約 3,924 件
https://w.atwiki.jp/hasekuraisuna/pages/48.html
支倉凍砂先生、法学研究会とかけもちしていた三味線サークルにも馴染めなかった模様 六月二十三日の独り言 ○サークルやめようかなあ,と。三味線の方の。なんか,あまり雰囲気がヨロシクないような気がしないでもなくも無い。 つーか,先輩がほぼ可能な限りサークル内恋愛をしているのが問題。可能な限り,と言うのは,男子と女子の比率が均等ではないので,と言う意味。男子は,一人を除いて全員サークル内恋愛してます。ちなみにその一人というのはキリスト教学科の人。この人以外は帰れ。うざい。 七月五日の独り言 ○そんなわけでサークルの民法ゼミ。一年生は,見たこと無い男子一人だけ。二年生も,気合の入ってる幹部クラスだけ。 内容は相変わらず面白いんですけどねえ。難し過ぎて前半から脳みそフル回転なので,毎回最後には眠くなっちゃうんですよね。疲れて。 例えば何気ない条文でも,文章を逆手から考えるとか,法の歴史的な流れとか加味すると,法は非常に奥が深いと気がついて,すぐに思考の迷宮へ。面白い。萌える。 ゼミの後,そのゼミ長の先輩に質問したら快く答えてもらってしかも長々と説明してもらったりして御満悦。入会当時は近寄りがたい雰囲気の人だったが良い人らしい。あなた様について行きますので,あなた様が弁護士になった暁には私を助けてください,と。 で,家に帰ったら携帯にメールが。 三味線サークルから。 …さて,どうやって辞める意思を伝えたもんかなあ。 http //web.archive.org/web/20031015113211/http //yokohama.cool.ne.jp/chinakiss/diazenki.html
https://w.atwiki.jp/minsutoumatome/pages/161.html
平成十四年七月二十六日提出 質問第一六一号 ガン検診における胃ガン発見率に関する質問主意書 平成十五年四月四日提出 質問第四七号 交通安全に関する質問主意書 平成十五年四月八日提出 質問第五〇号 キャリア官僚のエリート度に関する質問主意書 平成十五年四月十八日提出質問第六〇号 全国警察署の犯罪発生件数及び検挙率に関する質問主意書 平成十五年五月十三日提出 質問第七三号 交通事故多発場所に関する質問主意書 平成十五年六月二十日提出 質問第一〇六号 電磁波(超低周波・ELF)の子どもへの影響に関する質問主意書 平成十五年七月十五日提出 質問第一三〇号 クルマの車名別乗員死亡率に関する質問主意書 平成十五年七月二十五日提出 質問第一四三号 クルマの車名別乗員死亡率に関する再質問主意書 平成二十年十二月一日提出 質問第三〇二号 質問主意書の答弁書作成等に関する質問主意書 子ども手当の所得制限について 2009-2010の年越し派遣村について、交通費手当2万を貰って即飲んだりトンズラした人が続出というVTRが流れた直後に 育児や家事をする男性に関して 局長らを集めた際に机の書類が床に落ちた時に 平成十四年七月二十六日提出 質問第一六一号 ガン検診における胃ガン発見率に関する質問主意書 「 胃のバリウム検査(レントゲン検診)及び、胃カメラ検査のガン発見率等に関して、以下、お尋ねする。 一 過去五年間、年ごとの胃のバリウム検査を受けた述べ人数 二 過去五年間、年ごとの胃のバリウム検査を受け、胃ガンと判定された人数 三 過去五年間、年ごとの胃のバリウム検査を受け、「異常なし」と判断されたにもかかわらず、検診から一年以内に胃ガンと診断された方の人数 四 過去五年間、年ごとの胃のバリウム検査によるいわゆる胃ガン発見率 五 胃のバリウム検査において胃ガン発見率の高い医療機関ベスト五をお示し願いたい。 六 過去五年間、年ごとの胃カメラ検査を受けた述べ人数 七 過去五年間、年ごとの胃カメラ検査を受け、胃ガンと判定された人数 八 過去五年間、年ごとの胃カメラ検査を受け、「異常なし」と判断されたにもかかわらず、検診から一年以内に胃ガンと診断された方の人数 九 過去五年間、年ごとの胃カメラ検査によるいわゆる胃ガン発見率 十 胃カメラ検査において胃ガン発見率の高い医療機関ベスト五をお示し願いたい。 右質問する。」 上へ 平成十五年四月四日提出 質問第四七号 交通安全に関する質問主意書 「一 交通事故発生の危険地点についてお尋ねする。 1 最新の情報に基づいて、日本全国を対象として、交通事故多発地点を、危険度の高い順にワースト一〇〇の地点(単交区分、路線名、住所、交差点の場合は交差点名等)をお示し願いたい。 2 ワースト一〇〇の地点の位置関係が明確に分かるように周囲の状況もそれぞれの地点ごとにお示し願いたい。 3 ワースト一〇〇の地点を選定した詳細の基準をお示し願いたい。 4 ワースト一〇〇の地点それぞれの地点での過去一〇年間の死者及び負傷者の数を一年ごとにお示し願いたい。 5 ワースト一〇〇それぞれの地点で交通安全を確保するため、今後、予定されている改善のための実施策をお示し願いたい。実施完了期限が決まっているものに関しては、その期限もお示し願いたい。 二 自転車による交通事故の危険防止についてお尋ねする。 1 歩道を危険走行する自転車の取り締まりに関して、どのような対策を実施されているかお示し願いたい。 2 自転車による交通事故の危険性が高い地点を、危険度の高い順に一〇〇地点をお示し願いたい。その際、位置関係が明確に分かるように周囲の状況もそれぞれの地点ごとにお示し願いたい。 3 その一〇〇地点で交通安全を確保するため、今後、予定されている改善のための実施策をお示し願いたい。実施完了期限が決まっているものに関しては、その期限もお示し願いたい。 4 道路交通法で自転車走行が認められていない歩道での自転車走行に関して、危険な自転車走行を取り締まった実績は過去五年間、何件あり、それぞれ、どのようなケースかお示し願いたい。また、その法的根拠をお示し願いたい。 三 指定自動車教習所についてお尋ねする。 1 日本全国、それぞれの指定自動車教習所を卒業して運転免許を取得した方のうち、一年以内に人身事故を起こした方の占める割合の高い指定自動車教習所を、日本全国で割合の高い順に一〇〇ヶ所、教習所名と卒業者数(免許取得者)、事故人員、事故者率を列挙されたい(最新のデータで)。 2 これら一〇〇の教習所に関して、前年よりも事故者率が上がっている教習所があるとすれば(前年のデータが存在する教習所のみ対象で良い)、その教習所名をお示し願いたい。これら教習所に対する措置等が予定されていればお示し願いたい。 右質問する」 上へ 平成十五年四月八日提出 質問第五〇号 キャリア官僚のエリート度に関する質問主意書 「 我が国の官僚のエリート度についてお尋ねする。お尋ねの中で、部下の人数とある場合、その部下の人数は、非常勤職員数と常勤職員数を分けてお示し願いたい。 一 すべての二〇才代の国家公務員のうち(地方等出向中も含む)、最も部下の多い国家公務員ベスト一〇人をお示し願いたい。その際には、その国家公務員の所属部署名(出向の場合は出向元と出向先)、役職名、業務内容、年齢、部下の数、部下の平均年齢、当該人物を若くしてその職に就けた理由、をお教え願いたい。 二 すべての三〇才代の国家公務員のうち(地方等出向中も含む)、最も部下の多い国家公務員ベスト一〇人をお示し願いたい。その際には、その国家公務員の所属部署名(出向の場合は出向元と出向先)、役職名、業務内容、年齢、部下の数、部下の平均年齢、当該人物を若くしてその職に就けた理由、をお教え願いたい。 三 若くして多くの部下を持つ職務に就けることに関して、弊害はないのか、政府の見解を問う。また、今後、見直しをする計画はあるのか否か。省庁ごとにお示し願いたい。 四 いわゆるキャリア官僚の職員に占める割合を省庁別にお示し願いたい。 五 先進国の官僚制度と比べて、日本の官僚のエリート度合いは強すぎるとお考えか。先進国の事例も交えてお示し願いたい。 六 いわゆるキャリア官僚の全国家公務員に占める割合を、日本、英国、米国、フランス、ドイツに関して、それぞれパーセントでお示し願いたい。 右質問する。」 上へ 平成十五年四月十八日提出質問第六〇号 全国警察署の犯罪発生件数及び検挙率に関する質問主意書 「 日本全国に一二〇〇余ある警察署、それぞれの管内における犯罪の発生状況及び検挙率(直近一年間)に関してお尋ねする。 一 空き巣、ひったくり、強盗、殺人、傷害、粗暴犯、窃盗犯、刑法犯、それぞれ八つの分類において、その発生件数の多い順に、それぞれ十警察署名(所在地と管轄の主な市区町村名)をお示し頂き、それぞれ警察署ごとに発生件数と対策をお教え願いたい。 二 空き巣、ひったくり、強盗、殺人、傷害、粗暴犯、窃盗犯、刑法犯、それぞれ八つの分類において、その発生件数の増加率が前年に比べて高い順に、それぞれ十警察署名(所在地と管轄の主な市区町村名)をお示し頂き、それぞれ警察署ごとに発生件数の推移と対策をお教え願いたい。 三 検挙率の高い順に十警察署名(所在地と管轄の主な市区町村名)をお示し頂き、その警察署ごとに検挙率と検挙率が高い理由をお教え願いたい。 四 検挙率の低い順に十警察署名(所在地と管轄の主な市区町村名)をお示し頂き、その警察署ごとに検挙率、検挙率が低い理由、対策をお教え願いたい。 五 検挙率の低下(率)が前年に比べ著しい順に十警察署名(所在地と管轄の主な市区町村名)をお示し頂き、警察署ごとに検挙率の推移をお示し願いたい。 また、その十警察署それぞれの検挙率を上げる対策を、お示し願いたい。 右質問する。」 上へ 平成十五年五月十三日提出 質問第七三号 交通事故多発場所に関する質問主意書 「 交通事故多発場所についてお尋ねする。 岐阜県警察本部は、交通事故多発場所ワースト一〇をホームページで発表し、事故防止に役立てている。 同様の考え方で、日本全国で交通事故多発場所ワースト一〇〇をお示し願いたい。 その際には、岐阜県警の統計と同様に、交通事故多発場所(住所と交差点の場合は交差点名等)、管轄警察署名、路線名、総交通事故件数、人身事故件数、物損事故件数、死亡者数、負傷者数を、それぞれお示し願いたい。 また、それぞれの場所ごとに前年に比べて事故総数の増減数もお示し願いたい。 右質問する。」 上へ 平成十五年六月二十日提出 質問第一〇六号 電磁波(超低周波・ELF)の子どもへの影響に関する質問主意書 「 先に公表された文部科学省の「生活環境中電磁界による小児の健康リスク評価に関する研究」には、以下の記述がある。「住居から最寄の送電線までの距離別に小児白血病のリスクを調べた。その結果、小児白血病のリスクに関する調整オッズ比は、住居から送電線までの距離が一〇〇メートル超を参照カテゴリーとすると、五〇~一〇〇メートル及び五〇メートル未満のカテゴリーで、それぞれ一・五六と三・二三であった。(中略)高圧送電線近傍でのリスク上昇が示唆される」「高圧送電線の距離が五〇メートル以内の小児白血病に対するリスクは、一〇〇メートル以上を基準とした場合に有意な上昇を示した」とある。 さらに本研究では小児白血病、小児脳腫瘍に関して「ALL(急性リンパ性白血病)のみが、(子どもの寝室(一週間の平均値)が)〇・四マイクロテスラ以上でより大きなリスク上昇を示し、調整オッズ比は四・七三で有意であった」との記述や「小児脳腫瘍についても、小児白血病の場合と同様、(子どもの)寝室の磁界レベルが〇・三マイクロテスラ以上あるいは〇・四マイクロテスラ以上でリスクが上昇する傾向が見られた」との記述もある。 そこでお尋ねする。 一 高圧送電線(地上及び地下)から五〇~一〇〇メートル以内に教室(通常、子どもが過ごす部屋等)の一部でも含まれる全国の小学校、幼稚園、保育園等を名称と所在地でお示し願いたい。 二 高圧送電線(地上及び地下)から五〇メートル未満に教室(通常、子どもが過ごす部屋等)の一部でも含まれる全国の小学校、幼稚園、保育園等を名称と所在地でお示し願いたい。 三 一及び二でお示し頂いた教室のうち、電磁波が〇・四マイクロテスラ以上(一週間の平均値)となるものがあれば、当該小学校、幼稚園、保育園等の名称、所在地、教室の数をお示し願いたい。 四 三で示された教室に対する対策をお教え願いたい。 五 高圧送電線を新設する際、近傍の住宅、保育園、幼稚園、小学校などに今後、配慮されるおつもりはあるか。詳細をお示し願いたい。 右質問する。」 上へ 平成十五年七月十五日提出 質問第一三〇号 クルマの車名別乗員死亡率に関する質問主意書 「 財団法人交通事故総合分析センターが作成する「研究報告書 交通事故と運転者と車両の相関についての分析結果」の最新版が間もなく完成すると聞いている。そこで、その最新版に関連してお尋ねする。 一 車名別(通称車種名、モデル年、メーカー名も提示頂きたい。車両台数が一万台に満たないものを除く)に、「一万台当たり乗員死亡事故台数」の多い順に「一万台当たり乗員死亡事故台数」「一万台当たり乗員死傷事故台数」「一万台当たり運転者死者数」「車両台数」をお示し願いたい。注意書きがあれば、お示し願いたい。 二 一のデータは事故の多い傾向のあるクルマを浮かび上がらせるものとなると考えるが、いかがか。 三 一のデータを事故を減らすためにクルマごとの対策等どう活用するか。 右質問する。」 上へ 平成十五年七月二十五日提出 質問第一四三号 クルマの車名別乗員死亡率に関する再質問主意書 「 財団法人交通事故総合分析センターが作成した「研究報告書 交通事故と運転者と車両の相関についての分析結果」の最新版の中にあるデータ及び、当該最新版作成の過程で収集したデータ等に関連してお尋ねする。計算やデータ抽出、並び替えが必要な場合は、実施されたい。 一 車名別(通称車種名、モデル年、メーカー名も提示頂きたい。車両台数が一万台に満たないものを除く)に、「一万台当たり乗員死亡事故台数」(乗員死亡事故台数を車両台数で割り算して一万台当たりに換算して頂きたい)の多い順に「一万台当たり乗員死亡事故台数」、「一万台当たり乗員死傷事故台数」(同)、「一万台当たり運転者死者数」(同)、「車両台数」をお示し願いたい。見方に関する注意書きがあれば、合わせてお示し願いたい。 二 一万台当たり死亡事故台数等は、道路状況、天候、運転者の年齢、経験、飲酒の有無、シートベルトの有無など数々の要因に左右されることがあり、クルマの安全性能と一〇〇%イコールというわけではない。しかし、一のデータは、交通事故を減らす等の意味で、活用余地のある資料と考えるがいかがか。 三 財団法人交通事故総合分析センターが作成した「研究報告書 交通事故と運転者と車両の相関についての分析結果」の最新版の中にある、車名別に死亡事故台数、死傷事故台数、運転者死者数、それぞれの実数を公表されたのは、どのような意義があると考えたからなのか。 四 一のデータを事故を減らすためにクルマごとの対策等どう活用するか。 右質問する。」 上へ 平成二十年十二月一日提出 質問第三〇二号 質問主意書の答弁書作成等に関する質問主意書 「 平成一七年二月七日衆議院予算委員会にて、質問主意書の答弁書作成に関して、官房長官から「これが大変なサービス残業になって、しかも、エリートでない官僚のことで」との発言があった。そこでお尋ねする。 一 質問主意書の答弁書作成は、残業になった場合でも残業代を支払わない、いわゆるサービス残業で作業がなされているのか。 そうだとすれば、残業代を支払うべきと考えるがいかがか。 二 最近の質問主意書の答弁書は、手抜き答弁が目に余るが、平成一五年時点と比較して、答弁書作成のルールが変わったのか。変わったとすればその内容を詳細にお示し願いたい。 三 平成一五年時点では、多くの答弁書で期限延長がなされ、丁寧に答弁書作成がなされていたが、なぜ、最近は期限を延長した上で丁寧な答弁書作成がなされないのか。 四 野党やマスコミからの資料要求に関しても、サービス残業で作成する場合があるのか否か、お答え願いたい。 五 仮に野党やマスコミの資料要求対応がサービス残業でなされる場合、官僚サイドは資料要求に真面目に応えようという意欲が減退して、国民の知る権利も侵されかねない。残業代をきちんと支払うべきと考えるがいかがか。 国家公務員に残業代を支払わない場合、どのような法令に違反するのか。お示し願いたい。 六 本年九月一二日に導入された、自民党国会対策委員会による、野党やマスコミからの省庁への資料要求を事前審査する、いわゆる事前審査制は現在も続いているのか。続いていないのであれば、現在はどのような扱いになっているのか。 七 官房長官発言の「サービス残業」とはどのような意味か。 八 官房長官発言の「しかも、エリートでない官僚のことで」とはどのような意味か。エリートでないとは、いわゆるノンキャリアを指すのか。 以上、内閣の見解を問う。 質問番号を束ねて粗く不誠実な回答をするのではなく、質問番号ごとに、必ず分けて、誠実に回答を頂くことをお願いする。 右質問する。」 上へ 子ども手当の所得制限について 「子どもに所得はない。そういう意味では所得制限なしで措置したい」@2009/12/19TBSの番組で 上へ 2009-2010の年越し派遣村について、交通費手当2万を貰って即飲んだりトンズラした人が続出というVTRが流れた直後に 「(派遣村に点数をつけると)70点」@2010/1/10「バンキシャ!」出演時 上へ 育児や家事をする男性に関して 「『イク(育)メン』『カジ(家事)メン』という言葉をはやらせたい」「日本は、男性の家事を手伝う時間が先進国で一番短い部類だ」@2010/1/27参院予算委員会で(魚拓) 上へ 局長らを集めた際に机の書類が床に落ちた時に 「上に立つ大臣は取っちゃいけない。君たちが拾わなきゃいけないんだよ」@2010/4/18日付毎日新聞東京朝刊で(ソース) 上へ
https://w.atwiki.jp/siritori_review/pages/97.html
二階の自室だと空調が必要なくらい熱い季節になりました。単純に言えば七月に入った訳で、既に半分リレーを終えたことになります。過ぎ去る月日は早いものだなあ、と思いつつ今回の作品の検討経緯。一番目に目についたのは倉知淳の「日曜の夜は出たくない」、猫丸先輩シリーズ第一作なのですが、氏の作なら「星降り山荘……あ、絶対だめじゃん」ということで保留に。「人間失格」にするかな、と思いつつ自宅の本棚に見あたらないし買ってまで読み返したくないな、と思ったところに目に入ったのが「鈍い球音」。とりあえず同氏の代表作「大誘拐」には及ばないけれど十二分に面白いし、解説が倉知淳という偶然のバッティングも面白かったので採用決定。 いろいろ監督がらみで因縁のある「東京」と「毎日」の日本シリーズ直前に監督がトレードマークの髭をのこして行方不明になるところから事件は始まり、その調査を行うのはコーチの友人の新聞記者が引き受けることとなったが、事件はそれでは終わらず、代理監督も洋服を残したまま行方不明となってしまう。嘘のような状況の背景は? そして日本シリーズの展開は? といった内容なのだが、流石に天童真、読み手を引きつけるのが上手いのだ。 だーっと流し読みするつもりが結局綺麗に再読してしまった。単純に楽しめる小説であり、テイストは初期の赤川次郎に近いと言って差し支えないと思うけれど、引き込まれる確率は天童作品の方が高いと思う。うーん、と首をかしげたくなるシーンも今の感覚ではあるけれど、それは赤川次郎も一緒だし、それを上回る魅力が天童作品に詰まっているのは間違いない。 ifさん、次は「と」と相成りましたのでよろしく、と。
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/157.html
<魏 259年> <蜀漢 259年> <呉 259年> 259年 甘露四年(魏) 皇帝 曹髦(魏高貴郷公) 皇后 卞氏(父は卞隆) 皇太子 三公(魏) 太傅:司馬孚(前太尉) 太尉:高柔(前司徒) 司徒:鄭沖(前司空) 司空:王昶(驃騎將軍)→(死亡) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号) 驃騎将軍:王昶 車騎将軍:孫壹 衛将軍:? 地方官 冀州牧: 幽州牧: 并州牧: 青州牧: 徐州牧: 兌*州牧: 揚州刺史:? 雍州刺史:王経 交州牧:孫壹 主な事件 四年春正月、黃龍が二匹が寧陵縣の境の井戸の中に見られた。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》このとき龍が現れたことは吉祥であるといわれたが、帝は「龍は君主の德であろう。上は天にあらず、下は田に無い。窮屈な井戸に押し込められ吉兆であるはずもない」と言って、潛龍之詩を自らを風刺して歌った。司馬昭はよく思わなかった。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦に引く漢晉春秋》 夏六月、司空の王昶が薨ず。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 秋七月、陳留王の曹峻が薨ず。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 冬十月丙寅、新城郡を分けてまた上庸郡を置く《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 十一月癸卯、車騎將軍の孫壹が下女を殺した《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/kaiseimaru/pages/146.html
千葉胤晴(ちばたねはる) 寛政七年(1795)-天保十四年(1843) ■プロフィール 千葉内蔵七胤晴 初め奥野栄清に学ぶが、奥野が亡くなったため今野信全に免許を授かった。その後。秋保盛弁に関流暦法の免許を授かり、土御門天文生に挙げられている。 ■千葉胤晴年表 寛政七年(1795) 生まれる 文政元年(1818) 天文方稽古人になる 文政三年(1820) 今野信全より免許を授かる 文政十年(1827) (これ以前ヵ)推算貞享暦術書(一条坦編、武田保勝・千葉胤晴校:早大) 文政十年(1827) 御番入 天保四年(1833) 正月十一日、秋保盛弁より関流暦算法の免許を受ける 天保十四年(1843) 三月三日没する。享年49才 ■師弟関係 今野信全(1743-1821)─┐ │ 秋保盛弁 ──────┼──千葉内蔵七胤晴 │ (1795-1843) 奥野栄清(1773-1818)─┘ ■関連資料 一 暦のさひらきの事 然者去七月中者御書被成下拝見仕候、従是ハ何時も野疎潤罷在申候、扨さひらきの被仰下承知仕候、小子も不案内之間穿鑿仕候所、暦法通書ト申書ニ作開と記置申候、又加茂家之略暦と申ニハ早開ト記シ、細註ニ早苗初而取る也と御座候、何もつまらぬ事ニ御座候、立夏より芒種迄之間三ヶ月記シ候物と相見得申候 八月十九日 千葉內藏七 新妻順蔵様 此日、下種スレハ春秋必ス実ノルト赤生津肝入善蔵談なり 右暦の注ニヒメハシメ、暦家ノ跡説ハ何なりトスベテ女ノ所作ヲ言也 (出典 「源貞氏耳袋」)
https://w.atwiki.jp/nostradamus/pages/1431.html
原文 Plus ne sera1 le grand en faulx2 sommeil3, L inquietude4 viendra prendre repoz Dresser phalange5 d or6, azur7, vermeil, Subiuguer8 Affrique la9 ronger iusques aux oz11. 異文 (1) ne sera sera 1772Ri (2) faulx feux 1597 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1716, feu 1653 1665 (3) sommeil semmeil 1653 (4) L inquietude L inquiétude 1649Ca, L Inquietude 1672 (5) phalange Phalange 1644 1650Ri 1653 1672 (6) d or d Or 1672 (7) azur azuré 1588-89, Azur 1672, d azur 1716 (8) Subiuguer Subiuger 1589PV 1649Ca 1650Le 1668A (9) la 1672 (10) iusques aux oz iusques oz 1568B 1568C 1568I 1772Ri, iusques os 1597 1605 1610 1611 1628 1649Xa 1650Ri 1660, iusqu aux os 1600 1672, iusque aux os 1627 1649Ca 校訂 4行目冒頭について、ピエール・ブランダムールは韻律の都合上 Juguer Affrique... となるべきとした(*1)。 日本語訳 偉人はもはや偽りの眠りに陥らないだろう。 憂慮が休息することになるだろう、 黄金、瑠璃、紅玉の杖を仕上げて、 アフリカを征服し、骨まで齧ることで。 訳について 山根訳2行目「不安が休息を追い出すだろう」(*2)は、エリカ・チータムの英訳を忠実に転訳したものだが、原文からすると意味が逆になっている。 同3行目「金色 青 朱の密集集団がたつ」は「密集集団」が不自然なようだが、phalangeをどう訳すかという訳し方の揺れの範囲内である。 大乗訳1行目「人はいつわりの眠りの中にもはやなく」(*3)は、grand を単なる「人」と訳すのが不適切。 同2行目「休みのない人が休み」は、inquietude (憂慮、心配事)を「休みのない人」とするのは意訳にしても強引に思える。 同3行目「彼は金と空色の軍を起こし」は、vermeil (朱色、紅玉)が訳に反映されていない。もっとも、この点はテオフィル・ド・ガランシエール以来の誤訳が引き継がれた結果でもある。 信奉者側の見解 テオフィル・ド・ガランシエールは、アフリカを征服する強力な軍隊を確立する偉大な君主の予言と解釈していた(*4)。 その後、解釈は途絶えるが、アナトール・ル・ペルチエが七月王政当初のルイ=フィリップの予言と解釈すると、それに追随する者が多くなった。 ル・ペルチエは前半を王座について安泰となったルイ=フィリップのこととした。3行目の色はフランスの三色旗のことで(彼はphalangeを「旗」と訳した)、4行目はアフリカ征服(フランスは七月王政成立直前にアルジェリアに侵攻し、アルジェを占拠していた)を指すという(*5)。 チャールズ・ウォード、アンドレ・ラモン、ジェイムズ・レイヴァーもほぼそのまま踏襲したが、三色旗は赤、白、青であって赤、金、青ではない。レイヴァーのみこの点に触れ、ノストラダムスが老眼のせいで見通し損ねたと推測した(*6)。エリカ・チータムはそのコメントを引き合いに出しつつ、紋章学では王権は黄金で表すことから理解可能だとした(*7)。三色旗は自由、平等、友愛だといわれるが、白はブルボン王家をあらわす色でもあった。 同時代的な視点 ピーター・ラメジャラーは、1532年にカール5世がチュニスでバルバロス・ハイレッティンの軍勢に勝利したことと、『ミラビリス・リベル』に描かれた未来の予言とが重ねあわされているとした(*8)。 ジャン=ポール・クレベールは、シャルルマーニュ伝説と関連付けた。シャルルマーニュ伝説では、彼は死んだのではなく眠りについただけで、いずれ眠りから覚めて異教徒達を駆逐すると信じられていた。 この詩はシャルルマーニュが「偽りの眠り」から醒め、人々の心配を打ち払い、色とりどりの貴石を散りばめた王杖を揮い、アフリカの不信心者たちを征服することを描いているという。 同時に、似たような伝説はフリードリヒ2世についても伝えられていることを指摘した(*9)。 中世の大君主に関する予言はシャルルマーニュやフリードリヒの伝説から派生しているので、ある意味ではラメジャラーとクレベールの解釈は同一線上にあるといえるかもしれない。 コメントらん 以下のコメント欄はコメントの著作権および削除基準を了解の上でご使用ください。 欧州人で初めてアフリカを横断した探検家リヴィングストンとボーア戦争(南アフリカ戦争)を予言。 -- とある信奉者 (2010-11-20 10 48 27) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/14.html
唐書巻四 本紀第四 則天皇后 中宗 則天順聖皇后武氏は、諱を曌といい、并州文水の人である。父の武士は、官が工部尚書・荊州都督にいたり、応国公に封ぜられた。 后は年十四のとき、太宗がその容色を聞いて、選ばれて才人となった。太宗が崩ずると、后は髪を切って比丘尼となり、感業寺に住持した。高宗が感業寺に幸すると、見てよろこび、再び召されて宮殿に入った。しばらくして昭儀となり、号を宸妃に進めた。永徽六年(655)、高宗が皇后王氏を廃すると、宸妃を立てて皇后とした。高宗は顕慶年間(656-661)以降、多く病に苦しみ、百官の奏上は、時々后に決裁させ、意にそわぬことはなかったため、国政に参与した。后はすでに寵をもっぱらにして政務をともにし、しばしば上書して天下の利害を申し、人心をおさめようと努めた。しかし高宗は年を経るにつれ病に苦しみ、后はますます用いられ、ついには抑えがきかなくなってしまった。高宗は悔んで密かに廃そうとしたが、謀は洩れて果たせなかった。上元元年(674)、高宗が天皇を号し、皇后もまた天后を号し、天下の人はこれを「二聖」といった。 弘道元年(683)十二月、高宗が崩じ、皇太子が皇帝の位につき、軍国大務不決者、天后に進止を兼取させるよう詔を遺された。甲子、皇太子が皇帝の位につき、后は尊せられて皇太后となり、臨朝称制した。大赦をおこない、九品以下の勲官に一級を賜った。庚午、韓王李元嘉が太尉となり、霍王李元軌が司徒となり、舒王李元名が司空となった。甲戌、劉仁軌が尚書左僕射となり、裴炎が中書令となり、劉斉賢が侍中となり、ともに同中書門下三品となった。戊寅、郭待挙・魏玄同・岑長倩が同中書門下三品となった。癸未、郭正一が宰相を退いた。 光宅元年(684)正月癸未、嗣聖と改元した。癸巳、左散騎常侍の韋弘敏が太府卿・同中書門下三品となった。 二月戊午、皇帝を廃して廬陵王とし、これを幽閉した。己未、豫王李旦を立てて皇帝とし、妃の劉氏を皇后とし、永平郡王李成器を立てて皇太子とした。大赦をおこない、改元して文明とした。文武の官の五品以上のものに爵一等を、九品以上のものに勲両転を賜った。老人に版して官を授け、粟帛を賜った。職官五品以上に副官一人を推挙させた。皇太后は臨朝称制した。庚申、皇太孫李重照を廃して庶人とし、庶人李賢を巴州で殺した。甲子、皇帝が群臣を率いて武成殿に尊号をたてまつった。丁卯、皇太后は皇帝に冊した。丁丑、太常卿の王徳真が侍中となり、中書侍郎の劉禕之が同中書門下三品となった。庚辰、玉清観の道士で太中大夫の王遠知に金紫光禄大夫を贈った。 三月丁亥、李上金を徙封して畢王とし、李素節を葛王とした。 四月丁巳、滕王李元嬰が薨去した。辛酉、李上金を徙封して沢王とし、李素節を許王とした。癸酉、廬陵王を房州にうつした。丁丑、また均州にうつした。 五月癸巳、大喪のため狩猟を禁じた。 閏月甲子、礼部尚書の武承嗣が太常卿・同中書門下三品となった。 七月戊午、広州の崑崙がその都督の路元叡を殺した。乙丑、突厥が朔州を寇し、左武衛大将軍の程務挺がこれを破った。辛未、彗星が西方に出現した。 八月庚寅、天皇大帝を乾陵に葬った。丙午、武承嗣が宰相を退いた。 九月甲寅、大赦をおこない、改元した。旗幟は白を尚び、内外の官服で青のものを碧にかえ、大いに官名をかえ、東都を改めて神都とした。老子の母を追尊して先天太后とした。丙辰、左威衛大将軍の程務挺が単于道安撫大使となり、突厥に備えた。己巳、武氏の五代の祖の武克己を追尊して魯国公とし、妣の裴氏を魯国夫人とした。高祖父の武居常を太尉・北平郡王とし、妣の劉氏を王妃とした。曾祖父の武倹を太尉・金城郡王とし、妣の宋氏を王妃とした。祖の武華を太尉・太原郡王とし、妣の趙氏を王妃とした。父の武士彠を太師・魏王とし、妣の楊氏を王妃とした。丁丑、柳州司馬の李敬業が揚州で挙兵して乱を起こした。韋弘敏を左遷して汾州刺史とした。 十月癸未、楚州司馬の李崇福が山陽・安宜・塩城の三県をもって李敬業に帰順した。甲申、左玉鈐衛大将軍の梁郡公李孝逸が揚州道行軍大総管となり、左金吾衛大将軍の李知十が副総管となり、兵三十万を率いて李敬業をはばんだ。丁亥、左肅政台御史大夫の騫味道が内史を検校し、同鳳閣鸞台三品となり、鳳閣舎人の李景諶が同鳳閣鸞台平章事となった。壬辰、李敬業が潤州を落とした。丙申、裴炎を殺した。五代の祖の魯国公を追謚して靖といい、高祖父の北平郡王を恭粛といい、曾祖父の金城郡王を義康といい、祖父の太原郡王を安成といい、父の魏王を忠孝といった。丁酉、揚・楚の二州に曲赦を行った。李敬業の姓を徐氏に復した。劉斉賢を左遷して辰州刺史とした。李景諶が宰相を退いた。右史沈君諒・著作郎崔詧が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。 十一月辛亥、左鷹揚衛大将軍の黒歯常之が江南道行軍大総管となった。庚申、右監門衛将軍の蘇孝祥が徐敬業と阿谿で戦い、ここに死んだ。乙丑、徐敬業の将の王那相が徐敬業を殺して降った。丁卯、郭待挙が宰相を退いた。鸞台侍郎の韋方質が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。 十二月戊子、御史を遣わして風俗を監察させた。癸卯、程務挺を殺した。 垂拱元年(685)正月丁未、大赦をおこない、改元した。庚戌、騫味道が内史を代行した。戊辰、劉仁軌が薨去した。 二月乙巳、春官尚書の武承嗣・秋官尚書の裴居道・右肅政台御史大夫の韋思謙が、ともに同鳳閣鸞台三品となった。突厥が辺境を寇し、左玉鈐衛中郎将の淳于処平が陽曲道行軍総管となってこれを攻撃した。沈君諒が宰相を退いた。 三月、崔詧が宰相を退いた。丙辰、廬陵王が房州にうつされた。辛酉、武承嗣が宰相を退いた。辛未、頒垂拱格。 四月丙子、騫味道を左遷して青州刺史とした。癸未、淳于処平が突厥と忻州で戦い、敗れた。 五月丙午、裴居道が納言となった。丁未、王徳真が象州に流された。己酉、冬官尚書の蘇良嗣が納言を代行した。皇帝の子の李成義を封じて恒王とした。壬戌、旱魃のため囚人の再審を行った。壬申、韋方質が同鳳閣鸞台三品となった。 六月、天官尚書の韋待價が同鳳閣鸞台三品となった。 九月丁卯、揚州で地から毛が生えた。 十一月癸卯、韋待価が燕然道行軍大総管となり、突厥を攻撃した。 二年(686)正月辛酉、大赦をおこない、宴を賜うこと三日、内外官に勲一階をあげた。 二月辛未朔、日食があった。 三月戊申、銅を鋳造して匭(祭器)を造らせた。 四月庚辰、岑長倩が内史となった。 五月丙午、裴居道が内史となった。 六月辛未、蘇良嗣が同鳳閣鸞台三品となった。己卯、韋思謙が納言を代行した。 十月己巳、新豊県で山が突然盛り上がって出現し、新豊県を改め慶山とし、囚を赦して、一年税の減免を行い、民間に三日の宴会を賜った。 十二月、并州の百姓の庸・調を免除し、その終身におよんだ。 この冬、雪がなかった。 三年(687)閏正月丁卯、皇帝の子の李隆基を封じて楚王とし、李隆範を衛王とし、李隆業を趙王とした。 二月己亥、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。丙辰、突厥が昌平を寇し、黒歯常之がこれを攻撃した。 三月乙丑、韋思謙が宰相を退いた。 四月辛丑、孝敬皇帝の妃の裴氏を追号して哀皇后といい、恭陵に葬った。癸丑、旱魃のため囚人の再審を行い、京官の九品以上に命じて言事させた。壬戌、裴居道が納言となった。 五月丙寅、夏官侍郎の張光輔が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。庚午、劉禕之を殺した。 七月丁卯、冀州の雌の鶏が雄と化した。乙亥、京師で地震があり、広州で金の雨が降った。 八月壬子、魏玄同が検校納言を兼ねた。交趾の人の李嗣仙が安南都護の劉延祐を殺し、交州に拠ったので、桂州司馬の曹玄静がこれを破った。この月、突厥が朔州を寇し、燕然道行軍大総管の黒歯常之がこれを破った。 九月己卯、虢州の人の楊初成が郎将を自称し、州人を募って廬陵王を房州で迎えようとしたが、果たせず、殺された。 十月庚子、右監門衛中郎将の爨宝璧が突厥と戦い、敗れた。 十二月壬辰、韋待価が安息道行軍大総管となり、安西大都護の閻温古が副総管となって、吐蕃を攻撃した。 この年、大飢饉があった。 四年(688)正月甲子、七廟を増やし、高祖・太宗・高宗の廟を神都に立てた。庚午、乾元殿を壊し、明堂を作った。 三月壬戌、麟台少監の周思茂を殺した。 四月戊戌、太子通事舎人の郝象賢を殺した。 五月庚申、「宝図」を洛水で得た。乙亥、尊号を加えて聖母神皇とした。 六月丁亥朔、日食があった。汜水で瑞石を得た。 七月丁巳、大赦をおこない、「宝図」を改めて「天授聖図」とし、洛水を永昌洛水とし、その神を封じて顕聖侯とし、特進を加え、漁や釣りを禁じた。嵩山を改めて神岳とし、その神を封じて天中王・太師・使持節・大都督とした。賜酺五日。戊午、京師で地震があった。 八月戊戌、神都で地震があった。丙午、博州刺史の琅邪郡王李沖が乱を討つ名目で挙兵したので、左金吾衛大将軍の丘神勣を派遣してこれをはばませた。戊申、李沖がここに死んだ。庚戌、越王李貞が乱を討つ名目で豫州で挙兵した。辛亥、曲赦博州。 九月丙辰、左豹韜衛大将軍の麴崇裕が中軍大総管となり、岑長倩が後軍大総管となり、越王李貞をはばんだ。張光輔が諸軍節度となった。越王李貞および琅邪郡王李沖の属籍を削って、その姓を改めて虺氏とした。李貞はここに死んだ。丙寅、豫州で赦した。韓王李元嘉・魯王李霊夔・范陽郡王李靄・黄国公李譔・東莞郡公李融および常楽公主を殺し、みなその姓を改めて虺氏とした。丁卯、左肅政台御史大夫の騫味道と夏官侍郎の王本立が同鳳閣鸞台平章事となった。 十月辛亥、大風で木が抜けた。 十一月辛酉、済州刺史の薛顗およびその弟の駙馬都尉の薛紹を殺した。 十二月乙酉、霍王李元軌・江都郡王李緒および殿中監の裴承光を殺した。唐の宗室を大いに殺し、その幼い者を嶺南に流した。己亥、騫味道を殺した。己酉、洛受図を拝した。辛亥、明堂を改めて万象神宮とし、大赦をおこなった。 永昌元年(689)正月乙卯、万象神宮で享し、大赦をおこない、改元し、賜酺七日。丁巳、舒王李元名を司徒とした。戊午、万象神宮で政務を行い、九条にわかって百官に読み上げた。己未、朗州の雌の鶏が雄と化した。 二月丁酉、父の太師魏忠孝王を尊んで周忠孝太皇といった。崇先府官を置いた。戊戌、妣の楊氏を追謚して周忠孝太后といった。太原郡王を周安成王といい、妃の趙氏を王妃とした。金城郡王を魏義康王といい、妃の宋氏を王妃とした。北平郡王を趙粛恭王といい、妃の劉氏を王妃とした。五代の祖の魯国公(武克己)を太原靖王といい、夫人の裴氏を王妃とした。 三月甲子、張光輔が納言を代行した。癸酉、天官尚書の武承嗣が納言となり、張光輔が内史を代行した。 四月甲辰、汝南郡王李瑋・鄱陽郡公李諲・広漢郡公李謐・汶山郡公李蓁・零陵郡王李俊・広都郡公李璹を殺し、その家を巂州にうつした。己酉、天官侍郎の鄧玄挺を殺した。 五月丙辰、韋待価が吐蕃と寅識迦河で戦い、敗れた。己巳、白馬寺の僧の薛懐義が新平道行軍大総管となり、突厥を攻撃した。 七月丁巳、紀王李慎を巴州に流し、その姓を虺氏に改めた。丙子、韋待価を繡州に流し、閻温古を殺した。戊寅、王本立が同鳳閣鸞台三品となった。 八月癸未、薛懐義が新平道中軍大総管となり、突厥を攻撃した。甲申、張光輔・洛州司馬の弓嗣業・洛陽令の弓嗣明・陜州参軍の弓嗣古・流人の徐敬真を殺した。乙未、松州の雌の鶏が雄と化した。辛丑、陜州刺史の郭正一を殺した。丁未、相州刺史の弓志元・蒲州刺史の弓彭祖・尚方監の王令基を殺した。 九月庚戌、恒山郡王李承乾の子の李厥を殺した。 閏月甲午、魏玄同と夏官侍郎崔詧を殺した。戊申、彭州長史の劉易従を殺した。 十月癸丑、涼州都督の李光誼を殺した。丁巳、陜州刺史の劉延景を殺した。戊午、右武威衛大将軍黒歯常之と右鷹揚衛将軍趙懐節を殺した。己未、嗣鄭王李璥を殺した。丁卯、春官尚書の范履冰と鳳閣侍郎の邢文偉が同鳳閣鸞台平章事となった。 天授元年(690)正月庚辰、大赦をおこない、改元して載初といい、十一月を正月とし、十二月を臘月とし、来る年の正月を一月とした。周・漢の後裔を二王後とし、舜・禹・湯の後裔を封じて三恪とし、周・隋の後裔を同列国とし、その嗣を封じた。乙未、唐の宗室の属籍を除いた。 臘月丙寅、劉斉賢を殺した。 一月戊子、王本立が宰相を退いた。邢文偉が内史となり、岑長倩・武承嗣が同鳳閣鸞台三品となり、鳳閣侍郎武攸寧が納言となった。甲午、韋方質を儋州に流した。 二月丁卯、地官尚書の王本立を殺した。 三月乙酉、旱害のため膳を減らした。丁亥、蘇良嗣が薨去した。 五月戊子、范履冰を殺した。己亥、梁郡公李孝逸を殺した。 六月戊申、汴州刺史の柳明肅を殺した。 七月辛巳、舒王李元名を和州に流した。大雲経を天下に頒布した。壬午、豫章郡王李亶を殺した。丁亥、沢王李上金・許王李素節を殺した。甲午、永昌県で赦した。癸卯、太常丞の蘇踐言を殺した。 八月辛亥、許王李素節の子の李璟と曾江県令の白令言を殺した。甲寅、裴居道を殺した。壬戌、将軍の阿史那恵と右司郎中の喬知之を殺した。癸亥、尚書右丞の張行廉と太州刺史の杜儒童を殺した。甲子、流人の張楚金を殺した。戊辰、流人の元万頃と苗神客を殺した。辛未、南安郡王李潁・鄅国公李昭および諸宗室の李直・李敞・李然・李勲・李策・李越・李黯・李玄・李英・李志業・李知言・李玄貞を殺した。 九月乙亥、鉅鹿郡公李晃と麟台郎の裴望およびその弟の司膳丞の裴璉を殺した。壬午、国号を周と改めた。大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。乙酉、尊号を加えて聖神皇帝といい、皇帝を降格して皇嗣とし、武氏の姓を賜り、皇太子を皇孫とした。丙戌、武氏の七廟を神都に立てた。周の文王を追尊して始祖文皇帝といい、妣の姒氏を文定皇后といった。四十代の祖にあたる平王の少子の武を睿祖康皇帝といい、妣の姜氏を康恵皇后といった。太原靖王(武克己)を厳祖成皇帝といい、妣を成荘皇后といった。趙粛恭王(武居常)を粛祖章敬皇帝といい、妣を章敬皇后といった。魏義康王を烈祖昭安皇帝といい、妣を昭安皇后といった。周安成王を顕祖文穆皇帝といい、妣を文穆皇后といった。忠孝太皇を太祖孝明高皇帝といい、妣を孝明高皇后といった。伯父および兄弟の子を追封して王とし、堂兄を郡王とし、諸姑姉を長公主とし、堂姉妹を郡主とした。司賓卿の史務滋が納言を代行し、鳳閣侍郎の宗秦客が内史を検校し、給事中の傅游芸が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。 十月丁巳、并州武興県の百姓に税の減免を行い、子孫が相承すること漢の高祖が豊・沛で行ったようにさせた。甲子、宗秦客を左遷して遵化尉とした。丁卯、流人の韋方質を殺した。己巳、許王李素節の子の李瑛・李琪・李琬・李瓚・李瑒・李瑗・李琛・李唐臣を殺した。辛未、邢文偉を左遷して珍州刺史とした。大雲寺を置いた。周公を封じて褒徳王とし、孔子を隆道公とした。唐の太廟を改めて享徳廟とし、武氏の七廟を太廟とした。 二年(691)正月甲戌、改めて社稷を置き、旗幟は赤を尚んだ。戊寅、雅州刺史の劉行実とその弟の渠州刺史の劉行瑜・尚衣奉御の劉行感・兄の子の左鷹揚衛将軍の劉虔通を殺した。戊子、武承嗣が文昌左相となった。庚寅、宴を賜った。乙未、丘神勣・左豹韜衛将軍の衛蒲山を殺した。庚子、史務滋を殺した。 臘月己未、始めて周臘を用いた。 四月壬寅朔、日食があった。丙午、大赦をおこなった。 五月丁亥、大風で木が折れた。岑長倩が武威道行軍大総管となり、吐蕃を攻撃した。 六月庚戌、左肅政台御史大夫の格輔元が地官尚書となり、鸞台侍郎の楽思晦、鳳閣侍郎の任知古、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。 七月庚午、徙関内七州戸以實神都。 八月戊申、武攸寧が宰相を退いた。夏官尚書の欧陽通が司礼卿となり判納言事を兼ねた。庚申、右玉鈐衛大将軍の張虔勗を殺した。 九月乙亥、岐州刺史の雲弘嗣を殺した。壬辰、傅游芸を殺した。癸巳、左羽林衛大将軍の武攸寧が納言を代行し、冬官侍郎の裴行本、洛州司馬の狄仁傑が地官侍郎となり、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。 十月己酉、岑長倩・欧陽通・格輔元を殺した。壬戌、楽思晦・左衛将軍の李安静を殺した。 長寿元年(692)一月戊辰、夏官尚書の楊執柔が同鳳閣鸞台平章事となった。庚午、任知古を左遷して江夏令とし、狄仁傑を彭沢令とした。裴行本を嶺南に左遷した。乙亥、右衛大将軍泉献誠を殺した。庚辰、司刑卿の李遊道が冬官尚書・同鳳閣鸞台平章事となった。 二月戊午、秋官尚書の袁智弘が同鳳閣鸞台平章事となった。 四月丙申朔、日食があった。大赦をおこない、如意と改元した。 五月、洛水が氾濫した。七月、また氾濫した。 八月甲戌、黄河が氾濫し、河陽県を破壊した。戊寅、武承嗣・武攸寧・楊執柔が宰相を退いた。秋官侍郎の崔元綜が鸞台侍郎となり、夏官侍郎の李昭徳が鳳閣侍郎となり、権検校天官侍郎の姚璹が文昌左丞となり、検校地官侍郎の李元素が文昌右丞となり、営繕大匠の王璿が夏官尚書となり、そして司賓卿の崔神基、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。 九月戊戌、大霧。庚子、大赦をおこない、改元した。改用九月社、七日間の宴会を賜った。癸卯、并州を北都とした。癸丑、李遊道・袁智弘・王璿・崔神基・李元素を嶺南に流した。 十月丙戌、武威道行軍総管の王孝傑が吐蕃を破り、四鎮に勝利した。 二年(693)臘月癸亥、皇嗣の妃の劉氏と徳妃竇氏を殺した。丁卯、皇孫李成器を降封して寿春郡王とし、恒王李成義を衡陽郡王とし、楚王李隆基を臨淄郡王とし、衛王李隆範を巴陵郡王とし、趙王李隆業を彭城郡王とした。 一月庚子、夏官侍郎の婁師徳が同鳳閣鸞台平章事となった。甲寅、尚方監の裴匪躬と内常侍の范雲仙を殺した。 三月己卯、左衛員外大将軍の阿史那元慶と白潤府果毅の薛大信を殺した。 五月乙未、冬官尚書の蘇幹と相州刺史の来同敏を殺した。癸丑、黄河が棣州で氾濫した。 九月丁亥朔、日食があった。乙未、金輪聖神皇帝の号を加え、大赦をおこない、賜酺七日、七宝を作った。庚子、烈祖昭安皇帝を追尊して渾元昭安皇帝といい、顕祖文穆皇帝を立極文穆皇帝といい、太祖孝明高皇帝を無上孝明高皇帝といった。辛丑、姚璹が宰相を退いた。文昌右丞の韋巨源が同鳳閣鸞台平章事となり、秋官侍郎の陸元方が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、司賓卿の豆盧欽望が内史を代行した。 延載元年(694)臘月甲戌、突厥の默啜が霊州を寇した。右鷹揚衛大将軍の李多祚がこれを破った。 一月甲午、婁師徳が河源・積石・懐遠等軍営田大使となった。 二月庚午、薛懐義が伐逆道行軍大総管となり、十八将軍を領して默啜を攻撃した。乙亥、旱魃のため囚人の再審を行った。己卯、武威道大総管の王孝傑が吐蕃と冷泉で戦い、これを破った。 三月甲申、鳳閣舎人の蘇味道が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、李昭徳が内史を検校した。薛懐義が朔方道行軍大総管となり、默啜を攻撃した。李昭徳]]が朔方道行軍長史となり、蘇味道が司馬となった。 四月壬戌、常州で地震があった。 五月甲午、越古金輪聖神皇帝の号を加え、大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。 七月癸未、嵩嶽山の人の武什方が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。 八月、武什方が宰相を退いた。戊辰、王孝傑が瀚海道行軍総管となった。己巳、司賓少卿の姚璹が納言を代行した。左肅政台御史大夫の楊再思が鸞台侍郎となり、洛州司馬の杜景佺が鳳閣侍郎を検校し、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。戊寅、崔元綜を振州に流した。 九月壬午朔、日食があった。壬寅、李昭徳を左遷して南賓尉とした。 十月壬申、文昌右丞の李元素が鳳閣侍郎となり、右肅政台御史中丞の周允元が鳳閣侍郎を検校し、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。嶺南の獠が辺境を寇し、容州都督の張玄遇が桂・永等州経略大使となった。癸酉、雨で木が凍った。 天冊万歳元年(695)正月辛巳、慈氏越古金輪聖神皇帝の号を加え、証聖と改元した。大赦をおこない、民間に三日の宴会を賜った。戊子、豆盧欽望を左遷して趙州刺史とし、韋巨源を鄜州刺史とし、杜景佺を溱州刺史とし、蘇味道を集州刺史とし、陸元方を綏州刺史とした。丙申、万象神宮で火事があった。丙午、王孝傑が朔方行軍総管となり、突厥を攻撃した。 二月己酉朔、日食があった。壬子、薛懐義を殺した。甲子、「慈氏越古」の号をやめた。 三月丙辰、周允元が薨去した。 四月戊寅、大周万国頌徳天枢の碑柱を建てた。 七月辛酉、吐蕃が臨洮を寇し、王孝傑が肅辺道行軍大総管となってこれを攻撃した。 九月甲寅、南郊を祀った。天冊金輪大聖皇帝の号を加えた。大赦をおこない、改元し、九日間の宴会を賜った。先廟を崇んで崇尊廟とした。 →巻四 本紀第四つづき
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/275.html
秋田藩角館給人。 1749年(寛延二年)、秋田藩支藩角館城槍術指南役の小田野平七の次男として生まれる。 が、長兄が早世したため、当初は後継ぎと目されていた。 幼少より絵画に優れ、8~9歳頃に「釋迦涅槃像図」や「摩利支天像図」を、12歳で「神農図」を描くなどしたという。 17歳の時に大威徳山神社へ額絵「大威徳明王像図」を、18歳時には岩瀬神明社へ奉納絵「月下美人図」を 名指しで依頼されるなど、地元では絵画の才で著名だったとか。 1773年(安永二年)七月、鉱山採掘精錬法教授のため秋田を訪れた平賀源内、 宿としていた御用達商人五井屋孫左衛門宅の客間で直武の屏風絵「紅葉狩図」を見て驚き、 源内の意向により直武との会見となった。この時源内45歳、直武24歳という。 安永三年(1774年)八月発行の『解体新書』の挿絵(原書の解剖図の模写)を担当した。 直武が杉田玄白と顔を合わせた同年正月から、絵図完成まで半年ほどしか無かったと思われる。 1777年(安永六年)の暮れ、秋田藩へ帰郷。 その後、藩主に重用され御側小姓並となる。 1778年(安永七年)十月、藩主側近として再び江戸へ。 1779年(安永八年)十一月、家臣の反感を買ったため、藩主より遠慮謹慎を命ぜられ帰郷。 (zsphereコメント:ちなみに、この謹慎命令が出た時期、平賀源内が刃傷事件を起こした日とかなり近いようだ。 今のところ根拠は何もないけど、なーんか勘繰りたくなるのですw) 1780年(安永九年)五月、31歳で死去。藩主からの赦免状が届く一日前だったという。 参考文献 『解体新書の謎』大城孟 解体新書の謎
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/71.html
219年 建安二十四年(漢) 皇帝 劉協(漢献帝) 皇后 曹節(曹操の娘) 三公(漢) 魏王:曹操 漢中王:劉備 太傅:空席 丞相:曹操(前司空) 御史大夫:華歆(前丞相軍師) 太尉:廃止 司徒:廃止 司空:廃止 その他の要職(漢) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:? 驃騎将軍:→孫権(荊州牧・南昌侯) 車騎将軍:? 衛将軍:? 地方官 荊州牧:孫権 主な事件 建安二十四年春二月壬子晦、日食有り。《後漢書孝献帝紀》 夏五月、劉備が漢中を取る。《後漢書孝献帝紀》 秋七月庚子、劉備は自ら漢中王を称する。《後漢書孝献帝紀》子の劉禅を王太子と為す。《三国志蜀書後主伝》呉壱の妹の呉氏を漢中王后に立てる。《後漢書蜀書先主穆后伝》 八月、漢水が溢れる。《後漢書孝献帝紀》 冬十一月、孫権が荊州を取る。《後漢書孝献帝紀》 この年、大疫あり。荊州の民租稅を免除する。曹操は孫権を驃騎將軍に上表し、假節を与え領荊州牧とした。南昌侯に封じた。孫権は校尉の梁寓を遣わして漢に奉貢し、及び王惇に命じて市に馬を求め、また朱光等を遣わして帰す。曹操は梁寓を丞相掾と為して南に帰す。《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 ▲PAGE TOP 218年<< >>220年
https://w.atwiki.jp/junretsuwago/pages/2182.html
辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 名詞 ① 山の斜面やがけにあるほらあな。 日本書紀(720)仲哀八年正月「皇后(きさいのみや)は別船にめして洞海〈洞、此には久岐(クキ)と云ふ〉より入りたまふ」 岫 ② 山頂。山の峰。 〔新撰字鏡(898‐901頃)〕 [補注]( 1 )「草くき」「かやくき」とともに動詞「くく」「たちくく」「とびくく」と関係づけて、「潜る」「漏れる」の意から「穴」をいうとされる。( 2 )「岫」の字は、「説文」「爾雅」に「山有穴」とあって穴のある山の意であるが、「巖穴」をいうとの注もある。なお、「景行紀」「欽明紀」に見られる「峯岫」「巖岫」を古訓でミネクキ、イハクキと訓んでいる。 広辞苑 名詞 山の洞穴。また、山頂。 万葉集5「夕の―に霧結び」 岫 大言海 名詞 〔 漏 (ク)くノ名詞形、爾雅、釋山篇「山有 レ 穴爲 レ 岫 (シウト)」註「謂 二 巖穴 (イハアナ) 一 」〕(一)山ノ、 洞 (ホラ)アル處。 仲哀紀、八年正月「洞、此云 二 久岐 一 」天治字鏡、六 二 「岫、山穴、久支」 岫・洞 (二)轉ジテ、山。岡。 景行紀、十八年七月「其山 峯岫 (ノミネクキ)重疊」萬葉集、十二 三十四 「玉クシロ、卷キ寐シ妹ヲ、月モ經ズ、置キテヤ越エム、此山ノ 岫 (クキ)」字鏡 八十四 「嶂巒、岑也、久支」 検索用附箋:名詞地理 附箋:名詞 地理