守護職を与えられるが、後に返還を要求される。武蔵国の武蔵平一揆に乗じて反乱を起こすも鎮圧され、一命は助けられた。 宇都宮公綱(うつのみや きんつな)日本(下野国)1302~1356統率:A 武力:A 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------宇都宮家9代当主。宇都宮貞綱の子。引付衆、左馬権頭、治部大輔、備前権守、宇都宮検校。元弘の乱において楠木正成とも戦い、引き分けとなった。南朝側、北朝側を行き来した後、北畠顕家の元で、東国における南朝側の中心勢力として活躍した。武勇優れる一方で、和歌の才能にも恵まれた。 宇都宮貞綱(うつのみや さだつな)日本(下野国)1266~1316統率:B 武力:B 政治:C 知力:D 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------宇都宮家8代当主。宇都宮景綱の子。左衛門尉、三河守。下野守、備前守。元寇の弘安の役では九州に出陣し、その功績で引付衆に任ぜられる。 宇都宮基綱(うつのみや もとつな)日本(下野国)1350~1380統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------宇都宮家11代当主。宇都宮氏綱の子。下野守。下野守護の小山義政が台頭すると、これを牽制してきたが、義政が宮方と通じ謀反を起こしたとして討伐を命じられるが、裳原の戦いで戦に敗れて戦死する。 大友氏継(おおとも うじつぐ)日本(豊後国)????~1400統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------大友家9代当主。大友氏時の子で、大友親世の兄。はじめ北朝側だったが、勢いに押されて南朝側に与する。しかし、弟の親世が北朝側として家督を継いだ。 大友氏時(おおとも うじとき)日本(豊後国)????~1368統率:C 武力:D 政治:C 知力:D 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------大友家8代当主。大友貞宗の子。北朝側の少弐頼尚と共に、南朝側の菊池武光と対立し、筑後川の戦いで大敗を喫した。 大友氏泰(おおとも うじやす)日本(豊後国)1321~1362統率:C 武力:C 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------大友家7代当主。大友貞宗の五男。父・貞宗が鎮西探題・北条英時を裏切る際に家督を譲られる。後醍醐天皇に叛いて九州に落ち延びた足利尊氏を助け、室町幕府成立後、豊後の他に肥前・豊前・日向の守護に任じられた。 大友貞親(おおとも さだちか)日本(豊後国)1246~1311統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------大友家5代当主。大友頼康の子で、大友親時の弟で、大友貞宗の兄。兄の親時が亡くなった際に家督を継ぐ。豊後国に万寿寺を建立する。 大友貞宗(おおとも さだむね)日本(豊後国)????~1334統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------大友家6代当主。大友親時の子で、大友親時、貞親の弟。兄の貞親が亡くなった際に家督を継ぐ。鎮西探題・北条英時に仕え、討幕軍の菊池武時を敗死させた。しかし、足利尊氏が六波羅探題を攻略すると北条英時を裏切って攻め殺し、豊後守護となった。 覚如(かくにょ)、宗昭日本1271~1351統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------浄土真宗本願寺第3世法主。覚恵の子で、親鸞の曾孫に当たる。奈良の興福寺で受戒し、如信から他力法門を伝授された。『親鸞上人絵伝』、『拾遺古徳伝』、『口伝鈔』、『改邪鈔』など多くの著作を残す。 花山院師賢(かざんいん もろかた)日本1301~1332統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------公卿、歌人。内大臣・花山院師信の二男。後醍醐天皇の鎌倉幕府の討幕計画に参加する。元弘の乱において後醍醐天皇の身代わりとして比叡山衆徒を従えて幕府軍を撃退した。しかし、後に捕縛されて下総国に流され千葉貞胤の元に置かれた。贈太政大臣。元弘の乱の感慨を詠じた和歌が勅撰集に入集する。 龜山天皇(かめやまてんのう)、恒仁(つねひと)日本1249~1305統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第90代天皇。後嵯峨天皇の第七皇子で、後深草天皇の弟。後宇多天皇に皇位を譲り院生を始める。院政中には元寇があった。後に出家し、禅宗に帰依して法皇となる。反面、好色でも知られる。大覚寺統の祖。 川上頼久(かわかみ よりひさ)日本(薩摩国)????~????(14世紀)統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------島津貞久の庶長子。父と共に上京し、高師泰の陣に加わり、新田義貞の拠る越前金ヶ崎城攻撃の指揮を執った。庶子のため、島津本家を継ぐことはなかったが、薩摩国加世田別府半分地頭職を与えられ川上氏の祖となった。上野介、大夫判官、越前守。 北畠顕能(きたばたけ あきよし)日本????~????(14世紀)統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------南北朝時代の公家・武将。北畠親房の三男。伊勢国司北畠家の初代となる。伊勢国一志郡多気に城を築き、兄の顕信が鎮守府将軍として東北へ赴く時にも援助をして、南朝の支柱となった。 楠木正成(くすのき まさしげ)日本(河内国石川郡赤坂村)1294~1336統率:A 武力:A 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------河内の豪族。南朝方に属し、後醍醐天皇が挙兵すると、赤坂で挙兵した。早良親王と共に上赤坂城や千早城に篭城してゲリラ戦法を展開した。建武の親政が始まると、河内・和泉の守護となる。湊川の戦いで、足利直義の軍と戦い敗れて自害した。鎌倉幕府から『悪党』と呼ばれ、後に『大楠公』と称された。 広義門院(こうぎもんいん)、西園寺寧子(さいおんじ ねいし)日本1292~1357統率:B 武力:D 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------左大臣・西園寺公衡と藤原兼子の娘。光厳天皇、光明天皇、珣子内親王らの母。元弘の変や観応の擾乱によって天皇不在で公家・武家共に政治機能不全に陥ってしまった。そこで上皇の代理を務めるべく天皇家の家督者『治天の君』の座に就いた。皇室に出自しない治天の君は日本史上彼女のみである。 光嚴天皇(こうごんてんのう)、光厳天皇、量仁(かずひと)日本1313~1364統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------北朝初代天皇。後伏見天皇の第一皇子。持明院統。後醍醐天皇が皇位の譲渡を認めなかったため、これより南北朝時代に突入する。後醍醐天皇の建武の親政が失敗すると、光明天皇に皇位を譲り、院政を敷いた。 後宇多天皇(ごうだてんのう)、世仁(よひと)日本1267~1324統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第91代天皇。亀山天皇の第二皇子。大覚寺統。亀山天皇から譲位を受けて8歳で即位し、亀山上皇による院政が行われた。また、治世中には、元寇が発生した。 光明天皇(こうめいてんのう)、豊仁(ゆたひと)日本1322~1380統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------北朝第2代天皇。後伏見天皇の第二皇子で、光厳天皇の弟。光厳天皇に皇位を譲渡され、院政が敷かれる。観応の擾乱に乗じて南朝の後村上天皇に捕らわれる。後に出家する。 後圓融天皇(ごえんゆうてんのう)、後円融天皇、緒仁(おひと)日本1359~1393統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------北朝第5代天皇。後光厳天皇の第二皇子。幕府の管領である細川頼之らの支持を受けて即位する。 後光嚴天皇(ごこうごんてんのう)、後光厳天皇、弥仁(いやひと)日本1336~1374統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------北朝第4代天皇。光厳天皇の第二皇子で、崇光天皇の弟。後村上天皇が京を攻めた時に父、兄が捕らえられたために擁立された。 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)、尊治(たかはる)日本1288~1339統率:B 武力:B 政治:A 知力:B 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第96代天皇。後宇多天皇の子。大覚寺統。光厳天皇への皇位を拒んだため、天皇が二人立つ南北朝時代となった。鎌倉幕府の打倒を計画した(正中の変、元弘の変)が失敗する。しかし、足利尊氏の力を借りて鎌倉幕府を打ち倒し、建武の親政を行なった。 後二條天皇(ごにじょうてんのう)、後二条天皇、邦治(くにはる)日本1285~1308統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第94代天皇。後宇多天皇の第一皇子。大覚寺統。後伏見天皇の譲位を受けて即位、父の後宇多上皇が院政を行った。 後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)日本1258~????統率:D 武力:D 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------大納言・源雅忠の娘。後深草天皇に仕える女房だったが、後に愛人となる。類まれな美貌のみならず文才にも恵まれ、多くの男性との関係を描いた日記文学『とはずがたり』を残す。 後深草天皇(ごふかくさてんのう)、久仁(ひさひと)日本1243~1304統率:C 武力:D 政治:C 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第89代天皇。後嵯峨天皇の第二皇子。4歳で即位するが、後深草上皇が院政を行なう。その後、後深草上皇の指示で、亀山天皇に皇位を譲渡する。伏見天皇が即位すると院政を開始する。持明院統の祖。 後伏見天皇(ごふしみてんのう)、胤仁(たねひと)日本1288~1336統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第93代天皇。伏見天皇の第一皇子。持明院統。後二条天皇に皇位を譲るが、後の花園天皇が即位すると、伏見上皇の後を継ぎ、院政を敷く。 後村上天皇(ごむらかみてんのう)、義良(のりよし)日本1328~1368統率:C 武力:C 政治:D 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第97代(南朝第2代)天皇。後醍醐天皇の第七皇子。親王時代には、東国武士の帰属を目的に奥州多賀城へ向かう。足利尊氏に京を追われると、吉野に拠り、しばしば京へ軍を向ける。 惟康親王(これやすしんのう)日本(相模国鎌倉)1264~1326統率:E 武力:E 政治:E 知力:E 文化:E 魅力:E--------------------------------------------------------------------------------鎌倉幕府第7代将軍。宗尊親王の嫡男。父が将軍職を廃されると、3歳で征夷大将軍に就任する。後に将軍の長期在任を嫌う北条氏によって将軍職を廃され、京に送られ出家した。
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遡ること約600年前。時の天皇である後醍醐天皇は、鎌倉幕府の体制に不満を抱き2度討幕を企てるが失敗。光厳天皇が幕府に推されて即位し、後醍醐天皇は隠岐へ流された。しかし、後醍醐天皇は諦めなかった。 後醍醐天皇の皇子である護良親王など反幕府勢力が結集し蜂起、天皇は隠岐を脱出する。天皇の呼びかけに応じて立ち上がる者が次第に増え、幕府軍であった足利尊氏も幕府を裏切った。 1333年、鎌倉幕府は滅亡。 後醍醐天皇は京都へ戻り親政を開始したが、天皇の政策は武士たちの反感を買うものであった。足利尊氏は京都を落とし光明天皇を即位させた。後醍醐天皇は京都を逃れ、吉野の山中にこもり自分が正統の皇位であると主張し続けた。 これが有名な南北朝の動乱である。 -----------1944年---------- 南北朝の動乱はまだ終わっていないと言っていいだろう。 南北朝以前の国名は「日本」であったが、今は西日本と東日本で国が違う。南朝も北朝も互いに譲らず、国が分裂してしまったということだ。 北朝は都を現在の東京に移し、南朝は京都に再び都を築いた。今では東京を首都とする扶桑皇国、京都を首都とする“京花帝国”である。 現在、両国は友好的であるが国を統一する気は全くないらしい。600年経ったにもかかわらず互いに譲れないものがあるのだろう。 →第一話「京花帝国陸軍私兵長」 →トップページ
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平宗経 平宗経の一流について (本郷和人) 鎌倉時代中期、平時継という公卿がいた。平時子・時忠らの父時信の四代の孫である。武家の清盛一門とは系統は異なるものの、やはり鎌倉時代にあっては平氏は栄達できず、彼の祖父も父も納言には昇っていない。時継は蔵人・弁官を経て参議に進み、実直に十五年その職を務めた。文永六年(1269)、「参議労十五年」を以てようやく中納言に昇り、同年のうちに辞官した。本来なら彼の廟堂生活はこれで終了する筈であったが、思わぬ好運が彼を待っていた。彼は後深草上皇に仕えていたが、弟亀山上皇の一統に皇位を奪われていたこの不遇の上皇が、弘安十年(1287)に治天の君に返り咲いたのである。時継は上皇の信任を得てにわかに政務に関与するよぅになり、院執権・伝奏・評定衆となり、大納言にも任じられた。 時継の権勢は次子経親に伝えられた。経親も後深草・伏見上皇に重く用いられ、官は大納言に進んだ。持明院統を代表し、鎌倉幕府への特使にもなっている。もちろん奉行として、伝奏として、院宣・綸旨の発給に頻繁に関わっている。 時継・経親父子は持明院統の第一の側近ともいうぺき存在であった。ところが、彼らの子孫の活動はあまり伝えられていない。建武政権を経て、皇統は持明院統に独占されるにもかかわらず。そこで私は拙著『中世朝廷訴訟制の研究』において「彼らの家が上皇に近侍するにふさわしい家格であったとはいい難く、こののち子孫は衰微していく」と書いてしまった。 一九九二年、私は茨城県新治郡・鹿島郡ほかに出張し、古文書を調査・撮影し、あわせて花押を採集した。帰京して護国院の文書を整理しでいるとき、私は「おや?」と思った。『茨城県史料 中世編1』の護国院文書十一「後光厳院綸旨案」にあたる文書の奉者「権中納言宗雅」の「権中納言」の文字が、ちょうど同時に整理していた山城長福寺文書の貞和四年七月十一日、光厳上皇院宣の奉者「権中納言(花押)」の「権中納言」の文字に酷似していたのである。 貞和四年(1348)七月に権中納言であった人物は、 平宗経・三条実継・源宗明・二条良冬・正親町忠季・一条内嗣・中御門宣明・吉田国俊・甘露寺藤長。 このうちで長福寺文書の権中納言は誰か。摂家以上の出身の者は院宣の奉者にふさわしくないから、久良親王の子の宗明、関白兼基の子の良冬、関白経通の子の内嗣を除く。花押の形状が判明していて、長福寺文書のものとは明らかに違う宣明・藤長も除く。実継・忠季は左萄門督・右衛門督を兼ねているので、兼官を以て署判し「権中納言」とは書かないだろう。とすれば、残るは平宗経と吉田国俊であるが、そこで護国院文書に注目してみよう。『茨城県史料』は「宗雅」としているが、これは「宗経」とも読めるのではないか。 もしこの推測が当たっているならば、護国院文書の「後光厳院綸旨案」は案文ではなく正文である。また宗経は貞和五年(1349)に五十六歳で没しているから、「光厳上皇院宣」の方がよいだろう。 もう一つ。護国院文書の「宗経」と全く同様にくずした署名(花押は据えずに、権中納言+署名)が、山城六波羅密寺文書に何通か見える。丹後国大内庄に関する訴訟につき、甘露寺藤長とともに奉行を務めて院宣を奉じている。貞和四年の付年号があるものもあり、史料編纂所の影写本には「定経」と朱が付してあるが、この権中納言も平宗経とみて間違いないだろう。 権中納言平宗経は、こうしてみると、それこそ死の間際まで実務公卿として活発に活動しているようである。そしてこの宗経こそは、先の平経親の子息にあたるのだ。なにが「子孫は衰微していく」であろうか。 『尊卑分脈』を開くと、宗経の子は時経一人、そして彼は正五位左少弁、と記してある。また時経以降の記載はない。これを以て「子孫は…⊥と書いたわけだが、時経で家が絶えている理由をもう一度考えてみなくてはなるまい。宗経も光厳上皇のもとで活躍していたことが判明し、この家が「上皇に近侍するにふさわしい家格であったとはいい難」いなどとは決していえないのだから。 平時経をどうやって調ぺよう。そのときにふと思い出したことがあった。やはり長福寺文書の中に、たしか時経が奉じた綸旨なり院宣があったはずである。そこで見直してみると、はたして正平八年六月二十九日、後村上天皇綸旨の奉者が時経のようである・・後村上天皇?・・そうか、時経は南朝に仕えたのだ。それで事跡が伝わらないのだ。 南朝文書と時経、といぅ視点で史料を見直すと、 ○年末詳・松尾寺文書・右少弁、 ○正平九年十一月十日・金剛寺文書・右中弁、 ○正平九年十一月十八日・金剛寺文書・右中弁、 ○年末詳・金剛寺文書・右中弁、 ○正平十年三月二十七日・毛利文書・右中弁、 ○正平十年十月一日・金剛寺文書・左中弁、 ○正平十二年九月十七日・久米尚寺文書・左中弁、 ○正平十三年・三月二十三日・東妙寺文書・左中弁 時経は以上のように後村上天皇の給旨を奉じている。すくなくとも正平九年(1354)から十三年(1358)まで、彼が南朝方の奉行として活動していることが確かめられる。 しかし依然として旋問は残る。持明院統の信任厚い家に生まれた彼が、どうして南朝に仕えるようになったのか。ヒントは彼が南朝に奔った時期にあるように思ぅ。『弁官補任』によると、「観応三年、左少弁 正五位平時経(参南方為蔵人)」とあり、彼が南朝に参じたのは観応三年(1352)であるという。右の後村上天皇綸旨の発給状況からみてもこの記述は正確であろうと思われるが、この年は有名な「正平一統」のあった年である。将軍足利尊氏は弟直義を討つために南朝に和を請い、北朝の崇光天皇、皇太子直仁親王は廃された。南軍は一時的に京都を画復し、貴族たちは保身に汲々とした。時経はまさにこのとき、限前の状況にとらわれて、時局の読みを誤ったのではないか。 『系図纂要』によると、時経には経泰といぅ兄弟がいたようである。そしてあまり確度の高い史料ではないのだが、史料編纂所に架蔵されている応永三十二年(1425)の奥書を持つ『南朝公卿補任』によると、経泰は広橋を称して早くから南朝に仕え、大納言に昇った人物であるという。彼の子の経氏・泰尹は伊達行朝の娘を母とし、前者は南朝の公卿となり、後者は脇屋義助の孫の義陸とともに奥州を転戦して応永九年(1402)に戦死したといぅ。推測にすぎないが、正平一統時、時経は経泰らのとりなしによって必要以上に南朝に接近し、結果として京都を去らざるを得なくなってしまったのではないか。また時経の子や孫は、あるいは経氏のように、また泰尹のように生きたのではないか。持明院統の近臣たる平氏が消破した経緯は、およそこのようなものだと思う。 護国院文書中の一通の古文書から、平宗経の一流の足跡を追ってみた。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍したこの実務の家は、吉野の山中に姿を消していった。南朝に仕え、歴史に残らなかった家はきっと他にもあることだろう。「史料編纂所員として今後このような人々の事跡の発掘に努めたいと思っております」、今年の十月に再び茨城県の常陸太田市に史料採訪に赴いた私は、西山荘の黄門様人形にかように申し上げたのだった。 (本郷和人)
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日本の室町時代初頭の観応の擾乱をテーマにした半架空シナリオ。1347年1月開始。 あらすじ 南北朝時代が始まってしばらく経ち、1340年台に入ると、全国各地で北朝方が南朝方に対して優勢となっていった。 北朝、足利氏の天下は目前と思われた。 しかし、将軍の足利尊氏は政治に関心がなく、幕府の内部では尊氏の弟・足利直義らの派閥と、尊氏の執事・高師直らの派閥の間に対立が生まれていた。 1341年、出雲守護の塩冶高貞が直義派の山名時氏や桃井直常らに討伐された。 1342年には美濃守護の土岐頼遠が光厳上皇に狼藉を働き、足利直義によって斬首された。 そして1347年(貞和3年)、楠木正成の息子楠木正行が、幕府の内紛に乗じて攻勢に出て、瞬く間に勢力を広げたとの情報が、室町幕府に入る。 これを好機と捉えた足利直義は楠木討伐軍の大将を志願、軍勢を率いて河内へ向かうが、ここで突然南朝方と和平を結び東国へと転身する。 そして鎌倉を占領し、南朝方と結んで京の北朝・室町幕府との対決姿勢を明らかにした。 これに合わせて尊氏の子で直義の養子となっていた直冬も直義方として西国で挙兵、これに九州の大族少弐氏が応じたため、戦乱は再び全国に拡大していく・・・。 (OPメッセージより引用) 入手先 戦国史アップローダー 備考 登場大名数:792 城数:2432 武将数:13831 キャプチャ画像 リプレイサイト 以下、加筆求む
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警備員(アンチスキル) 学園都市における警察的組織その1。 次世代兵器で武装した教員で構成されている。志願制。 組織の腐敗を防ぐ目的から風紀委員とは別組織になっており、 構成員が大人なためかこちらの方が職権と危険度は上。 学校外での事件を管轄する。 超能力を持たないが、暴走した超能力者をも取り押さえられるようかなり強力な武装が許されている。 警備員専用のパトカーもあるようだ。 シンボルマークは三又の矛をモチーフにデザインされている。 因みに給料なしのボランティア(僅かな特別手当はあるらしい)。 それでも志願者が多いのは、正規の警備員になれば学生にナメられないというのが理由の一つだとか。 とある魔術の禁書目録 Indexより引用 http //www12.atwiki.jp/index-index/pages/71.html 常盤台中学 野茨姫子 とある高校 端場教夫 桃園星太 小川原高校付属中学校 橙山憐 紫崎通 成瀬台高校 酉無沢雄 国鳥ヶ原学園 鞍掛武文 桜田門さくら 拍滋洋哉 破多野二海 風輪学園 唐茶話菖蒲 霜北沢学園 谷嶽瞬壱 葛城蓮 叢富恵 祐天寺学院 破多野一海 升添孝端 不二屋枡美 葵葉中学付属高等学校 美若芽依那 鮒丘漁助 その他 緑川強 更科簡素 九野獅郎 黒岩豪太郎 灰土勇 梅野刀影 梅崎有明 鎖部桜子 楯脇撤児 剱杭幾更 光厳史随 角縫拭衣 醍醐朋樹 COU(Chase Of Unknown)
https://w.atwiki.jp/toho642b/pages/12.html
使えそうな文章とかHPがあったらここに書き込んで 宮内庁参観案内 http //sankan.kunaicho.go.jp/index.html 京都御所は、その古来の内裏の形態を今日に保存している由緒あるもので、現在のものは安政2年(1855年)の造営である。紫宸殿を始めとし、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿など平安時代以降の建築様式の移りかわりをつぶさに見ることができます。 紫宸殿 紫宸殿は即位の礼や節会などの儀式が行われた御所の中でもっとも格の高い正殿です。明治天皇、大正天皇、昭和天皇の即位の儀式もここで執り行われました。 清涼殿 中殿ともいいます。平安朝では、天皇の日常の住居として使われていました。 京都御所は、南北朝時代の光厳天皇が元弘元年(1331)に里内裏だった土御門東洞院殿を皇居と定めたものです。以後、信長、秀吉、家康らが修理、造営を行いましたが焼失し、現在の建物は総奉行・松平定信によって安政2年(1855)古制にのっとって再現されたものです。 御所の正殿ともいわれる「紫宸殿」は、即位の大礼など大儀が行われるところで、檜皮葺、総桧造りの清楚な感じの建物です。また「清涼殿」は、天皇の日常の住居であったところです。そのほか、小御所、御学問所、御常御殿など典雅な建物が並び建ち平安朝のムードを今に伝える優雅なたたずまいです。 御所の東南にある「大宮御所」と「仙洞御所」は上皇の住居で、寛永7年(1630)小堀遠州が後水尾上皇の隠居邸を造営したことに始まり、以後上京区5人の上皇が居住しましたが、安政元年(1854)に焼失してしまいました。再興されることはなく、現在は庭だけを残しています。東西100m、南北200mの長方形域の苑に北池と南池があり、池にはもみじ橋、八ツ橋が架かり、ことに八ツ橋の上にかかるフジはみごとです。 京都御所・仙洞御所・大宮御所などを包む、南北1.3km、東西700mの広い緑地が京都御苑です。明治2年の東京遷都までは、宮家や、約200の公家の屋敷もありましたが、現在では芝生と玉砂利の広い道に変わり、公園として市民の憩いの場になっています。御苑の四方には9つの門(石薬師・清和院・寺町・堺町・下立売・蛤・中立売・乾・今出川)があり、それぞれに歴史の物語を秘めています。苑内は自由に見学することができます。