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延喜式式内社。加賀一宮。 平安末期から鎌倉期にかけての時期には、 宝殿(本殿)、拝殿、被岸所、政所、大倉、傍宮倉と、 摂社として荒御前(本地毘沙門)、糟神、滝宮(本地不動)、禅師宮(本地地蔵)の 各本殿、拝殿、祓殿(禅師社のみ祓殿なし)、 白山寺の主要堂宇で御内八堂(みうちはっとう)とよばれる講堂、剣講堂、 西堂、東堂、十一面堂(法華常行堂)、新十一面(五堂)、 馬頭堂、新三昧堂、さらに付属施設として鐘楼、武徳伝、五重塔、 四足門、廻廊、沙汰所、山王宝殿、談義所、曼陀羅堂などが建ち並んでいたという。 白山本宮は33年ごとに造営を行う慣例だった (諸国一宮は、造営の費用を国内から徴収できるため、中世を通して徴収が行われていた)。 延慶本『平家物語』巻第七「願書」の段によれば、1183年(寿永二年)源義仲が 倶利伽羅峠の戦いにおいて、合戦の祈祷に白山へ願書を奉り、その結果神助があった旨の記述がある。 1235年(嘉禎元年)11月、白山造営において在地でトラブルが起こる。 白山宮造営料米を加賀の知行国司、平経高が賦課したが、 石川郡大野荘(金沢市域)の地頭代と荘官が進納を出し渋った。 このため白山の神人らが翌年の三月二日、白山三社(本宮、金剣宮、岩本宮)の 神輿をかついで押しかけ、地頭代の私宅に振り捨てるなどしたという。 1228年(安貞二年)、初の臨時祭礼。 造営料負担の忌避の動きが国内に起き始めたことに対し、 白山三社の結束を強め勢力を誇示するためとみられるという。 1239年(延応元年)八月十七日、白山本宮の神殿以下二十一宇が焼失。 火元は神主の宮保氏盛(みやぼうじもり)の宮倉。 また火事騒ぎの間に、氏盛の妻が屋敷の西側を流れる手取川に転落し、 死亡するという事件も起こっている。 参考文献 『県史17 石川県の歴史』 『平家物語(七)』 石川県の歴史 (県史) 平家物語(七) (講談社学術文庫)
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夢窓疎石(夢窓国師) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『うちのお寺は臨済宗』(双葉社・1997)、『古寺巡礼京都「4 天龍寺」』(淡交社・1976) 概略 夢窓疎石(むそうそせき)は鎌倉時代末~南北朝時代にかけての禅僧で、臨済宗?の黄金時代を築きあげた。造園芸術にも才能を発揮し、数々の名庭の設計でも知られる。後醍醐天皇をはじめとした七帝から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷(げんにゅう)、仏統、大円国師と諡号され「七朝帝師」と称された。建治元年~観応2年(1275~1351) 人物史 伊勢国(現三重県)出身。はじめ密教?を学ぶが、のち禅に傾倒。京都の建仁寺、鎌倉の東勝寺、円覚寺、建長寺などに歴参し、求道行脚するなど修行に励んだ。後醍醐天皇の勅請を受け南禅寺住職となるも、南北朝の対立により後醍醐天皇は吉野へ追われ、その後は新政権の足利尊氏・直義兄弟から帰依を受けた。また夢窓は門弟の養成に才能があり、無極志玄、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津、龍湫周沢らを育成し、後の五山文学の興隆を生み出す基となった。天龍寺は、夢窓の進言により尊氏が後醍醐天皇の追善目的で開創したもので、造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。相国寺は、弟子の春屋妙葩が師である夢窓を開山とし、自分は二世となったものである。77歳で没。天龍寺の開山堂である臨川寺に墓地がある。著作に『夢中問答集』など。 作風と代表的な作品 夢窓疎石が作庭したとされる庭園は多いが、はっきりと特定できるものはあまりない。有名な天龍寺庭園や西芳寺(苔寺)庭園についても夢窓が入山したときには既に庭園があり、それを改修したと推測されている。また池泉の形態や石組などに夢窓以前の古い形式が見られる事も多く、どの程度手を入れたかについても諸説ある。一般的に夢窓作といわれる庭園における作風は、鎌倉期(浄土式庭園?)から室町期(枯山水庭園)への過渡期であって、うまく両者の長所を融合させており、山水画の手法を取り入れて石組を表現しているものが多い。 天龍寺庭園 天龍寺 西芳寺庭園 西芳寺(苔寺) 永保寺庭園 岐阜・永保寺 瑞泉寺庭園 神奈川・瑞泉寺 恵林寺庭園 山梨・恵林寺 その他 京都検定出題 平成17年(2005)第2回京都検定1級出題 「天龍寺は(中略)足利尊氏が、後醍醐天皇の冥福を祈るため、( )上皇の亀山殿の地に開創した。庭園は国の史跡・特別名勝で、近景の亀山や遠景の嵐山を借景とした池泉回遊式で( )の作庭といわれている。」 リンク 夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧 (NHKブックス)
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以下、安価での決定事項は太字で表示する。 大外村(おおそとむら)はかつて大阪府に属していた村である。 1972年に「大外刈り」なる事件が発生し、住民のほとんどが虐殺された。 地理 大阪平野(河内平野)に含まれる平坦な地形で、山地などがほとんど存在しない。 その流域面積が大阪府よりやや広いほどであった成立当時は琵琶湖水系の河川が合流していたこともあって、 その後廃村時に至るまで稲作が盛んであり、村内のほとんどの土地は田圃であったとされる。 戦前までは村の風習として、全身タイツを装着した男が田畑を取り囲んで警備に当たるという珍しい風景が見られた。 現在はその田畑がインド洋に面する東南アジア地域に移植され、 東南アジアでのジャポニカ種の稲作に貢献している。 沿革・歴史 鎌倉期の文書等によれば、1189年頃に成立したということが確認できる。 1491年 百姓一揆を起こすが、失敗。村長が死罪となる。 1544年 大飢饉が発生し、住民の8割が餓死。 1591年 豊臣秀吉が猪狩りを行ったと伝わる。 1853年 浦賀沖にペリーが来航したことを模倣する「偽ペリー」が近郊に出没。 1945年 戦時空襲により、村が全焼。 1955年 ある村民が競馬で2000万円を獲得したことから暴行事件が発生し、死亡者が続出した。 1970年 「ケンコバ」なる発掘団が村内で作業を開始、土地から埋蔵金が続々発見される。 1971年 「ルパン三世」を名乗る窃盗犯によって、前年発掘された宝がすべて盗まれる事件が起きた。 1972年 大外刈り事件によって住民が虐殺され、居住者がいなくなったことに伴い廃村。 「大外刈り」事件 大外村は1972年に村おこしの一環としてショートケーキを焦点とした洋菓子博覧祭を開催。 ショートケーキを奪い合うなどして大いに盛り上がっていた。しかしながらこの最中に突然村長が発狂、 住民や観光客は腐敗した蜜柑を大量に食べさせられた。その後村人らの体に奇妙な斑点が発症すると、 一部住民はこれを村長が配った蜜柑によるものと断定し、憤った青年によって村長が殺害される。 その後村長の遺族が村長の仇として村民を虐殺した事件。 事件に関係した人間がほぼ全員死亡したことに伴い、警察と大阪府はこの件を闇に葬ろうとしたが、 90年代に入って一部の生き残りによって公表され、再捜査が行われた。 しかしながら現在も謎が多い事件である。 事件の引き金となったタカース・岡島村長(当時)は既に死亡しているが、 虐殺を行ったとされるその遺族は依然行方不明である。 行政 戦後の歴代村長 矢部浩之 井伊直弼 チェ・ゲバラ 岡本太郎 鍋島鍋夫 金田玉一 リンチスル・ゼ 山田某 ヒトース・松村 タカース・岡島 名所・旧跡等 鍋島・ザ・古墳鍋島鍋夫氏が村長在任時に建造。 富士見坂 伝豊臣秀吉猪狩之場 大外城跡 このほか、村(跡地)から3kmほど先に、スキンヘッド専門の理容室があり、人気を博している。 スモークチーズ王国【PREV】 【NEXT】スターマイスター
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■司馬遼太郎「肥前の諸街道・街道をゆく11」より 「浦人」:漁撈民・海民 律令制→農民を基盤(重農主義) 中世:海の時代:海賊 →+大航海時代 平戸の海峡は西洋では日本名以外の名称で呼ばれていた。 鷹島=元寇のときの元軍の基地 →漢人から五竜山、白骨山と呼ばれた。 鎌倉時代、幕府ではモンゴルを「蒙古」と呼んでいたが、庶民たちは、原語の発音に近似した「ムクリ」と呼んでいた。高句麗人のことは「コクリ」と呼んでいた。 ■元寇 震天雷:投擲爆弾 弩砲(どほう):矢を射る砲 ウイグル砲(ウイグル人の発明):水車のようなものを旋回させ大石を飛ばす 鎌倉期の日本の戦法 儀礼的で、いわば様式化された舞踊のようなもの、スポーツ的 矢合(やあわせ)の儀式 大陸の陣法 敵を集団としてすりつぶしていく ■モンゴル帝国 統治方式:農耕民族(漢民族)を下位に置き、商業民族(色目人:ウイグル人、イラン人、アラビア人)を上位に置く。 重商主義 中国の歴代王朝は重農主義だったが、元だけが例外で、重商主義だった。 重商主義→侵略・略奪に至り易い。 平準庫=国立銀行 重商主義と重農主義(p21) :重商主義は重農主義を破壊する :室町の重商主義や、昭和三十年代以後の重商主義も、それまでの重農的な伝統を破壊した :財政官僚:中央アジア出身のアーマット、慮世栄、西域出身のサンガ :銀本位制 「子母相権」 子=紙幣、母=銀 銀本位制の貨幣制度「ショウ法」は早すぎた制度だった。 この銀本位制が、元寇をもたらした。 日本は、大陸のアラビア人などの情報によれば、「ワク」「ワクワク」(倭国)と呼ばれ、金銀の島と呼ばれていた。 (石見銀山などとの交易がすでに始まっていた?) モンゴル人は徹底した肉食。野菜や米を嫌う。→揚子江以南の江南人への蔑視(「蛮子」マンヅ)。 羅 未羅、加羅(いまの釜山付近)、阿羅、多羅、草羅、耽羅(済州島) 「羅」は「国」という意味ではないか 松浦党 未羅(『古事記』)、万豆良(まずら『和名抄』)、松浦 白村江戦役→敗戦の翌年、対馬、壱岐、筑紫に烽(のろし)台設置。 防人設置。 東国兵士(『万葉集』) 平戸松浦氏 嵯峨源氏系統の説、奥州阿部氏系統の説 源平合戦(義経軍に敗戦) 元寇 →倭冠活動へ? ただし元寇より42年前の1232年に、小集団が高麗沿岸を襲撃している 『高麗史』忠定王2年(1350)、「倭冠の侵す、これより始まる」 『海東諸国紀』の「呼子殿」 『李朝実録』太宗6年(1406)、呼子遠江守源瑞芳、朝鮮人捕虜を還し、礼物を献じた。 呼子:薩摩の坊津、播州の室津に似ている 外津浦(ほかわずうら)、道元出帆の地 吉田東伍「大日本地名辞書」 http //www.st.rim.or.jp/~success/dainihon_mokuji.html 千田稔「地名の巨人 吉田東伍」角川叢書2003 九州関連ブログ http //blog.baliyoka.net/ 長崎宗福寺など 貝原益軒:中村学園
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what「ほかいびと」とは何か? 乞食。コジキ、だけではなく、ホイト、とも呼ばれる。 コジキという日本語にくらべれば、ホイトという呼称ははるかに古い。ホイトはホギヒト の短縮形といわれる。その、さらに祖型にあるのは、古代の“ほかいびと”である。ホグとは祝すること、ホカヒとは寿詞をのべることである。乞食とはいずれ、なにか縁起のよい文 句を唱えることを本来の職業とした人々である。乞食が禁厭の札を各家にくばって米や金銭を乞いうけたのも、趣旨はひとつである。 「ホイト」ノ職業ハ一種仕来リノ交易ナリシナリ(柳田「所謂特殊部落ノ種類」『定本柳田国男集第二十七巻』) 鎌倉期の文献(『名語記』)からは、通常は卑賎視される散所の乞食法師が、正月には千秋万歳(せんずまんざい)と称し、祝言をとなえて門口にたった様子が知られる。おそらくは奈良時代の乞食者(ほかいびと)に系譜をひくとおもわれる千秋万歳の徒は(正月には、仙人の装束をまね、小松を手に捧げている)外なる世界から寿祝をもたらす来訪者として迎えられている。 what「ほかいびと」はなぜ歓待されるのか? いやしめられる身分の者であったからこそ、逆に神聖なるものに変身しうる社会的な約束が成立していたのであるし、また神聖なものに変身しうるものとして物をもらうがゆえにいやしめられた、ともいえるであろう(戸井田道三『能神と乞食の芸術』) 乞食は反対給付なしに物をもらう。そのために、賎しめられつつ畏怖された。神の資格において祭りの庭にあらわれる神人の末喬として。 食べ物をもらうことができるのは、他人と食物を共通にすることで、その力を貸したり借りたりする、という日本各地にみられる呪術的な信仰が背景にある。(cf.柳田「モノモラヒの話」) 今日のモラフとはちょうど反対に、こちらから分けあたえても同じ効果が得られると信じられていたことに注意。必要なのは、「平生食事を共にしない人々といっしょになにかを食べる」ということ。同じく人の家の食物に参加する他人の中で、門口に来て分配を受けるのがホイト、家の座席に上って相食する者がマラウドであると、柳田は指摘している。乞食(ホイト)と客人(マロウド)はともに、共食し饗応することで、治病や家内安全などの効果がえられることを期待された存在だったのである。 例えば、七軒乞食とよばれる、七軒の家をめぐって米・麦飯・餅などをもらうというかたちが比較的多い。あるいは、小正月の前の宵に、家々の門をたたいて餅をもらいあるく行事が全国的にみられる。この時の特徴は、異装・杖・音響。 こうした前代の“乞食原理”はむろん、家や共同体のたんなる飢餓対策ではなかった。柳田によれば、「多くの人の身のうちに、食物によって不可分の連鎖を作るといふことが、人間の社交の最も原始的な方式であったと共に、人は是によりて互ひに心丈夫になり、孤立の生活に於ては免れ難い不安を、容易に除き得るといふ自信を得たのである」。
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週刊ミルクティー*第四巻 第四〇号 0円 M-Tea*4_40-大地震調査日記(二)今村明恒 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第四巻 第四〇号】 (http //www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload act=open pageid=342 file=milk_tea_4_40.zip) ※ クリックするとダウンロードを開始します。 (572KB) 月末最終号:無料 p.133 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(63項目)p.371 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 キンタマであふれかえっている……週刊、夜あそび!* 九月二十四日 加藤委員ら、伊豆半島ならびに三浦半島の調査を終えて帰られた。同氏らは初島(はつしま)まで調査におもむかれ、その隆起せること五、六尺〔一五〇~一八〇センチメートル〕なることを認め得られた。そのほか湘南一帯・三浦半島の隆起は、これまで報道せられたものと大差なく、また地変としては小田原と熱海との間、ことに根府川(ねぶかわ)付近がもっともはなはだしいことなどから推測して、震源は大島と大磯(おおいそ)との間であろうかと断ぜられた。ただ、自分としては最も期待しておった土地の低下せる場所が同委員の報告にもその存在を認められなかったことを不思議とし、陸地測量部の水準測量の結果を静かに待つことにした。つまり、この測量あるいは水路部の水深測量が数か月をへて完結するまでは、起震帯(きしんたい)に関する正確なる推定はむつかしいことではあるまいか。 九月二十五日 待ちに待ったる油壷(あぶらつぼ)験潮儀記録の写し三角(みすみ)課長より送り越された。取る手もおそしと披見(ひけん)すると自分の期待はことごとく裏切られ、地震前には何らの地変も記しおらぬのみか、大地震開始後、幾秒間の後には時計も止まり、これと同時に陸地隆起のあったことを示すだけであった。ただ、基準点の実測から陸地の隆起一・四四四メートルすなわち四尺八寸であることを確かに証明されたのみである。なお、陸地測量部においてわが国の沿岸各地に散布された験潮儀の示す一年平均水位を比較してみると、油壷のみはこの最近二年間において、ある異状をあらわしているように見える。すなわち前の二年間においてすべての場所が水位の下降を示し、ただ、日向細島(ほそしま)のみが一昨年度においてのみ僅少(きんしょう)なる上昇を示しているのみなるに反して、油壷のみは最近二か年間は著しき上昇を示しているのである。これは見様(みよう)によっては、三浦半島がこの二年間、地盤が下がりつつあったことを意味している。なお後日の研究を要する問題である。 加藤委員 → 加藤武夫 加藤武夫 かとう たけお 1883-1949 地質学者、理学博士。山形県に生まれる。東京帝大理科大学地質学科卒業。同講師をへて欧米諸国に留学。大正9(1920)東京帝大教授に任ぜられて鉱床地質学講座を担任。足跡は世界各地に及び、その豊富な見聞のもとに著した『鉱床地質学』は長く新進学徒の好指針となった。このほか『岡山県棚原鉱山の研究』『本邦に於ける火成活動と鉱床生成時代の総括』『本邦硫黄鉱床の総括』などがある。(日本人名)/帝大地震学教授、震災予防調査会委員。 細島 ほそしま 宮崎県日向市にある字の名称。古くは江戸時代以前から江戸や大阪と東九州を結ぶ交易の中継地として発達した。 4_40.rm (朗読:RealMedia 形式 504KB、4'04'') milk_tea_4_40.html (html ソーステキスト版 160KB) 今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1) 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。 ◇参照:Wikipedia 今村明恒、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。 底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院 2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行 初出:「大地震調査日記」『科学知識』科学知識普及会 1923(大正12)年10月号 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html NDC 分類:453(地球科学.地学 / 地震学) http //yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html 難字、求めよ 蝋燭石 ろうそくせき 蝋石? 街衛 がいえ 流止水 曽根 人名。 ジャッガー Dr. Jaggar 後藤子爵 市政調査会長。 柳町 根室地震 三輪化学研究所 地質調査所 銀行集会所 ハワイ火山観測所 ワルパライソ 南米。 むしとりホイホイ 網代《あじろ》町 → 網代《あみしろ》町 【あみしろ、か?】2か所 鑑《かがみ》み → 鑑《かんが》み 【かんが、か?】 以上2件。底本は左辺のとおり。 スリーパーズ日記* サッカーボール、バレーボール、アラスカへ漂着。住民が発見。 遠き島より流れよる椰子の実ひとつ。 ボール、空気、球形、浮遊、シェルター、エアバッグ…… 明治二七年(一八九四)。 三月二二日に根室沖大地震、六月一五日に三陸大地震、おなじく六月二〇日に明治東京地震。 明治東京地震の震源は東京湾。大正一二年(一九二三)関東大震災の震源は相模湾北西沖。ふたつの間は二十九年間。関東大震災から今年でちょうど八十九年。 『図説 福島県の歴史』(河出書房新社、1989.10)読了。以下「南奥州の武士団」(p100~)より。 文治五年(一一八九)八月七日、源頼朝の軍は陸奥国伊達郡の国見宿に到着(『吾妻鑑』)。翌八日から阿津賀志山の合戦が始まる。 合戦の論功行賞で、東海道大将軍をつとめた下総の豪族、千葉常胤の一族は、街道の好島庄・行方郡と亘理郡および宮城郡・黒川郡(以上、現宮城県)にわたる郡庄の地頭職を与えられた。常胤の次男相馬師常が行方郡(現、相馬郡)を与えられて奥州相馬氏の祖となり、また常胤とその四男大須賀胤信はあいついで好島庄の預所職となる。 好島庄(よしまのしょう)とはいわき市の平(たいら)市街以北の広大な地域の鎌倉期の呼称。庄園領主は山城国の石清水八幡。事実上は、鎌倉将軍家の所領=関東御領。相馬氏初代当主、師常(もろつね)の子孫が行方郡に移るのは鎌倉期すえのころ(Wikipedia「相馬氏」によれば6代重胤のとき)。 ここからが問題。以来、徳川幕末までおよそ七〇〇年間、相馬氏が陸奥相馬を所領していたわけだけれども、その間、大地震や大津波を経験したことはなかったのだろうかということ。 仮に今回のような震災と津波を経験したとすれば、家伝として記録がないほうが不自然。記録はあったけれども津波や戦災などで失ったのか。それとも、記録は現存するけれども人知れず埋もれたままなのか。それとも、七〇〇年間ほんとうに地震や津波に見舞われたことがなかったということなのか。 4.23 山形、桜開花。 4.30 硫黄島、海底噴火か。 公開:2012.5.1 2012.5.31:更新 玲瓏迷人。 poorbook G3'99/しだ 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。 尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。 その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。 降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。 又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。 天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。 こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。 三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発にカを尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。 東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。 後柏原天皇の文亀二年(1503)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。 後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。 更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。 現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。 やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。 以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。
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【元ネタ】日本・史実 【CLASS】セイバー 【マスター】 【真名】新田四郎忠常 【性別】男 【身長・体重】cm・kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力B 耐久C 敏捷C 魔力C 幸運E 宝具B 【クラス別スキル】 対魔力:C 第二節以下の詠唱による魔術を無効化する。 大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の乗り物、動物なら人並み以上に乗りこなせるが、 野獣ランクの獣は乗りこなせない。 【固有スキル】 勇猛:B 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉を無効化する能力。 また、格闘ダメージを向上させる効果もある。 戦歴を重ね、一両日暗闇を探索しても発狂しなかった程の精神力の持ち主。 情報抹消:B 人穴で見た光景を口にすることが禁じられた、という「異説」から生まれた宝具。 セイバーに関する情報を目撃すること自体に影響はないが、真名の口外が死に繋がる。 守護騎士:C 他者を守る時、一時的に防御力を上昇させる。 源頼朝・頼家の二代に渉って仕え、信任を得るに相応しい働きをなした。 精霊の加護:C 浅間大菩薩の加護。危機的な局面において優先的に幸運を呼び寄せる能力。 ただし最後が最後だけに、ただの人間相手では効果が無い模様。 神殺:D 神性スキル保有者に対し、ランクに応じて有利に行動できる戦闘スキル。 富士の巻狩りの際、それと知らずに猪の姿をした山神を討ち取っている。 【宝具】 『富士人穴の御剣(ふじひとあなのぎょけん)』 ランク:B 種別:対軍宝具 レンジ:1~50 最大捕捉:100人 無事帰還する為に、失ってしまった名刀と名刀が消えた「異界」の情景を再現する宝具。 周囲を一旦漆黒の闇で包み込むと、源頼家から授かった重宝の太刀を煌かせ、 暗闇を切り裂く光と共に切り付ける。 セイバーだけは暗闇の中でも相手の居場所を把握出来るが、直撃しないまでも光を浴びただけで 英霊の器に満たない存在は消滅させられ、英霊であってもその身に蒙るダメージは尋常ではない。 【Weapon】 『無銘・太刀』 主から重宝の太刀を授かっていたが、生前自ら失った為に普段は使えない。 『無銘・松明』 暗闇を照らし出す。魔術的な視覚妨害の影響を受けないが、己の位置もばれる。 【解説】 平安~鎌倉期の武士・御家人(1167~1203)。伊豆の人。名字は「仁田」表記もある。 源頼朝の挙兵当時から仕えて信任を得、治承・寿永の内乱で戦功を挙げた。 その後、いわゆる「曾我兄弟の仇討ち」の際に、兄の祐成を討ち取っている。 建仁3年(1203)6月1日に伊豆に狩猟に出た源頼家は底知れぬ「人穴」の存在に興味を抱くと、和田平太胤長に探索を命じる。 胤長は10時間ほどして「大蛇を切った」と言って戻って来た。翌々日、今度は駿河の人穴を見た頼家は、セイバーに探索を命じる。 主従6人で探索したセイバー一行であったが、やがて行く手に大河を発見。 川向こうの「存在」を見た従者4人は即死し、セイバーは相手に言われた通り頼家から授かっていた重宝の太刀を大河に投げ入れ、無事帰還することが出来た。 「存在」はおそらく浅間大菩薩であろうというのが古老の見立てであったが、命拾いしたセイバーは、 わずか三ヶ月後に頼家と北条氏の戦いに巻き込まれ、頼家から時政を討つよう命じられるものの、 弟たちの暴走によりそれも叶わず、「可奔命」と言って頼家の御所へ向かう途中で討たれてしまった。 死後もその存在、とりわけ人穴における異常体験は忘れられず、室町時代には中世小説『富士の人穴草子』を生んでいる。
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千手観音 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 千手観音(せんじゅかんのん)は、仏教における信仰対象である菩薩のひとつ。サンスクリットではサハスラブジャと言い、文字通り「千の手をもつもの」の意味である。インドでヒンドゥー教の影響を受けて成立した観音菩薩の変化身(へんげしん)のひとつであり、六観音のひとつでもある。千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表わしている。 名称 千手観音の尊名について、日本語では「十一面千手観音」「千手千眼観音」「十一面千手千眼観音」など、さまざまな呼び方がある。千手観音像の中には十一面ではなく二十七面につくる像もあり、必ずしも「十一面千手千眼観音」が正しいとは言いきれない。また、文化財保護法による国宝、重要文化財の指定名称は「千手観音」に統一されている。密教?の曼荼羅では観音像は「蓮華部」に分類されている。千手観音を「蓮華王」とも称するのは観音の王であるとの意味で、蓮華王院(三十三間堂)の名はこれに由来する。 像容 坐像、立像ともにあり、実際に千本の手を表現した作例もあるが、十一面四十二臂とするものが一般的である(和歌山・道成寺本尊像は例外で、四十四臂に表わす)。四十二臂の意味については、胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うものであり、「25×40=1,000」であると説明されている。ここで言う「25の世界」とは、仏教で言う「三界二十五有(う)」のことで、天上界から地獄まで25の世界があるという考えである(欲界に十四有、色界に七有、無色界に四有があるとされる)。ちなみに「有頂天」とは二十五有の頂点にある天上界のことである。 蓮華王院(三十三間堂)の本尊は、鎌倉時代の仏師湛慶の名作であるとともに、十一面四十二臂像の典型作である。42本の手のうち2本は胸前で合掌し、他の2本は腹前で組み合わせて宝鉢(ほうはつ)を持つ(これを宝鉢手という)。他の38本の脇手にはそれぞれ法輪、錫杖(しゃくじょう)、水瓶(すいびょう)などさまざまな持物(じもつ)を持つ。38手に何を持つかについては、像によっても異なり、必ずしも決まっていない。また、長年の間に持物が紛失したり、後世の補作に替わっている場合が多い。奈良・唐招提寺金堂像(立像)、大阪・葛井寺本尊像(坐像)は、実際に千本の手を表現した作例である。像高5メートルを超える唐招提寺像は大手が42本で、大手の隙間に無数の小手(現存953本という)を表わす。葛井寺像は、大手が40本(宝鉢手をつくらない)、小手は1,001本である。葛井寺像の小手は、正面から見ると像本体から直接生えているように見えるが、実は、像背後に立てた2本の支柱にびっしりと小手が取りつけられている。葛井寺像の大手・小手の掌には、絵具で「眼」が描かれていたことがわずかに残る痕跡から判明し、文字通り「千手千眼」を表わしたものであった。 日本における造形例 千手観音の造像例は、インドにはほとんど知られないが、中国では唐代の龍門石窟などに遺例がある。日本での千手観音信仰の開始は古く、空海が正純密教?を伝える以前、奈良時代から造像が行われていた。東大寺には天平年間に千手堂が建てられたことが知られ、同寺の今はない講堂にも千手観音像が安置されていた。日本における現存作例では、8世紀半ばの制作とされる葛井寺像が最古とされ、唐招提寺像も8世紀末~9世紀初頭の作品である。和歌山・道成寺の秘仏北向本尊像の胎内からは大破した千手観音像が発見されているが、これは道成寺草創期の本尊と思われ、奈良時代に遡るものである。その他、千手観音をまつる著名寺院としては、清水寺、蓮華王院(三十三間堂)、西国三十三箇所の粉河寺などがある。清水寺本尊は、33年に一度開扉の秘仏で、42本の手のうちの2本を頭上に挙げて組み合わせる独特の形をもち、「清水型」といわれている。同じ清水寺の奥之院本尊の秘仏千手観音像は珍しく27面をもつ坐像である。 日本における代表的な千手観音像 奈良時代(天平期) 大阪・葛井寺本尊坐像 国宝 奈良・唐招提寺金堂立像 国宝 平安時代 広隆寺旧講堂立像 国宝 蓮華王院(三十三間堂)立像 重要文化財 ※創建時作の約120躯 教王護国寺(東寺)旧食堂立像 重要文化財 和歌山・道成寺本尊立像 国宝 鎌倉時代以降 清水寺本尊立像 清水寺奥之院本尊坐像 重要文化財 蓮華王院(三十三間堂)本尊坐像 国宝 湛慶作 蓮華王院(三十三間堂)立像 重要文化財 ※鎌倉期に後補の約880躯 奈良・興福寺旧食堂立像 国宝 魅惑の仏像 千手観音―奈良・唐招提寺 (めだかの本)
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古将棋の研究資料 本将棋、中将棋以外の将棋に関する資料をまとめました。 平安 平大 小 中 大 大大 摩訶 泰 天竺 和 大局 禽 広 正 四方 七国 二中歴 ○ ◎ 普通唱導集 △ △ 象戯図 ○ ○ ◎ ◎ ◎ ◎ 象棊纂図部類抄 ○ ○ ◎ ◎ ◎ ◎ 諸象戯図式 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 古今将棊図彙 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ○ ◎ △ △ 象棋六種之図式 △ △ ◎ ◎ ◎ ◎ 象戯図式 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ △ △ △ 大局将棋駒 ◎ 禽象戯図解 ◎ 広象棋譜 ◎ 七国象棋図 ◎ ◎は全ての駒に行様と配置の記載があるもの ○は行様・配置の何れかが欠けているもの △は言及のみ 『二中歴』 1210年~1221年頃 尊経閣文庫 鎌倉時代の事典。写本のみ伝わる。 「第十三 博棊歴」に平安将棋と平安大将棋の説明あり。 該当部分は『二中歴3(尊経閣善本影印集成16)』(八木書店・1998)に収録。 『普通唱導集』 永仁~正安年間(1297~1302) 東大寺図書館 いわば僧侶のスピーチガイドだが、その中の職業別追悼文例集のところに、 「小将基」指しと「大将基」指しが別項目として立てられている。 鎌倉期には大将棋が実際に指され、更に専門家も存在したことを示す重要史料。 村山修一『普通唱導集 翻刻・解説』(法藏館・2006)で閲覧可能。 『象戯図』 天正19年(1591) 水無瀬神宮 水無瀬兼成著。小将棋~泰将棋。和将棋、天竺大将棋はなし。 大型将棋から現行本将棋への移行期の様子を語る史料として重要視されている。 『象棊纂図部類抄』 天正20年~文禄2年(1592~1593) 東京都立図書館特別文庫室 水無瀬兼成著。『象戯図』の写本とされている。自序題には「象戯圖」とある。 「猫叉」「鉤行(釣行ではなく)」の表記あり。 『諸象戯図式』(初版) 元禄7年(1694年) 所在不明 元禄9年版と微妙に違うらしい。増川宏一氏は見たらしいが所在不明。 同氏の著した『将棋1』の参考文献を見る限り、これは1915年版の『諸象戯図式』に載っているようであるが、詳細不明。 『諸象戯図式』(重版) 元禄9年(1696年) 国立公文書館内閣文庫 小将棋~泰将棋。「踊」の定義あり。 西沢貞陣(太兵衛) 著の4巻本で、1巻は各種将棋の解説、2巻以降は詰将棋集。 『古今将棊図彙』元禄10年(1697) 東京国立博物館 小将棋~泰将棋。正象戯・四方象戯についての記述あり。 「胡時鳥」の表記あり。 『象棋六種之図式』 文政4年(1821) 国立国会図書館(目録では『大象棋絹篩』) 小将棋~泰将棋。和将棋、天竺大将棋はなし。 『雑藝叢書』(国書刊行会・1915年)に楷書活字体で翻刻したものが全部収録。 絶版だが図書館等で閲覧可能。 『象戯図式』 年代不明 所在不明 一部閲覧可能 小将棋~泰将棋。唐将棋、七国将棋、廣将棋、大局将棋の名称あり。 『将棋1(ものと人間の文化史23-1)』(増川宏一・法政大学出版局)に一部収録。 収録されているのは松浦大六筆写の1909年のもの。なお同名の書物多数。 『大局将棋駒』 年代不明 行方不明 閲覧不能 大局将棋。大橋家の古文書。失われた聖典。 以前は関西将棋会館内の将棋博物館にあったが、博物館が閉鎖。 大阪商業大学アミューズメント産業研究所に移管されたはずだったが、 実際には移管されておらず、現在行方不明。 『象棋十三種』 年代不明 所在不明 三井家の資料らしいが詳細不明。岡野伸氏は見ている模様。 大将棋、15×15、36種類、142枚 大将棋(中大将棋)、15×15、32種類、138枚 前後大将棋 25×25 88種類 360枚 についての記述があるという。 『禽象戯図解』天保4年(1833) 大阪商業大学、国立国会図書館 大橋宗英の考案と言われる禽将棋の解説書。 『広象棋譜』 明和7年(1770) 国立国会図書館 荻生徂徠の作と言われる、囲碁の道具を利用して行う将棋。 『七国象棋図』 安永5年(1776) 国立公文書館 司馬光の考案と伝えられる七国象棋について記されている。 中国の戦国時代を模しており、3~7人で遊べる。 『将棋1(ものと人間の文化史23-1)』増川宏一(1977年 法政大学出版局) 将棋類全般の歴史についての本。普通に入手可能。 『象戯図式』を一部収録。増川氏は将棋史研究の大家。 『世界の将棋 改訂版』梅林勲・岡野伸著(2000年 将棋天国社) 小将棋~大局将棋。他多数。 大局将棋を世に広めた本。誤植と推測が多い。普通の本屋では手に入らない? Wikipediaの記事やFLASHは、上記の古文書ではなく、ほぼこれに基づいている。 梅林氏は大商大講師でゲーム研究家、岡野氏は将棋史研究家。