約 181,631 件
https://w.atwiki.jp/retroadventure/pages/102.html
道化師殺人事件 1985年発売 (シンキングラビット) ストーリー イギリスの小さな街ブライトンで、巡業に来ていたサーカス団の道化師シャルル・デュボアが何者かに殺された。 第一発見者は、ブランコ乗りであり、死因は背中から心臓に達するナイフの一突きであった。 ロンドン警視庁から派遣された貴方は、見事に事件を解決できるでしょうか。 操作方法 コマンド入力式(英語/日本語) 作品解説 エピローグ終了後に、前作「鍵穴殺人事件」と関連した登場キャラクターからのコメントがある。 関連項目 セガサターン版 アドベンチャーゲーム プレイステーション アドベンチャーゲーム 外部リンク 配信サイト(有料) レトロゲーム総合配信サイト プロジェクトEGG --- PC-8801/X68000版配信 攻略サイト こあぱぱの懐ゲームのお部屋 プレイ動画 ニコニコ動画 - PC-8801 道化師殺人事件(1/2)
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/8569.html
ヒラリー・クリントン / カダフィ大佐 +クチコミ検索〔ベンガジ事件〕 #bf +ブログサーチ〔ベンガジ事件〕 #blogsearch +ニュースサーチ〔ベンガジ事件〕 なぜバイデンは撤退に「失敗」したのか(Wedge) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース なぜバイデンは撤退に「失敗」したのか - WEDGE Infinity 『トランスフォーマー』シリーズのマイケル・ベイ監督作『13時間 ベンガジの秘密の兵士』がdTVで配信開始! 実際の事件を映画化した、息をのむ本物の戦闘を体感せよ! - PR TIMES 【iRONNA発】アメリカ新政権 「チームバイデン」に漂う危うさ 前嶋和弘氏 - 産経ニュース 米内政補佐官に黒人女性のライス氏を登用 バイデン氏、旧知の「身内」重用鮮明 - 東京新聞 米通商代表にタイ氏指名 両親は台湾出身、初のアジア系 - 朝日新聞デジタル 米国務長官にブリンケン氏か バイデン氏 国連大使は黒人女性 - 東京新聞 情報BOX:バイデン米次期政権、有力閣僚候補の顔ぶれ - ロイター (Reuters Japan) ニジェールでの米兵襲撃は「トランプのベンガジ」に? - Newsweekjapan 陰謀論好きで暴君、トランプが選んだ将軍の評判 - WEDGE Infinity 米領事館襲撃の遺族、クリントン氏を提訴 「私用メールが原因」 - AFPBB News 「ベンガジ疑惑」を乗り越えたヒラリーと再び暴言路線を行くトランプ - Newsweekjapan クリントン氏、ベンガジ事件やメール問題の追及かわす 下院公聴会 - CNN Japan クリントン氏のメール300通公開、ベンガジ治安悪化を知らされていた - ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 クリントン氏のメールが公開 ベンガジ領事館襲撃焦点か - CNN Japan リビア米領事館襲撃の「首謀者」逮捕 米国防総省 - CNN Japan 【社説】ベンガジ事件の闇、大統領目指すヒラリー氏に傷―オバマ政権の判断ミス隠蔽に加担? - ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 リビアの米領事館襲撃は「回避できた」、米上院報告書 - AFPBB News デモ隊と民兵組織が衝突、28人死亡 リビア・ベンガジ - CNN Japan 次期米国務長官候補のライス氏、リビア総領事館襲撃めぐる発言で苦境 - ロイター 「今夜死ぬかも」、領事館襲撃で死亡の米外交官 ゲーム仲間へ最期のメッセージ - AFPBB News リビア米領事館襲撃事件、犠牲者2人は元特殊部隊隊員 - AFPBB News ベンガジの米領事館襲撃で大使ら4人死亡 リビア - CNN Japan 炎上する領事館内に取り残された駐リビア米国大使、死の真相は - AFPBB News 駐リビア米大使が領事館襲撃で死亡、米国強く非難 - ロイター +クチコミ検索〔ヒラリー・メール事件〕 #bf +ブログサーチ〔ヒラリー・メール事件〕 #blogsearch +ニュースサーチ〔ヒラリー・メール事件〕 米国の「嘘の帝国」の仮面を剥がす_中国網_日本語 - チャイナネット クリントン元大統領が退院 ヒラリー夫人が付き添い(写真=ロイター) - 日本経済新聞 ヒラリー・スワンク、人生を再スタートした元記者に トム・マッカーシー監督と新ドラマでタッグ - 映画.com 【9.11 米国同時多発テロ事件20年】日本初!オバマ元大統領、ヒラリー元国務長官が殺害の真相を激白。ヒストリーチャンネル「ビンラディン殺害計画の全貌」(9月11日(土)19 00 )他、特集放送 - PR TIMES トランプ弾劾裁判で提出された「恐怖の現場証拠ビデオ」その中身。日本では報じられないが…… - Business Insider Japan 【米大統領選】ヒラリー疑惑もバイデン疑惑も「報道しない自由」って… - 現代ビジネス 米国務省、ヒラリー氏の電子メールを公開 王立軍氏亡命巡るオバマ前政権の対応も (2020年10月15日) - エキサイトニュース クリントン氏の私用メール問題、米国務省内で調査活発化 報道 - AFPBB News イヴァンカ氏、公務に私用メールを利用していたことが明らかに - BBCニュース 【正論8月号】日本のマスコミが報じないトランプ・ロシア疑惑の真実 ~リベラルたちの国家犯罪 オバマ・クリントン・ゲート 国際政治学者 藤井厳喜 - 産経ニュース クリントン陣営の不正暴露本が発売——党の負債肩代わりする見返りにサンダース氏を不利に? - BUSINESS INSIDER JAPAN クリントン氏の電子メール追跡していた共和党員が自殺 - ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 クリントン氏の「メール問題」 重大さが改めて浮き彫りに - CNN Japan 【米大統領選2016】本当のヒラリー・クリントンとは レンズの中の人生 - BBCニュース ヒラリー「第二のメール疑惑」の誇大報道 - Newsweekjapan 「ヒラリーは罪人だ」 嫌われ者 クリントン、私用メール問題の捜査再開で一転逆風に - ハフィントンポスト メール問題、FBIはクリントンの足を引っ張ったのか? - Newsweekjapan 米大統領選挙徹底分析(10):FBIの「電子メール事件」再捜査報道はクリントン候補の致命傷になるか(中岡望) - 個人 - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【米大統領選2016】FBI、クリントン氏メール問題見直すと クリントン氏は自信 - BBCニュース クリントン氏の私用メール問題、FBIが再捜査 トランプ氏「国民はちゃんと分かっていた」 - ハフィントンポスト 【米大統領選2016】ウィキリークスが公表 漏洩されたクリントン陣営メール - BBCニュース ヒラリー・クリントン氏の私用メール問題は終わらない 新たに1万5000通の文書公開を求められる - ハフィントンポスト 米領事館襲撃の遺族、クリントン氏を提訴 「私用メールが原因」 - AFPBB News ヒラリー・クリントン氏の私用メール問題、FBIは訴追見送り「極めて軽率だが違法ではない」 - ハフィントンポスト 【米大統領選2016】FBI、クリントン氏から事情聴取 メール問題で - BBCニュース クリントン前国務長官のメール問題、規則違反と国務省 - BBCニュース 米大統領選、本命ヒラリーを悩ます「メール」スキャンダル - Newsweekjapan ヒラリー・クリントン前国務長官のメール一部公開 米国務省 - AFPBB News 「メール全件削除」に出たヒラリー、疑惑はかわせたのか? - Newsweekjapan まだまだ炎上中。ヒラリー・クリントン氏個人メール問題についてまとめてみた - ギズモード・ジャパン ヒラリー氏、公務に私的メール使用 波紋広がる 国務長官時代 - ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 ヒラリー氏が国務省にメール公表要請、個人アドレス問題で - ロイター ヒラリー・クリントン氏の電子メール問題、知っておくべき5項目 - ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 【社説】ベンガジ事件の闇、大統領目指すヒラリー氏に傷―オバマ政権の判断ミス隠蔽に加担? - ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 ● 2012年アメリカ在外公館襲撃事件〔Wikipedia〕 2012年アメリカ在外公館襲撃事件(2012ねんアメリカざいがいこうかんしゅうげきじけん)は、アメリカ合衆国で作成された映画"Innocence of Muslims"(イノセンス・オブ・ムスリム)がイスラム教を侮辱するものとして、これに抗議するためエジプトやリビアなどアラブ諸国のアメリカの在外公館が2012年9月11日以降、次々に襲撃された事件である。一連の襲撃事件で、在リビアのアメリカ領事館ではクリストファー・スティーブンス駐リビア大使ら4人が殺害された。公務中のアメリカ大使が殺害されるのは、1979年に駐アフガニスタン大使だったアドルフ・ダブス(英語版)が殺害されて以来のことであった。エジプト、リビアを発端とした反米デモは他のイスラム諸国にも波及することとなった。またスーダンでは、批判の対象はアメリカだけではなく、イギリスやドイツなどといったヨーロッパ諸国にも向けられた。各国の治安部隊が在外公館への侵入を許したことは、2010年末からのアラブの春により強権体制が崩壊した影響で、治安維持能力が低下したことを浮き彫りにした。 【ヒラリー・クリントン氏メール問題】 ☆★ 「ヒラリーは罪人だ」"嫌われ者"クリントン、私用メール問題の捜査再開で一転逆風に 「HUFFPOST(2016.11.1)」より ☆★ 【米大統領選2016】ウィキリークスが公表 漏洩されたクリントン陣営メール 「BBC-news(2016.10.17)」より ☆★ ヒラリー・クリントン氏の私用メール問題は終わらない 新たに1万5000通の文書公開を求められる 「HUFFPOST(2016.8.24)」より ☆★ 【米大統領選2016】米FBI、クリントン氏の訴追求めず メール問題で 「BBC-news(2016.7.6)」より ■ 米連邦裁判所、ベンガジ・メールの公表を命令 「DEEPLY JAPAN(2017.5.7)」より / 米連邦裁判所が、ヒラリー・クリントンのベンガジ・メールを出せと国務省に命じる判決を出した模様。 https //www.rt.com/news/387398-french-presidential-elections-second-round/ Federal judge orders State Dept. to release Clinton emails showing what Obama knew about Benghazi http //www.theblaze.com/news/2017/05/06/federal-judge-orders-state-dept-to-release-clinton-emails-showing-what-obama-knew-about-benghazi/ これが出てくることによって、例のベンガジ事件の前にオバマとクリントンは何を知っていたのかが確立されるということらしい。 そこからオバマ政権、なかんずくクリントン国務長官の責任問題へと発展する契機がある、って感じですかね。 (※mono....中略、詳細はブログ記事で) / ヒラリー・クリントンについては、ISに資金を提供している人たちは同時にクリントンへの資金提供者である、つまりどっちもサウジの金で繋がってたという話も解明させるべき事件として残ってる。 そっちの方がやばいし、全容は深い。 アサンジュ:ISとクリントン財団の金主は重なる いずれにしても、こういうことを暴かれたくなくて、ロシアのせいだ、ロシアのせいだと言い始めたという、おそろしく薄汚い人たちの追及をアメリカがまだ止めていないのは好ましい。 ★ 2012年にリビア東部ベンガジで起きた米領事館襲撃事件の犠牲者の両親が米大統領選民主党候補ヒラリー・クリントン氏を起訴した。フォックスニュースが報じた。 「Sputnik(2016.8.10)」より / クリントン氏が米国務長官を勤めていた時の2012年に起きた米領事館襲撃事件の結果、大使を含む4人の米国人が死亡した。 起訴状で、ショーン・スミスさんとタイロン・ウッズさんの両親はクリントン氏を「息子の死につながった不正行為、名誉毀損、精神的な損害」で非難している。 起訴状では、クリントン氏の個人のメールサーバーの利用がスミスさんとウッズさんの死を招いたと書かれている。起訴状には次のように書かれている。 「テロリストはクリストファー・スティーブンス大使の位置情報へのアクセスを取得できた」 【カダフィ大佐】 ◆☆ ヒラリー・メール事件とは何か。ヒラリー・ベンガジ問題とは何か/副島隆彦 「阿修羅♪(2016.7.7)」より (※mono....櫛の歯引用につき承知されたし。) / ヒラリー Hillary Clinton は、自分が凶悪な犯罪者であるのに、いけしゃーしゃ と 今も大統領候補の最有力者として強気で傲慢に振る舞っている。ヒラリーが、どれぐらいの大ワルで大悪党(villainヴィラン ) であるか、日本人の多くは、今もまだほとんど知らない。日本のヒラリーの子分ども( 今の首相 以下。ネオコン勢力 )が、徹底的に 報道管制、思想統制をするからだ。 / トランプが、以下に載せる 演説で喚いているとおり、 「FBI の Comey 長官の判断は、 "rigged" political system アメリカの国家システムの不正、歪み、腐敗 の証拠だ」 。 FBIまでが、汚れたらアメリカはおしまいだ。 逆から考えると、ヒラリーを支える、極悪(ごくあく)の勢力がアメリカ合衆国の国家体制の中に深く浸み込んでいて、ものすごい勢力になっているということだ。日本の安倍政権 の病気の症状 と全く同じだ。 / 「ベンガジ事件」とは、リビアの第2の都市ベンガジで、クリス・スティーブンス米リビア大使が殺害された事件である(2012年9月11日)。 このクリス・スティーブンスは、国務長官だったヒラリーの直属の外交官で、CIAの人殺し部隊というか特殊部隊の責任者でもあった。スティーブンス大使はその前年に、自分が直接指揮をしてカダフィ大差を惨殺した。 リビアの特栽者カダフィ殺し(2011年10月20日)の最高責任者はヒラリーである。ヒラリーはカダフィが殺される2日前に、リビアの首都トリポリに自ら乗り込んでいる。そして暗殺部隊と写真に収まっている証拠写真がある。 このクリス・スティーブンス大使に、今のIS(アイエス、イスラム国)と同様の人間たちが襲いかかった。セラフィ(サラフィーヤ)というイスラム原理主義の活動家たちだ。実態はもうほとんどIS(アイエス)だ。彼らを自分は飼いならしているとスティーブンスは思っていた。 このとんでもない狂気の集団がクリス・スティーブンスを火事の炎で窒息死させたあと、路上で死体を引きずり回した。その映像がネットに流れて、それを自宅で見たヒラリーはゲロを吐いて倒れた。そして3ヵ月後の2012年末には、国務長官を辞めた。年末に軽い脳出血を起こしてワシントンで病院に入院した。 いったいあの時、何が起きていたのか?アメリカ政府は、カダフィ政権を崩壊させたあと、奪い取ったリビア軍の大量の兵器を、イスラム勢力(ただしアメリカの言うことを聞く武装勢力)に引き渡す秘密協定を結んだ。 米軍が捕獲した大量のリビア軍の兵器や物資を、今のシリアや北イラクに大量に移動させた。この軍事密約の武器取引を、殺害されたスティーブンス米大使が国務長官のヒラリーに逐一判断を仰(あお)ぎながら実行していたのである。このときの、この2人の通信内容が、まさしく「ヒラリー・メール」なのである。 スティーブンスは自分を殺しに来た者たちを、自分が十分に手なづけていたと勘違いしたのだ。飼い犬に手を咬(か)まれたのである。 スティーブンスと上司である国務長官ヒラリーとのこの交信記録の流出が、今も騒がれている「ヒラリーの公文書メール問題」である。この謀略政治の実行の証拠が公然と表に出たらヒラリーにとっては命取りだ。 国家行為として相当の犯罪行為の証拠が流出したのである。 / このヒラリーのクリス・スティーブンスとの通信文書の中に、「カダフィを殺してしまいなさい」とか、「集めた金の処理をしなさい」という恐ろしい文書がたくさんあったのである。これらが世界中の大手の新聞社に送られてきて大騒ぎになった。 ■ メール事件とベンガジ事件とヒラリークリントン 「嗚呼、悲しいではないか!(2016.2.16)」より / 【2月14日 AFP】米大統領選に出馬しているヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)前国務長官が在任中に、私用メールアドレスを公務に使用していた問題で、国務省は13日、私用メール551通を新たに公開し、このうち84通を機密扱いに再分類したことを明らかにした。 +続き 国務省は合計5万5000ページに及ぶメールのうち、これまでに4万6000ページ近くを公開した。今月末までには公開を完了させる予定。 13日に公開されたメールは、私用メールサーバーを通じて送受信された文書1012ページ分で、部分的に編集されている。このうち、送信当時に機密扱いではなかった81通は、機密度を表す分類で最も低い「confidential(部外秘)」とし、3通は「secret(秘密)」に分類レベルを引き上げた。 国務省は先月、私用メールサーバー内の文書22件を「top secret(最高機密)」と判断し、発表しない方針を表明した。クリントン氏のメール問題をめぐっては、米連邦捜査局(FBI)が調べを進めている。(c)AFP 1月に公開されたメールには最高機密の「極秘」指定が含まれていたことから、オバマ政権で国防情報局長官だったフリン氏は、最近のインタビューで「私なら(大統領選を)辞退して恐らく監獄に入るだろう」と非難した。 「真実のベンガジ物語」 「暴徒によるリビア・ベンガジの米領事館襲撃事件は、イスラム教の預言者ムハンマドを冒涜する映画がイスラム教徒の怒りを買い、その映画に対するイスラム教徒の抗議行動が発端となって発生した」とされているが、それは大嘘であると暴露している。 ベンガジ領事館は単なる派出所であり、警備も備えておらず、国際補によるホスト国への通知も行われていなかった。 再三にわたって軽微の増強が国務省に申請されているが、全てクリントンの署名入り記録で却下されている。 田夫氏統合参謀本部長は議会公聴会で、ベンガジから数時間の距離にある場所で演習していた特殊部隊は「ベンガジに行く必要なし」と命令されていたと証言した。 派出所から2kmに陣取るCIA要員達も、上司から「待て」の指令を受けていた。命令を無視して現場に向かった数名は命を落とした。 このクリストファー・スティーブンスは忠実なヒラリークリントンの部下であり、実はカダフィの殺しの犯人である。そしてベンガジを米領事館に格上げすべく、有頂天になっていた。 何故、ベンガジ派出所が襲われたのか?オバマもヒラリーも隠しているので未だに分からない。スチーブンス大使はカダフィ体制崩壊後、アメリカがそれ以前にリビアの反体制派勢力に与えていた武器や、特にMANPADS(携帯式防空ミサイルシステム)を回収するという任務に当たっていた。その回収を阻止する、或いは回収した物を奪還する襲撃ではなかったのか? そうであれば、何故仲間の部隊、本来防衛に当たるCIAに出動停止の命令が出ていたのか?その命令は誰から出ているのか?そんなことが22通のメールの残されていると思っている。この22通は公開されないと決まっているらしいが、FBIは調査している。FBI筋からクリントン逮捕の声が漏れるのはこんなところではないのか。 オバマもクリントンも静かに事後処理をしようと思っていたようだ。しかし、リビアの反政府勢力がスティーブンスの死体を引きずり回す映像がインターネットに流された。米国民は強い衝撃と怒りを露にした。静かに事を済ませなくなった。事はどんどん大きくなった。 ベンジャミン・フルフォード氏や前国防情報局長官だったフリン氏がヒラリークリントンは牢獄行きだという声が出ている。 勝手に他国に侵入して、反政府勢力を支援して、元首を暗殺して、そして石油だの金鉱だのを盗む。果ては同僚さえの命を軽んじた薄汚い人間を米国大統領にしていいのか? 良心派の声が、今のヒラリークリントンの支持率に反映されている。 ■ 「ベンガジ事件の真相」読了 「Conservative Blog Japan(2015.3.1)」より / 2012年9月11日、リビア・ベンガジ 「暴徒によるリビア・ベンガジの米領事館襲撃事件は、イスラム教の預言者ムハンマドを冒涜する映画がイスラム教徒の怒りを買い、その映画に対するイスラム教徒の抗議行動が発端となって発生した」とされている。同じ日に発生したエジプトの首都カイロの米大使館襲撃も同じ理由から発生したとされている(カイロでは星条旗が破り取られた)。オバマ大統領は「我々は他者の信教を中傷する一切の行為を拒絶する」「しかし今回のような非道な暴力は、断固として正当化できない」と非難。 「暴力はいけないが、イスラムを冒涜する行為も同じくらい悪い行為である」 このような認識が定着している。 本書「The Real Benghazi Story (ベンガジ事件の真実)」はこれらが真っ赤なウソであることを暴露し、議会証言や記録から読み取れる事実を明らかにするとともに、オバマ政権が隠蔽工作に手を染めている事実を告発するものである。 (※mono....以下略、事件詳細も記述されているのでブログを参照。) .
https://w.atwiki.jp/vip_bass/pages/74.html
山岳ベース事件(さんがく―じけん)とは1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件。当時の社会に強い衝撃を与え、同じく連合赤軍の起こしたあさま山荘事件とともに日本の新左翼運動が退潮する契機となった。 いわゆる楽器の“ベース”とは何の関係もない
https://w.atwiki.jp/maikuragunzibu/pages/1048.html
カンペチェ湾事件とは、瑞州暦1985年8月19日に、メキシコ湾南部のカンペチェ湾で、トラキア・ローマ帝国軍機が瑞州合衆国連邦軍機と交戦した事件である。この事件において、瑞州軍戦闘機は帝国軍機2機を撃墜した。 目次 交戦勢力 1.概要2.事件3.撃墜後4.交戦部隊 トラキア・ローマ帝国 瑞州合衆国連邦 概要 瑞州暦1980年代、トラキア・ローマ帝国諜報機関は国家戦略の観点から、カリブ・メキシコ湾地域への関与を強めており、帝国軍との共同作戦で当該地域に情報収集機や電子戦機を飛ばす等の諜報活動を実施していた。一方、近辺の瑞州合衆国連邦としてはこの状況は受け入れがたいものであり、帝国軍機が防空識別圏(ADIZ)に侵入したことを地上要撃管制や空中管制が確認すると、即座に戦闘機をスクランブルさせていた [(*1)] 。この最中、帝国軍機は何度かの領空侵犯を行っており、瑞州国防軍機は何度かの退去勧告を実施していた他、事件の数日前には実弾による警告射撃を実施するなど、事態は次第に悪化の一途を辿っていた。 事件 トラキア・ローマ帝国軍のランキアリウス P.21。 1985年8月19日、瑞州海軍は本土沖50kmの水域において艦隊演習を行っており、瑞州空軍第220飛行隊の戦闘機2機はそれに協同した戦闘空中哨戒任務に就いていた。これに接近するローマ帝国軍機を探知した瑞州軍の地上要撃管制や早期警戒機は、艦隊や戦闘機に警告を発した。 帝国軍機の飛行ルートは瑞州艦隊に接近しようとするままで変わらず、早期警戒機は空軍機に迎撃を指示した。2機の戦闘機は、レーダー反応による帝国軍機の飛行ルートを推定し、反航するルートを取って迎撃に向かった。 交差するわずか数秒前、推定距離300mで、帝国軍機の1機が瑞州軍機の1機に向けて空対空ミサイルを発射したが、外れた。これにより瑞州軍機は、帝国軍機が通常のような非武装の情報収集機や電子戦機ではなく、武装した戦闘機であると確認した。 2機の帝国軍機は瑞州軍機の横を通過する際に二手に分かれ、一方は北西に、僚機は南東に旋回した。瑞州軍機はミサイルを回避し、敵対行為が開始された場合に自衛を義務付ける交戦規則によって応戦することを許可された。帝国軍機も二手に分かれて大きく旋回し、帝国軍機の背後に迫った。帝国軍機は空対空ミサイルを発射し、各1機ずつを撃墜した。 事件の公式音声記録では、瑞州軍機パイロットの1人が、帝国軍機のパイロットが脱出するのを見たが、パラシュートが開かなかったと述べている。 撃墜後 事件を受けて両国の関係は国交樹立以後最低レベルにまで落ち込んだ。合衆国政府は国家安全保障上の最重要問題として、トラキア・ローマ帝国側の情報収集活動や領空侵犯を非難した。一方帝国は、事件以前は情報収集活動について知らぬ存ぜぬを決め込んでいたものの、事件発覚後は認めざるを得なくなった。しかし事件における戦闘機の攻撃意図 [(*2)] については否定しており、事件の発端についても瑞州軍管制機の過剰反応であると主張した。 事件後、帝国軍は撃墜された機体が第55飛行中隊のランキアリウス P.21であったことを発表した。 交戦部隊 瑞州国防空軍第220飛行隊の龍造寺 F-7B。 トラキア・ローマ帝国軍・第55飛行中隊 - ランキアリウス P.21瑞州合衆国連邦国防空軍・第220戦術戦闘飛行隊 - 龍造寺 F-7B・第408空中警戒管制飛行隊 - ブラウニング E-3 コメント 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/nagaijiko/pages/22.html
・「財布を持っていないからタクシー代が払えない」と発言したにも関わらず、その後コンビニで普通に買物してる事件 ・階段から落ちて血まみれの永井をゲラゲラ笑う事件 ・客がいない日は己の給料のため永井を呼び出す事件 ・キャバ代総額70万払って、できたのはふくらはぎモミモミ&人差し指で2cm乳プニ事件 ・カラオケ10曲予約事件 ・マサムネ狐呼ばわり事件 ・北斗実機破壊事件 ・2月14日にチョコ渡さない事件 ・本命の彼氏(金ズル客)には14日にしっかりチョコ渡してきっちりと一線を引いてる事件 ・たっつぁんが挨拶してもシカトした事件 ・たっつぁんに「あの子性格悪い」言われた事件 ・「(永井は)タクシー」と発言しバッサリ斬り捨て事件 ・コンビニでキッコーマン醤油1.8Lを買わせる事件 ・永井自身が可愛くなかったら半○氏にしている(性格が悪すぎる)と発言してしまった事件 ・永井の誕生日に食いかけのたこ焼きを誕生日プレゼントとして「あーん」してあげた事件 ・営業デートの際、永井の誕生日なので「本当に特別だからね!」と渋々食事代2000円払ったが割り勘にすらなってない事件 ・関ジャニのコンサートチケットを8000円で取らせようとした事件 ・永井んちで味噌汁を作ったが味はイマイチ事件 ・P子が永井宅に来た際、永井はトイレの前でP子の小便の音を聞き勃起した事件 ・2007年7月。永井が無職で無収入な事を知りつつ電話し、自作CDを売りつけようとしてる事件 ・永井にお金が出来ると何故か連絡が来る事件 ・2007年8月。ドクとP子がヤッたのではないかと容疑がかかる。ドク曰く「普通のマ○コ」事件 ・2007年9月。永井がこれ以上会うのはつらいと決別メールを送り、それに対して「せっかく帰ってきてるから遊びたかったけど、それなら仕方ないね」とメールで返信をした翌日、永井に直接「今日遊ぼう」と電話をしてきた事件 ・2007年12月。キャバクラに嵌まるジーコに対し、「ジーコぉ~。キャバ嬢に騙されたらいけんょ」とPからメール。 お前が言うな!事件
https://w.atwiki.jp/sparkkutabare/pages/24.html
懸賞事件1 自分の要らない装備品を餌にして乞食を釣って、自分の日記の書き込み件数を増やそうとした事件 そこまでしないと誰も書き込んでくれないかわいそうな男w ドケチな為、途中で装備品を渡すのが惜しくなり自分を急遽エントリー その事をいっぱい(マダンテ)にばらされる 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/akaki/pages/13.html
Q,2図柄事件ってなんですか? A,これはニコ生プロアカキ氏がハ〇ゲームに導入されたアル〇ナマジックという台を放送し ている際に発生した事件。 彼は以前から「みなみけなら冬馬でしょ」や「まあ可愛い男の子もワンチャンある」など 何処かショタコンを匂わす発言を多々漏らしていたのだが、そういった疑惑をほぼ確固た るものとしたのもこの事件が発端となる。 以下、放送内でのリスナーとのやり取り リスナー「アルカ〇マジックの当たり図柄の中でどれが主の好み?」 アカキ氏「圧倒的に2図柄だな(キリッ」 この発言のどこに問題があるかは、実際にアルカ〇マジックの図柄を参照して頂ければわ かる。そのアカキ氏の絶賛する2図柄、確実に男の子なのである。 勿論その台詞の後多くのリスナーがその事を突っ込み、アカキ氏は顔を真っ赤にして否定 するも彼の一風変わった性的嗜好はリスナーの間に瞬く間に広がり、現在では自明の事実 として定着している。 彼自身も開き直ったのか、男性リスナーに向かって「〇〇のおtんtんぶっしゃあああ」 などのコメントを乱発、周りも若干引きつつ『ネタ』扱いにしている。 まあもちろん口にするだけでは罪ではない。彼が現実世界で何か行動を起こさないか不安 は増すばかりである。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/291.html
Template Coor title d? Template Battlebox? ノモンハン事件(のもんはんじけん)は、1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。 概要 満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件、出来事」と呼び、モンゴル人民共和国のみが「ハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)」と称している。 この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンという名称は、清朝が雍正十二年(1734年)に外蒙古(イルデン・ジャサク旗・エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古(新バルガ旗)との境界上に設置したオボーの一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来する。このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマクと中国内モンゴル自治区北部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。 いっぽうソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である。綴りはモンゴル式では「Халхын гол」、ロシア式では「Халкин-Гол」ないし「Халхин-Гол」となる。 従来までは日本軍の無謀な作戦による大敗北と信じられてきたが、ソ連崩壊によりソ連側のノモンハン事件に関する秘密資料が明らかになり、実は死傷者数、破壊された装甲車両および航空機の数のすべてにおいてソ連側の被害の方が大きい事が明らかになった。これを受けて、軍事知識に乏しい人間の中には、日本軍の勝利であったと主張している者もいるが、戦闘の勝敗は損害の優劣だけで決まらないのは常識以前の話であり、ソ連軍の勝利であることに代わりがない点には注意を要する。 経緯 清朝が雍正十二年(1734年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されてきたが、1932年に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。 1939年にこの係争地でおきた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。5月の第一次ノモンハン事件と7月から8月の第二次ノモンハン事件にわかれ、第二次でさらに局面の変転がある。第一次ノモンハン事件は両軍あわせて3500人規模の戦闘で、日本軍が敗北した。第二次ノモンハン事件では、両国それぞれ数万の軍隊を投入した。7月1日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退された。このあと日本軍は12日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、断念した。7月23日に日本軍が再興した総攻撃は3日間で挫折した。その後戦線は膠着したが、8月20日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、31日には日本軍をソ連が主張する国境線内から一掃した。 停戦交渉はソ連軍の8月攻勢の最中に行われ、9月16日に停戦協定が結ばれた。 開戦の背景 国境紛争 モンゴル側は1734年以来外蒙古と内蒙古の境界を為してきた、ハルハ河東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張したのに対し、1932年に成立した満州国はハルハ河をもって境界線として主張した。満州国、日本側の主張する国境であるハルハ河からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。 本事件の係争地となった領域がはじめて具体的に行政区画されたのは、清代、雍正年間のことである。従前、この地はダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くチェチェン・ハン部の左翼前旗および中右翼旗など、ハルハ系の諸集団の牧地であった。1730年代、清朝が新附のモンゴル系、ツングース系の諸集団を旧バルガ、新バルガのふたつのホショー(旗)に組織し、隣接するホロンバイル草原に配置した。雍正十二年(1734年)、理藩院尚書ジャグドンによりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上にオボーが設置された。本事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものである。 本事件の名称の由来となったノモンハンは、左翼前旗の始祖ペンバの孫チョブドンが受けたチベット仏教の僧侶としての位階の呼称に由来し、チョブドンの墓や、ハルハと新バルガとの境界に設置されたオボーのひとつなどにも、チョブドンの受けたこの「ノモンハン」の称号が冠せられている。 モンゴルは、1912年の辛亥革命を好機として、ジェプツンダンパ八世を君主に擁する政権を樹立した。ただしモンゴルの全域を制圧する力はなく、モンゴル北部(ハルハ四部プラスダリガンガ・ドルベト即ち外蒙古)のみを確保するにとどまり、モンゴルの南部(内蒙古)は中国の支配下にとどまることとなった。バルガの2旗が位置するホロンバイル草原は、地理的には外蒙古の東北方に位置するが、この分割の際には中国の勢力圏に組み込まれ、東部内蒙古の一部を構成することとなった。その後、モンゴルではジェプツンダンパ政権の崩壊と復活、1921年の人民革命党政権の成立、1924年の人民共和国への政体変更などがあったが、これらモンゴルの歴代政権と、内蒙古を手中におさめた中華民国歴代政権との間では、ハルハの東端と新バルガの境界について、問題が生ずることはなかった。 ところが旧東三省と東部内蒙古を領土として1932年に成立した満洲国は、新バルガの南方境界として、新たにハルハ河を主張、本事件の戦場域は、「国境紛争の係争地」となった。モンゴルと満洲国の国境画定交渉は断続的に行われたが、1935年以降途絶した。 満洲、モンゴルの両当事者とも、この係争を小競り合い以下の衝突にとどめるべく、話し合いによる解決を模索しようとしたが、両国の後ろ盾となっている日本、ソ連は、この時期それぞれ、極東方面において相手を叩く口実を探しており、「話し合いによる解決」を模索していた満州国・モンゴルの代表者たちをそれぞれソ連、日本に通じたスパイとして断罪、粛清したのち、大規模な軍事衝突への準備を推し進めてゆく。 「満ソ国境紛争処理要綱」 1938年に起こった張鼓峰事件は、満州とソ連の国境でおこった紛争だったが、関東軍・満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った。この事件でソ連側が多くを得たことに不満を感じた関東軍は、係争地を譲らないための方針を独自に作成した。それが「満ソ国境紛争処理要綱」である。 「満ソ国境紛争処理要綱」は辻政信参謀が起草し、1939年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱は、「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する好戦的方針を示していた。この要領を東京の大本営は黙認し、政府は関知しなかった。 戦争の経過 第一次ノモンハン事件(5月11日-5月31日) 係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦することがあった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相不明である。 第23師団長の小松原道太郎中将は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出した。5月15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えた。 この頃、上空では日本軍とソ連軍の空中戦が頻発し、日本機は自国主張の国境を越えてハルハ川西岸の陣地に攻撃を加えた。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決めた。 5月21日に小松原師団長は再度の攻撃を命令した。出動した兵力は、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式重装甲車1両を持つ)、輜重部隊340人、さらに満州国軍騎兵464人が協同し、総兵力2082人であった。指揮は歩兵第64連隊長山県武光大佐がとり、山県支隊と呼ばれた。 ソ連軍も部隊を送り込み、25日にハルハ川東岸に入った。その兵力は、第11戦車旅団に属する機械化狙撃大隊と偵察中隊からなり、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6装甲車16両を持ち、兵力約1200人であった。これにモンゴル軍第6騎兵師団の約250人をあわせ、ソ連・モンゴル軍の総兵力は約1450人、装甲車39両、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲6門であった。歩兵・騎兵の数は少ないが、火砲と装甲車両で日本・満州国軍に勝っていた。ソ連軍の指揮官は機械化狙撃大隊長のブイコフ大佐で、歩兵の3個中隊のうち第2中隊を北に、第3中隊を南に置き、正面の東をモンゴル軍に守らせて、半円形に突出する防衛線を作った。西岸には第1中隊を控えさせ、砲兵を配した。 山県はソ連軍が刻々増強されつつあることを知っていたが、敵兵力を実際より少なく見積もり、包囲撃滅作戦を立てた。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ川渡河点3か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ川を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。 先行する東捜索隊は、5月28日の早朝にほとんど抵抗を受けることなく突破に成功し、橋の1.7キロ手前に陣取った。これとともに後方陣地への航空攻撃、主力部隊の前進がはじまった。戦闘開始直後、ソ連・モンゴル軍は混乱して一歩退いた。攻撃をほとんど受けなかった正面と南の部隊も退却して兵力を抽出し、西岸から渡ってきた部隊とともに山県・東の部隊に立ち向かった。さらにこの日のうちにソ連の第36自動車化狙撃師団の第149連隊がタムスクから自動車輸送で到着しはじめた。日本軍主力の前進は第一線の陣地を突破したところで停止し、東支隊は孤立した。29日にソ連・モンゴル軍は東捜索隊への攻撃を強め、その日の夕方に全滅させた。東中佐は戦死した。日本軍主力は30日に小兵力の増援を受け取り、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。以後は目立った戦闘は起きず、日本軍は捜索隊の遺体と生存者を収容して6月1日に引き上げた。ハルハ川東岸は再びソ連・モンゴル軍の制圧下に帰した。 この間、日本軍の戦闘機は終始空中戦で優勢を保ち、ソ連軍の航空機を数十機撃墜し、損失は軽微であった。また、日本の戦闘機と軽爆撃機はモンゴル領内の陣地と飛行場を攻撃した。なおモンゴル軍の航空機はわずかで、満州国軍は航空戦力を持たなかった。 第二次ノモンハン事件 日本軍による渡河攻撃と戦車攻撃 (7月1日-6日) ソ連政府は5月末の交戦を日本の侵略意図の表れとみなし、日本軍の次の攻撃はさらに大規模になると考えた。白ロシア軍管区副司令官のゲオルギー・ジューコフが第57軍団司令官に任命され、この方面の指揮をとることになった。このときジューコフは大規模な増援を要求し、容れられた。 6月17日から連日、増強されたソ連軍航空機が自国主張の国境を越えてカンジュル廟を攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。これに対して関東軍は、戦車を中心に各種部隊を増強して反撃する計画を立てた。新たに加わったのは第1戦車団(戦車2個連隊)と歩兵第26連隊(第7師団)のほか砲兵や工兵を含む自動車化部隊の安岡支隊で、第1戦車団長の安岡正臣中将が率いた。作戦にはハルハ川を越えることが含まれていたが、大本営は越境攻撃までは知らされなかった。27日、日本軍はモンゴル領の後方基地タムスクに大規模な空襲を行った。大本営は越境空襲を事後に知らされて驚き、昭和天皇を動かして係争地を無理に防衛する必要はないとの大命を29日に発し、敵の根拠地に対する航空攻撃を禁じる参謀総長の指示を出した。その頃、攻撃のため国境付近に集結しはじめた日本軍に対し、ソ連軍は自国主張の国境を越える威力偵察部隊を送り出して交戦した。 集結を完了した日本軍は、7月1日に敵の背後を断って撃滅する意図をもって行動を起こした。当初の作戦では、ハルハ川に橋を架けて戦車を含む主力が西岸に渡り、敵の背後から包囲攻撃をかけることとされた。しかし、西岸攻撃のために工兵が用意できた橋は演習用の器材を使った貧弱なもので、戦車を渡すことができず、それどころか橋を越えた補給継続の見込みも薄かった。 そこで作戦が変更され、歩兵が西岸に渡って退路を遮断し、東岸に残った戦車が北から攻撃をかけて南下し、敵をハイラースティーン(ホルステン)川の岸に追い詰めて殲滅することを企図した。西岸攻撃には第23師団の第23歩兵団長小林恒一少将が師団所属の歩兵第71連隊と第72連隊をもってあたり、安岡支隊から引き抜いた自動車化部隊の歩兵第26連隊と砲兵隊、工兵隊が後続した。一方、東岸の安岡支隊の主力は戦車第3連隊と戦車第4連隊で、歩兵第28連隊の1個大隊と歩兵第64連隊主力、馬で牽引する野砲兵1個大隊、工兵1個連隊、満州国軍騎兵が属した。うち東を封じるのは満州国軍に任され、今回は南に兵力を送らなかった。総兵力は約1万5000人であった。 ソ連軍は、前回の戦闘と同様、歩兵戦力で日本軍に劣ったが砲と装甲車両の数で勝った。ソ連軍司令部は、ハルハ川東岸への日本軍の攻撃を予想して、第149自動車化狙撃連隊と第9機械化旅団を置いていた。さらに増援軍にハルハ川を渡河させて日本軍の側面を衝く作戦を立て、第7機械化旅団、第11戦車旅団、第24自動車化狙撃連隊が7月1日にタムスクを発った。 ソ連軍と日本軍はほぼ同じ進路で逆向きの渡河攻撃を計画したわけだが、日本軍が先んじて2日に渡河をはじめ、3日に橋を架けた。渡河に直面したのはモンゴル軍の騎兵第6師団であったが、抵抗らしい抵抗をしなかった。ソ連増援軍は3日に戦場に到着し、南に進んでいた日本軍と接触した。装甲部隊を前にして日本軍の行軍は止まった。午前中の戦闘でソ連軍戦車は果敢に突撃して大損害を出したが、午後には遠巻きにして砲撃を加えるようになり、日本兵の死傷ばかりが増えた。第23師団はその日の夕方に撤退を決め、4日から5日にかけて橋を渡って戻った。 ハルハ川東岸(右岸)では、日本軍が87両の装甲車両で攻撃をかけた。主に軽戦車からなる戦車第4連隊は、2日夜に装甲部隊による夜襲をかけた。(大規模装甲部隊による夜襲は世界初で、大変珍しい例である。)攻撃は成功をおさめたが、戦局に影響するほどのものではなかった。主に中戦車からなる戦車第3連隊は、翌3日に防御陣地に対する正面攻撃を行って壊滅し、連隊長吉丸大佐は戦車内で戦死した。ソ連軍は4日に反撃をはじめ、6日に日本軍は退却した。装甲部隊の急速な損耗を憂慮した関東軍司令部の判断によって安岡支隊は9日に解隊され、26日に戦車部隊は戦場から引き上げた。 この期間にはソ連軍の航空勢力が増大した。日本の航空偵察は、この戦闘中ずっと「敵軍が退却中である」という誤報を流しつづけ、上級司令部の判断を誤らせた。 7月の戦闘と戦線の膠着 渡河攻撃と戦車攻撃が失敗してから、第23師団はハルハ川右岸(東岸)に転じて7月7日に攻撃を再開した。第23師団の主力は安岡支隊への増援・交代の形で新たな戦場に到着し、北から南にハイラースティーン(ホルステン)川に向かって進んだ。別に岡本支隊がハイラースティーン(ホルステン)川の対岸を東から西に進んだ。守るソ連軍の中心は第149自動車化狙撃連隊で、砲兵と第11戦車旅団の支援を受けた。歩兵で日本軍が多く、戦車と砲でソ連軍が多いという戦力比はこの時期も変わらなかった。 このときの日本軍は、小規模な夜襲を全戦線で多数しかけて攻撃を進めた。夜には砲撃が衰え、戦車が最前線から引き上げるので、白兵戦を得意とする日本軍にとって有利であった。少ない兵力で何重もの縦深をとったソ連軍の防衛線は、各所で日本軍の進出を許したが、崩壊には至らず、両軍錯綜の状況が生まれた。平原で姿を暴露することを恐れた日本軍は、朝が近づくと進出地点から引き上げるのを常とした。昼になると攻守逆転し、ソ連の装甲部隊、砲、歩兵が日本の歩兵を攻撃した。ソ連軍は夜襲も実施したが、全体的には日本軍に押され、ゆっくりと陣地を侵食されていった。前線指揮官であるレミゾフ第149自動車化狙撃連隊長は8日に、ヤコブレフ第11戦車旅団長は11日に、戦死した。 しかし、当初きわめて楽観的だった関東軍にとって、この作戦の進捗は満足のいくものではなかった。ソ連軍の砲兵力を除く必要があると考えた関東軍は、内地からの増援と満州にあった砲兵戦力をあわせて、関東軍砲兵司令官内山英太郎少将の下に砲兵団を編成し、その砲撃でソ連軍砲兵を撃破することにした。砲兵戦力の到着を待つため、日本軍は夜襲による攻撃を12日に停止し、14日までに錯綜地から退いて戦線を整頓した。 砲兵支援下の総攻撃は、7月23日に始まった。内山少将率いる砲兵団は15センチ加農砲から7.5センチ野砲までの82門をもっていたが、このうち西岸のソ連軍砲兵陣地まで届く砲は46門に過ぎなかったうえに、充分な数の砲弾を準備することができなかった。更に、東岸より西岸の方が標高が高かったことが致命傷になった。ソ連側の砲兵は日本側の砲兵を見下ろすかたちで砲撃することができたのである。このため、次第に日本軍砲兵はソ連側の砲撃に圧倒された。またソ連軍は前回の攻撃の末期にあたる7月12日から歩兵の増援を受け取っており、総攻撃はわずかに前進しただけで頓挫した。日本軍は3日間の戦闘で攻勢をあきらめ、冬営に向けた陣地構築に入った。 日本軍は7月25日までに参加兵力の3分の1にあたる約5000人を失った。攻撃を停止した日本軍は、敵の砲撃を避けてハルハ川から離れ、ハイラースティーン(ホルステン)川両岸に西向きに布陣した。北に離れたフイ高地には渡河攻撃を断念したときから小部隊がおかれており、反対の南側の左翼では限定的な攻撃を行って翼を延伸した。ソ連軍も各所で小規模な攻撃を試みたが撃退され、8月20日まで戦線は膠着状態になった。 8月4日、日本軍はノモンハン戦の指揮のために新たに第6軍を創設し、荻洲立兵中将を司令官に任命した。これより先、ソ連は7月21日に第57狙撃軍団を第1軍集団に改組し、引き続きジューコフに指揮をとらせた。 ソ連軍の8月攻勢 日本軍が攻勢をとっていた頃から、ソ連軍は後方で兵力と物資の集積を進め、総攻撃を準備していた。だが日本軍は冬営のための物資輸送にも困難をきたしていたため、大きな増援ができなかった。防衛線についていた日本軍部隊は、北から、フイ高地を守備する第23師団捜索隊、ハイラースティーン(ホルステン)川の北にあるバルシャガル高地を守る歩兵3個連隊(歩兵26、63、72の各連隊)、ホルステン川の南にある第8国境守備隊と歩兵第71連隊であった。加えて、ノモンハンから約65キロ南に離れたハンダガヤに第7師団の歩兵第28連隊があった。その陣地は横一線に長く、兵力不足のため縦深がなかった。防衛線の左右には満州国軍の騎兵が展開して警戒にあたった。 攻撃側のソ連軍は歩兵と砲の数で倍近く、加えて戦車498両と装甲車346両を用意しており、日本側に対して全面的に優勢な兵力だった。ソ連軍の作戦は、中央は歩兵で攻撃して正面の日本軍を拘束し、両翼に装甲部隊を集めて突破し、敵を全面包囲しようとするものであった。シェフニコフ大佐が指揮する左翼の北方軍は、第82狙撃師団第601連隊と第7機械化旅団、第11戦車旅団からなり、フイ高地の捜索隊を攻撃して南東に進んだ。ペトロフ准将が指揮する中央軍は、歩兵4個連隊と1個機関銃旅団(第82狙撃師団の2個連隊と、第36自動車化狙撃師団の2個連隊、第5機関銃旅団)からなり、ハイラースティーン(ホルステン)の両岸で正面から攻撃をかけた。ポタポフ大佐が指揮する右翼の南方軍は、歩兵3個連隊と機械化旅団、戦車旅団各1個(第57狙撃師団の3個連隊と、第8機械化旅団、第6戦車旅団)からなり、日本の第71連隊を攻撃してハイラースティーン(ホルステン)に向けて北進した。北方軍の北にはモンゴル軍の第6騎兵師団、南方軍の南にはモンゴル軍の第8騎兵師団が付いて警戒にあたった。左右両翼でのソ連軍の優位は圧倒的で、中央でも火力の優勢を保っていた。 8月20日、爆撃と砲撃の後にソ連軍の前進が始まると、日本側右翼(北側)の満州国軍は直ちに敗走し、これによりフイ高地の師団捜索隊は孤立した。ジューコフは、フイ高地の攻略に手間取ったシェフニコフを21日に解任し、予備を投入して日本軍主力の背後へ進撃させた。捜索隊は24日夜に包囲を脱してソ連側主張の国境の外に退出した。21日には南翼でも南方軍の装甲部隊が日本軍の側面から背後を脅かす位置に進出した。 第6軍司令部は攻勢開始時に未だ後方のハイラルにあり、ようやく8月23日に司令部を戦場付近に進めた。荻洲軍司令官はソ連軍の攻勢を知ると、直ちに第28連隊をハンダガヤから呼び寄せ、これに前線から引き抜いた歩兵第26、72、71の諸連隊をあわせて左翼(南)で反撃(攻勢転位)する作戦を立てた。反撃の開始は8月24日で、ソ連軍の最右翼にある第57狙撃師団第80連隊が、南方軍の装甲部隊とともにこれを迎え撃った。反撃部隊の大部分は予定の日時に攻撃開始位置に到着できず、ばらばらに戦闘に参入し、砲爆撃の支援を欠いたまま正面攻撃を実施した。24日に第72連隊だけで攻撃を行った右翼隊は大損害を出して壊滅した。24、25の両日にわたる左翼隊の攻撃も挫折した。 反撃に兵力を抽出したため、日本軍の側面と背後はがら空きになった。北から回り込んだソ連軍左翼は23日には日本軍の後背に出て、26日にバルシャガル高地の背後にあった砲兵陣地を蹂躙した。南で反撃を退けたソ連軍右翼も、27日にノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊を全滅させた。前線の日本軍諸部隊は、背後に敵をうけて大きく包囲され、個々の陣地も寸断されて小さく囲まれた。限界に達した日本軍部隊は、夜の間に各個に包囲を脱して東に退出した。すなわち26日夜にノロ高地の第8国境守備隊が後退し、ついで戦場外に退出した。29日夜にはバルシャガル高地の第64連隊が脱出した。小松原第23師団長は第64連隊救援のため自ら出撃したが、これも31日朝に後退したのを最後に日本軍は係争地から引き下がり、主要な戦闘は終了した。この作戦の間、ソ連陸軍は自国主張の国境線の内にとどまっため、退出した日本軍諸部隊はその線の外で再集結した。 停戦成立までの戦闘 ソ連軍は戦場となった係争地を確保し、陣地を築いた。日本軍はソ連・モンゴル側主張の国境線のすぐ外側に防衛の陣を敷いた。関東軍は兵力を増強して攻撃をかける計画を立てた。作戦は、一部兵力によって敵の退路を遮断し、夜襲によってソ連軍の陣地を突破することを目指した。しかしこの段階では、歩兵で勝っていた7月までと異なり、増強を計算に入れたとしても、あらゆる戦力要素が日本軍に不利になっていた。 東京の大本営は、関東軍の楽観的な報告により、8月26、27日まで戦闘が有利に進んでいると認識していた。が、急激な事態の悪化を知り、日本軍が引くことで事態を収拾することを決め、9月3日にノモンハンでの攻勢作戦を中止し係争地から兵力を離すように命じた。 他方、南方のハンダガヤ付近では、増援に来着した歩兵2個連隊を基幹とした片山支隊が8月末から攻撃に出た。この地区で日本軍に対したのはモンゴル軍の騎兵部隊で、9月8日と9日に夜襲を受けて敗走した。9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうち主戦場となったノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。 ソ連軍の猛攻の過程で、日本軍の連隊長級の前線指揮官の多くが戦死し、生き残った連隊長の多くも、戦闘終了後に敗戦の責任を負わされて自殺に追い込まれ、自殺を拒否した須見第26連隊長は予備役に編入されるなど、敗戦後の処理も陰惨であった。その一方で独断専行を主導して惨敗を招いた辻政信・服部卓四郎ら関東軍の参謀は、一時的に左遷されたのみで、わずか2年後の太平洋戦争開戦時には陸軍の中央に返り咲いた。また、壊滅的打撃を受けた第23師団の小松原師団長も、事件の1年後に病死したが、これも実質的に自殺に近い状況だったと見られている。 航空戦 航空戦の主力となったのは日本軍は九七式戦闘機、ソ連軍はI-153とI-16であった。当初はソ連軍に比べて日本軍搭乗員の練度が圧倒的に上回っており、戦闘機の性能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、I-16に対しても、一長一短はあるものの(I-16は武装と急降下速度に優れ、97式戦は旋回性能に優れる)、ほぼ互角であった。また、投入した航空機の数も、当初はほぼ互角であった。そのため、第一次ノモンハン事件の空中戦は、地上戦とは異なり、日本軍の圧倒的な勝利となった。 日本陸軍航空隊の搭乗員達の活躍は目覚しく、20機以上撃墜エースが23名おり、なかでもノモンハンエースの篠原弘道は3ヶ月で58機撃墜した。ノモンハンエースはほかに樫出勇、井上、西原五郎などいる。ただしこれらの記録には、かなり誤認戦果も含まれる。 その余勢を駆って、6月27日、関東軍は陸軍中央に独断で日本側の主張する国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場を爆撃して、戦術的には大戦果を上げた。しかしこれは国境紛争を全面戦争に転化させかねない無謀な行為だったので、陸軍中央の怒りを買った。 第二次ノモンハン事件に入ると、ソ連軍は日本軍をはるかに上回る数の航空機を動員して、搭乗員の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒するとともに、スペイン内戦に共和国側の義勇兵として参加してドイツ空軍と戦っていた戦闘経験豊富な搭乗員を派遣し、搭乗員の質でもある程度日本軍に対抗できるようになる。 ソ連側は戦術を変更し、旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対し、操縦手背面に装甲を装備したI-16による一撃離脱戦法に徹するようになった。これにより日本軍は以前のように撃墜戦果を挙げられなくなったばかりか、損害が目立つようになった。 第一次と第二次を併せたソ連側損失は、日本側の主張では1252機。またソ連側がかつて主張していた損害は145機、後のソ連崩壊直前に訂正された数字では被撃墜207機+事故損失42機。一方、日本機の損害は記録によると大中破も合わせて157機(未帰還及び全損は64機、内97戦は51機で戦死は53名)だった。日本側の損耗率は60パーセントで、最後には九七式戦闘機の部隊が枯渇して、旧式な複葉機の九五式戦闘機が投入されるに至った。これらの戦訓から陸軍は航空機の地上戦で有効性と損耗の激しさを知り、一定以上の数を揃える必要性を痛感したという。なお、若手将校を多数失ったことは、陸軍戦闘機隊の崩壊さえ招きかねない事態と危惧され、兵卒からの進級を積極的に進め、さらに少年飛行兵の募集を強化するなど、海軍に先駆けて航空戦力の拡充を図る端緒となった。 なお、九七式戦闘機がソ連空軍機に対してその旋回性能が最後まで強力な切り札だったことから、陸軍航空隊では格闘戦重視の軽戦闘機が主流となったが、一方でソ連機を取り逃がした経験から速度や急降下性能の必要性も強く認識され、卓上では最後まで結論は出なかった。そのため旋回性能重視の一式戦と速度と武装重視の二式単戦の二つの戦闘機が実用化され、最後に四式戦で統合された。 陸軍中央では紛争の拡大は望んでいなかったため、戦場上空の制空権を激しく争った戦闘機に比べると爆撃機の活動は限定的であり、6月27日関東軍の独断で行われたタムスクのソ連航空基地への越境攻撃はあったものの、重爆撃機隊も含めて地上軍への対地協力を主として行った。紛争後半の8月21日、22日には中央の許可のもとにソ連航空基地群に対する攻撃が行われたが、既にソ連側が航空優勢となった状況では損害も多く、その後は再び爆撃機部隊の運用は対地協力に限定された。他方、ソ連軍の爆撃機による日本軍陣地、航空基地への爆撃は活発であり、7月以降に登場した高速双発爆撃機ツポレフSB-2、四発爆撃機ツポレフTBは日本軍の野戦高射砲の射程外の高空を飛来し、九七式戦闘機での要撃も容易ではなく大いに悩まされたが、その戦訓が太平洋戦争に活かされたとは言い難いようである。 戦局への影響という点で大きかったのは日本軍の航空偵察で、茫漠として高低差に乏しく目立つランドマークもないノモンハンの地形にあっては航空偵察による情報は重要であり、新鋭の九七式司令部偵察機を始め多数の偵察機が運用された。しかし、ソ連軍の偽装を見抜けずに、動静を見誤ってたびたびソ連軍の後退を伝える誤報を流すなどして、後方の司令部に実態と乖離した楽観を抱かせる原因ともなった。 停戦後の国境確定交渉 一方、ソビエト連邦の首都モスクワでは、日本の東郷茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。 だが、ソ連側の強硬な姿勢と、東郷が停戦協定を締結しても独断専行で事を進める関東軍が従うかどうかを憂慮して慎重に事を運んだ事もあって、両国の間においてようやく停戦協定が成立したのは9月15日の事であった。停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、最終的な国境線の確定はその後の両国間の外交交渉にゆだねられた。 交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。対立の対象となった地域のうち、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって確定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで確定した。 後半は、ノモンハン事件-2参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 12 00。
https://w.atwiki.jp/df_another/pages/202.html
フラクタリア事件 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/noburan/pages/5.html
【抱きつき事件】2/3、ツイは削除済み @AkahaArashi やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい!拡樹くんに抱きついてしまった(; _ ;) @AkahaArashi あのねあのねあのね舞台終わって新宿駅にいってからシアターに戻ったら ちょうど拡樹くんが帰るところでね思わず抱きついてしまった……しかも大泣きしてしまったのよ… 今考えるとめちゃめちゃなことしたよね! @AkahaArashi @***** 拡樹くんの周りにはファンの方々がいた事に後で気づいた← でも凄く優しく抱きしめてくれたの。でね、大丈夫?って何度も何度も声かけてくれてほんとに優しいんだなって思った。私の100倍以上疲れてるのにめちゃめちゃ笑顔で話してくれたの。でね、最後に落ち着いた?って! @AkahaArashi @*****ホントにいい人でした(≧∇≦*)最後まであれだけ笑顔でいられるってホントに凄いことだよね!とりあえずお姉さま方はめっちゃ友達みたいにはなしててすごいなって思ったよ! @AkahaArashi @*****そうなんだ?やっぱり凄いな。なんていうか拡樹くんの優しさがしんぞうに悪いよね(*゚â ゚*) なんか急に抱きついたって完全な不審者なのに拡樹 くんは優しかったからそれがうれしくて涙が出ちゃうよ!お姉さま方には申し訳ない事をし てしまったよね… @AkahaArashi@***** ホントにミラクルだよ!頭ポンポンされたときは逆になみだが止まらなくて一回拡樹くん見てからまた抱きついてしまったよ(≧∇≦*) @AkahaArashi@***** ホントに夢かと思ったよ!!そのあと抱き締めてくれたし、ホントに優しいんだなって思った!カッコイイよね、ほんと!大好き!! @AkahaArashi@***** 拡樹くん!って叫びながら突進したからかな?桜さんに拡樹くん来ました?って、聞いた直後だったし、人だかりが動いたから行かなきゃ!みたいな? @AkahaArashi@***** 周りなんて気にしてる余裕はなかったです!でも拡樹くんいい匂い(^O^) 今日は抱きしめられた時に来てたコートを抱きしめながら寝ます(笑) @AkahaArashi@sennenzakura02 今日はお待たせしてすみません!拡樹くんの天使具合が半端なさすぎでした(笑) 今度拡樹友の会でゆっくりお話とかしたいです! あかは@AkahaArashi3 Feb @hiroki_0604今日は本当にお疲れ様でした!2公演とも気合の入った舞台でとても楽しかったです!さっきはいろいろ失礼致しました。今から帰ります。次の千秋楽楽しみにしています! @sennenzakura02 @****** この抱きついたファンの子って私のフォロワーさんなんだけど、抱きついたのは見て無いけど出待ちしてたんじゃ無いよ! たまたま私の充電器間違えて持って帰ってしまい、待ち合わせた時に道に迷って遅くなった所に拡くんが出て来た!のが真実です。垢を晒すのはどうかと思うけど! 422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/04(月) 11 35 08.20 ID 8s6+2kmH 子連れキチは駐車場付近でキャスト見つけて呼び止めるの初めてじゃないよ 紀伊國屋の駐車場に車停めてるのを言い訳にして 「出待ちしない主義」とか「偶然会ってラッキー」とか書いてるけど これわかっててやってるだろ @occhibi 今日はなんだか和やかで楽しかったよー。あんな雰囲気いいよな。楽しそうだったし、みんなでわいわいできてよかった。こういうのもいいな。 @occhibi 今日も割合和やかでよかったなー。ちょっと邪魔されたけど、まぁそこは想定内か。今回いいな。変なのもあんまりいないし。 @occhibi あービックリした…まだ思い出すと心臓がドキドキしてる。東堂ファンの女子より確実に軽犯罪のにおいがするよあいつ… @occhibi 今日ね、一番いい席だったの。出来もすごくよかったの。でもキ○ガイが突撃して来ていろんなことが吹っ飛んだ。刺されたかと本気でビックリして呆然とした。 @occhibi 楽しかったはずなのに、その事件のせいでものすごく疲れた。 あーあ… 例の抱き着き事件前後のお団子さんのお仲間のツイート このスレが出来てから鍵かけたけど、これを鍵なしでツイートするあたり、頭弱いよねw おまけ @AkahaArashi@sennenzakura02きいくにや今目指してます!!