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【装備名】 独逸UCAT 【読み方】 どいつゆーしーえーてぃー 【詳細】 独逸にあるUCATの支部で、術式という1st-Gの文字概念を元にした技術に優れている。 魔女達が多く所属しているため、装甲服は魔女の服を模している。 自動人形の開発にも長けており、SfはこのUCATが開発した。 概念戦争時代はジークフリート・ゾーンブルクが護国課顧問を勤め、その後に姪にあたるディアナ・ゾーンブルクを派遣している。 劇中ではジークフリートとディアナ以外の職員は登場しない。
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亀山ゼミ テキスト輪読 J.A.トーマス『近代の再構築』法政大学出版局, 2008 2012/05/21 小松美由紀 第一章 序論――自然にともなう問題 (p5~p47) ○自然とは何か 自然:人の気性、人間性全般、物質性(外の現実の世界)、環境の特質 etc (ウィリアムズの分類:「(ⅰ)あるものの本質的な性質なり性格、(ⅱ)人、世界、あるいは両方を動かす本来的な力、(ⅲ)物質的な世界それ自体で、人を含むとされることあれば、含まないとされることもある」) 「自然」にはたくさんの意味があり、定義づけることはとてもむずかしい。しかし、「恒久的で哲学的な意味ではなく、特定の歴史的瞬間の言葉としてならば、とても正確に自然を定義できる」 → 特定の場面において自然がどのような意味を持つかを理解することは、概念が社会的に構築され、時間の経過とともに変化していく様子を観察する(言語学上の再構築)よりも中身がある。 自然の概念は人間の境遇についてのはっきりした見通しやわれわれの自由の状況を裏切る → 自然は人生をめちゃくちゃにすることもあれば、人間の自由の基盤にもなり得る ○本書のアプローチ:日本政治イデオロギーにおける自然概念 自然は強力な政治的・社会的イデオロギー的概念として必然的に機能する。 → 国家のために自然を定義できる人が、根本のレベルで国家の政体を決定することで、その政体に釣り合った(もしくは不釣合いな)個人の自由が規定される → 国家にとって自然とは、集団および個人の可能性を反映している (ex. 無尽蔵の天然資源、危機に瀕した環境、恒久的な儒教ヒエラルキー、進化し続けるダーウィン的社会) 自然をこのように理解することを前提として、一九世紀初期から二〇世紀初期にかけて交わされた日本の国家イデオロギーに関する主要な論争を再検討 (当時の日本:比較的隔離された半封建社会 → 産業化した帝国) 本書の論点:この重要な時期に、日本の知識層や政治家といった指導者たちが、繰り返し、意識的に自然の概念を再構築していったこと(政治用語における自然は、日本が真の政治形態になるために研究しなければならない対象から現実になったというところに筆者の論点) ⇔多くの識者はこの時期の自然の概念を、日本の伝統の遺物、「連続的思惟」(丸山)と考えていた ⇒ 自然とはそうではなく、「変転するものであり、近代の政治的可能性が模索されるなかで 生まれようとするもの」 本書の課題:幕末から明治・大正期(1912~26)に変化したイデオロギーの度合いと性質を明確にすること(この頃の政治的可能性の基本要因は?歴史的にどのような道をたどれただろうか?日本独特の近代とのかかわりは、世界における近代の動きとどのように共鳴しあっているか?) 難点(p8~12) ○上記アプローチに対する二つの異論 ①「自然」とは「環境」を意味しなければならない(動植物や非動生物界の関係におけるエコロジーの重要性という定義こそ、自然を歴史的に研究する際の論点にすべきだ) 環境保護主義は二〇世紀後に登場した狭い特定の問題を対象にしている ⇔ 数世紀の間、自然はさまざまな専門領域で扱われ、時代に応じて農業、産業、医学、宗教、哲学、政治学、芸術の特別領域だと考えられていた 明治・大正時代の知識人:自然の科学的・生態学的な重要性よりも、社会的な重要性(人間社会の権力関係における規範)の方が大きな問題(足尾銅山の事件や神社の統合によって環境が崩壊しても、生態学的なつながりは自然の中心的な定義にならなかった) 本書のテーマ:日本の政治において、自然という用語がどのような意味を持ってきたか → 今日の自然の定義を用いるのではなく、日本人思想家の自然の用い方が必然性と自由に関する思想を形成していった方法を探りたい → 今日注目を浴びている環境問題を通じて、われわれの将来にとって今、何が必要なのかを再検討することもできる ②「自然」が歴史研究の対象となるには一貫した定義をもたなければならない(概念が揺れ動くのは概念として無効である ← 意味の不変性と概念のカテゴリーの連続性を頑ななまでに重視する姿勢) ⇔「物事の意味づけは不変ではなく、共同体の希望、望み、関心によって変化する」 → 歴史家の任務は現在と過去の共同体の橋わたしをすること。普遍の真理を見つけ出すのではなく、「特定のテーマで、ある時期の、特定の社会において得られる」(バーリン)最も正確な解釈に到達すること ○自然と日本人の関係 自然を愛することはずっと日本人の特質であり続けてきた(日本人が自然に興味を示すのは、いわゆる自然好きだからと称賛して考えられることが多く、農耕が始まる前からの特質であると論じられている) → 日本における環境破壊は「外部の異質な文化や経済の影響の産物」(この立場は①②が組み合わ さっている) ⇒「自然の概念に政治的権威があったことを証明し、日本人の自然への変わらぬ愛情と、それを作り出す歴史的過程といった、一見穏健なステレオタイプの裏側に潜む権力を明らかにする」のが筆者のつとめ 正当化(p13~p30) ○ 近代日本の政治的イデオロギーを研究する上で自然が重要である、三つの理由 ① 政治の理念を主張する文献によく自然の概念化が見受けられるため ② 当該時期の日本における政治的・イデオロギー的な緊張関係を分析するため、適切な 「領域化されていない」用語をみつける必要があるため ③ 近代化と自然との関係を理解し、世界的に近代化が広まったなかで日本(および他の 非西洋国家)を位置づけるため □文献に頻出(p13~p14) (①に関連) 国家建設に関連する江戸、明治、大正期の文献を見ると、自然への言及、そして政治秩序に とって自然が持つ意味に関連する議論であふれている(ex. 新聞、雑誌、書物における公の議論、政党を立ち上げる際の関連文書、経済と宗教に関する政府発表、文部省が編纂した教科書などはすべて自然に言及) ⇔ 当時の研究者たちはそれに気づかなかった(女性、労働、環境といった要素がかつて歴史的重要性をもたなかったように、自然の概念は装飾に過ぎず、学問の対象としてふさわしくなかった) 国家イデオロギーの中枢に関する論争での自然が中心的な役割を果たしていたという認識 :論争の参加者にとっての自然の重要性と、政治を構想する自然の影響を再認識することの 意義を問う第一歩となる。 □政治用語と歴史的叙述(p14~p17) (②に関連) ○ 明治・大正期の政治思想の研究の、3つの主要なアプローチ 「民主主義」「自由主義」:産業化や都市化、通常の経済発展に伴い政治が開放される過程に ついて、近代化の楽観主義を少々もっていることがうかがえる。西洋の進歩を後追いするような筋書きで、日本の経済成長や憲政の話になるのが普通。 → 1930年代・40年代の好戦的な軍国主義の台頭を説明できない 「革命」:継続的な階級闘争や不当な権力関係に打ち勝つという独自の筋書きをつくりだす。 明治維新は未完のブルジョワ革命であり、ブルジョワジーが権力を掌握できなかったため、 軍国主義が台頭してしまったと説明できる(マルクス主義理論) → 1925年までに憲法、政党ができ、男子普通選挙制度が施行され、中間層を中心とした民主的 産業国家として明治・大正期の日本が発展していったことは、うまく説明できない。 明治・大正期の経験を西洋の用語に訳せないという立場 → 比較研究を排除。日本は明確で、具体的で、特殊な経験を持った国。例外的な国として台頭。 (西洋の文脈で発展してきた用語には普遍主義が潜んでいるという主張と、そのような概念は日本にはそぐわないという国粋主義的な例外主義の主張があり、むずかしい問題となっている) 「自然」:イデオロギー色がなく、文化的特殊性にも敏感な言葉 → 近代化漸進主義の語りやマルクス主義の革命論、日本文化の例外主義とは一線を画した日本の歴史に関して議論できる(日本政治思想史の既存の枠組みを揺さぶることが可能) □近代を意識しない自然(p17~p30) (③に関連) ○丸山眞男の見解 丸山は、江戸初期の政治哲学では、自然と作為という二つの概念が対立関係にあったと指摘 (朱子学は「自然」、荻生徂徠らは「作為」を重用) → 自然を非難。朱子学は封建的階層性で自然を手本として人権侵害を促進したとした (階層的・道徳的・政治的秩序は、正当化するために自然に依存して硬直してしまった) → 一方の徂徠も、自然を完全に断ち切ることができなかったと丸山は考え、失望 ⇒ 丸山の自然対作為という二項対立的な対抗関係は、革命か黙従かという選択肢しかない厳格な「二者択一」式に政治を押し込めてしまった。(自然と作為は交渉し続けると認めること、個人、社会、国家は自然と作為が混じり合って発展しているという考えは忌み嫌われた) 長年、日本が自然の政治的権威に依存していることを強く非難。そのような政治体制では 自律した政治主体が確立、個人が確立されなければ国家権力に疑念を持つことはないと主張 → 日本政治は自然に言及して自らを正当化 → 自然=反近代、伝統的、反自由 ○近代=脱自然という図式 20世紀初期~中期の大部分の近代左翼・リベラル理論家は、政治思想において自然を重視することに懐疑的(ウェーバーら:伝統の脱自然化が内省的な近代合理主義を発展させる重要要素) → 19世紀型近代:自然は、特定の主体性、完全な自由、意味のある歴史のために抑制された 近代を批判する人は、この主体性の脱自然化を酷評。それが解放を意味するという主張に疑問を呈してきた。(「理性が自然を征服する一方で、人間は自然から解放され、純粋理性の世界に入っていった。しかし、その理性も皮肉なことに、結局自然と同じくらい恐るべきものになる。」) → アドルノら:自然の完全な従属と生活のあらゆる面を支配する全体主義権力を結びつけた ⇔ 彼らは近代を擁護する人々と同様に、自然を超越するものとして近代を定義 ○近代自然主義 トゥールミン、ルフェーブル:自己実現の主体は、歴史的台頭における自然にも、内部構造における自然にもかかわった(自然の概念が、近代社会や個人の構成要素にさえなっていると主張) トゥールミン曰く、合理的な近代の主体は決して反自然ではなく、普遍性と秩序を反映させるため、独特の自然形態に依存していた(合理主義者の世界の背景:疲弊したヨーロッパには何らかの秩序が必要であり、自然界を超える合理的個人だけではなく、合理的な自然界も見つけようとした。政治、科学、哲学が協力して「新たなコスモポリス」を創造しようとした) ルフェーブル:自然の「二重の限定」 → 近代の主体は自然をうまく抑圧できず、繰り返し、主体そのものの中に自然を発見することになる。自然から離れたと思っても、再度自然が近代の主体の中核に現れるのである。 ○自然の回復と近代の再構築 当初、自然化した政治は近代のアンチテーゼになるだろうと想定 → 自然の特定の形態が近代を構成すると納得すれば、もはや自然は反近代、過去、抑圧、東洋と同義語ではなくなる。反意語というよりむしろ多面な言葉。(政治的自由が制限されたのは、コスモポリスの結びつきがとても固く、政治が自由になる余地がなかったから?) 自然は、人間の共同体より前から存在し、政治的主体を分裂させて二つの意識(自然で文化的、生まれつきであると同時に創造されたもの)を生む要素である。(政治的主体は自らが、こうした二重性に苛まれるとは考えない)また、人間の共同体の外側に存在し、全国的ではなく局地的な現象と理解される。(自然の政治的価値は地域が限られる) 近代の中に自然があると納得すると、その先には近代という地球規模の体験に、日本を含めた非西洋を完全に取り込む知的枠組みがある。(近代を理解するために自然を回復させれば、従来の分析枠組みの範疇を広げるだけではなく、枠組みそのものを変えてしまう。) → 近代に到達するために自然を征服したり、克服したり、背後に押しやったりする必要がなく、一連の対立軸(「東洋」、伝統、自然vs「西洋」、近代、自由)は解消する。「西洋が」近代を構築したという限定的な考え方に立ち向かえるし、西洋思想の引き立て役、理想的な何かである「東洋」という比喩を超えることができる。 近代とは、左翼から右翼までの幅広い、いくつもの結果を出す可能性をもった特定の歴史的体験と定義されるべき → 世界中で異なる近代の形をひとつにするのは、古い「コスモポリス」の崩壊(自然と社会の根本的な関係の崩壊という共通の体験)であり、コスモポリスの意識的な再構築である → 日本の近代は「ありとあらゆる問題を抱え、真の近代であった」 近代の構築において、個人の意識を最も重視する必要はない。(ブルーメンベルクや丸山らは意識を重視)国家と人種に関する概念は、近代の創造において個人に関する概念とともに発展、両者とも近代的。(時として、このような集団性が最終的に個別性と両立し続けていたし、そう望まれていた) 日本における自然をめぐる政治史の概要(p30~p31) 日本政治史における自然の特殊な歴史はばらばらで複雑。自然は寡頭政治が自己正当化する道具にもなったし、中央集権国家を批判する論拠にもなった。 ○本書における政治史の概要 徳川時代:社会形態が外界に規定されるモデルに合ってさえいれば、自然体系の動きのない 階層的な思考様式が普遍的な社会の調和をもたらすと広く考えられていた 1870年代までに:自然はいたるところで変化し続け、社会ダーウィニズムのいう 進化した将来へと追いやられた 1930年代までに:国家主義化した自然へと完全に移行。個人の人間性を前提とした 近代が花開く可能性は閉ざされてしまった。 近代化した日本で優勢な自然の政治イメージ:場所、時間、国家としての自然 日本の自然観の歴史的な変わりやすさを検討し、その時代における支配的イデオロギー、およびそれにとってかわろうとする思想の枠組みの中で、今こそ日本が近代と対峙した特定の場面の政治を正確に描く時である。
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【作品名】BAROQUE~欠落のパラダイム~ 【ジャンル】漫画 【世界観】BAROQUEの世界観は2032年5月14日に大災害によって 文明が崩壊した後の世界なので現実相応で単一宇宙 【名前】コリエル12号 【属性】神・世界と融合した人間 【大きさ】概念なし(化身としての姿は成人男性並) 【攻撃力】概念なし 【防御力】概念なし 【素早さ】概念なし 【特殊能力】世界を自らの望むように出来る 【長所】同上 【短所】多重神格者 【戦法】世界を望むように作り出せる 【備考】神と融合する際、一人になってしまうのは寂しいと言う理由で完全な融合を行わず多重神格者となってしまった。 その為、コリエル12号の中にはコリエル13号(ショタ兄)、創造維持神(全裸女神)、アリス(ボクっ娘)、イライザ(無表情娘)の四人の神格も残っている またそれら別神格はコリエル12号とは別個体の化身となって世界に存在することもできる。 oldは主人公(BAROQUE)参照 vol.112修正 vol.134 https //jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/25630/1620609828/l50 650: 名無しさん :2021/07/10(土) 14 43 09 コリエル12号だけど、攻撃~素早さに関して概念なし、世界を自らの望むように出来る、の詳細が一切ないのでテンプレに記載して欲しい。 vol.109 740 :格無しさん:2015/06/09(火) 18 13 49.21 ID bn0xS6TV 711で書いた指摘をもう一回貼り 3日経過しても意見が出てこないし 何も意見がなければ明日以降にでも 修正待ちや議論中や再考察待ちへ移動 (省略) コリエル12号について指摘 世界観が全く書いていないので「世界」が 宇宙規模を指すのか地球規模を指すのか不明 修正がなく最低値で地球規模とする場合要再考察かと 772 :格無しさん:2015/06/14(日) 00 53 05.72 ID +JT79f+Z 乙 740 コリエル12号について指摘について BAROQUEの世界観は2032年5月14日に大災害によって文明が崩壊した後の世界 主人公は最終的に創造維持神と呼ばれる神と融合して世界そのものになった で、問題の「世界」の規模についてだけど原作内では「世界」が地球上だけか宇宙も含めるのか明言はされてなかった が、前述の大災害=神の暴走で崩壊したのが地上の文明・地形・生物くらいしか描写されていないことや 作中の人物が世界の再創造について語ってる時のイメージ図が地球単体であった事などから「世界」は地球規模のものだと思われる というか作中でコリエル12号が全能を使用して影響を与えたと確認できる描写が地球上の範囲のものしか無いし地球規模で良いんじゃないかな 773 :格無しさん:2015/06/14(日) 02 41 23.65 ID /yibUoG9 描写で地球のものしか影響与えてなくても単一宇宙の世界観で世界そのものって言ったら世界観相応のことでいいと思うが vol.19 89 :格無しさん:2008/08/05(火) 12 48 51 主人公(BAROQUE) 世界内包系として考察 ○○○○○○○坂東~マオ 世界作り変え勝ち ○那智武流 思考発動のこっちの方が早く発動 ×エレコーゼ 100万世界ごと破壊負け ×D アカシア操作負け ○○○○シートン~超田弦 世界作り変え勝ち △ゼウス 同時発動分け ×西山下腕彦 鍛えた人間反応負け ×飛鳥仁 世界ごと時間停止負け ×ヴァーナー 世界丸ごと追放負け ゼウス=主人公(BAROQUE) 90 :格無しさん:2008/08/05(火) 13 56 54 時間停止しただけで勝ちになるん? 690 :格無しさん:2008/08/15(金) 03 44 06 主人公(BAROQUE) 【長所】神・世界と融合したことにより世界を自らの望むように出来る 【短所】ブラコン vol.18 853 :格無しさん:2008/08/02(土) 11 51 44 851 攻撃と防御は「宇宙並み」とでも書けないの? 855 :格無しさん:2008/08/02(土) 11 58 57 853 残念ながら、攻撃する描写が無い というよりも、望むように世界を作り出せる場合、攻撃とか防御とかする必要性が無い 857 :格無しさん:2008/08/02(土) 12 02 59 855 素早さの概念無しとは時間無視の類と考えていい? 858 :格無しさん:2008/08/02(土) 12 10 28 素早さという概念がないから動かないんだろう 859 :格無しさん:2008/08/02(土) 12 12 06 857 というよりも、世界のどこにでも存在できる様になった。 というか、世界そのもの 858 動かないが一番近いと思う 861 :格無しさん:2008/08/02(土) 15 45 25 全能系は作品の世界観で決まるんだっけ? 一応 851は全能でいいよね? 862 :格無しさん:2008/08/02(土) 15 48 20 世界を自らの望むようにできるっていってるから全能でしょ 869 :格無しさん:2008/08/02(土) 17 11 31 862 任意じゃないのか? 870 :格無しさん:2008/08/02(土) 17 12 45 869 動かないだけみたいだから任意だろうな
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伝統と普遍性 ―「時間的普遍性」を手がかりに ― 2011/6/6 亀山研 個人発表 発表者:菊地明暢 伝統と普遍性 ―「時間的普遍性」を手がかりに ―一 「場所的普遍性」と「時間的普遍性」1 「場所的普遍性」 2 「時間的普遍性」 3 「時間的普遍性」=「真理」? 二 時間的普遍性と持続可能性1 持続可能性Sustainabilityとの共通点 2 持続可能性との比較から見える「時間的普遍性」概念の特徴 三 「時間的普遍性」概念における「場所性」の欠如1 「場所place」と「没場所性placelessness」 2 「場所的普遍性」と「没場所性」 3 「場所性」をふまえた時間的普遍性 四 「伝統」と時間的普遍性1 「伝統」とは何か 2 “伝統を守る”ことの意義 五 まとめ○感想・論点 ○参考文献 内山節がいうところの「時間的普遍性」という概念がある。この「時間的普遍性」とはどのようなもので、他の類似の概念とどの部分が共通していて、どのように違うのかを比較し、その意義を検討したい。さらに、「時間的普遍性」を考えるとき、「伝統」というものをどのように捉え、位置づけるべきなのかを考えたい。 一 「場所的普遍性」と「時間的普遍性」 1 「場所的普遍性」 内山節(1989)によれば、普遍性には「場所的普遍性」と「時間的普遍性」の二つの意味があるという。 「場所的普遍性」とは、“場所を超えて普遍的なもの”、“ある時点で、全地球的、全世界的に通用するもの”という意味での普遍性である。普段私たちが普遍性という言葉を使う場合、この「場所的普遍性」の意味で使っている。 近代の資本主義経済における産業構造は、この「場所的普遍性」の論理を体現しているという。たとえば工場の設備は、目的が同じであれば、世界中のどの地域に建設されたものであっても自然環境に関係なく同じものが作られる。自然を手段とみなす近代主義によって、むしろ自然環境の影響を極力排除することが望ましいとされる。 2 「時間的普遍性」 それに対して、“時間を超えて普遍的なもの”、“いつの時代でも通用するもの”という意味での普遍性を「時間的普遍性」とよぶ。近代においては、時間的には変化し発達していくことが正常である(いわゆる“発達史観”)という感覚が生まれ、この「時間的普遍性」は「場所的普遍性」に比べて重視されなくなってくるという。 近代以降生まれたもので唯一「時間的普遍性」を持つと考えられるのが自然科学であるが、自然科学においても新しい理論によって古い理論が更新されたりする場合も多い。そのため、[自然科学が発見した「真理」は、時間的普遍性をもっているとも言えるし、そのすべてがもっていたわけではない]とも言え、[むしろ「自然科学も発展している」というほうが、いまの私たちの感覚にはあう]。 また、労働には「時間普遍性」をもった労働とそうでない労働があるという。「時間普遍性」をもった労働というのは、一言で言えば、商品や貨幣の論理に縛られず使用価値を生み出すことのできる労働であり、自然と人間が交通の主体となる労働である。このような「自然と人間の関係」が「時間的普遍性」をもっている。 あるいは、宗教は「時間的普遍性」が中心にあって生まれている、という。内山が日本の自然信仰について言及している場面でその真意が汲めるだろう。(内山,2010) 日本にはもともと自然(ジネン)という考え方があったが、日本の自然信仰が仏教から権現思想を取り込んだとき、このジネンに[永遠の真理をみ]て、すべて自然(シゼン)はその権現だという思想に至ったという。さまざまな姿かたちをとって人々の前に現れる神仏も、その本体はすべてジネンであるという。 3 「時間的普遍性」=「真理」? 以上のことから、内山のいう「時間的普遍性」をもつものとは詰まるところ、時代が変わっても変わることのない「真理」をもつものという意味なのではないか、と私は考える。内山は「普遍性」と「不変性」を一部区別していないようにみえるが、「時間的普遍性」が「真理」を示すと考えれば不自然ではない。「真理」は「普遍的」であり「不変的」であるから。 このように書くと途端に胡散臭くなるが、私自身そのような「真理」を求めることにあまり意味があるとは思えない。しかしなお、「時間的普遍性」という概念からは得るものがあるのではないかとも思う。内山の言う「真理」についてはひとまず置いておき、もう少し「時間的普遍性」について私なりに検討したい。 二 時間的普遍性と持続可能性 1 持続可能性Sustainabilityとの共通点 持続可能性とは、人間生活が将来にわたって持続できることを目標として、自然の保護・保全その他の人間活動を行おうという理念である。多くはSustainable Development(SD:持続可能な開発・発展)との関連で用いられる。SD概念は開発と自然保護を両立させるねらいを持ち、先進国と発展途上国、環境保護団体等の立場を調整するものとして注目されている。 持続可能性と時間的普遍性は、ふたつの点で共通している。第一に、どちらの概念も現在からみて“将来”を問題にしていることである。持続可能性概念は、(主に自然保護の場面において)“将来”を見据えて“現在”の状況を考えて対応を判断する。また時間的普遍性も、通時代的な普遍性を“現在の立場から”考え、“将来にわたって”普遍的なものを考える概念であるといえるだろう。これらはどちらも長期的な視野を持って現在のあり方を考えるための概念である。 第二に、二つの概念は共に全地球的・全世界的な“時間”について全世界的な視野をもって論じられ、ローカルで地域的な“時間”については(ほとんど)考慮していない点において共通している。それは言い換えれば、どちらもE.レルフ(1999)の言う「没場所性」を持っている、ということかもしれない。この点に関しては後述する。 2 持続可能性との比較から見える「時間的普遍性」概念の特徴 では持続可能性にはない時間的普遍性に特異な視点とは何であろうか。それはおそらく二点あり、ひとつは“発展史観への疑問提起”であり、次に“歴史性”の視点ではないかと思う。 前者は特にSD概念において顕著に見られるが、これは産業の発展はもとより、人間自身も常に“発展・向上”する(べき)ものとして前提されている。だが、社会も人間も、はたして常に“発展”しつづけることが正常なことだと言えるのだろうか。そもそも社会や人間にとって“発展”とは何を指すのか。これに対して、時間的普遍性という概念においては“発展”に特別価値を見出していない。 また後者について、これは偏見かもしれないが、持続可能性あるいはSDが語られるとき、多くは持続可能な土地利用や再生可能エネルギーについて論じられるが、そこに“歴史性”への配慮はあまり感じられない。 時間的普遍性が“いつの時代でも通用するもの”を考えるときには、過去から繋がってきた“歴史性”を持つものとしての“現在”、そこから連なる“未来”を想定しているように思う。この点に時間的普遍性の特徴があるのではないか。 そして、“歴史性”はおそらく「場所性」と密接に関連している。 三 「時間的普遍性」概念における「場所性」の欠如 1 「場所place」と「没場所性placelessness」 現象学において「場所place」は、抽象的・客観的なものとして科学的に記述される「空間space」と区別される。E.レルフ(1999)によれば、「場所」とは「生きられた空間(実存空間)」であるという。「場所」は[直接に経験された現象]で、[意味やリアルな物体や進行しつつある活動で満たされ]、個人的・社会的に共有された[アイデンティティの重要な源泉]、[人間存在の根源]である。「場所性」に溢れた空間としてはまず自分の「住まいHome」が挙げられる。「住まい」は、自分がそこで起こる様々なことを経験し、そこにある色々なものたちの意味を知っている、自分の「場所」・安心できる安全な拠点としての「場所」である。 それに対して、意味のある「場所」をなくした環境、あるいは「場所」の持つ意義を認めない潜在的姿勢のことを「没場所性placelessness」とよぶ。「没場所性」は、多国籍企業や場所にかかわることをしない政府の計画担当者がするように、場所が、[互換性があり相互に置換可能な位置1ocationとして扱われる]ときに顕著に現れる。あるいは、家が単に「住むための機械」と見做される場合や、観光の目的が、ガイドブックにある場所を周ってスタンプを集め写真をとることとされ、その場所に固有の意味や人々の生活を経験することが忘れられる場合などがそうである。 2 「場所的普遍性」と「没場所性」 内山が「場所性」をどの程度意識していたかは定かでないが、彼がはじめに「場所的普遍性」という語を定義する際、それを「空間的」というか「場所的」というか迷った、という。私としては、その意味からして「空間的」といったほうが分かりやすくそのニュアンスも伝わりやすかったのではないかと思う。しかし、内山が最終的に「場所的」を選んだ理由は特に述べられておらず、その真意は不明である。 それは兎も角として、内山の批判する「場所的普遍性」の論理とはすなわち「没場所性」なのではないかと思う。内山が「場所的普遍性」をもつ例としてあげる工場の設備の均質性とはまさに、場所を互換性があり相互に置換可能な位置として扱った結果である。 ならばそれに代わって回復すべき原理として挙げられる「時間的普遍性」においては「場所」の重要性が説かれて然るべきと思うのだが、内山はそのことを明確には全く述べていない。 3 「場所性」をふまえた時間的普遍性 はじめに「時間的普遍性」とは何かを考えたとき、内山が念頭においているのはおそらく「真理」のようなものなのではないか、と述べた。「場所的普遍性」と対置して「時間的普遍性」をいうとき、前者の「没場所性」に対して後者では「場所」を中心に据えるのが自然だと思うが、内山はそのことをはっきり述べていない。そして自然科学の「真理」や宗教の「真理」が「時間的普遍性」をもつ、と述べるときには、そこには逆に「没場所性」が現れてきている、と思う。この意味で、内山の言う「時間的普遍性」は矛盾を抱えているのではないだろうか。 私自身は、時間的普遍性の内実として「真理」のようなものを想定するべきではなく、ある場所における、現在の人間間の共通了解としての概念であるべきではないかと思う。“ある場所である物事が時間的普遍性をもつ”とは以下のような意味であるべきだ。つまり、その物事がその場所での歴史的過程をふまえて現在において承認されており、将来にわたっても意義をもつことであると了解されている、ということである。 例えばある地域における伝統的な農業生産のあり方が時間的普遍性をもつ、というとき、その農業が歴史的に地域の風土や環境との関係の中で調整されてきたものであり、現在その地域で暮らす人々がそのあり方に意義を見出し、かつ将来にわたって続いていくことが望ましいと考えられている、ということが想定される。 四 「伝統」と時間的普遍性 このとき、いわゆる「伝統」、あるいは「伝統的」であることとはどういうことかを考えると、時間的普遍性の意義がより明確にされるように思う。なぜなら前述のように、時間的普遍性概念の特徴として“歴史性”の視点があると考えられ、それはつまり「伝統」をどうみるか、ということでもあるからだ。 1 「伝統」とは何か では「伝統」とは何か。まず、“日本の伝統”とは何かを考えてみる。差当り思い浮かぶのは、能や歌舞伎、寄席、雅楽、茶道、禅といったところだろうか。ほかにも稲作や、棚田などの土地の利用方法や、あるいは所謂“和”の精神や“わび・さび”なども「思想的伝統」といえる。これらは一般的に日本の「伝統」として広く認められていると思う。 だがこれら様々な「伝統」は一律に“日本の伝統”とされながら、その実それぞれに違った歴史的背景がある。例えば歌舞伎や寄席は江戸時代に主に町人の間で広まった娯楽であり、雅楽は天皇家の儀礼における神聖な音楽、茶道や禅は主に武士によって盛んに担われてきた。このように、それぞれは現在の日本国民全体にとって決して関わりの深いものとは言えないにも関わらず、それが“日本の伝統”として違和感なく受け入れられている、という事実にはどのような理由があるのだろう。 私は、ある事象が「伝統的」であるといわれるためには二つの了解が必要だと考える。それは一つに、“その事象が過去の一定の長い期間続いてきて、今も続いている”という了解である。そして次に、“その事象がその場所において他の場所には無い固有の意味を持つ”という了解である。この両方を満たすものが「伝統」であると言われるように思う。 例えば「マクドナルド」はある程度長い歴史を持つが、日本中、いや全世界中どこでも同じ店舗が展開され、ある場所での固有の意味を持たない。このことから「マクドナルド」は“日本の伝統”にはなりえない。あるいは禅が“日本の伝統”であるのは、それが長い歴史を持ち、かつ他の文化圏においては見られない日本に特異な思想体系だと認められているからである。 2 “伝統を守る”ことの意義 ここでひとつ確認しておきたいのは、以上の伝統の意味、“了解”という考え方からは、ただちに“伝統を守らなければいけない”という結論には至らないということである。一般的に伝統は何の迷いもなく守るべきものだとされる傾向があるように思われる。しかし先の二つの了解はあくまで了解(事実の認識)であり、それが良いとか悪いとかいっことは言っていない。よって“良い伝統”もあれば“悪しき伝統”もありうるのである。 では、伝統を守る動機、あるいは守るべき伝統とは一体何であろうか。それは、その伝統が、時間的普遍性を持っているということではないかと思う。つまり、現在なんらかの伝統がある地域で暮らす人々(伝統に関わっている人々)が、その伝統に現在における意義を見出し、かつ将来にわたって続いていくことが望ましいと考える場合に、「伝統」は守られるべきものとなる、といえるのではないか。 ある伝統を守るということは、その伝統をもつ「場所」に配慮することであり、将来の世代のためであり、なにより現在の人々にとってその伝統が意義をもつからであると考える。 五 まとめ 内山の「時間的普遍性」という概念は、私にとって、“発展史観”への疑問の提起と、“歴史性”への視点を持ちうるという点で興味深いものだった。だが内山のいう「時間的普遍性」においては、「場所」への配慮が抜け落ちていたため、結果的に自身の批判する「場所的普遍性」の論理と同じ「没場所性」を孕むという矛盾に陥った。そこで私は、時間的普遍性を考えるならば「場所」への配慮は不可欠であることから、「場所性」を踏まえた時間的普遍性の概念の必要性を述べた。 そして一見何の疑問も持たず“守るべきもの”であるとされる伝統の意義を考え、守るべき伝統とは時間的普遍性を持つ伝統であるとした。 時間的普遍性の意義とは、守るべき伝統を見定めること、といえるのではないだろうか。 ○感想・論点 ある授業で紹介されてから気になっていた、内山の「時間的普遍性」という概念について、自分なりに色々と考えてみました。皆さんの忌憚ないご意見を頂ければ嬉しいです。 論点: ①本文では詳しく言うことのできなかった、発展史観の意義と問題点と、その克服のための思想について ②時間的普遍性について ③伝統の意義について ○参考文献 内山節『自然・労働・共同社会の理論―新しい関係論をめざして―』(農文協・人間選書,1989) 同『共同体の基礎理論 自然と人間の基層から』(農文協・シリーズ 地域の再生2 ,2010) エドワード・レルフ『場所の現象学 没場所性を越えて』(ちくま学芸文庫,1999) 尾関周二・亀山純生・武田一博 編著『環境思想キーワード』(青木書店,2005)
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【妄想属性】夢 【作品名】初夢 【名前】ナスビ 【属性】野菜 【大きさ】【攻撃力】【防御力】【素早さ】ナスビ並。 【長所】自ら自爆したりしない。 【短所】不動。 136 名前:格無しさん 投稿日:2006/09/18(月) 14 56 09 135 なんだか和んだ。 137 名前:格無しさん 投稿日:2006/09/18(月) 15 01 43 ナスビは概念殺しの概念と同じか
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(注:このページを作られた方、著者名入れておいてくださいね。実名である必要はないので。以上、管理人 @kmic67 より) 掛け算順序固定派を支配する無意識の思考構造~その問題点~ 掛け算順序支持派の主張の問題点は「抽象化」という言葉の意味を理解せず,算数・数学に対して過度の負担を押し付けることにある. Q.「抽象化」とは? 『抽象化(ちゅうしょうか)とは、思考における手法のひとつで、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は無視する方法である。 抽象化において無視することについては捨象するという。従って、抽象と捨象は盾の両面といえる』(wikipediaより) ↑要約するとA.「抽象化」=「共通する性質だけ抽出し,他の性質は無視する」ということである. もっとわかりやすく言い直せば,「グループ分け」である. Q.そもそもなぜ「抽象化」するのか? A.その方が扱いやすく汎用性・応用性が高いから たとえば整理されずに物が散らばっている勉強部屋と,上手く整理(=グループ化)されている勉強部屋とでは, どちらの方が勉強しやすいだろうか? と問われれば誰もが納得してくれるはずである. 整理の仕方の例としては,「同じ科目のものでグループ化する」などがすぐに思いつく.これも一種の「抽象化」である. 科目は同じでも,中身は「ノート」もあれば「教科書」もあれば「問題集」もあるだろう.これらはすべて違うものだ. だがその違いを無視して「同じ科目だから一緒にまとめよう」とした方が遥かに効率的に違いない. (あまりいい具体例が思いつかないので,いい具体例が思いついた人は付け足してもらえるとありがたい) それで,算数(・数学)との関係は? A.算数(・数学)は抽象的だからこそ汎用性・応用性が高く実用に耐えうるものとなる 何も私は「むずかしいすうがくのおうようれい」を話したいのではない. (これらの話をするのには日常的な算数レベルの話で十分だから) 算数でまず初めに習うのは「数」だと思うがこれも「抽象化」されてできたものであることに注意してほしい. 現実に存在するといえるのは,「1頭の牛」だったり「1人の先生」であったり,「1羽の鳥」だったりするわけだ. 当然「1頭+1人+1羽」なんて演算は意味を為さないだろう. だが,「牛」や「先生」や「鳥」といった細々とした違いを無視して,その「個数」だけに着目すれば 「1+1+1=3」とちゃんと意味を為すようになる. 小学生が初めに足し算を習ったときに疑問を感じるのは以下のようなことだと思う(多分ね). 問「皿の上にみかん2個とりんご3個をのせました.全部で何個ありますか?」 →答「2+3=5個」 (→疑問:『みかんとりんごって違うものだよね? 何で2+3なんて足していいの?』) これの答えとしては,「個数だけに着目して抽象化したから,2+3=5と計算できるようになる」. つまり小学1年生の算数から,「抽象化」は始まっていたのだ. 足し算に限らず四則演算,話題の「掛け算」ももちろん,こういった意味で「抽象的」なのである. 無数の現実的状況 個数だけに着目して抽象化 単一の抽象概念 {1頭,1人,1羽}→→→→→→→→→→→→→→→ 1 (抽象的な数) このように「抽象化」すると,様々な現実的状況が,単一の概念につぶされるのである. これを経路Ⅰ(「現実」から「抽象概念」への経路)としておく. であるならば,逆の経路Ⅱ(「抽象概念」から「現実」への経路)として,果たして抽象概念に対応する現実的状況は, たった1つに限られるのだろうか?? もちろんそんなことはない.「1」という抽象的な数から,我々は「1頭の牛」を連想することもできるし,「1人の先生」を連想することもできる. 「抽象化」によって多くの現実的状況が1つにまとめられたのであるから, 逆に抽象概念から現実的状況を想起すれば,色々出てくるのは当たり前である. これを,「1つしかない」と無意識に思い込んでいるのが掛け算順序固定派の主張なのである. 3*4という抽象的な演算から何を想起してもそれは全くの自由のはずである. 「なぜ数学だけが役に立つのか」「役に立つ学問は役に立たず、役に立たない学問が役に立つ」
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大和魂(やまと-だましい)は、外国や外国的な事物と比して日本流であると日本人が考える能力・知恵・情緒・品性・精神・もしくはそうした性質そのもの、などを指す用語・概念。 右記に示すとおり、各時代において様々な概念を有し変容しつつ使われてきた。 平安時代中期ごろから「才」「漢才」と対比的に使われはじめ、諸内容を包含するきわめてひろい概念であった。江戸時代中期以降の国学の流れのなかで、「漢意(からごころ)」と対比されることが多くなり、「日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」という観念が付与されていった。明治時代以降、ナショナリズムや民族主義の興隆とともに過剰な意味が付与されるようになり、第二次世界大戦期には軍国主義的な色彩を強く帯び、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われることが主となった。そのため日本の敗戦後は、日本の文化・思想界の主潮流から追いやられている。 沿革 [編集] 大和魂の語の初出は、『源氏物語』の『少女』帖とされている。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあった。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することである。『源氏物語』が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられている。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられていた。 江戸時代中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み大和魂の語は本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比されるようになり、「もののあわれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていった。 江戸後期になると国学者によって、大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されるようになった。 このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなった。 明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていた。 その後、大正・昭和と下るに連れて、日本のナショナリズム・民族主義が強まっていくと、大和魂の語には日本への強い意識が込められるようになった。国家への犠牲的精神とともに他国への排外的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「外来の知識を摂取して、柔軟に応用する」という和魂洋才の精神は薄れていった。戦後は本来的な意味に着目されることも少なくなった。 和歌 [編集] * 敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花(本居宣長) * かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(吉田松陰) * 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂(吉田松陰) * 剣道は 神の教への道なれば 大和心をみがくこの技(高野佐三郎) 関連項目 [編集] * 日本の文化 * 国学 * 洋務運動 参照:ウィキペディア「大和魂」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AD%82 榎本劍修堂 / 劒人倶楽部 埼玉県さいたま市見沼区大谷399 剣道具 通販 / 竹刀 通販
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実体化 概要 実体のないエネルギー・概念を、実体を持った物質に変える能力。 変化後の物質は、元となったエネルギー・概念の性質や抽象的な特性を引き継ぐ、未知の物質となる。 トランサー +... →/ 【打撃】【斬撃】【射撃】【火傷】【凍傷】【電撃】【毒】【物理防御】【精神防御】【物理無効】【成形】【回復】【罠化】【拘束】【隠蔽】【情報収集】【浮遊】【高速移動】【特殊移動】【広範囲】【相互変換】【多重能力】【自律能力】
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登録日:2023/04/25 更新日:2023/07/04 Tue 00 32 07NEW! ▽タグ一覧 狸 プロフィール 身長:17号(約40cm)/ 185cm 体重:8kg / 不定 年齢:生まれながらにして中年 デビューした日:2022年6月24日 誕生日:10月21日 好きなもの:女人Ⅴにおんぶをしてもらうこと 苦手なもの:ホラゲ 民話などを通じて人々の頭に棲みついた、概念としてのタヌキ――即ち「概念狸」を自称している。 地方在住の中年男性(「宿主」と呼ばれる)に憑依中の、現代的な化け狸と見做すのが最も理解しやすい。 普段は表情豊かな信楽焼の姿で活動していて、目をつけた女性Vtuberの配信にしつこく出没したり、自らの配信に招いて根掘り葉掘り質問をしたり、果てはおんぶをせがんだりといった、ある種の妖怪じみた挙動をとることで知られている。 女性Vtuberに対する執着心が一段落した時(「賢者モード」)だけ、コミカルな信楽焼から抜け出して、大柄な侠客風の「真の姿」を現すことができる。この時だけは声色や喋り方も、姿に相応の落ち着いたものとなる。 誰しもが無意識的に思い描くタヌキのイメージ、日本の「概念狸」という存在の復興を、自身の大きな目標として掲げている。 エピソード 配信タイトル コラボ相手一覧 リンク Twitter YouTube