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web hosting domain names photo sharing 竜馬くんのページ 過去ログ1| 過去ログ2| 過去ログ3| 過去ログ4| 過去ログ 5 過去ログ6| 過去ログ7| 過去ログ8| 過去ログ9| 過去ログ10 過去ログ11| 過去ログ12| 過去ログ13 | 過去ログ14 ゆうさんのページ| 渡辺さんのページ| 掲示板に書き込む K-Kです。 みなさん、こんにちは。 長い間、当掲示板をご利用くださって有り難うございます。 この度、掲示板を「思考錯誤」に移転しました。議論をつづける場合は、「思考錯誤」の方にご投稿ください。 有り難うございました。 掲示板「思考錯誤」 http //t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/ 核心 - 02/11/30 22 04 37 コメント >K-Kさん これも消していいけど。 親父が虐殺に使用した刀十数本は完全な形で保管されています。 核心 - 02/11/30 21 52 42 コメント >K-Kさん これ消していいですけど。 うちの親父に聞いたけど「なぜ黙っているのか」というと「昭和天皇のハジになるから」なんだって。 「昭和天皇のハジ」のせいにして自分たちのハジを隠してるだけじゃない。 親父の話があったときから元戦友から毎年、梨がおくられてくるようになりました。 あれって「虐殺はナシにしてっくれ」ってことだったのかなあ? ゆう - 02/11/26 23 06 33 電子メールアドレス 「東中野氏の徹底検証」より コメント 只今、自前のHP製作のため、掲示板は「休暇中」です。まもなく、そのうち一部は公開できると思います。 とはいえ、あまりご無沙汰すると忘れられそうなので(^^)、「ネタ」をひとつ、投稿します。 (新HPに掲載予定です) ********************* ●公務以外の外出は不可能? 日本兵は公務で外出する以外、外出は原則として不可能であった。厳しい軍規の下、強姦に出かける可能性は極めて少なかったように思われる。 (「徹底検証」P274) 「極東軍事裁判」でも、このような証言が行われています。確かにこの通りであれば、「不軍紀事件」などおこりようがない。 しかし実際には、「南京戦史資料集」などに収録されている兵士の日記を見ると、結構自由に外出しているようです。 ○初年兵の手記「硝煙の合間にて」 (歩兵第七聯隊第一歩兵砲小隊 N・Y一等兵) 十二月十四日、南京城内 (略)午後部屋を片付け終ってから水を探したり又今夜のお菜にするため材料を見つける為に堀田さんと二人で家を出た、南京には占領と同時に多くの憲兵が入って軍紀風紀の取締についていると言われていたので、自分達は裏町づたいに家を覗いていった。 (「南京戦史資料集?」P385) ○水谷荘日記「戦塵」 (歩兵第七聯隊第一中隊・一等兵) 十二月十七日 (略)今日は五時起床。歴史に残る南京入城式だ。指揮班からH伍長、I、G(注.橋本伍長、稲垣上等兵、常光上等兵?)が参加する。宿舎の直ぐ裏にドイツ人の住宅があり、何となく親近感をもって遊びに行く。此の家の主人シハイリン氏は居ないが、中国人の給仕が居て葉巻を出してくれた。たどたどしい日本語を話せるのも居たので、正午迄遊んで帰る。 午後は近くの池に、支那軍の手榴弾を投げ込んで魚をとった。六○種以上もある大きなのが五匹も取れ、その以下のものも十数匹取れたので、早速天ぷらや塩焼にして食う。 夜昨日の裏の山寺へ行って、魚をとる為の手榴弾二箱を取って来る。 (「南京戦史資料集?」P397) ○牧原信夫日記 (歩兵第二十聯隊第三機関銃中隊・上等兵) 十二月十八日 午前六時半起床、自分は岡山と炊事当番であった。八時に食事を終る。皆は食事が終ると何時とはなしに徴発に出る。自分は事務室に居残る。 (「南京戦史資料集?」P407) 更に、「公務外出」と言っても、別に書類を届けにいくような用事ばかりではない。東中野氏は、別の章で、次のように書いていますが・・・。 また、それから二日後、山田支隊の堀越文男伍長(仮名)は部隊長の命を受けて城外から城内に入った。堀越伍長が公用外出して見たものは、路上の死体の山ではなかった。露店であった。そこで堀越伍長は、「難民の売る平たいパン様のもの」を買っている。 (P232) 堀越伍長の、日記の該当部分です。 ○堀越文男 陣中日記 十二月十九日 聯隊は揚子江を渡江し警備のため冬営するの目的を以て明二十日出発の予定につき南京城内に至りて炭焼きに必要なる斧鋸その他のものを徴発すべしとの部隊長の命令をうけて小泉准尉以下十名南京城内へ出発す、九時なり。 難民区に至りて難民の売る平たいパン様のものを食ふ、テンプラうまし。 南方へ、山へ、よきたてものあり入りてチャン飯を馳走になる、よろこびてもてなしくれたり、うましうまし正にうまし、午後二時自動車にてかへる。 (「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P79) 「公用外出」とは、実は「徴発」のことでした。あまりいばれたものではありません。しかし、これを「公用外出」の言葉でごまかす、東中野氏の神経は・・・。 渡辺 - 02/11/25 02 08 14 電子メールアドレス 十一年式軽機関銃 コメント ご紹介URL http //www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage429.html ----- 腰溜射撃 近接戦闘」時に多用する射撃方法で「滿洲事変」以降、現地部隊では多用されてきた射撃方法であり、昭和14年 に国軍の制式射撃方法として「緒兵射撃教範」に明文化される。 目標の方向に左足を前に出し、右足を少しまげて腰を落とすと共に腰の位置に軽機関銃を構えて、右手で「銃把」を握り「左手」で、「九六・九九式軽機関銃」では「提把」を保持し、「十一年式軽機関銃」では銃身下の「握革」をつかんで射撃する。 ----- まぁ、メイドさんの腰溜射撃姿勢でも見て研究してください。 長いページの中ほどにあるから、「十一年式軽機関銃腰溜射撃」でページを検索してみてね。 何んか変なの...(^^; 渡辺 - 02/11/24 21 33 33 電子メールアドレス 地図 コメント タラリさん:> >ご存じかと思いますが、地図の一枚一枚は著作権があり、1/2までしかコピーを許されていません。もう一度行ってコピーするしかありません。 全然知りません。生協のコピーカード使って、バンバン複写しています。もっとも、古い地図だと、もうパブリックドメインかも。 大学の図書館なら、OPACで検索して、他の大学に史料複写や閲覧の依頼ができるんじゃないでしょうか。 私なんか、肩書きもないし、紹介者もままならないので、最初が大変ですよ。 だから、交通費など考えると買ってしまったほうが、経済的で早いんですね。 「新南京市実測詳図」、確か1万8千分の1とか、変な縮尺だったような...それなら、25,000は高くないと思います。至誠堂の 1/20,000のを 20,000 で買いましたから。 最高法院の、中山北路をへだてた向かい側なら、かなり大きな池がありますよ。 K-K - 02/11/24 00 11 06 電子メールアドレス タラリさんへ コメント K-Kです。 こんにちは、タラリさん。 地図、羨ましいですね(笑)。 私も詳細な地図が欲しくて探している所なのですが、値段が高いので尻込みしているところです。 例えば、以下のサイトで調べると、 http //www.kosho.or.jp/ 「新南京市実測詳図」というのがあります。これは、検索して調べてみると、以下のような曰くがあるようです。でも、2万五千は高すぎる(笑)。 何か研究の成果がありましたら、ご報告をお願いします。 http //www.mmjp.or.jp/nankin1937/kohan6b.html#SEC5 ---- 引用 ---- 東史郎日記の記述には根拠がある。当時の南京高等裁判所の門前に確かに池が地図にはっきりと示されている。(北京日報12/27) 新華社天津12月26日打電(記者劉慶禄) 天津の収蔵家の陳継揆は数日前自己の収蔵する歴史地図の中から、敗訴したばかりの「東史郎日記事件」のために証拠を探し出し、日本軍の南京大虐殺の時期に、南京高等法院の門前に確かに池が存在した証明した。 日本の中国侵略兵士の東史郎の日記の中で、南京大虐殺について次のように記載されていた。 南京の高等法院の門前で「元上官の橋本は、郵便局用の麻袋の中に詰め込まれた中国人にガソリンをかけ、手榴弾を結びつけ、点火して池の中に投げ込んだ」 東京裁判所は、当時の南京高等法院の門前には池は存在していなかったとしている。池が存在するか否かがこの事件の焦点の一つとなっていた。 今年77歳の陳継揆はかつて天津師範大学の歴史学部の主任を務めており、彼はずっとこの事件に関心をもっていた。数日前、彼は自分の所蔵する千部にものぼる歴史地図の中から、1935年9月に武昌の亜新地学社が発行した「新南京市実測詳図」を探し出した。天津師範大学の地理学部副教授の高秀林は、この地図を見終わり紹介して次のように語っている。この1 1.8万の縮尺の地図の中では、南京市高等法院の門前に三つの大きさの異なる池を見いだすことができる。だいたい、それぞれ2200平方メートル、1500平方メートル、800平方メートルで、この三つの池と高等法院の距離は、最も近くで100メートル前後で、最も遠くでは300メートル前後である。 陳継揆は収蔵名家の出身で、現在彼は日本軍の中国侵略時期の手書きの天津地区軍事地図を多数持っている。彼はこの状況を関係方面から東史郎さんに伝えてほしいと願っている。 ---- 終わり ---- K-K - 02/11/23 23 49 49 電子メールアドレス 原さんへ コメント K-Kです。 こんにちは、原さん。 私の主張が少々、アラシになってしまったようで管理人様には謝罪した いと思います。 いいえ、謝罪には及びません。 何せ、竜馬くんと竜馬くんのダブハンに関しては、もともと、この掲示板に生息していたものです。 ですから、逆に、原さんに竜馬くんがご迷惑を掛けたことに対して、私の方から謝罪しなければならないくらいです(笑)。 「南京大虐殺」の表現は「儲かりまっか?」様に対して以後使わないよう に心掛けたいと思います。 東京裁判での「The Rape of Nanking」は私の語学力では「南京大虐殺」 とは訳せません。しかし、中国語の「南京大屠殺」は「南京大虐殺」と訳す ことは私の語学力でも充分できます。屠殺(tusha)とは「大量虐殺する」と いう意味です。 特に竜馬くん(又の名を「儲かりまっか?」)に対して「南京大虐殺」を使わない、という必要性は無いのではないでしょうか?何も、「南京大虐殺」は東京裁判で使われたのではなく、それ以前から使われていました。詳しくは、渡辺さんが以下のページで詳述しているので、参考にするのがいいでしょう。 「問答有用」の投稿 渡辺さん『1937,8年に「南京虐殺」はどのように伝えられたか』 http //bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=12547 range=1 ついでに書いておくと、東京裁判で判決が出たのは1948年11月ですが、それ以前に、1946年に「中国軍事法廷(南京)」において、谷寿夫ら数名が南京大虐殺に関して判決を受けています。 また、これも蛇足ですが、この「中国軍事法廷」において、南京事件で行われたと言われる「百人斬り」の2人の被告は、以下のような上申書を軍事法廷に提出したそうです。 ---- 引用 ---- 「上訴申弁書」 具呈人 M N 国防部審判戦犯軍事法廷 廷長 石 国防部長 白 転呈 主席 蒋 (略) 三、被告等は全然関知せさる【 南京大屠殺 】の共犯と認定せられたるは最も遺憾とし 最も不名誉とするところなり 被告等は断して俘虜 住民を殺害せることなく 又断して【 南京大屠殺 】に関係無き事を全世界に向ひ公言して憚らす 被告等の潔白は当時の上官 同僚 部下 記者等か熟知しある所なるのみならす 被告等は今後貴国及日本国は恩讐を超えて真心より手を握り 世界平和の大道を邁進せられんことを祈願するものなり (略) 鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』P82~84 ---- 終わり ---- 竜馬くんとの議論の内容は解りませんが(竜馬くんの投稿は読まずに削除していますので)、ご参考になったでしょうか? 管理人様の「南京大虐殺」という表現は間違っていないと判断します。私が理 解に苦しむのは、事件を否定する人々が、何人から大虐殺と認めるのかが解か りません。まさか無念な思いで死んでいった人々に対して100人程度は少数と思 ったりはしないでしょうね。 まったくその通りですね。いつもそうなのですが、本質的な議論はまったくせずに「何人死ななければ虐殺ではない」などという人が、世の中には沢山いるようです。 南京での資料等が掲載されておりあなたのホームページの中国版といったところ でしょうが。既にご存知かも知れませんが‥‥。必要であれば日本語訳等の協力 は惜しまないつもりです。 ご紹介、ありがとうございます。うーん、なかなか格好いいサイトですね(笑)。 ぜひ、面白そうな記事などがありましたら、翻訳をお願いします。私は、語学がからきし駄目ですので(笑)。 私はしがないサラリーマンですが、藤岡信勝氏や田中正明氏の虚言を見抜けぬほ ど愚かではありません。小林よしのり氏や感化された人々をむしろ哀れに思って います。微力ではありますが、あなた様の力になりたいと本心から思っています。 最近、向こうの人たちは内部分裂でだいぶ勢力が衰えているようですが、未だにネット上では、マンガ家の影響に惑わされた人が大勢いるようです。この様な情けない状況が少しでも改善できるよう、私も微力を尽くしたいと思います。 これからもよろしくお願いします。 原 恒裕 - 02/11/23 21 02 55 電子メールアドレス K-K様へ コメント 私からの情報です。中国のサイトで「南京大屠殺」があります。http //www.ch815.com/zuanti/nankingnew/index.htm 南京での資料等が掲載されておりあなたのホームページの中国版といったところでしょうが。既にご存知かも知れませんが‥‥。必要であれば日本語訳等の協力は惜しまないつもりです。私はしがないサラリーマンですが、藤岡信勝氏や田中正明氏の虚言を見抜けぬほど愚かではありません。小林よしのり氏や感化された人々をむしろ哀れに思っています。微力ではありますが、あなた様の力になりたいと本心から思っています。 タラリ - 02/11/23 19 06 05 電子メールアドレス 南京の地図をゲット コメント 図書館に行って相談すると意外にもすぐ出てきました。渡辺さんが持っている ようなすごいものではないんですが、多少は役に立ちそうです。「近代中国都市 地図集成」柏書房というのをコピーしました。ひとつは2万5000分の1の市 街図、もうひとつは南京近傍図。それから中国分省地図から江蘇省地図。 ご存じかと思いますが、地図の一枚一枚は著作権があり、1/2までしか コピーを許されていません。もう一度行ってコピーするしかありません。 当面これで作業して見ようと思います。 原 恒裕 - 02/11/23 15 54 41 電子メールアドレス 「大虐殺」 コメント 私の主張が少々、アラシになってしまったようで管理人様には謝罪したいと思います。「南京大虐殺」の表現は「儲かりまっか?」様に対して以後使わないように心掛けたいと思います。 東京裁判での「The Rape of Nanking」は私の語学力では「南京大虐殺」とは訳せません。しかし、中国語の「南京大屠殺」は「南京大虐殺」と訳すことは私の語学力でも充分できます。屠殺(tusha)とは「大量虐殺する」という意味です。 管理人様の「南京大虐殺」という表現は間違っていないと判断します。私が理解に苦しむのは、事件を否定する人々が、何人から大虐殺と認めるのかが解かりません。まさか無念な思いで死んでいった人々に対して100人程度は少数と思ったりはしないでしょうね。 他人を中傷することなく歴史的事実として、人数の調査・歴史的背景の検証をされている方々に対しては尊敬と敬意を持って接していきたいと思います。 とほほ - 02/11/22 00 11 14 電子メールアドレス tohoho@ddt.or.jp コメント オイラがもっと端的にあんたのアクセス情報をまたばらすぞ(笑) とか何とか言いながら(^^ゞ 私も最近YahooBBに乗り換えたのでプロキシ経由です(^^; とほほが本物か偽者か確認したい時はメールをしてね。 とほほ - 02/11/21 02 40 34 電子メールアドレス 個人情報の開示は削除しましょう。 コメント まーーだ、いっとるんか?(笑) オイラがもっと端的にあんたのアクセス情報をまたばらすぞ(笑) 個人情報が大事なら私と一緒に個人情報保護法案設立運動を推進するかい?(笑) 言っとくが個人情報保護と無責任発言保護は意味が違うぞ(^^; 核心 - 02/11/20 08 07 10 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント >K-Kさん 今度お願いする付記は私の知っている範囲内での否定派の父に関する記述を完全に否定したものにしたいと考えています。 K-K - 02/11/19 23 06 50 電子メールアドレス 核心さんへ コメント K-Kです。 こんにちは、核心さん。 昭和59年8月7日の毎日新聞の記事の父の証言のあとの記述は以下の ようになっています。 (略) と続いています。 結論から言うと国を上げての隠蔽工作としかいいようがないと思うんですけど。 なんなんですかねえ、これは。 記事の中にある『防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」』は『戦史叢書』と一般に言われているものですが、もともと、旧陸軍の将校によって書かれたものですので、なるべく南京事件を過小に見せたいという意図があったのだと思います。 父の証言に関する内容は共通していますので両氏とも一緒に笑ってしまいましょう。 これは、なかなか面白いですね。 もしよろしかったら、今度、付記を改訂するときに、一緒に載せてみようかと思うのですがいかがでしょうか? 核心 - 02/11/19 20 18 17 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント 田中正明氏の「南京事件の総括 虐殺否定の15の論拠」およびゼンボーの畑中氏の記事を笑う。 父の証言に関する内容は共通していますので両氏とも一緒に笑ってしまいましょう。 1.誤:「小金井市在住」 正:「小平市」 2.誤:「本多という人は中国人の言うウソばかり書いてる」 正:父は本多氏の素性を知りません。したがって「中国人の言うウソ」なんてものを観念できることはありません。 3.誤:「のせられた」 正:「のせられた」かどうかは知りませんが、のせられてウソをつくような人間ではありません。 4.誤:「私が虐殺の張本人になんている」 正:父はつねづねそのように話しているので、この発言は捏造です。 核心 - 02/11/19 16 35 38 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント 昭和59年8月7日の毎日新聞の記事の父の証言のあとの記述は以下のようになっています。 昭和40年発行の「郷土部隊戦記」(福島県郷友会など共同出版)では、捕虜を殺せという軍命令はあったが、山田栴二旅団長が、捕虜を対岸に釈放することを決め、十数隻の船でこぎ出したところ、対岸から発砲され、岸に残ったいた捕虜が騒ぎを起こし、警戒中の日本兵を襲ったため、発砲したとされ死者は千人となっている。 鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」では、山田旅団長ら上級将校の証言をもとに同様の「自衛発砲」説を取り、防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」や、今年7月発行の児島襄氏の「日中戦争3」も同内容。 「自衛発砲説」について栗原さんは「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけはない。虐殺は事実。はっきりさせた方がいい」という。 と続いています。 結論から言うと国を上げての隠蔽工作としかいいようがないと思うんですけど。 なんなんですかねえ、これは。 核心 - 02/11/19 15 41 07 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント >儲かりまっかさん 貴方は関西人ではないでしょう? 関西人のふりをして発言するのは関西人に対する侮辱ですよ。 言葉の訛りを変えてまで卑劣な発言をしたいのですか。 核心 - 02/11/18 22 28 46 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント それと長兄(利弘)に対する虐待ですが、父も戦争の二次的被害者だと認めていますので。 核心 - 02/11/18 22 25 47 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント 父は南京入場直後の虐殺数は7万人と言っているだけです。 より具体的な証言や他の場所での虐殺についても父は家では話しているのですが、なんせ否定派の人達の非難ですくんじゃったものですから。 核心 - 02/11/18 22 22 42 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント 私が父にすすめたものですから、どの部分が自虐なのか知る権利はあると思うのですが? 核心 - 02/11/18 21 13 49 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント 自虐的という言葉について 昭和59年に父の証言を記載してもらったところいろいろ非難が寄せられたのですがもっとも多かったのは「恥じを知れ」というのと「年金を返上しろ」という内容のものでした。 私は父のしたことが別に恥じだとは思っていなかったものですから、なんとも感じようがなかったのですが。 自虐と言う言葉もそのような類のようか気がするのですけど。 どこが自虐なのかわかりませーん。 核心 - 02/11/18 12 20 29 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント 南京事件は隠しようのない歴史的事実です。 特に幕府山の捕虜虐殺は現に私の父が生存しているのですから、否定することに意味がありません。 裁判で言えば加害者が自白しているのど同じなのですから。 話しは飛ぶようですが私は現在の日本人の不幸は歴史的事実を正しく認識できていないことに一端はあると考えています。 家庭内暴力、幼児虐待、リストラ、中高年の自殺などは多くの人が自分の社会的位置を正しく把握できていないことに原因があると考えています。 日本は島国であり時間的、空間的に相対的な自分の位置を把握しにくい物理的な状況にあります。 そこで故意に歴史的事実をゆがめて伝えると、人々はより正しい時代認識ができなくなり、個々の位置を把握できなくなり、その結果、上記のような個人的悲劇に集団として突入していってしまっているように思うのですが。 自虐的などという悪意ある言葉の使用により、自国の歴史をより正しく認識できなくしていることは確かです。 (この件は話しが長くなることなのでこの程度で止めにします。) 原 恒裕 - 02/11/18 05 03 17 電子メールアドレス 儲かりまっか?様 コメント あなたの解釈する「南京事件」と判断していただいて結構です。以後、南京事件と表現することにします。私は一般人が犯した犯罪は個人の問題だと思いますが軍人が犯した犯罪は国家の問題として重く受け止める必要があると認識しています。沖縄での米兵の犯罪についても同様の見解を持っています。南京事件は中国共産党が意図的に誇張して政治的に利用していた事を認識した上で事件として肯定しています。 前回、ぼちぼちでんなー様へもレスしたように南京事件と他の歴史的事件をリンクして考えておりません。南京事件を引き合いに出した場合、原爆の罪の無い被害者を侮辱することになると思います。ナチスと日本軍を同列にする根拠が理解できません。自虐者という表現は相手に対して失礼ではないでしょうか?何らかの悪意があれば別ですが。南京事件とナチスを同列するのはドイツ人への侮辱に当たると思います。もしドイツ人やユダヤ人がアウシュビッツでの出来事に日本軍や日本人を引き合いに出したりしたら不愉快に思います。私たちは自虐的になってはいけません、徴兵以後の日本人が自虐的になれば、徴兵された方々は完全なる犯罪者とみなされてしまうような気がします。文永の役・弘安の役で対馬や壱岐の日本人がどのような仕打ちを受けたか、その事で自虐的になっている中国人や韓国人の話は聞いたことがありませんし、中国に対して恨みを言う日本人がいたら笑いものだと思います。南京事件が日本と中国の友好関係の足かせになるようなことがないように願いたいものです。南京で出会った中国人の方も日本人が自虐的になることを望んではいませんでした。彼らにとっては30万人だそうですが固定観念というか彼らの常識のようになっているようです。 原 恒裕 - 02/11/16 19 38 18 電子メールアドレス 儲かりまっか?様 コメント あなたのレスを見落としていましたすみません。悪意は無かったのですがあなたの怒りに触れたことにお詫び申し上げます。儀礼的ではなく心からの謝罪と受け取っていただければ幸いです。人数に関する問題については儲かりまっか?様とは認識が異なるようにお見受けいたします。ぼちぼちでんなー様へのレスと内容が重複しますので省略させていただきます。 「意図的に事実であると言う確たる証拠のない事を事実と強弁する日本人」とは私のことをいっているのだと判断しましたがよろしいでしょうか? 確たる証拠とは人数のことでしょうか?そのことについてなら具体的人数を明言した憶えはありませんし、未だに確信をもてる情報を入手できてないのが実情です。他に確たる証拠とはどのようなことを指摘されているのでしょうか?私自身、南京虐殺があったと主張するからには書籍だけではなく現地で調査を行ったつもりですが。 原 恒裕 - 02/11/16 18 12 52 電子メールアドレス ぼちぼちでんなー(笑様 コメント こんにちは、レスを頂き感謝します。 「虐殺された人間一人一人の無念さは皆同じやおまへんか?」という主張について私も同感です。南京への旅については、単なる旅行好きが少々深入りしすぎたようですね。虐殺された人数については、私なりに勉強はしましたが未だに自信のある数値は確認できておりません。しかし虐殺事件があったことは事実として認めています。この件について、ぼちぼちでんなー様も私と同じ考えと思ってもよろしいでしょうか? それとも、南京虐殺事件について全て否定されているのでしょうか? 「日本人や朝鮮人にも中国人に虐殺された遺族がいてまんねやで。」この事実も教わるまでもなく存じております。私はあくまでも南京虐殺事件について私の考えを主張しただけで、他の史実を持ち出すと「そら、味噌も糞も的ごちゃ混ぜでっせ。」とおしゃるあなたの主張になってしまいます。 どうやら、ぼちぼちでんなー様は私のことを日本人の戦争犯罪を反省・謝罪する会(実際はこんな会無いと思います。)みたいな考え方の人間と思われているようであれば誤解です。過去の歴史の一部分だけをとって日本が中国に負い目があり謝罪しなくてはいけないなどと考えておりません。過去の歴史的過ちは日中双方にあり、当事者でもない日本人が自虐的になる必要は無いと思います。 私のログで誤解を与えたのであればお詫びします。私は他の歴史的事件と南京での事件をリンクして考えておりません。 再度考えを明確にします。南京虐殺事件について虐殺された人数の正確さを基に全く事実が無かったように主張する人たちへ怒りを感じるわけで、中国側の主張する30万人が多い少ないは今後の歴史研究の中で明らかにしていけばよいことだと思います。あなたが南京虐殺の人数にこだわる几帳面さには尊敬します。歴史学者にとってはとても重要なことだと思います。私にとっては虐殺があたのか無かったのかの方が重要と思えてなりません。当時の日本軍の報告も中国同様あてになりませんよ。もし南京での虐殺された方々の人数がわかったら教えてください。原恒裕は実名ですしアドレスも過去ログを見ればわかると思います。 原 恒裕 - 02/11/16 14 26 36 電子メールアドレス 虐殺事件は事実です コメント 南京での忌まわしい事件について、否定することはできません。他のサイトでは品性に欠けるログが多く見られ投稿したことはありませんが、このサイトは多くの皆様がまじめな意見を投稿されていることに深い敬意をしめします。南京での出来事は大虐殺と判断するか小虐殺とするかは「没問題!」だと思います。 私が知る日本側の少ない人数でも充分「大虐殺」と言って問題ないし、何より虐殺があった事実を認めることが重要だと思います。 当時の南京に限らず中国の人口は、今の日本のように正確ではなかったのは事実であり、後の調査の報告や裁判での数値の矛盾を基に、加害者側の国民が事実否定するのは卑劣すぎるのではないでしょうか。 歴史の研究としての事実調査や意見の発表は有意義であると認めますが、悪意をもって事実を抹殺することは許されないことだと思います。 教科書から「南京大虐殺」を削除する意見を聞いたりするたび、私は疑問を感じます。本来、歴史教育とは「過去を知ること」ではなく「過去を学ぶこと」だと思います。私は再度、南京へ気ままな一人旅をする予定です。当時の日本軍から被害にあった関係者の方はまだいます。彼らは日本人の前から逃げも隠れもしませんよ。 K-K - 02/11/16 00 15 03 電子メールアドレス ダブハン コメント K-Kです。 一応、お知らせ致しますが、 竜馬 = 毎度! = 儲かりまっか?(及びその他) ですのでご注意を。 おおよそ確認をとりましたので確実です。 ※竜馬くん、荒し行為はやめましょう。 播磨 - 02/11/15 21 33 59 電子メールアドレス イイワケなしで コメント 毎度 タラリ氏 - 02/11/14 20 47 28 コメント 君の人口年表は南京城区と南京城区+近郊6県 がごちゃ混ぜじゃないですか? 毎度指摘されている都合のいい編集そのものですよ。 (引用終り) 下はタラリさんがまとめた南京人口 ------------ 南京市 1928年 476,526 1929年 524,969 1930年 577,093 1931年 653,948 1932年 657,617 1933年 726,131 1934年 747,416 1935年 879,079 1936年1月 1,017,934 1936年10月 979,594 1936年12月 1,006,968人(警察庁及市政府調査) 1937年1月 1,015,697 1937年2月 1,016,115 1937年3月 1,019,667人 200,810戸 (首都警察庁調べ) 1937年6月 1,015,450 1937年10月28日 53万人余 (警察庁、広田外相電) 1937年11月23日 50余万人 (南京市政府報告) 1938年2月末 200,000人 (難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定) 1938年3月1日 235,056人 (南京特務委員会、難民収容所にいる女性は含まれない) 1938年3月 250,000人 (スマイス調査) 1938年8月 308,546人 (警察庁及市政府調査) 1938年10月末 329,488人 82,195戸 (南京市自治委員会調べ) 1939年10月末 552,228人 132,403戸 (南京特別市政府調べ) 1941年3月末 619,406人 140,439戸 (南京市政府調べ) 1947年 1,114,000人 --------------- イイワケはいらないので どれが(南京城区と南京城区+近郊6県 がごちゃ混ぜ)か言ってください。 播磨 - 02/11/15 03 08 03 電子メールアドレス 寝る前にそろそろ コメント ぼちぼちでんなー(笑 - 02/11/15 02 34 54 儲かりまっか? - 02/11/15 02 24 06 竜馬 - 02/11/15 02 23 53 あきまへんなー(笑) - 02/11/15 00 55 38 ・ ・ ・ ぼちぼち寝るのじゃなかったの(w 接続切ったりつないだりして何がしたいのだろ。(w そろそろ >君の人口年表は南京城区と南京城区+近郊6県 >がごちゃ混ぜじゃないですか? >毎度指摘されている都合のいい編集そのものですよ。 これに答えてくれないかな。待っているんだけど。 播磨 - 02/11/15 01 02 49 電子メールアドレス 困りますねえ。2(w コメント >12月13日南京陥落時の人口は20万~25万人だっ>たという、1938年発表された外国人資料(スマイス>調査)の検証です。 推測資料ですよ。 郷区も含まれていません。 あきまへんなー(笑) 竜馬クン 播磨 - 02/11/15 00 56 44 電子メールアドレス 困りますねえ。(w コメント >1937/11/27日「30~40万」アメリカ資料編 > 12/10日「20万」 同上 > 12/13日「20万」陥落時 安全委員会公文書 推測資料を入れてどうするんですか。 >1937年11月23日 50余万人 (南京市政府報告) >1938年2月末 200,000人 (難民区人口を南京市自治委>員会と特務機関が推定) イチャモンだったということでいいかな。(w タラリ - 02/11/15 00 37 26 電子メールアドレス 名無し氏へ コメント 1937年10月28日と1937年11月23日のものは正式の統計調査ではなかろうと 考えています。しかし、まだ、通常の市政府と警察組織が活動出来た時期 であり、聞き込みや市からの入出を観察して推定したデータでろうと考え られ、ある程度の信頼性はあると考えます。 1938年2月末から1938年3月のものは推計/サンプル調査/部分調査で信頼性 に欠けるものです。 また、南京陥落前後の資料と称するものは統計調査であるという証拠が見あ たりません。 私の推論は確かな統計調査だけを使って推論をしています。 -------------------------- >ここの常連さんは南京陥落時前後の人口資料すっぽり >抜かして播磨んな。どうゆうことでっか? 1.南京陥落時前後の確かな統計資料というものがあれぱ示して 下さい。 2.1937年11月23日 50余万人 (南京市政府報告)の調査範囲は それまでと同じと考えましたが、違うでしょうか。違うなら証拠 を持ってご教示下さい。 3.1938年2月末 200,000人 (難民区人口を南京市自治委員会と 特務機関が推定)は近郊六県が入っていないことを表示しています が、読めませんか? 4.私が示した統計資料によって何か誤った結論を導くと主張 するつもりですか? PS.この文章の頭の悪さからすると君は竜馬でしょ。 播磨 - 02/11/15 00 12 06 電子メールアドレス 訂正 コメント 語)それでも、根気よく説明されのは感心します。 正)それでも、根気よく「サヨじゃないけれど」氏 が説明を続けられたのは感心します。 播磨 - 02/11/14 23 58 01 電子メールアドレス 困りますねえ。(w コメント >1937年11月23日 50余万人 (南京市政府報告) >1938年2月末 200,000人 (難民区人口を南京市自治委>員会と特務機関が推定) 困りますねえ。 上の二つは近郊6県の人口は含まれていませんよ。 >見た限りではあきまへんな。これも2ch過去ログよーよまはったらよろしい。 >ただ単に丁寧だけでハグラカシとるのがよーわかりまっせ。 2チャンでも、あなたのような資料を理解できていないイチャモンが ほとんどでしたね。 それでも、根気よく説明されのは感心します。 >過ちを意地でも認めようとしない人とは言葉遊びにはなっても議論にはなりません。 その通りです。肝に命じてください。 播磨 - 02/11/14 22 09 30 電子メールアドレス >儲かりまっか? コメント >2chで明らかに論破され姿を消した 「サヨじゃないけれど」さんも >そうでしたが、何があろうと白を黒と誤魔化し通そうとする姿勢は肯定派 >の特徴です。 見た限り、「サヨじゃないけれど」氏が資料を元に丁寧な問題提起を重ね 否定派の皆さんが、資料は出さないで無理なイチャモンをつけ続けるという 様子でした。 失礼ながらまるで聞き分けのない子供を大人である「サヨじゃないけれど」氏が 懇々と言い聞かせている痛ましい光景でした。 >南京大虐殺を肯定しているのがこのような人々ですから、まず誰も本気にすることは >ないでしょう。 否定しているのがこのような人々ですから、相手にされないのでしょうね。 >過ちを意地でも認めようとしない人とは言葉遊びにはなっても議論にはなりません。 その通りです。肝に命じてください。 播磨 - 02/11/14 21 58 54 電子メールアドレス >毎度 タラリ氏 コメント >君の人口年表は南京城区と南京城区+近郊6県 >がごちゃ混ぜじゃないですか? >毎度指摘されている都合のいい編集そのものですよ。 タラリ氏が記された1928年以降の南京市の人口の推移には 近郊6県の人口は含まれていません。 どの部分か指摘してください。 五番街 - 02/11/14 16 53 08 電子メールアドレス K-Kさんと渡辺さんへ コメント K-Kさん、渡辺さんどうも。 K-Kさんが引用された孫宅魏氏の発言に以前から引っかかってい まして、前回の投稿ではうろ覚えで書きましたが、今回、この引 用を読むと、大虐殺の地理的範囲を南京城区とし、虐殺数を30万 人としています。日本側では南京城区+近郊6県で最大20万人と 主張しているのですから、この地理的範囲をどちらかに統一した 場合には、その差はさらに拡大すると思われます。 もう一つは、時間的範囲ですが、これについては明確に述べられ ていないようですが、中国側の南京城区を範囲とした場合と日本 側のように+近郊6県とした場合では、前者の時間的範囲は後者 よりも狭くなる可能性があるように思います。 また、渡辺さんのご指摘の捕虜の反乱や便衣兵容疑者のケースは お説の通りだと思いますが、たとえば、次のケースでは、虐殺の 被害者が、中国兵なのか民間人なのか、その割合はどの程度なの か判然としません。 ---------- この辺で戦死した中国人は、十数万と伝えられているほどだと言 う。南京陥落の末期、雪崩を打って敗走する中国軍隊に対し、日 本軍は、空からと、揚子江上の軍艦ならと、陸上の三方から、砲 爆撃と、機銃掃射とで大殲滅戦を敢行したので、文字通り屍山血 河だったらしい。(中略)(矢吹一夫『昭和動乱私史』上) 下関における殺戮のすざまじい規模をうかがわせる証言である。 ただし矢吹は、殲滅されたのは中国軍だけであったように書いて いるが、そのなかに多数の一般避難民が混在していたことについ ては、すでにみたとおりである。(「天皇の軍隊と南京事件」吉 田裕 青木書店) ----------- このケースでは敗走あるいは逃亡しようとした状態で殺害された 民間人と兵士の区別がつけられない一方で、兵士に対しては合法 的な「殲滅戦」あるいは掃討戦として虐殺ではないという主張が 行われると考えられます。ところが、この戦闘において死亡した 兵士を虐殺数に含めると、民間人・兵士の全てが虐殺の犠牲者に なって、兵士と民間人の区別をつける必要もなくなると考えられ ます。 このケースで死亡した兵士・民間人の数も正確には不明のようで すが、それぞれ数万は下らないのではないでしょうか。 特に私としては中国側に肩入れするつもりはないのですが、村山 談話にあるように、日中戦争は日本が起こした戦略戦争に対する 中国の抵抗の戦いであったことは、日中の共同認識になっている のですから、中国側のように、南京攻防戦で戦死した中国軍兵士 も虐殺の犠牲者にカウントすることは特に犠牲者数を拡大させる ための恣意的なやり方とは言えないように思えてなりません。 渡辺 - 02/11/14 16 29 04 電子メールアドレス タラリさん コメント タラリさん、示唆に富む広島の件、ありがとうございます。 私は、空襲による家族構成への影響について興味がありますが、現時点では時間的都合もあり、まだ資料が入手できません。 南京の人口変遷のおそらく最初のグラフは、南京日本商工会議所によって作成されました。同所編纂の『南京』p.21にあります。 「事変後、民国二十七年以降の人口の増加率が恰も民国十六年に南京が国都となった頃のそれに略々同じなのは興味が深い」(p.23)と解説されています。 しかし、広島と似ていはいますが、違うのは日本の敗戦まで南京では人口があまり増えていないことです。 1946年 808,656 1947年 1,037,656 [候楊方『中国人口史 第六巻 1910-1953』復[行人偏なし]旦大学出版社,p.160] それ以上に、ドラスティックに変化したのは、家族の構成と男女比です。ここに、私は注目しています。 (民国十六年から「事変」までと民国二十七年以降では、統計上の人口の増加については似ていますが、家族構成と男女比が「事変」前後で大きく変化しています。) なお、原稿の締切が近づいているので、しばらくおいとまをいたします (^^/~ タラリ - 02/11/14 10 52 01 電子メールアドレス 人口推移を読む、香港市、広島市との比較 コメント 南京で1937-1938年に何人が殺されたか、南京陥落前と虐殺終了後の人口がわかれば 明らかになる、という考えでいろんな研究がなされてきた。しかし、データはいずれ も欠失があり、断定的な回答は出ない。 ロングスパンで人口推移を見れば、直接的に何人が殺害されたかということではなく おおまかな全体像を推定することが出来ると私は考えた。 以下に、南京市、香港市、広島市の戦前、戦後の人口推移のデータを示す。 香港市は日本軍の侵入による市民の脱出、退避モデルである。 広島市では原爆投下による大量殺戮モデルである。 南京市で1937年8月以後、市民の脱出、退避が起こったことは否定派も認める 事実である。香港市、広島市のデータを比較すれば、南京市では脱出、退避に加えて 大量殺戮が起こったことは明白である。 南京市 1928年 476,526 1929年 524,969 1930年 577,093 1931年 653,948 1932年 657,617 1933年 726,131 1934年 747,416 1935年 879,079 1936年1月 1,017,934 1936年10月 979,594 1936年12月 1,006,968人(警察庁及市政府調査) 1937年1月 1,015,697 1937年2月 1,016,115 1937年3月 1,019,667人 200,810戸 (首都警察庁調べ) 1937年6月 1,015,450 1937年10月28日 53万人余 (警察庁、広田外相電) 1937年11月23日 50余万人 (南京市政府報告) 1938年2月末 200,000人 (難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定) 1938年3月1日 235,056人 (南京特務委員会、難民収容所にいる女性は含まれない) 1938年3月 250,000人 (スマイス調査) 1938年8月 308,546人 (警察庁及市政府調査) 1938年10月末 329,488人 82,195戸 (南京市自治委員会調べ) 1939年10月末 552,228人 132,403戸 (南京特別市政府調べ) 1941年3月末 619,406人 140,439戸 (南京市政府調べ) 1947年 1,114,000人 データは前回提示したものにいくつか新に見つけた資料を加えた。 戦前人口の復帰には約10年を要している。 ---------------------------------- 【表 4】香港の人口推移 中嶋嶺雄『香港回帰 アジア新世紀の命運』 中公新書 1997年, p123より抜粋 年 人口 1901年 283,205 1911年 456,739 1921年 625,166 1931年 849,751 1941年 1) 1,640,000 1945年 1) 600,000 1947年 1) 1,800,000 1951年 1) 2,265,000 1961年 3,129,648 1971年 3,948,179 1981年 5,207,000 1991年 5,822,500 1996年 6,311,000 1)は推定 http //www1.doshisha.ac.jp/~mnawa/ttakeuchi/works/federal-china.htm 1941年12月に8日間の戦闘によりイギリス軍は降伏、1945年8月末にイギリス軍復帰。 人口減少は脱出、退避によるが、ここでも日本軍による殺戮はおこった。しかし、 南京に比べれば規模はずっと小さいと思われる。殺戮の詳細は以下の書物のリストを 参照。 日本軍撤退後、わずか2年で戦前人口を上まわっている。 http //viva.cplaza.ne.jp/cruise/26th/booklist/hongkong.html 広島市の人口推移 これはグラフなので目視してほしい。戦前30万人の人口が原爆により、20万人殺され、 約10年後に原爆投下前の人口に復帰している。数字はあいまいだが、感覚的に いろんなことを読みとれる。投下前には疎開、徴兵による出生率の減少、投下後には 兵員の帰還などがあり、経済成長率による人口増も明らかである。 http //www.business.econ.city.hiroshima.jp/page3-03.html 渡辺 - 02/11/14 05 46 54 電子メールアドレス 五番街さん コメント 五番街さん このことから考えると、通常の戦闘で死んだ中国軍兵士も、あるいは捕虜も反乱を起こしたか否かを問わず、犠牲者にカウントされているようですね。 埋葬記録では、厳密に戦闘による死者を分離するのは難しいと思いますが、これは軍民を分ける場合でも同様だと思います。なお、戦闘による死者は、1,2万程度と思われます。日本軍も死者の正確な数は不明です。 ですから、こういう数字は、あくまでも規模を示すもので、正確さを要求するのは難しいと思います。 「捕虜も反乱を起こしたか否かを問わず」というのは、記録としては、そういう事実は無いと思います。ただし、捕虜を殺害するときに抵抗され、味方もまきぞえになったというようなことは、日記や証言にあります。 「便衣兵容疑者の殺害は違法か否かという議論」の件ですが、ゲリラ(便衣兵)は南京にはいなかったと思われますので、その議論そのものに無理があると思われます。 中国軍人の殺害を正当化するために、「戦数」理論が持ち出される場合もあります。 当時の国際法解釈でも「変装」だけでは戦時犯罪とはされていないようです。 問題の期間に軍事法廷が設置された事実はありませんので、戦時犯罪人の容疑者が仮にいたとしても「便衣兵容疑者の殺害」は違法です。(なお、「便衣兵容疑者」であるためには、武器を所持していなければなりません。) 立 作太郎はこう述べています。「凡そ戦時犯罪人は軍事裁判所又は其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於て審問すべきものである。然れども一旦権内に入れる後、全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際習慣法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。」(『戦時国際法論』日本評論社、昭和十九年、p.53) 昔のひとの書いたものは、文章がむずかしくて困ります (^^; K-K - 02/11/13 22 57 33 電子メールアドレス 原恒裕さんへ コメント K-Kです。 こんにちは、原さん。 南京は如何でしたか?私もぜひ、機会があれば行ってみたいと思っています。 仰るとおり、自分たちの都合の悪い事実を抹殺しようとする勢力が、最近増えてきているようです。私も、仕事で学生などと話していて、南京事件について、小林よしのりの主張そのままのことを話していることを知り、びっくりさせられた記憶があります。 これから、どんどん国際化しなければならない時代に来ているというのに、この様な殻に閉じこもったような主張が蔓延っている状況は、まったく情けないものです。正しいことも、誤ったことも、私たちが歩んだ道として、真っ直ぐ見据えることが出来るような国になって欲しいと思っています。 これからもよろしくお願いします。 K-K - 02/11/13 22 56 55 電子メールアドレス 五番街さんへ コメント 両者の約10万人の差は、おそらく中国側では、日本が起こした侵 略戦争に抵抗した正規兵も虐殺の犠牲者としており、一方、日本 側は、正規の戦闘で死亡した中国軍の兵士のケースは虐殺にカウ ントしない、という虐殺の定義の違いによるものではないだろう か、と想像します。日本でも、中国のような定義を採用すれば、 その差は大分埋まると思えます。 実をいうと、私は、中国側の主張というものが何なのか把握できていないといのが現状です。ただ、漏れ聞くところによるものを頼りに、五番街さんの提起された問題を考えてみると、やはり、日本の学者の見解と、中国の学者の見解には差があると思います。 例えば、中国の研究者として有名な孫宅魏氏は、以下のように述べています。 ---- 引用 ---- 孫 私は南京のまわりの県を含めるという笠原先生の意見に賛同する。しかし犠牲者数については問題がある。私たちが言っている三〇万というのは、まわりの六県その他地域お入れていない。これはあらたな課題として考えて行きたい。 ---- 終わり ---- 『南京事件をどうみるか 日・中・米研究者による検証』 この発言に見るように、笠原氏は、南京市城区(南京市)と近郊6県を合わせた「南京行政区」をその範囲としているのに対し、孫宅魏氏の見解では、南京城区(南京城と周辺地域、南京市)が南京事件の範囲としているようです。 もし、犠牲者数30万(中国側見解)と20万(日本側見解)を比べとしても、やはり、いわゆる南京事件の地理的定義及び時間的定義の違いを考慮すべきではないかと思います。 核心 - 02/11/13 12 42 57 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント 私は部外者ですが竜馬くんの投稿は「アラシ」でしたよ。 五番街 - 02/11/13 07 56 05 電子メールアドレス RE:五番街さん コメント 渡辺さん、さっそくのレスをありがとうございます。 ------------ 広島の原爆での犠牲者数が何人か議論する場合を考えてみれば、 「南京事件」の犠牲者数の問題が口角泡を飛ばすような話しでは ないと思うのですが... 実証的な研究であれば、30万でなくとも感情的になることは少 ないと考えています。 ------------ おっしゃることはその通りだと思うのですが、なにせ、南京の人 口は20万人だったから中国側の30万人説はナンセンスで、虐殺 はなかった、というのが否定派の論理の一つになっているわけ で、この30万人説の根拠を少なくとも知っておく必要はあるん じゃあないだろうか、と思ったワケです。 ------------ 五番街さんの関心事は「中国側」との距離を縮めることにあるか と思います。 ------------ そうだといえばそんなんですが、もうひとつは、日本側の研究が 便衣兵容疑者の殺害とか捕虜の殺害とかの、いわゆる違法な殺害 に焦点を合わせた場合が多いように思われることです。 つまり、仮に、違法な侵略戦争に対して抵抗し、通常の戦闘で死 んだ正規兵のケースも虐殺としてカウントする場合には、便衣兵 容疑者の殺害は違法か否かという議論はなくなり、彼らが違法行 為を働いたとしても侵略軍に抵抗するために許容されるという考 えから、虐殺の犠牲者に含まれ、同様に、捕虜が反乱を起こした としても、彼らも同様に侵略戦争の犠牲者ということになって、 南京虐殺をめぐる研究や議論に相当な影響を与えることになるの ではないかと考えます。 ------------ なお、中国政府は日本政府と同様に、私の知る範囲では数につい て公言していないと思います。もし、そういう発表があるのでし たら教えてください。 多分、中国の教科書に書かれているとか、そういった意味でおっ しゃっているのではないでしょうか。 ------------ このあたりは、よくは知らないんですが、たしか南京の虐殺記念 館に30万人という数字が掲げられており、それを政府の公式見解 として理解されているのではないでしょうか。それと、ちょっと うろ覚えですが、日中共同のシンポジウムが開かれた時に、中国 側の参加者(あるいは代表)が「日本では犠牲者数を20万人と主 張しているが、中国では30万人とされている」と言うような、な にかしら不満をこめたコメントが何かの本に収録されていた記憶 があります。 ------------- さて、「犠牲者数」は軍民合わせての数字です。 「30万」という言い方は、本当は正確ではなく、南京軍事法廷 の判決文によれば、埋葬記録による「15万以上」と、その他焼 かれた「19万以上」、つまり34万以上という意味で「30万 以上」が認定されました。 ------------- このことから考えると、通常の戦闘で死んだ中国軍兵士も、ある いは捕虜も反乱を起こしたか否かを問わず、犠牲者にカウントさ れているようですね。 どうもありがとうございました。 渡辺 - 02/11/13 06 35 41 電子メールアドレス 五番街さん コメント 五番街さん、 いつも貴重なご意見、ありがとうございます。 「南京事件」は、「虐殺」だけが問題ではありませんし、また日中戦争での事件の一部にしかすぎません。 アヘンの問題は、通常「南京事件」に含めませんが、南京では占領後すぐに特務機関によって持ち込まれ、1938年にはイラン・アヘンが大量に「輸入」され、その税金が傀儡政権の重要な財源となりました。 否定論者が「数」の議論にもって行こうとしているわけです。 広島の原爆での犠牲者数が何人か議論する場合を考えてみれば、「南京事件」の犠牲者数の問題が口角泡を飛ばすような話しではないと思うのですが... さて、「犠牲者数」は軍民合わせての数字です。 「30万」という言い方は、本当は正確ではなく、南京軍事法廷の判決文によれば、埋葬記録による「15万以上」と、その他焼かれた「19万以上」、つまり34万以上という意味で「30万以上」が認定されました。 「19万」のほとんどは供述と陳述による数字を合算したものです。 証拠として採用されたと思われる個々の供述書など見ますと、数字の根拠がはっきりしない点がありますし、埋葬記録と数字が重複しているのではないかと思われる部分もあります。しかし、その内容のすべてを否定することはできないと思います。 たとえば、燕磯子での5万人は、幕府山の捕虜殺害の件を含めて考えますと、ありそうな数字を述べているのですね。 東京裁判では、1946年1月までに谷寿夫裁判のために調査された25万以上あるいは26万というような数字が証拠として提出されました。 以上が、「30万」の意味、南京法廷と東京裁判との違いですが、研究としては、裁判のための供述や陳述にでてきた数字をただちに採用するわけには行きませんので、それぞれに検討した上で10万~20万程度の数字を研究者があげているわけです。 なお、孫氏のように人口の変動をもとに「30万以上」としている研究者もいます。 12月に出る『中帰連』の原稿の中で、私はこの数字について触れるつもりです。 中国軍の軍人の死者が8~9万であることは、当時の日本軍の発表、参謀などの日記、中国軍の総数から見た検討などで、裏付けられます。それらのほとんどは、捕虜として待遇されるべきであった者と思われます。 市民を含んだ数については、やはり埋葬記録が一番信頼できます。赤十字、紅卍字会については問題はないと思いますが、崇善堂については資料が少ないこいとは事実です。 しかし、当時の外国人の日記でも、市民7万とか、埋葬が10万というような記述があり、更には日本軍によって処理されていた遺体もありますので、規模としては10万~20万と考えるのが合理的に思われます。 10万単位の犠牲者が出れば、人口統計にも必ず変化がみられるはずですので、『中帰連』への記事では、人口統計からみた犠牲者数についての議論を加える予定です。 議論の内容は、すでに投稿しましたので過去ログにありますが、更に詳しく男女の割合などについても検討しています。 概要は、南京市では平時(1931~36年)1戸5人であったものが、南京戦後約4人となり、主に男性が失われ、1938~1940年の統計では、1戸5人に近づいて行くが減少した絶対数はほぼ固定して約10万人であるというものです。 この消えた市民10万人は、崩壊しなかった戸の「犠牲者」の数である可能性が高いと考えています。 五番街さんの関心事は「中国側」との距離を縮めることにあるかと思います。 実証的な研究であれば、30万でなくとも感情的になることは少ないと考えています。 なお、中国政府は日本政府と同様に、私の知る範囲では数について公言していないと思います。もし、そういう発表があるのでしたら教えてください。 多分、中国の教科書に書かれているとか、そういった意味でおっしゃっているのではないでしょうか。 まとまりのない話でしたが、今日は以上で失礼いたします。 原 恒裕 - 02/11/13 02 43 07 電子メールアドレス heng2yu4@ybb.ne.jp コメント 初めて投稿します。中年のしがないサラリーマンです。私は10回ほど江蘇省を旅しましたが何故か南京だけは避けて旅をしていました。11月7日自分自身にとっての中国に対してけじめをつけるため南京に行ってきました。現地の方々と交流することでやはり南京事件はあったと認識しています。規模の大小に関係なく過ちは過ちであり、意図的に事実を抹殺する日本人がいることにどうしようもない怒りを感じてしまいます。過去の歴史を反省しようがするまいが個人の自由かも知れませんが無理やり事実を歪曲する人たちに私は悪意を感じます。 五番街 - 02/11/13 02 08 33 電子メールアドレス K-Kさんなど、皆様に質問です コメント 南京の人口の問題はともかく、日本の研究者でいわゆる大虐殺説 を唱える者も、最大で20万人強で、中国政府と30万人説と大き な差がありますね。 両者の約10万人の差は、おそらく中国側では、日本が起こした侵 略戦争に抵抗した正規兵も虐殺の犠牲者としており、一方、日本 側は、正規の戦闘で死亡した中国軍の兵士のケースは虐殺にカウ ントしない、という虐殺の定義の違いによるものではないだろう か、と想像します。日本でも、中国のような定義を採用すれば、 その差は大分埋まると思えます。 そして、日本の研究では、この定義の問題を検討することをおろ そかにしているのでは、とも思います。こうした点を、みなさま はどう、おかんがえでしょうか。 K-K - 02/11/13 00 21 02 電子メールアドレス ■重要なお知らせ■ コメント K-K@南京事件資料集です。 すでにお知らせしましたが、南京事件資料集掲示板を今月末をもって、とほほさんの掲示板「思考錯誤」と合併させていただくことになりました。 つきましては、この掲示板に書き込みを行えるのも、今月末までと致します。 ただし、過去ログに関しては、引き続き閲覧出来るように致します。 ご了承お願いします。 とほほ - 02/11/13 00 11 14 電子メールアドレス tohoho@ddt.or.jp コメント 核心さんへ。 この掲示板へ集う人々は「証言」と言うものに対して真摯に取り組む人たちであることを、どうぞ、ご理解ください。 それによる利害なぞ関係のないひと達なのです。 K-K - 02/11/12 19 44 21 電子メールアドレス 核心さんへ コメント K-Kです。 こんにちは、核心さん。 父の証言に対する付記を全面的により正確な内容に変更させてください。 本多氏のインタビュー後の記事は全て捏造ですので、その事を明記したい と考えています。 それはいい考えですね。 ぜひ、改訂の原稿を送ってください。 私も準備をして待っています。 核心 - 02/11/12 03 24 14 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント >K-Kさん 父の証言に対する付記を全面的により正確な内容に変更させてください。 本多氏のインタビュー後の記事は全て捏造ですので、その事を明記したいと考えています。 核心 - 02/11/11 23 39 34 電子メールアドレス arts-jp@jcom.home.ne.jp コメント 私のメールアドレスはいつも公開しています。 どなたでもメールをいただければご返答差し上げます。 名なし便衣兵 - 02/11/11 15 57 12 電子メールアドレス はじめまして コメント はじめまして。 いつも、ここはのぞかせて頂いていますが、初めて書き込みをします。 昨日、「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて―元兵士102人の証言」を(私にとっては高かったのですが)購入し、読み始めました。以前手に入れた「南京大虐殺を記録した皇軍兵士達」と同じく、大変な労作であると思います。 証言を集め、まとめられた方達への、尊敬の念を禁じ得ません。 まだ、読み始めなのですが、「役務」という言葉の使い方に、引っかかる物を感じました。 証言中、「捕虜を役務に」という表現が出てきますが、これ、よく読んでみると「機関銃中退の人間が役務と称してかり出され、捕虜を銃殺した」という意味で使われています。当時の兵士達が、「役務」という場合、すべてこういう事を指していたかどうか分かりませんが、一般的な使い方として、こういう用例が通用していたのか、それとも私の単なる読み間違いなのか、やや気になるところです。もう少し精読したら、また、ご報告します。 それと、できればなのですが、ここにたびたび投稿されている「核心」氏と、ご連絡をとりたいのですが、核心さん、もしご覧になっいてましたら、お返事をいただければ、と思います。 乱文、失礼しました。 タラリ - 02/11/10 22 40 09 電子メールアドレス 渡辺さん、情報をありがとうございます コメント 地図の件、手をつくして探してみようと思いますが、渡辺さんの話を読ん でいると楽なことじゃないですね。航空撮影の地図まで揃えたというのを 読んだら、頭がクラクラしてきそうです。 『この事実を・・・』を読んでいると役に立ちそうなことはかなり多い です。否定派の反論のときに中共資料という非難のため使われにくいの かどうか知りませんが、今までの日本人研究者の死亡数の検証などを読 んでも中国側資料を使いこなしているものはないと思います。 南京アトロシティで一番重要なのは被害者証言であり、中国側資料である、 というのが私の確信です。 ゆうさん、お誉めにあずかり恐縮しています。初学者としては比較的、 アクセスが少なそうなところで、練習をかねて書き込んでいましたが、 資料集板と合併するそうで、いい加減なことを書いたり、他人の書き込み からこっそり頂いてきたりということが出来なくなりそうです。 現在のテーマは北村稔の批判で、あらすじは構想しているのですが、 鞭が入らないとなかなか先に進めるものではないです。 今日は図書館に行って北村本に引用のあるヘルケ・ザンダー著「1945年 べルリン解放の真実」というベルリンにおけるソ連兵の強姦を書いた本を 借りてきました。北村は日本兵が強姦したのは悪かったが、どこでも起こった ことだ、と書き流しているのです。 これ自体興味ある書物ですが、読んで驚きました。南京なんかと全然違う のです。北村の怠慢と無神経にはあきれる他はありません。いずれ、トホホ 板に書き込みます。 私のホームページへ | CollegeLife-Laboのページへ | メイン | 今すぐ登録 web hosting • domain names • video sharing online games • photo sharing free blog • advertising online
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追い出せ強のトリ掲示板 追い出せ強のトリ掲示板ソース とほほさんも参加した掲示板 @wiki アーカイブ ソース 追い出せ! 強のトリ http //comcom.jca.apc.org/gounotori/ サイトオーナーであるcomcomさんからのメッセージ 2009.11.19 掲示板が荒らしの嵐に見舞われたとき、いっしょに夜を徹して対応して下さいました。管理人よりしっかりとした対応をして、ネットでの生き方を教えていただきました。心の熱い方でした。おしまいには、ご自分でうちのための掲示板を作って提供して下さいました。 とほほさんが参戦して下さった掲示板の1は、ログをファイルで自分のサイトにアップ、2と3は借りた掲示板のまま過去ログ保存、4が、とほほさんのサーバーにある掲示板です。 とほほさんも参加した掲示板 情報交流広場Part1(掲示板) http //comcom.jca.apc.org/gounotori/bbs1_log/bbs_log1_7.html 情報交流広場Part2(掲示板) http //otd2.jbbs.livedoor.jp/29472/bbs_plain 情報交流広場Part3(掲示板) http //otd13.jbbs.livedoor.jp/337658/bbs_plain 情報交流広場Part4(掲示板) http //t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?id=gounotori @wiki アーカイブ 残念ながら、検索エンジンの巡回は受けません。 情報交流広場Part4 ツリー1/4 (2009-11-23 11 41 41) 情報交流広場Part4 ツリー2/4 (2009-11-23 11 42 32) 情報交流広場Part4 ツリー3/4 (2009-11-23 11 43 17) 情報交流広場Part4 ツリー4/4 (2009-11-23 11 43 59) 情報交流広場Part4一覧1/12 (2009-11-23 11 53 52) 情報交流広場Part4一覧2/12 (2009-11-23 11 54 37) 情報交流広場Part4一覧3/12 (2009-11-23 11 55 47) 情報交流広場Part4一覧4/12 (2009-11-23 11 56 31) 情報交流広場Part4一覧5/12 (2009-11-23 11 57 14) 情報交流広場Part4一覧6/12 (2009-11-23 11 57 59) 情報交流広場Part4一覧7/12 (2009-11-23 11 58 46) 情報交流広場Part4一覧8/12 (2009-11-23 11 59 38) 情報交流広場Part4一覧9/12 (2009-11-23 12 00 20) 情報交流広場Part4一覧10/12 (2009-11-23 12 01 44) 情報交流広場Part4一覧11/12 (2009-11-23 12 02 31) 情報交流広場Part4一覧12/12 (2009-11-23 12 03 24) サイト名 URL 広く深く 良心の伝播
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ここではウォーカーレッグについて解説しているページだゾ ウォーカーレッグ(クモ足)とは何か 簡単に言うとクモのような脚のパーツのことで、ホイールなどとは違って歩いて移動するゾ。 滑らかな斜面はもちろん、壁にも登れることが可能にする画期的な移動パーツなんだゾ。 このクモ脚を移動手段とする機体のことを「ウォーカー」というんだゾ。 ちなみにクモ脚はT7~T10しかない、つまり低ティアの人は使えないからそこらへんとこ注意してくれよなぁ~頼むよ~ 特徴としてはある程度の機体の重さなら問題なく動けるけど、クモ脚の数が少ない、機体重量があまりに重過ぎると移動速度が低下してしまうゾ。 敵の攻撃で一部のクモ脚が破壊されると移動速度が低下するだけでなく移動制御が難しくなってしまうんだよなぁ・・・ 長所・短所 長所: ・同じTierのホイールと比べて装甲値が2.5倍以上ある ・簡単に壁を登ることができる ・ジャンプを駆使することによりトリッキーな攻撃や回避ができる 短所: ・CPUをたくさん使う ・当たり判定がでかい ・占有範囲が広いためクモ脚をブロックで覆うことは困難 ・クモ脚が少なくなると移動速度低下、移動制御が難しくなる +占有範囲ってどれくらいですかね(小声) ほら、みろよみろよ T7とT8、T9とT10は同じ大きさだゾ・・・ 若干高さも変わるってはっきりわかんだね アドバイス 壊された時用のためクモ脚はできるだけ多く付けた方が良いゾ。 あっそうだ(唐突)崖の上登って戦うスタイルなら空を飛ぶプラカスやムカデに注意だゾ。崖の上は障害物がほとんどないため格好の的になっちゃうんだゾ・・・。 序盤に崖の上から偵察する感じで複数の敵君をスポットすると地上にいる味方君はすごい助かるゾ(切実) パパパッとQキー押して終わりっ! それとあまり戦闘に参加しないで崖の上にこもっていると敵君の攻撃対象が地上や空にいる味方君に集中して負担を掛けてしまう事になってしまうゾ。デデドン(敗北)とならないためにも ちょくちょくうまい具合に崖の上から顔を出してヘイトを稼ごう(提案) 各ウォーカレッグ(クモ脚)の性能 Walker Leg T7 CPU上昇値 40p ランキング上昇値 15,497 装甲値 8630 積載量 1,050kg 重さ 12.5kg Walker Leg T8 CPU上昇値 42p ランキング上昇値 43,933 装甲値 12,447 積載量 1,191kg 重さ 12.5kg Walker Leg T9 CPU上昇値 44p ランキング上昇値 124,269 装甲値 17,047 積載量 1,341kg 重さ 15kg Walker Leg T10 CPU上昇値 46p ランキング上昇値 350,777 装甲値 22,108 積載量 1,500kg 重さ 15kg まだ未完成なんだよなぁ・・・間違っている情報があったら編集にて修正オナシャスセンセンシャル!
https://w.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/312.html
画 2_91 "143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思います。" http //www21.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/149.html http //pipponan.fc2web.com/gazokensyo_2/ga-91.htm -------------------------------------------------------------------------------- [91]143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思います。 ピッポ 05/3/30(水) 2 55 [92]Re(1) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... とほほ 05/3/30(水) 11 35 [95]Re(2) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... ピッポ 05/3/30(水) 13 36 [133]Re(3) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... ピッポ 05/4/3(日) 21 18 [102]前半 ピッポ 05/3/31(木) 1 41 -------------------------------------------------------------------------------- [91]143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思います。 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/3/30(水) 2 55 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード -------------------------------------------------------------------------------- ~添付ファイル~ ・名前 : 143mai.jpg ・サイズ : 68.7KB -------------------------------------------------------------------------------- ~添付ファイル~ ・名前 : 143枚の写真一覧.htm ・サイズ : 6.0KB 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思います。 ←サンプルのPrintScreenです。 htmファイルは、右側添付ファイルの "143枚の写真一覧.htm"をクリックしてください。 みなさんから戴いた ご意見、書き込む内容にしたがって のんびり完成させたいと思います。 否定派サイト 写真付き批判 文章で批判 は、サイトや過去投稿へのリンク欄です。 573 hits -------------------------------------------------------------------------------- [92]Re(1) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... ←back ↑menu ↑top forward→ とほほ - 05/3/30(水) 11 35 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: みなさんから戴いた ご意見、書き込む内容にしたがって のんびり完成させたいと思います。 すばらしい、アイディアだと思います。完成をお祈りします。 否定派サイト 写真付き批判 文章で批判 は、サイトや過去投稿へのリンク欄です。 否定派サイトへのリンクを貼るのは、私は感心しません。 これはネット検索上の技術的な問題からです、大手の検索エンジン(googleとかのロボット)はネット上にリンクの多いページを上位にランクします、しかも最近はYahooとかでもロボットの検索結果を上位表示する傾向にあるようです。 ですから批判しようと思って否定派のページにリンクを貼る人が多いのですが(その方が社会通念的にはフェア)これは否定論の宣伝に一役かっているんです。否定論ページではまともなサイトにリンクをしてませんでしょう。これは私はそう言う意味だと思ってます、連中そう言うことだけはマメですから。 「写真つき批判リンク」と「文章で批判リンク」を分ける事は意味がないと思います、せっかくだからピッポさんのページで全画像(可能な限り)をサムネイル表示すべきです。著作権法上はネット上にある画像であればすべて可能です、リンクは転載にならないからです。ただ画像への直リンクを嫌がるのは他にも「不特定多数のサイトに直リンクされるとアクセスが渋滞する」と言う理由があります。 ですから、ページのどこかに「このページでサムネイル表示している画像は他サイトへのリンクまたは私の所蔵する画像のうち著作権法上問題のない画像のコピーです、画像の出典等は特に確認してませんので東中野本のオリジナル画像とは異なります」と書いておけばよいです。基本的に東中野本をコピーしても「歴史資料」と言う観点から著作権法に引っかかる事はないとは思うのですが、、、あくまで自己責任で(^^;、私ならコピーします。 それから、ピッポさんの連絡先やコメントは入れておいたほうがHPの信憑性や信頼性が高まると思います。個人情報を公開する必要はありませんよ。 そういう観点で私ならこう言うページにする、と言うサンプルを作ってみましたので以下にアクセスしてみてください。もし良ければピッポさんの原案HTMLが完成したら私のほうで技術的に改良したHPを作りますよ、もちろんピッポさんのページとして公開するわけです。 http //t-t-japan.com/tohoho/internet/samp/ 589 hits -------------------------------------------------------------------------------- [95]Re(2) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/3/30(水) 13 36 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード とほほさん、 ご助言有難うございます。 私は初学者ですから、ぜったいに完成には至りません。 初心者のためのインデックスがあったらいいな、と思ったに過ぎません。 サムネイルは Good Ideaですが、私にはスキャナがありません。 当分は空白で、工夫してみます。 まあ、叩き台を作って、あとは、皆さん、そして 靴屋さんとほほさんにお任せしたいと思います。 (適当な時期に、ファイル、フォルダをお送りします) 618 hits sage -------------------------------------------------------------------------------- [102]前半 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/3/31(木) 1 41 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ブリーフケースを設置しました http //briefcase.yahoo.co.jp/pipopipo555jp ここにアクセスしたら、 ファイルフォルダ photos143 と進み 143photos.lzh を右クリック、「対象をファイルに保存」で ダウンロードしてください。 解凍したら、フォルダの中の、photos143フォルダを お好みのところに保存してください。 その中の、一覧_源流ver_1.htm が一覧表です。 photofilesフォルダには、画像が入っています。 このフォルダを移動すると、一覧表には画像が表現できません。 ※ どうぞご自由に作り変えてください。Java とか JavaScript は一切使っていません。 592 hits sage -------------------------------------------------------------------------------- [133]Re(3) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/4/3(日) 21 18 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ブリーフケースを設置しました http //briefcase.yahoo.co.jp/pipopipo555jp (4月3日更新) ここにアクセスしたら、 ファイルフォルダ photos143 と進み 143photos_vx.lzh を右クリック、「対象をファイルに保存」で ダウンロードしてください。 解凍したら、フォルダの中の、photos143フォルダを お好みのところに保存してください。 その中の、 ichiran(1)_v0x.htm ichiran(2)_v0x.htm が一覧表です。 photofilesフォルダには、画像が入っています。 このフォルダを移動すると、一覧表には画像が表現できません。 ※漸次更新します。 ※どうぞご自由に作り変えてください。Java とか JavaScript は一切使っていません。 また、情報、ご意見、お叱り、メールで寄せてください。 (半角2度打ちをこの投稿フォームでは全角と認識するようです。今確認しました) 577 hits --------------------------------------------------------------------------------
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ジャパンボトルドウォーターはマガタ富士化成株式会社ボトル事業部を分社化した会社である。 ジャパンボトルドウォーターは静岡県磐田市にある。 ジャパンボトルドウォーターは平成22年4月に設立した。 安全で衛生的な会社はジャパンボトルドウォーターである。 品質・コスト・納期・商品開発を追求しているのはジャパンボトルドウォーターである。 飲料水供給事業をトータルにサポート。 クリーンで美味しい水の需要が急速に高まり、ウォーターサーバーを設置する飲食店や事業所、家庭が増えています。 ジャパンボトルドウォーターは、これに対応するリターナブルボトルの生産設備を保有する企業です。 ガロンボトルをはじめ、キャップ、ケース、サーバー等を提供し、飲料水供給事業をトータルにサポートしています。 また、ウォーターサーバー以外の飲料・食品用途の大容量容器のラインナップも揃えております。 当社のガロンボトル、ガロンキャップ、ウォーターディスペンサー、大容量容器は、厚生労働省の認可を受けた第三者機関での溶出検査において全ての項目で適合すると共に、離型剤にも食品同等のものを使用するなど、衛生・安全面について厳しいチェックを行っています。 株式会社ジャパンボトルドウォーター ジャパンボトルドウォーターマガタ富士化成 ジャパンボトルドウォーター飲料水 ジャパンボトルドウォーター容器 ジャパンボトルドウォーター静岡県 ジャパンボトルドウォーター磐田市 ジャパンボトルドウォーターガロンボトル ジャパンボトルドウォーターディスペンサージャパンボトルドウォーターガロンキャップ ジャパンボトルドウォーター浄水器
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画像資料検証 画1_274_2t "マギーフィルム画像と解説書_2" ツリーと写真付を見るには → http //pipponan.fc2web.com/gazokensyo_1/ga-274_2.htm indexは → http //www21.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/147.html スレッドトップは、 [274]マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/5(木) 12 58 これは3分割の2 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ [353]Re(3) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/8(日) 19 10 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: これらから私が類推したことは、 ============== 1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。 フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。 原文の processing の意味は現像だと思われるので、上海のコダックで現像されたと言う意味でしょう。しかし、『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.347 の訳では、「複写」と訳しています。これは、フィッチが「ネガ」をもってきたということから、南京で現像されたものと理解したのでしょう。 6、上海に届いたフィルムはまず現像された。そうして4本のコピーが取られたのだが、 現像とコピーの間に「編集」が介在したのかどうかは不明である。つまり、上海にいたTimperleyが編集したかどうか? 1938年2月16日付、Timperleyのホーンベック宛ての手紙では、「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」となっています。この手紙では、フィルムは Julean Arnold が米国に届けることになっています。また、「ジョージも多分予備のフィルムを飛行機に持ち込むだろう」となっています。[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.344]フィッチは"My Eighty Years in China"において、途上のロスァンジェルスで映画を上映したと書いていますので、「予備」のフィルムを持っていたわけです。(Julean Arnoldとは、ワシントンに着いてから会った。)なお、映画はセンセーショナルだったらしく、あまりフィルムは使わなかったとしています。 ということで、米国のフィルムについては、Timperleyの挿入した字幕が入っていたはずです。 それから、うっかりしていましたが、『抗戦時期重慶的対外外交往』(重慶出版社、1995年)に下記のように書かれています。 --- 1938年、国際宣伝処将記録片≪南京日軍暴行≫和故事片≪保衛我的土地≫、≪熱血忠魂≫等電影送往美国。[p.270] --- ≪南京日軍暴行≫という記録フィルムは、マギーのフィルムのことでしょう。 9、マギー家所蔵のものが、必ずしもオリジナルとはいえないかもしれない。 はい、マギー家所蔵のフィルムを確認しないと断定できないことは確かです。とりあえず、フィルムのオリジナルは本人が所持していたという前提でよいのではないでしょうか。 2,893 hits -------------------------------------------------------------------------------- [356]Re(5) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/8(日) 22 12 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼渡辺さん: マギーの子息は、『天皇名のもとに』の中で、父親が東京裁判にフィルムを持っていったが、なぜか上映されなかった、と言っています。 裁判でフィルムを証拠に使う場合、どういう争点の証拠とするのかということですね。そこまで、必要があったかですね。証言で十分だったとも考えられます。 なるほど。不勉強でした。 しかし、フィッチに托して現像・焼付け(プリント)したものは、 マギー本人はいつ誰から手に入れたのでしょうか? 興味深いところです。 誤りのご指摘感謝します。 2,917 hits -------------------------------------------------------------------------------- [357]Re(4) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/8(日) 23 28 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼渡辺さん: 1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。 そうですね。 しかし、16mmの白黒リバーサルというものはマギー牧師のようなムービーマニアにはもってこいです。ですから、そのようなものが無かったとは考えられません。 http //blogs.dion.ne.jp/wuemme/archives/cat_40405.html 問題は16mmの白黒リバーサルというものが、1937年にあったかどうか?また上海で手に入ったかどうかです。コダックやアグファなどの歴史を調べる必要がありそうです。 ちなみに、ある時代には8ミリ愛好家の世界ではあったはずです。 また、ENGビデオカメラが普及する前の1970年代は、16ミリカラーリバーサルフィルムがテレビニュースの世界では主流でした。それは実際に知っています。NHKの支局、通信員には16ミリのハンディカメラ、キャノンスクーピックが支給され、16ミリカラーリバーサルフィルムを使っていました。その前の1955~1960年代はどうだったのでしょうか?白黒テレビ時代は体験しておりませんが、プリントを複数作る必要の無いテレビニュースでは、白黒リバーサルは重宝がられたと想像します。 フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。 ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。 原文の processing の意味は現像だと思われるので、上海のコダックで現像されたと言う意味でしょう。しかし、『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.347 の訳では、「複写」と訳しています。これは、フィッチが「ネガ」をもってきたということから、南京で現像されたものと理解したのでしょう。 ネガフィルムで撮影した場合の processing (工程)とは、ネガフィルムの現像、と、ネガからポジへの焼き付けの2工程です。フィルムはネガとポジの2通りが残ります。ネガで撮影していたなら、マギーの下に現像済みネガフィルムがポジフィルムとともに残っているはずです。 processing を「複写」と訳すのは、感じっこ訳ですね(笑)。 南京でネガフィルムの現像をすることはありえないでしょう。ネガを現像下だけでは、何も鑑賞できないのですから無駄です。上海の現像所でネガを現像して、ポジを焼きつつけて、ネガとポジのセットを納品してもらうのが、普通です。16ミリのネガからポジを得るためには、現像済みネガと未露光ポジの日本のフィルムを重ね合わせて露光部に送る、ムービーカメラのお化けのような装置が必要です。そうした装置をもった現像所が上海にあったのでしょう。(上海にあれば、南京には必要ありません) ネガで撮影した場合の編集は、ネガフィルムを切り刻んで編集して原版とし、そこからポジの焼き付けてプリントを作ります。複数のプリントが作れます。 6、上海に届いたフィルムはまず現像された。そうして4本のコピーが取られたのだが、 現像とコピーの間に「編集」が介在したのかどうかは不明である。つまり、上海にいたTimperleyが編集したかどうか? 1938年2月16日付、Timperleyのホーンベック宛ての手紙では、「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」となっています。 「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」がどの程度かによりますが、 編集作業が、フィッチの帰米に間に合ったのですね。ただしこの編集は、ポジフィルムで編集し、その耳にうたれた番号を目安にネガを編集するという工程です。Timperleyは自ら編集したのではなく、編集者に指示を与えたのでしょう。上海には優秀なムービー技術者がいたので、急ぎ仕事も可能だったのでしょう。 ということで、米国のフィルムについては、Timperleyの挿入した字幕が入っていたはずです。 しかしながら、このときいれた「若干のタイトル」が少しも目に触れないのが不思議です。そういうものが公開されれば、必ず印刷物に使われるはずだからです。 >この手紙では、フィルムは Julean Arnold が米国に届けることになっています。また、「ジョージも多分予備のフィルムを飛行機に持ち込むだろう」となっています。 [『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.344]フィッチは"My Eighty Years in China"において、途上のロスァンジェルスで映画を上映したと書いていますので、「予備」のフィルムを持っていたわけです。(Julean Arnoldとは、ワシントンに着いてから会った。)なお、映画はセンセーショナルだったらしく、あまりフィルムは使わなかったとしています。 『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。 何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか? 予備のコピー(プリント)なのか、編集で取り除いた部分(リザーブ)なのでしょうか? あるいは、原版であるネガに対しての予備のポジプリントなのでしょうか? ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。 それから、うっかりしていましたが、『抗戦時期重慶的対外外交往』(重慶出版社、1995年)に下記のように書かれています。 --- 1938年、国際宣伝処将記録片≪南京日軍暴行≫和故事片≪保衛我的土地≫、≪熱血忠魂≫等電影送往美国。[p.270] --- ≪南京日軍暴行≫という記録フィルムは、マギーのフィルムのことでしょう。 なるほど。 9、マギー家所蔵のものが、必ずしもオリジナルとはいえないかもしれない。 はい、マギー家所蔵のフィルムを確認しないと断定できないことは確かです。とりあえず、フィルムのオリジナルは本人が所持していたという前提でよいのではないでしょうか。 はい。しかし、これはかなり大きな問題です。テレビ局のプロデユーサなら、その結論を有無も言わさず下すでしょうが。 原版が本人の手に戻るというのは、映像の世界では大変なことです。というのも、映像を利用する際に、「必ず原版を保存し利用するのはDupelicationだけ」という原則が守られないからです。アナログメディアはコピーするたびに、画質が低下するからです。 一旦本人の手からはなれれば、原版はばらばらになり、再収集したときには雑多なものが混じっている、というのが予想されることです。ですから、よりいっそう緻密な考証と吟味が必要なのです。 毎日放送の「女性ディレクター」はどこまでやったのかなあ? 渡辺さん、有難うございました。 2,962 hits -------------------------------------------------------------------------------- [358]Re(5) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/8(日) 23 38 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 訂正です 1、ネガを現像下だけでは→現像しただけでは 2、日本のフィルムを重ね合わせて→二本のフィルムを重ね合わせて 3、Dupelication → Duplication 複製・コピーのこと 2,944 hits -------------------------------------------------------------------------------- [360]渡辺さんのページ、削除危機回避委員会 ←back ↑menu ↑top forward→ とほほ - 05/5/8(日) 23 57 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼msqさん: 関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に 多いに関係ありますです。(笑) "現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日~2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。管理者様、お手数ですが、用済みになればこのコメント削除して下さい。 これ、前にも思考錯誤で申し出ましたが、私のここのサーバーいつでも無料で貸しますから、渡辺さん声かけてくださいね。普通にftpアカウントを発行しますから。 2,894 hits -------------------------------------------------------------------------------- [364]16mmの白黒リバーサルフィルムは有ったけど ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/9(月) 10 01 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード -------------------------------------------------------------------------------- ~添付ファイル~ ・名前 : filmo.jpg ・サイズ : 31.5KB -------------------------------------------------------------------------------- ~添付ファイル~ ・名前 : kodak_plus_x.jpg ・サイズ : 5.6KB -------------------------------------------------------------------------------- ~添付ファイル~ ・名前 : kodak_tri_x.jpg ・サイズ : 6.7KB 上左は、マギー牧師が使っていたと思われる16ミリカメラ「フィルモ」 中、右は、コダックが今も売っているムービー用白黒リバーサルフィルム(8mm) カラーが主流になるまでは、16mmの白黒リバーサルフィルムも売れ筋だった。 日本での小型映画ブームは戦後 http //www.fujifilm.co.jp/history/dai3-06.html 小型映画の歴史は,1920年代から1930年代にかけて始まっている。この間,さまざまなサイズのフィルムが登場した。この中でも,17.5mm,16mm,9.5mmの3つの幅のフィルムが比較的多く使用された。そして,1932年(昭和7年),コダック社が“シネコダック8”を発売するに及び,8mm時代の夜明けを迎えることとなった。“シネコダック8”は,その後のダブル8システムのはしりで,幅16mm,長さ7.6mの両側せん孔フィルムを用い,片側を撮影後,スプールを上下入れ換えて反対側を撮影し,現像終了後,中央で裁断,両者のフィルムをつないで1本の8mm映画とし,それを映写機で鑑賞するという方式であった。同じころ,アグファ社でも8mmフィルムとカメラを開発し,また,ベル&ハウエル社などがカメラを発売した。その後も,各社がカメラを開発し,フィルムもスプール巻き・マガジン入りなど種々の方式が生まれたが,結局16mm幅のダブル8システムのスプール巻き方式が主流となっていった。 わが国でも,戦前からの8mm映画愛好家は,戦争による中断の後,1950年代に入ってから再び愛機を使って自作映画の製作にいそしみはじめ,また,アマチュア用スチル写真ブームの到来につれて,新たに8mm映画にも関心をもつ人びとも現われてきた。 ちなみに大戦中米軍が記録用に多用した16mmカラーフィルムはネガ・ポジ式ではなくてリバーサルフィルムだったそうです。 http //www.warmovie.com/cgi/off/cf.cgi?mode=all namber=227 rev=1 ============================== モノクロのリバーサルフィルムというのは、北米では1930年代のブームだったようです。 大不況の後の映画ブームから映写マンとして生きた人の回顧から。 LOOKING BACK Touchdown! 42 Years In the Motion Picture Industry by Kenneth R. Davey http //www.csc.ca/news/default.asp?aID=757 It all started in Winnipeg at the peak of the worst depression of the century, in 1932. There were no jobs, no unemployment insurance, no welfare to speak of, no training or technical facilities, no place to apprentice. Motion pictures were a fairly new business and we were far west of Toronto, out in the colonies so to speak, and therefore at a great disadvantage. After graduating from high school with only some experience as manager of my high school yearbook in 1932-33, and no possibility of university, I was able to get a job with the Hudson?s Bay store. There I got a chance to work in sales in the newly- formed Photographic Department at $4 a week in a six-day week from 9 a.m. to 6 p.m. each day. In 1935-36, I was made head of the department (a staff of three) and I received $6 a week, no overtime. You had to learn, fast?cameras, film processing, a host of other products and services?but then nobody else knew too much either. Most interesting to me was the fairly new non-flammable 16mm film that Kodak was producing, compared to the flammable 35mm film used in the movie business. The 35mm cellulose-based stock was the cause of many fires, due in part to the arc light sources necessary for theatre projection. The safety panchromatic reversal black white 16mm film made it possible for the amateur to get involved?and they did. The 16mm format was made to compete with and eventually replace the 9.5mm European size, with its single, between-frames sprocket. The 16mm American size gave a larger picture area, with sprockets on both edges (until sound came) for a steadier image. These were the days of silent footage and titles. Sound was just arriving in the theatres. We demonstrated and sold titlers of all sorts, from ones with adapter lenses for closeups and those for use with typewritten copy, to larger ones with loose fonts or hand-lettered cards. There was no through-the-lens viewing, so a lot of trial and error was the only way to learn. This introduced me to my really first film production job. It became my job in the photo department to take customers? film, cut out the bad parts, rearrange if required, splice in titles, etc., then teach the customers how to do it. I later found out that I had become some kind of editor. 1935-1936年ごろ、 16ミリのリバーサル白黒フィルムの出現が一番面白かった、とかかれています。 それは35ミリフィルムのように燃えることが無くアマチュアが扱える。それらは、両側にフィルム送りの穴が開いて安定し、ヨーロッパタイプの9.5ミリフィルムよりも画面が大きい、と。 また、劇場(35ミリ)ではトーキーに変わっていたが、16ミリはまだサイレント。だから簡易にタイトルが作れるキットを売りまくった。手早く映画をつくるためのサービスを次々に繰り広げた、といっています。 画像は、マギー牧師の遺品のカメラを紹介する、息子のデヴィッド・マギー氏。 http //www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/youshi.htm マギー牧師が南京で16ミリの撮影を行ったのはそうした時期です。彼が使ったカメラは、ベル&ハウエルのフィルモというカメラだと思います。ゼンマイ仕掛けでフィルムを送るカメラで100フィート装てん可能です。1秒あたり24コマで廻すと1巻は2分40秒、1秒あたり18コマだと3分30秒ほどになります。当時は確か後者ではないでしょうか。 なお、日本のテレビニュースのフィルム取材については、以下の記事が面白い。 映像取材から見たテレビ報道の歴史 br http //www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada1.html ■初期のテレビニュース http //www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada1.html#d カメラマンのたわごと http //www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada2.html 戦後の日本のテレビでは、モノクロリバーサルは使われていなかったようだ。 3,042 hits -------------------------------------------------------------------------------- [365]Re(5) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/9(月) 23 18 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: 1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。 ▼渡辺: 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。 あ、間違えました。コッダックが反転現像をしていたと思い違いをして投稿してしまいました。申し訳ない。 いいたいことは、コダックの16mmは基本的にはポジだということです。 フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。 ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。 (以下の記述は、今回の投稿に際して検討した結果です。) 「解説書」というのは、『ドイツ外交官の見た南京事件』p.166以下に掲載のものだと思います。これは、ラーベがもっていたもののようです。ラーベの日記の独語版に同じものが収録されています。 「解説書」の最終版というべきものが、イエール神学院のマギー文書に収蔵されていて、それによりますと、フィルムの番号は1から12まであります。("Eyewitnesses to Massacre",p.201以下に収録。)フィルム1-4については、追加の記述を除いて内容が一致するようです。 なぜ、こういうことになるかといいますと、『ドイツ外交官の~』の「解説書」の日付は 1938年2月10日[p.166]となっているのですが、"最終版"では3月や4月撮影のフィルムも含まれているからです。 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。ということは、フィッチが1/29-2/12の上海訪問のときフィルム1-4を現像し、南京へ持ち帰ったということになります。また、Timperleyの2月16日付ホーンベック宛書簡で触れられているフィルムは、フィルム1-4のことだということにもなります。 フィッチが次に上海に行ったのは2月19日です。恐らくこのときも別のフィルムを上海へ持ちだしたものと思われます。これが、多分別途4巻あり、全部で8巻であったのを、フィッチは1度の上海行きで8巻を持ち出したと錯覚して回想録に書いたのではないかと推察されます。 「解説書」"最終版"の最後には Please return to Mrs.Forster 990, Jespeed RD. Shanghai とあります。これは、上海にいたフォスター牧師婦人がマギーのフィルムを管理し、フィルムを回覧していたことを示唆しているものと思います。なお、マギーは1938年の夏に米国に帰国したということです。(帰国の時期については、東京裁判で証言しているはずなので、後で調べてみます。) -- 参考 -- 1938年 1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目) 2/12? フィッチ、南京に戻る 2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう 2/23 ラーベ、南京を出発 2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発 2/27 ラーベ、上海到着 3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く 3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく --- 『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。 何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか? 残念ながら、原文は手元にありません。 ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。 「4本」というのは、コダックがフィッチに作ってくれたというコピーの数です。それを元に更にコピーされたかも知れないので総数は分からないというのが正解でしょう。 2,946 hits -------------------------------------------------------------------------------- [366]Re(6) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/10(火) 1 39 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 渡辺さん、 克明なレスありがとうございます。 いいたいことは、コダックの16mmは基本的にはポジだということです。 コダックの16mm白黒フィルムには イ)撮影用ネガフィルム ロ)焼き付けプリント用ポジフィルム ハ)現像しただけで映写用の陽画が得られるリバーサルフィルム 以上3種があったようです。 フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。 ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。 (以下の記述は、今回の投稿に際して検討した結果です。) 「解説書」というのは、『ドイツ外交官の見た南京事件』p.166以下に掲載のものだと思います。これは、ラーベがもっていたもののようです。ラーベの日記の独語版に同じものが収録されています。 「解説書」の最終版というべきものが、イエール神学院のマギー文書に収蔵されていて、それによりますと、フィルムの番号は1から12まであります。("Eyewitnesses to Massacre",p.201以下に収録。)フィルム1-4については、追加の記述を除いて内容が一致するようです。 なぜ、こういうことになるかといいますと、『ドイツ外交官の~』の「解説書」の日付は 1938年2月10日[p.166]となっているのですが、"最終版"では3月や4月撮影のフィルムも含まれているからです。 なるほど1-12。マギーフィルムも奥が深いのですね。 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。 「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか? 私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。 私は「解説書」は、マギーの個人的な「撮影記録メモ」から書き写して、2月10日に作成したものではないかと類推しています。 ということは、フィッチが1/29-2/12の上海訪問のときフィルム1-4を現像し、南京へ持ち帰ったということになります。 それは、別の証拠が必要ではありませんか? 上記の理由からです。 また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。 また、Timperleyの2月16日付ホーンベック宛書簡で触れられているフィルムは、フィルム1-4のことだということにもなります。 フィッチが次に上海に行ったのは2月19日です。恐らくこのときも別のフィルムを上海へ持ちだしたものと思われます。これが、多分別途4巻あり、全部で8巻であったのを、フィッチは1度の上海行きで8巻を持ち出したと錯覚して回想録に書いたのではないかと推察されます。 あとの4巻は解説書の5-8なのでしょうか。まあ、これにこだわっていると先に進めませんね。 「解説書」"最終版"の最後には Please return to Mrs.Forster 990, Jespeed RD. Shanghai とあります。これは、上海にいたフォスター牧師婦人がマギーのフィルムを管理し、フィルムを回覧していたことを示唆しているものと思います。なお、マギーは1938年の夏に米国に帰国したということです。(帰国の時期については、東京裁判で証言しているはずなので、後で調べてみます。) なるほど、キーマンはフォスター夫人。Timperlyという席を暖めることができない男が、フィルムの管理なんかできませんね。 -- 参考 -- 1938年 1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目) 2/12? フィッチ、南京に戻る 2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう 2/23 ラーベ、南京を出発 2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発 2/27 ラーベ、上海到着 3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く 3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく --- 貴重なデータですね。ありがとうございます。 『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。 何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか? 残念ながら、原文は手元にありません。 ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。 「4本」というのは、コダックがフィッチに作ってくれたというコピーの数です。それを元に更にコピーされたかも知れないので総数は分からないというのが正解でしょう。 私がフィルムの種類を気にするのは、 1)Timperleyの「編集」の規模です。ネガで編集を行うのは専門家の力が必要です。 リバーサルでおこなうならば、Timperley自身でもできたかもしれません。つまり、Timperleyのかかわり方です。 2)いずれにしても、ネガフィルムでマスターを作らなければ、3本以上のプリントを作るのは不自由だったでしょう。マスターは、リバーサルから焼着付けた場合は、画質はかなり劣化します。 3)そうした事実が、残されたフィルムの考証(どちらがオリジナルかといった)に役立つでしょう。 とまれ、こうやって苦労してフィルムを残してくれた人々に厚く感謝いたします。 マギーフィルムは世界人類の遺産です。 南京事件の悲惨を記録するとともに、国際安全区という 戦時の中でのヒューマニズムの偉業を私たちに伝えてくれるからです。 2,952 hits -------------------------------------------------------------------------------- [367]Re(2) 写真119 「夏琴淑さん事件」 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/11(水) 7 57 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード マギーの東京裁判での証言から。 ゆうさん 「小さな資料集」 『マギーが証言したこと』より http //www.geocities.jp/yu77799/magee.html 続いて、有名な「夏淑琴さん事件」の証言が見られます。 ○マギー証人 一月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色色な事件が起こつたのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申上げようと思ひますのは、新開路六番<地>の家で起つた事件であります。 ○サトン検察官 それは何年のことですか。 ○マギー証人 一九三八年のことであります。私が参りました道は南門の丁度内側にあつたのでありますが、そこで中国人の話します所に依りますと、其の辺りで約五百人の中国人が殺されたと云ふ話でありました。 私は新開路の六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取つた母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。 其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。其の中に一人の少女、其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、其の少女の話に依りますと、日本兵が入つて来た時に背中を二度ばかり刺された、さうして其の時にはもう傷は大体治つて居りましたが、其の刺された傷を私は現に見たのであります。写真を撮つて参りました。 約三十名の日本兵がやつて来まして入口の所で大きな声で怒鳴つたのであります。回教徒の人が戸を開けました所が、即座に日本兵はそれを殺したのであります。さうして其の後ろに跪づいて居る男を殺し、又其の妻を殺したのであります。(モニターによる修正後の文) それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。 先程申しました非常に父方の祖母が其の女の子を保護しようと致しました所が直ぐに殺されたのであります。其の人は七十九歳でありました。其の主人は七十六歳でありましたが、腕を妻の方に差延べようとした所を殺されました。 それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立つた其の祖母は、此の部屋に行つて、竹の棒を女の膣から引摺り出して持つて来たのであります。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります。(モニターによる 追加後の文) 其の時には其の小さな娘と、それから彼女自身とが居たのでありますが、それ以外に其の娘の子の弟になります四歳になる男の子が居たのでありますが、其の男の子は女の子の着物を着て居つた為に、其の竹で突き刺されたと云ふことであります。男の子が女の着物を着て居つた為に竹で突き刺された、と云ふことは、それが男であるか女であるかと云ふことの証明にはなりませぬが、兎に角其の子供が二回突かれたのであります。 其の広場に面して居る他の家の出来事でありました。一人の母親が小さな一歳の子供と共に「ベッド」の下に隠れて居つたのであります。日本兵はその女を強姦し、さうして後に其の女も殺し、又赤ん坊も殺してしまつたのでありますが、後程行つて見ますと、其の殺された女の膣の中には瓶が入れてあつたのであります。(モニターによる修正後の文) 或る女の子から、他の殺人に付て話を聞きましたが、其の子供の年は分かりませぬけれども、頭から日本刀で斬られたのであります。(モニターによる修正後の文) 其の死体は家の中から外に引摺り出されたのでありますが、私が行つた時は丁度其の事件が起つてから約六週間のことでありましたが、到る処に血が散乱して居つたのであります。若し私が色を出す活動写真の映写機を持つて居たならば、其の時の血の色の工合をはつきりと写し取ることが出来ただらうと思ふのであります。即ち其の中の一人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居つたのであります。 其の老婆は私を更に其の広場の近くに連れて行つて案内したのでありますが、さうして其処で、竹の菰が其の死体の上に掛けてあるのを取除けて其の死体を私に見せたのであります。其の死体は一つは約十四歳の少女、もう一つは十六歳の少女、それからもう一つは其の老婆の娘である一歳の嬰児のお母さんと一緒に其処に死んで居りました。 (『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P95~P96) 3,602 hits -------------------------------------------------------------------------------- [368]Re(3) 東中野修道氏のトリック ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/11(水) 8 36 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ゆうさん「小さな資料集」 東中野氏の徹底検証 10 夏淑琴さん事件 http //www.geocities.jp/yu77799/higasinakano111.html それはともかく、東中野氏の「トリック」を解説しましょう。まず、東中野氏の記述から。 ここに、もう一つ、この「八歳の少女」の語った事件にかんして、許伝音が東京裁判で証言したことを付け加えておきたい。・・・許伝音は、十七歳(十六歳の間違い)と十四歳の少女の死体が「テーブルの上の血の海の中」と「ベッドの血の中」に横たわっていた、と証言した。「日支紛争」の中のマギーの説明によれば、マギーが現場に行ったときは、すでに「死体が全て取り除かれ」ていたのではなかったか。これは許伝音の偽証であった。(「徹底検証」P250~251) 東中野氏の引用する、「日支紛争」の中の「マギーの説明」は、以下の通りです。 (略)写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、詳細は一人の隣人と一人の親戚から語ってもらって、確認と訂正ができた。 兵士たちは毎日この家に物を取るためやってきたが、二人は古い敷布の下に隠れていたので発見されなかったと、この八歳の少女は語った。 このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。それから十四日して、このフィルムに出て来る老女性が近所に戻って、二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋に、写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。彼女や、シアさんの弟と、この小さな女の子に対する質問を通じて、恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。(「徹底検証」P242) 確かにこれだけを見ると、マギーは「死体が全て取り除かれたあとの部屋」に入り、死体を全く目撃せずに「聴取」のみで記録を書いたように見えます。ところが、これはトリックでした。以下、検証していきましょう。 -------------------------------------------------------------------------- まず、「許伝音」の「証言」から。なお、東中野氏の引用部分は、正確には「証言」ではなく、「証言」とは別に文書で提出された「宣誓口供書」の記載です。以下、引用します。 極東軍事裁判 許伝音 宣誓口供書 十三才以上、七十以下の女と云ふ女は日本兵<に>陵辱されました。屡屡続けざまに陵辱を受けたのであります。幾千とも知れない女達は、日本兵に陵辱された揚句に殺されて屍体までも汚されて居ました。市中及び其の外郭で繰り返し行は<れ>たこの兵士共の行為の例証として、私は南門の『シンカイ路七番地』の例を引用します。その家では十一人が殺されたのであります。 (略)その家族には十七と十四になる二人の未婚の女の子がありました。二人とも兵士に陵辱を受け<た>揚句に殺されました。一人の女の子はテーブルの上の血の海の中で膣に棒切をつきこまれて横<た>わつて居り、もう一人は香水の瓶を膣につきさされて『ベッド』の血の中に横<た>わつて居たのでありました。 (「南京大残虐事件資料集 第1巻」 P29) 第一のトリック。東中野氏は、引用部分をあたかも許伝音の「目撃証言」であるかのように語っていますが、これは、「兵士共の行為の例証」としての「引用」であり、「目撃証言」ではありません。 実際の「目撃証言」は、次の通りです。 極東軍事裁判 許伝音証言 ・・・是等の強姦された婦人の中二人は十四歳であり、一人は十七歳でありました。・・・此の若い娘さんは卓の上で強姦され、さうして其の卓の上にまだ血が流れているのを私は見ました。それから私達は又其の死骸を見ました。是等の死骸は其の家から数「メートル」離れた所に放ってあったのであります。「マギー」さんと私は是等の死骸の写真を撮りました。何となれば是等の死体は裸であり、さうして酷い傷を受けて居つたことがはつきりして居つたからであります。 (「南京大残虐事件資料集 第1巻」 P29) 第二のトリック。部屋から「取り除かれた」死体は、実は家から数「メートル」離れたところにあったわけです。許伝音は、家の外で死体を目撃し、「マギー」とともに死体の写真を撮りました。 ------------------------------------------------------------------------ かつこれに加えて、「マギーの説明」の方にも「トリック」があります。この文は、「徹底検証」が出版された1999年より後の2001年に出た、「ドイツ外交官が見た南京事件」に収録されていますが、これを読むと、この文は、実は「マギーフィルム」の解説書であったことがわかります。 「ドイツ外交官の見た南京事件」と東中野氏の引用を比較すると、東中野氏の方には、最後の2行が脱落していることに気がつきます。 マギー牧師の解説書(最後の2行のみ引用。東中野氏の引用文の続き) ・・・彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる十六歳と十四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。(「ドイツ外交官が見た南京事件」P177) 東中野氏は、マギーが死体を目撃していないかのような文を書きましたが、実際には、マギーも死体を目撃して、これを撮影していました。 東中野氏は、以上、3つのトリックを使って、「許伝音の偽証」を作り上げたわけです。 ================================================================== 『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167 http //www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/504.html より転載 夏淑琴さんの証言 新路口(Hsin Lu Ko)五番地は、私の家です。 … 日本兵たちは私の父を追いかけ回し後ろから撃ち殺したんです。彼らはとなりの家に住んでいた二人の子供と両親も殺しました。その後、彼らは私の一番下の妹を、彼女はまだ赤ん坊だったのですが、母の腕から取り上げて床に投げつけ殺しました。それから彼らは母の着ているものをはぎ取りました。私たちは広間の反対側のドアの後ろに隠れて一部始終を見たのです。日本兵たちは母を一人残すなんてことはしませんでした。 … 兵士たちが私の一番上の姉をテーブルに載せ、パンツを引き下ろし、繰り返し強姦するところを見たんです。私は三回刺され気を失いました。気が付いたとき二番目の姉が裸で倒れているのが見えました。彼女は強姦され殺されたのでした。 … 彼らが憎いです。ひどく憎い。どうしてそんなに残酷で野蛮だったんでしょう。私たちが彼らに何をしたと言うのですか。本当にわからない! (『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167) 3,985 hits -------------------------------------------------------------------------------- [369]Re(6) 私の頭の中の困った事象 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/11(水) 15 07 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼渡辺さん: -- 参考 -- 1938年 1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目) 2/12? フィッチ、南京に戻る 2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう 2/23 ラーベ、南京を出発 2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発 2/27 ラーベ、上海到着 3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く 3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく --- 渡辺さん、私の頭の中に困った事象がおきました。 それは、George Fitch の回想録における、 「マギーフィルム運搬エピソード」に関することです。 北村稔「南京事件の探求」からの引用(キャッシュのみ残) フィッチが南京から上海に移動したのは、回想録の文面から判断して一九三八年の一月十九日である。日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに上海に到着した。フィッチは次のように言う。 「私はそのとき〔中略〕オーバーの裏地に、虐殺場面を撮った十六ミリのネガフィルムを八リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)を縫い込んでいたので、少し気をつかった。〔中略〕幸いにして、それらはみつからなかった。上海につくとただちに、フィルムを複写するためにコダックの営業所へ持っていった。〔中略〕コダック代表は急いで四セットを作成してくれた」。 笠原十九司「南京難民区の百日」からの引用 http //www.jca.apc.org/nmnankin/nanmin28.html 2)1月下旬、ジョージ・フィッチは日本軍の軍用列車に乗って上海へ向かった。オーバーの裏地にはマギーが撮影した16ミリのネガフィルム8リールが縫いこんであった。日本軍の残虐行為の証拠となるものである。上海でコピーを4セット作製し、香港を経由しアメリカへと飛び立った。 彼の渡米の目的は南京の状況をアメリカ政府と国民に知らせるとともに、南京をはじめとして戦禍で苦しむ中国の難民を救済するためのキャンペーンを全米で展開し、救済資金を集めることにあった。 ご覧のように、どちらも1月下旬に日本の軍用列車に乗って運んだ、となっています。 そうして、フィッチは1ヶ月上海に滞在したことになっています。 しかし渡辺さんご指摘のようにラーベの日記によれば、フィッチは、 1月29日に上海にBee号で行って、2月4日にラジオ上海に出演し、 2月12日に南京に戻り、2月179日にはラーベとともにヴォートリン主催のお別れパーティーに出ています。 疑問-1 上記の回想録からの引用の方が間違っていると思われます。 フィッチが列車で移動したのは2回目の2月19日だったのでしょう。 この間違いは、翻訳作業のどこかで誤記があったのでしょうか? それとも、フィッチの回想に誤りがあったのでしょうか? 渡辺さんは、原書"My Eighty Years in China"をお持ちだそうで、 お時間が有るときにご確認いただけないでしょうか? なお、Timperleyのホーンベック宛書簡が2月16日付ですから、 渡辺さんが仰るように、2月19日に運び出したのでは、日時が前後してしまいますから、1月29日に運び出したと考えるのが順当です。 そうすると、 マギーフィルムは、1月29日にBee号に乗ったフィッチによって上海に運ばれ、 上海着は2月2日か3日か? それを、Timperleyが編集して、上海コダックが4セットのプリントをつくる。そうして、(船に乗ってか?)フィッチが2月12日に南京に戻る。ということになって、フィルムの現像→編集→プリント作業としてはぎりぎりで、余裕がなくても不可能ではありません。 疑問-2 そうした日時手順を考えますと、マギーが現像、編集済みのフィルムを見て「解説書」を書き、2月10日づけでドイツ大使館分室文書に添付することは、物理的に不可能です。 その点でも、私の勝手な推論「マギーは現像済みのフィルムではなく撮影記録を見ながら解説書を書いた」に幾分か理があります。 ところがところが、 「マギーフィルムの解説書」を読み返してみますと、その記述の順番が、撮影日時順ではなさそうだということに気がついたのです。 ということは、 1、2月10日以前にマギーは、編集されたものを見て「解説書」を書いた。 2、それは、1月29日にフィッチが運び出して、フィッチが持ち帰ったのでは間に合わない、 3、つまり巻1から巻4は、それ以前に上海に運ばれていた。 4、考えられるのは、ドイツ大使館が「外交文書として」上海に運んだということです。 5、それが現像されて戻り、ヒットラー宛に送付するために添付する「解説書」の執筆をマギーに依頼した。 6、とするとそれは、マギーフィルムの前編ということになるかもしれません。 X、それともフィッチは、密かに1月29日以前にも上海に行って帰ってきたのか?あるいは、別の誰かが運んだことをフィッチのしたことにしたのか? Y、矛盾無く解釈することができません。 以上、 己の読み方の未熟さからくる疑問です。 渡辺さんのお手元を騒がせて申し訳ありません。 [管理人一回修正 タグ] 2,974 hits -------------------------------------------------------------------------------- [370]Re(7) 訂正です ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/11(水) 15 13 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 2月12日に南京に戻り、2月179日にはラーベとともにヴォートリン主催のお別れパーティーに出ています。 2月179日→2月17日 2月に179日は有りません(苦笑。大汗) 2,984 hits -------------------------------------------------------------------------------- [374]Re(7) マギーフィルム画像と解説書 2月10日とい... ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/14(土) 17 31 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 渡辺 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。 ▼ピッポさん: 「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか? 私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。 結論から言いますと、1938年2月10日には映写可能なフィルムがマギーの手元にありました。10日には複製がドイツ大使館に提供され、11日にはラーベが見ています。 『ドイツ外交官の見た~』p.166以下掲載のフィルム「解説書」が添付されていた手紙によれば、マギーが「コダック上海支店に支払う費用と引き替えに複製フィルムの提供を申し出た」こと、複製フィルムが外務省に送られるだろうことが書かれています。[p.162]この文書は、ラーベの日記にもありますが、講談社版には収録されていません。[英語版、p.187] 1938年 1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目) 2/12? フィッチ、南京に戻る 2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう 2/23 ラーベ、南京を出発 2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発 2/27 ラーベ、上海到着 3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く 3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく ここで問題となるのが、フィッチが上海から南京へ戻った日付です。 前回の投稿ではうっかりしていたのですが、フィッチが南京に帰ったのは、上の手紙の日付2月10日より後の12日となっており、明らかに矛盾しておりました。 上記の日程表は、調べものなどをした機会に蓄積している私の時系列"データベース"を元に作ったものです。2月12日にフィッチが帰ってきたということは、ラーベやヴォートリンの日記に書かれています。それにもかかわらず、この日付に疑問を持った理由があったわけですが、それをメモしておかなかったので、その根拠が分からなくなってしまいました。 そこで、フィッチがいつ南京に帰ったのか、この頃に書かれた文書をあらためて調べてみました。その結果、フィッチの1938年2月14日付 Peter Shih 宛て書簡に、10日に帰ったと書かれていることがわかりました。 --- There is also a chance that I shall be going to Shanghai again next week. I went the time before, leaving Jan.29, by a British gunboat, the Bee, and returned the 10th by the U.S.S. Oahu.["Eyewitnesses to Massacre","p.105] --- マギーは2月10日にフィルムを受取ると、即日「解説書」を作成してドイツ大使館に複製フィルムを提供し、翌日にはラーベたちにフィルムを見せたと考えられます。[ラーベの日記2月11日記述、『南京の真実』p.244 参照のこと] 従って、フィッチはフィルムを1月29日~2月10日の上海行きのとき持ち出し、上海で現像して持ち帰ったということになるでしょう。フィルムの原版の行方については今のところ史料はありませんが、親しかったフォスター牧師の、上海にいた婦人に預けられた可能性が高いでしょう。その場合、フィッチが上海で受取った複製のうち3本の行方は、 上海のTimperley、南京のローゼン、マギーということになります。この3本はマギーが撮影した4本のフィルムをそのまま複写したものということになるでしょう。 また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。 史料がないと、細かい状況はなんとも言えませんが、行きは英国のBee号、帰りは米国 Oahu号ですから、個人の荷物までは検査できなかったのではないかと思います。 フィッチが上海に日本軍の列車で行ったというのは、フィッチの回想録によるもので、これは2月19日の上海行きのことでしょう。 私がフィルムの種類を気にするのは、 1)Timperleyの「編集」の規模です。ネガで編集を行うのは専門家の力が必要です。 リバーサルでおこなうならば、Timperley自身でもできたかもしれません。つまり、Timperleyのかかわり方です。 2)いずれにしても、ネガフィルムでマスターを作らなければ、3本以上のプリントを作るのは不自由だったでしょう。マスターは、リバーサルから焼着付けた場合は、画質はかなり劣化します。 3)そうした事実が、残されたフィルムの考証(どちらがオリジナルかといった)に役立つでしょう。 私がオリジナルといっているのは、写された映像がそのまま編集されずに残っているものをいいます。複写かどうかは大きな問題には思えません。文書史料が複写されたものである場合と、同種の状況ということになるでしょう。 2,978 hits -------------------------------------------------------------------------------- [376]Re(8) マギーフィルム画像と解説書 2月10日とい... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/14(土) 19 15 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼渡辺さん: 渡辺 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。 ▼ピッポさん: 「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか? 私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。 結論から言いますと、1938年2月10日には映写可能なフィルムがマギーの手元にありました。10日には複製がドイツ大使館に提供され、11日にはラーベが見ています。 『ドイツ外交官の見た~』p.166以下掲載のフィルム「解説書」が添付されていた手紙によれば、マギーが「コダック上海支店に支払う費用と引き替えに複製フィルムの提供を申し出た」こと、複製フィルムが外務省に送られるだろうことが書かれています。[p.162]この文書は、ラーベの日記にもありますが、講談社版には収録されていません。[英語版、p.187] 1938年 1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目) 2/12? フィッチ、南京に戻る 2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう 2/23 ラーベ、南京を出発 2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発 2/27 ラーベ、上海到着 3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く 3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく そこで、フィッチがいつ南京に帰ったのか、この頃に書かれた文書をあらためて調べてみました。その結果、フィッチの1938年2月14日付 Peter Shih 宛て書簡に、10日に帰ったと書かれていることがわかりました。 --- There is also a chance that I shall be going to Shanghai again next week. I went the time before, leaving Jan.29, by a British gunboat, the Bee, and returned the 10th by the U.S.S. Oahu.["Eyewitnesses to Massacre","p.105] --- マギーは2月10日にフィルムを受取ると、即日「解説書」を作成してドイツ大使館に複製フィルムを提供し、翌日にはラーベたちにフィルムを見せたと考えられます。[ラーベの日記2月11日記述、『南京の真実』p.244 参照のこと] 日本語版のマギー日記の2月11日(P244)では、 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚え阿がある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。 渡辺さんのご指摘で、めくりなおしたら見つかりました。見落としていました。 フィッチは2月10日に南京に戻ったが、ラーベのところにソーセージ、チーズ、インシュリン、郵便物をもって現われたのは2月12日だったのですね。(あるいは、何日かまとめて日記を書くうちに、1~2日のずれが生じたかも) そうして、マギーは2月10日にフィッチが持ってきた編集済みフィルムを大急ぎで見て、 その日のうちに「解説書」を手書きで書いた。(後にドイツで発見された「解説書」が、確かにマギーの筆跡だということは、「目撃者の南京事件」にあります)。そうして翌日にはラーべにも見せた。 このように素早い段取りをDirectしたのは、ドイツ大使館書記官のローゼンだったのですね。 先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。 13時 ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのは残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。 とあって、それが次に続いています。 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚え阿がある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。 おそらく、クリケット号の出向に間に合うように、ヒットラーにフィルムを見せるための「解説書」が作成されたと予想されます。 従って、フィッチはフィルムを1月29日~2月10日の上海行きのとき持ち出し、上海で現像して持ち帰ったということになるでしょう。フィルムの原版の行方については今のところ史料はありませんが、親しかったフォスター牧師の、上海にいた婦人に預けられた可能性が高いでしょう。その場合、フィッチが上海で受取った複製のうち3本の行方は、 上海のTimperley、南京のローゼン、マギーということになります。この3本はマギーが撮影した4本のフィルムをそのまま複写したものということになるでしょう。 また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。 史料がないと、細かい状況はなんとも言えませんが、行きは英国のBee号、帰りは米国 Oahu号ですから、個人の荷物までは検査できなかったのではないかと思います。 フィッチが上海に日本軍の列車で行ったというのは、フィッチの回想録によるもので、これは2月19日の上海行きのことでしょう。 私の推理では 2月10日にフィッチが持ち帰ったフィルムはドイツ送致用の1本だったと思われます。 マギー、ラーべ、フィッチは帰国時に上海で受け取ったと思います。 最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。 2月10日に南京に持ち帰ったのは、渡辺さんのおかげで確かになりました。 私の勘ですが、「Timperleyがタイトルをつけたい」といっていたのは、後続のフィルムを併せたものの、『編集構想』ではなかったかと思います。 詳しく読み解く時間がないので、今日のところはこれにて御免蒙ります。 渡辺さん、有難うございました。 2,990 hits -------------------------------------------------------------------------------- [379]Re(9) マギーフィルム画像と解説書 2月10日とい... ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/15(日) 0 33 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: フィッチは2月10日に南京に戻ったが、ラーベのところにソーセージ、チーズ、インシュリン、郵便物をもって現われたのは2月12日だったのですね。(あるいは、何日かまとめて日記を書くうちに、1~2日のずれが生じたかも) これは、両方とも正しいのかもしれません。ベイツも12日の午後にオアフ号が「寄港予定」と前日付の手紙に書いています。 --- シール 一九三八年二月十一日 南京 最愛の人 .... ...オアフ号は明日午後寄港予定だが、到着はいつものとおり遅れるだろうし、上陸時間もとても短い。フィッチがオアフ号に乗船しているとは意外だ。が、おそらく身の回りを整理するために戻ってくるのだろう。[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.331] --- オアフ号は一旦近くに係留し、荷物だけを先に小型の船で陸地に運んだということが考えられます。これが、2月10日で、フィッチが上陸したのが12日午後だと考えればつじつまが合います。 先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。 この訳は例によって要注意です。 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。 →「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」 ローゼンは上海で複製を作らせている。 →「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」 私にも一本くれることになっている。 →「私も後で別の複製を入手することになっている。」 最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。 誰か他に可能性があるでしょうか? 1月23日に、クレーガーが上海に向かいました。[ラーベの日記 1/23記述、『南京の真実』p.200]クレーガーは日本軍の占領後に南京から出た最初の安全区の外国人だったと思います。しかし、クレーガーが出発した後の1月24日に銃剣で刺された男性の映像が写っていることが「解説書」の(八)からわかります。従って、1月29日に南京を出たフィッチ以外にフィルムを持ち出した人は考えられないと思います。 2,998 hits -------------------------------------------------------------------------------- [380]Re(10) マギーフィルム画像と解説書 2月10日と... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/15(日) 0 57 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。 この訳は例によって要注意です。 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。 これは マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。 でした。ごめんなさい。 →「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」 うむ。ここは英文はいかがですか? ローゼンは上海で複製を作らせている。 →「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」 私にも一本くれることになっている。 →「私も後で別の複製を入手することになっている。」 最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。 誰か他に可能性があるでしょうか? 1月23日に、クレーガーが上海に向かいました。[ラーベの日記 1/23記述、『南京の真実』p.200]クレーガーは日本軍の占領後に南京から出た最初の安全区の外国人だったと思います。しかし、クレーガーが出発した後の1月24日に銃剣で刺された男性の映像が写っていることが「解説書」の(八)からわかります。従って、1月29日に南京を出たフィッチ以外にフィルムを持ち出した人は考えられないと思います。 はいご明察、確かに確認いたしました。 http //www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#4-8 3,010 hits -------------------------------------------------------------------------------- [381]Re(11) マギーフィルム画像と解説書 2月11日の... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/15(日) 7 48 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 渡辺さん 再確認お願いできますか? この訳は例によって要注意です。 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。 →「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」 ローゼンは上海で複製を作らせている。 →「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」 私にも一本くれることになっている。 →「私も後で別の複製を入手することになっている。」 だろすると、2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなる。 13時 ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのは残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。 マギー牧師が残虐行為のフィルムを撮った。ローゼン博士はその複製を上海で作らせるつもりだという。1本はベルリンに送るつもりで、私も後で別の複製を入手することになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。 この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね? マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか? 3,022 hits -------------------------------------------------------------------------------- [382]Re(12) マギーフィルム画像と解説書 2月12日記述 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/15(日) 15 02 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね? マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか? Reverend John Magee has taken motion pictures of the atrocities. Dr. Rosen is having a copy of the film made in Shanghai, which he then wants to forward to Berlin. I m supposed to get another copy later, too. I saw some of the casualties(shown in the film)and was able to speak with a few before they died.[英語版 p.188] -- 参考 独語版 -- Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen. Dr. Rosen laesst sich eine Kopie des Films in Shanghai anfertigen, die er nach Berlin schicken will. Ich soll spaeter auch eine Kopie erhalten.Verschiedene der (im Film gezeigten) Verwundeten habe ich gesehen und einige auch noch sprechen koennen, bevore sie starben.[独語版 p.259] (文字表記: ae=aウムラウト、oe=oウムラウト、ss=β(エスツェット) あ、いかん。映画は、einen Film と単数でした。なお、Filmには、「フィルム」の他に「映画」という意味があります。 aufgenomenは、aufnehmen(英語のtakeに相当) の完了形で、「取る」とか映画や写真を「撮影する」という意味があります。私、独語は大分忘れましたのでよろしく。 「 ジョン・マギー師は残虐行為の映画を撮影した。ローゼン博士は上海で映画の複製を作り、それをベルリンに送るつもりだ。私も後で複製を入手するつもりだ。さまざまな負傷者(映画に現れた)を私は見たことがあり、何人かは彼らが死ぬ前に話すことすらできた。」 それから、これに続く文は、「彼らの何人かの遺体を、私は鼓楼病院の遺体安置所で見せられた。」ですね。『南京の真実』は「適当訳」です。 ローゼンの手紙の意味するところは、複製費用をドイツ大使館の負担とする条件でフィルムの複製を上海で作ってもよいという申出をマギーから受けたということかもしれません。 3,035 hits -------------------------------------------------------------------------------- [383]Re(13) マギーフィルム画像と解説書 2月12日記述 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/15(日) 16 20 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼渡辺さん: ▼ピッポさん: この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね? マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか? Reverend John Magee has taken motion pictures of the atrocities. Dr. Rosen is having a copy of the film made in Shanghai, which he then wants to forward to Berlin. I m supposed to get another copy later, too. I saw some of the casualties(shown in the film)and was able to speak with a few before they died.[英語版 p.188] -- 参考 独語版 -- Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen. Dr. Rosen laesst sich eine Kopie des Films in Shanghai anfertigen, die er nach Berlin schicken will. Ich soll spaeter auch eine Kopie erhalten.Verschiedene der (im Film gezeigten) Verwundeten habe ich gesehen und einige auch noch sprechen koennen, bevore sie starben.[独語版 p.259] (文字表記: ae=aウムラウト、oe=oウムラウト、ss=β(エスツェット) あ、いかん。映画は、einen Film と単数でした。なお、Filmには、「フィルム」の他に「映画」という意味があります。 aufgenomenは、aufnehmen(英語のtakeに相当) の完了形で、「取る」とか映画や写真を「撮影する」という意味があります。私、独語は大分忘れましたのでよろしく。 「 ジョン・マギー師は残虐行為の映画を撮影した。ローゼン博士は上海で映画の複製を作り、それをベルリンに送るつもりだ。私も後で複製を入手するつもりだ。さまざまな負傷者(映画に現れた)を私は見たことがあり、何人かは彼らが死ぬ前に話すことすらできた。」 それから、これに続く文は、「彼らの何人かの遺体を、私は鼓楼病院の遺体安置所で見せられた。」ですね。『南京の真実』は「適当訳」です。 渡辺さん、大変な書き写し作業、ほんとうに有難うございました。 ドイツ語はもちろん、英語もダメな私なので、どうしようも有りませんが、 ここの記述のポイントは、 ローゼンがベルリンに送るプリントを製作中であって、マギーも後でゲットするつもりだ。 にあるように思いました。つまり、ローゼンからフィルムに関する方針を聞いたということ。 the casualties(shown in the film)、(im Film gezeigten)Verwundeten は、その場でフィルムを「マギーが見た」という意味ではなく、フィルムの中味の犠牲者、といってるに過ぎないのかもしれませんね。 映画に登場する負傷者の幾人かとは私も会っています。私は少なからぬ人と死ぬ前に話をすることもできました。 もし、その場で編集したフィルムを見せられたなら「待望のフィルムを見た」とか、映写時の描写などが書かれていて不思議ではありません。 この推理も、他の場面での推理と平仄が合わなくなったら、直ぐに撤回いたします。 3,064 hits -------------------------------------------------------------------------------- [384]Re(3) 再登録お試しになったらいかがですか ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/16(月) 17 31 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼msqさん: 関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に "現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日~2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。管理者様、お手数ですが、用済みになればこのコメント削除して下さい。 渡辺さん、 期限切れでも再登録(移行)できるかもしれません。 お試しになったらいかがですか? http //geocities.yahoo.co.jp/v/renewal/start.html >標準モードで移行を開始する に進む。 URLを変更せず、Yahoo IDを取得する。 2,883 hits -------------------------------------------------------------------------------- [387]Re(14) マギーフィルム画像と解説書 2月12日記述 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/20(金) 23 24 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: the casualties(shown in the film)、(im Film gezeigten)Verwundeten は、その場でフィルムを「マギーが見た」という意味ではなく、フィルムの中味の犠牲者、といってるに過ぎないのかもしれませんね。 「映画にでてくる」というコメントは、ラーベが映画を見たことを前提にしていると考えるべきだと思います。 英語でも独語でも、「負傷者」に定冠詞が付いているということは、書き手と読み手が「あの負傷者たち」と共通の認識をもっていることを前提としています。ですから、それまでに言及されていない「負傷者」に定冠詞が付いているのは、本当はおかしいわけです。日記ですから、書き手と読み手が同じなので、こういう現象が起こったのでしょう。そこで、この文を書いた後にで、定冠詞 der のところ(不自然な位置)に「(マギーの)映画にでてくる」と、注釈をいれたと考えられます。 もし、その場で編集したフィルムを見せられたなら「待望のフィルムを見た」とか、映写時の描写などが書かれていて不思議ではありません。 それが書かれていても、書かれていなくても不思議ではありません。 日記は、あくまでも書いた人の判断でトッピクが選ばれているわけです。我々には重要と思われるような事実でも、日記にはひとことも書かれていないことはめずらしくありません。キーワードだけで出来事が克明に思い出されるような場合、当事者には当たり前の事実、経緯が複雑で日記にかくのはめんどうな場合、万一日記が外部に露見したときさしさわりがあるので明記しない場合、日記に書くことにより不快な感情をおもいだしたくない場合など、様々な場合があります。 史料を読むとき、不明な個所にさまざまな可能性がありうることは考慮すべきですが、特定の可能性を支持する史料がない場合は、単純な線で史料間を結ぶほうがよいと私は考えます。 3,063 hits -------------------------------------------------------------------------------- [388]Re(3) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/20(金) 23 34 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼msqさん: 関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に "現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日~2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。 ご心配ありがとうございます。 そのHPは、K-Kさんが管理者で、私の過去の投稿を整理して掲載されているものです。K-Kさんもお忙しいと思いますので、K-Kさんの判断に委ねております。 内容は、すべてダウンロードしておりますが、読み難い文章も多いし、内容を修正したいところがかなりあります。いずれ自分でHPを作る予定ではいますが、まだ時間がかりそうです。 2,885 hits -------------------------------------------------------------------------------- [389]Re(6) 解説書 Film 10解説 と埋葬数 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/22(日) 3 05 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード "Eyewitnesses to Massacre"に掲載されているフィルム解説の Film 10のケース3のCに、埋葬数について興味深い数字が言及されています。 この中で、埋葬数が 32,104 で約半分の作業が終わったと推定されているという部分があります。この 32,104 という数字は、『大阪朝日新聞』北支版、1938年4月16日付けの記事(『日中戦争史資料 8』p.393)と一致します。『大阪朝日新聞』では、城内で 1,793体、城外で30,311体を「片付けた」、「真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である」とあり、この数字を合計すると、「解説書」と1体しか違わない、32,103になるのです。これは、偶然の一致ではなく、同じ情報源と考えるべきでしょう。 マギーは軍民合わせて少なくともこの数字の倍程度6~7万の遺体が埋葬されたとの認識をもっていたのではないかと思われます。南京戦前に疎開し1938年9月に南京へ戻った Albert N. Stewardが、1938年12月11日の記の中で、南京が陥落したとき6~7万の人々が命を失った("Eyewitnesses..."p.320)としているのは、こうした認識の反映かもしれません。 --- ["Eyewitnesses to Massacre", p.223"] Introduction of Magee s Film Film 10 3.c. (途中省略) Between January 23, when they started work, amd March 19, the Red Swastika Society had buried 32,104 corps in Nanking and the immediate vicinity(around the city walls). They estimate that they have done just about one half of this work. In addition many bodies were buried by relatives and other groups. It is very probable that many bodies were burned up in the innumerable fires that were started in the city possibly for that very purpose. There are still large numbers of unburied bodies in section outside the city walls. - 試訳 - 1月23日(紅卍字会が仕事を始めたとき)から3月19日までの間に、紅卍字会は南京とその直近(城壁の周囲)で 32,104の死体を埋葬した。彼らは、およそ半分の作業を終えたところだと推定している。それに加えて、多くの遺体が親戚や他の団体(複数)によって埋葬された。多くの遺体が、おそらく、まさにその目的で市中で始まった無数の火事によって焼却されたことは十分ありえる。城壁の外側の地域には、まだ多数の埋葬されていない遺体がある。 --- 2,955 hits --------------------------------------------------------------------------------
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(ノア・クラークウォーカー) 目次 更新日:2022/03/03 Thu 10 01 02NEW! タグ一覧 創作注意事項 ネタやパロディOK 各種創作に自由に使ってOK カラーや服装のアレンジ可 good boy good boy (marmalade and witch) good boy good boy good boyso there is no noise I ll give you a little lemon, she ll give you some grapes Or is basketball good? Or is it your best friend? I ll give you everything, so don t make a noise いいこ いいこ(翻訳版) いいこ いいこ いいこだから騒がないのよ レモンをすこしあげるから ブドウも一緒にあげるから それともバスケットボールがいい? それとも親友? いいわ全部あげるから 騒がないでちょうだいね 概要 コテキャシート作成 塩様 プロフィール 役名 ノア・クラークウォーカー 愛称 ノア 種族 ヴァンパイアらしい 年齢 マリネッタと同じくらいらしい 誕生日 12月24日らしい 身長 138cm 体重 32kg 好きなもの 焼き菓子 カフェオレ 読書 運動 友人とすることならなんでも 恋人 友達 嫌いなもの 一般的に知られているヴァンパイアの弱点 趣味 バスケット 女装 人物像 本屋の主人マリネッタの恋人で、本屋の常連。 オウマがトキの喫茶スペースにも来ることがある。 童顔で小柄な為、ノせられれば女装も出来る。 優しく紳士的で、外見の年齢よりだいぶ大人びている。 クールなニヒリストのマーマレードとは、性格は違えど無二の親友で、よく一緒にいる。 天然ぎみなノアにマーマレードがツッコンだり、ついキツイ言い方になってしまうマーマレードの言葉をノアが優しく翻訳したり、ツッコミ疲れたマーマレードにノアが胃薬を渡したりしている。 一人称・二人称 一人称 僕 二人称 君 ~さん、~ちゃん 親しいものには呼び捨て 台詞例 「やあ、僕はノア。ここの本屋の常連なんだ。君の名前を教えておくれよ!」 「ここのカフェオレとビスケットが大好きなんだ。甘いものって、疲れを飛ばしてくれるよね」 「マーマレード!今日もバスケットやらないかい?君といると、とても楽しいんだ」 「マリネッタ……僕……彼女……彼を自由に……」 容貌・服装 褐色の肌に、映えるようにカラーリングされた金髪。大きな緑色の瞳をしている。 マリネッタと同じ生地と柄の黒いポンチョを着ており、その下は白いブラウスと黒いタイ、下は青みの入った黒のサロペット。 ある日常 Little boy Little girl (Noah and Marinetta) A little boy and a little girl I lived in a organized coffee shop The boy talked to the girl That s right The girl said to the boy What a girlfriend The boy said to the girl I want to free him For the hair of a little girl A small snake lived It was in the middle of the back hair When the girl was in a good mood It s very cute When the girl was in a bad mood It s very scary 小さな男の子小さな女の子(翻訳版) 小さな男の子と小さな女の子が 仕組まれた喫茶店に住んでいました 男の子が女の子に話しかけました あのね あのね 女の子が男の子にいいました なんの ごよう 男の子は女の子にいいました 彼を自由にしてあげたいの 小さな女の子の髪の毛には 小さなヘビが住んでいました 後ろ髪の真ん中ほどにかかってたんです 女の子の機嫌がよいと それはとても可愛いのです 女の子の機嫌がわるいと それはとてもこわいのです + これは本当の話 正体はマリネッタが使役する土くれから作られた人形。ゴーレム。 文武両道で、一番オウマがトキの闇から抜け出そうとしているマーマレード・ロリポップのストッパーとして作成され、『役名』と『存在理由』を与えられた。 ゴーレムは何度でも作成でき、何度でも破壊できる。 今は13体目のゴーレム。 ゴーレムが破壊される理由は、ほとんどがマーマレードの解放をマリネッタに進言するから。 親友を演じているうちに、本当に彼のことが好きになっていくのだ。 実際に生きていたとある少年の骨と血を使って生成しているゴーレムなので、姿や性格は変わらず、何度でもマーマレードと仲良くなる。 マーマレードに気付かれないよう、記憶も一部引き継がせなければならないので、鼬ごっこが続いていく。 だが、何度もループし、記憶を繋いでいけば、当然繰り返した分狡猾に、聡明になっていく。 マーマレードへの友情も、繰り返された分、濃く、強くなる。(繰り返しを知らないマーマレードは関係なく、ノアからの一方的な感情だが) ノアがマーマレードを連れ出して、人間に戻る秘薬を作り出す日は、意外と近いのかもしれない。(だが敵…マリネッタも手ごわい。永遠に終わらない可能性もある) Kitty Fisher (Lucy and Kitty) Lucy Rocket lost his life I picked up Kitty Fisher The contents of the body are Sukkarakan Only mud is stuck around キティ・フィッシャー(翻訳版) ルーシー・ロケット 命をなくした キティ・フィッシャー 拾ってあげた 身体の中身はスッカラカン 周りに泥がこびりついているだけ 登場作品名 店の店員の関係やお客さん同士の関係 店員 マリネッタ僕の……恋人。 シトロンちゃん 親友のお姉さん。な、なんだか時々視線を感じる…… マーマレード 僕の無二の親友にして生きている理由。大好き。なんとか君を外に出してあげたいけれど…… ピオーネちゃん 何にも知らずに幸せな子だね。 淡雪ちゃん 本屋によくいる子だよ。なんだかとっても眠そうだけど……大丈夫かな? ジュジィちゃん 女の子の友達だね!よく遊んでいるよ! 逆吊様 ジュジィと違っておとなしい子だね。それに、マリネッタと仲がいいかもしれない…… ウリエルさん この子も本屋によく来る子だよ。急に笑い出したり寒がり出したりして、身体が無いって大変なんだなって思う。 たたる君 男の子の店員さんなんだね。時々お話しするよ。 お客さん ヤスカタさん 本屋のお客さんだね。普段はおとなしいんだけど、猫が好きなようで、猫がいるととってもパワフルだよ。 ウリエルさんの身体さんお世話を頼まれた身体さん。でも、僕が引き受ける前にレムちゃんとノンくんが勝って出てくれたんだよね。 その他 キティ・フィシャー どうか元の君に戻っておくれ。 ルーシー・ロケット 昔の僕。 とある者 関連イラスト 塩様 るっち様
https://w.atwiki.jp/magicman/pages/48708.html
電脳爆地グランウォーカー R 火/水/自然 (6) クリーチャー:フレイム・コマンド/サイバー・コマンド/ガイア・コマンド 3000 ■S・トリガー ■このクリーチャーが出た時、相手のクリーチャーを1体選び、持ち主の超次元ゾーンに置く。 作者:ぺこ 超次元送りのS・トリガーコマンド獣です。 フレーバーテキスト 次元を越え、「なにか」を巻き込みながら歩き続ける。 評価 選択肢 投票 壊れ (0) 優秀 (0) 普通 (0) 微妙 (0) コメント 名前 コメント
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画像資料検証専用板 Archives 新 | 1 | 2 | 旧 画像資料検証専用板 Archives index_2 HTMLアーカイブでは、ブラウザのアドレス窓で末尾に「#nnn(番号)」を書き加えて移動ボタンを圧すと、その番号の投稿にジャンプするはずです。 [158]『LIFE』埋葬隊の写真 熊猫 05/4/8(金) 11 19 3 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [172]「恥の写真集」(血しぶきの撮影) ピッポ 05/4/9(土) 23 02 1 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [171]『恥の写真帳』(死体の山) 熊猫 05/4/9(土) 21 13 0 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [149]『上海より上海へ』にみる日中戦争写真事情 渡辺 05/4/7(木) 13 32 5 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [151]写真の影 ピッポ 05/4/7(木) 16 47 0 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [49]『恥の写真張』(南京駅) 熊猫 05/3/26(土) 18 14 9 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [135]復旧しました。が、こちらを使います。 とほほ 05/4/5(火) 7 59 1 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [91]143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思います。 ピッポ 05/3/30(水) 2 55 4 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [106]多数の日本軍の残虐写真の出現は1938年限りの現象 渡辺 05/4/1(金) 0 21 4 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [60]夏服の日本兵 熊猫 05/3/27(日) 23 49 10 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 写真の非表示など不具合をご指摘してくださると幸です。 [96]731部隊の生体解剖(レイプ・オブ・南京) とほほ 05/3/30(水) 14 31 1 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [94]否定派の写真攻撃、東中野本。重要なのは。 とほほ 05/3/30(水) 13 13 0 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [73]東中野本が取り上げている書誌一覧 ピッポ 05/3/29(火) 18 41 0 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [35]日本皇軍の『戦場文化』? カメラを持つ日本兵 ピッポ 05/3/24(木) 14 42 10 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [11]【出版情報】私の従軍中国戦線 新版 村瀬守保写真集 ピッポ 05/3/20(日) 12 58 1 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [31]上海の写真館 渡辺 05/3/23(水) 15 54 0 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 [23]申し訳ありません 靴屋 05/3/22(火) 0 21 1 《 Thread 》【HTML】 【TEXT】 不具合ご指摘ください 名前 コメント すべてのコメントを見る #172 写真非表示 -- (ni0615) 2009-11-18 06 54 52 新 | 1 | 2 | 旧 画像資料検証専用板 Archives
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ふるぴーす【登録タグ Altz ふ ヴァン 宵音バロッカ 曲】 作詞:Altz 作曲:Altz 唄:宵音バロッカ&ヴァン 曲紹介 22世紀、人口減少・少子高齢化に悩む日本で、一つの技術が開発された。 それは、野良犬・野良猫を手術し、知能を有する獣人として育て上げるというものであった。 倫理違反も叫ばれたが、この苦肉の策が功を奏し、労働力不足の問題が徐々に解消されていった。 SF的舞台で虐げられし者たちの叫び 歌詞 (tmboxより転載) 生まれて眠らされ 運ばれたら改造され 特殊な生い立ちを経たらしい 仮にさ それだけの特別さなら良かった 僕らはもう少しだけ異質で 四角のピラミッドに取り戻された裾野の どんな場所にも合わぬピースが僕らだった 干渉も慰労もされない 孤独の中の仕事 唯一耳に入るは 禁忌への陰口 心身共に削れ 時に直に傷つけられ 世界は回る 穢れた 汚らしい 不浄だなんて形容も 頭をすり抜ける程慣れた けれども考える この境遇の源 行き着く一つの大きな策略 三角ピラミッドに少量の変則を加え 捌け口としての役割を担わせる 感情と思考を与え 逆手取り駒にして 骨の髄まで搾る どちらが「獣」だ? 矛先逸らしの為に輸入された商品の運命は 生き地獄 同じ声に 同じ体温 同じ手足に 同じ仕草 同じ心臓に 同じ喜怒哀楽 なのに 最下層からの声を 決して聞かれぬ声を どうにか届けるため こうやって地を這って上がってきた 生みの親たる人間が 見えざる不義の鉄槌で この喉の奥を打ち裂く 未来もあるだろう それでも僕ら 一片のピースも欠けない公平世界を 想い 願い 唄う コメント 獣人使いたくなったきっかけこれですw -- 零 (2016-10-04 15 33 13) ↑それな -- 鸞 (2016-10-06 22 42 49) 名前 コメント