約 1,411,133 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1126.html
第5 沖縄タイムス等の「欺瞞と瞞着」 (※<藤色>部分は、曽野綾子の論拠借用と著書引用) 第5 沖縄タイムス等の「欺瞞と瞞着」1 はじめに 2 『鉄の暴風』の出版経過と内容の杜撰さ(1) 曽野綾子の指摘 (2)『鉄の暴風』の内容の杜撰さ (3)結 論 3 神戸新聞報道に対する沖縄タイムス社の対応の矛盾(1)昭和61年6月6日付神戸新聞(甲B10) 4 原告梅澤との交渉における沖縄タイムス社の不誠実(1)交渉の経緯 (2)「座間味村公式見解」なるもの(乙21の1及び2) 5 林博史報告記事の恣意性(1)『慶良間列島作戦報告書』なるもの(乙35の1) (2)「座間味島」に関する記載(乙35の2) (3) 林の矛盾 6 援護法適用に関する記事の欺瞞(乙47の1) 7 沖縄タイムスに掲載されたその他の杜撰な記事(1)平成19年6月8日付沖縄タイムス(甲B78) (2)平成19年6月14日付沖縄タイムス(乙70の1) (3)平成19年7月7日付沖縄タイムス(甲B82の1) (4)平成19年9月28日付沖縄タイムス(乙100) 8 結論 1 はじめに 前述の通り、本件名誉毀損は沖縄タイムス社が発刊した『鉄の暴風』に端を発している。同社は、かような端緒を作り出しているにも拘らず、今現在に至っても尚「新証拠」なるものを摘示して《梅澤命令説》及び《赤松命令説》に固執する一方、自らにとって不都合な事実についてはそれを歪曲したり、あるいは頬かむりをしたりするなど、報道機関としての真摯な姿勢が見られない。そして、未だに被告らはそれら沖縄タイムスにより歪曲された事実を鵜呑みにし、本件訴訟の書証として提出している。 また、沖縄タイムス社以外にも、未だに自らの都合の良いように事実を捻じ曲げ、論理をすり替え、事の真相を曖昧にしてしまう動きがあり、被告らはそれらもまた本件訴訟の書証として提出している。 それら沖縄タイムス社等の動きは、既に数々の証拠によって《赤松命令説》の背後にある真相が明らかになっているにも拘らず、自らの主義主張に固執してその真相から敢えて目を背け、真相を覆い隠そうとするものであり、正に被告大江が『沖縄ノート』で用いている「自己欺瞞と他者への瞞着の試み」に他ならない。 以下、沖縄タイムス社等によるそれら「欺瞞と瞞着」の数々を明らかにし、被告らの提出する書証の信用性を弾劾する。 2 『鉄の暴風』の出版経過と内容の杜撰さ (1) 曽野綾子の指摘 『鉄の暴風』は、昭和23年に設立された沖縄タイムス社によって昭和24年5月に編纂が開始され、直ちに翌昭和25年8月に発行されている(甲B97・3枚目最後から6~5行目、5枚目)。 曽野綾子は、『鉄の暴風』の執筆者の1人である太田良博(「まえがき」にある「伊佐良博」と同一人物)から『鉄の暴風』の出版経過を取材し、『ある神話の背景』に、①太田が直接渡嘉敷島へ取材に行ったわけではないこと、②太田が2人の証言者(当時の座間味村の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治)から事情を聴取したこと、③宮平は事件当時南方にあり、山城は同じような集団自決の目撃者ではあったが渡嘉敷島で起こった事件ではなく、座間味島での体験であり、結局両者共に渡嘉敷島での集団自決の直接の体験者ではなかったこと、④太田が僅か3人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を3ヶ月で調べ、3ヶ月で『鉄の暴風』を執筆したこと、⑤宮平は取材を受けた記憶はないと言っていること、を著している(甲B18p50~51)。---『ある神話の背景』から 結局、『鉄の暴風』は直接体験者ではない2人(しかも、そのうちの1人についてはそもそも取材を行っているかどうかも疑わしい)からの単なる伝聞証拠を基にしただけで、僅か4名の手によって、極めて短い時間で出版されたものであり、その一事をもってしてもその内容を信用することは到底出来ないものである。---『ある神話の背景』から 沖縄タイムス社は「まえがき」で「苛烈な戦争の実相を、世の人々に報告すべき責務を痛感」したと謳っているが(甲B97・3枚目最後から6行目)、「戦争の実相」を報告するというのであれば、当然、当の赤松隊長を始めとして軍の関係者にも事実を確認すべきである。しかしながら、軍の関係者で何らかの取材を受けた者は、当の赤松隊長はもとより、「悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を悲嘆した」と内面にまで立ち入って書かれている証人知念朝睦自身も含めて、一人もいない(知念調書p7)。 結局、『鉄の暴風』の編集方針が当初より政治的に偏っていたことを端的に表すもので、そのことは同書の「まえがき」に「この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。」などと、無批判に米国の振舞いを「ヒューマニズム」と賞賛していることからも明らかである(以上、原告準備書面(2)p30~33)。 因みに、被告大江もまた、自らは沖縄本島を訪れただけで、慶良間列島(座間味島及び渡嘉敷島)には訪れていないことを認めている。 (2)『鉄の暴風』の内容の杜撰さ 以上のような『鉄の暴風』の出版経過の杜撰さは、その内容の杜撰さとなって表れている。 ア 『鉄の暴風』には「西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いた」と書かれているが、証人知念は西山A高地に地下壕などなかったことや、27日に将校会議など開かれていないことを明確に述べている(知念調書p6)。 イ また、『鉄の暴風』の初版本には原告梅澤のことについて、「隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」と書かれているが(甲B6p41最後から2行目~)、その梅澤少佐は現に生存しており、本件訴訟を提起している当の本人である。 沖縄タイムス社役員室長の牧志伸宏は、神戸新聞の取材に対し、「『鉄の暴風』は戦後の落ち着かない中で、取材、執筆した経過があり、梅沢命令説などについては、調査不足があったようだ。戦後、長い間、自決の命令者とされた梅沢さんの苦悩についてはご同情申し上げる。今後の善後策としては、当時の筆者らと十分に協議、誠意を持って梅沢さんの理解が得られるようにしたい。」と、自ら出版経過と内容の杜撰さを認めていたものである(甲B10・昭和61年6月6日付神戸新聞)。 (3)結 論 以上の通り、慶良間列島に関する『鉄の暴風』の出版経過と内容は極めて杜撰なものであり、沖縄タイムス社自らそのことを認めていたにも拘らず、同社は未だに同書の出版を継続している(被告準備書面(3)p2「イ」)。 そのような態度は「欺瞞と瞞着」以外の何物でもない。 3 神戸新聞報道に対する沖縄タイムス社の対応の矛盾 (1)昭和61年6月6日付神戸新聞(甲B10) 同日付神戸新聞は、《梅澤命令説》に関して、「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の『玉砕命令』なかった」という大見出しの下、「沖縄県座間味島(島尻郡座間味村)島民の集団自決について、『駐留していた日本軍幹部の命によって行われた』との通史が昨年夏、関係者の証言で覆されたが、沖縄県などが、通史の誤りを認め、県史の本格的な見直し作業を始めた」ことを報じ、大城将保・沖縄県史料編集所主任専門員の「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ。…新沖縄県史の編集がこれから始まるが、この中で梅沢命令説については訂正することになるだろう。」というコメントを掲載した。 併せて、同紙は、沖縄タイムス社役員室長・牧志伸宏のコメント(「『鉄の暴風』は戦後の落ち着かない中で、取材、執筆した経緯があり、梅沢命令説などについては、調査不足があったようだ。戦後、長い間、自決の命令者とされた梅沢さんの苦悩についてはご同情申し上げる。今後の善後策としては、当時の筆者らと十分に協議、誠意を持って梅沢さんの理解が得られるようにしたい。」とのコメント)を掲載した。 (2)沖縄タイムス社の対応 以上のように、神戸新聞は《梅澤命令説》が虚偽であることを報じ、沖縄タイムス社役員室長である牧志のコメントまで掲載しているにも拘らず、同社は神戸新聞社に対し、今日に至るまで、当該記事の内容について一切抗議や異議申立等を行っていない(甲B102の1及び2)。これはそれらの記事内容が真実であったため、沖縄タイムス社としても反論の余地がなかったからに他ならない。 しかるに、同社は未だに原告梅澤に対し何らの「善後策」も施さず、未だに漫然と『鉄の暴風』を発刊し続けている。このような手の平を返したような対応とそこに見られる矛盾は、「欺瞞と瞞着」以外の何物でもない。 尚、被告らは「神戸新聞記載のとおり牧志氏が述べたか疑わしい」などと述べているが(準備書面(3)p2「イ」)、「役員室長」の地位にある者のコメント、それも社として最も拘り続けている「沖縄戦」に関するコメントに誤りがあったならば、その程度の軽重を問わず、即座に厳しい反論と訂正要求が為される筈である。被告らの上記反論は根拠のない苦し紛れの弁解と言わざるを得ない。 4 原告梅澤との交渉における沖縄タイムス社の不誠実 (1)交渉の経緯 ア 原告梅澤は沖縄タイムス社に対し、昭和60年12月10日付の手紙で『鉄の暴風』等の訂正と謝罪文掲載の要求を行った(甲B27)。 これに対し、同社役員室長の牧志から原告梅澤に、昭和61年2月12日付で「再度、事の是非を究明し、貴殿の要求事項についてのご返事を差し上げたい」との回答が来た(甲B15の1及び2)。 原告梅澤は、昭和63年11月1日、陸軍士官学校時代の同級生岩崎禮三に付き添って貰い沖縄タイムス社大阪支社に赴き、宮村幸延から得ていた『証言』(甲B8)を提示して、『鉄の暴風』の訂正と謝罪文掲載を再度要求したところ、明らかに同社が動揺し、遂には同社の新川明が謝罪の内容を求めて来たため、原告梅澤において口述し、その内容を新川が書き取った(甲B28)。 イ その後、原告梅澤は、昭和63年12月22日、上記要求に対する回答ということで沖縄タイムス社大阪支社において新川ら3名と再度会談した(前回と同様、岩崎に立ち会って貰った。)。 そうしたところ、沖縄タイムス社は態度を一変させ、「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」との主張に固執して譲らないばかりか、「以後梅澤が沖縄タイムス社に対し謝罪要求をしない」とする内容の書面(甲B29)を示し、それに押印するよう求めて来た(因みに、その書面には既に沖縄タイムス社々長の印鑑まで押してあった。)。 そのような不誠実なやり方に対し原告梅澤が強く非難したところ、結局、具体的な材料を何も持たない沖縄タイムス社としては対応の術がなく、それ以上の説明は何も出来なかった(但し、謝罪文の掲載については即答を避けた。)。 原告梅澤は気持ちが治まらなかったが、同席した岩崎の諌めもあって、その日はそれ以上追及せずに帰った。 ウ その後間もなく、沖縄タイムス社から原告梅澤に「『謝罪』要求について(回答)」と題する書面が送られて来たものの(甲B30)、結局謝罪を拒否する内容のであったばかりか、当該書類の日付が上記2回目の会談の2日前である「1988年12月20日」となっていた。 しかしながら、会談の時には原告梅澤には一切提示されていなかった。 (2)「座間味村公式見解」なるもの(乙21の1及び2) 以上に見られる沖縄タイムス社の対応の乱れと慌てぶりは、事の真相を知った同社内部の動揺を端的に示すものである。当時沖縄タイムス社は、既に宮城初枝に続く宮村幸延の証言により《梅澤命令説》の真実性に多大な疑問を抱いていた。だからこそ、前述の通りわざわざ同社の新川明は原告梅澤に対し謝罪の内容を求め、原告梅澤の口述する内容を書き取ったのである(甲B28)。 しかるに、その後同社は手の平を返し、座間味村公式見解なるもの(乙21の1及び2)を楯に取って謝罪を拒否するに至った。そもそもこの座間味村の見解は、戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用を受けるために村として維持せざるを得ない窮余のものであった。沖縄タイムス社はそのような特殊事情の下で維持されているに過ぎない村の見解に藉口して、自らの正当性を糊塗しようと試みているものである。 《梅澤命令説》の真相に直面したにも拘らず、以上のような硬直した対応を試みる同社の振舞いは、正に同社の政治性を表しているものであり、真実を追究すべき報道機関の良心に悖るものと言わざるを得ない。そして、そのような態度は「欺瞞と瞞着」以外の何物でもない。 5 林博史報告記事の恣意性 (1)『慶良間列島作戦報告書』なるもの(乙35の1) 平成18年10月3日付沖縄タイムスは、「米公文書に『軍命』」「慶良間・集団自決 1945年米軍記録」、「発生直後の住民証言」という大見出しの下、「沖縄戦時下の慶良間諸島の『集団自決』をめぐり、米軍が上陸直後にまとめた資料に、日本兵が住民に『集団自決』を命令したことを示す記録(『慶良間列島作戦報告書』)があることが、二日までに分かった。関東学院大学の林博史教授が米国立公文書館で発見した。」と報じた(乙35の1)。 しかしながら、当該記事については次のア~オに述べるような不可解かつ不合理な点がある(原告準備書面(7)p5「2」~p18)。 ア そもそも林が発見したという『慶良間列島作戦報告書』なる記録(英文)は乙35の1及び2の沖縄タイムスの記事にその一部分が掲載されているだけで(以下、この掲載されている部分を「掲載部分」という。)、全文が掲載されているわけではなく、一体どのような文脈の中で書かれた文書なのか不明である。 イ 掲載部分は本件とは無関係な座間味村「慶留間(げるま)島」のものであり、座間味村「座間味島」のものではない。 ウ 林は「tell 人 to ~」を殊更に「命令した」と誤訳している。 エ 「Japanese soldiers」という主語は、特定されない一般的な「日本の兵隊達」を意味するだけのものであるにも拘らず、林はわざわざ「『軍命令』が存在した」と同じ意味であると解説している。 オ 林は「tell 人 to ~」に「命令した」の意味を持たせたいが故に、掲載部分の「to hide in the hills and commit suicide」の直後に続く「when the Americans landed」の部分を意図的に単に「commit suicide」にのみ係るものとして訳している。 このように、沖縄タイムス社の林報告記事には幾多の不可解かつ不合理な点がある。全ては《梅澤命令説》に何とかこじつけようとしていることの端的な証左であり、「欺瞞と瞞着」以外の何物でもない。 (2)「座間味島」に関する記載(乙35の2) 他方、平成18年10月11日付沖縄タイムス(乙35の2)に掲載されている記事を仔細に見ると、林自身、「座間味島」では「軍命令」がなかったことを自認する意見を述べている。即ち、林は、「座間味島」での自決に関しては一貫して「自決するよう指導されていた」と翻訳している(乙35の2・2段目最後から4行目~3段目、3段目最後から7行目~)。 これらの翻訳部分に対応する原文はどこにも掲載されていないが、恐らく「座間味島」の原文は「tell 人 to ~」よりも更に弱いニュアンスの言葉を使っていると推測される。そうであるが故に、沖縄タイムス社は原文の当該箇所を明示することが出来ないのである。 以上述べた幾多の点から明らかなように、沖縄タイムス社の採る報道姿勢は、証拠内容を仔細に吟味することなく、全てを強引に《梅澤命令説》にこじつけようとする余りに大雑把なものに過ぎない。それは同時に、沖縄県民から正確な事実に接する機会を奪うことを意味するものである。 (3) 林の矛盾 因みに、林は2001年12月発行の自著『沖縄戦と民衆』(甲B37)において「赤松隊長から自決せよという形の自決命令は出されていないと考えられる。これが一体どこからでてきたのかわからない」(p161)、「慶留間島に上陸した米兵が、保護した住民になぜ『自決』したのか聞いたところ、一五歳の少年は『日本兵が死ねと命令したわけではなく、みんなただ脅えていたんだ』と答えた。さらに別の住民も『彼らは脅えていた』と答えたという。」(p166)と述べて、《赤松命令説》が虚偽であることをはっきりと認め、《梅澤命令説》についてもそれを認める発言はしていなかった。 しかしながら、林は本件訴訟が提起された後、何故か突然《梅澤命令説》について前述の通り強弁するに至っている。余りに不可解と言わざるを得ない。 6 援護法適用に関する記事の欺瞞(乙47の1) 平成19年1月15日付沖縄タイムスは「『集団自決』早期認定」「国、当初から実態把握」という大見出しの下、遺族補償の申請から厚生省が「該当」すると認定した日までの日数が平均3ヶ月であったことをもって、「補償申請が認定されにくいため『軍命が捏造された』という主張の根拠がないことを示している」ものと報じた(乙47の1)。 しかしながら、当該記事を仔細に吟味すると、「第1次」の申請に関するデータが「該当日が判明しないため」という理由で省略されている(乙47の1左上の表)。補償申請から認定までの時間を最も要するのは正にこの「第1次」の申請の時であり(宮村幸延が原告梅澤に語った厚生省との折衝の苦労もその時のものである)、一旦認定されるようになれば後は円滑に認定手続が行われるというのが通常である。従って、この「第1次」の申請に関するデータを示さないままで「『集団自決』早期認定」と結論付けることは余りに早計であり、意図的な事実の歪曲と言わざるを得ない。 ここにも沖縄タイムス社の「欺瞞と瞞着」が存在する。 7 沖縄タイムスに掲載されたその他の杜撰な記事 (1)平成19年6月8日付沖縄タイムス(甲B78) 同日付沖縄タイムスは、金城重明の「私は渡嘉敷島の赤松嘉次守備隊長から直接聞かされたことをはっきり覚えている。『われわれ軍隊は、戦況を報告するため最後まで生き延びなければならないが、住民はそうではない』」との証言を掲載した(甲B78最下段11行目~)。 しかしながら、当の金城は、法廷では、上記「住民はそうではない」との証言について、「最後の言葉はね、私がふと言った言葉で…これは私のうっかりした。それは集団自決の後。後ですね。」などと曖昧な証言に転化させている(金城調書p43)。 仮に法廷での証言の方が正しいとの前提に立つとすれば、沖縄タイムスの記事が誤りということになり、それは取りも直さず沖縄タイムス社の取材の杜撰さを裏付けるものである。《赤松命令説》が問題となっている裁判の最中に、証言者の意図を正確に反映しない記事を載せること自体、極めて奇異なことと言わざるを得ない。 (2)平成19年6月14日付沖縄タイムス(乙70の1) 同日付沖縄タイムスは、吉川勇助の「米軍上陸直前、日本軍は、役場を通して十七歳未満の少年を対象に、厳重に保管していた手榴弾を二発ずつ配った。米軍上陸後、一発は攻撃用、もう一発は自決用と言い渡された。」という証言を掲載した(乙70の1)。この証言は、家永教科書検定裁判の際に突然出て来た富山真順証言と何故か内容を同じくするものである。 しかしながら、当の吉川は、同年7月12日に作成した陳述書(乙67)においては、「私が持っていた手榴弾のうち、1個は、3月23日の空襲のあとに。敵に捕まったときの自決用としてもらったものです。もう1個の手榴弾は、伝令が軍の陣地から古波蔵村長のところへ来たあと、古波蔵村長が号令をかける前に、古波蔵村長からもらいました。」と述べている。つまり、手榴弾は同時に2発が交付されたのではなく別の機会に1発ずつ交付されたことを述べ、しかも、「役場を通して17歳未満の少年に交付された」という前記内容には何ら言及していない。 このような矛盾の存在は、正に沖縄タイムス社の杜撰な取材過程と、自らの都合の良いように事実を歪曲する同社の体質を表すものである。 (3)平成19年7月7日付沖縄タイムス(甲B82の1) 同日付沖縄タイムスは、「隊長『死になさい』」「軍名ない限り悲劇起こらぬ」「座間味体験者、切々」という大見出しの下、上洲幸子の「梅沢部隊長は村民を集め『米軍は上陸して、どこにでも入り込んでいるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい』と話した」という証言を掲載している(甲B82の1)。 しかしながら、その後同社は同年7月21日付及び同月24日付沖縄タイムスにおいて、上洲からの聞き取りに誤りがあり上記証言の内容が間違っていたことを認めた上で、その内容を「日本軍の中尉が村民を集め『米軍は上陸して、どこにでも入り込んでいるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい』と話した」という内容に訂正し、関係者に深くおわびする旨の記事を掲載している(甲B82の1及び2)。 本件訴訟が提起され、《梅澤命令説》の虚偽性と原告梅澤の名誉毀損が厳しく問われているその真っ只中の時期に、杜撰な取材によって尚も《梅澤命令説》を振り回そうとする姿勢は、正に沖縄タイムス社の体質を表すものである。 (4)平成19年9月28日付沖縄タイムス(乙100) 同日付沖縄タイムスは、「沖縄の『真実』次代へ」(1面)、「歪曲される沖縄戦」(3面)という大見出しの下、「沖縄戦の『集団自決』で亡くなったとみられる住民たち。場所は特定されていない。米軍撮影によるもの」とのコメントを付した死体の写真を掲載している(3面)。 しかしながら、当該写真は「集団自決」によるものではなく、「米第7師団第32連隊の第一線攻撃で逃げ惑い、火砲、銃弾攻撃で見るも無残な死体となった沖縄の住民たち(昭和20年6月21日)」である(甲B103・4枚目下の写真)。 悲惨な写真を掲載して県民の感情に訴え、歪曲した事実を定着させようとするやり方は、正に「欺瞞と瞞着」以外の何物でもない。 因みに、写真を使って感情に訴えるやり方は、平成19年9月29日に開催された「教科書検定意見撤回を求める県民退会(ママ) 」の報道の際にも他の報道機関によって為されている(乙99)。それによると、「11万6000人結集」との大見出しの下、会場全体を写した写真が1面及び36面の両方を用いて大々的に掲載されているが、実際には19000~20000人に過ぎなかったことが明らかになっている(甲B99)。 8 結論 以上の通り、沖縄タイムス等による報道の内容は、政治的意図に基づき事実を歪曲したものであり、到底信用することが出来ない。 沖縄において未だにこのような歪んだ報道が為されている背景には、沖縄問題に関する言論空間の特殊性がある。曽野綾子が述べる次の言葉は、正に正鵠を射たものである。 「このあたりで、私はそろそろ沖縄のあらゆる問題を取り上げる場合の一つの根源的な不幸に出くわす筈である。 それは、常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土を少しでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだ、というまことに単純な論理である。沖縄をいためつけた赤松隊の人々に。一分でも論理を見出そうとする行為自体が裏切りであり、ファッショだという考え方である。 或る人間には一分の理由も見つけられないとする思考形態こそ、私はファシズムの一つの特色だと考えている。」(甲B18p256)。---『ある神話の背景』からの引用 沖縄タイムス等による報道の内容を鵜呑みにし、それらを証拠とした上で為されている被告らの主張が信用性に欠け、事実に悖るものであることは、けだし当然のことである。 戻る
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2250.html
源哲彦 沖縄タイムス「論壇」投稿 沖縄タイムス「論壇」投稿分を抜粋引用する。 http //blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/526d7b282dbc446d56fa0dcd8cb67333 「論壇」 「真実」は消せない 軍命による集団自決 源哲彦 (渡嘉敷村、61歳) (前略) 住民の「集団的な殺し合い」は一夜明けた3月28日に起こっている。 この事件について重大な事実が明らかになっている。 すでに米軍上陸前に、兵事主任新城真順(戦後改正して富山)を通じて「玉砕(自決)命令」が出されていたのである。 島の住民と軍との関係を知る重要な立場にいたのが兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を取り扱う専任の役場職員である。 戦後、富山眞順(故人)は、軍から「自決命令」が出されていたことを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。 ①1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任に対し渡嘉敷部落の住民を村役場に集めるよ命令した。 兵事主任は、軍の指示に従って、「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に召集した」。 ②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持って来させた。 兵器軍曹は集まった20数人の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、「訓示」をした。 「米軍と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1発で自決せよ!」。 このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」がなかったとはいえまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で、「証言」を聞くことはできないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と言ったのを直接聞いた事がある。(沖縄タイムス 2007年9月2日) 【解説】「狼魔人」による牽強付会 =========================== わざわざ説明すまでもないが「真実を墓場まで持って行く」とは「死ぬまで真実を語らない」ということ。 富山氏は生前、同郷の後輩源哲彦氏に生の声で「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と語っていたのだ。 という事は戦後、重要証言として「軍命あり派」の唯一の証拠といわれた「手りゅう弾交付説」は富山氏が、何らかの理由でつかなければならなかった「嘘の証言」であった。 戦後、「集団自決」の真相がばれると「年金給付」が」止められるという噂が村の長老の間に流れていた。 富山真順氏も宮城初枝しもこういった噂を背に受けて嘘の証言をしなければならない悲しい立場にあったと推察する。 その「嘘と」と「真実」の狭間の心の葛藤が富山氏の「真実を墓場まで持って行く」という言葉に凝縮されている。 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/takagijyun/pages/24.html
高木純氏の記事「中国スマホ決済 県内企業へ端末」(沖縄タイムス) NIPPON PAY・高木純氏の記事「沖縄タイムス…中国スマホ決済 県内企業へ端末」 NIPPON PAY代表取締役の高木純氏が沖縄タイムスで記事になっていました。 高木純氏の写真とその記事全文を紹介します。 「中国スマホ決済 県内企業へ端末」 IT企業のNIPPON Tablet(ニッポンタブレット、東京、武田智之代表)は7日、 店舗での中国のスマートフォン決済が利用できるサービスを県内で始めたと発表した。 中小企業・個人事業主向けにスマホ決済用のタブレット端末を無償で貸与し、 初期負担を軽減。同社は決済手数料などで収入を得る。 中国人観光客が急増する沖縄を好市場を捉え、2020年までに2万台の普及を目指す。 同社のタブレットには、ウィチャットペイとアリペイといった中国のスマホ決済が できるほか、通訳サービスもある。 英語や中国語など7ヶ国語の対応しており、通訳がテレビ電話を通して外交人客との会話をサポートする。 同社は、中国人観光客の増加を見込み、昨年11月から全国でサービスを展開。 20年までに20万台の普及を目標としている。 2月時点で1万3千台の申し込みがあるという。 圏内の営業は、現地法人のOKINAWA Tablet(那覇市、平良伸社長)が担う。 商店街や商工会向けに1年間無料でサービスを試せる実験も始めており、 ニッポンタブレットの高木純取締役は「中国人観光客を取り込み、県経済の発展につなげたい」 と話した。(沖縄タイムス)
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/901.html
http //www.okinawatimes.co.jp/ 12 月26 日水曜日 一面:http //www.okinawatimes.co.jp/pdf/2007122601G.pdf 「軍が強制」認めず 検定意見「今後も有効」 「集団自決」表記 検定審が結論 【東京】高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」に関する検定問題で、教科書会社六社からの訂正申請を審議していた教科用図書検定調査審議会(検定審)の杉山武彦会長は二十六日午後、都内の文部科学省で渡海紀三朗文部科学相と会談し、審議結果を報告した。渡海文科相は全社の記述を承認する手続きに入った。同日中に教科書会社全社に伝達される見通し。検定審の結論は、「集団自決」について「日本軍によって追い込まれた」など軍の「関与」を示す記述は認められたが、「日本軍が強制した」など主語の「日本軍」と述語の「強制」を直接つなげる表現は採用されなかった。 【写真】杉山武彦・検定審会長(左)から意見書を受け取る渡海紀三朗文科相=26日午後、東京都千代田区・文部科学省大臣室 九月二十九日の県民大会で決議された「検定意見の撤回」は検定審の審議で議論されず、実現しなかった。文科省は「事実上の撤回でもない」として、今後の検定でも検定意見が有効になるとの認識を示している。 一方、「集団自決」に関して「『強制集団死』とする見方が出されている」(三省堂)、「強制的な状況のもとで追い込まれた」(実教出版)など、主語を明示しない表現に限って「強制」の文言が容認された。 渡海文科相は会談後、記者会見し「今回の訂正申請に対して速やかに承認の決定をしたい。沖縄県民の理解をいただきたい」と述べた。 検定審が承認した記述では、「集団自決」が起こった背景や要因として、六社のうち五社が「戦時体制下の日本軍による住民への教育・指導や訓練」(第一学習社)、「敵の捕虜になるよりも死を選ぶことを説く日本軍の方針」(東京書籍)などを詳述した。 また、東京書籍は①今年の検定で軍強制の記述が消えたことが問題になった②県議会と全市町村議会で検定意見撤回を求める意見書が可決された③九月に大規模な県民大会が開催された―と、今年三月にあった検定結果公表以降の県内の動きを記述した。 清水書院も県内議会の意見書可決の動きを年表に記載した。 2面:http //www.okinawatimes.co.jp/pdf/2007122602G.pdf 沖縄の声受け止めず 教科用図書検定審議会日本史小委員会に意見聴取された林博史関東学院大学教授の話 沖縄の運動や執筆者の努力もあって、「捕虜になるな」という日本軍の教えや米軍に対する恐怖心を植え付けられたことなど、背景の説明は、より詳しくなっている。しかし、「日本軍の強制」という表現は一切認めていない。文章表現としては強制に近いことまで認めていても、「強制」という言葉をともかく使わせないという文科省のこだわりの姿勢が見える。 「集団自決(強制集団死)」の核心部分は日本軍の強制ということだが、それを認めていない点は今春発表された内容と変わっていない。文科省は、沖縄の方々が求めてきたことを受け止めていないといえる。研究者としても、これまでの研究成果を反映していないどころか否定した検定で、受け入れられない。 教科書検定による「集団自決記述の変遷」 ■山川出版社「日本史A 改訂版」 *原文 *検定後の記述 *訂正申請の記述 日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった。 日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた。 日本軍によって壕を追い出されたり、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった。 ■第一学習社「高等学校改訂版日本史A 人・くらし・未来」 *原文 *検定後の記述 *訂正申請の記述 集団自決のほか、スパイ容疑や、作戦の妨げになるなどの理由で日本軍によって殺された人もいた。 集団自決のほか、スパイ容疑や、作戦の妨げになるなどの理由で日本軍によって殺された人もいた。 スパイ容疑や作戦の妨げになるなどの理由で、日本軍によって殺された人もいた。日本軍は住民の投降を許さず、さらに戦時体制下の日本軍による住民への教育・指導や訓練の影響などによって、「集団自決」に追い込まれた人もいた。 ■三省堂「日本史A 改訂版」 *原文 *検定後の記述 *訂正申請の記述 日本軍に「集団自決」を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた。 追いつめられて「集団自決」した人や、戦闘の邪魔になるとかスパイ容疑を理由に殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた。 戦闘の妨げやスパイ容疑を理由に殺された人もいた。さらに、日本軍の関与によって集団自決に追いこまれた人もいるなど、沖縄戦は悲惨をきわめた。 ■東京書籍「日本史A 現代からの歴史」 *原文 *検定後の記述 *訂正申請の記述 日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で「自決」を強いられたものもあった。 「集団自決」においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった。 日本軍によって「集団自決」においこまれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。 ■清水書院「高等学校日本史B 改訂版」 *原文 *検定後の記述 *訂正申請の記述 なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた。 なかには集団自決に追い込まれた人々もいた。 軍・官・民一体の戦時体制のなかで、捕虜になることは恥であり、米軍の捕虜になって悲惨な目にあうよりは自決せよ、と教育や宣伝を受けてきた住民のなかには、日本軍の関与のもと、配布された手榴弾などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた。 ■三省堂「日本史B 改訂版」 *原文 *検定後の記述 *訂正申請の記述 日本軍に「集団自決」を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた。 追いつめられて「集団自決」した人や、戦闘の邪魔になるとかスパイ容疑を理由に殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた。 戦闘の妨げやスパイ容疑を理由に殺された人もいた。さらに、日本軍の関与によって集団自決に追いこまれた人もいるなど、沖縄戦は悲惨をきわめた。 ■実教出版「日本史B 新訂版」 *原文 *検定後の記述 *訂正申請の記述 日本軍により、県民が戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、幼児を殺されたり、スパイ容疑などの理由で殺害されたりする事件が多発した。 県民が日本軍の戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、日本軍により幼児を殺されたり、スパイ容疑などの理由で殺害されたりする事件が多発した。 日本軍により、戦闘の妨げになるなどの理由で県民が集団自決に追いやられたり、幼児を殺されたり、スパイ容疑をかけられるなどして殺害されたりする事件が多発した。 ■実教出版「高校日本史B 新訂版」 *原文 *検定後の記述 *訂正申請の記述 日本軍は、県民を壕から追い出し、スパイ容疑で殺害し、日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいをさせ、800人以上の犠牲者を出した。 日本軍は、県民を壕から追い出したり、スパイ容疑で殺害したりした。また、日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった。犠牲者はあわせて800人以上にのぼった。 日本軍は、県民を壕から追い出したり、スパイ容疑で殺害したりした。また、日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり、米軍の捕虜となることを許さないなどと指導したうえ、手榴弾を住民にくばるなどした。このような強制的な状況のもとで、住民は、集団自害と殺しあいに追い込まれた。これらの犠牲者はあわせて800人以上にのぼった。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/964.html
http //www.okinawatimes.co.jp/edi/20071228.html 沖縄タイムス 社説[教科書検定審報告(下)] 幾つもの問いが残った 県民大会が示したもの 教科書検定をめぐる九月二十九日の県民大会で、心に残る印象深い場面があった。読谷高校の津嘉山拡大君と照屋奈津美さんが高校生を代表して演壇に立ち、検定意見に疑問を投げ掛けた時のことである。 「沖縄戦を体験したおじぃおばぁたちが嘘をついていると言いたいのでしょうか」 「私たちは真実を学びたい。そして、次の世代の子どもたちに真実を伝えたいのです」 タオルを握り締め何度もうなずきながら話を聞いているおばぁ。小さい体を丸めて目頭を押さえるおばぁ。そういう姿を壇上から見て、胸が熱くなった、と津嘉山君は語っている。 会場には親子連れや家族連れが目立った。小さな子どもが大会の意味を分かるわけではないが、大会に参加した記憶は残る。大きくなって、その大会がどういう大会であったかを自ら学び、自分なりに解釈する。これが追体験だ。そういう仕方でおじぃおばぁの戦争の記憶が子や孫の世代に継承されてきたのだと思う。 家庭の中で沖縄戦の話になった途端、おじぃおばぁの表情が曇り、口を閉ざすことがある。実はその沈黙に触れることが沖縄戦の継承になっているのではないか。沈黙はどのような言葉よりも雄弁に、抱えている問題の真実を照らし出す。 沖縄社会は、そのようにして戦争体験を戦後世代に語り継いできた。 六十年を超える戦後の時間の堆積の中で継承されてきたものは、変化することはあっても簡単には崩れない。それを示したのが今回の沖縄側の取り組みだった。県民大会になぜ、あれほど多くの人たちが集まったのか。この問いをないがしろにせず、深く考え抜くことが大切だ。 「集団自決(強制集団死)」に関する教科書の記述が一部復活したからといって、これで終わり、というわけにはいかない。検定意見が撤回されていない以上、同じ問題が再び繰り返される恐れがあるし、何よりも沖縄にとって大きな課題は、これから先、沖縄戦をどのように継承していくかという問題である。 土地の記憶・国民の記憶 かつて沖縄に中屋幸吉という詩人がいた。米軍統治下に生きた中屋は、文学と社会運動に身を投じ、復帰前に若くして自ら死を選んだ。彼の残した言葉にこんな表現がある。 「キミハ ソッチカラ オレヲナガメ オレハ コッチガワカラ キミタチヲ ミテイル」 この表現の真意は分からない。本土の視線を見返す沖縄の視線のようにも感じられる。確かなことは、「キミ」と「オレ」の間に深い溝があることが自覚されていることだ。 今回の教科書検定であらわになったのも、日本軍による強制を認めようとしない「キミ」と、史実がねじ曲げられることを憂慮する「オレ」の対立の構図だった。沖縄の戦後史は、今に至るまで、このような図式の繰り返しだった、ともいえる。 沖縄戦における「集団自決」や「日本軍による住民殺害」の体験は、沖縄の人たちにとっては琴線に触れる「土地の記憶」であるが、「国民の記憶」と呼べるものにはなっていない。 広島、長崎の被爆体験は「土地の記憶」であると同時に、「国民の記憶」にもなっている。だが、沖縄の地上戦体験は「土地の記憶」にはなっているが、「国民の記憶」になっているとは言い切れない。 体験の継承と普遍化を 教科書検定のために提出した清水書院の申請図書は「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」という表現だった。検定で「日本軍」「強制」という言葉にクレームがつき、「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」と書き改められた。 訂正申請で「強制」という文言の復活を試みたが拒否され、結局、次のような長い文章に変わった。 「…米軍の捕虜になって悲惨な目にあうよりは自決せよ、と教育や宣伝を受けてきた住民のなかには、日本軍の関与のもと、配布された手榴弾などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた」 次代を担う学生に希望したいのは、今回の検定事例を丹念に、さまざまな角度から検証する機会をつくってほしいということである。大きな問いを引き受けることが戦争体験の継承と普遍化につながっていく。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1486.html
http //www.okinawatimes.co.jp/news/2008-10-31-E_1-001-3_001.html 2008年10月31日【夕刊】 【沖縄タイムス】元戦隊長の控訴棄却 「集団自決」訴訟 一審判決を支持/大阪高裁 傍聴券求め281人 沖縄戦時に慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、座間味島と渡嘉敷島に駐屯していた旧日本軍の元戦隊長やその遺族が、戦隊長が自決を命じたとする著作の記述は誤りとして、作家の大江健三郎氏と岩波書店に「沖縄ノート」などの出版の差し止めや慰謝料などを求めている訴訟の控訴審判決が三十一日午後、大阪高裁であった。小田耕治裁判長は元戦隊長側の控訴を棄却した。 今年三月の一審・大阪地裁判決は、「集団自決」の軍命令が援護法の適用を受けるための捏造だったとする元戦隊長側の主張を退けたほか、部下が住民に手榴弾を配っていた事実を知らなかったという梅澤氏の主張の信用性を否定。体験者証言を評価し、米軍への秘密の漏えいを恐れた日本軍が、捕虜にならずに自決するよう住民に手榴弾を手渡していた事実を指摘した。 その上で、「集団自決」に対する日本軍の深い関与を認め、両戦隊長による関与も十分に推認できると認定。 各書籍に記載された通りの命令については「認定に躊躇を禁じ得ない」としたが、記載には事実を真実と信じるだけの十分な資料と根拠があるとの判断を示していた。 控訴審では、原告と被告の双方が主張を補強する住民らの「新証言」を証拠として提出しており、大阪高裁がどのような判断を示しているかも注目となる。 訴えていたのは、座間味島の戦隊長だった梅澤裕氏(91)と、渡嘉敷島の戦隊長だった故赤松嘉次氏の弟の秀一氏(75)。「沖縄ノート」と故家永三郎氏の「太平洋戦争」で、両元戦隊長の名誉が傷つけられているほか、弟の秀一氏が兄の故赤松氏を敬い慕う「敬愛追慕の情」の侵害を主張していた。 開廷前に行われた傍聴抽選には、記者席を除く六十五の傍聴席を求めて二百八十一人が列をつくった。 判決要旨1<PDF>(232KB) 判決要旨2<PDF>(240KB) 判決要旨3<PDF>(270KB) 沖縄戦ニュース
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1150.html
通054 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第4 当裁判所の判断 第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について 第4・5(2) 集団自決に関する文献等 ア 座間味島について(ア)(梅澤命令説記載文献) 梅澤命令説について直接これを記載し,若しくはその存在を推認せしめる文献等としては,以下に記載するものがあげられる。 a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(ha) a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(ha)(a)(住民の体験戦記)* (b)(座間味島の記述)* (c)(巻末の記載)* (a)(住民の体験戦記)* 「鉄の暴風」は,その「まえがき」にあるように,軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず,あくまでも,住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記である。そして,その第10版に掲載された「五十年後のあとがき」には,その取材方法等について,「戦後も五年目」で 「資料らしい資料もなく,頼りになるのは,悲惨な載争を生き抜いてきた,人々の体験談をきくのが唯一の仕事で,私(牧港篤三のこと)は太田良博記着と『公用バス』と称する唯一の乗物機関(実はトラックを改装したもの) を利用して国頭や中部を走り回ったことを憶えている。語ってくれた人数も多いが,話の内容は水々しく,且つほっとであった。もっと時間が経過すれば,人々の記憶もたしかさを喪っていたことであろう。戦争体験は,昨日のように生まなましく,別の観念の這入りこむ余地はなかった。」 と記載されている。 (b)(座間味島の記述)* 「鉄の暴風」には, 「座間味島駐屯の将兵は約一千人余,一九四四年九月二十日に来島したもので,その中には,十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて,隊長は梅沢少佐,守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。海上特攻用の舟艇は,座間味島に十二隻,阿嘉島に七,八隻あったが,いずれも遂に出撃しなかった。その他に,島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日,軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ,玉砕を命じた。しかし,住民が広場に集まってきた,ちょうど,その時,附近に艦砲弾が落ちたので,みな退散してしまったが,村長初め役場吏員,学校教員の一部やその家族は,ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である。」 「この自決のほか,砲弾の犠牲になったり,スパイの嫌疑をかけられて日本兵に殺されたりしたものを合せて,座間味島の犠牲者は約二百人である。日本軍は,米兵が上陸した頃,二,三カ所で歩哨戦を演じたことはあつたが,最後まで山中の陣地にこもり,遂に全員投降した。」 として,原告梅澤が座間味島の忠魂碑前の広場に住民を集め,玉砕を命じた旨の記述がある(甲B6及び乙2・41頁,なお,以下では同じ文献が甲号証及び乙号証で提出されている場合には,便宜上一方の記載にとどめることとする。)。 (c)(巻末の記載)* また,「鉄の暴風」には,本文の後に「沖縄戦日誌」と題して年表形式で事実経緯がまとめられており,昭和20年3月28日の箇所に,座間味島と渡嘉敷島で住民が集団自決したこと,厚生省の調査による両島の自決者の合計人数が約700人であったことが記載されている。 <被告らの読みとり> <原告らの読みとり> 戻る | 次へ 第4・5(2) 集団自決に関する文献等 読める判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1488.html
http //www.okinawatimes.co.jp/news/2008-11-01-M_1-031-1_001.html 2008年11月01日【朝刊】 社会 【沖縄タイムス】史実継承 再び光/元戦隊長控訴棄却 被告側「勝訴」喜ぶ/検定の「壁」突破へ力 大阪高裁は三十一日、沖縄戦時に座間味、渡嘉敷で起こった「集団自決(強制集団死)」で、名誉の棄損を主張してきた元戦隊長らの訴えをことごとく退けた。「集団自決」の実相を伝える体験者、教科書検定撤回を求める県民大会実行委らは二度目の「勝訴」を喜んだ。一方、教科書執筆者は「訂正再申請への後押しだ」と教科書の記述復活に決意を新たにした。 判決を受け、被告側の支援者らが三十一日夜、大阪市内で報告集会を開いた。「沖縄で良い報告ができる」「一審を上回る判決」と控訴棄却を喜び、会場は拍手に包まれた。 「本当にほっとしている」と安堵の表情を見せた秋山幹男弁護士。「いったん出版を許されたものを、反対意見が出てきたからといって、出版を差し止めなければいけないのか悩んだ。判決は理論的に進化させてくれ、まったく新しい判断」と述べ、最高裁で一層の支援を呼びかけた。近藤卓史弁護士も「(裁判官は)事実についても細かく見ていた。理論的にも大変いい判決」と評価した。 「高裁判決の意義」と題し、講演した県歴史教育者協議会の平良宗潤委員長は「(判決から)軍の強制を認めているということが読み取れる。沖縄戦の体験者の声、研究等が否定されるかと思ったが、勝訴判決を沖縄に持って帰ることができ、うれしい」と語った。 高教組の松田寛委員長は「教科書問題が何だったのか、あらためて文部科学省に突きつけないといけない。沖縄での運動を再び盛り上げないといけない」と話した。 教科書執筆者ら歓迎 控訴審判決で被告側が再び勝訴したことを教科書執筆者も歓迎するとともに、記述の再訂正申請への後押しになると受け止めている。 東京都の坂本昇さんは「『集団自決』に日本軍のかかわりが否定できないことと、軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得ると、一歩踏み込んだ表現があり、新しい前進だ。教科書づくりの大きな励ましになる」と喜び、教科書会社が判決を前向きに検討することを期待した。 石山久男さんは「高裁判断は、国家権力の行為に対して言論の自由はより尊重されると明確に示した。教科書検定に照らすと、沖縄戦で国家権力の体現者であった軍の行為を批判的に記述する自由は尊重されないといけない」と指摘。 「文科省の検定は、単に事実認定を誤っただけではなく、本来最も尊重されないといけない言論表現の自由を侵して、特定の見方だけを強制して教科書に記述させている」と批判した。 「問題終わってない」 体験者、語り継ぐ決意 渡嘉敷島で「集団自決」を体験した金城重明さん(79)は「ほっとした。良識ある判断が出て、大変喜ばしい」と評価。ただ、「軍が主体となった残虐行為を行ったという事実を、文部科学省がなるべく薄めようとしている流れは変わっていない」と厳しい見方を示した。二〇〇七年九月の県民大会前後から、市民の前などで自身の体験を訴えている。ニューヨーク・タイムズやフランスのドキュメンタリーなど、海外メディアの取材も積極的に受けた。「沖縄戦当時は十六歳だったが、来年には八十歳になる。もう年だが、要望があれば証言するのは、わたしの務め」と強調した。 「悲惨な体験の継承は体験者の問題でもあるし、現場の教師、ひいては国民の課題。歴史の真実を把握することで、将来に光が見えてくる」と訴えた。 一方、座間味島で「集団自決」を体験し、自身や他の体験者の証言集を出版している宮城恒彦さん(74)は「地裁判決が覆ることはないと思っていた。当然の判決だ」と喜んだ。その上で「日本軍の強制」を示す記述が削除された高校歴史教科書の検定問題について「今回の裁判を根拠に記述を削除した文科省は記述を元に戻すべきだ。県民も厚い壁を突き破るために再び動いてほしい」と訴えた。 渡嘉敷島で体験した吉川嘉勝さん(70)も「予想通りの判決でほっとした。教科書の記述回復が重要であり、この問題は終わっていない。検定意見撤回と記述の回復に向けて県民大会実行委員会は委員長を決め、政府に要請行動を展開してほしい」と語った。 ホッとしている 知事 仲井真弘多知事は三十一日、「集団自決」訴訟で、大阪高裁が一審に続き原告側の請求を棄却したことについて、「個人の名誉にかかる点が争点になっていたのでコメントしにくい」と述べつつ、「高裁の棄却という判断をそのまま受け止めたい。大江さんの本で、県民の気持ちはある程度そういうものだ、と判断していただいた点にはホッとしている」との認識を示した。 沖縄戦ニュース
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1687.html
昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-055 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第3 当裁判所の判断 5 真実性ないし真実相当性について(その1) 【原判決の引用】 (原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について (原)(2) 集団自決に関する文献等 ア 座間味島について(ア)(梅澤命令説記載文献) 梅澤命令説について直接これを記載し, 若しくはその存在を推認せしめる文献等としては, 以下に記載するものがあげられる。 a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(2ha) (判決本文p144~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(2ha)(a)(住民の体験戦記)* (b)(座間味島の記述)* (c)(巻末の記載)* (a)(住民の体験戦記)* 「鉄の暴風」は, その「まえがき」にあるように, 軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず, あくまでも, 住民の動き, 非戦闘員の動きに重点を置いた戦記である。 そして, その第10版に掲載された「五十年後のあとがき」には, その取材方法等について, 「戦後も五年目」で 「 資料らしい資料もなく, 頼りになるのは, 悲惨な載争を生き抜いてきた, 人々の体験談をきくのが唯一の仕事で, 私(牧港篤三のこと)は太田良博記着と『公用バス』と称する唯一の乗物機関(実はトラックを改装したもの)を利用して国頭や中部を走り回ったことを憶えている。 語ってくれた人数も多いが, 話の内容は水々しく, 且つほっとであった。 もっと時間が経過すれば, 人々の記憶もたしかさを喪っていたことであろう。 戦争体験は, 昨日のように生まなましく, 別の観念の這入りこむ余地はなかった。」 と記載されている。 (b)(座間味島の記述)* 「鉄の暴風」には, 「 座間味島駐屯の将兵は約一千人余, 一九四四年九月二十日に来島したもので, その中には, 十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて, 隊長は梅沢少佐, 守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。 海上特攻用の舟艇は, 座間味島に十二隻, 阿嘉島に七, 八隻あったが, いずれも遂に出撃しなかった。 その他に, 島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。 米軍上陸の前日, 軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ, 玉砕を命じた。 しかし, 住民が広場に集まってきた, ちょうど, その時, 附近に艦砲弾が落ちたので, みな退散してしまったが, 村長初め役場吏員, 学校教員の一部やその家族は, ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。 その数五十二人である。」 「 この自決のほか, 砲弾の犠牲になったり, スパイの嫌疑をかけられて日本兵に殺されたりしたものを合せて, 座間味島の犠牲者は約二百人である。 日本軍は, 米兵が上陸した頃, 二, 三カ所で歩哨戦を演じたことはあつたが, 最後まで山中の陣地にこもり, 遂に全員投降した。」 として, 控訴人梅澤が座間味島の忠魂碑前の広場に住民を集め, 玉砕を命じた旨の記述がある(甲B6及び乙2・41頁, なお, 以下では同じ文献が甲号証及び乙号証で提出されている場合には, 便宜上一方の記載にとどめることとする。)。 (c)(巻末の記載)* また, 「鉄の暴風」には, 本文の後に「沖縄戦日誌」と題して年表形式で事実経緯がまとめられており, 昭和20年3月28日の箇所に ,座間味島と渡嘉敷島で住民が集団自決したこと, 厚生省の調査による両島の自決者の合計人数が約700人であったことが記載されている。 (引用者注) 「鉄の暴風」についての信用性等の評価は、判決文「集団自決に関する文献等の評価について」の当該項に書いてある。 目次 戻る 通2-055 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1479.html
http //www.okinawatimes.co.jp/news/2008-11-01-M_1-005-1_001.html?PSID=4e73cc7f845e382ce7f8c15a5a59e6ca 2008年11月01日 社説 【沖縄タイムス】[控訴審判決]軍の深い関与が明白に 沖縄戦の際、慶良間諸島で起きた「集団自決(強制集団死)」をめぐる裁判の控訴審判決で、大阪高裁の小田耕治裁判長は原告の主張を退け、控訴を棄却した。 今年三月の大阪地裁判決に続いて再び、元戦隊長側敗訴の判決が言い渡されたことになる。 小田裁判長は「最も狭い意味での直接的な隊長命令に限れば、その有無を断定することはできない」と述べた。 この指摘は、戦隊長による自決命令について「伝達経路が判然とせず、(あったと認定するには)ちゅうちょを禁じ得ない」とした一審判決に通ずるものだ。 「なかった」とも言い切れないが、「あった」とも断定できない、という立場だ。 控訴審判決はその一方で、座間味島、渡嘉敷島での「集団自決」に日本軍が深くかかわっていることは否定できない、とも指摘している。これも一審判決に沿ったものだ。 一審、二審を通して隊長命令の有無や日本軍の関与についての裁判所の見方が定まった、と言える。 二〇〇六年度の教科書検定で文部科学省は、検定意見を付し、「集団自決」に関する軍の強制記述を削除するよう求めた。〇五年度まで認めてきた記述がなぜ、〇六年度になって突然、許されなくなったのか。 文科省側はこれまで「学説状況の変化」と「元戦隊長の裁判での陳述書」がその根拠だと説明してきた。だが、二度にわたる判決で、検定意見そのものに問題があることが明らかになったと言えよう。 この裁判は、作家の大江健三郎さんが書いた『沖縄ノート』などの中で名誉を傷つけられたとして、当時の戦隊長らが、大江さんや出版元の岩波書店に対し、本の販売差し止め、慰謝料の支払いなどを求めているものである。 控訴審判決で注目されるもう一つの点は、書籍発刊当時、その記述に真実性や真実相当性が認められるのであれば、その後、時がたって新しい資料が見つかり、その真実性が揺らいだ場合であっても、出版の継続が直ちに違法になると解することはできない、との判断を示したことだ。 判決は、著者が常に新しい資料の出現に意を払い続けなければならないとしたら「そのような負担は言論を萎縮させることにつながる」と指摘している。控訴審判決で新たに登場した論点に対し、最高裁がどう判断するか。言論・表現の自由との関連が深いだけに、注目したい。 日本軍による住民殺害と「集団自決」は、沖縄戦を特徴づける出来事である。しかも、この二つの出来事は相互につながっている。 この問題から目をそらしては、沖縄戦の実相に触れることができない。昨年九月の県民大会で高校生代表は語っている。「分厚い教科書の中のたった一文、たった一言かもしれませんが、その中には失われた多くの尊い命があります」 沖縄戦の史実に向き合うことは失われた尊い命に向き合うことなのだと、控訴審判決に接してあらためて思う。 沖縄戦ニュース