約 1,978,055 件
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/329.html
編集を押すと内容の編集が行われます。 更新した内容は三国志9関連(更新中動画)に反映されます。 三国志9 編集 タイトル Part1 最新 リスト 備考 編集 外史英雄譚 Part1 Part5 リスト 更新停止(2014/11/7) 編集 サンゴクニカイドウ 1 87 リスト 編集 【三国志Ⅸ】 ルーミアの国取りグルメ旅2nd 0話 22話 リスト 更新中 編集 【三国志Ⅸ】 炎柱、蒼天を征く【鬼滅の刃】 0話 7話 リスト 更新中 編集
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/106.html
<魏 234年> <蜀漢 234年> <呉 234年> 234年 青龍二年 (魏) 皇帝 曹叡(魏) 皇后 毛氏(明悼毛皇后・河內人) 三公 太傅:(空位) 太尉:(空位) 司徒:董昭(前衛尉) 司空:陳群(前鎮軍大將軍) 九卿 衛尉: その他の要職 大司馬:公孫淵(樂浪公・前車騎將軍) 大将軍:司馬懿(前驃騎將軍) 驃騎大將軍:→ 車騎將軍:→ 地方官 主な事件 青龍二年春二月乙未、太白が熒惑を犯す《三国志魏書明帝紀》 二月癸酉(2月18日)、詔して「官刑に鞭打ちがあるのは慢怠を糾弾するためのものだが、無辜の死罪が多い。鞭杖之制を減らすように」《三国志魏書明帝紀》 三月庚寅(3月6日)、山陽公(漢献帝)が薨じた。帝は素服で發哀した。使者に節を持たせ喪事を典護する。《三国志魏書明帝紀》 三月己酉、大赦《三国志魏書明帝紀》 夏四月、大疫。崇華殿が火災《三国志魏書明帝紀》 四月丙寅、有司に詔して太牢をもって文帝廟に告祠させ、山陽公を漢孝獻皇帝と追諡する。葬礼は漢の礼制であった。<葬礼の模様>《三国志魏書明帝紀》 是月、諸葛亮は斜谷に出て渭南に屯す。司馬懿は諸軍を率いて之を拒む。司馬懿に詔して「ただ堅く拒守しその矛先を挫け。必ず敗走するだろう。敗走すれば之を追え。これが全勝之道だ」《三国志魏書明帝紀》諸葛亮は使者に書を持たせ遣わし、また巾幗婦人之飾を送る。司馬懿は怒り出て戦わんとするが、辛毗が節を杖つき詔を奉じる。司馬懿及び軍吏以下に勅し止む。司馬懿は使者に会い、ただ寝食及び煩簡な事柄のみ問い、戦いのことは問わず。対して使者は「諸葛公は夜寝静まってから寝、罰は二十以上を皆親しく覽ます。食は數升を過ぎず」と。司馬懿は「亮の体は斃れるだろう。そう長くはあるまい?」《三国志魏書明帝紀に引く魏氏春秋》 五月、太白が昼に見えた。孫權が居巢湖の口に入り、合肥新城に向かう。又將の陸議﹑孫韶に各々萬餘人を率いさせて淮水﹑沔水に入らせた《三国志魏書明帝紀》 六月、征東將軍の滿寵は軍を進めて拒んだ。滿寵は新城の守りを解いて賊を壽春に引き込まんと欲す。帝は聽かず。曰わく「先帝は東に合肥を置き、南は襄陽を守り、西は祁山を固め、賊が來たれば三城之下に破る。地には必爭の地がある。孫権が新城を攻めても必ず敗れるだろう。諸將は堅守せよ。自ら之を征伐せん。至れば孫権は敗走するだろう」と。《三国志魏書明帝紀》 秋七月壬寅、帝は親しく御龍舟に乗って東征した。孫権は新城を攻めるも、將軍の張穎等が力戰固守し、帝の軍が未だ數百里に至る前に遁走した。議﹑韶等もまた退く。大將軍が諸葛亮と相対峙しているので車駕は西の長安へ向かうべきと進言があったが、帝は「孫権が敗走した今、諸葛亮も破られるだろう。大將軍が制している。何を憂うことがあろうか」。壽春に進軍し諸將の功を録し、格差をもって封賞する《三国志魏書明帝紀》 八月己未、大いに兵を休め、六軍を饗応し使者に節を持たせて合肥・壽春諸軍の労を労わる。《三国志魏書明帝紀》 八月辛巳、許昌宮に還る《三国志魏書明帝紀》 司馬懿は諸葛亮と対峙し続け、何度も挑戰されたが応じず。諸葛亮が死んだので其軍は引き退いた《三国志魏書明帝紀》 冬十月乙丑、月が鎮星及び軒轅を犯す《三国志魏書明帝紀》 十月戊寅、月が太白を犯す《三国志魏書明帝紀》 十一月、京都で地震。東南から来て隱隱と音あり、屋瓦を揺り動かす《三国志魏書明帝紀》 十二月、有司に詔して大辟を刪定する,死罪を減じる《三国志魏書明帝紀》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/196.html
<魏 257年> <蜀漢 257年> <呉 257年> 257年 太平二年(呉) 皇帝 孫亮(字子明・呉会稽王) 皇后 全氏(全尚の娘) 皇太子 (空位) 三公(呉) 丞相:? 太傅:? その他の要職(呉) 太常:? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:丁密(257?~262) 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:孫綝(假節・永康侯) 驃騎将軍:? 車騎将軍:劉纂? 衛将軍:? 上大將軍:? 主な事件 二年春二月甲寅、大雨。震電。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 二月乙卯、雪。大寒。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 二月、長沙東部を湘東郡に、西部を衡陽郡に、會稽東部を臨海郡に、豫章東部を臨川郡と為す。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 夏四月、孫亮は正殿に臨む。大赦。親しく政事に関わり始める。孫綝が上奏したものの多くを見て難問する。また、兵の子弟で年十八以下十五以上のものに科して三千餘人を得る。選んで大將の子弟で年少の勇力ある者を將帥と為す。孫亮曰わく、「吾が此軍を立て一緒に成長していこうと思っている」日中苑中で習練する《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 五月、魏の征東大將軍の諸葛誕が淮南を以て叛旗を翻し壽春城を固守する。將軍の朱成を遣わして臣と称し、又子の諸葛靚、長史の吳綱、諸牙門の子弟を質として遣わす。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 六月、文欽、唐咨、全端等を遣わして步騎三萬で諸葛誕を救う。朱異は自ら虎林軍を率いて夏口を襲う。夏口の督の孫壹は魏に奔る。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 秋七月、孫綝は軍を率いて壽春を救う。鑊里に至り、朱異が夏口から到着する。孫綝は朱異を遣わして前部督と為し、丁奉等と將介士五萬で圍を解く。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 八月、會稽南部が叛き、都尉を殺す。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 鄱陽、新都の民も亂を為す。廷尉の丁密、步兵校尉の鄭冑、將軍の鍾離牧は軍を率いて之を討つ。朱異は軍糧が乏しくなったので引還した。孫綝は大いに怒った。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 九月朔己巳、朱異を鑊里で殺す。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 九月辛未、孫綝は鑊里から建業に帰還する。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 九月甲申、大赦。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 十一月、全緒の子の全禕、全儀が其母を連れて魏に奔る。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 十二月全端、懌等は壽春城から司馬文王に会う《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 256年<< >>258年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/174.html
<魏 236年> <蜀漢 236年> <呉 236年> 236年 嘉禾五年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫登 三公(呉) 丞相:顧雍(前太常) その他の要職(呉) 太常:潘濬? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 上大將軍:陸遜? 主な事件 五年春、大錢を鋳る。一枚が五百に相当した。詔して吏民に銅を提供させ、銅を計って交換した。盜鑄之科を設けた。《三国志呉書呉主権伝》 二月、武昌で禮賓殿に甘露が降ったと伝えてきた。《三国志呉書呉主権伝》 輔吳將軍の張昭が卒す。《三国志呉書呉主権伝》 中郎將吾粲が李桓を捕らえ、將軍の唐咨が羅厲等を捕らえた。《三国志呉書呉主権伝》 去年の十月から雨が降らず今年の夏まで続く。《三国志呉書呉主権伝》 冬十月、彗星が東方に見られた。《三国志呉書呉主権伝》 鄱陽の賊の彭旦等が反乱する。《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 235年<< >>237年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/94.html
<魏 257年> <蜀漢 257年> <呉 257年> 257年 甘露二年(魏) 皇帝 曹髦(魏高貴郷公) 皇后 卞氏(父は卞隆) 皇太子 三公(魏) 太傅:司馬孚(前太尉) 太尉:高柔(前司徒) 司徒:鄭沖(前司空) 司空:盧毓(前尚書左僕射)→(死亡)→諸葛誕(征東大将軍) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号) 驃騎将軍:王昶 車騎将軍:→孫壹 衛将軍: 地方官 冀州牧: 幽州牧: 并州牧: 青州牧: 徐州牧: 兌*州牧: 揚州刺史:楽綝→(死去) 雍州刺史:王経 交州牧:→孫壹(侍中車騎将軍) 主な事件 二年春二月、青龍が温県の井中に見られた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 三月、司空の盧毓が薨ず《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 夏四月癸卯、詔に曰わく「玄菟郡高顯縣の吏民が反乱し、県長の鄭熙を殺した。民の王簡は熙の喪を行う。その忠節を嘉みし、特に王簡を忠義都尉に拝す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 四月甲子、征東大将軍の諸葛誕を司空と為す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月辛未、帝は辟雍に行幸する。会を開き臣に詩を賦すよう命じたが侍中和逌、尚書の陳騫等は作詩に戸惑った。有司が免官を奏上した。詔に言う「私は暗昧で文雅を愛好す云々」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月乙亥、諸葛誕は徵するに応えず、兵を発して背く。揚州刺史の楽綝を殺す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月丙子、誤って諸葛誕に付いた淮南将吏士民を赦す。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月丁丑、詔に曰わく「諸葛誕は狂乱を造り揚州を覆した。黥布、隗囂の故事もあり、威武を奮い輝かす。今、宜皇太后と朕は共に戎に臨み、速やかに平定する」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月己卯、詔に曰わく「諸葛誕は逆乱を造り、忠義の士を脅かす。平寇將軍臨渭亭侯の龐会、騎督偏將軍の路蕃、各左右の将軍は門を突出し、忠壯勇烈、素晴らしい働きを見せた。龐会の爵を進め鄉侯とし、蕃を亭侯に封じる」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 六月乙巳、詔して、呉の使持節都督夏口諸軍事鎮軍将軍沙羡侯の孫壹が帰属してきたので、侍中車騎将軍、仮節、交州牧、呉侯、開府辟召儀同三司と為す。古侯伯の八命の禮に依り、兗冕赤」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 六月甲子、詔して、今車駕は項に駐留している。大將軍は天罰を行使し、前に淮浦を臨み、昔の相國大司馬が征討したように皆尚書とともに行くこととする」散騎常侍の裴秀、給事黃門侍郎の鍾會に令して大將軍とともに行かせる《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 秋八月、詔して曰わく「昔、燕が王を刺して謀反をした。韓誼等は諫めて死んだ。漢朝ではその子を顯みて官職を与えた。諸葛誕は凶亂を引き起こし、主簿の宣隆、部曲督の秦絜は節義を守って諌め殺された。絜の子を騎都尉と為し、下賜を加える」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 九月、大赦《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 冬十二月、吳の大將である全端、全懌等が部族を率いて降ってきた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 誕生者 死没者 盧毓(司空) 楽綝(揚州刺史)
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/13.html
<魏 264年> <呉 264年>? 264年 景元五年→咸煕元年(魏) 皇帝 曹奐(字景明・魏常道鄉公) 皇后 (空位)→卞氏 皇太子 三公(魏) 晉王:→司馬昭(相國) 晋公:司馬昭→(廃止) 相國:司馬昭(晋公→晉王) 太傅:司馬孚(前太尉) 太保:鄭沖(前司徒) 太尉:鄧艾(前征西將軍)→王祥(前司空) 司徒:鍾会(前鎮西将軍)→何曾(前征北將軍) 司空:王祥(前司隸校尉)→荀顗(前尚書左僕射) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号) 驃騎将軍:王昶?→司馬望(前衛將軍) 車騎将軍:孫壹? 衛将軍:司馬望→ 地方官 司隸校尉: 冀州牧: 幽州牧: 并州牧: 青州牧: 徐州牧: 兌*州牧: 揚州刺史:? 雍州刺史:諸葛緒 交州牧:孫壹? 梁州: 主な事件 咸熙元年春正月壬戌、檻車で鄧艾を徵する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月甲子、長安に行幸する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月壬申、使者を使わして璧幣をもって華山を祀る。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月、鍾會が蜀で反乱を起こすが、兵に討たれる。鄧艾もまた殺される《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 二月辛卯、益州の地にあるものを特に赦す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 二月庚申、明元郭后を葬送する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 三月丁丑、司空の王祥を太尉に、征北將軍の何曾を司徒に、尚書左僕射の荀顗を司空と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 三月己卯、晉公の爵を進めて王と為す。十郡に封じ、前と合せて二十とす。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 三月丁亥、劉禪を安樂公に封じる《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》景元五年三月丁亥、後主は家を挙げて東遷し、洛陽に至る。策命をもって太常を遣わし、劉禪を安樂縣公と為す。食邑萬戶、絹萬匹、奴婢百人、諸々を賜う。子孫は三都尉と為し侯に封じられた者は五十餘人。尚書令の樊建、侍中の張紹、光祿大夫の譙周、祕書令の郤正、殿中督の張通は皆列侯に封じられた。なお劉禅は晋の泰始七年に洛陽で薨じた。《三国志蜀書後主伝》諡は思公。子の劉恂が嗣いだ。《三国志蜀書後主伝に引く蜀記》 夏五月庚申、相國晉王が五等爵を復するよう奏上する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 五月甲戌、改年する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 五月癸未、舞陽宣文侯(司馬懿)を晉の宣王に、舞陽忠武侯(司馬師)を晉の景王に追命する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 六月、鎮西將軍の瓘は雍州兵が成都縣で獲た璧玉印各一を上申する。印には「成信」に似た字が見えた。周の成王の歸禾之義にちなんで百官に宣示し、相國府に収めた《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 初め、蜀を平定した直後、吳は永安によって攻めてきたので、荊・豫の諸軍を掎角の形勢で赴かせ救った。七月、呉の賊は皆遁退した《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 八月庚寅、中撫軍の司馬炎に命じて相國の副と為し、昔魯公が拜した儀礼にならった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 八月癸巳、詔して曰わく「前に逆臣の鍾會が反亂を企てたとき、相國左司馬の夏侯和、騎士曹屬の朱撫は成都にあって、中領軍司馬の賈輔、郎中の羊琇は各々鍾會の軍事に参与していたが、夏侯和、羊琇、朱撫は皆鍾會の凶言を拒み、危機に臨んで顧ず、軍を指し示した。輔語散將の王起は兵士を説いて有利な形勢を作った。これらの忠義を顕彰し広く知らしめる。夏侯和・賈輔の爵を進めて鄉侯と為し、羊琇・朱撫の爵位を關內侯と為す。王起を部曲の將と為す」《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 八月癸卯,衛將軍の司馬望を驃騎將軍と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 九月戊午、中撫軍の司馬炎を撫軍大將軍と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 九月辛未、詔して曰わく「吳賊の暴虐は極まりを知らない。孫休は鄧句を遣わして交阯太守に命じてその民を鎖につないで連行し兵に仕立て上げた。吳將の呂興は民心が憤怒したのを利し、また王師によって巴蜀が平定されたのを受けて即豪傑を糾合し鄧句等を誅殺し、太守長吏を駆逐して吏民を慰撫し、國命を待っている。九真郡と日南郡では呂興が逆を去り順に従ったとして応じようとしている。呂興は日南の州郡に書を届けて大計を示し、兵を合浦に進めて禍福を告げた。また都尉の唐譜等を遣わして進乘縣に留め、南中都督護軍の霍弋を通して上表し、交阯の將吏もまた各々上表してきた。曰く「時宜に合って呂興を督交阯諸軍事・上大將軍・定安縣侯と為しました。賜褒を乞い、辺境の荒廃を慰撫してください」と。今呂興を使持節都督交州諸軍事・南中大將軍と為し、定安縣侯に封じる」策命が至る前に興は下人に殺された《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 冬十月丁亥、詔して曰わく「今交阯の呉の將呂興は三郡を統べて万里の彼方から帰順している。武陵邑侯の相嚴等は五縣を糾合して臣従を請うている。豫章廬陵の山民は挙兵して吳に背き助北將軍と號している。また孫休は病死し、主帥が改まることで國內が乖離し人の心に動揺があるという。呉將の施績は賊の名臣だが、懷疑自猜し、嫌悪されている。以前より今に及ぶまで滅亡の兆しがここまで甚だしかったことはない。もし六軍を動員し南に長江を臨めば、吳會之域は必ず老幼を助けて王師を迎えるであろう。必然だ。しかしながら大動員をすればなお勞費がある。威德を告喻し仁信を開示して順を知らしめ附和同の利を示そう。相國參軍事の徐紹、水曹掾の孫彧は昔壽春にあって虜獲された者たちだが、徐紹は本呉の南陵督、孫彧は孫權の支屬で忠良である。徐紹を南に還えし、孫彧を副と為す。國命を宣揚し吳の人を告喻せよ。徐紹は散騎常侍を兼ねさせ、奉車都尉を加え、都亭侯に封じる。孫彧は給事黃門侍郎を兼ねさせ、爵は關內侯を与える。徐紹等が賜わった妾及男女家人で我が国にあるものは悉く随伴することを許す。國恩明らかをもって必ず還ることは出来ないだろうが、廣大に信を示せ」《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十月丙午、撫軍大將軍で新昌鄉侯の司馬炎を晉の世子とするよう命じた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 是歲、屯田官を廃止し政役を等しくした。諸典農は皆太守と為し、都尉は皆令長と為す。勸募蜀の人で內移したい者を募り、廩二年を給った。また二十歲の賦役を除いた。安彌・福祿縣で嘉禾が生えたと伝えてきた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月十五日、魏の鍾会は成都に入った《三国志魏書鍾会伝》 正月十六日、鍾会は成都の政堂において太后の喪を発し、太后の遺詔を偽作して司馬昭を廃すよう申されたと宣言した《三国志魏書鍾会伝》 正月十八日、鍾会は胡淵率いる胡烈の軍兵に攻められ、姜維とともに亡くなった《三国志魏書鍾会伝》 誕生者 死没者 鍾会(魏の相国鍾ヨウの子・戦死・享年40歳) 姜維(蜀の大将軍・戦死) ▲PAGE TOP
https://w.atwiki.jp/hdlwiki/pages/177.html
三国志11 【メーカー】コーエー 【発売日】2006/9/28 動作報告 HDL 純正 50000 HDLDump イメージ 数時間プレイ HDA3.0 SCPH-50000 純正 ok 商品の説明
https://w.atwiki.jp/sangokusisenki/
このwikiは三国志戦記の非公式wikiです。 【公式】:http //www.gamecity.ne.jp/products/products/ee/new/sansenki/ 編集者が思ったことを独断と偏見で書いていきます。 孫策編はほぼやってないので更新遅れるかも 2024/3/20:劉備編全シナリオページ、蜀全武将ページ作成完 ※加筆あれば宜しくお願いします。 このころのコーエーはよかったなあifシナリオの出来がいい スマホ変えた結果、三国志戦記が遊べなくなりました。 ・↑呉は遊ばなくて正解だったぜ。 メニュー コメント/雑談・質問 ※当wikiは非公式の攻略wikiです。情報の妥当性や正確性について保証するものではなく、一切の責任を負いかねます。 ※当wikiを利用することによって生じるいかなる損害も当サイトでは補償致しません。 ※ご利用につきましては自己責任となりますのでご注意ください。
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/110.html
<魏 238年> <蜀漢 238年> <呉 238年> 238年 景初二年 (魏) 皇帝 曹叡(魏) 皇后 (空位) 三公 燕王:公孫淵(自称:自立す。紹漢二年)→(死亡) 太傅:(空位) 太尉:司馬懿(前大将軍) 司徒:(空位)→韓暨(前大中大夫)→(死亡)→衛臻(前司空) 司空:衛臻(前尚書僕射)→崔林(前司隸校尉) 九卿 衛尉: その他の要職 大司馬:公孫淵(樂浪公・前車騎將軍)→(死亡) 大将軍:→曹宇(燕王)→曹爽(前武衛將軍) 驃騎大將軍:→ 車騎將軍:→ 地方官 荊州刺史:胡質 幽州刺史:母*丘儉 雍州刺史:郭淮 主な事件 景初二年春正月、太尉の司馬懿に詔して軍を出して遼東を討つ《三国志魏書明帝紀》 二月癸卯、大中大夫の韓暨を司徒と為す《三国志魏書明帝紀》 二月癸丑、月が心距星を犯す。又心中央大星を犯す《三国志魏書明帝紀》 夏四月庚子、司徒の韓暨が薨ず《三国志魏書明帝紀》 四月壬寅、沛國の蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹を分けて.十縣をもって汝陰郡を置く。宋縣、陳郡の苦縣を譙郡に属させる。沛、杼秋、公丘、彭城の豐國、廣戚を合わせて五縣をもって沛王國を作る《三国志魏書明帝紀》 四月庚戌、大赦《三国志魏書明帝紀》 五月乙亥、月が心距星を犯す。又中央大星を犯す《三国志魏書明帝紀》 六月、漁陽郡の狐奴縣を省き、また安樂縣を復活させる《三国志魏書明帝紀》 六月戊子、詔に曰く「昔漢の高祖は創業し光武が中興した。しかし墳陵は崩頹している。大魏が承代之意を尊崇するのに反する。高祖・光武の陵の四方百步は民が耕作牧樵採をしてはならないようにする《三国志魏書明帝紀に引く魏書》 秋八月、燒當羌の王芒中、注詣等が叛く。涼州刺史が諸郡を率いて攻め之を討つ。注詣の首を斬る《三国志魏書明帝紀》 八月癸丑、彗星が張宿に見られた《三国志魏書明帝紀》史官が帝に言上するに、「これは周の分野にあたり、洛邑は凶兆です」これによって大いに禳禱之術を修めきり抜ける《三国志魏書明帝紀に引く漢晉春秋》 九月、蜀の陰平太守廖惇が叛く。善羌侯宕の蕈營を攻め守る。雍州刺史郭淮は廣魏太守の王贇、南安太守の游奕に兵を率いさせて惇を討つ。郭淮は上書して贇﹑奕等は夾山の東西に兵を分けて挟み圍んでいます。まもなく落ちるでしょうと。帝は、兵勢が離れるのは悪いからと詔をもって郭淮を諌めたが、詔が至る前に奕の軍は惇に破られ、贇は流矢に当たって死んだ《三国志魏書明帝紀に引く漢晉春秋》 九月丙寅、司馬懿は公孫淵を襄平に囲み、大いに破る。淵の首は京都に送られる。海東の諸郡は平定される《三国志魏書明帝紀》 冬十一月、公孫淵を討伐した功績を記録する。太尉の司馬懿以下増邑封爵は各々格差があった。初め帝は司馬懿と議論し兵卒四萬人を発す。朝臣は四萬の兵が多く役費が提供し難たいのではないかと議す。帝は「四千里の彼方に征伐に赴き、奇策を用いるとはいえ兵力も必要であろう。役費から計るのは相応しくない」と言い、遂に四萬人を行かす。司馬懿が遼東に至り、霖雨が続き攻めることができなかった。朝臣らは淵を破ることができないのではないかと話し、司馬懿を詔で還すべきと議した。帝は「司馬懿は臨機応変のものだ。淵を虜にするのも時間の問題だ」と言う。まもなく皆策のようになった《三国志魏書明帝紀》 十一月壬午、司空の衛臻を司徒と為す。司隸校尉の崔林を司空とな為す《三国志魏書明帝紀》 閏月、月が心中央大星を犯す《三国志魏書明帝紀》 十二月乙丑、帝は病に臥す《三国志魏書明帝紀》 十二月辛巳、皇后を立てる。天下の男子に爵人二級を賜い、独り者に穀を賜う。燕王の曹宇を大將軍と為す《三国志魏書明帝紀》 十二月甲申、大將軍の曹宇を免じる。武衛將軍の曹爽を代わって大將軍と為す《三国志魏書明帝紀》帝は燕王の曹宇を大將軍と為し、使與領軍將軍の夏侯献、武衛將軍の曹爽、屯騎校尉の曹肇、驍騎將軍の秦朗等とともに輔政させようと思っていた。中書監の劉放、中書令の孫資は長く寵愛を受け権力を専らにしていたが、秦朗等ともとから仲がよくなかった。後に害があることを恐れていた。曹宇が常に帝の側にあって言を得られずにいた。甲申の日、帝は氣が微かになり、曹宇は曹肇を呼び議すところがあって殿をさがった。未まだ還る前、その少しの間にはただ曹爽が一人いるだけだった。劉放は之を知り、孫資を呼んで謀った。孫資は「動くべからず」と言うも、放は「俱入鼎鑊,何不可之有?」乃突前見帝,垂泣曰:「陛下氣微,若有不諱,將以天下付誰?」帝曰:「卿不聞用燕王耶?」放曰:「陛下忘先帝詔敕,藩王不得輔政.且陛下方病,而曹肇﹑秦朗等便與才人侍疾者言戲.燕王擁兵南面,不聽臣等入,此即豎刁﹑趙高也.今皇太子幼弱,未能統政,外有彊暴之寇,內有勞怨之民,陛下不遠慮存亡,而近係恩舊.委祖宗之業,付二三凡士,寢疾數日,外內壅隔,社稷危殆,而己不知,此臣等所以痛心也.」帝得放言,大怒曰:「誰可任者?」放﹑資乃舉爽代宇,又白「宜詔司馬宣王使相參」,帝從之.放﹑資出,曹肇入,泣涕固諫,帝使肇敕停.肇出戶,放﹑資趨而往,復說止帝,帝又從其言.放曰:「宜為手詔.」帝曰:「我困篤,不能.」放即上,執帝手強作之,遂齎出,大言曰:「有詔免燕王宇等官,不得停省中.」於是宇﹑肇﹑獻﹑朗相與泣而歸第《三国志魏書明帝紀に引く漢晉春秋》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/sangokushi7/pages/30.html
【個人サイト】 三國志VII攻略ガイド 三國志VII情報局. 夢幻の三国志7ページ. 中華庭園 > 中華庭園内三国志7 RumblingDice 【エディタ】 三國志VII 登録武将えぢた~ さざなみ三国志(リンク切れ。転載) ある人のファイル置き場 (指南パターン表示、顔グラファイル分割/結合ソフト) 【他シリーズ攻略wiki】 KOEI三國志スレまとめ (主にIIとIII) 三國志VIII 三國志IX 三國志X 三國志11 三国志12 プレイ動画まとめ