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唐書巻四 本紀第四 則天皇后 中宗 則天順聖皇后武氏は、諱を曌といい、并州文水の人である。父の武士は、官が工部尚書・荊州都督にいたり、応国公に封ぜられた。 后は年十四のとき、太宗がその容色を聞いて、選ばれて才人となった。太宗が崩ずると、后は髪を切って比丘尼となり、感業寺に住持した。高宗が感業寺に幸すると、見てよろこび、再び召されて宮殿に入った。しばらくして昭儀となり、号を宸妃に進めた。永徽六年(655)、高宗が皇后王氏を廃すると、宸妃を立てて皇后とした。高宗は顕慶年間(656-661)以降、多く病に苦しみ、百官の奏上は、時々后に決裁させ、意にそわぬことはなかったため、国政に参与した。后はすでに寵をもっぱらにして政務をともにし、しばしば上書して天下の利害を申し、人心をおさめようと努めた。しかし高宗は年を経るにつれ病に苦しみ、后はますます用いられ、ついには抑えがきかなくなってしまった。高宗は悔んで密かに廃そうとしたが、謀は洩れて果たせなかった。上元元年(674)、高宗が天皇を号し、皇后もまた天后を号し、天下の人はこれを「二聖」といった。 弘道元年(683)十二月、高宗が崩じ、皇太子が皇帝の位につき、軍国大務不決者、天后に進止を兼取させるよう詔を遺された。甲子、皇太子が皇帝の位につき、后は尊せられて皇太后となり、臨朝称制した。大赦をおこない、九品以下の勲官に一級を賜った。庚午、韓王李元嘉が太尉となり、霍王李元軌が司徒となり、舒王李元名が司空となった。甲戌、劉仁軌が尚書左僕射となり、裴炎が中書令となり、劉斉賢が侍中となり、ともに同中書門下三品となった。戊寅、郭待挙・魏玄同・岑長倩が同中書門下三品となった。癸未、郭正一が宰相を退いた。 光宅元年(684)正月癸未、嗣聖と改元した。癸巳、左散騎常侍の韋弘敏が太府卿・同中書門下三品となった。 二月戊午、皇帝を廃して廬陵王とし、これを幽閉した。己未、豫王李旦を立てて皇帝とし、妃の劉氏を皇后とし、永平郡王李成器を立てて皇太子とした。大赦をおこない、改元して文明とした。文武の官の五品以上のものに爵一等を、九品以上のものに勲両転を賜った。老人に版して官を授け、粟帛を賜った。職官五品以上に副官一人を推挙させた。皇太后は臨朝称制した。庚申、皇太孫李重照を廃して庶人とし、庶人李賢を巴州で殺した。甲子、皇帝が群臣を率いて武成殿に尊号をたてまつった。丁卯、皇太后は皇帝に冊した。丁丑、太常卿の王徳真が侍中となり、中書侍郎の劉禕之が同中書門下三品となった。庚辰、玉清観の道士で太中大夫の王遠知に金紫光禄大夫を贈った。 三月丁亥、李上金を徙封して畢王とし、李素節を葛王とした。 四月丁巳、滕王李元嬰が薨去した。辛酉、李上金を徙封して沢王とし、李素節を許王とした。癸酉、廬陵王を房州にうつした。丁丑、また均州にうつした。 五月癸巳、大喪のため狩猟を禁じた。 閏月甲子、礼部尚書の武承嗣が太常卿・同中書門下三品となった。 七月戊午、広州の崑崙がその都督の路元叡を殺した。乙丑、突厥が朔州を寇し、左武衛大将軍の程務挺がこれを破った。辛未、彗星が西方に出現した。 八月庚寅、天皇大帝を乾陵に葬った。丙午、武承嗣が宰相を退いた。 九月甲寅、大赦をおこない、改元した。旗幟は白を尚び、内外の官服で青のものを碧にかえ、大いに官名をかえ、東都を改めて神都とした。老子の母を追尊して先天太后とした。丙辰、左威衛大将軍の程務挺が単于道安撫大使となり、突厥に備えた。己巳、武氏の五代の祖の武克己を追尊して魯国公とし、妣の裴氏を魯国夫人とした。高祖父の武居常を太尉・北平郡王とし、妣の劉氏を王妃とした。曾祖父の武倹を太尉・金城郡王とし、妣の宋氏を王妃とした。祖の武華を太尉・太原郡王とし、妣の趙氏を王妃とした。父の武士彠を太師・魏王とし、妣の楊氏を王妃とした。丁丑、柳州司馬の李敬業が揚州で挙兵して乱を起こした。韋弘敏を左遷して汾州刺史とした。 十月癸未、楚州司馬の李崇福が山陽・安宜・塩城の三県をもって李敬業に帰順した。甲申、左玉鈐衛大将軍の梁郡公李孝逸が揚州道行軍大総管となり、左金吾衛大将軍の李知十が副総管となり、兵三十万を率いて李敬業をはばんだ。丁亥、左肅政台御史大夫の騫味道が内史を検校し、同鳳閣鸞台三品となり、鳳閣舎人の李景諶が同鳳閣鸞台平章事となった。壬辰、李敬業が潤州を落とした。丙申、裴炎を殺した。五代の祖の魯国公を追謚して靖といい、高祖父の北平郡王を恭粛といい、曾祖父の金城郡王を義康といい、祖父の太原郡王を安成といい、父の魏王を忠孝といった。丁酉、揚・楚の二州に曲赦を行った。李敬業の姓を徐氏に復した。劉斉賢を左遷して辰州刺史とした。李景諶が宰相を退いた。右史沈君諒・著作郎崔詧が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。 十一月辛亥、左鷹揚衛大将軍の黒歯常之が江南道行軍大総管となった。庚申、右監門衛将軍の蘇孝祥が徐敬業と阿谿で戦い、ここに死んだ。乙丑、徐敬業の将の王那相が徐敬業を殺して降った。丁卯、郭待挙が宰相を退いた。鸞台侍郎の韋方質が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。 十二月戊子、御史を遣わして風俗を監察させた。癸卯、程務挺を殺した。 垂拱元年(685)正月丁未、大赦をおこない、改元した。庚戌、騫味道が内史を代行した。戊辰、劉仁軌が薨去した。 二月乙巳、春官尚書の武承嗣・秋官尚書の裴居道・右肅政台御史大夫の韋思謙が、ともに同鳳閣鸞台三品となった。突厥が辺境を寇し、左玉鈐衛中郎将の淳于処平が陽曲道行軍総管となってこれを攻撃した。沈君諒が宰相を退いた。 三月、崔詧が宰相を退いた。丙辰、廬陵王が房州にうつされた。辛酉、武承嗣が宰相を退いた。辛未、頒垂拱格。 四月丙子、騫味道を左遷して青州刺史とした。癸未、淳于処平が突厥と忻州で戦い、敗れた。 五月丙午、裴居道が納言となった。丁未、王徳真が象州に流された。己酉、冬官尚書の蘇良嗣が納言を代行した。皇帝の子の李成義を封じて恒王とした。壬戌、旱魃のため囚人の再審を行った。壬申、韋方質が同鳳閣鸞台三品となった。 六月、天官尚書の韋待價が同鳳閣鸞台三品となった。 九月丁卯、揚州で地から毛が生えた。 十一月癸卯、韋待価が燕然道行軍大総管となり、突厥を攻撃した。 二年(686)正月辛酉、大赦をおこない、宴を賜うこと三日、内外官に勲一階をあげた。 二月辛未朔、日食があった。 三月戊申、銅を鋳造して匭(祭器)を造らせた。 四月庚辰、岑長倩が内史となった。 五月丙午、裴居道が内史となった。 六月辛未、蘇良嗣が同鳳閣鸞台三品となった。己卯、韋思謙が納言を代行した。 十月己巳、新豊県で山が突然盛り上がって出現し、新豊県を改め慶山とし、囚を赦して、一年税の減免を行い、民間に三日の宴会を賜った。 十二月、并州の百姓の庸・調を免除し、その終身におよんだ。 この冬、雪がなかった。 三年(687)閏正月丁卯、皇帝の子の李隆基を封じて楚王とし、李隆範を衛王とし、李隆業を趙王とした。 二月己亥、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。丙辰、突厥が昌平を寇し、黒歯常之がこれを攻撃した。 三月乙丑、韋思謙が宰相を退いた。 四月辛丑、孝敬皇帝の妃の裴氏を追号して哀皇后といい、恭陵に葬った。癸丑、旱魃のため囚人の再審を行い、京官の九品以上に命じて言事させた。壬戌、裴居道が納言となった。 五月丙寅、夏官侍郎の張光輔が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。庚午、劉禕之を殺した。 七月丁卯、冀州の雌の鶏が雄と化した。乙亥、京師で地震があり、広州で金の雨が降った。 八月壬子、魏玄同が検校納言を兼ねた。交趾の人の李嗣仙が安南都護の劉延祐を殺し、交州に拠ったので、桂州司馬の曹玄静がこれを破った。この月、突厥が朔州を寇し、燕然道行軍大総管の黒歯常之がこれを破った。 九月己卯、虢州の人の楊初成が郎将を自称し、州人を募って廬陵王を房州で迎えようとしたが、果たせず、殺された。 十月庚子、右監門衛中郎将の爨宝璧が突厥と戦い、敗れた。 十二月壬辰、韋待価が安息道行軍大総管となり、安西大都護の閻温古が副総管となって、吐蕃を攻撃した。 この年、大飢饉があった。 四年(688)正月甲子、七廟を増やし、高祖・太宗・高宗の廟を神都に立てた。庚午、乾元殿を壊し、明堂を作った。 三月壬戌、麟台少監の周思茂を殺した。 四月戊戌、太子通事舎人の郝象賢を殺した。 五月庚申、「宝図」を洛水で得た。乙亥、尊号を加えて聖母神皇とした。 六月丁亥朔、日食があった。汜水で瑞石を得た。 七月丁巳、大赦をおこない、「宝図」を改めて「天授聖図」とし、洛水を永昌洛水とし、その神を封じて顕聖侯とし、特進を加え、漁や釣りを禁じた。嵩山を改めて神岳とし、その神を封じて天中王・太師・使持節・大都督とした。賜酺五日。戊午、京師で地震があった。 八月戊戌、神都で地震があった。丙午、博州刺史の琅邪郡王李沖が乱を討つ名目で挙兵したので、左金吾衛大将軍の丘神勣を派遣してこれをはばませた。戊申、李沖がここに死んだ。庚戌、越王李貞が乱を討つ名目で豫州で挙兵した。辛亥、曲赦博州。 九月丙辰、左豹韜衛大将軍の麴崇裕が中軍大総管となり、岑長倩が後軍大総管となり、越王李貞をはばんだ。張光輔が諸軍節度となった。越王李貞および琅邪郡王李沖の属籍を削って、その姓を改めて虺氏とした。李貞はここに死んだ。丙寅、豫州で赦した。韓王李元嘉・魯王李霊夔・范陽郡王李靄・黄国公李譔・東莞郡公李融および常楽公主を殺し、みなその姓を改めて虺氏とした。丁卯、左肅政台御史大夫の騫味道と夏官侍郎の王本立が同鳳閣鸞台平章事となった。 十月辛亥、大風で木が抜けた。 十一月辛酉、済州刺史の薛顗およびその弟の駙馬都尉の薛紹を殺した。 十二月乙酉、霍王李元軌・江都郡王李緒および殿中監の裴承光を殺した。唐の宗室を大いに殺し、その幼い者を嶺南に流した。己亥、騫味道を殺した。己酉、洛受図を拝した。辛亥、明堂を改めて万象神宮とし、大赦をおこなった。 永昌元年(689)正月乙卯、万象神宮で享し、大赦をおこない、改元し、賜酺七日。丁巳、舒王李元名を司徒とした。戊午、万象神宮で政務を行い、九条にわかって百官に読み上げた。己未、朗州の雌の鶏が雄と化した。 二月丁酉、父の太師魏忠孝王を尊んで周忠孝太皇といった。崇先府官を置いた。戊戌、妣の楊氏を追謚して周忠孝太后といった。太原郡王を周安成王といい、妃の趙氏を王妃とした。金城郡王を魏義康王といい、妃の宋氏を王妃とした。北平郡王を趙粛恭王といい、妃の劉氏を王妃とした。五代の祖の魯国公(武克己)を太原靖王といい、夫人の裴氏を王妃とした。 三月甲子、張光輔が納言を代行した。癸酉、天官尚書の武承嗣が納言となり、張光輔が内史を代行した。 四月甲辰、汝南郡王李瑋・鄱陽郡公李諲・広漢郡公李謐・汶山郡公李蓁・零陵郡王李俊・広都郡公李璹を殺し、その家を巂州にうつした。己酉、天官侍郎の鄧玄挺を殺した。 五月丙辰、韋待価が吐蕃と寅識迦河で戦い、敗れた。己巳、白馬寺の僧の薛懐義が新平道行軍大総管となり、突厥を攻撃した。 七月丁巳、紀王李慎を巴州に流し、その姓を虺氏に改めた。丙子、韋待価を繡州に流し、閻温古を殺した。戊寅、王本立が同鳳閣鸞台三品となった。 八月癸未、薛懐義が新平道中軍大総管となり、突厥を攻撃した。甲申、張光輔・洛州司馬の弓嗣業・洛陽令の弓嗣明・陜州参軍の弓嗣古・流人の徐敬真を殺した。乙未、松州の雌の鶏が雄と化した。辛丑、陜州刺史の郭正一を殺した。丁未、相州刺史の弓志元・蒲州刺史の弓彭祖・尚方監の王令基を殺した。 九月庚戌、恒山郡王李承乾の子の李厥を殺した。 閏月甲午、魏玄同と夏官侍郎崔詧を殺した。戊申、彭州長史の劉易従を殺した。 十月癸丑、涼州都督の李光誼を殺した。丁巳、陜州刺史の劉延景を殺した。戊午、右武威衛大将軍黒歯常之と右鷹揚衛将軍趙懐節を殺した。己未、嗣鄭王李璥を殺した。丁卯、春官尚書の范履冰と鳳閣侍郎の邢文偉が同鳳閣鸞台平章事となった。 天授元年(690)正月庚辰、大赦をおこない、改元して載初といい、十一月を正月とし、十二月を臘月とし、来る年の正月を一月とした。周・漢の後裔を二王後とし、舜・禹・湯の後裔を封じて三恪とし、周・隋の後裔を同列国とし、その嗣を封じた。乙未、唐の宗室の属籍を除いた。 臘月丙寅、劉斉賢を殺した。 一月戊子、王本立が宰相を退いた。邢文偉が内史となり、岑長倩・武承嗣が同鳳閣鸞台三品となり、鳳閣侍郎武攸寧が納言となった。甲午、韋方質を儋州に流した。 二月丁卯、地官尚書の王本立を殺した。 三月乙酉、旱害のため膳を減らした。丁亥、蘇良嗣が薨去した。 五月戊子、范履冰を殺した。己亥、梁郡公李孝逸を殺した。 六月戊申、汴州刺史の柳明肅を殺した。 七月辛巳、舒王李元名を和州に流した。大雲経を天下に頒布した。壬午、豫章郡王李亶を殺した。丁亥、沢王李上金・許王李素節を殺した。甲午、永昌県で赦した。癸卯、太常丞の蘇踐言を殺した。 八月辛亥、許王李素節の子の李璟と曾江県令の白令言を殺した。甲寅、裴居道を殺した。壬戌、将軍の阿史那恵と右司郎中の喬知之を殺した。癸亥、尚書右丞の張行廉と太州刺史の杜儒童を殺した。甲子、流人の張楚金を殺した。戊辰、流人の元万頃と苗神客を殺した。辛未、南安郡王李潁・鄅国公李昭および諸宗室の李直・李敞・李然・李勲・李策・李越・李黯・李玄・李英・李志業・李知言・李玄貞を殺した。 九月乙亥、鉅鹿郡公李晃と麟台郎の裴望およびその弟の司膳丞の裴璉を殺した。壬午、国号を周と改めた。大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。乙酉、尊号を加えて聖神皇帝といい、皇帝を降格して皇嗣とし、武氏の姓を賜り、皇太子を皇孫とした。丙戌、武氏の七廟を神都に立てた。周の文王を追尊して始祖文皇帝といい、妣の姒氏を文定皇后といった。四十代の祖にあたる平王の少子の武を睿祖康皇帝といい、妣の姜氏を康恵皇后といった。太原靖王(武克己)を厳祖成皇帝といい、妣を成荘皇后といった。趙粛恭王(武居常)を粛祖章敬皇帝といい、妣を章敬皇后といった。魏義康王を烈祖昭安皇帝といい、妣を昭安皇后といった。周安成王を顕祖文穆皇帝といい、妣を文穆皇后といった。忠孝太皇を太祖孝明高皇帝といい、妣を孝明高皇后といった。伯父および兄弟の子を追封して王とし、堂兄を郡王とし、諸姑姉を長公主とし、堂姉妹を郡主とした。司賓卿の史務滋が納言を代行し、鳳閣侍郎の宗秦客が内史を検校し、給事中の傅游芸が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。 十月丁巳、并州武興県の百姓に税の減免を行い、子孫が相承すること漢の高祖が豊・沛で行ったようにさせた。甲子、宗秦客を左遷して遵化尉とした。丁卯、流人の韋方質を殺した。己巳、許王李素節の子の李瑛・李琪・李琬・李瓚・李瑒・李瑗・李琛・李唐臣を殺した。辛未、邢文偉を左遷して珍州刺史とした。大雲寺を置いた。周公を封じて褒徳王とし、孔子を隆道公とした。唐の太廟を改めて享徳廟とし、武氏の七廟を太廟とした。 二年(691)正月甲戌、改めて社稷を置き、旗幟は赤を尚んだ。戊寅、雅州刺史の劉行実とその弟の渠州刺史の劉行瑜・尚衣奉御の劉行感・兄の子の左鷹揚衛将軍の劉虔通を殺した。戊子、武承嗣が文昌左相となった。庚寅、宴を賜った。乙未、丘神勣・左豹韜衛将軍の衛蒲山を殺した。庚子、史務滋を殺した。 臘月己未、始めて周臘を用いた。 四月壬寅朔、日食があった。丙午、大赦をおこなった。 五月丁亥、大風で木が折れた。岑長倩が武威道行軍大総管となり、吐蕃を攻撃した。 六月庚戌、左肅政台御史大夫の格輔元が地官尚書となり、鸞台侍郎の楽思晦、鳳閣侍郎の任知古、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。 七月庚午、徙関内七州戸以實神都。 八月戊申、武攸寧が宰相を退いた。夏官尚書の欧陽通が司礼卿となり判納言事を兼ねた。庚申、右玉鈐衛大将軍の張虔勗を殺した。 九月乙亥、岐州刺史の雲弘嗣を殺した。壬辰、傅游芸を殺した。癸巳、左羽林衛大将軍の武攸寧が納言を代行し、冬官侍郎の裴行本、洛州司馬の狄仁傑が地官侍郎となり、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。 十月己酉、岑長倩・欧陽通・格輔元を殺した。壬戌、楽思晦・左衛将軍の李安静を殺した。 長寿元年(692)一月戊辰、夏官尚書の楊執柔が同鳳閣鸞台平章事となった。庚午、任知古を左遷して江夏令とし、狄仁傑を彭沢令とした。裴行本を嶺南に左遷した。乙亥、右衛大将軍泉献誠を殺した。庚辰、司刑卿の李遊道が冬官尚書・同鳳閣鸞台平章事となった。 二月戊午、秋官尚書の袁智弘が同鳳閣鸞台平章事となった。 四月丙申朔、日食があった。大赦をおこない、如意と改元した。 五月、洛水が氾濫した。七月、また氾濫した。 八月甲戌、黄河が氾濫し、河陽県を破壊した。戊寅、武承嗣・武攸寧・楊執柔が宰相を退いた。秋官侍郎の崔元綜が鸞台侍郎となり、夏官侍郎の李昭徳が鳳閣侍郎となり、権検校天官侍郎の姚璹が文昌左丞となり、検校地官侍郎の李元素が文昌右丞となり、営繕大匠の王璿が夏官尚書となり、そして司賓卿の崔神基、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。 九月戊戌、大霧。庚子、大赦をおこない、改元した。改用九月社、七日間の宴会を賜った。癸卯、并州を北都とした。癸丑、李遊道・袁智弘・王璿・崔神基・李元素を嶺南に流した。 十月丙戌、武威道行軍総管の王孝傑が吐蕃を破り、四鎮に勝利した。 二年(693)臘月癸亥、皇嗣の妃の劉氏と徳妃竇氏を殺した。丁卯、皇孫李成器を降封して寿春郡王とし、恒王李成義を衡陽郡王とし、楚王李隆基を臨淄郡王とし、衛王李隆範を巴陵郡王とし、趙王李隆業を彭城郡王とした。 一月庚子、夏官侍郎の婁師徳が同鳳閣鸞台平章事となった。甲寅、尚方監の裴匪躬と内常侍の范雲仙を殺した。 三月己卯、左衛員外大将軍の阿史那元慶と白潤府果毅の薛大信を殺した。 五月乙未、冬官尚書の蘇幹と相州刺史の来同敏を殺した。癸丑、黄河が棣州で氾濫した。 九月丁亥朔、日食があった。乙未、金輪聖神皇帝の号を加え、大赦をおこない、賜酺七日、七宝を作った。庚子、烈祖昭安皇帝を追尊して渾元昭安皇帝といい、顕祖文穆皇帝を立極文穆皇帝といい、太祖孝明高皇帝を無上孝明高皇帝といった。辛丑、姚璹が宰相を退いた。文昌右丞の韋巨源が同鳳閣鸞台平章事となり、秋官侍郎の陸元方が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、司賓卿の豆盧欽望が内史を代行した。 延載元年(694)臘月甲戌、突厥の默啜が霊州を寇した。右鷹揚衛大将軍の李多祚がこれを破った。 一月甲午、婁師徳が河源・積石・懐遠等軍営田大使となった。 二月庚午、薛懐義が伐逆道行軍大総管となり、十八将軍を領して默啜を攻撃した。乙亥、旱魃のため囚人の再審を行った。己卯、武威道大総管の王孝傑が吐蕃と冷泉で戦い、これを破った。 三月甲申、鳳閣舎人の蘇味道が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、李昭徳が内史を検校した。薛懐義が朔方道行軍大総管となり、默啜を攻撃した。李昭徳]]が朔方道行軍長史となり、蘇味道が司馬となった。 四月壬戌、常州で地震があった。 五月甲午、越古金輪聖神皇帝の号を加え、大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。 七月癸未、嵩嶽山の人の武什方が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。 八月、武什方が宰相を退いた。戊辰、王孝傑が瀚海道行軍総管となった。己巳、司賓少卿の姚璹が納言を代行した。左肅政台御史大夫の楊再思が鸞台侍郎となり、洛州司馬の杜景佺が鳳閣侍郎を検校し、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。戊寅、崔元綜を振州に流した。 九月壬午朔、日食があった。壬寅、李昭徳を左遷して南賓尉とした。 十月壬申、文昌右丞の李元素が鳳閣侍郎となり、右肅政台御史中丞の周允元が鳳閣侍郎を検校し、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。嶺南の獠が辺境を寇し、容州都督の張玄遇が桂・永等州経略大使となった。癸酉、雨で木が凍った。 天冊万歳元年(695)正月辛巳、慈氏越古金輪聖神皇帝の号を加え、証聖と改元した。大赦をおこない、民間に三日の宴会を賜った。戊子、豆盧欽望を左遷して趙州刺史とし、韋巨源を鄜州刺史とし、杜景佺を溱州刺史とし、蘇味道を集州刺史とし、陸元方を綏州刺史とした。丙申、万象神宮で火事があった。丙午、王孝傑が朔方行軍総管となり、突厥を攻撃した。 二月己酉朔、日食があった。壬子、薛懐義を殺した。甲子、「慈氏越古」の号をやめた。 三月丙辰、周允元が薨去した。 四月戊寅、大周万国頌徳天枢の碑柱を建てた。 七月辛酉、吐蕃が臨洮を寇し、王孝傑が肅辺道行軍大総管となってこれを攻撃した。 九月甲寅、南郊を祀った。天冊金輪大聖皇帝の号を加えた。大赦をおこない、改元し、九日間の宴会を賜った。先廟を崇んで崇尊廟とした。 →巻四 本紀第四つづき
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原文 Plus ne sera1 le grand en faulx2 sommeil3, L inquietude4 viendra prendre repoz Dresser phalange5 d or6, azur7, vermeil, Subiuguer8 Affrique la9 ronger iusques aux oz11. 異文 (1) ne sera sera 1772Ri (2) faulx feux 1597 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1716, feu 1653 1665 (3) sommeil semmeil 1653 (4) L inquietude L inquiétude 1649Ca, L Inquietude 1672 (5) phalange Phalange 1644 1650Ri 1653 1672 (6) d or d Or 1672 (7) azur azuré 1588-89, Azur 1672, d azur 1716 (8) Subiuguer Subiuger 1589PV 1649Ca 1650Le 1668A (9) la 1672 (10) iusques aux oz iusques oz 1568B 1568C 1568I 1772Ri, iusques os 1597 1605 1610 1611 1628 1649Xa 1650Ri 1660, iusqu aux os 1600 1672, iusque aux os 1627 1649Ca 校訂 4行目冒頭について、ピエール・ブランダムールは韻律の都合上 Juguer Affrique... となるべきとした(*1)。 日本語訳 偉人はもはや偽りの眠りに陥らないだろう。 憂慮が休息することになるだろう、 黄金、瑠璃、紅玉の杖を仕上げて、 アフリカを征服し、骨まで齧ることで。 訳について 山根訳2行目「不安が休息を追い出すだろう」(*2)は、エリカ・チータムの英訳を忠実に転訳したものだが、原文からすると意味が逆になっている。 同3行目「金色 青 朱の密集集団がたつ」は「密集集団」が不自然なようだが、phalangeをどう訳すかという訳し方の揺れの範囲内である。 大乗訳1行目「人はいつわりの眠りの中にもはやなく」(*3)は、grand を単なる「人」と訳すのが不適切。 同2行目「休みのない人が休み」は、inquietude (憂慮、心配事)を「休みのない人」とするのは意訳にしても強引に思える。 同3行目「彼は金と空色の軍を起こし」は、vermeil (朱色、紅玉)が訳に反映されていない。もっとも、この点はテオフィル・ド・ガランシエール以来の誤訳が引き継がれた結果でもある。 信奉者側の見解 テオフィル・ド・ガランシエールは、アフリカを征服する強力な軍隊を確立する偉大な君主の予言と解釈していた(*4)。 その後、解釈は途絶えるが、アナトール・ル・ペルチエが七月王政当初のルイ=フィリップの予言と解釈すると、それに追随する者が多くなった。 ル・ペルチエは前半を王座について安泰となったルイ=フィリップのこととした。3行目の色はフランスの三色旗のことで(彼はphalangeを「旗」と訳した)、4行目はアフリカ征服(フランスは七月王政成立直前にアルジェリアに侵攻し、アルジェを占拠していた)を指すという(*5)。 チャールズ・ウォード、アンドレ・ラモン、ジェイムズ・レイヴァーもほぼそのまま踏襲したが、三色旗は赤、白、青であって赤、金、青ではない。レイヴァーのみこの点に触れ、ノストラダムスが老眼のせいで見通し損ねたと推測した(*6)。エリカ・チータムはそのコメントを引き合いに出しつつ、紋章学では王権は黄金で表すことから理解可能だとした(*7)。三色旗は自由、平等、友愛だといわれるが、白はブルボン王家をあらわす色でもあった。 同時代的な視点 ピーター・ラメジャラーは、1532年にカール5世がチュニスでバルバロス・ハイレッティンの軍勢に勝利したことと、『ミラビリス・リベル』に描かれた未来の予言とが重ねあわされているとした(*8)。 ジャン=ポール・クレベールは、シャルルマーニュ伝説と関連付けた。シャルルマーニュ伝説では、彼は死んだのではなく眠りについただけで、いずれ眠りから覚めて異教徒達を駆逐すると信じられていた。 この詩はシャルルマーニュが「偽りの眠り」から醒め、人々の心配を打ち払い、色とりどりの貴石を散りばめた王杖を揮い、アフリカの不信心者たちを征服することを描いているという。 同時に、似たような伝説はフリードリヒ2世についても伝えられていることを指摘した(*9)。 中世の大君主に関する予言はシャルルマーニュやフリードリヒの伝説から派生しているので、ある意味ではラメジャラーとクレベールの解釈は同一線上にあるといえるかもしれない。 コメントらん 以下のコメント欄はコメントの著作権および削除基準を了解の上でご使用ください。 欧州人で初めてアフリカを横断した探検家リヴィングストンとボーア戦争(南アフリカ戦争)を予言。 -- とある信奉者 (2010-11-20 10 48 27) 名前 コメント
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ポニーテール 七月を迎えようとしていた学園都市。上条当麻と御坂美琴にとって、交際半年を迎える時期でもあった。だが、自室で扇風機の風を浴びながら涼む上条の顔はあまり浮かない。暑さのせいもあるのだろうが、浮かない顔をしている理由は他にある。――美琴はどうして、あんなことをしているんだろうな?あんなこと――第三者の目から見れば、それは大したことではない。実際、彼女と親しき人々にとっても、そのことを彼の様に疑問で気に止めている人物は少数だ。そんな時、部屋の呼び鈴が鳴る。ふう、と息を吐きつつ立ち上がり、自室の扉を開けた。「当麻、お邪魔するわよ」そこにいたのは、向日葵のような満面の笑顔を浮かべている、恋人の御坂美琴――なのだが。「……なぁ、そろそろいいだろ? 教えてくれよ」「? 何を?」「何って……その、髪を伸ばしている理由だよ」彼女の代名詞と言って過言ではなかったショートヘアーの髪型は、肩のやや下まで伸びたロングヘアーに今では変わっている。その髪型は以前の活発な印象よりも、女性らしい淑やかさの印象を周りに与えているようだ。「当麻はこういうの、嫌い?」少し涙ぐんだ目で上目遣いをする美琴。そんな仕草に当麻のハートがブレイクするのは必然なわけで。「嫌いなわけないだろ」左手で身体を抱き寄せ、右手で優しく、彼女の髪を撫でる。その手触りは最高級の絹を思わせ、撫でる度にバニラエッセンスのような香りが当麻の鼻を擽る。――だけど、気にはなるんだよな。いつも、のらりくらりと躱されてばかりだし。そんな彼の心の声が美琴へ届いたのか。「あと少しだけ、待っててね。教えてあげるから」当麻の耳元で甘い囁きが聞こえた。その真意を聞き返そうとした当麻だったが、美琴は彼の腕からするりと抜け出して、台所へと向かっている。やれやれ、と肩をすくめて彼女の後を歩く。美琴と過ごすこれからの一時を楽しみにしながら――。数日後、七月七日。世間一般では七夕の日として世間に知れ渡っている。この日、学園都市の各地で七夕関連のイベントが行われることになっていた。勿論、当麻と美琴も二人で参加しようと決めていた。涼を得る為に購入した、紺色の甚平服を着用しながら当麻は、自分の織姫――美琴の到着を自室で心待ちにしていた。――彦星と織姫が会えるのは年に一回か。……耐えられないな。七夕の二人に、自分と美琴の姿を重ね合わせて苦笑する。今の環境が、七夕のように一年に一回のみとなってしまえば、発狂してもおかしくないのではないか、と当麻は思う。そんな折に耳へ届く呼び鈴の音に心踊らされ、扉を開けた。「こ、こんばんは」緊張した声と同時に、愛しい織姫が姿を現す。可愛らしい花柄をあしらった浴衣を纏い、かすかに頬を赤らめている。それよりも驚いたのは、彼女の髪型だ。「……ポニー、テール?」昨日までのロングヘアーを肩より高い位置で結い、快活さと可愛らしさを兼ねている髪型。知り合いの聖人のそれよりは短いものの、今までの美琴にない雰囲気を、当麻は感じ取っていた。「へ、変じゃないかな?」「変じゃないけど……急にどうしたんだ?」「きょ、今日はポニーテールの日なんでしょ?」「へ?」「織姫がこの髪型だったみたいだから、そういう日らしいんだけれど……。似合わない、かな?」彼女は先ほどよりも顔を赤くして、もじもじと手を合わせている。自分の髪をこの日の為に伸ばし続け、手入れをしてきた。その目的は、自分の愛する人に喜んでもらいたいという献身。心遣いがどうしようもなく、いじらしくて、愛しくて。「美琴。ありがとうな」当麻は感謝の言葉を口にしながら、右手で彼女の頭を撫でる。「だけど、無理をして自分の趣味じゃないような髪にしなくていいんだ。……ありのままの美琴が、俺は好きだから」彼自身も恥ずかしいのか、最後の方になると声が消え入りそうに小さくなっていた。「嬉しい……」美琴はそう言うと、当麻の胸へ顔を埋める。彼女の表情を見ることは出来ないが、ふにゃ~という声を漏らしていることから、漏電寸前まで緩んでいることは明白だ。当麻はこの状況を、身動きが取れないという不幸なのか、恋人との濃密な時間という幸福なのかという判断に困り果てた。それでも、一つだけはっきりしている思いはある。――俺にとっての織姫は、美琴だけだよ。心の中で、そう呟いた。ちなみに、当麻が髪型に拘りがないことを知った美琴は、数日後に髪をショートヘアーに戻した。そのことが原因で、美琴をフッたと勘違いした多数の人間から当麻は追いかけ回されることになる。結末がどうなったかは、ここに記すまでもない。
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シェリル・コレット(宇宙暦774年 - )は自由惑星同盟の軍人。オリジナルキャラクターである。女性。 1外見 2 略歴 3 能力 4 性格 5座乗艦 1外見 初登場時は高身長かつ肥満体、エリヤの副官になった際はそこそこ太めで髪の色はきれいなアッシュブロンド。肌は普通の白い肌。クーデター時はアッシュブロンドの髪とぽってりした唇を持つ美人、色気のある美貌、大きな胸と尻、すっきりしたウェストの持ち主と形容されている。 2 略歴 宇宙歴788年に民間人を見捨てエル・ファシル星系から逃亡したアーサー・リンチ宇宙軍少将の娘。 宇宙歴796年、第八一一独立任務戦隊司令エリヤ・フィリップス代将より戦隊司令部付士官に起用される。階級は宇宙軍中尉。(39話)同年7月ケベル=バルカルの戦いでエル・ファシル方面軍が大打撃を被ったのち、エル・ファシル防衛部隊司令に就任したエリヤが手元に残した(43話)同月エル・ファシル七月危機ではエル・ファシル革命政府のテロリスト、ルチエ・ハッセルからエリヤを庇って銃撃を受けた。(44話)混乱終結後、宇宙軍大尉に昇進。(47話)エリヤが第三六機動部隊司令官になると忠誠心を期待され、副官に起用された。(50話) 宇宙歴798年の「神々の黄昏(ラグナロック)」作戦中に宇宙軍少佐に昇進し、副官として献身的にエリヤ・フィリップス提督を支えた。(60話)ラグナロック戦役後、宇宙母艦艦長となり、エリヤの助言に従い結果を出し、最終的に母艦群司令代理に昇格した。 宇宙歴801年にエリヤが首都防衛軍司令官に就任する際、エリヤは彼女が自分を盲目的に信じすぎる事を憂慮し、あえて副官から外した。(75話)同年に民主政治再建会議がクーデターを起こすと、エリオット・カプラン少佐、ファジル・キサ中佐と共にエリヤ・フィリップス戦隊を組織し、副司令に就任。市民軍に加わり、司令部幕僚となった。(84話) クーデター鎮圧後、宇宙軍准将へと二階級昇進した。(86話) 宇宙歴802年に第一辺境総軍が新設されると、第二艦隊司令官直轄部隊所属、第三六機動部隊司令官となる。この時には既に宇宙軍少将に昇進している。「フィリップスの一番弟子」と呼ばれている。(98話)後任の副官であるユリエ・ハラボフ大佐とは友人。またエドモンド・メッサースミス准将とはチーム・フィリップス発足当初からの友人。同年の第九次イゼルローン要塞攻防戦では卓越した手腕を見せた。前任者とは違い、高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処することが出来る。(112話)同攻防戦の後、宇宙軍殊勲星章を授与された。(113話) 宇宙歴803年頃には暇があればメディアやネットを検索し、エリヤ・フィリップス上級大将を褒める記事を見つけては勝手に送っていた。(114話) 宇宙歴804年7月、同盟軍広報誌『ガーディアン』八月号の表紙を飾った。(122話) 同年10月、麾下の第三六機動部隊を率いて、総軍旗艦ゲティスバーグのハイネセン行きを警護した。(123話) 3 能力 初登場時は真面目だが自主性に欠ける人物という評価。エリヤと出会ってから体を鍛え直し、エリヤの言動一つ一つを記録して自分に役立てようとするようになった。成長を続け、「神々の黄昏(ラグナロック)」作戦後には士官学校優等卒業者に匹敵する能力を持った士官となった。 4 性格 初登場時は卑怯者の娘としてバッシングを受けたからか、陰気な性格。エリヤと出会ってから明るく素直な性格へと変わっていった。一方でエリヤの事を盲目的に信じるようになった。仮にエリヤが服を脱いで裸になれと言ったら即座に従うらしい。ただし、第三六機動部隊に丁度エリヤに対する彼女と同じように、コレットに対して盲目的な忠誠心を示す部下がいることで悩んでおり、エリヤが絡まなければ常識的な判断を行えるようだ。 エリヤが絡まなければ、とても常識的な好人物。誰に対してもにこやかに接する。他人の長所を大切にし、他人の短所を忘れ、優れた人を尊敬し、無能な人を見捨てない。誰よりもよく働く。一兵卒の食事にも気を使い、自ら厨房に入ってゴミ箱をチェックする。ベテランも若手も同性も異性も彼女を慕った。 5座乗艦 第八一一独立任務戦隊旗艦「グランド・カナル」(中尉:第八一一独立任務戦隊司令部付士官として乗艦) エル・ファシル七月危機(第39話 - 42話) 第三六機動部隊旗艦「アシャンティ」(大尉:第三六機動部隊司令部副官として乗艦) 帝国領侵攻作戦「神々の黄昏(ラグナロック)作戦」(第56話 - 64話) フラインスハイム星域軍前方展開部隊旗艦「ヴァイマール」(少佐:フラインスハイム星域軍前方展開部隊司令部付・副官事務取扱として乗艦) 帝国領撤退戦 - 第二次ヴァルハラ会戦(第64話 - 69話) 第三六機動部隊旗艦「アシャンティ」(少将:第三六機動部隊司令官として乗艦) 第九次イゼルローン要塞攻防戦(第111話 - )
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(期間の計算)実意商 第三条 この法律又はこの法律又はこの法律に基く命令の規定による期間の計算は、次の規定による。 一 期間の初日は、算入しない。ただし、その期間が午前零時から始まるときは、その限りではない。 二 期間を定めるのに月又は年をもつてしたときは、暦に従う。月又は年の始から期間を起算しないときは、その期間は、最後の月又は年においてその起算日に相当する日に応当する日の前日に満了する。ただし、最後の月に応当する日がないときは、その月の末日に満了する。 2 特許出願、請求その他特許に関する手続(以下単に「手続」という。)についての期間の末日が行政機関の休日に関する法律(昭和六十三年法律第九十一号)第一条[行政機関の休日]第一項各号に掲げる日に当たるときは、その日の翌日をもつてその期間の末日とする。(改正、昭四八法律一〇、昭六三法律九一) 旧法との関連 一三条 趣旨 本条は、この法律又はこの法律に基づく法定機関又は指定期間の計算について定めたものである。本条の規定がない場合は、一般法としての民法第一編第六章の規定(期間)が適用されるわけであるが、本条は民法一三七条にいうところの「特別の定めがある場合」として設けられている場合、特許法における期間の計算については民法の規定は適用されない。本条のうち第一項は民法の規定とほとんど違っておらず、ただ時又は週をもって期間を定めた場合についての規定の有無が違う(特許法においては期間を定めるのに時又は週をもってすることがないということに基づいて規定しなかった)。二項については、民法とはかなり相違している。まず民法の規定による場合は期間の満了は手続をすべき期間についてのみならず、権利の存続期間等についても休日の翌日ということになるが、本条二項の規定による場合は、手続についての期間のみが休日の翌日に満了することとされており、したがって、特許権の存続期間等については、たとえその末日が休日であってもその日に満了する。また、民法の規定においては休日であっても取引をなす慣習がある場合はその日に満了することとしているが、本条二項は休日を特定し、その休日に該当すれば取引をなす慣習の有無とは関係なく、その休日の翌日に満了するものとしている。なお、期間の末日が日曜日でその翌日が休日の場合はさらにその休日の翌日をもって期間の末日とすることはいうまでもない。 字句の解釈 1 <応当する日>たとえば、四月一八日から三月という場合には起算日が四月一九日であれば(初日を算出しない場合)七月一九日が最後の月に応当する日である。 2 <行政機関の休日に関する法律第一項各号に掲げる日>行政機関の休日であり、行政機関の執務を原則として行わない日として規定された日である。 (1)土曜日及び日曜日 行政機関の休日に関する法律が施行され、行政機関において土曜閉庁方式が導入され、昭和六四年一月から毎月第二及び第四土曜日が閉庁されたことに伴い、特許庁においても従来の閉庁日に加え、毎月第二及び第四土曜日にも窓口で事務を行わないことになったため、該当日を休日として扱うことにした。 さらに、同法の一部改正する法律(平成四年法律第二八号)の施行に伴い、平成四年五月からすべての土曜日が閉庁日とされたことにより、特許庁においてもすべての土曜日は窓口で事務を行わないこととなったため、該当日を休日として扱うこととした。 (2)国民の祝日に関する法律(昭和二三年法律第一七八号)に規定する休日 国民の祝日に関する法律第三条にいう休日であり、国民の祝日(国民の祝日が日曜日にあたるときはその翌日)並びにその前日及び翌日が国民の祝日である日である。国民の祝日は同法第二条にいうものであり、元日(一月一日)、成人の日(一月の第二月曜日)、建国記念の日(政令で定める日)、春分の日(春分日)、昭和の日(四月二九日)、憲法記念日(五月三日)、みどりの日(五月四日)、こどもの日(五月四日)、こどもの日(五月五日)、海の日(七月の第三月曜日)、敬老の日(九月の第三月曜日)、秋分の日(秋分日)、体育の日(一〇月の第二月曜日)、文化の日(一一月三日)、勤労感謝の日(一一月二十三日)、天皇誕生日(十二月二十三日)である。 (3)一二月二九日から翌年の一月三日までの日 いわゆる年末年始の休日にあたる日であり、旧法と異なり期間の末日が上記の日に該当したときは日曜日等と同様翌日を期間の末日とすることとした。これは年末年始は官公庁は休日であり、出願人等はこれらの日には手続等をすることができないものと思いがちであるので、祖に日をもって期間が満了しないこととしたものである。(青本第17版)
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219年 建安二十四年(漢) 皇帝 劉協(漢献帝) 皇后 曹節(曹操の娘) 三公(漢) 魏王:曹操 漢中王:劉備 太傅:空席 丞相:曹操(前司空) 御史大夫:華歆(前丞相軍師) 太尉:廃止 司徒:廃止 司空:廃止 その他の要職(漢) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:? 驃騎将軍:→孫権(荊州牧・南昌侯) 車騎将軍:? 衛将軍:? 地方官 荊州牧:孫権 主な事件 建安二十四年春二月壬子晦、日食有り。《後漢書孝献帝紀》 夏五月、劉備が漢中を取る。《後漢書孝献帝紀》 秋七月庚子、劉備は自ら漢中王を称する。《後漢書孝献帝紀》子の劉禅を王太子と為す。《三国志蜀書後主伝》呉壱の妹の呉氏を漢中王后に立てる。《後漢書蜀書先主穆后伝》 八月、漢水が溢れる。《後漢書孝献帝紀》 冬十一月、孫権が荊州を取る。《後漢書孝献帝紀》 この年、大疫あり。荊州の民租稅を免除する。曹操は孫権を驃騎將軍に上表し、假節を与え領荊州牧とした。南昌侯に封じた。孫権は校尉の梁寓を遣わして漢に奉貢し、及び王惇に命じて市に馬を求め、また朱光等を遣わして帰す。曹操は梁寓を丞相掾と為して南に帰す。《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 ▲PAGE TOP 218年<< >>220年
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辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 名詞 ① 山の斜面やがけにあるほらあな。 日本書紀(720)仲哀八年正月「皇后(きさいのみや)は別船にめして洞海〈洞、此には久岐(クキ)と云ふ〉より入りたまふ」 岫 ② 山頂。山の峰。 〔新撰字鏡(898‐901頃)〕 [補注]( 1 )「草くき」「かやくき」とともに動詞「くく」「たちくく」「とびくく」と関係づけて、「潜る」「漏れる」の意から「穴」をいうとされる。( 2 )「岫」の字は、「説文」「爾雅」に「山有穴」とあって穴のある山の意であるが、「巖穴」をいうとの注もある。なお、「景行紀」「欽明紀」に見られる「峯岫」「巖岫」を古訓でミネクキ、イハクキと訓んでいる。 広辞苑 名詞 山の洞穴。また、山頂。 万葉集5「夕の―に霧結び」 岫 大言海 名詞 〔 漏 (ク)くノ名詞形、爾雅、釋山篇「山有 レ 穴爲 レ 岫 (シウト)」註「謂 二 巖穴 (イハアナ) 一 」〕(一)山ノ、 洞 (ホラ)アル處。 仲哀紀、八年正月「洞、此云 二 久岐 一 」天治字鏡、六 二 「岫、山穴、久支」 岫・洞 (二)轉ジテ、山。岡。 景行紀、十八年七月「其山 峯岫 (ノミネクキ)重疊」萬葉集、十二 三十四 「玉クシロ、卷キ寐シ妹ヲ、月モ經ズ、置キテヤ越エム、此山ノ 岫 (クキ)」字鏡 八十四 「嶂巒、岑也、久支」 検索用附箋:名詞地理 附箋:名詞 地理
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2001年8月2日 旅行記一覧 > 2001年夏合宿プレ ←前へ… | 8/2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 | 次へ→ 七月最後は課題に追われ、8/1は追試。 今日も夕方までネットでキャンプ場などを調べてから学校へ。 部室下。出発前。 西千葉から出発。見送りに荒井さんと西澤さんが来てくれた。 新宿からムーンライトえちご…に乗る。 王さんが見送りに来てくれた。 荒井さん西澤さんのいたずらをいろいろ発見。 ビデオテープ、ステム、野球ボール、サンダーの歯、ゴールデンボーイ2巻、SPDシューズのいたずらがき… ムーンライトえちご…では、前に座ってた若者もおばちゃんもうるさいし、冷房効きすぎで寒くて寝られない。 日付が変わって最初の停車駅、高崎。 停車中の暇つぶし。 高崎と言えば、ダルマ。 夜遅くなると、車内の電気が消え、静かにはなったものの、寒くてなかなか眠れなかった。 2001年8月3日へ続く。 旅行記一覧 > 2001年夏合宿プレ ←前へ… | 8/2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 | 次へ→ 関連項目 2001年8月11日 2001年8月12日 2001年8月14日 2001年8月15日 2001年8月16日 2001年8月17日 2001年8月18日 2001年8月31日 2001年8月3日 2001年8月4日 2001年8月5日 2001年8月6日 2001年8月7日 2001年8月8日 2001年8月9日 2001年夏合宿プレ 北海道 旅概要 旅行記一覧 タグ 2001年8月2日 夏プレ 旅行記 輪行
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影山貞之(かげやまさだゆき) 生没年不詳 ■プロフィール 影山貞之(かげやまさだゆき) 仙台藩天文学者 芳蔵と称する。安政4年頃の仙台藩天文方のメンバー。内池と計算した暦の草稿類が残されている。明治4年に「影山明之」という人物が見られるが、貞之との関連は不明。 ■影山貞之年表 安政3~4年 洋式軍艦(開成丸)の建造を担当する。 安政3年(1856) 10月23日 三浦方軍艦方稽古人 文久元年(1861) 内池行孝推歩・影山貞之清算「仙台日食草稿」 文久四年(1864) 『文久四年歳次甲子 蝦夷地白老定気草稿 附土用事及土用事晨昏分』 内池行孝推歩 国分高広・影山貞之清算 『蝦夷地各方二十四気日出入及晨昏分草稿 二』影山貞之推歩 内池行孝清算 明治元年(1968) 『慶応五年己巳七月朔 蝦夷地白老日食草稿』大友頼瀧・影山貞之合算 佐藤長脩補算 明治4年(1971) 仙台月食時刻 同方位 同晨昏分(明治4年5月望) 影山明之推歩 原本 ■師弟関係 ┌──────>┌─古山利貞 │ │(天文方) ├──────>├─志村恒憲 │ │(天文方) │ ├─橋本貞恒 │ │(清太夫:天文方) │ ├─内池行孝 │ │(種治:天文方) 武田司馬─┼──────>├─佐藤長修 │ │(久馬:天文方) │ ├─森田九平 │ │(天文方) │ ├─影山貞之 │ │(芳蔵:天文方) └─村田明哲──┼─上野歓治 (1816-1878) │(天文方) └─梅津彦三郎 (天文方) ■基礎資料
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部活紹介 ここでは 希望ヶ丘高校弓道部 を紹介しています。 練習内容 基本的に週5日 定休…木曜・日曜・祭日・テスト休み・雨の日 等 正射必中を目指して日々ひたすら射込みます。 夏まで(基本的に審査を受けるまで)は一年生の指導などもやっています。 また、夏休みにはキャンプや合宿をやります。 部員(2011年度版) 1年生(参拾捌代) 男子 3人 女子 9人 2年生(参拾漆代) 男子 7人 女子 6人 3年生(参拾陸代) 男子 5人 女子 9人けっこう大勢で活動してます! 中学の元部活は運動部、文化部どちらもいます。皆初心者から始めました。 活動場所 学校の隅っこでやっています。隅っこで道に面しているので、たまに おじさんやおばさんが見学しにくることも。 屋根がないので雨の日に練習ができないのが難点…。 弓道部 年間予定 希望ヶ丘高校弓道部 の年間予定です。 競技・審査 等 企画 等 四月 県民大会 五月 春季大会 高校総体 (3年引退試合) 新歓コンパ 六月 OB・OG戦 昇段審査 記念祭 七月 キャンプ 八月 青少年錬成会 平沼戦 昇段審査 校内合宿 道場練(常盤) 九月 無指定審査 (1年) 十月 新人戦 (1年試合デビュー) 十一月 神奈川大会 横浜地区大会 (自由参加) 昇段審査 修学旅行(2年) 十二月 一月 平沼戦 二月 昇段審査 三月 平沼戦 卒業式 追い出しコンパ トップページへ 希望ヶ丘高校 弓道部 Copyright © 2007 Kibogaoka Senior High School Kyudo(Japanese archery) Team