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登録日:2024/01/13 Sat 22 07 37 更新日:2024/04/10 Wed 16 56 48NEW! 所要時間:約 16 分で読めます ▽タグ一覧 Ez-8 イナゴ 三国志 三国演義 世界史 中国史 公孫サン 公孫瓚 幽州 後漢 忘恩と報復、我が道に欠かすべからざる二ヶ条 歴史を変えられなかった男 演義と正史で印象の違いすぎる人 演義の受益者 演義補正 男の嫉妬 白馬 群雄 公孫(こうそん)瓚(さん)とは、後漢末期の武将・群雄。字は伯珪。 異民族で悩まされるあの幽州を武力で統治した人物として知られるが、実際は権力構造まで変えようと計っていた野心溢れる男である。 一時は劉備を旗下に加え袁術・袁紹と渡り合うほどの勢力を築いたのだが、自身のねじ曲がった性格によって自滅した残念な群雄である。 【生涯】◆出生 ◆出世と怨敵・上司劉虞 ◆反董卓連合/袁紹との戦い ◆劉虞を滅ぼす ◆暴走と暗転 ◆滅亡 ◆敗因となった歪み 【三国志演義での公孫瓚】 【創作での公孫瓚】 【生涯】 ◆出生 公孫瓚が生まれた遼西公孫氏(*1)は幽州の郡太守クラスというなかなかの有力豪族であったが、公孫瓚自身は生母の身分が低く冷遇され満足に勉学も受けさせてもらえなかった。 そのため最初は太守でなく、遼西郡の門下書佐という下っ端の端役人に任命される。 こうして公孫瓚は憎悪を抱いたのであろう。持って生まれた身分と教育の差というものに。 だが聡明で容姿が優れ大きな声と頭の回転の早さを持っていた公孫瓚は、郡太守の劉其に気に入られた。 おかげで娘の侯氏を娶り、劉其の援助によりようやく盧植の下で学問を習うことができ、年下の劉備と学友になった。 また、劉寛という人物にも師事している。 その後、恩人である劉其が罪に問われ連行された時には随行し雑役を務め、交州・日南郡(ほぼベトナムの領域)にまで流罪と裁定されると、最早先祖の下には帰れまい彼に米と肉を捧げ祈った。 しかし、幸いにも劉其は後に放免され、公孫瓚も無事帰ることができた。 自身を厚遇してくれた身内に対する義理人情に篤い部分もしっかりあったのだ。 ◆出世と怨敵・上司劉虞 この一件で彼は「考廉」に推挙され、やがて遼東属国の長史という任務を拝命、赴任した。 その遼東では、北方異民族の一派である鮮卑が、頻繁に侵入と略奪を繰り返していた。 赴任早々にこの略奪部隊を目撃した公孫瓚は、たった数十騎を率いて数百騎からなる敵に襲い掛かり、しかも自ら槍を振るって数十人を殺傷し、さらに数の差も覆して敵を撃破するという奮戦ぶりを見せた。 これで「敵にも手強いのがいる」と見た鮮卑族は略奪を控えるようになり、また後漢政府からも軍功を認められて涿(たく)県の県令になっている。 ちなみに幽州の涿県といえば劉備の故郷なので、もしかしたら劉備を招き寄せ、官僚としての実務を教えていたかもしれない。 「黄巾の乱」から一年が経った185年、今度は涼州で大規模な反乱が発生する。首謀者は韓遂と辺章。 後漢朝廷はこれに対処すべく、討伐軍を組織。 討伐軍第一陣の司令官は皇甫嵩だったが、彼は宦官・十常侍の工作によって罷免されてしまい、第二陣として司空・張温を司令官とする援軍が派遣された。 先行する第一陣には董卓・陶謙、第二陣には孫堅といった豪華メンバーが加わっており、張温はここに異民族討伐で功績を挙げた公孫瓚を抜擢しようとする。 だがここに加わりたかった張純という人物が突然逆切れ、異民族の丘力居と共に叛乱を起こすというとんでもない事態に陥る。 もともと、公孫瓚が率いる予定だった烏桓族出身の騎兵三千というのはこの張純が集めたものだった(*2)。しかし指揮官として辞令を受けたのは公孫瓚。彼は「俺が集めた兵士を、なんで他人が率いるんだよ!」と怒り狂ったという。 さらに反乱軍には張純と同郷でもと泰山太守の張挙(のちに皇帝も名乗る)、朝廷に反抗する漢族諸豪族とも連合し、総勢十万と称する大軍勢で、河北一帯を荒らしまわった。 このとき公孫瓚はまだ幽州から出発するところだったため、韓遂討伐軍への合流を諦めて張純討伐を開始(張温はそのまま西方に赴任した)。 緒戦は公孫瓚が張純ら反乱軍を華々しく撃破し、騎都尉に昇進もするが、勢いに乗りすぎて長城をも超えて追撃したため、逆に敵中孤立してしまい、なんとか脱出したものの張純・丘力居を仕留めるには至らず、膠着状態に陥る。 公孫瓚が「白馬義従」と言われる精鋭部隊を得たのはこの頃である。 烏桓族のうち、貪至王というのが率いる一派が公孫瓚に降伏した。 公孫瓚は彼らを得たことで中郎将・都亭侯に任じられたが、彼はさらに降伏した烏桓の一団から、数十人の腕利きと白馬を抜擢して、直属の騎兵隊に組織し「白馬義従」と称した。 公孫瓚の勇猛さは烏桓の間でもよく知られるようになっており、彼らは白馬を見ると「白馬長史」と呼んで、逃げを選んだという。 しかし張純・丘力居の展開する広域ゲリラ戦を捕捉するには至らず、略奪も止められないまま一年が過ぎる。 188年、公孫瓚では叛乱を平定できないと見た朝廷は、劉虞を幽州牧として派遣する。 彼は仁徳と懐柔策を以て丘力居を引き離し恭順させ、大きく兵力を削いだ。彼は数年前にも異民族の反乱を平定しており、人望が篤かったのだ。 どんなことも自力で道を切り拓いてきた公孫瓚にとって、これは大きなショックだった。 自分たちが血みどろになって戦ってきた功績が、皇族に連なる者の仁徳などという恵まれた身の上司が持ってきた存在しない何かで一瞬にして奪われてしまったのだから。 公孫瓚は交渉を妨害するなど徹底抗戦の意図を示したが、結局は劉虞の懐柔策により乱は平定された。 こうして劉虞は三公にまで出世。公孫瓚も董卓の推挙で出世するものの、劉虞ほどではなかった。 ひたすらに戦い続けてきたのに……。公孫瓚は再び辛酸を味わうこととなった。 ◆反董卓連合/袁紹との戦い 190年、洛陽の政権を握った董卓に対して、袁紹・曹操・袁術・孫堅を中心とする「反董卓連合」が決起する。 この時の公孫瓚は、実は両方の陣営に加わっていた。 もともと公孫瓚は董卓のおかげで官職を貰ったことから、親董卓派だった。 しかし一方で、反董卓連合の構成勢力である袁術や劉岱にも援軍を送っていた。つまり反董卓連合に参加したというのも嘘ではなかったのだ。 冀州牧・韓馥の領土に攻め込んだ際も、正史三国志にて「董卓討伐を名目としつつ韓馥攻略を図った」と書かれている。 両方に与したと言うより、両方に襲いかかったというか。我欲一直線というか。野心家である。 公孫瓚は袁紹とも大々的に戦っていた。 董卓が洛陽を破却して長安へと「遷都」するのをヨソに、反董卓連合は紛争が多数勃発、空中分解していた。 盟主であった袁紹も、予州の支配権をめぐり、袁術と対立。陽城と言う場所で、袁紹派と袁術派での大規模な紛争が勃発した。 この戦いでは袁術派が敗北し、公孫瓚が袁術の元に援軍として送っていた公孫越が戦死した。 公孫越戦死の報告を受けた公孫瓚は激怒し、いよいよ袁紹への敵意を固める。 袁紹はこのころ韓馥から冀州の支配権を奪ったばかりだったため、公孫瓚と当たるのは時期尚早と判断し、かつて董卓より与えられた勃海太守の印璽を公孫瓚の従弟・公孫範に譲渡し、彼の口利きで公孫瓚と和解しようと謀ったが、 その公孫範はその印璽を持ったまま公孫瓚と連合してしまい、袁紹は渤海の勢力をみすみす敵に渡す事態となる。 初平二年(191年。この時はまだ劉虞は健在)、公孫範の勃海軍とも合流した公孫瓚は、まずは青州に発生した黄巾残党を殲滅してその物資を奪い、戦力を増強するとともに奮武将軍・薊侯に昇進。 さらに袁紹の「十大罪状(*3)」を大々的に公布し、冀州各地の反袁紹勢力を糾合、配下のうちから厳綱を冀州刺史、田楷を青州刺史、単経を兗州刺史、とそれぞれに任命して、これらの州を支配しようとした。 さらに劉備を平原の相に任命、田楷の支援部隊として青州・徐州方面へと送り込んでいる。 もちろんこれは、南方から進出を図る袁術とも歩調を合わせてのことであり、幽州・冀州・青州・兗州を公孫瓚が、荊州を孫堅が、予州を袁術が、それぞれ狙う戦略だった。 さて袁紹との戦績は、最初の二年間に限れば三戦二勝と、優勢だった。 最初の戦いは191年冬の「界橋の戦い」。この時は袁紹配下の麴義が公孫軍を打ち破り、冀州刺史に擁立した厳綱が捕縛される(もしくは討ち取られる)ほどの大敗となる。 ちなみにこの戦いは演義でも取り入れられている。 翌192年の「龍湊の戦い」は、公孫瓚が界橋戦後から時間をおかずに攻め込んだもので、袁紹軍が撤退。ただ、あまり決定的な戦いというものではなかった模様。 そして同192年に起きた「巨馬水の戦い」にて、公孫瓚は袁紹に大勝する。 まず袁紹軍(将:崔巨業)が公孫軍の故安城を包囲したが突破できず、やむなく撤退を開始。 そこを公孫瓚が大軍を率いて追撃し、巨馬水にて袁軍を追い落として八千人近くを戦死させ、さらに冀州の平原郡にまで進出するという大戦果を挙げる。 しかしやがて袁紹も戦力を盛り返して拮抗、泥沼の消耗戦・長期戦となり、そうこうするうちに後漢朝廷側から「和解勧告の使者」が訪れる。 公孫瓚も袁紹も疲弊しており、これをいい口実として双方和解に応じた。 しかし結局終わってみれば、公孫瓚はもともとの目標だった冀州進出はすっかり果たせず、 逆に、本来は予州汝南郡出身で、冀州にはなんの地縁もなかったはずの袁紹は、公孫瓚に対抗しうる力量を持った冀州の新リーダーとして台頭しており、 戦略面では袁紹にこそ得るものが多い結果となった。 また公孫瓚が各地に派遣した劉備・単経・陶謙も、そして南方の盟主・袁術も、袁紹・曹操・劉表らに破られていく。 ◆劉虞を滅ぼす 袁紹と闘う一方、公孫瓚は劉虞とも対立を深めていた。 しかし異民族に対してはただ懐柔するだけでなく、武力というのも手に持っておかないとナメられる。 このため劉虞は反りが合わなくとも異民族の間で武名を轟かせていた公孫瓚を必要としていた。 だが公孫瓚は劉虞を必要としていない。公孫瓚は劉虞が異民族に与えた物や彼の領内にある物を略奪したりするので、劉虞にとって完全に頭痛の種となっていた。 劉虞が実子・劉和を介して袁術に援軍を送ると知ると、公孫瓚も弟の公孫越に軍を与えて同行させ、劉和の暗殺と袁術との同盟を謀った(*4)。 その狙いは半ば上手く行き、劉和こそ逃したものの袁術は劉虞よりも公孫瓚の方を選んだ。これは反董卓連合が裏で瓦解しつつあることも意味していた。 袁紹と共に劉虞を皇帝に担ぎ上げようとした韓馥も破り、また韓馥から冀州をかすめ取った袁紹とも衝突し、一進一退の攻防をする。 劉虞は皇帝になる事は拒んだが、公孫瓚のことも快く思わずに公孫瓚に与える兵糧だけを削り、一方の公孫瓚は劉虞の近くに拠点を築くなど両者は一触即発となっていた。 最終的にはとうとうブチ切れた劉虞の方から公孫瓚に攻めてきたが、公孫瓚は劉虞の仁徳を逆利用するため民衆を盾にして進軍した。 これに乗ってしまった劉虞は「殺すべき公孫瓚ただ一人である、無用な殺傷はするな」「住民のことを思え、民家を破壊するな」などという妄言をほざいた。 当然兵は混乱し、対して公孫瓚は火矢を打ちまくり街ごと敵兵を焼き尽くして徹底的に攻撃。劉虞はあっけなく大敗し捕らえられた。 公孫瓚は敗れた劉虞を徹底的に貶めた。 真夏の時期に「貴様が皇帝になれる程の英雄なら、雨を降らせて民を助けてみせろ」と無茶振りした上で、果たして雨が降らなかったため「何が天の加護だ!」と儒教の徳目を嘲るがごとき罵倒を浴びせて殺し、 また妻や妾にきらびやかで上質な衣装を身にまとわせ晒し者にした。 また、この劉虞を捕虜にしたちょうどそのタイミングで、朝廷から劉虞に当てた使者が来ていた。 折しも長安では董卓が暗殺された時期で、息を吹き返した朝廷は温厚篤実で皇族の有力株である劉虞に期待を寄せ、勅使を派遣して「関東六州の総督になれ」という辞令を発していたのだ。 また、劉虞と公孫瓚の和解を期待してか、公孫瓚には「前将軍」の官位と「易侯」の封号を与えるとの辞令も持たせている。 その劉虞を捕えていた公孫瓚はむしろ好都合と、まず前将軍・易侯の地位を貰うと、次に劉虞について 「勅使どの、これなる劉虞はかねてより皇帝になろうという野心を抱き、幽州で反乱を画策しておったのです。この公孫瓚が捕えたからこそ大事には至らなかったものの、このような輩を活かしておけばさらなる大乱を招くでしょう。そう思いますね(わかったなおい)?」 と説明しながら恐喝。 勅使をうなずかせると「後漢朝廷も劉虞の反逆を認め、処刑を認証した!」と公表、処刑に権威を付けていた。 また、劉虞に与えられていた幽州刺史の官位も、その勅使を幽州刺史に仕立てたうえで、その使者を擁立して(というか拉致軟禁して?)事実上公孫瓚のものとしている。 この時193年。前年に「巨馬水の戦い」で袁紹を破り、今また劉虞を滅ぼし、官位も高めた公孫瓚。 こうして彼は自らの実力を誇示すると共に、生まれの身分や仁徳など何の意味も為さないということを示したのだ。 ◆暴走と暗転 だが、それは彼の自滅と最期の始まりでもあった。復讐に燃える劉虞の旧臣が袁紹に加勢したのである。 公孫瓚は、劉虞を殺してからも劉虞の残党を根絶やしにしようとした。 もと劉虞の推挙・抜擢で役職についていた官僚たちを探し出しては、追放したり殺害したりして駆逐し、その後釜に自分の子飼いの部下をつける。 またさまざまなコンプレックス故か、幽州にいる知識人や名士を目の敵にして迫害した。 これでは旧劉虞政権の人たちは落ち着くはずがない。 劉虞配下と言えど、もし公孫瓚が劉虞残党も取り立てて政権を構築するというなら、彼らも少なからず仕えたに違いない。袁紹配下の武将たちが袁家を滅ぼした曹操に仕えたようにである。 しかし「劉虞とわずかでも繋がりがあるのなら生かしておかん」などといわれてはたまらない。 彼らは自分たちが生きるために、いや「恩徳あった劉虞の敵討ち」を標榜して、公孫瓚への反抗を決意した。 公孫瓚の暴走は留まるところを知らない。彼は自分が昔受けた善意・善行はすっかり忘れたくせに、自分が受けた悪意・悪行はしっかり覚えていて、後者のぶんだけを報復した。法正「引くわー()」(*5)。 幽州で公孫瓚への怨嗟が吹き荒れるのは当然である。 一部の部下も「もはや公孫瓚には明るい未来はない」と見限っており、趙雲は「兄の喪に服しますので」と、劉備も「陶謙から豫洲刺史に求められましたので」と、さりげなく離脱。 そして、公孫瓚の粛清に抵抗する劉虞残党、追い詰められた幽州名士、何度も討伐を受けてきた異民族が「公孫瓚を打ち破れる英雄」として、南の冀州にあって勢力を拡張する袁紹に期待し集結していくのは必然であった。 劉虞の死から二年後の195年、ついに劉虞の残党が決起。 「烏桓司馬」に推挙された閻柔をはじめ、鮮于輔・斉周・鮮于銀といった烏桓勢力が幽州に攻め込み、公孫瓚の幹部・鄒丹を含めた四千人を討ち取った。 これと同時に(おそらく裏で連合していたのだろう)、冀州で戦力を整えていた袁紹も行動を開始。 劉虞の遺児・劉和や、かつて劉虞の恩顧を受けていた烏桓王などと連合しつつ、配下の名将・麹義を主力に、幽州に攻め込んだ。 これに対して公孫瓚も自ら大軍を動員し、鮑丘にて麹義の指揮する袁紹軍主力と正面から戦ったが、大敗を喫してしまう。 公孫瓚はなんとか脱出したが、二万あまりの軍勢を失ってしまい、さらにこの敗戦が伝わって幽州各地でも反乱が起きた。 公孫瓚はそれでも打って出ようとしたものの、重用している部下の関靖の献策もあり易京城への籠城を選択した。 この易京の要塞ぶりはすさまじく、城は何十もの濠とそびえ立つ城壁に囲まれ、城内に入っても幾重もの塹壕が巡り、しかも至るところに櫓が設置され、そして蓄えた食料は三百万斛(一斛=十斗)、とまで記録された。もはや兵糧切れもあり得ない。 公孫瓚も「こんな城はいかなる兵法でも突破不能だ」「この抱え込んだ食料を食い尽くすころには、天下の事情も変わっておろうよ」と豪語した。 さすがの袁紹・麹義もこの要塞には面食らったか、一年以上包囲したが落とせないまま兵糧が尽き、やむなく退却したところで公孫瓚が出撃、大きな損害を出している。 恐らくこの戦いが、公孫瓚の最後の勝利である。 ◆滅亡 しかし、以後の公孫瓚は完全に易京城へと引きこもってしまい、袁紹への反撃や幽州への命令発行すら行わなくなる。 対して袁紹は、易京には公孫軍が出ないだけの用意に留め、そのあいだに幽州各地で孤立していた公孫瓚勢力を各個に撃破し、公孫瓚をじわじわと追い詰める。 元号が建安に代わった196年には、出撃した公孫瓚配下がかえって袁軍包囲網に敗北するが、 易京城門まで逃げて助けを求めたにもかかわらず、公孫瓚は扉を開けず見殺しにしてしまい、配下の士気と公孫瓚の権威はますます失墜した。 本人曰く「もし助けに行こうものなら、次から部下どもは俺の助けを期待して、本気で戦わなくなるだろう。見せしめにして、部下どもに死力を尽くして戦わせるのだ」……とのことだったが、 結果部下たちは「公孫瓚のために死力を尽くして戦っても、公孫瓚は我々を見殺しにするだけだ。そんな扱いを受けるぐらいなら、さっさと袁紹に降伏したほうがいい」と認識することになる。 籠城するうち公孫瓚には異常行動も目立ち始める。 彼の楼閣では、立ち入れる男性は七歳まで、入っていい大人は侍女・側妾だけとされた。 文書が届いても公孫瓚の手元まで届くことは無い。まずロープで結んで引き上げることで楼閣に入り、かつ大声を出せるよう鍛えた女性たちに、遠くから読み上げさせることで「報告完了」とした。 199年、ついに袁紹が総力を結集して、公孫瓚討伐を決意。易京に攻め込んだ(*6)。 事態を察知した公孫瓚は息子の公孫続を脱出させ、「総勢百万」と謳われた黒山賊の張燕のもとに合流させて、なんとしてでも援軍を出してもらえと厳命。 公孫続が張燕の援軍を連れて戻ってくると、それが高楼から見えたのか公孫瓚はなんとか戦意を取り戻し、 「息子が烽火を挙げつつ袁紹の背後を襲えば、内から父が出撃する」という作戦を考え、その旨を書面に記して密使に贈らせた。 が、この密使が袁紹の包囲網に捕えられてしまい、計画も漏洩。 袁紹はまず計画書に記してあった合図の烽火をわざと挙げ、それを見て「援軍到来」と勇んで出撃した公孫瓚軍を、伏兵で撃破。 完全に心が折れた公孫瓚はまたも籠城体制に戻るが、袁紹はこれ以上戦いを長引かせるつもりはなかった。 袁紹はかねてより地下道の掘削作業を始めており、その工作がついに奏功した。 鉄壁を誇った易京の要塞も地下から侵入した兵には抗しきれず、内側から解放され、袁紹軍本隊も城内へと殺到。 公孫瓚はついに敗北を悟り、妻子を全員縊り殺すと、自らの楼閣にも火を放って焼け死んだ。 焼け残った死体は袁紹軍に発見され、斬首のうえで首は許都の献帝の元へと送られている。 外にいた公孫続も、ほどなくして異民族勢力に殺されている。利用価値がなくなって、張燕から見限られたのだろう。 公孫瓚の敗因は、その生涯で憎み続け一度は打ち負かしたもの。 袁家という優れた身分と能力を持つエリートに、亡き劉虞の仁徳が合わさった結果であった。 ◆敗因となった歪み 公孫瓚の軍が精強だったのは、白馬義従のおかげである。 異民族の騎兵は精強ではあるが、文化の異なる民族の部隊を主力部隊として組み込むとなれば、それは相当な労苦を要求される。 彼らを組み込んで主勢力とできた点は、公孫瓚が軍事において一廉の将であったことを示していると言ってよい。 だが公孫瓚の名は異民族から畏れられたものの、窮地に陥った際に味方とはならなかった。 武名は自身が勢いが盛んな時には有効だが、劣勢になれば無価値となる。 仁徳は乱世においては軽視されがちであるが、劣勢になった時には味方を作り、またはつなぎ止める原動力となる。 劉備が何度も敗れながら群雄として一国の主になれたのも、「信義を曲げない」「信頼を裏切らない」という仁徳の評判が大きかったからだ。 公孫瓚にはそれが無く、一度劣勢に陥ったときに一般の群雄以上に弱体化してしまった。 また公孫瓚は優秀な人材がいると必ず困窮させ、凡庸な者を取り立てた。 彼は部下を実力ではなく忠誠心で選んでおり、凡人なら起用に感謝するが、優秀な人材は当然視するばかりで感謝などしないから、というのが理由とされる。 上述のように生まれと育ちに恵まれたエリートというものを嫌悪していたことが窺える。 しかしこんなことをされればエリートたちは他所に流れ、仕官する。ただの利敵行為でしかなかった。 確かにこの時代、名声はあるものの実務能力がまるで見られない名士…要は中身のないエリートは幅を利かせており、そうしたエリートの能力には懸念もあった所だろう。また、忠誠心に乏しい強力な人材を配下に収めることは、自らの勢力が乗っ取られるリスクを抱えることでもある。 だが、ならエリートでなければ有能かと言えば全くそんなことはない。エリートガチャの高レア封入率は凡庸ガチャよりはまず高いと思われるので、その権利を放棄しているだけでは間違いなく損だろう。 諸葛亮、司馬懿、陸遜と言った三国を支えた名臣も、皆こうしたエリート層出身者である。 実際、公孫瓚には名前が伝わるような有力・有能な臣下が忠誠を尽くしていたという様子が見られないのである。 人材コレクターの曹操はもちろん、袁紹も袁術も、それなりに名前を挙げた臣下が史書に残されているのに対し、公孫瓚はその辺りが素寒貧なのだ。 重用された人物として関靖がいたが、上に媚び諂うのが得意なだけの酷吏とまで酷評されたハズレであり、後の歴史家にも死の間際の関靖自身も「公孫瓚の方が正しく、(易京城に)籠城するのは間違いだった」とまで断言している。その関靖も忠誠心ベースで選んだためか公孫瓚への忠誠だけは本物であり袁紹軍に突撃して散ったが、こんなハズレ人材の忠誠心など得たところで群雄としては何の役にも立たない。 後に曹彰の副将として大活躍した田豫は公孫瓚に仕え、袁紹に寝返って攻めてきた元同僚を戦わずして追い返すという大功績をあげているが、史書で重用しなかったとはっきり書かれている。 若き日の趙雲も当たり人材の一角だったと思われるが、公孫瓚配下としての軍功はこれと言って伝えられていない。というより、劉備に貸し出されているので悪く言えば「貸して使い潰されても惜しくない程度の武将」という扱いだった可能性が高い。 というか、上述のように劉備と趙雲も公孫瓚が暴走し始めた時期にそれぞれ離脱している。 だが、そもそも何故ここまでエリート層を軽視するようなことが可能なのか? 公孫瓚は既存の豪族や名士らに代わって商人たちが舵を取るという重商政策を取ることを考え、そのため複数名の商人と義兄弟の契りを結び彼らを富ませていた。 彼らを利用すれば否応なく貧富に差を作れたわけだ。儒教では商人というのは低い身分であったので、上手く行けば歴史を一変させられた。 しかし豪族や名士という既存の権力は農・商・兵の全てに関わる多角的事業であったので、当然彼らの反発を招き、更に商人は百姓のようなより弱い者から暴利を貪ったりもしていた。特に百姓の困窮は人肉ぐらいしか食糧がないというほど酷いものである。 儒教が中心にあったこの時代でここからどうやって改革していくかは全く不明だが、何かしらのプランがあったのか、はたまた反骨心だけで何も考えず突き進んでいただけなのか……。 旧交のあった劉備ら三兄弟は一時公孫瓚の旗下に身を寄せていたが、劉備は曲がりなりにも後漢皇族の血を引くエリートで、モロに公孫瓚の嫌いなタイプの人材に引っかかってしまっている。 この惨状は耐え難い、さりとて彼を諫めることもできない。 劉備にも身分違いの義兄弟がいるが、公孫瓚も義兄弟のいる身上になった。学友として共にあったあの頃にはもう戻れない。 そのため陶謙に引き留められた際に(引き留められなくても理由を付けて)彼の下を去ることを選んだと思われる。 ちなみにここで公孫瓚に反旗を翻す形を取らずただ去ったことは、劉備の「クリーンさ」を印象づけ劉備が何度敗れても立ち直る原動力ともなったであろう。 その上、上述のように公孫瓚はそうやって選んだ部下の統御もお世辞にもうまいとは言えなかった。 助けを求めてきた部下達を「やる気を出させるため」という理由で見殺しにしてみすみす戦意を喪失させたり、易京籠城中の異常な挙動は、群雄トップとしての根本的な力量不足を露呈している。 追い詰められての判断ミスと弁護できなくもないが、こんな指揮をしていては部下がエリートか否かなど無関係に見限られて当たり前としか言いようがない。 こうして公孫瓚は武勇に優れ社会基盤そのものを覆そうとした超革新派の英傑であったが、最終的にはその根底にあったつまらないプライドのせいで破滅を招いたのである。 陳寿からの評価は公孫度・張楊・陶謙とまとめて「論外。とっとと降伏して血脈を残した群盗ども(張燕・張繍(*7)・張魯)の方がマシ」とまでバッサリ。 三国志という史書は三国時代と変わらず豪族や名士と儒教が中心の世に書かれた上に袁紹age→曹操age→晋ageという流れもあるため、それらへの叛逆を行った公孫瓚がディスられるのは当然だろう。 軍人としては優れていたとも言われるが、戦術面ではともかく戦略面では不足がある。 異民族や反乱軍を深追いして孤立する、袁紹に対して二度も大勝(*8)しながらその後が続かない、一度は冀州・青州・兗州を狙うが一度敗れるとそれっきり……と、長期的視野には欠けている。 特に袁紹との戦いでは、戦闘面ではわりと勝利しているのに、終わってみれば目標は果たせずじまい、というパターンが割と多い。 ということは重商政策を続ける機会が与えられたとしてもやっぱり成功しなかったのでは……と思えてしまう。本当に残念である。 【三国志演義での公孫瓚】 三国演義の公孫瓚は、史実とは全く逆のキャラクター付けをされている。 かねてより劉備のことを気にかけており、朝廷の監督官に賄賂を求められた劉備が、逆に監督官を半殺しにして逃亡していたところ、 漁陽の「張純の反乱」討伐時に当たって劉備を招聘して手柄を立てさせ、また上奏して平原郡の支配者にさせるという形で救助。 董卓討伐時にはわざわざ劉備にも声を掛けて同行させ、諸侯という立場にも入れない劉備たちを袁紹たちに紹介し、一席を与えさせる。 さらに呂布戦では、次々とやられる連合軍の武将にふがいなさを感じてか、諸侯でありながら呂布に一騎打ちを挑むという豪胆さも見せた。史実において公孫瓚に目ぼしい臣下がいなかったため、公孫瓚自身が引っ張り出されたと取れなくもない。 しかし呂布には勝てず、逃げ出したところを乱入した張飛に助けられる。 三国志序盤の見せ場である虎牢関の戦いで、身分の低かった桃園三兄弟を引っ張り出す演出役として、標準以上の存在感はある訳だ。 連合軍が解体すると、史実通り袁紹と対立するが、袁術や劉虞を搦めた極めて複雑な史実の情勢は大幅に再編されて、わかりやすくなっている。 まずは袁紹が公孫瓚を「北から冀州に攻め込まれよ。南からこの袁紹が攻め込んで、冀州を分け合おう」と唆す。 同時に冀州牧の韓馥に「いま北から公孫瓚が攻め込んでくる。対処せねば危ういぞ」とひそかに忠告する。 動揺した韓馥は袁紹に助けを求め、袁紹は無血で冀州を奪った(*9)。 その後、公孫瓚は「冀州を分け合う」という約束を信じて領土割譲の使者に弟・公孫越を派遣するが、袁紹は「董卓の暗殺部隊」を偽装して暗殺してしまった。 激怒した公孫瓚は袁紹を討つべく、磐河に布陣。ここに袁紹と公孫瓚の戦争が始まった。 公孫瓚はまたも一騎打ちに出るが、今度は文醜に敗北して逃げ惑ったところを趙雲に助けられる。 翌日には趙雲を採用したが、流石に採用したばかりの趙雲に重要な部隊を任せるほど信じることはできず、史実同様厳綱という武将を先鋒にして騎馬戦を挑むが、史実通りに麴義に敗れ厳綱も戦死したところを出陣した趙雲が麴義を討ち取って盛り返す。 公孫軍はなし崩し的に先鋒になった趙雲を先頭に袁紹の本陣に斬り込んだが、対する袁紹も田豊の撤退進言を「男たるもの、戦って死んでこそ本望だ!」と蹴飛ばして親衛隊の心を統一し、少ない兵力で趙雲の突撃を押し返す。 さらにそこに顔良・文醜の援軍も駆け付け乱戦になるが、そこに劉備・関羽・張飛が兵を率いて公孫軍に加勢し、不利を悟った袁紹が退却して、なんとか引き分けに持ち込んだ。 その後は長らく対陣していたが、恩を売ろうとした董卓から停戦要請が来たため、両陣営はこれに乗った。公孫瓚は冀州こそ得られなかったが、これ以上の損耗は避けられた。 曹操が、父親の敵討ちで陶謙の徐州に攻め込んで虐殺をすると、糜竺・孔融を経由して劉備が徐州の援軍に向かうことになる。 すっかり劉備の庇護者となっていた公孫瓚は、劉備の相談を受けて快く騎馬隊と趙雲を貸し与え、徐州に向かう劉備軍を補強した。しかし公孫瓚自身は不参戦。 以後のことは描かれず、数年後、劉備が徐州を追われて曹操の庇護下にあったとき(同時に董承の曹操暗殺計画に巻き込まれて悩んでいた時期)、河北の事情を調べていた満寵の報告で、袁紹に滅ぼされた報告が入る。 演義版公孫瓚のもっとも重要な立ち位置は「劉備の先輩で恩人」ということ。こっちの公孫瓚のキャラクター性はほぼこれに終始する。 劉備は関羽・張飛を従え英雄の素質こそあるものの、組織的な権力は持っていない。対して公孫瓚は官界の先輩として、北平郡太守としてのキャリアと戦力を持っており、それを貸し与えることで劉備にいろいろと便宜を図ってくれる、優しい先輩キャラとなっている。 史実における暗黒面は抹消されており、公孫瓚が暴走する劉虞処刑事件・幽州統一期・易京城籠城時期に関しても一切触れない。 実は劉虞も登場しているのだが、名前だけで公孫瓚との絡みは一切ない。 滅ぼされた報告が入る場面はまさに劉備が曹操の監視下から抜け出すという場面なので、袁紹の弟・袁術を討つためと称して名前を使ってもらえる。死んでなお美味しい。 ただし、一時仕えていた趙雲は「袁紹と変わらない」と非難して劉備について行こうとして劉備に宥められるなど、実の所主君・群雄としての扱いはあまり良くない。 一騎討ちも何度かしているが、毎度毎度呂布や文醜に追い回されるなどこちらも今一つ。 呂布と戦って殺されていないし、文醜も趙雲と互角に戦ったり張遼や徐晃を追い払うなど関羽の食事として太らされたことによる強キャラなので特別公孫瓚が弱いということはないのだが、史実では優れていた武勇方面にケチをつけられた感は拭えない。 袁紹に敗北して滅んだことも「一応こんなことがありました」程度に扱われており、身も蓋もない言い方をすればナレ死である。 悪人でこそないものの、劉備の兄貴分という要素をとってしまったら結局陳寿がまとめて評したそこらの諸侯と大して変わらない扱いである。つまり単に劉虞が冷遇されてるだけ だが他の創作への影響は非常に大きく、史実要素があまり含まれていない。 史実の事績はどう見ても残念で残忍な悪党そのものなのに、ばっさり浄化して善玉寄りの人物にしてしまったという演義の影響力の高さが改めて窺える。 【創作での公孫瓚】 コーエー三国志 通称「イナゴ」。 演義ベースでキャラ付けされており、陳寿の評価とは違い劉備より軍事面で優れているが政治や魅力ではやや劣る~明確に劣るぐらいに、高めの評価がされている。 特に数字の傾向はⅨ以降顕著になり、騎馬隊や機動力に関わる特殊能力、易京の戦いを意識した防戦向けの個性を持つことが多くなった。 また、正史の部分も加味された結果低義理・高野望の武将になっており、配下として扱う場合は独立されないよう注意が必要。 基本的に部下が趙雲以外微妙かつ若干少なめで劉備たち三兄弟もいないことから「近くの劉虞や韓馥なんかよりは圧倒的に強いけど袁紹と当たったらまず勝てない上に凄く近い」という感じでイマイチうだつが上がらない。特にイナゴ使い文官が武官の田豫より劣る関靖一人しかいないのがキツい。 ドラマCDでも劉備が劉表の下にいるところから始まるため登場しない。 だが三国志Ⅸでは騎射の上位スキルである走射・飛射のスキルがあることと連鎖して威力を高めることができるというシステムにより、軍も拠点も全てを征圧し進み続けるイナゴ軍団として大活躍。圧倒的人気を得た。 しかも公孫瓚が初期君主となっているシナリオでは勢力兵法に走射が設定されており、公孫瓚軍にいる間は誰でも走射が使えるというインチキじみたプレイを行える。張飛等能力は高いのに城攻めに使いにくいはずの武将が、公孫瓚軍に登用するだけで平気で城攻めを行えるようになる様はまさに恐怖。イナゴオレンジは最高だ! その一方で「80以上のステータスを持たない人物は一定確率で戦死する」というシステムもあるため、趙雲はともかく公孫瓚未満の能力しか持たない他のイナゴたちは常に若干のリスクを抱えている。 ゲーム中では大体放置していると袁紹軍に滅ぼされてしまうのだが、状況によっては逆に袁紹軍を滅亡させてしまうこともある。その際は彼の豊富な人材を吸収し、さらに曹操軍すらも破ってしまい強大なラスボスになるパターンもあるので油断出来ない。 三國志14では劉備と協力して袁紹に勝利した設定の仮想シナリオが実装されているが、袁紹を取り逃がしたせいで人材の吸収に失敗しており、曹操とまともに殴り合うとあっさり押し負ける。さらに不自然死扱いとはいえ開始時点で公孫瓚の寿命が既に切れており、寿命延長アイテムなしだと数年で死亡するという、シナリオの主役とは思えないほど微妙な勢力になってしまっている。 ちなみにイナゴ呼ばわりされるようになったのは、黎明期のニコニコ動画に揚げられた三国志Ⅳのプレイ動画内容が発祥。詳しいことは省くが最初から飛ばしまくりである。 三国志大戦 味方の移動速度を上げる「白馬陣」という計略を持って登場する…が、当初は時間が普通の号令と同じぐらい大したことがなかった。 だがヤケクソ気味の調整によりどんどん時間が長くされ、強力な一枚となった。楽しみだ…だんだん長く速くなっていられるのはな… こんな感じで無印から3まで常に白馬陣と共にあり、武力が上がらない関係上「移動速度」「効果時間」しか弄るところがないためか、バージョンによって浮き沈みが激しい。 特に効果時間が長い時は「武将が落とされなければほぼ常時白馬陣を使っても士気が余る上、移動速度が高いから武将が落とされにくい」と相乗効果で強力になるため環境の一角を築くことも。 が、最終的にはちょっと長い号令ぐらいにされた。馬鹿なあああああ!! ちなみに、旧作ではなぜか公孫瓚関連は家族も配下も一切出てこずぼっち状態だった。田豫も漢軍だし……。 リブート版では白馬陣は嫁に渡し、自身は白馬義従という自分は武力「も」上がるという計略で登場。もちろん若干ヤケクソ気味に上方修正を受け続け、ちょっとした超絶強化にまでなってしまった。最高にハイってやつだァァァァ! 他にも味方の武力と速度と征圧力を上げる白馬の大号令、群雄の味方の騎兵の速度だけを上げる白馬流星陣ととにかく馬と全体の速さに拘っている。 あと、コクピットで串カツを食べようとしていた引き篭もりのエースパイロットとしても登場。攻城時の「ちょうどいい壁ー!」は原作を知っていると爆笑もの。 あと、ようやく先述の嫁と弟が出た。だが田豫は魏軍。そして董卓や呂布といった各英傑まで漢軍としても出る中、一人だけハブられている。 賊軍ではなく劉虞の下についてた正規軍なのに……。 恋姫†無双 無印では攻略不可で真名も無く影が薄い。忠実通り麗羽(袁紹)に倒されたが、ナレ死で終わり。 『真』からは白蓮(ぱいれん)という真名が設定された。やはり麗羽に滅ぼされるのは変わりないが、本作では死亡せず蜀へと逃げ延びるというまさかの生存ルート。 普通(属性)の持ち主。 部下である星(趙雲)に去られる運命を持っているのは変わりないが「あくまで劉備軍の方が活躍できる」「優しいが戦乱の世には似つかわしくない」と人格面は評価されていた。 白井式三国志 どう見ても山賊の親玉にしか見えない髭もじゃのオッサン。 劉備の兄弟子であるが、劉備と同等かそれ以上に粗暴であり、学生時代には検便を教頭にぶつけていた。 蒼天航路 三国志演義と同じ様に劉備の兄貴分として振る舞う。 劉備の「自分の旗を立てて名を上げる」という案につい快諾したところ、部下から「それだと皇族扱いになりません?」と言われて、青ざめながら前言撤回するというコミカルシーンもある。 しかし袁紹との「磐河の戦い」では、趙雲の麹義ぶった切りと劉備の演説、袁紹の怒りも兵も抑える度量に食われて公孫瓚自身の活躍はほとんどなし。 一方、乱世に対しては独特の考えを持っており「俺はただひとり乱世の時の刻みを見ている男でありたい」「自分の代で天下を取れなくても良い」と本拠地に籠もり、他の群雄が戦い疲れてから覇業を行おうとした。 しかし袁紹の子・袁尚に期待していた息子を殺された上、「覇業とは一世一代、おのれの生涯にて完結させるものだ!」と論破された。己の志が衰えていた事を思い知らされた公孫瓚は炎の中に消え、袁尚からは最もつまらぬ敗者と侮蔑された。 BB戦士三国伝 CV 井上悟 「『白馬将軍』公孫瓚イージーエイト」の名前で登場。演者はガンダムEz-8。 慮植ジムキャノンの門弟の一人で、主人公劉備ガンダムの兄弟子。 彼から「公孫瓉のアニキ」と慕われる人格者であり、劉備の義弟である張飛ガンダムからも「アニキのアニキ」の尊称(?)で呼ばれる。 作品によって役回りや出番が大きく異なり、初代のコミックワールド版ではロクな出番も無いまま「公孫瓚憤死!」というあまりにもあんまりなナレ死を迎えている。しかも袁紹ではなく曹操の手で。まあ初代CWだとその袁紹も空気なんだけど アニメ版ではそこそこ出番があり、アニメオリジナル商品の「クラッシュギア騎馬ブレイカー」を用いた「白馬陣」も披露した。こちらでは袁紹に討たれている。 初代ではキットは発売されず、アニメ化の際に改めて「真」版名義で発売された。トレードマークのマントが可動式になっており、動きがつけられる。 また、2018年には初代版のフォーマット&中国展開限定のキャンペーン品だった「四神鬼甲戦車」とのセットとして成型色変更版も発売された。 真・三國無双 CV 石川英郎(3,4)、中尾良平(5)、滝下毅(6,7)、金本涼輔(7猛将伝以降) 最新作の8に至るまでモブ武将のまま。 虎牢関の戦い辺りまでは登場するが、その後は概要のナレーションで袁紹に滅ぼされたとサラッと語られる程度なのも珍しくない扱い。一部シリーズでは、袁紹陣営を操作する際の敵軍として登場することもあるにはあるが。 基本的に袁紹に対して対抗意識を燃やしており、白馬義従の力で天下に名乗りを上げようとするキャラである。だが人徳を顧みない性格が災いして、趙雲を幻滅させてしまい軍を去って劉備の元へと走っていくのが最早お約束(*10)。5の趙雲伝のムービーでは、「御免!」と目の前で馬を反され彼に去られてしまう公孫瓚の姿はなんとも哀れとしか言い様がない…。 ただ、3猛将伝などで絶影鐙を持たされていたりする。これは「乗っている馬から絶対に落ちない」というもので、こちらも騎乗していなければ空中攻撃などしか当てられない、しかも絶影鎧なしでは攻撃を一回でも受けると落馬するため地味にウザい。 騎乗攻撃が得意な馬超とかならお茶の子さいさいではあるのだが、大半の武将はそうでないので本当にウザい。 Empiresのような作品では、一応君主だったことあり彼を立ててゲームクリアすること可能ではある。同じ陣営にいた趙雲ばかり使ってたって人は怒らないから手を上げなさい。 我が白馬義従に、追記・修正は必要ない! △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 劉備と親交があったから演技は善玉よりの書かれ方するけど、ぶっちゃけ悪党だよねこの人 -- 名無しさん (2024-01-13 23 24 53) ああ・・・いなごだ・・・ -- 名無しさん (2024-01-13 23 34 54) 民草を苦しめ、人を生まれと育ちで差別し気に入らなかったら上司だろうと噛みついて貶め殺したりもする・・・これだけ見たらまあ間違いなく悪党。そんな闇を全部切り捨てて善玉として世に広めた演義が凄いんだわ -- 名無しさん (2024-01-14 00 19 33) 演義でしか知らなかったので「え、こんな人だったの!?」と感じた -- 名無しさん (2024-01-14 00 49 01) 瑣末だけど『論値』は『論外』にならないかな、知らないと誤字にしか見えない。スラングが風化した後でいいけど -- 名無しさん (2024-01-14 02 49 10) 劉備の同胞として描くには、劉虞への扱いがアレ過ぎてあまりにも都合が悪すぎるからか、演義だと劉虞の存在その物がカットされてるというね -- 名無しさん (2024-01-14 04 26 09) ゲームで袁紹に対抗しようとすると劉虞と韓腹潰して漸く人材的にトントンになるくらいの差がある -- 名無しさん (2024-01-14 09 15 20) しかし演義でも趙雲から「袁紹見限って駆け込んだけど、公孫瓚も袁紹レベルじゃん」と言われてたりして、きれいっちゃきれいだけど人物としては「まぁそこそこ」くらいだったりする。 -- 名無しさん (2024-01-14 09 58 51) もし袁紹を倒して勢力を広げたらその後どう動いてたんだろうか -- 名無しさん (2024-01-14 14 40 30) 取り敢えず河北制圧したんじゃない?そっから南下するかはわからんけど -- 名無しさん (2024-01-14 18 01 51) 悪人というか名士社会に反発した人っぽいなので史書に悪く書かれてる面はあると思う。記録する側が名士なんだから良く書いてもらう余地が欠片もない -- 名無しさん (2024-01-14 18 21 52) 宮城谷三国志の「公孫瓚は気が付かなかったが、劉虞を慕う幽州の民の心の中に確かに涙という雨が降った」ってくだりは公孫瓚の末路を暗示してて秀逸だった -- 名無しさん (2024-01-14 20 18 11) 優れた参謀が1人でもいれば違ったんだろうが・・・。へりくだる無能者ばかり側に置いてたんじゃ、田豊や沮授のいる袁紹陣営に勝てる訳ないわな。 -- 名無しさん (2024-01-14 20 55 05) SDガンダム三国伝じゃイージーエイトのか。 -- 名無しさん (2024-01-14 21 30 46) FC版だと大体真っ先に劉備に潰される人 -- 名無しさん (2024-01-14 22 59 25) まぁ、武勇に自信ニキが頭やってると失敗する典型。 -- 名無しさん (2024-01-15 03 45 39) どの時代も武断派って理屈すっ飛ばして自分の意見ゴリ押して状況悪化させるイメージ -- 名無しさん (2024-01-15 13 41 07) ついに三国志系のカテゴリも公孫瓚の記事まで出来たか、この調子ならそのうち張魯とかの記事もできそうだな -- 名無しさん (2024-01-15 18 09 44) ↑14まあ劉虞も死後に愛人達に豪勢な生活させてた事がバレて評判落とすからむしろ演義で悪いところも含めてカットしてもらえて助かったかもしれん -- 名無しさん (2024-01-15 18 13 06) なんていうかもう、幽州の狂犬だな・・・ -- 名無しさん (2024-01-16 23 14 37) 「このままでは皆焼け死んでしまうぞ」※火をつけたのは自分 -- 名無しさん (2024-01-17 09 06 28) 幽州のボスで異民族の騎兵使って大暴れと言うので思い出したのが、八王の乱でパワーバランスをぶっ壊して戦乱を終わらせる並の活躍をした王浚。三国志じゃない分どうしても知名度に劣っているし彼は彼で後世の評判もよろしくない訳だが、もし公孫瓚がもっと真っ当に組織運営できていれば、彼ぐらいに暴れ回っていたのだろうか… -- 名無しさん (2024-01-17 17 50 48) 英傑大戦にも出てる、リュウグはまだいないのに、。 -- 名無しさん (2024-01-20 00 02 49) 項目を読んだけどとにかく器が小さい男って印象。多分劉虞か袁紹配下の将軍の一人位が似合いの器だったんだろうな -- 名無しさん (2024-01-20 00 35 48) ↑7 反乱に定評のある韓遂、燕王を自称しあえなく撃沈された公孫淵、曹操の台頭を支えた荀彧あたりも来そうなのでネタには困らないな -- 名無しさん (2024-01-20 06 28 59) 名前 コメント
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伊東公園 いとうこうえん #ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 静岡県伊東市の伊東駅近くにある公園。 所在地 静岡県伊東市湯川6丁目 地図 より大きな地図で 静岡県 を表示 都市公園 面積0.9ha 伊東駅裏の小高い丘にある公園。 李王家の別荘跡や、木下杢太郎碑などがある。 関連項目 2013年2月伊東 タグ 2013年2月24日 伊東市 公園 施設 静岡県
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遼東の王の後継者…なのだが、統率と騎兵適性がそれなりにあるだけ。 特技もあるが、知力との相性は低め。 前線に出すには武闘派のフォローが必要だろう。 -- (名無しさん) 2010-12-09 09 30 29 駄目なほうの公孫一族では唯一の特技持ち。 だが知力61が待伏を持っててもまず役に立たないので別の特技に書き換えた方がまだマシだろう。 でも一族全員義理低め・野望高め…。この一族本当に使えない…。 -- (名無しさん) 2011-06-12 08 08 58 S2の公孫度勢力なら武力と統率を積んでじっくり育てて主力にしなくてはならないが、寿命が短いのでS4移行は注意。待伏は北方では活きないなぁ、、 -- (名無しさん) 2011-07-12 00 06 53 騎兵は伏兵コマンドを使えないというのも逆境 -- (名無しさん) 2011-07-12 00 46 37 一族ではましな魅力。伸ばして登用に使いたい。 -- (名無しさん) 2011-07-25 02 12 48 意外にも水軍B。しかし使う機会はあまりないかも… -- (名無しさん) 2016-04-03 14 25 10 やけに野心が高いな。小者でも野心は旺盛というわけか? -- (名無しさん) 2016-11-03 15 16 20 曹操を恐れて袁譚兄弟を殺害して差し出したが、野望は潰えてなかったことの表現じゃないかな。 さておき、本人は3流の武官といったところ。三顧の礼シナリオでは袁兄弟がいるためまだマシだが、劉備入蜀に至っては彼1人というドM向け難易度になっている。 内政に戦闘に、回らない手を必死に回しながら全力で頑張ろう。 -- (名無しさん) 2016-11-03 22 36 56 ↑劉備入蜀の時の君主は公孫恭だぞ -- (名無しさん) 2019-08-14 12 06 17 うーん -- (名無しさん) 2021-09-25 19 44 10
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コウソンエツ 列伝 公孫瓚の弟(正史では従弟)。 【演義】 袁紹が公孫瓚と共謀して冀州を奪った後、領土の取り分を交渉するため袁紹を訪ねる。しかし、袁紹には公孫瓚に領土を与える意志はなく、帰還中、董卓の部下を装った袁紹の兵に射殺された。 【正史】 公孫瓚の命で袁術に協力する。袁術配下の孫堅が董卓軍と交戦中、袁紹軍の周昂に攻められた際、袁術から援軍として派遣された。孫堅と共に周昂を迎撃するが、流れ矢に当たって戦死した。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 74 72 47 54 67 314 146 193 順位 143 178 475 392 266 239 149 237 偏差値 57.5 56.8 44.2 48.9 54.0 54.0 57.5 54.6 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 B C C S B C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 60 62 50 60 48 52 83 74 58 50 50 49 順位 185 172 283 257 289 247 62 46 136 136 236 208 偏差値 55.9 56.5 52.8 53.2 53.6 53.2 62.6 64.1 58.0 57.4 54.2 54.3 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 白馬 技巧「騎射」を未研究でも騎射が可能。騎射がクリティカル マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 65 幽州 実績 中華統一 臨機応変 4/5 3/5 2/3 160 184 192(33歳) 不自然死 剛胆 剛胆 普通 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 道理 ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 公孫越が親愛する武将 なし 公孫越が嫌悪する武将 なし 血縁 世代 ● ● 1 公孫瓚 公孫越 公孫範 2 公孫続 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 25歳 一般 北平 公孫瓚 120 奮威校尉 3000 - - S2 190年 1月 反董卓連合 31歳 一般 北平 公孫瓚 120 忠義校尉 5000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 - 死亡 - - - - - - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 死亡 - - - - - - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 死亡 - - - - - - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 北平 公孫瓚 120 奮威校尉 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 死亡 - - - - - - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 死亡 - - - - - - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 28歳 一般 北平 公孫瓚 120 忠義校尉 4000 - - S13 191年 7月 序を制する者 32歳 一般 南皮 公孫瓚 120 牙門将軍 8000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 平原 - - - 0 - - キャーエツサーンで一部からカルトな人気を誇る、公孫瓚の血族。 騎兵Sかつ特技「白馬」は、初盤の騎射要員としてかなりの戦力になる。 -- (名無しさん) 2010-07-06 22 55 11 これでも昔に比べると格段に強くなった。どこが?と思うかもしれないが、実際公孫サン軍の中では使える武官に位置する。 血縁補正もあるので、ファンなら強化して使う価値は充分あると思われる。 ただし寿命は短いので注意。 -- (名無しさん) 2011-02-22 09 34 34 公孫瓚の血族ではこいつだけ自然死なのに注意 -- (名無しさん) 2011-08-10 18 51 55 間違えた -- (↑の者) 2011-08-10 18 53 05 能力は非常に微妙だが、白馬持ちの支援攻撃は強力無比。義理も高いので、裏切り防止をかねた脳筋義兄弟あたりを部隊に組み込んで、君主や甥と積極的な血族支援を狙いたい。 もちろん本人も育成に耐えうる能力の持ち主なので、能力研究の進み具合次第では本人を育成してもよい。 -- (名無しさん) 2014-09-04 14 30 28 名前 コメント すべてのコメントを見る
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名稱:公孫勝 伺服器及顏色:5服紫類型:文 性別:男 生命值:3075 武力:63 智力:71 防禦:35 敏捷:61 運勢:143 敘述:公孫勝,河北薊州人。梁山人馬攻打高唐州時,高廉手下有三百飛天神兵,高廉會用妖法,使宋江折兵損將。吳用讓宋江請公孫勝來破高廉。公孫勝是羅真人 的大徒弟,名叫清道人。與高廉鬥法,大獲全勝。高廉駕起一片黑雲想逃走,被公孫勝用法術從雲中打落後殺死。宋江率梁山好漢鬧華州後回到梁山,路過徐州沛縣 芒碭山,被能呼風喚雨的混世魔王樊瑞、八臂哪?項充、飛天大聖李袞攔阻。公孫勝見芒碭山內盡是青色燈籠,就知道有會用妖法的人在內。公孫勝獻計用法術破了 三人,勸他們歸順梁山,建立奇功偉業。在梁山泊英雄排名次時排行第四,封為掌管機密副軍師。宋江受招安後公孫勝回薊州出家。
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公孫越(こうそんえつ) 字は不明 (?-190) 公孫瓚の従弟。 帝は洛陽へ帰りたいと考え、劉虞の子で侍中の劉和を父親の元に派遣し軍勢を率いて迎えに来るよう命じた。 しかし、袁術領内で引き止められ、事情を知った袁術は劉虞を利用しようと考え、劉虞の軍勢が到着したら共に向かうと約束して、劉和に劉虞宛ての書簡を書かせる。 それを受け取った劉虞は数千の騎兵を派遣しようとしたが、公孫瓚は袁術に二心があることを見抜いていた為、軍隊の派遣を望まず劉虞を止めたが聞かなかった。 公孫瓚は、劉虞を引きとめたことを袁術に知られてはまずいと考え、公孫越に千騎を率いさせ、袁術の元に行かせて手を結ぶ一方で、内密に劉和を逮捕。彼の軍勢を奪い取るよう策動する。 これにより公孫瓚と劉虞の仲が悪くなった。 暴政ふるう董卓に対して義軍が立ち上がると、袁術は孫堅に陽城で董卓にあたらせていたが、袁紹は周昂に命じてその陣地を奪取させた。 袁術は孫堅と公孫越を派遣したが勝利できず、公孫越は流れ矢に当たって戦死した。
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東扇島東公園 ひがしおうぎしまひがしこうえん #ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 神奈川県川崎市にある公園。 所在地 神奈川県川崎市川崎区東扇島58-1 URL … 港湾法に基づく港湾環境整備施設…、港湾広域防災施設として国土交通省が整備し、川崎市港湾局が管理している。 川崎市港湾施設条例第2条第2項の規定に基づく告示 名称:東扇島東公園 位置:川崎区東扇島58番地1 施設の概要:休息緑地・港湾広域防災施設 規模:152350平方メートル 2022-09-04 関連項目 2022-09-04 東京サイクリング この項目のタグ 2022年 2022年9月 公園 展望 川崎市 神奈川県 タグ「川崎市」がついた項目 2008-04-27 / 2008-11-23 / 2010-12-11 / 2011-11-03 / 2014-10-18 / 2020-11-10 / 2022-09-04 / 川崎河港水門 / 川崎港海底トンネル / 川崎大師 / 国道15号 / 三ちゃん食堂 / そば処白川郷 / 多摩川スカイブリッジ / ダイニングキッチンスプーン / nichinichi / 日本民家園 / 東扇島東公園 / シモンズ / パワーズ タグ「展望」がついた項目 アエル / 油坂峠 / 池田ワイン城 / 一号空港緑地 / 指宿スカイライン / 上野スカイブリッジ / 海ほたるパーキングエリア / エスカヒル鳴門 / 大高森 / 大深沢展望台 / 奥鬼怒林道 / オロンコ岩 / 崖ノ観音 / 刈場坂峠 / 川治ダム / 官軍塚 / 寒風山回転展望台 / 刑部岬 / 清水寺 / 九十九谷展望公園 / 来島海峡大橋 / 恋人岬 / 光泉寺 / 国道334号 / 昆布刈石海岸 / さった峠 / さっぽろテレビ塔 / 三湖パラダイス / 思惟大橋 / 城ヶ倉大橋 / 正丸峠 / 城山公園(館山市) / 城山展望所 / 信州松本美ヶ原温泉翔峰 / 新宿NSビル / 洲崎神社 / ゼックス愛宕グリーンヒルズ炙り焼き&寿司アン / 千光寺 / 太東崎 / 旅人岬 / タワーホール船堀 / 大黒山展望台 / ダイヤと花の大観覧車 / 地球の丸く見える丘展望館 / 千葉県道93号 / 千葉ポートタワー / 月夜見第一駐車場 / 妻恋峠 / 天狗岩 / 出逢い岬 / 東京タワー / 東京ゲートブリッジ / 東京都庁舎 / 東京湾観音 / 朱鷺メッセ / 徳島県立渦の道 / 富山市役所 / 中の島大橋 / なごみの塔 / 七子峠 / 南国酒家羽田空港店 / 新潟日報メディアシップ / ニライ橋・カナイ橋 / NEXT21 / 八幡岬 / 晴海ふ頭公園 / バンナスカイライン / ビーナスライン / 東扇島東公園 / 日の出山 / 日和田山 / 富士見坂(豊島区) / 富士見パノラマリゾート / ぶどうの丘 / 不動沢橋 / プユニ岬 / 文京シビックセンター / 別府タワー / 宝泉寺 / 北西の丘展望公園 / ほったらかし温泉 / 堀切峠 / 摩周湖第一展望台 / 回顧の吊橋 / 三国峠 / 港の見える丘公園 / 嶺岡中央林道 / 宮の台展望台 / 名山台展望公園 / 明治百年記念展望塔 / 柳沢峠 / 山寺 / ユウスゲ公園 / 湯之平展望所 / レインボーブリッジ / レストラントライベックス / 六方沢駐車場 / 六方沢橋 / 割岩橋 / ドラゴンプロムナード
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コウソンハン 列伝 公孫瓚の従弟。 【演義】 記述なし。 【正史】 袁術軍に味方した公孫越(公孫瓚の従弟)が陽城で袁紹軍の周昂に敗死すると、公孫瓚の反撃を恐れた袁紹から友好の証として渤海太守の印綬を与えられる。しかし、袁紹になびかず、公孫瓚に助勢して青州と徐州の黄巾賊を破り、界橋に進軍した。公孫瓚が界橋の戦いで敗れた後、共に渤海から薊に退却し駐屯。薊に居所を置いていた劉虞との仲が険悪になった。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 73 69 64 62 61 329 142 206 順位 163 247 340 322 350 187 185 165 偏差値 57.0 55.6 52.5 52.5 50.8 56.3 56.6 57.3 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C B S B C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 51 54 48 59 52 58 79 73 55 50 48 49 順位 321 267 334 267 193 165 80 49 181 136 290 208 偏差値 52.1 52.8 51.9 52.8 55.6 56.2 61.0 63.6 56.4 57.4 53.2 54.3 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 白馬 技巧「騎射」を未研究でも騎射が可能。騎射がクリティカル マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 65 幽州 能力 中華統一 臨機応変 4/5 3/5 2/3 158 184 199(42歳) 自然死 冷静 冷静 普通 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 故事 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 公孫範が親愛する武将 なし 公孫範が嫌悪する武将 なし 血縁 世代 ● ● 1 公孫瓚 公孫越 公孫範 2 公孫続 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 27歳 一般 北平 公孫瓚 120 長水校尉 1000 - - S2 190年 1月 反董卓連合 33歳 一般 北平 公孫瓚 120 奮威校尉 3000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 37歳 一般 北平 公孫瓚 120 牙門将軍 9000 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 死亡 - - - - - - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 死亡 - - - - - - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 北平 公孫瓚 120 - 0 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 41歳 一般 北平 公孫瓚 120 平東将軍 13000 - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 死亡 - - - - - - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 30歳 一般 北平 公孫瓚 120 奮威校尉 2000 - - S13 191年 7月 序を制する者 34歳 一般 南皮 公孫瓚 120 忠義校尉 6000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 薊 - - - 0 - - 一族揃って白馬持ちで騎馬適性S。 流石に主将は厳しいが、副将候補としてはゲーム後半でも使える水準。 -- (名無しさん) 2010-09-18 15 13 58 能力はB級だが特技は強い ↑のように副将で使うのが無難か 義理もそこそこ高いので季節またぎの戦も安心 -- (名無しさん) 2010-09-23 19 33 15 公孫瓚の血族ではこいつだけ自然死なのに注意 -- (名無しさん) 2011-08-10 18 53 19 一族では従兄の次に知力が高いので、 適正・特技付与担当の他にも防計担当も兼ねさせるために知力を鍛えておけば副将として最後まで使える もっとも史実モードでは寿m(ry -- (名無しさん) 2012-11-18 01 43 10 名前 コメント すべてのコメントを見る
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公孫続(こうそんしょく) 字は不明 (生没年不詳) 公孫瓚の息子。 名前が出てくるのは、公孫瓚が袁紹の猛攻撃を受けて公孫瓚に救援の手紙を送った時。 その為、それまでの人生は全く分からない。 公孫瓚が公孫続に送った手紙は以下の通り。 「彼(袁紹)の攻撃ぶりは鬼神にも似て、鼓角(太鼓と笛)が地中から湧き起こり、雲梯・衝車は我が城樓を攻め立てる。日に日に勢いは窮まってどうする術もない。お前は張燕に頼み込んで(砕けるほど頭を打ち付けて頼み込み)軽騎兵をよこしてくれ。到着したら北の方角で狼煙を挙げよ。私はそれに呼応して城から突出しよう。そうしないと、私の死後、お前は安住の地を求めても得られないぞ」 この手紙は袁紹側に渡ってしまい、袁紹軍が挙げた狼煙に公孫瓚は飛び出し、用意されていた伏兵に蹴散らされた。 公孫瓚は、その後に妻子を殺害して自殺しているが、公孫続も屠各(とかく/異民族である匈奴の中心部族)によって殺されている。 ちなみに、死んだ年は分からない。 (後漢書「劉虞公孫瓚陶謙列伝第六十三」には詳しく載っていない) 公孫瓚が亡くなった後に殺されていることは間違いなく、199年以降そう離れた年月は経っていないだろう。 更に。三国志「二公孫陶四張伝第八」には、公孫続が屠各に殺されたことは載っていない。
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三國志IX 【さんごくし ないん】 ジャンル 歴史シミュレーション 対応機種 Windows 98~XPプレイステーション2プレイステーション・ポータブル 発売・開発元 コーエー 発売日 無印 2003年5月14日パワーアップキット 2003年8月19日 定価 12,800円 判定 良作 ポイント 戦略に焦点を当てた異色作 三國志シリーズ 概要 システム・特徴 評価点 賛否両論点 問題点 総評 余談 概要 コーエーの古き良き看板『三國志』シリーズの9作目。Win版で発売後、PS2やPSPに移植されている。 発売年は2003年だが、その後パワーアップキットが登場してから廉価版や移植として10年近く何度も再販されており、実に12個もの別パッケージがある。 前作・前々作で推し進めた「全武将プレイ」からシリーズ元来の「君主プレイ」に回帰したが、システムは1枚マップなど新要素が多い。 また、政治よりも戦略に重点を置いている点でも、シリーズでは異色の部類に入る。 その評価は高く、何度も再販されているにもかかわらず最新のPSP版は携帯機で遊べることもあり中古市場では高値が付いていたり、 動画サイトで『X』以降の作品以上に多数のプレイ動画が投稿されているなど、今なおプレイヤーは多い。 システム・特徴 シリーズで初めて1枚マップを採用。 今までは地図上に都市がいくつもあり、戦争では別個の戦場マップが呼び起こされる形だった。 これを完全に俯瞰視点の広い地図1枚に一元化し、戦争や部隊の移動もこの上で行うような形となり、現実の雰囲気に近い形でゲームを進められる。 完全なターン制であり、戦略フェイズで指示を出した後、進行フェイズで10日にわたって武将がそれを実行する…というのを繰り返す。 遠方の都市を探索したり外交に行ったりすると、距離に応じた日数を消費するため、それを見越した上で指示を出す必要がある。 それぞれの合戦が独立していないため、たとえば「西側で起こった戦闘に南西の都市から援軍を送ったら、手薄になった南西の都市に攻め込まれる」などといった事が起きる。 進行フェイズでマップ上を部隊が行軍している間は、自分は基本的に指示を出す事ができない。 出城する部隊には戦略フェイズで「命令」を各個出すことが出来、それに従う形で行動する為、時間経過を見越した指示が必要となる。 このような(ある意味では現実の一国の君主に近い)命令をしての委任リアルタイム戦闘は三國志シリーズでは現在本作のみである。 「異民族」(マップの隅に存在する漢に属さない民族)や「建造物」(城塞や砦などリアルタイムで建造し、橋頭堡として使える)などの要素が重要なのも今作の特徴。 また戦争においては兵法の「連鎖」というシステムがあり、弱い兵法しか持っていない武将でも集めて連鎖を起こせば予想以上の力を発揮したりといったことがある(もちろん強力な兵法を持っている関羽や馬超や呂布といった一部の武将たちは、弱い兵法を回避しやすいこともあり敵を圧倒できる力を持つ)。 また軍団の「陣形」によっても発動しやすい兵法が異なり、これらの軍団の部隊編成がとても重要。 評価点 システム面の進化 1枚マップ&リアルタイム戦闘による戦略性が非常に高い。 今までの「便宜上、戦場マップのみを毎回呼び起こしていた」システムと違い、今作のリアルタイム戦闘は現実に近い戦略が機能する為、かなり面白い。 いくら兵数があろうとマップを行軍して目標にたどり着かないと攻撃しないので、今までのように兵数の多寡ですぐ優位が決まるというわけではない。 どんな大軍も遠くの場所へすぐ援軍に行くのは不可能であり、今までとは違った切り崩し方が生まれている。 史実で言う曹操や孫策のような「勢力拡大に積極的な英雄を模したプレイをする」という点においては、シリーズの全作品の中でも屈指のシミュレーション度である。 戦場の地形や要所などの再現度が高い 易京の要塞や各種の関所など、今までのシリーズ作品では表現しきれなかった要素も違和感なく溶け込んでおり、要塞を建造して守りを固めたり、関所があればそれを利用したり逆に迂回して攻めたりといった戦略が機能する。 今までは結局のところ「数遊び」であり、領土を増やしても勢力の強大化が実感しにくかったが、今作は領土が増えれば攻める道も増える。また、長江や剣閣などの要害を利用できる都市は守りやすいし、それを衝ける(益州へは北からより東からの方が攻めやすいなど)土地を確保すれば攻めやすくもなる。 全体としてゲーム化のためのデフォルメ感が薄く、現実味が強いのである。 「クリック連打ゲー」からの脱却 今までの数字いじりと違い、そのゲーム性から、一歩引いて大局的に戦略を考えるゲームとなった。 いちいちクリックして全ての数値を決めなければならなかった今までと違い、このシリーズの遊び方の基本である長時間プレイにおいて今作は単純に楽な面がある。 特に前作は戦争一つに非常に時間がかかるゲームだったので、それに比べると展開がスピーディ。かといってゴリ押しゲーかというとそうではなく、上述通り物量を溜めて圧殺するゲームにはなりにくく作業感は減った。 ムービーなど演出が良好 非常に三国志に合った雰囲気がある。一説にはシブサワ・コウが監修していた最後の三國志シリーズのムービーらしい。 ちなみにナレーションは郷里大輔氏が担当しており、重厚な歴史シミュレーションの世界観を表現している。 音楽が生楽器なのも中華的で良い。 各種バランスの良さ 官爵の細分化 部下にきちんと官爵を与えて権限を持たせることができる。 今までだと丞相や三公以外は割といい加減だったが、今作では史実を知っている人ほど楽しく官爵を設定できるだろう。 ただし、州牧と州刺史の上下がなぜか間違っている。シリーズの他作品では正しい序列(州刺史が上)になっているのに、本作では刺史が上位になっている。謎である。 州刺史と州牧は実態の変遷の中で時代時代でころころと名前が入り変わり、後漢では州刺史と州牧が並存してさらにややこしくなっているが、後漢末においてはどちらも州の全権を持っていて権限自体は大差ない。しかし州刺史は官職の格は州の下の郡を統べる太守より本来は低かったのに権限が上になっていったという感じで、州牧は権限に見合う官職名に変えようという流れで出てきたもので栄誉ある格の高さ。 もっとも、本作ではそもそもが皇帝・王・公・大司馬・大将軍・中郎将・州吏史・州牧という、州刺史と州牧の序列以外も適当すぎる枠組みの官爵システムだったりはする。○○侯 ○○亭侯などの列侯などはないし、諸侯王である公が皇帝の一族用ということもない。 非現実的な兵・物資の集中化のしにくさ 今作では兵糧や人口などが限りがあるため、いわゆる非現実的な1勢力・1都市最強状態にはなりにくい。 次回作に見習ってほしい、史実イベントのバランス 理不尽にイベントが起こるわけでも、全く起こらないわけでもなく、史実に近い戦況になったら違和感なくイベントが起きてくれる。 前作に見習ってほしい、幻術などの一部チート兵法のバランス 「妖術や幻術で部隊壊滅」「どんな戦でも楽勝」などといったことはない。 ただし降伏兵のシステムのせいで、「治療」だけはシリーズでも屈指のチート兵法。 「周囲にいる全ての味方部隊の武将の健康完全回復+負傷兵全回復」と云う恐ろしい性能。さらに本作では全滅した部隊の負傷兵の一部が敵部隊にそのまま取り込まれてしまうため、長期の戦闘の末に「治療」が発動すると、一気に兵力が逆転してしまう事がある。 また武将の知力に左右されるものの、「混乱」もかなり強い。今作では混乱した部隊は「弱くなる」のでは無く「何もできない」ため、部隊が混乱するとサンドバッグと化し、都市が混乱すると迎撃すら行えない棺桶と化す。 後述の仕様も相まって、「1部隊に多くの兵を詰めるより多くの部隊に兵を分けて混乱の被害を減らす」「混乱を放てる部隊を増やして敵を効率よく混乱させる」のもある意味1つの戦略と化している。 「教唆」によって混乱を無効にできるものの、習得している武将が少ないのが難点。また教唆では都市の混乱は防げない。 多様性 武将・シナリオの充実 武将数は650人。士燮一族や南蛮以外の実在異民族武将が省かれている(*1)ことを除けば、黄巾の乱から呉の滅亡まで、全ての時代の登場人物がバランス良く登場する。特に三国時代後期の武将は、シリーズでも屈指の充実ぶりを誇るため、じっくり楽しむプレイにも向いている。 シナリオは忠実10編とifが10編(内5編は隠し)、合計で20編。さらにPC版では追加コンテンツとして2編追加することができ、最大22編から選ぶことができる。これは特例の『VIII』を除くと圧倒的な多さである。『VIII』のPK版と同様、263年開始のシナリオも用意されている。 ただし、263年以降開始のシナリオではさすがに長期戦は厳しいので、新武将登録や抜擢武将などで補充する必要が出てくるだろう(初期設定では、264年元服の孫□(孫ワン)、張喬、陸景が最後の元服になる)。 戦法発動による戦局の多様化 今作では出陣した際に最大5人まで編成することができ、それぞれ持っている戦法をセットすることができる。戦法発動はランダムであり、陣形によって発動確率が違うものの、完全にコントロールすることはできない。これにより能力的に中途半端な武将でも戦法発動により活躍することができるようになった。例えば主力の武将をメインに後は数合わせみたいに武将を配置してもその数合わせの武将が戦法を発動しまくって意外な活躍を見せたり、寡兵な敵が壊滅間際に戦法を発動して意地を見せたりと、必ずしも同じ結果にならない戦争の多様性を見せてくれる。これにより強い武将を手にしてしまったら後はその武将がずっと目立つというわけでもなく、戦争に参加した武将皆活躍するチャンスがあって、それによるドラマが想像できやすくなる。 多彩なエンディング エンディングの細分化はシリーズ最多。クリア時の状況に応じて、ローマ帝国をも圧倒する世界帝国から、程なくして滅亡まで9種類のエンディングが用意されている。 賛否両論点 「魅力」の武将パラメータが無い。 今作の基本武将パラメータは統率・武力・知力・政治の4つであり、魅力は無くなった。 プレイしてみると分かるが、確かに本作のシステムにおいて魅力はあまり必要ない。ただし魅力をウリにしていた一部の武将の合計能力値はかなり下がってしまっている。 代表格の劉備についてはある隠しパラメータにより救済されているが、その他の武将は割を食っていると言わざるを得ない。 特に従来は魅力だけがそこそこで他のパラメーターが軒並み低かった劉禅は、本作では魅力を取り上げられた上に他のパラメーターもさらに下げられ、全能力ALL1桁(3,2,4,7)という快挙を成し遂げてしまい、能力グラフはほぼ点に等しいネタ武将と化してしまった(*2)。 内政はあまり力が入っていない。 基本的に今作の政治は「戦争のための政治」であり、特別内政における注目点はない。 それでも政治と資源は全ての戦略の元であり、過去作並みの重要度はあるが。 戦闘におけるリアリティの欠如。 シミュレーションゲームにおいてはゲーム性確保のために、ある程度リアリティが犠牲になるのはやむを得ない事ではあるが、本作では独自の戦闘システムを取ったが故か、極端なツッコミ所がいくつかある。 特にツッコミを受けやすい陣形は「投石」である。機動力が低く防御力も低いため常用はできないが、射程が長く場所によっては相手の攻撃範囲外から一方的な攻撃を加える事ができる。さらに陣形が投石だと弩兵系・弓騎系の兵法の射程も投石と同じになってしまう。結果、 マップの縮尺ではどう見ても数10㎞はあるとしか思えない距離を、川や山すら飛び越えて石や矢が飛んでいく と云う不思議な光景が見られた(この現象は同じく一枚マップを採用した『信長の野望・革新』等でも見られた)。 また兵が2万人未満か武将が1人しかいない都市から迎撃部隊が出撃する事はほぼ無いため、2万人未満の敵都市のすぐ近くに陣を立て、投石部隊を兵1人で出撃させ一方的に攻撃を続ける事で、兵1人の働きによって2万人弱の兵が死ぬと言うすさまじい光景が起こってしまう。 さすがに無抵抗な相手に一方的に攻撃できるのは酷すぎるためか、一応の対策としてターン開始時に部隊が攻撃対象に対して無駄な前進を行うようになっている。しかし中継点を上手く使えば近付かずに一方的な攻撃を行える事に変わりないため、CS版ではその仕様は廃止され特別な操作無しで一方的な攻撃を行えるようになった。 部隊の兵士数が部隊の攻撃力・防御力に与える影響が少ない。さらに都市から出陣できる部隊数に上限が無い。そのため(武将の数さえいれば)部隊は小分けにする方がシステム的に強い。極端に言えば、1人の武将が率いる6万の1部隊よりも、100人の武将が率いる兵1の100部隊の方が遥かに強い。 さらに兵法の威力には兵士数は一切関係無いため、「兵1人が放った矢により1000人以上が倒れる」などと言う現象がごく普通に起きる。上記の「投石」とこの多部隊戦法を組み合わせると、本当に酷い事になる。 ただしこれらの仕様のおかげで、数々の突拍子も無いような作戦が生み出されてきたため、一概に欠点とは言い切れない。 異民族が強すぎる。 ある意味では史実通り(*3)なのだが、今作の異民族は大軍を擁し、好戦的で極めて厄介。 その兵数は開始時なんと30万(プレイヤー担当時は10万)。ちなみに正史では蜀の人口は70万~90万ほど。戦闘員が30万と考えると蜀や呉よりよほど強大な勢力ではないのか…? 一応、異民族がいることによってマップ隅の勢力(*4)の緊張感が増しているため、バランス調整にもなってはいる。しかし、ただでさえ兵力を集めにくい本作において30万という数字はさすがにやりすぎだと言える。 異民族に攻められた都市は空白都市となるためまた取り直せばいいが、それが勢力最後の都市だと 問答無用で滅亡する 。そのため異民族に接していて1都市しか支配していない勢力(主に遼東公孫氏)は非常に苦しい戦いを強いられる。 ちなみに異民族は1都市しか本拠を持たないため、衝車などで攻城戦にして都市を落としてしまえば実は割と簡単に倒せたりする。だが兵力は純粋に迎撃力に値するため、中途半端な兵力で挑めば衝車でも蒸発する。 一応、攻略できれば異民族プレイができるようになるのだが、出現条件が面倒な「倭」を除けば武将全員が脳筋タイプで計略にものすごく弱いため、どう考えてもボーナスになっていないのも賛否両論。 また、エンディングでベストエンドを見るためには、最低1つは異民族を倒す必要がある。さらにその中でもあるエンディングを見るには、全ての異民族を倒さなくてはならない。 問題点 敵CPUの思考が拙い(特に無印)。 シリーズ初の1枚マップと言う事から来る弊害なのか、シリーズ他作品と比べても非常に敵CPUが弱い。はっきり言って、1枚マップに対応できていない。 兵1による陽動に全力で反応したり、兵数が上限の25万に達した港にさらに兵を輸送し続けたり、文官を一人で最前列に立たせて出陣させてきたり、自分の支配都市が一つしかなく、かつその都市が優勢な敵に攻められていると言う状況であるのに、遥か彼方にある別の都市を攻めるために出陣したり、徴兵のし過ぎで兵糧が切れて勝手に自滅して行ったり、と数々の奇行でプレイヤーの腹筋を破壊してくれる。 PK版になってある程度は改善されたが、それでも中盤以降はほぼ負ける要素が無いほどにゲームの難易度は低い。ただし、序盤の歯ごたえは相応に高まっており、兵糧切れのような間抜けな自滅はほぼ無くなった。 要するに(コーエーの他作品でも言えることだが)、 本作をまともに遊ぶためにはPK版が必須 である。 「抜擢」システムの存在。 今作(一応PK版のみだが、逆に言えば初期版以外すべて)には「兵士抜擢」というシステムが存在する。これは戦闘の際に自軍の武将が発見した有能な兵士を鍛え、武将として登用することができるもの。だが、優秀な武将を指導係に任命すると能力値90近くの武将が簡単に作れてしまうため、ゲームバランスが崩れるとしてユーザーの間では批判意見が強い。 曹操や劉備で始めた際、抜擢して育った架空の武将が譜代の夏候惇やら関羽やらを凌駕して活躍するのは釈然としないものがある。かといって能力のある抜擢武将を窓際族にして冷遇するのはそれはそれでシミュレーションとしては不自然。抜擢武将ばかりの虚構軍団が史実の猛将相手に無双していたりすると、人によっては寒いと感じるであろう。そもそも三国志に登場しない架空武将が登場すること自体許せない人にとっては地獄である。 この仕様はPS2版のみ、プレイ中にオフできる。一応この仕様を切るパッチも有志で作られていたりもする。 この仕様自体は初心者救済でもあり悪くないが、どのソフトverでもオフできるようにするべきだったというのが大方の見解。 「探索」コマンドの仕様 今までは都市単位で行っていた「探索」だが、本作では1都市の中でもさらに地域が細分化されており、1武将につき1地域しか探索できない。そのため、何の知識もなしに在野武将を探し当てるのがシリーズ他作品に比べてかなり面倒。またCPUは自分のいる地域しか探索を行わないため、酷い時は都市で無い地域にいる在野武将は本当に埋まったままで終わってしまう事も起こる。 余談だが、細分化された地域の中に、地名が間違っているものがある。五丈原の位置など明らかにおかしい。 戦略ゲームなのに戦闘が半自動という矛盾 戦闘の簡略化は評価点でもあるが、「そこに価値を置いていたプレイヤー」にとっては戦略性や自由度の欠陥に過ぎない。戦闘に入る前に多少の戦略を練るものの、戦闘開始後はコンピューター任せの自動となる。このため難易度が低くなるとともに、相手の出方に対して、この部隊であの部隊をこう攻めるという知恵を持った途中での対応、切り替えが不可能(*5) ただし完全ランダムであるからこそ生まれるドラマもある。兵法では時に一撃で部隊が壊滅し、一騎討ちは他作と比べて非常に高い頻度で起きる…など、バランスを取りつつ、とても見栄えのいい戦闘が実現出来ているのも事実。他シリーズと比べ動画投稿サイトでの投稿件数が非常に多いのも、このあたりが要因だと思われる(*6)。 後半年代の武将に目立つ調査不足 前述の通り、本作はシリーズ中でも末期武将が屈指の充実ぶりを誇る。しかし、最後の方の年代になると、演義はもちろん正史『三国志』ですら記述が断片的で、正史『晋書』に目を通す必要のある武将が出てくる。しかし『晋書』は邦訳がないためか、どうやらデータの参考には使っていない。その為、『晋書』で字と没年が明記されている人物でも、字が設定されていなかったり(荀勗の字「公曾」など)、史実と没年が大きく異なる設定にされている人物がいる。また、4行ある列伝が2行程度しか書かれていなかったり、記述に苦労した様子が見える。 ゲーム性を大きく損なう物ではなく、プレイヤー側で補完できる性質のデータではあるが、将来に課題を残した形となった。その後のシリーズでは徐々に修正されているが、後半年代の武将は出入りが激しく、修正が手薄になっている。 総評 1枚マップ&リアルタイム戦闘という面でシリーズでも異色の作品ながら、評価は高い。全体的なテンポの良さもシリーズ屈指である。 ただし今までのシリーズのような熟考しての数字遊びが好きなユーザーや、『VII』『VIII』のような全武将プレイ派には受け入れられないかもしれない。 基本的には政治よりも戦略が好きなユーザーにお勧めできる。 余談 Macで発売されなくなったソフトとしてはシリーズで初めてである(これまではWinだけでなくMac版も出ていた)。