約 2,110 件
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FAFS) 母音を変換(アプラウトする)ことで反対語を作ることができる AIUEO→IEAUOで反対語が作れる Lua) 例えば? FAFS) MI(私)→Me(あなた)とか Lua) 嘘!! FAFS) だから母音変換法では一単語にウマなんですよ まぁTaでもMeでもんですね
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鼻母音 鼻母音 ą,ę の発音です.「オン」「エン」って書かれてます,日本語だと.下にあるような細かな発音の違いもあるようですが,これを知らなくても今まで通じていたので,気にしなくていいのかもしれません. 唇音? 唇を閉じる音 b,p の前では ą - "om", ę - "em" になります.いや,唇閉じるから,意識をしないと自然と m になるわな. 歯音? d,t,dz,cz の前では on en 軟口蓋音? ć, dź oń eń 上のon, en を軟子音化する. 口蓋音? g,k は n が天狗の「んぐ」っぽくなります. 軟口蓋音? g , k は上の「んぐ」を軟子音化する. まとめ? あんまり気にしなくても,自然とそれっぽくなります.たぶん.
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1つ目\2つ目 a e i o u a a a ay a aw e e e i e i i e e i e i o o o u o u u o o u o u
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音の転化(母音+い→ええ) (おんのてんか ぼいんのあとにいがくるものがええというおとになるもの) [関連語] 音の転化 すげぇ ちげぇ 「あい」という母音連続が、「ええ」という二重母音になる現象に代表される音の転化。東京方言か。ここでは、類似の転化を含め『音の転化(母音+い→ええ)』とした。 【現象】(例の後の数字はgoogleヒット件数(2007.9.6)) ①形容詞の語幹末が [a] である場合、言い切りの形で [ai] が [ee] に変る。口語的であるが、これに準ずる書き言葉にも見られる。 例: 「高え」28,400 「高けえ」869 「高けぇ」50,500 「若え」893 「若けえ」1,920 「若けぇ」923 表記法はこの他に、全部ひらがな・調音符「ー」を用いるなども考えられる。漢字変換で出現しない上記表記でそこそこ多い件数が出たといえよう。 ②[ai] が [ee] になる現象といえば、江戸下町方言が知られる。しかしながら現代の若者言葉における現象とは別物であると考えられる。その根拠としては「形容詞言い切り形の末尾以外での転化が、古臭い印象を与える」という点が上げられる。 語末以外に現われる例で: 大変→てぇへん 入る→へぇる 語末だが形容詞でない例で: ケータイ→×けーてぇ 問題→?もんでぇ など、自然には出現しないことを考えると、基本的にこの現象は「形容詞(的語彙)の末尾にのみ起こる現象」であると考えられる。ただし起源的には大いに関連性があろう。 ③[oi] も [ee] になりやすい。 例: 「遅ぇ」63,300 「遅せぇ」12,500 「細ぇ」2,990 「細せぇ」83 ただし、 注1)「良い」→「ええ」は老人語または関西語であるような印象を受ける。東京の若者言葉としては使用しにくい。 注2)特殊な例として「カッコいい」→「かっけぇ」がある。語幹は[kakkoi]で、 [o] ではないのだが、一般に認められる。 注3)その他認められにくいものとして「黒い」→「黒ぇ」712(「暗い」→「暗ぇ」との混同の可能性があるためか?)、「エロい」→「エレェ?」(同、「偉い」との混同のため検索せず)、「キモい」→「キメぇ」3,080(新語であるためか?筆者には不適格と見られたが検索では割と検出)、「グロい」→「グレぇ」(同、新語であるためか。検索ゴミ多数。後述「ぐらい」→「ぐれぇ」との混同も考えられる)、「青い」→「あえぇ」など多数見受けられる。 ④若干の[ui]→[ii] もここに含める。 標記とは異なるが、形容詞の語末の現象として一緒くたにした。 例: 「悪ぃ」206,000 「悪りぃ」49,600 「薄ぃ(うしぃ)」 「薄しぃ」7 ⑤平行して、形容詞末の[ii][ei]が長母音として発音される。 ⑥転化の際、[w] [y]といった子音は脱落しやすい(現代語で[we][ye]などの音節が認められないためだろう。というか一般的な活用でもそうか)。 例: 「怖い」→「こえぇ」 「速い」→「はえぇ」 ⑦基本的には転化は言い切りの形(終止・連体)で見られるものだが、転化したものから末尾の[e]を取ったものが語幹として用いられることもある。 例: 「今のやつカッケくねぇ?」 「すげぇ高けかった」 ※この語幹は、相手に訴えかける場合に使用される傾向はあるまいか。 ⑧形容詞的な活用をする助動詞も同様の現象が起こる。特に「~たい」→「~てぇ」。「~ぽい」→「~ぺぇ」も使用される。 ⑨形容詞的(状態性の語)で「い」で終わる名詞などの一部で、同様の現象が見られる。 「違い」→「ちげぇ」 「嫌い」→「きれぇ」(やや古?) 「~みたい」→「~みてぇ」 「~ぐらい」→「~ぐれぇ」 「違い」「~みたい」に関しては、そのほか形容詞的な活用がされることも知られている。 ⑩男性語的な印象。 追記欄
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所謂ウラルアルタイ語の中の多くのもの、例へば蒙古語、トルコ語、マヂャール語、フィン語等にはVokalharmonie(母音調和)があるといはれてゐるが、Vokalharmonieとは一體どういふ意味か。從來これについては全く相異なる二つの概念の混同される傾向がありはしなかつたかと思ふ。即ち (1) 母音配列(或は組合せ)の法則として見ること。 例へばトルコ語ではa, o, u, îとe, ö, ü, iは同じ語根の中に並存することが無い。又同じ接尾辭も、語根の最終の音節に含まれた母音の種類に應じて、その含む母音を異にする。例へば「である」を意味する接尾辭にはdîr,-dur,-dir,-dür,等の形があり、語根の最終の母音の種類に應じてdnin.-dir,lziz-du; of-chit,buz- lar;つl-dir,cji-dir;g2i2-dii.r, ii_-dürのやうに使ひ分けられる。これも、部分的ではあるがやはり一種の母音配列(或は組合せ)の法則と見ることが出來よう。以上はソシュール氏の言葉でいへばいづれもsynchroniqueの問題である。 (2) 音韻變化として見ること。例へばVocalharmonieを一種のprogressive Asimilationと見做し、ゲルマン語史上のUmlaut(一種のregressive Asimilation)などと對照して論じてゐる書物がある。これはソシュール氏の言葉でいへばdiachroniqueの問題である。 この中(1)はその國語又は方言の現在又は過去に於ける或一時代の言語状態についていふことであるが②は必ず二つ以上の相異なる時代(即ちその音韻變化の起るより前と、起つてから後と)の言語状態を比較した上でなくてはいふこごが出來ない。普通蒙古語やトルコ語やマヂャール語やフィン語にVokalharmonieがあるといふのは、主として(1)の意味、即ち一種の母音配列の法則を有するといふ意味であらうと思ふ。勿論これらの諸國語に存する母音配列の法則は、過去の或時代に起つた音韻變化の結果として生じたものかも知れない。(フィニッシュ・ウグリッシュ比較言語學の方では、この見方がかなり有力なやうである。)併しそれにしても、母音配列の法則と、それを發生せしめた過去の音韻變化とは、全然別の概念であるから、この兩者を同一の名稱で呼ぶのは好ましくない。Jespersen氏はこの(1)をharmony of vowelsと呼び、佛語cameradeがcamaradeに變じたやうな音韻變化をharmonizing vowelsと呼んで、言葉を使ひ分けてゐるが(Language 280頁)、至極よいことと思ふ。日本語に果してVokalharmonieが存するか、或はかつて存したことがあるかといふ問題は、これまでいろいろと論ぜられてゐるやうであるが、この問題を論するに當つては、まづどちらの意味のVokalharmonieについての議論であるかを豫め明かにしておくこごが必要である。 http //www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/arisaka/on-insi/04.pdf
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\人_人_人_人_人_人_人_人_ / ≪ 空気がおいしい!!! ≫ /Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒ \ > -ーヽ⌒ ー- _ / , -≦} } ,」-―-ヲ 三二─ { ,;{◎∧⌒^ィi㌻ 〈◎}^-、ヽ ハ \ 三二─ \人_人_人_人_人_人_人_人_人_人_./ \ヽ ヽ) ≫ ≪ ハ_} . ≪ 紅茶もおいしい!!! ≫ ≫ ≪ ,、、 /Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y.\ / . ∧ ,l . . .| . ヽ、 ─二三 /. . ..─二三 __ _,r '′ ., .'. ../. . / . . . . . . ケニニ¬=ミ . \ . . . . 、ニヽ-'´ . . . .`ー- 、__,,...-─¬ー- 、_ __ ,! . . . . . . . . . .// . / . . . . . . . > `ヽ、 ヽ . / . ヘ、 . . .~""'''ー- ...,,__ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .`ー--‐ァ'´ . . . . .`ー-‐'´. . . . . . . . . ..// . / . . . . . ⌒ア \ノ^´ .. ⌒\. . . . . . . . . . . . . . ̄ ̄~~""'' - 、 . . . . . . . ./ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ./ . . . |. . . / / _____\ `⌒^^ヽ 〉 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .~"''' ー-、 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ..| . . . . |. . j ッ宀ァァミ\ 〉 ∨ . ―-、. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .\ . . . . . . . . . . . . . . . . . . ._,,..リ . . / . | 八 { | i し! ___,.斗 〈 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .ヽ. . . . . . ._,,...-‐. / . . ./ . 八 . \ 弋)ツ ァウミ , . │ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . __,,.. .-‐ '' . ´. . . /.─二三 . <_ ヒツ / . │ . . . . . . . . . . . . . . . . . __,,.. .-‐ '''""~ ....../ . . . . . / . . . . . . . . .丶 ._/ , _ 厶イ ′ _ . . . . . . . . __,,.. .-‐ '''""~ ゙'''" 〈/ . . . . ( . . . . . . \ / ̄ ァ \ / ( しク __,,.. .-‐ '''""~ ゙''" .─二三.. . . ./\ . . . . . . ハ { / 人____ イ ) ( ゚ ) . . . / . . \ . . . . . . / ノ ー / ..ノ ノ レ'゚ 丿 / . . . . 〈>――丶 . . . . . . . . / ,、 イ/ / / 丿 ( (/) . ./ ̄ ̄\/\ . . .(/\ ∧ . ア´ . />‐‐<ニ二二二二二ニニ! '⌒ア゙ .─二三... ⌒ヽ∨ ∨ .. //__\)⊃⊂⊃⊂⊃⊂│ / ∨ 厶ィ . ノ人 |\(∨ ___ 〉 ┃┃┃┃┃┃】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━──────────────────────── 【アクア】 【黄の国】、”ああああ国”。紅茶が美味しいわ。─────────────────────────━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 備考 特殊な魔術により、『先入観やイメージの具現化』が起きている。 国の名前もそのせいで変わってしまった。 現在はやらない夫のイメージが中心になっており、 『特攻したい』『キ印情熱大陸』『こうちゃ』『愛がいっぱい』『母音』『理解してはいけない』 『頭おかしい』『悪ノリに悪ノリを重ねた人外魔境』『全員悪乗りした闇鍋』『レミリア好き』 ……になっている。
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http //c-faculty.chuo-u.ac.jp/~rhotta/course/2009a/hellog/2009-11-18-1.html XaYe → XeiY XeeY → XiiY XiYe → XaiY XoYe → XouY XooY → XuuY XeaY → XiiY Xow → Xau
https://w.atwiki.jp/kusamura/pages/35.html
このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65929からの引用です kusamura(叢)フォーラム @BBの閉鎖(2015.5.31)に伴い、 @WIKIへ移動します。(作業中)http //www9.atwiki.jp/kusamura/ ログインユーザ登録 メンバーリストグループ設定 2015-05-14 04 38 57 トップ»「母型論」(5章まで)吉本隆明(1995)» (第三章)「大洋論」~言葉の発生 母音の波だち All times are JST(+900) 「母型論」(5章まで)吉本隆明(1995) Page1of1 [ 10 posts ] 1 投稿者 メッセージ kusamura 題名 (第三章)「大洋論」~言葉の発生 母音の波だち 時間 2010-07-13 15 39 32 no rank Joined Posts 一 人間の音声が発せられて言葉にまで分節される器官の場所は、 誰にもはっきりと指さすことができる。 まず 喉頭(腔)(のどぽとけ)で発せられた音声が、 口(腔)と鼻(腔)をぬけたり、こもったり、渦巻いたり、ひらかれたり、つぽめられたりしながら 分節された吐息になってゆく 複雑で微妙な過程のあいだに、 意味をもった種族語 あるいは 民族語の話し言葉に変わること だけは確かなことだ。 なお発生学があきらかにしていることをつけくわえれば、 この喉頭(腔)から口(腔)、鼻(腔)にかけての部分は、 腸管(鰓腸)のいちばん前端の部分でありながら、 複雑で微妙な運動と変形の感覚が高度に分化している。 喉頭(腔)(のどぼとけ)から下の 食道や胃や十二指腸の管には、 すくなくとも鋭敏な体壁系の感覚はないから、 熱い液体や固体を呑み込んでも喉頭(腔)から下ではそれほど熱さを感じない。 反対に熱さに敏感なのは、のどぽとけから上の口(腔)の部分ということになる。 ここでひとつ言うべきことが出てくる。 喉頭(腔)から口(腔)や鼻(腔)までの、 言葉がそれぞれの種族語や民族語としてつくられる管腔の鋭敏な部分は、 すこしずつの相違はあっても、ヒトの類として同じ構造をもっている。 そうだとすれば この同じ構造に対応する言葉の同一性は、 どこに由来するかかんがえられるべきだ。 この同じ構造に対応できる言葉の素因子があげられるとすれば、母音がやっとそれに該当するといえる。 母音はそれぞれの民族語や種族語で八母音を数えたり、 三母音でまとめられたり、六母音だったりしている。 だがこれは ヒトの類に共通した言語の原音とみなされるものの ヴァリェーションとかんがえてよいとおもえる。 Top リンク kusamura 題名 一、(2_顔) 時間 2010-07-13 15 56 12 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 発生学者三木成夫によれば 顔の表情は、 腸管の末端があたがも 肛門の脱肛のようにめくれ返って腸管の内面を露出したものにあたっている。 だから顔の表情は 内臓管の視覚的な表象 とみなしてよいものだ。内臓管の不全のため心がくもって不機嫌なときは、 顔の表情も色調もくもって快活な情感のときのようにはならない。 それとおなじように 喉頭(腔)(のどぼとけ)の発する音声と、 それが分節化され話し言葉になった音声は 内臓管(腸管)の聴覚的な表情といっていい。 いいかえれば 声は音声でできた顔の表情であり 内臓管(腸管)がくぐもって心が萎えているときは、 音声もくぐもって活き活きしないし、 内臓管(腸管)が内攻していれば 音声も外部に向かって押し出されずに内攻する。 わたしたちはここで、 種族語や民族語の差異を超えた母音の共通性を、 ヒトの類としての共通性に対応するという仮定にたてぱ、 その共通性は 喉頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)にかけての 洞腔の構造が同じということに帰着する とかんがえるのが、いちばん理に適っているようにおもえる。 そしてこの仮定はもっとさきまでおしすすめることができる。 ひとつは母音は 波のように拡がって 音声の大洋をつくる というイメージだ。 そして母音が 喉頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)までの 微妙に変化する洞腔のあいだでつくられ、発音されたにもかかわらず、 大洋の波のような拡がりのイメージを浮べられる理由は、 この母音が 内臓管(腸管)の前端に跳びだした心の表象というだけではなく、 喉頭(腔)から口(腔)や鼻(腔)の筋肉や形態を微妙に変化させる 体壁系の感覚によってつくりだされるものだからだ。 いいかえれば 母音の大洋の波がしらの拡がりは、内臓管の表情が跳びだした心の動きを縦糸に、 また喉頭(腔)(のどぼとけ)やロ(腔)や鼻(腔)の形を変化させる 体壁系の筋肉の感覚の変化を横糸にして 織物のように拡がるため、 大洋の波のイメージになぞらえることができるのだ。 わたしたちが展開してきた論議に沿って、 それぞれの種族語や民族語における 母音の共通性と末端でのヴァリェーションが どこから生れ、どんな根拠をもっているかをいってみれぱ、母親と胎乳児のあいだの関係の本質と その種族や民族の習俗のわずかな、 あるいはおおきな差異のほかからは生みだされないことがわかる。 いいかえれば母音とは 胎乳児と母親の関わりの、種族や民族を超えた共通性と、習俗の差異のつみ重なりから生みだされた 言語母型の音声にほかならないといえる。 Top kusamura 題名 大洋論 二 (1) 時間 2010-07-13 16 38 31 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 二 大洋のような母音の音声の波の拡がりは、それ自体で言語といえるだろうか? ごく普通にいえば、内臓(腸管)系の情感の跳びだしである心の動きと、 喉頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)にかけての管状の洞腔の筋肉の動きの表出である感覚の変化 から織りあげられた母音の波は、 「概念」に折りたたまれた生命の糸と出合えないかぎり、 言語と呼ぷことはできないはずだ。 だがここで特異なことが起りうる。 母音の波を 言語に近い状態で感受する種族語群や民族語群と、 この母音の波を、ただの感覚音や機械音に近い状態として感受する種族語群や民族語群とに 分極されてしまうことだ。 角田忠信の研究によれぱ(角田忠信『脳の発見』)、 母音「あ」の音声を聞かせたばあい、 日本人は左脳(言語脳)優位の状態で聴いており、 たとえば米国人は右脳(非言語脳)優位の状態で聴いていること が確かめられている。 (*図および解説 略 -引用者)ここで日本人と米国人の被験者は、比喩とかんがえてよい。 日本人はポリネシア語族と旧日本語族(縄文語族)を象徴し、 米国人は、ひろく西欧のインド=ヨーロッパ語族と、もっと拡大して 旧日本語族とポリネシア語族以外の語族を象徴する とかんがえてよいことを著者角田忠信は確定している。 Top kusamura 題名 大洋論 二(2 母音と日本語) 時間 2010-07-13 16 54 02 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 なぜ 母音の波の響きを 旧日本語族やポリネシア語族は 左脳(言語脳)優位の側で聴き (このことは母音を言語に近い素因として聴いていることを意昧する)、 それ以外の語族では 右脳(非言語脳)優位の側で聴いているのか? 角田忠信は、 旧日本語族やポリネシア語族では、母音がそのまま意昧のある言語になっているために、 この母音の言語化の現象が起きたと推定している。 わたしたちはこの推定をもうすこしおしすすめることができる。 旧日本語族やポリネシア語族では、自然現象、 たとえば山や河や風の音や水の流れの音などを、 すべて擬人(神)化して 固有名をつけて呼ぶことができる素因があり、 また 自然現象の音を 言葉として聴く習俗のなかにあったことが、 母音の波の拡がりを 言語野に近いイメージにしている根拠 のようにおもえてくる。 日本神話のうち旧日本語の世界を語るところでは、 「語(こと)問ひし磐(いわ)ね樹立(このたち)、草の片葉(かきは)をも語(こと)止(や)めて」(「祝詞」)、いってみれば 〈言葉をしゃべっていた岩や木立や、 草の葉のようなものも言葉をやめて〉 という世界であり、 高い山、ひくい山から落ちて泡立つ水の瀬は 「瀬織つ比売(ひめ)」という神であり、 海の潮がより集まるところは 「速開(あき)つ比売」という神であり、 根の国のしぶきが立ちこめてひろがるところは、 「速さすらい比売」という神だということだ。 そこでは自然現象は擬人化され、自然物の発する音は、 言語になった音の世界だとみなされる。 この特性は 母音の波の拡がりが 白然音とともに言語化された世界になぞらえられて左脳(言語脳)優位でうけとられる世界をつくる根拠だと みることができる。 Top kusamura 題名 大洋論 二(3 シニフィアン=記号表現) 時間 2010-07-13 18 22 06 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 わたしたちはここで何をしようとし、 どんな問題に当面しているのだろうか。 母音がそれだけでは意昧をなさない音声の波であるように、母音の波の拡がりであるイメージの大洋は、意昧をもたず、言語ともいえない世界なのだが、それにもかかわらず 言語優位の脳で感受されるとともに意昧(前意昧といってもよい)をもってしまう特異な領野に当面している。 この領野は わたしたちに新しい地平を垣間見せているようにおもえる。 たとえばソシュールや その心的な理念化の世界であるラカン の方向づけによれば、 いくつかの原則をとりだすことができる。 ひとつはソシュールのいうシニフィアン(*記号表現=言葉の表記や音声)は、 それだけでは意昧をもたないこと。 それにもかかわらずシニフィアン(*記号表現)という設定自体に 意昧がなくてはならないのだが、この設定が意味をもつためには、 ひとつは シニフイアン(*記号表現)は 理由づけの不可能なヒトの存在の仕方、 たとえばヒトの存在が 男性と女性、と名づけられるものに分けられることにたいして、 シニフィアン(*記号表現)という設定が意昧をもっているらしいこと。 もうひとつは いつでもヒトの存在が理由づけられるところでは シニフイアンが何か(たとえばシニフィエ(*記号内容=記号のイメージや概念・意味))を 呼び込むための素因となりうることだとおもえる。 だがソシュールや その心的な拡がりを設定したラカンのシニフィアン(*記号表現)が、意昧を形成するために実力を行使するものを 「神」に求めないとすれば、 「父」という概念にそれを求めるよりない。 なぜなら 「神」に求めたりすれば、「神」は言葉をつくり、 その言葉はどこかに目的因をもつ宗教的な世界 になってしまうからだ。 またシニフィアン(*記号表現)は はじめから 何ものも意昧する可能性がないもの として設定すれば、それは科学的な素因ではありうるだろうが、外界はすべてのっぺらぽうの自然界 という以外になくなってしまい、 物質の自然を対象としてつくる ことができなくなる。 Top kusamura 題名 大洋論 二(4 シニフィアン*記号内容=音声 と大洋=母音の波 時間 2010-07-13 18 30 56 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 わたしたちがここでかんがえてきた 母音の波の拡がりである大洋のイメージは、 ソシュールやその心理的な理念としてのラカンのシニフィアン(*記号表現=音声や文字)にはなりえたとしても、 おなじ意味はもっていない。 ただシニフィアン(*記号表現)という概念との対応をしめすことはできる。 ひと口に 「神」の代りに擬人化され命名されたすべての「自然」の事象と現象が登場し、 「父」の代りに胎乳児に反映された「母」の存在が登場するところに、 わたしたちの大洋のイメージがある。 そしてわたしたちが設定させたいのは前意味的な胚芽となりうる事象と現象のすべてを包括し、 母音の波をそのなかに含み 拡張され普遍化された大洋のイメージなのだ。 そのために 完全な授乳期における母と子の 心の関係と感覚の関係が織り出される場所を段階化してみなくてはならない。 Top kusamura 題名 大洋論 三 時間 2010-07-14 00 46 16 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 三 完全な授乳ともいうべきものにおける母と子の関わり方、 いいかえれば母の「写し」と「刷り込み」の 乳児における織物の拡がりを、注意ぶかく数えあげてみる。 第一に、 乳児は 鰓腸の内臓感覚が一面にひろがった顔の表情面を押しつけて、 母親の乳房の肌触りを四六時中、典型的にいえば一年のあいだ毎日のように体験する。 第二に、 乳児の舌と唇は 内臓系の鰓感覚である昧覚の奮によって 母親の乳汁の味を知りつくし、 同時に体壁系の舌の筋肉の微妙な動きで乳頭をとらえ、 また乳房の表面をなめまわす感覚を体験する。 第三に、 乳児の手は 授乳のとき母親の乳房を撫でたり把んだりして、 触覚によって乳房の形を確かめている。 第四に、 口(腔)の周辺の嗅覚器である鼻(腔)は、 母親の匂いや乳汁の香りにひらかれるし、 眼はま近の距離で母親の乳房を環界の全体のように視たり、 すこし距離をおいて母親の顔の表情を読みとったりしているとみなされる。 素因子としていえば、すくなくともこれらの内臓系の感受性からくる心の触手と、筋肉の動きからくる感覚の触手とは、 大脳の皮質の連合野で交錯し、拡張された大洋のイメージを形づくっているとみなすことができよう。 この大洋のイメージの拡がりは、すこしも意味を形成しないが、その代りに内臓(その中核をなす心臓)系の心のゆらぎの感受性のすべてと、感覚器官の感応のすべてを因子として包括していることになる。 この拡張された大洋のイメージは、 言語に集約されるような意昧をもたず、それだけで意味を形成したりはしない。 だが、それにもかかわらず 心の動きと感覚のあらゆる因子を結んだ前意昧的な胚芽の状態をもっている。 そこでは 顔の表面と舌や唇と手触りのすべてが触覚を形成し、 この触覚の薄れの度合いが距離感として視覚と協働している。嗅覚の薄れの度合いもまた距離感や空間の拡がりの認知に、 無意識のうちに加担していることになる。 おなじことを心の動きについていえば、この 内臓系の感受性の薄れの度合いは、記憶という作用に連合しているとみなせる。 感受性の薄れの度合いの極限で、 心の動きは記憶として認知されるといっていい。 もうひとつ発生学者の考え方から汲みとるべきことがあるとすれば内臓感覚には自然な自働的なリズムがあり、 これは心音や呼吸のような小さな周期のリズムから、日のリズムや季節のリズムまで 多様なリズムを表出し、体壁系の感覚もまた睡眠と覚醒のようなリズムをもち、 これは 心の動きに規範を与えることに加担し、 やがて大洋のイメージが意味形成にむかうことにつながってゆく。 Top kusamura 題名 大洋論 四(1 時間 2010-07-14 00 56 10 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 四 わたしたちは大洋のイメージの世界を、 ソシュールのシニフィアンやラカンのシニフィアンの意昧づけを拡大した 「父」の世界のエディプス複合とはちがい、 「母」と(胎)乳児との関係から発生した 心と感覚の錯合した 前意味的な芽ばえをもった世界とみなしてきた。 そしてその世界では 母音は言語的な皮質の優位で感受され、 また「母」の像の根源には あらゆる自然事象と現象を擬人化し、命名せずにはおられない 発生機の習俗が関わってくるものとみなしてきた。 それは 母音そのものが言語として意味をもつという 二重の機能をもった個有言語の世界へと 展開されてゆく。 Top kusamura 題名 大洋論四(2 時間 2010-07-15 19 00 21 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 だがそれ以前に、 この大洋のイメージの世界は すくなくとも二つの段階を包括している。 これをわかりやすくするために、(前)言語的な事例になぞらえてみれば、 第一段階は、いわゆる乳児の「アワワ」言葉の段階だということができる。 第二段階は、幼児言語の世界に対応している。 乳児の「アワワ」言葉の世界は、 純粋な母と乳児のあいだの内コミュニケーションの世界といっていい。 ある契機で母親が偶然、 意昧をつくらない「アワワ」とか「アババ」とかいった擬音喩の音声を 乳児にむかって発音する。 すると乳児は笑いの表情と音声を発し、これに応答する。 母親はそのつぎからは乳児の笑顔を誘いだすために おなじ「アワワ」とか「アババ」とかいう意昧をつくらぬ音声を発するだろう。 乳児はそれにたいして笑顔と笑いの音声で答える。 これは笑いについての内コミュニケーションが 母親と乳児のあいだに成り立ったことを意昧している。 この内コミュニケーションのばあい、 母親が意昧のある成語を発してもたぶん無効だといっていい。 乳児がいるのは 大洋のイメージの世界の渚にある水準線であり、 意味をつくっている言葉を感受しないからだ。 このばあい、乳児にとっては 「アワワ」や「アババ」は自然の事象、現象の音とおなじに 言語脳優位で感受されるものとみなされる。 わたしは確かめたことはないが、 母音を非言語脳優位で感受する種族語や民族語の世界でも 「アワワ」や「アババ」が乳児の笑いの表情を誘いだすことがあるにちがいない。 ただ理路として推量すれば、 もっと純音や機械音に近い音声のほうが 乳児の笑いを誘発しやすいとおもえる。 第二段階は幼な言葉、耳言葉と呼ばれるべきものにあたっている。 これは一般的にいえば擬音語あるいは感覚と感情の織物といえるものだ。 柳田国男(「幼言葉分類の試み」)は、 この種の習俗が生みだした幼な言葉をいく種類かあげている。 そのなかからここでいう第二段階に包括させて大過ないとおもえるものをとりだしてみる。 乳児にとって身近であり、母親の言葉にすぐ感応できる家畜の例をあげれば、 関東ではニワトリをトトということがあるが、 中国以西ではトトは小犬のことだと柳田は指摘している。 このことはトトという言葉が、もとは意味を形成しない音声だったことを暗示しているとおもえる。 また 舟のことは肥前平戸ではヨイヤ、伊豆ではエンヤというが、 これは舟を海浜にひきあげるときの掛け声の擬音から生みだされたもので、 それ自体が意昧のある呼称でないとおもえる。 また 母親のことは伊豆や佐渡や山形などでウンマイ、ウマヤイ、ウメアなどと 幼な言葉で呼ばれているが、 柳田の指摘では 年上の女性の総称であったウバという言葉に発して、 幼児がその音を模倣し変化させたものだと推定している。 このばあい、 幼児には模倣の自覚も意味形成の自覚もないとすれば、 母親の自称が反映したものだとかんがえることができる。 Top kusamura 題名 大洋論四(last 時間 2010-07-15 19 26 54 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 柳田国男は、 幼な言葉よりもすこし年長の段階に耳言葉という分類を設定している。 いわば幼な言葉と児童語のあいだに 母親によって高次に修飾をうけ、 子どもに伝えられる言葉というべきものを指している。 たとえば幼児をいい子だといって悦ばせるとき母親が 「オタカラマンチン」と言ってみたり、ケガをして痛がっている子どもに「チチンプイプイ」 という呪いを称えながら撫でてやったり、子どもの動きにつれて「ギッコマンマ」といっ た調子のいいたとえを称えて間拍子をとったりする言葉を指している。 母親が意識したとしても、この種の耳言葉と呼んでいるものは、 本質的には母と子の内コミュニケーションに属するもので、 その意昧では柳田国男が設定した時期よりも ずっと乳児に近いところで想定されたもの、 大洋のイメージの波のうえに 母親が意識的に外力によってつくりだした波動のようにみなされる。 この大洋的な心の動きと感覚の動きとが織り出す イメージの世界には、言語がつくられるために、 このイメージに対応できるような「概念」の凝集された 天抹線が生れてこなくてはならない。 これを母親と乳児との関わりのところで 小鳥を例にいえば、 乳児が大洋のイメージのなかの小鳥と、空をとぶ実在の小鳥と、紙のうえに描かれた小鳥とを、 おなじ小烏の「概念」として同定できるようにならなくてはならない。 だが母親の乳房をなめまわし、触れたり、嗅いだり、昧わったりした 感受性と感覚の胚芽ともいうべきものの体験は、 つぎの段階ではこの「概念」の同定を容易にするにちがいない。 第一段階の「アワワ」音声の水準も 第二段階の擬音や前意昧的な音声の段階も、 この第三の段階にきて 言語としての意昧形成にむかうことになるが、 それと同時に大洋のイメージの世界は、その特色のうち、とても重要とおもわれる波動を失ってゆくことになる。 Top リンク Page1of1 [ 10 posts ] 1 新しい記事有り 新しい記事無し 重要トピック 新しい記事有り(人気) 新しい記事無し(人気) 告知トピック 新しい記事有り(ロック) 新しい記事無し(ロック) 新規投稿 不可 返信 不可 自分の記事の編集 不可 自分の記事の削除 不可 投票への参加 不可 Powered by SuwaBB as @BB like phpBB ©2013 atfreaks
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#blognavi 泰語(タイ語)の母音 1. 單母音 同じ發音《はつおん》でも音節の終りかどうかで綴りが變《かは》る場合がある。(本でもこの説明が不十分な解説が多いやうに思ふのでこのページを書いた) 單語の終りかどうか、といふことでは無いので注意。 長音と短音で分けてゐるが、實際には單語によつて長くなつたり短くなつたりするので注意。 長母音(音節中) 長母音(音節末) 短母音(音節中) 短母音(音節末) 備考 ア(a) กา 同左 กั กะ 日本語のアに近い イ(i) กี 同左 กิ 同左 日本語のイに近い ウ(w) กื กือ กึ 同左 イの口でウ ウ(u) กู 同左 กุ 同左 口を尖らせてウ エ(e) เก 同左 เก็ เกะ 日本語のエに近い エ(ɛ) แก 同左 แก็ แกะ エの口でア オ(o) โก 同左 ก โกะ 口を尖らせてオ オ(ɔ) กอ 同左 ก็อ เกาะ アの口でオ ウ(ə) เกิ เกอ เกอะ 口の奧でアとウとエの中間音 ※ウ(ə)の長母音は、後に ย が續くときは เกย となる。 2. 二重母音、三重母音 2.1. アイ(ai) ไก ใก กัย がある。使ひ分けの法則は謎。 2.2. アウ(au)、イア(ia)、ウア(wa) เกา アウ(au) เกีย イア(ia) เกือ ウア(wa) 何故この綴りこのやうな發音になるかは謎だが、ともかくこの形のまま覺えるべし。きつと歴史的な經緯が有るのだらう。 2.3. ウア(ua) ウア(ua)は音節中は กว 音節末は กัว と綴る。 二重子音と紛はしいが、二重子音の場合は、ควาย のやうに ว に聲調記號や母音が附くので區別《くべつ》できる。一方、ウア(ua)と讀む ว には母音も聲調記號も附かない。 2.3. ย と ว ย と ว の末子音が母音の後に附くと、それぞれイ(i)とウ(u)の發音になる。 短母音を二重母音にし、二重母音を三重母音にする、とも考へられる。 どの母音に附けられるかといふ規則は有るが、音節の最後に來ることがあるといふことだけ覺えておけば十分なのでここでは書かない。筆者が覺えてないだけといふ話も有る。 名前 コメント カテゴリ [泰語] - trackback- 2007年03月05日 21 10 01 #blognavi