約 1,574,294 件
https://w.atwiki.jp/gensousyusyu/pages/292.html
ロムルス/Romulus ローマ神話に登場する、ローマを建国したとされる英雄。 アエネアスの子孫ヌミトルの娘レア・シルウィアの子で、双子の弟はレムス。伝承によれば、紀元前753年にローマが建国されたという。 ヌミトルは弟のアムリウスによりアルバ・ロンガの王位を追われた。アムリウスは、ヌミトルが後継者となる男児を授からないよう、レア・シルウィアを一生独身を貫くウェスタに仕える巫女にしたが、彼女は聖なる森でマルスに犯され、妊娠した。アムリウスがそれに気づくと、彼女を幽閉(もしくは溺死)させ、産まれた双子の子供・ロムルスとレムスはティベリス川に沈めて殺すよう召使いに命じた。しかし召使いは2人を入れた籠を板に乗せ、洪水で水量が増した川に流した。水が退くと、板はイチジクの木のそばの泥土に漂着した。するとマルスの聖獣である牝狼とキツツキ(ピクスの変身とされる)がやって来て、双子の世話をした。しばらくして王の羊飼いファウストゥルスが双子を見つけ、王には言わずに家に連れ帰り、ファウストゥルスの妻アッカが育てた。 2人は逞しい知的な若者に成長したが、その過程でファウストゥルスは、彼らがヌミトルの孫であることに気がついた。成長した双子は、羊飼いの息子たちを率いて、山賊やヌミトルの家畜を襲うようになった。しかしルペルカリア祭(パン神の祭)の時に彼らは待ち伏せに遭い、捕らえられてしまった。レムスはアムリウスの前に引き出され、ヌミトルの家畜を襲った罪でヌミトルに引き渡された。ヌミトルは、彼への質問と、彼らが入っていた籠を調べたことで、彼が自身の孫であることを知る。 やがて双子は反乱軍を組織し、アムリウスの宮殿を攻撃し、彼を殺した。それによりヌミトルが王に復位した。それでも2人はアルバ・ロンガに満足せず、18歳になった時、自分たちの都市を建てることを決め、その場所を、自分たちが捨てられたティベリス川の近くの土地に決めた。しかし2人は、どちらが建設の責任者や都市の正式な建設者になるかで争うことになり、鳥占いで決めることにした。鳥はユピテルから送られる徴で、レムスはアウェンティヌスの丘に立ち6羽を、ロムルスはパラティウムの丘に立ち12羽のハゲタカを見た。占いの結果はロムルスの勝ちだったが、レムスの部下たちがレムスが先に前兆を受けたと主張した。ロムルスはこれに取り合わず、4月21日(パレスの祭日であるパリリアの日)に作業を始めた。牛に鋤をひかせ、溝を掘ってその土を盛り上げ、壁を作ってパラティヌス丘に都市の建設を進めた。レムスはこれに怒り、まだ完成していない都市の城壁を飛び越え、「こんな脆い柵で都市をどう守るのか」と兄を侮辱した。するとロムルス(あるいは部下のケレス)は、鋤(あるいは剣)でレムスを殺してしまった。仲裁に入ったファウストゥルスも殺されたとする話もある。ロムルスは「俺の城壁を横切る奴は誰でもこうなる」と言ったという。後に、アウェンティヌス丘でレムスの葬式を行った時には、ロムルスは心をやわらげ、衷心から涙を流した。 こうして建国されたローマに、ロムルスは亡命者や逃走中の罪人を住まわせ、都市は男で溢れた。しかし彼らは近隣の住民から好ましく思われず、結婚できずにいた。そこでロムルスはサビニ(古代の中部イタリア人)や近隣の住民を、競技や演劇が行われるコンスス大祭に招き、訪れた妻や娘たちを捕らえた(サビニ女の強姦)。彼女らはローマの男たちを恐れたが、ロムルスは言葉巧みに状況を受け入れさせた。その中の1人ヘルシリアはロムルスの妻となった。その後、妻や娘を取り返そうと、近隣の者たちがローマに戦いを挑んだ。彼らは小さな襲撃隊に分かれて攻撃してきた。ロムルスはカイニナ王アクロンを打ち負かし、ローマ人として初めて最上の分捕品を得た。その後クルストゥメリウム人やアンテムナイ人もローマが制圧した。激しい戦闘の中で、ロムルスはサビニの戦士メッティウス・クルティウスを激しい反撃で追いやった。ヘルシリアは、近隣の人々がローマへの移住を望むなら、そうさせるようロムルスを説得した。とうとう、クレス市のサビニ人の王ティトゥス・タティウスの軍がローマに攻め込んで封鎖することに成功し、ローマを裏切ったタルペイアの手引きのお陰で、カピトリウムの前哨地点を奪って、カピトリウム丘とパラティヌス丘の下の平坦地(後の古代ローマの中心地)でローマ人へ攻撃した。後退を余儀なくされたロムルスは、ユピテルに祈り、「形勢逆転できればこの地の擁護者(スタトル)として神殿を捧げる」と誓った。祈りは聞き入れられた。その時、熱戦を繰り広げる2つの軍の間にサビニの女たちが割って入り、「夫や父が互いに殺し合うのを黙って見ていられない」と言った。そこで和議が成立し、ローマとサビニは1つの連邦国家として、ロムルスとティトゥス・タティウスを共同支配者とすることになった。 タティウスの死後はロムルスが1人でローマを支配した。ロムルスの王権は33年続き、彼は54歳で死去したとされる。ロムルスの後継はヌマ・ポムピリウスが引き受けた。40年後、ローマの統治を終えたロムルスは、カプラ湿原近くのカムプス・マルティウスで閲兵中、激しい雷雨と共に現れた雲に包まれて、姿を消したという(あるいは火車で天上に運ばれたとも)。その奇跡を目撃した人々は、ロムルスが神になったと喝采した。ロムルスは死後、ユリウス・プロクルスの前に現れた。その姿は生前よりも背が高く美しく、光り輝く鎧を身につけていた。そして今後のローマの安寧を請け合い、そしてローマ人に「武芸に励み、自身をクゥイリヌス神として崇めよ」と告げたという。 また別説では、暴君であるロムルスは貴族らに憎まれて殺され、その死体はバラバラにされたという。 エトルリアに伝わるロムルスとレムス誕生の別説は以下の通りである。アルバ・ロンガの支配者タルケティウスは、宮殿の炉から男根が生じているのを見た。テテュスの神託で「処女が男根と交わって出来た子は偉大な人物になる」と聞いたタルケティウスは、自身の娘に交わるよう命じたが、娘は恥じて奴隷女を身代わりにした。これを知ったタルケティウスは彼女たちを幽閉し、昼につづれ織りを織らせては晩にそれを解きほぐさせた。やがて奴隷女は双子を産んだが、タルケティウスは従者テラティウスに命じて赤子を捨てさせた。従者は双子を川の傍に置き去りにしたが、狼が乳をやり、鳥が食べ物を運んで養い、やがて牛飼いに見つけられて育てられた。大人になった双子はタルケティウスを殺したという。 ロムルスはローマの国家の三神の一柱であるクゥイリヌスと同一視された。紀元前4世紀末には、神話上のローマ建国はアイネイアスに取って代わられ、皇帝もアイネイアス建国説を支持したが、ローマ人のロムルスとレムスへの関心は薄れなかった。 名は「ローマ人」の意。 別名 ロームルス 参考文献 山北篤著『西洋神名事典』新紀元社 大林太良,伊藤清司,吉田敦彦,松村一男編『世界神話事典』角川選書 マイケル・グラント,ジョン・ヘイゼル著『ギリシア・ローマ神話事典』大修館書店 ブルフィンチ著/野上弥生子『ギリシア・ローマ神話』岩波文庫 ヒュギーヌス著/松田治,青山照男訳『ギリシャ神話集』講談社学術文庫 アーサー・コッテル著/左近司祥子,宮元啓一,瀬戸井厚子,伊藤克巳,山口拓夢,左近司彩子訳『世界神話辞典』柏書房
https://w.atwiki.jp/diadochoi/pages/24.html
ハンニバルの時代 五 第二次ポエニ戦争 カンナエの戦い(1) 元老院は迷っていた.ファビウスの後任となる執政官の選出をめぐって、ローマの国論は完全に分裂していたのである. ファビウスが提唱する持久戦法は有効かもしれないが、ハンニバルが自滅する前にローマの覇権が崩壊してしまう可能性があった.一方の積極戦法は、かつてその代表者であったミヌキウスが証明したように、事態を一瞬で悪化させる危険性を孕んでいた.そして、ローマの民衆は圧倒的に積極戦法を支持している. 結局、元老院は折衷案を採用した.この年の執政官に任命されたのは、持久戦法派のルキウス・アエミリウス・パウルスと、積極戦法派のガイウス・テレンティウス・ウァロの両名であった.ウァロは平民出身で民衆の人気が高く、彼が市民集会でハンニバル打倒を宣言すると、熱狂したローマ市民たちはかつてないほどの大軍の召集を可決したという.これに対し貴族出身のパウルスは、ファビウスに諭されてウァロの軽率を押し留めることを約束したものの、あまり衆望のない人物であったらしい.この対照的な二人に率いられて、総勢八万七千のローマ軍団はハンニバル軍へと迫っていった. 冬営中のハンニバルは、待ち望んだ圧倒的勝利の好機が訪れたことを知った.どうやってか彼は、増強されたローマ軍の規模から両執政官の性格に至るまで、自陣にいながらにして敵情の全てを把握していたのである. 彼はまず、ローマの食糧貯蔵基地であったカンナエの村を攻略する.自らの居場所を明らかにすると共に、間近に迫った大会戦に備えて兵糧を補給したのである.そして村の背後に立つ丘に陣営を築き、ローマ軍の到着を待った. カンナエ襲撃の報告を受けて急行したローマ軍は、ハンニバルから十キロほど離れた平野に陣営地を建設する.ハンニバルが平地での会戦を望んでいることは判っていたが、それでも敢えて平原に陣取ったのは、自軍の戦力に自信があったからだろう.ウァロの呼び掛けで大幅に増員されたローマ軍の歩兵戦力は、カルタゴ歩兵の二倍にも上るのである. カンナエの平野を埋め尽くすローマ軍に、側近の一人ギスコーが怖気づいて言った. 「将軍、敵の数は驚くべきもののようですが」 ハンニバルは眉間に皺を寄せてこう応じた. 「それよりも驚くべきことがあるだろう.あれほど多くの人間がひしめいているというのに、あの中にギスコーは一人もいないんだ」 思いもかけない冗談に、周囲の人々は恐怖を忘れて笑いあった.指揮官たちの楽しげな様子を見た兵士たちも安堵し、大いに士気を上げた. アルベール・カミュは『シーシュポスの神話』のなかで、「軽蔑によって乗り越えられぬ運命はない」と書いている.軽蔑の効用を知り、かつそれを数万の群集に伝染させる術まで心得ていたハンニバルは、まだ三十一歳の若さであった. 天才にとって、凡人との勝負はイカサマ賭博のようなものである.必ず勝つと初めから判っているわけだ.しかし、それでボロ儲けできるとは限らない.絶対に勝てないと判り切っている相手には誰も張り込んでくれないからだ.熟練の博徒であるファビウスは、イカサマ師ハンニバルとの勝負には常に小銭しか賭けていない. ところが、この年のローマ軍は財布をいっぱいに膨らませて賭場に乗り込んできてくれた.おまけに、賽を振りたくて仕方がないという様子の執政官ウァロは、実戦経験が皆無の素人なのである.打てば勝つ、とハンニバルは確信していた.問題は、財布の中身をそっくり投げ出してくれるかどうかであった. カンナエに布陣した両軍は二ヶ月のあいだ睨み合いを続ける.ミヌキウスの教訓は流石にまったく忘れ去られたわけではなかったし、持久戦法の堅持をファビウスから託されたパウルスも努力していたのだろう.とはいえ、互いに二千人程度を繰り出しての小競り合いは度々演じられていた.そして、その結果は次第にローマの優勢で終わるようになっていたのである.時には、ローマ軍の犠牲者百人に対してハンニバル軍は千七百名を失うということもあった.これなら勝てる、とローマは思った.いや、思わされた. ハンニバルの損失の大半はイタリアに侵入してから参加したガリア兵だった.子飼いの精鋭には殆ど傷を付けられていない.ハンニバルは相手が大勝負に乗ってくれるように芝居を打ったのである.そして、ローマ軍は見事に騙された.これではミヌキウスの時と同じではないかと思われるかもしれないが、この時より百五十年後に帝政ローマを設計するユリウス・カエサルの箴言は、こうした人間の愚かさに一つの答えを与えてくれるだろう. ――およそ人間というものは、自らが望んでいることならば喜んで信じ込んでしまう。 (カエサル『ガリア戦記』) ローマ軍では両執政官が一日交替で指揮を取るのが決まりだったが、その日はウァロが総司令官となる日にあたっていた.彼は遂に、ハンニバルに対して決戦を挑む. 夜明けと共に、ウァロは総戦力をカンナエの平原に集結させる.中央の前面に軽装歩兵一万、その背後にローマ軍の主力である重装歩兵五万五千.歩兵団の指揮は前執政官グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスに託される.また、右翼にアエミリウス・パウルス指揮のローマ騎兵隊二千四百、左翼にはウァロ指揮下の同盟国騎兵四千八百が陣取った.後背の野営地に一万の守備隊を残しても、総勢七万を超える大軍である. 狙い通り決戦を仕掛けてきたローマ軍の正面に、ハンニバルも全軍を布陣する.中央前面はガリアの軽装歩兵八千、その背後に精鋭の重装歩兵三万二千.右翼には騎兵の産地として知られるヌミディア出身の騎兵五千、左翼にスペインとガリア出身の騎兵五千.両翼の騎兵団を甥と弟に任せ、ハンニバル自身は歩兵を指揮する.カルタゴ軍、総勢五万. 紀元前二一六年八月二日、戦史上に名高いカンナエの戦いが始まろうとしていた.
https://w.atwiki.jp/yskykagekihaijm/pages/18.html
ストローマン(英 straw man) は、議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。藁人形論法ともいう。 相手の意見の一部を誤解してみせたり、正しく引用することなく歪める、または一部のみを取り上げて誇大に解釈すれば、その意見に反論することは容易になる。この場合、第三者からみれば一見すると反論が妥当であるように思われるため、人々を説得する際に有効なテクニックとして用いられることがある。これは論法としては論点にあたる誤謬(ごびゅう)であり、無意識でおこなっていれば論証上の誤り(非形式的誤謬)となるが、意図的におこなっていればそれは詭弁である。 しばしば、感情論に訴える手法やチェリー・ピッキング(数多くの事例の中から自らの論証に有利な事例のみを並べ立てることで、命題を論証しようとすること)のような他の誤りとともに用いられる。相手の発言を元の文脈を無視して引用し、本来の意味とは異なる印象を与えるよう提示することをクオート・マイニングと呼ぶが、クオート・マイニングに基づいて批判すればこれもストローマンの一種である。 概説 相手が示した意見を歪め、あるいは一部のみを取り出して解釈し、それを相手が発言したかのように言い返す。 さらに発言を引用する形で一見では否定しがたい自論を作り出し、自らの発言の正当性を補強する。 簡単な例 X:私は雨の日が嫌いだ。 Y:もし雨が降らなかったら干ばつで農作物は枯れ、ダムは枯渇し我々はみな餓死することになるが、それでもX氏は雨など無くなったほうが良いと言うのであろうか。 Xの一私人としての感情を必要性の問題として解釈し、さらに「嫌いなら無くなったほうが良い」という言外の要素を過剰に拡大して解釈している。 (Wikipedia 一部引用)
https://w.atwiki.jp/kwskp4/pages/473.html
かえさる 公式 2D格闘ゲーム「ペルソナ4~ジ・アルティメット・イン・マヨナカアリーナ~(以下、P4Uと略)」の登場人物・真田明彦が行使するペルソナ。 アルカナは「皇帝」。 右手に剣を、左手に地球を掲げ、月桂冠を被った大理石色の武装歩兵として描かれる。 電撃属性のスキルに長ける。 キャラクターデザインを担当している副島成記氏の話によれば、ペルソナ・カエサルの外観は相当巨大なものと考えていたらしく、腹部中央に見える人型がちょうど明彦の身長と同サイズと語っている。 (ここから逆算すると、目算でカエサルの体躯は15~20mほどあると考えられる) 神話 紀元前のローマに実在した政治家、ガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100~紀元前44年)のこと。 英読みでは「ジュリアス・シーザー」と呼ぶ。 軍事の長を意味する「インペラトル」の号を賜り、後にこの語が「皇帝」を意味する英単語「EMPEROR」の語源となる。 共和制を敷いていた頃のローマの名門貴族として生まれ、ルキウス・コルネリウス・スッラが終身独裁官としてローマの共和制を支配していた頃は東方に亡命をしていた。 スッラ死後ローマに帰還したカエサルは軍事的才能に秀でたグナエウス・ポンペイウスと、当時のローマ政財界をまとめていたマルクス・リキニウス・クラッススとによる三頭政治を企図し、これによりローマ政界を牛耳る。 しかしクラッススの死によって三頭政治は崩壊し、当時ガリアに遠征していたカエサルはローマに武力侵攻、元老院の担ぐポンペイウスを打倒してローマの実質的な指導者となる。 このとき彼が口にしたのが、「賽は投げられた」の名言である。 その後は、ローマから逃れた後エジプトで暗殺されたポンペイウスの残党を討つべく、各地を転戦。 クレオパトラⅦ世とのロマンスや「来た、見た、勝った」の言葉は、この時期のもの。 最終的にスペインでの決戦に勝利し、内乱を収拾したことで地中海全域の覇権を握り、凱旋後のローマで終身独裁官に就任するものの、最後は共和制原理主義者・ブルートゥス一味によって暗殺され、その生涯を閉じる。 彼の死後、ローマは再び混乱に陥るが、遺言状にて「自身の後継者」として指名していたガイウス・オクタヴィアス・トゥリヌスがこれを鎮め、後のローマ帝国初代皇帝「アウグストゥス」となる。 アウグストゥスはカエサルの神格化を建議し、これが元老院・民会の同意を得たことで、『神君カエサル』として神々の一人に列席することとなった。 斯様に軍人・政治家として数多の功績を残したカエサルだが、文化人としての「後世に伝わる功績」もまた計り知れない。 ラテン語の名著と語り継がれる『ガリア戦記』は彼の著作であり、初期の太陽暦である「ユリウス暦」を制定したのも彼である。 その他、コイントスやシーザー暗号を発明し、英単語で7月を意味する「JULY」はカエサルの名が語源である。
https://w.atwiki.jp/r2tw/pages/35.html
フランス最初の英雄、アルウェルニのウェルキンゲトリクス ウェルキンゲトリクスの像 20歳前後で族長となり、ガイウス・ユリウス・カエサルのガリア戦争において、それまで統率の執れていなかったガリア諸部族(ガリア人[ガリアのケルト人]諸部族)をまとめ上げて対ローマ統一部隊を組織。 ガリア各地でゲリラ戦やローマ軍の兵站線の寸断、焦土作戦などを展開し、ローマ軍を苦しめた。アウァリクム包囲戦でアウァリクムを陥落させられたが、ゲルゴウィアで反撃、ローマ軍に勝利した(ゲルゴウィアの戦い)。 しかし、最終的にはガリアの都市アレシア(現在のディジョンに近い地域)に追い詰められ、ローマ軍に包囲された。突破作戦を決行するも失敗し、部下達の保全を条件についに降伏、投降した(アレシアの戦い)。 その後、ウェルキンゲトリクスはローマへと送られ、6年間トゥッリアヌムに投獄された後、カエサルの凱旋式が行われた際に処刑された。カエサルは基本的に敵に回った人間でも処刑することがなかった(蛮族に対してもやや基準が厳しいが、人質の倍増で済ますことがほとんど)が、若くして統一組織のないガリアの諸部族をまとめあげてしばしばローマ軍を打ち破った彼に対してだけはそうはしなかった。 wikipediaより転載
https://w.atwiki.jp/eirei/pages/195.html
アレクサンデル4世(リナルド・コンティ)教皇領(生まれはイタリア・アナーニ)1199~1261統率:D 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第181代ローマ教皇。鞭打ちによる修行を非難した。 インノケンティウス3世(ロタリオ・デ・コンティ・ディ・セーニ)教皇領(生まれはイタリア・ガビニャーノ)1161~1216統率:A 武力:B 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------第176代ローマ教皇。ローマ・カトリックの絶頂期を迎え「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語した。イングランド、フランス、神聖ローマ帝国など世俗権力に干渉し、第4回十字軍、アルビジョワ十字軍を召集した。また、ワルドー派、カタリ派の異端の対策、フランチェスコ修道会の認可、第4回ラテラン公会議の招集などを行なった。 インノケンティウス4世(シニバルド・ディ・フィスキ)教皇領(生まれはイタリア・マナローラ)1180~1254統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第180代ローマ教皇。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を弾劾するために第1回リヨン公会議を招集した。また、聖母御訪問の祝日を制定した。 インノケンティウス5世教皇領(生まれはフランス・サヴォイ)1225~1276統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第185代ローマ教皇。遠く東方のモンゴルにまでキリスト教を広めた。福者。 ウルバヌス4世(ジャック・パンタレオン)教皇領(生まれはフランス・トロア)1195~1264統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第182代ローマ教皇。次の教皇に表敬訪問するつもりで訪れたコンクラーヴェの場所で教皇に選出された。キリストの聖体の祝日を制定した。 グレゴリウス9世(ウゴリーノ・ディ・コンティ)教皇領(生まれはイタリア・アナーニ)1143~1241統率:A 武力:C 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第178代ローマ教皇。オスティア司教枢機卿。第6回十字軍を召集したが、従わない神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と対立し、破門する。多くの人物を列聖し、聖務日課集を認可した。異端審問の制度を整備し、異端審問所を組織した。 グレゴリウス10世(ピア・デ・タランテーズ)教皇領(生まれはイタリア・ピアチェンツァ)1210~1276統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第184代ローマ教皇。第2回リヨン公会議を招集し、コンクラーヴェの方法を見直した。福者。 クレメンス4世教皇領(生まれはフランスのサン・ジル・デュ・ガール)????~1268統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第183代ローマ教皇。東西の教会の再統合を試みた教皇。 ケレスティヌス4世(ゴッフレッド・カスティリオーニ)教皇領(生まれはイタリア・ミラノ)????~1241統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第179代ローマ教皇。ケレスティヌス4世の選出に難航し、決定するまで枢機卿たちが鍵の掛かった部屋に篭ったことからコンクラーヴェの制度が生まれた。 ケレスティヌス5世(ピエトロ・ディ・モローネ)教皇領(生まれはシチリア王国イゼルニア)1215~1296統率:C 武力:C 政治:D 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第192代ローマ教皇。禁欲主義を貫いたベネディクト会の高徳な隠修士。後に貧者や病人の世話に専念するケレスティヌス修道会を設立した。教皇就任後、新しく教皇に選ばれた者は拒否権を有することを定め、半年で退位した。しかしボニファティウス8世即位の正当性を確立するため幽閉された。聖人。 ニコラウス3世(ジョバンニ・ガエターノ・オルシーニ)教皇領(生まれはローマ)1214~1294統率:C 武力:D 政治:D 知力:C 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第188代ローマ教皇。ヴァチカンの庭園を設計し、ヴァチカンに永住した最初の教皇。 ニコラウス4世(ジローラモ・マッシ)教皇領(生まれはイタリア・リシアーノ)1227~1292統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第191代ローマ教皇。フランシスコ修道会総長。コンスタンティノープル司教枢機卿。アラゴン王アルフォンソ3世とフランス王フィリップ4世と共にシチリアからハイメ2世を追放した。また、イスラム教徒に対抗するためにブルガリア、エチオピア、中国などに使節を送った。 ハドリアヌス5世(オットブオーノ・デ・フィエスキー)教皇領(生まれはイタリア・ジェノヴァ)1205~1276統率:E 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第186代ローマ教皇。在位僅か36日だった。 ベネディクトゥス11世(ニコラウス・ボッカシーニ)教皇領(生まれはイタリア・トレヴィーゾ)1227~1285統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第194代ローマ教皇。ドミニコ修道会員。教皇選出後僅か8ヶ月で毒殺された。福者。 ホノリウス3世(センシオ・サヴェリ)教皇領(生まれはローマ)1148~1227統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第177代ローマ教皇。第5回十字軍を召集した。また、フランチェスコ修道会の会則を承認し、ドミニコ修道会を認可した。 ホノリウス4世(ジャコモ・サヴェリ)教皇領(生まれはローマ)1210~1287統率:D 武力:D 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第190代ローマ教皇。パリ大学に多大の奨励を行ない、東方教会との関係を縮めようと努力した。 マルティヌス4世(シモン・デ・ブリー)教皇領(生まれはフランス・トゥーレーヌ)1210~1285統率:D 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第189代ローマ教皇。在任中に、シチリア島の住人が復活祭の晩鐘を合図にアンジュー王家の兵隊を虐殺する「シチリアの晩鐘事件」が起こった。 ヨハネス21世(ペドロ・ジュリアオ)教皇領(生まれはポルトガル・リスボン)1290~1369統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第187代ローマ教皇。本来『ヨハネス20世』だが、何故か21世と名乗ることになった。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/13232.html
登録日:2010/05/07(金) 13 03 09 更新日:2024/07/09 Tue 16 59 06 所要時間:約 21 分で読めます ▽タグ一覧 5121 アルプス越え カルタゴ カンネー ザマ ドリフターズ ハンニバル ハンニバル・バルカ ハンニバル先生 フェニキア人 ポエニ戦争 ローマ ローマ帝国 世界史 偉人 古代 天才 怪物 戦術家 歴史 英雄 象 軍事 道はわれわれが見つけるか、でなければわれわれが作るのだ ハンニバル・バルカ ――Hannibal Barca 紀元前247年生まれ。カルタゴ人。 同じくカルタゴの将軍、ハミルカル・バルカの息子。 『ハンニバル』は『バアル神(カルタゴの最高神)の恵み』。 『バルカ』は『雷光』の意。 ◆カルタゴの興亡 ◆ハンニバル現る ◆アルプス越え ◆カンナエの戦い ◆ローマの盾 ◆ザマの戦い ◆その後 ◆ハンニバルの敗因 ◆メディアでは ◆つまりどういう人? ◆カルタゴの興亡 カルタゴとは北アフリカの現チュニジア付近にあった国家である。 建国したのは商才に秀でた船乗りのフェニキア人。 フェニキア人はフェニキア語(ヘブライ語の近縁)を使用する中東系民族であり、 当時としては高い造船技術と金属加工技術を有しており、 共和制ローマ誕生時には、地中海最大の国家であった。 そのカルタゴだが、以前大きな戦争があった。 始まりは地中海に浮かぶシチリア島。 その大体逆三角形をしたようなシチリアの西半分はカルタゴの属領であり、 東半分は北東がメッシーナ、南東がシラクサの支配下にあった(*1)。 あるときメッシーナとシラクサとの戦争が勃発した。 メッシーナはマメルティニー(マルスの子らの意味)という傭兵団に占拠されていた。 ロンガノス川の戦いで大敗したマメルティニーの一部は西のカルタゴに自らとメッシーナを引き渡そうとした。 しかしまた一部は小さな海峡を挟んだ先にあるイタリア半島――つまり当時、新興国であったローマに応援を依頼した。 ローマとメッシーナは同盟関係にはない。しかしローマ元老院はそれを引き受けた。 メッシーナはローマとカルタゴのクッションとして存在してきた。 もしここでメッシーナの依頼を断ればすぐに全シチリアはカルタゴの手に落ち、南イタリアを囲む制海権はカルタゴのものとなると思ってよい。 更にアテネが衰退を始めたこの時代において地中海世界第一位の海運国はカルタゴだった。 故に「ローマ連合」はメッシーナとの同盟を結ばざるを得ないのと同時に、海洋に進出する以上いずれ水上の戦争を行わなくてはならないのは明白であった。 この頃からローマとカルタゴの戦いは避けられなかったと考えられるのかもしれない。 そしてローマ及びメッシーナとシラクサとの戦争が始まる。 ローマはアッピウス・クラウディウスを指揮官として、 メッシーナへの渡航を行った。 マメルティニーは既に城塞を占拠していたカルタゴの司令官ハンノを「脅迫と策略によって(Polyb.1.11)」追放し、 アッピウス・クラウディウスに都市を引き渡した。 ここでカルタゴとシラクサは長年の敵対関係を解消し同盟を結び、 メッシーナを共同で包囲した。 まずローマ市民軍は傭兵が主体のシラクサ軍を撃破。 シラクサの僭主ヒエロンの南への敗走を見送り、 時をおかずに西に布陣されたカルタゴ軍を撃破した。 アッピウスの戦勝が届いたローマは2人の執政官を全軍勢とともにシチリアに送り出した。 ローマの援軍が届くとカルタゴとシラクサから大半のシチリア都市が離反した。 さらにローマ軍の力と量も考慮してローマ側有利と見たヒエロンは、 ローマ軍に講和を申し入れた。 ローマ側も補給の観点からヒエロンの講和を受け入れた。 こうして大国カルタゴとローマ連合による戦争は決定付けられることとなる。 この戦いは「フェニキア人との戦い」を意味する「ポエニ戦役」と呼ばれた。 そしてこの後22年間に渡る戦いにローマは勝利し、カルタゴはシチリア島から撤退。さらには終戦直後に、給料未払いへの不満から反乱を起こした傭兵への対処に追われている隙に、ティレニア海(*2)の制海権を盤石の物にしたいローマによってコルシカ島とサルデーニャ島を掠め取られた。 カルタゴは400年に渡り築き上げたものと利益、そして地中海西半分の海を失った。この時の戦を後世では「第一次ポエニ戦争」と呼ぶ。 ◆ハンニバル現る ポエニ戦役で奮戦した軍人ハミルカル・バルカは優秀な軍人だった。 しかし彼の奮戦とは無関係な海軍の敗北により、ローマとの交渉を余儀なくされたのだ。 そんな彼はローマへの雪辱を晴らすため、カルタゴ本国以外の力を手に入れるため、 ローマが戦いの神ヤヌスの神殿を閉めた(*3)と同時期に、カルタゴの植民地であったヒスパニア(スペイン)へと出向いたのだった。 彼の息子ハンニバルはその時9歳。 ハミルカルにスペインへの同行を頼み込む息子に対して父は、 バアルの神殿にて「生涯ローマを敵とすることを誓う」ことを条件に同行を許可した。 そしてそれから17年後。 カルタゴ・ノヴァ――新カルタゴとよばれるヒスパニアの大都市にて、バルカ一門の総督ハスドゥルバルが従僕に扮していたケルト人によって暗殺された。 ハスドゥルバルはバルカ一門へ婿として入ったものであり、今は亡きハミルカルの後継者でもあった。 父ハミルカルが没した時は18歳でしかなかったハンニバルだったが、 ハスドゥルバル退場の年には26歳。 もはや不足はない。 スペインのカルタゴ人は彼を総督として認め、本国カルタゴ政府もそれを承認。 全権を握ったハンニバルは足元を固めるためのスペインの制圧(*4)に1年を費やすこととなる。 そして紀元前219年 28歳となったハンニバルはスペイン東岸の町、サグントを攻撃する。アッピアノスなどはサグントをギリシア人都市としているが、スペイン種族の町である。 当時ローマとカルタゴはエブロ川を境として不可侵条約を結んでいた。サグントはエブロ川の南側(カルタゴ側)に位置する。 しかしハンニバルの動向に危機感を持っていたローマは、サグントと同盟を結びハンニバルを牽制しようとした。 そのサグントを攻撃したのだ。あくまでエブロ川の南側なので、この攻撃が不可侵条約に違反するかはグレーなところである。 サグントが陥落するのに8ヶ月の期間がかかっているが、この間ローマは軍事的に手を打たなかった。 ポリュビオスに記述はないが、リウィウスはローマは条約違反だとしてサグント陥落以前にカルタゴに抗議をしたがカルタゴはこれを拒否したとする(*5)。 サグント陥落を知ったローマ使節団(*6)はカルタゴへ宣戦布告をする(*7)。 開戦の知らせを聞いたハンニバルは一旦カルタゴ・ノヴァに戻り冬の間に準備を整えると、ガリア地域へ侵攻。 当然不可侵条約違反であるが、もはやローマとは戦争状態であり条約は破棄されたも同然であった。 こうして「ハンニバル戦争」とも呼ばれることとなる第二次ポエニ戦役の幕が切って落とされる。 この戦争の真意も、目的とする戦場も、この時点でそれを知るのは30に満たないこの男だけだった……。 ◆アルプス越え 無論ローマ側もハンニバル出撃の情報を掴んではいた。 制海権はローマが握っていたので海上から攻撃されることはまず無いと判断し、イタリア半島の西側と南側に兵力を配置した上で、カルタゴ軍の動きを追っていたのだ。 しかしサグントを落とし、カルタゴ・ノヴァから出発したハンニバルがエブロ川を渡河しピレネー山脈を越えた辺りから動きを追えなくなってしまう。 ハンニバル率いる6万人の兵士と40頭の戦象は忽然と姿を消したのだった。 ガリア地方は深い森林が広がっていてただでさえ探索が困難であり、さらにハンニバルはあえて危険な渡河ルートを選択していた(*8)。 ここで索敵中の少数のローマ兵が、渡河時の警戒に当たっていたハンニバル兵に半壊させられた事でようやく事態を察知したローマ軍であったが、 執政官(*9)スキピオ(*10)が軍を率いて駆けつけた際には、既にハンニバル軍は渡河を終え再び消失していた(*11)。 ローヌ川を越えた後に沿岸地帯を通らずにイタリアに進軍する方法は1つしか無い。 伝説的なアルプス越えの開始である。 突如として北方から現れたカルタゴの大軍団。・・・いや、峻厳なアルプスはハンニバルの行く手にも牙をむいた。 敵対的な部族との戦闘に加えて季節は秋になっていた。 降った雪は昼に溶けて夜に凍るため、数多の兵士や象が足を滑らせて奈落の底に消えていった。 温暖な気候のイベリア半島出身の兵士は、10月末のアルプスの高度にも寒さにも慣れていなかった。 難行を果たすための代償は、カルタゴ軍半数の命を奪ったのである。 しかしそれほどの血を流してまで達成された戦略的奇襲は、それに値するだけの報酬をもハンニバルにもたらした。 彼の行く手に広がっていたのはガリアの森。ローマに反感を抱く民たちが住まう広大な大地。 ハンニバルはまず疲れ切ったカルタゴ軍を休めると共に広くガリアに声をかけ、共に戦う勇士を募ったのである。 しかしガリアは多くの部族に分裂して敵対しあってまとまりがなく、またローマに敵対していたとは言え戦う前から疲弊したカルタゴに味方した者は少なかった。 兄グナエウスをイベリアに送り出したスキピオ(父)はアルプスでの全滅を予測しながらも、ポー川流域の平野に陣営を置きハンニバルを待ち構えたが遭遇戦で破れてしまう。 さらに続くトレビアの戦いにおいてもハンニバルはもう片方の執政官相手に鮮やかな勝利をあげ、彼の名声は大きく高まることとなった。 そして続け様の勝利を見たガリアの民は今度こそ次々ハンニバルの下に集い、その軍勢は5万以上にまで膨れあがった。 アルプスで失われた兵は、ガリアの血により補われ、今や彼の軍はもとの勢威を取り戻していた。 こうして北イタリアに勢力基盤を築き上げたハンニバルはイタリア中部に進軍する。 これに対しローマ元老院は新たな執政官2人を向かわせるも、トラシメヌス湖畔の戦いでハンニバルの策にはまり軍はほぼ壊滅し片方の執政官が戦死してしまう。 さらにハンニバルはイタリア南部へと向かい、ローマの同盟都市への切り崩し工作を重ねていく。 ハンニバルのこの「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」戦術を前にしたローマは、ついにこれを国家存亡の危機と判断。 非常事態宣言を発した上で、独裁官としてクィントゥス・ファビウス・マクシムスを任命し、ローマの全権を委ねたのだ。 通常、独裁官は執政官によって選ばれるのに対し、国民代表である元老院が直々に任命したという事態は異例である。 ファビウスは直接ハンニバルと戦っては勝ち目がないと冷静に見抜いていた。 彼はハンニバルの動きを抑えこむべく、カルタゴに本拠地を置くハンニバル軍の補給線が伸びきっていることに目をつけ、徹底した持久戦に持ち込む事を決断する。 つまりハンニバルの後を影のように追尾し、相手が攻めようとすると即座に撤収。進軍を無理に止めるようなことはしない。 さらに略奪を防ぐ為に、予想される進路の土地を焼き払う……という焦土戦術を繰り返したのだ。 この持久戦は「後に」ファビアン戦略と呼ばれ、やはり後世まで語り継がれる重要な作戦となった。 しかし、ハンニバルと睨み合うだけのファビウスはクンクタートル(のろま)と嘲られ侮られた。 焦土化される土地に住む人々はもちろん、政敵であるマルクス・ミヌキウス・ルフスや元老院までもが彼を批判した。 更にファビウスが進軍途上のカルタゴ軍を攻撃しようとして補足に失敗するという失態を犯したので、 彼はローマに召還され、一時的にミヌキウスが指揮を取ることになった。 そのミヌキウスが少なからぬ戦果を挙げたこともあって、ファビウスの評判は更に失墜していく。 というのも、ファビウスがハンニバルの強さを見抜き、弱点である補給を攻めたのと同様に、 ハンニバルもまたファビウスを強敵と認め、その弱点である民衆からの支持を攻撃したのだ。 あえて襲撃する際にファビウスの領地を狙わずにおいたり、 夜間に篝火をつけた牛の群れを囮とすることでファビウス軍の目の前を堂々と進軍したり。 そしてミヌキウスが戦果を上げたことによって、ミヌキウスに罠をかけると同時に徹底的にファビウスの支持率を下げるようにしたのだ(*12)。 ローマ元老院の指示とミヌキウス自身の要求によって、ファビウスはやむなく軍の一部の指揮権をミヌキウスに譲渡。 ハンニバルは冬営地としていたゲロニウムの近くでミヌキウスを誘い出す罠を仕掛けると、 ミヌキウスはファビウスを「ハンニバルの家庭教師」とバカにし、その命令を無視して攻撃を敢行(*13)。 対するハンニバルはあっさりとミヌキウスを包囲し殲滅にかかった(*14)。 しかし惨劇が迫っていたローマ軍とミヌキウスを救ったのは、彼がバカにしたファビウスであった。 丘陵を先陣きって駆け降りてくる老将軍を見て、ハンニバルは笑いながらこう言ったと伝えられる。 私は以前から度々諸君に言っていただろう。 道山の頂にああいう雲がある時には、すぐに激しい嵐が襲ってくるものだとね。 そして戦の後、ファビウスの天幕を訪れたミヌキウスは跪いてこう述べた。 「父が私に与えた命を、今日、あなたは救ってくれた。 あなたは私の第二の父である。私はあなたを優れた指揮官として認めます。」 だが、ハンニバルに対抗できるのはファビウスのみという事実に気付いた者は、未だ少ない。 6ヶ月の独裁官任期が切れ本来の執政官に指揮権が返上される。 その後元老院が決戦を望む声に押されて任命された執政官のうち片方は、ファビアン戦略を評価しなかったのだ。 ――若きガイウス・テレンティウス・ウァッロである。 ◆カンナエの戦い 2人の執政官は8万の大軍を率いてハンニバルの迎撃に向かう。 同じく執政官であったパウルスはハンニバルとの正面対決を避けるべきだと主張していたが、 ウァッロは決戦を望んでいた(*15)。 紀元前216年8月2日、当日の最高指揮官(*16)であるウァッロが決戦を挑むと決定。野営地の守りに1万を残す。 カンナエの地でハンニバル軍5万、ローマ7万が激突した。 ――カンナエの戦いである。 中央に重歩兵、前面に軽装歩兵、両翼に騎兵という陣形で対峙するローマ軍とカルタゴ軍。 ローマ軍は中央突破を狙い各中隊の隙間を狭くして中央部を厚くする陣形なのに対し、カルタゴ軍は真ん中が突出した弓なり型の陣形。 当時、主戦力である重歩兵に対しては騎兵で背後を突いて攻撃するというのが一般的であった。 その為ローマもこれを想定しており、予備戦力を後方に配置して防備を固めていた。 なにせカルタゴの主戦力たるヌミディア人(*17)の騎兵は精強であり、ローマの騎兵は然程でもなかったからだ。 しかしあくまでも戦の主力は重歩兵であり、単純勢力はローマ軍が敵の二倍。 ハンニバル側に勝ち目の薄い戦であるのは誰の目にも明らかだった。 実際に戦いが始まると、ハンニバル軍の中央戦力はやはり脆弱であった。 ローマ軍は勢いに任せて突き進み、予備戦力も投入。 一気に突き破って蹴散らしてしまおうと猛攻をかける(*18)。 だから、ローマ軍は誰も気づいていなかったのだ。 ハンニバル軍は中央両翼に精鋭歩兵を配置しており、後退しながらも持ちこたえていたことに。 カルタゴ軍の両翼が前進をしていて、徐々にローマ軍の陣形がV字型になっている事に。 ようやくカルタゴ軍中央を突破できると思ったローマ軍が気付いた時には、既に左右の騎兵を殲滅したカルタゴ軍騎兵がローマ軍の後方に回りこんでいた。 あ…ありのまま 昔 起こった事を話すぜ! 「ローマ軍は ハンニバルを二倍の軍勢で攻撃していたと思ったら いつのまにか包囲殲滅されていた」 な… 何を言っているのか わからねーと思うが おれも 何をされたのか わからなかった… 頭がどうにかなりそうだった… 催眠術だとか超スピードだとか そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ… 完全包囲されたローマ軍。密集していたローマ軍は外縁の兵以外が遊兵と化した。 無論まだまだ兵の優位は残っている以上、態勢を立てなおして包囲の薄い所を攻めて包囲網を破れば、十分に逆転の目はある。 だが当時の兵の練度はたとえ正規軍でも現代とは雲泥の差。 情報伝達の手段も太鼓や銅鑼・角笛、旗や狼煙といった単純な命令に限られる。伝令ではタイムラグが生じる上、密集ローマ兵の中では通り抜けすら一苦労である。 組織だった反抗など、到底望めなかった。 ローマ兵はパニックに陥り戦闘すらせぬまま圧死した兵もあった。 結果、ローマ軍は7万中6万人が戦死するという大敗。野営地に残されていた1万人は降伏し捕虜となった。 参戦した元老院議員のうち80名が戦死(*19)。 慎重派であった執政官パウルス、中央の指揮を任された前執政官も戦死。 ハンニバル側の損失は5万中わずか6000人。 そのほとんどはヒスパニア・ガリア人傭兵であった為、主力への影響はほぼ皆無。 決戦を主張していた当日の最高指揮官ウァッロはなんとか逃走に成功。 その後は前執政官や法務官を勤め、エトルリアでハンニバルの弟のハスドゥルバルと対峙したりアフリカへ大使として赴くなどをした。 全体の戦力では負けていても、主要な兵科では勝り、最終的に個別の戦力に関しては相手より多い数で当たる。 この基本中の基本をハンニバルが徹底した結果で、ある意味では当たり前の勝利である。 だが、忘れてはいけない。 これは紀元前の戦闘である。 前記した通り相互の伝達手段が非常に限られているのはカルタゴも同じこと。 無線交信でリアルタイムに詳細な情報を共有できる現代とは比べようもない。 加えて当時の視線はせいぜい馬上からの俯瞰までで、地形を考えても戦場全体を見通すのは不可能に近い。 個々の兵も正規軍より傭兵などが多く、訓練して全体として動くことは望みにくい。 そんな状態で、こんな巧みな戦術を駆使して2倍の戦力に打ち勝てる男。 ――ハンニバル・バルカが、史上最高の戦術家である事を証明した瞬間であった。 ◆ローマの盾 ハンニバルの恐ろしさを実感したローマは、彼に対抗していたファビウスへの評価を改めた。 再び執政官へと任じられたファビウスは、中断していた持久戦略を徹底的に展開する。 そしてそれは着実に効果を発揮し始めていた。 ハンニバルは、攻城兵器や物資の不足から首都ローマ攻略を断念した。 そして彼はローマを直接陥落させるのではなく、周囲の同盟都市を落としていく事を決意する。 この時に部下から言われた有名な評価が「あなたは勝利を得ることができるが、それを活用することは知らない」であった(Liv.22.51)。 事実、この時にハンニバルがローマ攻略を実行していたら、どの様な結果になったにしろその後の歴史は大きく変化していたに違いない。 一方、ファビウスは完全にハンニバルを抑えこむことに成功する。 一部を除いて同盟都市国家が離反しなかった事、カルタゴ本国が制海権をローマに握られていることもあってハンニバルへの支援を渋った事も功を奏し、 ファビウスはハンニバルの主力を封じた上で次々に補給線を各個撃破、断ち切っていった。 結果としてハンニバルをイタリア南部のカンパニア地方にほぼ封じ込めることに成功した。 かくしてクンクタトールという言葉は「のろま」から「細心・周到」という敬称に転じ、ファビウスは「ローマの盾」と称された(*20)。 ハンニバルもアンティゴノス朝のピリッポス5世と同名を結びローマを内外から圧迫しようとするものの、ローマは国外の敵を各個に撃破。 さらにスキピオ・アフリカヌス、あのプブリウス・コルネリウス・スキピオの子によってハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略。 なんとか挽回のしようとアプリア地方に進軍するもタレントゥム(現ターラント)を失い、補給がおぼつかなくなり行動に大幅な制限がかかってしまう。 味方と合流をしようとするも、彼の指揮下にない勢力はローマ軍に勝つことができず、南イタリアでの主導権回復の手段を失ってしまう。 ハンニバルがアプリア地方に封じ込めるられている間に、スキピオはアフリカに攻め込むことを提案。 守りを重視するファビウスは反対するも、元老院は黙認に近い形でそれを認めた。 ハンニバルを無視していきなり現れた彼にカルタゴ政府は驚き、援軍のヌミディア王・シュファクスとともに戦うが敗北してしまう。 この事態に狼狽したカルタゴ政府は慌ててハンニバルを召還。 ハンニバルは十数年ぶりにアフリカの土を踏んだ。 そしてこの頃にローマの盾と呼ばれたファビウスは、終戦を迎える前に72歳で息を引き取った。 この時ハンニバル43歳。 そしてファビウスの跡を継いで彼の前に立ちはだかった人物こそ、スキピオ・アフリカヌス。 若くして軍団長を勤め、32歳で執政官となった若き俊英であった。 ◆ザマの戦い 父がハンニバルに破れ自身も敗北を経験していたスキピオは、ハンニバルの戦術を徹底研究していた。 そんな彼は先述の通りローマ元老院の黙認を取り付けると、養成していた志願兵を連れて直接アフリカ大陸へ上陸したのである。 突如として本国に攻めこまれたカルタゴ側は、大慌てでハンニバルを本国召還した。 十数年ぶりに故郷へと戻ったハンニバルはスキピオと休戦交渉に入り、互いの才能を認め合うものの決裂(*21)。 かくしてザマの地にて二人は激突することになる。 今度はカンナエの戦いの真逆であった。 そう、何もかもがあの時の戦いの再現であり、しかし勝敗だけが逆であった。 ローマ軍は4万の兵力で持って、カルタゴ軍5万を同様の方法で包囲殲滅した。 にこの時カルタゴ軍は歩兵の数はローマ軍を圧倒していたものの騎兵はローマに圧倒的に劣っていた。 後述するが、カンナエの戦いの勝利に貢献した騎兵の母国であるヌミディアは、先の敗戦の後に攻め込まれて親ローマになっていたのだった。 これカンナエの戦いとは真逆の状況だったため、実際には劣勢と見ても良いぐらいだった(*22)。 本国内であるため戦象が存分に使えるというメリットはあり、そのためハンニバルも虎の子の戦象を前線に配置して打開しようとした。 しかしスキピオは戦象を察知し、歩兵配置によって戦象の突撃をかわす戦術を取った。 戦象は一直線にしか動けないため、敵陣に暴れ込めば重大な脅威だが、かわされると急な方向転換が難しい。 カルタゴ戦象部隊は配置を動かしたローマ軍により、敵のいない所を走りながら弓矢の餌食となり、ローマの前線はさして損害なく維持出来た。 このため、敵陣を混乱に陥らせて包囲することは出来なかったのである。 つまりハンニバルは自分の得意とする戦術にあっさりひっかかった訳ではなく、やむを得ない部分が大きいと思われる。 もちろん机上の空論においてはハンニバル側にも勝利の芽はあったと思われるが、実際に起きた過程と結果が全てある。 かくして大量の戦力を損失したカルタゴは完全に地中海での優位を失い、ここに第二次ポエニ戦役は終結した。 尚、言ってしまえばスキピオのこれは「ハンニバルのパクリ」なのだが、 前述の通りパクっても運用は超難しい上、そもそもパクること自体が難しい。 現代のようにネットも書籍もなく、参戦していた者の伝聞と情報しかない。 参戦者も多くが戦死したりパニックに陥っていたことからしても、得られた情報がどれだけ役に立ったかも疑わしい。 そんな中で相手がどういう意図でどう戦力を動かし、何をやったのかを調べて推測して把握し、 それを本家相手に実戦で行って勝利する。 こんな事をできる人間は、当時はハンニバル以外にはスキピオくらいしか存在しないだろう。 ――とはいえ。 先述の通り「ローマの盾」ファビウス将軍は、スキピオのアフリカ遠征には反対を表明していた。 ファビウスの目的はあくまでも「ローマの防衛=カルタゴ勢力のイタリア完全撤退」であり、 スキピオの目指す「カルタゴ本国に対する勝利」はリスクが高すぎた為である(*23)。 事実ザマの戦いでローマ側が負けていたならば、戦局はどうなっていたかわからないし(*24)、 そもそもスキピオがアフリカへ遠征できたのも、ファビウスたちがそれだけの余裕を作ったためである。 ただ完全勝利していなかったら再起を考えられる可能性も高いので(*25)、 スキピオのこの判断もリスキーであることは間違いなかったものの間違いとも言えない。 勝利のためにはリスクを取る必要があり、その時にリスクを取れる状況だったということだろう。 そして他にもスキピオの戦略を示すエピソードはある。 下準備としては徹底的にハンニバルを研究し戦術面で対抗出来るように努めたわけだが、 更に戦略面でもザマの戦い時点ではハンニバルに打てる手がほぼなく行動が読みやすくなっていた。 具体的に何をしたかと言うと、ローマ元老院の根強い反対意見を懐柔するために黙認という手段に出させ(*26)、身動きの取れないハンニバルを無視する形でアフリカ大陸に上陸。 そしてザマの戦いの前哨戦においては奇襲をかけてカルタゴ・ヌミディアの連合軍を破り、そのままヌミディア本国に攻め込むことで親カルタゴの王を捕虜にし親ローマの王を立てた。 このヌミディアこそがカルタゴ軍を支えていた騎兵の母体の母国である。 一方のハンニバルはこの敗戦の後に防衛のために呼び戻されたなどの事情があり、前述のハンニバルに戦略面で打てる手がほぼない(*27)という話に繋がる。 更に執政官になる前もハンニバルが居ない方面のカルタゴ軍相手に支援が薄い中で無双しており、イベリア半島方面を安定させた。 これが例外的な形で執政官とさせる最大のきっかけとなった。 執政官後の行動含めて一部評価の分かれる行動もあったものの、ハンニバルに対して勝機の薄い決戦に持ち込まざるを得ないようにしたのは彼だと言える。 このような感じでファビウスによるものも大きかったとは言えスキピオ自身もかなりの策を巡らしており、 ザマの戦いにおいて戦術・戦略の両面においてハンニバルを追い詰める絶好の好機を築き上げたことは疑いようがない。 スキピオは他にも大小様々な偉業を為しているが、戦略家として見ても間違いなく一流であったと言える。 少々脱線したが、 とにかく当時のローマにとってはそれだけハンニバルは生ける伝説であり、ひたすらに脅威だったのである。 そしてこのハンニバルとの一連の戦いでローマ軍は精強になっていき、戦術を学び、広大な地域と地中海の制圧という結果にも繋がり、 当時の欧州の覇権を握るきっかけとなった。 ◆その後 ザマの戦いの後は政治家として祖国復興に尽力し、膨大な賠償金の支払いにも成功する。 ローマ側からすると少なくとも裁かれて当然なハンニバルが生き永らえることができたのは、スキピオの意向(*28)が大きかったとされる。 しかし、そうまでしてもその後の生活は決して明るくなかった。 ローマに危険視され、また強引な改革で国内からも敵視されたためにハンニバルはシリアへと亡命。 しかしそこでも疎まれたために、またハンニバルと戦うことで強大になったローマ軍にシリア軍は完敗したことで、各地を逃亡する生活を余儀なくされる。 そして黒海沿岸のビテュニア王国にて、身柄の引き渡しを求められた際に逃亡しようとするも果たせず。 最後には毒を飲んだ、あるいは奴隷に首を絞めさせたとされるが真相は不明。自害であることはほぼ確かである。 皮肉なことに、ハンニバルを破ったスキピオもその後色々あってローマに疎まれ(*29)、 自ら隠遁した末にリテルヌムで死去したと伝わっている。 死因や葬儀の様子、先祖代々の墓に入るのを拒んだ彼がどこに埋葬されたのかも分かっていない。 しかし死去した時期だけは残っており、奇しくもハンニバルと同時期、おそらく同年である。 後年に再会したハンニバルとスキピオはこんな会話を交わしたという逸話がある。 スキピオ「あなたは史上もっとも偉大な指揮官は誰かお考えですか?(*30)」 ハンニバル「1人目はアレキサンダー大王。2人目はピュロス王。3人目はこの私だ。」 スキピオ(微笑しながら)「では、もしザマであなたが私を破っていたらどうなっていましたか?」 ハンニバル(当然のように)「ピュロス王を上回り、アレキサンダーをも上回って、私が史上1番の指揮官となったろう」 …とは言えこのエピソードは後世の創作(*31)の可能性が高いと思われる。 敵であったローマにおいて強大で恐ろしい敵と恐れられつつも高く評価されており、 現代に残る彼についての記述はほとんどがローマによるものである。 子供が泣き止まなかったり駄々をこねたりすると「ハンニバルが来るよ!」と言っていたともいわれ、ある意味「遼来遼来」と似たようなものである。 そして、このハンニバルの優秀さは、ある意味でカルタゴの死命をも決することになる。 ローマはハンニバルの活躍によってカルタゴを非常に恐れ、従属させるだけでは安心できなくなってしまったのである。 戦後、ローマはカルタゴから領土を大幅に割譲させ、高額の賠償金を背負わせ、独立して交戦させない等厳しい監視下に置いた。 ところがそんな悪条件にもかかわらずカルタゴが賠償金を払いきってしまった(*32)ために、ローマはカルタゴを潰すしかないと考えるようになってしまった。 紀元前150年頃、ローマはカルタゴに続けざまに難癖をつけ、武器類を全て取り上げた挙句に、海洋国家カルタゴから港を引き払い内陸部へ都市ごと移住せよと言う要求を突きつける。 たまりかねたカルタゴはローマと戦端を開くが、往時の経済力も同盟国もハンニバルも失ったカルタゴに、ローマと戦う力などある訳もない。 カルタゴは3年近い抵抗の末に焼き払われ、大半の市民は死亡、生き残りは全て奴隷として売られた。(*33) ハンニバルがローマに植え付けたカルタゴへの恐怖は、カルタゴという一つの国家を跡形もなく地上から消滅させたのである。(*34) まあハンニバルの活躍に関係なく消滅させていた可能性も高いが。 その後は他でもないローマ自身が大規模な植民を行い、かつてカルタゴであった地に新たに都市を建設した。現在残っている古い遺跡は大体この時のものである。 ハンニバルをカルタゴから見た資料はこの時にことごとく焼き払われたと思われ、ほとんど無いのも当然である(*35)。 ◆ハンニバルの敗因 基本的にザマの戦い以外では常勝無敗のハンニバル・バルカ。 彼が負けた理由としては諸説あり、機会を逃さずローマを包囲殲滅すべきだったと言われるが、 成功したかどうかはわからない為、ハッキリと断言できる唯一の理由をあげる。 補給……そして政治である。 カルタゴ本国からの補給線が伸びきった結果、略奪によって現地調達する他に物資入手手段が無くなり、 さらにファビアン戦略によって尽く妨害されてしまった結果、徐々にハンニバルは消耗していったのだが、 これはカルタゴ政府の意思統一がされなかった為、積極的にハンニバルを支援できなかったのだ。 またハンニバルがローマ近隣諸国の切り崩しに失敗し、事実上孤立無援となったのも大きな原因である。 そして戦役後のハンニバルにおいても、改革方針こそ的確だったが強引な手法故に反発を産み、放逐されてしまった。 ここでハンニバルの人となりを示す文を引用したい。 暑さも寒さも、彼は無言で耐えた。 兵士と変わらない内容の食事も、時間が来たからというのではなく、空腹を覚えればとった。 眠りも同様だった。 彼が一人で処理しなければならない問題は絶えることはなかったので、休息をとるよりもそれを片づける事が、常に優先した。 その彼には夜や昼の区別さえもなかった。 眠りも休息も、柔らかい寝床と静寂を意味しなかった。 兵士達にとっては、樹木が影をつくる地面に直に、兵士用のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバルは見慣れた光景になっていた。 兵士達は、そばを通るときは、武器の音だけはしないように注意した。 ハンニバルが本国の政治基盤をきちんと固めた上で出撃し、ローマ諸国の切り崩しを迅速に行っていれば。 損耗を恐れることなく首都ローマへと進軍し、早期に決着をつけることができていれば。 あるいは歴史の流れは大きく変わっていたに違いない。 なにせ新興国であったローマは、ハンニバルとの戦いで戦争を学び、やがて世界に覇を唱えて行ったのだから。 また、ハンニバルとの戦いの過程で自然と周辺地域の支配が固まったことも大きい。 ただ仮に無理にローマに進軍したとして、勝利出来ていたかと言うと怪しい部分がある。 ハンニバルは明らかに高度な戦略を練っているので、その彼が進軍しないと判断したということは補給などの都合で戦えない事情があったか、勝ち目が薄かった可能性が高い。 また、それをなんとかしてハンニバルが勝利できたとして、果たしてカルタゴ本国がまとまることができたのか、一介の将軍に過ぎないハンニバルが全権を握ることができたのか?という部分は怪しいところがある。 そしてローマほど長く存続出来たかと言うと怪しい。 もっともそれを言うならローマのスキピオだって大英雄にして執政官でもあったのに、晩年の活動がほぼ伝わっていないのだから、 ここだけ取り上げてもほとんど意味はない。 仮定の話をするならそれこそハンニバルが全権を握らずとも、カルタゴが欧州の覇を握ることになっていた可能性もあったりなかったりする訳だしいくら論じても意味があまり無い。 ◆メディアでは 現在ヤングキングアワーズで連載中の「ドリフターズ」(作 平野耕太)に宿敵であるスピキオ・アフリカヌスと共に登場。 老いてはいるが、鋭い戦術眼は失われておらず、廃棄物(エンズ)に対して勝機はあるかと尋ねられると、「ゼロじゃないさ」と返した。そして揃って転生したスキピオと元気にケンカしていた また、ヤングジャンプでも「アド・アストラ スキピオとハンニバル」というタイトルで、ハンニバルとスキピオを主人公にした歴史漫画が連載中である。 映画では1959年のイタリア・アメリカ映画『ハンニバル』(監督 エドワード・G・ウルマー、主演 ヴィクター・マチュア) 2006年のBBC制作映画『ガーディアン ハンニバル戦記』 などがハンニバルの生涯を描いている。 ◆つまりどういう人? 現代人がタイムスリップして現代知識チート無双しようとしても勝つことは難しい超人。 ぶっちゃけ存在自体がチート。 カンナエの戦いで行った包囲殲滅戦術が、 現代においても各国の軍で参考にされ教えられていると言えばそのチート具合が如何程か理解できるだろう。 もちろん当時における既存の戦術についても把握しており、騎兵や戦象を用いた戦術も活用している。 都市経営などにおいても手腕が優れていた。 当時並び立つものが居ない程の超人っぷりに戦争中も戦後もかえって議会からの支持には恵まれなかったが…。 あとは彼が政治面の根回しさえどうにか出来ていたら、ローマは本当に打つ手が無かっただろう。 あるいは彼と同等の能力のある将軍が別に居たなら、また話は違っていたかもしれない。 もちろんハンニバル以外にも有能な将兵は居たのだが、ここぞという時に敗戦してしまった。 そしてその敗戦も例の如くスキピオが多く関わっている。 追記・修正はローマを滅ぼしてからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 反対意見もなかったようなので、コメント欄のリセットを行いました。(1回目) -- 名無しさん (2015-09-08 16 29 31) 現アメリカ軍を指揮させてみたいww -- 名無しさん (2015-11-02 22 23 23) ハンニバルと孫子を超える奴はもう出てきそうにねぇなぁ -- 名無しさん (2015-11-02 22 38 01) そいや銀英伝にハンニバルの戦術が使われてた気がするな -- 名無しさん (2015-11-04 11 37 30) 超えるっつーか彼らの作った枠内をとことん探求してるだけだからね、どんな駄作戦であろうと彼らの頭の中でしかない、彼らの枠外の事を想像できたらそれこそ歴史に名が載るよ -- 名無しさん (2015-11-07 20 57 53) ドリフターズではぶっちゃけハンニバルがボケてなかったら漂流物勢がチートになりすぎるか -- 名無しさん (2015-11-07 21 09 12) 越えてどうするって時代だしな~。現状では越える必要が無い、文字通り屠竜の技だ。 -- 名無しさん (2016-01-16 03 30 52) ハンニバルとスキピオだもんね。ぶっちゃけこのコンビに勝っていいのはアレク大王キュロスぐらいだろ(例の逸話的に -- 名無しさん (2016-07-31 11 49 56) 紀元前の戦術を未だに参考にする現代が情けないのか、現代でも参考にされる戦術を紀元前で考えたのが凄いのか・・・多分後者 -- 名無しさん (2016-09-08 16 56 33) いや、本来ならあの時代の軍じゃできないことをやってのけたヒト。存在自体がオーバーテクノロジー。 -- 名無しさん (2016-09-08 17 27 49) 同じ時代にその才能を理解できるのが敵であるローマにしか居なかったっていうのがある意味最大の不運。戦時中の補給はともかく再建後に追い出すとかアホとしか思えん事やった結果案の定滅ぼされるカルタゴ・・・ -- 名無しさん (2016-09-08 17 47 07) ここで凄いのはそんなハンニバル相手に最終的に勝利を掴んだローマという国の厚みだと思う。異世界モノとかでローマ級の国が存在したら勝ち確 -- 名無しさん (2016-10-05 21 50 49) 紀元前なのに、知恵等頭周りが数年~数?年以上先をゆく人。突然変異的な人だった......のだろうか。 -- 名無しさん (2016-10-12 13 53 14) 運と才覚と時代と環境が最高に噛み合った結果じゃないかな。仮にこういった偉人を凌ぐ怪物的な天才が現代にいたとしても、大規模戦で一人の力に頼ること自体が愚だから宝の持ち腐れだし、才能を開花させて偉業を成せる余地が無い。 -- 名無しさん (2016-10-15 17 08 59) ↑3 マジでそれ。仮にローマにファビウスやスキピオが居なくても恐らくそれに代わる誰かがローマを勝利に導いただろう。あの国家優秀な人間多すぎる。TOPPOかよ。 -- 名無しさん (2016-10-16 22 21 58) すごい人なのに他の二人と比べて知名度がダントツで低いピュロスが不敏 ピュロスの勝利っていう慣用句があるとはいえ… -- 名無しさん (2016-10-20 00 11 22) [] -- 名無しさん (2016-12-06 18 26 30) カンナエの戦いの概要を調べて「へー、なかなかの戦上手だったんだなー」とか思ってたけど紀元前の人で吹いた。なんだこいつ…生まれる時代間違えとるやろ… -- 名無しさん (2016-12-06 18 28 00) ハンニバルの存在で軍事学が何年分進んだんだろう。こういう特異点があるから歴史は面白い。 -- 名無しさん (2017-02-06 15 17 38) 後世に名を残した最大の要因は自分と同等のライバルがいたことだと思う -- 名無しさん (2017-02-06 16 26 30) なにげにカンナエの戦いの前もえげつないことやってないか、この人。アルプス超えは奇襲そのものだしそのあとやってることも情報戦理解してないとできないし… -- 名無しさん (2017-02-09 14 30 01) それにしても謎だけど、ハンニバルはどうやって、戦況を把握したんだ?項目にもある通り、馬上からの俯瞰しかないわけだし……。 -- 名無しさん (2017-02-09 15 07 42) ↑「んー・・・勘?」 -- 名無しさん (2017-04-04 21 14 03) ↑当時の戦況や相手陣の配置、地形などは逐一斥候を出す事で情報を把握してたはず -- 名無しさん (2017-04-05 14 45 16) 歩兵の本領って軍歌にアルプス越えのことが歌われているよな -- 名無しさん (2017-05-26 14 10 49) 包囲殲滅云々はwikipediaの図解がわかりやすい。よくこんなの編み出したもんだ -- 名無しさん (2017-05-26 15 27 49) >かえって議会からの支持には 劉邦、朱元璋「優秀すぎる将軍は粛清しとけって、それ一番言われてるから」 -- 名無しさん (2019-02-16 18 34 44) ↑ それをやらかして前者は嫁が独裁、後者は身内同士でつぶしあったんだよな。 -- 名無しさん (2019-02-16 19 18 49) なーんとかその後まで編集終わったけど時間がないのでここまで -- 名無しさん (2019-08-09 17 44 39) 「ミヌキウス(に指揮権委譲)、いいでしょうか?」「(ファビウスに不満が)たまってる…ってやつなのかな?しょうがないにゃぁ…」 -- 名無しさん (2019-08-10 13 43 25) この人ローマ叩きのめしすぎじゃない……? -- 名無しさん (2020-01-13 20 59 49) ハンニバルが一番凄いのは頭の良さとかよりもその精神力と統率力だわ -- 名無しさん (2020-05-23 12 32 56) 現代人がタイムスリップして現代知識チート無双しようとしても勝つことは難しい...いやむしろハンニバル自身が現代から転生した存在だったのでは -- 名無しさん (2020-07-16 13 40 59) 第三次ポエニ戦争後にカルタゴに塩が撒かれたとされる逸話は疑問が呈されている。具体的にカルタゴに塩を撒いたという一次史料がない。後世の伝で旧約聖書のシェケムの町が破壊されて塩が撒かれた逸話を流用したのではないか、と。 -- 名無しさん (2021-01-04 01 32 12) というか当たり前の話だけど、現代「知識」の程度じゃ意味がない。昔だってハンニバルみたいなのは「エリート」なわけで、むしろたかが現代の教育受けてる程度で、数多の才能の中から見出された当時の豪傑に勝てると思うほうがおかしい。そりゃ現代「兵器」なら多少のバカが指揮したっていけるだろうけど、兵器が同じならものをいうのは頭の良さと経験なわけで、そりゃ一般人が昔ののエリート中のエリートに勝てる道理なんかあるわけない。 -- 名無しさん (2021-03-09 18 41 47) つけくわえるなら技術は全面的に進歩するものだから、例えば火薬の作り方だけ知ってれば銃がつくれるわけじゃない。今の技術は先人たちがいろんな分野で積み上げてきた膨大な知識の上になりたってるわけで、たかだか一人の人間が過去にいったって、冶金技術が一気に進歩するわけでもないんだから圧倒的な兵器なんかつくれっこない。知識は進歩を早くするかもしれないけど、知識だけじゃいきなりぽっと技術が完成するわけじゃない。 -- 名無しさん (2021-03-09 18 45 18) ハンニバルは戦術ばかり取り上げられるが、戦略的にも天才だと思う。敗戦の将ではあるけど、ファビウスという互角以上の戦略家がいなかったらそのまま勝てただろう。そもそも圧倒的に不利な状態から始まってるポエム戦争で、あれだけの大立回りは並みの戦略家じゃ無理。アルプスと湿地の迂回や、ガリア人の補充、大国の弱点が内部分裂だと見抜くのも戦略眼の証左。実際にローマ南部は結構離反したし、マケドニアまで加勢して、期待ほどではないにしても成功してる。誤算は、ローマの戦術が強すぎて、積み重ねた戦略的勝利でハンニバルの戦略を覆ったこと -- 名無しさん (2021-09-28 01 37 15) ハンニバルは常勝だったけどスペイン、マケドニア、サルデーニャなどで味方が敗けすぎた。奇しくも父ハミルカルみたいな敗けかたしてる。 -- 名無しさん (2021-09-28 01 45 49) はじめてカンナエの戦いを知ったときは感動した -- 名無しさん (2021-12-17 18 01 03) ハンニバルが恐ろしいのは、雑多な寄せ集めの軍で地中海最強のローマ軍に連勝したことだろう。 -- 名無しさん (2022-07-04 08 49 49) ハンニバルは「最高指導者」的な一般名詞で実は一人じゃなかったんじゃないのか?と言う全く根拠のない憶測が頭をよぎった。 -- 名無しさん (2022-07-04 13 19 56) カルタゴの政治的最高指導者はスーフェース(špṭ)だけど軍事指揮権はない。指揮官はフェニキア語でtm'-- 名無しさん (2022-07-29 06 39 59) あとハンニバルの名前自体はかなりありふれていて、ポリュビオスには現存箇所でも7人ハンニバルが登場している。 -- 名無しさん (2022-07-29 07 07 52) そもそもローマとカルタゴじゃ悲惨なほど軍事力が違いすぎて、ハンニバルがいくらプランを練ろうが焼石に水なんだよな。軍事力の差を戦術で一時的にどうにかしてみたけど、ローマが数を活かして戦略を繰り出したらどうしようもなかったという話。戦術じゃ戦略には勝てないってことだな。 -- 名無しさん (2024-02-25 01 55 45) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/gods/pages/83443.html
ラースローイッセイ(ラースロー1世) キリスト教の聖人の一。 ローマ皇帝の系譜に登場する人物。 ハンガリー王。 「聖王」と呼ばれる。 関連: ベーライッセイ (ベーラ1世、父) リグザ (母) アデライデフォンラインフェルデン (アデライデ・フォン・ラインフェルデン、妻) ピロシュカ (娘)
https://w.atwiki.jp/eirei/pages/160.html
アデマール・ド・モンテイユ教皇領????~1098統率:A 武力:B 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------フランスのル・ピュイ司教。第1回十字軍の指導者の一人。教皇代理として民衆を鼓舞するだけでなく、自らも騎兵を率いて戦の指揮を執り、第1回十字軍の成功に貢献した。トゥールーズ伯サン=ジルの補佐を務めた。アンティオキア攻略の後に疫病に倒れた。 アレクサンデル2世(アンセルモ・ダ・バッジョ)教皇領(生まれはイタリア・ミラノ)????~1073統率:C 武力:C 政治:D 知力:C 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第156代ローマ教皇。神聖ローマ帝国が認めず、対立教皇としてホノリウス4世が立てられたため、混乱が生じた。 ヴィクトル2世(ゲブハルド)教皇領(生まれは神聖ローマ帝国)1018~1057統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第153代ローマ教皇。一年の空白の後教皇に選出された。教会の規律を正した。 ヴィクトル3世(ダウフェリウス、デジデリウス)教皇領(生まれはイタリア・ベネヴェント)1026~1087統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第158代ローマ教皇。ベネヴェント公ランドルフォ5世の子。モンテ・カッシーノ修道院長。グレゴリウス7世の側近として仕えた。ベネヴェントで教会会議を開き、対立教皇クイレメント3世の破門、俗人による叙任の禁止などを決定した。福者。 ウルバヌス2世(オド・オブ・ラゲリー)教皇領(生まれはフランス・ラゲリー)1042~1099統率:A 武力:A 政治:B 知力:A 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第159代ローマ教皇。オスティア司教。クレルモンの教会会議において聖地エルサレムを異教徒から取り戻すためと、十字軍(第1回十字軍遠征)を召集した。福者。 グレゴリウス6世(ヨハネス・グラティアヌス)教皇領????~1047統率:B 武力:A 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第148代ローマ教皇。ベネディクトゥス9世に変わって教皇に就任する。自身を外敵から守るため個人的な軍隊を組織したが、退位させられた。 グレゴリウス7世(ヒルデブランド)教皇領(生まれはイタリア・トスカーナのソバーナ)1020~1085統率:A 武力:A 政治:B 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第157代ローマ教皇。グレゴリウス6世に仕えていた。教皇権の向上に成功し、聖職叙任権に関して神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と争い破門に追いやる。結局、ハインリヒ4世が教皇に許しを請うこととなった(カノッサの屈辱)。聖人。 クレメンス2世教皇領(生まれは神聖ローマ帝国・ザクソン地方)1005~1047統率:D 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第149代ローマ教皇。聖職売買などの問題で教会改革を行った。 クレメンス3世(ギベール)教皇領(生まれはイタリア・パルマ)1029~1100統率:D 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------グレゴリウス7世に対する対立教皇。神聖ローマ教皇ハインリヒ4世に擁立された。スレゴリウス7世の後継者ヴィクトル3世に破門される。 シルウェステル2世(ゲルベルト・ド・アーリラック)教皇領(生まれはフランス・オーベルニュ)950~1003統率:C 武力:D 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第139代ローマ教皇。ミレニアム期を越えた教皇。教会内の堕落を無くそうと努力した。アラビア数字の使用を導入した。 シルウェステル3世(ジョン)教皇領(生まれはローマ)????~1063統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第146代ローマ教皇。ベネディクトゥス9世に代わり教皇の座に就くが、対立教皇として破門された。 ステファヌス10世(フレデリック・デ・ロレーヌ)教皇領????~1058統率:B 武力:C 政治:B 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第154代ローマ教皇。教皇に就任してすぐ聖職者の道徳規準を高めた。血縁者同士の婚姻を禁じた。また、周囲には優れた知性の持ち主たちが居て教皇の教会改革を支援した。 セルギウス4世(ピエトロ・マルティーノ・ボッカペコラ)教皇領(生まれはローマ)????~1012統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第142代ローマ教皇。司教や修道院長における不道徳を正すために尽力した。 ダマスス2世(ポッポ)教皇領????~1048統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第151代ローマ教皇。在位僅か23日で亡くなった。 ニコラウス2世(ジェラルド・デ・ブルゴーニュ)教皇領????~1061統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第155代ローマ教皇。ローマで教会会議を招集し、教皇の認可無しに司教に就任することを禁じた。更に教皇の選出は枢機卿の中から行われるべきであることを決定した。 ベネディクトゥス8世(テオファラクトゥス)教皇領(生まれはローマ)????~1024統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第143代ローマ教皇。教皇選出にあたっての反対派に対抗するため、ハインリッヒ2世の助けを求めた。後にローマでハインリッヒ2世に戴冠した。 ベネディクトゥス9世(テオファラクトゥス)教皇領(生まれはローマ)1012~1055統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第145代、第147代、第150代ローマ教皇。唯一3度教皇の座に就いた人物。教皇ベネディクトゥス8世と教皇ヨハネス19世の甥に当たる。後に聖バシリウス修道院に入る。 ベネディクトゥス10世(ジョン・ミニクス)教皇領????~1080統率:D 武力:C 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------ニコラウス2世に対する対立教皇。 ホノリウス4世(ピーター・カダルス)教皇領????~1072統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------アレクサンデル2世に対する対立教皇。神聖ローマ帝国はアレクサンデル2世の即位を認めず、教皇ホノリウス4世として皇帝ハインリヒ4世に担がれた。 ヨハネス16世(ジョン・フィラガットー)教皇領????~????(11世紀)統率:B 武力:D 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------グレゴリウス5世に対する対立教皇。大きな影響力を持ち、グレゴリウス5世はパヴィアへの逃亡を強いられた。 ヨハネス17世(シッコ)教皇領(生まれはローマ)????~1003統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第140代ローマ教皇。 ヨハネス18世(ファサニウス)教皇領(生まれはイタリア)????~1009統率:C 武力:D 政治:B 知力:C 文化:D 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第141代ローマ教皇。短い間であったがラテン教会とギリシャ教会との結合を復活した。 ヨハネス19世(ロマヌス)教皇領(生まれはイタリア)????~1032統率:D 武力:D 政治:C 知力:D 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第144代ローマ教皇。コンラート2世を神聖ローマ皇帝に戴冠した。 レオ9世((ブルーノ)教皇領(生まれはフランス・アルザス地方)1002~1054統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第152代ローマ教皇。トゥール司教。コンスタンティノポリス総主教ミハイル1世キルラリオスと対立し、後の教会の東西分裂に影響を及ぼした。イタリア南部に侵入したノルマン人と戦って捕虜となり、獄中でマラリアにかかり病死した。聖人。
https://w.atwiki.jp/hanguk/pages/18.html
トップページ 韓国語のローマ字表記 韓国語のローマ字表記 韓国文化観光部告示 第2000-8号、抄録 1.母音の綴り 1.1 単母音 ㅏ ㅓ ㅗ ㅜ ㅡ ㅣ ㅐ ㅔ ㅚ ㅟ a eo o u eu i ae e oe wi 1.2 二重母音 ㅑ ㅕ ㅛ ㅠ ㅒ ㅖ ㅘ ㅙ ㅝ ㅞ ㅢ ya yeo yo yu yae ye wa wo wae we ui [付記1]「ㅢ」は「ㅣ」と発音される場合でも「ui」と綴る。 2.子音の綴り 2.1 破裂音 ㄱ ㄲ ㅋ ㄷ ㄸ ㅌ ㅂ ㅃ ㅍ g,k kk k d,t tt t b,p pp p 2.2 破擦音(口蓋音) ㅈ ㅉ ㅊ j jj ch 2.3 摩擦音 ㅅ ㅆ ㅎ s ss h 2.4 鼻音 ㄴ ㅁ ㅇ n m ng 2.5 流音 ㄹ r,l [付記1]「ㄱ,ㄷ,ㅂ」は母音の前では「g,d,b」、子音の前では「k,t,p」と綴る。 [付記2]「ㄹ」は母音の前では「r」で、子音の前や語末では「l」と綴る。ただし、「ㄹㄹ」は「ll」と綴る。 3.音韻変化 3.1 子音間の同化作用 3.1.1 鼻音化 「ㄱ」+「ㄴ/ㄹ,ㅁ」→「ㅇ+ㄴ,ㅇ+ㅁ」(-ngn-,-ngm-) 「ㄷ」+「ㄴ/ㄹ,ㅁ」→「ㄴ+ㄴ,ㄴ+ㅁ」(-nn-,-nm-) 「ㅂ」+「ㄴ/ㄹ,ㅁ」→「ㅁ+ㄴ,ㄴ+ㅁ」(-mn-,-mm-) 「ㅁ,ㅇ」+「ㄹ」→「ㅁ+ㄴ,ㅇ+ㄴ」(-mn-,-ngn-) 3.1.2 流音化 「ㄴ/ㄹ」+「ㄹ/ㄴ」→「ㄹ+ㄹ」(-ll-) ※「ㄴ」+「ㄹ」→「ㄴ+ㄴ」(-nn-)の場合もある 3.2 y音(야,여,요,유,얘,예)の変化 「ng系(ㅇ,ㄱ)+y音」→「ㅇ+ny音」(-ngny-) 「n系(ㄴ,ㄷ)+y音」→「ㄴ+ny音」(-nny-) 「m系(ㅁ,ㅂ)+y音」→「ㅁ+ny音」(-mny-) 「ㄹ+y音」→lly音(-lly-) 3.3 口蓋音化 「ㄷ」+「이」→「지」(ji) 「ㅌ」+「이」→「치」(chi) 3.4 激音化 「ㅎ」+「ㄱ,ㄷ,ㅂ,ㅈ」→「ㅋ,ㅌ,ㅂ,ㅈ」(-k-,-t-,-p-,-ch-) 「ㄱ,ㄷ,ㅂ」+「ㅎ」→hを付ける(-kh-,-th-,-ph-) 3.5 濃音化→そのまま表記 「ㄱ」+「ㄱ,ㄷ,ㅂ,ㅈ」→(-kg-,-kg-,-kg-,-kj-) 「ㄷ」+「ㄱ,ㄷ,ㅂ,ㅈ」→(-tg-,-td-,-tg-,-tj-) 「ㅂ」+「ㄱ,ㄷ,ㅂ,ㅈ」→(-pg-,-pd-,-pg-,-pj-)