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名稱:高從誨 伺服器及顏色:3服綠類型:武 性別:男 生命值:637 武力:42 智力:10 防禦:15 敏捷:40 運勢:21 敘述:高從誨(891年—948年),字遵聖,五代時期南平國君主。為高季興之長子。曾仕於後梁中央政府,高季興為荊南節度使時,告歸其父,被高季興任命為馬步軍都指揮使、行軍司馬。
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名稱:郭淮 伺服器及顏色:6服綠類型:武 性別:男 生命值:619 武力:42 智力:11 防禦:17 敏捷:27 運勢:25 敘述:郭淮是魏國晚期著名的將領,早年在曹洪帳下任行軍司馬。諸葛亮第一次北伐時,郭淮任副都督,隨大都督曹真一同前往隴右防守,後歸屬司馬懿,留守長安。多次參與防禦蜀軍北伐的軍事活動。後期,郭淮為魏國西方防禦邊境的主將,輔佐司馬昭防禦姜維北伐,在一次追擊蜀軍的戰鬥中,被姜維徒手接箭反射中,陣亡。
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薛珏 せつかく 719-792 中唐の官人。字は温如。河中宝鼎県の人。蔭位によって懿徳太子廟令となり、乾陵台令、昭応県令、楚州刺史となったが、刺史の既得権益を廃止したためかえって観察使に潔癖さを嫌われ、峽州刺史に左遷された。しかし清廉さを称えられて中散大夫を拝命し、汴宋行軍司馬、汴州刺史、河南尹、司農卿となった。竇参と親しかったのに連座して太子賓客に改められて嶺南観察使となった。子に薛存慶がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。 列伝 『新唐書』巻一百四十三 列伝第六十八 薛珏 『旧唐書』巻一百八十五下 列伝第一百三十五下 良吏下 薛珏 外部リンク 維基百科,自由的百科全書 薛珏(中文) https //zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%96%9B%E7%8F%8F
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元誼 げんぎ ?-? 中唐の武将。李抱真の部将。昭義軍行軍司馬兼洺州刺史。貞元十年(794)李抱真が没すると王虔休が留後となったが、元誼は不満に思って洺州・磁州・邢州で一軍をなして王虔休に反抗し、王虔休は攻撃を繰り返したが、貞元十一年(795)に偽って洺州を降伏したとし、王虔休は部下二千人に入城させたが、元誼はこれを皆殺しにした。貞元十二年(796)兵五千人およびその家族一万あまりとともに魏博節度使田緒に降伏した。後に元誼の娘は田緒の子田季安の夫人となった。 史料 『資治通鑑』巻二百三十五 唐紀五十一 徳宗十 貞元十年秋七月条、貞元十一年閏八月条、貞元十二年正月庚子条 外部リンク 維基百科,自由的百科全書 元誼(中文) https //zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%85%83%E8%AA%BC
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杜稜 とりょう ?-? 唐末の武将。銭鏐の部将。字は騰雲。新城の人。董昌が杭州八都を組織するとその一人となった。銭鏐に仕えて将となり、周宝が常州に追放されると、成及とともに薛朗を攻撃した。常州制置使となったが、龍紀元年(889)に田頵の来攻を受け、地に穴を掘って杜稜の寝室に奇襲されて拉致されたが、釈放された(『新唐書』ではこの時殺害されたとする)。銭鏐がしばしば淮南に侵入し、杜稜は東安城を築城した。乾寧二年(895)銭鏐は董昌を討伐し、董昌は援軍を淮南に要請し、田頵・安仁義は東安を包囲するも、杜稜は防衛に成功した。両浙諸軍都指揮使、行軍司馬に昇進した。安仁義が婺州を攻撃すると救援したが勝てず、潤州刺史となって卒した。『十国春秋』に伝がある。 史料 『十国春秋』巻八十四 呉越八 列伝 杜稜 外部リンク 維基百科,自由的百科全書 杜稜 (唐朝)(中文)
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韓泰 かんたい ?-808 中唐の官人。字は安平。永貞の改革の「二王八司馬(王叔文・王伾・韋執誼・韓泰・陳諌・柳宗元・劉禹錫・韓曄・凌準・程异)」の一人。王叔文に付き従い、韋執誼・陸質・呂温・李景倹・韓曄・韓泰・陳諌・柳宗元・劉禹錫は死を約した友であった。永貞の改革の担い手の一人で、貞元年間(785-805)戸部郎中となり、王叔文が范希朝を神策行営節度行軍司馬とすると、韓泰を副使とした。謀略に優れ、王叔文・王伾に重んじられた。憲宗が即位すると永貞の改革の「二王八司馬」は貶され、韓泰も虔州司馬に貶され、漳州刺史に量移され、さらに郴州刺史となった。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。 列伝 『新唐書』巻一百六十八 列伝第九十三 韓泰 『旧唐書』巻一百三十五 列伝第八十五 王叔文 韓泰 外部リンク 維基百科,自由的百科全書 韓泰 (唐朝)(中文) https //zh.wikipedia.org/zh-tw/%E9%9F%93%E6%B3%B0_(%E5%94%90%E6%9C%9D)
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康伝圭 ?-880 晩唐の武将・藩鎮。もとは河東節度使の牙将。都押衙。乾符五年(878)正月、竇澣によって土団(民兵)二千を率いて代州に駐屯したが、土団が反乱をおこした。同年五月、代州刺史に任じられ、乾符六年(879)七月に軍乱のため節度使の李侃が長安に逃げ帰ったため、河東行軍司馬に任じられた。同年十一月に河東節度使に任じられ、代州から晋陽に赴任すると、出迎えた都虞候の張鍇、郭朏を殺して一族を滅した。広明元年(880)沙陀都督李国昌が侵入してくると、伊釗・張彦球・蘇弘軫に迎撃させたが、敗北したため蘇弘軫を斬ったが、かえって張彦球に軍乱を起こされ殺害された。 本紀・史料 『新唐書』巻九 本紀第九 僖宗 乾符六年十一月戊午条、広明元年二月戊戌条 『資治通鑑』巻第二百五十三 唐紀六十九 僖宗上之下 乾符五年正月癸酉条所引 実録、同年五月丁巳条、乾符五年七月条、同年十一月戊午条、広明元年二月条
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成及 せいきゅう 845-912 唐末・五代の武将。銭鏐の部将。字は宏済。銭塘の人。銭鏐に従って劉漢宏の乱を平定して功があり、その後銭鏐の軍事や密謀の多くは成及の謀より出た。光啓年間(885-888)潤州の薛朗を征討した。乾寧元年(894)蘇州刺史となるも、楊行密に蘇州を破られ、捕虜となった。楊行密は成及の家を見て、図書・薬剤があるのみであったから、大いに称賛し、行軍司馬に任じたが、泣きながら佩刀を引き寄せて自害しようとしたから、楊行密は手ずから止めた。翌年魏約と捕虜交換で銭鏐のもとに戻り、保大彰義等軍節度使、開府儀同三司、検校太尉となった。『十国春秋』に伝がある。 史料 『十国春秋』巻八十四 呉越八 列伝 成及 外部リンク 維基百科,自由的百科全書 成及(中文) https //zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%88%90%E5%8F%8A
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元載 げんさい ?-777 唐の代宗朝の寵臣・宰相。鳳翔・岐山(陝西鳳翔県)の人。字は公 輔。玄宗の天宝年間(742-756)の初め、荘・老・列・文四子の学によって進士の第に入り、新平の尉に補せられた。粛宗の時代に、ときの実権者李輔国の妻が、元載の一族の出身であるところから、その縁によって重用され、代宗がたつと、中書侍郎・許昌県子を授けられ、ついで天下元帥行軍司馬をつかさどった。そこで彼は李輔国を暗殺させ、帝に寵のあった宦官を買収して帝にとり入り、次に帝の内意を得て天下に驕横の勢をはっていた魚朝恩を殺して、もっとも帝の信愛をえた。おごりたかぶった元載は、諸子をつかって貨殖に努め、都の南北に邸宅を造り、郊外 には別業をつらね、集めた美女名妓は禁中も及ばないほどであった。李少良が上書して元載の行ないを弾劾すると李少良を罪におとして殺し、かえって帝の怒りをうけて族滅した。 参考文献 『アジア歴史事典』3(平凡社,1960)
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張彦球 ?-? 晩唐の武将。河東節度使の牙将。都教練使。広明元年(880)沙陀都督李国昌が侵入してくると、河東節度使の康伝圭の命により蘇弘軫が迎撃するが、敗北したため蘇弘軫が康伝圭に斬られ、今度は張彦球が将兵三千人で追撃を命じられたが、百井鎮で軍乱をおこし、晋陽に戻り、籠城した康伝圭を西明門から兵士を突入させて殺害したが、監軍の周従寓に慰撫されて落ち着き、張彦球を府城都虞候とした。新節度使として宰相の鄭従讜が赴任してくると、軍乱は張彦球の本心ではなく、別の首謀者がいることが判明し、首謀者は斬刑となり、張彦球は誠実さを鄭従讜に信任され、軍権を任されるに到り、その後も何度も敵を破って功績があり、行軍司馬に昇進し、後に金吾将軍に任じられた。 列伝・史料 『新唐書』巻一百六十五 列伝第九十 鄭余慶 従讜 『資治通鑑』巻第二百五十三 唐紀六十九 僖宗上之下 広明元年二月条、三月辛未条