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コウソンド 列伝 幼名は公孫豹。武威将軍。遼東太守。公孫康、公孫恭の父。公孫淵の祖父。 【演義】 公孫康、公孫恭との続柄の記述のみ。 【正史】 同郡出身の徐栄から董卓に推薦され、遼東太守となる。赴任後、烏丸など周辺を制圧して威勢を轟かせた。董卓と諸侯の争いで中原が荒廃すると王を名乗る野望を抱き、後に遼東侯、平州牧を自称した。曹操から武威将軍、永寧郷侯に任ぜられると、「わしは遼東の王だ。何が永寧郷侯だ」と言って印綬をしまいこんだ。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 67 71 63 51 35 287 138 201 順位 278 202 352 416 598 351 236 187 偏差値 54.3 56.4 52.1 47.5 37.1 50.0 55.7 56.2 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 B C C A A B 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 60 56 50 54 47 47 73 60 64 51 57 51 順位 185 244 283 341 312 346 130 148 73 130 127 183 偏差値 55.9 53.7 52.8 50.6 53.0 50.7 58.7 57.2 61.0 58.0 57.8 55.4 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 142 幽州 任意 現状維持 無頓着 2/5 5/5 1/3 154 184 204(51歳) 自然死 剛胆 剛胆 尊大 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 時節 ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 公孫度が親愛する武将 なし 公孫度が嫌悪する武将 なし 血縁 世代 ● 1 公孫度 2 公孫康 公孫恭 3 公孫淵 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 31歳 在野 襄平 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 37歳 君主 襄平 公孫度 - - 8000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 41歳 君主 襄平 公孫度 - - 10000 - - S4 200年 1月 官渡の戦い 47歳 君主 襄平 公孫度 - - 12000 - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 死亡 - - - - - - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 君主 襄平 公孫度 - - 10000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 45歳 君主 襄平 公孫度 - - 11000 - - S10 203年 1月 袁家の戦い 50歳 君主 襄平 公孫度 - - 13000 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 34歳 在野 襄平 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 38歳 君主 襄平 公孫度 - - 9000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 襄平 - - - 0 - - 遼東の王様だけあって、初期功績が高いのは嬉しい。 しかし、身の程知らずなまでに高い野望と低い義理のため、使いどころに困るのも確か。 能力や適性は一応人並みはあり、兵器適性Aは悪くはない。 -- (名無しさん) 2010-11-15 09 35 02 この人もそうだがこの一族は皆義理が低くて野望が高めで使いづらい。 配下にしたときは要注意。 -- (名無しさん) 2011-04-20 14 57 02 ダメなほうの公孫一族のオヤビン・・・w 一族で4人いて、とにかく特技を持ってるのが一人・・・ -- (名無しさん) 2011-06-11 03 41 31 しかもそれが待伏wwww -- (名無しさん) 2011-06-11 08 24 34 ↑おまけに同じ待伏持ちの法正と違って康は知力が61しかないからまったく役に立たない… しかも全員義理低め野望高めだからこの一族本当に使えない… イナゴ様のとことはえらい違いだ。 -- (名無しさん) 2011-06-11 09 07 05 康でやれw 兵器Aは評価できるが寿命が心もとない 使うのであれば射程を付けるくらいか・・・ -- (名無しさん) 2011-06-12 08 13 22 たいてい英雄集結とかだとこの人の勢力はイナゴ様に潰されてるけど、名字が同じ「公孫」だから妙に同化しちゃってイナゴ様の一族みたいになってるのが何か悲しい… -- (名無しさん) 2011-07-12 20 11 10 9ではこの一族もわりかし使えたんだが 2つの適正Aをどう活かすかが腕のみせどころ -- (名無しさん) 2011-07-13 03 26 16 君主としての魅力が低く、季節ごとにバンバン配下の忠誠が下がる。 -- (名無しさん) 2013-01-25 23 05 30 義理と野望の大切さを教えてくれる人 大守ましてや都督にしてはいけない -- (名無しさん) 2013-03-14 21 58 57 東は高句麗、西は烏桓をうっただけありの能力はあるのが災い。 -- (名無しさん) 2016-03-09 08 02 10 魅力が董卓より低いとは。こいつ何したからこんなに低いんだか。君主としては完全に使えないし、イナゴの餌になるのがオチ。 -- (名無しさん) 2016-12-12 11 22 44 まあまあ -- (名無しさん) 2021-09-25 19 44 00 名前 コメント すべてのコメントを見る
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ジュンシン 列伝 冀州牧・韓馥の幕僚。後に袁紹に仕える。荀彧の弟。 【演義】 公孫瓚が冀州に来襲するという報せを受けた韓馥が袁紹を招こうとした際、辛評と共に善後策を練った。その後、冀州に入った袁紹にそのまま仕える。官渡の戦いの直前、袁紹が幕僚たちに曹操と戦うべきか否かを問うた時、交戦を支持し、袁紹は曹操との戦いを決断した。 【正史】 最初から袁紹の幕僚。冀州を袁紹に譲るよう、韓馥を説得した。「魏書」では荀彧の弟とあるが、「荀氏家伝」では荀彧の兄とされている。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 19 25 77 78 64 263 44 121 順位 605 553 110 103 304 433 592 559 偏差値 32.7 37.8 58.9 59.7 52.4 46.3 34.6 39.3 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C C C C C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 18 14 18 15 17 13 20 13 18 11 18 13 順位 556 605 548 605 556 607 555 606 560 609 550 603 偏差値 37.9 34.4 38.3 34.0 37.5 33.7 38.3 34.0 37.6 33.6 38.1 34.0 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 85 兗予 名声 地方統一 重視 3/5 1/5 3/3 164 184 208(45歳) 自然死 冷静 冷静 丁寧 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 故事 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 荀諶が親愛する武将 なし 荀諶が嫌悪する武将 なし 血縁 世代 ● ● 1 ● 荀彧 荀諶 ● 2 荀攸 荀顗 荀勗 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 21歳 未発見 許昌 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 27歳 一般 鄴 韓馥 97 主簿 4000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 31歳 一般 鄴 袁紹 99 主簿 9000 - - S4 200年 1月 官渡の戦い 37歳 一般 晋陽 袁紹 99 謁者僕射 18000 - - S5 207年 9月 三顧の礼 44歳 一般 襄平 公孫康 93 左僕射 19000 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 鄴 韓馥 97 右僕射 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 35歳 一般 鄴 袁紹 99 郎中 14000 - - S10 203年 1月 袁家の戦い 40歳 一般 北平 袁尚 99 謁者僕射 19000 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 24歳 一般 許昌 荀彧 100 左僕射 2000 - - S13 191年 7月 序を制する者 28歳 一般 鄴 袁紹 99 左僕射 6000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 鄴 - - - 0 - - まずまずの能力を持った文官だがそれ以外は無個性。史実の外交官的な活躍を見込むには性格は「冷静」で舌戦にはあまり向かない。内政系特技が無難か。 -- (名無しさん) 2011-07-14 22 36 46 S5では遼東公孫一族の救世主。 寿命が短いので育成はできないが、曹操軍と戦うならば彼の知力なくしては勝負にならないだろう。 -- (名無しさん) 2012-08-28 16 29 53 荀彧の兄弟だけど韓馥・袁紹に仕えたために曹操との相性は悪く、むしろ劉備に近いのね。 -- (名無しさん) 2017-02-21 01 23 28 名前 コメント すべてのコメントを見る
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巡回部隊1 巡回部隊2 巡回部隊3 巡回部隊4 中軍主力1 中軍主力2 中軍主力3 中軍主力4 遼東精鋭1 遼東精鋭2 遼東精鋭3 遼東精鋭4
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コウソンコウ 列伝 公孫度の子。公孫恭の兄。公孫晃、公孫淵の父。 【演義】 公孫度の死後、遼東太守の位を継いだ。207年、曹操に敗れた袁煕と袁尚に保護を求められる。しかし、曹操が遼東に侵攻する動きを見せなかったため、公孫恭の計に従って袁兄弟を討ち、首級を曹操に送って恭順の意を示した。間もなく、曹操から襄平侯、左将軍に任ぜられた。 【正史】 204年、死亡した公孫度の位を継いだ。その際、公孫度が生前、不服として拒否した永寧郷侯の位を公孫恭に継がせた。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 72 66 61 58 56 313 138 199 順位 179 294 368 355 410 243 236 201 偏差値 56.6 54.4 51.1 50.7 48.2 53.9 55.7 55.8 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C C A C B 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 49 53 46 58 44 50 68 65 46 43 53 55 順位 348 286 361 277 374 272 167 98 341 256 176 124 偏差値 51.2 52.3 51.0 52.3 51.5 52.2 56.8 59.7 51.9 53.1 55.7 57.7 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 待伏 伏兵成功時クリティカル マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 142 幽州 実績 現状維持 重視 2/5 5/5 1/3 172 186 210(39歳) 自然死 冷静 冷静 尊大 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 時節 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 公孫康が親愛する武将 なし 公孫康が嫌悪する武将 なし 血縁 世代 ● 1 公孫度 2 公孫康 公孫恭 3 公孫淵 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 13歳 未登場 襄平 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 19歳 一般 襄平 公孫度 120 奮威校尉 2000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 23歳 一般 襄平 公孫度 120 奮威校尉 4000 - - S4 200年 1月 官渡の戦い 29歳 一般 襄平 公孫度 120 奮威校尉 6000 - - S5 207年 9月 三顧の礼 36歳 君主 襄平 公孫康 - - 10000 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 襄平 公孫度 120 奮威校尉 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 27歳 一般 襄平 公孫度 120 奮威校尉 5000 - - S10 203年 1月 袁家の戦い 32歳 一般 襄平 公孫度 120 奮威校尉 7000 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 16歳 未発見 襄平 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 20歳 一般 襄平 公孫度 120 奮威校尉 3000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 襄平 - - - 0 - - 遼東の王の後継者…なのだが、統率と騎兵適性がそれなりにあるだけ。 特技もあるが、知力との相性は低め。 前線に出すには武闘派のフォローが必要だろう。 -- (名無しさん) 2010-12-09 09 30 29 駄目なほうの公孫一族では唯一の特技持ち。 だが知力61が待伏を持っててもまず役に立たないので別の特技に書き換えた方がまだマシだろう。 でも一族全員義理低め・野望高め…。この一族本当に使えない…。 -- (名無しさん) 2011-06-12 08 08 58 S2の公孫度勢力なら武力と統率を積んでじっくり育てて主力にしなくてはならないが、寿命が短いのでS4移行は注意。待伏は北方では活きないなぁ、、 -- (名無しさん) 2011-07-12 00 06 53 騎兵は伏兵コマンドを使えないというのも逆境 -- (名無しさん) 2011-07-12 00 46 37 一族ではましな魅力。伸ばして登用に使いたい。 -- (名無しさん) 2011-07-25 02 12 48 意外にも水軍B。しかし使う機会はあまりないかも… -- (名無しさん) 2016-04-03 14 25 10 やけに野心が高いな。小者でも野心は旺盛というわけか? -- (名無しさん) 2016-11-03 15 16 20 曹操を恐れて袁譚兄弟を殺害して差し出したが、野望は潰えてなかったことの表現じゃないかな。 さておき、本人は3流の武官といったところ。三顧の礼シナリオでは袁兄弟がいるためまだマシだが、劉備入蜀に至っては彼1人というドM向け難易度になっている。 内政に戦闘に、回らない手を必死に回しながら全力で頑張ろう。 -- (名無しさん) 2016-11-03 22 36 56 ↑劉備入蜀の時の君主は公孫恭だぞ -- (名無しさん) 2019-08-14 12 06 17 うーん -- (名無しさん) 2021-09-25 19 44 10 名前 コメント すべてのコメントを見る
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シナリオ解析勢力図 勢力一覧 外交関係 各勢力分析曹操 劉備 張魯 孫堅 董卓 袁紹 袁術 劉表 劉焉 張楊 劉虞 韓馥 劉岱 孔融 公孫度 馬騰 プレイ日記 シナリオ解析 勢力図 董卓が洛陽を占拠し、各軍閥は連合を組んで董卓に当たることとなった。 とにもかくにも董卓が強大なシナリオである。 前半のシナリオは未発見武将が多数いる上に小勢力が多く、滅亡により、低忠誠度/放浪武将が多数いる。 優秀な人材を逃すことなかれ。 反董卓の同盟を組んでいると周囲の勢力の多くと同盟状態でスタートする。董卓が洛陽を焼くイベントが 発生しても同盟は解消されない。攻めようとする相手だけ同盟を破棄して攻めて行けば敵が少ないまま 動けるのだが、それは相手も一緒で突如同盟を破棄されるので油断は禁物。 逆に連合に入っていない群雄は袋叩きに遭いやすい。 勢力一覧 色 勢力 爵位 軍師 現役 兵士数 難度 支配都市 保有技巧 董卓 大司馬 李儒 30 183,000 ☆☆ 洛陽、長安、安定、天水 騎兵鍛錬 劉虞 大司馬 魏攸 5 32,000 ☆☆☆☆☆ 薊 - 袁紹 - 逢紀 24 28,000 ☆ 南皮 車軸強化 袁術 - 楊弘 16 27,000 ☆☆☆☆ 宛 - 韓馥 州刺史 荀諶 7 26,000 ☆☆☆☆ 鄴 - 公孫瓚 州刺史 関靖 11 26,000 ☆☆☆ 北平 騎兵鍛錬、良馬産出、騎射 張楊 - - 6 24,000 ☆☆☆☆ 晋陽 騎兵鍛錬、良馬産出 馬騰 - 韓遂 10 24,000 ☆☆☆☆☆☆☆☆ 武威 騎兵鍛錬、良馬産出 劉岱 州刺史 袁遺 3 24,000 ☆☆☆☆☆ 濮陽 - 劉表 州刺史 蒯良 12 22,000 ☆☆☆ 襄陽、江夏 - 孔伷 州刺史 - 2 22,000 ☆☆☆☆☆ 汝南 - 孔融 - 王修 4 22,000 ☆☆☆☆ 北海 - 陶謙 州刺史 陳珪 11 21,000 ☆☆☆ 小沛、下邳 - 孫堅 - 程普 12 21,000 ☆☆ 長沙 弩兵鍛錬 劉焉 州牧 黄権 10 20,000 ☆☆☆☆ 成都、梓潼、江州 - 公孫度 - - 3 19,000 ☆☆☆ 襄平 - 曹操 - 陳宮 15 19,000 ☆☆ 陳留 - 張魯 - 閻圃 5 16,000 ☆☆☆☆ 漢中 - 劉備 - 関羽 4 15,000 ☆☆☆☆ 平原 - 外交関係 数字は友好度。 同盟 険悪 董卓 劉虞 袁紹 袁術 韓馥 公孫瓚 張楊 馬騰 劉岱 劉表 孔伷 孔融 陶謙 孫堅 劉焉 公孫度 曹操 張魯 劉備 董卓 - 40 0 0 0 0 0 0 0 50 0 0 0 0 40 70 0 50 0 劉虞 40 - 80 40 60 30 60 60 60 50 60 60 60 60 50 50 60 50 60 袁紹 0 80 - 50 70 70 70 70 70 70 70 70 70 70 50 50 90 50 70 袁術 0 40 50 - 70 70 70 70 70 50 70 70 70 90 50 50 70 50 60 韓馥 0 60 70 70 - 70 70 70 70 50 70 70 70 70 50 50 70 50 70 公孫瓚 0 30 70 70 70 - 70 70 70 50 70 70 70 70 50 50 70 50 90 張楊 0 60 70 70 70 70 - 70 70 50 70 70 70 70 50 50 70 50 70 馬騰 0 60 70 70 70 70 70 - 70 50 70 70 70 70 70 50 70 50 70 劉岱 0 60 70 70 70 70 70 70 - 50 70 70 70 70 50 50 70 50 70 劉表 50 50 70 50 50 50 50 50 50 - 50 50 50 50 50 50 50 50 50 孔伷 0 60 70 70 70 70 70 70 70 50 - 70 70 70 50 50 70 50 70 孔融 0 60 70 70 70 70 70 70 70 50 70 - 70 70 50 50 70 50 70 陶謙 0 60 70 70 70 70 70 70 70 50 70 70 - 70 50 50 70 50 70 孫堅 0 60 70 90 70 70 70 70 70 50 70 70 70 - 50 50 70 50 70 劉焉 40 50 50 50 50 50 50 70 50 50 50 50 50 50 - 50 50 70 50 公孫度 70 50 50 50 50 50 50 50 50 50 50 50 50 50 50 - 50 50 50 曹操 0 60 90 70 70 70 70 70 70 50 70 70 70 70 50 50 - 50 80 張魯 50 50 50 50 50 50 50 50 50 50 50 50 50 50 70 50 50 - 50 劉備 0 60 70 60 70 90 70 70 70 50 70 70 70 70 50 50 80 50 - 各勢力分析 曹操 現役15。陳留はぼちぼちの土地。 武将は各種バランス良く良将が揃っている。バランスが良すぎて技術開発の選択に困るくらいだ。 特筆すべきは曹操本人の 虚実 によるチートさと、楽進や李典などを擁し攻城兵器が強い点。 まず初手で、空白地である許昌を取ってしまおう。曹操と相性の良い武将が大量に登用できるはずだ。 その後、董卓を追い込むか北方を平定するかは難しい所。 どっちにしても地理的にド真ん中なので、背後から襲われない様、外交には気を遣おう。 周囲が同盟国ばかりなのを利用して、スタート直後に少数部隊を寿春に送り、江東方面に勢力を伸ばせるだけ伸ばすのも有り。 蒋欽・周泰と言った在野を漁っていけば弱点の水軍を補える。 連合に入っていない劉表や、陶謙辺りが同盟を破棄して攻めてくるかもしれないが、 棺桶で巧く撃退するなり、外交で時間を稼ぐなりして乗り切ろう。 劉備 現役4。平原はちょっといまいちだが、港の存在で助かっている。 少々ズルいが、開幕早々同盟を利用して、内政の役に立たない張飛で許昌を取れば(140日かかるが)人材ウマー。軍師ウマー。 もちろん敵軍が迫ってきたら、人材をひきつれてほうほうのていで逃げだそう。内政しておく必要はない。 論客 を持つ簡雍を活躍させれば、近隣のザコ勢力と片っ端から停戦24ヶ月も可能だ。 となると強敵は袁紹、曹操辺りとなるはず。地理的には袁紹と戦うべきだろう。 関羽、張飛が居ればさして苦労はしないはず。 能力開発は、通常有効な政治ルートだけではなく、簡雍を強化する知力ルートもおもしろい。 知力中まで1年、知力高まで2年半もかかってしまうが。 むしろ許昌で粘るのもあり。幸い荀彧や陳羣など政治面は在野武将で十分カバーできる。ただし、外交には気を配る必要がある。 張魯 現役5。漢中は内政もよく、守りやすくもある…が、武将が本当に頼りない。 最強勢力である董卓に攻められると、守りきるのは困難だ。 取りあえず同盟&親密までは持って行けば安泰。 蜀近辺の武将は弓と戟が強いため戟兵か弩兵(こちらの方がお勧め)を、また、桟道の為難所行軍を研究するのがいいだろう。 その後南下する訳であるが、難所行軍が無くても梓潼の攻略自体は可能だが、後の輸送部隊が難儀するところ。 成都・永安まで取った後だが、劉焉にとどめを刺すのが普通ではあるが、 劉表が衰えているなら交通の要所である襄陽、江陵を横取りしたい(ライバルは孫堅か曹操になるだろう)。 その後であるが、曹操との決戦には、まだ人材が足りないはず。 まずは孫堅陣営を吸収すべきだろう。 思い切って漢中を捨て、上庸から大航海に出る大博打も面白い。 目指すは敵の居ない江東の地。途中、新野から許昌に寄って、人材を漁れるだけ漁ると後々楽になる。 劉表領を通る事になるが、水上は侵入しても迎撃に出てこない事も多いので、割と素通り出来るだろう。 心配なら予め外交を。 孫堅 現役12。長沙は敵と接しておらず、空白地の荊南を支配してのんびり軍備を整えられるのが強み。 が、この年代には在野が居らず、人材不足になりがちなのが難点。 ここはあえていつでも取れる南郡は放置し、まず江陵に拠点を移して邪魔な劉表と早期決着後、 江東に足を伸ばして人材を増やしつつ北上し、董卓と決戦する“江東の虎”ルートをお勧めする。 この年代の劉表軍には黄忠等猛将が居らず文官ばかり。頼りになる長子 勇将 孫策に槍兵を任せれば独壇場となるだろう。 ただし、砂地が多いので地形には注意。襄陽さえ落としてしまえば、勝ったも同然。 さっさと江夏を落とし、配下を吸収しよう。 これで孫堅の北上を阻む者は居ない。目障りなら袁術も滅ぼし、董卓との決戦を制して天下に覇を唱えよう。 また、長江を通って建業に向かい、江東、江南を統一するという手もある。 195年を過ぎればどんどん在野が増えるので人材には困らない。じっくり力を蓄えられるのが強み。 その後は西に進むより、北に進んだほうがいい。 董卓 現役30。都市は細長く伸びているが、大陸の端に位置するため、全君主を敵に回していても守りきれるぞ。 開始直後の戦力差を生かすため、速攻で攻め入る作戦を取ろう。 洛陽と虎牢関に一流武将を集め、20日目で曹操領陳留に打って出よう。なんなら小沛も狙ってみてもよい。小沛の兵数は僅かしかいないため簡単に落とせるだろう。また、寿春へ南下する勢力を防ぐことにもつながる。 その間、長安の物資を安定と天水に輸送。天水で兵装を生産しておく。 陳留を落としたら、旧曹操軍配下を用い、この地に対連合軍への防衛基地を作り上げよう(曹操系は陳留や許昌の在野と相性が良い) 董卓軍配下は武威を攻めるため西方に移動。 馬騰との騎馬戦はデンジャラスなので、計略部隊は必ず連れて行こう。 また、張魯と袁術の動きにも注意しておく。 内政では、李儒の徴収と近い将来入る米道を生かすため、 洛陽か長安を穀物地帯にし、大兵力を食わすための台所とする。 連環の計のイベントが起きたら、すぐに王允を解雇する。長安への遷都など以ての外だ。 董卓らしくない事をしていれば、この軍は無敵である。 アメーバーのように大陸の西半分を吸収し、10年以内クリアでの新シナリオ獲得を目指そう。 袁紹 現役24名。支配地は1つだが、恐らく総合的に最も有利なシナリオだろう。 後年になればなる程支配地こそ増えるが、主に人材面で曹操に大きく差をつけられ、更に寿命と言う最大の敵が迫ってくる。 袁紹本人での天下統一に拘るなら、是非このシナリオで。 戦略としては、真っ先に劉備を物量で圧倒して吸収後、史実通り河北統一を目指す訳だが、 同時に同盟を利用して許昌と寿春方面に兵を派遣して確保しておくといい。 停戦作戦を駆使すれば、兵は少なくても問題は無いだろう。 関羽・張飛に優秀な軍師達、更に江東の水軍を手に入れれば、最早死角は無い。 名門袁家の名の下に、諸侯を平伏させよう。 袁術 現役16。配下の頭数は多いが質が悪い。 しかし在野には恵まれているので、彼等を登用出来るかどうかで難易度が変わる。 特に黄忠は絶対に逃さないように。許昌の軍師達も加えれば、かなりの戦力が揃う。 最強の董卓軍の二大都市と接してはいるが、北西からの攻撃に対しては武関を逆に利用してやれば撃退は容易い。 東側も地形的に守り易いので、守りきる事はそう難しくは無いだろう。 他の勢力が董卓領に攻め込んだら、それを期に反撃に出たい。 劉表 董卓にも連合にも与しない中立勢力。空白地に囲まれ、どの勢力とも同盟しやすいので、平穏かつ行動の自由度が高い。 しかし配下・周辺の在野ともに頼れる武官に乏しく、戦力が足りない。どう動くにせよ、許昌で優秀な在野武将を取っておくと楽になる。 特に一騎討ち補正を持つ許褚を登用できれば厄介な敵を一騎討ちで倒せるようになるので、武官不足の劉表軍ではぜひ確保しよう。 襄陽や江夏は当分敵の侵略が及ばないので、董卓と同盟した上で2都市の兵力を許昌に移し、ここをメインの拠点にするのもいい。 その上で孔伷や曹操(強敵だが)を倒せば、荊州に居座る場合よりも人材面で有利になれる。 なおクソ都市・江夏は本来捨てる所だが、本シナリオでは侵略されにくい上に193年から呂蒙が登場するので、防備を固めて確保するのも手。 劉焉 強大な董卓とドンパチやらかす中央と違い、比較的まったり出来る。 とはいえ難易度☆4なのは理由がある。兵力不足に人材不足なのだ。 一応、スタート時の在野には、成都は張任・呉蘭・張松など、後の劉家を支える武将が多くいる。 まずは登用を。董卓が不安なら同盟を結ぶと良いだろう。 侵攻に関しては、董卓打倒より、荊南進出の方がベター。 しかし、今シナリオは難易度にもよるが、孫堅が劉表を併合し、大勢力になっていることが多い。 なるべく早く襄陽を手中にし、北への防御ラインを構築したい。 張楊 張楊を参照。技巧には案外恵まれている。 とは言え、難度が高くなるほど、董卓の攻撃が激しくなる。 ここは同盟を利用しつつ、捕縛などでしこしこ董卓を削っていくのが一手目。 もう一手は逃亡策。逃げるなら同盟を利用してさっさと江南へ移動する。 ちなみに顔芸の上司が在野にいる。 劉虞 劉虞を参照。軌道に乗れば力押しが可能だが、そこまでは長い。 周辺との関係は良好だが、同盟に入っていない上、お隣りの白馬さんと仲が悪い。 公孫騎馬隊は難度が上がるほど充実する上、動員力があってもどうにもならない事もあるので、 江南への逃亡も視野に入れたほうが良い。この場合は保険で同盟を組んでおくと多い日も安心。 逃亡策を行わない場合も袁紹との同盟は結んでおいたほうがいいだろう。幸い、初期状態でも同盟締結は可能だ。 薊在野には武将は要るものの、武官が少ないのがネック。 閻柔あたりに建設部隊として罠などを張らせ、白馬部隊に対応し、 隙を見て大軍を率いて食らってしまおう。公孫軍の武将とは実はそれほど相性は悪くはない。 その後は晋陽よりも、経済力と人材確保の為に南皮あたりに向かう方が、地の利も得られて便利ではある。 韓馥 現役7・兵士26,000。 一見弱小君主に見えるが、武官に張郃、文官に沮授がおり、在野に趙雲。勢力的には中堅と言える。 とりあえず軍師は沮授に変更しよう。鄴が大都市なのも案外ポイントが高い。 基本的には、上記にある劉備と同じ感じで動けば良い。 つまり、袁紹・劉備を狙いつつ、隙を見て空白地の許昌を奪うわけである。 ただし、自身の寿命が本当に近かったりする。残念。 劉岱 劉岱を参照。 在野に伊籍が居るので登用を狙う(少し難しいけど)。 劉備にあるように許昌を取って人材をゲットした後は、 居座るなら同盟を利用して周辺勢力の兵力を削ぐ。 もしくは、同盟を利用して江南の地に逃げて立て直すのも手。 周泰辺りを登用出来れば、地の利を利用して戦うことも出来る。 孔融 現役4の兵士22,000。 北海の地の利は悪いが、190年の現段階では配下には王修に武安国&太史慈がおり、 在野には管亥と孫乾がいるので、中の下ぐらいの勢力である。 太史慈とは相性が悪いので義兄弟になっておくと良い。 陶謙辺りと武安国&太史慈中心にガチっても良いが、 人材を漁った後は物資などを持って海から呉や建業辺りに引っ越すという手もある。 江南や荊州は空白地が多いからなのだが、孫呉の武将とは相性が悪い事は頭に入れておくこと。 公孫度 マゾ向け勢力・遼東公孫氏。だが今回は空白地だらけの揚州へ逃げられるので難易度は低い。 というわけで始まったら即刻会稽に引っ越そう。襄平に残って公孫瓚や袁紹と事を構える必要はない。 当然ながら優秀な内政官であり孫乾や厳畯らの推挙までしてくれる逸材・国淵の登用を忘れないように。 彼の存在が難易度を☆3まで下げていると言えるほどありがたい存在である。 後は孫呉の在野武将を集めながら江東の地でじっくり力を蓄えよう。 陶謙が呉に進出してくるが、兵力&武将不足ゆえに弱く、脅威にはならないだろう。 馬騰 董卓に完全に蓋をされてしまっている。おまけに関係は最悪。 難易度にも依るが、速攻大軍で進軍されてあぼーんもある。 速攻進軍かある程度待つかをまず決めておく必要がある。 無難なのは董卓と関係修復して力を貯めることだろう。 苦難の道ではあるが、南に逃亡を図る場合は荊南に向かうか、 雲南あたりから劉焉を狙うかのどちらかになるが、その逃亡も楽ではない。 挟撃を防ぐ為に天水から攻めることになるわけだが、 董卓軍には智将が多いので、計略戦になれば不利なのは頭においておくこと。 超級で腰を据えて董卓軍と戦うなら君主である馬騰の一騎打ちを活用するのも手。 渡の所に陣と太鼓台を設置し、相手の進軍の妨害と一騎打ちを行う環境を整えておこう。 敵が攻めてきたら、馬騰+交代要員1人で兵力を多めに編成した一騎打ち用部隊(3人にすると受けてくれる確率が減る)、計略+捕縛部隊の韓遂(戟兵)、白馬で削り役の龐徳で出撃しよう 体感だが、呂布や張遼、高順といった董卓軍の主力は最初のうちは攻めてこず、李傕、郭汜といった二線級の武将が攻めてくることが多い。 なので韓遂の撹乱で混乱させ、龐徳で削り、馬騰で一騎打ちに勝利し、武将の捕縛による敵部隊の消滅を起こしやすい。 また結構な確率で賈詡も侵攻部隊の一員になっている、人材確保の面でも味方への混乱や偽報を防ぐためにも戟兵の韓遂部隊で捕縛を狙っていこう。 ほかにも張繍や徐栄など有能な武将を捕縛から登用し、一騎打ち戦法がうまく回れば敵の人材・物資が意外に早く尽きてくる。 追加の武将・物資が来る前に天水・安定を平定しに行こう。まだまだ董卓軍は健在だが捕縛が上手く行っていれば戦える戦力は整ってきているはず。 プレイ日記 曹操/超級/知将縛りでまったりプレイ 曹操/超級/知将縛りでまったりプレイその2 袁紹/超級/袁氏配下武将のみ縛りダラダラプレイ 馬騰/上級/馬騰騎馬隊の漢室復興記 馬騰/上級/馬騰騎馬隊の漢室復興記2 馬騰/上級/馬騰騎馬隊漢室復興記3
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コウソンエン 列伝 公孫康の次男。公孫恭の甥。公孫晃の弟。公孫修の父。 【演義】 父の後を継いだ公孫恭の位を奪い、曹叡から揚烈将軍、遼東太守に封ぜられる。呉帝・孫権からも燕王に封ぜられるが、使者の張弥(ちょうび)と許晏を殺害し、首を曹叡に送る。その後、与えられた大司馬の位に不満を持ち、結局自ら燕王を自称。賈範や倫直の忠告を無視して挙兵するが、司馬懿に大敗する。降伏を願い出るが拒否され、公孫修と共に逃走を図るも、捕らえられ殺された。 【正史】 燕王を自称後、毌丘倹率いる最初の討伐軍は撃退している。公孫淵の滅亡後、倭は魏に遣使する。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 65 70 56 35 55 281 135 191 順位 313 229 409 536 425 377 263 247 偏差値 53.4 56.0 48.6 40.3 47.7 49.0 55.0 54.1 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 B C C B C C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 59 55 49 52 47 46 64 52 49 39 49 43 順位 219 254 317 365 312 356 217 270 294 337 276 346 偏差値 55.5 53.2 52.3 49.8 53.0 50.2 55.2 53.3 53.4 50.7 53.7 50.9 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 10 幽州 任意 中華統一 無頓着 1/5 5/5 1/3 205 219 238(34歳) 不自然死 猪突 猪突 尊大 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 時節 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 公孫淵が親愛する武将 なし 公孫淵が嫌悪する武将 なし 血縁 世代 ● 1 公孫度 2 公孫康 公孫恭 3 公孫淵 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 - 未登場 襄平 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 - 未登場 襄平 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 - 未登場 襄平 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 未登場 襄平 - - - 0 - - S5 207年 9月 三顧の礼 3歳 未登場 襄平 - - - 0 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 7歳 未登場 襄平 - - - 0 - - S7 225年 7月 南蛮征伐 21歳 一般 襄平 公孫恭 96 奮威校尉 8000 - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 襄平 公孫度 110 長水校尉 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 未登場 襄平 - - - 0 - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 未登場 襄平 - - - 0 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 13歳 未登場 襄平 - - - 0 - - S12 187年 4月 何進包囲網 - 未登場 襄平 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 - 未登場 襄平 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 襄平 - - - 0 - - 魏と正面切って戦わねばならぬ以上、軍備や内政の合間をぬって少しでも成長させたい。 祖父や父とは異なり騎馬適性に恵まれないのがネック。 -- (名無しさん) 2010-09-17 06 56 06 「遼東の豕」って感じの一生を送った野心家 既に書かれてるけれど適性が低いのがイヤだね… -- (関羽大好き) 2011-01-22 23 30 10 昔は結構評価されてたが・・・ 最近はただの凡将。 義理最低で野望最高という完璧な組み合わせも健在で本当に使いどころに困る・・・ でも公孫家では絶対に使っていかなければならない能力でもある。 それ故にやはり適正の低さがネックだ。 他の君主に仕えた時には・・・重用されることはほとんどないだろう。 -- (名無しさん) 2011-02-02 08 19 51 親父や爺さんみたいに、適正Aがあればまだマシだったんだが・・・ -- (名無しさん) 2011-05-22 23 03 27 他の勢力じゃまず見向きもされないような能力値だが(人材豊富な魏なら尚更)、駄目な公孫一族では使っていかざるを得ない。 といってもS6の駄目な叔父の軍じゃこいつが登場するまで持ちこたえるのも至難の業なんだが… -- (名無しさん) 2011-06-12 09 46 27 旧シリーズの経験者は、「11では血縁関係による裏切り防止効果はない」という点を忘れないようにしよう。低魅力・低義理・高野望の3点セットを完備したダメな公孫一族は伊達ではない。 誰が君主であるにせよ、あまり長いこと使いたい人材では全くない。育成は弩Bと統率低ぐらいに留め、他所からの人材がある程度集まってきたらさっさと官位を取り上げたい。 -- (名無しさん) 2015-02-03 19 11 02 義理と野望がやばすぎて使えない。 -- (名無しさん) 2016-04-04 12 40 54 適性低い。野心高い。義理低い。こいついて役に立つかと言いたい。 -- (名無しさん) 2016-10-22 16 16 13 まあうん -- (名無しさん) 2021-09-25 19 44 24 名前 コメント すべてのコメントを見る
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公孫讃 パラメータ (S~F) 体力: /無双: /攻撃: /防御: 弓攻: /弓防: /騎攻: /騎防: 移動: /跳躍: /シ移: /腕力: /武力: ボイス 見た目 武器 剣1 .剣2 .刀 C .槍 .薙刀 .戟 .棍 .大刀 .鞭 .槌 .斧 .鞭 .暗器 - .防守 - . 人間関係 ステージ 1:遼東鎮圧戦 2:虎牢関の戦い 3:冀州争奪戦 4:界橋の戦い 5:易京の戦い 6:官渡の戦い
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コウソンキョウ 列伝 公孫度の子。公孫康の弟。公孫淵の叔父。 【演義】 曹操に敗北した袁尚と袁煕が公孫康を頼った際、2人の首を斬って曹操に届けるよう公孫康に勧めた。公孫康が死んだ時、公孫康の長男・公孫晃が幼かったため、代わりに遼東太守となる。曹丕が即位すると車騎将軍に封ぜられるが、228年、公孫晃の弟・公孫淵に位を奪われた。 【正史】 国を治める能力には欠けていた。公孫晃のために官位を得て、洛陽に住まわせていた。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 39 17 68 61 42 227 56 124 順位 527 600 277 336 553 555 559 556 偏差値 41.7 34.6 54.5 52.0 40.8 40.9 37.3 40.0 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C C B C C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 12 29 12 31 11 27 16 31 12 23 12 26 順位 601 527 602 531 602 532 592 513 602 534 602 530 偏差値 35.4 41.3 35.6 40.9 34.4 40.7 36.7 42.9 34.5 40.9 35.1 41.3 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 142 幽州 任意 現状維持 重視 2/5 4/5 2/3 174 188 238(65歳) 自然死 小心 小心 慇懃 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 道理 ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 公孫恭が親愛する武将 なし 公孫恭が嫌悪する武将 なし 血縁 世代 ● 1 公孫度 2 公孫康 公孫恭 3 公孫淵 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 11歳 未登場 襄平 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 17歳 一般 襄平 公孫度 120 長水校尉 1000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 21歳 一般 襄平 公孫度 120 長水校尉 3000 - - S4 200年 1月 官渡の戦い 27歳 一般 襄平 公孫度 120 長水校尉 5000 - - S5 207年 9月 三顧の礼 34歳 一般 襄平 公孫康 120 長水校尉 7000 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 38歳 君主 襄平 公孫恭 - - 10000 - - S7 225年 7月 南蛮征伐 52歳 君主 襄平 公孫恭 - - 20000 - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 襄平 公孫度 120 左僕射 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 25歳 一般 襄平 公孫度 120 長水校尉 4000 - - S10 203年 1月 袁家の戦い 30歳 一般 襄平 公孫度 120 長水校尉 6000 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 44歳 君主 襄平 公孫恭 - - 14000 - - S12 187年 4月 何進包囲網 14歳 未登場 襄平 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 18歳 一般 襄平 公孫度 120 長水校尉 2000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 襄平 - - - 0 - - 知力はそこそこあるが統率・武力・適正どれも壊滅的な上に義理が低めで野望が高めで使いにくい。 君主のお膝元ででお留守番しかないか。 -- (名無しさん) 2011-03-23 16 23 16 能力がヤバい 攻められない所に置いとくぐらいしか無い 使えない文官って言った所 -- (はんばーがー) 2011-04-21 15 34 12 君主としては低めの魅力も気になる。 なんとか上げていきたいところ。 まあ公孫恭軍にそんな余裕があるとは思えないが… -- (名無しさん) 2011-04-22 08 00 25 駄目なほうの公孫一族の中で群を抜いて駄目な人。 適正Aが一つもない。 おまけに統率も魅力も低く君主失格と言わざるを得ない。 こんなのが君主で隣接するのが魏ではこいつの勢力が最難関と言われるのも当然だろう。 -- (名無しさん) 2011-06-12 08 25 53 国を治める能力に欠ける(インポ)ってことかな -- (名無しさん) 2012-09-14 17 39 46 ダメな方の公孫一族では一番知力も政治も高いので、むしろそれなりに存在感なくないか? -- (名無しさん) 2013-01-09 00 39 06 駄目なほうの公孫一族を自軍ではなく敵対勢力としてみた場合、文官タイプの彼なら多少なり頭数にはなるので、義理が低いダメ武官の一族に比べむしろ使い道はある方だろう。 自軍の場合でも圧倒的人手不足から使わざるを得ないので、結果として割と出番には恵まれている。自軍の場合なら端数が無駄になるものの、早期に政治+低を与えて70にしておくと内政がはかどる。 -- (名無しさん) 2015-01-30 11 27 28 この人とか康さんよりも淵ちゃんの方が魏に相性近いんだよな、逆だと思うけど。 -- (名無しさん) 2015-01-30 19 36 36 確か彼のEDって傍若無人な甥御さんへのストレスが原因だよな・・・ -- (名無しさん) 2015-01-31 11 11 00 戦場でクリティカル戦法を受けたとき 「ひいいいい!」 「うぎゃああ!」 「わわわわわ!」 など、色んな悲鳴をあげてくれる 性格「小心」の中で特定パラメータを 満たす武将だけが持っている芸風かも知れない 詳細は不明です… -- (名無しさん) 2016-02-01 21 44 21 統率>武力 統率<武力 でセリフは変わるはず? 音声だっただろうか? -- (名無しさん) 2016-02-01 22 53 53 正史でEDと思いっきり書かれていた可哀そうな人 君主プレーより一武将として内政の数合わせで使ってあげた方が幸せな気がする -- (名無しさん) 2020-03-09 09 54 05 名前 コメント すべてのコメントを見る
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ソンシ 列伝 孫策の娘。陸遜の妻。 【演義】 記述なし。 【正史】 陸遜が孫権に仕えるようになると、孫権の命で陸遜の妻となった。孫策が江東に進出した際、「呉の四姓」のひとつ・陸家の陸康を討ったため、孫策と陸遜の一族は敵対関係となっていた。陸遜が孫権に出仕し、孫氏を妻に迎えたことは両家の和解を象徴する出来事だった。しかし、その後も孫権と呉の重臣たちとの対立は続き、陸遜は孫権の後継者問題に巻き込まれて憤死する。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 23 22 62 72 80 259 45 107 順位 587 574 359 206 71 450 588 596 偏差値 34.5 36.6 51.6 57.0 60.8 45.7 34.8 36.4 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 長い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C B C C A 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 16 17 15 19 17 18 18 16 15 14 20 20 順位 574 588 575 585 556 579 577 588 580 588 531 566 偏差値 37.1 35.7 36.9 35.7 37.5 36.2 37.5 35.5 36.1 35.4 39.1 38.0 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 祈願 所属都市で豊作がおきやすくなる マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 125 揚州 能力 現状維持 重視 4/5 1/5 2/3 188 203 250(63歳) 自然死 小心 冷静 丁寧 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 時節 ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 孫氏 親愛 陸遜 陸遜 嫌悪 なし なし 血縁 世代 ● ● 1 孫堅 孫静 孫羌 2 孫策 ①孫権 孫翊 孫匡 孫朗 孫尚香 孫暠 孫瑜 孫皎 孫賁 3 孫氏 孫魯班 孫登 孫和 ③孫休 ②孫亮 孫泰 孫綽 孫恭 孫鄰 4 ④孫皓 孫秀 孫綝 孫峻 孫震 孫歆 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 - 未登場 呉 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 3歳 未登場 呉 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 7歳 未登場 呉 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い 13歳 未登場 呉 - - - 0 - - S5 207年 9月 三顧の礼 20歳 一般 呉 孫権 120 - 1000 陸遜 - S6 211年 7月 劉備入蜀 24歳 一般 建業 孫権 120 - 1000 陸遜 - S7 225年 7月 南蛮征伐 38歳 一般 江陵 孫権 120 - 4000 陸遜 - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 柴桑 孫堅 120 - 0 陸遜 - S9 198年 1月 呂布討伐戦 11歳 未登場 呉 - - - 0 - - S10 203年 1月 袁家の戦い 16歳 一般 呉 孫権 120 - 0 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 30歳 一般 建業 孫権 120 - 2000 陸遜 - S12 187年 4月 何進包囲網 0歳 未登場 呉 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 4歳 未登場 呉 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い 君主 呉 孫氏 - - 16000 陸遜 - 専ら内政要員。知力も低めなので副将にするにも微妙。魅力はそこそこ高いので徴兵要員としては活躍が見込める。 特技の祈願は正直あまり恩恵を実感できないが、農場の多い場所で豊作になるとかなりの増収が見込めるので、建業あたりに農場を建てまくった上で内政係として置いておくといいかもしれない。 -- (名無しさん) 2010-09-17 14 37 51 何気に生没年がわからない女性の中では一番の長寿。 -- (名無しさん) 2010-10-07 17 15 58 CPUの孫策を殺すと後を継ぐことがある(孫権不在時に確認)。 -- (名無しさん) 2012-02-14 14 54 41 今さらですが、女の戦いでは、余裕があれば魅力を鍛えよう 後陸遜と組んで前に出てもいいが、轢かれないように -- (名無しさん) 2012-03-22 05 07 16 顔グラ一番好みやわー -- (名無しさん) 2012-04-26 22 05 07 生年:孫策175 / 孫氏188 孫策、孫氏のコピーを新武将で作ると、親子関係設定不可(笑) -- (Pomyu) 2015-09-03 03 00 28 名前 コメント すべてのコメントを見る
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登録日:2024/01/13 Sat 22 07 37 更新日:2024/04/10 Wed 16 56 48NEW! 所要時間:約 16 分で読めます ▽タグ一覧 Ez-8 イナゴ 三国志 三国演義 世界史 中国史 公孫サン 公孫瓚 幽州 後漢 忘恩と報復、我が道に欠かすべからざる二ヶ条 歴史を変えられなかった男 演義と正史で印象の違いすぎる人 演義の受益者 演義補正 男の嫉妬 白馬 群雄 公孫(こうそん)瓚(さん)とは、後漢末期の武将・群雄。字は伯珪。 異民族で悩まされるあの幽州を武力で統治した人物として知られるが、実際は権力構造まで変えようと計っていた野心溢れる男である。 一時は劉備を旗下に加え袁術・袁紹と渡り合うほどの勢力を築いたのだが、自身のねじ曲がった性格によって自滅した残念な群雄である。 【生涯】◆出生 ◆出世と怨敵・上司劉虞 ◆反董卓連合/袁紹との戦い ◆劉虞を滅ぼす ◆暴走と暗転 ◆滅亡 ◆敗因となった歪み 【三国志演義での公孫瓚】 【創作での公孫瓚】 【生涯】 ◆出生 公孫瓚が生まれた遼西公孫氏(*1)は幽州の郡太守クラスというなかなかの有力豪族であったが、公孫瓚自身は生母の身分が低く冷遇され満足に勉学も受けさせてもらえなかった。 そのため最初は太守でなく、遼西郡の門下書佐という下っ端の端役人に任命される。 こうして公孫瓚は憎悪を抱いたのであろう。持って生まれた身分と教育の差というものに。 だが聡明で容姿が優れ大きな声と頭の回転の早さを持っていた公孫瓚は、郡太守の劉其に気に入られた。 おかげで娘の侯氏を娶り、劉其の援助によりようやく盧植の下で学問を習うことができ、年下の劉備と学友になった。 また、劉寛という人物にも師事している。 その後、恩人である劉其が罪に問われ連行された時には随行し雑役を務め、交州・日南郡(ほぼベトナムの領域)にまで流罪と裁定されると、最早先祖の下には帰れまい彼に米と肉を捧げ祈った。 しかし、幸いにも劉其は後に放免され、公孫瓚も無事帰ることができた。 自身を厚遇してくれた身内に対する義理人情に篤い部分もしっかりあったのだ。 ◆出世と怨敵・上司劉虞 この一件で彼は「考廉」に推挙され、やがて遼東属国の長史という任務を拝命、赴任した。 その遼東では、北方異民族の一派である鮮卑が、頻繁に侵入と略奪を繰り返していた。 赴任早々にこの略奪部隊を目撃した公孫瓚は、たった数十騎を率いて数百騎からなる敵に襲い掛かり、しかも自ら槍を振るって数十人を殺傷し、さらに数の差も覆して敵を撃破するという奮戦ぶりを見せた。 これで「敵にも手強いのがいる」と見た鮮卑族は略奪を控えるようになり、また後漢政府からも軍功を認められて涿(たく)県の県令になっている。 ちなみに幽州の涿県といえば劉備の故郷なので、もしかしたら劉備を招き寄せ、官僚としての実務を教えていたかもしれない。 「黄巾の乱」から一年が経った185年、今度は涼州で大規模な反乱が発生する。首謀者は韓遂と辺章。 後漢朝廷はこれに対処すべく、討伐軍を組織。 討伐軍第一陣の司令官は皇甫嵩だったが、彼は宦官・十常侍の工作によって罷免されてしまい、第二陣として司空・張温を司令官とする援軍が派遣された。 先行する第一陣には董卓・陶謙、第二陣には孫堅といった豪華メンバーが加わっており、張温はここに異民族討伐で功績を挙げた公孫瓚を抜擢しようとする。 だがここに加わりたかった張純という人物が突然逆切れ、異民族の丘力居と共に叛乱を起こすというとんでもない事態に陥る。 もともと、公孫瓚が率いる予定だった烏桓族出身の騎兵三千というのはこの張純が集めたものだった(*2)。しかし指揮官として辞令を受けたのは公孫瓚。彼は「俺が集めた兵士を、なんで他人が率いるんだよ!」と怒り狂ったという。 さらに反乱軍には張純と同郷でもと泰山太守の張挙(のちに皇帝も名乗る)、朝廷に反抗する漢族諸豪族とも連合し、総勢十万と称する大軍勢で、河北一帯を荒らしまわった。 このとき公孫瓚はまだ幽州から出発するところだったため、韓遂討伐軍への合流を諦めて張純討伐を開始(張温はそのまま西方に赴任した)。 緒戦は公孫瓚が張純ら反乱軍を華々しく撃破し、騎都尉に昇進もするが、勢いに乗りすぎて長城をも超えて追撃したため、逆に敵中孤立してしまい、なんとか脱出したものの張純・丘力居を仕留めるには至らず、膠着状態に陥る。 公孫瓚が「白馬義従」と言われる精鋭部隊を得たのはこの頃である。 烏桓族のうち、貪至王というのが率いる一派が公孫瓚に降伏した。 公孫瓚は彼らを得たことで中郎将・都亭侯に任じられたが、彼はさらに降伏した烏桓の一団から、数十人の腕利きと白馬を抜擢して、直属の騎兵隊に組織し「白馬義従」と称した。 公孫瓚の勇猛さは烏桓の間でもよく知られるようになっており、彼らは白馬を見ると「白馬長史」と呼んで、逃げを選んだという。 しかし張純・丘力居の展開する広域ゲリラ戦を捕捉するには至らず、略奪も止められないまま一年が過ぎる。 188年、公孫瓚では叛乱を平定できないと見た朝廷は、劉虞を幽州牧として派遣する。 彼は仁徳と懐柔策を以て丘力居を引き離し恭順させ、大きく兵力を削いだ。彼は数年前にも異民族の反乱を平定しており、人望が篤かったのだ。 どんなことも自力で道を切り拓いてきた公孫瓚にとって、これは大きなショックだった。 自分たちが血みどろになって戦ってきた功績が、皇族に連なる者の仁徳などという恵まれた身の上司が持ってきた存在しない何かで一瞬にして奪われてしまったのだから。 公孫瓚は交渉を妨害するなど徹底抗戦の意図を示したが、結局は劉虞の懐柔策により乱は平定された。 こうして劉虞は三公にまで出世。公孫瓚も董卓の推挙で出世するものの、劉虞ほどではなかった。 ひたすらに戦い続けてきたのに……。公孫瓚は再び辛酸を味わうこととなった。 ◆反董卓連合/袁紹との戦い 190年、洛陽の政権を握った董卓に対して、袁紹・曹操・袁術・孫堅を中心とする「反董卓連合」が決起する。 この時の公孫瓚は、実は両方の陣営に加わっていた。 もともと公孫瓚は董卓のおかげで官職を貰ったことから、親董卓派だった。 しかし一方で、反董卓連合の構成勢力である袁術や劉岱にも援軍を送っていた。つまり反董卓連合に参加したというのも嘘ではなかったのだ。 冀州牧・韓馥の領土に攻め込んだ際も、正史三国志にて「董卓討伐を名目としつつ韓馥攻略を図った」と書かれている。 両方に与したと言うより、両方に襲いかかったというか。我欲一直線というか。野心家である。 公孫瓚は袁紹とも大々的に戦っていた。 董卓が洛陽を破却して長安へと「遷都」するのをヨソに、反董卓連合は紛争が多数勃発、空中分解していた。 盟主であった袁紹も、予州の支配権をめぐり、袁術と対立。陽城と言う場所で、袁紹派と袁術派での大規模な紛争が勃発した。 この戦いでは袁術派が敗北し、公孫瓚が袁術の元に援軍として送っていた公孫越が戦死した。 公孫越戦死の報告を受けた公孫瓚は激怒し、いよいよ袁紹への敵意を固める。 袁紹はこのころ韓馥から冀州の支配権を奪ったばかりだったため、公孫瓚と当たるのは時期尚早と判断し、かつて董卓より与えられた勃海太守の印璽を公孫瓚の従弟・公孫範に譲渡し、彼の口利きで公孫瓚と和解しようと謀ったが、 その公孫範はその印璽を持ったまま公孫瓚と連合してしまい、袁紹は渤海の勢力をみすみす敵に渡す事態となる。 初平二年(191年。この時はまだ劉虞は健在)、公孫範の勃海軍とも合流した公孫瓚は、まずは青州に発生した黄巾残党を殲滅してその物資を奪い、戦力を増強するとともに奮武将軍・薊侯に昇進。 さらに袁紹の「十大罪状(*3)」を大々的に公布し、冀州各地の反袁紹勢力を糾合、配下のうちから厳綱を冀州刺史、田楷を青州刺史、単経を兗州刺史、とそれぞれに任命して、これらの州を支配しようとした。 さらに劉備を平原の相に任命、田楷の支援部隊として青州・徐州方面へと送り込んでいる。 もちろんこれは、南方から進出を図る袁術とも歩調を合わせてのことであり、幽州・冀州・青州・兗州を公孫瓚が、荊州を孫堅が、予州を袁術が、それぞれ狙う戦略だった。 さて袁紹との戦績は、最初の二年間に限れば三戦二勝と、優勢だった。 最初の戦いは191年冬の「界橋の戦い」。この時は袁紹配下の麴義が公孫軍を打ち破り、冀州刺史に擁立した厳綱が捕縛される(もしくは討ち取られる)ほどの大敗となる。 ちなみにこの戦いは演義でも取り入れられている。 翌192年の「龍湊の戦い」は、公孫瓚が界橋戦後から時間をおかずに攻め込んだもので、袁紹軍が撤退。ただ、あまり決定的な戦いというものではなかった模様。 そして同192年に起きた「巨馬水の戦い」にて、公孫瓚は袁紹に大勝する。 まず袁紹軍(将:崔巨業)が公孫軍の故安城を包囲したが突破できず、やむなく撤退を開始。 そこを公孫瓚が大軍を率いて追撃し、巨馬水にて袁軍を追い落として八千人近くを戦死させ、さらに冀州の平原郡にまで進出するという大戦果を挙げる。 しかしやがて袁紹も戦力を盛り返して拮抗、泥沼の消耗戦・長期戦となり、そうこうするうちに後漢朝廷側から「和解勧告の使者」が訪れる。 公孫瓚も袁紹も疲弊しており、これをいい口実として双方和解に応じた。 しかし結局終わってみれば、公孫瓚はもともとの目標だった冀州進出はすっかり果たせず、 逆に、本来は予州汝南郡出身で、冀州にはなんの地縁もなかったはずの袁紹は、公孫瓚に対抗しうる力量を持った冀州の新リーダーとして台頭しており、 戦略面では袁紹にこそ得るものが多い結果となった。 また公孫瓚が各地に派遣した劉備・単経・陶謙も、そして南方の盟主・袁術も、袁紹・曹操・劉表らに破られていく。 ◆劉虞を滅ぼす 袁紹と闘う一方、公孫瓚は劉虞とも対立を深めていた。 しかし異民族に対してはただ懐柔するだけでなく、武力というのも手に持っておかないとナメられる。 このため劉虞は反りが合わなくとも異民族の間で武名を轟かせていた公孫瓚を必要としていた。 だが公孫瓚は劉虞を必要としていない。公孫瓚は劉虞が異民族に与えた物や彼の領内にある物を略奪したりするので、劉虞にとって完全に頭痛の種となっていた。 劉虞が実子・劉和を介して袁術に援軍を送ると知ると、公孫瓚も弟の公孫越に軍を与えて同行させ、劉和の暗殺と袁術との同盟を謀った(*4)。 その狙いは半ば上手く行き、劉和こそ逃したものの袁術は劉虞よりも公孫瓚の方を選んだ。これは反董卓連合が裏で瓦解しつつあることも意味していた。 袁紹と共に劉虞を皇帝に担ぎ上げようとした韓馥も破り、また韓馥から冀州をかすめ取った袁紹とも衝突し、一進一退の攻防をする。 劉虞は皇帝になる事は拒んだが、公孫瓚のことも快く思わずに公孫瓚に与える兵糧だけを削り、一方の公孫瓚は劉虞の近くに拠点を築くなど両者は一触即発となっていた。 最終的にはとうとうブチ切れた劉虞の方から公孫瓚に攻めてきたが、公孫瓚は劉虞の仁徳を逆利用するため民衆を盾にして進軍した。 これに乗ってしまった劉虞は「殺すべき公孫瓚ただ一人である、無用な殺傷はするな」「住民のことを思え、民家を破壊するな」などという妄言をほざいた。 当然兵は混乱し、対して公孫瓚は火矢を打ちまくり街ごと敵兵を焼き尽くして徹底的に攻撃。劉虞はあっけなく大敗し捕らえられた。 公孫瓚は敗れた劉虞を徹底的に貶めた。 真夏の時期に「貴様が皇帝になれる程の英雄なら、雨を降らせて民を助けてみせろ」と無茶振りした上で、果たして雨が降らなかったため「何が天の加護だ!」と儒教の徳目を嘲るがごとき罵倒を浴びせて殺し、 また妻や妾にきらびやかで上質な衣装を身にまとわせ晒し者にした。 また、この劉虞を捕虜にしたちょうどそのタイミングで、朝廷から劉虞に当てた使者が来ていた。 折しも長安では董卓が暗殺された時期で、息を吹き返した朝廷は温厚篤実で皇族の有力株である劉虞に期待を寄せ、勅使を派遣して「関東六州の総督になれ」という辞令を発していたのだ。 また、劉虞と公孫瓚の和解を期待してか、公孫瓚には「前将軍」の官位と「易侯」の封号を与えるとの辞令も持たせている。 その劉虞を捕えていた公孫瓚はむしろ好都合と、まず前将軍・易侯の地位を貰うと、次に劉虞について 「勅使どの、これなる劉虞はかねてより皇帝になろうという野心を抱き、幽州で反乱を画策しておったのです。この公孫瓚が捕えたからこそ大事には至らなかったものの、このような輩を活かしておけばさらなる大乱を招くでしょう。そう思いますね(わかったなおい)?」 と説明しながら恐喝。 勅使をうなずかせると「後漢朝廷も劉虞の反逆を認め、処刑を認証した!」と公表、処刑に権威を付けていた。 また、劉虞に与えられていた幽州刺史の官位も、その勅使を幽州刺史に仕立てたうえで、その使者を擁立して(というか拉致軟禁して?)事実上公孫瓚のものとしている。 この時193年。前年に「巨馬水の戦い」で袁紹を破り、今また劉虞を滅ぼし、官位も高めた公孫瓚。 こうして彼は自らの実力を誇示すると共に、生まれの身分や仁徳など何の意味も為さないということを示したのだ。 ◆暴走と暗転 だが、それは彼の自滅と最期の始まりでもあった。復讐に燃える劉虞の旧臣が袁紹に加勢したのである。 公孫瓚は、劉虞を殺してからも劉虞の残党を根絶やしにしようとした。 もと劉虞の推挙・抜擢で役職についていた官僚たちを探し出しては、追放したり殺害したりして駆逐し、その後釜に自分の子飼いの部下をつける。 またさまざまなコンプレックス故か、幽州にいる知識人や名士を目の敵にして迫害した。 これでは旧劉虞政権の人たちは落ち着くはずがない。 劉虞配下と言えど、もし公孫瓚が劉虞残党も取り立てて政権を構築するというなら、彼らも少なからず仕えたに違いない。袁紹配下の武将たちが袁家を滅ぼした曹操に仕えたようにである。 しかし「劉虞とわずかでも繋がりがあるのなら生かしておかん」などといわれてはたまらない。 彼らは自分たちが生きるために、いや「恩徳あった劉虞の敵討ち」を標榜して、公孫瓚への反抗を決意した。 公孫瓚の暴走は留まるところを知らない。彼は自分が昔受けた善意・善行はすっかり忘れたくせに、自分が受けた悪意・悪行はしっかり覚えていて、後者のぶんだけを報復した。法正「引くわー()」(*5)。 幽州で公孫瓚への怨嗟が吹き荒れるのは当然である。 一部の部下も「もはや公孫瓚には明るい未来はない」と見限っており、趙雲は「兄の喪に服しますので」と、劉備も「陶謙から豫洲刺史に求められましたので」と、さりげなく離脱。 そして、公孫瓚の粛清に抵抗する劉虞残党、追い詰められた幽州名士、何度も討伐を受けてきた異民族が「公孫瓚を打ち破れる英雄」として、南の冀州にあって勢力を拡張する袁紹に期待し集結していくのは必然であった。 劉虞の死から二年後の195年、ついに劉虞の残党が決起。 「烏桓司馬」に推挙された閻柔をはじめ、鮮于輔・斉周・鮮于銀といった烏桓勢力が幽州に攻め込み、公孫瓚の幹部・鄒丹を含めた四千人を討ち取った。 これと同時に(おそらく裏で連合していたのだろう)、冀州で戦力を整えていた袁紹も行動を開始。 劉虞の遺児・劉和や、かつて劉虞の恩顧を受けていた烏桓王などと連合しつつ、配下の名将・麹義を主力に、幽州に攻め込んだ。 これに対して公孫瓚も自ら大軍を動員し、鮑丘にて麹義の指揮する袁紹軍主力と正面から戦ったが、大敗を喫してしまう。 公孫瓚はなんとか脱出したが、二万あまりの軍勢を失ってしまい、さらにこの敗戦が伝わって幽州各地でも反乱が起きた。 公孫瓚はそれでも打って出ようとしたものの、重用している部下の関靖の献策もあり易京城への籠城を選択した。 この易京の要塞ぶりはすさまじく、城は何十もの濠とそびえ立つ城壁に囲まれ、城内に入っても幾重もの塹壕が巡り、しかも至るところに櫓が設置され、そして蓄えた食料は三百万斛(一斛=十斗)、とまで記録された。もはや兵糧切れもあり得ない。 公孫瓚も「こんな城はいかなる兵法でも突破不能だ」「この抱え込んだ食料を食い尽くすころには、天下の事情も変わっておろうよ」と豪語した。 さすがの袁紹・麹義もこの要塞には面食らったか、一年以上包囲したが落とせないまま兵糧が尽き、やむなく退却したところで公孫瓚が出撃、大きな損害を出している。 恐らくこの戦いが、公孫瓚の最後の勝利である。 ◆滅亡 しかし、以後の公孫瓚は完全に易京城へと引きこもってしまい、袁紹への反撃や幽州への命令発行すら行わなくなる。 対して袁紹は、易京には公孫軍が出ないだけの用意に留め、そのあいだに幽州各地で孤立していた公孫瓚勢力を各個に撃破し、公孫瓚をじわじわと追い詰める。 元号が建安に代わった196年には、出撃した公孫瓚配下がかえって袁軍包囲網に敗北するが、 易京城門まで逃げて助けを求めたにもかかわらず、公孫瓚は扉を開けず見殺しにしてしまい、配下の士気と公孫瓚の権威はますます失墜した。 本人曰く「もし助けに行こうものなら、次から部下どもは俺の助けを期待して、本気で戦わなくなるだろう。見せしめにして、部下どもに死力を尽くして戦わせるのだ」……とのことだったが、 結果部下たちは「公孫瓚のために死力を尽くして戦っても、公孫瓚は我々を見殺しにするだけだ。そんな扱いを受けるぐらいなら、さっさと袁紹に降伏したほうがいい」と認識することになる。 籠城するうち公孫瓚には異常行動も目立ち始める。 彼の楼閣では、立ち入れる男性は七歳まで、入っていい大人は侍女・側妾だけとされた。 文書が届いても公孫瓚の手元まで届くことは無い。まずロープで結んで引き上げることで楼閣に入り、かつ大声を出せるよう鍛えた女性たちに、遠くから読み上げさせることで「報告完了」とした。 199年、ついに袁紹が総力を結集して、公孫瓚討伐を決意。易京に攻め込んだ(*6)。 事態を察知した公孫瓚は息子の公孫続を脱出させ、「総勢百万」と謳われた黒山賊の張燕のもとに合流させて、なんとしてでも援軍を出してもらえと厳命。 公孫続が張燕の援軍を連れて戻ってくると、それが高楼から見えたのか公孫瓚はなんとか戦意を取り戻し、 「息子が烽火を挙げつつ袁紹の背後を襲えば、内から父が出撃する」という作戦を考え、その旨を書面に記して密使に贈らせた。 が、この密使が袁紹の包囲網に捕えられてしまい、計画も漏洩。 袁紹はまず計画書に記してあった合図の烽火をわざと挙げ、それを見て「援軍到来」と勇んで出撃した公孫瓚軍を、伏兵で撃破。 完全に心が折れた公孫瓚はまたも籠城体制に戻るが、袁紹はこれ以上戦いを長引かせるつもりはなかった。 袁紹はかねてより地下道の掘削作業を始めており、その工作がついに奏功した。 鉄壁を誇った易京の要塞も地下から侵入した兵には抗しきれず、内側から解放され、袁紹軍本隊も城内へと殺到。 公孫瓚はついに敗北を悟り、妻子を全員縊り殺すと、自らの楼閣にも火を放って焼け死んだ。 焼け残った死体は袁紹軍に発見され、斬首のうえで首は許都の献帝の元へと送られている。 外にいた公孫続も、ほどなくして異民族勢力に殺されている。利用価値がなくなって、張燕から見限られたのだろう。 公孫瓚の敗因は、その生涯で憎み続け一度は打ち負かしたもの。 袁家という優れた身分と能力を持つエリートに、亡き劉虞の仁徳が合わさった結果であった。 ◆敗因となった歪み 公孫瓚の軍が精強だったのは、白馬義従のおかげである。 異民族の騎兵は精強ではあるが、文化の異なる民族の部隊を主力部隊として組み込むとなれば、それは相当な労苦を要求される。 彼らを組み込んで主勢力とできた点は、公孫瓚が軍事において一廉の将であったことを示していると言ってよい。 だが公孫瓚の名は異民族から畏れられたものの、窮地に陥った際に味方とはならなかった。 武名は自身が勢いが盛んな時には有効だが、劣勢になれば無価値となる。 仁徳は乱世においては軽視されがちであるが、劣勢になった時には味方を作り、またはつなぎ止める原動力となる。 劉備が何度も敗れながら群雄として一国の主になれたのも、「信義を曲げない」「信頼を裏切らない」という仁徳の評判が大きかったからだ。 公孫瓚にはそれが無く、一度劣勢に陥ったときに一般の群雄以上に弱体化してしまった。 また公孫瓚は優秀な人材がいると必ず困窮させ、凡庸な者を取り立てた。 彼は部下を実力ではなく忠誠心で選んでおり、凡人なら起用に感謝するが、優秀な人材は当然視するばかりで感謝などしないから、というのが理由とされる。 上述のように生まれと育ちに恵まれたエリートというものを嫌悪していたことが窺える。 しかしこんなことをされればエリートたちは他所に流れ、仕官する。ただの利敵行為でしかなかった。 確かにこの時代、名声はあるものの実務能力がまるで見られない名士…要は中身のないエリートは幅を利かせており、そうしたエリートの能力には懸念もあった所だろう。また、忠誠心に乏しい強力な人材を配下に収めることは、自らの勢力が乗っ取られるリスクを抱えることでもある。 だが、ならエリートでなければ有能かと言えば全くそんなことはない。エリートガチャの高レア封入率は凡庸ガチャよりはまず高いと思われるので、その権利を放棄しているだけでは間違いなく損だろう。 諸葛亮、司馬懿、陸遜と言った三国を支えた名臣も、皆こうしたエリート層出身者である。 実際、公孫瓚には名前が伝わるような有力・有能な臣下が忠誠を尽くしていたという様子が見られないのである。 人材コレクターの曹操はもちろん、袁紹も袁術も、それなりに名前を挙げた臣下が史書に残されているのに対し、公孫瓚はその辺りが素寒貧なのだ。 重用された人物として関靖がいたが、上に媚び諂うのが得意なだけの酷吏とまで酷評されたハズレであり、後の歴史家にも死の間際の関靖自身も「公孫瓚の方が正しく、(易京城に)籠城するのは間違いだった」とまで断言している。その関靖も忠誠心ベースで選んだためか公孫瓚への忠誠だけは本物であり袁紹軍に突撃して散ったが、こんなハズレ人材の忠誠心など得たところで群雄としては何の役にも立たない。 後に曹彰の副将として大活躍した田豫は公孫瓚に仕え、袁紹に寝返って攻めてきた元同僚を戦わずして追い返すという大功績をあげているが、史書で重用しなかったとはっきり書かれている。 若き日の趙雲も当たり人材の一角だったと思われるが、公孫瓚配下としての軍功はこれと言って伝えられていない。というより、劉備に貸し出されているので悪く言えば「貸して使い潰されても惜しくない程度の武将」という扱いだった可能性が高い。 というか、上述のように劉備と趙雲も公孫瓚が暴走し始めた時期にそれぞれ離脱している。 だが、そもそも何故ここまでエリート層を軽視するようなことが可能なのか? 公孫瓚は既存の豪族や名士らに代わって商人たちが舵を取るという重商政策を取ることを考え、そのため複数名の商人と義兄弟の契りを結び彼らを富ませていた。 彼らを利用すれば否応なく貧富に差を作れたわけだ。儒教では商人というのは低い身分であったので、上手く行けば歴史を一変させられた。 しかし豪族や名士という既存の権力は農・商・兵の全てに関わる多角的事業であったので、当然彼らの反発を招き、更に商人は百姓のようなより弱い者から暴利を貪ったりもしていた。特に百姓の困窮は人肉ぐらいしか食糧がないというほど酷いものである。 儒教が中心にあったこの時代でここからどうやって改革していくかは全く不明だが、何かしらのプランがあったのか、はたまた反骨心だけで何も考えず突き進んでいただけなのか……。 旧交のあった劉備ら三兄弟は一時公孫瓚の旗下に身を寄せていたが、劉備は曲がりなりにも後漢皇族の血を引くエリートで、モロに公孫瓚の嫌いなタイプの人材に引っかかってしまっている。 この惨状は耐え難い、さりとて彼を諫めることもできない。 劉備にも身分違いの義兄弟がいるが、公孫瓚も義兄弟のいる身上になった。学友として共にあったあの頃にはもう戻れない。 そのため陶謙に引き留められた際に(引き留められなくても理由を付けて)彼の下を去ることを選んだと思われる。 ちなみにここで公孫瓚に反旗を翻す形を取らずただ去ったことは、劉備の「クリーンさ」を印象づけ劉備が何度敗れても立ち直る原動力ともなったであろう。 その上、上述のように公孫瓚はそうやって選んだ部下の統御もお世辞にもうまいとは言えなかった。 助けを求めてきた部下達を「やる気を出させるため」という理由で見殺しにしてみすみす戦意を喪失させたり、易京籠城中の異常な挙動は、群雄トップとしての根本的な力量不足を露呈している。 追い詰められての判断ミスと弁護できなくもないが、こんな指揮をしていては部下がエリートか否かなど無関係に見限られて当たり前としか言いようがない。 こうして公孫瓚は武勇に優れ社会基盤そのものを覆そうとした超革新派の英傑であったが、最終的にはその根底にあったつまらないプライドのせいで破滅を招いたのである。 陳寿からの評価は公孫度・張楊・陶謙とまとめて「論外。とっとと降伏して血脈を残した群盗ども(張燕・張繍(*7)・張魯)の方がマシ」とまでバッサリ。 三国志という史書は三国時代と変わらず豪族や名士と儒教が中心の世に書かれた上に袁紹age→曹操age→晋ageという流れもあるため、それらへの叛逆を行った公孫瓚がディスられるのは当然だろう。 軍人としては優れていたとも言われるが、戦術面ではともかく戦略面では不足がある。 異民族や反乱軍を深追いして孤立する、袁紹に対して二度も大勝(*8)しながらその後が続かない、一度は冀州・青州・兗州を狙うが一度敗れるとそれっきり……と、長期的視野には欠けている。 特に袁紹との戦いでは、戦闘面ではわりと勝利しているのに、終わってみれば目標は果たせずじまい、というパターンが割と多い。 ということは重商政策を続ける機会が与えられたとしてもやっぱり成功しなかったのでは……と思えてしまう。本当に残念である。 【三国志演義での公孫瓚】 三国演義の公孫瓚は、史実とは全く逆のキャラクター付けをされている。 かねてより劉備のことを気にかけており、朝廷の監督官に賄賂を求められた劉備が、逆に監督官を半殺しにして逃亡していたところ、 漁陽の「張純の反乱」討伐時に当たって劉備を招聘して手柄を立てさせ、また上奏して平原郡の支配者にさせるという形で救助。 董卓討伐時にはわざわざ劉備にも声を掛けて同行させ、諸侯という立場にも入れない劉備たちを袁紹たちに紹介し、一席を与えさせる。 さらに呂布戦では、次々とやられる連合軍の武将にふがいなさを感じてか、諸侯でありながら呂布に一騎打ちを挑むという豪胆さも見せた。史実において公孫瓚に目ぼしい臣下がいなかったため、公孫瓚自身が引っ張り出されたと取れなくもない。 しかし呂布には勝てず、逃げ出したところを乱入した張飛に助けられる。 三国志序盤の見せ場である虎牢関の戦いで、身分の低かった桃園三兄弟を引っ張り出す演出役として、標準以上の存在感はある訳だ。 連合軍が解体すると、史実通り袁紹と対立するが、袁術や劉虞を搦めた極めて複雑な史実の情勢は大幅に再編されて、わかりやすくなっている。 まずは袁紹が公孫瓚を「北から冀州に攻め込まれよ。南からこの袁紹が攻め込んで、冀州を分け合おう」と唆す。 同時に冀州牧の韓馥に「いま北から公孫瓚が攻め込んでくる。対処せねば危ういぞ」とひそかに忠告する。 動揺した韓馥は袁紹に助けを求め、袁紹は無血で冀州を奪った(*9)。 その後、公孫瓚は「冀州を分け合う」という約束を信じて領土割譲の使者に弟・公孫越を派遣するが、袁紹は「董卓の暗殺部隊」を偽装して暗殺してしまった。 激怒した公孫瓚は袁紹を討つべく、磐河に布陣。ここに袁紹と公孫瓚の戦争が始まった。 公孫瓚はまたも一騎打ちに出るが、今度は文醜に敗北して逃げ惑ったところを趙雲に助けられる。 翌日には趙雲を採用したが、流石に採用したばかりの趙雲に重要な部隊を任せるほど信じることはできず、史実同様厳綱という武将を先鋒にして騎馬戦を挑むが、史実通りに麴義に敗れ厳綱も戦死したところを出陣した趙雲が麴義を討ち取って盛り返す。 公孫軍はなし崩し的に先鋒になった趙雲を先頭に袁紹の本陣に斬り込んだが、対する袁紹も田豊の撤退進言を「男たるもの、戦って死んでこそ本望だ!」と蹴飛ばして親衛隊の心を統一し、少ない兵力で趙雲の突撃を押し返す。 さらにそこに顔良・文醜の援軍も駆け付け乱戦になるが、そこに劉備・関羽・張飛が兵を率いて公孫軍に加勢し、不利を悟った袁紹が退却して、なんとか引き分けに持ち込んだ。 その後は長らく対陣していたが、恩を売ろうとした董卓から停戦要請が来たため、両陣営はこれに乗った。公孫瓚は冀州こそ得られなかったが、これ以上の損耗は避けられた。 曹操が、父親の敵討ちで陶謙の徐州に攻め込んで虐殺をすると、糜竺・孔融を経由して劉備が徐州の援軍に向かうことになる。 すっかり劉備の庇護者となっていた公孫瓚は、劉備の相談を受けて快く騎馬隊と趙雲を貸し与え、徐州に向かう劉備軍を補強した。しかし公孫瓚自身は不参戦。 以後のことは描かれず、数年後、劉備が徐州を追われて曹操の庇護下にあったとき(同時に董承の曹操暗殺計画に巻き込まれて悩んでいた時期)、河北の事情を調べていた満寵の報告で、袁紹に滅ぼされた報告が入る。 演義版公孫瓚のもっとも重要な立ち位置は「劉備の先輩で恩人」ということ。こっちの公孫瓚のキャラクター性はほぼこれに終始する。 劉備は関羽・張飛を従え英雄の素質こそあるものの、組織的な権力は持っていない。対して公孫瓚は官界の先輩として、北平郡太守としてのキャリアと戦力を持っており、それを貸し与えることで劉備にいろいろと便宜を図ってくれる、優しい先輩キャラとなっている。 史実における暗黒面は抹消されており、公孫瓚が暴走する劉虞処刑事件・幽州統一期・易京城籠城時期に関しても一切触れない。 実は劉虞も登場しているのだが、名前だけで公孫瓚との絡みは一切ない。 滅ぼされた報告が入る場面はまさに劉備が曹操の監視下から抜け出すという場面なので、袁紹の弟・袁術を討つためと称して名前を使ってもらえる。死んでなお美味しい。 ただし、一時仕えていた趙雲は「袁紹と変わらない」と非難して劉備について行こうとして劉備に宥められるなど、実の所主君・群雄としての扱いはあまり良くない。 一騎討ちも何度かしているが、毎度毎度呂布や文醜に追い回されるなどこちらも今一つ。 呂布と戦って殺されていないし、文醜も趙雲と互角に戦ったり張遼や徐晃を追い払うなど関羽の食事として太らされたことによる強キャラなので特別公孫瓚が弱いということはないのだが、史実では優れていた武勇方面にケチをつけられた感は拭えない。 袁紹に敗北して滅んだことも「一応こんなことがありました」程度に扱われており、身も蓋もない言い方をすればナレ死である。 悪人でこそないものの、劉備の兄貴分という要素をとってしまったら結局陳寿がまとめて評したそこらの諸侯と大して変わらない扱いである。つまり単に劉虞が冷遇されてるだけ だが他の創作への影響は非常に大きく、史実要素があまり含まれていない。 史実の事績はどう見ても残念で残忍な悪党そのものなのに、ばっさり浄化して善玉寄りの人物にしてしまったという演義の影響力の高さが改めて窺える。 【創作での公孫瓚】 コーエー三国志 通称「イナゴ」。 演義ベースでキャラ付けされており、陳寿の評価とは違い劉備より軍事面で優れているが政治や魅力ではやや劣る~明確に劣るぐらいに、高めの評価がされている。 特に数字の傾向はⅨ以降顕著になり、騎馬隊や機動力に関わる特殊能力、易京の戦いを意識した防戦向けの個性を持つことが多くなった。 また、正史の部分も加味された結果低義理・高野望の武将になっており、配下として扱う場合は独立されないよう注意が必要。 基本的に部下が趙雲以外微妙かつ若干少なめで劉備たち三兄弟もいないことから「近くの劉虞や韓馥なんかよりは圧倒的に強いけど袁紹と当たったらまず勝てない上に凄く近い」という感じでイマイチうだつが上がらない。特にイナゴ使い文官が武官の田豫より劣る関靖一人しかいないのがキツい。 ドラマCDでも劉備が劉表の下にいるところから始まるため登場しない。 だが三国志Ⅸでは騎射の上位スキルである走射・飛射のスキルがあることと連鎖して威力を高めることができるというシステムにより、軍も拠点も全てを征圧し進み続けるイナゴ軍団として大活躍。圧倒的人気を得た。 しかも公孫瓚が初期君主となっているシナリオでは勢力兵法に走射が設定されており、公孫瓚軍にいる間は誰でも走射が使えるというインチキじみたプレイを行える。張飛等能力は高いのに城攻めに使いにくいはずの武将が、公孫瓚軍に登用するだけで平気で城攻めを行えるようになる様はまさに恐怖。イナゴオレンジは最高だ! その一方で「80以上のステータスを持たない人物は一定確率で戦死する」というシステムもあるため、趙雲はともかく公孫瓚未満の能力しか持たない他のイナゴたちは常に若干のリスクを抱えている。 ゲーム中では大体放置していると袁紹軍に滅ぼされてしまうのだが、状況によっては逆に袁紹軍を滅亡させてしまうこともある。その際は彼の豊富な人材を吸収し、さらに曹操軍すらも破ってしまい強大なラスボスになるパターンもあるので油断出来ない。 三國志14では劉備と協力して袁紹に勝利した設定の仮想シナリオが実装されているが、袁紹を取り逃がしたせいで人材の吸収に失敗しており、曹操とまともに殴り合うとあっさり押し負ける。さらに不自然死扱いとはいえ開始時点で公孫瓚の寿命が既に切れており、寿命延長アイテムなしだと数年で死亡するという、シナリオの主役とは思えないほど微妙な勢力になってしまっている。 ちなみにイナゴ呼ばわりされるようになったのは、黎明期のニコニコ動画に揚げられた三国志Ⅳのプレイ動画内容が発祥。詳しいことは省くが最初から飛ばしまくりである。 三国志大戦 味方の移動速度を上げる「白馬陣」という計略を持って登場する…が、当初は時間が普通の号令と同じぐらい大したことがなかった。 だがヤケクソ気味の調整によりどんどん時間が長くされ、強力な一枚となった。楽しみだ…だんだん長く速くなっていられるのはな… こんな感じで無印から3まで常に白馬陣と共にあり、武力が上がらない関係上「移動速度」「効果時間」しか弄るところがないためか、バージョンによって浮き沈みが激しい。 特に効果時間が長い時は「武将が落とされなければほぼ常時白馬陣を使っても士気が余る上、移動速度が高いから武将が落とされにくい」と相乗効果で強力になるため環境の一角を築くことも。 が、最終的にはちょっと長い号令ぐらいにされた。馬鹿なあああああ!! ちなみに、旧作ではなぜか公孫瓚関連は家族も配下も一切出てこずぼっち状態だった。田豫も漢軍だし……。 リブート版では白馬陣は嫁に渡し、自身は白馬義従という自分は武力「も」上がるという計略で登場。もちろん若干ヤケクソ気味に上方修正を受け続け、ちょっとした超絶強化にまでなってしまった。最高にハイってやつだァァァァ! 他にも味方の武力と速度と征圧力を上げる白馬の大号令、群雄の味方の騎兵の速度だけを上げる白馬流星陣ととにかく馬と全体の速さに拘っている。 あと、コクピットで串カツを食べようとしていた引き篭もりのエースパイロットとしても登場。攻城時の「ちょうどいい壁ー!」は原作を知っていると爆笑もの。 あと、ようやく先述の嫁と弟が出た。だが田豫は魏軍。そして董卓や呂布といった各英傑まで漢軍としても出る中、一人だけハブられている。 賊軍ではなく劉虞の下についてた正規軍なのに……。 恋姫†無双 無印では攻略不可で真名も無く影が薄い。忠実通り麗羽(袁紹)に倒されたが、ナレ死で終わり。 『真』からは白蓮(ぱいれん)という真名が設定された。やはり麗羽に滅ぼされるのは変わりないが、本作では死亡せず蜀へと逃げ延びるというまさかの生存ルート。 普通(属性)の持ち主。 部下である星(趙雲)に去られる運命を持っているのは変わりないが「あくまで劉備軍の方が活躍できる」「優しいが戦乱の世には似つかわしくない」と人格面は評価されていた。 白井式三国志 どう見ても山賊の親玉にしか見えない髭もじゃのオッサン。 劉備の兄弟子であるが、劉備と同等かそれ以上に粗暴であり、学生時代には検便を教頭にぶつけていた。 蒼天航路 三国志演義と同じ様に劉備の兄貴分として振る舞う。 劉備の「自分の旗を立てて名を上げる」という案につい快諾したところ、部下から「それだと皇族扱いになりません?」と言われて、青ざめながら前言撤回するというコミカルシーンもある。 しかし袁紹との「磐河の戦い」では、趙雲の麹義ぶった切りと劉備の演説、袁紹の怒りも兵も抑える度量に食われて公孫瓚自身の活躍はほとんどなし。 一方、乱世に対しては独特の考えを持っており「俺はただひとり乱世の時の刻みを見ている男でありたい」「自分の代で天下を取れなくても良い」と本拠地に籠もり、他の群雄が戦い疲れてから覇業を行おうとした。 しかし袁紹の子・袁尚に期待していた息子を殺された上、「覇業とは一世一代、おのれの生涯にて完結させるものだ!」と論破された。己の志が衰えていた事を思い知らされた公孫瓚は炎の中に消え、袁尚からは最もつまらぬ敗者と侮蔑された。 BB戦士三国伝 CV 井上悟 「『白馬将軍』公孫瓚イージーエイト」の名前で登場。演者はガンダムEz-8。 慮植ジムキャノンの門弟の一人で、主人公劉備ガンダムの兄弟子。 彼から「公孫瓉のアニキ」と慕われる人格者であり、劉備の義弟である張飛ガンダムからも「アニキのアニキ」の尊称(?)で呼ばれる。 作品によって役回りや出番が大きく異なり、初代のコミックワールド版ではロクな出番も無いまま「公孫瓚憤死!」というあまりにもあんまりなナレ死を迎えている。しかも袁紹ではなく曹操の手で。まあ初代CWだとその袁紹も空気なんだけど アニメ版ではそこそこ出番があり、アニメオリジナル商品の「クラッシュギア騎馬ブレイカー」を用いた「白馬陣」も披露した。こちらでは袁紹に討たれている。 初代ではキットは発売されず、アニメ化の際に改めて「真」版名義で発売された。トレードマークのマントが可動式になっており、動きがつけられる。 また、2018年には初代版のフォーマット&中国展開限定のキャンペーン品だった「四神鬼甲戦車」とのセットとして成型色変更版も発売された。 真・三國無双 CV 石川英郎(3,4)、中尾良平(5)、滝下毅(6,7)、金本涼輔(7猛将伝以降) 最新作の8に至るまでモブ武将のまま。 虎牢関の戦い辺りまでは登場するが、その後は概要のナレーションで袁紹に滅ぼされたとサラッと語られる程度なのも珍しくない扱い。一部シリーズでは、袁紹陣営を操作する際の敵軍として登場することもあるにはあるが。 基本的に袁紹に対して対抗意識を燃やしており、白馬義従の力で天下に名乗りを上げようとするキャラである。だが人徳を顧みない性格が災いして、趙雲を幻滅させてしまい軍を去って劉備の元へと走っていくのが最早お約束(*10)。5の趙雲伝のムービーでは、「御免!」と目の前で馬を反され彼に去られてしまう公孫瓚の姿はなんとも哀れとしか言い様がない…。 ただ、3猛将伝などで絶影鐙を持たされていたりする。これは「乗っている馬から絶対に落ちない」というもので、こちらも騎乗していなければ空中攻撃などしか当てられない、しかも絶影鎧なしでは攻撃を一回でも受けると落馬するため地味にウザい。 騎乗攻撃が得意な馬超とかならお茶の子さいさいではあるのだが、大半の武将はそうでないので本当にウザい。 Empiresのような作品では、一応君主だったことあり彼を立ててゲームクリアすること可能ではある。同じ陣営にいた趙雲ばかり使ってたって人は怒らないから手を上げなさい。 我が白馬義従に、追記・修正は必要ない! △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 劉備と親交があったから演技は善玉よりの書かれ方するけど、ぶっちゃけ悪党だよねこの人 -- 名無しさん (2024-01-13 23 24 53) ああ・・・いなごだ・・・ -- 名無しさん (2024-01-13 23 34 54) 民草を苦しめ、人を生まれと育ちで差別し気に入らなかったら上司だろうと噛みついて貶め殺したりもする・・・これだけ見たらまあ間違いなく悪党。そんな闇を全部切り捨てて善玉として世に広めた演義が凄いんだわ -- 名無しさん (2024-01-14 00 19 33) 演義でしか知らなかったので「え、こんな人だったの!?」と感じた -- 名無しさん (2024-01-14 00 49 01) 瑣末だけど『論値』は『論外』にならないかな、知らないと誤字にしか見えない。スラングが風化した後でいいけど -- 名無しさん (2024-01-14 02 49 10) 劉備の同胞として描くには、劉虞への扱いがアレ過ぎてあまりにも都合が悪すぎるからか、演義だと劉虞の存在その物がカットされてるというね -- 名無しさん (2024-01-14 04 26 09) ゲームで袁紹に対抗しようとすると劉虞と韓腹潰して漸く人材的にトントンになるくらいの差がある -- 名無しさん (2024-01-14 09 15 20) しかし演義でも趙雲から「袁紹見限って駆け込んだけど、公孫瓚も袁紹レベルじゃん」と言われてたりして、きれいっちゃきれいだけど人物としては「まぁそこそこ」くらいだったりする。 -- 名無しさん (2024-01-14 09 58 51) もし袁紹を倒して勢力を広げたらその後どう動いてたんだろうか -- 名無しさん (2024-01-14 14 40 30) 取り敢えず河北制圧したんじゃない?そっから南下するかはわからんけど -- 名無しさん (2024-01-14 18 01 51) 悪人というか名士社会に反発した人っぽいなので史書に悪く書かれてる面はあると思う。記録する側が名士なんだから良く書いてもらう余地が欠片もない -- 名無しさん (2024-01-14 18 21 52) 宮城谷三国志の「公孫瓚は気が付かなかったが、劉虞を慕う幽州の民の心の中に確かに涙という雨が降った」ってくだりは公孫瓚の末路を暗示してて秀逸だった -- 名無しさん (2024-01-14 20 18 11) 優れた参謀が1人でもいれば違ったんだろうが・・・。へりくだる無能者ばかり側に置いてたんじゃ、田豊や沮授のいる袁紹陣営に勝てる訳ないわな。 -- 名無しさん (2024-01-14 20 55 05) SDガンダム三国伝じゃイージーエイトのか。 -- 名無しさん (2024-01-14 21 30 46) FC版だと大体真っ先に劉備に潰される人 -- 名無しさん (2024-01-14 22 59 25) まぁ、武勇に自信ニキが頭やってると失敗する典型。 -- 名無しさん (2024-01-15 03 45 39) どの時代も武断派って理屈すっ飛ばして自分の意見ゴリ押して状況悪化させるイメージ -- 名無しさん (2024-01-15 13 41 07) ついに三国志系のカテゴリも公孫瓚の記事まで出来たか、この調子ならそのうち張魯とかの記事もできそうだな -- 名無しさん (2024-01-15 18 09 44) ↑14まあ劉虞も死後に愛人達に豪勢な生活させてた事がバレて評判落とすからむしろ演義で悪いところも含めてカットしてもらえて助かったかもしれん -- 名無しさん (2024-01-15 18 13 06) なんていうかもう、幽州の狂犬だな・・・ -- 名無しさん (2024-01-16 23 14 37) 「このままでは皆焼け死んでしまうぞ」※火をつけたのは自分 -- 名無しさん (2024-01-17 09 06 28) 幽州のボスで異民族の騎兵使って大暴れと言うので思い出したのが、八王の乱でパワーバランスをぶっ壊して戦乱を終わらせる並の活躍をした王浚。三国志じゃない分どうしても知名度に劣っているし彼は彼で後世の評判もよろしくない訳だが、もし公孫瓚がもっと真っ当に組織運営できていれば、彼ぐらいに暴れ回っていたのだろうか… -- 名無しさん (2024-01-17 17 50 48) 英傑大戦にも出てる、リュウグはまだいないのに、。 -- 名無しさん (2024-01-20 00 02 49) 項目を読んだけどとにかく器が小さい男って印象。多分劉虞か袁紹配下の将軍の一人位が似合いの器だったんだろうな -- 名無しさん (2024-01-20 00 35 48) ↑7 反乱に定評のある韓遂、燕王を自称しあえなく撃沈された公孫淵、曹操の台頭を支えた荀彧あたりも来そうなのでネタには困らないな -- 名無しさん (2024-01-20 06 28 59) 名前 コメント