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※参考元: 研究資料一覧 - 大局将棋を指しましょう まとめWiki 古将棋の歴史的史料 平安 平大 小 中 大 大大 摩訶 泰 天竺 和 大局 禽 広 正 四方 七国 二中歴(未編集) ○ ◎ 普通唱導集(未編集) △ △ 象戯図(未編集) ○ ○ ◎ ◎ ◎ ◎ 象棊纂図部類抄(未編集) ○ ○ ◎ ◎ ◎ ◎ 諸象戯図式(未編集) ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 古今将棊図彙(未編集) ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ○ ◎ △ △ 象棋六種之図式 △ △ ◎ ◎ ◎ ◎ 象戯図式(未編集) ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ △ △ △ 大局将棋駒(未編集) ◎ 禽象戯図解(未編集) ◎ 広象棋譜(未編集) ◎ 七国象棋図(未編集) ◎ ◎は全ての駒に行様と配置の記載があるもの ○は行様・配置の何れかが欠けているもの △は言及のみ 『二中歴(未編集)』 1210年~1221年頃 尊経閣文庫 鎌倉時代の事典。写本のみ伝わる。 「第十三 博棊歴」に平安将棋と平安大将棋の説明あり。 該当部分は『二中歴3(尊経閣善本影印集成16)』(八木書店・1998)に収録。 『普通唱導集(未編集)』 永仁~正安年間(1297~1302) 東大寺図書館 いわば僧侶のスピーチガイドだが、その中の職業別追悼文例集のところに、 「小将基」指しと「大将基」指しが別項目として立てられている。 鎌倉期には大将棋が実際に指され、更に専門家も存在したことを示す重要史料。 村山修一『普通唱導集 翻刻・解説』(法藏館・2006)で閲覧可能。 『象戯図(未編集)』 天正19年(1591) 水無瀬神宮 水無瀬兼成著。小将棋~泰将棋。和将棋、天竺大将棋はなし。 大型将棋から現行本将棋への移行期の様子を語る史料として重要視されている。 『象棊纂図部類抄(未編集)』 天正20年~文禄2年(1592~1593) 東京都立図書館特別文庫室 水無瀬兼成著。『象戯図』の写本とされている。自序題には「象戯圖」とある。 「猫叉」「鉤行(釣行ではなく)」の表記あり。 『諸象戯図式(未編集)』(初版) 元禄7年(1694年) 所在不明 元禄9年版と微妙に違うらしい。増川宏一氏は見たらしいが所在不明。 同氏の著した『将棋1』の参考文献を見る限り、これは1915年版の『諸象戯図式』に載っているようであるが、詳細不明。 『諸象戯図式(未編集)』(重版) 元禄9年(1696年) 国立公文書館内閣文庫 小将棋~泰将棋。「踊」の定義あり。 西沢貞陣(太兵衛) 著の4巻本で、1巻は各種将棋の解説、2巻以降は詰将棋集。 『古今将棊図彙(未編集)』 元禄10年(1697) 東京国立博物館 小将棋~泰将棋。正象戯・四方象戯についての記述あり。 「胡時鳥」の表記あり。 『象棋六種之図式』 文政4年(1821) 国立国会図書館(目録では『大象棋絹篩』) 小将棋~泰将棋。和将棋、天竺大将棋はなし。 『雑藝叢書』(国書刊行会・1915年)に楷書活字体で翻刻したものが全部収録。 絶版だが図書館等で閲覧可能。 『象戯図式(未編集)』 年代不明 所在不明 一部閲覧可能 小将棋~泰将棋。唐将棋、七国将棋、廣将棋、大局将棋の名称あり。 『将棋1(ものと人間の文化史23-1)』(増川宏一・法政大学出版局)に一部収録。 収録されているのは松浦大六筆写の1909年のもの。なお同名の書物多数。 『大局将棋駒(未編集)』 年代不明 行方不明 閲覧不能 大局将棋。大橋家の古文書。失われた聖典。 以前は関西将棋会館内の将棋博物館にあったが、博物館が閉鎖。 他の所蔵物と共に大阪商業大学アミューズメント産業研究所に移管されたと思われていたが、 2ch大局将棋スレッド住民の問い合わせにより、実際には移管されていないことが判明。現在行方不明。 他の大橋家の古文書と共に、大橋家末裔の井岡伸行氏の元に返還された可能性が高い(参考:増川宏一『 大橋家文書 の研究』法政大学出版局、2021年)。 『象棋十三種(未編集)』 年代不明 所在不明 三井家の資料らしいが詳細不明。岡野伸氏は見ている模様。 大将棋、15×15、36種類、142枚 大将棋(中大将棋)、15×15、32種類、138枚 前後大将棋 25×25 88種類 360枚 についての記述があるという。 『禽象戯図解(未編集)』 天保4年(1833) 大阪商業大学、国立国会図書館 大橋宗英の考案と言われる禽将棋の解説書。 『広象棋譜(未編集)』 明和7年(1770) 国立国会図書館 荻生徂徠の作と言われる、囲碁の道具を利用して行う将棋。 『七国象棋図(未編集)』 安永5年(1776) 国立公文書館 司馬光の考案と伝えられる七国象棋について記されている。 中国の戦国時代を模しており、3~7人で遊べる。
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☆このページでは、霧雨の野望に関する名所・名跡を紹介します。 稲葉山城 後の岐阜城。築城は鎌倉時代に遡るが一度は廃城となり15世紀頃に再建。 戦国時代に入り道三以下斎藤氏三代がその居城とすると歴史の表舞台に登場。 「岐阜」は信長が大陸の故事にちなみ天下への大望を込めてつけた名とされる。 後の天下人・徳川家康はその名を嫌い関ヶ原戦後の1601年に岐阜城を廃城。 各種創作では難攻不落の名城として語られる事が多いが、史実ではなんと竹中半兵衛による電撃占拠も含めて6回も落城が記録されていたりする。 今の模擬天守は標高329mの位置にあり観光客は麓からロープウェイを使う。 資料館や展望台等が完備されており、史跡と言うより観光名所の性格が強い。 ちなみに最近の研究では『斎藤道三』は父子二人いた、とする説が有力になっていたり。 つまり、この説が正しい場合は稲葉山を支配した斎藤(長井)家は四代続いたという事に。 この血筋は長井道利の位置づけも未だはっきりしなかったり、まだまだ謎が多いらしい。 なお、最後の落城は関が原の合戦の時。城主は織田信長の孫、かつて三法師と呼ばれた秀信だった。 城兵二千五百は池田・福島らかつての織田系武将を先鋒とする東軍の攻撃によく防戦したが、衆寡敵せず敗退。 戦後、岐阜十三万石は没収されて秀信は高野山に送られ、織田宗家はここに断絶した。 清洲城 清洲は清須とも表記。築城は1405年。 室町時代には尾張の首府として栄えたが後に徳川家康によって廃城とされ中部地方の中心の座は名古屋に移る。 戦国時代には尾張守護代織田宗家の当主である織田信友が入城していたが、信長が奪い大改修を加えて本拠とした。信長死後の清洲会議の舞台でもある。 現在の清洲城は再建された模擬天守。しかし、櫓・門など当時の建築物は多くが移築再利用され愛知県内各地に残る。跡地・清洲公園は桜の名所として有名。 なお、尾張領内には太郎太刀の現存でも有名な熱田神宮がある。革新の全国一枚マップにはこう言った各地の名所が配置されていたりします。 いわずと知れた尾張守護代家、織田家の本城。ただし、信長の織田家は清洲織田家(=宗家)の家老を努める分家筋だったりする。そんな訳で結構有名な割に、信長の居城としては八年のみ利用されただけ。おのれ稲葉山。 吉田郡山城 安芸毛利氏の居城。築城は南北朝期。 元就の代には現在の郡山全域に及ぶ広大にして難攻不落の城郭が築かれ、尼子晴久率いる三万の大軍をも撃退。 やがて毛利氏が中国地方の覇者として繁栄を迎えると城郭もそれに伴い発展。 輝元の代には石垣や櫓なども築かれ毛利氏の本拠に相応しい偉容を誇った。 しかし戦国乱世が終息に向かうにつれて難攻不落ゆえの交通の不便が表面化。 以後、毛利氏の本拠としての役目は1591年完成の広島城に譲る事となった。 鎌倉幕府が後醍醐帝のクーデターで崩壊した直後、建武三年の築城とされる。 初代城主は毛利時親で、源頼朝の側近であった大江広元のひ孫にあたり、安芸へは地頭職としての赴任であった。 なお、毛利家は本来東国の豪族だが、北条時頼と三浦氏とが権力を争った宝治合戦で毛利氏が三浦氏方に付いた為、お家滅亡に近い状態になっていた所からの再起だった(NHKの大河『北条時宗』を覚えてる人もいるだろうか?) どうも、明治維新までは天下分け目の合戦で負け組につくのが毛利氏のパターンだったらしい。 春日山城 越後上杉氏~長尾上杉氏の居城。築城は鎌倉期とも南北朝期とも。 謙信の父・長尾為景が入場すると長尾氏の本拠として大改修を施した。 乱世にいち早く対応したその城郭は、鉢ヶ峰の頂に構えた本丸を中心に山裾まで 曲輪や屋敷などをずらりとならべ山ひとつを丸ごと要塞化した物。 山城としては国内有数の規模を誇り難攻不落の堅城として名を残すが、 やはり天険ゆえに交通の便が悪く泰平の世にその偉容は残らなかった。 「天地人」の影響もあり人気の史跡だが本丸跡へと至る道はちょっとした登山。 歩き慣れていない人が観光気分で臨むと間違いなくバテバテになるのでご注意。 岩村城 築城時期は不明。岩村遠山氏の居城。城主・岩村景任が病没すると、 養子が幼少のため景任の妻であるおつやが事実上の城主となる。 武田方の将、秋山信友は岩村城の攻略にあたり懐柔、篭絡策を選択。 美貌でも知られたおつやの方を妻に迎えることで岩村城を開城せしめた。 おつやの方は信長の叔母でもあったため、この行為は信長の逆鱗に触れる事に。 後に信長が岩村城を奪還すると、秋山夫婦は逆さ磔の極刑に処された。 策謀だったのか、本当の恋愛だったのか、今となっては知る術は無い。 現在は日本三大山城に列され、立派な石垣が当時の面影を伝えている。 創建時期は不明だが、鎌倉時代には既に行政を行うための館程度の物はあったと思われる。 代々の城主は遠山氏であった。典型的な中世山城であったのだが、 後に川尻秀隆や森氏の家老の各務元正によって石垣造りに大改修された。 そのため、山城であるにも関わらず江戸時代にも藩庁として利用された珍しい城である。 遺構の多くは織豊時代のものだが、城の基本設計である縄張自体は戦国時代のものもかなり残っている。 本丸から眺めは戦国時代を感じさせる。 六段壁や本丸周辺の石垣など見所の多い城であるが、注目して欲しいのは石垣の積み方である。 野面積み、打ち込みハギ積み、切り込みハギ積みという三種類の技法が使われている。 これは、石垣が作られた年代が違うからである。 戦国好きで名古屋圏にお住まいの方は一度行ってみてはどうだろうか。 城好きならば半日を潰してでも行く価値はあるだろう。麓からでも25分ほどで登れてしまう。 虫の少ない秋の紅葉の季節にでも是非。
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問題文 解答 補足 3世紀頃の日本の記載がある中国の書物は? 魏志倭人伝 10世紀前半に醍醐天皇と村上天皇が治めた天皇親政の治世を何という? 延喜・天暦の治 15世紀末に与那国島を支配していたとされる女性首長は? サンアイ・イソバ 17世紀に日本人として初めてエルサレムを訪問し「日本のマルコ・ポーロ」と呼ばれた人物は○○○○○○○・岐部? ペトロ・カスイ 608年、遣隋使・小野妹子の帰国と同時に来日した隋の答礼使は誰? 裴世清 614年に最後の遣隋使を、630年に最初の遣唐使を務めた飛鳥時代の官人は? 犬上御田鍬 643年に蘇我入鹿が攻め滅ぼした聖徳太子の子といえば? 山背大兄王 645年、大化の改新を断行した中大兄皇子が遷都した都は? 難波長柄豊崎宮 743年に出された新たに開墾した土地の私有を永久に許可した法律は? 墾田永年私財法 769年に「道鏡が皇位に就けば天下太平になる」という宇佐八幡宮の神託を称徳天皇へ奏上した、大宰府の主神は? 習宜阿曾麻呂 769年の道鏡事件で失脚した和気清麻呂が、大隅国に流罪となった時に改名させられた名前は? 別部穢麻呂 わけべのきたなまろ 815年に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族の名鑑は? 新撰姓氏録 829年に空海が開いた日本最初の私塾は? 綜芸種智院 しゅげいしゅちいん 1189年に、源頼朝軍と奥州藤原氏の軍が戦ったのは「○○○○○の戦い」? 阿津賀志山 1318年末から翌年にかけ執権・北条高時が行わせた題目宗の僧・日印と他の諸家による論争を何という? 鎌倉殿中問答 1336年に後醍醐天皇に敗れ九州へと落ちのびる途中で足利尊氏が武士の支持を得るために出した法令を何という? 元弘没収地返付令 1487年と1491年の2度、近江守護だった六角高頼が室町幕府から追討されたことを「○○○○○の乱」という? 長享・延徳 1968年に金錯銘鉄剣が出土して有名になった埼玉県行田市にある前方後円墳といえば? 稲荷山古墳 2011年に、弥生時代の水田跡から国内最古のコウノトリの足跡が発見された、大阪府にある遺跡は「○○○○○○遺跡」? 池島・福万寺 2016年に、世界最古とされる約2万3000年前に作られた貝製の釣り針が出土したのは沖縄県の○○○○洞遺跡? サキタリ 「1988年に出土したガラス玉が古代ローマで製造されたものである可能性が高い」と発表された京都府長岡京市の古墳は? 宇津久志古墳 「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」という望郷の歌で知られる、唐で死んだ奈良時代の遣唐留学生は? 阿倍仲麻呂 足利義満に仕えた日明貿易で活躍した商人は? 楠葉西忍 ウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンを乗せて1600年に豊後国へ漂着したリーフデ号の船長は誰? カーケルナック 江戸時代まで神道家の間で『古事記』『日本書紀』と並び重要視されてきた、神代から推古天皇までを扱った歴史書は? 先代旧事本紀 鎌倉時代、書道の一派である青蓮院流を創始した伏見天皇の皇子といえば? 尊円入道親王 鎌倉期に流行した社寺の縁起絵巻のうち最も流布したものの一つで菅原道真の生涯を描くのは? 北野天神縁起絵巻 鎌倉時代に藤原定家が編集した「八代集」最後の和歌集は? 新古今和歌集 鎌倉幕府の執権・北条時宗がモンゴル軍の襲来に備えるため九州の御家人に命じた役職は? 異国警固番役 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が始めわずか2年あまりで崩壊した政治を何という? 建武の新政 桓武天皇の時に征夷大将軍になり東北経営に務めた武将は誰? 坂上田村麻呂 紀元57年に倭の使者が中国に赴き光武帝から印綬をうけたことが記されている出典といえば? 後漢書東夷伝 口分田の不足をおぎなうために723年に出された開墾奨励法を何という? 三世一身法 建武の新政で設けられたおもに領地に関する問題を扱った訴訟機関を何という? 雑訴決断所 元寇の後に困窮した御家人を救うために鎌倉幕府が出した法令は? 永仁の徳政令 現在の奈良県明日香村にあったとされる、大海人皇子が造営し673年に天武天皇として即位した場所は? 飛鳥浄御原宮 後三条天皇が発布した「延久の荘園整理令」で、荘園整理の実務を行った機関を何という? 記録荘園券契所 古代史の重要な資料である聖徳太子に関する伝記や系譜を集めた書物は? 上宮聖徳法王帝説 最後の遣唐使に従って唐に渡った円仁が著した見聞録は? 入唐求法巡礼行記 ザビエルによって洗礼を受け安土桃山時代に、日本でのキリスト教の拡大に大きな役割を果たした日本人イエズス会員は? ロレンソ了斎 聖徳太子の生母として知られる用明天皇の皇后は? 穴穂部間人皇女 聖徳太子の往生を偲んで作られた『中宮寺天寿国繡帳』に残される仏教思想の本質を述べた聖徳太子の晩年の言葉は何? 世間虚仮唯仏是真 せけんこけゆいぶつぜしん 聖徳太子など45人の伝記からなる慶滋保胤によって書かれた日本初の往生伝は? 日本往生極楽記 淨土宗を開いた法然が関白・九条兼実の求めに応じて仏道を説いた書は? 選択本願念仏集 宗祇、宗長、肖柏(しょうはく)の3人の歌が収められている東山文化の代表的な連歌集は? 水無瀬三吟百韻 曹洞宗を開いた道元の弟子・懐奘(えじょう)が師匠の言行を筆録した書物を何という? 正法眼蔵随聞記 大化の改新の後に右大臣となった蘇我馬子の孫は? 蘇我倉山田石川麻呂 タレント「神田うの」の名前の由来にもなった持統天皇の幼名は? 鵜野讃良皇女 天平文化の代表的工芸品で正倉院に納められた楽器といえば? 螺鈿紫檀五絃琵琶 中臣鎌足とともに「大化の改新」を実行した人物で、後に即位して天智天皇となったのは誰? 中大兄皇子 奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する尼寺、中宮寺を御所から寺に改めた聖徳太子の母親は○○○○○皇后? 穴穂部間人 奈良県薬師寺に所蔵され国宝にも指定されているある仏教の女神を描いた奈良時代の絵画作品は? 麻布著色吉祥天像 日本は水に恵まれ稲が多く採れることを表現した、日本書紀や古事記に登場する国土の美称は「○○○○○○○○○国」? 豊葦原千五百秋瑞穂 能『鉢木』の主人公としても知られる鎌倉時代の武士は? 佐野源左衛門尉常世 卑弥呼の鏡という説もある日本の古墳から多数発掘されている、謎の古代の青銅鏡は? 三角縁神獣鏡 藤原不比等の後妻となり後に聖武天皇の皇后となる光明子を生んだ奈良時代の女官は? 県犬養三千代 藤原不比等の長男で南家の祖となった奈良時代の貴族は? 藤原武智麻呂 平安時代の中頃に、関東で平将門が、瀬戸内海で藤原純友が相次いで起こした反乱を総称して何という? 承平・天慶の乱 源順(みなもとのしたごう)の編纂で930年代に成立した日本初の分類百科辞典は? 倭名類聚抄 源頼朝が平家打倒のため挙兵する際に刀を納めたことで有名な神奈川県伊勢原市にある神社は○○○○○神社? 大山阿夫利 室町時代の勅撰和歌集で「十三代集」の最後に数えられる作品といえば何? 新続古今和歌集 室町幕府第3代将軍・足利義満が諸国安定と五穀豊穣を願い奉納した国宝指定の名刀は「○○○○○○○○太刀」? 金装花押散兵庫鎖 邪馬台国の女王・卑弥呼が中国・魏の皇帝から与えられた称号は? 親魏倭王 来日したイエズス会宣教師たちが本部に布教報告をした書簡を何という? 耶蘇会士日本通信
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・神 ①自然 :太陽、山、海、森 ②祖霊 :先祖の霊(中国では死者を「鬼(グイ)」としている) ③一般の人々:菅原道真、その他朝廷に敗れた人 ↓ ・スサノオノミコト、大國主、長スネ彦、湯羅(ウラ)、アテルイ など ・鎌倉=たくさんの神々が住んでいる土地:「神坐(かみくら)」 昔、死体を焼く場所を「かまば」 ↓ 火葬場には「かま」、「かまど」という地名がつけられた EX… 「嘉麻」「可真」などの地名 →「鎌」「釜」などにて転化していった ・「古事記」→「倉=蔵 :谷 →山と山の間で「暗い」場所 ☆プチ情報 「さくら」 → 「さ」+「くら」+「ら」 ※「さ」 →前方斜め下方向へ進む ※「くら」 →口を開けた状態の、口内の暗さ:「蔵」「倉」→ 谷 ※「ら」 →物事が寄り集まる:未然形(これから、そうなるであろうという様) 「サ行」は獲物に矢を射掛ける矢の軌道を表している。 サ・前方斜め下方向へ進む シ・下方向へ進む ス・抵抗なく横方向へ通過 セ・背に迫る・急かす・せばめる・攻める。これは弓矢で獲物の背後に接近して攻める形態を表している。 ソ・上方向 ※「サ行」は獲物を追う人間の「矢」の動きを概念化している。 ・「鎌倉」=「かまばの谷」 ・鎌倉は一方を海、三方を山に囲まれた砦 だが平安京、藤原京、平安京、大阪、江戸 全ての地形で選ばれていない 逆を返せば大変不便な土地である。 ・鎌倉七口:それぞれに墓地が設けられている 七里ガ浜「極楽寺坂切り通し」 :昔は「地獄谷」 深沢 「大仏坂切り通し」 葛原ヶ岡「化粧坂切り通し」:化粧をした遊女が集う →刑場の近くに遊郭がある ↓ ・「ハレ」と「ケ」のように、一般の生活と反対のものと定義してある ・狐=「来つ寝」…遊女 → 佐助稲荷における狐(来つ寝)の信仰 扇ヶ谷 「亀ヶ谷切り通し」 金沢 「朝比奈切り通し」:鎌倉霊園がいまだにある 山之内 「巨福呂坂切り通し(コブクロザカ)」:建長寺の近くで、昔刑場 逗子 「名越切り通し(ナゴエ)」 ・名刀:正宗 → 鎌倉で作成 ・円覚寺(1282) 無学祖元 鎌倉五山第二位 ↓ 鎌倉五山:1386年 足利義満に定められた鎌倉の禅宗寺院のランク ・一位 建長寺(1253) →日本初の禅道場 隠語「建長寺」 → 「綺麗に片づけている」:それだけ厳しい規律 階段のところに、烏天狗の鉄像がある ↓ ・天狗:刑場で仕事をしていた人々を蔑んだ呼び方 ↓ ・「蔑む(さげすむ)」 →「下墨(さげすみ)」:大工の傾きを図る道具から、動詞化して「見下す」 ・二位 円覚寺(1282) ・三位 寿福寺 ・四位 浄智寺 ・五位 浄妙寺 ・東慶寺「縁切り寺」 鎌倉尼五山第二位(現存する唯一の寺) ・鎌倉十井(カマクラジッセイ)…鉄分が多く、茶色く濁ってる水がとれる鎌倉では、飲み水が重宝されていた そのため水の名所が有名となっている ちなみに大正時代まで、鎌倉では水売りが歩いていた ・明月院の 「瓶(つるべ)の井」 ・極楽寺坂手前 「星月夜の井」 ・浄智寺門前 「甘露の井」 ・海蔵寺門前 「底脱(そこぬけ)の井」 ・岩船地蔵堂 「扇の井」 ・浄光明寺付近 「泉の井」 ・材木座海岸 「六角の井」 ・円覚寺境内 「棟立の井」 ・長勝寺門前 「銚子の井」 ・鶴岡八幡宮付近「鉄の井」 ・明月院(1160)「紫陽花寺」 鎌倉最大の「やぐら」がある。高楼のことではなく「窟」という、武器を貯蔵する岩穴 「矢倉」(やぐら)→「岩倉」(いわくら) ・土器投(かわらな)げ:京都「神護寺」 密教基本教義:怨敵退散・怨霊調伏 | ↓ | 創建:和気清麻呂 真言密教の寺 →源頼朝の肖像画がある | ↓ | ・(1145年~1151年)に鳥羽法皇により荒廃した。文覚は再興を後白河法皇に要請したが果たされず | 流罪となった。源頼朝と出会い神護寺再興の約束を結び、1182年には後白河の許しが出た。 ↓ ・かわらけ=河原者:「河童」「河衆」と蔑まれた人々を、谷に投げ捨てる という風習 ↓ ・日本各地に「祝山」「祝谷」という地名は、「ほうり山」「ほうり谷」の当て字 人を殺すことを「屠る(ほふる)」「葬る(ほうむる)」 →「祝」という当て字 ・佐助 稲荷=「鋳」+「成り」 ↓ 「佐助」=「佐殿(すけどの)を助けた」 →「右兵衛佐(うひょうえのすけ)」=「頼朝(の官職)を助けた 鋳成り」の意 ・銭洗弁財天=「宇賀福(宇賀神)神社」 | ↓ | 仏説で「白蛇神(ハクジャシン)」=弁財天(サンスクリット語「サラスバティ」=大河) |・宇賀神=宇迦御魂神(=倉稲魂尊)=豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ) | ↓ | 「古事記」 …スサノオとカムオオイチヒメ(オオヤマツミの娘)の間に出来た神 | 「ウカ」 …浮く、沖、漂白というイメージ(=水端の者) | ↓ | ・稲の実りを司る神 | ・「稲」+「成り」 | ・「鋳」+「成り」(製鉄)… 稲荷神=宇迦御魂神=宇賀神=弁財天 | (=市寸島比売命(イチキシマヒメノミコ)) | ↓ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | ・日本三大弁財天 | ・安芸の厳島=祭神:市寸島比売命 | ・近江の竹生 | 「 ̄・江の島 | | ──→ ・「水で洗うと、何倍にもなって返ってくる」=「洗うと銭になる」=砂鉄が採れる土地 | ・「霊狐泉(れいこせん)」の神は、宇迦御魂神 | ↓ ・奥津宮 552年創設 欽明天皇 :多紀理 比売(たきり ひめ) ← 蘇我・物部の崇仏論時代 中津宮(上ノ宮)853年創設 慈覚大師 :市寸島 比売(いちきしま ひめ) 辺津宮(下ノ宮)1206年創設 僧・良信 :多岐都 比売(たきつ ひめ) ・鎌倉の深沢に五頭竜が住んでいた、その竜が子どもをさらっていく山道を「子死越(こしごえ)」 江の島の弁財天に求婚、弁財天は五頭竜の罪を咎め村を護ると誓った。 ↓ ・五頭竜を祀る神社 :龍口明神(江の島の対岸にある) …日蓮が処刑されそうになった場所(=処刑場) ||「江島縁起」には、弁財天と五頭竜は結婚したと書かれ、その娘が3人:市寸島比売たちの三女神 |↓ |・龍口明神の管理は江島神社 | 「巳年式年大祭」に60年に1度 龍口明神の五頭竜の木彫りを、弁財天に会わせる | → 無理やり引き裂かれた者への鎮魂 ↓ ・五頭竜 = (牛頭天皇 = スサノオ) →朱砂 :水銀、鉄の王 ・弁財天 = 水辺の神 = アマテラス →あま :魚介類・海藻類を獲ってる人 「海女 :あま」 ・頼朝の命で、文覚上人厳島神社の窟(いわや)で1180年に東北(=藤原氏調伏)の願かけ 鎌倉入りの10年前からの狙い ↓ 「金」 中尊寺・金色堂などに見られる金保有量 ・江の島神社 =別名 金亀山与願時(=きんよがんじ) →「七瀬祓の霊所」 他の霊所 ・由比が浜 ・片瀬川 ・金洗沢池 ・武蔵金沢 ・葉山 ・柏尾=? → 霊所 = 鉄に関係している地名 ・「鎌倉党」 鎌倉とは鎌倉権五郎景政(=平景政)(カマクラ ゲンゴロウ カゲマサ)が 1104~1106年に大庭(=藤沢近辺)の御厨(みくりや)として開墾した土地 現在の鎌倉駅付近は、海岸線も近く大変な泥湿地帯であった。 ↓ 豪族の土地(荘園) → 貴族・寺社に寄進 の構図(国に税を支払う必要がない+不輸・不入の権) ※特に神社に寄進された荘園を御厨と呼ぶ その荘園を守るために組織されたのが武士(さむらい) ↓ 「さむらい」=「さぶろう」者…人間に奉仕するとい う意味 ◎時は経ち1144年9月8日 源義朝が、この土地を襲撃 さらに時が過ぎて1192年 源頼朝が、幕府を開くために、この土地を奪うこととなる。 鎌倉党の一派は、山奥に逃げ込み、泥湿地帯を頼朝に差し出した ↑ | 当時、相模の土地には有力豪族(頼朝を助ける人はいない。なので手薄な鎌倉を占拠) 大庭氏…鎌倉権五郎景政の係累(=鎌倉党一派) 桓武平氏の流れ 土肥氏…相良国土肥郷に付いた役人から始まる 桓武平氏の流れ 梶原氏…鎌倉党一派からの系累 桓武平氏の流れ 三浦氏…地方豪族と平家の系譜 桓武平氏の流れ 和田氏…三浦氏からの系譜 桓武平氏の流れ 北条氏…京都からの派遣役人から始まる 桓武平氏の子孫 ・頼朝が鎌倉に入ってきたときに、鎌倉山から鶴岡八幡宮を拝んだ(=遥拝) → そこまで参拝できる道がなかった 当時の鶴岡八幡宮は一の鳥居の近くで、材木座海岸よりの場所に位置していた(海岸付近で地盤がゆるい) そして泥湿地帯であったのも関係している ・鶴岡八幡宮 ・1063年8月 奥州を平定した 源頼義 が京都石清水八幡宮の御分霊を勧請 鎌倉由比郷に社殿 「由比若宮」をしたことに始まる。 (現在の「元八幡」の位置。現在の位置には1180年 頼朝 が奉遷) ・段葛(だんかずら)…1182年 北条政子の安産祈願のため、社頭から由比が浜まで土段を盛り上げた参道 1.25キロの長さがあり、1864年の写真でも確認することが出来る 勿論、安産祈願だけでなく、人馬の行きかいのために造られた面もある ・源平池 …左側 平氏 赤旗に島4つ(死) 右側 源氏 白旗に島3つ(栄) ・本宮 …1828年 11代将軍 徳川家斉造営 ・今宮 …後鳥羽・土御門・順徳の三天皇を祀ってある ・由比若宮遥拝所 …由比若宮の遥拝所 ・隣にある清泉小学校の場所には「大倉幕府」(=幕府の中枢機関)があった ・長谷寺(=泊瀬 はつせ)…死者の霊が宿る場所 736年 藤原鎌足の孫・房前が創建させた ・御霊神社 ・1083年 後三年の役で武名を轟かせた「鎌倉権五郎景政」を祀ってある 最初は大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉 の祖霊(それぞれ鎌倉党からの係累)の「五霊(ごりょう)」を 祀って、騙りて「五霊 = 五郎(=怨霊) = 御霊」の形となった ↓ ・鎌倉権五郎景政が開墾した土地を、頼朝たちに奪われた恨み ・鎌倉権五郎景政 …八幡太郎義家に16歳のころに従い、後三年の役で奥州に赴く | 秋田(=出羽国)を攻めていた際、目を矢で射られるが、ひるむことなく相手を射倒 ↓ 「ごんごう」=河子(ごんご=河童)=河衆(=河、谷、海においやられた鎌倉党) ・「面掛行列」 …9月18日の御彼岸時期に執り行われる 爺、鬼、異形、鼻長、烏天狗、翁(寿老人)、火吹男(ひょっとこ)、福禄寿・阿亀(おかめ)、女(とりあげ)、 猿田彦が妊婦姿の阿亀を中心にして行進する行事。 ↓ 頼朝が妊娠させてしまった、矢野弾左衛門(やのだんざえもん)の娘の菜摘御前 → 江戸まで続く、有名な非人頭 ↓ 非人:特定職能民・芸能民の呼称(鉄などの加工技術) = 被差別民の呼称としても使用される ・甘縄神明宮 …頼朝、政子も度々訪れた神社 710年 行基が開創 鎌倉最古の神社 祭神 天照大神 ・極楽寺(=悲田院 ヒデンイン) 1159年 北条重時が 忍性を開山として創建 貧民、病人救済から孤児院、ライ病(=仏教では業病として、治らないとされていた)棟を建設 忍性は仏教界の異端児的な存在 ・稲村ヶ崎=鋳土群れ(イナムレ) タタラに従事していた人間は、片目で火を見つめているため片目をやられてしまう そのため、タタラのあった場所には天目一箇命(アマノマヒトツノミコト)の伝説や 「針」という文字をを含んだ地名が残されていたりする。 ・七里ガ浜 …実際には一里もない七里ガ浜 | ↓ | 火尻ヶ浜では?(当時鎌倉では鎌倉山を火口ヶ岳と呼んでいた) ↓ 「太平記」での一場面 (=「鋳土群れ」だからのパフォーマンス) ・新田義貞 VS 鎌倉幕府 で、極楽寺切り通しを突破できない「義貞」 稲村ヶ崎の波打ち際に自分の刀を海中に投げ入れ、波が引き幕府に攻め込めた。 そして鎌倉幕府は滅亡した。というストーリィ ・源頼義(ヨリヨシ)、八幡太郎義家(ヨシイエ)の親子が「前九年の役(1051~62)」の奥州遠征 鎌倉の武庫山に白旗をたてた時以来から「源氏山」となっている ・葛原岡神社(クズハラガオカ):この地で処刑された日野俊基が祀られている ↓ ・1331年、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが露見。日野俊基は捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑さ れた。明治(21年)俊基は倒幕の功労者として評価され、葛原岡神社創建。 ・荏柄(エガラ)天神社 …日本三大天神社 九州の太宰府 京都の北野天満宮 ・境内内には、川端康成が送った「河童塚」というのもある ・大塔宮=鎌倉宮 …大塔宮護良親王を祀る神社 ↓ 1308年 後醍醐天皇皇子 として誕生 延暦寺・天台宗座主となる(20歳) 1331年 後醍醐天皇の討幕挙兵に応じるも、バレて隠岐に流される 1332年 楠木正成と連携し挙兵 1333年 足利尊氏、新田義貞などと一緒に、鎌倉幕府は北条氏一族共に滅亡 同年 征夷大将軍となる が、足利尊氏と不仲になり、鎌倉宮の土牢で惨殺(享年28) 最期の時、お茶を所望したがそれさえも許されず首をおとされた | Q.護良親王の読み方 → A.もりながしんのう | ↓ | もとの名前は「護長」なのに「護良」に? | ↓ ↓ 「 怨霊 = 御霊 = 護良 」 歴史:年表 1147 源義朝と熱田大宮司・藤原季範(スエノリ)の娘の三男として源頼朝誕生 1156 保元の乱 崇徳上皇 ● × 平清盛+源義朝+後白河天皇 ○ 1159 平治の乱 平清盛 ○ × 源義朝 ●(死) → 頼朝(14歳)伊豆 蛭ヶ小島へ流罪となる ・・・・・・・・・・この間は、ずっと流人でした・・・・・・・・・・ 1177 源頼朝(31歳) と 北条政子結婚 1180 後白河法皇次男・以仁王+源三位頼政●(共に討死) × 平知盛+維盛○ この乱により平清盛は源氏皆殺し命令 1180 一か八かの挙兵 源頼朝○ × 平兼隆● (北条時政の命で、後方待機『旗印=傀儡』 この戦で負けたら、切腹させていた) 同年 源頼朝● × 大庭景親(鎌倉党)○ ↓ 梶原景時により九死に一生を得て、房総半島へ渡り…源氏の名のもとに2万人終結 同年 源頼朝○ × 平維盛● …富士川で水鳥の羽音で平維盛敗走 同年 10月 源頼朝は鎌倉入りを果たす(元八幡を遥拝) 1181 平清盛(64) 病死 後1183 信濃木曾義仲が平家を打討して京都に入る 1184 頼朝+後白河法皇○ × 義仲●を近江で討滅 →頼朝の弟・範頼 と 義経が追討軍として派遣される 同年2月 義経○ × 平氏軍● → 鵯越木場(ヒヨドリゴエキバ)逆落としの戦術を以て、一ノ谷で快勝 1185 壇ノ浦にて平家滅亡 → 安徳天皇(8)海に投身 そして後白河の策略により、義経は「検非違使」の称号を得る。これが頼朝の討伐の理由ともなる 1189 衣川の戦い 頼朝○ × 義経● を討滅し、頼朝は奥州を手に入れる 1192 頼朝(46) 征夷大将軍となる 1198 頼朝(52) 稲村ヶ崎で落馬し、これが原因で翌年死亡(詳細記載の文章が、何故か紛失) 用済みとなった、頼朝を北条氏の圧力のもと、鎌倉党の実行で行われたのでは → 1779 (死後580年) 子孫:島津重豪が墓を立てるまで墓はなかった ・頼朝の弟・範頼(のりより) 1193 曾我祐成(そが・すけなり)×五郎時到(ごろう・ときむね) 曾我兄弟の仇討(クーデター) →木曽義仲の愛刀 →義経の奉納した刀 ※共に頼朝に恨みを持つ差料であり、今は箱根神社に奉納されている →日本三大仇討の一つ ・忠臣蔵 …赤穂浪士の討ち入り ・鍵屋の辻 …荒木又右衛門の仇討 ・この黒幕にいるのが、範頼(のりより)と大庭景義ではないか…? | →この事件後すぐに出家している ↓ ・伊豆 修禅寺に幽閉されることとなる ・最期は、梶原景時の刺客に襲われた説・自害説など様々 ・②源 頼家 ・1199年 頼朝の死後家督を継ぎ、1202年 征夷大将軍になるものの 北条氏の敷いた合議制という制度により、頼家の思い通りに幕府は動かない 暗殺されかけたが生き残り、和田義盛に北条時政討伐を命じる。が、寝返られ部下は次々殺害 無理やり修禅寺に出家させられるが、その後惨殺(享年23歳) ↓ ・これを偲んで政子が、経堂・指月殿を造営 →とあるが、もともと北条家の土地であり、その土地の人々への頼家始末の賄賂 修善寺あたりは「桂谷(かつらたに)」=「葛谷(かずらだに)」と呼ばれていた ・「葛(くず)」 …歴史の表舞台に登場しないような人たちが住む場所 という意味 ・修善寺の橋の近くに横瀬八幡宮があり、末社に比売(ひめ)神社があり御神体が女陰を象っている 政子が下の病に罹った時に、その石をもって患部を知らせたという由緒書がある。 それほど、この土地が馴染であったといえ、強い繋がりがあった。 ③源 実朝(頼朝の次男) 1192年 頼朝の次男として誕生 1203年 征夷大将軍となる ・和歌に造詣が深く 後鳥羽上皇と親交を深める ↓ 実朝「金 槐和歌集(きんかいわかしゅう)」=「鎌倉右大臣(=実朝)和歌集」という意味 ↓ →「槐」 …大臣の唐風の読み 「金」 …鎌倉の「鎌」の編 ・実朝(24)が宋に渡るために造営した船が沈没した浜が、由比が浜 ↓ 「由比=結い:たばねるの意味」 ・漁業、農業関係者などが協力していた浜 当時は海岸線が入り組んでいたため、死体遺棄場に適していた(和田塚らへんも) 静御前が産んだ義経の子は、頼朝または政子が、由比が浜に捨てたと記録が残っている 1219 鶴岡八幡宮 公暁(②頼家の子)により惨殺 ・「吾妻鏡」…銀杏の木に隠れていた公暁 ・「愚管抄」…石橋のところで暗殺 By慈円 源氏が滅亡後 北条氏 後鳥羽上皇の皇子を「親王将軍」として藤原三寅(みとら)(2歳)をおく 上皇は最初拒否をしていたが、軍事的プレッシャーに負ける。 そあいて…北条氏との険悪さが頂点に達し 1221 承久の乱 後鳥羽上皇●×北条氏+鎌倉武士団○ →「天皇が東夷に敗れる」という驚天動地の結果 →崇徳上皇の呪い「皇を取って民となし、民を皇となさん」が現実となる 歴史:家系図
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鎌倉を舞台にしているAT-X放映アニメ 2004年夏 『エルフェンリート』 美少女たちの腕や臓物が千切れ飛ぶ! 2004年秋 キッズ→2006年春にAT-Xで放映 『うた∽かた』 リア充うぜぇ、児童虐待、NTR、ヒロインがゲロ・・・精神的に参ります。 これらのイメージが強いせいで、鎌倉は怖いところだというとんだ勘違いが。 鎌倉県民にとってはとんだとばっちりである。 また以上二作品のせいで『鎌倉鬱アニメは名作』などと書かれることもある。 そういや鎌倉市の隣の藤沢市にある江ノ島に訪れた 『ぼくらの』の15人の子どもたちは・・・
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かまくら 東日本旅客鉄道/江ノ島電鉄 神奈川県鎌倉市小町一丁目 JR横須賀線 北鎌倉←→逗子 江ノ島電鉄線 和田塚←→終点
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所在地神奈川県鎌倉市小町一丁目 開業日1889/6/16 接続路線横須賀線 隣接駅北鎌倉(横須賀線:大船方面) 逗子(横須賀線:久里浜方面) 訪問日2001/8/19 戻る
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エミリー 鎌倉には、たくさんのお寺や神社があると聞いています。是非とも、見てみたいのですが…。 育 よし、じゃあ班長のわたしが連れてってあげる!お仕事の時間まで、鎌倉のお寺をシャカイカケンガクだよ! 亜美 んっふっふ~♪亜美も行く行く♪お寺って屋台とかもあるっしょ!?買い食い食い倒れツア-しちゃおー! エミリー No!お仕事の前に、倒れるほど食べてはいけませんよ。しかも神聖なお寺で…。 育 亜美ちゃん、お寺はコウキョウの場だから、あんまりハシャいだらダメだよ?班長命令だからね。 亜美 うあうあ~、兄ちゃん!なんか、亜美が一番年下みたいに扱われてるっぽいよ~!? 戻る
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鎌倉宮 神奈川県鎌倉市、大塔宮護良親王を祀る鎌倉宮の御朱印です。 建武中興十五社のひとつです。 神鹿の御朱印です。 月替わりの御朱印をいただくことができます。 令和元年12月にいただけた御朱印です。 令和改元記念にいただけた御朱印です。 「冬もみじ紅天井」です。 ★この神社にはオリジナル御朱印帳があります。 鎌倉宮の御朱印帳です。色はこのほかにも数種類ありました。18cm×12cmです。 ★住所 神奈川県鎌倉市二階堂154 -
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鎌倉 歴史と文化に彩られた一大観光都市。海岸線を走る"江ノ電"のターミナル 物件駅 登場作:全国マップ(桃太郎電鉄V~) 元ネタガイド