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54.兩漢喪服無定制 漢文帝臨崩詔曰:「令到吏民三日釋服。」(此詔到後,吏民哭喪三日,即除喪服)案天子之喪,吏民尚齊衰三月,今易以三日,故後世謂之「以日易月」。然此專指吏民而言,未嘗概之於臣子也。詔又曰:「殿中當臨(宮中舉行哭喪儀式)者,旦夕各十五舉音,以下(下棺),則服大紅十五日,小紅十四日,纖七日(紅即功,大功、小功、纖,皆爲喪服之制)。」以下者,下棺已葬也。自始崩至葬皆衰,既葬則大功、小功及纖,以次而殺(減省)也。劉攽謂「漢諸帝自崩至葬,皆有百餘日,未葬則服不除。既葬又有大功、小功及纖,以次而殺。」是文帝雖有短喪之詔,其實臣子尚有未葬以前之服。即既葬後,大功、小功、纖亦有三十六日,初非二十七日也。(案應劭謂「凡三十六日而釋服,此以日易月也」,顏師古謂「三年之喪,其實二十七月,豈有三十六月之文!纖又無七月也,應氏既失之於前,而近代學者因循謬説,未之思也」)且此專指國喪而言,非令天下臣民,凡父母之喪,皆以日易月也。乃自有此制,大臣不行三年喪遂爲成例。翟方進爲丞相,後母死,三十六日除服,起視事。以爲身備漢相,不敢踰國家之制。直至東漢安帝時,鄧太后臨朝,始詔「長吏不爲親行服者,不得選舉」(吏六百石以上,皆長吏也。),而議者猶謂牧守不應同此制。劉愷獨以爲「刺史一州之表,二千石千里之師,若不以身率先,是濁其源而欲流之清也。」(愷傳)。於是牧守皆行服。鄧后崩,安帝又改制,仍不聽行喪。桓帝時,又令刺史二千石行喪。未幾又斷之。統計兩漢臣僚罕有爲父母服三年者,蓋因習俗相沿,已成故事也。然雖成故事,而朝廷本未有不許行喪之令,故行不行,仍聽人自便。而漢河間王良,喪太后,服三年。哀帝特詔以爲宗室儀表,益封萬戸(良傳)。東漢濟北王次守喪。梁太后詔曰:「王諒闇(守喪)以來,二十八月,自諸國有憂,未之聞也。」(次傳)薛宣後母死,弟修去官持服。宣以爲三年喪,人罕行之。兄弟自相駮(辯論),修遂竟服。兄弟一也(兄弟一體),而一服一不服,可見朝廷本無定制也。(薛宣傳:繇是兄弟不和。)鄧衍不服父喪,明帝聞之,雖薄其爲人,然本無服喪定例,故亦不能以此罪之。其臣下丁憂,自願持服者,則上書自陳,有聽者有不聽者。亦有暫聽而朝廷爲之起復者(親喪服未滿而起用,又謂「奪情」)。如太尉趙禧遭母憂,乞身行喪,明帝不許,遣使者爲釋服(禧傳)。太僕鄧彪遭母憂,乞身,詔以光禄大夫行服(彪傳)。桓郁遭母憂,乞身,詔以侍中行服。桓焉以母憂,乞身,詔以大夫行服。踰年,詔賜牛酒釋服(郁、焉傳)。霍諝爲金城太守,崔寔爲遼東太守,倶以母憂,自上歸(上表歸官),行喪服(諝傳、寔傳)。蓋本無必當行喪之制,故欲行喪者,皆須自乞,亦無不許行喪之制。故乞身者,亦多得請也。惟其無定制,聽人自爲輕重,於是徇名義者(保全名節),寧過無不及。如江華遭母憂,三年服竟,猶不忍除。郡守遣丞掾爲除服(華傳)。東海王臻喪母服闋(喪期服滿),又追念喪父時幼小,哀禮有闕,乃重行喪制(臻傳)。袁紹母死去官,三年禮畢,追感幼孤,又行父喪(紹傳)。甚至有如傅毅、荀爽、桓鸞爲舉主服喪三年。李恂、桓典、王允爲郡將服喪三年。崔寔以期喪去官。侯苞、馮冑以師喪持服。可見兩漢喪服,本無定制,故轉以此立名。青州民趙宣,葬親而不閉埏(墓道),隧居其中,行服二十餘年,郷里稱其孝。然五子皆服中生(陳蕃傳)。又可知徇名者之未必出於真也。 前頁 『廿二史箚記』巻三 次頁 兩漢外戚之禍 54.兩漢喪服無定制 長官喪服
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<魏 259年> <蜀漢 259年> <呉 259年> 259年 甘露四年(魏) 皇帝 曹髦(魏高貴郷公) 皇后 卞氏(父は卞隆) 皇太子 三公(魏) 太傅:司馬孚(前太尉) 太尉:高柔(前司徒) 司徒:鄭沖(前司空) 司空:王昶(驃騎將軍)→(死亡) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号) 驃騎将軍:王昶 車騎将軍:孫壹 衛将軍:? 地方官 冀州牧: 幽州牧: 并州牧: 青州牧: 徐州牧: 兌*州牧: 揚州刺史:? 雍州刺史:王経 交州牧:孫壹 主な事件 四年春正月、黃龍が二匹が寧陵縣の境の井戸の中に見られた。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》このとき龍が現れたことは吉祥であるといわれたが、帝は「龍は君主の德であろう。上は天にあらず、下は田に無い。窮屈な井戸に押し込められ吉兆であるはずもない」と言って、潛龍之詩を自らを風刺して歌った。司馬昭はよく思わなかった。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦に引く漢晉春秋》 夏六月、司空の王昶が薨ず。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 秋七月、陳留王の曹峻が薨ず。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 冬十月丙寅、新城郡を分けてまた上庸郡を置く《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 十一月癸卯、車騎將軍の孫壹が下女を殺した《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 誕生者 死没者
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秋田藩角館給人。 1749年(寛延二年)、秋田藩支藩角館城槍術指南役の小田野平七の次男として生まれる。 が、長兄が早世したため、当初は後継ぎと目されていた。 幼少より絵画に優れ、8~9歳頃に「釋迦涅槃像図」や「摩利支天像図」を、12歳で「神農図」を描くなどしたという。 17歳の時に大威徳山神社へ額絵「大威徳明王像図」を、18歳時には岩瀬神明社へ奉納絵「月下美人図」を 名指しで依頼されるなど、地元では絵画の才で著名だったとか。 1773年(安永二年)七月、鉱山採掘精錬法教授のため秋田を訪れた平賀源内、 宿としていた御用達商人五井屋孫左衛門宅の客間で直武の屏風絵「紅葉狩図」を見て驚き、 源内の意向により直武との会見となった。この時源内45歳、直武24歳という。 安永三年(1774年)八月発行の『解体新書』の挿絵(原書の解剖図の模写)を担当した。 直武が杉田玄白と顔を合わせた同年正月から、絵図完成まで半年ほどしか無かったと思われる。 1777年(安永六年)の暮れ、秋田藩へ帰郷。 その後、藩主に重用され御側小姓並となる。 1778年(安永七年)十月、藩主側近として再び江戸へ。 1779年(安永八年)十一月、家臣の反感を買ったため、藩主より遠慮謹慎を命ぜられ帰郷。 (zsphereコメント:ちなみに、この謹慎命令が出た時期、平賀源内が刃傷事件を起こした日とかなり近いようだ。 今のところ根拠は何もないけど、なーんか勘繰りたくなるのですw) 1780年(安永九年)五月、31歳で死去。藩主からの赦免状が届く一日前だったという。 参考文献 『解体新書の謎』大城孟 解体新書の謎
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唐書巻十 本紀第十 昭宗 哀帝 昭宗聖穆景文孝皇帝は、諱を曄といい、懿宗の第七子である。母は恭憲皇太后王氏といった。始め寿王に封ぜられた。乾符三年(876)、幽州盧龍軍節度使を領した。僖宗が乱に遇って再び出奔すると、寿王は兵を掌握して左右に侍り、尤見倚信。 文徳元年(888)三月、僖宗疾大漸、群臣は吉王が年長であるので、これを立てたく思っていた。観軍容使の楊復恭が兵を率いて寿王を迎え、立てて皇太弟とし、敏と名を改めた。乙巳、柩の前で皇帝位についた。 四月戊辰、孫儒が揚州を陥落させ、淮南節度使を自称し、楊行密が廬州に逃れた。庚午、母を追尊して皇太后とした。韋昭度が中書令となり、孔緯が司空となった。乙亥、張全義が孟州を陥落させ、李罕之が河東に逃れた。成汭が江陵を陥落させ、留後を自称した。辛卯、朱全忠が秦宗権と蔡州で戦い、これを破った。 五月壬寅、趙徳諲が襄州をもって降り、趙徳諲を忠義軍節度使・蔡州四面行営副都統とした。 六月、閬州防禦使の王建が漢州を陥落させ、刺史の張頊を捕らえて、成都を寇した。韋昭度が宰相を退いて剣南西川節度副大使となり、両川招撫制置使を兼ねた。 十月、陳敬瑄がそむいた。辛卯、恵聖恭定孝皇帝を靖陵に葬った。 十一月丙申、秦宗権が許州を陥落させ、忠武軍節度使の王縕を捕らえた。辛酉、奉国軍の将の申叢が秦宗権を捕らえた。 十二月丁亥、韋昭度が行営招討使となり、永平軍節度使の王建とともに陳敬瑄を討った。山南西道節度使の楊守厚が夔州を陥落させた。 龍紀元年(889)正月癸巳、大赦をおこない、改元した。翰林学士承旨・兵部侍郎の劉崇望が同中書門下平章事となった。壬子、宣武軍の将の郭璠が奉国軍留後の申叢を殺し、留後を自称した。 二月戊辰、朱全忠が秦宗権を捕らえて献上した。己丑、秦宗権が処刑された。 三月、孔緯が司徒となり、杜譲能が司空となった。丙申、銭鏐が蘇州を陥落させ、刺史の徐約を追放した。 六月、李克用が邢州を寇した。昭義軍節度使の孟方立が亡くなると、その弟の孟遷が留後を自称した。楊行密が宣州を陥落させ、宣歙観察使の趙鍠がここに死んだ。廬州刺史の蔡儔が叛いて孫儒についた。 八月甲戌、孟遷が叛いて李克用についた。 十月、平盧軍節度使の王敬武が亡くなると、その子の王師範が留後を自称し、棣州を陥落させ、刺史の張蟾がここに死んだ。宣歙観察使の楊行密が常州を陥落させ、刺史の杜陵がここに死んだ。銭鏐が潤州を陥落させた。 十一月丁未、太清宮で朝献した。戊申、太廟で朝享した。己酉、有事于南郊、大赦をおこなった。 十二月、孫儒が常・潤の二州を陥落させた。戊午、孔緯が太保となり、杜譲能が司徒となった。壬申、眉州刺史の山行章が叛いて王建についた。 大順元年(890)正月戊子、群臣が尊号をたてまつって聖文睿徳光武弘孝皇帝といい、大赦をおこない、改元した。壬寅、簡州の将の杜有遷がその刺史の員虔嵩を捕らえ、叛いて王建についた。 二月己未、資州の将の侯元綽がその刺史の楊戡を捕らえ、叛いて王建についた。 三月戊申、昭義軍節度使の李克修が亡くなると、その弟の李克恭が留後を自称した。 四月丙辰、宿州の将の張筠がその刺史の張紹光を追放した。丙寅、嘉州刺史の朱実が叛いて王建についた。丙子、戎州の将の文武堅がその刺史の謝承恩を捕らえて、叛いて王建についた。 五月、張濬が河東行営都招討宣慰使となり、京兆尹の孫揆がその副使となった。幽州盧龍軍節度使の李匡威が北面招討使となり、雲州防禦使の赫連鐸がその副使となった。朱全忠が南面招討使となり、王鎔が東面招討使となり、李克用を討った。壬寅、昭義軍の将の安居受がその節度使の李克恭を殺して、叛いて朱全忠についた。癸丑、剣南東川節度使の顧彦朗が亡くなると、その弟の顧彦暉が留後を自称した。 六月辛酉、雅州の将の謝従本がその刺史の張承簡を殺して、叛いて王建についた。辛未、朱全忠が河東東面行営招討使となった。この月、河東の将の安知建が邢・洺・磁の三州をもって叛いて朱全忠についた。 七月、楊行密が潤州を陥落させた。戊申、李克用が昭義軍節度使の孫揆を捕らえた。 八月、銭鏐が蘇州刺史の杜孺休を殺した。楊行密が蘇州を陥落させた。淮南節度使の孫儒が潤州を陥落させた。庚午、朱全忠が中書令となった。 九月、李克用が潞州を陥落させた。楊行密が潤・常の二州を陥落させた。 閏月、孫儒が常州を陥落させた。壬戌、邛州の将の任可知がその刺史の毛湘を殺した。 十月癸未、蜀州刺史の李行周が叛いて王建についた。李克用が邢・洺・磁の三州を陥落させた。 十一月丁卯、李匡威が蔚州を陥落させた。この月、張濬が李克用と陰地で戦い、敗れた。孫儒が蘇州を陥落させた。 十二月、李克用が晋州を陥落させた。 二年(891)正月庚申、孔緯・張濬が宰相を退いた。翰林学士承旨・兵部侍郎の崔昭緯と御史中丞の徐彦若が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。甘露鎮使の陳可言が常州が陷した。銭鏐が蘇州を陥落させた。 二月乙巳、陳敬瑄を赦した。丁未、詔により王建の兵権を奪ったが、王建は命を受けなかった。 この春、淮南で大飢饉があった。 四月庚辰、彗星が太微に入った。甲申、大赦をおこない、正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめた。両軍に金帛を賜り、贖所略男女還其家。民年八十以上及疾不能自存者、長吏存卹。武徳の功臣の子孫を訪れた。癸卯、王建が成都を寇した。 五月、孫儒が和・滁の二州を陥落させた。 六月、楊行密が和・滁の二州を陥落させた。丙午、子の李祐を封じて徳王とした。 七月、李克用が雲州を陥落させ、防禦使の赫連鐸が退渾に逃れた。孫儒が揚州を焼いて逃げた。 八月庚子、王建が成都を陥落させ、剣南西川節度使陳敬瑄を捕らえて、留後を自称した。 十月壬午、朱全忠が宿州を陥落させた。 十一月己未、曹州の将の郭銖がその刺史の郭詞を殺し、叛いて朱全忠についた。辛未、朱全忠が寿州を陥落させた。 景福元年(892)正月己未、朱全忠が孟州を陥落させ、河陽節度使の趙克裕を追放した。丙寅、大赦をおこない、改元した。 二月、劉崇望が宰相を退いた。銭鏐が蘇州を陥落させた。甲申、朱全忠が鄆州を寇したので、天平軍節度使の朱宣がこれを破った。 三月、戸部尚書の鄭延昌が中書侍郎・同中書門下平章事となった。乙巳、楊行密が楚州を陥落させ、刺史の劉瓚を捕らえた。また常州を陥落させ、刺史の陳可言がここに死んだ。丙辰、武定軍節度使の楊守忠と龍剣節度使の楊守貞が楊守厚の兵と合流して梓州を寇した。丙寅、福建観察使の陳巌が亡くなると、護閩都将の范暉が留後を自称した。庚午、泉州刺史の王潮が福州を寇した。 四月辛巳、杜譲能が太尉となった。 六月戊寅、楊行密が揚州を陥落させた。己巳、鳳翔隴右節度使の李茂貞が鳳州を陥落させ、感義軍節度使の満存が興元に逃れ、そのまま興・洋の二州を陥落させた。 八月壬申、李茂貞が興元を寇し、楊守亮・満存が閬州に逃れた。丙戌、降京畿・關輔囚罪、免淮南・浙西・宣州逋負。 十月、蔡儔が廬州をもって叛いて朱全忠につき、河東の将の李存孝が邢州をもって叛いて朱全忠についた。 十一月、有星孛于斗・牛。辛丑、武寧軍の将の張璲・張諌が濠・泗の二州をもって叛いて朱全忠についた。乙巳、朱友裕が濮州を陥落させ、刺史の邵儒を捕らえた。孫儒の将の王壇が婺州を陥落させ、刺史の蒋瓌が越州に逃れた。 この年、明州刺史の鍾文季が亡くなると、その将の黄晟が刺史を自称した。 二年(893)正月、徐彦若が宰相を退いて鳳翔隴右節度使となり、李茂貞が山南西道節度使となった。李茂貞は命を受けなかった。 二月、楊行密が常州を陥落させた。 三月辛酉、幽州盧龍軍兵馬留後の李匡籌がその兄の李匡威を追放して、節度留後を自称した。 四月乙亥、王建が陳敬瑄と剣南西川監軍田令孜を殺した。乙酉、彗星が太微に入った。丁亥、王鎔が李匡威を殺した。戊子、朱全忠が徐州を陥落させ、武寧軍節度使の時溥がここに死んだ。 五月庚子、王潮が福州を陥落させ、范暉がここに死に、王潮が留後を自称した。 七月、楊行密が廬州を陥落させ、蔡儔がここに死んだ。 八月丙申、嗣覃王李嗣周が京西面招討使となり、神策大将軍の李鐬が副使となり、李茂貞を討った。庚子、昇州刺史の張雄が亡くなると、その将の馮弘鐸が刺史を自称した。この月、楊行密が歙州を陥落させた。 九月壬午、嗣覃王李嗣周が李茂貞と興平で戦い、敗れた。甲申、李茂貞が京師を侵した。乙酉、李茂貞は観軍容使の西門重遂・内枢密使の李周𧬤・段詡を殺した。杜譲能が左遷されて梧州刺史となった。壬辰、東都留守・検校司徒の韋昭度が司徒となり、御史中丞の崔胤が戸部侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。この月、昇州刺史の馮弘鐸が叛いて楊行密についた。 十月乙未、杜譲能と戸部侍郎杜弘徽を殺した。楊行密が舒州を陥落させた。 十二月、韋昭度が太傅となった。邵州刺史の鄧処訥が潭州を陥落させ、欽化軍節度使の周岳がここに死に、処訥が留後を自称した。 この年、建州刺史の徐帰範と汀州刺史の鍾全慕が叛いて王潮についた。 乾寧元年(894)正月、有星孛于鶉首。乙丑、大赦をおこない、改元した。李茂貞が兵をつれて来朝した。 二月、右散騎常侍の鄭綮が礼部侍郎・同中書門下平章事となった。彰義軍節度使の張鈞が亡くなると、その兄の張鐇が留後を自称した。 三月甲申、李克用が邢州を寇し、李存孝を捕らえてこれを殺した。 五月丙子、王建が彭州を陥落させ、威戎軍節度使の楊晟がここに死んだ。この月、鄭延昌が宰相を退いた。孫儒の将の劉建鋒・馬殷が潭州を陥落させ、武安軍節度使の鄧処訥がここに死に、劉建鋒が留後を自称した。武岡指揮使の蒋勲が邵州を陥落させた。 六月、大同軍防禦使の赫連鐸が李克用と雲州で戦い、ここに死んだ。戊午、翰林学士承旨・礼部尚書の李磎が同中書門下平章事となった。庚申、李磎が宰相を退いた。御史大夫の徐彦若が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 七月、雨霖のため正殿を避け、膳を減らした。鄭綮が宰相を退いた。李茂貞が閬州を陥落させた。 八月、楊守亮が処刑された。癸巳、減京畿・興元・洋金商州賦役。 九月庚申、李克用が潞州を陥落させ、昭義軍節度使の康君立がここに死んだ。 十月丁酉、子の李祤を封じて棣王とし、李禊を虔王とし、李禋を沂王とし、李禕を遂王とした。 十一月、李克用が武州を陥落させた。 十二月、新州を陥落させた。甲寅、幽州盧龍軍節度使の李匡籌が滄州に逃れ、義昌軍節度使の盧彦威がこれを殺した。丙辰、李克用が幽州を陥落させた。 この冬、楊行密が黄州を陥落させ、刺史の呉討を捕らえた。 二年(895)正月己巳、給事中の陸希声が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。壬申、護国軍節度使の王重盈が亡くなると、その子の王珂が留後を自称した。 二月乙未、太子太傅の李磎が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。 三月、崔胤・李磎が宰相を退いた。戸部侍郎・判戸部の王摶が中書侍郎・同中書門下平章事となった。楊行密が濠州を陥落させ、刺史の張璲を捕らえた。庚午、河東で地震があった。 四月、蘇州で大雨と大雪があった。陸希声・韋昭度が宰相を退いた。泰寧軍節度使の朱瑾が朱全忠と高梧で戦って、敗れ、その将の安福慶がここに死んだ。楊行密が寿州を陥落させ、刺史の江従勗を捕らえた。 五月甲子、静難軍節度使の王行瑜・鎮国軍節度使の韓建と李茂貞が京師を侵し、太保として致仕した韋昭度と太子少師の李磎を殺した。この月、李克用が絳州を陥落させ、刺史の王瑤がここに死んだ。 六月庚寅、鎮海軍節度使の銭鏐が浙江東道招討使となった。癸巳、吏部尚書の孔緯が司空となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。 七月丙辰、李克用が兵を河中に駐屯させた。戊午、匡国軍節度使の王行約が京師に逃れた。庚申、左右神策軍護軍中尉の駱全瓘と劉景宣と指揮使の王行実および李継鵬がそむいた。行在莎城。嗣薛王李知柔が権知中書事となった。壬戌、李克用が同州を陥落させた。甲子、次石門。前護国軍節度使の崔胤が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 八月戊戌、李克用が邠寧四面行営招討使となり、保大軍節度使の李思孝が北面招討使となり、定難軍節度使の李思諫が東北面招討使となり、彰義軍節度使の張鐇が西面招討使となった。辛丑、李克用が邠寧四面行営都統となった。李継鵬が処刑された。李茂貞を赦した。辛亥、石門から到着した。壬子、崔昭緯が宰相を退いた。 九月丙辰、徐彦若が司空となった。癸亥、孔緯が薨去した。前昭義軍節度使の李罕之が邠寧四面行営副都統となった。 十月、京兆尹の孫偓が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。丙戌、李克用が王行瑜と梨園で戦い、これを破った。庚寅、王行約が寧州を焼いて逃亡した。義武軍節度使の王処存が亡くなると、その子の王郜が留後を自称した。 十一月丁巳、李克用が王行瑜と龍泉で戦い、これを破った。辛酉、衢州刺史の陳儒が亡くなると、その弟の陳岌が刺史を自称した。丁卯、王行瑜が処刑された。壬申、斉州刺史の朱瓊が叛いて朱全忠についた。丁丑、王建が利州を陥落させ、刺史の李継顒がここに死んだ。 十二月癸未、京師で赦をおこない、大順年間以降に官爵を削奪されたものでその罪にあたらない者の官爵を復した。甲申、閬州防禦使の李継雍・蓬州刺史の費存・渠州刺史の陳璠が叛いて王建についた。丙申、王建が梓州を寇した。戊戌、通州刺史の李彦昭が叛いて王建についた。 この年、安州防禦使の宣晟が桂州を陥落させ、静江軍節度使の周元静の部将の劉士政がここに死に、宣晟が知軍府事を自称した。 三年(896)正月癸丑、王建が龍州を陥落させ、刺史の田昉がここに死んだ。 閏月丁亥、果州刺史の周雄が叛いて王建についた。 四月壬子、武安軍が乱を起こし、その節度使の劉建鋒を殺し、その将の馬殷が留後を自称した。 五月癸未、楊行密が蘇州を陥落させ、刺史の成及を捕らえた。光州を陥落させ、刺史の劉存がここに死んだ。庚寅、成汭が黔州を陥落させ、武泰軍節度使の王建肇が成都に逃れた。乙未、董昌が処刑された。この月、蘄州刺史の馮行章が叛いて楊行密についた。 六月庚戌、李茂貞が京師を侵し、嗣延王李戒丕がこれをふせいだ。丙寅、李茂貞と婁館で戦い、敗れた。 七月癸巳、渭北を行在とした。甲午、韓建が来朝し、華州に行った。乙巳、崔胤が宰相を退いた。丙午、翰林学士承旨・尚書左丞の陸扆が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。 八月甲寅、王摶が宰相を退いた。乙丑、国子毛詩搏士の朱朴が左諫議大夫・同中書門下平章事となった。 九月乙未、武安軍節度使の崔胤が中書侍郎となり、翰林学士承旨・兵部侍郎の崔遠が同中書門下平章事となった。丁酉、陸扆を左遷して峽州刺史とした。 十月、李克用が羅弘信と白龍潭で戦い、これを破った。壬子、孫偓が持節・鳳翔四面行営節度・諸軍都統・招討・処置使となった。戊午、威勝軍節度使の王摶が吏部尚書・同中書門下平章事となった。 十一月戊子、忠国軍節度使の李師悦が亡くなると、その子の李継徽が留後を自称した。 四年(897)正月乙酉、韓建が兵をもって行宮を囲み、扈蹕都将の李筠を殺した。丙申、朱全忠が鄆州を陥落させ、天平軍節度使の朱宣がここに死んだ。己亥、孫偓が都統を辞任した。 二月、朱全忠が兗州を寇し、泰寧軍節度使の朱瑾が淮南に逃れ、その子の朱用貞が兗州をもって叛いて朱全忠についた。朱全忠は沂・海・密の三州を陥落させた。保義軍節度使の王珙が河中を寇した。韓建が太子詹事の馬道殷と将作監の許巌士を殺した。楊行密が江南諸道行営都統となった。癸丑、王建が瀘州を陥落させ、刺史の馬敬儒がここに死んだ。己未、徳王李裕を立てて皇太子とし、大赦をおこない、行廟に饗した。辛未、王建が渝州を陥落させた。乙亥、孫偓・朱朴が宰相を退いた。 五月壬午、朱全忠が黄州を陥落させ、刺史の矍璋がここに死んだ。 六月、王建を左遷して南州刺史とした。李茂貞を剣南西川節度使とし、嗣覃王李嗣周を鳳翔隴右節度使としたが、李茂貞は命を受けず、李嗣周は李茂貞と奉天で戦い、敗れた。 八月、韓建が通王李滋・沂王李禋・韶王・彭王・嗣韓王・嗣陳王・嗣覃王李嗣周・嗣延王李戒丕・嗣丹王李允を殺した。 九月、銭鏐が湖州を陥落させ、忠国軍節度使の李継徽が淮南に逃れた。彰義軍節度使の張璉が鳳翔西北行営招討使となり、静難軍節度使の李思諫が鳳翔四面行営副都統となって、李茂貞を討った。 十月壬子、遂州刺史侯紹が叛いて王建についた。乙卯、合州刺史の王仁威が叛いて王建についた。庚申、王建が梓州を陥落させ、剣南東川節度使の顧彦暉がここに死んだ。甲子、子の李秘を封じて景王とし、李祚を輝王とし、李祺を祁王とした。 十一月癸酉、楊行密が朱全忠と清口で戦い、これを破った。丙子、銭鏐が台州を陥落させた。 十二月丁未、威武軍節度使王潮が亡くなると、その弟の王審知が留後を自称した。 光化元年(898)正月、徐彦若が司徒となった。 二月、李茂貞を赦した。 三月、幽州盧龍軍節度使の劉仁恭の子の劉守文が滄州を陥落させ、義昌軍節度使の盧彦威が汴州に逃れた。 四月丙寅、淑妃何氏を立てて皇后とした。 五月己巳、大赦をおこなった。辛未、朱全忠が洺州を陥落させ、刺史の邢善益がここに死んだ。また邢州を陥落させた。壬午、磁州を陥落させ、刺史の袁奉韜がここに死んだ。この月、馬殷が邵・衡・永の三州を陥落させ、刺史の蒋勲・楊師遠・唐旻がここに死んだ。 七月丙申、朱全忠が唐州を陥落させ、また隋州を陥落させ、刺史の趙匡璘を捕らえた。 八月戊午、朱全忠が鄧州を陥落させ、刺史の国湘を捕らえた。壬戌、華州から到着した。甲子、大赦をおこない、改元した。 九月丙子、北方に星が落ちた。甲申、銭鏐が蘇州を陥落させた。 十月、魏博節度使の羅弘信が亡くなると、その子の羅紹威が留後を自称した。己亥、朱全忠が安州を陥落させ、刺史の武瑜がここに死んだ。 十一月、衢州刺史の陳岌が叛いて楊行密についた。甲寅、子の李禛を封じて雅王とし、李祥を瓊王とした。 十二月癸未、李罕之が潞州を陥落させ、節度留後を自称した。李克用が沢州を陥落させた。 二年(899)正月乙未、給復綿・剣二州二年。丁未、崔胤が宰相を退いた。兵部尚書の陸扆が同中書門下平章事となった。この月、李罕之が沁州を陥落させた。劉仁恭が貝州を陥落させた。 二月甲子、朱全忠が蔡州を陥落させ、奉国軍節度使の崔洪が淮南に逃れた。 三月丁巳、朱全忠が沢州を陥落させた。 六月丁丑、保義軍が乱を起こし、その節度使の王珙を殺して、その将の李璠が叛いて朱全忠についた。 七月壬辰、海州の戍将の陳漢賓がその州をもって叛いて楊行密についた。馬殷が道州を陥落させ、刺史の蔡結がここに死んだ。 八月、李克用が沢・潞・懐の三州を陥落させた。 十一月、徐彦若が太保となり、王摶が司空となった。馬殷が郴・連の二州を陥落させ、刺史の陳彦謙・魯景仁がここに死んだ。辛丑、保義軍の将の朱簡がその節度使の李璠を殺して、叛いて朱全忠についた。 三年(900)四月辛未、皇后と皇太子が太廟で享した。 六月丁卯、清海軍節度使の崔胤が尚書左僕射となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。王摶が宰相を退いた。己巳、これを殺した。 七月、浙江が氾濫した。 八月庚辰、李克用が洺州を陥落させ、刺史の朱紹宗を捕らえた。 九月、朱全忠が洺州を陥落させた。銭鏐が婺州を陥落させ、刺史の王壇が宣州に逃れた。衢州刺史の陳岌が叛いて銭鏐についた。乙巳、徐彦若が宰相を退いた。丙午、崔遠が宰相を退いた。戊申、刑部尚書の裴贄が中書侍郎・同中書門下平章事となった。甲寅、朱全忠が瀛州を陥落させた。 十月丙辰、朱全忠が景州を陥落させ、刺史の劉仁霸を捕らえた。辛酉、莫州を陥落させた。辛巳、祁州を陥落させ、刺史の楊約がここに死んだ。甲申、定州を陥落させ、義武軍節度使の王郜が太原に逃れた。 十一月己丑、左右神策軍中尉の劉季述と王仲先と内枢密使の王彦範および薛斉偓が乱を起こし、皇帝居于少陽院。辛卯、劉季述は皇太子の李裕を皇帝とした。丁未、太白(金星)が昼に見えた。 十二月、劉季述が睦王李倚を殺した。 この年、馬殷が桂・宜・巖・柳・象の五州を陥落させた。睦州刺史の陳晟が亡くなると、その弟の陳詢が刺史を自称した。 天復元年(901)正月乙酉、左神策軍の将の孫徳昭・董彦弼・周承誨が兵をもって乱を討ち、皇帝を位に復させた。劉季述・薛斉偓は処刑され、皇太子李裕は降封されて徳王となった。戊申、朱全忠が絳州を陥落させた。壬子、崔胤が司空となった。朱全忠が晋州を陥落させた。 二月甲寅、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。戊辰、朱全忠が河中を陥落させ、護国軍節度使の王珂を捕らえた。辛未、朱全忠を封じて梁王とした。この月、翰林学士・戸部侍郎の王溥が中書侍郎となり、吏部侍郎の裴枢が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。 三月辛亥、昭義軍節度使の孟遷が叛いて朱全忠についた。 四月壬子、朱全忠が沁・沢二州を陥落させた。丁巳、儀州刺史の張鄂が叛いて朱全忠についた。甲戌、太廟で享した。丙子、大赦をおこない、改元した。武徳・貞観配饗功臣主祭子孫進之、介公・酅公後予一子九品正員官。免光化以來畿内逋負。 五月、李茂貞が来朝した。 六月、李克用が隰・慈の二州を陥落させた。 十月戊戌、朱全忠が京師を侵した。 十一月己酉、朱全忠が同州を陥落させた。壬子、如鳳翔。丁巳、朱全忠が華州を陥落させ、鎮国軍節度使の韓建が叛いて朱全忠についた。辛酉、兵部侍郎の盧光啓が権勾當中書事となった。癸亥、李茂貞が朱全忠と武功で戦い、敗れた。丁卯、盧光啓が右諫議大夫となり、參知機務。戊辰、朱全忠が鳳翔を侵した。辛未、邠州を陥落させ、静難軍節度使の李継徽が叛いて朱全忠についた。甲戌、崔胤・裴枢が宰相を退いた。 十二月、鍾伝が吉州を陥落させた。 この年、清海軍節度使徐彦若が亡くなると、行軍司馬劉隠が留後を自称した。武貞軍節度使雷満が亡くなると、その子の彦威が留後を自称した。 二年(902)正月丁卯、給事中の韋貽範が工部侍郎・同中書門下平章事となった。丙子、給事中嚴龜為汴・岐和協使。 二月己亥、盗人が簡陵をあばいた。王建が利州を陥落させ、昭武軍節度使の李継忠が鳳翔に逃れた。 三月庚戌、晝晦。癸丑、朱全忠が汾州を陥落させた。乙卯、浙西で大雨と大雪があった。戊午、朱全忠が慈・隰の二州を陥落させた。丁卯、李克用が汾・慈・隰の三州を陥落させた。 四月、盧光啓が宰相を退いた。丙申、温州刺史朱褒が亡くなると、その兄の敖が刺史を自称した。楊行密が昇州を陥落させた。 五月丙午、李茂貞が朱全忠と武功で戦い、敗れた。庚午、韋貽範が宰相を退いた。 六月丙子、中書舎人の蘇検が工部侍郎・同中書門下平章事となった。丙戌、朱全忠が鳳州を陥落させた。 七月甲辰、朱全忠が成州を陥落させた。乙巳、隴州を陥落させた。 八月己亥、韋貽範起復。辛丑、王建が興元を陥落させ、山南西道節度使の王万弘が叛いて王建についた。 九月戊申、李茂貞が朱全忠と槐林で戦い、敗れた。武定軍節度使の拓抜思恭が叛いて王建についた。 十月癸酉、楊行密が東面諸道行営都統となり、湖南節度使の馬殷とともに朱全忠を討った。王建が興州を陥落させた。 十一月癸卯、保大軍節度使の李茂勲が兵をもって鳳翔をたすけた。丙辰、韋貽範が薨去した。 十二月癸巳、温州の将の丁章がその刺史の朱敖を追放した。己亥、朱全忠が鄜州を陥落させ、保大軍節度使の李茂勲が叛いて朱全忠についた。 この年、盧光稠が韶州を陥落させた。岳州刺史の鄧進思が亡くなると、その弟の鄧進忠が刺史を自称した。 三年(903)正月丙午、平盧軍節度使の王師範が兗州を取った。戊申、左右神策軍護軍中尉の韓全誨と張彦弘と内枢密使の袁易簡と周敬容を殺した。辛亥、翰林学士の姚洎が汴・岐和協使となった。壬子、工部尚書の崔胤が司空となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。甲子、朱全忠の軍に幸した。己巳、鳳翔から到着し、太廟で哭し、大赦をおこなった。庚午、崔胤と朱全忠が中官七百人あまりを殺した。辛未、崔胤が判六軍十二衛事となった。丁章が処刑された。 二月、雨土。甲戌、陸扆を左遷して沂王の傅とし、東都を分司させた。丙子、王溥が宰相を退いた。朱全忠が蘇検と吏部侍郎の盧光啓を殺した。戊寅、降京畿・河中鳳翔興徳府・同邠鄜三州死罪以下。己卯、輝王李祚が諸道兵馬都元帥となった。庚辰、朱全忠が太尉・中書令となり、副之。崔胤が司徒となった。乙未、清海軍節度使の裴枢が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 三月、朱全忠が青州を陥落させた。楊行密が密州を陥落させ、刺史の劉康乂がここに死んだ。 四月己卯、朱全忠が判元帥府事となった。 五月壬子、荊南節度使の成汭が楊行密と君山で戦い、ここに死んだ。武貞軍節度使の雷彦威の弟の雷彦恭が江陵を陥落させた。 六月乙亥、朱全忠が登州を陥落させた。 九月、楊行密が奉国軍節度使の朱延寿を殺した。辛亥、朱全忠が棣州を陥落させ、刺史の邵播がここに死んだ。密州を陥落させた。戊午、平盧軍節度使の王師範が叛いて朱全忠についた。 十月、忠義軍の将の趙匡明が江陵を陥落させ、留後を自称した。王建が忠・萬・施の三州を陥落させた。甲戌、夔州を陥落させた。丁丑、平盧軍の将の劉鄩が兗州をもって叛いて朱全忠についた。 十二月、裴贄が宰相を退いた。楊行密が宣州を陥落させ、寧国軍節度使の田頵がここに死んだ。辛巳、礼部尚書の独孤損が兵部侍郎・同中書門下平章事となった。丙申、朱全忠が尚書左僕射として致仕した張濬を殺した。 天祐元年(904)正月乙巳、崔胤が宰相を退いた。裴枢が判左三軍事となり、独孤損が判右三軍事となった。兵部尚書の崔遠が中書侍郎となり、翰林学士・右拾遺の柳璨が右諫議大夫となり、ともに同中書門下平章事となった。己酉、朱全忠が太子少傅の崔胤と京兆尹の鄭元規・威遠軍使の陳班を殺した。戊午、朱全忠が唐の都を洛陽に遷した。 二月丙寅、日中に北斗が見えた。戊寅、次陝州。朱全忠が来朝した。甲申、子の李禎を封じて端王とし、李祁を豊王とし、李福を和王とし、李禧を登王とし、李祜を嘉王とした。 三月丁未、朱全忠が判左右神策および六軍諸衛事を兼ねた。 閏四月壬寅、次穀水。朱全忠が来朝した。甲辰、西都から到着した。太廟で享した。大風、雨土。乙巳、大赦をおこない、改元した。 六月、静難軍節度使の楊崇本が李克用・王建の兵と合流して朱全忠を討った。 七月乙丑、朱全忠が兵をつれて河中に駐屯した。 八月壬寅、朱全忠が、左右龍武統軍の朱友恭・氏叔琮・枢密使の蒋玄暉の兵に宮門を犯させた。この夕、皇帝が崩じ、年は三十八であった。明年、起居郎の蘇楷が「恭霊荘閔」と謚を改め、廟号を襄宗とするよう請願した。後唐の同光初年にいたって、ふるい諡号にもどした。 昭宣光烈孝皇帝は、諱を祝といい、昭宗の第九子である。母は皇太后何氏といった。始め輝王に封ぜられた。朱全忠が昭宗を弑すると、詔をいつわって皇太子として立て、監軍国事とした。 天祐元年(904)八月丙午、柩の前で皇帝位についた。衢州刺史の陳璋と睦州刺史の陳詢が叛いて楊行密についた。 九月庚午、皇后を尊んで皇太后とした。 十月辛卯朔、日食があった。癸巳、朱全忠が来朝した。甲午、朱全忠が朱友恭・氏叔琮を殺した。 十一月、朱全忠が光州を陥落させた。 この年、虔州刺史の盧光稠が亡くなると、衙将の李図が知州事を自称した。 二年(905)正月、盧約が温州を陥落させた。楊行密が平盧軍節度使の安仁義を殺した。丁丑、盜焚乾陵下宮。 二月、楊行密が鄂州を陥落させ、武昌軍節度使の杜洪がここに死んだ。戊戌、朱全忠が徳王李裕および棣王李祤・虔王李禊・遂王李禕・景王李秘・祁王李祺・瓊王李祥を殺した。己酉、聖穆景文孝皇帝を和陵に葬った。 三月甲子、裴枢が宰相を退いた。戊寅、独孤損が宰相を退いた。礼部侍郎の張文蔚が同中書門下平章事となった。甲申、崔遠が宰相を退いた。吏部侍郎の楊渉同が中書門下平章事となった。 四月乙未、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。庚子、有彗星出于西北。甲辰、出于北河。辛亥、降京畿死罪以下、給復山陵役者一年。 五月、王建が金州を陥落させ、戎昭軍節度使の馮行襲が均州に逃れた。 六月、馮行襲が金州で勝利した。楊行密が婺州を陥落させ、刺史の沈夏を捕らえた。戊子、朱全忠が裴枢・静海軍節度使の独孤損・左僕射の崔遠・吏部尚書の陸扆・工部尚書の王溥・司空として致仕した裴贄・検校司空兼太子太保として致仕した趙崇・兵部侍郎の王賛を殺した。 七月、卜郊。岳州刺史の鄧進忠が叛いて馬殷についた。 九月甲子、朱全忠が襄州を陥落させ、忠義軍節度使の趙匡凝が淮南に逃れた。丙寅、弟の李禔を封じて潁王とし、李祐を蔡王とした。朱全忠が江陵を陥落させ、留後の趙匡明が成都に逃れた。乙酉、改卜郊。 十月丙戌、朱全忠が諸道兵馬元帥となった。 十一月庚午、三卜郊。庚辰、淮南節度使楊行密が亡くなると、その子の楊渥を淮南節度副大使・東面諸道行営都統とした。辛巳、朱全忠が相国となり、百揆を総べ、魏王に封ぜられた。 十二月乙未、朱全忠が天下兵馬元帥となり、蒋玄暉と豊徳庫使の応頊と尚食使の朱建武を殺した。癸卯、柳璨が司空となった。戊申、朱全忠が皇太后を弑した。辛亥、罷郊。癸丑、柳璨を左遷して登州刺史とした。甲寅、柳璨と太常卿の張廷範を殺した。 三年(906)正月壬戌、淮南の将の王茂章が宣・歙の二州をもって叛いて銭鏐についた。 二月、楊渥が岳州を陥落させた。癸巳、王建が帰州を陥落させた。 四月癸未朔、日食があった。鎮南軍節度使の鍾伝が亡くなると、その子の鍾匡時が留後を自称した。 六月、銭鏐が衢・睦の二州を陥落させ、刺史の陳璋・陳詢が淮南に逃れた。 七月、楊渥が饒州を陥落させた。 八月癸未、朱全忠が相州を陥落させた。 九月、楊渥が洪州を陥落させ、鍾匡時を捕らえた。乙亥、匡国軍節度使の劉知俊が坊州を陥落させ、刺史の劉彦暉を捕らえた。 十月辛巳、楊崇本が鳳翔・涇原・鄜延・秦隴の兵と合流して朱全忠を討ち、美原で戦ったが、敗れた。 十一月、忠国軍節度使の高彦が亡くなると、その子の高澧が留後を自称した。 閏十二月戊辰、李克用が潞州を陥落させ、昭義軍節度使の丁会が叛いて李克用についた。乙亥、震電、雨雪。 四年(907)三月、劉守光がその父の劉仁恭を捕らえて、幽州盧龍軍節度使を自称した。 四月戊午、銭鏐が温州を陥落させた。甲子、皇帝が位を譲り、曹州にうつされ、済陰王と号した。後梁の開平二年(908)二月に弑され、年は十七で、謚を哀帝といった。後唐の明宗が昭宣光烈孝皇帝と追謚し、陵を温陵といった。 賛曰:自古亡国、未必皆愚庸暴虐之君也。其禍乱之來有漸積、及其大勢已去、適丁斯時、故雖有智勇、有不能為者矣、可謂真不幸也、昭宗是已。昭宗為人明雋、初亦有志於興復、而外患已成、内無賢佐、頗亦慨然思得非常之材、而用匪其人、徒以益乱。自唐之亡也、其遺毒餘酷、更五代五十餘年、至於天下分裂、大壞極乱而後止。跡其禍乱、其漸積豈一朝一夕哉! 前巻 『新唐書』 次巻 巻九 本紀第九 『新唐書』巻十 本紀第十 巻十一 志第一
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死にざまを見ろ 死にざまを見ろ (ハヤカワ・ミステリ文庫 13-14) 死にざまを見ろ (1961年) (世界ミステリーシリーズ) 死にざまを見ろ (1978年) (ハヤカワ・ミステリ文庫) 題名:死にざまを見ろ 原題:See Them Die (1960) 著者:エド・マクベイン Ed McBain 訳者:加島祥造 発行:ハヤカワ文庫HM 1978.11.30 1刷 マクベインはまたも手を変えてきた。何とも戯曲風の作品に仕上げてきたのだ。なぜなら、作品のほとんどの展開がある特定された街角でなされてゆくからだ。ここからストーリーが離れることは滅多にない。離れてもすぐにここに戻ってくる。そして全体のストーリーは、早朝から昼くらいまでの実にわずか数時間。これは戯曲やシナリオに展開しやすいだろうな、と思われる。街角に起こった大騒動の物語なのだ。 フランキー・ヘルナンデスというプエルトリコ出身の刑事が数作前から登場していた。その意味あいがやっとこの作品において明らかにされてゆく。この作品では、フランキーこそが主役だ。フランキーに対抗する役として、これも最近出始めているアンディ・パーカー刑事。この二人の確執が、プエルト・リコ人の犯罪者をめぐり、張りつめてゆく。ヒスパニックの街角。 これは<87分署>版『カラーズ~天使の消えた街』だ。ただしこの作品は他の<87分署>シリーズと同じようにどこか優しいし、天使が消えることもない。そして例によっていつもの<87分署>シリーズと同じように非情で、大切な命の火が消えてゆく。七月。熱波の街角。 そう言えば赴任以来あんなにも出ずっぱりだったコットン・ホースの姿を最近見かけない。キャッスルビウ刑務所との関わりはどうなったのだろう。彼はどこで何をやっているんだろう。ぼくの87分署体験はまだまだ浅い。 (1990.06.02)
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辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 自動詞 ① ことを全うする。こらえきる。耐える。抵抗する。がまんする。→あえず・あえて・あえなむ。 敢 ② (他の動詞の下に付いて、補助動詞的に用いる) 十分にそうする。完全にそうする。押し切ってそうする。→あえず。 ※万葉(8C後)一八・四〇八三「常の恋いまだやまぬにみやこより馬にこひ来ば荷ひ安倍(アヘ)むかも」 広辞苑 自動詞他動詞 (「合う」と同源)①事に堪える。こらえきる。 万葉集19「かく恋ひば老いづく吾が身けだし―・へむかも」 敢ふ ②おしきってする。すっかり…する。▷しばしば他の動詞の連用形に付けて用いる。→あえず→あえて 源氏物語帚木「心のうちに思ふことをも、かくし―・へずなむ」 大言海 自動詞 〔增韻「敢、 忍爲 (シノビテナス)也」〕堪 (タ)フ。コラヘユク。 續紀、十七、天平勝寳元年七月、詔「萬機 密久 (シゲク) 志天 (シテ)、 御身不 (ミミズ) 二 敢賜 (アヘタマハ) 一 」萬葉集、十五 廿六 「秋去レバ、置ク露霜ニ、 安倍 (アヘ)ズシテ、都ノ山ハ、色ヅキヌラム」同、十九 三十 長歌「斯ク戀ヒバ、 老 (オイ) 就 (ヅ)ク吾ガ身、蓋シ 安倍 (アヘ)ムカモ」 敢 動詞活用表 未然形 あへ ず、らゆ、らる、む、じ、さす、しむ、まほし 連用形 あへ たり、き、つ、ぬ、つつ、たし、ても 終止形 あふ べし、らし、らむ、ましじ、まじ 連体形 あふる も、かも、こと、とき 已然形 あふれ ども 命令形 あへよ 検索用附箋:自動詞下二段 検索用附箋:他動詞下二段 附箋:下二段 他動詞 自動詞
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昨日 - 今日 - 「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究 赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本 1945年辻政弘中尉が戦場で執筆した原本「本部陣中日誌」と 1970年谷本小次郎元特幹伍長を中心にして赤松隊友会の合議でつくった改変版「戦隊陣中日誌」との異同を検討しました。 谷本小次郎氏は、「編集のことば」で次のように綴っています。 幸いに基地勤務隊辻政弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三中隊陣中日誌(中隊指揮班記録による四月十五日より七月二十四日迄の記録、第三中隊長所有)を資に取り纏め聊の追記誇張・削除をも行わず、正確な史実を世代に残し歴史は再び巡りて精強第三戦隊たりと誇れる事を念願します。 しかし、「聊(いささか)の追記誇張・削除をも行わず」には首を捻らざるを得ません。 なお、谷本文中にある「第三中隊陣中日誌」は、沖縄戦関係資料閲覧室で閲覧できること、ご教示をいただきました。→書誌データ 記述の対照 2009.9.18更新 (1)1945(昭和20)年3月23日~3月31日 <暫定HTMLファイル> (2)1945(昭和20)年4月1日~4月30日 <暫定HTMLファイル> (3)1945(昭和20)年5月1日~5月31日 <暫定HTMLファイル> (4)1945(昭和20)年6月1日~6月30日 <暫定HTMLファイル> (5)1945(昭和20)年7月1日~7月31日 <暫定HTMLファイル> (6)1945(昭和20)年8月1日~(昭和21)年1月10日<暫定HTMLファイル> 掲示板投稿欄へ 赤松嘉次資料 「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究 沖縄戦資料index
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文武天皇の代、瑞祥として様々なものが現れた最後に霊亀が現れた。 左京人大初位下高田首久比麻呂が献じたもので、 長さ七寸、広さ六寸、左目白く右目赤く首に三公、背に七星をあらわし、 前脚に離の卦、後ろ脚に一爻あり、腹下には赤白二点あり。 この亀の献上により、間もなく元正天皇即位されると「霊亀」と改元された。 養老七年十月十一日、左京人紀朝臣家が白亀を献上。 長さ一寸半、広さ一寸、両目とも赤く、これをもって 元正天皇は翌年聖武天皇に譲位し、同時に「神亀」と改元した。 神亀六年六月二十日、河内国古市郡の賀茂子虫により長さ五寸三分、 広さ四寸五分、背に「天王貴平知百年」の文ある亀を発見、 同八月五日に天皇より「天平」と改元する詔発せられる。 子虫はこれにより従六位上、子虫に瑞亀の献上を示唆した唐僧道栄も 従五位下の階に準じ緋色の袈裟を賜ったと。 (この河内国古市郡からは天平十八年にも白亀が尾張王なる者によって発見、献上されており、 これによる改元はなかったが、同地での発見は偶然とは思われない由) 孝謙天皇の代にも白亀献上二件あり、もって元号は天平宝字となる。 光仁天皇即位後の改元「宝亀」も、肥後国葦北郡の日奉(ひまつり)部広主売 および同国益城郡の山稲主なる人が白亀を献じたのによるという。 848年(承和十五年)五月、豊後国大分郡より白亀の献上あり。 嘉祥と改元される。 850年(嘉祥三年)七月、備前国磐梨郡石生郷神河より白亀、 石見国安農郡河合郷より甘露の献上あり。 よって翌年四月、仁寿と改元。 (『日本陰陽道史総説』)
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予選結果:暗黒騎士ダークヴァルザードギアス 予選順位:1位 個人ポイント 61P 投票マッチング VS阿呂芽ハナ(投票数:7) ダークヴァルザードギアス:ストーリー展開が素敵過ぎました。阿呂芽ハナ:ストーリーが綺麗で面白いマッチ:ダークヴァルザードギアスとサンプル花子との繋がりがある阿呂芽ハナとの戦いが見たかった。 なんか二人共ドラマを書くのが得意そうなので潰し合ってほしいと思いました シリアスとギャグのバランス力に期待 ジュブナイル(本来の意味で)バトルが見たい。 VS童貞男(投票数:7) 暗黒騎士ダークヴァルザードギアス様も童貞(アナスタシアさんとヤッてたら嫌だなー)だと思うのでどうなるか見たかったです。 VSファイヤーラッコ(投票数:6) ファイヤーラッコが生み出すカオスを暗黒騎士ダークヴァルザードギアスがどう取り繕うかを見てみたい!スゴーイ! 暗黒騎士:シリアスに振りすぎない好感度と、なにより絶対的なキャラクターの面白さに加えて、構成完成度の高いプロローグを持ち出されては、そりゃあ投票してしまう。ラッコ:すごい!なんとすごいのだろう!異界の技術か何かでも用いているんですか……?このまま半事故的に他のキャラと当たってなんかとってもすごいことになってほしいです。互いに自分の世界強度を持つ二人が、どこまで相手の世界を攻め、自分の世界を守るのか、かなり興味深いマッチングだと思います。 VS井戸浪 濠(投票数:4) あらゆる面でハイレベルなマッチングだと思います。みてえよぉ〜 スーパー営業マンは、いったい彼に何を売るのか。暗黒騎士は彼の営業の前にその流儀を貫けるのか。どうなる! なんか言いくるめられて買わされてほしい VS雪村桜(初号機)(投票数:4) 世知辛さにアイデンティティを脅かされながらも、独りではないからきっと大丈夫、そんな両名!このカードは展開の予想がつかないのも面白いところです。 にこにこしながら気持ちよく笑えるバトルが見たい。 騎士様はカッコイイから誰とかち合わせるか迷うが、アナスタシアちゃんと桜ちゃんの出会いに注目したい。 VS偽花火 燐花(投票数:3) ダークヴァルザードギアス様! VSチョコケロッグ太郎(投票数:3) VSモブおじさん(投票数:2) 誰かのために戦う系キャラの、好感度が高い奴VS低い奴対決です!どちらの作者さんも心情を描くのが上手いしシリアスもコミカルもいける方々なので楽しみ!! VS舞雷 不如帰(投票数:2) 注目は何と言っても、プロローグで暗黒騎士の従者となったアナスタシア(サンプル花子)。不如帰と彼女がどう絡むのか(絡まないのか)。 VS八剱聖一(投票数:2) 誰と当っても絵になるだろう、みんな大好き暗黒騎士ダークヴァルザードギアス様。ならかつて土屋一郎が憧れた世界観の精神に、最も近い所で生きているのは誰か。という点で八剱聖一くんを。暗い影を纏った身の上に、最強の魔剣を携えた最強の戦士。実在する『本物』を相手にまだノートの夢想でしかない暗黒騎士の魂は何を見るのか。聖一くんはその姿に何を見出すのか。さり気に(おそらく)同年代で、日本最強の魔人と冴えないアルバイター、鏡写しのように真逆な境遇もポイント高い。 VS佐渡ヶ谷 真望(投票数:2) アンジャッシュめいた壮大なすれ違いやってくれそう暗黒騎士は性癖をお嬢様は中二病を理解しなそう VS鉄旋の魔法少女 ノン・フィネム・プグニャ(投票数:2) (中身が)アレな暗黒騎士対(外見が)アレな魔法少女 暗黒騎士VS魔法少女。世界観の押し付け合いが見たい、という気持ちでチョイスしました。お互いにちゃんと(?)引いてくれそうなのもGOOD。 VS真野 金(投票数:2) VS澪木祭蔵(投票数:2) VS【宝物庫の守護者】張宝盒(投票数:1) 独自の世界観同士を衝突させて、その化学反応を観察してみましょう VS大隈サーバル(投票数:1) 闇の騎士、闇の虜囚 VS七月十(投票数:1) 暗黒騎士に七月の熱量をぶつけたらどうなる。どちらかが一回戦で消えるなんて私は悲しい。 VS朝顔 修羅子(投票数:1) 勝っても負けても互いに試合を糧に上へ進めそうな組み合わせ VS則本 英雄(投票数:1) 矜持とドンキーほーてなぶつかり合い VSシズマ(投票数:1) 己が見ている世界を変える男と、己を取り巻く世界を変える男。人のために戦える男と、自分のためにしか戦えない男。好対照ではないかな、と思いました。 VS獅童アキラ(投票数:1) これもなんか収まりが良い気がするんですよね… VS鴉雀 晶(投票数:1) 陽のヒーローVS陰のヒーロー、光を掴むのはどちらか VS女女女 女女(投票数:1) VS九暗影(投票数:1) VS林健四郎(投票数:1) VS元サムライのユウタ(投票数:1) VS松陰 万(投票数:1)
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240 :SARU ◆CXfJNqat7g:2012/12/08(土) 17 27 03 遠すぎた街 一九四三年六月、英独を主力とする欧州聯合軍は『人道的支援』を名目に事実上崩壊した米合衆国南部への進駐を開始した。 当初はルイジアナ洲沿岸やフロリダ洲パンハンドル部に共同の拠点群を築いた後、事前の取り決めに従いミシシッピ川を境界として 英國は左岸のミシシッピ洲からジョージア洲にかけて、枢軸諸国は右岸のルイジアナ洲とテキサス洲に展開した。 だが、かねてより周辺諸洲への影響力を高めていたテキサス洲が親枢軸国家として独立すると、独軍は予め示し合ったかの様に ミシシッピ川を遡行してアーカンソー・ミズーリ両洲の白人勢力を勢力下に納めると共に、穀倉地帯であり航空機生産の拠点・ウィチタを 抱えるカンザス州をも指呼の距離に置いていた。広大なテキサスを抱え且つ半ば水没していたニューオリンズを仏軍に投げ与えていた為、 電撃的侵攻を行おうにも補給路の設定は至難の業だと高を括っていた英政府は慌ててテネシー洲進出を決定した。 泥縄式に立案されたその作戦は洲都ナッシュヴィルとテネシー川流域に空挺降下を行い、メンフィスを起点とした地上部隊が カンバーランド川以南を制圧するという物で、急遽復帰を果たしたモントゴメリー将軍が指揮を執る事となった。テネシー洲は物流途絶や シカゴ臨時政府の崩壊等によって既に無政府状態となっており、北と東の洲境にはアメリカ風邪の脅威がひたひたと迫っていた。 『ナイツ・アンド・グレイル』と命名された作戦は七月四日未明に開始された。英本土からかき集められたなけなしの輸送機が 第四落下傘旅団と自由ポーランド独立落下傘部隊の二個大隊を乗せてフロリダ洲タラハシー近郊の特設飛行場から飛び立った。 白い落下傘がナッシュヴィル上空を覆う様子は“真夏の雪”と形容されたが、現地防疫部隊との連携や住民戦撫の為に事前に投下 された伝単(ビラ)で英軍飛来を知っていたのは助けを待つ人々だけではなかった。テネシー洲は英軍受け入れを決めた洲知事指揮下の 洲兵部隊による戒厳状態にあったが、旧聯邦軍部隊の一部が独立記念日に現れた旧宗主国の軍隊を未曾有の国難に乗じた侵略者と 見為し、国粋的傾向の高い自警団と共に抵抗活動を始めたのだ。 ナッシュヴィル近郊にはケンタッキー洲境封鎖に参加していた騎兵部隊が急行し、僅か六両ではあるがM3半装軌車両改造の M13自走対空砲で英軍機を──後には降下した英軍部隊を掃射し始めたのだ。生身の人間に連装銃架のブローニング50口径重機関銃の 火力は過剰な物であり、更に一両だけ含まれていた四連装型のT58対空自走砲が“赤い悪魔”達を瞬く間に赤い肉片へと変えて行った。 この車両は対日開戦直前に試作された物の、大西洋大津波に端を発した混乱から何両製作されて何処に配備されたかという経緯が 全く分からない代物で、情報の混乱から英軍に悲劇をもたらした。 英軍降下と同時にメンフィスからの打通を補助すべく、自由ポーランド独立落下傘部隊が大隊規模に分かれてテネシー川の橋梁確保の為に 降下した。こちらは実働戦力の大半が封鎖部隊に回っていた事もあり比較的手薄だった反面、民兵化した現地住民から予想外の抵抗を受け ──住民戦撫の観点から波軍には敵対住民の積極的排除に制限が掛けられていた──ナッシュヴィルとの連絡線を設定出来なかった。 降下部隊を支える航空支援は最初の三日間で当初の倍に膨れ上がり、その後は航空機材の消耗から激減した。 破局は加速度的に進んで行く。作戦開始十日を経ずして戦力の減少したカンバーランド防疫線から難民が浸透を始めたのだ。 英遣米軍団は此処に至り地上部隊によるテネシー洲制圧を断念し、ケンタッキー洲パチューカを含むテネシー川以西のみの分離へと 作戦目標を下方修正した。ナッシュヴィルから波軍が円陣を組んで死守する徒河点へと決死の突破を図る英軍と一部のテネシー洲軍及び 親英的住民や有色人種。“売国奴”どもを追撃すべく倉庫から引きずり出された旧式のM2A2軽戦車(双銃塔型)が惨劇を助長し、 第四落下傘旅団がテネシー川へ辿り着いた時には戦力が半減──事実上の壊滅状態となっていた。 七月三十日、日本から五大湖“滅菌”作戦の内示を受けていた英政府は遣米軍団にテネシー川及びサバンナ川の封鎖を指示し、 現地部隊を再編した防疫部隊の展開とモニター鑑の派遣を行った。波落下傘部隊は『マダム・オレアリー』(シカゴ“滅菌”作戦の秘匿名称) 後のシカゴ環流確保とイリノイ洲分断でも損害を受け、結果的に英國と袂を分かち日本が設定した民族自治区へと去っていった。 この一連の軍事行動で英第一空挺師団は著しく損耗し、その責を問われ遣米軍団司令官を解任されたモントゴメリー将軍は本国への召還 を前にこう述べたと言う。 あの街(ナッシュヴィル)は些か遠すぎたのだ、と。 終