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憲政党(けんせいとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年6月22日-同10月29日、自由系 1898年10月29日-1900年9月13日)。1898年(明治31年)、板垣退助の自由党と、大隈重信の進歩党が8月10日に予定されていた第6回衆議院議員総選挙に備えて藩閥政府に反対するために合同してできたものである。だが、総選挙直後に再分裂して旧自由党側が「憲政党」の名称保護を強行して引き続き「憲政党」を名乗り、旧進歩党側は憲政本党と名乗った。 本項記事では、1898年6月22日から同年10月29日までの統一された憲政党と10月29日から1900年9月13日の旧自由党系の憲政党(「自由派憲政党」などと呼称されることが多い)の双方を扱うものとする。 概要 憲政党 第2次松方内閣が計画した地租増徴法案に対して同内閣の与党であった進歩党は与党離脱を決定して、野党自由党との連携を強めた。これに対して松方正義内閣総理大臣は衆議院解散を行って第5回衆議院議員総選挙に至るが、松方自身は解散当日に内閣総辞職を行い、急遽伊藤博文が組閣した第3次伊藤内閣も政権運営の見通しが立たないまま、再度解散に踏み切った。 前回総選挙からわずか3ヶ月での再度の解散に両党の反発は高まり、1898年6月22日に両党は合同して新党・憲政党を発足させた。新党は「政党内閣の樹立」「地方自治の発達」「通商貿易の拡大」「産業・鉄道の充実」「国力に見合った軍備増強」「財政基盤の確立」「教育の発達」「皇室及び憲法の擁護」「文官任用令廃止」などを掲げていた。当面総裁は設置せず、旧自由党の松田正久・林有造と旧進歩党の尾崎行雄・大東義徹の4名が総務委員に就任して党務を行うものとした。 これを知った伊藤博文は元老達に対して自分達も新党を結成するか、憲政党に政権を一旦明け渡すことを要求した。だが、元老会議は両方とも反対したために伊藤は内閣総辞職を行い、元老会議は後継のなり手を見つけられないまま、後者を選択した。 1898年6月30日、大隈を内閣総理大臣、板垣を内務大臣とする日本最初の政党内閣「隈板内閣」を成立させるが、反政府のみを目的とする自由党と進歩党の大同団結によって成立した政党であるため、政策や路線・人事をめぐり内部において旧自由党系と旧進歩党系の対立が絶えなかった。特に外務大臣に起用が予定されていた自由派の星亨駐米公使が急遽帰国した時に、星の当初の帰国目的が両党合同に反対するためのものであった事を知った大隈は自ら外相を兼ねて星起用を取り消した(折を見て鳩山和夫に差し替える予定であったとする説もある)。これに激怒した星と自由派内の一部が憲政党自体への批判を強めていった。とは言え、実施された総選挙では全体の8割の獲得議席を得て一旦は対立は収まるかに見えた。 だが8月22日、進歩派の尾崎行雄文相が帝国教育会で行った所謂共和演説事件が起った。これにより両派の抗争に拍車がかかり、これにより、尾崎は文相辞任のやむなきに追い込まれ、大隈はその後継として自派、すなわち同じ進歩派の犬養毅を奏薦したことによって両派の対立はついに頂点に達した。 10月29日、星亨が中心となり自由派領袖会議を党大会の代わりとして開催し、憲政党解党をクーデター同然に決議した。 自由派憲政党 前述の通り、1898年10月29日に自由派(旧自由党系)のみで憲政党解散を決議させた星亨は、党名・綱領・規約はそのままとして、総務委員を星亨・片岡健吉・江原素六に交替させたという形で法的には憲政党が存続する体裁を取って内務省に届出を行った。内務大臣は自由派の指導者である板垣退助であったから、届出はその場で受理されて自由派のみによる新しい憲政党が発足した。これを知った大隈ら進歩派(旧進歩党系)は対抗するため、正式な党大会を開催しようとしたが、内務省はこれを違法な政治集会と認定して開催を許可せず、11月2日には進歩派に対して、同一の政党名を用いて結社を行い(星らの)憲政党の政治活動を妨害を企てたとして、「憲政党」という名称の使用禁止命令が発せられた。このため、やむなく進歩派は11月3日に憲政本党を発足させた。これにより11月8日に隈板内閣は倒れた。 新しい自由党の事実上の指導者となった星亨は第2次山縣内閣に対して、不公正な地価の修正や党員の入閣などを条件に地租増徴を認めると申し入れた。これによって地租増徴は実現したものの、これに対して山縣有朋は掌を返したかのように文官任用令を改正して自由派憲政党との協定とは正反対に政府からの政党の排除を行った。これに激怒した星は野党に転じて山縣を攻撃する一方で、政治への意欲を失いつつあった板垣退助に代わって伊藤博文を党首に掲げる構想を打ち立てる。だが、伊藤からも拒絶されてしまった。だが、程なく伊藤の拒絶の理由が既に「伊藤新党」の準備を進めているからであることを知った星は憲政党を解党して「伊藤新党」に憲政党ごと合流することを画策する。1900年9月13日、星の主導で憲政党の解党が決議され、その議員のほとんどが2日後の立憲政友会結成に合流した。梯子を外された形となった板垣退助はこれによって事実上の政治生命の終焉を迎えることとなった。 関連項目 第1次大隈内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月27日 (月) 22 35。
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玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、頭山満ら旧福岡藩士を中心によって、1881年(明治14年)に結成された政治団体。 概要 当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。日本の敗戦に伴い1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散させた。 主な活動 1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、進藤喜平太(進藤一馬元福岡市長の実父)らが創立した。旧福岡藩士らが中心となった。 戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を強力に支援した。 玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であった。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙干渉に転じる時期がある。その理由は、当時の議会が「民力休養」を掲げ、軍事予算の削減を要求しながら清国との戦争を盛んに煽動したためであった。玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。 他に玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件がある。当時外務大臣だった大隈は、日本が幕末に結んだ不平等条約の改正をはかったが、その改正案は関係各国に対しかなり妥協的であり、国民的反対運動がたちまち全国を覆った。しかし、剛毅な大隈は決して自案を曲げなかったため、玄洋社社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決したのである。来島の投げた爆弾は過激自由民権運動家の大井憲太郎から提供されたものと言われている。事件で大隈は右足を失いながらも、尚自説を貫く決意であったが、政府は方針を急転し、大隈は辞職したため、この妥協的改正案は見送られることとなった。 玄洋社の社員らが掲げた有名なスローガンには「大アジア主義」(孫文の神戸演説に語源があるとされる)がある。彼らは、朝鮮の改革運動家金玉均や朴泳孝、インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンのアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。当時の日本政府の方針が、各国との外交関係上、しばしばこれらを迫害する立場に立ったのに対し、玄洋社は公然とこれに反抗し、「大アジア主義」の主張を貫いた。 特に1901年(明治34年)に、内田良平らが黒龍会(玄洋社の海外工作を担う)を設立してからは、より多彩な活動が展開されるようになる。孫文らの辛亥革命を支援するために、多くの浪人たちが大刀を抜きダイナマイトを投げて清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。 日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の社中(社員)であった。陸軍参謀本部参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評した。また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」といって称えた。 また、日韓合邦については、内田良平や李容九は、日本と大韓帝国(韓国)の対等な立場での合邦を希望し運動したが、実際には日本による韓国の一方的な併合となった。日韓併合によって、朝鮮王族は日本皇族と同格の「公族」となり、朝鮮の有力者らは日本の「華族」に列せられたが、李容九は爵位を辞退し悲嘆のうちに亡くなっている。李は、数度にわたる朝鮮の政治改革の失敗から、両班(朝鮮の支配階層)による下層階級への搾取虐待を朝鮮人自身の力で克服することを不可能と考えており、日本との合邦によって初めてこれが実現できると信じていた。 昭和に入ると、玄洋社と関係の深かった中野正剛らは、大日本帝国憲法を朝鮮・台湾にも施行して、内地と朝鮮の法律上の平等の徹底(参政権は属地主義であったため、日本内地在住の朝鮮人、台湾人にのみ選挙権、被選挙権があった)をはかるべきと主張した。一方、頭山満と親交のあった葦津耕次郎らは、国家として独立できるだけの朝鮮のインフラ整備は既に完了したとして朝鮮独立を主張した。葦津は、満州帝国に対する関東軍の政治指導を終了すべきことも主張している。 以上のような「アジア主義」の思想潮流は、明治維新以降玄洋社等の民間結社の中で受け継がれ、多くの国民によって支持されてきた。これに対し、日本政府中枢で強く受け継がれてきたのは、ヨーロッパ列強型の近代国家を建設し、列国と外交的に協調する路線であった。なお、日本政府が「東亜解放」を正式な方針として採用するようになるのは、欧米との協調外交が完全に破綻する1941年(昭和16年)12月以降のことである。 新聞発刊 新聞「福陵新報」を1887年(明治20年)8月から発行した。これは1898年(明治31年)に「九州日報」と改題し、さらに1942年(昭和17年)「福岡日日新聞」を合併して「西日本新聞」となり現在に至っている。 政治との関連 福岡では今でも玄洋社の影響力が強く、進藤喜平太の子息で、中野正剛の秘書や玄洋社の最後の社長を務めた進藤一馬は福岡市長となった。 多くの玄洋社の運動家を輩出した福岡藩の藩校である修猷館は、現在は県立高校(福岡県立修猷館高等学校)となっており、未だに大きな影響力を持っている。初の福岡県出身内閣総理大臣である広田弘毅や東方会を結成した中野正剛、元自由党総裁緒方竹虎、自由民主党の山崎拓なども修猷館の出身である。進藤の跡を継ぎ1986年(昭和61年)から1998年(平成10年)まで福岡市長を務めた桑原敬一も修猷館高校出身である。 また、玄洋社の思想に共鳴した柴田徳次郎によって、早稲田大学の学生を中心に関東一円の学生によって設立されたのが青年大民團である。青年大民團は玄洋社の思想を多くの青年へ教育するための教育機関として私塾國士舘を設立しており、こうした関係から第二次世界大戦直後は国士舘はその名称を変更させられていた時期もあった。 記念館 福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して建てられた雑居ビル「玄洋ビル」内に、玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」があった。1978年11月に開館したが、2008年5月末をもって閉館された。資料は福岡市博物館に寄託される。玄洋社記念館 月末で閉館 政治結社の足跡伝え30年 資料、市立博物館に寄託へ - 西日本新聞(2008年5月25日) 輩出した著名な人物 杉山茂丸 寺田栄 明石元二郎 広田弘毅 中野正剛 緒方竹虎 月成功太郎 関連人物 内田良平 来島恒喜 広田弘毅 犬養毅 松岡洋右 進藤一馬 進藤喜平太 真藤慎太郎 箱田六輔 平岡浩太郎 安川敬一郎 安川第五郎 山崎和三郎(山崎拓の祖父) 深作清次郎 関連項目 閔妃 黒龍会 東方会 自剛天真流 青年大民團 国士舘大学 参考文献 頭山統一『筑前玄洋社』(葦書房) ISBN 9784751200353 葦津珍彦『大アジア主義と頭山満』(葦津事務所) ISBN 9784901577090 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月1日 (木) 17 58。
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2.1 大日本帝国憲法 2.1.1 大日本帝国憲法の制定 大日本帝国憲法制定の背景 大日本帝国憲法(明治憲法)の制定は、国内政治のレベルでは、藩閥政府と自由民権運動との抗争と妥協の産物として、憲法思想のレベルでは、西欧を起源としながら普遍的な妥当性を主張する近代立憲主義と日本固有の国家体制を確立し維持しようとする考え方との対立の中で理解することができる。 明治国家建設の過程で、政権抗争に破れ下野した副島種臣、板垣退助らは1874年に「民選議院設立建白書」を左院に提出し、加藤弘之らの設立尚早論者との論争が新聞、雑誌等で広く行われるようになった。 政府は翌1875年には「漸次立憲政体樹立の詔」を出し、1876年9月には、・・・(中略)・・・国憲起草の勅命が、元老院に対して下された。 元老院は、1880年末に「日本国憲按」と題する最終案を作成して、天皇に奏上した。 この案は当時のヨーロッパ諸国の憲法、とくにベルギーおよびプロイセンの憲法に依拠したものであったが、海外「各国之憲法ヲ取集焼直シ候迄ニ而我国体人情等ニハ聊モ致注意候モノトハ不被察」(伊藤博文の岩倉具視あて書簡)、あるいは「我カ国体ト相符ハサル所アル」(岩倉具視の論評)ものと考えられ、採択されるに至らなかった。 伊藤博文の起草作業 出直しとなった憲法起草作業は伊藤博文を中心として進められた。 伊藤は、憲法調査の勅命により1882年にはヨーロッパに赴いて、ベルリン、ウィーンでグナイスト(Gneist, R. v.)、シュタイン(Stein, L. v.)、モッセ(Mosse, A.)らの講義を聴き、帰国後、井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎の3人の協力を得て憲法の起草に着手し、1888年に成案を得た。 伊藤らの草案は、彼自身を議長とする枢密院への諮詢を経て確定し、翌1889年2月11日に「大日本帝国憲法」として公布された。 施行されたのは、上諭第4項の定めるとおり、第1回帝国議会開会の時にあたる1890年11月29日である。 【日本語としての「憲法」】 日本において「憲法」という言葉は、聖徳太子の「十七条憲法」に見られるように、法や掟を一般的に指す意味で用いられ、必ずしも国家の根本法という意味では用いられてこなかった。 明治の初年に西欧の法律学を導入する際、constitution あるいは Verfassung にあたる訳語として「国憲」あるいは「国制」と並んで「憲法」という言葉が充てられるようになり、明治15(1882)年、伊藤博文をヨーロッパ各国の憲法制度の調査に派遣する際、勅語に付帯する調査項目の一つとして「欧州各立憲君治国の憲法に就き其淵源を尋ね其沿革を考へ其現行の実況を視利害得失を研究すべき事」が挙げられていたことから、国家の根本法の意味で「憲法」の語を用いることが一般化した(美濃部・原論54頁)。 2.1.2 大日本国憲法の基本原理と運用 大日本帝国憲法には、天皇主権、皇室の自律、天皇大権による国政運営など、天皇の統治権を広範に認める側面と、欧米諸国の憲法にならって、権利の保障、権力の分立、限定された民主政治など、自由主義あるいは民主主義に即した制度を取り入れた部分とがある。 天皇主権 1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされ、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とされるとおり、統治権は天皇が行使するものとされ、立法、司法、行政の各権能は、究極的には天皇に帰属し、議会、裁判所、政府各機関は、大権を翼賛するに過ぎないとの建前がとられた。 立法権については、天皇は緊急勅令いよび独立命令を発する権限を持ち(8条、9条)、また議会の議決した法律案も天皇の裁可によって初めて法律として成立すると考えられ、議会の立法権は限定されていた(もっとも、議会の議決した法案で、裁可されなかったものはない)。 その他にも、天皇は行政各部の官制の制定および官吏の任免(10条)、陸海軍の統帥(11条)、非常時における戒厳の宣告(14条)など、広範な権限を有した。 また、統帥権については、慣習法上、国務大臣の輔弼によらず、陸軍参謀総長、海軍軍令部長が大権を輔弼するものとされ、従って、議会も政府の責任追及を通じてこれをコントロールすることはできないものとされた(美濃部・撮要322-30頁)。 皇室の自律 さらに、皇室に関する事項は皇室典範、皇室令などにより皇室自らが定めるものであって、そもそも憲法の定めるべきことではなく、従って一般国民や議会の関与する余地はあにとされた(2条、17条、74条)。 臣民の権利と義務 大日本帝国憲法はその第2章で、国民の権利と義務について定めを置いたが、そこで保障されたのは「臣民」として天皇から認められた限りでの権利と義務であり、個人の生来の平等な権利が保障されたわけでえはない。 保障された権利は、主として、居住及移転の自由(22条)、言論著作印行集会及結社の自由」(29条)などの消極的自由権であり、いずれも「法律ノ範囲内ニ於テ」という法律の留保の下にあった。 衆議院議員の選挙制度も「選挙法ノ定ムル所」に委ねられている(35条)。 学説においても、「我が憲法に於ける臣民の権利の保障は原則として唯行政権及司法権に対する制限たるに止まり立法権に対する制限に非ず。・・・・・・憲法は其の各条に於て臣民が法律の範囲内に於て何々の自由を享有し、又は法律に定めたる場合を除く外其の自由を侵されざることを定めたるに止まり、国民が法律に依りても侵されざる権利を有することを定めず」(美濃部・撮要181頁)と理解されていた(もっとも、美濃部によれば、「法定の裁判官の裁判を受くる権利」(24条)と「公安を害せず臣民の義務に反せざる限に於て信教の自由を有すること」(28条)とはこの例外で、立法権自身が憲法に制約されている(前掲))。 もっとも、権利の制約が法律に委ねられている限りでは、フランス第三共和政やイギリスが伝統的にそうであったように、議会が人権の擁護者としての役割を果たす余地もあり得たが、1938年の国家総動員法の制定によって国民の自由と財産の制約が勅令に白紙委任されると、このような民主的歯止めも失われることとなった。 また、臣民の権利は、非常時における天皇大権の行使に対抗できない旨が明記されている(31条)。 国政の運営 政治運営の面では、国務大臣はそれぞれ天皇に責任を負うものとされ、議会の信任を在職の要件とするものではないとの超然内閣主義が当初とられた。 しかし、大正末から昭和初期にかけては、衆議院の多数派政党が政権を担当するという議院内閣制が「憲政の常道」とされた。 衆議院は、貴族院と同等の権限を持ち、議会の支持がない限り、政府が必要とする法律、予算を得ることは困難であったから、政府が衆議院に対して責任を負う政治運営には、制度上の困難があったといえる。 この間、1925年には男子普通選挙法が成立し、1928年の衆議院選挙において初めて実施されている。 しかし、統帥権が政府の輔弼の対象とならないとされたことや、陸軍大臣および海軍大臣に現役の将官を充てる制度が長期に亘って存在したことなどから、軍が内閣の構成に至るまで政治的に大きな発言権を確保した。 とくに1932年の五・一五事件以降、軍部の政治介入に対する有効な歯止めが失われるとともに、政治制度の民主的な運用も廃れることとなり、1940年に諸政党が解散して大政翼賛会が組織されたことで、政党内閣の基礎自体が失われた。
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Template 基礎情報 天皇? 明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、第122代天皇(在位 慶応3年(1867年) - 明治45年(1912年))。諱は睦仁(むつひと)。幼少時の御称号は祐宮(さちのみや)。印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。 略歴 出生 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、京都・中山忠能邸で生まれ、父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名した。 万延元年(1860年)5月、儲君(皇太子)となる。9月28日、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」の名を賜る(=睦仁親王となる)。 慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が俄かに崩御。慶応3年1月9日、満14歳で践祚した。 幕末の動乱 この頃、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。慶応3年10月15日(1867年11月10日)に、明治天皇は、将軍・徳川慶喜からの大政奉還の上表を勅許し、政権を朝廷に戻した。さらに慶応3年12月9日(1868年1月3日)には討幕派の主導において王政復古の大号令を発し、「新政府樹立」を宣言。東征を命じ、旧幕府軍と 明治元年(1868年)から明治2年(1869年)にかけて戦い勝利した(戊辰戦争)。 新時代・明治 この間、明治元年3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書が発せられたのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されるとした)。 明治2年(1869年)、東京に遷って東京城(旧・江戸城)を皇居と改称し、6月17日(7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。 他方、明治3年正月3日(1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布の詔)を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。 ※注:1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めた(明治5年太政官布告第337号)。 征韓論 明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨をもって西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から明治8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。 近代国家の確立 明治15年(1882年)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。 明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、津々浦々に至る官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行なった。 明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、近代天皇制国家確立の基礎となった。翌・明治23年(1890年)には教育勅語を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、天皇は宥和に努めた。 列強への道 thumb|275px|栃木県那須村演習統監。明治42年11月。 日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本を植民帝国へと膨張させる政策を採用した。 明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であった各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。 崩御 明治45年(1912年)7月30日、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して崩御した。Template 享年? 。 なお、実際の崩御は「7月29日午後10時43分頃」と言われているが、宮内省告諭に拠る崩御日時は「7月30日午前0時43分」となっている。これは建前上、皇太子嘉仁親王が践祚して新帝となる一連の宮中儀式を崩御当日に執り行なったということにせねばならなかったからだと思われる。 同年(大正元年)9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。なお、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地には『聖徳記念絵画館』が建てられた。 人柄と影響 thumb|200px|最も有名な御真影、[[エドアルド・キヨッソーネ|キヨッソーネ作による肖像版画]] 明治天皇は、近代の天皇制が確立した時期の天皇である。若年で即位して以来、大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末から明治時代を経験し、明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。また、乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。しかし、普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。 若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。特に教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わされて天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇自らが親政の可能性を放棄したのである。 写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。ただ、最晩年の明治44年(1911年)に軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。 「明治天皇は明治国家そのものであり、明治天皇の死は明治国家の終焉」と認識されていた。大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。明治天皇を中軸として作り上げられた明治国家は、この後、変容していくこととなる。 非西欧諸国の中で近代化に成功した日本の君主ということで、海外での評価は日本国内以上に高く、エチオピアのハイレ・セラシエ1世やパラグアイのアルフレド・ストロエスネル、イラクのサダム・フセインなど、明治天皇を尊敬する人は多い。Template 要出典? 著名な御製 明治天皇は和歌を好み、多くの御製(天皇の自作和歌)を遺している。その数は、約93,000首を超えると言われる。 よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ 系譜 父は孝明天皇、母は中山慶子。父・孝明帝の正妃・九条夙子(英照皇太后)を「実母」と公称した。 乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良くない」として1年余りで「木村らい」に変わり乳児期を過ごす。 系図 Template 皇室江戸後期? Template 皇室明治以降? 皇子女 皇后は一条美子(昭憲皇太后)だが、子女はいない。側室との間の子女は以下の通り。 権典侍:葉室光子 稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこ、1873)*死産 典侍:橋本夏子 稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと、1873)*死産 権典侍:柳原愛子 梅宮薫子内親王(うめのみや しげこ、1875-1876) 建宮敬仁親王(たけのみや ゆきひと、1877-1878) 明宮嘉仁親王(はるのみや よしひと、1879-1926) - 第123代・大正天皇 典侍:園祥子 久宮静子内親王(ひさのみや しずこ、1886-1887) 昭宮猷仁親王(あきのみや みちひと、1887-1888) 常宮昌子内親王(つねのみや まさこ、1888-1940) - 竹田宮恒久王妃 周宮房子内親王(かねのみや ふさこ、1890-1974)- 北白川宮成久王妃 富美宮允子内親王(ふみのみや のぶこ、1891-1933) - 朝香宮鳩彦王妃 満宮輝仁親王(みつのみや てるひと、1893-1894) 泰宮聡子内親王(やすのみや としこ、1896-1978) - 東久邇宮稔彦王妃 貞宮多喜子内親王(さのみや たきこ、1897-1899) 権典侍:千種任子 滋宮韶子内親王(しげのみや あきこ、1881-1883) 増宮章子内親王(ますのみや ふみこ、1883) Template familytree/start? Template familytree? {{familytree|border=0|boxstyle=text-align left|}|-|-|-|照彦|照彦=稚瑞照彦尊(1873・死産)}} Template familytree? {{familytree|border=0|boxstyle=text-align left| |}|-|-|依姫|依姫=稚高依姫尊(1873・死産)}} Template familytree? Template familytree? {{familytree|border=0|boxstyle=text-align left| | |}|(|敬仁|敬仁=建宮敬仁親王(1877-1878・夭折)}} Template familytree? Template familytree? {{familytree|border=0|boxstyle=text-align left| |}|v|-|韶子|韶子=滋宮韶子内親王(1881-1883・夭折)}} Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? {{familytree|border=0|boxstyle=text-align left|}|+|-|-|允子|允子=富美宮允子内親王(1891-1933)}} Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree/end? 元号・追号 在位中の元号は、慶応と明治である。在位期間の元号からとって、明治天皇と追号された。明治天皇の代から、一人の天皇在位中に元号を変えず、またその元号を追号とする一世一元の制を採用したので、以後、諡(おくりな)を持つ天皇はいない。(追号も諡号の一種とする説もあるが、厳密には異なる) 霊廟・陵墓 京都府京都市伏見区桃山町にある上円下方墳の伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)に葬られた。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇である。 大正9年(1920年)、明治神宮に祀られる。その後、関東神宮(在関東州・廃社)、また朝鮮神宮(在ソウル・廃社)などの海外神社に多く祀られた。戦後、北海道神宮(在札幌)にも合祀されている。全ての歴代天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 参考文献 宮内省臨時帝室編修局 編修『明治天皇紀』全13冊(吉川弘文館、1968年~1977年) 第1冊 嘉永5年から明治元年まで ISBN 4642035214 第2冊 明治2年から明治5年まで ISBN 4642035222 第3冊 明治6年から明治9年まで ISBN 4642035230 第4冊 明治10年から明治12年まで ISBN 4642035249 第5冊 明治13年から明治15年まで ISBN 4642035257 第6冊 明治16年から明治20年まで ISBN 4642035265 第7冊 明治21年から明治24年まで ISBN 4642035273 第8冊 明治25年から明治28年まで ISBN 4642035281 第9冊 明治29年から明治33年まで ISBN 464203529X 第10冊 明治34年から明治37年まで ISBN 4642035303 第11冊 明治38年から明治40年まで ISBN 4642035311 第12冊 明治41年から明治45年まで ISBN 464203532X 索引 ISBN 4642035338 『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』全9巻(ゆまに書房、2003年) ISBN 484330901X ドナルド・キーン 著\角地幸男 訳『明治天皇』上、下(新潮社、2001年) 上 ISBN 4103317043、下 ISBN 4103317051 飛鳥井雅道『明治大帝』(講談社学術文庫、2002年) ISBN 4061595709 笠原英彦『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』(中公新書、2006年) ISBN 4121018494 伊藤之雄『明治天皇 むら雲を吹く秋風にはれそめて』(ミネルヴァ書房日本評伝選、2006年) ISBN 4623047199 米窪明美『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』(新潮新書、2006年) ISBN 410610170X 関連作品 映画 『明治天皇と日露大戦争』(新東宝、1957年) 『天皇・皇后と日清戦争』(新東宝、1958年) 『明治大帝と乃木将軍』(新東宝、1959年) 『明治大帝御一代記』(大蔵映画、1964年) 小説 『天皇の世紀』(大佛次郎) 関連項目 明治神宮 天皇機関説 外部リンク Template wikisourceN? Template Commons? Template Wikiquote? 国柄探訪:変革の指導者・明治天皇 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月26日 (水) 14 48。
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2.1 大日本帝国憲法 2.1.1 大日本帝国憲法の制定 大日本帝国憲法制定の背景 大日本帝国憲法(明治憲法)の制定は、国内政治のレベルでは、藩閥政府と自由民権運動との抗争と妥協の産物として、憲法思想のレベルでは、西欧を起源としながら普遍的な妥当性を主張する近代立憲主義と日本固有の国家体制を確立し維持しようとする考え方との対立の中で理解することができる。 明治国家建設の過程で、政権抗争に破れ下野した副島種臣、板垣退助らは1874年に「民選議院設立建白書」を左院に提出し、加藤弘之らの設立尚早論者との論争が新聞、雑誌等で広く行われるようになった。 政府は翌1875年には「漸次立憲政体樹立の詔」を出し、1876年9月には、・・・(中略)・・・国憲起草の勅命が、元老院に対して下された。 元老院は、1880年末に「日本国憲按」と題する最終案を作成して、天皇に奏上した。 この案は当時のヨーロッパ諸国の憲法、とくにベルギーおよびプロイセンの憲法に依拠したものであったが、海外「各国之憲法ヲ取集焼直シ候迄ニ而我国体人情等ニハ聊モ致注意候モノトハ不被察」(伊藤博文の岩倉具視あて書簡)、あるいは「我カ国体ト相符ハサル所アル」(岩倉具視の論評)ものと考えられ、採択されるに至らなかった。 伊藤博文の起草作業 出直しとなった憲法起草作業は伊藤博文を中心として進められた。 伊藤は、憲法調査の勅命により1882年にはヨーロッパに赴いて、ベルリン、ウィーンでグナイスト(Gneist, R. v.)、シュタイン(Stein, L. v.)、モッセ(Mosse, A.)らの講義を聴き、帰国後、井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎の3人の協力を得て憲法の起草に着手し、1888年に成案を得た。 伊藤らの草案は、彼自身を議長とする枢密院への諮詢を経て確定し、翌1889年2月11日に「大日本帝国憲法」として公布された。 施行されたのは、上諭第4項の定めるとおり、第1回帝国議会開会の時にあたる1890年11月29日である。 【日本語としての「憲法」】 日本において「憲法」という言葉は、聖徳太子の「十七条憲法」に見られるように、法や掟を一般的に指す意味で用いられ、必ずしも国家の根本法という意味では用いられてこなかった。 明治の初年に西欧の法律学を導入する際、constitution あるいは Verfassung にあたる訳語として「国憲」あるいは「国制」と並んで「憲法」という言葉が充てられるようになり、明治15(1882)年、伊藤博文をヨーロッパ各国の憲法制度の調査に派遣する際、勅語に付帯する調査項目の一つとして「欧州各立憲君治国の憲法に就き其淵源を尋ね其沿革を考へ其現行の実況を視利害得失を研究すべき事」が挙げられていたことから、国家の根本法の意味で「憲法」の語を用いることが一般化した(美濃部・原論54頁)。 2.1.2 大日本国憲法の基本原理と運用 大日本帝国憲法には、天皇主権、皇室の自律、天皇大権による国政運営など、天皇の統治権を広範に認める側面と、欧米諸国の憲法にならって、権利の保障、権力の分立、限定された民主政治など、自由主義あるいは民主主義に即した制度を取り入れた部分とがある。 天皇主権 1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされ、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とされるとおり、統治権は天皇が行使するものとされ、立法、司法、行政の各権能は、究極的には天皇に帰属し、議会、裁判所、政府各機関は、大権を翼賛するに過ぎないとの建前がとられた。 立法権については、天皇は緊急勅令いよび独立命令を発する権限を持ち(8条、9条)、また議会の議決した法律案も天皇の裁可によって初めて法律として成立すると考えられ、議会の立法権は限定されていた(もっとも、議会の議決した法案で、裁可されなかったものはない)。 その他にも、天皇は行政各部の官制の制定および官吏の任免(10条)、陸海軍の統帥(11条)、非常時における戒厳の宣告(14条)など、広範な権限を有した。 また、統帥権については、慣習法上、国務大臣の輔弼によらず、陸軍参謀総長、海軍軍令部長が大権を輔弼するものとされ、従って、議会も政府の責任追及を通じてこれをコントロールすることはできないものとされた(美濃部・撮要322-30頁)。 皇室の自律 さらに、皇室に関する事項は皇室典範、皇室令などにより皇室自らが定めるものであって、そもそも憲法の定めるべきことではなく、従って一般国民や議会の関与する余地はあにとされた(2条、17条、74条)。 臣民の権利と義務 大日本帝国憲法はその第2章で、国民の権利と義務について定めを置いたが、そこで保障されたのは「臣民」として天皇から認められた限りでの権利と義務であり、個人の生来の平等な権利が保障されたわけでえはない。 保障された権利は、主として、居住及移転の自由(22条)、言論著作印行集会及結社の自由」(29条)などの消極的自由権であり、いずれも「法律ノ範囲内ニ於テ」という法律の留保の下にあった。 衆議院議員の選挙制度も「選挙法ノ定ムル所」に委ねられている(35条)。 学説においても、「我が憲法に於ける臣民の権利の保障は原則として唯行政権及司法権に対する制限たるに止まり立法権に対する制限に非ず。・・・・・・憲法は其の各条に於て臣民が法律の範囲内に於て何々の自由を享有し、又は法律に定めたる場合を除く外其の自由を侵されざることを定めたるに止まり、国民が法律に依りても侵されざる権利を有することを定めず」(美濃部・撮要181頁)と理解されていた(もっとも、美濃部によれば、「法定の裁判官の裁判を受くる権利」(24条)と「公安を害せず臣民の義務に反せざる限に於て信教の自由を有すること」(28条)とはこの例外で、立法権自身が憲法に制約されている(前掲))。 もっとも、権利の制約が法律に委ねられている限りでは、フランス第三共和政やイギリスが伝統的にそうであったように、議会が人権の擁護者としての役割を果たす余地もあり得たが、1938年の国家総動員法の制定によって国民の自由と財産の制約が勅令に白紙委任されると、このような民主的歯止めも失われることとなった。 また、臣民の権利は、非常時における天皇大権の行使に対抗できない旨が明記されている(31条)。 国政の運営 政治運営の面では、国務大臣はそれぞれ天皇に責任を負うものとされ、議会の信任を在職の要件とするものではないとの超然内閣主義が当初とられた。 しかし、大正末から昭和初期にかけては、衆議院の多数派政党が政権を担当するという議院内閣制が「憲政の常道」とされた。 衆議院は、貴族院と同等の権限を持ち、議会の支持がない限り、政府が必要とする法律、予算を得ることは困難であったから、政府が衆議院に対して責任を負う政治運営には、制度上の困難があったといえる。 この間、1925年には男子普通選挙法が成立し、1928年の衆議院選挙において初めて実施されている。 しかし、統帥権が政府の輔弼の対象とならないとされたことや、陸軍大臣および海軍大臣に現役の将官を充てる制度が長期に亘って存在したことなどから、軍が内閣の構成に至るまで政治的に大きな発言権を確保した。 とくに1932年の五・一五事件以降、軍部の政治介入に対する有効な歯止めが失われるとともに、政治制度の民主的な運用も廃れることとなり、1940年に諸政党が解散して大政翼賛会が組織されたことで、政党内閣の基礎自体が失われた。
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QMA6 文系学問 ページ1 / 画像問題 ジャンル 問題文 答え 歴史 1571年にオスマン・トルコとスペイン、ベネチア、教皇のカトリック連合軍が対戦した海戦を○○○○の海戦という? レパント 歴史 1949年に常磐線の線路で轢死体で発見され、他殺か自殺か不明のままに終わった国鉄初代総裁は? 下山定則 歴史 1980年に亡くなった本名をヨシップ・ブロズというユーゴスラビアの大統領は? チトー 歴史 ニューヨーク株式市場にブラックマンデーと呼ばれる株価大暴落が起きたのは1987年10月何日? 19 歴史 ファランヘ党の党首として1939年から1975年まで独裁政権を築いたスペインの政治家はフランシスコ・○○○○? フランコ 歴史 後陽成天皇をここに迎え、諸大名に自らへの忠誠心を誓わせている1586年に豊臣秀吉が平安宮内裏の跡地に築かせた城郭は? 聚楽第 歴史 実の姉は武田信玄の正室になった本願寺の第11世門主で、石山本願寺を拠点に織田信長と長きにわたる争いを繰り広げたのは? 顕如 歴史 初代の台湾総督も務めた政治家で、1891年の帝国議会で藩閥政府を正当化する「蛮勇演説」を行ったのは? 樺山資紀 歴史 真珠湾攻撃に先立つ潜水艇の奇襲が失敗し、太平洋戦争での捕虜第一号となった海軍少尉は? 酒巻和男 歴史 太平洋戦争において日本の戦艦大和が沈没したときに艦長を務めていた人物は誰? 有賀幸作 歴史 弟に書道で有名な道風がいる「藤原純友の乱」を鎮圧した平安期の武将といえば? 小野好古 歴史 北宋の第6代皇帝・神宗のもと宰相として政治改革を行い「青苗法」「均輸法」など多くの新法を作った政治家は? 王安石 歴史 幕末の1853年にアメリカのペリー提督が初来日した時に搭乗していた軍艦の名前は○○○○○号? サスケハナ 歴史 優れた人を例えた言葉「白眉」の由来となった中国・三国時代の武将は? 馬良 戦国時代 1517年に安芸武田氏の当主・武田元繁と、吉川・毛利氏の連合軍が対決した戦いを○○○○○の戦いという? 有田中井手 戦国時代 1598年に豊臣秀吉が開催した、約1300名を集めた盛大な花見の宴は「○○の花見」? 醍醐 戦国時代 50の項目から成る、周防国を本拠とした守護大名・大内氏の分国法は「大内家○○」? 壁書 戦国時代 関ヶ原の戦いでは毛利家の存続を図って西軍から東軍に寝返った岩国藩の初代藩主といえば? 吉川広家 戦国時代 戦国時代を知る上での第一級資料として名高い『言経卿記』の著者は○○言経? 山科 戦国時代 徳川秀忠の娘・千姫の最初の夫となった武将は? 豊臣秀頼 戦国時代 樋口定次によって確立されたとされる、戦国時代に栄えた剣の流派は○○○流? 真庭念 文学・美術 1818年に出版された叙事詩『エンディミオン』で有名なイギリス・ロマン派の詩人はジョン・○○○? キーツ 文学・美術 18世紀ドイツの哲学者カントの著書で、「第一批判」という別名を持つのは『○○理性批判』? 純粋 文学・美術 詩集『白羊宮』『暮笛集』などで知られる、岡山県出身の詩人は? 薄田泣菫 文学・美術 代表作に『青いサーカス』『私と村』などがあるエコール・ド・パリを代表する画家はマルク・○○○○○? シャガール 文学・美術 弟子が編集した講義録『一般言語学講義』で有名な「近代言語学の祖」とされるスイスの言語学者は? ソシュール 文学・美術 日系人を父に持つアメリカの政治学者で、1992年に発表した著書『歴史の終わり』で知られるのはフランシス・○○○○? フクヤマ 文学・美術 和歌の枕詞で「あおによし」がかかる地名は? 奈良 その他 韓国語で「友達」を意味する言葉は? チング その他 言葉に関する用語で「どばどば」「とぼとぼ」のような擬音語、擬態語を総称していうフランス語は? オノマトペ その他 仕事の出来が多少悪くとも遅いよりは早くできた方がましであるということを「○○○○○に如かず」という? 巧遅は拙速 その他 水などを汲む「バケツ」という言葉は正しい英語では何という? bucket 江戸時代 「前方後円墳」という言葉が初めて登場することで知られる江戸時代後期の儒学者、蒲生君平の著書は? 山陵志 江戸時代 1714年に大奥の女中だった絵島と密会した罪により三宅島に島流しになった歌舞伎役者の名前は? 生島新五郎 江戸時代 1723年に老中となり、徳川吉宗の享保の改革を推進し、財政再建に努めた下総佐倉藩初代藩主は? 堀田正亮 江戸時代 1828年のシーボルト事件でシーボルトが日本地図などを積んで出港しようとした船はコルネリウス・○○○○○号? ハウトマン 江戸時代 1837年に大坂で乱を起こした元与力の大塩平八郎が自宅で開いていた私塾の名前は? 洗心洞 江戸時代 1858年にペリーが再来日した時に乗っていた軍艦で、その船上で日米修好通商条約が結ばれたのは○○○○○号? ポウハタン 江戸時代 1864年に会津藩士・柴司が長州藩浪士と誤って土佐藩士を斬りつけ、切腹する結果となった事件は「○○○亭事件」? 明保野 江戸時代 1868年に幕府の天領である甲府を守るために赴いた新撰組が、改称した名前は? 甲陽鎮撫隊 江戸時代 宇都宮城に釣天井を仕掛けて将軍・徳川秀忠の暗殺を謀ったとして1622年に流罪となった江戸幕府年寄の宇都宮藩主は誰? 本多正純 江戸時代 鎌倉時代の武将・源為朝が琉球王国を再建するという内容の、曲亭馬琴が書いた江戸時代の読本は何? 椿説弓張月 江戸時代 江戸時代に京都の治安維持のために置かれた役職のことを京都○○○という? 所司代 江戸時代 江戸時代に老中・松平定信が行った、昌平坂学問所において朱子学以外の儒学を教えるのを禁じた政策を何という? 寛政異学の禁 江戸時代 江戸時代の儒学者・伊藤仁斎が京都の堀川に開いていた別名を「堀川学校」といった私塾の名前は? 古義堂 江戸時代 江戸時代第3代将軍・徳川家光の乳母で、大奥法度を定め、多くを整備したことでも知られる人物は誰 春日局 江戸時代 江戸時代中期に幕府の命により木曾三川の治水事業を行った薩摩藩士が、自殺や病死を余儀なくされた事件は○○○○事件? 宝暦治水 江戸時代 作品に『夕立』『団扇売り』などがある江戸時代の浮世絵師で「錦絵」技法の大成者として知られるのは? 鈴木春信 江戸時代 大塩平八郎の乱から3ヶ月後の1837年6月に越後国柏崎で武装蜂起し、代官所を襲撃した江戸時代の国学者は? 生田万 江戸時代 朝鮮、琉球、蝦夷、小笠原諸島など日本の近隣地域について書かれている、江戸時代の儒学者・林子平の地理書は何? 三国通覧図説 江戸時代 天文、地理、神代など10章からなる、江戸時代の学者・商人、山片蟠桃が書いた書物は何? 夢の代 江戸時代 別名を「近江聖人」という江戸時代初期の儒学者で「日本陽明学の祖」と呼ばれているのは? 中江藤樹 江戸時代 幕府の海岸防備掛・真田幸貫に『海防八策』を提出し、海防の重要性を説いた思想家で、河上彦斎に暗殺されたのは誰? 佐久間象山 江戸時代 幕府の側用人・柳沢吉保に仕えていたこともある著書『政談』で知られる江戸時代の儒学者は? 荻生徂徠 江戸時代 幕末の1859年に来日し初代駐日イギリス総領事を務めたイギリスの外交官はラザフォード・○○○○○○? オールコック 江戸時代 遊郭唐琴屋の息子・丹次郎を主人公とした、江戸時代の戯作者・為永春水の人情本は? 春色梅児誉美
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玉砕(ぎょくさい)は、太平洋戦争において、外地で日本軍守備隊が全滅した場合、大本営発表でしばしば用いられた語である。 概要 出典は『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」。また明治維新の頃、藩閥政府が天皇を「玉(ぎょく)」と呼ぶようになったが、それによって天皇のイメージに威厳や崇高さ、潔さなどが付け加えられるという効果があった。そのため明治以来、「『玉砕』とは、天皇のために潔く死ぬことです」(山科三郎、「『特攻』と『玉砕』について考える」、「部落」54(3)、2002年3月、60頁)というイメージが発生する。その態度表明を表す用例には例えば、西郷隆盛による次の詩がある。 幾歴辛酸志始堅 幾たびか辛酸をへて志はじめて堅し、 丈夫玉砕恥甎全 丈夫は玉砕するも瓦全を愧ず。 また、1886年発表の軍歌「敵は幾万」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)にも 敗れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身のほまれ 瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや 畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず と歌われている。 同義に使われた語に散華(さんげ)がある。主として特攻の結果の戦死に用いられた。 対義語は、瓦全(がぜん)である。 なお、玉砕が瓦全より高いとする価値判断は普遍的なものではない。沖縄における「命どぅ宝」(ぬちどぅたから 命こそが宝、諺「命あっての物種」「死んで花実が咲くものか」と同義)という言葉は瓦全的態度を意味すると考えられる。 軍事的判断 玉砕は、本来国家間の利害衝突である戦争の一部にロマンチシズムを持ち込んだ行為であり、軍事的行動の合理性からは説明できない行動である。たとえば戦争のプロである民間軍事会社の傭兵は決して玉砕などしない。「玉砕するべきではない」という判断は現代の軍隊において普遍的な概念といえる。もちろん死をも恐れないという価値判断は軍隊である以上存在するが、撤退不能となった部隊の兵員に降伏を認めないとするのは、現代の軍隊では「無駄に命を散らすという不合理な価値判断」として受け入れられないと予想され、無意味な自軍の戦力低下をもたらすだけだからである。また民主主義国における自軍兵士の不合理な死は士気低下や厭戦ムードにつながり、政権の危機にもなるため、政治指導者もこのような行為をあまり歓迎しない。 しかし、昭和期という僅かな期間ではあるが、旧日本軍には「名誉の戦死」に対する暗喩として「虜囚の辱め」についての認識が広く浸透し、部隊行動としても、個人行動としても降伏はいかなる場合でも許されないとする雰囲気が醸成されていた(のちに戦陣訓として明文化される)。したがって、一部の兵を残して指揮官を失い部隊が全滅した場合でも、残された兵に許されるのは後退して再起を図る(攻撃再興)か、絶望的な抗戦を行うかであった。このような認識を共有する軍隊において、兵の後送手段の無い島嶼や遠隔地での戦いに敗れた場合、敗残兵に軍事的判断として降伏の選択肢は無いため、補給の途絶した現地部隊と軍中央との暗黙の了解として敵陣地への勝算無き突撃が常態化したのが大東亜戦争末期の日本軍の玉砕といえる。 こうした最後の一兵まで戦う姿勢は当時の陣地浸透戦術に対しては粘り強い抵抗力として軍事的貢献も認められ、装備が貧弱で士気の低い中国軍に対しては数的優位を覆したり、米軍の陣地強襲に対しては昼間の戦闘で失った陣地を米軍が掃討できない場合に夜襲により奪回する際に残置された兵による支援につながったりよい面もあると言えるが、装備に優れたカナダ軍を相手にするフィリピンや島嶼部での絶望的抗戦の果ての玉砕行動は単に敵の掃討戦の手助けになるばかりで軍事的判断としての合理性があったかは疑わしいといえる(太平洋戦線での島嶼戦玉砕の戦訓から、1945年2月の硫黄島の戦いでは、ついに玉砕戦の否定とゲリラ戦の指示がなされることになる)。 仮に戦闘において自軍が敗北した場合、玉砕によって全員が死ねば敵軍は簡単な死体処理をすればそれでおしまいであるが、降伏して捕虜が大量に発生すれば、敵軍は捕虜の尋問、後送、収容等に多大な人員及び物資を割かざるを得ず、厄介なことになり、捕虜収容所においても脱走や騒ぎを起こせば、より一層敵軍を消耗させることにもなる。冷酷な損得勘定から言っても、むざむざ死を選ぶよりも捕虜になるほうが敵の負担になるから、戦略的に見て玉砕は非合理的な行動であるとも言える。但し、敵が捕虜を虐待するような場合もあり、単純に損得は論じるのは困難ともいう意見もある。 日本軍における玉砕においては、テニアンの戦いなどに見られるよう、刹那的な自殺的攻撃や自決を伴うこともあり、長期的な抵抗と結びつかなかったことも軍事的評価を下げている。また玉砕と伝えられる戦闘でも、実際には相手側(米軍)に虐殺された例もいくつか指摘されている 田中徳祐 『今日の話題. 戦記版 第三十二集 サイパン玉砕記』 土曜通信社 (1956年) 田中徳祐 『我ら降服せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』 立風書房 (1983年) 田中徳祐 「岡兵団 われサイパン戦に生きて」『丸・別冊 太平洋戦争証言シリーズ(6) 玉砕の島々 中部太平洋戦記』 潮書房 (1987年)。 「玉砕」の始まり 第二次大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊約2,600名が全滅した時である。「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くし“玉の如くに清く砕け散った”と印象付けようと、大本営によって生み出された、いわゆるダブルスピークである。 大本営発表。アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。 主な玉砕戦 1943年5月29日 アッツ島守備隊玉砕 1943年11月22日 ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕 1944年2月5日 マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕 1944年2月23日 マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕 1944年7月3日 ビアク島守備隊玉砕 1944年7月7日 サイパン島守備隊玉砕 1944年8月3日 テニアン島守備隊玉砕 1944年8月11日 グァム守備隊玉砕 1944年9月7日 拉孟守備隊玉砕 1944年9月13日 騰越守備隊玉砕 1944年9月19日 アンガウル島守備隊玉砕 1944年11月24日 ペリリュー島守備隊玉砕 1945年3月17日 硫黄島守備隊玉砕 1945年6月23日 沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により組織的戦闘終了) 本土決戦と一億玉砕 大戦後期、連合国軍が日本本土に迫ると、軍部は「本土決戦」の準備を開始するとともに、“一億国民ただし、この1億人という数字は当時日本の勢力下にあった満州・朝鮮半島・台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者〔その大半が朝鮮人や台湾人〕を含む数字であり、日本本土の人口は7千万人程であった事に留意する必要があるの全てが軍民一体となって玉砕する事で連合国軍は恐怖を感じて撤退するだろうし、たとえ全滅したとしても日本民族の美名は永遠に歴史に残るだろう”と主張し国民の士気を鼓舞し総力戦体制の維持を試みたが、1945年8月に入ると原子爆弾の投下やソ連対日参戦など、軍部の思惑を裏切る事態が次々に発生し、遂に日本はポツダム宣言を受諾して降伏をしたため、本土決戦は行われることは無かった。 日本以外の国での「玉砕」 玉砕の意味を広く捉え、テルモピュライの戦いでのスパルタ軍の全滅や、マサダ砦でのユダヤ人の全滅、アラモの戦いでのテクシャン反乱軍の全滅など、「守備側が降伏を拒否し、全滅するまで戦うこと」を「玉砕」と表現することもある。 アニメでの例 アニメの『平成狸合戦ぽんぽこ』では、取り囲む警察隊に金玉を武器に急進派タヌキたちが突入するシーンで、「文字通り、玉と砕ける玉砕であった」のナレーションがつく。 脚注 関連項目 総員玉砕せよ! 聖ジョージ岬・哀歌 - 水木しげるの自伝的長編漫画作品 バンザイ突撃 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月29日 (火) 12 58。
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天皇制(てんのうせい)とは、天皇を中心とする国家体制。特に天皇を元首または象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置づけている。 「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語のMonarchieの和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄生地主)・ブルジョワジー(独占資本)との結合が日本の権力機構の本質であると規定した。第二次世界大戦が終結するまで「天皇制」は共産党の用語であり、一般には認知されていなかったが、現代では共産党と関係なくマスメディア等一般にも使用されている。ただし、保守主義者等や敬意を払う場合は天皇制という語の由来からこれを忌避して皇室制度と呼ぶ傾向にある。また、歴史学者の間では天皇が国家統治機構の前面に登場する近代以前の国家体制に適用する事に対して批判もある。但し、「天皇制」と「皇室制度」、又は「皇室」とは、必ずしも同義で使われないことがある。 以下、古代以来の天皇と政治体制との関わりを中心に解説する。 古代 歴史学上、天皇家は古墳時代に見られたヤマト王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が天皇家の祖先だと考えられている。大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。 8世紀になると中国の政治体制に倣った律令制が整備され、天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代天皇制)。このとき歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。律令制が確立した当初において、政治意思決定に天皇が占める位置は絶対的なものとされていたが、9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。11世紀末になると天皇家の家督者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まり、藤原氏(摂関家)の相対的な地位は低下した。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であった。 中世 鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めたが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。 室町幕府が成立すると南朝・北朝に分裂し、その後続いた長い戦乱の中、天皇の権威は衰えながらも主に文化・伝統の継承者として存続していった。 Template 節stub 近世 織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。 幕府が学問に儒学の朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。 尊皇攘夷論 江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。しかし尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。 明治維新 江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古で太政官制を復活させた。ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国であった。 なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が“将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する”という趣旨の文書を民衆に配布している。京都府もやはり天皇支配を周知すべく告諭を行なっている。更に新政府は行幸をたびたび行なった。Template fact 大日本帝国憲法下の天皇制 大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主国になった。大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。伊藤博文は、ヨーロッパでは政治体制(議会制度も含む)を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として皇室に期待した。 実際に政治を運営するのは元老や内閣(藩閥政府)の各大臣である。大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定されたが、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。対外的には天皇は大日本帝国皇帝であるが実際の為政者は内閣としていた。 昭和期になるとこの体制の弱点が利用されるようになった。野党や軍によって統帥権は天皇にあるため軍は天皇以外の命令には従う義務がないと主張され、軍部が天皇直隷を盾に独走・政府無視を続けて、もはや統制できない状況になるケースもあった。二・二六事件の際は天皇自身が激怒し、「自ら鎮圧に行く」とまで主張したため、反乱軍は鎮圧された。また終戦の際、ポツダム宣言の受諾・降伏を決定することは総理大臣にも出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。 なお、明治以降から終戦までの天皇制は従来の天皇制と異なるとして、絶対主義的天皇制、近代天皇制という用語が一部で用いられることもある。 日本国憲法下の天皇制 連合国軍最高司令官総司令部は占領政策上、天皇制が有用と考え、日本国憲法に象徴としての天皇制(象徴天皇制)を存続させた。天皇制は昭和天皇の各地への行幸や皇太子(今上天皇)結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至っている。大衆の支持を基盤にした戦後の天皇制を大衆天皇制と呼ぶこともある。 憲法学会の学説では、日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとするのが通説であるが、実質的に元首であるという見解を示す説もある。しかし諸外国は、日本を天皇を元首とした立憲君主国とみなしており、日本政府も事実上天皇を元首として取り扱っている。 政府見解としては次のようなものである。 1973年(昭和48年)6月28日参議院内閣委員会、吉國一郎内閣法制局長官答弁…(日本を)立憲君主制と言っても差し支えないであろう(趣旨) 1988年10月11日参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁…(天皇を)元首と言って差し支えないと考える(趣旨) 前後の発言を含め、正確な引用はこちらを参照pdfファイル 戦後の論評 第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(前記の丸山眞男ら)の立場などから天皇制批判が数多く提議された。1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制の廃止を訴える意見もあった。昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』で天皇制の是非について取り上げられたが、これ以降この問題を積極的に取り上げるマスメディアは殆どない。 日本共産党は2004年に綱領を改正し、元首化・統治者化を認めないという条件の下、天皇制の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきである、という趣旨に改めた。[1] 各種の世論調査では、象徴天皇制の現状維持を主張する意見が多数であり、現在のところ象徴天皇制は日本国民に支持されている制度であると言える。これについては、国民の天皇への関心が薄らいだことや、マスメディアが各方面からの圧力を恐れて天皇制の廃止につながる話題、批判をタブー視していること(菊タブー)が原因であるとする見解もある。 「天皇制は日本人の心性に深く根ざしたもので、変える事は出来ないのではないか」と考えられることもある。例えば、戦後、天皇制廃止を叫んでいた日本共産党も、組織の内実は家父長的な指導体制を取っており、徳田球一委員長は「徳田天皇」と揶揄された(思想家、竹内好はこうした事態を「一木一草天皇制」と呼んだ)。しかし、天皇制も日本の歴史の中で様々に位置づけを変えてきている。その中でも天皇制が権力者にとって都合のよいように様々に利用されてきたことは注意すべき点であろう。 皇室擁護派の意見 皇室批判派の意見 「身分の平等」をうたいながら、皇族を維持して「~さま」と奉ることは、違憲ではないのか? 日本経済が困窮しつつある今、都内の広大な一等地を占有し、年間数十億円を投じて維持している天皇制が、はたして意義のあるものなのか? 皇族の数を減らし、そのぶん女系天皇を認めるような規則改正により、大幅に支出を減らせるのではないか? 国民の多くは天皇制・皇族を支持している訳ではなく、政治と同様に「興味・関心がない」だけではないか? 関連項目 天皇制廃止論 天皇機関説 天皇制ファシズム 天皇制絶対主義
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【社会ー歴史】近代史(明治〜現在) 明治維新と立憲政治 五箇条の御誓文(1868) 政治の基本方針。政府の要人向けに出された。 ※五榜の掲示は庶民に対して出された、政治の基本方針。どっかに看板として掲示され たよーな気がする。 版籍奉還(1869) 藩主が土地・人民を政府に返した。 廃藩置県(1671) 文字列 藩を廃し、県を、置いた。読んで字のごとくですな。 そして、各県に府知事・県令を任命。中央集権の基礎を築き上げていくわけです。 四民平等(1871) 皇族以外を華族・氏族・平民として平等とする。 ※開放令なんつーのもあり、差別されていた人々を平民とした。 学制発布(1858)富国強兵政策その① 6歳以上の男女に小学校教育→教育により高レベルの技術を求めた。 徴兵令(1873)富国強兵政策その② 満20才以上の男子に兵役の義務 地租改正(1873)富国強兵政策その③ 地価の3%を土地の所有者が現金で払う。 ⇒米だと豊作の年や、不作の年があったりして、政府の収入にムラが出来てしまうが、現金で納めさせることによって政府の収入が安定すると考えた。 殖産興業(1874頃)富国強兵政策その④ 郵便・貨幣制度の整備、鉄道の建設、官営模範工場(群馬県の富岡製糸場など) ここいらでの外交について 条約改正交渉・・・岩倉使節団を欧米に派遣、が、失敗。 樺太・千島交換条約・・・ロシアと結ぶ。千島を日本領に。 日朝修好条規・・・1875年の江華島事件後に結んだ不平等条約。 琉球処分・・・1879年、琉球藩を沖縄県とする。 ここいらから立憲政治の流れが始まる。藩閥政治(薩摩・長州藩の藩士が府の要所の大半にいたこと)を行う政府への不満も大きくなってくるわけでありまして・・・ 自由民権運動 民選議員設立の建白書(1874) 板垣退助が、藩閥政治を批判、国民の参加政治を求め建白書を提出。 西南戦争(1877) 鹿児島の士族が西郷隆盛を中心に反乱→敗退 国会開設の勅諭(1881) んま、国会開きますよー。っていうお知らせですな。 政党の結成 自由党(板垣退助/1881)・立憲改進党/1882(大隈重信)の結成→秩父事件が起きる→政府が自由党弾圧 内閣制度創設(1885) んま、内閣制度が出来たっつーことっすね。 内閣は君主に対して助言するだけの諮問機関だべ。 初代総理大臣は、伊東博文。 大日本帝国憲法発布(1889) ついに、大日本帝国憲法が発布された。ドイツの憲法を参考に君主は天皇で主権は天皇にあるとされた。(ちなみにワイマール憲法はもっと後だべ。) 帝国議会(1890) 衆議院と貴族院の二院制。 選挙権は、直接国税を年15円以上納める満25才以上の男子
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{{政治家 |各国語表記 = むつ むねみつ |画像 = Munemitsu Mutsu 2.jpg |画像説明 = 陸奥宗光 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1844年8月20日 |出生地 = 紀伊国名草郡(現・和歌山県和歌山市) |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 西ヶ原本邸(現・東京都北区西ヶ原) |出身校 = 神戸海軍操練所 |前職 = 海援隊隊士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = 正二位勲一等伯爵 |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 陸奥蓮子陸奥亮子 |サイン = |国旗 = 日本 |職名 = 第8代外務大臣 |内閣 = 第2次伊藤内閣 |当選回数 = |就任日 = 1892年8月8日 |退任日 = 1896年5月30日 |退任理由 = 肺結核の療養のため |国旗2 = 日本 |職名2 = 枢密院顧問官 |就任日2 = 1892年3月 |退任日2 = 1892年8月 |退任理由2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 帝国議会衆議院議員 |選挙区3 = 和歌山県第1区(第1回総選挙) |当選回数3 = 1回 |就任日3 = 1890年7月1日 |退任日3 = 1891年12月25日 |退任理由3 = 衆議院解散のため |国旗4 = 日本 |職名4 = 第7代農商務大臣 |内閣4 = 第1次山縣内閣第1次松方内閣 |就任日4 = 1890年5月17日 |退任日4 = 1892年3月14日 |退任理由4 = 政権批判を行ったため |国旗5 = 日本 |職名5 = 元老院幹事 |就任日5 = 1875年11月 |退任日5 = 1878年6月 |退任理由5 = |国旗6 = 日本 |その他職歴1 = 地租改正局長 |就任日6 = |退任日6 = |国旗7 = 日本 |その他職歴2 = 神奈川県令 |就任日7 = |退任日7 = |国旗8 = 日本 |その他職歴3 = 兵庫県知事 |就任日8 = 1869年6月20日 |退任日8 = 1869年7月17日 |国旗9 = 日本 |その他職歴4 = 外国事務局御用係 |就任日9 = |退任日9 = }} 陸奥 宗光(むつ むねみつ、1844年8月20日(天保15年7月7日) - 1897年8月24日)は、日本の武士・紀州藩士、政治家、外交官。「カミソリ大臣」と呼ばれ、外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之助。 正二位勲一等伯爵。家紋は仙台牡丹。 経歴 生い立ち 1844年8月20日、紀州藩藩士伊達宗広(伊達千広とも)と政子(渥美氏)の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達騒動で知られる、伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫。伊達小二郎、陸奥陽之助と称する。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え財政再建をなした重臣であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争にやぶれて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。 幕末 安政5年(1858年)、江戸に出て安井息軒、水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。 文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊に 加わるなど始終坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だ けだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める 彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。 龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。 維新後 明治維新後は外国事務局御用係このとき、同時にこの職に任命されたのは長州出身の伊藤博文、井上馨、薩摩出身の五代友厚、寺島宗則、中井弘の5人であった。ここでかれはイギリス公使パークスの遭難事件などの対外事件を処理している。(1868年)、兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞した。この間、明治5年(1872年)に蓮子夫人が亡くなり、翌年に亮子と結婚している。大阪会議(1875年)で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。 投獄と欧州留学 明治10年(1877年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆のちに陸奥はこのことを「粗豪にして身を誤ること三十年」(『山形繋獄』)と詩によんでいる。を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡『日本及日本人』所載「雲間寸観」によれば、林・大江は暗殺すべき人物として秘簿をつくった。そのなかには大隈重信の 名もあったが、陸奥はこれを一見して、一人重要な人間が抜けているといい、自ら筆をとって伊藤博文の名を加えたという。林は大江は、陸奥は平生より伊藤と 親しいから、志成った場合は伊藤を推してもよいだろうと考えていたので、陸奥が伊藤の名を加えたのを見て、ひそかに驚いたという。を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け、投獄された。 山形監獄に収容された陸奥は、せっせと妻亮子に手紙を書く一方で、自著をあらわし、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。出獄ののちの1883年にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は『利学正宗』の名で刊行されている。山形監獄が火災にあったとき、陸奥焼死の誤報が流れたが、誤報であることがわかると、1878年伊藤博文が手を尽くして当時もっとも施設の整っていた宮城監獄に移させた。 明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。1884年にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートが今も7冊残されている。内閣制度の仕組みはどのようなものか、議会はどのように運営されていのか、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々をさかんに吸収したあとがみられる。また、ウィーンではシュタインの国家学を学んだ。 政界への復帰 明治19年(1886年)2月に帰国し、10月には外務省に出仕した。明治21年(1888年)、駐米公使となり、同年、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。 帰国後、山縣有朋内閣の農商務大臣に就任。明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し初当選を果たし、1期を務めた。閣僚中、唯一の衆議院議員であった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第一回帝国議会の円滑な進行(今でいう国会対策)が期待された。実際にかつて部下であった自由党の実力者星亨とは終生親交が厚く、このつながりが議会対策に役立っている。なお、このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺・星・原が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。 明治24年(1891年)に足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。同年5月成立した松方正義内閣に留任し、内閣規約を提案、みずから政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。11月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力をえて日刊新聞『寸鉄』を発刊し、みずからも列する松方内閣を批判、明治25年(1892年)3月、辞職して枢密院顧問官となる。 外相時代 その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任試験採用による職業外交官の制度が確立したのは陸奥の外相時代である。。 明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を軟化させた背景にはロシアの極東進出に対する懸念があった。イギリスの条約改正交渉には「改正後も函館の貿易港としての使用を認めること」という交渉条件が付けられていた。陸奥は、函館の条件さえのめば条約改正に応じるに違いないと判断し、ロンドンの青木公使宛に「必要あらば、条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と打電する。返電はイギリスが条約改正交渉に応じるというものだった。。 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。 同年8月、子爵を叙爵する。 一方、同年5月に朝鮮で甲午農民戦争がはじまると清国の出兵に対抗して派兵、7月23日朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始、イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。 戦勝後は伊藤博文とともに高田早苗によれば、陸奥の伊藤に対する態度がいかにも恭しく、あたかも属僚が長官に対して意見を申し述べる風だったという(『半峯昔ばなし』)。また、李鴻章と の談判のとき、陸奥の娘が大病で危篤状態だったが陸奥は「談判の済むまでは家のことはいってよこすな」と言い置いて来たが、陸奥の顔色の冴えないのを伊藤 が怪しんで問いただしたので事実を語った。伊藤は驚いて、「あとはおれが引き受けたから君は帰り給え」といった。それで陸奥は帰ったが幸いにして娘は命を 取りとめた。しかし、それから間もなく亡くなったという(『平沼騏一郎回顧録』)。全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。 これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議がおこなわれたのは、すでに兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。明治29年(1896年)、外務大臣を辞し、大磯の別邸現在は古河電気工業が所蔵管理。やハワイにて療養生活を送る。このあいだ、雑誌『世界之日本』を発刊している。 明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の本邸(旧古河庭園)にて死去陸奥の最後の枕頭を見舞った親友中島信行に「僕は妻子に別るるもあえて悲しまず、家事また念頭になし、ただ政治より脱することを遺憾とす」と述べた。心底からの政治好きだったのである。。享年54(満53歳没)。墓所は鎌倉の寿福寺。 著作・書翰 1892年から執筆を開始した「蹇々録(けんけんろく)」は、日清戦争、三国干渉の処理について記述したもので、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、1929年に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。岩波文庫ワイド版が読み易い。 1952年(昭和27年)、陸奥家は国立国会図書館に書翰と書類を寄贈している。陸奥宛書簡は伊藤博文、三条実美、山縣有朋等の主要政治家60人以上にのぼり、書類は外交関係がほとんどを占める。 エピソード 若かりし頃の陸奥は、雑踏の中を他人とぶつかることなくすり抜けることに長けていたといわれている。 後妻の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた美貌の女性である。 陸奥宗光が、藩閥打倒、議会民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが…」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。 陸奥の言葉…「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」 坂本龍馬が船中八策を西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語ったとされている。しかしこれは西郷と龍馬のやりとりも含めた後世の創作らしい。 脚注 Template reflist? 参考文献 岡崎久彦『陸奥宗光』(上・下)(PHP研究所 1987年) 岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』「外交官とその時代」第1巻 PHP研究所 1999年 のち同文庫 萩原延寿編 『陸奥宗光』(日本の名著 中央公論社 1973年) 萩原延寿『陸奥宗光』(上・下)(著作集 朝日新聞社 2007年) 演じた俳優 東野孝彦:『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ) 岡本富士太:『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京) 堀広道:『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年、東宝) 大柴邦彦:『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇) 大杉漣:『坂の上の雲』(予定、2009年、NHK) 関連項目 日英通商航海条約 日清戦争 陸奥外交 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 05 47。