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写真 NO IMAGES 復元想像図 NO IMAGES 奉納年 明治18年(1885)9月18日 掲額者 佐藤良左衛門能静門人 緒元 縦58cm × 横140cm うち黒枠5cm 問題数 5 奉納先住所 岩手県一関市弥栄内ノ目161 奉納先名称 日吉神社 別保管住所 別保管名称 文化財指定 拝観時注意事項 図 額文 注 現代文等 関流九伝 佐藤良左衛門能静門人 問1 今有如図三角内容等円径ト側円其等円径若干側円長幾何ナルヤ 答1 答曰如左文 術1 術曰置五個開平方乗等円径得側円長合問 阿部文治正精 問2 今有如図外円径内隔孤容大円径二個小円径六個其外円若干小円径幾何ナルヤ 答2 答曰如左文 術2 術曰置外円径除五之得小円径合問 佐藤曹之助徳信 問3 今有如図大円径之内隔斜容小円径三個各周相親其乙斜若干甲斜幾何ナルヤ 答3 答曰如左文 術3 術曰置二個開平方乗乙斜得甲斜合問 佐々木与三郎網通 問4 今有如図長平之内隔斜容大円径小円径其小円径若干長平幾何ナルヤ 答4 答曰如左文 術4 術曰置小円径九之折半得平列方斜率加五分乗平得長合問 佐藤熊之助宝信 関流宗統八伝 千葉胤英皆伝菅原実良門人 問5 今有如図以等側円作丁子欲正平使釣之其長径ニ及短径若干相距数幾何ナルヤ 答5 答曰如左文 術5 術曰置長三之加短径除四之得相距数合問 小山忠平梅盛 維時明治十八稔九月十八日 額文は「和算 岩手の現存算額のすべて」による。 名前 コメント
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戸板保佑(といたやすすけ) 仙台藩 天文・数学者 宝永5年(1708)-天明4年(1784) 初名 :重豊 通称 :善太郎 号 :格九 取譬甫 黄海 統天斎 植 蕃 多植 茂蕃 多植茂 戸板保佑は宝暦の改暦に参加し、仙台を代表する天文学者として知られています。彼は師である山路主住と共に、西洋式の計算方法で暦を作り上げました。山路主住から教わった関流算術の集大成である『関算四伝書』を編纂し、数学史上にも大きな功績を残しました。 戸板保佑は幼い頃に父から算術を学び、十七才にして青木長由に数学・暦術を学びました。その後、仙台藩の天文学者であった遠藤盛俊の門人になり、遠藤盛俊の後継者として藩の天文学者になります。しかし、戸板は遠藤の学問に疑念を抱いていたことが、戸板の日記から伺われます。戸板は遠藤の門人になってからも青木や仲間たちと一緒に、日食や月食の観測に明け暮れます。 寛延三年、戸板保佑は御城に天文の道具を持ち込み伊達宗村公に対して講義を行いました。それから一月ほどして、今度は伊達宗村公が戸板保佑の自宅にある観測所の見学にきました。 宝暦三年、戸板保佑は宝暦の改暦に参加しますが、改暦に関して、土御門家と意見が合わず対立したもとあります。保佑は京都で関流の算学者・山路主住に出会い、改暦後も京都に留まり関流の算術を学びます。 仙台に戻ってからも山路と書状を通じて研究を続け、日本で初めての西洋暦を完成させました。また、それまで山路主住から学んだ算術や天文の書をまとめ、安永九年に「関算四伝書」、天明ニ年に「天文四伝書」を完成させます。同時に、日食や月食の観測にも励み、多くの弟子を育てました。弟子である船山輔之や青田依定は幕府天文方の暦官になっており、寛政の改暦の時にも、多くの仙台藩天文学者が関わることになります。 伊達世臣家譜 戸板保佑 戸板保佑年表 宝永 五 1708 正月二七日仙台北五番丁鍛冶町西裏南側に生まれる。 享保 三 1718 父に算術を習い始める。 享保 九 1724 二月二十日、青木長由に入門。算術と暦算を学ぶ。 三月、初めての弟子を取る。 「重」の字が差支えがあるとして保佑と改める。 享保十一 1726 正月十四日、中西流の免許を受ける。 享保十三 1728 戸板・遠藤に入門する。 享保十四 1729 初めての月食観測を行う。 享保十五年(1730) 戸板・紅毛時計の原理を考え御前に上がる 享保十六年(1731) 戸板・胡銅こん天儀を邸内に建て観測を行う 享保十七年(1732) 四月表木窺管を作る。 延享 元年(1744) 九月二十日 夜眠れず、勅使がくる夢を見る。 「ありがたや身にも余りしみことのり うきし夢に受くると思えど」 九月二八日、家禄が百石になる。 延享 三年(1746) 二月交食暦法の研究で褒美をもらう。 延享 四年(1747) 九月潮汐・天文の研究を命ぜられるが病気のため、 弟子の飯沢吉右衛門高亮があたる。 十二月、『阿蘭陀暦考』序文なる 寛延 三年(1750) 六月二七日、御城で伊達宗村公に進講する。 八月二日城主、観測所を見にくる。畑のナスと青豆を献上する。 八月七日青豆を献上する。 寛延 四年(1751) 五月朔日 板行暦に無い日食が起こる。前年に予報。 宝暦 三年(1753) 四月日時計を作る。 七月改暦の命を受ける。八月仙台出立、九月京都に入る。 宝暦 四年(1754) 戸板保佑が土御門泰邦と対立したことが、宗村公の知る所となる 宝暦 五年(1755) 六月山路主住に師事。関流の算術を学ぶ。 戸板(47)、渋川春海の渾天儀の不備を指摘 宝暦 六年(1756) 六代藩主・伊達宗村、没する。 宝暦 八年(1758) 戸板(50)・仙台へ戻る 宝暦 九年(1759) 二月、幻日の観測を行う。 十二月土御門家の伝を得る。金30両を賜る。 宝暦 十年(1760) 冬至、戸板保佑、山路主住より、見題、隠題免許を受ける。 宝暦十二年(1762) 五月、船山輔之門人となる。稽古料三両。 宝暦十三年(1763) 正月十一日、船山に中西流の免許を授ける。 九月朔日、板行暦に無い日食が起こる。前年冬に予報 明和 二年(1765) 林子平、上書の中で戸板保佑に算術の講座を持たせるよう記す。 明和 五年(1768) 六月朔日、船山に関流の免許(隠題・伏題)を授ける。 明和 六年(1769) 八月、メシエ彗星を観測する。 明和 七年(1770) 六月、彗星を観測する。 安永 元年(1772) 山路主住、没する。 安永 五年(1776) 広則(28)・戸板(68)渾天儀の作製 安永 六年(1777) 山路之徽より印可免許を受ける。 安永 七年(1778) 山路之微・没(50) 五月、日野多利之助、船山の門人となる。 安永 九年(1780) 戸板(72)『関算四伝書』、『仙台実測誌』 天明 元年(1781) 日野多利之助、関流の免許を受ける。 天明 二年(1782) 戸板『天文四伝書』 天明 四年(1784) 戸板・没する ■師弟関係 ┌和久半右衛門安之┐ │(1714-1777) │ ├────────┴青田源蔵依定 │ (1736-1790) ├後藤平左衛門成次 │(1728-1765) ├船山輔之 │(1738-1804) ┌渋谷知礼─>├加茂紋三郎義明 │ │ 青木長由─┼─────>├安部平三郎 ▽ │(御積平内の養子) 遠藤盛俊─┐ ├伊藤助之丞直言(書道家) │ │(1690- ) 土御門泰邦┤ ├粟野綾之助信興 │ │ 山路主住─┼戸板保佑──┼粟野平左衛門信賢(格方) │ │(始名石沢新助) 山路之徽─┘ ├藤広則 │(1748-1807) ├飯沢吉右衛門高亮┬真山喜兵衛 │(黄竜・格算 免許)│(免許) ├───────>├竹内多右衛門定盈 │ │(免許) ├───────>└宮崎多仲直喬 │ (免許、後に菅野) ├内馬場弥右衛門近信 │(格数 600石) │(寛延二正月十五日免許) ├山岸十太夫(一代記) │山岸長門か ├安部忠平治 │(山岸孫一郎家中) │孫一郎は長門の子 ├真山喜内定長 │ ├真山久左衛門(寿継? 111石) │(元文年中の門人) ├小野勇助胤昌───小野勇蔵 │(伊達将監家中)(伊達将監家中) ├小野安左衛門時中 │(百石?) ├小野清右衛門 │(後に伊右衛門) ├戸板保教 │(1740-1799?)保佑長男 ├日野多利之助 │(1749- ? )保佑次男 ├富沢正兵衛顕常 │ ├首藤善左衛門(延享4頃の門人) │ ├及川彦兵衛(彦惣) │ ├近江屋半兵衛 │ ├千葉和太夫(一関家中) │ ├千葉源太夫 │ ├杼窪雅楽之丞 │(八弥、後佐竹五郎左衛門) ├渋谷権七郎 │ ├佐竹久助 │ ├東海林長左衛門 │ ├佐藤与右衛門 │ ├笹永吉 │ ├窪田左源治 │ ├安達惣吉 │ └大友平太郎直寛 (1741‐1776) 小野安左衛門時中:始め、平太郎時香。 首藤善左衛門 :父の孫左衛門は相原氏の門人。 粟野平左衛門 :始め、百沢新助。格方、免許。 杼窪雅楽之丞 :八弥。後に佐竹五郎左衛門。 伊藤助之丞直言 :書道家。戸板初めての門人。 関連資料 仙台大崎八幡神社古川町八坂神社/奉額写 角中径捷術解/附弧矢捷術 角中径捷術解/附弧矢捷術 割円十分標之解并作標之術 括要十九角之解 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100238088/viewer/1 起元入門 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100235732/viewer/1 起元法則伝 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100236647/viewer/1 九数総術 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100244703/viewer/1 九数百好 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100270764/viewer/1 九数百好 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100306960/viewer/1 九数百好 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100244643/viewer/1 九数百好 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100247036/viewer/1 圭円考 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100238083/viewer/1 弧背詳解考 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100247047/viewer/1 弧背率解 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100234800/viewer/1 弧背率解 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100245221/viewer/1 三角中股伝 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100254117/viewer/1 算梯/弧内円解 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100238075/viewer/1 算法雑伝 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100248537/viewer/1 式商転求 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100249670/viewer/1 七曜暦 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100248366/viewer/1 諸約伝 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100235108/viewer/1 諸約伝 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100235243/viewer/1 従式作式之法 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100250462/viewer/1 崇禎諸表合算法 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100248096/viewer/1 崇禎暦法細草月食術 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100248093/viewer/1 生剋因法伝 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100248536/viewer/1 関算雑書 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100238092/viewer/1 関算前伝 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100244512/viewer/1 関算前伝諸約術 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100245228/viewer/1 関流算術綱領 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100254656/viewer/1 関流算法目録 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100238114/viewer/1 関流算法草術 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100244888/viewer/1 関流算法草術 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100247319/viewer/1 増損解附録 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100235245/viewer/1 増損解附録 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100240445/viewer/1 増約損約之解 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100235244/viewer/1 増約損約之解 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100250448/viewer/1 増約損約之解 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100250449/viewer/1 垜畳伝 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100250037/viewer/1 天文公用伝 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100270416/viewer/1 天文図儀解註 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100248085/viewer/1 天文秘書 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100249706/viewer/1 戸板所伝円理乾坤之巻 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100236333/viewer/1 戸板所伝円理乾坤之巻 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100248863/viewer/1 統術別解 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100238087/viewer/1 中西流/車平方交商術 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100245094/viewer/1 中西流数学系図/并同流算術書目 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100270756/viewer/1 中西流数学系図/并同流算術書目 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100236053/viewer/1 中西流数学系図/并同流算術書目 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100247048/viewer/1 中西流数学系図/并同流算術書目 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100257133/viewer/1 中西流免許状 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100270759/viewer/1 八線表解 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100248378/viewer/1 茂蕃一代記 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100257521/viewer/1 零約術/円周率 https //kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100254004/viewer/1
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陸奥国 耶麻郡 大谷組 八重窪(やへくほ)村 大日本地誌大系第32巻 151コマ目 この村何の頃にか葦名氏の臣武藤摂津守と(諱を伝えず)いう者この地を開き領知せしという。 府城の西北に当り行程8里。 家数9軒、東西1町14間・南北1町16間。 山間に住し四方に田圃(たんぼ)を開く。 東8町45間赤岩村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り1里2町。 西12町7間橋屋村の界に至る。その村は申(西南西)に当り32町余。 南6町44間河沼郡野沢組小島村に界ひ揚川を限りとす。その村は未(南南西)に当り27町。 北45間井谷村の界に至る。その村まで7町30間余。 端村 上島(かみのしま) 本村の未(南南西)の方6町余にあり。 家居1軒。 北に山連なり南は揚川に臨み、野沢組の諸村一矚(*1)にあり。 山川 戸屋峠山(とやたふけやま) 村東12町計にあり。 登ること100丈余。 その奥に横峯山(よこみねやま)あり。登ること85丈計。赤岩・中山両村との界なり。 昔この村の領主武藤摂津守が女を小島村の領主成田右馬丞に嫁(か)せしとき、この山を以て引出物とせしとて今も小島村との入逢なり。 揚川 端村上島の南にあり。 赤岩村の境内より来り、16町余西に流れ橋屋村の界に入る。 神社 稲荷神社 祭神 稲荷神? 相殿 山神 草創 不明 村南1町にあり。 鳥居あり。上三宮村高村能登これを司る。 古蹟 館跡2 一は村より亥(北北西)の方1町計にあり。東西20間・南北17間。東西北は谷深く、南は平地に続き堀切の跡あり。武藤摂津守が居住せし所なりという。今は菜圃(さいほ)となる。 一は端村上島の東の方川端にあり。武藤中務丞という者住せしという。今はその地かけて名のみ存す。天文中(1532年~1555年)葦名盛氏より中務丞に与えし文書、間民與次右衛門という者の家に蔵む。また西海枝宮内少輔が与えし文書、寛文の頃(1661年~1673年)までありしという。今はなし。その文舊事雑考にあれば共に左に載す。 上に朱印を押す(花押) 耶摩郡之内 上島のうき徳分六貫七百文の所 永代武藤中務丞に宛行之也者 守先例可令奉公於彼下地者 末代不可有相違也 仍證状如件 天文廿三甲寅年九月廿八日 ※天文23年:1554年 耶摩ノ郡之内 上ノ島浮キ-徳-分 永-代武-藤中-務殿ニ賣渡申候處實-正ナリ也 代五-貫-文堂-地-面一-貫文漆二十盃陣夫六人 其外浮キ徳分悉ク有ルレ之盡賣リ渡申候 御判-形之事ハ者御-西シ様被レ二指下一候之間 副ヘレ状ニ相渡シ申候 又御寺様御年貢上ケ物 尤モ上ケ申月其-外皆〻参セ候分 日記申シ二書キ-渡シ一候云云 仍テ爲二後日一支-證状如シレ件ノ 天文廿三年九月八日 西海枝宮内少輔盛秀 武藤中務丞殿 御西様とは葦名盛氏の事なるべし。また盛氏の子盛興を葦名東殿と称せし事あり。按ずるに盛興は本城の東今の二三丸の間に居住せし故東殿と称し又盛氏を御西と称せしにやと舊事雑考及び四家合考に見ゆ。 Google Map八重窪地区 上ノ島宅地なし。 戸屋峠山?現在鳥屋という地に山の頂(標高363m。明治時代の地図では375mとなっています)があります。おそらくここが鳥屋峠山かと。昔はこの山の南斜面に山道があったようです。旧道の跡らしき所がこの辺にあるようですが、現在は森に埋もれていることでしょう。 その奥にある横峯山とはこの辺の山(標高346m。明治の地図では340m)でしょうか? 稲荷神社社を確認できず。ミリオン企画の建物の裏手の方にあるようですが。 それともエンドウ製作所の北側にあるお堂のような建物が稲荷社でしょうか? 館跡(武藤摂津守の館)?集落内にある舘ノ内という地名があります。ここでしょうか? 館跡(上島。武藤中務丞の館)?上島地区は宅地も道も無いため確認できません。 蛇足。 試しに漢文の返り点を打ち込みましたが、労力の割には見易いとは言えず…。
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400 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 17 41 21.16 ID FTtyyojE0 前回のコンベで会場の公共施設から利用者の服装についてやんわりと注意を受けた旨を説明して 告知サイトにも書いてるのに 今回も相変わらず甚平とか半袖ジャージ上下とか部屋着みたいな格好で来る奴ってのは何を考えてるのかね このコンベ潰したいのかね? 秋になったらちゃんとするって前回言った奴に突っ込んだら「九月は夏だろ?」って寝言言うし やりたくないけどドレスコード導入まであるのかなこれ 401 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 18 12 09.65 ID eg+P8GNz0 だらしねーカッコしてるとここ貸してもらえないからちゃんと着替えてこいって言って叩きだせば? ドレスコード導入もありだと思う、勿論常識の範囲で 404 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 20 13 54.30 ID RrkX0NPv0 400 公共施設から警告受けた事話しても聞かない奴にはドレスコード導入しても無駄なんだよな ルール違反だ帰れって言ってもその場で暴れるしorz 405 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 20 47 45.10 ID FTtyyojE0 問題はどこで線引くかなんだよねー ネクタイ着用とか俺だってやだし 甚平そのものを取り締まるっての無理だしねー 406 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 20 54 57.92 ID vJrUkVbt0 甚平が上品なフォーマルな服だとは思わないが 禁止されるほど下品な服なのか? 着流しならOKなのか、それとも紋付袴じゃなきゃ駄目なのか 407 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 21 11 24.19 ID H09XKzow0 406 つまりこういう事を言う奴をかたっぱしから弾いていけばいい 411 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 22 17 03.04 ID zgQ6zQN20 「服を買いに行く服がない?そんな服でTRPGしにくんな」かな 413 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 23 27 11.84 ID Xol6+egE0 秋になったらちゃんとするって前回言った奴に突っ込んだら「九月は夏だろ?」って寝言言うし こんな屁理屈いう時点でもう、ある程度どうしようも無い人なんだな・・・って気はするが。 415 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 00 34 30.65 ID 1cLqAwn20 そもそも公共施設からやんわり注意を受けるような服装、 ってのがそもそも想像できん俺ガイル。 会議室借りる程度のことに、さして服装の基準なんてないはずだし、 そこで注意受けるような服装って、どの方向性でどんだけ逸脱してんだよ。 416 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 00 42 50.91 ID X7cUs+U50 甚平とか半袖ジャージってだけなら普通何も言われんわな TRPGなんてどうせすぐ部屋に引きこもって外ウロウロする訳でもないし 417 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 00 48 33.30 ID 8nJaRxsL0 そんな格好の人間が複数、外からぞろぞろと建物内に入り込み、 始まる前は部屋の外でウロウロしてて、昼飯買ってないと昼休みには コンビニとか行くために再び外に出て行き、戻ってくる 傍から見てると「何の集団だよアレ」みたいな気分になるんじゃないかな、これ 421 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 01 19 47.29 ID dry88xnz0 いや、半袖とか甚平が駄目なんじゃなくて それが清潔感のない服装、つうか清潔じゃない服装だから問題になってるんでは 422 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 02 14 10.82 ID ItgF0I6KO 他のところでいいかどうかなんて関係ないしな。 施設側がダメ出ししてるんだから、甚平がどうだろうとアウトだろ。 427 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 06 51 52.27 ID x6ytaFOh0 やんわりと注意されたってことだから、 他の施設使用者から苦情が入ったんじゃないかな。 スレ337
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日本書紀は、日本の歴史書。伝存最古の正史で神代から持統天皇の治世までを記述する。舎人親王らの撰で養老4年(720)に完成。構成は、漢文・編年体で全30巻・系図1巻。系図は失われている。 概要 構成文体・用語 紀年・暦年 依拠史料 記述の信頼性考古資料・文献資料との一致 非一貫性 矛盾 不備 非合理性 概要 誰が、誰のために、どういう目的で、どのように作られたか どれくらい信頼できて、どんなことがわかるか 構成 文体・用語 各巻によって語彙・語法の奇用や使用されている音韻の違いがみられ、大まかにα群とβ群に分けたうち奇用のないα群を中国人が、そうでないβ群を日本人が編纂を担当したと推定されている。 森博達.“日本書紀成立論小結 併せて万葉仮名のアクセント優先例を論ず”. 国語学. 54(3), 日本語学会, 2003, pp.1-15. 紀年・暦年 日本書紀では、各天皇の即位の年の末尾に「この年大歳」としてその年の干支を記した「大歳記事」があり、太歳紀年法で年を記述する。また、神代を除き各々記事には月朔(干支)日(干支)と記述され、月の一日の干支を基準に日が特定できるようになっている。神武紀の甲寅年十一月丙戌朔から仁徳八十七年十月癸未朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申朔から天智紀六年閏十一月丁亥朔までが元嘉暦と一致するという。 依拠史料 帝記、旧辞、墓記、風土記、個人の手記、社寺の縁起など 三国志、漢書、後漢書、淮南子、百済記、百済新撰、百済本記など 記述の信頼性 考古資料・文献資料との一致 百済武寧王の即位記事 百済武寧王陵墓誌と王名・生没年 非一貫性 神功紀で襲津彦に新羅を攻めさせた内容に、百済記による沙至比跪の行状に対する天皇の怒りを引用。神功摂政中は天皇位はまだ空位神功紀摂政六二年(262)二月条 皇極記元年(642)二月丁亥朔戊子(21日)条で既に死んだはずの大佐平智積が来朝する皇極記元年(642)七月甲寅朔乙亥(22日)条 制定・施行(647)前の冠位十三階の7位、大錦冠を中臣鎌子連に授ける孝徳紀皇極四年(645)六月庚戌(14日)条 穴門で白雉について、白雉瑞祥の先例記事が応神紀・仁徳紀に見えず孝徳紀白雉元年(650)二月甲申(15日)条 白雉記事は他にも、推古紀七年(599)九月癸亥条・天武紀二年(673)三月丙戌朔壬寅(17日)条に見えるが、場所が異なる(百済・備後) 孝徳紀白雉五年(654)十月癸卯朔壬子(10日)で崩御したが、葬儀なく葬られる孝徳紀白雉五年(654)十二月壬寅朔己酉(28日)条 伊勢の王は2度死に、なお諸国を巡る斉明七年(661)六月 伊勢王薨 天智七年(668)六月 伊勢王与其弟王、接日而薨。未詳官位 天武十二年(683)十二月甲寅朔丙寅(13日) 遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八国。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等、巡行天下、而限分諸国之境堺。然是年、不堪限分。 天武十三年(684)十月辛巳(3日) 遣伊勢王等、定諸国堺。是日、県犬養連手繦為大使。川原連加尼為小使。遣耽羅。 天武十四年(685)十月己丑(17日)伊勢王等亦向于東国。因以賜衣袴。是日。諡金剛般若経於宮中。 朱鳥元年(686)正月壬寅朔癸卯(2日)。~中略~。伊勢王亦得実。即賜皀御衣三具。紫袴二具。〓[糸+施の旁]七疋。糸二十斤。綿四十斤。布四十端。是日。摂津国人百済新興献白馬瑙。 朱鳥元年(686)六月甲申(16日)遣伊勢王。及官人等於飛鳥寺。~後略。 朱鳥元年(686)九月甲子(27日)平旦。諸僧尼発哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次浄大肆伊勢王誄諸王事。 持統二年(688)八月丁酉(11日)命浄大肆伊勢王、奉宣葬儀。 持統紀朱鳥元年(686)九月戊戌朔丙午(9日)に天武天皇は崩御していたはずで、2年後に葬儀持統紀持統元年(687)正月丙寅朔(1日)にも葬礼?他多数 持統紀二年(688年)十一月乙卯朔戊午(4日)条 暦日の不存在持統紀八年(694)四月丁亥(?日)条 天武九年(680)五月乙亥朔乙未(21日)条で既に死んだはずの秦造綱手に忌寸の姓を与える持統紀一〇年(696)五月壬寅朔甲辰(3日)条 すでに都として完成している難波を再び作ろうとする孝徳紀白雉二年(651)十二月晦(31日)条 天皇従於大郡遷、居新宮。号曰難波長柄豊碕宮 天武天皇十二年(683)十二月庚午(17日)条 故先欲都難波 天武天皇の葬儀に遺民が参加朱鳥元年(六八六年)閏十二月、筑紫大宰、献三国高麗・百済・新羅百姓男女、并僧尼六十二人。 矛盾 紀年の1年のズレ 五〇一 辛巳 壬午 武寧王即位・『三国史記』 五〇二 壬午 癸未 武寧王即位・『日本書紀』 五二一 辛丑 壬寅 武寧王朝貢・『三国史記』「武寧王二十一年条」 五二二 壬寅 癸卯 武寧王朝貢・『冊府元亀』「普通三年条」 五二三 癸卯 甲辰 武寧王没・『日本書紀』『三国史記』 五二四 甲辰 乙巳 武寧王没・『梁書』「普通五年条」 五二五 乙巳 丙午 武寧王埋葬(墓碑) 正確だが日本では観測されなかったはずの蝕皇極二年(643)年五月庚戌朔乙丑(16日) 月有蝕之 天武九年(680)年十一月壬申朔(16日) 日蝕之 正確な蝕記録の中に唯一の誤り○推古36(628)年3月2日 ×舒明8(636)年正月壬辰朔 ○舒明9(637)年3月2日 ○天武9(637)年11月壬申朔 ○天武10(638)年10月丙寅朔 郡評問題大化の改新の詔によって郡制が施行されたはずが、同時期の木簡には「評」と見える 筑紫都督府の存在天智6(667)年に(前々年に遣唐使とした)境部石積を、百済(を支配した唐)の鎮将劉仁願が(百済の)熊津都督府の司馬法聰に命じて、筑紫都督府まで送ってきた。 不備 逸年号大化・白雉・朱鳥・大宝・慶雲・和銅以外の元号の存在 逸事跡広開土王碑文に半島に倭兵が攻め入ったこと 記録されなかった日蝕 非合理性 持統紀に吉野行幸頻度が異常に多く、かつ集中 持統十一年(六九七)六月以降は、ほぼ全然と言っていいほど行幸が見られない 奈良の吉野にふさわしくない冬季に多く行幸。 蝦夷征伐の順序秋田能代津軽といった北が先で、越出羽の南が後
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登場人物 第一高校 2095年度 1年E組 司波 達也(しば たつや) 身長:一七五センチ。 司波 深雪の兄。 入学試験、七教科平均、九六点。 深雪とは同学年だが達也が4月、深雪は3月の生まれであって双子というわけではない。 拳銃形態の特化型CADシルバーホーンのチューンナップモデル『トライデント』二丁を装備し、一度に二機のCADを操るという非常に高難易度な操作も行う。 身体技能のみで瞬間移動にすら見える速力を出すことが可能で師である九重からは体術だけなら自分は叶わないかもと評価されるほど。 入学三日目に麻由美から風紀委員に指名され、その後本人の意志は問われぬままに二年度には生徒会副会長になることがあずさと花音の間で確定している。 一年時の新入部員勧誘週間で桐原を皮切りに魔法競技者のレギュラーたちを連破(取り締まった)したことで一躍名を馳せることとなる。 紗耶香の質問に重力制御型熱核融合炉の実現を目指すために魔法学を学んでいると答えている。 西城 レオンハルト(さいじょう れおんはると) 父親がハーフ、母親がクォーター。 硬化魔法を得意とし、得意属性の多重起動も可能。 手甲のような前腕を覆う幅広く分厚い、音声入力式のCADを使用。硬化魔法を全身に覆わせることも出来る。 進路は警察機動隊、山岳警備隊を希望している。 千葉 エリカ(ちば えりか) 特殊(システムを柄に、本体には刻印型の術式で強度を上げている)な警棒型CADを使用している。 百家の千葉の次女だが、妾の子であるため高校入学まで千葉姓を名乗ることを許されていなかった。そのため、達也はエリカの存在を知らなかった。 自己加速術式等の魔法を用いて剣で戦う剣術の使い手。 千葉家では印可。 柴田 美月(しばた みつき) 霊子放射光過敏症を抑える眼鏡をかけた気弱そうな口調と外見の少女。魔工師を志望している。 母親が翻訳家をしている。 入学当初は自分の体質を隠していた。 達也がよく性的な目で見ている印象がある。 吉田 幹比古 2095年度 1年A組 司波 深雪(しば みゆき) 魔法戦で受けに回ってもダメージを被る可能性がほとんどないくらいに強力な領域干渉を行うことができる。そのため相手よりも先に攻撃を当てるという魔法戦闘の基本戦術は深雪にとってはそれほど重視する必要がないとのこと。 光井 ほのか(みついほのか) 光波振動系魔法を得意としている。 北山 雫(きたやま しずく) 大出力の振動・加速系魔法を得意とする。 森崎 駿(もりさき しゅん) 拳銃形態の特化型CADを使用。森崎の本家に連なる。 風紀委員で達也に敵愾心を燃やす。 2095年度 1年B組 明智 英美 十三束 鋼 2095年度 1年D組 里見 スバル 2095年度 2年B組 服部 刑部少丞 範蔵(はっとり ぎょうぶしょうじょう はんぞう) 二年生。生徒会副会長。二学期には十文字より次いで部活連の会頭となる。 学校には服部 刑部で届出がされている。 オーソドックスな腕輪形態の汎用型CADを使用。 中距離以上の広範囲の攻撃魔法が得意で近距離、一対一の戦闘は苦手。ただし第一高校入学から達也に負けるまでの丸一年無敗だった。 摩利、真由美、十文字には叶わないとのこと。 2095年度 2年D組 沢木 碧(さわき みどり) 風紀委員。 軍人か警察かという風情の生徒。握力が百キロ近くある。 マーシャル・マジック・アーツと言われる魔法近接格闘術の、第一高校のエース。 2095年度 2年E組 壬生 紗耶香(みぶ さやか) 二〇九三年度の中等部剣道大会女子部の全国二位。美少女剣士、剣道小町などと騒がれていた。 エリカ曰わく、たった二年で別人のように腕を上げたとのこと。 剣道部主将の司甲の紹介でブランシュ日本支部リーダー司一に会い洗脳されていた。 ブランシュの事件後に桐原と付き合うことになる。 2095年度 2年 中条 あずさ 桐原 武明(きりはら たけあき) 二千九十三年度の関東剣術大会中等部チャンピオン。対戦系魔法競技では第一高校有数の有望株。 高周波ブレードを好んで使う。 ブランシュの事件後に紗耶香と付き合うことになる。 五十里 啓 岡田 二年生。教職員選任枠の風紀委員。 二科生に対する差別意識が高い。 2095年度 3年C組 辰巳 鋼太郎(たつみ こうたろう) 風紀委員。 ゴツゴツした体つきの、ねじり鉢巻が似合いそうな短髪の男。 三年の中でも有数のスピードファイター。 2095年度 3年 七草 真由美 身長:約一五五センチ(達也主観で達也より20センチほど小さい)。 十師族、七草家の長女。生徒会長。95年九月に生徒会長は引退している。 達也の心のメモ帳にはS気質と記されている。 渡辺 摩利(わたなべ まり) 三年生。第一高校の三巨頭の一人。 風紀委員長。95年九月に引退している。 千葉家の門下生で目録。 千葉修次の恋人。片付けが苦手。 個人戦・集団戦を問わない対人戦闘におけるスペシャリスト。 気流操作で複数の香料を掛け合わせることで違法薬物なしに自白剤を作ることも出来る。 十文字 克人(じゅうもんじ かつと) 三年生。『鉄壁』の異名を持つ第一高校の三巨頭の一人。 部活連会頭。95年九月に引退。 十師族の十文字家の総領で次期当主。 身長は百八十五センチ前後。分厚い胸板と広い肩幅、くっきりと隆起した筋肉を持ち、肉体的な特徴だけでなく存在感の密度が桁外れに濃厚な人物。 携帯端末形態の汎用型CADを使用。 二巻P265で右腕を斬られた司一の止血のために切断面を焼いたようだが、魔法発動の際に五感で知覚出来るタイムロスはなかったとのことで、高い処理能力を持っていることが伺われる。 市原 鈴音 司 甲(つかさ きのえ) 三年生。二科生。剣道部主将。 霊子放射光過敏症でメガネをかけているメガネ男子。 旧姓、鴨野甲。賀茂家の傍系だが血は大分薄い。放出された霊気の波動を認識できる程度の目を持っており、これは一種の先祖帰りと見られている。 義理の兄、司一のマインドコントロールの影響下にある。そして兄の命令で第一高校に通わされ、剣道部を中心に生徒をエガリテのメンバーへと勧誘していた。 二科生だが高速移動の魔法は得意としている。 マインドコントロールの深刻な影響下にあったため、事件後は無罪放免となる。 2095年度 教師 小野 遥(おの はるか) 第一高校の総合カウンセラー。第一高校には総合カウンセラーが16名おり、一年E組は彼女と柳沢が担当している。 彼女自身が九重の弟子で、達也が九重の弟子であることも知っていた。 柳沢 一年E組担当のカウンセラー。一巻P85に登場。 第三高校 2095年度 1年 一条 将輝 吉祥寺 真紅郎 四葉家関係者 その他 九重 八雲(ここのえ やくも) 達也たちの家から時速60Km近くで走って一〇分ほどの距離にある寺に居を構えている忍術使い。身分上でも本物の僧侶。 忍者ではなく『忍び』、職業ではなく伝統と主張する。 古式魔法の使い手で達也の師匠。達也が寺に通い出したのは中学一年の十月の頃。達也や兄弟子の風間も現時点では九重には勝てないようだ。 他に、深雪、小野、風間の師でもある。 トーラス・シルバー フォア・リーブス・テクノロジー専属で一切のプロフィールが明らかにされていない謎の天才魔工師。 その正体はブシドー仮面や何スロットさんくらい不明。 司 一(つかさ はじめ) ブランシュ日本支部リーダー。 見た目三十前後の年齢で縁なしの伊達眼鏡をかけた学者か法律家といった外見の男。 意識干渉型系統外魔法『邪眼』を使い、洗脳を行ってきた。 壬生 勇三(みぶ ゆうぞう) 風間とは年齢も同じで兵舎で起居を共にした戦友。 魔法技能の評価と実戦の強さは別物だと自分の経験則から考えている。 風間 軍での階級は少佐。
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辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 名詞 ① 十二支の一つで、その第一一番目。 ※拾遺(1005‐07頃か)物名・四三〇「むま・ひつじ・さる・とり・いぬ・ゐ うまれよりひつじ作れば山にさる独(ひとり)いぬるに人ゐて在せ〈よみ人しらず〉」 戌 ② ①を年月日、方角、時刻に配して、その呼び名とするもの。(イ) ①にあたる年や日。 ※浄瑠璃・鑓の権三重帷子(1717)上「わしは戌(いぬ)で長六十」 (ロ) 西から北へ三〇度寄った方角。西北西。 (ハ) 奈良・平安時代の定時法では、ほぼ現在の午後七時から九時まで。鎌倉時代以降の不定時法では、春は午後七時半頃から九時頃まで、夏は八時すぎから九時半頃まで、秋は七時頃から九時頃まで、冬は六時すぎから八時半頃まで。なお江戸時代後半には半刻(約一時間)遅れて行なわれた。夜五つ。→戌の時・戌の刻。 ※続日本紀‐天平一五年(743)六月癸巳「自 レ 酉至 レ 戌、宇治河水涸竭」 (ニ) 九月の異称。 ③ 数の百をいう、古本屋仲間の隠語。 〔東京語辞典(1917)〕 広辞苑 名詞 ①十二支の第11番目に位するもの。動物では犬に当てる。 戌 ②西から北へ30度の方角。 ③昔の時刻の名。今の午後8時ごろ。また、およそ午後7時から9時のあいだの時刻。→時 (とき) 大言海 名詞 〔犬ノ義〕(一)干支 (エト)ノ名。(其條ヲ見ヨ) 戌 (二)方角ノ名。(えとノ條ヲ見ヨ) (三)時 (トキ)ノ名。(其條ヲ見ヨ) 検索用附箋:名詞天文 附箋:名詞 天文
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裴璩 ?-? 唐末の官人・藩鎮。字は挺秀。裴克の子。裴諝は曽祖父の従兄弟にあたる。鎮海節度使となり、乾符四年(877)王郢が叛くと、王郢本人とは戦わず、周囲の朱実を離反させて、王郢軍を分裂させた。同年四月、曹師雄が宣州・潤州より湖州に侵攻したが、迎撃して勝利を収め、王重隠も戦死させた。尚書右僕射となり、中和3年(883)黄巣より長安が奪還されると、荒廃した宮殿の修理、輦輅・仗衛・旧章・秘籍の購入を命じられた。光啓二年(886)襄王李熅が皇帝を称する際に朱玫の恫喝により、太子太師として帝位を勧めた。大順元年(890)に朱全忠より節度使となり得る縉紳名族の歴任の重臣として、如王徽・孔晦・崔安潜とともに名をあげられている。最終は検校司空に昇り、唐末三公に任じられた重臣であった。 表・列伝・史料 『新唐書』巻七十一上 表第十一上 宰相世系一上 裴氏 東眷裴 『新唐書』巻二百二十五下 列伝第一百五十下 逆臣下 黄巣 『旧唐書』巻二十上 本紀第二十上 昭宗 大順元年三月丁亥朔条 『資治通鑑』巻二百五十三 唐紀六十九 乾符四年閏月条、四月条 『資治通鑑』巻二百五十六 唐紀七十二 光啓二年九月条 外部リンク 维基百科,自由的百科全书 裴璩(中文) https //zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B4%E7%92%A9
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序章 追うものと追われるもの 狙うものと狙われるもの 九月下旬、上条当麻は大覇星祭やイタリアでの、とっても愉快な旅行で身体全身が悲鳴をあげそうなくらい疲れていた。そんな不幸な彼に、強気な少女の声がかけられた。 御坂美琴である。 「ちょっと!アンタ!見つけたわよ!大覇星祭の罰ゲーム忘れてないでしょうね?」 当麻はそんな元気はないという脱力した顔で、 「あぁ・・・お前か、疲れてるんだ。今度にしてくれ。」 「何よ約束すっぽ抜かす気?!」 言葉とともに電撃が飛んでくる。 必死で走って、かわしながら逃げている上条を、 必死で走って、電撃を飛ばしながら御坂は追いかけている。 「ううっ!きついんだよ今は!不幸だぁーーー!!」 今日も不幸な男とビリビリな女は騒いでいた。 ここはどこかくらい廃墟であった。 所々蜘蛛の巣が張ってあり、ネズミも数匹いた。 その中に立ちながらとある人物が腕につけられた端末のモニタを見た 「くふふっあれが学園都市ですか・・・警備が硬そうですね。 まあいいでしょう、強行突破で行けばいいんですから。」 紺色のマントに身を隠した金髪で長髪の魔術師はつぶやいた。 そこにその端末に連絡が入る。 「んっなんだ?」 「準備は済んだか?強行突破で頼むぞ。」 電話の声の主は楽しみながら告げた 「あぁ、あえて強行突破で行かせてもらう。」 紺色の魔術師は笑いながら答えた。 それは何か深い意味があるような雰囲気をかもしだしていた。 「じゃあ頼む。」 電話が切れた。魔術師は一息つき、一言叫んだ。 「proportio385―我の行いはすべてを調和し均等と化す!!! さぁ均等を乱す者たちを狩ろうではないか!!」
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秀次公は『喘息を患っており、気鬱積により興奮上気する状態』だったといわれています。(曲直瀬玄朔『医学天正記』) また、『秀次はともすれば激情の人だった。理性の歯止めのきかない部分もあった人──情緒不安定な部分をもった人だった』(太閤秀吉と秀次謀叛)とされています。 元来患っていた病が淀君懐妊の報せを受けて以降急激に悪化し、しばしば湯治に出掛けたりしていたようで、秀頼誕生前後から心身喪失(耗弱)状態に陥ったと見ることができます。 「殿下御不例」及び湯治、病気の記録 天正二十年(1592)──二十五歳 十月十二日、実父の所労見舞の為尾張へ下向。 帰洛後心身に支障を来し始め、同二十九日〜十一月十四日まで有馬湯治に出掛ける。 十二月八日、改元の陣儀があり秀次公も参画している。 翌日から「御不例」状態が暫く続く。 文禄二年(1593)──二十六歳 天正二十年年末以来の「殿下御不例」は快癒せず年を越す。 二月〜三月、洛外へ遊猟に出掛けており多少回復したようである。 八月一日「殿下御気色甚以疾 (中略)以御病無御対面」状態に陥る。 八月三日、秀頼誕生。 九月十七日から熱海湯治に出掛け、十月十一日帰洛。(閏月を含む為二ヶ月間) 十二月二十日より体調を崩す(関白様今朝少御咳気被成御煩) 文禄三年(1594)──二十七歳 文禄三年年末より崩した体調により、年頭の礼が少し遅れ一月十二日からとなっている。 文禄四年(1595)──二十八歳 六月二十一日、突然体調を崩したのか曲直瀬道三が聚楽第へ駆け付けている。