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最近はこういう路線になったの? 23 名前:名無し募集中。。。 [] 投稿日:2009/08/16(日) 00 15 22.95 0 14 http //www.youtube.com/watch?v=p_he9GGGw-A feature=related ( 補完 ) この曲はどう思う 33 名前:名無し募集中。。。 [] 投稿日:2009/08/16(日) 00 21 18.79 0 >>23 モームスっぽくないけどかっこいい 最近はこういう路線になったの? 38 名前:名無し募集中。。。 [] 投稿日:2009/08/16(日) 00 23 53.81 0 >>33 こういう路線「も」やってるという方がより正確かも 比重高くなってきてる感もあるね 何せ平均年齢過去最高だしね 49 名前:名無し募集中。。。 [] 投稿日:2009/08/16(日) 00 28 59.59 0 >>38 そうなんだ 小学生の時ファンだったけどつべで色々見たら大人っぽいの増えたなぁと 67 名前:名無し募集中。。。 [] 投稿日:2009/08/16(日) 00 34 00.62 0 >>49 中学生のいない構成っていうのは過去でも意外とレアなんだよw ちなみに今は過半数が20歳を越えた 16歳の光井愛佳が最年少 81 名前:名無し募集中。。。 [] 投稿日:2009/08/16(日) 00 38 36.20 0 >>66 まだモー娘いたんだーとかいう友達を見るとムカつくw >>67 そうなんだ 小春が17歳っていうのにびっくりしてガキさんが二十歳っていうのにびっくりした 編注 話題に挙がっている動画は DVD「モーニング娘。コンサートツアー2009 春~プラチナ 9 DISCO~」 内「Take off is now!(高橋愛・新垣里沙・田中れいな)」/CDでは アルバム「プラチナ9DISC」 に収録されている 2012年現在はガラっとメンバーが入れ替わり年齢層が下がったが、2009年の路線が一定の人気を得たこともあり、今もこの路線は続いている(現在のメンバーに合わせた形で)。 関連 現メンのライブだとやっぱりプラチナ9DISCOが一番ですか? メンバーそれぞれどんな子なのか知りたい 1スレ目 [2009年]  / タグ一覧
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戦争と社会階級 Seibun Satow Mar, 24. 2010 「戦争が戦争を養う」。 フリードリヒ・シラー『ピッコロミーニ』 第1章 The War Dreamer ブラックウォーターを始めとする民間軍事会社がアフガニスタンやイラクで深く関与していく中、『論座』2007年1月号に赤木智弘の「『丸山真男』をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」が掲載される。このタイトルは、「戦後民主主義なんぞクソッくらえ!」と考え、戦争のアウトソーシングに加わりたい31歳の男性の主張なのかという印象を読者に抱かせる。 しかし、軍務経験もなく、特殊技能も有していない31歳を雇う民間軍事会社はおそらくない。未経験者を一から育てる余裕などそこにはない。 そもそも、31歳では従軍するには年をとりすぎている。自衛隊を例にとってみよう。こうした経歴の31歳が自衛隊に志願するとしたら、道は非常に限られている。一般候補生・任期制自衛官の資格はいずれも18歳以上27歳未満のため、不適格である。予備自衛官補の一般公募であれば、受験資格が18歳以上34歳未満であるので、これならば可能である。ただ、この一般公募の予備自衛官補制度は、広報活動の意味合いが強い。事実、教育訓練期間は3年以内に50日、合計400時間で履修とされている。また、アメリカ軍の場合、公募の兵士の年齢制限は35歳未満であるが、30歳以上の志願者については基準が厳しく設定されている。志願制を採用している国の軍隊はほぼ同様である。一般兵士は過酷な状況でも戦闘できる身体能力を必要とするし、加えて、現代の兵器は高度にハイテク化しており、遅くとも20代半ばくらいから訓練を始めないと、使い物にならない。一民間人を一人前の兵士にするには、31歳はロートルだ。 もっとも、現代社会において戦争は国家間で起こる戦闘だけを指してはないない。この作品発表当時の米国のジョージ・W・ブッシュ政権は「テロとの戦い」を標榜しており、その過激派に参加すれば、戦争に行ける。彼らは年齢制限を設けず、未経験者も歓迎している。あるいは、メキシコやコロンビアなどで展開されている麻薬戦争に、シンジケートの一員として加わるという手もある、これらなら31歳のフリーターでも十分間に合う。 けれども、「『丸山真男』をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」の内容に目を通すと、自分が従軍したいという主張ではなく、格差・貧困問題の解決手段としての戦争の提案だということが明らかになる。 今日、貧富の格差が拡大・硬直化し、いくら働いても抜け出せない貧困状態に陥っていり人たちが少なからず生まれている。しかも、一般の人々は、彼らに対して、自分たちのせいだと言わんばかりで無関心である。この状況を流動化するには、革命では不可能であって、戦争しかない。その上、戦争は人々に平等に苦しみをもたらす。「『丸山真男』をひっぱたきたい」というタイトルは、戦時中の丸山真男のエピソードに由来している。1944年3月、30歳の丸山眞男に召集令状が届き、陸軍二等兵として平壌へと送られる。そこで丸山は中学にも進んでいない一等兵に執拗にいびられる。「社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、『丸山眞男』の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ」。 赤木も現段階で日本が戦争に突入することはないと見ており、この作品を問題提起のつもりで発表している。しかし、彼のイメージする戦争は現代ではなく、第二次世界大戦下の日本のある状況である。 第二次世界大戦中に参戦国で、平時であれば出会わなかった人たちの接触があり、それがある種の流動性をもたらしたことは確かである。 御厨貴東京大学教授は、『エリートと教育』において、戦時体制下での人材の「接触効果」が高度経済成長への道をサポートしたと次のように述べている。 戦時動員体制は、一九四三(昭和十八)年に主として中学校以上の勤労動員、そして大学生の学徒動員を決めた。かくて戦前の教育体系が予想もしなかった方向への人材の戦時強制動員が行われた結果、戦後へいくつかの人材育成面での遺産を残すこととなった。もちろん、戦争のため多くの有為な人材が失われたことは言うまでもない。しかし明治の教育体系が解体の危機に陥った時、軍隊や軍需工場の中で、これまでは絶対接することのなかった人間同士の接触がおこった。嫌な思い出もたくさんある反面、戦後すぐの教育への情熱、進学熱はこうした「接触効果」(小池和男)がもたらした。猪木武徳の指摘にある通り、戦後の新制高等学校の進学率の上昇、激しい学歴競争と企業内競争が、経済復興から高度成長へと進む戦後日本をサポートしたことは疑いえないであろう。 赤木の戦争を通じた社会における流動性の確保と痛みの共有は、この接触効果に論拠としている。けれども、接触効果は戦争一般ではなく、ここで指摘されている通り、特殊な状況で生じる。日本は満州事変から15年間も戦争を継続したが、それが起きたのは1943年の勤労動員や学徒出陣などが始まって以降である。明治に基本設計された教育システムが瀕死の状態に陥ったとき、戦時動員体制によって従来であれば出会わなかった人々が接触し、戦後の教育熱につながり、復興をサポートしている。徴兵制に基づく軍による総力戦も押し迫った段階でしか接触効果は期待できない。しかも、クラウゼヴィッツ流の消耗戦が否定された現在であれば、内戦を除けば、教育制度が解体に追いこまれる状態を迎える前に戦争は終結している。 第二次世界大戦は、日本にとって、総力戦である。それを遂行するためには、官僚機構が人・モノ・カネ・情報を総合的に管理統制する必要がある。開戦時の首相が統制派のリーダーの一人で、優秀な軍官僚の東条英機だったことは象徴的である。社会の流動性ではなく、国家全体を一体化させることがその目的である。接触効果は結果として起こっただけで、国家総動員の副産物にすぎない。接触効果による高度経済成長の後押しは確かであるが、社会の流動性の実現という点では、農地解放・財閥解体・公職追放などGHQの革新的な占領政策も忘れてはならない。 念のため、赤木の期待する戦争状態の可能性を内戦および国家間戦争から検討してみよう。主な内戦の原因は分離独立である。しかし、日本国内でこの動きは活発ではない。また、麻薬シンジケートと軍や警察の間の抗争が激化して、内戦状態に陥る場合もある。けれども、麻薬の製造でもしなければ暮らせないほどの貧困地域も日本国内にはない。 国家間戦争であれば、通常兵器だけで、その時点において、海上自衛隊が壊滅状態だという選定になる。これが可能なのは唯一アメリカ軍である。自衛隊はアメリカを仮想敵に想定していないが、現時点で日米開戦の至るシナリオを考えるとしたら、次のようになろう。扇情的な報道に溢れ、国内政治が混乱する中、思いつきと思いこみで判断する無責任で好戦的な政治家が国民の圧倒的な支持を背景に首相に就任し、国内外の反対に耳を貸さず、核武装計画を進める。IAEAの常駐査察官を追放し、アメリカを始めとする国際社会の外交圧力も無視する。とうとう合衆国はこの動きに対して日米安保条約を破棄、在日米軍は撤収する。日本は国際社会から経済制裁を受けるも、外需依存の産業編成と低い食料自給率も省みず、計画を放棄しない。日米の国交が断絶、アメリカを中心とする多国籍軍との間で開戦してしまう。 このようにして始まった戦争もいつかは終わる。しかし、赤木の意見には、戦争自体もそうだが、戦後のイメージが曖昧である。尊い多くの人命と財産が失われることは言うまでもない。少子高齢化の進展する日本が戦争に突入した場合、若年人口の大幅な減少が見込まれ、そのいびつな人口構成では、戦後復興はおぼつかない。戦争で心身に傷を負った人々のケアも欠かせない。現在の日本の債務残高はGDP比で150%を超え、先進国最悪である。戦費を調達する場合、政府は国内の豊かな預金量を当てこんで国債を発行すると考えられる。けれども、あまりに大量で預金が底をつき、吸収できなくなって長期金利が高騰、日本経済は耐えきれず、財政は破綻する。食料・生活必需品・燃料等が不足し、庶民の生活を強烈なインフレが直撃する。交通・生活インフラの復旧も最優先項目の一つであるが、一朝一夕でできるはずもない。また、戦時下では、国内に破壊被害が甚大でなかったとしても、災害・疾病・環境などへの対策が二の次にされる傾向があり、戦後、その影響による相当の被害も予想される。持続可能性のある社会の実現という国家的な目標の達成が著しく後退し、修復不可能な状態に陥る危険性もある。接触効果がこうした状況の飛躍的な改善につながっていくとは考えられないだろう。想像力を少し働かせただけでも、このくらいの光景が目に浮かぶ。 この作品が発表されると、各種のメディア上で賛成反対のいずれの意見が飛び交う。中でも、『論座』は4月号で、7人の識者による批判論文を掲載し、赤木がそれに対して、同誌6月号において、「けっきょく、『自己責任』ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──」で反論する。「考える時間を得るためには、生活に対する精神的な余裕や、生活のためのお金がなによりも必要不可欠であり、それを十分に得られて初めて『考える』という行為をすることができる。そうした人間が、考えて活動するための『土台』を整備することこそ、私に反論する方々の『責任』ではないだろうか」。 しかし、環境的に余裕がない場合、体系的には難しいが、考えること自体は不可能ではない。マクロシンキングは無理でも、ミクロシンキングはできるはずだろう。この結語は、大戦終結後に戦争責任を免れるためにある種の人々が使った言い訳に似ている。吉本隆明が1956年にそれを批判したのだが、赤木はその前に舞い戻っている。 吉本隆明にとって許しがたかったのは、自分の無知です。(略)戦中世代の人たちは。われわれは知らなかった、教わらなかった、欺されていた、ということができました。しかし、吉本がとったのは、無知にも責任があるという態度です。では、無知に責任があるとするならば、どのように責任をとればよいのか。自分をふくむ世界を、徹底的に認識するほかないのです。 (柄谷行人『倫理21』) 31歳のフリーターが戦争を望んでいるというショッキングなタイトルが話題をふりまいたけれども、社会の流動性の確保と痛みの共有のために戦争を提案するのは暴論でしかない。流動性は時代の変わり目に生じる。19世紀の近代化=産業化というグローバル化は日本に石炭産業を勃興させたが、20世紀の石油によるエネルギー革命のグローバル化は国内の炭鉱に国際競争力を失わせ、閉山に追いこむ。グローバル化とイノベーションが流動性をもたらすとも言える。相対的貧困を絶対的貧困によって解消する問題のすり替えだろう。痛みの共有は、戦争を持ち出すまでもなく、災害時にしばしば見られる。災害直後、被災者の間で相互扶助の意識が芽生え、「困ったときはお互い様」とコミュニティが形成される。しかし、復興が進むにつれ、この精神は薄れていく。また、接触効果は生き残った人の間でのみ働くのであって、死者はそれを感じられない。沖縄では、決戦前に、第一次・第二次防衛召集で17歳から45歳までの男子2万人を二等兵として徴用、その後、中学生の一部も入隊、さらに、沖縄勤労動員礼が公布され、15歳から45歳までのほとんどの男女が動員されている。沖縄戦により、約10万人の県民が犠牲になる。出征した兵士も合わせれば、対戦中の沖縄の犠牲者数は15万人以上であるが、戦前の同県の人口は、最も多かった1937年で60万人弱である。それだけの損害を被りながら、失業率は国内最悪、一人当たりの県民所得も最低であり、しかも日本の領土の2%しかない沖縄に全日米軍の全基地75%も集中している。戦争の傷跡は非常に長く残る。この作品をめぐる議論は感情的なすれ違いも多く、結局、不毛に終わっている。 もっとも、赤木とは別に、デフレ傾向を脱却するには戦争特需しかないという意見も根強い。デフレは平和の時代の産物である。朝鮮特需の夢をもう一度とばかりに、戦争による大量生産・大量消費があれば、デフレを脱却できるというわけだ。しかし、時代が違いすぎる。現代の戦争はいたずらに長引く内戦が主流である。当初は国家間戦争であっても、内戦化するケースも少なくない。当該地域の政治的・経済的制度の基盤まで破壊し、流出した難民が周辺地域に負担となる。相互依存の進んでいる現代の国際社会では、局所的な戦争であっても、グリーバル規模で悪影響を及ぼしかねない。しかも、持続可能な発展という国際的な目標を最も阻害している原因の一つが戦争である。エコロジカルな戦争などありえない。大量生産・大量消費から循環型社会への転換を試行錯誤している最中であり、それを逆戻りさせることは有害である。今日、戦争か経済に好影響を与えるという主張は時代遅れでしかない。政治も経済もエコロジーを考慮しており、戦争では気候変動問題を始めとする環境問題を解決どころか。悪化させる。 こうした手合いに戦争の悲惨さを訴えたところで、聞く耳を持たない。戦争待望論は、結局、国内問題の打開策を外に見出そうとする発想である。しかし、これが夢想でしかないことは、1930年代の日本の歴史を見れば明らかだろう。こんな夢からとうの昔に目が覚めていてもいいころである。 第二章 The War Thinker 国際政治において、国防に翻訳して国家を把握する考え方がかつては優勢である。国家はお互いに潜在的に敵であり、友人などいない。国際協力を表面通り信じているとしたら、実におめでたい。敵の敵が今は味方だけのことであって、食うか食われるかだ。国際関係において諸国の利益はつねに衝突する。他国を排除しなければ、領土や権益といった国益を確保できない。その問題が世界に存在する以上、国際紛争は恒常的に起こるのであって、国家はそれに常に準備しなければ生き残れない。軍事力で優位さを維持するために、他国との相対的な関係から認識する必要がある。いくら国防費が前年の倍に増えたとしても、隣国がそれ以上であるなら、不十分である。国家は常に他国との戦争に備え、一旦始まったならば、それを優位に展開するようにしておかなければならない。このように、戦時から逆算して国家権力の構成要素を捉えるのが伝統的な国際関係論である。 藤原帰一東京大学教授の『国際政治』によると。それは次の六要素である。 1.地理 領土の大きさ・戦略的位置 2.人口 戦力としての人口 3.天然資源 戦争遂行のための自給能力 4.経済力 経済の規模・自給と持久・工業力 5.技術力 技術革新・兵器の性能・生産力 6.軍事力 規模・予算・破壊力・精密度 広大な領土や山岳地帯、密林、海洋などは他国にとって攻めにくく、自国にとって有利である。地理的条件と軍事戦略の関係は地政学としてよく知られている。 人口が多ければ、多くの兵士を戦場に投入でき、それを支える軍需を始めとする関連産業にも必要な人員を確保できる。大規模戦・長期戦になった場合、その差は歴然と現われる。ただし、実際には、人数といった定量条件だけでなく、士気や熟練度など定性条件も考慮しなければならない。 開戦すると、敵国のみならず、その友好国との貿易も停止される可能性がある。戦争を遂行するためには、国内に十分な天然資源を用意していなければならない。 戦争には莫大な戦費が必要である。豊かな国富があれば、それを賄うことができる。産業革命以来、国富の蓄積には工業力の発達は欠かせない。 兵器の性能やその生産力、技術革新力が戦争の結果を左右することは言うまでもない。 潤沢な国防費による大規模な軍隊はどのような戦争にも対応できる。機械化された兵器が主体の戦闘では、その破壊力と精密度が勝利を決定づける。 この六つの条件を総合的に判断して。その国家に最適な体勢を整えることが為政者の責務である。 しかし、現在、国際政治における国益は領土や権益だけではない。経済や環境も重要なである。前者は一方が得をすれば、他方が損をするというゼロサム状況である、それに対し、後者はみんなが得をすることもあれば、損をすることもあるノンゼロサム状況である。ゼロサム状況を絶対視して、国際関係を認識することはできない。経済を優先させるために、領土や権益の問題を一時的に凍結する動きさえある。インドと中国は、経済関係を良好にするように、国境線問題を棚上げにしている。両国の経済成長は目覚しく、そんなときに、ヒマラヤの山奥のことで争うなど無益である。 国防に翻訳する発想はゼロサム状況を前提にしている。先に触れた国防予算・編成・装備の考え方も同様である。他国よりも相対的に多く得る利得を「相対利得(Relative Gain)」と呼ぶ。一方、以前よりも増加させることを目的とした利得が「絶対利得(Absolute Gain)」である。前者は状況をゼロサムから判断し、後者はそれにとらわれない。かりに国防費をGNPの10%内にとどめると政府が決定していても、10%の経済成長があれば、黙っていても前年に比べて増額になる。経済成長に合わせて国防費が増すようにすれば、国家財政を圧迫することもない。戦後の日本の防衛費はこの絶対利得に立脚して組まれている。 戦時にとって有利な条件は、平時においては逆に負担となる。冷戦時代のソ連を例に解説してみよう。ソ連は多くの条件を満たしながら、解体に陥っている。広大な領土と寒冷な気候は、長い防衛線の維持やインフラ整備に困難が伴う。2億を超える人口は教育や医療、福祉など社会保障分野の予算を大きくする。戦時は人々に耐久生活を強いる。そうした不満を募らせないために、社会保障制度を手厚くしなければならない。豊富な天然資源があっても、それを加工できる技術がなければ、宝の持ち腐れである。ソ連の国営企業は資源を民生用にすることが十分にできない。国際的な競争にさらされ、技術革新とコス減に日々努力する西側企業の加工技術に遠く及ばない。軍需関連の重化学工業に傾斜し、民生品の技術革新がなおざりにされ、国際競争力のある製品を生産できず、東側の市場だけで流通するにとどまる。進んだ技術を持つ外資を呼び込もうにも、資本主義を敵視している体制には企業も及び腰となる。国内総生産はいつまで経っても増えず、外貨準備も不足し、思うように経済成長ができない。巨大な軍隊は維持するための巨額な国防費は、わびしい経済成長では、国家財政を圧迫する。結果、ソ連は崩壊する。 また、戦時であっても、これらが有利な条件として働くとは限らない。特に、個々の戦闘では反対の結果が出ることも少なくなく、あくまでこれは一般論である。第二次世界大戦の消耗戦の反省から、孫子が見直されている。クラウゼヴィッツ流の消耗戦がチェスの発想であるとすれば、孫子は囲碁である。少ない碁石で相手より多くの陣地をとれば勝ちとなる。 ノンゼロサム状況だとしても、そこにゼロサム状況を見出してしまうと、国際協力が瓦解する危険性がある。気候変動問題の改善は各国にとってノンゼロサム状況であるが、温室効果ガスの削減となると、経済への影響を考えて、他国よりも想定的に負担を減らしたいと望み、国際会議は常に紛糾する。また、経済状況が悪化すると、「奴らが俺たちの仕事を奪っている」と移民排斥が台頭するが、この論理もゼロサム状況に基づいている。付け加えると、中国が経済発展すると、日本が脅かされるという主張もそうである。国際関係では、ノンゼロサム状況を認識して理論構築をしていくことが世界的な利益につながる。しかし、こうした知的努力をしゃらくさいとゼロサム状況を扇動する独善主義が絶えず登場する。ゼロサム状況から出発する意見が社会で支配的になるとき、それは戦争の前兆である。 第三章 The War Believer 孫子は、戦争を浪費であると説いている。大量の物資・人命が失われ、戦費の重圧、物資・人員の徴発、国土の後輩によって国家経済を疲弊させる。為政者は合理的に考えれば、戦争を選択すべきではない。 しかし、これまで数えきれないほどの戦争が勃発し、今も続いている。 「帝国主義とは、国家の際限なく拡張を強行しようとする無目的な素質である」とするヨゼフ・A・シュンペーターは、『帝国主義と社会階級』において、戦争の原因について次のように述べている。 歴史上の事実を分析することによってわれわれは、第一に、何らはっきりした目標にしばられない「無目的的」な武力による拡張への傾向──すなわち戦争や制服を求める無合理的な非合理的な純粋に木能的な性向──が人間の歴史においてきわめて大きな役割を演ずる、という確かな事実をつきとめた。逆説的にきこえるかもしれないが、非常に多くの戦争──おそらくは大多数の戦争──が適当な「理由」(道徳的観点からというより、考えぬかれた尤もな利益の観点からの) なしに、強行されてきた。言いかえれば、諸国民の精根をつくしたような努力が実に無駄に流れたのである。われわれの分析は、第二に、この戦争を求める必要性ないしは意欲についての説明を与えており、その説明は、単に「衝動」や「本能」に言及するだけで終っているものではない。むしろわれわれは更に一歩進んで、民衆や階級が生きのこるためには武士にならざるをえなかったようなその客観的な生活上の要請の中にその説明を求め、また、遠い昔そのような環境の下で得られた心理的素質と社会的構造とが一度びそれとして確立されると──それの本来の意味と生命保存的機能とがなくなってしまったはるか後においても──いつまでもその力を持ちつづける、という事実の中に説明を求めるのである。われわれの分析は、第三に、このような性向ないし情造の存続を助長する第二次的諸要因が存在しているということを明らかにした。この種の諸要因は二つに分けて考えることができる。まず第一には、支配階級の国内政治上の利害関係が好戦的性向を助長したのであり、第二には、戦争政策によって経済的或いは社会的にそれぞれ個人として利益を受けるような人たちのもつ影響力が一つの役割を果している。これらいずれの要因も、大ていのばあい、政治的表現や心理的動機の上で、いろいろに異った飾りをつけてあらわれるのが常であった。それぞれの帝国主義は細かい点では相互にかなり異なるが、どの帝国主義も少なくとも右にのべたような諸特性だけは共通してもっているのであって、だからこそ第一章で述べたように、それは社会学上単一の現象として取扱われるのである。 経済において、個人的・階級的合理性の追求がしばしば社会的・国家的合理性と矛盾することが少なくない。シュンペーターは戦争の原因としてこの齟齬を見出す。戦争は、戦争は国家や社会にとって決して合理的な選択ではない。しかし、帝国主義国家は戦争を繰り返す。それ自体に合理的な目的はないにもかかわらず、戦争が頻発する理由は大きく二つある。一つは、支配階級が国内政治の失敗を外にそらすためである。もう一つは、戦争を始まると個人として報われる階級が増加しているからである。シュンペーターの独創性はこの第二の原因を導き出した点にある。戦争が厄介なのは、それでしか食っていけない階級を増加させ、次の戦争を誘発してしまうことである。 経済学者のマーク・ブローグは、『ケインズ以前の100大経済学者』の中で、『帝国主義と社会階級』を「現在でも読む価値のある作品」と賞賛している。残念ながら、日本では、『経済発展の理論』や『景気循環論』、『資本主義・民主主義・社会主義』、『経済分析の歴史』などは読まれているものの、この隠れた名作が振り返られることは稀である。しかし、シュンペペーターの政治学領域の考察は非常に示唆に富んでいる. シュンペーターが「個人として」としている点に注意しなければならない。この社会階級は国防費ではなく、戦費にかかわっている。それは軍需産業の関係者ではない。彼らは自分たちが開発・製造している兵器が戦争を抑止していると軍から金を引き出したいと思っている。戦果を挙げると、瞬間的に受注を増えるだろうが、戦時になれば、経営・研究・開発に軍が干渉してくる危険性がある。差し迫った戦争の危機がなくなったおかげで、経済成長を遂げ、その余裕から装備の近代化を計画する新興国に自社製品を売却する方が実入りがいい。また、多くの軍人にしても、同様である。志願兵であれば、愛国心もあり、いざというときがきたなら、その覚悟もしている。けれども、そうなれば、自分や部下が死ぬ可能性は高くなる。それよりも、自分たちの存在が外的脅威から祖国を守っていると国内に認知させて誇りとした方がよい。軍人も家族がある。できれば、時期がきて、昇進し、給料も上がるなら、都合がいい。学費・資格のために、志願している若者も少なくない。いずれも軍隊で食っているのであって、戦争で食っているわけではない。 このシュンペーターの分析に当てはまる一例がフランス第4共和政である。大戦後、イギリスが次々に植民地を放棄していくのに対し、フランスは固執する。1947年から58年まで続いたこの共和国はつねに戦時下である。46年から54年までインドシナ戦争を行い、それが終わると、アルジェリア戦争に突入し、第5共和政が62年になってようやく終決させる。その間も、56年から57年にスエズ動乱を引き起こしている。同時代のヨーロッパでこれだけ戦争に明け暮れた国家はない。戦争でしか食っていけない人たちを多く生み出し、彼らが第5共和政成立前後に無数のテロ・クーデターを計画・実行する。 フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』は、この辺りの事情をよく描いている。これは、シャルル・ド・ゴール大統領のアルジェリア政策に反対する過激派組織OASがプロの殺し屋「ジャッカル」を雇い、彼の暗殺を企てるという傑作小説である。その作戦を立案したマルク・ロダン大佐の半生は、戦争でしか食えない人がどのようにして生まれるかをよく物語っている。 マルク・ロダンは貧しい靴職人の家に生まれたが、ハイティーンのときに、フランスがナチス・ドイツに占領されたため、漁船でドーバー海峡を渡り、「ロレーヌの十字架」に一兵卒として入隊する。北アフリカ戦線やノルマンジー上陸作戦、パリ解放作戦に参加し、彼の教育暦では困難な少尉にまで昇進している。大戦が終わり、民間に戻るか、それとも軍に残るかの選択を迫られた際、後者を選ぶ。10代後半から20代前半の時期に、教育や職業訓練を受ける機会が奪われた彼には、父から仕込まれた靴職人の技術しかなく、民生復帰には難しい。 ドイツと比べて、フランスの靴職人の地位は高くない。ドイツにおいて靴は実用性が重視され、早い時期から、リハビリなどとも結びついていたのに対し、フランスでは、ソフトなタイプが好まれているように、靴のデザイン性が重視されて、職人はそれを具現化することが求められる。今日でも、フランスは、そのコンセプトが強いため、ドイツを始めとする諸国と足の計測方法が異なっている。ちょっとした記述であっても、論理的に相対化することで本質が顕在化するものである。 軍に残ったものの、ロダンは叩き上げの将校の悲哀を味わうことになる。サン・シーリャンが彼を追い抜き、次々と昇進していく。サン・シール陸軍士官学校は幹部養成を目的としており、戦略や戦術、作戦を体系的に理論として学習させる。全体を知らなければならないので、工兵や砲兵など陸軍に必要な各技術を一通り教育する。現場上がりの少尉でも、陣地をどこに置くかくらいは判断できるが、大局的な観点から作戦を立てることはなかなかできない。ロダンの失意は怨念にまで成長する。残された道はただ一つしかない。戦場に戻ることである。 第一次世界大戦後、政党政治への不信感を抱き、強い指導者に率いられた全体主義体制を希求したのはアドルフ・ヒトラーを始めとした復員軍人である。軍隊は厳然とした階級組織である。上意下達で民主的ではない。幅員軍人の処遇は戦後社会における民主主義の浸透を左右する。 しかも、強固なヒエラルキーのため、軍人たちの間では昇進への願望が一般の公務員よりも強い。東西冷戦が終結した後も米軍が全世界に基地を持ち、展開しているのは、世界の警察を自認しているからではない。基地を閉鎖してしまえば、将校を含めた昇進を閉ざされた軍人の不満が蓄積し、現役武官だけではなく、在郷軍人会も政治への圧力を強め、政情を不安定化させる。アメリカは軍のリストラになかなか手をつけられない。米軍の基地問題は軍の官僚主義に要因の一つがある。外交問題ではない。政軍関係問題である。 1945年9月2日、ベトナム民主共和国が独立を宣言する。ところが、宗主国のフランスはそれを認めず、大戦以前の状態への復帰を画策する。46年12月、両者の間で戦争が勃発する。ロダンは、働きかけの甲斐あって、この植民地軍の空挺部隊に転属され、そこで居場所を見つける。「彼と同じことばをはなし、同じ考え方をする兵士たちがいた」。彼らは戦争でしか食っていけない。しかるべき時期に教育や職業訓練の機会を奪われ、しかも叩き上げであるため、戦闘で武勲を挙げない限り、軍でも昇進は望めない。シラーズは戦争がなくても、頃合があれば階級が上がっていくため、軍隊で食っていける。戦闘に次ぐ戦闘の8年間で、血と汗を流したロダンは、戦争が終結したとき、少佐になっている。 けれども、本国に戻ってからの一年間で、以前から心に巣食っていた怨念を憎悪に転化させる。ブルジョアが安穏とした生活をすごせるのは、遠く離れた戦地で兵士たち勝ちと汗を流しているからだと固く信じていたのに、そんなことに気をとめているものなどいない。それどころか、左翼知識人たちは、情報収集のためと捕虜に拷問をかけること非人道的であると軍を批難する有様である。本国政府と国民の支援が十分でさえあったら、わが軍はベトミンを蹴散らしていたのであって、インドシナの放棄は死んでいった兵士たちへの裏切りである。政治家と共産主義者に牛耳られた今のフランスを解放するには、軍人が決起するしかない。裏切り者と口舌の徒は軍にはいないからである。 日本にいると、労働者階級が共産主義者に乗っとられているというロダンの考えがわかりにくい。戦後の日本の議会勢力は複数政党制の参戦国の中で例外である。鍵になるのは共産党である。議会勢力として共産党が存在しているか否かで大きく分かれる。アメリカやイギリス、西ドイツなどでは共産党は議会勢力ではない。労働者階級を代表するのは社会民主主義的な政策をとり入れた政党である。一方、フランスやイタリアにおいては共産党は議会勢力として強力で、保守勢力と拮抗している。フランスの戦後初の総選挙で第一党となったのは共産党である。戦後長期に亘って、同党は有権者の20~25%の支持を受けている。労働者階級を代表するのは、言うまでもなく、共産党である。社会党は、第三党として、保守政党と共産党の挟み撃ちにされ、リベラルなホワイトカラーの支持をとりつけて一定勢力を保持し、連立政権に参加する。 ところが、日本では議会勢力として共産党が存在するものの、社会党の方が優勢で、なおかつ労働者階級の代表の座を両者が奪い合っている。地方レベルでは、京都のように、共産党の法が強い地域もあるが、これはあくまで国政レベルの話である。社会党は自民党と共産党に挟まれているけれども、総評をバックに当選してくる議員も多く、なまじ第二党であるため、市民政党への脱皮も難しい。しかも、自民党は、その複雑な形成過程に伴い、社会民主主義的な国内政策を採用しているので、社会党は違いを明確にしにくい。結果、社会党は護憲平和にそのアイデンティティを見出すほかない。このように、日本とフランスとでは、共産主義者と労働者階級をめぐる状況が違う。 戦後、フランスの知識人は左翼の立場をとり、「モスクワの長女(La fille aînée de Moscou-)」こと仏共産党に好意的である。しかし、彼らが鉄のカーテンの向こう側の実態を知らなかったわけではない。彼らにとって危険なのは共産主義以上にファシズムである。ヴィシー政権はナチスに協力したのに、戦後、東西冷戦の開始と共に、その責任追及がうやむやになっている。当時の政府は侵略軍に抵抗するどころか、それを利用して国内の自由主義や民主主義、共和主義の一掃を図り、労働運動・言論活動を弾圧している。社会党主流派を含む第三共和政の政治家たちは積極的・消極的にフィリップ・ペタン将軍を容認している。積極的に闘争を挑み続けたのが共産党である。解放後、その政権の要人や対独協力者は処罰されたり、追放されたりしたが、冷戦へのタイオウや経済復興のために、多くが復帰を許されている。知識人たちはそれを憂い共産党を支持する田市制を示している・この状況は日本も似ている。知識人にすれば、アメリカも信用できない。マッカーシズムは反共に名を借りたファシズムであるし、反共でありさえすれば、ワシントンはイベリア半島のファシスト体制を支援している。知識人にとって共産党は国内にうごめくファシズムの中和剤である。 1944年9月、パリ解放直後、シャルル・ド・ゴールを主席とする臨時政府が成立する。45年10月に発足した憲法制定国民会議でも将軍は引き続き首班に指名され、11月、共産党・人民共和派・社会党による反ファッショ連合政府は結成される。ところが、翌年の1月、ド・ゴールは、議会権限の強い憲法草案をめぐって他勢力とぶつかり、辞職する。 ド・ゴール将軍は政党政治に批判的で、超然主義の姿勢をとっている。しかし、それはいささか時代離れしている。確かに、19世紀、民主主義が衆愚政治と同義語として使われている。合衆国第4代大統領にして政治思想家のジェイムズ・マディソンは、政党政治を特定集団の利益を優先する多数派の横暴として厳しく斥けている。20世紀に入ると、一党独裁を絶対視する政治体制を別にすれば、政党政治は民主的な制度として広く認知される。もっとも、ド・ゴールも柔軟な政治家であり、政党政治に不満を抱きながらも、後に、新共和国連合(UNR)を結成している。 1947年1月、第4共和政がスタートするものの、先の三派の対立と小党乱立、冷戦の激化によって短命政権が続く。フランス共産党は何度か第一党になって政権に参加していたが、48年以降、下野する。人民共和派(MRP)はカトリック系の政党として出発したけれども、右傾化して党勢が衰退している。それに代わって、ゴーリストが進出していく。社会党は彼らの挟み撃ちにあいながら、勢力を維持しようと懸命に励む。戦争はこの不安定な国内政治の産物である。 ロダンの考えは手段と目的を入れ替えている。戦争は手段であって、目的ではない。戦争の勝敗は、戦闘の勝ち負けではなく、政治的に決定される。スエズ動乱がその典型例である。1956年、ガマル・アブデル・ナセル大統領がスエズ運河の国営化を発表すると、英仏とイスラエルが軍事攻撃し、エジプト軍は壊滅寸前に追いこまれる。しかし、米ソがこの三国を牽制し、国連も介入、連合軍は撤退する。エジプトは軍事的には完敗だったが、政治的には大勝利を手にする。他方、フランスは軍事的に勝ったけれども、この戦争を通じて人命を失い、金を無駄遣いし、国際的な威信を低下させるという政治的な大敗北を喫する。戦争の勝敗が政治的に決まるとすれば、遂行には民の支持が不可欠であって、それをなくしたとき、継続は不可能である。また、個々の戦闘自体が目的ではない、ある戦いで負けた場合、それをとり戻そうとすると深みにはまってしまうため、避けなければならない。 ロダンの遠近法的倒錯は自分のアイデンティティを戦場に見出していることから生じる。孫子は「百戦百勝は、善の膳なる者には非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の膳なる者なり」と言っている。しかし、ロダンは戦争でしか食っていけない。孫子の教えは彼にとって存在の否定につながってしまう。彼にとって戦争の勝敗が政治的に決まるなどあってはならないことである。戦闘の勝敗が戦争のすべてである。 ロダンは、1956年春、アルジェリアへ向かう。彼はそこでFLNおよびALNと野戦や都市ゲリラとのとの戦いに明け暮れる。この強敵を打ち破るには本国からより多くの支援が絶対必要である。アルジェリアはフランスであり、そのためには、本国がいかなる犠牲を払うのも当然である。「過激派のほとんどがそうであるように、ロダンもまた、自己の信念がすべてで、現実を冷静にみつめる目を欠いていた。増大する戦費、その負担に耐えかねているフランス経済、兵士の士気の低下といった冷徹な事実も、彼の目から見れば些事にすぎなかった」。 一日約300万フランの戦費はフランスの経済・財政を破綻に追いこみ、社会危機を招く。1958年6月、国内の反戦気運に憤激した現地四将軍が中心となってアルジェリア駐留軍が反乱を起こし、コルシカ島を占拠、その鎮圧に向かった部隊まで同調、パリ進撃の構えまで見せる。瀕死の第4共和政は、その収拾のため、ド・ゴール将軍を政界に呼び戻し、国民議会は彼に6カ月間の全権委譲を承認、憲法改正を委ねる。ド・ゴール首相は、9月、大統領に強力な権限を与えた新憲法を起草、10月、国民投票で第5共和政を樹立する。12月、初代大統領に選ばれ、翌年1月8日に就任している。 それは、ロダンのような狂信者、すなわちとルー・ビリーバーにとって、待ちかねた瞬間である。軍人がフランスを統治する。すべての元凶である共産主義者は追放され、すぐに騒ぎ出す労働組合は屈服し、あの小うるさいジャン=ポール・サルトルは反逆罪に問われて銃殺刑に処せられる。アルジェリア同胞と駐留軍に対して祖国からの温かい支援の手が差し伸べられる。これで万事うまくいく。ベン・ベラに思い知らせてやるのだ。 「フランスのアルジェリア」と言ってエリゼ宮に入ったド・ゴールであったが、決して愚かな政治家ではない。したたかでしなやかなリアリストである。アルジェリア民族解放戦線と休戦交渉を進め、60年9月にアルジェリアの民族自決の支持を発表し、61年の国民投票の過半数もそれを支持する。62年3月エヴィアン協定によって戦争の終決とアルジェリアの独立が承認される。 しかし、右翼軍人たちはこれでは納まらない。アルジェリア各地で独立派へのテロを実行したのみならず、クーデターを計画する。中でも、最も過激な軍人や居留民、政治家たちは、1961年1月、マドリードで、「アルジェリアはフランス。これまでもこれからも」(L’Algérie est française et le restera)」を掲げて「秘密軍事組織(OAS Organisation de l armée secrète)」を結成する。ロダンも加わったこの極右組織は、彼らが「ユダ」と見なすフランスの最高権力者の暗殺を何度も試みる。しかし、度重なるフランス官憲の厳しく執拗な追求によって組織は先細っていく。ロダンの「ジャッカル」計画は、消滅間際のOASにとって、最後の賭けである。 マルク・ロダンはこうした社会的・時代的背景の下で戦争でしか生きられないウォー・ビリーバーになっている。しかし、彼のようなタイプは決して珍しくはない。アルカイダを始めとする過激派に参加した元アラブ・アフガンズもそうしたウォー・ビリーバーの一例である。 1979年、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、イスラム教徒を共産主義者の脅威から守るという大儀を掲げてアラブ地域から義勇兵が参戦する。彼らは「アラブ・アフガンズ」あるいは「アフガン・アラブ」と総称される。オサマ・ビンラディンのような裕福で教育のある青年は珍しく、大部分は下層階級の出身である。失うものがあったら、いかに義憤にかられようと戦場には駆けつけられない。義勇兵は西側の提供する武器を手に、共産勢力と血みどろになって戦う。1989年、ソ連軍が完全に撤退し、彼らの大半も帰国する。「よくぞやってくれた!」と人々から熱烈な歓迎され、感涙に咽びながら、ねぎらいの言葉が発せられるだろうと期待して、故国の土を踏む。しかし、彼らが直面したのは無関心であり、ヒンズークシ山脈で戦闘に明け暮れていた間に、すっかり変わった社会である。子供たちはファミコンで遊び、若者はCDで音楽を楽しみ、CNNが世界のニュースを衛星を使って24時間放映している。一方で、政治腐敗と貧富の格差は相変わらず放置されたままである。 元々貧しい上に、20代の間に職業訓練も学問研究の機会を逃し、身につけたものといえば、戦闘の技術だけとあっては、民生復帰することは困難である。しかも、80年代はデジタル技術が徐々に社会に浸透しつつあった時期である。スティンガー・ミサイルを撃てるとしても、一般社会では特技に入らない。また、その経験を生かそうにも、これだけ特定のイデオロギーに染まった人物を国軍が受け入れることは難しい。近代において、軍は政治的中立の立場をとらなければならない。部隊内で若い兵士に自分の体験を交えつつ、過激な思想を吹きこまれたらたまったものではない。反乱やクーデター、革命といった軽挙妄動の種ともなりかねない。彼らには居場所がない。鬱屈とした怨念が心の中にたまっていく。 1990年、突如、イラクがクウェートに軍を進める。翌年、イラクに対して、多国籍軍が戦闘を開始して、湾岸戦争が勃発する。ソ連はこの件に関して安保理で拒否権を行使せず、アメリカに軍事的に対抗する立場を放棄している。このとき、事実上、冷戦が終結する。もはやアメリカと軍事的に対抗しようとする国家は存在しない。戦争は3ヶ月もしないうちに決着がつく。 しかし、戦争が終わっても、サウジアラビアの米軍駐留が続く。中東では、イスラエルを支援しているため、従前より反米感情が強いが、この継続は一般のサウジの国民の反発を招く。不満と不信に満ち溢れた元イスラム戦士には、共産主義者をアフガニスタンから追い払ったと思っていたら、今度は、こともあろうに、異教徒がメッカとメディナの聖地を抱えるサウジアラビアに居座り続けている。イスラムを守るために、奴らを追い出さなくてはならない。「アメリカに死を!」と立ち上がったとき、彼らは再び居場所を見つける。 ウォー・ビリーバーは戦争に対するアイロニーもシニシズムもない。そこはアイデンティティ確認の場である。ウォー・ドリーマーと違って、戦争は社会の流動性確保でも経済成長の手段ではない。戦争自体に自分の存在意義がある。正しいことをしていると信じている以上、なかなか彼らを止められない。 90年代、アラブ・アフガンズと各国で活動を続けてきたイスラム過激派が連携し、世界各地でのテロを実行する。貧しいものにとって、実は、テロ組織を創設することは難しい。先立つものがないからだ。むしろ、戦争に義勇兵として参加する方がたやすい。戦争は、概して、いずれの勢力にもバックアップしている国家がいるので、その辺の心配が要らない。食うや食わずでは継続してテロをしている余裕などない。比較的裕福で、高学歴のものたちが急進思想にかぶれて、テロ組織を結成することが多い。高い教育も受け、豊かであるなら、社会的な成功は十分可能である。けれども、社会変革は思っている以上に時間がかかり、待ちきれない。物事がそんなに簡単に割り切れるものではないのだが、とにかく答えが欲しい。オサマ・ビンラディンは過激派の幹部とアラブ・アフガンズの両面を兼ね備えている。彼が世界的なイスラム主義のテロ・ネットワークの中心人物となるのも必然的だったろう。 急進派たちは、世界各地を追われ、あるいは自ら進んで、アフガニスタンに集結する。国際社会の関心はもうそこに注がれていない。彼らとパキスタンに支援されたタリバンは、96年にカブールを制圧し、その後、短期間のうちに国土の9割以上を実効支配する。 タリバンの幹部は貧しい家庭の出身である。長引く戦争のため、満足に教育を受けられなかったり、何とか勉強を続けたいと学費が無料で食事も提供してくれる神学校に通っていたりするものがほとんどである。日本で言うと、統制派に対抗した皇道派の青年将校というところだ。リーダーのムハンマド・オマルは正規の教育経験は数年しかない。アフマド・シャー・マスードのような裕福で高い教育を受けた北部同盟の指導者とは違って、アラブ・アフガンズに近い。 2001年9月11日、同時多発テロが起きる、アメリカは、実行したとされるアルカイダのメンバーの引渡しを要求するが、タリバンは拒否する。10月、アメリカ軍を主体とする有志連合がアフガニスタンで戦闘を展開、12月、タリバン政権は崩壊する。2003年3月、調子に乗って、アメリカとその仲間たちはイラクにも侵攻、4月、バグダッドは歓楽する。しかし、その後、両国供には内戦状態と化し、国内各派だけでなく、国外からテロリストや義勇兵も流入する。そうしている内に、アフガニスタンではタリバンが息を吹き返し、支配地域を徐々に広げていく。バラク・オバマ米大統領は、治安の改善傾向が見えてきたイラクから2011年12月までに駐留軍を完全撤退すると表明しているが、アフガンに関しては出口戦略を明らかにしていない。それどころか、隣国のパキスタンにも戦線が拡大している。この間、新たなウォー・ビリーバーが続々と生まれている。 戦後復興の際に、元兵士の生活設計をどうするかは重要な課題である。軍や警察に入れない場合、学校教育・職業訓練などの支援が必要である。何も身につけさせず、社会に放り出しては、彼らは再び銃を手にする恐れがある。ソ連軍撤退後のアフガニスタンの混乱の一因は、元兵士の処遇をほとんど考慮していなかったことである。 ウォー・ビリーバーの生まれるメカニズムは、ワーキングプアのそれと似ている部分もある。バブル経済崩壊後、多くの企業が新卒採用の枠を絞り、大量の非正規雇用者が出現する。彼らは不安定で低賃金の仕事に追われ、専門的な技能や資格を習得する機会を奪われる。働いても、働いても、貧困から抜け出せない。彼らはロダンやアラブ・アフガンズと重なる。 しかし、戦争は別のタイプのウォー・ビリーバーも発生させる。ある程度の教育や職業技能を有しながら、戦争でしかアイデンティティを見出せなくなってしまう兵士も少なからずいる。自分が報われるのは戦場だけだと感じている。イラク戦争を舞台にした映画『ハート・ロッカー』のウィリアム・ジェームズ1等軍曹は、祖国での家庭生活になじめず、戦場に舞い戻っている。また、民間軍事会社の社員にもこうしたタイプが多い。彼らは戦争一般が正しいとは考えていない。ただ、自身がかかわっていることには意義があり、危険な戦場で任務を果たせるのは自分だけだという使命感を抱いている。戦場には彼らの居場所がある。 戦争はウォー・ビリーバーという社会階級をもたらし、固定化する危険性がある。ウォー・ビリーバーに関して、「階層(Strata)」ではなく、「階級(Class)」を用いるのは。彼らが「同じことばをはなし、同じ考え方をする」という所属意識を持っているからである。赤木のようなウォー・ドリーマーは、今の状況から何としても脱出したいために戦争を待望している。一方、ウォー・ビリーバーは戦争が終わって欲しいと思っていない。自分を生み出したその場を神聖視している。戦争にこそ自分自身がある。しかし、それによってまた新たなウォー・ビリーバーが生まれる。戦争はこうして自己増殖する。それを待望するよりも、真摯で建設的な議論をする方がはるかに有意義である。 現下の多様な危険要因に対応するためには、政策と制度をさらに強化し包括的なものとする必要がある。国家は安全保障に引き続き一義的な責任を有するが、安全保障の課題が一層複雑化し、多様な関係主体が新たな役割を担おうとする中で、われわれはそのパラダイムを再考する必要があろう。安全保障の焦点は国家から人々の安全保障へ、すなわち「人間の安全保障」へ拡大されなくてはならない。 (人間の安全保障委員会事務局『人間の安全保障委員会:最終報告書要旨』) 〈了〉 参考文献 赤木智弘、『若者を見殺しにする国―私を戦争に向かわせるものは何か』、双風舎、2007年 浅野裕一、『「孫子」を読む』、講談社現代新書、1993年 天川晃他、『日本政治史─20世紀の日本政治』、往相大学教育振興会、2003年 五百旗頭真、『米国の日本占領政策』、中央公論社、1985年 柄谷行人、『倫理21』、平凡社、2000年 高橋和夫、『改訂版国際政治─九月十一日後の世界』、放送大学教育振興会、2004年 長谷川慶太郎、『2010年 長谷川慶太郎の大局を読む』、フォレスト出版、2009年 藤原帰一、『国際政治』、放送大学教育振興会、2007年 シュンペーター、『帝国主義と社会階級』、都留重人訳、岩波書店、1956年 フレデリック・フォーサイス、『ジャッカルの日』、篠原慎一訳、角川文庫、1979年 マーク・ブローグ、『ケインズ以前の100大経済学者』、中矢俊博訳、同文館、1989年 ポール・ポースト、『戦争の経済学』、山形浩生訳、バジリコ、2007年 『世界の名著40』、中興バックス、1980年 DVD『エンカルタ総合大百科2009』、マイクロソフト社、2009年 人間の安全保障委員会 http //www.humansecurity-chs.org/japanese/index.html 防衛省・自衛隊 http //www.mod.go.jp/ United States Department of Defense http //www.defense.gov/ 佐藤清文、『経済と文学─戦後経済と日本文学』、2009年 http //hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/el.html
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( ^H^ )y-~~韓国人がいくら日本を嫌っても全然困りません。 韓国人のような、前近代的で愚鈍で無能で邪悪で卑劣で残虐な世界最悪の低質民族と友好関係を結んでも、日本には全く利益がありません。 低質で無価値な民族は勝手にいつまでも日本に対して劣等コンプレックスを持って、永遠に日本に嫉妬して、キチガイになりなさい。 お前らが、花瓶になって、焼身自殺したり、日の丸を焼いて抗議したりしても、日本人には面白いだけです。 もっと、キチガイじみた反日妄動を繰り返して日本人を楽しませて下さい。 何度も繰り返される反日妄動 日本固有の領土である竹島(takeshima)を侵略し、反省も謝罪もしない、邪悪で卑劣な民族 自分の悪行は絶対に認めず一方的に日本を非難し続ける独善的で破廉恥で狡猾で邪悪な世界最悪の低質民族 日本にとっての特定アジア(=中国・韓国・北朝鮮の非文明国)の価値 「市場」としての価値で考えると特定アジアは日本の高度な技術で作られた付加価値の高い商品の主要な市場とはならない。欧米が主な市場である。 日本国内で不足している資源を求める上で、日本にとって決定的に必要な資源はエネルギー源であり、現在の所、それは石油である。中国も大需要国であり、コスト面から考えても大陸経由で輸入するメリットは無い。 地理的条件も、日本にとっての生命線が現時点で石油の海上輸送ルートであることから、特定アジアの価値よりも東南アジアや台湾の価値の方が高い。 結論:日本にとって特定アジアは必要ない。 将来、朝鮮半島は必ず中国の属国に戻り、日本と敵対する。 現在、北朝鮮では情報は統制され、支配階層は国民を収奪し、恐怖政治を行い、国民は飢餓に苦しんでいると言われる。 日本人の常識で考えれば、このような腐敗した政権はすぐに崩壊すると思われるのだが、実は、日本人の認識は間違っていたのかも知れない。 かつて、李氏朝鮮の時代も同じように腐敗し、民衆は飢餓と圧政に苦しんでいたが、500年の長きにわたって王朝を維持してきた。 現在の韓国人も日本による近代化や援助を否定し、李氏朝鮮時代を肯定していることや、不可解な反日、反米運動からも全く同じ精神構造を持っているものと思われる。 日本人にはまったく理解できないが、朝鮮半島の民族すなわち조선인にとっては中国の奴隷として圧政と飢餓に苦しめられながら生きている方が安定するように見える。 つまり、日本やアメリカによる民主化は조선인にとっては受け入れることが出来ないものだ。 現在、韓国においては反米、反日活動が大きくなり、北朝鮮に対して寛容な左翼の活動が力を持ちつつある。また、昔から北朝鮮のような「朝鮮民族独自の」閉鎖的で独裁的な体制こそが朝鮮の本流であるという意見があった。 近いうちに朝鮮半島は統一されるであろうが、その経過は連邦制から徐々に北朝鮮のような政治体制へと移行していく可能性が高い。 いずれは統一朝鮮も現在の北朝鮮と同じように中国の影響のもとに閉鎖的な独裁政治体制をとることになると考えられる。 いわば、伝統的な李氏朝鮮への回帰であり、조선인にとってもっとも安定する状態へと戻るわけである。 つまり、日本がこれまで韓国にとって良かれと思ってしたことは全て조선인にとっては邪魔だったわけで、彼らにとっては現在の北朝鮮のような閉鎖的な恐怖政治が望ましいのである。 日本にとっても今後、朝鮮半島と関わることによって得られるものは何もない。また朝鮮にとっても同じである。 今後の日本の朝鮮半島に対するあり方としては、まず、韓国の左翼勢力の活動を強め、反米、反日活動を活発にさせ、統一せさて中国に吸収させる。 その後で中国及び朝鮮半島に対する援助を全て止め、貿易も制限するかあるいは撤廃する。 日本にとっては古いアジア的な悪習に染まった中国や朝鮮半島には関わらず、脅威とならないように監視し、必要があれば制裁を加え、世界平和を乱さないように封じ込める政策を取るのが最も良い選択ではないかと考える。 日本人は平和を望む良い民族であるが、反日国家の挑発や侵略の前に日本国内の左翼の言論は壊滅し、憲法改正の機運が高まる。 近くに日本の謝罪を受け入れず、永遠に憎悪し続ける危険で好戦的な仮想敵国がある以上、日本は憲法を改正し再軍備し、核武装することを選択する。 日本は世界の平和のために仕方なく制裁を行うことになる。 조선인には未来永劫、「地上の楽園」で暮らしてもらうのが日本にとっても조선인にとっても一番良いことだと考える。 ( ^H^ )y-~~
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韓国併合(かんこくへいごう)は、1910年8月22日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて日本が大韓帝国(今日の韓国と北朝鮮に相当する地域)を併合した事を指す。日韓併合(にっかんへいごう)、朝鮮合併(ちょうせんがっぺい)、日韓合邦(にっかんがっぽう)などの表記もある(韓国では韓日併合、中国では日韓併合と表記する)。 韓国併合によって大韓帝国は消滅し、日本はその領土であった朝鮮半島を領有した。1945年の第二次世界大戦終戦に伴い実効支配を喪失し、1945年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に日本による朝鮮支配は終了した。 併合条約の日韓の見解 日本側が韓国併合は現在において「もはや無効」であるという立場をとることで韓国併合ニ関スル条約の締結自体は合法であったという考えを内包しているのに対して、韓国・北朝鮮とも韓国併合ニ関スル条約は違法に結ばれた条約であるから同・条約と関連する条約のすべてが当初から違法・無効であり、日本の朝鮮領有にさかのぼってその統治がすべて違法・無効であるという立場を崩していない。この点については65年に国交を回復した韓国と日本との間においても合意に達していない。 「韓国併合」というとき、大韓帝国が消滅し、朝鮮が日本の領土となった瞬間的事実だけではなく、併合の結果として朝鮮を領有した継続的事実を含意する場合もある。 時代背景と日本・朝鮮の世論 明治維新後、急速に発展を遂げた日本は対外的な国防政策を考えた場合に朝鮮半島が地政学的に大きな意味があると考えた。古来より永きに渡って琉球と並んで日本と大陸との交流におけるパイプ役を果たしてきた朝鮮半島が敵対国家に渡ることは、日本にとって戦略的に致命的な弱点を握られることを意味していると考えたためである。 当時、朝鮮は清朝中国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。日本の開国・冊封体制からの離脱は、長らく東アジア国際秩序を保証していた中華秩序への挑戦であり、朝鮮はこれに批判的であった。日本による近代化の要請も内政干渉であると考え、また日本も善意か悪意かは別として干渉であることを自覚していた。日本の民間知識人による近代化の提言も、侵略的意図によるものと考えられるか朝鮮王朝内部における政争の具にしかならなかった。 しかし、西欧列強や日本は朝鮮半島の鎖国状態が続くことを許さず、日本は江華島事件を機に李氏朝鮮と日朝修好条規を締結し、それを皮切りに李氏朝鮮は列強諸国と不平等条約を結ばされて開国を強いられる。その際、日本は「朝鮮は自主の邦」という文言に固執したが、中華秩序において冊封を受けた朝貢国は元々「自主の邦」であるため、清朝の冊封体制から離脱させようという日本の意図は朝鮮王朝にとっても朝鮮の知識人にとって理解しがたいものであった。誤解されがちだが、冊封体制下の国、すなわち「朝貢国」とは即、「属国・保護国」を意味するものではない。朝貢国が政治的に中国に従属している度合いはきわめて多様であり、多くの場合は朝貢貿易の側面が強かったのだが、これが近代的な西欧的国際関係の論理に翻訳されたとき、日韓での認識の差が生じた。 開国後、甲申事変が起きるなど、、朝鮮の内部からも改革の要請は出ていたが、大院君、閔妃はあくまでも旧来の、朝鮮王朝を守り通そうとしていた。日本は清国とともに朝鮮半島の政治改革を目論んだが、清国はあくまでも朝鮮は冊封体制下の属邦であるとの主張を変えなかった。 日本と清とが緊張するなか、悪政と外国による侵略を排除すると唱えた農民反乱・甲午農民戦争が起きた。日本と清の両国とも、その鎮圧を名目に朝鮮に出兵し、1894年日清戦争が勃発した。日清戦争で勝利した日本は、清国との間に下関条約を結んで朝鮮が自主独立国であることを認めさせることで、朝鮮における清国の影響力を排除することに成功した。 日清戦争直後の朝鮮半島では改革派の勢いが強かったものの、日本が三国干渉に屈するのを見た王室をはじめとする保守派が勢力を回復してロシアに接近、政争が過激化した(閔妃暗殺も、この時期である)。1896年に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館にて1年あまり政務を執った(露館播遷)。これにより朝鮮がロシアの保護国と見なされる危険性もあったと考え、日本は朝鮮への影響力を維持するため1897年に大韓帝国と国号を改めて独立の事実を明確にさせようとした。結局、大韓帝国成立後も実質的に朝鮮王朝と同様の政体が朝鮮を支配することとなり、進歩会(のちの一進会)などの改革派は弾圧され(改革派への弾圧を日本政府に依頼することすらあった)、開化は進まなかった。 日本国内では再び朝鮮半島への改革に介入すべきだとの世論が起こり、遅々として進まない朝鮮半島の政治改革に「日本が併合してでも改革を推し進めるべきだ」とする世論が台頭した。 桂太郎は「欧州に並ぶ強国になるには新たな領土が必要だ」という見地からこれを強力に推し進めた。これにより朝鮮の自国領土への編入を望む日本政府と、日本世論とは合致した。 韓国統監であった伊藤博文と彼を中心とするグループは、「併合は時期尚早である」として反対した。この反対論は、第一に朝鮮の統治政策に関して「将来、朝鮮で日本への抵抗・独立勢力になり得る芽を先に除去すべき時期である」と考えて抵抗勢力や反乱についての対策に腐心していたこと、特に義兵活動が盛んなところでは村の大部分を焼き払う等の方法を用いた強引な弾圧を推し進める(吉田光男_2004 134頁)などしていたこと、第二に日本国内に目を向けて「国内産業の育成に力を入れるべき時期だ」と考えていたこと、第三になにより対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから導き出された立場であった。 保護国化の進行 大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州を手に入れたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに明確な南下政策を取りつつあった。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年、日露戦争の開戦である。 日本政府は開戦直後に朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、1904年2月23日に日韓議定書を締結した。また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦した。日本政府による推薦者を加えて影響力を確保し、他国への便宜供与を制約しようとの試みである。他方で閔妃によってロシアに売り払われた関税権を買い戻すなど、その影響力を増していった。一方、高宗は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの密使外交を展開していった。 この高宗の密使外交を排するために日本政府は日露戦争終結後の1905年11月に第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)を締結し、12月には韓国統監府を設置して外交権をその支配下に置いた。しかし第二次日韓協約の締結を認めない高宗は条約締結は強制であり無効であると訴えるため、1907年第2回万国平和会議に密使を派遣した(いわゆるハーグ密使事件)。これに対して韓国統監であった伊藤をはじめとした日本政府首脳は激昂し、高宗を強制的に排除した。李完用らの協力もあり、7月20日には半ば強制的に高宗は退位に追いこまれ、純宗が第2代の大韓帝国皇帝として即位した。7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、直後の8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させるにまで至った。 これを不満とした元兵士などを中心として、抗日目的の反乱が起きたが兵のほとんどが旧式の武装しか持たず、兵としての練度もなかったためにほどなく鎮圧された。もともと、軍隊としての存在意義が薄かったための解散でもあった。残存兵力はその後の抗日義兵闘争に加わったともされる。 日本統治時代 1909年7月に韓国併合の方針が閣議決定されたものの、韓国統監府を辞して帰国していた伊藤博文はあくまでも併合自体は将来的な課題として早期合併に抵抗を続けていた。しかし、10月26日に安重根によって伊藤博文が暗殺されたことにより早期併合に反対する有力な政治家がいなくなったこと、および初代首相であり元老のひとりでもあった伊藤を暗殺されたことによって日本の世論が併合に傾いていった。韓国併合に向けて着々と準備が進む中、1909年12月4日、突然韓国の一進会より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出されると、韓国国内では国民大演説会などが開かれ、一気に一進会糾弾と排日気勢が高まり、在韓日本人新聞記者団からも一進会は猛烈な批判を浴びせられた。そもそも「韓日合邦を要求する声明書」は韓国と日本が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、当時の現状から見ても日本にとっては到底受け入れられない提案で、また、無闇に韓国の世論を硬化させる結果を招き、統監府からは集会、演説の禁止命令が下された。 韓国併合の閣議決定から1年、いろいろと紆余曲折はあったが、閣議決定どおり、1910年8月22日に日本は日韓併合条約により朝鮮半島を併合した。 これにより、大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)の終結まで日本の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、かわって全朝鮮を統治する朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は日本の皇族に準じる王公族に封じられた。また、韓国併合に貢献した韓国人は朝鮮貴族に封じられた。 朝鮮総督府は1910年 - 1919年に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地の99%以上は地主の申告通りに所有権が認められたが、申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(主に隠田などの所有者不明の土地とされるが、旧朝鮮王朝の土地を含むともいう)は接収され、東洋拓殖株式会社法(明治41年法律第63号)によって設立され、朝鮮最大の地主となった東洋拓殖や、その他の日本人農業者に払い下げられた。これを機に朝鮮では旧来の零細自作農民が小作農と化し大量に離村した。朝鮮総督府は東洋拓殖会社の一部の資金で朝鮮半島で日本窒素などの財閥に各種の投資を行った。日本の統治下で、李朝時代の特権商人が時代に対処できず没落する一方、旧来の地主勢力の一部が乱高下する土地の売買などによって資金を貯め、新興資本家として台頭してきた。これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。 大韓民国における日本統治時代の呼称 日本統治時代を韓国側が日帝強占期(韓国の公営放送KBS=韓国放送公社=ではこの呼称に最近統一しようとしている)、日帝時代または日政時代などと呼ぶ事が知られている。前者2つには、韓国併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する日本の支配を単なる軍事占領とする認識がうかがえる。また、日本植民地時代という呼称も用いられるが、韓国併合条約、日本による朝鮮領有の合法性、有効性を示唆するものであるという認識から、近年では忌避される傾向にある。 大韓民国における日本統治時代の評価 独立後の韓国の歴史学者・学会は、日本による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。彼らの言うところの「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった。そうした雰囲気もあって、日本統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、近代化の萌芽は朝鮮朝の時代に既に存在しており、日本による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする近代化萌芽論が独立後に現れた。一方、評論家・作家の金完燮や日本の保守層を代弁する人物として、拓殖大学の教授で済州島出身呉善花などは日本による統治を肯定的に評価する本を執筆しているが、少数派であり、チンイルパとして糾弾されている。特に金完燮は国会での傍聴中や裁判中に暴行を受けるなどの被害を受けており、安全のため住所すら公表していない。またソウル大学教授の李栄薫などによる、日本の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論も存在するがこれも少数派である。最近、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定している。また国外的には、ハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートも萌芽論を否定しているが、彼は日本統治そのものについては朴正煕政権との類似性などをあげ、軍事独裁の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったと評価している。 日本統治下の朝鮮を植民地と呼ぶかどうかについての論争 植民地という呼称は、新規の領土を旧来の領土に比して特殊な政治制度の下におき政治的従属状態においているものを呼ぶことが多い。現実例から抽出されたモデルに現実に用いられた呼称を適用することからはじまったが、先行モデルを中心に価値判断を排除すべく概念規定されつつある。これは先行する事実をモデルにしないかぎり、名称をつけられず、議論も不可能であるためである。 ただし、欧米による先行のモデルとの差異を論じるべく日本型植民地支配がどのようなものであったかについては継続して議論が戦わされている。のみならず「日本の統治政策は同時代に欧米諸国の行った異民族統治とは異質で、善政である」「植民地という言葉は諸外国が異民族統治に対して行った悪政に使われる言葉である」という認識から、双方を一緒に植民地という言葉で形容することへの批判がある。この立場からは日本の朝鮮支配について「植民地」という呼称を用いるべきではないと主張されている。これらの主張においては、日本人と朝鮮人が異民族であるか否かについて議論の対象にされていない。 朝鮮を支配していた当時の日本政府は、法的には朝鮮に対して特別の呼称(植民地、外地など)を付さなかった。ただし公文書では植民地、外地とも使用例が見られる([1]、[2]を参照)。在野の学者や思想家の間には朝鮮が植民地であるかどうかについて見解の相違があった。憲法学者の美濃部達吉、植民政策学者の新渡戸稲造、矢内原忠雄など社会科学者は概ね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や思想家の北一輝などは植民地ではないとした。植民地でなければ何だと言ったのかはつまびらかではないため、その後の内鮮一体論と同一視される傾向にある。戦後の日本の政治家の発言や日朝平壌宣言のような外交文書でも朝鮮が植民地であったとする表現があるが、これを日本政府の公式見解とするかどうかには議論がある。(日本の戦争謝罪発言一覧参照)。。 年表 韓国併合に関係する年表 年 出来事 韓国 北朝鮮 1895年 下関条約閔妃暗殺 1896年 露館播遷 1897年 大韓帝国に国号変更 1904年 日露戦争開戦日韓議定書第一次日韓協約 1905年 日露戦争終結第二次日韓協約第二次日韓協約韓国統監府設置 1907年 ハーグ密使事件純宗即位第三次日韓協約 1909年 伊藤博文暗殺 1910年 韓国併合 1945年 分割占領、朝鮮総督府解体 朝鮮38度線以南 アメリカ合衆国が占領 朝鮮38度線以北 ソビエト連邦が占領 1948年 大韓民国建国 朝鮮民主主義人民共和国建国 1952年 サンフランシスコ平和条約発効日本、朝鮮に対する権利、権原及び請求権を放棄 1965年 日韓基本条約調印 発効日本は大韓民国を全朝鮮の正統政府として承認 歴史認識の比較 日韓併合史について、以下のような歴史認識の相違がある。(なお、以下に示す「保守派」と「革新派」は、日本のマスコミなどでそのように表記されるグループの名称を使用したものであり、定義通りの保守、革新を表すものではない。) 日本の保守派に広く見られる認識 日本の革新派や韓国で一般的な認識 資本主義の萌芽 李氏朝鮮末期の朝鮮には資本主義の萌芽は存在せず、日本による統治が朝鮮の近代化をもたらした。 李氏朝鮮末期には、近代化の萌芽が存在した(姜在彦「朝鮮の開化思想」/他、司馬遼太郎など)。資本主義の萌芽が存在したと唱える者も少数ながら存在する。 ロシアによる併合 仮に日本が朝鮮を併合していなくても、ロシアが併合していた。日本は自国の安全を確保する目的と、朝鮮に対する善意の両方から併合を行った日本は自国の安全を確保する目的と、朝鮮に対する善意の両方から併合を行った。ロシア(ソ連)における少数民族の過酷な境遇を思えば、朝鮮が日本に支配されたことは僥倖というほかない。 仮定の話でしかないので、この点を論じない者、取り上げない者がほとんどである。日本が併合しなければロシアに併合されると言う根拠もわからなければ、日本の支配のほうがロシアによるものより善いとする論拠がわからない。 朝鮮における併合の受容 朝鮮朝末期では最大と日本がみなしていた政治団体・一進会も、日韓併合に賛成していた。日韓併合は多くの朝鮮人に歓迎された。しかし、一進会などが主張する対等合併は両国の国力の差、大韓帝国の混乱した実情などから非現実的で、朝鮮が従属的な地位に置かれるのは必然的であった。地方の農民反乱についてはその多くが既得権益を失った両班によるものであり、何らかの手段を用いて貧農を反乱に駆り立てたのに違いない。 韓国では、朝鮮の植民地化は武力による脅迫によって断行されたものであるという認識が大多数を占める。ゆえに韓国併合に関する全ての条約は締結時から違法であり、国際法上も違法であるという認識が主である。この認識に基づいて、締結前の日韓協定に遡及して、それによってもたらされた結果にまで日本の責任を問う者も多い。日本の革新派では、併合条約が違法だという立場をとらない論者も植民地化の不正義を遡及して追及するべきと考えている者が多い。また、韓国・日本を問わず、朝鮮植民地化のみならずアフリカにおける奴隷貿易や欧州の奴隷制度時代にまで遡及して(すなわち欧米諸国の植民地主義をも含めて)違法とするべきだと唱える者もいる。朝鮮の資本主義化を悲観していた一進会でさえ日本への吸収合併ではなく日本との対等合併を主張していたために彼らの期待は裏切られた。併合そのものに対しては、各地で地方士大夫に率いられた農民反乱が起きたことをもって、反発があったことは自明とする。 独立運動 朝鮮においては三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていたが、それらは本格的な武力衝突には至っておらず、独立運動としては小規模であり、多くの朝鮮民衆は熱烈に独立に向けて活動していたわけではない。上海に成立した大韓民国臨時政府は派閥抗争が激しく、また無差別なテロリズムの性質が強く独立運動の実態に乏しい。臨時政府が第二次世界大戦中に行った宣戦布告は連合国からは承認されていない。国内の共産主義運動は地下に潜伏しており、大きな影響力を持たなかった。満州の共産主義運動は中国共産党の影響下で行われたもので朝鮮独立ではなく中国革命を目指すのが本義とされていた。しかし、その実態は無差別に民衆から略奪を行う匪賊と大差がない。匪賊とゲリラの違いについては論じないが、論じる必要がない。 日本の統治に対して朝鮮の民衆は併合前にも日本統治時代にも激しく反発していた。朝鮮では100万人規模の三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていた。三・一独立運動が日本政府に与えた衝撃は大きく、運動が首都で弾圧された後も各地方に波及し、完全な制圧に数箇月を要している。その途中には日本当局がキリスト教会に立てこもった独立派住民をキリスト教会ごと焼き払い皆殺しにするという事態まで引き起こした(堤安里事件)。これは欧米諸国の非難を招き、以降はキリスト教会を弾圧の対象にできなかったために独立運動の拠点を自ら作り出してしまうという日本帝国主義にとっての大失態を引き起こしている。上海では大韓民国臨時政府が成立し光復軍を組織して抗日運動を行っており、第二次世界大戦中には日本に対して宣戦布告を行い、連合軍と共同行動をとろうとしたが実態は爆弾テロ闘争であったことを認めざるを得ず、結果として直接の対決に至る前に日本の降伏によって独立を迎えた。共産主義運動に対する評価は日本統治に批判的な人々の間でも、日本革命または中国革命に従事するべき存在として扱われていたという評価や、朝鮮民主主義人民共和国の建国の基礎になったと評価、無差別な略奪・暴行を行う匪賊以上の打撃を与えられなかったという評価やゲリラであるかぎり匪賊と見分けがついてはならないのが当然であるとするものまで様々である。 日本統治時代の認識 日本はその開国直後から、ロシアの南下への備えとして、朝鮮に対して自立を求め様々な支援をしたが、朝鮮独自の改革運動が失敗に終わると、併合に方針を転換した。そのため、当初から植民地化ではなく、日本の一部分として殖産と教育などの様々な投資を活発におこない、朝鮮半島の経済および人的資源を育成しようとした。したがって、植民地的搾取ではなく、投資に重点が置かれ、市場を開設し、インフラを整備した。特に、教育の普及による朝鮮半島の人的資源の開発は当初から重視され、学制がひかれるとともに、京城帝国大学が帝国大学としては6番目にソウルに設置された。朝鮮は天然資源も労働力も豊富ではなく、植民地としての価値はなく、逆に、日本からの財政支援が長期に渡っておこなわれた。ゆえに日本は併合によって利益を得たわけではなく、むしろ朝鮮に恩恵を及ぼした面が大きいと主張する。これが「植民地支配」であるとして、西洋列強が行った残虐で搾取的な異民族支配と同じ言葉で括るのは、不当な印象操作以外のなにものでもなく、到底うけいれられない。朝鮮半島が、ロシアや中国の侵略圧力にさらされていた当時、それらの国家に対して侵略をさせないだけの経済力と軍事力を独自でもつことが、できなかったという状況の下での次善の選択としては、日韓併合はもっとも妥当なものに近いと考えられ、朝鮮民衆の最大組織であった一進会などの勢力が併合を推進した意図と比べても本質的な差異はない。このように併合にはプラス面があったし、また韓国・一進会が併合について主体的に関与している度合いが大きい以上、決して日本側が一方的に非難されるいわれはなく、プラス面を考慮したうえで併合を評価するべきである。 朝鮮は植民地化によってあらゆる搾取に甘んじ絶対的に窮乏化した(すなわち相対的に窮乏化したのではないという認識)。植民地政策、特に土地調査事業によって大量の農民が土地を離れざるを得なくなった。産米増殖計画においては、日本への輸出ばかりが増大し小作農は窮乏化した。また、工業化によって日本の資本家(企業)は安価な労働力を確保し、土地・資源のみならず膨大な労働力を搾取した。朝鮮人による商品消費も日本資本または日本資本傘下の朝鮮人系企業に依存したため、朝鮮人は二重三重に搾取された。朝鮮の植民地化によって、大日本帝国は莫大な利益を蓄積し、欧米の植民地宗主国に列する強国に成長した。 差別 経済的平等については併合直後の、日本と朝鮮半島の経済的な開発状況にはかなりの差があり、当初から日本は朝鮮半島に多大な投資を行ってその改善に努めた。その格差が大きかっためその改善には多大な時間を必要とし併合期間が終了するまでに達成され得なかったが、経済水準の均衡化はかなりの改善をみた。(この時期の朝鮮半島に対する投資が東北地方の過小資本をよび東北地方の経済の遅れの原因となったという指摘がある)。また、政治的平等については、朝鮮人に対しても内地では選挙権が与えられ、かつ、選挙権と徴兵の有無が多くの国で併せて考えられていたのと趣旨を同じくし、朝鮮半島に対しては徴兵が実施されなかったように、徴兵義務などの負担と選挙権などの政治的な権利の付与は、朝鮮半島の地理的な隔絶による選挙の困難性と併せて、ある程度の合理性のある区別が行われていたと見ることが可能であり、これらの事態をさして単純な差別と見ることはできない。なお、太平洋戦争中には朝鮮に徴兵制がひかれるのが決まったのと平行して朝鮮の住民にも投票権が認められた。ただし、あくまでも制限選挙ではあった。日中戦争から太平洋戦争にかけては日本の国内の戦時体制の強まりの結果として同化圧力も高まった。この時期に創氏改名が行われているが、これは朝鮮人側から改名についての要望が当初のきっかけで、日本はその要望に答えたのだから朝鮮人に非難されるいわれはない。また創氏改名も日本人名にすることを強制されたわけではなく、改名は任意だったはずだ。第二次世界大戦中に、抗日運動がほとんど起きていないのは、ほとんどの朝鮮人が日本人になる道を受け入れ始めていたからである。そのことは朝鮮人の志願兵の多さからも傍証されうる。官公庁や軍においても朝鮮人の高官が存在したことは、実質的に差別があるとしても、形式的には差別が存在しなかったことの証左となる。また、当時、朝鮮人の顕職者が日本人より少なかったことも、日本人と朝鮮人の能力と教育レベルの差の結果であるから、朝鮮人は文句を言う前にわが身をかえりみてほしい。 日本人は朝鮮人を蔑視していた。その象徴が創氏改名であり、これに応じない朝鮮人は、郵便物が配達されないなどにとどまらず、職や仕事を得られず生活できない事態にまで追い込まれるといった不利益を受けた。いわば社会的な強制であった。地方では強制のためにしばしば官憲による暴行が横行した。日本の官憲と行政官とによる創氏改名の強要は日増しに強まり、第二次大戦中には抗日運動の一つも起こせないほど、官憲による弾圧が激しくなっていた。民族主義者系の抗日運動は1920年代のうちに壊滅し、共産主義者による運動のみが細々と残った。朝鮮に徴兵制が施行されなかったのは多くの植民地と同じく、朝鮮人の反乱を恐れためである。朝鮮からは本国議会へ議員を選出することはできず、朝鮮人の代議士が存在したとしても日本政府の傀儡としてあらかじめ選出されている候補に過ぎず、朝鮮人の民意を代表すると信じたものはいなかった。官公庁や軍に朝鮮人が採用されたとしても、その多くは下級職であり、昇進の道は日本人より比較にならないほど閉ざされていた。これらは、後年、総動員体制期を迎えるにあたって唱えた一視同仁や内鮮一体などの美麗字句が単なるタテマエでしかなかったことを示している。朝鮮人への蔑視感情は継続してさまざまなメディア表現にあらわれており、激化する一方であった。庶民の間では“(天皇)陛下の赤子に鮮人がなるなど畏れ多い”という差別思想が根強くあり、特に植民地朝鮮においてその程度は根強かった。この根強さは朝鮮総督府の支配政策にとって障害になるほど強固であり、朝鮮憲兵隊は本国政府に対して、朝鮮に植民した日本人(日本政府にとっては棄民に近い扱いだった事情も介在する)が朝鮮人に蔑意をあらわにする実例を個々具体的に報告ことで、日本人の差別意識が朝鮮人の民族意識を涵養しているという警告を再三に渡って送っている。 解放後 日本は、大量のインフラを朝鮮に残したにも拘らず、朝鮮戦争でそれを台無しにした。北部では、行政のプロを対日協力者として公職追放したために、行政のノウハウがない状態で建国しなければならず、朝鮮戦争後にも金日成による相次ぐ粛清によって人材を失い正常な統治が不可能になった。南部では、朝鮮戦争前には権力をめぐる抗争や共産主義者のゲリラ活動が激しく、朝鮮戦争後には李承晩政権のもとで経済的に停滞していた。行政機構の機能不全は朝鮮人の施策によって引き起こされ、朝鮮戦争は日本政府が関与しないところで金日成の奇襲によって起きたのだから、何もかも日本統治が原因だとするのはお門違いである。 南部では占領軍が朝鮮総督府が残した行政機構・行政官・警察官を用いた統治を継続しようとした。朝鮮人にとっては、解放の喜びに浸る間もなく対日協力者による統治が続くと映り、大きな反発を招き、ときには反乱が起きた。これは大韓民国政権担当者の座を巡る争いと密接に関連した。北部では朝鮮民主主義人民共和国政府が対日協力者を徹底的に除去したため貧農およびインテリ層の支持を集め多数の越北者が出現したが、のちに粛清される者が多数出るなど失望させられる結果となった。日本は敗戦国であることから植民地統治の後始末にあたる責任から逃れることに成功したため、朝鮮は朝鮮戦争という東西の代理戦争に巻き込まれ莫大な人的物的資源を失った。これらの経緯にもかかわらず、日本の植民地支配が悲劇の原因であるという認識を示す日本人もいた。その反面、植民地解放後も一部の日本人や政治家が「併合は朝鮮人が求め主体的に関与したことで、日本はそれに応じたにすぎない」「あれは植民地支配などではない」「朝鮮統治は朝鮮人のためにやってあげたことで日本人は何らの利益も得ないまま朝鮮人に恩恵を及ぼす一方であった」「感謝してもらいたいくらいだ」という立場をとりつづけ、そのように発言してきたことについては、被害者に侮辱を加えるセカンドレイプ行為を60年間に渡って継続的に行ったものであり朝鮮人を愚弄するものだと韓国では受けとめられている。北朝鮮は戦後の日本の行為についてまで謝罪と償いを求めており、金丸信を代表とする自民党・旧社会党・朝鮮労働党3党共同宣言は「戦後45年間の償い」を盛り込んだ。これが何を指すか明確ではないが、実際に日本の革新派・韓国内の左派ともに、日本政府が植民地支配被害者・戦争被害者に対して何らの対策もとらず「日韓問題は全て解決済み」として現状を正当化しつづけてきたことの道義的責任、それによって被害を拡大したことの不作為責任を追及している。 参考文献 吉田光男_2004 吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学教育振興会、2004年。 関連項目 李王家 一進会 外部リンク 日韓歴史共同研究委員会・第3分科(近現代)報告書 きままに歴史資料集 異なる悲劇 日本とドイツ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年12月20日 (土) 10 50。
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メニュー Münchner Weisswürst Schweinswürstl Wollwürst Herzhafte Käsespätzle mit Röstzwiebeln, Blattsalat mit Hausdressing 栄養あるチーズシュペッツェレ(ヌードルを平たく短く切ってゆでたもの)withたまねぎ味はおいしいが、ちょっとしつこい Gebratene Scheiben vom hausgemachtem Breznknö auf Rahmwirsing angerichtet 手作りのプレッツェルスライス、白菜のクリームと共に頼りない感じだったような。。。 Ofenfrischer Kaiserschmarrn mit Apfelmus 焼きたてカイザーシュマレン(卵入りパンケーキ)withアッフェルムース(りんごのピューレ)ホットケーキみたいなもの Ofenfrischer Schweinebraten 焼きたて豚の焼肉(ローストポーク)ローストポーク。味付けはあまり好きではない Herzhafte Fleischpflan 栄養あるハンバーグ日本と比べると味は劣るが、食べれる。付け合せのジャガイモソテーもバター味でよい Portion Wiener Backhendl mit hausgemachtem Kartoffels ケンタッキーフライドチキンみたいなもの 1/4 Bauernente vom Grill mit Natursosse, dazu 2 kleine Geschmorter Sauerbraten mit , pikanten Sosse, dazu Scheib, vom hausgemachten Brezn Gesottene Ochsenbrust mit Rahmwirsing, dazu Peter Konig Ludwig Klassiker Wiener Schnitzel vom kalb in Butterschmalz gebacken, dazu Rostkartoffeln und Preiselbeeren Zwiebelrostbraten von der Rinderlende mit Rostzwiel immer wieder gut Zarte Berner Rollchen von der Pute, gefullt mit Schinken und Kase, ange, Rahmsosse, dazu Rostitaler Feine Kalbsleber Berliner Art mit gebratenen Apfelscheiben und Rostzwiebeln auf Kartoffelpuree Gebratene Schweinemedaillons Allgauer Art auf hausgemachten E, dazu Rahmschwammerl und Rostz Steak von der Rinderlende mit Krauterbutter angerichtet auf mediterranem Gemuse, dazu Ros Frischer Fisch Gebratene Pangasiusfilet angerichtet Blattspinat, dazu Krauterbutter Petersilienkartoffeln Forelle(gratenfrei) nach Art der Mullerin gebraten, dazu Peterillenkartoffeln Special Portion Stangenspargel mit Sauce Hollandaise, dazu Butterkartoffeln まるごとのアスパラガスのオランデーズソース、バタージャガイモ添え 1人前 (オランデーズソースは卵黄、バター、レモンジュースに調味料を加えて作るマヨネーズに似たソース) 普通においしいです。
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Tier 名称 耐久値 車体装甲厚(mm) 砲塔装甲厚(mm) 最高速度(km/h) 砲塔/車体旋回速度(deg/sec) 視界範囲(m) 無線範囲(m) 6 VK 30.02 (M) 840 60/40/40(傾) 100/45/45 55 30/30 370 710 VK 30.01 (D) 770 60/40/50(傾) 80/45/45 56 32/38 370 710 VK 30.01 (P) 710 75/60/40 100/82/82 60 28/28 370 710 Pz.Kpfw. IV Schmalturm 730 80/30/20 120/60/60 48 24/36 370 620 Pz.Kpfw. V/IV 820 85/40/40(傾) 50/30/30 55 30/38 350 710 Pz.Kpfw. V/IV Alpha 7 Pz.Kpfw. V Panther 1,300 85/50/40(傾) 120/60/60 55 30/32 380 710 VK 30.02 (D) 1,250 80/45/50(傾) 120/60/60 56 24/42 380 710 Panther/M10 1,300 85/50/40(傾) 100/45/45 46 38/38 350 710 8 Panther II 1,500 100/60/40(傾) 120/60/60 55 30/36 390 710 Indien-Panzer 1,300 90/90/45(傾) 90/90/45 50 36/38 380 720 Panther mit 8,8 cm L/71 1,500 80/50/40(傾) 120/60/60 46 32/38 390 550 9 E 50 1,750 150/80/80(傾) 185/80/80 60 30/32 400 710 Leopard prototyp A 1,650 70/35/25(傾) 52/60/60 65 36/42 400 750 T-55A 1,700 100/80/45(傾) 200/160/65 50 46/50 395 730 10 E 50 Ausf. M 2,050 150/80/80(傾) 185/80/80 60 30/44 400 720 Leopard 1 1,950 70/35/25(傾) 52/60/60 65 36/54 410 750
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208: 635 :2022/06/25(土) 15 23 58 HOST 119-171-248-234.rev.home.ne.jp 銀河連合日本×神崎島ネタSS ネタ ゲートの先は神崎島もヤルバーンも無いようです欧州大戦その四 さらばドイツよ。旅立つ艦は、 「キールの超常兵器級と思しき艦艇に出撃の動き…か…。」 英国本土攻撃より二十四時間以上前、戦艦ネルソンの艦橋の艦長席で艦娘ネルソンは紅茶を飲みながら眼前のゼルモニターに映る情報に目をやる。 ネルソンの姿はオークニー諸島スカパ・フローにあった。 そこには旗艦を務めるネルソンだけでなく空母アークロイヤルなどの英艦娘やビスマルクなどの独艦娘、そして英国本国艦隊が集結していた。 理由はドイツキール軍港に超大型艦艇群それもとある創作の超大型光線戦艦や超高速巡洋戦艦等、超常兵器級と思しきモノが存在し動きを見せていたからだ。 他にもそれらより小型とはいえ大型艦艇の存在を複数存在し英国政府や在英鎮守府軍は警戒を強めていた。 故にそれらが出撃した際に対応に当たる為に英国にある水上戦力の大半がこの英国の北の果て下りまで来ているのだ。 現在英国本土に残っているのはもしもの時の為のウォースパイトとヴィクトリアス、J級駆逐艦ニ名、欧州棲姫ら深海棲艦そして大鷹達海上護衛部隊くらいなものである。 「…しかし気掛かりと言えば欧州本土、ベルギーやオランダ、フランスのダンケルクにもドイツは戦力を移動していると聞く。 アシカ作戦などということにならねば良いが。」 フムウーと言った感じで顎に手を当て考え込むネルソン。 そこへ艦橋の通信員がネルソンに明朝出撃命令が下ったと話しかける。 「フムそうか…。」 ネルソンはその言葉に最果ての海を見やる。 この先、北海の海がが戦場となるのだ。 明朝、全ての艦が錨を上げ北海を目指す。 そして戦闘の数時間前、ネルソンは己の浅慮への怒りから噛んだ唇から血を流すこととなる。 ことは第二次ゼーレヴェー、ネルソンのその想像の遥か斜め上の事態だった。 ドイツによるフランスでの核兵器使用、ドイツ艦隊より分離した超高速巡戦部隊、超巨大光学迷彩戦艦による米本土攻撃。 そして英国本土空襲時、ジェーナスとジャービス及び多数の深海棲艦が大破し残存英国本国艦隊に轟沈艦発生。 空挺作戦によるロンドンへの侵入と市街戦展開、そしてバッキンガム宮殿への吸血鬼の突入の報を艦上で聞くこととなる。 史上初めて行われたのだ、英国本土決戦が…。 ドイツ連邦共和国キール軍港、そこには多数の大型艦艇が停泊していた。 だがその多くが錨を用いたり埠頭のボラードやドルフィンにロープ等で船を停泊させるばかりか、 何か恐れる様にその船体を稚拙なルーン文字らしき意味も力も持たない模様の刻まれた鎖で雁字搦めにされされている。 そこへドイツ軍の軍人達が恐る恐るといった様子の大勢の外国人や民間人らしき人々を引き連れやって来た。 外国人や民間人達は皆痩せ細ったり、怪我を負うなどしている。 彼らはヒソヒソと話し合う。 「しかし本当に脱出出来るのか…?」 「それでもこれに掛けるしかない…このままじゃ収容所で死ぬのを待つだけだ。」 「助けてくれたドイツ軍の人も言ってたな。ドイツがイギリス本土攻撃に全力で向いてる今が最後のチャンスだって。」 民間人を引き連れた軍人の内、陸軍軍人と思われる人物が海軍と思われる人物に問う。 「ここにあるのが?」 「ああ、大光線や疾風が出現したと同時期に現れた戦艦だ。 大光線やここのはあの第四帝国首相殿が平行世界から魔法で呼び出したなんて与太にも出来ない話がある。 日本の架空戦記やゲームのオタクなんかが言うには大光線なんかは超常兵器級なんていう宇宙戦艦みたいな力と人外の意思持つ化け物みたいな兵器らしい。 だがここにあるのはそれより小型な十万トン級から二十万トン級。 デカイはデカイがあくまでも第二次世界大戦から冷戦期の技術の範疇の通常兵器らしい。 だから首相殿が召喚に失敗したモノの墓場とあの騎士団サマ方は揶揄してる。」 「いや失敗作だったらなんで壊したりせずにこんな封印するようなことを?」 「恐れてるんだよ。この艦達を壊したり沈めたりするのを。」 「何故に?」 「それは…ああっと!この艦だ。この艦。」 209: 635 :2022/06/25(土) 15 24 49 HOST 119-171-248-234.rev.home.ne.jp ドイツ軍人達は二十インチ砲三連装三基を艦橋前方に集中配置した巨大戦艦の前で止まる。 「コレ?あっちのもっとデカいのじゃだめなのか?」 「あっちは動かすだけならともかくやり合うには人員が足りん。それにあのサイズだ客船や輸送船で足りない脱出する人間乗せるだけ乗せる予定だからな。」 「そうか…そういえば機関とか大丈夫なのか?蒸気タービンとかいう話だろ?」 「まだ生存しておられたZ1級乗員やリュッチェンス級駆逐艦の蒸気タービン扱ったことがある機関員や民間の旧式蒸気タービンLNG船の乗員掻き集め今回使用する艦艇分どうにか…ってとこだ。 それに…あの化け物艦艇共がイギリスに向かった今しかチャンスはない…。」 そしてその戦艦の艦橋を見上げドイツ海軍軍人はまるで目の前の艦に人格があるように話しかける。 「敵さんに操られて癪かもしれんが日本人も脱出させるためだ…力貸してくれ…。」 その眼には映らぬが艦橋の上から見下ろす視線があった。 その視線の主、この場に似合わぬ百合模様の着物を着た黒髪の日本人の少女は軍人達を静かに見下ろしていた。 その戦艦の艦橋、陸海空と節操ないドイツ軍人達が動き回る中、ドイツ海軍の制服を着せられ艦長席に座る一人の日本人の男の姿があった。 その姿はドイツ軍人達に比べ痩せ細ってはいたが背の背筋はピンとしており軍やそれに準ずる組織に在籍しているのが一目で分かる。 それもその筈、彼は海自の二等海佐の自衛官でありフランス大使館付の防衛駐在官であった。 ドイツによるヨーロッパ侵攻時に同盟国(同じEU)故にまだ安全と思われたフランス・パリにいた彼はドイツ軍、 いや憂国騎士団に捕らえられ強制収容所に入れられたが今日まで何とか生き残ってきた。 その彼が何故戦艦の艦橋にいるのか。 「サイトウ司令。避難民収容完了、全艦乗員配置に付き出撃準備整いました。」 この場のドイツ軍人達のトップ、海軍軍人が自衛官を司令と呼び、それに自衛官は苦笑で答える。 何故日本人かと言えばこの艦が日本の艦であったからだ。 そして軍人達にとってこの戦争、主義主張や経済対立による人間同士の戦争ならばまだ良かった。妥協点が見いだせるからだ。 だが人間の皮を被った悪魔、いやそれは悪魔に失礼であった、人間の皮を被ったナニか(憂国騎士団)による略奪や暴行が溢れかえった西部戦線に人を生贄に捧げた無人機や化け物が闊歩する東部戦線。 そして本土の民間人は明らかにその精神や脳を弄くられのではないかという者が少なくない。 昨日まで愛し合っていた夫を妻を恋人を子を無実の罪で国の為にと泣き叫ぶ彼らを心底喜ばしいという笑顔で政府に渡していく常軌を逸する光景がそこかしこで見受けられた。 正常な者もいるがそれを指摘することは出来ない、した瞬間に自分が同じ目に合うからだ。 そしてそれを幸福なことだと弄くられた彼らはするだろう。 ドイツという国はそれだけのことを成したのだ。 だからこそドイツ軍人達は立たねばならなかった。 ここにいる軍人達は身軽な者ばかりあるものは家族を失い、ある者は独り身、或いは家族共に或いは残る家族に押されてここにいる。 ドイツ人として僅かな者であろうとも抗らわなければならないという義務感からここにいる。 その時艦橋に痩せこけ死相すら出ている一人の男が入り、兵士の一人が呟き全員が敬礼を行う。 「国防大臣…。」 「楽にして貰って良い。最早私は大臣とは言えないよ…戦争を防げず、お飾りと化した今の私には…。」 兵士の呟きにその自嘲気味に男は答える。 それでも兵士達は敬礼を止めない。 現在この狂った国で唯一のまともな政府の人間が彼だからだ。 まあ全ての権限を奪われ最早御飾りと化しているのだが、それでも前線で戦う軍人達の為に尽力を尽くした。 しかし、彼は国防大臣であるのに戦争に関与も止めることも出来ずそれに苦悩して体調を崩していた。 そこまでして何故解任しないのかといえば首相殿がまともな人間が苦悩で弱っていくその姿を見て悦に浸っているというのが専らの噂だ そんな噂される国防大臣が口を開く 210: 635 :2022/06/25(土) 15 25 33 HOST 119-171-248-234.rev.home.ne.jp 「君たちは…やはり行くのかね…?」 海軍軍人は答える。 「はい大臣、私たちは行きます。」 「この艦でキールを出た時点で君達はドイツ連邦の反逆者と見なされる。それでも行くのかね?」 「いえ、国防大臣。私達は反逆者として行くのではありません。私達はドイツ軍人としての義務を果たす為に行くのです。」 「ドイツ軍人としての義務…。」 「かつての大戦の反省としてドイツ軍人はドイツという国の出した人間の尊厳を損なう命令に対して抗う義務を負います。」 かつての大戦を反省とすべきそのドイツがソレ以上のことをしでかしてしまいましたが、と軍人は自嘲しながらもその瞳に熱いものを映し言葉を続ける。 「そして…彼らの様に戦いたいのです。」 「……。」 「人間の尊厳を辱めるのではなく、人間の尊厳を守る様な戦いを。あの対馬の彼らの如く」 ヒーロを夢見る子供の様に海軍軍人は言葉を漏らす。 そしてそうかと言うと国防大臣はその場を立ち去る為に踵を返し、その途中でそうそうと背中を軍人達に向けたまま話す。 「どちらにしても君達が行くならば私は止めなければならない…。」 「……。」 「…が、それが君達の義務であるならば仕方あるまい。」 「……。」 「ADM級二隻、私の権限で動かせるのはそれだけだ…それと銃後のことは出来うる限り受け持とう…。」 「…?」 「ドイツ軍人の、いやドイツ人として…いや違うな人間としての義務と責任を果たしてきたまえ。」 「!!」 その国防大臣の言葉にその場にの全員が再度敬礼する。 そして艦橋を出る間際大臣は振り向き体を自衛官に向けその罪を焼き付ける様にその身体を見ると文民故のぎこちない敬礼をする。 「貴方達にあの様な扱いをした我々ドイツ政府にその様な資格がないのは重々承知しています…しかしどうか彼らのことを頼みます…。」 そう言うと大臣は艦橋を後にし、自衛官は無言で敬礼を以て見送った 211: 635 :2022/06/25(土) 15 27 52 HOST 119-171-248-234.rev.home.ne.jp 以上になります。転載はご自由にどうぞ。 なお人間の尊厳を犯す命令に抗命することは実際にドイツ軍人の義務です。
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集結と襲撃と殺し合い 「イタリア………無事だろうか?いや、ここは殺し合いだ。 つまり戦場、あいつへの訓練にはピッタリだ。 そして俺に対する試練か何か、俺はこのまま殺し合いを続けるか続けないか」 イタリアを心では心配するも、彼には戦場という意識が殺し合いを引き立てられる。 そう、彼こそ三国同盟の内の一人のドイツ。 真面目に戦の訓練をし、イタリアにも訓練を仕掛けてもサボられる。 電話に出ればイタリアの救助要請の声。 内心、早くどこかへ行ってくれと初めに思ったイタリアだが心配になるのはどういったことか。 ドイツにはよくわからなかった。………が、今は現実を見る。 ここは殺し合いという意識、殺し合いをせずに生き残る事は不可能か? 確かにしないと人数も減らず、もし殺し合いに乗らないなら乗る者にやられるのがオチだ。 それに自分は軍人であるというドイツのプライドとして、殺し合いに乗らずにいられない。 自分の手にある物が、本格的な殺し合いの戦場をより感じさせた。 軍人として馴染み深いそれは銃器。 ハンドガンだが、十分殺し合いに役立つアイテムだ。 名前なんてないハンドガン、バイオハザード作品verである。 これで殺し合いに不安要素はなくなった。 (とりあえず………殺し合いを続けてみるか。 イタリアの奴と日本がいた場合は同盟として手を組むか………? いや、日本の奴なら忠実に殺し合いを続け、俺をも殺す可能性があるな…) 三国同盟の中とはいえ、ドイツは日本を警戒する気持ちを持つ。 イタリアという存在は既に役立たずとして期待をしていない。 まずいるかどうかも分からない状況だが、もしいたらの話。 日本は真面目な為に殺し合いに乗る確率大の考えに、 イタリアは例外の考えを持って行動をするのが吉。 他の国がいる可能性を考えなかった事はどう出てしまうか………。 (イタリア………あいつが生き残る確率などないに等しいからな………。 だから訓練しておけと、急な展開に対処が出来ないだろうが………) やれやれといった感じで、ドイツはイタリアの未来を予想した。 その通り、イタリアが生き残る可能性など考えなかった。 いや、ドイツにとって旧友・同盟国とはいえ信頼は出来なかった。 助けなどいらない、日本も同様の考えを持つとドイツは考えている。 三国同盟であったイタリア・ドイツ・日本の関係。 それは、この場じゃ同盟も関係なくて………。 ただの敵でしかなかった。 ドイツの意志は三国同盟を考えず、ただ全参加者が敵の考え。 幾ら向こうが攻撃をしないとしても、殺し合いに乗ったドイツに関係などない。 もう決めてしまったのだ。殺し合いの覇者となると。 だから解りきっている。幾らイタリアが生き残ろうが何時かは殺さなくてはいけないことを。 自分の手で殺すのは気が引く、ドイツとしては勝手にどこかで死んでくれだった。 ドイツはやはり問題は日本と考えた。 自分の考えが外れ、日本が殺し合いに乗らず前に現れた場合どうするか。 好都合、そのままこっそり奇襲で殺害すれば良い話だ。 実際、上手くいくとは思わないが………。 (とにかく………今は目の前に集中するか) ドイツは銃の標準を合わせた。 その先にいるのはもちろん参加者、殺害するのだ。 狙いを定め、後は引き金を―――――。 「………させない」 その瞬時、ドイツの持っていた銃は地に落ちた。 銃が落ちた音が鳴り、下にいた獲物は音には気付かなかった。 急な奇襲、音も立てずにするなどドイツには考えられなかった。 日本であれば忍者の一種と認識するであろうが………。 とにかく前に出てきた者は小柄な体格をした男だった。 こんな深夜帯で真っ暗な時間に確実に狙いをドイツに向け奇襲を放った。 ドイツは、銃を拾う事を諦めて抵抗をやめる。 「俺をここで殺すか?」 「………ツケ」 「………ツケ?」 「……………」 小柄な男は静かに頷いた。 相手はここで殺さず後で恩返しを望んでいる。 それを理解するのに時間かからず、ドイツはそれを、 「ふむ、いいだろう」 了承した。 「一言………殺し合いには乗るな」 奇襲をした実力者であろう相手は殺し合いに乗るなと言って来た。 これが相手の所望する条件だろうとドイツは認識する。 だが、ドイツは決めてしまっている。 既に俺は殺し合いを生き残るのだと。 「断る、ここは戦場だ。戦場で戦わぬ者は命を散らすだろう。 戦場にいてコソコソ攻撃もせず移動した所で生き残れはしない」 「……………後でどうなっても知らない」 最後にこっそり呟いて相手は消えて行った。 消えたというより、去って行ったが正しいが………。 彼が最後に言った言葉はドイツの耳に届いていた。 だからドイツは最後に言われた言葉に意味を考えていた。 後、それがどのくらい後なのか? 解りはしない、だが生き残る為に殺し合いは続けなくてはならない。 言った通りに殺し合いに乗るなという条件は断る。 この先も同じ。誰がどう言おうが殺し合いには乗り続ける。 殺し合いをしないのはイタリアと同じ、世話のやける奴。 戦場にいる意味も何もなく死んで行く。 ドイツはそう信じる、だから再び決心する。 殺し合いを続け、覇者となると………。 イタリアも殺す対象、ドイツはこの先に心の迷いも感じないだろう…。 【H-8 - 妖怪の山】 【ドイツ@ヘタリア Hetalia Axis Powers】 【状態】健康 決心 【服装】軍服 【装備】ハンドガン@バイオハザードシリーズ 【道具】基本支給品 不明支給品1~3 【思考】基本思考:殺し合いを続け、この戦の覇者となる。 1、イタリア含め、誰であろうが殺す。 2、殺し合いをしない者、命は散るであろう… ※日本が殺し合いに乗ると推測しています。 さて、ドイツに奇襲を仕掛けた男は………。 そして何故、ドイツの居場所を把握して奇襲を仕掛けたか………? 少し時は遡る………。 小柄、だが素早い動きで召喚獣戦争で活躍をした。 得意科目保健体育、写真機を手に女子のスカートの中を狙う。 そんな彼についた名こそがムッツリーニ。 ムッツリという単語と、イタリアという国でファシズムを起こした人物、 ムッソリーニをかけた名前だ。 学園内でも知られ、ムッツリーニの正体の本名こそはあまり知られない。 あだ名の力が強すぎる結果である。 得意科目が保健体育なだけあって『それだけ』得点は高い。 彼はFクラス、他の科目は観察処分者である吉井明久より酷いらしい………。 保健体育科目が高い他、さすがの動きでまるで忍者。 身体能力はかなり高いのだ。だが、彼はその高い能力の使い方を………。 ムッツリスケベなので女子のスカートの中をギリギリ見ようとする。 そして鼻血を大量に出し―――だが写真に撮っておき、 裏で写真を商売している。明久もそれを購入する事もある。貧乏な癖に………。 彼こそ、Fクラスに潜むムッツリーニ 土屋康太である。 土屋が殺し合いの地へと立つ、まず何が起こったか? 考えても解る気配無しだったのはさすがのFクラスだろう。 とにかく行動と、少し歩いて見ると土屋の好物女子発見であった。 いつのもようにこっそり背後へ回って―――と思った時に気づいた。 持っていたカメラがない事に。 (これでは………仕方ない、カメラを探すか) 土屋は決意をして、少女のスカートを諦めて普通に接する事とした。 目で普通に見るだけでも良かったが、今の場を考えた。 殺し合いという単語のみよく聞こえた。 悪い印象が命取り、馬鹿でもさすがにそれは理解した。 土屋がゆっくりと近づいて行く。 少女はそれに気付いて来るなといった表情になっていた。 「………大丈夫、襲わない」 「………へ?」 怖かったか、かなり泣いてたようだった。 土屋は、とりあえず落ち着くまで少女の傍にいる事とした。 またまた時は遡る………。 土屋が来る前、つまり殺し合いに到着した頃だ。 胸ぺったんこ!………のようで、ただ背と性格は子供の彼女。 とある学校では人気投票で生徒会のメンバーに決まるらしい。 4人が決まる+成績1位の優良枠として一人の計5人での生徒会。 珍しい生徒会の決まり方だ。その人気投票1位が生徒会長となる。 ここで泣き喚く彼女こそが生徒会長、桜野くりむである。 赤ちゃんと呼ばれる、だが性格は本当にお子様。 背も小さく、まさに幼児体型。 そんな身体の構成というが、胸はそこまでぺったんこな訳じゃない? 他の生徒会メンバー3人の女生徒には劣るが………。 もちろん、一人男子の彼よりかは大きい。 その男子がエロゲにはまるきっかけを作ったのが生徒会長である。 性格が子供の彼女に、殺し合いへの理解は絶望だった。 まるで何が起こったかいまだ把握も出来ず、ただ周りが真っ暗。 誰もいない外で一人、地面に座っている。 怖い話は苦手、でも生徒会長として怖くないと見せる様に振舞ったこともあった。 でも今は耐えられない恐怖でいっぱいだった。 どこか知らない場所で真っ暗、一人ぼっちなのだ。 幽霊か何かが出ないでと願いながら気付けばくりむは泣いていた。 強く強く泣きながら願ったものの、足音が聞こえて来る。 怯えて、逃げようと思っても足がすくんで動けない。 このまま幽霊に何かされてしまうかと思ったくりむにかかった声は普通の人間のものだった。 幽霊と思い込んでいた為、声がしたのが不思議と感じたが前を見れば手を差し伸べてくれていた。 その手をゆっくり掴みに行く、掴んだ瞬間に安心感が湧いた。 数分の間、ギュッと手を握った後に疑問が一つ。 前にいるのは誰? 男の声、でもこれは杉崎でもない誰か別人。 「だ、だりぇ?」 何故か噛んだが、相手は気にせず名前を言って来た。 「土屋康太………」 土屋康太、そんな名前の生徒はいなかったと思える。 全校生徒の名前を覚えてる訳じゃないが、よく見れば制服が違う学校だ。 どこの学校の制服かも解らない。でも感謝している。 一人ぼっちが怖くて動けない所を彼は手を差し伸べて助けてくれた。 「………っ、少し待っておけ」 「え?」 待ってと言う前に彼は消えていた。 また一人ぼっちになってしまった。 後を追おうにも急に消えて前にいったか後ろにいったかもわからない。 ただ、また戻ってしまった事、一人ぼっちになったことから、 自分は見捨てられたと勘違いをしてしまう。 今気付いたデイバッグの中を見るとアイスピックがあった。 何でこんな物があるのか知らないけど、自分を見捨てた彼を――― (少し?)恨んだ………。 恨みとは時に殺害を招く。 くりむの意思は殺害へ傾いてしまうのか? ………それとも 「獲物を置いてどこか行っちゃうなんて、お馬鹿さぁん」 前にいる人物に狩られてしまうのだろうか? 【H-8 - 妖怪の山】 【桜野くりむ@生徒会の一存】 【状態】健康 恐怖 恨み? 【服装】碧陽学園制服 【装備】アイスピック@現実or四八(仮) 【道具】基本支給品 不明支給品1~3 【思考】基本思考:??? 1、一人ぼっちにしないで………! 【H-8 - 妖怪の山】 【土屋康太@バカとテストと召喚獣】 【状態】健康 【服装】文月学園制服 【装備】不明 【道具】基本支給品 不明支給品1~3 【思考】基本思考:殺し合いはしない 1、くりむの元へと戻る。 【H-8 - 妖怪の山】 【水銀燈@ローゼンメイデン】 【状態】健康 【服装】黒のゴスロリ 【装備】不明 【道具】基本支給品 不明支給品1~3 【思考】基本思考:??? 1、お馬鹿さぁんが残した女を殺す。 【アイスピック@現実or四八(仮)】 現実にある通りのアイスピック。何の仕掛けもない。 どこぞのクソゲーでは、東京シナリオに武器として出ました。 『忍』というヤンデレな二次元の彼女がPCから出て来て修を殺すのです。 sm002 H,A,P,ヘタリアはヘタレなのか? 投下順 sm004 Cagayake!GIRLS START ドイツ sm [[]] START 土屋康太 sm [[]] START 桜野くりむ sm [[]] START 水銀燈 sm [[]]