約 3,931 件
https://w.atwiki.jp/vipdetyuuni/pages/31.html
『なあ・・・・・何時になったらお前の所に行ける?』 【鎖縛薔薇】 自分の半径10mから鎖を好きな所から出せる 鎖は伸ばしたり、縮めたりできるが太さは変えられない 更に鎖には短い刃が無数に付いている ただし、能力の使用中は顔以外は動かせない プロフィール 性別 男 年齢 ? 能力分類 【操作系】 能力属性 【鎖】 誕生日 九月十七日 身長 178cm 体重 58kg 趣味 読書・美術品収集 好きな食べ物 野菜料理 嫌いな食べ物 特になし 得意スポーツ チェス 好き 古書・美術品 嫌い ? 大切 友 トラウマ 友人を殺めた事。 【人物】 ローブを着、西洋剣を持った人物。年齢不詳。 この世界からしばらく離れていたが、戻ってきた。 昔居た人々が居なくなっている事に悲しさを覚えつつも、日々を過ごす。 美術展を開いたりしている美術マニア。 美しいモノには目が無く、それに夢中になる事がある。 古書などにも興味を示す。要するに歴史のあるモノが好き。 【装備】 【西洋剣】:【剣林弾雨】に創ってもらった剣。羽のように軽い。 【ブラン・クローク】:闇のダメージを軽減するローブ。【神的仕立】に創ってもらった。 【幻糸】:友から託された大切な物。実は三本存在しているが失われこれが最後の一本。 生物の人形を造れる。だが、彼でしか命は吹き込めない。 【工具発射式拳銃】:リボルバー部分の切り替えにより、 釘、ボルト、螺子がを発射することが出来る特殊な銃。 しかし普通の弾丸は発射不可能。 初期弾数:釘30本、ボルト20本、螺子20本。 【GNキューブビット】:擬似太陽炉を組み込まれたキューブ型ビット。 大きさは20cm立法ほど。自在に飛行することが出来る。 またGN粒子による軽量化効果により、素早い動きと高い頑丈さを両立している。 ただし6レス使用する度に2レスのチャージタイムが必要となる。 移動しながらの扱いは難しい。攻撃も若干緩慢になる。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/144.html
哀声地に満ち…… 五月三日から始まった東京裁判は、通例の法廷手続きに従い、(1)検察側立証、(2)弁護側反証・ 32 、服舳川榊(、.卜..年..月から)、㈹介触側反鮒・個人殴榊(二十二年九月から)、㈹検繊側反証(二士二 年一月)、㈹検察側最終論告(二十三年二月)、⑥弁護側最終弁論(二十三年三月)の各段階を経て・ 判決に至った。 訴因は「平和に対する罪(訴因第一~三六)、「殺人及殺人共同謀議の罪」(訴因第三七~五二)・ 「通例の戦争犯罪及人道に対する罪」(訴因第五三~五五)の三種に区分され、二八人の被告は多い 者で五四項目、少ない者でも二五項目に該当するとされた。 「南京攻撃に依る中華民国の一般人及非武装軍隊の殺害」は訴因第四五に当り、松井大将以下一 二名が名前を並べているが、実質は松井だけのために設定された訴因と見てよい。 検察側立証段階におげる南京事件の証人出廷は二十一年七月二十五日、当時金陵大学付属鼓楼 医院に勤務していたウイルソソ医師を先頭に、八月末まで一か月以上にわたってつづいた。 証拠は大別して二つのカテゴリーになる。一つは事件当時南京にいた国際安全区委員会の外国 人たちで、本人が出頭して垂言したのはウイルソソ、べ-ツ、マギー、スマイス、口供書だけを 提出したのが、フイツチ、マツカラム牧師、ダーデイソ記者(検察側不提出)だった。また全部は 朗読されたかったが、委員会が日本の官憲に提出した抗議文書を集録した「南京安全区櫨案」 (一九三九年徐淑希編)、スマイス博士(■睾蒜印O.ω昌言ま)が編集した「南京地区における戦 争被害」(.、ミ、、一)纈昌、胴。一、亭、2彗ζ轟賢員,U①・①昌σ彗ε彗3竃胃9宕竃一望彗的言二⑩竃)・ 33
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1449.html
渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』 琉球大学図書館。日付なし。手書き・ガリ版刷り。伊敷論文よりの復元版。 大阪地裁の公判において『渡嘉敷島における戦争の様相』は原告側証拠甲B23及び被告側証拠乙3として提出された。また、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』は被告側証拠乙10として提出された。参照:書証一覧 まえがき この記録は米軍上陸から赤松隊降伏までの沖縄戦の一端渡嘉敷島の一部を記録しましたが本島と切離された孤島の戦線は幾多相様を異にするものが多々あった。 当時村長古波蔵惟好氏、役所吏員防衛隊長屋比久孟祥(現生存者)等の記憶を辿って其の概要を纒めたものでありますが過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し、そして今後幾多反省すべきことがあるかを痛感した。将来に再度この様な事を繰返すことのないよう永遠に平和を愛好し人類の幸福と繁栄を自由の中に樹立して行くよう願って止まない。 昭和十九年九月二日七千屯級の汽船が慶良間海峡、阿佐港外に停泊してゐた。その船を目標に友軍戦闘機が三機編隊で毎日急降下演習が続けられてゐる。 この汽船は兵器弾薬を南方へ輪送するものと住民は相像してゐた。 同 九月七日沖縄憲兵隊某軍曹が突然来島した。用件は渡嘉敷の漁船を軍需部の漁撈用に徴用の目的であった。 鰹漁船、嘉豊丸、源三丸、神祐丸、信勝丸の四隻は乗組員一三〇名と共に九月八日午前四時を期して阿波連港へ集結を命ぜられ同日午前十時那覇港へ出発した。 旬日を出でずして村営航路嘉進丸も軍需運搬の目的で徴用され、那覇、久米島間の輸送任務についた。軍は秘密保持のため移動性のある船舶の慶良間各港の出入を堅く禁じていた。 同 九月九日午前八時南方行きと思はれた汽船から渡嘉志久に小型舟艇が近づいて来た。驚いたことには、武装した陸軍の兵隊が上陸してきたからである。或る兵に尋ねたら渡嘉敷に駐屯するとのことである。部隊は鈴木部隊で兵員一千名、基地隊と呼ぱれた。鈴木部隊は渡嘉志久に上陸を完了し渡嘉敷部落へ前進した村国防婦人会は部隊歓迎のため総動員で湯茶の接待をし軍の慰労に努めた。兵員の中には長途の輸送で疲労した為か下痢患者を続出する有様であった。部隊の宿舎には住民の住家があてがわれ、村民は部隊長鈴木少佐の要請により男子十六才から六〇才まで、女子十六才から六〇才までが部隊に協力九月十日から陣地構築作業に従事した。 同 九月二十日特幹船舶隊と称する部隊が赤松大尉を隊長とし兵員一三〇名と舟艇百隻をもって来島渡嘉志久と阿波連に駐屯し日夜猛烈な攻撃演習が秘密裡に行われていた。 数日後徴用された漁船は漁業の根拠地を渡嘉敷港に変更された為、全漁船帰港連日鰹漁業に従事軍需獲得に従事した。 同 十月十日那覇上空は爆音と共に平素と異った様子が見られた。時には高射砲の弾雲も見受けられるので鈴木部隊本部に問ひ合わすと友軍の対空射撃演習だとのことで村民は安心して何時もの通り陣地作業へついた。漁撈班においても嘉豊丸は出漁し源三丸神祐丸は港内に繋留してゐた。その頃前島前方の上空では数百の飛行機が乱舞してゐたが間もなく八千米の上空に四機編隊の銀翼が見られ異様な爆音に不案を抱きながら眺めてゐると飛行機は機首を下げて底空すると同時にダヾヽヽと機銃掃射を始めた。はじめて敵機の空襲と知り村民は上を下への大混乱に陥った大人は陣地作業のため留守であり老人は幼児をかヽえ教員は学童の手を引き右往左往待避に長時間を要した 敵機の空襲は益々猛烈を極め機銃掃射と共に小型爆弾が投下され、何回となく波状空襲が繰り返へされた。 嘉豊丸は東海岸で餌料採捕中、爆沈され、機関長古波蔵鉄彦氏は戦死し、他の乗組員はかろうじて生命を得た。源三丸、神祐丸、は港内に於て炎上沈没し軍用船(えぴす丸)も港内待避中爆破され、戦死者二名を出した。村営航路嘉進丸は軍需物資輸送久米島からの帰途渡名喜島沖合で空襲を受け撃沈され機関長金城連平事務長小嶺賀明の命を奪った。船長古波蔵良秀は三日漂流の後渡名喜島へ上陸生還した。全漁船を失った乗組員は翌日から陣地構築作業に従事すると同時に各高地に設けられた軍監視哨勤務につき、日夜軍に協力した。状況は日毎に悪化し島の東海岸には暗夜に乗じ接近浮上した敵潜水艦の姿が度々見受けられた。 同十月下旬、 今まで自家通勤で軍陣地作業に従事していた村民に防衛隊として七十九名の召集が下令された。兵舎には村の国民学校が充てられ初年兵勤務が続けられたが教練ではなく壕掘作業に従事し、昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた。 サイパン島陥落後状況は益々悪化し、沖縄部隊へ入隊する現役兵を送り出すにも困難を極めた。学童も率先して軍に協力し婦人会、青年団員も軍の炊事班に徴用された。その頃軍の防衛陣地及壕は大方完成し舟艇の待避壕も完成、海辺に至る枕木も敷設を終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は全く完了した。 昭和二十年二月下旬 渡嘉敷島の陣地構築は殆んど完成したが基地隊である鈴木部隊は整備中隊と通信隊の一部及赤松隊特幹隊を残し、沖縄本土防衛のため島尻地区へ移駐した。それと前後し水上勤務中隊と称する朝鮮人軍夫三百二十名が楠原中尉を隊長として来島し、その任務についた。鈴木部隊移駐後は村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した。 同 三月二十三日午前五時空襲讐報が発令された。事態は悪化し早朝からグラマン機の波状空襲が間断なく燥り返された。 B二十九と思われる大型機の編隊も再三飛来し爆音は山谷にこだまし、耳をつんざく凄しさである。午前八時半村役所、郵便局が犠牲となり続いて防衛隊の兵舎である国民学校の爆破炎上し部落も大半焼失した。伊野波診療所長外十名は村役所附近の壕で待避中重症を負ふた。 空襲は一時止んだ。住民は事前に構築してある谷間の待避所へと避難を急いだ。平素の防空訓練も実戦には全く駄目であった。明けて二十四日、二十五日も空襲は続き美しき山河は火の海と化し、夜空を真赤に染めた。永年住みな {(引用者注)奈の仮名}れた故里も今は戦場と化したかと思へば涙すら出ない程であった。 同三月二十五日未明米軍は艦砲の援護射蟹の下に阿嘉島に上陸を開始したが間もな {(引用者注)奈の仮名}く慶良間海峡に潜水艦を伴った艦隊が浸入し如何にも日本軍を見くびったかの如く悠々と投錨し渡嘉敷陣地を攻撃し、山谷や部落はまたヽく間に昔日の面影を止めざる焼土と化した。午後後十一時赤松隊長は特幹隊員に出撃準備の令命を発した。 夜空に敵艦砲の落下もものかわと防衛隊七十余名、男女青年団員一〇〇名壮年団員三〇名、婦人会四十名が軍に協力、舟艇百隻は待避壕より引き出され二十六日午前四時渡嘉志久、阿波連の海辺に勇姿を揃へた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は勇躍乗船しヱンヂンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて出撃の命令を今かヽヽと待っていた。 防衛隊員新城信平上等兵以下八名は機関銃をかヽえ援護射撃の陣地へついた。東の空は白みつつあり出撃の機を失しつヽありな {(引用者注)奈の仮名}がら赤松隊長は出撃命令を下さず壕の奥に待避し戦闘意識を全く失っていた。 百隻の舟艇は出撃の勇姿を揃へたまヽ夜明けとな {(引用者注)奈の仮名}り敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考へてか、或は気が狂ったのか。全舟艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが。上官の命令に抗することも出来ず既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山の奥深く待避し赤松隊の生き伸ぴ作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた。 船舶団長三宅少佐も座間味島を抜け出し赤松大尉と行動を共にした。 同三月二十六日敵は海空援護射撃の下に渡嘉志久、阿波連より上陸を開始した。が赤松隊は応戦の意志は勿論、武器、弾薬を放棄し隊長以下全将兵の生き伸び作戦が西山陣地に於て始められ敵は完全にこの島を無血占領した。 同三月二十七日 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよとの赤松隊長の命令が伝達された。その夜は物凄い豪雨であった。米軍の上陸は住民に生きるに安全な {(引用者注)奈の仮名}場所を失はしめ、ひたすらに頼るは赤松隊のみである。ハブの棲む真暗な山道を猛雨と戦いつヽ、子を持つ親は背に嬰児を負い、三ツ児の手を引き、合羽の代りに叺や莚を覆ひ、老人の足を助けながら砲弾の中を統制もなく西山へたどりついた。雨の谷間は親子、兄弟を見失った人々の叫声がこだまし、全く生地獄の感である。西山の軍陣地へたどりついた住民は兵事主任新城真順をして結集場所を連絡せしめた。赤松隊長は意外にも住民は軍陣地外へ徹退せよとの命令である。 同三月二十八日午前十時住民は涙を呑んで軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集った。その頃島を占領した米軍は友軍陣地北方百米の高地に陣地を構え完全に包囲体型を整え迫撃砲を以て赤松陣地に迫り遂に住民の退避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事こヽに至っては如何ともし難く全住民は皇国の万才と日本の必勝を祈り笑って死なうと悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々二個が唯一の頼りとなった。 各々親族が一かたまりになり一発の手榴弾に二、三十名が集った。手榴弾がそこ、こヽで発火したかと思ふと轟然たる無気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。死にそこなったものは梶棒で頭を打ち合ひ、剃刀で自らの頸部を切り、鍬で親しい者の頭をたヽき割る等世にもおそろしい情景が繰り拡げられ、谷川の清水は血の流れと化した。一瞬にして三二九人の生命を奪った。その憎みの盆地を村民は今なお玉砕場と呼んでいる。手榴弾不発で死をまぬかれた者は軍陣地へと押しよせた。赤松隊長は壕の入口に立ちはヾかり軍の壕へ入ってはいけない速に軍陣地を去れと厳しく構え住民を睨みつけた。 住民はすごヽヽと軍陣地東方の盆地に集り一夜を明した。 同二十九日米軍の迫撃砲は執拗にも集民待避の盆地へ飛来し住民三十二名の命を奪ひ去り防衛隊数名の戦死者を出した。 同三十一日米軍は赤松隊の兵力を見くぴったか夜半島を徹 ママ 退した。空襲も止み生き延びた住民は張りつめた気力を失ひ五日間の空腹に夢遊病の如くさまよい歩む足どりもふらヽヽと浮いていた。死場所を失った住民は迷い歩いた揚句僅かな食糧を残して置いたもとの避難地恩納河原へ集った。 赤松隊も持久態勢に入り食糧確保に奔走した。 間もなく赤松隊長からの命令が伝達された。我々軍隊は島に残って凡ゆる食糧を確保し持久態勢を整へ上陸軍と一戦を交えねぱならぬ、事態はこの島に住むすべての人間に死を要求していると主張し住民に家畜屠殺禁止の隊長命令が出され違反者は銃殺といふ厳しい示達である。直ちに住民監視の前哨線が設けられ多里少尉がその任についた。 住民の座間味盛和にスパイの嫌疑をかけ、無実の罪におとし入れ斬り殺したのも多里少尉である。 亦家族の全部を失って山をさまよい歩く古波蔵樽を之敵に通ずる恐れありと高橋伍長の軍刀にかける等住民に対する残虐行為がはじまった。 海峡には敵飛行艇百五十隻が常駐、駆逐艦十数隻、小型空母等が周辺に停泊していた。その他艦船を含む船舶の数は三〇〇隻を下ったことはない。 時々友軍特攻隊の攻撃もあったが敵対空砲火には抗し難く火を吐き海中に落下する尊い姿も見られた。 同 四月下旬頃から軍民共に飢饉にひんし、蘇鉄の切干に野草を混じた代用食で露命をつないだ。 元気の者は監視の眼を逃れて島の各所から蘇鉄を集めた。生き残った防衛隊員は軍の命により防衛隊長屋比久孟祥の指揮で軍の食糧獲得に努力した。 同五月初旬軍は遂に住民の保有している僅かな非常食糧の供出を強要し朝鮮人軍夫をして食糧を徴集せしめた。住民は急激に老、幼男女の栄養失調が続出し生き延ぴて無甲斐さを感ずる者もあった。気力ある者は夜間海岸に出で、米艦船から捨てられた肉切れや、果物の標流物を探し求めて食糧の足しにした。座間味島を逃れて赤松大尉と行動を共にした三宅少佐は危険の多いこの島を脱出し沖縄本島へ抜け出すことを考へ絶えず機会をねらっていた。防衛隊員の中から割舟に経験のある者の調査が行われた。この時の白羽の矢が防衛隊員小嶺賀牛、玉城定夫の両名に当った。本人達は希望する所でなかったが軍命であれぱ致し方なく決死行の意を固めた。 刳船は三宅少佐外三名の軍人を乗せ漕手の糸満漁夫二名と共に渡嘉敦港を出発した。 静かな海峡を敵艦艇の監視綱をくぐり、四哩の海路を見事前島部落へ辿りついた。 前島北方海岸に刳舟をかくし上陸して見ると住民の姿は見受けられない。その夜も沖縄本島への砲撃は寸時も止まぬ照明弾の合間に砲声は十六哩の海をこえて耳をつんざく有様である。夜は明けて昼の沖縄本島を望めぱ無事目的を達することは到底望めない。然し少佐は万難を排して決行せよとのことである。宵暗と共に前島を出発したが掃海艇の讐戒厳しく二回、三回と失敗を操り返し命からヾヽ引返した。鈴木少佐は舟長小嶺賀牛を呼ぴ出し言葉厳しくなじった。小嶺は慎重を期せねぱ目的達成はおぼつかないと答へると少佐は激昂し軍刀を握って睨んでいる。切るなら切れと前に迫ると少佐は何を考えてか平静に返った。今こヽで切っては勿論目的達成が出来ないことを知ったのであらう。漕き手は疲れ切って精一杯だった。遂に最後の決死行に意を決し再ぴ前島を後にした。輻輳する艦船の横腹を手操りつヽスクリューの波に巻込まれながら遂に神山島北方へ出た。暗夜に乗じて那覇へ向けたが掃海厳しく接岸不能である。合議の上、舟首を糸満港へ向けた。東天は既に夜明けを知らせつヽあり島伝ひに力漕し糸満港は目前に迫った。夜明けにあせりながら必死に力漕し遂に糸満港についた。一人の負傷者もいない全員無事を喜びながら疲れも忘れて真玉橋の部隊本部へと急いだ。 同五月初旬米軍は再び渡嘉敷を占領した。赤松隊へ備へて各高地に砲陣地が構築された。間もなく伊江島住民が渡嘉敷部落へ移動され、米軍の保護下で収容された。赤松隊は極度に食糧欠乏し若い下士官や将校は夜間切り込みと称して米軍食料集積所を襲ひ食料、煙草等を確保する様になった。そのために米軍は各要所に地雷を施設した。鈴木、小松原両少尉はその犠牲となった。 伊江島住民は米軍の保護を受けつヽ渡嘉敷部落の焼け残った家屋で生活していた。 米軍の要求により伊江島住民から選ぱれた若き青年男女六名が赤松隊へ派遣された。それは戦争が既に日本の不利であり降伏することが最も賢明な策であることを伝へるためであったが赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の者を斬殺した。亦集団自決に重傷を負ひ米軍に収容された十六才の少年小嶺武則金城幸二郎の両名は米軍の治療を受け、やうやく依復したので米軍の指示に従い、渡嘉敷住民への連絡のため避難地へ遺けられた。目的は住民へ早く下山する様伝へるためであったが途中赤松隊の将士は二人を捕へ米軍に通じた理由のもとに之は処刑した。 渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏は敵に通ずるおそれありと斬首された。かくして住民は日々欠乏する食糧と赤松隊の恐喝に益々くたぱるのみであった。食ふに糧なく下山に方途なく栄養失調は続出する有様である。 飢餓と戦ひつヽ六月、七月のニケ月を過し八月を迎へたが食糧は欠乏の極に達し住民は死の寸前にさらされた。 同八月十二日、午前自決場で妻を失ひ幼児二人を抱へた郵便局長徳平秀雄氏は長女を背負い、長男の手を引き住民十五名と共に食を求めて山谷を移動中、米軍の潜伏斥侯四十数名に包囲され拉致された。これが住民下山の第一歩となった。 同八月十五日米軍機から赤松隊陣地ヘビラが撒かれた。ボツダム宣言の要旨が述べられ降伏は矢つき刀折れたる者のとるべき賢明な途だと勧告してあった。住民は集団投降の意を固め代表者を選んで村長古波蔵惟好氏と相談した。村長も民意の趣むく所止むなくこれを許し住民は八月十五日迄に殆んど下山した。 同八月十六日防衛隊員と残った一部住民が下山したが赤松隊は依然として投降せず米軍の指示により渡嘉敷住民の中から軍使として出すことになり、新垣重吉、古波蔵利惟、与那嶺徳、大城牛の四名が選ぱれた。軍使としての任は勿論赤松隊への投降勧告であるが一旦見付かれぱ死を覚悟せねぱならない。新垣、古波蔵は軍隊生活の経験あるため、勧告文を木の枝に縛り付け密に任を果した。与那嶺、大城の両名は要領得ずして、赤松隊に捕へられ即座に切り捨てられた。 同八月十八日赤松隊知念副官が軍使として米軍に投降の交渉に当った。 同八月十九日赤松隊長、知念副官、外将校一名が米軍本部へ到着、渡嘉敷小学校々庭に於て武装を解除され、降伏文に調印した。次いで西村大尉の率いた赤松隊将兵は戦死した戦友の遺骨を先頭に二十二日渡嘉敷校々庭に集合し武装を解除され間もなく沖縄本島へと出発した。 総べての力を結集し、あらゆる食糧を確保し持久態勢を整へ米軍と一戦を交へ、皇国のために全員玉砕渡嘉敷島に屍を曝すと剛語した赤松隊も米軍の鉄量には抗すべくもなく牧牛の如く連れ去られたかと思ふと一掬の涙を催すものがあった。 斯くして本島作戦と切り離されていた島の戦線は独得の様相と経路を辿りつヽ沖縄本島の降伏に遅れること一ケ月昭和二十年八月二十三日その幕を閉じた。 最後に特筆すべきは三月二十七日渡嘉志久道路上で米軍と遭遇し激戦の後、伊芸山山頂で護国の花と散った佐藤小隊の一事である。(完) 『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/nostradamus/pages/1006.html
ポール・アルボー博物館(Musée Paul Arbaud)ないしポール・アルボー書誌学・考古学博物館(Musée bibliographique et archéologique Paul Arbaud)は、エクス=アン=プロヴァンスの18世紀の邸宅が元になっている博物館である。エクス市内のマザラン地区(le quartier Mazarin)、九月四日通り(Rue du 4-Septembre)2番地にある。 様々な美術品を収蔵しているが、わけても地元陶器のコレクションがしばしば特筆される(*1)。 ノストラダムス関連 ノストラダムス関連の稀覯書が多く収蔵されていることで国際的に有名である。 インターネット上での目録の公開などはしていないようなので、その蔵書については直接博物館に赴くか、ミシェル・ショマラやロベール・ブナズラの書誌などから間接的に知るしかないだろう。 関連書は膨大な数に上るが、世界でもアルボー博物館にしか残っていない、もしくは他数箇所にしか残っていないノストラダムス作品とその再版を挙げると以下の通りである(*印はアルボーにしかないもの)。 『予言集』1568年リヨン版(G版*、I版) 『予言集』1644年リヨン版 『予言集』偽ピエール・リゴー版(b版) 『予言集』1792年アントウェルペン版 『予言集』1794年アヴィニョン版 『予言集』1815年アヴィニョン版 1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言* 1563年向けの暦* 王太后への書簡* また、セザール・ド・ノートルダムの作品についても多く収めているが、こちらは手稿も含め、ここにしかないものが多い。 サロン市の廃墟と悲惨に関する言説(1598年)* 王妃のサロン市への入市(1602年) 王太子殿下御生誕に寄せる讃歌(1602年)* 王太子殿下と王妃のイメージ(1602年)* イッピアード、あるいはゴドフロワと騎士たち(手稿、1622年)* 第二ジュネーヴの占領前夜と異教のヒュドラ最期の窮地について。国王への予言(1629年)* 王妃マリー・ド・メディシスのサロン入市(1855年復刻) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/forsale-lawyer/pages/115.html
人間社会に対する詐欺及び偽作罪の告訴に就て 告訴人 堀 保子 代理人 山崎今朝彌 被告 [甲野太郎] [乙川一郎] [丙山二郎] 告訴状 告訴の事実 被告[太郎]は告訴人の知人堺利彦氏を介して本年五月頃、『人間社会』の創刊号に告訴人及び伊藤野技神近市子二氏の著作を掲載し雑誌の呼物となし其売行を図り度、原稿料は最高の額を支払ふ故是非寄稿を願ふ旨再三再四の懇請ありたるも、告訴人は他二氏と其性格経歴思想を異にし、彼等と共に喧伝せられ彼等と共に類別せられ常に世の評に上る事に少なからず無上の苦痛不快を感する折柄なれば、右懇請を其都度堅く拒絶したり。 六月上旬頃[一郎]は『女の世界』記者と称して告訴人を訪問し、右雑誌に掲載すべき、近時の感想に就き告訴人の演述を求めたり、告訴人は主筆青柳有美氏編集長安成二郎氏とは年来懇親の間柄にして大概の無理は通さざるべからざる関係にあり且つ雑誌に掲載前には必らず校正を示さるるを例とせる故安んじて自己の感想を談話したるも、尚其後聊か慮る所ありたるを以て、間もなく安成氏を訪問し右演述掲載の見合を申込たるに意外にも同氏は、[一郎]は『女の世界』記者にあらず『世の中』の記者なるに社名を詐称して告訴人を訪問したるは不都合なりと語りたれば、告訴人は一層掲載拒絶の必要を認め堅く安成氏に依頼し同氏の快諾を得安堵して帰宅したり。 八月十五日頃告訴人は堺利彦氏の注意により初めて、[太郎]の主宰する『人間社会』の八月一日号に、告訴人が嘗て[一郎]に為したる談話が多少の改悪を加へて、自由恋愛の犠牲者--伊藤野枝氏神近市子氏及び堀保子氏の現在の生活--なる題下に、或る日或時伊藤野枝、勝利の恋愛神近市子と名を列し。芝居を見に行く堀保子と署名掲載され、尚右標題及び際物ありとの注意を以て全国の新聞紙に広告されたる事を知り、絶大の苦痛と侮辱とを感じ、深く所謂被告等程度の文士なる者に一片の徳義も糸瓜もなきを嘆き直ちに安成氏を訪問して満腔の不平を訴へたり。 安成氏の証言する処に依り告訴人は此時初めて、[一郎]は『世の中』記者として告訴人を訪問したるにあらず実は『世の中』記者被告[二郎]に代り『女の世界』記者と詐称して告訴人を訪問演述せしめたるものにして[二郎]は[太郎]より直接前述の方法を以て、告訴人の著作物を『人間社会』の創刊号に掲載方法を依頼されたるもの、而して安成氏が告訴人の依頼を受け[一郎]を詰責したる際は既に原稿は大阪に送付済なりしを以て安成氏は[二郎]に命じ[太郎]に其掲載方法差止を打電せしめたるに、被告等は之を無視し掲載を敢てしたるものなる事を知りたり。 告訴の趣旨 右の次第にて被告等の所為は明に刑法第二百四十六条及び著作権法第一条第卅七条に該当するものと信じ、又告訴人としては充分蹂躙せられたる権利を伸張し将来同一類似の事件の発生を予防する為め此際断乎たる処置に出ずるを尤も適当と信じ利害得失研究の上茲に本告訴提起仕候条至急相当の御処分相成度候也(六、八、二二) <[ ]内仮名> 不起訴処分に対する抗告 抗告人 堀保子 代理人 山崎今朝彌 (一)抗告人は大正六年八月廿二日[乙川一郎][丙山二郎][甲野太郎]に対して詐欺及び偽作の告訴を東京地方裁判所検事局に提起したる処、同局は同年九月十二日不起訴の処分をなしたり。 (二)係検事(秋山高三郎殿)が右処分をなしたる理由の要旨は本件は(イ)被害者より騙取したる財物なるものなければ詐欺罪は到底成立するに由なし(ロ)新規難解の問題にして談話は著作と云ふを得るや否未研なれば偽作となるものにあらず、と云ふに在り。 (三)然れども本件は(イ)被告等が告訴人を欺罔して原稿又は談話を騙取したりとの告訴にあらず、被告等が共謀して告訴人を欺罔し依て以て権利なき他人の著作を雑誌に掲載し財産上不法の利益を得たりとの告訴なれば所謂第二項詐欺に該当すること法文上絶対明白なり(ロ)何れも最初は新規にして著作権法第一条によれば、文書演述文学の範囲に属する著作物の著作者は其著作物を複製するの権利を専有するが故に、告訴人の談話が其の何れの範囲に属するかを問はず其談話は(告訴事実に於ては)既に所謂成形的談話として客観存在を保ちたる所謂発明(創作)なれば、之れを複製したる被告等の所為が偽作の犯罪を構成すること抑々一点の疑なし。 (四)抗告代理人は其提供する実際の法律問題に付、数年後に於て必らず一般に公認せらるる以前、屢々突飛珍奇の排斥を受くる常習を有す、本件も亦碁年ならずして、猥りに人の談話演説を公布刊行する不徳者に対し、囂々非難の声を絶たざる文士輩出するに至らば、復た豎子をして其名を成さむしるに至るべしと信じ為後日以抗告如件 抗告趣旨 前記処分を為したる下級検事に対し事件を起訴すべしとの御命令相成度候 大正六年九月十七日 山崎今朝彌 東京控訴院検事局 御中 <[ ]内仮名> <山崎今朝弥著、弁護士大安売に収録>
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/118.html
2009.7.11 No.51 徳永直『光をかかぐる人々』(四) 定価:200円(税込) p.263 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(245項目)p.1117 最初の印刷工場 一/二/三/四 作者言 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。 ※ テキストおよび底本画像は、 徳永直『光をかかぐる人々』入力中(http //d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/)(uakira)にて公開中です。 (c) Copyright is public domain. フランクリンが十三歳で印刷屋の小僧となってから、十七歳の一七二三年フィラデルフィアに移って以来週刊新聞を発行するまで、彼のイギリス渡りの二、三枚の活字ケースがどんな重大なはたらきをしたかは、周知のように彼の『自伝』が彼がアメリカ憲法草案を書いたときのそれにもおとらぬ感動をもって語っているところだ。(略) しかし私の考えるところでは、フランクリンが「世界印刷術中興の祖」といわれる所以のもっとも大なるものは、活字や印刷機の多少の改良よりは、活字や印刷術を人々の日常生活のなかにひっぱりだしたこと、たとえばフィラデルフィアの町で、町有志の会合の記録などを、この青年書記がたちまち印刷にして配布し、その翌朝は町有志の人々がもれなく昨夜の激論の推移と成果を知ることができ、さらに次の会合のため各自がいっそうおのれの考えを進めることができるような印刷物を作ったこと、つまり活字のために新しい任務をひらいた点にあるのであろう。フランクリンは図書館をつくり、新聞をつくり、志ある人々をたすけてアメリカじゅうに印刷所ができるよう尽力した。しかし書籍組合創立や印刷所建設やではヴェニスのマヌチウスも、ウエストミンスターのカクストンも、フランクリンに劣りはしなかったのだから、つまりフランクリンの功績の大なる所以は、彼の図書館の建設方法や、同じ著述でもその内容や、新聞という独自の形式と内容や、印刷所建設でもその経営方法と作業規律の内容や、その性質に相違があったのである。 51.rm (朗読:RealMedia 形式 384KB、3'05'') #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第51号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (856KB) 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15) 熊本県飽託郡花園村(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇される。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。1958年『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没した。享年59。 ◇参照:Wikipedia。 底本 http //d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/ 底本:『光をかかぐる人々』河出書房 1943(昭和18)年11月20日発行 NDC 分類:210 914 【*年表】 ※ 本文中の和暦表記にはカッコ書きで西暦を付与。本文中の西暦表記はそのままとした。 ※ 嘉永は七年一一月二六日まで。一一月二七日(一八五五年一月一五日)をもって安政に改元だから、本文中「安政元年七月」は「嘉永七年七月」が正しいはず。「安政元年」の直後に * 印を加えて注意をうながす。 (例)安政元年*(一八五四)の七月 一四五五 「流し込み活字」ドイツ、マインツで発明(以下、印刷文明史)。 一四六五 イタリアへ流布。 一四六六 ギリシャへ流布。 一四六八 スイスへ流布。 一四七〇 フランスへ流布。 一四七三 オランダ、ベルギー、オーストリア・ハンガリーへ流布。 一四七四 スペインへ流布。 一四七七 イギリスへ流布。 一四八二 デンマークへ流布。 一四八三 スウェーデン、ノルウェーへ流布。 一四八七 ポルトガルへ流布。 十六世紀初頭 全イタリアで四百三十六の印刷工場があったという。 一五三三 「流し込み活字」ロシアへ流布。 慶長二十年(一六一五) 江戸金地院の崇伝『大蔵一覧集』を銅活字で印刷。校合、寿閑。 一六三八 「流し込み活字」北米合衆国へ流布。 元禄八年(一六九五) 『洋学年表』「十一月長崎オランダ通詞目付の員を設け衆員を監督せしむ、本木庄太夫始て補さる」 一七二三 フランクリン(十七歳)、フィラデルフィアに移って以来週刊新聞を発行。 一七九六 フィラデルフィアのアダム・ラメージが世界ではじめての鉄製のハンドプレスを作る。ロンドンでも数学者スタンホープが「スタンホープ式ハンドプレス」を完成。 一八一三 フィラデルフィアのジョージ・クライマーが「コロムビア・プレス」を作る。 文化十年(一八一三) 圭斎、生まれる。 一八二〇 ボストンのダニエル・トリードウェルが世界最初の足踏印刷機を発明。 一八二一 ニューヨークのラストとスミスが「ワシントン・プレス」を作る。 文政七年(一八二四) 昌造、生まれる。 一八三三 「ファラデーの法則」が確立。 天保年間(一八三〇年代) 平賀源内橋本曇斎、本木道平ら「エレキテル」の実験。 天保五年(一八三四)四月 昌左衛門と後妻クラとの間に、縫、生まれる。 一八四〇年以後 ロシア人ヤコビ、イギリス人ジョルデイン、アメリカ人アダムス、オーストリア人プレッチェら、電気写真版および凸版完成。(西洋印刷文明史) 一八三八 ケーニッヒのシリンダー式以上に世界の印刷界を嵐のなかに捲きこんだニューヨークのデヴィッド・ブルースの「ブルース式カスチング」を発明。 一八四六 ニューヨークで世界最初の輪転機「ホー式回転印刷機」が誕生。 天保十三年(一八四二) 異国船打ち払い令改正。 弘化元年(一八四四) オランダ軍艦「バレムバン」来航。 弘化年間(一八四四〜一八四八) 幕府はオランダに注文して、小型の蒸汽機関を注文。 弘化三年(一八四六) オランダのライデンにおいて『オランダ文典文章編』出版。のちに昌造、翻刻。 嘉永二年(一八四九) 「近来蘭医増加いたし世上これを信用するもの多くある由、相聞え候、右は風土も違候ことにつき、御医師中は蘭方相用候儀、御禁制仰出され」る。 嘉永二年(一八四九) 吉雄圭斎、日本で最も早く、自分の三児に種痘を試みる(日本科学史年表)。 嘉永三年(一八五〇) 全鉄製ハンドプレス「スタンホープ・プレス」いわゆる「ダルマ型」が、オランダから幕府へ献納。 嘉永三年(一八五〇) 中浜万次郎、漂民として日本へ帰着、後二年間は自由の身ではなかったが、安政の開港以後、幕府の軍艦操練所教授となる。 嘉永五年(一八五二) 土屋喬雄『封建社会崩壊過程の研究』によれば、薩摩藩、蘭書にもとづいて蒸汽船雛型を作る。 嘉永六年(一八五三) 川本幸民『遠西奇器述』で電胎法のことを祖述。 嘉永六年(一八五三) 第三回めのロシア使節が長崎へ来る。昌造三十歳。この年はじめて父となる。妻女縫はこのとき十五歳。長男昌太郎生まれる。 嘉永六年(一八五三) ペリー、プーチャチンの来航。 嘉永六年(一八五三)末 「長崎談判」のおり森山栄之助が訳述して公用に役立った英書を、同じ応接係役人の箕作阮甫でさえが読むことができなかった。 嘉永七/安政元年(一八五四*)正月 吉雄圭斎、長崎出島の蘭館において電気分解の実験。 嘉永七年(一八五四)正月十三日付 阮甫の文中「後に三宝寺に来たり」。三宝寺は「長崎談判」のため筒井、川路に随従してきた彼の宿舎。プーチャチンらの軍艦が退帆したあと「川路君」左衛門尉らとともに出島蘭館を巡見。 嘉永七年(一八五四)正月十三日付「これはエレキテルとジシャクを合したる法なり」(川路日記) 嘉永七年(一八五四)十五日 阮甫、川路らとともに、当時日本では数少ない鉄精錬所をもっている佐賀藩の洋式新台場をみて「鎖国の弊はいたらざる所なし」と叱�。 安政年間(一八五四〜一八六〇) このころ昌造作の鋼鉄製日本文字字母が帝室博物館に所蔵。 安政年間(一八五四〜一八六〇) 「ワシントン・プレス」が上海を経て長崎奉行所の印刷工場に使用(川田久長)。 嘉永七/安政元年(一八五四*) 「神奈川」「下田」二条約の成立。 嘉永七/安政元年(一八五四*)六月 神奈川条約成立後、ペリー退帆。 嘉永七/安政元年(一八五四*)〜二年 箕作阮甫、川路左衛門尉にしたがって「下田談判」へ参加。清水卯三郎、阮甫が下田にいる所へ行って弟子入りを頼む(呉秀三)。 嘉永七/安政元年(一八五四*) 「当時病用相省き、もっぱら書生を教導いたし、当今必要の西洋学者を育て候つもりに覚悟し」(緒方洪庵伝) 嘉永七/安政元年(一八五四*) 福沢諭吉、二十一歳で長崎へ遊学。 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月 昌造、土佐侯の築地の造船場にいる。『吉田東洋伝』に見える引用文では九月初旬まで昌造の名が出てくる。おそらく九月中旬まで江戸にいて幕府天文方の仕事。 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月 長崎の通訳本木昌造、公用をおびて下田に来るの途次、転じて江戸に入る。(東洋伝) 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月朔日 遠江守樣御出に付、八つ頃再び出動、直ちに退く。長崎鹽田氏幸八と云者、蒸汽船雛形持出し、御馬場に於て御覽あり。(寺田志斎日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月四日 昌造自身で蒸汽船を運転してみせる。(寺田志斎日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月十六日 寺田志斎、渋谷へ行って蒸汽船注文のことを昌造と相談。 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月二十四日 寺田志斎、築地の造船場を他の藩士たちと共に下検分。 嘉永七/安政元年(一八五四*)閏七月二十四日 「御用番久世大和守殿に左之伺書留守居共持參差出候處、被請取置、同八月廿三日、同所え留守居共被呼出、右伺書え付紙を以て被差返上、則左之通」「今度大船製造御免(被仰出候ニ付、為試」(土佐藩記録)。 嘉永七/安政元年(一八五四*)閏七月二十四日 「右之通雛形、築地於屋舖内、手職人え申付爲造立度、尤長崎住居大工幸八と申者、此節致出府居候に付、屋舖え呼寄、爲見繕申度、出來之上於内海致爲乘樣、其上彌以可也乘方出來候時は、海路國許え差遣し、船手之もの共爲習練、江戸大阪共爲致往還度、彼是相伺候、可然御差圖被成可被下候、以上、閏七月廿四日、松平土佐守」 嘉永七/安政元年(一八五四*)八月朔日 「本木昌造より約束の品をし來る」(寺田志斎日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)八月四日 「供揃にて、供りの面々も馬乘に申付、砂村屋舖に相越し、長崎之通辭召連れ、蒸汽船一覽せらる」(容堂日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)八月五日 寺田志斎、建造中の船のことで昌造と談。 嘉永七/安政元年(一八五四*)八月八日 宇和島藩主伊達侯を招待して「夕方本木庄藏と申す通辭、蒸汽船持參致し候に付、馬場に於て伊達遠江守殿と一所に一覽せらる、その節中濱萬次郎も呼寄せ——」(容堂日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)九月七日 「雨、出て蒸汽船製造場に過たる、船の形、頗る成る」(寺田志斎日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)八月二十九日 豊信(容堂侯)昌造を召して海外の事情を聞き、携うるところの蒸汽船の模型を見、随従の工夫幸八に命じて、さらに模型を作らしめ、幕府に請うて試運転をなす。(東洋伝) 嘉永七/安政元年(一八五四*)九月下旬 昌造、大阪の安治川尻、プーチャチンの船へ幕府の諭書を持参。箱館奉行経由のプーチャチンの書簡を森山(当時栄之助)と連名で翻訳。 嘉永七/安政元年(一八五四*) 『和英対訳商用便覧』。イギリス船へも開港した長崎の商取引のため、もしくは蘭語から英語にうつりつつあった時代にさきがけたもの。 安政二年(一八五五) 活字板摺立所。 安政二年(一八五五) 福沢諭吉、大阪の洪庵塾へ入る。 安政二年(一八五五) 戸田村の「スクーネル船」、洋式船舶建造の最初。 安政二年(一八五五)四月 薩摩藩の昇平丸が江戸へ回航。 安政二年(一八五五)三月二十三日 プーチャチンの下田退帆。乗組員の一部は残る。 安政二年(一八五五) 昌造、下田から長崎へもどる。 安政二年(一八五五)七月 長崎に永井玄蕃頭、勝麟太郎らを主とする海軍伝習所できる。昌造、伝習係通訳となる。森山栄之助(改め多吉郎)外国通弁方頭取となり、堀達之助は蕃書取調所教授となる。 安政二年(一八五五) 昌造、「蘭書取次」あるいは「購入」で幕府に罪を問われて「入牢」。「時の長崎奉行・水野筑後守は幕府の命によりて、氏に突然揚屋入りを申し付けた」安政二年(一八五五)から安政五年(一八五八)十一月まで。(印刷文明史)。昌造を訊問した水野筑後守は「下田談判」当時の次席応接係で、昌造はその配下。昌造の養父昌左衛門は通詞目付で現存。長崎奉行所の「入牢帳および犯科帳」には記録がない。(本木、平野詳伝) 安政二年(一八五五) 蘭書の輸入が間にあわなくて、長崎奉行西役所内に印刷所をつくって「日本製洋書」をこしらえる。 安政二年(一八五五)〜三年 昌造、出島の蘭館で活版技師インデル・モウルを監督して『蘭話字典』を印刷。(本木、平野詳伝) 安政二年(一八五五) 昌造、活字板摺立係を命ぜられる。(本木、平野詳伝) 安政二年(一八五五) 昌造、造船海運についての「由緒書」を奉行荒尾岩見守を経て永井玄蕃頭に提出。(本木、平野詳伝) 安政二年(一八五五) 豊信、参勤交代の期に際し、帰国の後これを高知に回漕し、浦戸港内にうかべ、豊資その他連枝および諸士に縦覧せしめて西洋事情の新奇進歩せる実物標本を紹介。(東洋伝) 安政二年(一八五五)八月 土佐藩の船が築地でできあがって、土佐の港で運転。 安政二年(一八五五)八月四日 「由比猪内へ過く。夫より出勤。今日は早仕舞九つ時退く。——蒸汽船江戸より着す」(寺田志斎日記) 安政二年(一八五五)八月二十三日 「今日雅樂助君(容堂弟)蒸汽船御見物に御出」(寺田志斎日記) 安政二年(一八五五)以後 昌造の消息、万延元年(一八六〇)末飽ノ浦製鉄所御用係となるまで、ほとんど絶える。(徳永) 安政二年(一八五五)ごろ 蘭書の輸入なり勉強なりの取締りはゆるやかになりつつある。(徳永) 一八五五 世界最初の印刷雑誌の編集者トーマス・マッケラー「活字の歌」を歌う。 安政三年(一八五六)か四年 福沢諭吉、黒田侯から一冊の原書を借りて、エレキトルの部分を書生らと写本(福翁自伝)。 安政三年(一八五六)六月 昌造、『オランダ文典文章編』を著述。(本木、平野詳伝)=『文法書シンタクシス』(印刷文明史)=『文法書セイタンキシス』(川田久長) 安政三年(一八五六)九月 『スプラークキュンスト』発行。 安政四年(一八五七) 昌造、オランダで出版した『日本文典』の日本活字の種書を送る。(本木、平野詳伝) 安政四年(一八五七) 昌造、『和英対訳商用便覧』を出版。(本木、平野詳伝) 三年? 安政四年(一八五七) 縫、小太郎を産む。 安政五年(一八五八) 昌造、『物理の本』を出版(本木、平野詳伝)。原名『フォルクス・ナチュールクンデ』、和訳『理学訓蒙』(川田)。 安政五年(一八五八)七月 縫、死亡。四か月前、長男昌太郎没。 安政五年(一八五八)八月十五日 夜、当時紀州侯の御用達をつとめていた青木休七郎、ひそかに新任の奉行岡部駿河守の役宅を訪れ、昌造の保釈を願い出る。 安政五年(一八五八)十一月二十一日 夜、岡部駿河守、用人小林某を休七郎宅へつかわし、本月二十八日に昌造を保釈するむねを伝える。(印刷文明史) 安政五年(一八五八) 昌造、三十五歳。 万延元年(一八六〇) 昌造、飽ノ浦製鉄所御用係に登用。 万延元年(一八六〇)か文久一、二年(一八六一、一八六二)ごろ 昌造三十七、八歳のころのめずらしい写真。(印刷文明史第四巻) 万延、文久(一八六〇〜一八六四)ごろ 神奈川および下田条約。五か国条約実施問題をめぐる攘夷論沸騰時代。 一八六〇 ニューヨーク・トリビューン紙がもちいた輪転機、時速二万枚を記録。 文久二年(一八六二) 土佐藩の吉田東洋、攘夷派の志士に暗殺される。 文久二年(一八六二) 緒方洪庵、西洋医学所頭取となる。 元治元年(一八六四) 昌造、八丈島に漂流。折にできた妾某、娘松を産む。 元治元年(一八六四) 後妻タネ、清次郎を生む。 慶応三年(一八六七) タネ、昌三郎を生む。 慶応年間(一八六五〜一八六八) 昌造、薩摩の島津屋舗からハンドプレスをゆずりうける。 明治初年(一八六八) 平野富二、銀座の古道具屋から某大名からの流れものという形状不明のハンドプレスを発見。 明治二年(一八六九) 昌造、長崎でガムプルから電胎法を学ぶ。 一八七〇年代 マリノン式輪転機、完成。 明治十年(一八七七) ドイツ人ケーニッヒの「シリンダー式印刷機」を東京朝日新聞社で使用。 明治三十年 フランスで発明された「マリノン式輪転機」新聞印刷機として日本へ最初に入る。 明治四十五年(一九一二) 昌造へ贈位の沙汰。『印刷文明史』の著者は、当時在世中であった昌造の友人諏訪神社宮司・立花照夫氏、門人境賢次氏などを長崎に訪ねる。御贈位の内申書には『蘭話通弁』の他に『海軍機関学稿本』などあり。 昭和十七年(一九四二) 川田久長「蘭書翻刻の長崎活字版」『学鐙』九月号所載。 2009.7.18:公開 目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/liar-forest/pages/32.html
Ⅲ 新宿漂流 リメリック カラスに食べ物をもらう九月 ロビンソンクルーソー 十五少年漂流記 蝿の王 5月4日 ダイナ 砂の妖精の続編 花園神社 紅テント 新宿見たけりゃ ハプニング 革命・エトランジェ・竜 参考書籍 リメリック その名も高き チェシャア猫 お好きなものは 女の子 アリスに ぞっこん 明日は 結婚 ドジスン先生「いかん!」と頑固 灰流 『Forest』 1・2・5行目が韻を踏み3.4行目がまた別の韻を踏む形式をとるイギリスの5行詩。 内容は大抵突拍子も無いもので、その名手がエドワード・リア。 ちなみに、このリメリックは、ドジズン先生が、15才の少女と結婚しようとした弟に対して、経済的不安定を理由に反対したというエピソードにちなんでいる…のかもしれない。もしそうなら、詩中の「アリス」はアリス・プレザンス・リデルではなく、弟の婚約相手であるアリス・ジェーン・ドンキンを指していることになる。 カラスに食べ物をもらう九月 元ネタは「ケンジントン公園のピーターパン」? ピーターの食べ物は、全部公園からソロモンの命令によって鳥たちが運んできました。ピーターは、ミミズや昆虫は食べなかったので(このことも鳥達はバカにしていましたが)、くちばしにパンをくわえて持ってきたのでした。だから大きなパンの耳をもって飛び去って行く鳥に対して「よくばり、よくばり」なんて叫ぶのは、そんなことをするべきじゃないと今はお分かりでしょう。なぜならたぶんその鳥は、パンの耳をピーターパンのところに持って行っているのでしょうから。 katokt訳『ケンジントン公園のピーターパン』 ロビンソンクルーソー ダニエル・デフォー作の冒険小説の主人公。無人島に漂着し、そこで28年間生きる。 十五少年漂流記 ジュールヴェルヌ作。ニュージーランドから孤島に漂流した少年達が協力して島を脱出する冒険談。 蝿の王とは違って、子供たちはおおむね協力しあって文明的な生活を送り、ハッピーエンドで終わる。 蝿の王 →出典辞典:蝿の王 それにしても、刈谷さんが必死に協力を訴えているときに、この作品の名をあげる灰流は本当にいい性格している。 5月4日 5月4日…… アリスがウサギの穴へ落ちた日。 不思議の国へ旅立った日。 刈谷 『Forest』 アリスが不思議の国を探検した日が5月4日というのは、作中のアリスの言葉から推測される。また5月4日はリデル家の次女アリス・プレザンス・リデルの誕生日でもある。 「帽子屋さんならみたことあるし、三月うさぎのほうがおもしろいわよね。それにいまは五月だから、そんなすごくキチガイでないかもしれない――三月ほどには」 アリスはちょっと考えてから言いました。「四日(よっか)」 「二日(ふつか)もくるってる!」と帽子屋さんはためいきをつきました。 山形浩生訳『不思議の国のアリス』6章,7章 ダイナ アリスが飼ってた猫は、 不思議の国へは行かないはずだな? 鏡の国では、どうだったかな? 灰流 『Forest』 行ったとも行ってないともいえる。「鏡の国のアリス」ではこの問題があやふやなまま終わっている。 砂の妖精の続編 魔よけ物語のこと。両方とも作者はイーディス・ネズビット。 花園神社 新宿5丁目にある神社。祭神は倉稲魂命・日本武尊・受持神。 もともと稲荷神とは穀物に関する神の総称であり、その使いが狐。また誤解からその狐自体が神として祭られることもある。 参考:花園神社公式サイト 紅テント 唐十郎の劇団「状況劇場」が用いた舞台であり、その象徴。 1967年、状況劇場は花園神社内に紅テントを建て、「腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇」を上演する。これが紅テントの始まり。 ちなみに、1年ほど花園神社での公演を続けたが、クレームを受けて1968年に花園神社から撤退している。しかし、紅テントでの活動自体は新宿中央公園などを中心にその後も続けられた。 となると、中のフリークの正体は? 新宿見たけりゃ 新宿見たけりゃ 今見ておきゃれ じきに 新宿 原になる 『Forest』 状況劇場が用いたキャッチコピーの一部。 オリジナルは 「お仙」見たけりゃ 今見ておきゃれ 母ァ殺して 銭つくれ 新宿見たけりゃ 今見ておきゃれ じきに 新宿 原になる 状況劇場 ハプニング →ギフト一覧 ハプニング 革命・エトランジェ・竜 元ネタ不明。無理に解釈すれば、元ネタはヨハネの黙示録。ヨハネの黙示録において竜は悪魔、さらに言えば異教徒(エトランジェ)のローマ皇帝を暗示し、彼らは最後の審判を前に地上を破壊し尽くそうとする。 しかし、イギリス縛りから外れてしまう(当時はイギリスもローマ領だけど)。とするとゲド戦記あたりか…? 現実の出来事で良いなら、イラン革命が当てはまりそうな気もするが、新宿ともイギリスとも関係がないのが難点。 でも、イギリス、新宿、革命とくれば、英国に対する独立運動に身を投じた新宿中村屋のボースさんじゃないの。 エトランジェを追っかけ回すのは、やつらが侵略者だから! インドカリーのナカムラ屋 女主人は名高きソーマ 亡命者がやってくる 革命家がやってくる お礼にレシピを残していった ヨドレエレジィ「ナカムラ屋」より 参考書籍 ロビンソンクルーソー(ダニエル・デフォー,1719) 十五少年漂流記(ジュール・ヴェルヌ,1880) 蝿の王(ウィリアム・ゴールディング,1954) 不思議の国のアリス(ルイス・キャロル,1865) 砂の妖精(イーディス・ネズビット,1902) 魔よけ物語(イーディス・ネズビット, 1906)
https://w.atwiki.jp/hachimanjinja/pages/1039.html
貴方は探索を続けた。 すると、さっきの日記の続きと手紙の入った謎の瓶が有った。 なんとなく続きが分かった気がするのでもっと奥に行く 日記を読む 九月二十日 (ヨレヨレの字で所々読めない) 私の命も・・・・・・かもしれない、あ・・から得体のしれない生物の ・・・撃に度々会った・・・生きているのは、私・・・もしれない・・ この鉱山の特徴、襲ってきた生物の詳細と・・・を記した書を瓶の中に入れた ・・・にはあれから命がけで・・った赤く光る・・石も入れ・・・ある。 瓶を開ける 此処に謎の生物の詳細とよっしぃ王への手紙を記す。 こいつはexplosion(爆発)系の攻撃を行ってくる。 どんなに厚い壁でも一発で粉砕してしまう威力だ。多くの仲間がこいつに殺された。 もっと厄介なのがその強靭な足、どんなに早く逃げてもすぐに、 追いつかれてしまうほどの速さだ。まさしく「火のハイエナ」だ。 こいつの特徴はなんといっても飛行していることだ。 空中から繰りだされるあの針に当たったら体に風穴が出来てしまう。 名をつけるとしたら「業炎針の龍」と名付けたい。 こいつは「火のハイエナ」ほど大量には現れない。 しかし、最も厄介なのが、その知能と器用さである。 他の生物は物陰にとっさに隠れることによってうまく巻けるが、 こいつは、足跡、音などを聞き分けて、何処までも絶えることのない矢で射ってくる。 名づけるなら「知火の使い手」だな。 よっしぃ王へ。 これに同封してある鉱石は途轍もない力を持っている。 それを手にした者、混ぜた物に強靭な業炎の魔物の力が宿る。 この力を悪用されては困ります。一刻も早くこの鉱山・鉱石を封印すべきです。 神の様な存在の王に命令するような無礼者であることをお許しください。 どうかこの無礼者の願いを叶えてやって下さい。 大変だ!これを早く届けなければ!
https://w.atwiki.jp/junretsuwago/pages/1311.html
辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 名詞 [一] 空間的に高い位置。また、階級・地位・身分の高い状態や程度・数量などの多い状態。① 高い場所、位置。高い方。⇔下。(イ) ものの最も高い部分。 ※書紀(720)継体七年九月・歌謡「御諸(みもろ)が紆陪(ウヘ)に 登り立ち」 上 (ロ) あるものを基準として、それより高い所。また、見あげるように高い所。上方。 ※万葉(8C後)一四・三五二二「昨夜(きそ)こそは児ろとさ寝しか雲の宇倍(ウヘ)ゆ鳴き行くたづのま遠く思ほゆ」 (ハ) 建物などで、高いほうの階。 ※春迺屋漫筆(1891)〈坪内逍遙〉壱円紙幣の履歴ばなし「御主人は階上(ウヘ)ですか階下(した)か」 (ニ) 座敷。 ※大鏡(12C前)六「あはれがらせ給て、うへにめしあげて」 ② 貴い人のいる所。(イ) 天皇、上皇の御座所。また、その付近。禁中。殿上の間。 ※古今(905‐914)秋上・一七七・詞書「うへにさぶらふをのこども歌たてまつれ」 (ロ) 身分の高い人の部屋。 ※源氏(1001‐14頃)空蝉「おもとは、今宵はうへにやさぶらひ給ひつる」 ③ 身分の高い人。(イ) 天皇。上皇。 ※宇津保(970‐999頃)俊蔭「うへも春宮も〈略〉うつくしみ給ふ」 (ロ) 将軍、公方(くぼう)、殿様など、支配者をいう。 ※太平記(14C後)一〇「上(ウヘ)の御存命の間に〈略〉思ふ程の合戦して」※今堀日吉神社文書‐永祿元年(1558)一〇月二八日・保内商人中惣分陳状案「上儀をさへ不 レ 致 二 承引 一 、被 レ 加 二 御退治 一 津にて候」 (ハ) 女あるじ。後の、北の方。 ※竹取(9C末‐10C初)「これを聞て離れ給ひしもとの上は腹をきりて笑ひ給ふ」 ④ 比較してよりすぐれた身分、地位、程度など。 ※十訓抄(1252)一「斉信卿上臈にて公任卿の上に居られたりけるに」※評判記・野郎虫(1660)浅木権之介「人はただ心を、おむくにもちたる、うへはなきに」 ⑤ 比較して、数量、年齢などの点でより多いこと。 ※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)二「『いくつだとおもひなさる』『されば、おれよりは上(ウヘ)だらうよのう』」※人情本・英対暖語(1838)初「往来(いきけへり)ぢゃア一里の上あらアナ」 ⑥ 低音に対して高音。 ※申楽談儀(1430)音曲の位の事「うへより言ひて落す也」 [二] 物事の表面。また、表面に現われる状態や表面をおおうもの。① 物の外面。おもて。 ※書紀(720)継体七年九月・歌謡「磐余(いはれ)の池の 水下(みなした)ふ 魚も 紆陪(ウヘ)に出て嘆く」※蜻蛉(974頃)中「うへに、『忌みなどはてなんに御覧ぜさすべし』と書きて」 ② 表面の態度、行動。うわべ。 ※書紀(720)継体七年九月・歌謡「誰やし人も 紆陪(ウヘ)に出て嘆く」※平家(13C前)四「うへには平家に御同心、したには〈略〉入道相国の謀反(むほん)の心をもやはらげ給へとの御祈念のため」 ③ 上着。表衣。 ※万葉(8C後)一二・二八五一「人の見る表(うへ)は結びて人の見ぬ下紐(したびも)あけて恋ふる日そ多き」 ④ おおい。屋根。牛車の屋形、車蓋。 ※枕(10C終)九九「この土御門しも、かう上もなくしそめけんと」 [三] あるものの付近。辺り。ほとり。 ※万葉(8C後)一・五〇「あらたへの 藤原が宇倍(ウヘ)に 食(を)す国をめしたまはむと」 [四] (形式名詞として用いられる)① (前の語句に示された)ある人や物事に関する消息、事情、経緯など。また、物事をある面から特に取りあげて問題とする場合にいう。 ※万葉(8C後)二〇・四四七四「群鳥(むらとり)の朝立ち去(い)にし君が宇倍(ウヘ)はさやかに聞きつ思ひしごとく」※源氏(1001‐14頃)若紫「西国(にしくに)のおもしろき浦うら磯のうへをいひ続くるもありて」 ② 他の物事に更に加わる状態を示す。(イ) (多く、「上に」の形で) さらに加わるさま。そのほか。…に加えて。 ※万葉(8C後)一九・四二七八「あしひきの山下ひかげかづらける宇倍(ウヘ)にや更に梅をしのはむ」 (ロ) (物事の終わった)のち。…した結果。…して、そして。 ※天草本伊曾保(1593)イソポの生涯の事「ウソアマイ モノヲ クラウタ vyenareba(ウエナレバ)」※浄瑠璃・仮名手本忠臣蔵(1748)七「醒ての上の御分別」 (ハ) …した結果を踏まえて。その事柄を条件として。 ※新浦島(1895)〈幸田露伴〉九「和尚に此訳ことわり申して立会の上棺を検(あらた)むるに」 (ニ) (「上は」の形で) ある物事が起こってしまった以上。…からには。 ※金刀比羅本保元(1220頃か)中「天の授け給へる上(ウヘ)は、ただ一矢に射おとしてすてん」 ③ 貴婦人の称号に添えて用いる。 ※源氏(1001‐14頃)蛍「紫のうへも姫君の御あつらへにことつけて」 接尾辞 目上の人の呼び名につけて敬意を表わす。(イ) 女あるじの呼び名に付けて用いる。 「母上」「尼上」「姉上」※源氏(1001‐14頃)若紫「尼うへにはもてはなれたりし御けしきのつつましさにおもひ給ふるさまをも」 (ロ) 目上の肉親、親族の呼び名に付けて用いる。 「父上」「兄上」 (ハ) 高貴な女性の呼び名に付けて用いる。 ※合巻・偐紫田舎源氏(1829‐42)三一「我知らず姫君よ姫上よと、呼び参らする事のあり」 [語誌](1)「うえ」の対義語としては、古代から現代に至るまで「した」が安定して、その位置をしめている。しかし、中古から中世にかけて「うえ」は、(一)(二)のように表面の意を持っていたため、「うら」とも対義関係を持ち、「うらうえ」という複合語も作られた。しかし、この対義関係は、中世頃から(二)の意味が衰退するのに伴って、次第に「うら━おもて」という対義関係にとってかわられた。(2)(二)は、平安時代中期より例が見られ、おもに、肉親の目上の人に対して用いられる。 広辞苑 名詞 ➊物の上部。①高い位置。高い場所。 万葉集3「 皇 (おおきみ)は神にしませば天雲の 雷 (いかずち)の―に 廬 (いお)らせるかも」 上 ②表面。うわべ。うわつら。 万葉集20「海原の―に浪なさきそね」。「雪の―の足跡」 ③あたり。ほとり。 万葉集20「 高円 (たかまと)の野の―の宮は荒れにけり」 ④屋根。屋形。 枕草子99「などか、こと御門御門のやうにもあらず、この土御門しも、かう―もなくし初めけん」。門室有職抄「庇車…庇の体は、四方輿の如く―白」 ➋地位・程度などがすぐれていること。貴いこと。 十訓抄「 公任 (きんとう)卿の―につかれたりけるに」。続千載和歌集賀「あきらけき御世ぞ知らるる位山又―もなしあふぐ光に」 ➌身分・地位の高い人。また、その人のいる場所。①貴人の座に近い所。特に、主上の御座所に近い所。禁中。殿上の間。 枕草子82「あなうれし、しもにありけるよ。―にてたづねんとしつるを」 ②天皇。主上。 枕草子9「 朝餉 (あさがれい)のおまへに―おはしますに」 ③後世、将軍・ 公方 (くぼう)にも称した。 鳩翁道話「御―様の御政道」。日葡辞書「ウエ、また、ウエサマ」 ④貴婦人、特に貴人の妻。奥方。 竹取物語「離れ給ひし元の―は」。源氏物語若紫「君は―を恋ひ聞え給ひて泣きふし給へるに」 ⑤貴人の妻の称呼の下につける語。 「葵の―」 ⑥目上の者を呼ぶときに下につける語。 「尼―」「父―様」 ➍その人(事)に関する事柄。 万葉集20「君が―は 清 (さや)かに聞きつ」。可笑記「その御心、恋の―とのみ定むべからず」。「仕事の―で必要な資料」 ➎ある事柄と他の事柄との関係を示す語。①さらに添え加えること。…に加えて。その上。 土佐日記「海賊むくいせむといふなることを思ふ―に、海のまた恐しければ」。「値段が安い―にうまい料理」 ②…したのち。…した結果。…に基づいて。 浄瑠璃、仮名手本忠臣蔵「醒めての―の御分別」。「十分な考慮の―の回答」 ③(「―は」の形で)…からには。 平家物語1「かへつて叡感にあづかツし―は敢て罪科の沙汰もなかりけり」。常山紀談「年頃深く頼み奉る―は」。「知られた―はやむを得ない」 ④ここより前の部分。 「―に述べたとおり」 大言海 名詞 〔 浮 (ウキ) 方 (ヘ)ノ義カ、うきひぢ、うひぢ。(埿土)つきこもり、つごもり(晦)〕(一){最モ高キ部。カミ。( 下 (シタ)ニ對ス) 繼體紀、七年九月、長歌「三緖(地名)ガ 紆陪 (ウヘ)ニ、登リ立チ」萬葉集、一 三十一 「 鹿 (カ)鳴カム山ゾ、高野原ノ宇倍」 上 (二) 勝 (スグ)レタルコト。貴キコト。 長 (タ)ケタルコト。 「目上」年上」上無シ」 (三){主上ヲ呼ビ奉ル語。ウチ。カミ。上 宇津保物語、俊蔭 六十七 「うへモ、春宮モ、召シマツハシ、ウツクシミタマフ」圓融院扇合「宮ノ御方ニ、うへオハシマシテ」 (四){主上ノ 大御邊 (オホンアタリ)近キコト。 源、一、桐壺 廿四 「うへニ候フ內侍ノスケ」「うへノ宮仕」うへ局」うへノ女房」 (五)僭シテ、將軍、公方ノ稱。(代名詞ノ 上樣 (ウヘサマ)ノ條ノ(二)ヲ見ヨ)北條高時ニサヘ、其臣下ヨリ稱シキ。 太平記、十、長崎次郞最後事「無 二 左右 一 御自害候フナ、 上 (ウヘ)ノ御存命ノ閒ニ、今一度、快ク敵ノ中ニ懸入リ、云云」(高時ニ對シテ云フナリ) (六){貴人、又、其內室ノ稱。 竹取物語「離レタマヒシ、元ノうへハ、云云」 (七){貴婦人ノ稱號ニ附ケテ呼ブ語。 「葵ノ上」 (八) 尊長 (メウヘ)ノ稱ノ後ニツケテ云フ語。 「父上」母上」兄上」 (九){オモテ。マヘ。( 裏 (ウラ)ニ對ス)表 萬葉集、九 三十一 「下行ク水ノ、 上 (ウヘ)ニ出デズ」源、二、帚木 十二 「うへハツレナク、ミサヲ作リ」「上ノ 衣 (キヌ)」 表 (ウヘ)ノ袴」 (十){邊 (ホトリ)。 「川ノ上」井ノ上」野ノ上」 (十一){增スコト。加フルコト。 萬葉集、十九 四十五 「アシビキノ、山下ヒカゲ、 鬘 (カヅラ)ケル、宇倍ニヤ更ニ、梅ヲ偲バム」土佐日記、正月廿一日「海賊報セムト云フナル事ヲ思フうへニ、海ノ又、オソロシケレバ」「アルガ上ニ」其上ニ」 (十二){其物事ニ就キテノコト。 萬葉集、廿 五十三 「群鳥ノ、(如ク)朝タチ往ニシ、君ガ宇倍ハ、サヤカニ聞キツ、思ヒシ如ク」源、二、帚木 三十六 「打チササメキ、云フコトドモヲ聞キ給ヘバ、我ガ御うへナルベシ」「人ノ上」身ノ上」文ノ上」酒ノ上」話ノ上」 検索用附箋:名詞名称 検索用附箋:接尾辞 附箋:名称 名詞 接尾辞
https://w.atwiki.jp/index-index/pages/349.html
【種別】 人名 【初出】 四巻 【CV】 谷山紀章 【解説】 人気女優に手を出した事が週刊誌にすっぱ抜かれたアイドル。超美形だとか。 御使堕し発動時、周りからは土御門がこの男に見えたらしく、 熱狂的アイドルファンの夢見る乙女と目が合う度に金属バット片手に追い掛け回されたらしい。 海外の映画で主演に抜擢されたらしく、九月三十日には午後一番の番組で苦労話っぽく自慢していた。 この番組を録画していた黄泉川は彼のファンなのかもしれない。 その後も小ネタ的にちょくちょく登場している。 アニメ『とある科学の超電磁砲』では佐天涙子もDL販売された新曲に加え、 抽選で100名に当たるプレミアムグッズの応募券の入ったアルバムも購入して、 グッズをゲットする気満々であった。 また、『とある科学の超電磁砲』ではライブを開いているのが確認でき、『とある魔術と科学の群奏活劇』では 彼が出演するネット番組「一一一のカップル一番星」が登場している。 原作小説にも登場し続けており、新約十二巻ではテレビオービットの楽屋で寝ている姿をライヴ放映されている描写がある。 新約十四巻では夜のドラマの二時間拡大版に主演していた他、 新約十五巻で浜面が訪れた銀行のテレビで流れていた午後イチのトーク番組にも出演している。 前者のドラマを観た上里は『何かの漫画の原作があって、 芸能事務所側が知名度を上げたい役者を一枚噛ませようとしたのだろう』と推測しており、 後者のトーク番組を観た浜面は『奥様向けの時間帯』と評した。 ちなみに前者のドラマは「趣味も特技もない大学生の周りには何故かハイスペックな女の子が何人も侍っていて、 彼女達の力を七つ道具みたいに使って悪徳就活係のおっさんをとっちめる」という内容で、 上条勢力や上里勢力を連想させる内容となっている。