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チャリン―― 厳重に閉ざされた扉の向こう。静寂が支配するその空間に、無常の金属音が響き渡る。 ホールの奥、ステージの中心。そこに座する金の女神像。 その女神像を前にして、一人の男が声を震わせながら蹲った。 「…………どうして…………こんなことが…………」 彼――元生徒会長の彼は、金策尽きた中小企業の社長のように絶望の淵へと追いやられていた。 ニヒルスマートとも言うべき端正なマスクも、今となっては見る影もない。 だがそれも当然である。今ここで起きたことを鑑みれば、誰しもこの生徒会長のように取り乱してしまうのは吝かではないはずだ。 その証拠に、彼の言動を――偽りの仮面に潜む素顔を知る『彼ら』でさえ、どのように対処し良いか分からず立ち尽くし、じっと彼の方向に目線を向けるに留まっていた。 突然の来訪者である俺、漆黒の振袖を身につけた九曜、紋付袴を着込んだ藤原、……そして。 「会長……」 蹲った会長を励ますかの如く、傍に寄った喜緑さんもまた。 皆が皆、どう行動すればよいかわからずオロオロとしながら震える生徒会長に事の次第を判断しようと近づいた――その時。 「誰だ……一体誰だ…………」 指輪――宝石の無い婚約指輪を手にし、会長の震える声は次第に大きくなる。 「俺の……我が家の…………家宝を……宝石を………………盗みやがったのは…………」 そして、遂に―― ――どこのどいつだぁぁぁぁっ!!!!―― 彼の邸宅、大ホール。事件はそこで発生した。 何と言うフィールソーバッド、いや、バッドアクシデントだろうか。とてつもなく嫌な予感がする。 一体、何故こんなことになってしまったのだろうか。何故またややこしい事件に巻き込まれてしまったのだろうか。どうして俺はこうも面倒ごとと相性がいいのだろうかね。 しかし、そんな愚痴を言ったところでどうしようもない。特にここ数年の経験から鑑みるにそれは明らかだ。 必要なのは、この事件を早期に解決して後へと残さないこと。そのためにも、時間を戻して経緯を説明する必要がありそうだ。 というわけで、いつもの得意技であるバックトゥザフューチャー、いや、逆向き瞑想を開始してみる。 あれは、今日の午前中。勉強に飽きた俺が淀んだ空を見て昔の出来事を思い起こしてた後のこと。 二人の少女が俺の家に乱入し、強制的に初詣に行く羽目になったんだった…… ……… …… … インターネットの天気予報とは裏腹にダウナーでメランコリーだった空色は少しずつ明るさを取り戻し、雲の切れ間から今年一番の天照様、つまり初日の出を拝見可能となった元日の朝。 年賀状配達を装ってまんまと家の玄関に侵入した極彩色コンビ――オレンジ色の振袖にクリーム色の巾着を手にした橘と、漆黒の振袖にこれまた漆黒の巾着を手にした九曜の悪たれ二人組――は嬉しそうに、 「行かないとこの振袖、キョンくん着せますよ!」 と、手にした水色の振袖とかんざし付きのウィッグをフリフリちらつかせた。 「いやだぁぁぁぁ!! 誰が着るかぁぁぁ!!!」 あの時のトラウマを鮮明に思い出した俺は絶叫に絶叫を重ねた。 「ああ……なんか本気で嫌がってますねえ……」 「当たり前だぁ!」 やや身じろぎしながら腫れ物に触るかのような表情で言う橘に本気で拒絶の態度を見せた。好き好んで女装する男なんぞ危ない趣味を持っている奴か、或いは職業柄着ている奴しかありえん。 そのどちらでもないノーマルな俺が女装するなどはっきり言って三本の指に入るくらい人生の汚点だ。 「えー」 えー、じゃない! それにな、 「そんな暇があったら勉強に専念させてくれ。そっちの方がよっぽどタメになる!」 「大丈夫なのです!」何故だか自身満々で平たい胸をドンと叩いた。「信じるものは救われるのです! 祈れば大学に合格できるのです! ですからキョンくんもお祈りを捧げましょう! さあ! さあ!」 危ない宗教かお前は……って、強ちそうではないと言い切れないところがとっても橘である。 「佐々木さんと一緒の大学に入学したいと言う信念を見せ付ければ、それは絶対叶うのです。なんたって佐々木さんは神様なのですから!」 遺憾ながら同感である。佐々木と、そしてハルヒの力が混成すれば俺が勉強しなくとも大学に合格できてしまうのは何となく既定事項っぽくも思える。 だが、それに甘えるってのもかっこ悪いぜ。形だけでも二人に猛勉強しているところをアピールしなければ合格もへったくれもあったもんじゃない。 「意外と義理堅いんですね、キョンくんってば」 お前とは違うんだよ。 「さらっと酷いこと言いましたね」 まあな。 「うううう…………なんか悔しいのです。こうなったらあたしにも考えがあります! 九曜さん!」 「――――――――」 呼ばれて出てきてジャジャジャジャーンと言うわけではなくずっとその場にいたのだが、あいも変わらず存在感の無い九曜はいきなり存在感を露にした。 「やっちゃってください!」 橘の命を受け、漆黒のマトリョーシカは俺に向かって手を振り上げた。「一体何をする気だ!?」 「―――こう――――する――」 「!!?」 ……なっ…………体が…………動かない………… 「かな…………しばり………………か………………?」 痺れて動かない舌と唇を必死に動かして言葉を紡いだ。 「ふっふっふっ…………これであなたはあたし達が今することをただじっと見てなければいけませんね……」 勘輔の策略を見破った謙信の如く鋭い目つきをした。「まさか…………無理矢理………………つれて行く……気か…………?」 俺の言葉にしかし口を歪め、奥に見える歯を白く輝かしていた。 「いいえ!」 しかし橘は俺の目論みをを否定し、それ以上の戦慄を植えつけた。 「そんなことよりキョンくんの家にあるおせち料理、全部食べ尽くしてやるのです!」 こらお前ちょっと待てぇ! 俺の言葉も空しく、疾風怒濤の如きダッシュを見せたオレンジ色のソレは、ダイニングに整然と並ぶ正月料理を目の前に燦々と目を輝かせ、そして見つけた重箱の一つに手を伸ばし料理を鷲掴み! 「ムグムグムグ……うん! このられまき、あまくてほいひい! こっひのきんときもあんまいれすう!」 「結局たかりに来ただけかこの大飯喰らいがぁ!」 ゴス、と目の前にあった重箱の隅が橘のドタマにめり込んだ。 「いったーい! 何するんですかぁ!! てかどうして動けるんですか!?」 「九曜に解いてもらったんだっ!」それより! 「何するんですかはこっちのセリフだ! いきなり上がりこんで電波な宗教論を語った挙句人様のうちのおせち料理を平らげるなぁ!」 「あー、いえいえ。お構いなく。ところでお雑煮はまだですか?」 「――――こっちに……ある――――白味噌……――――京都風――――」 「わあ、甘くていい香りがしますぅ! 九曜さん、こっちにも早く早く!」 「――――どうぞ……」 「いっただっきまーす! うーん、おいしい!」 「――――こってりしていて――――――それでいて――さっぱりして――――口の中で――とろけるような…………――――」 「ふう、美味しかったのです。そう言えばデザートはまだですか?」 「もう――ちょっと……――――待って…………今から――――――お汁粉――――――――作る――――――――」 「やったぁ! 期待してますよ、九曜さん!!」 こいつら……本気でたかりに来たのか? それ以上無銭飲食を続けるなら警察に通報しちゃるがな。いやマジで。 「とまあ、腹ごなし……もとい、冗談はここまでにして」 とても冗談とは思えないくらい程がっついた橘は、食事に満足したのかようやく(?)当初の目的を思い出したようで、「そろそろ初詣に行きましょうか」 だから俺もさっき言ったとおりヤダっていっただろうが。 「一年の計は元旦にあり、なのです。初詣は元日の午前中に行くのがスジってものなのです」 決して意味不明なことを言っているとは思わないが、だがどんなに名文句も橘が喋ると全て台無しになってしまう気がするのは俺の気のせいだろうか。それはともかく、 「なるほど、お前の言う事も一理ある」 「じゃあ……」 「だがな、もう済ませてきたんだ」 「……へ?」 「実は今朝方、ハルヒや佐々木達と一緒に行ってきた。だから二度も行く必要は無いだろ」 「ええええー!!!」 何故か橘は驚いた様子で 「そんなぁ! あたし呼ばれてませんよ!」 「そりゃあ、呼ばなかったからな」ハルヒと佐々木が断固として拒否したから仕方あるまい。 「ひっどーい! あたしの人権はどうなるんですか!?」 さあ、その辺はお前を無視した二人に問い質すか、人権擁護団体に訴え出てくれ。正直俺の知ったことじゃない。 「うううう……キョンくんってば最近冷たい……あたしを人間扱いしてないなんて……ひぐっ…………」 ヨヨヨと泣き崩れたように見える振袖姿のツインテール。しかし俺はコレが演技であることはとうに見抜いていた。伊達にこいつとの付き合いも長いわけじゃないぜ。 「くっ……やりますね。あたしの渾身の演技を見破るとは……」 渾身の演技をするつもりならば、先ずは口の周りの汚れをふき取ってからしていただきたい。 「それは後々の課題として組織に提案することにします。……で、キョンくんは初詣に行ったのに、あたしと九曜さんは初詣に行かないなんて我侭、許されると思いますか?」 いや、許されるも何も。 「九曜は初詣に行ったぜ。俺達と一緒に」 「…………へ??」 「だから、俺とか、ハルヒとか、佐々木とか。その他にもいたけど、とにかくお前以外の奴らで初詣に行ってきたんだよ」 「……えー……と……」 口の周りを汚したままの橘は、ギギギと言う効果音を立てて首を九曜の方に曲げた。 「本当、ですか……九曜さん!?」 九曜は橘を凝視した後俺の方を見据え数ナノ単位で首を動かした後、再び橘に目線をロックオン。 「――――本当…………行ってきた――――初詣――――皆と一緒に……――――」 「………………え゛」 鏡開き時の鏡餅宜しくカチンコチンに固まった。 まあ……九曜は別段俺たちに害を成すことは無かったし、ハルヒも佐々木も得に問題なく誘ってたみたいだぞ。気にするなって。その代わりと言っちゃ何だが藤原はいなかった。ほら、お前と同じで。よかったなー。ともかく初詣には一人で行ったら…… 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」 あ、泣き出した。 「ひどいぃぃぃ!! ひどすぎますぅぅぅ!!! みんなであたしをいぢめるぅぅぅ~!!」 ギャン泣きする様は演技でなく、ガチで泣いているようだった。 「そ、そんなに泣くなって! 誘われなかったくらいなんてこと無いだろ!? 俺達だってお前を除け者にしたわけじゃ……あるけど……いやそうじゃなくて……あ、そうだ。藤原はまだ行ってないだろうから二人で行けば……」 「う゛わ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛~ん゛! う゛わ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛~ん゛!」 橘の鳴き声は更にヒートアップした。高周波を醸し出す嗚咽音は俺の家だけならまだしも近隣住民の皆様の平穏なる元日を脅かすのは間違いなかった。 「わ、分かった分かった! 行く! 行ってやる! だから泣くのは止めろ!!」 「本当ですか? やったぁ!」 あれだけ激しく号泣していたツインテールは嘘のようにピタリと泣き止んだ。 「わーい! キョンくんと初詣だぁ! たのしみだなあ!」 もしかして、あの涙も演技だったの? ……マジ!? こうして俺は、本日というか本年二度目の初詣(二度目なら初じゃなくて二詣でとでも言うのか?)に借り出されることなり……そして。 実りの無い事件に巻き込まれる羽目になるのだ。 渋々と言うか橘の姦計に見事引っかかってと言うべきかはさておき、最寄の神社へと向ったのは十時を三十分程過ぎていたことだけは記憶の隅に留めている。何故そんなこと覚えているかって? 単に家を出るとき何となく時計を見たからだ。 俺の自宅から目的の神社までは歩いて三十分くらいのところにあるので、このまま何事もなく移動できれば十一時には到着するだろうし、そこからお祈り等何やかんやしたところで十二時には自宅に戻ってこられるはずだ。 避けるのが無理ならば、一刻も早く事を終わらせるに限る。残り少ない高校生活、いや、受験生生活を有意義に過ごすためには一分足りとも時間を無駄にする事はできないのだから。時間にシビアになるのは仕方ないことだと思うね。 「……キョンくん、さっきから何ブツブツいってるんですか?」 ぴこぴことツインテールを揺らしながら、俺の顔を覗き込むように橘が訪ねてきた。 「どんな願い事をするか考えてたんだ。何せ二度目だからな」とは俺の弁。正直嘘なのだが、本当のことを言っても仕方ない。代わりに「そう言えばお前はどんな願い事をするんだ?」と質問する形で返してやった。 すると橘は…………って、無言かよおい。 「……え? あ?」 一人でブツブツ言うのも良くないが、人の質問に答えないってのもどうかと思うぞ。 「あ……失礼しました。誰かついて来てる気がしたんで……」 「ストーカーかもな」絶対ありえんが、と心の中でだけ付け足しておく。 「ストーカーですか……是非一度経験してみたいですね。記念に」 何の記念だよ、変な奴め。 「ああ、それよりさっきの質問ですけど、そうですねえ……今年もみんなと仲良く遊び回りたいです」 ニカッとはにかんだ彼女の表情がやけに眩しく感じられた。 「お前の願いはハルヒの能力を佐々木に移管することじゃなかったのか?」 「うん、そうですけど」何故か悲しそうな表情で「でも、無碍に実行する必要も無いかなって」 およそ橘らしくない発言をしでかした。頭、大丈夫か? 「大丈夫ですよっ! ノータリンみたいな扱いはしないで下さい!」 ぷくっと頬を膨らませた。冗談だよ、冗談。俺がそう言うと橘は、 「あたしの願いは本気ですよ。確かに『組織』にとっては、涼宮さんの能力が佐々木さんに移行されることに何の懸念もありませんし、あたしの主旨も初志から変わることなくここまで来続けています。でも……」 でも……何だ? 「あたしは佐々木さんの良き理解者であり、パートナーとしてありつづけたいのです。ですから、佐々木さんの望むべくも無いことをむやみやたらに差し迫るのは、組織のためにも、そして佐々木さんのためにも良くないんじゃないかって思い始めてきたんです」 それはそれは。橘にしては良い心がけだ。そうしてくれれば佐々木も大助かりだろうよ。それだけ佐々木のことを気に掛けてくれれば何をすべきなのか普通見えてくるもんだがな…… 「何か言葉に刺があるように感じますが……まあいいです。古泉さん達が主張する、『涼宮さんが望んだことが現実となる』ように、あたし達も『佐々木さんが望んだことが現実となる』ように仕向けなければいけないのです」 で、具体的にはどうするんだ? 「さあ、わかりません」 おいおい、何だそりゃ。 「分からないからこそご神託を聞きに神社でお参りをするんですよ。ねー、九曜さん」 「――――そう――――――」 俺達の後ろを、足音も立てずに歩く九曜が肯定の反応を示した。 「いずれ――分かる――――日が……来る――――」 何時だ、それは? 「その――うち――――」 そうかい。ならその時に備えて構えておくことにするよ。 「それよりも」 俺は目線をチラリと横にずらし、「まずは目先の懸念を払拭することにするか」 「そうですね。先ずは大学合格が重要なのです!」 ……いや、それも重要だが、俺の言いたい事はそうじゃない。遠くに見える違和感を尻目に、横に侍る女性陣にだけ聞こえるようぼそっと喋りかけた。あ 「(お前の言ってたのは本当っぽいな)」 「……ん? 何がですか?」 「(確かに誰かついて来てるようだ)」 「えええええっ!!」 こ、こら! 声を上げるな! 俺の言葉に橘は、 「だってうれしいですもん。本物のストーカーさんに付きまとわれてこそあたしの人生にも箔が作ってもんです!! やったぁ!」 ……だから喜ばないでくれ。 それは俺達の後ろ、道路の路側帯に組み立てられた物置程度の網小屋――所謂ゴミの集積小屋。野生の動物達がゴミを漁るのに苦慮して市が立てた小屋の一つだが……その周りを確かにうろちょろしている人物がいた。 「(どう見ても犬や猫の類ではないぞ……浮浪者か?)」 「なんだ、ストーカーさんじゃないんですか……残念」 まだ言ってるのかお前は。 「まあいいや、とにかくゴミを漁っているかも知れませんし、あたし注意してきます!」 馬鹿! 無視しろ! 構うなそんな変な奴! 「いいえ! 公序良俗に違反する行為をする輩はとっちめなければいけません!」 お前は『公序良俗』なんて四字熟語を使うに値する人間なのか、ゴミ漁りはダメでストーカーはオッケーと言う判断基準はどこからきたのかというツッコミが即座に思い浮かんだが、そんな言葉攻めをしたところででおずおず引き下がる橘京子ではない。 俺の制止を振り切り、カパンパカンと軽快な下駄音を立てて一直線。 「こらーっ! そのこあなたー! 出てきなさーぃ!」 「――――!!?」 響き渡るハスキーボイスに驚き、慌てて小屋の中へと隠れる。それを見るや否や、彼女も一緒になって小屋の中へと駆けて行った。 やれやれとは思いつつ、トタトタと走り出す俺、そして九曜。因みに九曜は橘と同じく下駄を履いているはずなのに足音は全く無かった。さすが長門も舌を巻く別世界の宇宙人である。 「そんなとことに隠れても無駄よっ! 出てきなさい!」 「うおわぁ!」 大量のゴミに埋もれた人物を難なく引っ張り出した。そこにいたのは、 「あ、ポンジーくんじゃないですか」 「うっ……」 そう。この寒い中、燃えるゴミと一体化して姿を眩ましていたのは一風変わったオシャマな未来人、ポンジー藤原だった。驚くこと無かれ。何故か紋付袴姿の正装でご登場だ。 「何してんだ、お前。そんな格好で」 「ふん、別段何をしてても構わないだろう。そんな目で見るんじゃない」 確かに何をしててもお前の勝手だが、そんなところに隠れている時点で周りの人間から奇異な目で見られるだろうし、何事かと声を掛けられるのは仕方の無いことだぞ。 「それに頭の上に魚の骨が乗ってるその姿はいくらなんでもみっともない」 俺が親切にも頭の上にのっかったソレを取ろうとすると、何故かそれを制止した。「これも規定事項だ」 ああそうですかそうですか。じゃあ外すなよ絶対にな! 「言われなくてもそうする!」 『ふんっ!』 と、どうでもいい事で口論となった俺達だが、「まあまあ、いいじゃないですか」という何がいいのかさっぱりわからない橘の宥めによってこの場はそれ以上の惨事は回避された。 「で、何してたんですか? 本当に」 「……いや、その……」 「いいじゃないですか、教えてくださいよ。あたしとポンジーくんの仲じゃないですか」 「ふっ、知りたいのなら教えてやる。えーと、実はな……初詣に……そう、初詣だ。及びそれに係る神への祈祷。そんな古典的風俗を勉強しようと思ってたんだ」 若干言葉を詰らせながらも答えた。俺には決して言わなかったのに橘相手になるとあっさりと口を割りやがったな、こいつ。何だこの差は……と言いたいところだが、橘にお熱なのだから仕方ない。悔しくなんかない。絶対にない。 「文献によると『神社』の『本殿』という建造物に祈祷を捧げることになっているのだが、如何せんその文献には『本殿』の写真が無くてな。記述からソレらしきものに目星をつけて探索を行っていた。そして見つけたのが……」 未だ頭の上に魚の骨をのっけながら、藤原は自信満々に集積小屋を指差した。「この建造物だ」と。 「…………」 思わず沈黙。っていうか何て言えば良いんだよ。 「文献に依ると、それほど大きくもない木造建築物は観音開きとなっており、その中には御神体が祭られているとのこと。然るにこの建造物も同様の造りになっているではないか!」 ええっと……その…… 「だからここでお祈りを捧げようとしていたところなのだ。現地人はこのような格好を正装とし、二礼二拍の後御神体にお祈りを捧げる……ふっ、どうだ。どこからどうみたところで初詣に違いあるまい!」 「そ、そうか……そうだよな……お疲れさん……」 何と答えて良いか分からなかったので、とりあえず労いの言葉をかけることにした。 「んー、そうだったのですか」 対照的に納得したたのか、橘は二房の髪をふわふわ揺らして鷹揚に頷いた。 「初詣に対する心がけ、大したものです。キョンくんとはえらい違いですね」 うるさい。 「でも……それなら何故あたし達の後をついて来たですか?」 「は!?」 「最初は気のせいかと思ってましたが、でもあたし達の後をずっとつけてくる気配がありました。初詣をするのが目的なら、あたし達に付きまとう必要は無いですよね」 「……い、いや……別に付きまとってなど……」 「ならどうしてあたしが追いかけた瞬間、隠れたりしたんですか?」 「うっ……いや! 追いかけてなどいない! たまたまだ神殿に身を委ねたのがそのタイミングだっただけだ!」 「怪しい……」 「怪しすぎる……」 「怪しさ――――大爆発――――」 「そこまで言わなくても!」 いいや、だって余りにも不可解な解答なのだから仕方あるまい。 「怪しいと言えば……そうそう」橘は手の平でポンと音を立てて言葉を紡ぎだした。「古典的風俗を勉強している割に、神仏に対する基本的なことをご存知無いようですね」 「何……だと?」 「例えば御神体。普通御神体って、目のつかない場所に保管されているんです。神様が人目を気にしているとか、人間が神様を見たら目が潰れるとか……諸説色々有りますが、簡単に目の入るところにはいないのです。文献に書かれていませんでしたか?」 「うっ…………いやいや、そんなことは書かれてなかった気がするが……あ、いや!」 何かを思い出したか、 「そのような文献も読んだことはある。だが、古来御神体と言うものは自然そのものであったり、または風光明媚な土地・地形が御神体となるケースもあるはず! 決して依り代となった物質が姿を晦まさなければいけないと言うわけではない!」 「うわ、すっごい! よくご存知ですね!」 「へ……へへ。まあな」 若干照れたように笑う藤原。うん、きしょい。 「でも……それだけご存知なら、ますます怪しい。だってそうでしょ? 本当に神社や御神体についての知識があるなら、こんな場所が神社の本殿なんて言うはずずもないし、それに魚の骨が御神体だなんて言うはずがありません」 「ぐ…………」 「それに関してはどうお答えしますか?」 「いや……だから…………」 「――――彼の…………言う事も…………――――一理――――ある――――骨を…………――奉る……――――――地域も――――――あることは――――…………ある――――――」 「ほ、ほら見ろ! 僕の言う事も強ち嘘じゃないだろうが!?」 なんともまあ、往生儀が悪い奴だ。いくら九曜が代弁してくれたからと言っても、不利なことは間違いない。 「分かりました。ポンジーくん、あなたはその小屋が御神体を祭っている神社、そして頭の上にあるお魚さんの骨がご神体であると。そう信じて疑わないのですね」 「ああ、そうだ」 「ならば……」 藤原の返答に、橘は獲物を捕らえたような野獣のような表情で、 「今すぐそこでお参りをして下さい! お魚さんの骨に向かって二礼二拍して祈祷を上げてください!」 「なっ!!」 「お魚さんにきちんと願い事を言えたならばあなたの仰ることが本当であると信じましょう」 「くっ…………」 とうとう藤原の口が沈黙した。なるほどそうきたか。橘にしては上手い誘導尋問だ。 「さあ、どうしたんですか、お辞儀してください! お手を叩いてください! お魚さんの骨に向かって! ゴミの山に向かって! さあ!」 「……い……いや…………」 「遠慮は要りません! 通りすがりの方達が白い且つ哀れむような目線でポンジーくんを蔑むかもしれませんが気にしないで下さい! あなたはあなたなりの神様がいるんですから!『トラッシュイズゴッド! ボーンイズジャスティス!』と請い願うのです!」 「わ、悪かったぁぁぁぁ!!!! 許してくれぇぇぇぇ!!!!!」 あーあ、とうとう泣かせたか。顔をくしゃくしゃにしてまで懇願させるとは……結構容赦の無いヤツである。 「だって、本当の事言ってくれないんだもん……そう言うの見るといぢめたくなっちゃう。もうっ」 再び頬を丸く膨らませた橘は、結構可愛く……絶対気のせいだ。 観念した藤原はポツポツと事の詳細を語り始めた。 ――神社や初詣について文献を調べたことは本当であり、実際に参拝してみたいと言う気持ちはあった。 もちろん神社が分からない訳でもない。いくらこの時代の地理に疎くても、地図を調べれば『○○神社』ってのが出てくるからな。 だが、懸念事項もある。生まれて初めて、しかも遠い異国で自分のそ知らぬ文化行事を万事上手くこなせるか? もちろん他人と同じような行動をすればいいのだが、ちょっとしたミスで笑いものにされるのはいただけない。こと過去の人間に笑われるなど屈辱の極みである。 行くべきか、行かざるべきか。 神社までの往路をウロチョロして対策を練っていたところ、ふと自分の目の前によく知る人物(俺達のことだ)がいるではないか。思わず隠れてしまい……だがよくよく見ると、女性陣は文献にあった和服の着物を召している。 『まさかあいつらも初詣に行くのではないか? いや、そうに違いない』 これはチャンス。奴らの後を追い、偶然を装って出会ってやる。そしてそれとなく初詣の話へと持っていき、後はあいつらに合わせていればいいだろう。 『ふ、なんて完璧な計画なんだ。最高だ』と自画自賛していたまでは良かったのだが……。 ここで想定外の事件が起こった。やおら方向転換をした橘があれよあれよと言う間にこっちに近づいてきたのだ。 ちょ、待て! 僕の計画じゃ出会うのはもっと先のはずだ! どうやって言い訳するか考えてないんだこっちは! 等と心の中で叫びながら、近くにあった小屋に隠れ―― 「……後は知ってのとおりだ」 少々不機嫌な様子で、藤原は不快感を露にした。 「理由は分かった。だがそれならそうと言ってくれればいいのに」 「ふん」 ったく、本当にツンデレ野郎だな、こいつは。 「なあんだ、それだけですか」残念そうな顔で橘は「もっと大事件を隠しているのだと思ってました。この集積所に遺体を遺棄しにきたとか、とても言えないところから強奪した金銀財宝を隠しにきたとか」 頼むから正月そうそう物騒なことを言わないでくれたまえ。 「しょうがないですね。ともかくあたし達と目的は同じみたいですし、ポンジーくんも初詣行きますか?」 「はい、喜んで!」 今の今までしょぼくれてたくせに、立ち直りも早い奴ではある。っていうかお前、現地の人間と行動するのは嫌だっていってなかったか? 「ふっ、目的のためには多少の羞恥心は目を瞑る必要がある」 お前の羞恥心の基準が分からんわ。見つかるまではまるで俺達を監視するかのようにつけまとい、見つかったら見つかったで一緒に行くと言い出して……ああ! そうか! 「橘、藤原のの本当の目的がわかったぞ」 「へ?」「なっ!?」 「何やかんや言ってるが、要するにこいつは俺たち、というかお前と一緒意に初もう……」 「わー! わー! わー!」 どうした藤原。いきなり奇声を上げて? 「本当、どうしたんですか?」 「あーいや、わー……わー……わーたしのお名前ーなーんだっけ?」 「大丈夫か藤原?」いや俺は分かってからかっているんだが。 対照的に橘は頭にクエスチョンマークを浮かべ、訝しげな顔をしてポンジーを見つめている。そのポンジーはもう面白いくらいにしどろもどろだ。ふふふ、ふっとからかってやる。 「お前の名前は自称藤原じゃないか。橘のことがす」 「とがすー!!」 「ど、どうしたのよポンジーくん!?」 「とがす……とがす…………都ガスでエ○ファーム! コージェネでエコな生活を! 未来人からのお願いです!」 「――――ユニーク――――」 「……あの、一体なにが楽しいんでしょうか……?」 「ちょっとした余興さ」 「くはーっ……くはーっ…………くそ、覚えてやがれ…………」 やだ。絶対忘れる。そう心に留めながら恨みがましい目を向ける野郎から目をそらた。 「しかし、よくこいつの言い分に突っ込めたな、お前」 「えへん、これでも洞察力には優れているのです。言葉や時制、そして行動の矛盾を読み取り、明朗にそれを指摘する。これこそあたしが最も得意とする技なのです」 全く自覚の無い答えを返しやがった。 俺が言いたいのは、あんな突拍子も無い嘘をしれっと流さずよく突っ込めるなって事なんだが。大体神社の神殿がゴミの小屋なんて言う奴は280%くらい妄言を吐いているとしか思えないぞ普通に考えて。 「その顔。信じてないですね?」 じっと覗き込むように見上げた橘はあからさまに不満の色をにじませた。 「いやだから、信じる信じない以前の問題で……」 「それ以前の問題!? そこまで馬鹿にしますかキョンくんは!?」 ダメだ、聞いちゃいねえ。 「ふふふ……わかりました。ならあたしの明晰な頭脳を披露してやるのです。疑問難問珍問いくらでもかかってきなさい! この名探偵橘京子が全て解いて見せます! おーほっほっほっほっほ……って、あれ? 皆さんどこですか?」 一頻り高笑いをする橘からそっと距離をとり、重たくなった頭を左手でぐっと支えながら俺は二回目の初詣でお願いすることを決定した。 願わくば、今年はあいつとの関わりを尽く断ってください、と。 とまあ、サプライズゲストと言えば聞こえが良いかもしれないが実質ただの腰巾着、橘のパシリとも言うべき藤原も仲間に入れた俺たち一行は再び歩みを始め――そして、彼と出会うことになる。 男女二組、ダブルデート状態になった俺達は他愛も無い話を繰り返し、程なく神社に辿り着いた。社の領地内は時期が時期だけあってかなりの人で覆い尽くされていたが、それでも身動きできないほど込んでいるわけでもない。 所詮は田舎の一神社。こんなものであろう。 というわけでサクサクっと事を終わらせよう。参道の脇に立ち並ぶ屋台を尽く無視し(途中橘が何回か立ち止まったが無理矢理引っ張ってきた)、祝詞をあげる神主さんも華麗にスルーし(こっちは藤原が興味心身だったが以下同文)、そして祭壇へと並んだ。 カランコロンと鈴を鳴らし、パンパンと手を叩いてお辞儀。藤原が前もって調べたらしい二礼二拍をしたのち手を合わせてお参りする。橘、藤原、九曜もまた同じ行動を繰り返した。 藤原がやたらと人目を気にしていたことと、探偵気取りで他の参拝者の願い事を推理し始めた橘を除けば特に問題なくお参りは終了し、これで晴れて自由の身になったわけである。 「やれやれ。それじゃあ俺は帰るぞ。後は任せた」 時刻は十一時半。ほぼ俺の予定通りの時間である。今から帰って勉強すれば何とか遅れを取り戻せるだろう。 「えー!」しかしと言うかやはりと言うか、空気の読めないこいつがあからさまに不満の色を醸し出した。「せっかくのお正月なんですし、もうちょっと遊びましょうよ! 探偵ごっことか!」 せっかくの正月に探偵ごっこをしなければいけない理由は一体なんだろうか。そこんところ問詰めて見たいがこいつに付き合うとろくな事が無いので、 「だから何度も言ってるが、俺は受験生なんだ。それに遊ぶなら藤原がいるじゃないか。探偵ごっこするには打ってつけだ。頼んだぞ」 「お……おう! 任せとけ! 犯人役でも被害者役でも何でも演じきってみせる!」 着物の上から胸をドンと叩いた。しかもなんだか嬉しそうである。 「と言うことだ。頑張ってくれ」 「でもお……」 どうした。不満でもあるのか? 「ポンジーくんって、一生懸命なのはいいんですが……なんて言うか、必死過ぎてちょっと引いちゃいます」 「がーん!!」 ……あ、ポンジーが硬直した。 「いくら遊びとは言え、長いことやってるとこっちが疲れるのよねえ」 「ががーん!!」 今度は白い砂と化した。 「あたしはもっとクールで冷静沈着な人を抜擢したいな、と思いまして」 「ががががーん!!!」 そして崩れて木枯らしに吹かれ舞い散り……いくらなんでも藤原がかわいそうである。 なあ橘、人の振り見て我が振りなおせ、って諺知ってるか? 「ああ……どこかにいないですかね、クールでヒールな役がピッタリな王子様♪ 実はさっきお願いしたのです。今年こそきっと白馬に乗った王子様があたしをお迎えに来てくれると!」 はいはい、それはよかったね。きっと直ぐに来るぜ。白馬に乗った王子様がな。お前を迎えに来てそのままさらって行って二度と俺の目の前に現れないで欲しい。 ――なんて、心にも無いことを言った俺は自分を呪った。 まさかこの後すぐにそんな人が現れるなんて思っても見なかったからだ。 「きっと、あっちの方向くらいから!」 橘が参道の向こう――俺達がやってきた道を指差した、まさにその時。 ――ドドドド ドドドド ドドドド―― 胸を突くような重低音が俺達……いや、周りにいる全員の心臓に響き渡った。車かバイクの排気音だと思うが……ビートを刻むような胸の高鳴りはどういうことか。大きい音量は胸が苦しいどころか、むしろ心地よくも聞こえてくる。不思議な音だ。 一体どんな車なんだろうね。 「あたしが推理してみましょう」 再び探偵気取りになった橘がしたり顔で言い放った。 「ふむふむ……独特の不協和音……それが奏でるエクゾースト、排気干渉――――これは水平対向エンジン! ポル○ェかス○ルね!」 ビシッ! と俺に向かって指差した。 「――違う――――――この音は――――空冷Vツイン…………――――ハ○レ○――――ダ○ッド○ン――――――」 ……だ、そうだ。 「あ、あたしだってたまには間違えます。恥ずかしくないですもん!」 の割に顔は真っ赤だ。 やがてそのVツインとやらの音はこちらに近づき、そして音を出しているものの正体……かなり大型のバイク――鈍く光る黒のボディと鮮やかに光るメタル部分がコントラストとなってより存在感アピールしている――が、俺達の目の前現れた。 九割以上が歩行しているこの参道でバイクはただの一台。季節柄というのもあるが、その個体とも相まって注目度抜群。殆どの歩行者はその威圧感からか、恐れおののくように道を譲っている。 俺達も例に洩れず、同じく道を空ける……が。 こともあろうにバイクは俺達の目の前で停止した。 「え? え?」 「――――――」 意味が分からず思わず言葉を失った。 ライダーは恐らく男性。恐らくと言うのは他でもない。身を包んだ革製のジャケットとパンツ、そしてスモークシールドに覆われた全体から性別を認識するのは困難だからだ。 しかし、古泉に迫る長身とスタイルの良さから男性であることはほぼ間違いないだろう。 そのライダーは俺達を一瞥し、納得した様子でジェットヘルメットを脱ぎ、 「よう、久しぶりだな」 排気音が鼓動する中に、彼の渋い声が響き渡った。 「もしかして……会長!? 生徒会長さんか?」 「ああ。今では『元』と言う方が正しいが……そんな細かいことはどうでもいい。そう、私だ」 生徒会長……元生徒会長は、胸ポケットに入れてあったタバコを取り出し、ライターで火をつけた。まるで自分の言動を思い出させるかのように。 ああ、思い出したぜ。彼が学校を卒業してもう一年近くなるんだから仕方ないだろう。 「(ちょっとちょっと、あの人誰なんですか?)」 くいくいと俺の袖を引っ張り、初顔合わせの力士みたいに顔を強張らせた橘に、 「去年卒業した、俺達の学校の生徒会長だ」 「元、だ。今は違う。と言うかもう金輪際やる気は無いぜ。あんな面倒な仕事はヨ」 ぷうと吹かした煙が木枯らしによって吹き散らされた。 「古泉に唆されて生徒会長になったのはいいが、あの女のせいでかなり振り回されたからな。お前は知らないかもしれないが、古泉からの注文はかなりウザかったんだからな。……ふっ、でもまあ」 ここで更に一息。 「おかげで首尾よく進学できたわけだ」 そう。確かにこの人は古泉……正確に言うと『機関』の助力もあって、都心にある某有名大学に進学したんだった。「一年間、『機関』の言うことを聞いてくれた褒美です」と、去年の春に古泉から聞かされた覚えがある。 全く、『機関』というのはどこまでパイプを巡らせているんだろうかね。 余談だが、この話を聞いた時に俺の大学受験の時も頼むってお願いしたんだが見事に断られた。曰く『彼の在籍している大学はともかく、あなたが受験する大学はそこまでの関係を持っていないので』らしい。本当かどうかはしらないが。 「それで、今日はどうしたんですか? 実家で初詣をしに来たんですか?」 「いいや、送迎しに来ただけだ」 「送迎?」と俺。「ああ。そこに――」 その時ようやく気付いた。会長のバイクのセカンドシートに、誰かが乗っていることを。 会長よりも一回り小さいその人は、居住まいを正し、被っていた大き目のフルフェイスヘルメットを脱ぐ。ふさぁ、と緩やかなウェイブが肩の下まで垂れ――って、まさか 「明けましておめでとうございます」 「き、喜緑さん!?」 ワンピースにレギンス、そしてパンプスと言うおよそ普段着のせいか、ゴツイ装備の会長に目が行っていた俺はその存在をすっかり見落としていたが、優しい微笑みを見せる彼女は、俺が思わず言葉を漏らしたその人に間違いなかった。 「どうしたんですか、一体?」 同じような質問を繰り返す俺に、彼女は暖かい瞳をこちらに向けて微笑んだ。 「こちらでアルバイトをしておりまして」 「アルバイト? どんな?」と聞き返そうとした瞬間、 「(ちょっとちょっと、こっちの人は誰ですか!?)」 ええい、黙れ橘。今はお前に構ってる時間はないっ! 「(…………)」 よし、黙ったな。 「……すみません、続きを」 「あ、はい。そこの社務所で他の神官や巫女のお手伝いをしております」 「助謹巫女ってやつだ」 助謹巫女……つまり年末年始や祭りの際など、忙しい時に手助けする臨時雇いの巫女さんである。 巫女さん姿の喜緑さんか……朝比奈さんの巫女姿も秀麗だったが、それに劣らぬ見事なものだろうな。 「会長も、結構好きですなあ」 「ふっ……何のことだ?」 若干ニヤケながらも否定するところがとても彼らしかった。 「昼から夕方までの約束で働くことになっているんだ。大学生たるもの、勤労に対する理解も必要になってくるからな」とは会長の弁だ。だけど高校生の時から働いていた喜緑さんは既に勤労の大変さを知っているのでは…… ……っと、いけねえいけねえ。高校生時代のバイトはオフレコだったな。 「そう言う訳だ。もうすぐ時間なのでこれでお暇させてもらおう。では」 再びヘルメットを被りなおし、アクセルを吹かし、鼓動音を響かせてこの場を立ち去る――と思いきや。 「そうだ、丁度いい」 何かを思い出したようにシールドを開けて喋りだした。 「ここで会ったのも何かの縁だ。これから私の家に来ないかね。年始のパーティに招待しよう」 「パーティ……ですか?」 「ああ。本当は身内だけで行う予定だったんだが、両親が急な用事が入って出席できなくなってな。急遽出席者を募っていたんだ。せっかくの各国の最高級食材ももったいないしな。無論他に用事があるなら強制はしないが……どうだ?」 うーん、せっかくですが、俺は受験ですし、最後の追い込みもしなければいけませんし。残念ですが今回は 「行きます!」 『!!?』 「是非お呼ばれさせていただきます! あ、あたし橘京子っていいます! 宜しく!」 「あ……ああ……よろしく……」 「――――――九曜―――――…………周防――――九曜……――――夜……露――死苦――――――」 「もうっ! 九曜さんたら高級食材が食べられるからって言って舞い上がりすぎですよ!」 「―――失敬……失敬――――」 「はは……はははははは…………」 さすがの会長も額に汗を垂らして苦虫を潰したような顔をしていた。その表情から『人選、間違えたかな?』という雰囲気がありありと出ている。 ここだけの話、正解です。会長。止めるなら今のうちですよ。というか拒否してくださいお願いします。 俺がそう願う中、残った喜緑さんは顔色一つ変えずニコニコと微笑みを続けている。この人もかなりの大物だ。以前の対決はどこ吹く風で三人の様子をにこやかに見守っていた。 ああ、因みにポンジーくんだが、ずっと固まったままだったことは付け加えておかなければなるまい。 『先ずは喜緑くんをバイト先まで送る。それから合流しよう。この先にある店で待ってくれないか? ついでに案内人も呼んでおこう』 会長はそういい残して再びバイクを走らせ、残った俺達は会長の言いつけどおりの場所まで歩き始めた。 「楽しみです! 最高級料理!」 笑顔がこぼれんばかりの橘とは対照的に、俺の気持ちはブルー一色に染まりかけていた。やっと束縛時間が終わったと思ったのに、また面倒なことに巻き込まれた俺のこの気持ち。分かるか? 「まあまあ、最高級食材があるからいいじゃないですか」 こいつの脳みそは喰い気が何よりも優先されるらしい。 「まあそれはそれとして」コホンと咳をついた後、彼女は両手を頬に添え、顔を赤らめて衝撃的な一言を発した。 「それにあの人、かっこいい!」 『なにぃぃぃぃぃぃっ!?』 橘を除く全員の声があたりにこだました。恐ろしいことに九曜もだぜ。 「マジでそう思ってるのか!?」 「――――かなり……想定GUY……――――予想GUY――害害害――――――」 「ほら、クールでヒールっぽくて。さっきあたしが言ったとおりの方です! 彼こそあたしの白馬に乗った王子様なのです!」 白馬じゃなくて黒い単車だったんだが、そこは問題ないのだろうか? 「コブ付きだったのが残念でしたけど、あたしは諦めないのです! 絶対あたしの虜にしてやるのです!」 いや無理だろ普通に考えて。お前と喜緑さんとじゃ人間としての器が違いすぎる。喜緑さんが人間かどうかと言う突っ込みはさておいて俺はそう思う。 そして困ったことに、勘違いしている人物は一人だけではなかった。 「僕も行く! あんないけ好かない野郎に僕の大切な人を上げるわけにはいかない! 奪い返してやる!」 もちろんもう一人の勘違い大王、いつの間にか復活したポンジー藤原。こいつも橘のことになると目先が見えなくなるからな……。 現に今、「大切な人? 誰ですか?」と突っ込まれ、「うあ! き、禁則事項だ!」としどろもどろで言葉を返しているくらいだからな。 「ふふふーん。ポンジーくんにもそう言う人がいたんだ。ふふふふーん……」 いやらしい笑みを浮かべたまま、 「ではあたしが誰なのか、推理してみましょう。と言うかスバリさっき会長さんの後ろに乗っていた女性ですね!」 「いや、その……」 「いやいや、照れなくてもいいから! 全然知らなかったんですけど二人はそんな仲だったんですね! あたし応援しますから!」 「…………」 というわけで、勘違いに勘違いを重ねた一行は会長の指示した場所へと向かうのだった―― 「ここは……ジュエリーショップですね」 会長が示した店は、俺達高校生にはとても縁がなさそうな宝石店だった。それもかなり高級の。 店に入ったわけでもないのに高級と断定した理由は二つある。一つは作りがいかにも高級そうだったから。そしてもう一つは入り口に常時張り付いている警備員。 いくら縁が無くとも、これだけ豪奢で厳重な建物を見れば高級ショップであることは一目瞭然だ。 しかし、一体なんでこんなところに俺達を呼んだのだろうかね。 「あたしの推理によりますと、あたしを一目見て気に入った会長さんがあたしにプレゼントをするため」 「あれ、古泉じゃないか」 「これはこれは。皆さんおそろいで」 「ふん」 「――――――――――」 「に、きっとこう」 「まさか案内人って言うのはお前か?」 「ええ。彼の気まぐれにも困ったものです。何故このような面子をパーティに……失礼。あなたのことを言ったわけではありませんよ」 「分かってる。気にしちゃいないさ」 「――――当然――――」 「あんたに贔屓目をされる筋合いも無いけどな」 「にゅうしてくだ」 「それにしても意外なのは事実です。偏屈で気に入ったものしか家に呼ばない彼がこうも簡単に招待するとは思っていませんでしたから」 「ああ見えて案外いい人なんだろ」 「――――料理――――食べる……――――」 「ああっ! もうっ! 聞いてくださいっ!!」 おいおい、次は藤原のセリフの番だろうが。割込みはいかんぞ。 「割込みも何も、話し始めたのはあたしです! あたしの話を聞いてくださいよっ!」 そうだっけ、古泉……? 「さあ、存じ上げません」 「――――――」 「ほら、三対一」 「うわぁぁぁん! みんなであたしをいぢめるぅぅぅ!!!」 「ぼ、僕はあんたの味方だぞ。いつだって助」「もういいです! どうぞ好き勝手やったらいいじゃないですか! 一人でも平気ですよーだっ!」 「……うう……どうせ僕なんか……いいんだいいんだ……」 「苦労、してんだな」 「お察しします」 「――――良きに……計らえ――――」 誰にも構ってもらえない橘にすら構ってもらえない藤原。彼の背中に漂う哀愁は並半端なものじゃない。 「……す、すまん。みんな」 藤原、俺、古泉、そして九曜。皆が皆お互いの手をガッシリと取り、友情を高めあう。宇宙人未来人超能力者という相反する勢力ながらも微かな友情が芽生え、俺達は―――― 「って! 何なんですかこの流れは!? いい加減にして下さい!」 ……確かに。ちょっと調子に乗りすぎた。いい加減元の流れに戻すことにしよう。 「で、俺達をここに呼んだ理由は何だったんだ?」 「恐らく、見せびらかせたいのでしょう、アレを?」 「アレ?」と橘「何ですか?」 「橘さんには一生縁の無いものですよ」 なるほどそれもそうだな。この店でお世話になるような宝石が購入できるとは思えんし。 「反論できないのが悔しい……」 「ま、それはともかく。僕は会長から賜った言い付けを遵守することに致しましょう。それでは皆さん、中に入りますよ」 古泉に言われるがまま店の中へと促されると、阿吽の呼吸で門を護っていた二人の警備員はスッと道を開き、特に止められることもなく店内へと入り込んだ。 店のショーケースに広がる宝石と豪奢な佇まいはさながら金殿玉楼。宝の御殿である。いくら宝石・装飾品に疎いとはいえ、これだけのものが整然と並んでいるとさすがに身悶えするばかりである。 橘なぞは舐めまわすようにショーケースに張り付いているもんだから警備員に相当睨まれている。気持ちはわかるが若干はしたないのでちょっと距離を取らせて欲しい。 そんな中、古泉は悠々と近くにいた店員と話しを始め、そしてさらに別の店員――見た目からして貫禄のある、店長レベルの店員――と二言三言交わす。 そして、 「お待たせしました。僕についてきてください」 となった。さて移動だ移動。橘、いつもでもガラスに張り付いてるんじゃない。 連れられた先は、店内とは全く異なる一室だった。 部屋の奥、中央の壁には白黒二色で描かれた幾何学的抽象画が飾られており、右壁には煉瓦造りの暖炉がパチパチと音を立てて燃えている。 そして左壁。建物の外壁に面するこちらには全面に遮光カーテンが敷き詰められている。カーテンの向こうは恐らく窓になっているのだろうが、分厚いソレに阻まれて窺い知ることはできなかった。 燦燦と照りつける程日差しが強くなってきた昼時だというのにそれを全く感じさせないくらいだから、その遮光性能は推して知るべしである。この部屋に灯りがついていなければ闇夜の如き漆黒に覆いつくされるんじゃないだろうか。 その灯りだが、完全シャットアウトされた太陽のピンチヒッターとなって部屋を照らし出しているのは、天井高くに設置されたシャンデリアだ。太陽光に遠く及ばない明るさだが、暖色系の光は厳寒の季節に温かみをもたらしている。 ……ん、よく見るとあのシャンデリア、電気ではなく蝋燭っぽいぞ。炎が瞬いているのがなによりの証拠だ。なかなか気合の入った照明である。 部屋の中央に目をやると、豪奢な外装とは異なりテーブルとそれを囲むソファーが数席並んでいるのみ。至ってシンプルなのだが、返って高級感を煽られるのはソファーとテーブルが価値ある逸品なのか、それとも演出なのか。そこまではわからない。 「欧風カブレした貴族が好みそうなところだな」 心の中でそう野次を飛ばして呆然としていると、それを察したのか店長風の店員に「こちらへどうぞ」と促された。 言われるがままソファーに座り、出されたロイヤルミルクティーと高級そうな洋菓子を配り、深深と頭を下げ退席し――。 弦が切れたハープのように一気にまくし立てた。 「何だ、ここは」 楽しそうに目を細めた古泉はカップを手にとって一言。 「VIPルームです」 「ひっぷるーむ? はんれすかほれ?」 お茶請けに出された高級菓子を喰らいつきながら訪ねるは……説明する必要は無いな。 「そのままの意味ですよ。重要なお客様を接待するために儲けられた特別室です。こう言った高級店には店の品揃えやサービスに関わらず存在するものですよ。 ああ……そう言えば聞いたことがあるな。 「最も、」と手を上げて制止した古泉は「僕はその重要なお客様の一使用人に過ぎませんが」 会長のパシリってわけだな。 「ええ。そのとおりです」 あっけらかんと言い放った。まあこいつに口で勝とうとは思ってないが……。 「で、あの会長さんはそんな高い宝石を買ったと言うわけか?」 「いえ、購入したわけではありません。ですが、それに近しい依頼をこの店にしたことは事実です」 で、何なんだその依頼とは。 「そうですね……」 カップを皿の上に置き、すくっと立ち上がった古泉は俺達が入ってきたドアの前まで来て、 「直接お聞きになってみたら如何ですか?」 ノブを開いてドアを開けた。すると―― 「くくくっ、そうだな。俺から話すことにするさ」 ダテ眼鏡を外し、ペン回しの如く回しながら長身の男性は喉を震わせていた。もちろんこの店に来るよう指示した会長である。 「お迎えの方はお済みですか。しかしあなたのことだから心配でずっと神社に張り付いていると思いましたが」 「バイトの邪魔になっては元も子もなかろう。終わる頃にはまた戻るさ。それよりもパーティのセッティングが先決だ」 「彼女が気にならないのですか?」 「アレはそんなにヤワな女じゃない」 「それもそうですね」 二人して同時に喉を鳴らした。 ったく、何が面白いんだか。お楽しみのところ悪いが、話の骨を折らないでくれ。 「失敬。俺が依頼した宝石についてだったな。実はな、」 ズカズカとまるで自分に家のように歩いてきた会長は、誰も座っていないソファーの肘掛に腰掛け、胸元のポケットから何やらゴソゴソと取り出した。 「これを磨いてもらってたんだ」 指で弾いたソレは放物線を描きながらテーブルの上、丁度橘の目の間に落ちた。 「これは……宝石ですよね。うわ、凄く大きい……」 爽やかな草原の如く美しい翠色を呈したその宝石は、シャンデリアの光にも負けず劣らず燦々と輝いていた。大きさもかなりのもので、綺麗に光らせるためのブリリアントカットも施されている。相当高価なものに違いない。誰の目から見てもそれは明白だった。 ただ……何かひっかかる。 「こ、これ……もらっちゃってもいいですか!?」 「ああ、構わない。俺からのささやかなプレゼントさ、お嬢さん」 ニヒルな会長の笑みがくくくと釣りあがった。 「ありがとうございますっ! やったぁ! これであたしも大金持ちです!」 「くくくっ、喜んで貰えて幸いだよ」 舞い上がる橘の姿をみて、会長はその笑みをさらに歪めた。 ……なるほどね。何となく分かった。 「橘」 「ん、何でしょうか? この宝石ならあげませんよ」 「いらんわ」と俺。何故なら会長の企みが分かったからだ。その企みとは恐らく……こういうことだ。 「その宝石はイミテーション。偽者だ」 「へ……ええっ!?」 「どう考えてもおかしいだろ。ポケットの中から出した宝石を放り投げて、しかも他人にいとも簡単に上げるようなものが本物のわけがない」 「そ、そんなあ……しゅん」 本気で落ち込んだ。てか気付けよそれくらい。 「さすがです。よく気がつきましたね。いや、橘さんがちょっとアレなだけかもしれませんが……」 「攻めるな古泉。確かに扱いはぞんざいだが、イミテーションにしてはよく出来てるんだ。素人目なら見間違える事もあろう」 諭した後、橘が抱えていた宝石――偽者の宝石を指差して、 「お前の言うとおり、それは偽者。本物が磨きあがるまで家に飾っていた代用品さ。よく出来てるだろ? 因みに本物はこっちだ」 パチンと指を鳴すと、控えていた店員さんは重厚なジュラルミンケースから中身を取り出した。中にあるのは、更に小柄なケース。 会長はその小柄なケースを手にとり、開錠した後カパッと蓋を開け―― 中から出てきたのは、イミテーションそっくりの宝石。形も大きさも、そして輝きも全く同一。 ただ一つ、決定的な違いを除いて。 「これ……色が違いますよ」 彼女が手にした偽者と会長が手にした本物を見比べて、その決定的な違いを口にした。確かに、イミテーションが青みがかかったグリーンなのに対し、本物の宝石は真っ赤に燃えるような紅色。 さながら、エメラルドとルビーといったところか。いや、構造が同じならばサファイアとルビーを言った方がいいかもしれない。 ともかく、いくら形や大きさが同じでもこれではイミテーションの意味を成さない。贋作を作ろうとしたのなら明らかに失敗である。 「ふっ、今度は引っかかったな」 さも嬉しそうに、狡猾な笑い声を上げた。「引っかかった?」何を言ってるのかさっぱりわからない。 「確かに、今のままでは分からないだろう。ならこれならどうだ?」 そう言うと会長はドアの反対側、カーテンが並ぶ壁へと近づき、そしておもむろにカーテンを引っ張った。 カーテンの奥にあったのは、俺の予想していたとおりの窓。そこから毀れる、晴れ渡った昼の太陽が部屋の中を、俺達を、そして宝石を照り付け―― 「……あっ!?」 ソレが驚くような変身を遂げたのは、この時だった。 会長が持っていた紅い宝石は、太陽の光を浴びた瞬間その輝きを変化させたのだ。 俺が今手にしたイミテーションの宝石と同じ、青みがかかった緑色に。 「驚いたか? これはアレキサンドライトという宝石だ」 胴体切断マジックに引っかった観客の如く呆然としている俺達に対し、会長は見事に騙しきったマジシャンの如く悠々と語りだした。 「蝋燭や電球など赤みの多い光に対しては燃えるような紅玉色を呈し、太陽光や蛍光灯など、青みが強い光に対しては優しい翠玉色を呈す。これがアレキサンドライトの面白いところであり、高価である所以だ」 再び片手を動かし、カーテンが閉まる。すると翠色の輝きはなりを潜め、再び真っ赤に燃える宝石が浮かび上がった。 「すごい……不思議な宝石ですぅ……」 お菓子を頬張っていた橘ですら手を止め、その不思議な現象に釘つけになっていた。 「ましてやコレだけ大胆にカラーチェンジするものは滅多に見られない。時の皇帝ですら手にできなかっただろう」 えらく自信満々な発言が鼻につくがそれに見合った逸品であるのも間違いない。 「それで、その宝石を俺達に披露して、一体何がしたかったんだ?」 「簡単なことだ。ちょっとした立会いをしてもらいんだ」 「立会い?」と俺。「何のために?」 「この宝石は代々我が家に伝わってきたもので、一族の仲間になる人間に継承されてきた。つまり婚約の儀式に使用されてきたものだ」 ほうほう。それで? 「それで……って、ここまで言えば分かるだろう」 「いいえ、彼は筋金入りのニブチンですから。最初から最後まで説明しないと分かりません」 橘、それはどういう意味だ? 「ほら」 「……なるほど…………」何故か納得した様子で、「実は、だ。俺ももうすぐ二十歳。家の家督を継ぐ妙齢になってきたわけだ。そうなると、人生の中で切っても切れぬ人間関係というのも出てくるものだ」 はあ……それで? 「そ、それで……だな。そんな人間を……まあ、何と言うか……自分のパートナーとして…………うん、そう言うわけだ」 珍しく照れたように吃りながら何とか言葉を紡いでいる。「つまり、どういうことですか?」 「どういうこともこういくこともありませんっ! どこまで鈍いんですかキョンくんは!」 バンッ! と両手を着いて橘が立ち上がった。どうでもいいがお前に鈍いとか言われたくない。 「なら会長さんが何をおっしゃりたいのか分かるんですか!?」 「む……」と、思わず黙り込む。 「こら御覧なさい。答えられないじゃないですか!」 ならお前は分かったというのか? そう言うと橘はえっへんと胸をそらし、「当たり前です!」と大きく出た。 「いいですか、よく考えてください。あの宝石は婚約の儀式に使うもので、そのためにここで磨いてもらったんじゃないですか。そして『切っても切れぬ人間関係』とか『人生のパートナー』とか思わせぶりな発言。そこから推理するのは簡単ですっ!」 コホンと咳を一つついたあと、 「つまりっ!」 橘はビシッと指を差し、自信満々に叫んだ。 「あたしに対するプロポーズですっ!」 ――瞬間、暖炉の焚き木すら凍りつくような寒さが此処にいる全員を襲った。 「ああっ! お気持ちは嬉しいのですが……出会ってからまだ二時間も経ってないのに……。溢れんばかりのあたしの魅力……これって罪ですね。どうしたらいいのでしょうかキョンくん!」 「アホかおのれはぁぁぁぁ!!!」 バコンッ! 「きゃん!」 先ほど買ったおみくじ型特大ハリセン(天誅大凶バージョン)で橘のドタマを叩きつけた。 「いったーい! 何するんですかぁ!」 新年早々意味不明なギャグをかますんじゃねえ! 「んん……もう。やだなあ、キョンくんたら。妬いてるんですね」 違うわ空気読めぇぇぇぇ! 他の皆をよく見ろぉぉぉ! 「あれ……みんな机に突っ伏したり紅茶を吹き散らしたり。どうしたんでしょう?」 あまりにもKYな発言で橘以外の思考回路が停止したとは露にも思わないのだろうか。 そんな中、ソファーの脇で蹲っていた会長が何とか起き上がり、ギリギリ平静を装って 「…………な、なかなか楽しいお嬢さんだ。フランクと言うよりはケセラセラと言ったところだな……」 とは言え、額から滲み出る汗は相当なものだ。恐らくこう言った人間と接するのは始めてらしい。 ふっ、いくら生徒会長とは言えまだまだ人生経験が浅いな。俺なんか長年付き合ってるせいかよほどのことじゃなきゃ動揺しないぜ。 ……と、自慢にもならない自慢を思い浮かべて自己嫌悪に陥ったのは言うまでも無い。 「ま、まさかとは思うが、」多量の額の汗をハンカチで拭いながら、会長は小指を突き出し、 「お前のコレか?」 「絶対にち」「いやだぁ! 会長さんったら!!」バンッ!!「ふぐべしっ!」 「もうっ! 妬かないで下さいって言ってるでしょ! キョンくんとはまだ何にも無いんですから♪ 彼ってばホント奥手で困りますぅ! でも会長さんのアプローチに妬いちゃって可愛い……いやだ、何言ってるのかしら! きゃはっ!」 橘の強烈なビンタ……いや、あれは張り手だな……をまともに喰らい、会長さんは今度こそ沈黙した。 「今年は初日からいいことばっかりですね! あたし嬉しいです!」 こっちは初日からトラブル続きで泣きたいです。おまけに勘違いした藤原がおぞましい殺気を込めて睨みつけるし…… カンベンしてください、いやホントに。 「お、お嬢さんの気持ちは嬉しいが……もう既に心に決めた人がいてね」 それでもめげずにヨロヨロと立ち上がり、今度は橘を直視しないよう若干視線をずらしながら再びソファーについた。何故直視したくないのかと言われれば……その辺は察して欲しい。 「喜緑くん……さっき神社まであった際、後ろに乗っていた女性がいただろう。その彼女にプロポーズしようと思うんだ」 ああ、なるほど、そう言うことでしたか。今更ながら全てを理解した。 「お二人の仲睦まじい関係は、生徒会では暗黙の了解でしたからね。いや、それだけじゃない。あなたを慕って同じ大学、同じ学部に入学した喜緑さんも実にいじらしいじゃないですか。そして遂に彼は彼女の想いに答えることにしたんですよ」 古泉の茶々に、「うるさい、黙れ」と照れながら怒鳴る会長がとても微笑ましい。 「まあ……大筋で古泉の言ったとおりだ。今日俺は彼女にプロポーズする。宝石を磨いたのも、今日のパーティも、全てはそのためだ。そして、」 改まって身だしなみを整え、 「キミたちにはその立会人になってもらいたい。先にも言ったが両親は火急の用で席を外してしまうから、誰か他に信用できる人間が必要だったんだ。どうか頼む」 と頭を下げた。 会長さんもなかなか人道的な御仁である。ただのアウトロー気取りじゃないって事か。ただ、何でそんなに接点のない俺達を立会人なんかに選んだのだろうか? 他にもっと適切な人がいるだろう。例えば、 「言っておくが、『機関』の人間ならお断りだ。アイツらに任せるとロクな事が起きん」 ――ピクッ、と古泉の微笑が蠢いた。 「どういう意味ですか?」 「そのままの意味だ。アイツらほど下らん人間もザラにいるもんじゃない。この宝石だってお前じゃない他のヤツに取りに来させたら、そのまま盗んで自分の懐に置き去りにする可能性もあるからな」 「……その信用ならない『機関』配下の僕に取りに行くよう命じたのは、どこのどなたでしたか?」 「ふっ、安心しろ。お前はまだ信頼している方だ」 「他の『機関』の仲間は信用できないと?」 「そう受け取って貰って構わん」 二人の会話に、辺りの空気が一気に淀んだ。 ちょっと待て。何だこの言い争いは? 会長と古泉は反発している? 以前はそんな雰囲気はなかったじゃないか。どうしたんだ一体何があったんだ? 「ふっ、何か知りたいようだな」 余りにも訝しげな顔をしていたのか、会長は含み笑い一つして問い掛けた。 「見てのとおり、俺や俺の家族は『機関』の連中に良いようにこき使われてきてな。最初は報酬に釣られてこいつらの木偶人形と化してやったが、最近じゃうっとしくてしょうがねえ。俺の役目も終わったのに何時までも束縛するんじゃねーっつーの」 「その件は以前にもお話したとおりです。涼宮さんと偶然接触する機会が潰えたわけではありません。四六時中偽りの仮面を被っていろとは言いませんが、緊急時も対処できるようご留意願いたいのです」 「ご留意ね……もう涼宮との接触を断って一年が過ぎるが、その間あいつからコンタクトを取りに来たことがあったか? 答えてみろ」 しかし、古泉は貝のように口を閉ざしたままだった。 「答えられないだろ。どうしてだか分かるか?」 会長の野次に、古泉は更に沈黙を続け――代わりに会長の口が饒舌になっていく。 「『涼宮が望めば、それは全て実現する』。お前達はそう主張してたよな。だが逆に言えば、『アイツが望まないことは、全て実現しない』ってことになる。古泉、俺の言うことは間違っているか?」 「……いえ、仰るとおりです」 「だろうが」ネチリといやらしく笑った会長は勝ち誇ったように「ならば、俺との再来を望んでいるとは思えないアイツが、今後俺と接触をする理由を述べてみろ。俺がまだ操り人形でいなければならない理由を答えてみろ。『機関』の立場としてな」 「……確かに、涼宮さんとは接触されてないようですが、今こうして彼と接触を……」 「話を摩り替えるな。俺が聞きたいのは今後俺が涼宮と接触するかどうか、だ。無関係なヤツを巻き込むんじゃねえ。それに言っておくが、こいつと接触を取ったのは俺の自発的行動だ。無視することも出来たんだぜ。まさかこれも」 蔑むような表情で、 「涼宮が望んだからなんて戯けたことを抜かすんじゃないだろうな?」 「…………」 「ったく、『機関』とは本当に付き合いきれん」 再び懐から取り出した煙草に火をつけ、いきり立った自分の心を落ち着かすように一服し始めた。 俺達はといえばあまりの展開に何も出来ず、ただひたすら時が流れるのを待つのみ。 沈黙が――正確には、会長が煙草の煙を吐く時の吐息のみが静まり返った部屋に響き渡り―― ――どれくらい経っただろうか。 実際は煙草の長さが半分程度になる程度の時間だったのだが、それ以上に長く感じたのはこの沈黙のせいだろう。 しかし、その沈黙も遂に終止符が打たれるときが来た。 「……古泉。いい加減『機関』を止めろ。お前はまだ見所がある」 先ほどの鋭い口調はなりを潜め、何時に無く優しい口調で諭すように言った。 古泉もいつの間にかいつも通りのスマイルを取り戻し、 「いいえ、そう言うわけにはいきません。『機関』に必要な人間と自負しております。そして、それはあなたも同じだと考えております」 「……けっ」 「我々はあなたを必要としています。できるだけあなたの望みを叶えています。ですから――」 悲痛な表情を浮かべながら深深と頭を下げる古泉に、会長は何も答えなかった。 「申し訳ありませんでした」 店を出た俺達に『先に戻る。家の場所は古泉に聞け』と言って一人バイクに跨って走り去った後のこと。古泉はそう言って深深と頭を下げた。 先ほど会長にしたそれと同じように、悲痛な表情を浮かべながら。 「気にしちゃいないさ」 それが俺に言える精一杯のフォローだった。 「……聞かないんですか? 彼と『機関』の間に何があったのか」 それはお前に任せる。言いたければ言え。言いたくなければ黙ってればいい。 「そうですか、わかりました」いつも通りのハンサムボーイはどうとも取れる俺の返答に対して、「歩きながら説明しましょう」となった。 「彼は僕達『機関』の学内……いえ、今は学外協力者とでも言うべきでょうが、ともかく協力者であることは以前申し上げたと思います。彼は涼宮さんのイメージどおりの生徒会長として、我々が在籍する北高の生徒会トップに君臨しておりました」 ああ、確かにそうだったな。ハルヒが変なことを思いつく前にこちらから情報を提供してご機嫌伺いを取る、言わばかませ犬のような存在だ。 「彼はこちらの予想以上によく働いてくれました。それは彼が命令に忠実だけと言うわけではなく、ある程度の野心、或いは報酬といった見返りを期待してのことです。もちろん我々としては取り立てて問題にはしていませんでした」 していませんでした、って言うことは問題になったって訳だな。 「……遺憾ながらその通りです」古泉は声のトーンを鎮め、 「実はこちらのミスで、彼が大切にしていたあるモノを壊してしまったんです」 なんだ、それは。 「それはちょっと……すみませんがお察しください」 そうかい。まあ別段聞く気もないが。 「つまりそれが原因で会長と『機関』の信頼関係にヒビが入ったってわけだな」 「はい」 「何を壊したか知らんが、直すことや買い換えることは出来んのか?」 「それができればここまでこじれたりはしません」 確かに。 「彼は怒り心頭に発し、一時は『機関』との関係を拒絶されそうになりました。彼の協力無くして『機関』の活動に多大なる影響が出ると感じた上の人たちは彼を必死に説得し、出来る限りの要望を受け入れ――首の皮一枚繋がった状態で今日に至っているのです」 ふむふむ……ん? 「ちょっと待て。会長は『機関』の協力者だってことは聞いたが、何故そこまで彼との関係を重要視してるんだ? あの人自身も言ってたが、ハルヒとの接触が無い今となっては寧ろお払い箱状態じゃないか」 「その理由は簡単です。実は……」と言って後ろの橘達の様子を見て、「失礼、耳をお貸しください」 更に俺に近づき、後ろの三人聞こえないよう、細心の周囲を払って出た彼の言葉は―― 「―――――――」 「…………なるほど」 大きく一つ頷いた。 「それは確かに重要な問題だ」 「つきました。こちらが会長の自宅になります」 あれから約一時間後。河川敷の公園に程近い会長宅に到着した時には午後二時をゆうに回っていた。 こんなに時間がかかったのは単に会長の自宅が遠いだけではなく、普段履き慣れてない草履や下駄で歩いたため足に負担がかかってしまったことも理由に上げられる。 橘なぞはついさっきまで『もう歩けない、おんぶして』と駄々を捏ねていたのだが、結局誰も手を貸さず(無論藤原は手伝おうとしたのだが自分も靴擦れが痛くてそれどころじゃなかったらしい)、終いにはハダシで歩き出したりしてた。 おまけに『キョンくんが悪いんですからね! 責任とって下さい!』だとか『困っている女の子を助けないなんて、古泉さんって絶対ガチホモよね』だとか散々罵詈雑言を浴びせるもんだから場の空気はとても悪くなってたりする。 しかし、 『…………』 見事なまでの三点リーダが揃いも揃ってアンサンブルを奏でた。橘も、藤原も、そして普段ダッシュ記号の九曜でさえ、である。 「こ、ここ……」 「あの会長の……」 「――――自宅…………?」 皆が驚くのも無理はない。 俺達の二倍はありそうな柵とそれ以上に高い門。そこから数十メートル先に聳える白亜の如き邸宅。 「そうです。ここが彼の自宅です」 『……………………』 古泉の言葉に一同がさらに沈黙した。 よくよく見ればここ一帯はは高級住宅街で、どの家もそれなりの大きさでそれなりに立派な佇まいをしている。前に行った事のある阪中の家もそれほど離れていない。 その中でも一際大きい、まるで城のような邸宅が彼の家だったのだ。 「すごい……お金持ちだったんですね……」 呆気に取られた橘がポツリと呟いた。そりゃそうだ。でなきゃあんな高級ジュエリーショップで宝石研磨の依頼なんてするわけがない。 斯く言う俺も、古泉から話を聞いて驚いたんだけどな。 「『機関』が縁を切りたくない第一の理由――それは財力。スポンサーのひとつなんですよ、彼の家は」 俺だけに分かるよう話し掛けたのはそんな内容だった。 これ以上なくわかりやすい理由であった。恐らく鶴屋家と同じような立場なのだ、会長は。 「ただ、『機関』の活動に干渉するきらいがありますけどね。そこが鶴屋家と大きな違いです」と古泉は付け加えたが、それは些末な問題にしか過ぎない。少なくとも俺にとってはな。 ただ一人平然としている古泉は門の横にあるインターホンに手を伸ばし、二言三言言葉を交わした。すると門は自動で開き、俺達を奥へと促した。 玄関まで移動する中でもサプライズは点在している。管理された芝生や木々、奥の方に見えるプライベートプールやテニスコートなど、さながら公園のようである。 鶴屋家とはまた違った意味で金持ちを実感させる場所である。 やれやれ。金があるとことにはあるもんだ。『機関』じゃなくてもスポンサーとして協力していただきたいものだ。 「ようこそいらっしゃいました」 ようやっと建物の中に入った俺達を最初に迎え入れてくれたのは、朗らかな笑みが眩しい老紳士。もちろん俺の知っている人物であった。 「新川さん。お久しぶりでございます」 「これはこれは、お久しぶりでございます」 まさか新川さんの本業はここの執事ってことは…… 「まさか。そんなわけありません」と古泉。「今日のパーティのために借り出された臨時雇い人です」 古泉が言うには、今日のパーティを盛り上げるため、そして会長のプロポーズを成功させるために『機関』からスペシャリスト達が派遣されてきたらしい。 「新川さんは執事兼給仕係兼調理師としてこの場に派遣されました」 「どうぞよろしくお願いします」 あ、ああ。こちらこそ。 「ではあなたが最高級料理を作ってくださるんですね!」 そしてしゃしゃり出るはやっぱりこの女。和服姿で謙虚さが少しでも染み着いてくれればと思ったのだがそう言うわけにはいかないらしい。 「おやおや、可愛らしいお嬢様だこと」 「はい! よく言われます!」 嘘つけ。 「こちらは初めてですね。……ふむ、どこかでみたことのある顔ですが……」 「さあ、あたしはとんと記憶にありませんが」 「そうでしたか、他人の空似でしょう。申し送れました、わたくし執事の新川と申します。どうぞよろしくお願い致します」 「あ、あたしは橘京子って言います。よろしくお願いしますっ!」 「――――!?」 瞬間、新川さんの動きが止まった。 「あれ? どうしたんですか?」 「ま、まさか……あの…………あの、橘京子か……!?」 引きつったままの新川さんは、言葉を漏らすように橘の名前を口にした。バドラーオブバドラー、執事の代名詞とも言うべき新川さんが、客を呼び捨てにするなど普通に考えたらありえない。 ――そう、普通なら。 「あの、ってのが若干引っかかりますが、多分その橘京子です」 「!!!?」 新川さんの顔が完全に強張った。 無理も無い。新川さんからしてみれば彼女は『機関』の敵である。しかも橘はその幹部を務めているのだから、その名は『機関』の中でも有名なのだろう。 そんな相手が自分達の陣地に単身――乗り込んできたのだ。驚くのも無理は無い。 しかし……である。 いくら敵対するもの同士とは言え、いくらアポなしで乗り込んできたとは言え、冷静沈着を擬人化したような新川さんがあそこまで驚愕の念を出すとは思えない。 ならば一体……? 等と考えていたその時、想いも依らぬ行動に出た。何と新川さんはいきなり橘の肩を掴み、軽々と持ち上げたのだ。 「――ひいっ!?」 実力行使で排除する気か!? 「た、助け……!」 くっ……何だというんだ!? 「新川さん! 落ち着いてください! 一体どうしたんですか!? 敵対しているとは言え、強引に追い返すのは新川さんらしくありません!」 思わず古泉も声を荒げ―― 「どうしたの新川。玄関が騒がしいわ」 ホールの先、螺旋階段の踊り場。凛とした女性の声が響いたのはちょうどその時だった。 『――――!!?』 ここにいる全員、静かな絶叫を上げた。 そこに立つのは――メイド姿の森 園生……さん。 「……ん? そこにいるのは……橘京子!!」 三日間何も食べてないライオンがシマウマの群れを見つけたような視線でツインテールを睨めつけた。 「ひえっ! た、助けてぇ~!」 慌てて踵を返し、やたらと怖いオーラを発するメイドさんから遠ざかる。怖いものみたさってやつだ。 しかし森さんは神速の如きスピードで階段を駆け下り、あっという間に橘京子の背面に回りこんだ。 「!! いつの間にぃ!」 「ふっふっふっふっ……ここであったが百年目。いや実際は半年振りくらいだけどそんなことはどうでもいいわ。あなたには散々お世話になったわね」 渾身の笑みを込めて橘に微笑んだ。俺はと言えばあの時のトラウマが全身に駆け巡り、反射的に顔をそらした。見れば新川さんも古泉を同じ行動をしている。やっぱみんな怖いんだな。 九曜は相変わらずのポーカーフェイスでなんのその。さすがは長門以上の無表情エイリアン。唯一森さんの笑みを知らないポンジーは直撃を受け敢え無く失神。ご愁傷様でした。 そして、失神することすら許されない橘は蛇に睨まれた蛙宜しく、 「いやあのお世話になったのはむしろあたしの方で」 「ふふふふ、そんなことはどうでもいいの。あなたに会えただけでこの上なく嬉しいのよ」 「あのあのあの、嬉しいなら何で目がそんなに据わってるんですか……?」 「気のせいよ」 嘘だ。絶対嘘だ。 「そうそう、今とっても忙しいの。例のパーティの準備でね。そこでちょっとお願いがあるんだけど、手伝ってくれないかしら?」 「あの……あたしはむしろお呼ばれされた方で……」 「そんなつれないこと言わないで、お願い。んふっ」 ウィンク一つ繰り出した。 「ひゃ、ひゃい!」 「そう、良かったわ。それじゃこっちよ」 ガシッ、と、まるで手錠をはめるかのようにガッチリと腕を掴んだ。 「あの……因みにどんな仕事を……? 前みたいに全身しもやけになるようなことはちょっと……」 「ふっふっふっ……大丈夫よ」 森さんの笑みが、やたらと猟奇的に映った。 「寒かったら唐辛子のペースト塗ってあげるから。全身に」 いっ………… 「いやぁぁぁぁぁぁ――――――――ぁぁぁぁぁぁ――――――ぁぁぁぁ――――ぁぁ――――…………――――――」 「……遅かったか」 くっ、と顔を顰めながら、新川さんは自分の不甲斐なさに自責の念を感じていた。 「森が彼女を……橘京子を敵対視していたのは前々から存じていたのですが……まさか本日いらっしゃるとは思っていませんでしたので。何とかして森に見つかる前にご退場願おうと思ったのですが……」 『………………』 一同、沈黙。 「あの分ですと、かなりこってりと絞られそうですな、橘嬢は」 ええと、新川さん、どんなことされるんでしょうか……? 「……聞きたい、ですかな?」 え? 「森のスパルタ教育、いいえ、慈善活動の内容を、それほどまでに聞きたいですかな?」 …………。 止めときます。 とまあ一人ほど森さんの毒牙にはまってしまったが、俺を含めて他の人間には何一つ危害が無かったのでここは一つ運が悪かったと言うことにして橘を見捨てる……もとい、慈善活動に頑張ってもらうことにして、俺達は宅内を案内されることになった。 若干藤原が不機嫌そうな顔をしていたが、あの森さんに反旗を翻すほどの抵抗力はなかったらしく、ブーブー文句を垂れながらも俺達の後をついてくるに留まった。 まあ拷問を受けるわけではないし(多分)、これ以上橘の暴走を蔓延らせるわけにもいかないので、この件は森さんに一任しようと思う。 決して橘の相手をするのに飽きたとか、そんなわけでは……あるが、その辺はオフレコで頼む。 新川さんに連れられて案内されたのは、本日のイベント会場になるホールだった。 大きさはバスケットコートくらいの大きさだが、天井も高く中央に設置されたステージも意外にしっかりしたもので、小さいながらもアリーナ型ホールといって差し支えの無いものだ。 そのステージの中央には白い布が被せられた何かが鎮座し、そしてその横には会長の姿があった。 白い布の周りをうろうろしながらうんうん唸っていた彼は、俺達の姿に気がついたようで「よう、来たか」と陽気に声をかけた……のだが。 次の瞬間、会長の顔色が一気に変化した。 「新川。何をしている。料理の下ごしらえは終わったのか?」 ここまで案内してくれた新川さんに対しては礼をするでもなくつっけんどんにあしらった。 「お客様がお見えでしたので、案内をしておりまして……」 「それは俺の仕事だ。いいから早く戻れ」 「……畏まりました。では、わたしはこれで」 逃げるように新川さんはその場を立ち去った。 再び悪くなった空気で俺は古泉の言葉を思い出した。機関の人間をかなり嫌っているというのはどうやら本当のようだ。 「失礼した。新川の無礼、お許しいただきたい」と、自ら謝りながら場の空気を入れ替えるように話題を切り替えた「どうだ、我が家は。自慢ではないがこの周辺でこれ以上の家はそう多くはあるまい」 会長に、俺も話を併せることにした。 「たしかに、素晴らしいと思います」 これ以上の邸宅として真っ先に思い浮かんだのは鶴屋さんの家だったが、由緒正しい日本家屋の鶴屋家とはまた違う赴きなのでどちらがどうと一概に言えるものではない。 「ふ、そうだろそうだろ」 お世辞に気をよくしたようだ。結構単純なのかもしれない。 「それで、何をしてたんですか? その白い布の前で何かしてたようですが。というかそれは何ですか?」 「これはだな」と言いながら、隠していたと思われるその布をいとも容易く引っ張る。 青銅の台座の上に居座るのは、黄金に輝く女神像。大きさはほぼ等身大で、台座に乗っている分俺達よりも頭一つ、いや五つ分ほど高い位置にあった。 両手を前に出し、何かを冀うかのようにしてひざまつくその姿は、女神を模していると言う事もあってか神秘的に感じる。 一体どの女神がモデルなのかね。アテナとか、ヴィーナスとかか? 「ヘラだ」 ヘラ……ヘラ……とんと記憶が無い。 「――――オリュンポス――――十二神…………――――筆頭――――ゼウス……――――の――――…………妻――――――」 「その通り。彼女は結婚の女神。その彼女の前でプロポーズを行い、永遠の愛を誓うのだ」 グッと握りこぶしを作り力説した。会長も意外とロマンチストである。 「まさかそれだけのためにこの女神像を用意したと?」 「いや、彼女にやってもらう事は他にもある。おい!」 会長が声をかけると、ゴゴゴッと音を立てながら金の女神像が沈み込んだ。よく見ると、その周りの床も一緒に下降している。どうやらここはエレベーターになっているようだ。 そのエレベーターと共に下降しつつあるヘラの像は台座分の高さ……およそ一メートルほど下がった時点で停止し、頭の高さを俺達を同じ位置にした。 「この手の部分はな」会長は女神の両手を指差し、「ちょっとした窪みが掘ってあるんだ。何のためかというと、これをはめ込むための窪みだ」 と言って、手にしていたリング――指輪のようなリングだが、頂上に爪のようなものがついていて格好悪い――を、その窪みに当てはめた。リングはその窪みにしっかりと入り込み、ちょっとやそっとのことじゃ動かないくらいピッタリ埋もれている。 「これに合わせて作ったんだから当然だな」 で、その指輪みたいなリングは何の余興ですか? 「こうするのさ」 今度は懐から出したケースを開けた。天窓の光を受けて青緑色に光るのは……先ほどの店で貰い受けた宝石。 丁寧にソレを取り出し、傷をつけないようリングの中央に持っていき、爪に引っ掛けて微調整。少し離れて見てはまた調整しなおしを繰り返し、「よし」納得したのか満足げに頷いた。「これで即席婚約指輪の完成だ」 なるほど。確かに指輪だったようである。宝石が大きくてアンバランスな感はあるものの、婚約指輪と言われればそう見えなくも無い。 だが、一つ気になる点もある。 「爪に引っ掛けてるだけじゃすぐ外れてしまいそうですが、本当に婚約指輪として使えるんですか?」 「即席と言っただろう。本物の婚約指輪じゃない。これは我が家に伝わる儀式なのだ」 儀式? 「結婚の女神から受拝領した指輪……それも家宝の宝石をあてがった指輪を、求婚する女性に託す。これが我が家伝統のプロポーズの方法だ」 なかなか手の込んだプロポーズである。 「喜緑さんには何も伝えてないのですか?」 「当然だ。サプライズイベントだからこそ価値があるのだ。皆に賞賛されながら俺のプロポーズを受け入れ、はにかむ喜緑くん……どうだ、最高だとは思わんかね?」 もし喜緑さんが会長のプロポーズを受け入れなかった時の空気の不味さの方が最高に面白そうだが、さすがにこの場で言うわけにはいかないので声を押し殺す。 「本日のメインイベントはその儀式だからな。楽しみにしてくれたまえ」 ええ。楽しみにしています。色々と。 「説明は以上だが、他に見たい場所や聞きたいところはあるかね?」 「すまない、少し知りたいものがある」 申し訳なさそうに手を上げたのは、以外にも藤原だった。 「先ほど床が下がっていったが、あれはどういう仕組みで動いているんだ? どういったときに使われるんだ?」 どうやらエレベーターの仕掛けに甚く興味深々のようである。 それに対し「ああ、奈落のことか。なんてことはない普通のエレベーターさ」と至って尋常の答えを返す。 「いや、そうではなく……どうやって床が動くのかとか、せり上がるのか……僕にはよくわからない」 もしかしてエレベーターがどういうものか分かってないのか? 「そうだな……なら見てみるか?」 ということで、俺達全員エレベーターに乗って降りることになった。 男三人と女一人、そして金の像が乗ったエレベーターは会長の一言でゆっくりと下っていった。地下は闇に閉ざされ――というほど暗いわけではないが、それでも吹き抜けから太陽の光が入ってくる上の階に比べれば暗いと言わざるを得ない。 「うお……これは……なんというか……結構揺れるな…………」 藤原はやっぱり乗ったことがないのか、珍奇な声を上げて物珍しそうに声を上げている。未来にはエレベーターが無いなんてことはまずあり得ないのだが、単にこいつが知らなかっただけだろうかね。 やがてエレベーターは地下の床へと降り立つ。コンクリートむき出しの壁と申し訳程度の照明が、この部屋の雰囲気を寒々としたものにさせていた。 エレベーターの周りには大なり小なりの機材や工具が点在しており、壁際にはエレベーターの制御盤と思われるボックスがある。少し間を取ってあるのは、これまた大小様々なダンボール。何が入っているのかまでは暗くて見えないが。 所謂、舞台裏って感じの光景である。 そして、裏方として働く人物が二人。一人は制御盤の前で何やら動かし、もう一人はダンボール箱の整理をしている。暗くて少々分かりにくいが、輪郭やこれまでの登場人物から推測することは可能であった。 俺はその内の一人、エレベーターから近かった壮年の男性に声をかける。 「圭一さん……ですよね?」 「おや、キミは……久しぶりだね」 声を聞いてはっきりした。別荘のオーナー兼パトカーのドライバーという異色の肩書きを持った『機関』の諜報員、多丸圭一さんに間違いない。 「どうしたんだい、こんなところに現れるなんて」 ああ、それはですね…… 「余計な話をするなっ!」 再び会長の檄が飛んだ。 「彼らは俺の客人だ。お前ごときが口を聞くなど、どういうつもりだ」 「……申し訳、ありません」 「わかったら口を開くな。俺の言うことだけ粛々とこなせ。いいな」 「了解、致しました」 会長の『機関』の人間嫌いはとことん徹底しているようだ。新川さんの時もそうだったが、少し会話をするだけでこんなに怒るなんて…… 「お前も、分かっているな」 「……はい」 逆の方向を見れば、大小様々ば箱を整然させていたもう一人の人物――もちろん多丸裕さんだ――が、彼に侍りながら答えた。 「それより屋根の修理は終わったのか?」 「いえ、まだですが……」 「何をやってるんだこのトンマどもが! 今日中に直せと言ってたはずだ!」 「ですが、こちらの……エレベーターの調整も必要かと」 「言い訳はいい。さっさと直せ! 日が暮れるまでにな!」 「……わかりました」 またしても場の空気を悪くしながら、その原因ともなった多丸さん達兄弟はすごすごと奥にあったドア――階段が見えるから多分上の階に繋がっている階段だな――から出て行った。 ふう、と溜息をついた会長はまたしても俺達に詫びを入れ、 「ここはこんなもんだ。あまり人様にみせるような場所ではないんだがな」 トストスとエレベーターから降り、先ほど圭一氏が調整していた制御盤の前で 「これで上げ下げができる。パーティのクライマックスで操作する予定だ」 そこで指輪を取って喜緑さんに渡すってわけか。 「その通りだ」 ふうん、色々な演出を考えるものだ。 「演出なら他にもあるぞ。スポットライトやドライアイスなんかも手配済みだ」 やれやれ。そこまで出来れば喜緑さんも本望だろう。 「……ふ、そ、そう思うか?」 ……あ、会長赤くなってる。宝石と同じだ。 「う、うるさい」 怒ったり照れたり、忙しい人ではある。 そんなこんなでもう一度舞台の上へとのり、エレベーターを元の位置まで戻した。ちなみに操作主がいなくなった制御盤の前でスイッチを押したのは藤原。操作してみたいと言う本人たっての希望でこうなった。 操作といってもボタンを押すだけなので特に難しいことも無い。会長も二つ返事で藤原の要望を受け入れた。 ゴゴゴゴゴと音を立てながら上昇するエレベーター。徐々に近づく太陽の光。暗いところにいたせいかやたらと眩しく感じる。 目が眩みそうになりつつも、地上の光恋しさに天窓を望み…… 「ん?」 何かが光を遮った。 「あー! みなさんこちらにいたんですか!」 プンスカと怒りながら、手にしたモップをトンと床に突くその影は――橘!? 「何をしてるんだお前その格好で!?」 「えへへ、どうですか? 森さんからこれに着替えなさいって言われて」 エレベーターが上の階についたころ、視力が完全に回復した俺はその不可思議な姿に思わず問い返してしまった。あろうことか、橘は森さんとおそろいのメイド服に身を包んでいたのだ。 いや、心持ちエプロンとカチューシャのフリルが多い気がするが……気のせいか? 「そこら辺は森さんの趣味なのです」 多分、と注釈をつけた。「森さんはああ見えてそユーモアがある人ですから」 マジか古泉? 「恐らく、橘さんの仰るとおりだと思います」 古泉は俺に近づいて耳打ちした。 「(彼女には他人を和ませる効力があります。森さんはそこを見込んだのでしょう。ほら、会長の『機関』嫌いの一件もありますし。自分の仕事を手伝わせると言うよりは、むしろエンターテイメントとして会長の心を解そうとお考えのようです)」 むう、と内心舌を巻いた。こいつの言うことも最もな気がしたからだ。 そして当の橘だが、会長の前で立ち止まり、ぺコリと頭を下げた。 「こちらの掃除をするよう仰せつかって参りましたので、よろしくお願いします」 「客人に仕事をさせるなど、一体どういうつもりだ……いやまて。これはヤツの……そう言うことか。ふふっ、あの女狐、色々と企んでやがる」 一頻りブツブツ言った後、「森がやるよりはマシだろう。よろしく頼む」と頭を下げた。 完璧無比な妙齢のメイドより、ややもすると全てを破壊しつくしかねないKYメイドを称えるとは、さすが『機関』嫌いの会長さんである。さっきあれほど橘の変態っぷりを目の当たりにしたと言うのに、なかなか大した人である。 或いは……悔しいが、橘や古泉の言ったとおりの展開なのかもしれない。 「ついでと言っては何だが、この辺りの見回り……平たく言えば警備もお願いしたい」 警備? 昼間から? 俺がそう聞くと、 「そうだ」愉快そうに口を歪ませた。「『機関』の人間がいるからな」 「……さすがにおいたが過ぎますよ」 「怒るな。ちょっとした冗談だ。器物破損はしても、窃盗までは範疇外だろうしな。アハハハッ」 古泉が唇を噛むのが目に見えて分かった。珍しく顔がマジになっている。あの古泉がここまで敵対心を露にするなど、余程のことがないと現れないはずだ。 それに、いくらなんでも会長の『機関』嫌いは度が過ぎている。はっきり言って異常だ。後でもう少し詳しく聞いた方がいいかもしれない。良くないことが起きなければいいがな…… 「ともかく、警備もよろしく頼むぞ」 「はあ、でも森さんに色々仕事を頼まれていますので……サボると怖いですし」 「むう……それもそうか。森を怒らすと後が怖いしな……」 さしもの会長も、パーフェクトかつ年齢不詳のメイドさんは怖いようである。 「本当は俺自身がやればいいのだが、もうすぐ喜緑くんの迎えにいかなければいけない。こればかりは他の人間にいかせるわけにはいかないしな」 チラと時計を見ると、もう十五時半になっていた。喜緑さんのバイトは十六時までと言うことなので、確かにそろそろいかないと彼女を待たせることになる。 「それまでの間でいい。誰か他に代わりはいないだろうか……」 「なら、僕が手伝ってやろう」 「藤原?」と俺。「どういう風の吹き回しだ?」 「パーティの時間までまだ結構あるのだろう? 暇つぶしにはもってこいだ」 「だが、客人に仕事をさせるなど……」 「あの、あたしはいいんですか?」 「森園生の管轄については治外法権だ」 うむ、納得。 「うう……あたしってとことん不幸……」 そんな橘の叫びは華麗にスルーされた。まあ当然だな。その代わりと言っては何だが、ずいっと前に出た藤原が、 「僕は一向に構わん。他に使える人間がいないのなら仕方ないだろう」 「そうか……まあ、確かに『機関』の人間よりはためになるだろう。わかった。では申し訳ないが監視の方を頼む」 「ああ、任せてくれ」 となったわけだ。 「ポンジーくん、ありがとうございます!」 「いやあ、これほどのこと、お茶の子さいさいさ。なんならここの掃除を手伝ってやろう。一緒に頑張ろうではないか」 「ポンジーくんさっすが! 分かってる!」 橘はモップとちりとりをポンジーに渡し、 「あたし他にも仕事あるからそっちやってきます! それじゃお願いね!」 エプロンとツインテールをはためかせてこの場を去って言った。 「……へ!?」 「俺達も、いくか」 「そうですね」 「そうだな」 「――――戦線…………――――離脱――――」 残るはモップとちりとりを手にした紋付袴姿のポンジーのみ。 「えええっと……僕は……一体何を…………?」 「掃除を頑張ってくれればそれでいいさ」と俺。 『変な下心は全て自分に帰ってくるぞ。今後気をつけるんだな』 本当はここまで言うべきだったのかもしれないが、反省を促すため敢えて黙っておいた。 その後は特に見たい場所もなかったので、このホールに程近いロビー兼休憩室で一人寛いでいた。 そう、一人。 藤原がガードマン兼会場の掃除係、橘が森さんの下働きに出たのは先にも説明したが、古泉も別途会長から仰せつかった買い物に出かけ、九曜はホールの外でマネキン人形と化していたのだ。 ガラス製のドアを開けて休憩室に入る。部屋は俺の自室よりも二回り大きく、プロジェクターやブルーレイプレイヤー、インターネットに繋がるパソコンやコミックまで設置され、小さいながらも高級漫画喫茶と言ったイメージが近い。 ただ一つ違うとすれば、漫画喫茶がパーティションで仕切られているのに対して、この部屋はパーティションどころか全てガラス張りで、廊下からも何をしているのか丸分かり状態ってことくらいか。 俺はテーブルに設置されたPCの前に座り、適当にネットサーフィンをすることにした。学校のトラフィックとは異なり、非常に快適な速度である。 これでガラス張りじゃなければ如何わしいイメージビデオがスイスイ再生できるんだが……その辺はぐっとこらえることにしよう。 代わりに開いたページは、先ほど見せてもらった宝石、アレキサンドライトについてである。あの不思議な光り方をする現象に興味が湧いた。ちょっと調べて見よう。 検索サイトを開き、キーワードに適当な言葉を入力し、サーチ開始。一秒も待たずに結果が現れた。検索結果の最初のページクリック。 ええと、なになに……『アレキサンドライトの最大の特徴であるカラーチェンジは、赤色成分と緑色成分がほぼ同程度存在するために発生します』か。ふーん、イマイチよくわからんな。 マウスのホイールを回し、ページをスクロールさせ次の文章を読む。 『蝋燭や電球など、赤みの強い(色温度の低い)光の前では赤色となり、太陽光や蛍光灯など、青みの強い(色温度の高い)光の前では緑色に光ります』 ふむふむ。確かに説明されたとおりだ。ではなぜそんな風に光るんだろうか。次……っと。 『アレキサンドライトは含まれるクロムの影響で黄色と紫のスペクトルが』 カチッ。 『スペクトル』と言う言葉が出た時点でこのページを閉じることにした。難しい言葉にはついていけん。 その後も他のサイトを見渡したのだが、結局書いてあるのは同じようなことばかり。詳しくかかれているサイトは波長がどうたらとか分光分析がどうたらと、やたら難しくなるのでそこで読むのを断念する。 まあ、いっか。光の色で宝石の光り方が変わるってことで十分だ。それがわかっただけで良しとしよう。実は最初に会長から説受けた説明以上の知識が身についたわけでもないんだが。 それはそれとして、パーティの開催までまだ一時間以上ある。何をするかね。 「寝るか」 本当は帰って試験勉強の続きがしたいのだが、ここまで来たら帰らせてくれそうも無い。話し相手もいないし漫画を読む気にもならん。それに朝から橘のテンションに当てられっぱなしで少し疲れた。 休むのも受験生にとっては重要な仕事だ。特に勉強ができない今としては打ってつけだ。 ここで俺は近くの三人がけソファーに移動する。肘掛に頭を乗せ、ガラス越しに廊下を見ながらボーっと寝転んだ。 ここからは大ホールの扉、そしてそこに連なる廊下が見渡せる。先にも言ったとおり、九曜は入り口前で身じろぎせずその場に立ち尽くしている。身動き一つ取らない姿はザルな守衛といっても過言ではない。 そして何分か置きに往来するのは橘。手に抱えているのはモップだったり大きな皿だったり、よく分からん工具箱だったり……森さんに言われて何か運んでいるのだろうな。 その他にも新川さんや多丸さん兄弟も訪れては出て行く。色々と手にしているようだが……ん、あのでっかい竹は何に使うんだ? 後で聞いてみるか。 因みに藤原の姿は見えない。恐らく中で警備、あるいは橘に使われて仕事しているんだろう。 しかし、皆が皆忙しく働いているのに俺だけこうも惰眠を貪っていいものかね。とは言え働く気は全く無いからやっぱりこのまま動かないわけだが。ふぁあ……いかん。本気で眠くなってきた。 ガラスで遮られながら、しかし微かにパタパタと鳴る足音を子守唄にして俺の意識はそのまま途絶え………… 「起きてください。そろそろ式が始まりますよ」 そう言って起こされたのは、十七時も半分が過ぎていた。外はすっかり暗くなり、ガラス越しに見える廊下も人工の光で照らされている。 俺は寝ぼけ眼で起き上がり、声をかけた人物――古泉に視線を送った。先ほどまで私服だった彼のスタイルは、何時の間にかダークグレーのスーツに変わっていた。もしかしてパーティための正装だろうか? 「いいえ、平素の格好、略装で結構ですから。お構いなく」 略装を通り越してカジュアルスタイルで出席してもいいのだろうかね。まあ古泉が良いって言うならそれでいいのだろう。必要なら『機関』が全て用意してくれるはずだ。 とは言え、跳ねているであろう髪を何とか戻し、くしゃくしゃになったコートは脱ぎ、襟を正してパーティに望むことにする。それくらいは常識だよな。 ガラス製のドアを開け、俺が寝る前から一糸乱れることなくその場に鎮座していた九曜にも声をかけた。「いくぞ」 会場は明るくも温かみのある色調で彩られており、冬だと言うのにそれを感じさせない光で覆われていた。 「これはLEDですよ」 LED? 聞いたことあるようなないような…… 「ライトエミッションダイオード。日本語で言えば発光ダイオードです。昨今のエコブームで取り入れられた新しいタイプの光です。この照明に使われる白熱球は数年後には製造が中止してしまいますので、その代替品として取り入れられたようです」 ふうん。つまり明るくて消費電力も低い照明ってことか。 「家庭用照明としての課題はまだ多く残っていますが、概ねその通りです」 そうかい。 「さて、与太話にはこれくらいにして席につきましょうか。早くしないと会長に叱られます」 その与太話を始めたのはお前なんだが、と突っ込む前に古泉はそそくさと自席に移動した。 席は中央のステージを囲むようにして配置されており、そこに一番近い席に会長と喜緑さんが座ることになっている。俺達はゲスト扱いなので、やや後方のテーブルである。 警備を終えた藤原、手伝いを追えた橘も既に席についており、俺達もそこに着席した。ちなみに橘は未だメイド姿のままである。着替える時間がなかったのだろうか。 「どうだ、橘。森さんにこってりしぼられたか?」 「…………」 「おい、橘?」 「……っへえ!?」 おいおい、変な声を上げるな。どうせこれから出てくる料理のことばっかり考えてたんだろ。 「……うあう。そのとおりです。もう腹が減って腹が減って」 白いエプロンの上を弄りながら、橘はやや疲れた様子で喋りだした。どんな仕事をさせられたのだろうか。 「パーティのセッティングはもちろんですが、何故か個室の掃除やベッドメイキング、おまけにペットの散歩と色々です」 それはご苦労なこった。だがそれでこそ飯が上手いってもんだ。 「そうですね。頑張って平らげます。会長の家の資金がなくなるまで食べ尽くしてやるのです」 そうか、まあ頑張ってくれ。 などと他愛も無い会話をしていると、 「お待たせ致しました」 開いた扉から出てきたのは、淡いブルーのパーティドレスに見を包んだ喜緑さんだった。肩や背中を大胆に露出したドレスと白いバラのコサージュがなんとも魅惑的である。 その後ろ、ドアを開けていたのはなんと会長だった。そのままドアを閉め、彼女の手を取ってエスコートする姿はいかにも紳士である。自席まで到着した後も、喜緑さんの椅子をサッと引いて着席を促すのも忘れない。 あれほど不良じみたヤサグレ男がああも変わるとは。この状況をハルヒが見たらどう思うかね。ちょっと呼び出してやろうか。 「それだけはカンベンしてください。僕達も事後処理が大変なんですから」 冗談だ古泉。泣くな。 会長の挨拶と乾杯を皮切りに、表向き年始パーティは盛大に行われた。 盛大といっても人数にして十人もいないから大盛況と言うわけにはいかないが、古泉の意味不明な説法に始まり、藤原のどこか抜けた常識、九曜の日常など話題に事欠くことはなかった。 中でも食前酒を一気のみしてフラフラになった橘がいきなり会長に向かって『あたしを捨てるなんてひどいですぅ!』と大絶叫した時は腹を抱えて笑った。引きつる会長と朗らかな笑みを見せる喜緑さんのコントラストが絶品だ。 なお、この後数分もしないうちに橘は撃沈した。彼女の楽しみにしていた料理はまだきていない。あれだけ最高級料理を食べると騒いでいたのに……かわいそうではある。 その料理だが、会長が『最高級料理』と銘打っただけあり、俺が今まで経験したことの無いような豊穣の味わいで、舌鼓を十六ビートで叩きつけるような絶賛の嵐を口にした。 もちろん素材だけではない。新川さんの料理もかなりのものであることは忘れてはいけない。会長は調理が下手だと詰っていたが、それは無碍に嫌おうとする彼の歪んだ心が成せる技であり、無論俺はこの料理に瑕疵があるだなんて微塵も思っていない。 森さんはと言えば、おなじみの給仕係となってデカンターからワインを注ぐのに専念している。せっかくの年始パーティなんだから皆で楽しめばいいのにと思うんだが。まあ、あの会長がいる限り楽しくパーティなんかできないだろうな。 残りの『機関』のメンバーである多丸さん達兄弟はこの場にいなかった。恐らくはエレベーターの上下搬送係りとして、この地下でスタンバイしているのだろう。 全く、働き者のメンバーである。あれだけ嫌われているのによくもこれだけ健気に働けるものだ。 「皆様、お待たせいたしました。本日のメインイベントでございます」 と、スピーカー越しの新川さんの声と共に辺りの照明が暗くなった。 「喜緑江美里様、当家の主人よりお渡ししたいものがあるとのことです。どうぞ、中央のステージにお寄りください」 クエスチョンマークを点灯しながら、喜緑さんは会長に手を取られてステージ前まで行く。 「それでは……どうぞ!」 声と共に照明が完全消え、代わりにスポットライトがステージ中央を照らし出す。瞬間、大地が割れたかのようにステージが開き、その代わりといっちゃ何だが白い煙がもくもくと吹き上がる。 その煙を割って這い上がったのは、例の女神像。とはいえ、現状は白い布にかぶさっているが。 ガシャン、と音を立てて一番上についた時、会長は白い布を勢いよく引っ張り――そしてようやく冒頭の時間軸へと繋がるのだ。 延々長い思い出話で済まなかった。では早速本題に入ろうじゃないか。 ……… …… … ――ふふふ、あたしの出番でしゅね―― 若干ろれつの回っていない、状況判断を全く逸脱した声が響き渡った。 声の主――答えるまでも無い。メイド姿のまま、何故かモップを手に取った……というより、フラフラしてるから支えられてと言った方が正しいか……橘京子。 「あたしが……はんにゅいんを……宝石を盗んだはんにゅいんを……探し出して見せましゅ……なんたってあたしは……めいたんてぇい…………なんれすから!」 ああああ……あの馬鹿……酒飲んでるからいつも以上に空回りしてやがる。しかもご丁寧に昼間の与太話をまだ引き摺ってやがる! 「ほ……本当か……?」 そして会長もそんな酔っ払いの言うことを信じるな! 「ふふふふ……まかせなしゃい…………真実は一つしかないんでしゅ……みてなさい!」 そして橘は思ったよりもしっかりした足取りで、モップを構えた。 「悪の汚れ、おしょうじさせていただきまぁしゅ!」 『……………………』 ふんと鼻息一つ鳴らした橘に対し、俺達は位相を揃えて三点リーダを紡ぎだした。 「ふぇへへへへへへ…………うみゅ…………」 バタン。 「くう…………くう…………」 場の空気を見事なまでに白くした張本人はそのまま倒れこみ、そして再び寝息を立てた。 「な、なあ…………一体どうすればいいんだこの場合…………」 激昂していた会長も素に戻り、努めてシンプルなツッコミを入れるが……悲しいかな、誰も答えることが出来なかった。 こうして、会長宅の家宝、アレキサンドライトが盗まれると言うハプニングと、その犯人を探し出すと言う爆弾発言のせいで、俺は年始早々橘の恐ろしさを嫌と言うほど知らされることになるのだった。 ※橘京子の動揺(捜査編)に続く
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「どうしたんですかキョンくん。キツネにつままれたタヌキみたいにぽかんとしちゃって」 だから豚もおだてりゃ木に登るを目の当たりにしたって言うほうが今の心境にドンピシャだって言ったろうが。 似たような会話をここ最近した気がする。と言うか昨日だ。あの時はあの時で驚いたが、今回も負けちゃいない。大統領候補選出のために躍起になる候補者同士のナンセンスな闘争にも匹敵する。 「ほんと、昨日から変ですよ。やっぱり精神科の病院にいった方がいいのです」 昨日はここで英語で答えた気がする。今日は何語がいいんだ? フランス語? ドイツ語? 奇を衒ってサンスクリット語やエスペラント語なんかで話した日にゃ驚くだろう。目の色変えて俺のネクタイをゆする橘(ハルヒ)の顔が目に浮かぶ。 だが生憎の勉強不足のためそのどの言語も未修得で話すことができないんだ。期待にこたえられなくて申し訳ない。 ――んなことはどうでもいい。 こいつは一体何者だ? 橘京子の姿をした『彼女』が、涼宮ハルヒを名乗りやがった。ここまでなら昨日と同じだ。 だが、こいつは昨日までの『ハルヒ』と一つ違う点がある。 それは喋り方だ。 昨日までの『ハルヒ』ならば体や髪型、それに声は橘のものであるが、唯一オリジナルの部分があった。それこそが同じ姿に分裂した皆を見分ける唯一の方法と言っても良かった。 しかし、この『ハルヒ』は俺からその唯一の方法までも奪い取りやがった。これでは本当に橘京子なのか涼宮ハルヒなのか区別がつかない。 もしかしたら本物の橘京子が嘘ついて涼宮ハルヒを名乗っていることもありうる。そう考えた方が手っ取り早いし、納得もできる。 しかし…… 「橘。お前こんなところで何をやっている?」 昨日と全く同じ質問を投げかけた。 「へ?」 お惚け顔の『ハルヒ』……いや、『橘』でいいのか? ……が、本物そっくりの素っ頓狂な声を出した。 「キョンくん、何を言ってるんですか。やっぱりお医者さんに行った方がいいのです。古泉さんに紹介してもらったあのお医者さん、あそこなら見てくれるかも」 『古泉さん』か……一人称や俺の呼称だけでなく、三人称まで橘になってやがる。これでは本当に区別がつかん。 「さあキョンくん、行きましょう!」 「な……おい! 待て!」 そして橘は、俺の制服の裾を引っつかみ、強引に坂を下りだしていた。 「授業はどうするんだ!」 「昨日も言ったじゃないですか。後から幾らでも取り戻せばいいのです」 「別に授業が終わってからでもいいだろうが!」 「それはダメですぅ。団活の時間と重なっちゃう。昨日も言いましたけど、団活の時間は勉強と違って取り戻せないの。学校で授業を受けるよりもはるかに貴重な時間なの。だから今行くの」 「ああ……そうかいそうかい」 半分、いや、8割5分ほど投げやりになった俺は、サンタクロースが運んでいる大きな白い袋のようにもぐいぐいと引っ張られながら橘(ハルヒ)と共に他の北高生の逆方向を突き進んでいた。 何だが、事態は更にややこしいことになってきたみたいだ―― 途中で谷口と国木田に会った。 簡単な挨拶と欠席を担任に伝える旨をほんの二言三言交わしただけで、しかしそのままスルーされたことは伝えておこう。一応念のため。 確かに暴走した橘(ハルヒ)を止めるために体をはろうなんて奴はうちのクラス、いや、北高全生徒前教員を見渡してもいるとは思えないし、それならば110番や自衛隊などの応援を呼んでくれればそれだけで万事OK牧場だったのだがそんな俺の淡い期待はものの見事に肩透かしを食らい、例えではなく市中引き摺り回しの刑を言い渡され、その後打首獄門の刑にも似た懲罰を受けるかもしれない俺を見たらならば、いっそのこと関わりにならない方が良いんじゃないかと思って誠心誠意を尽くして力の限り無視する気持ちは存分に分かる。 だが、少しは俺の立場になって考えて欲しいものである。俺だって、やりたくてこんな子としてる訳じゃないんだぞ。 とまあ、俺の唯一無二……とまでは言わないが、そこそこ心を許せるクラスメイトですらこんな対応であるから、そこまで親しくも無いクラスメイトやその他同級生、果ては我が後輩たちが取る行動は唯一つ。それは即ち見てみぬ振りをし、知らぬ存ぜぬを決め込むことであり、当然と言いうべき事象にカテゴライズされる。 皆が皆、力の限り俺たちを空気や石ころのように扱って普段と同じように丘の上の学び舎を目指しててくてくと歩いているのである。 そんな風景をみてますます気が重くなるが、勿論俺の心境などわかる筈もなくひたすら坂を下り続けるツインテール。 「やれやれだ……」 俺の一段と溜息が深くなった。 だが、一つ分かったことがある。 こいつはやっぱりハルヒだ。この突拍子も無く、見た目を気にしない行動は俺が知っている涼宮ハルヒと同じである。昨日俺に保健室に行くように命じた、あいつと同一人物であるのは間違いない。 何より、こいつは昨日の出来事を明確に覚えていた。もし本物の橘が入れ替わってハルヒを自称したのならばそこまで頭が回らないだろう。あいつは馬鹿だし。 同じ人物(橘の姿をした涼宮ハルヒ)が、更に変貌を遂げている。 昨日は姿のみ。今日はさらに喋り方が加わった。 「つまり……」 そこから導き出される結論。それは―― ――ハルヒが橘へと変化している。 「…………」 かなり重い議題のような気がする。 現状では性格そのものはハルヒのものをかろうじて残しているような印象を受けるが、もしかしたらこれは明日にも消えてなくなってしまうかもしれない。 もしそうなった場合、ハルヒという個人、個性は消えてしまうことになる。 それは涼宮ハルヒの存在が無くなること……死んだも同然である。 ――今までの世界が、消えてしまう―― 心の中で反芻した。 俺が望んでいた世界、俺が散々苦労して取り戻した、日常的で且つ非日常的な世界が全て消えてしまう。 入学式に電波発言をした涼宮ハルヒ。その力を重要視した宇宙人未来人超能力者。そして各勢力から派遣され、今や立派に涼宮ハルヒの愉快な仲間達となった、SOS団の面子。 強硬派の宇宙人端末に殺されかけた事もあった。麗しき部室専属メイドと一つ屋根の下で添い寝をしたこともあった。超党派のアクション劇にヒートアップした事もあった。 それら全ての出来事、そしてこれから起きる出来事。全てデリートされてしまうのだ。 ――それだけは避けなければ……―― 悠長に構えていたが、どうもそんなわけにも行かなくなった。元の世界に戻る方法を、なんとしてでも見つけなければいけない。 リミットは……わからないが、できれば今日中。 「さあ、きりきり行くのです!」 細くて白い腕に似合わず、やたらと強い力でグイグイ袖を引っ張られ、ふと我に返った。 俺の右腕から伸びる袖の先を見る。空いた方の腕で携帯を取ってなにやら電話をしている橘(ハルヒ)の姿。聞くからに、古泉に連絡を取って医者にコンタクトを取ろうとしているらしい。 その光景は、姿や声、そして喋り方まで橘になってしまったハルヒが唯一ハルヒとしてアイデンティティを保持するために力を発揮しているようにも見えた。 ハルヒよ。お前もこんな姿になって不本意だろう。なるべく早く元の姿に戻してやる。頼むからあまり暴走しないでくれ。 坂の下までてくてくと歩くとそこには黒塗りのハイヤーが待ち構え、運転手が侍られていた。以前何度か見たことのあるこのハイヤーは勿論…… 「あのね、古泉さんが手配しますって言ってくれたのです。これで長距離を歩く必要はなくなったのです」 っと、先に橘(ハルヒ)に説明されてしまったが、つまりは古泉の差し金だ。そういえば古泉はまだ橘の姿をしているのだろうか? 他の奴らの姿も気になる。 確認をしたいとは思うが今の状況ではそれを許してくれそうに無い。 「早く検査しに行きましょう。今の状態なら通院くらいで治療できそうです。入院するにしても検査入院で数日くらいで済みそうなのです」 ハイヤーに乗り込みながらもなぜか楽しそうに言葉を続ける橘(ハルヒ)。悪いが入院している暇なんてものは無い。一日でも早く元の世界に帰えらないと、それこそ取り返しのつかないことになる。 医者に何とかして話をつけ、少しでも早く脱出しよう。その方がいい。 ただ問題は医者が俺の言うことを聞いてくれるかどうかだ。変なことを言ったらそれこそ精神的にアレな人と勘違いされ、そのままベッドに直行されかねない。古泉辺りに連絡を取って、算段をつけたいのだが…… 「どうされましたか? どうぞお乗りになってください」 あ? は、はい。すみません。 朗らかな笑顔を見せる白髪の混じり始めた運転手の柔和な一言によって、俺は今後の予定を練る事を中断させられた。仕方なく橘(ハルヒ)の横に腰をかけ、発進を待つことにした。 仕方ない、移動中に対策を考えることにしよう。 全然考える時間など無かった。 橘(ハルヒ)は運転手のことなど気に求めず俺に話を振ってくるため、それの対応で忙しかったのだ。 無視しようモンなら『ちょっと聞いてるんですかキョンくん!』と車の中にもかかわらず大声で怒鳴られ、自分の話を聞けと言わんばかりの吊り上った顔を俺に向けてくるのだ。 話の内容は、別段注意して聞くようなものではない。最近の受験勉強の進捗状況について。朝比奈さんの大学の大学祭で会場を占拠してSOS団を宣伝する計画について。今日のイベントについてエトセトラエトセトラ…… 以外にも上機嫌でまくしたてる橘(ハルヒ)の太鼓持ちを程々にしつつ、俺はあることに気がついた。 寝たふりをしていればよかったかもしれない、と。 「ここですね。……なんか地味」 お目当ての病院は俺達が車に乗り込んでから30分もしないうちに到着した。以前俺が階段からこけて意識を失った(という事になっている)時に担ぎ込まれた総合病院とは異なり、それと比べて二周りほど小規模の医院であった。 「文句を言うな。医者に地味も派手も煌びやかも関係ないだろ。重要なのは腕だ」 ただし――この医院は脳外科専門に扱っているらしく、総合病院と比べると大きさこそ見劣りするかもしれないが単科病院としてはかなりの規模をもっている。新設なのだろうか、外装も殆ど汚れてなく綺麗な状態を保っている。 「それもそうですね。それにここは古泉さんのお勧めなのです。前の総合病院よりもここの方がら最新設備がそろってて具合がいいんですって。だから脳の異常も直ぐに発見できるそうなのです」 ハイヤーでの移動中、俺の携帯に受信したメールの内容がそのままそっくり説明された。 要らない所の気配りが用意周到な好青年のポテンシャルは健在であり、普段なら舌打ちして削除するこのメールにむしろ有難味を感じてしまったが、あいつにそんな事は絶対言わないつもりだ。 「でもラッキーです。こんなに直ぐ近くに脳外科の専門医がいたなんて。しかもイの一番に診察してくれるそうよ。よかったですね、キョンくん」 にこやかな顔を浴びせる橘(ハルヒ)。恐らく――というより、間違いなくその病院は機関の息がかかっているだろう。以前から機関は有事に備え様々な分野に進出してきている。ハルヒを退屈させないために。この病院もおそらくその一環だ。 機関の息がかかっているのであれば、医師も間違いなく機関の同胞か協力者と見ていいだろう。 それなら話は早い。 どこぞの訳のわからない大学病院の教授が出てきて延々と専門用語を並べられた挙句、様子見でもう一週間後に来てくださいなどと言われないだろう。 診察中と偽って早い段階で抜け出し、皆と合流することも可能だ。もしかしたら古泉はもう既にそこまで来ているのかもしれない。頼むぞ古泉。SOS団の副団長であるそのニヤケ面、今回ばかりは早く拝ませてくれ―― さすがに今回ばかりはそう願ったね。 受付で簡単な手続きを済ませた後、待合のソファーに座るまもなく診察室へと呼ばれた。そのまま医師の待つ部屋へと直行することとなり、 「ハルヒ。そこで待ってろ」と言葉を残してそこから離れる予定だった。しかし、 「あたしもいくのです」 と言うもんだから、俺が必死の思いで立てた病院脱出プランは早々に変更せざるを得なかった。 「子供じゃないんだ。一人で診察くらい受けられるさ。だからそこで待っててくれ」 一応念のために反抗してみる。どうせ徒労に終わるんだろうがな。 「何言ってるんですか! あたしは団長なのです。団員の健康状態を把握するのもトップとしての責任なのです!」 ほら予想通りだった。なら仕方ない。 「わかったよ。ならついてきてもいいが、お菓子をもらえるわけじゃないぞ。それに注射器を見て泣き出すなよ?」 「あたしがそんなことする訳ないじゃない! いい加減にしないと怒りますよ!」 よかった。『いい加減にしないと泣きますよ!』と言い出すんじゃないかと思って内心ビクビクしてたぜ。その辺はやっぱり橘京子と違うところだ。完全に橘京子化するまでには至ってない。 「早くしてください。異常が無かったら今日のイベントは決行するんだから、宜しくお願いしますよ!?」 ……そういえばそんなことを言ってたっけな、橘(ハルヒ)の奴は。 昨日の夜、いきなり俺に電話をかけてきて、速攻でとある準備する様に命じられた、アレ。 だから俺はあんなに重い荷物を抱えて坂を登ろうと頑張っていたんだったっけな。今となってはその荷物は先程のハイヤーのトランクで静かに眠りについているわけだが。 「はいはい、分かりましたよ。でももし入院することになったらどうするんだ?」 「そうねえ……その際は、ここでやればいいじゃないですか? ああ、その方が面白いかもね。滅多に体験できないことでしょうし、そっちの方がいいかもしれません」 おい、ちょっと待て。それはさすがに迷惑だろうが。他の入院患者さんや看護士さんの身にもなって考えろ。 「大丈夫なのです。先生に話をつけて、1等個室を借りることにするのです」 たかが検査入院でそんないい個室を貸しきってドンチャン騒ぎをするってのか? 本末転倒だろうが。 「どうせ金持ちか要人用しか使われない部屋でしょうし、そんなに需要は無いはずです。ならば皆で楽しく使った方がいいに決まってるのです!」 需要があれば騒いでもいいって訳でもないだろうが。 「とにかく! キョンくんあなた今日一日入院することにしなさい! あたしが医師の先生に打診してあげるから!」 先程は少しでも早く退院するように打診していた橘(ハルヒ)であったが、何時の間にか一転、本日一日は絶対入院しなければいけなくなってしまった。となると、今日一日俺は本当に入院しないといけないのだろうか……? いや、間違いなくその通りになるだろう。 この病院は機関の息がかかっており、機関はハルヒの機嫌を損ねることは決してせず、ハルヒの望みどおりに事を運ばせようとする習性がある。ハルヒの今の心境が一日入院を望んでいる以上、その通りにしなければいけないはずだ。 アレを決行させるために。 ――そろそろ説明もなしに事を運ぶのがきつくなってきた。本日何をやる予定だったのか。あいつが望んでいたアレとは一体何だったのか。昨日俺に様々なものを準備させて、一体何をしでかそうとしたのか。 実は言いたくなかったのだが、状況を見る限り説明せざるを得ないだろう。俺は橘と違って空気が読める方だ。場の雰囲気を読んで行動することには長けている。 いいか皆の衆。耳の穴かっぽじって良く聞くがいい。 何と! 本日はSOS団結成から丁度2年目である! その栄誉を称え(ハルヒ談)『SOS団創立二周年記念パーティ』なるものを開催しようと言い出したのだ! ……ああ、分かってる。これを言うだけのために散々引き延ばしたのは悪かったさ。だけど少しは俺の見せ場も必要かと思ってだな…… ……頼むから、橘京子並に意味不明だな、何て言わないでくれ。腫れ物に触るような目で見ないでくれ…… 『ほら、昨日鶴屋さんが作ってくれたストロベリーパイが美味しくて、すっかり忘れていたのよね。こういうイベントはきっちりとこなして行かなきゃね。祭りってのは神が人間に与えた最大級の娯楽の内の一つだし』 とは昨日の電話で、まだ橘口調になる前のハルヒが述べた文章だ。 そのパーティを円滑に進めるためと称して、俺は様々なパーティグッズ並びに必要小物を持ってくるように言われたのだ。 パーティグッズは多岐にわたっている。マイク、スピーカー、ラジカセ、ハリセン、模造紙、油性マーカー、蝶ネクタイ、カツラ、ラメ入りタキシード、現役を引退した妹のランドセル、紅白帽子エトセトラエトセトラ…… それらを旅行用のボストンバッグに全てつぎ込んで、ひいこらと地獄坂をよじ登っていたのが本日の朝のことである。 スピーカーや妹のランドセルはともかく、カツラやラメ入りタキシードが一般的家庭である俺の家にあったのかは聞かないでくれ。 ……まあ、新入生の入団案内の時に使用したものを俺の家に置き去りにしていただけなんだけどな。 本来は去年と同じく、鶴屋さんの家の敷地内で行う予定であった。去年は山桜だったから、今年は水芭蕉を愛でながら執り行おうと昨日いきなり鶴屋さんに連絡を入れていたのだが、あっさりとOKをだした鶴屋さんの懐の広さには最早脱帽するしかない。 しかし、突然会場を病室に変更することになったのだが、それでも鶴屋さんは許してくれるのだろうか? いや、多分OKをだすんだろうな。そしてパーティに必要な様々な料理や部材を病室に運び込んでくるに違いない。 ――やれやれ。参ったぜ。 「あのですね。この子頭がおかしいんです」 診察室にはいるや否や、開口一番に医師に向かって言ったセリフがそれである。 「馬鹿野郎。それじゃ俺がお馬鹿さんみたいに聞こえるじゃないか」 「お馬鹿さんなのは確かでしょ? センター試験の模擬で未だ満点の半分以上も獲得したことが無いんだし」 まだ未修得の内容もあるからいいんだよあんなもんで。ってそんなことはどうでもいい。 「事の次第は既に聞いております。記憶を司る神経細胞に異常が見られるかもしれないとの事でしたね。では早速ですが診察しましょう」 俺が言葉を切り出す前に、総髪姿の医師が喋り始めた。 「今から簡単なアンケートをします。少し前の記憶をきちんと把握できているかの確認になりますので、分かる範囲で答えた下さい。それでは始めますね。今日は何時頃起きましたか?」 えー、と。7時前くらいかな? 「今日の朝ごはんは何を食べましたか?」 ご飯とお味噌汁と、くさやの干物ですね」 「そうでうすか、アレはなかなかの美味なんですよね。臭さも病み付きになってしまう」 あ、先生もそうですか? 実は俺もそうなんですよ。身を千切りにしてご飯に入れて、お茶漬けにして食べたらもう…… 「キョンくん、話をそらさないで、ちゃんと先生の質問に答えて欲しいのです。先生、次の質問を」 「あ、ああ、そうだね。先生としては焼酎との組み合わせが最高なんだが……失敬。では続いての質問です。それでは3日前の夕食の内容は覚えていますか?」 3日前? うーん、いきなり言われて直ぐには出ないぞ。3日前……3日前と言えば日曜か。あの時はたしか…… 「あ、思い出しました。外食です。外食」 「ほう、では何を食べたか覚えているかい?」 「ええと、結局烏龍茶一杯くらいですね。昼に食べ過ぎて」 「なるほど。ではその昼食は何を食べたか。答えられますか?」 「あの時は……」 「ストーップ!!」 絶叫とまでもいかないが、そこそこ五月蝿い叫び声がそれほど広くない診察室を揺るがした。突然問診をストップさせたのは勿論、 「どうしたんだ、ハルヒ?」 「そ、そんなことどうでもいいじゃないですか。夕食の内容を覚えていたからその質問はクリアって事でいいのです。ですよね、先生!」 「いや、しかし……」 「い い で す よ ね ?」 橘(ハルヒ)の剣幕に圧倒され、一瞬たじろぐ先生。口調までは橘京子なのだが、こう言った第六感に左右される行動は涼宮ハルヒのそれを残しているのがわかる。やっぱりハルヒなんだな。こいつは。 だがおかしい。いや、気のせいかもしれないが…… 「あ、ああ……そうだね。それじゃあその質問は終わりと言うことで……他の質問に移ろう」 やたらとビクビクしながらその質問に触れない先生。女子高生のガン見にびびったと言うわけではないだろう。恐らくハルヒの機嫌を損ねることによる、組織の制裁を恐れてのことだろう。何となくだがそんな気がする。 そんなこんなのハプニングがありつつ俺が感じ取った疑問点も無視しつつ、脳内異常を測るアンケートは続けられた。 と言っても結局記憶に関することばっかりである。クラスの奴の名前を5人言ってみてくれとか、最近習った数学の公式を言ってみろだとか、自分や家族の名前を漢字で書いてみろとか、今何問目だとか……少々馬鹿にしているような質問もあったな。 その一つ一つの質問の内容を先生はカルテに書き込み、そして俺とカルテと、そしてなぜか橘(ハルヒ)を交互に見ては唸っていた。未だにビクついているようにも見えるが、気のせいだろうか? 「先生、どうなんですか?」 橘(ハルヒ)が痺れを切らして質問する。 「……えーと、うーん……そうだねえ……」 やっぱりなぜか驚いたような返答をする先生。その小さい声が閑静な診察室に響き渡る。 あまり良くない症状なのだろうか? というか、俺は今まで健常人だと思っていたのに、もしかして何か異常が見つかったとか? そう思うと不安が大きくなる。 「うん、君の症状だが……」 ゴクリ。 鳴ったのは、俺の喉の音か、それとも橘(ハルヒ)の音なのか? そして…… 「君の症状だが、特に何とも無いね。健康そのものだよ」 …………。 「おや、どうしましたか?」 えらく不安を煽ったその言い回しは今時流行らなさそうなじらし戦法でしたかそうでしたか……。勿体つけて言うからビックリしたぜ。何とも無いなら軽く言って欲しいもんだ。 「いやいや、ごめんごめん。だけど、もしかしてと言うこともあるし、一応機械で検査をしてみよう。既に準備もしているから、あとはオペレーターの指示を仰いでくれたまえ」 そう言うと先生は椅子をくるりと半回転させ、 「CTおよびMRIの準備を」 診察室の裏側、医療用の機器を洗浄している看護士の一人にそう伝えると、「はい」と答えたその看護士はさらに奥の部屋へと急ぎ足で向かっていったようだ。 一瞬その看護士さんの声が森さんの声に聞こえたが……気のせいだろう、多分。機関が暗躍しているとなると、何故か森さんが全て裏で操っていると考えるのは病気の前兆かも知れない。 「では君は診察用の服に着替えて」 「あの……こんなものまで来て診察するって事は、結構時間がかかるんでしょうか?」 「そうだねえ……検査には数時間、多分昼過ぎには全部終わると思うけどね。ただ、その検査の結果が出るまでもう一日かかるから、今日一日は入院という形をとってもらうよ」 やはり、ハルヒの望むとおりの結論になってしまったか。しかし、俺は元の世界に戻るために奔走しなければいけない。 「今日は用があって……入院だけは勘弁できませんか?」 「定時検診をしたいので、その意見は受け入れられないね。でも、それ以外の時間であれば自由に外出してもらっても構わないが」 「そうですか……わかりました。」 ここで折れることにした。あまりしつこく入院を断ると、橘(ハルヒ)が不審に思ってしまう可能性大である。それに抜け出せさえすればこっちのもんだ。定時検診など無視して元の世界に戻る調査をするまでだ。 「うんうん、あたしの予想通りの結果になったのです。それじゃあ本日16時より、ここで行うことにするのです! 先生! この病院で一番いい個室を借りますね。あと、他に何人か呼びますから、よろしく!」 橘(ハルヒ)はプラズマ級の勢いと笑顔で先生にそう答えた後、ドアを蹴飛ばして外へと出て行った。 おおーい、本気でここでパーティをやる気なんですか……? 未だ許可も何ももらってないんですが…… 「ご心配には及びません」 へ? 「既に部屋は確保してあります。病院の離れにある特別防音壁を用いた一室をご用意してあります。どうぞごゆるりとご歓談ください」 俺の目の前に現れた、淡水色のナース服を着こんだその人は、先程機器を洗浄していた看護士さんであり―― 「それと、診察の準備ができましたので、ご移動をお願い致します」 「森さん!?」 ――やっぱり見間違いではなかった。 ある時は富豪に雇われた臨時メイド。ある時はWRC級のドライブテクニックにも動じないオフィスレディ。 森、園生さんだ。 「…………」 俺の呆然とした顔を見て、彼女は清純な少女特有の笑みを見せていた。 「どうですかこの衣装? ちょっとわたしには似合わないかも。それに少し恥ずかしいですし……」 ちょっと照れくさそうに笑うその人は、言葉とは裏腹にばっちりとナース服を着こなしている。 ナース服と言えばマイクロミニでピンクのフリフリってのを思わず想像してしまうが、もちろんそんなわけはなく、森さんが着ていたのは至って普通の、悪く言えば野暮ったい衣装である。 しかし森さんの着こなしは完璧だった。派手さは無いものの、女性特有の美しさを壊すことなく、最大限引き出している。そう言えば、メイド姿の森さんもそんな感じだったしな。 いや、もっと言うと、森さんはセーラー服を着ていようが着物を着ていようがリクルートスーツを着ていようが違和感を微塵も感じさせることなく着こなすだろう。そう言うお方だ。それは森さんの年齢が不詳と言うこともあるが。 「どうしてここに?」 「看護学校を卒業して、今は見習いとしてこちらに勤めています……じゃ、納得しませんよね。実は、現在発生している元の世界との位相のずれをこちらで調査しているのです。そして、その件であなたに報告しなければならないことがあります」 森さんは続けた。 「現在、涼宮さんを始め、あなたに関連のある何人かが橘京子の姿へと変貌させられています。詳しい事はまだ調査中ですが、やはり大いなる力が作用していると考えられます」 「大いなる力……」 ハルヒが所有している、後天性願望成就能力のことだろう。 「ええ。その通りです。涼宮さんの例の力によって世界が大きく改変されたと機関内でも意見が一致しております。ですが彼女の力だけでこのような事になったとは思えないのです。誰か……別勢力の介在により、世界が変貌を遂げたとしか思えません」 軽い微笑みを絶やさずも、抑揚のない口調で話す森さん。演技なのかも知れないが、努めて平然としているこの態度は逆に不安を煽られる。堪らず森さんに質問を浴びせる。 「別勢力って、機関と対抗している組織とか、長門とは別の宇宙人とか、御子孫様々とか……ですか?」 「ええ……」 力なげに下を向き、申し訳なさそうに返答する。 「宇宙人や未来人の方はともかく、我々機関の仇なす組織はいくつかあり、監視の目はいつも向けています。そんな中、橘京子の所属する組織がここ数日で活発な活動を始めたのです」 みんなでスイーツバイキングに行くとかなら、橘の所属する組織に限ってはあり得ない話ではなさそうだ。 しかし森さんは首を横に振り、 「組織が活動源とする居所、俗に言うアジトですが、そこに人や物資の出入りが頻繁に行われるようになってきたのです。とは言え、軍事兵器とかではなく主に食料でしたので、それほど緊急警戒態勢をしく必要もないと思い監視のみ続けていたのですが……」 ここで一段落し、森さんはさらにトーンを下げ、俺に一礼をした。 「一昨日ですが、突然組織のメンバーが忽然と消えてしまったのです。どこに消えてしまったかは……申し訳ありません。未だ発見できておりません」 今度は逆に頭を上げた。 「ですが、機関の人間、および協力者を通じて、組織の行方を追っています。今回の事件のキーとなる人間、橘京子を何としてでも探し出さなければ行けません」 「やっぱり今回の事件は、橘の奴が鍵を握っているのですか?」 「外見があの忌々しき橘京子になってしまったという以上、彼女に責任がないとは思えません」 眉をピクピクと動かすナース姿の元メイドさんのその表情に、その場に居た人間達は戦慄を覚えたはずだ。ほら、さっきまで俺を診察していた先生が硬直しきっている。 やっぱり機関の差し金で動いていたか、先生。 「何としてでも彼女を見つけ出し、今回の真相を洗いざらい吐かせますので、ご安心を」 森さんが見せる美しい笑顔の中に、何故か俺はおぞましき憎悪の念を感じたんだが……気のせいだろうか? 「いえ、そんなことはございません。前回頂いたカカオ100%チョコレートのお礼に、激辛カレーラムネを1ダースほど飲ませようなんて考えていませんから。あれもスパイスタップリで、橘さんの健康によろしいかと存じまして」 …………。 「では、検査室まで案内いたします」 待ってください。本当に診察するのですか? 「ええ」 ですが、俺は特に悪いところなんてありませんよ? 「承知しております。ですが、演技だけですませるわけにはいかないのです」 森さんは語った。 「涼宮さんの精神状態は、現状あまり良いものではありません。古泉から既にお聞きかとは思いますが、我々は彼女に精神的な負担をかけることをよしとしないのです。今あなたを診察していると考えている以上、我々はそうせざるを得ません」 言いたいことは分かりますが、でもなるべく早く元の世界に戻さないと、大変な目に遭うんじゃないですか? 「では、ちょっとしたたとえ話をしましょう。今あなたが外に出かけたとします。そこで万一にも涼宮さんとあなたがばったりと遭遇した場合、涼宮さんの機嫌どうなると思いますか?」 良くはならないでしょう。『何勝手に抜け出したんだ』って怒るでしょうね。 「ええ。我々もそのように推察しています。そしてそれは、この世界の崩壊へと着実に足を進めてしまうことになるでしょう。不安定なこの領域に於いて、そのスピードは通常の何倍、何十倍といった速度で」 確かに。あいつはそう言うときに限って勘の働く奴だ。こちらの嘘を徹底的に暴き出す可能性は高い。 「だけど、それなら出会わないように仕向ければ良いじゃないですか。監視の目は、どうせハルヒのところにもあるんでしょ?」 「ええ、仰るとおり。確かに可能です。ですが診察が終わった後の事はお考えになっていますでしょうか? 涼宮さんはきっと、あなたの元に来て、診察結果を尋ねて来るでしょう。その時、あなたは一人で芝居を続けられますでしょうか?」 「どこも異常が無かったとか、あるいはわからなかったと言えば良いでしょう?」 「言い方を変えます。実際に診察もしていない装置の体験談を、あなたは明確に伝えられますか? 「あ……」 「涼宮さんのことです。一般人が体験出来辛い体験をしたあなたに、瞳を据えられることとなるでしょう。もしそうなった場合、あなたは返答に思慮することとなり、それを見た涼宮さんが怪訝に思う……違いますか?」 森さんの推察にぐうの音も出ない。 これから受ける検診がどんなものか知らないと、人に聞かれても答えられないだろうし、それで本当に検診してきたのか? と不審に思うのも当然である。これはハルヒでなくても一般的成人なら誰だってそう思うだろう。 「だけど、橘の捜索はどうするんですか?」 「我々が捜査範囲を広げて尽力を尽くしております。ですからご安心を。急改に至るまであと数日は猶予があると思いますが、その後あなたのお力をお貸し頂くことになるでしょう。それまでしばし休養を。今日はこちらでゆっくりとしていって下さい。」 森さんは安らぎを振りまくようなスマイルを俺に当てた。誘拐された朝比奈さん(みちる)を取り戻したときと似た微笑み方である。古泉も見習って欲しいものである。……ま、男がそんな笑い方したら気持ち悪いだけかも知れないが。 「わかりました。お願いします。それでは森さん、検査室まで案内をお願いします」 「了解致しました……あれ? 検査室ってどっちだっけ……?」 不安げにきょろきょろと辺りを見回す。 「森さん、機関の仕事がメインなのは分かっていますけど、ナースのお仕事もちゃんとしてくださいね」 「……えへ、ごめんなさい」 俺のちょっとしたからかいの言葉に、森さんは更にはにかんだ笑みを見せてくれた。 検診はそれから数時間行われた。 全部機械がやってくれるから直ぐに終わると気楽に考えていた。しかし、現実はそう甘くない。 何だかよく分からない薬を飲まされ、変な台に乗せられ、撮影中は息を止めろだとか、微塵も体を動かすなとか、ともかく面倒くさかった。 何よりも驚いたのが、この検査は放射線を使用して撮影を行った件である。 放射線を全身に浴びせるのは非常にまずいんじゃないかと先の医者に申し出たのだが『レントゲンみたいなものだから大丈夫。はっはっは』と乾いた笑いが俺に届き、むしろ不安を煽ったのだ。 森さんの睨みにビクビクする医師の言うことなどあまり当てにも出来ないし……失敬、人のことは言えないな。 そんな俺の心境を汲み取ってか、どこからとも無くやってきた森さんが『撮影に必要のない部分は、鉛を主とした防護壁でエックス線を遮蔽しましたからあなたの大事な部分の影響もほとんど無いはずです』と付け加えた。 大事な部分? 一体どこですかと聞くと、森さんは『さあて、どこでしょうかね』と答えをはぐらかしていた。 何故かそこにいた医師や看護士達もくくくと笑っているように見えるが……まあいい。 しかし思ったよりも疲れたな。昼飯も食わずにずっと診察していたから腹も減ってきた。 「お疲れ様でした。お食事のご用意は整っていますので、病室の方に案内いたします」 そう答えたのは身近にいた看護士さん。ただし森さんではない。森さんは橘及び関連組織の捜索隊を指揮するため、この場から離れた(らしい)。 というわけでご飯を食べるべく、早速病室へと向かったのだ。 「こちらでございます」 まるでメイドさんのように病院内を案内され、そして最後に今後お世話になる(といっても一日だが)離れの病室へとたどり着いた。 看護士さんがドアも開けてくれるもんだから俺のやることと言ったらそのまま病室の中に入り込むことくらいしかない。あまりにも仕事熱心な看護士さんに感謝しつつも扉をくぐり、部屋に入って辺りを見回した後の一言。 「広ぇ……」 なんつう広さだ。俺の部屋はもとより、俺たちが根城としている部室よりも大きい。フットサルをするには少々狭いかも知れないが、スリーオンスリーなら余裕で出来るだけの広さがある。 しかも装備も豪勢だ。ベッドが普通のより大きいのは言うに及ばす。テレビはプラズマだし、ビデオレコーダやPCまで置いてある。少し遠くには冷蔵庫にキッチン、ならびに洗面台。そして更に奥には何とトイレとバスルームまでついてやがる。 極めつけはベッドのとなりにソファーとテーブルまで鎮座している。しかも複数。これは病室と言うより、高級ホテルのスイートルームと言った方が早いかも知れない。 ハッキリ言おう。もったいない。 この部屋を大部屋にしたらベッドはそれこそ何十台とはいるだろうし、検査入院なんかじゃなくてもっと必要な患者のために割り当てた方がいいと思うんだけどな。 「要人用の個室でございます」 要人……所謂VIPの人たちが使用する病室って事だ。確かにそう言った人たちのためには必要な設備かも知れない。しかし、もっと大きな総合病院ならともかく、何故それ程大きくもない単科病院にこれほどの施設があるのだろうか? 「あまり大きい施設では目立ちすぎまして、要人を狙う族共の格好の的になってしまいます。ですから住宅や商店街などと入り組んだこの場所にこぢんまりとした施設を建設したのです。狙われにくいので、この部屋の需要は結構あるんですよ」 にこっと微笑む看護士さん。まだ幼さの残る彼女は、笑い方、姿、そしてオーラ。全て森さんに酷似していた。さらっと怖い事言う辺なんかそっくりだ。もしかしたら森さん直属の部下なのだろうか? 怖いので聞く気にはなれない。 「せっかくですけど、俺は検査入院ですし大部屋で構いませんよ」 「いえ、あなたは既に要人と化しています。そのためにはこの部屋の提供を惜しみません」 「要人ってったって、別に命を狙われてるわけじゃないですし。俺には必要ないですよ」 「あなただけ、ではありません」 にこやかな顔が、一瞬まじめさを取り戻した。 「あなたの周囲にいらっしゃる皆様方が要人です。その方達を全てお招きするにはこれくらいの広さが必要でしょう」 皆様……招き入れる……まさか。 「ええ。こちらで行うと伺っております。記念パーティを」 再びからっとした笑顔で喋る看護士さん。まさか本気でここでやるとは思わなかったぜ。 計画を考える方も頭のネジが緩んでいるが、それを受け入れる方も同罪だ。やれやれ。 「なるべく、静かにやりますんで……」 「あら、じゃんじゃん騒いでもらっても構いませんよ。シアタールームに匹敵する遮音性を兼ねそろえておりますから。他の患者さんの迷惑になることは御座いません」 ニコニコと笑う彼女に、俺は再び溜息をついた。 機関関連の女性ってのは、こんな人ばっかりなのかね。 その後、病院より供給された飯を食べ、食後のお茶を嗜みつつ、一人で寝るにはやや広すぎる感のあるベッドへと移動した。 テレビを見ること以外何もすることのない昼下がり。最初は普段見ることのない昼ドラをこれ楽しみと暫く見ていたがそれもやがて終わり、暫くして始まったワイドショーを暫くつけっぱなしにしていたが、それもだんだんつまらなくなった。 やがてテレビの電源を切り、ぽけーっと突っ立って今後の方針を数学の実践問題を解くよりも深く悩んだあげく、その場に寝ころんだ。 「暇だ……」 早急に橘を探した方が良いのは確かなのだが、如何せん手がかりがない。よく考えたらあいつの高校の場所を知らないんだ。 長髪のハルヒを探した時みたいに、高校の門を見張る方法は採用できない。 それに森さんを始め、機関が橘と関連組織の発見に全力を注いでいる以上、俺がやるべきことは取りあえずこれから行われるパーティに参加して、皆の動向を掴むことくらいだ。 が、それまでまだ二時間程度時間がある。この微妙な時間を潰すためには、普段学生ができない事……そうだな、平日の昼間に堂々とベッドで寝る。これもまた一興。 そう言えば昨日もこの時間に寝てた様な気がするが、その件は対岸の火事と同じ認識をして頂ければこれ幸いである。 座布団代わりにしていた枕を手繰りよせ、真っ白なシーツに包み込まれる。こうしていればカップラーメンにお湯入れて待つ時間よりも早くα波を脳から放出してくるのは今までの経験論から言ってほぼ間違いない。 しかし。思わぬ誤算で俺の計画は早速頓挫してしまった。 「全然眠くねえや……」 昨日寝過ぎた事による弊害なのか、それとも授業中異様に眠くて眠くて仕方ないのに、いざ家に帰ってさあ寝ようとするとなかなか寝れない時と同じ症状が発生しているのか。あるいは意外と豪奢だった昼食に覚醒剤でも入っていたのか。 言葉通り、全然眠くならないのであった。 さて困った。寝ること以外にやることが見つからない。テレビもゲームも、ネットサーフィンもする気が起きない ちょっと散歩でもしようかと思って外に出るとタイミング悪く皆がやってくる可能性大だし、それ以前に機関の連中が俺をここから出してくれるとは思えない。 退屈な時間を潰す良い方法。何かないもんかね。ハルヒが常日頃から言っていることも強ちわからんでもない。 ハルヒと言えばさっき状況報告の催促を旨とするメールがハルヒから届いていたのだが、今送り返しても授業中だろうから送り返しても直ぐには見てくれないだろうし、それによる弊害(着信音やバイブが教室に響くこと)が発生したら俺が叱られる。 ならば向こうから連絡を待つしかないだろう。これも暇を持て余す原因の一つなのだが致し方ない。 あれ、待てよ? ハルヒは学校に戻るとは言ってなかった気がする。だとすれば……今日一日は授業さぼる気満々でいたから他のこと、恐らく今日のパーティの準備をすべく、部室か鶴屋邸に潜入しているかもしれない。 姿形が他人と入れ替わってもやることが変わらない奴だ。とは言え、姿形通りの行動をしてもらってもそれはそれで困る。お菓子を貪りながら『ふぇぇ~ん、ひどいですぅ』という声をハモらせるくらいなら朝倉を復活させた方がまだマシだ。 ……スマン、言い過ぎた。冗談だから復活だけは勘弁な。 トントン 考えを改め、橘京子が2人になった場合にのしかかる俺の負担は、うちの妹が2人になった場合とほぼ同等じゃないかという結論に達したその時、扉をノックする音が聞こえた。 「開いていますよ。どうぞ」 努めて丁寧な口調でまだ見ぬ来訪者に答えた。扉をノックするという時点で来訪者がハルヒを始め、谷口や妹といった乱暴者か狼藉者である可能性は完全に消え、残るはナースか或いは朝比奈さんと言った『天使』が枕詞にふさわしい人物に違いない。 願わくばナース姿の朝比奈さんがニッコリと笑みを振りまいて入室して欲しいと言う俺の願望は声帯にも影響を与え、いつもより15dB程凛々しく発音することとなったのは全くの余談である。 ガチャリとドアノブが稼動する音が聞こえ、続いてコツコツと廊下をはたくような音が病室にこだまする。 音の方に目線を向けると、そこには見知った顔。 「やあ、キョン。涼宮さんから連絡を賜ったよ。受験勉強によるストレスでついに脳内神経が短絡し、短期記憶のみならず長期記憶にも障害が出始めたそうだね。トランスフェリン内のアルミニウムイオン濃度が過多の可能性があるね? いや、愚問だった。確かあの論文は信憑性が無いというお偉方の判断が下っていたはずだ。理論から要因を導き出す演繹的手法はいくらでもこじつけが可能だけど、ある推測から狙ったとおりに答えを導き出す帰納法的手法は得てして上手くはいかないものだ。 だから僕のような凡人は、ただ事実をそのまま素直に受け入れるべきかもしれない」 この回りくどく、同意を求めるようでその実嘲け笑うかのような言い回し。こんな喋り方をする奴は、この世に生を受けて若干17年強の間で一人しかいない。 しかし。 「お前、誰だ?」 俺の深層心理に眠る答えとは全く異なる言葉を投げかけた。俺の予想通りの人物ならば、この後喉を震わせて得意気に語り出すからだ。まるで弟子に説法を聞かせる孔子のように。 「くくくっ、何を今更言っているんだい? それは一目見れば火を見るより明らかじゃないか。獲物を狙う猟犬のような鋭い眼光で睨まれるとこっちが参ってしまうよ。それとも目に携わる病気だったのかい? シックネスと言うよりはディズィーズ、いやシンドロームといった感じかな。ならばクリニックライクなここよりも、すぐ先にあるホスピタルに御幸なされるべきだね」 俺の予想は当たった。しかし、手放しでそれを喜ぶことはできなかった。 「そうかもな、そうしたい気分だよ」 何故か垂れ下がる頭を右手で受け止め、ふぅと一息吐く。 ……見ただけで誰かを判別できるなら苦労はしない。少なくとも俺には不可能なこった…… ……眼科に行って治るものなら是非治療して欲しい。その際邪眼か邪気眼か、はたまた三ッ眼とかに変化するのだけはごめん被りたい…… ツッコミだけは何とかできた。ただし心の中で、と付け加えさせてもらう。 考えてみて欲しい。 喋り方でその人を断定しているにもかかわらず、何故俺は『お前誰だ』と問いかけたのかを。 さすがにもう見慣れてそんなに驚くことはなくなったが、それでも情報改変あるいは異世界の相違点による俺の心理的ダメージは小さくない。 様々な疑問やツッコミが入り交じって俺の五感を力なくさせようとする中、どうしても一つだけ聞きたいことがあった。 なんでこいつまで――――佐々木まで、橘の姿になってるんだ? 教えてくれ、ハルヒよ。 「気分でも悪いのかい?」 お前を見て気分が悪くなりました。だから出て行け。 ……などとは言えるはずもなく、その代わりといっちゃ何だが、皮肉な笑いを浮かべることにした。 しかし、その顔を見た橘(佐々木)は、両親に先立たれてまだ幼い兄弟を気丈に養う姉に心打たれたような表情で一瞥し、なにやら考え込むような仕草をした後、 「ふむ……この部屋は少々暑くて、しかも湿気が高いような気がする。換気をすれば少しは気分も良くなるだろう。開けてあげるよ」 そう言ってそそくさとベッド後方に控えている窓側へと移動した。二房の髪の束が揺れるのが印象的だった。 信楽焼の狸のように黙りこくって佇む俺を、まるで地面に転がっている小石のように気にもとめず過ぎ去り、目的地までたどり着く。サッシに手を掛け、そして地面と水平方向にそれをスライドさせる。 窓は少女の力でも難なく開いた。そこまでは彼女の計算通りだったのだろう。 しかし、誤算があった。 サアアアァァァ…… 思ったよりも強い風が、部屋の中に舞い込んできた。 「きゃっ……!」 俺の前では凛々しく喋っていたその声が一転、何の誤魔化しもない年相応の女の子っぽい悲鳴を上げていた。 かく言う俺も悲鳴こそ上げなかったが、一瞬たじろぎ、その後目をそらす。 「キョ…………ァ……閉め……」 風に逆らって声のするの方に目を向けると、俺……いや、俺の向こう側を指さす彼女の姿があった。体を反転、更にシーンを切り替える。そこで目にしたのは半開き状態で孤立する入り口のドア。 なるほど、こっちが開いていたからあんなに風が入ってきたのか。やれやれ。 風にたじろぐ橘(佐々木)を背に、ベッドから降りてドアまで向かい、そして開いた口を塞いでやった。瞬間、この部屋を席巻しようと文字通り荒れ狂っていた風は治まり、今や窓越しのカーテンが軽く靡くだけである。 文字通り嵐が過ぎ去り……ちょっと言い過ぎかもしれないが……一瞬の沈黙が続く。 ただ黙っていても仕方がない。均衡を破るために何か言おうとしたが、先手を取られた。 「ふう……すまないね。キョン。今回ばかりは僕のミスだ」 安堵の息と謝罪の言葉を吐くその態度は、まさに佐々木そのものである。 「いや、礼には及ばないさ。しかし佐々木。髪の毛がかなり乱れているぞ」 「ん……」 呟いた後、太陽の反射光によってドアに映し出された自分の姿を見、 「いやはや、これはひどい。自慢のツインテールが台無しになってしまったよ」 感情を露骨に表すことのない彼女は、楽しそうに笑顔を押し出した。 ――ちょっと待て。 「佐々木」 「どうしたんだい?」 「お前、以前からその髪型だったか?」 いきなり本質を問い掛けるその質問に、橘(佐々木)は一瞬の間をおいて、 「そうだね。この世界ではそう言う事になっているみたいだ」 「事になっている……って、じゃあお前は、この改変された世界と元の世界の相違点が自覚できているのか?」 思わず言い寄ってしまった。 そんな態度を見てどう思ったのかは知らないが、橘(佐々木)は更に間をおいて連々と語り出した。 「ああ。そのつもりだよ。その事も含めてキョンに相談しようと思って馳せ参じたんだ。本来の自分と異なる姿に戸惑う三界無安たる心境と、そのために午後の授業を無断欠席した僕の背水の陣と言うべき心境、どうにか理解して頂きたくてね」 気持ちは分かる。他にも同様な症状に陥った人間を何人か見てきたからな。正確にはうち一人はオーガニックインターフェイスだが、同じようなもんだ。 「異変に気付いたのは今日の朝だ。どちらかと言うと気持ち良く目覚めることに成功した僕は、今日一日の脳の活力を向上させるためにシャワーを浴びようと、バスルームに向かったんだが、脱衣場で服を脱ぐ際両耳の後方に違和感を感じた。それが異変を感じるきっかけとなった。シャツの布地と髪が擦れる感覚。いつもよりもより明確に、そして敏感に伝わってきた。何だろうおかしいぞと思い、触って見るとそこあったのは栗色の髪の束二つ。よもやと思って鏡をみると、そこにはこの姿が存在してたってわけさ」 ――話の途中だが、本日佐々木が感じた異変をダイジェストでお送りした。申し訳ないがこれ以降の話は端折らせてもらう。話が長いから――ではない。その殆どが古泉や朝比奈さんから聞いたものと同じ内容だったからだ。 すなわち、姿が入れ替わっている自覚があること。今まで過ごしてきた記憶は俺の記憶と遜色ないこと。自分以外の人はこの姿に何の動揺もなかったこと。これら全てが橘の姿に変異した紳士淑女の当然の理として存在していたのだ。 って、こっちがダイジェストか。 「先ず真っ先に連絡をとろうと思ったのは橘さん。彼女なら何か知ってるかもしれない。この姿を見て直ぐに気づいてくれそうだったし、それに何だかんだ言っても僕の深層心理を一番理解してくれる人だからね」 だけど、とややトーンを落とした。 「彼女に全然連絡が取れないんだ。ずっと着信拒否にしてたから怒ったのかなと思って、公衆電話や他人の携帯電話を使用してかけても結果は同じ。直ぐに留守番電話に転送されてしまうんだ」 「ああ」と俺。「俺も同じ事をしてみたが、やっぱり同じ結果だったんだな」 後者は心の中で呟いた。理由はわからない。 「ならばキョンに相談しようと思ってたところ、タイミング良く涼宮さんから連絡があってね。本日のパーティの件は聞いたよ。だから涼宮さんよりも早くこちらに参らせてもらったよ」 「そう言えば、パーティをここでやるとか抜かしていやがっていたな、あいつは」 「くくく……俗世間や浮世に屈することのない姿勢、僕にはなかなか真似できそうにもないね」 真似なぞする必要性はないぞ佐々木。「それよりも、お前は今回の件はどう思う?」 「こんな奇々怪々な出来事は初めてだから、何とも意見しにくいかな……でもキョンを始め、宇宙人未来人超能力者から聞いた話を考慮すると、これはやっぱり涼宮さんが引き起こした事件だと捕らえるのが妥当だね。涼宮さんが何かを思い立って自分を始めとして姿を変えたのかもしれない。関係者の霊魂のみ、このパラレルワールドと元の世界にエクスチェンジした可能性だって考えられる。或いはこれが真の世界で、今までの世界は虚構の世界だったかもしれない」 水を得た魚の如く、生き生きと喋る。語り出したらなかなか止まらない。古泉と組ましたら朝までどころか、24時間生テレビに耐えられるかもしれない。 「で、どれがビンゴなんだ?」 「さあてね。僕にはさっぱり分からない」 おいおい。 「さっきも言ったじゃないか。結論に達するまでの仮定はいくらでもできるけど、それが正しいかどうかなんて分からないし、仮定を証明するのは至難の技だ」 そうは言ってもな、その仮定……ハルヒが情報改変するきっかけとなった出来事を理論立てて把握しないことには対処のしようがないぜ。 「それは正論だ。だけど正論だけでは潤滑油のない歯車と一緒だ。無理に回せば壊れてしまう。円滑な問題解決には繋がらない」 ならどうすれば良いんだ。潤滑油でも探して歯車に差せばいいのか? 「良くわかっているじゃないか。今僕たちがすべき事はまさにそれだよ。正論と正論を結ぶ潤滑油を手に入れる必要がある」 冗談のつもりで言ったつもりだったのだが、橘(佐々木)にとっては百点満点の回答だったらしく、満面の笑みを浮かべて答えた。 燦々と照りつけるような真昼の太陽の如きハルヒの笑みとは違い、暗闇を優しく且つ艶やかに照らす満月の如き笑みが佐々木の特長だ。姿が変わっても内面まで変わることはそうそう無い。 「なんだ、その潤滑油ってのは?」 「この場合、『情報改変となった理由』と『その理由を把握する事』。それを繋ぐ架け橋ってことになるかね。その他のとらえ方もあるけど、ここでは都合がいいので限定して説明させてもらうよ」 ――真理というものは例外なくひとつであり、どんな形であれそれは受け入れないといけない。今回のように世界が改変した事実も同様さ。この世界に移住することになった理由も然り。理由やら原因やらを模索する前に、この事実を把握し、受け入れなければならない。だけど人間は意外と脆い生き物だ。どんな人であれ、心に弱い部分が存在している。聖人君子とて例外ではない。もし情報改変の原因がその弱い部分を強く揺さぶったなら人はそれを拒絶するだろう。聞こえないフリをしたり、無視したり……だけど、それじゃあ何の解決にもならない。姑息な方法でその場をしのいだとしても、事件は再び起こりえる。根本的な解決をしていないのだから当然だ。真に事件を解決するには、時には非情に徹しなければいけないこともある。聖人君子がそう言われる所以は、それすら乗り越えたからなんだ―― 「……!」 佐々木の言葉にはっとし、同時に過去の記憶が蘇えってきた。 それは、長門と朝比奈さん。二人の過去の事件。 長門は自分が暴走する未来を知っていた。しかも事件が発生する3年以上前からである。 万能人型インターフェイスを他称するあいつに不可能なんてない。対策手段はいくらでもあったはずだ。 手段さえ選ばなければ、あるいはあの世界は無かったことにできたかも知れない。親玉に言って一時的に能力を封印し、普通の人間のように振る舞えばそれで終わりだ。それくらいなら俺にだって考えつく。 しかし、長門はそれを実行することはなかった。 例えその場は回避できたとしても、長門が暴走することになった情報瑕疵はそのままだ。後日違う形でエラーが暴発する可能性だってある。もしかしたら長門や親玉でさえどうすることもできず、それによって世界は玉石同砕してしまうかもしれない。 だからこそ敢えてそのまま暴走する運命を選んだ。 道標を追って来る、俺や朝比奈さん、そしてもう一人の長門を信頼して。 その時の朝比奈さん(大)だってそうだ。俺が朝倉に刺されることは(小)の時に既に経験済みで、止めようと思えば止められたはずだ。 実際彼女は自己嫌悪に陥っていた。それは痛みで意識が薄れる時の俺と、その光景をまじまじと見ていた時の俺。双方が記憶している。 『既定事項だから』と結論づけるのは簡単だ。実際彼女はそのために未来から派遣されたエージェントだし、そうしなければいけないってのは俺だって分かる。 しかし――である。 同じ光景を過去に見たからといって、いくら自身が成長したからと言って、自分に関わりの深い人が深手を負う事実に躊躇いを生じない物だろうか? 図らずも朝倉に刺し殺されそうになったとき、我を忘れて俺のところまで駆けつけ、俺の命が危ないって言うのにやたら揺さぶった心配性の朝比奈さんにそんな大層な真似ができるとは思えない。いくら彼女が精神的に強くなったとしても、だ。 もし自分が逆の立場になった場合、その『既定事項』という曖昧な言葉だけで小動物にも似た可愛さを持つ上級生が刺し殺されるのを笑って見て過ごせることなどできない。 くそ寒い時期にやった指令ごっこだって同じ事が言える。 あの一件以来、俺は朝比奈さん(大)を目敏く思ったのは事実で、その反動で愚痴を朝比奈さん(小)に度々漏らしていたのもこれまた事実である。『あなたの上司は、あまりいい人ではありませんね』と暴露したことさえある。 その時朝比奈さん(小)は苦笑いをしながらも『既定事項ですから……ごめんなさい』と申し訳なさそうに謝罪していたのが印象的だ。 しかし、いずれ気付くはずだ。 数年後立派に成長し、朝比奈さん(大)となって俺の前に再び姿を現す。その時に、俺が当時嫌っていた未来人というのは他ならぬ自分自身だと。 その時朝比奈さんはどう思うだろうか。在りし未来へと紡ぐために遂行するミッションのせいで、人に――俺に嫌わなければならない。未来人が重要視する『鍵』に対して、侮蔑の目を向けさけなければいけない。 自身の命令の意義を分からず、その不甲斐なさに泣き出す彼女にとって、いくら成長したからと言ってもそれは酷というものだ。 でも、彼女はその道を選んだ。俺や朝比奈さん(みちる)が、『既定事項を』やり遂げると信じて。 二人とも、『過去』から『未来』へ繋ぐために、それぞれ多大なる十字架を背負っていた。 そして見事に切り抜けていた。 「っ……」 毒気を抜かれた眼差しで、白い掛け布団に鉄槌を下しながら呟く。楽しげに演説していた橘(佐々木)が眉を顰める。 「キョン?」 ……いや、気にしないでくれ。少々自己嫌悪に陥っているだけだ。 長門はともかく、申請方式でしか自身の能力を行使できず殆ど普通の女の子と変わらない朝比奈さんでさえ、しなやかで強靱な精神を所有している。 持ち前の真面目さ故身につけた能力なのかも知れないが、それにしたって普通の女子高生がそんな力を欲して所有していたわけではない。不甲斐ない自分を変えようと、自身の力で自身の問題を解決しようとする気概。これがなければ話にならない。 だからこそ、彼女は未来人を代表して俺を操る身分まで出世できたのだろうし、過去に存在した自分を良いように扱っているのだろう。 対して俺はどうだ。自分の気に入らないことにやれやれとつぶやき、面倒臭いことは他の人に任せっきりだ。今回だって、最初は長門の力をあてにし、それが駄目だと分かれば今度は機関におんぶにだっこだ。自分の力で解決しようとしてないじゃないか。 もちろん自分の力だけじゃどうしようもないのは分かってる。けど、こんな調子じゃいざって言うとき何もできないし、非日常が直面した事実に押しつぶされてしまう。 ――まるで今のようにな。 「……みっともない。俺は何の努力もしてないじゃないか。他人の力に頼ってばっかりで……」 「キョン……」 優しい声が聞こえた。めったにしない自己嫌悪をしている姿をどう捉えたか、橘(佐々木)が俺の側に近づいてきたのだ。普段とは驚く程異なる、熟成しきった、慈母溢れる表情で。 「キョン。聞いたところによると君は重要人物ではあるが普通の人間だ。気に病むことはない。むしろよくやってるんじゃないかと思っているよ。僕だってこんな能力が無ければもっと普通の高校生らしく、そして女の子らしい生活を送ることができるんだ」 だけど、それを受け入れる気分にはなれなかった。 「お世辞はいい。それよりお前こそすげえじゃないか。橘に神宣言を下されて、それでもなおかつ気丈に振る舞ってんだから」 こちらはお世辞でなくそう思っている。しかし俺の言葉の中に琴線に触れる物があったのか、『キョン!』と語調を強めた。 「そんなつもりは毛頭無い。僕だって一緒さ。それに、さっきの話はまだ途中だよ」 俺の手を取り、子供をあやす母親のように優しく言い添った。 「僕やキョンを含む大多数の人間は、特殊能力のない普通の人間なんだ。むしろこの場に超常能力者が居すぎると言っても過言じゃない。僕たちみたいな普通の人間が困難にぶち当たったとき、状況を打開するのに必要なのが潤滑油なのさ。分かるかい?」 文字通り頭を捻ってしばし考えるが、良くわからない。何が面白いのか、例の笑い声が聞こえた。 「何度も言うけど、人間は弱い。だから有事に備え、見聞を広め主観的考えを捨て客観的に物事を捉える。だけど、これでもまだ不足している。人間一人でできることは限界がある。一人で可能にするのは、聖人君子や神だけだよ」 「…………」 「……何でもかんでも一人で考えないで、キョン。君は一人じゃない。僕が力を貸すよ」 「え……?」 「君は普通の人間なんだ。特殊な能力があって、何でもできるスーパーマンじゃないんだ。皆と――僕と力を合わせて、問題を解決していけばそれで良いじゃないか」 「佐々木……」 「とは言っても、力を貸せるほどのものじゃないかも知れないけどね。でも、一人で悩むことだけはしないで欲しい。二人で努力していこう。その方が早くこの世界にも慣れるしね」 潤滑剤……言葉の例えに語弊があるかも知れないが、そう言うことか。歯車を一人で力任せに回すのではなく、皆で回した方が効率も良いし、押しつぶされることもない。 自己嫌悪になる必要はない。力を合わせることが大事なのだ。 「……わかった。こちらこそお願いしたい」 「ああ、宜しく頼むよ」 力強く頷いた彼女は手を差し伸べた。もちろん、快く受け入れた。 暫くして橘(ハルヒ)がけたたましい音を立ててドアを蹴破り、病室は再び喧噪で溢れかえっていった。 俺が坂の途中で運ぶのを断念したボストンバッグを抱え、さらにトートバッグを両手にそれぞれ握りしめ、『さあ準備しますよ』と言って佐々木を強引に働かせたためだ。 俺も手伝った方が良いかと思ってトートバッグの一つに手を掛けたが、制止したのは我らが団長(改変)である。曰く『病人だからいいのです』との事だ。ただし、『その代わり』と言葉を付け加えられ、『今日一日はしっかり休んで療養するように』と命じられた。 本当に心配してくれるのならわざわざ何もこんな場違いのところでパーティなぞ執行せず、もっとお誂え向きなところでやればいいじゃないかと思うんだが、どうせ俺がそれを直訴したところ無駄なのは分かっている。 むしろ普通とか尋常とかはたまた凡々たる様を嫌うこいつは、通常禁忌とされることがおおっぴらにできることからこの場所を選んだわけで、やっぱり俺如きが嫌だと言っても無駄なんだろう。 そうこうしているうちに他のメンツがやってきた。そのメンツというのは、SOS団の残りの部員3名、麗しき長髪が印象的な上級生、そしてもう一人。 「――――」 そう、不思議ちゃんキャラがすっかり身に付いたアナザー宇宙人である。彼女はパーティの手伝いに参加することもなく、またそれを咎められることもなく氷筍のように突っ立っていたが、 「――ここは……暖かい――あなたも――そう」 ステレオグラムでも見るかの様な目線で俺をロックオンし、抑揚のない口調で話しかけた。 「念のために聞いておこう。元の世界の復帰方法、わかるか?」 「――――」 だめか、やっぱり。 「――元の――世界――戻りたい――」 何も考えてなさそうなお前でもそう思うんだな。 「俺だって戻りたいさ。その方法を聞いているんだ」 「――戻りたい――そう思わせるのが……大事――」 え……? 「もしかして、お前知っているのか?」 「――彼女の……弱点――」 はぁ? 「鍵は――橘――京子――」 その言葉を最後に、お嬢様学校の制服を着たそいつは何も言わなくなった。 「よくは分からんが、あいつが鍵になるってのか。やっぱり」 口を噤む黒ずくめ。しかし、長門に負けないくらい微少な角度で頷いたのだけは確認した。 そうか……やっぱりあいつを探し出さないと駄目か。 機関に頼って何もしないってのはやっぱりよくない。少しでも手がかりを掴んだ方が後々楽になるかも知れない。 佐々木にはああ言ったものの、俺一人でもできることはしておいた方がいいと思う。そのために策を考えねば―― ――ああ、分かっているとは思うが念のため補足しておく。 全身黒ずくめとは言っても、体のある一部分は他の部位とは場違いな色を醸し出している。明るい栗色の髪を2つに括り付けたその顔は、一人を除いてこの部屋にいる全員と同じ顔である。 もう説明するのも面倒臭くなったが……つまりそう言うことだ。察してくれ。 昨日は皆が皆橘の姿に変形させられていることに驚き、頼むからこれ以上増えないでくれと切に願ったものだが、俺の真摯たる願望は砂で作り上げた城の如く脆く崩れ去る。 本日は昨日に比べて約二名ほど橘京子が増えていた。連日高値更新、ストップ高といってもやぶさかではない。この調子で行くと、明日は更なる橘京子が俺の前に立ちはだかるだろう。 「いや、さすがにそれはないか」 心の中で呟く。 確かに橘京子の姿になった奴の数はは増えてはいるが、無差別無尽蔵に絨毯爆撃を繰り返しているわけではない。ハルヒも、そこんところはちゃんと考慮しているみたいだ。 それが証拠に、姿が変わっていない人もいるのだ。 一人は我らが名誉顧問の鶴屋さん。それに我らが雑用係である俺……って、自分自身を褒めてんだか貶しているんだかよくわからない表現だなこりゃ。 他にも我が妹、谷口、国木田エトセトラエトセトラ……これら全て変更なし。 姿が変わっているのは宇宙人未来人超能力者、そしてハルヒや佐々木と言った、人外的能力を身につけている彼ら彼女らに限られている。 何故特殊能力を持っている奴等だけこんなことになったのか。普通の人間とそうでない人間との篩い分けをしているのか? いや、違う。佐々木ならともかく、ハルヒはそれらが本物の能力者であることは知らないはずだ。 普通の人間に興味はないと言ったのは既に二年以上前の事であり、最近はそんな事を言い出すのは稀になってきた。それを今更思い出した……これも苦しい。 宇宙人未来人超能力者が姿を変更したという事実がある一方、しかし完全にそうとも言い切れないのももどかしい。俺の知る範囲で、まだ姿を見せていない特殊能力者が一体どんな姿でいるのかそれを見ないことには如何ともしがたい。 まずは朝比奈さんとは異なる未来を導こうとするもう一人の未来人、仮称藤原。 奴は今回全く姿を表していない。このパーティにも甚だ遺憾ではあるが招待されており、皆と同じくこいつも馳せ参じるものだとばかり思っていた。 しかし、奴は来なかった。理由は橘(佐々木)から聞いた。 佐々木の回りくどい言い回しと藤原の未来的優越感に浸った口調がごっちゃになったものを一字一句そのまま説明するのは敢えて避けるが、結局のところ高飛車な態度をを全面に押し出した奴が『俺にはやるべき事がある』と言って行方を眩ましたらしい。 やるべき事……か。時定数の入力し間違えを補正すべく、過去に戻ってこの奇妙な世界を未然に防いでいるのであれば俺の中で信頼度は上昇するんだがな。それでも古泉の身長三つ分くらい下のレベルだ。 だが、あまり期待するのも野暮ってもんだ。家に帰って憧れの彼女の姿になったから、服を脱いでまじまじと全身を見ているのかもしれない。 ……ただの変態だな、そりゃ。 他に比較的近しいところで言うと、長門の第二代目バックアップであろう、喜緑さん。彼女の姿もまだ一度も見ていないが、果たしてどんな姿になっているのだろうか? 興味があると言えばある。無いと言えば無い。 姿を拝もうにも俺たちとは多少距離を取って観測しているためだろうか、ハルヒや俺との関わりは希薄になっている。高校を卒業した後一体どこで何をしているのか全く分からない。長門に聞けば教えてくれるだろうが、聞く気にもならない。 何となくだが、あの喫茶店でバイトをしながら観測を続けているのだろうと考えている。あの事件以来一度もあの喫茶店でバイトをしているのを見たことはないが、そんな気がする。 まあどうだって構わないけどな。 ……少し前までは、そう思っていた。 しかし、ここに来て彼女の存在のありがたみが五臓六腑に染み渡る程分かってきた。 これも何となくだが、長門が非協力的な今、その力をフルに発揮しているのだろう。表だって活動することは無いが、裏では手や足や髪を伸ばして俺たちを敵の攻撃から守り、様々な情報戦を繰り返している。そんな気がするんだ。 あのフワフワしたウェイブが、ツインテールに変わっても能力は健在なのだろう。 栗色の双尾を情報操作で伸ばして敵の首を締め付け…… 「ん?」 そこで妄想がストップ。あることを思い出した。ツインテールとは言えない、ただ二つに髪を束ねたあの人の顔が脳裏に広がった。 「そう言えば森さん、姿が変わってなかったな……」 おかしい。 特殊能力所有者が皆姿を変えているというのに、何故森さんは姿を変えてないのだ? ハルヒが森さんの特殊能力を知ってない……違う。さっき言ったとおり、ハルヒは特殊能力を持つ人物の存在を信じていない。 森さんは実は普通の人間だった……それは考えられなくもない。俺は彼女が古泉見たく紅い玉になってびゅんびゅん飛び回る姿を見たことがない。 となると、やはり…… ――姿が変わらないのは、普通の人間のみ―― ……なのか? そう言われれば辻褄が合う。 だが、それなら尚の事…… いや、余計な詮索はよそう。下手な事を言って爆裂変態ツインテールになる気はさらさらない。 答えは、橘京子が知っている。 真相を知っているはずだ。橘の姿をした宇宙人がそう教えてくれた。恐らく間違いはないはずだ。 だが。 あいつは依然として行方不明。いったいどこにいるのだろうか? 存在しているのは確かなようだが、しかしこれ程姿を表さないというのはいくらなんでもおかしい。 ハルヒの超人的パワーを一身に食らってばたんきゅ~してしまったか、或いは組織が機関に制圧され、『森園生による教育講座 全15回』出席に忙しいのかもしれない。もちろん冗談だ。 様々な疑問点や問題点を残しつつ、時間のみ刻々と過ぎて行く。膠着状態と言えば格好いいが、単なる手詰まりだ。決して良い状況ではない。 ならば、どうするか…… 「じゃあ一番手、トップを飾るのは、SOS団が誇るマスコット、朝比奈みくるさんなのです。それじゃあ朝比奈さん、よろしくお願いするのです~!」 どこか間の抜けた、しかしながらすこぶる上機嫌な声が白塗りの部屋一面に染み渡った。 本来ならば猪突猛進、草木をなぎ倒すような罵声になるのだろうが、それは本人の意思によって抑え込まれ、先述の声が代理出席していた。 もちろん、声帯どこか口調まで橘に似せてしまった橘(ハルヒ)である。 「あ……は、はい! 頑張りますので、評価の程よろしくお願い致します!」 振動数を全く変える事なく別人が声に出す。 橘(朝比奈さん)だ。 皆が集まり、部屋中をパーティ用の飾りでデコレーションした後、団長による二周年を迎えた事による賛辞と今後の抱負、そして本来副団長がやるはずだった乾杯音頭まで敢行し、この部屋は場違いのお祝いムード一色に染め上がった。 食べ物飲み物もそこそこに(言うまでもなくソフトドリンクオンリーだ)、本日のメインイベント『SOS団創立二周年記念パーティ兼北高ものまねフェスティバル』が執り行われた。 トップを飾るのはアンバランスな体付きの上級生……もとい、今や誰かさんのせいでスレンダーな体型へと生まれ変わった上級生。 「あの……えと……よ、吉崎先生のまねです。『えっきすわぁ~、え~がぁ~、ずぃ~ろ~の、ときぃ~……」 独特のイントネーションで俺達を失笑の渦へと巻き込んだ我らが数学教師吉崎氏は一年上級の先輩方にも鞭撻を奮っており、より北高生徒の笑い者と化していた。 そんな数学教師のものまねも、SOS団のマスコット兼メイドにかかれば可愛く見えてしまうから不思議なものである。 当たり前だが、吉崎が可愛いわけではない。何に対しても一生懸命なこのお方がやるから可愛いんだ。必死になって『ああ……こうかな?』とか『ふぅわ……あ』とかって声が愛しさ倍増である。 もう一回念のために言っておくが、吉崎がそんなことを言うわけではない。もし言おうもんなら留年してでもその場を逃げ出してやる。 とまあそんな感じでものまね大会は何の問題もなく進んでいった。 橘(長門)の演じる人間味が全く感じられない元コンピ研部長や、やたらハイテンションになってしまった朝比奈さんを演じる鶴屋さんまで、似ている似ていないに拘らず、ありとあらゆる演技が疑似壇上となったソファーの上で行われた。 意外にもはまり役だったのは橘(古泉)演じる元生徒会長だ。そのモノマネの上手さに橘(ハルヒ)昔を思い出したのか、あまり怖くない顔でぷんすかとしていたくらいだ。惜しくらむは、声帯が女性の物のため、迫力が今ひとつ欠けていることくらいか。 また、そんなローカルネタにも関わらず、他校の二人も一緒になって盛り上がっていた。そして闘争心に火がついたのか、ついには俺のモノマネをしやがる始末だ。二人が二人ともだ。 『やれやれ……』 このボヤキは俺のものではない。橘(佐々木)と橘(九曜)が発したアンサンブルだ。 他ならぬ俺自身の名誉のために言っておこう。似てないぞ、お前ら。 なあ、似てないって本人が言ってんに何でそんなに腹を抱えて笑ってんだ、橘(ハルヒ)、鶴屋さん? 凄く悔しい思いが沸き起こって来たので、俺は自身の演技で挽回することにした。去年から一年間練習して来た我が担任岡部の真似、生き写しとも言える演技を見て感心するんだな。 「うわぁ、最悪なのです」 「似てないです……」 「……落胆した」 「これは……何と申しましょうか……」 …………。 ああ、いいさ。どうせ俺なんか…… などと落ち込んでいる暇は無かった。それよりもここからだ本番だ。モノマネも一通り終わり、丁度頃合。気合いを入れ覚悟を決め、俺は橘(ハルヒ)のそばに寄った。 「なあ、ハルヒ」 「はい?」 「1つ聞きたいんだが、いいか?」 「へえ? なんですか、いきなり改まっちゃって。何でも聞くといいのです」 あのな、ハルヒ…… 「橘はどうしたんだ?」 ――和やかな雰囲気が一転、全員が凍りついた。 「あ、いや、キョン。彼女は昨日から連絡が取れなくてね……一応誘っては見たんだが、やはりというかなんというか、今日も音信不通で……」 一番始めに我に返ったのは橘(佐々木)。しかし狐につままれたようなおっかなびっくりの表情は、いつものすました顔とは大違いである。加えて自慢の流暢な口調も影を潜めている。まるで熱々おでんを銜えたまま早口言葉を喋っているみたいだ。 「そうか。あいつがいた方が楽しかったんじゃないか? ハルヒのモノマネをやるとか言って、実際見ると朝比奈さんのほうが似ているんじゃないかって言うようなしぐさをする奴だ。ボケっぷりとしてはこれ以上ない逸材だと思うんだが」 「え……えと、あの……キョンくん、その……」 自分の名前を出されてしどろもどろの橘(朝比奈さん)。手振りとアイコンタクトで何かを必死になって伝えようとしている。 「…………」 「…………」 「――――」 対照的に澄ました顔をして見せるのは、ハルヒを除く残りの橘の入れ物に入った三人。 ただしそのうち一人は俺を諌めるような表情を取っているが、無視する事にする。 そして橘(ハルヒ)。こいつは微動だにせず、じっと俺の方を見ていた。顔も首も腕も足も、動き出そうとする気配は無い。 ただ1つ。アヒルのように尖った唇を除いて。 ――大体、俺の予想通りの反応だな、みんな。 「いないならしょうがないが……だが、俺個人としてはあいつの芸を楽しみにしてたんだ。何とかして召喚できないものかね」 再び、辺りは沈黙した。 「なら、ここに来るように祈ればいいじゃないですか」 ……いや、個ここで予想外の奴が喋りだした。喋りだしたそいつは、相変わらずのアヒル口のあいつであった。 「あの痛快変態女がいいなんて、どうかしてるのです。あんなのをまともに相手をしていたら、SOS団は衰退の一途を辿ってしまうのです」 こいつの言うことももっともだ。即答で頷きたくなるがここは我慢のしどころである。 「そう言うな、あいつもああ見えて意外に常識人なところもあるんだ。もう少し鍛えれば団に入れてやってもいいんじゃないか?」 「……なら、あなたが一人で面倒を見てください。あたしは声を掛ける気なんてさらさらないのです。一生雑用係でもやってるといいのです」 橘の口調のため分かりにくい事この上ないが、彼女の内に潜んでいるオーラは決して慈母あふれるものではなく、むしろその正反対である事はひしひしと感じられた。 「ああ、そうするかな」 俺の言葉にその場は三度沈黙した。 「……帰ります」 橘(ハルヒ)がそう呟いたのは、それから暫く経ってからのことだった。 あいつが帰った後、皆が一様に黙りこくり、そして誰からというわけでもなくその場の後片づけが行われていた。 黙っていると言っても決して何も喋らないというわけではない。実際燃えるゴミはどうとか、この飾りはまた使うからとか、そう言った会話は成立しているし、足音や清掃のざわつきはいつもと変わりない。 しかし、先ほど俺がしでかした爆弾発言がよほどの禁句だったのか、逆に俺の行動を諫める奴が一人としていなかったのだ。先の発言に同意してくれているとは考えにくいので、ただ非難する機会を伺っているだけなのかも知れない。 だが、少なくとも今はそう言うわけにはいかなかった。ここにはまだ一人、無関係な御仁が存在している。 「よぉーっし、これで全部終わりかいっ! それじゃあ悪いけど、ゴミは任せたよっ、キョンくん!」 そのお方は俺やその他の奴らの考えなどお構いなしに、いつも彼女が持っているテンションを全く変えることなく掃除に励んでいる。この人がしょぼんとした姿を見るのは、ハルヒが同じ事をするより重大事件だと思う。 なお、ゴミ云々の話だが、このまま持って帰るのも大変だろうし、裏で機関が働いているのならここで処分してもらった方が早いだろうと思って俺から提案したものだ。 『…………』 その他橘ご一行様は何故か全員が全員疲れたような顔をして鶴屋さんの前に控えていた。少々睨みを効かせている奴もいるにはいたが、やっぱり気にしないことにする。 同じ顔の奴数人に睨まれると結構恐怖だな。今までそんな経験がなかったから分からなかった。普段出来ない貴重な体験をできたし、ハルヒに感謝せねばなるまい。勿論嘘だ。 まあそんな一人ノリツッコミはともかく、皆の気持ちが分からんでも無い。事なかれ主義を主張する各勢力の代表者がそれとは相反する事態――より重い方向へ導くことになってしまったのだから、それはごめんなさいと謝っておこう。 だけど、俺にも考えがある。 鶴屋さんが帰ってから話すつもりだ。帰ったら真相を話してやるから、間違っても早まった真似をしないように。 「ところでさキョンくん」突然切り出した。「橘さんって人は何者なんだいっ!? その名前が出てからみんな赤い顔だったのが真っ青になっちゃってびっくらこいたよっ! もしかして重要参考人の一人か何かかいっ!?」 『……!』 一斉に沈黙した。 まさかここで直球ど真ん中ストライクを投げてくるとは、地蔵や弥勒ですらお見通し出来ませんでしたよ……等と心の中で呟く。ええい、とりあえず適当な言い訳で誤魔化すとしよう。 「ええとですね、鶴屋さん、橘ってのは……」 「あたしは初耳だったんだけど……ん? 昨日キョンくんがそんな名前出してたっけ? 知り合いかなっ?」 余計なことを覚えて……などといえるはずもない。 「ええ、まあ。ちょっと問題児ですが」 「うーん、問題児かいっ。でもそれはそれでぶちおっけー! パーティはみんなで楽しむものだからねっ! うんうん、キョンくんの意見ももっともだと思うんだ、お姉さんも。問題児だからって、扱いづらいからって無視しちゃ何も解決しないもんねっ!」 「…………」 「……あっ」 「う……」 「くっ……」 「そういったことは面と向き合って、本音をぶつけ合って解決していくのが青春だと思うのさ! 逃げちゃダメ! 真っ向勝負あるのみ! ……っと、関係ないことベラベラ喋りすぎたかな!? みんなゴメンゴ!」 『…………』 鶴屋さんの言葉に、一斉に黙り込む一味。無論、俺もである。 俺が言たかったことを全部代弁してくれるとは、さすがハルヒに選ばれし名誉団長様である。 「お姉さんちょっと調子に乗りすぎて喋りすぎたみたいさねっ。どうしても誘惑に勝てなくてさ! おりょっと、もうこんな時間かいっ!? 今からまたお稽古があるからおさきっ!! みくる~! 通り魔には気をつけるんだよっ!」 矢継ぎ早にまくし立て、皆にさよならの一言すら与えずその場を去り、刹那の時を置いてその存在は霞のように消え去った。小型のハリケーンや、くのいちの様に俊敏である。 「……キョン、それじゃあ僕も帰るね」 「――帰る」 「……右に同じく」 「あ……わたしも。それじゃあまた」 次々に扉を後にするクローン人間達。俺に対する非難の視線もどこへやら。既に過去のものとなっている。先程の鶴屋さんの言葉に感銘を受けたのかどうかは知らないが、俺の言わんとすることはある程度理解してくれたようだ。 しかし、まだ一人帰らない奴がいた。そいつはとても男がしているとは思えないほど可愛らしい微笑みを携え、 「機関のすることが全て正しいとは僕も思っていません。信じていますよ。元の世界に帰ったとき、あなたのなさったことが正しかったと、胸を張って言えるように」 そして皆に遅れて病室の扉から姿を消した。 異世界に飛んでしまったのか、それとも個々の時間軸に対して姿形が同じ値をとるように仕向けられたかは知るよしもないが、少なくとも皆が皆、橘の姿に変わってしまったのは紛れもない事実である。 それは決して望まぬ定めだと思っているし、元に戻したいと同時に願ってもいる。そのために何が必要か?どうすれば俺の住む世界に戻れるのか? ――元の世界に戻りたいと思う気持ち? その通り。実際俺は何度かそれを頼みにして平常ならぬ世界から戻ってきた実績がある。 しかし、残念ながらそれは無理だ。この世界ではその法則が当てはまらない。 なぜならば、ハルヒはこの世界が当然の世界として、常識として捉えているからだ。 『ああ見えて普通の女の子なのですよ、涼宮さんは』 古泉の言葉が蘇る。非常識なことを求めながらも常識というものを驚く程わきまえているふしがある。その常識というのは普通の人間にとって言葉通りの意味であり、当たり前のこととして存在している。 これでは俺が『元の世界に帰りたい』と言ったところで「はぁ?」みたいな顔をされるのは当然である。前回と同じ手は使えない。 ならばどうするか? 散々考えたあげく導き出した答えが先ほどのアレである。 つまりハルヒにとって忌み嫌う対象となっている、そして今回の事件の発端となっているであろう、橘京子の記憶をハルヒの脳内から呼び起こしたのだ。 何となくではあるが、ハルヒは橘京子の存在を否定し、逃げ続けているような気がした。だから現実を見せるためにも彼女の名を出して事態を動かそうと思い立ったわけだ。波一つ立たない湖に投石して波紋を広げるかのように。 だが、これをすると他の奴……宇宙人未来人超能力者共、といっても長門や朝比奈さんや古泉ではなく、各勢力の急進派等と揶揄される少数派に目をつけられ、安定していた世界を崩すような俺の行動に制裁を加えようとする輩つきまとわれ…… 最悪、暗殺されるかもしれない。 だけどな、だからといってこの世界を受け入れる程悟った人間じゃないんだよ、俺は。 涼宮さんがそう望んだからとか、既定事項ですからとか、情報観測のためなんて言い訳は聞き飽きた。用はこいつの好きにさせろってことを言いたいんだろ、みんな。 それは分かっている。そうしないとぐちゃぐちゃにかき混ぜてしまうんだろ、三歳児のお子様ランチみたいに。 だけどな、好き勝手にやらせていたらろくな大人にならないぜ。叱ってやるのも重要なことだ。 誰かが言い出さないことには、このイカれて尋常じゃない世界がありきたりで平凡な世界になってしまうんぞ。本当にそれでいいのか? エイリアンやエスパーやタイムトラベラーがいいって言っても、俺は嫌だね。 一か八かの賭であったことは否定しない。下手をしたらこの世界どころか、俺の存在自身も危ぶまれることになるだろう。 しかし、俺は何とかこうして生きながらえているし、先ほどの橘(古泉)の様子から見ても神様の心理的状況に危機的状況は迎えてなさそうである。 これで事態が動けばいいのだが…… 懸念材料もある。ハルヒが橘の存在を忘れようとしているのならば、何故あいつは皆を橘の姿に変えてしまったのだろうか? 本当に存在を消したいのであれば、俺たちと関わりのない、他校の生徒にでもすればいいわけだ。 それに、未だ姿を現さないのも気にかかる。存在そのものが確認されているのに、これは時間がかかりすぎだ。 昨日から名前は出てくるものの、この世界にやってきて一度たりとも姿を見せない。少なくとも存在はしていると思うのだが、もしかしたら違う生き物になってその辺を徘徊している可能性だってありえるが……そこは考えないようにしよう。 やっぱり、あいつを見つけないことには事態は動きそうにないのか。 「やれやれ」 今回ばかりは長期戦になるかも知れないな…… しかしこの後、俺の思いとは裏腹に、全く予想しなかった出来事が発生した。 皆が帰って暫くした後、橘(ハルヒ)から連絡を受けた俺の家族が見舞いに来てくれた。 検査入院なので何も心配は要らないね、着替えだけ置いていくから、他の患者さんに迷惑を掛けないようにとだけ言い残して俺の母親はものの30分程度で病室を後にした。 確かに心配するような症状は無いのだが、それでも重病の可能性だってあるんだから少しは心配しろと軽いツッコミを心の中で入れたりもした。 意外だったのが妹で、かなり心配そうな顔つきをしたかと思えば『キョンくん大丈夫? 痛くない? リンゴ剥いてあげるね』と俺の涙腺を緩和させるような発言と行動をしてくださったのだ。兄として、初めて妹を持った嬉しさを感じたね。流石は中学生だ。 これであと俺を呼ぶときの呼称が『お兄様』とか『お兄ちゃん』になったら、将来結婚するとき挨拶に来た婿殿に『お前に大切な妹はやれん!』と言ってやれるぞ。親父に代わって。 もちろん冗談だ。 家族との面談が終わったあとは特に特別なことはしていない。据え置きのDVD(洋画のアクション映画だった)を見て、配給された夕食を食べ、シャワーを浴びて、ニュースを見ながら眠くなったのでそのまま床についた。 おいおい、昼間は橘京子を探しに行くって言ったのに、もう諦めたのか? 他人にまかせっきりにすることは止めて自ら行動することを誓ったんじゃないのか? って意見もあるとは思う。 そうしたいのは山々なのだが、俺が外に出ようとすると慌てて病院のスタッフが止めにはいるのだ。士長さんや医長さん総出で『あと一日の猶予を』等と言うもんだから、不作なのにも拘わらず年貢を取り立てに来た極悪非道の悪代官になった気分だ。 しかし何の罪もない一般市民を苛めるような度胸は生憎持ちあわせていない。実際俺は仏道に帰依した後の鬼子母神並に慈悲深いのだ。 ……本当だって。でなきゃハルヒや佐々木、そして橘にあれだけ関わりになろうなんて思わない。 それはともかく、そんなわけだから俺はこの部屋から出ることが出来きず、ただただこうやって一日が過ぎるのを待っていた。 もしかしたら監視されているのかもしれない。そんなことも考えるには考えが、この人たちは普通の人間だ。森さんによって病院のスタッフ全員が脅されたと考えた方が納得がいく。 その森さんだが、昼に会ってから一度も姿を現していない。恐らく必死になって橘一派を捜しているのだろう。そう信じたい。 機関からの連絡がないと言うことは、事態が大きく動いていない。それと同義だと思う。世界改変を着々と進めているであろう涼宮ハルヒは、今のところ深層心理内で特別な事件を起こそうとはしていない。そう結論付けた。 早く元の世界に帰りたいのは山々だし、俺も散々同じ事を申し上げている。 しかし、タイムリミットはまだありそうだし、それに機関が全力を挙げて元凶である橘京子の存在を追っている。 ならば俺がすべき事は、来たる日に備えて体力をつけることだと思う。だから今日は早めに寝る。 決してこの世界の居心地が言い訳じゃないからな。重ねて言っておが、俺は元の世界に早く戻りたいんだ。 というわけだ。それじゃあおやすみなさい…… ……… …… … ――目を覚ましたのは、それから何時間経ったときのことだろうか? 窓をそっと見る。中天に光り輝く満月は、カーテン越しからもその存在をアピールしていた。 俺が目を覚ました理由。それは満月の光があまりにも眩しかったから――ではない。 ガサッ ゴソッ ――物音が聞こえる。 音の感じからして、今俺が背を向けている側、即ちソファーやテーブルが並んでいる場所の辺りか。 (泥棒か……?) 機関直轄の病院に潜入して物盗りとは……なかなか勇気のある奴である。 このまま黙って見過ごすか、それともナースコールで呼び出して泥棒をとっつかまえるか。 決心がつかないまま、数分の時が流れる。泥棒は未だ物色をしているのか、小さな音を立てているもののこの部屋から退散しようとする気配はまるで見られない。 (通報した方が良いな) ようやく決心し、ベルを鳴らそうと……あ。 (しまった、呼び出しベルは逆方向じゃないか) 俺は今、窓側を向いて寝そべっているが、呼び出しベルはその逆側にあった。しかも長いこと入院しているわけではないため、正確な位置も分からない。 つまり、一度反対側に顔を向けなければベルを鳴らすこともままならない。反対向きに手を伸ばすのは明らかに不自然だ。かといって急に半回転するのも怪しい動きだと懸念されかねない。 (寝返りの真似をするしかない。うまくできればいいだが……) むずむずと体を小刻みに動かし、今にも寝返りを打とうとする仕草を軽くアピールする。こういった小芝居は重要で、相手の注目も逸れやすい。 何度かそのモーションを反復した後、えいやっと寝返りを打つ。やる時は一気にした方が後腐れもないし、逆に怪しまれない。 成功だ。 だが向こうに見える人影は特別なリアクションを取る出もなく、ひたすらガサコソと微少な雑音を奏でている。むしろ拍子抜けだ。 こっちが苦労して寝返りを打ったってのに、全く反応なしかよ。人様のところに泥棒に入って身動きする物を見つければ、多少なりとも身動き止まるぞ、普通。 何だか腹が立ってきた。コールする前に間抜け面を拝んでやる。明日の新聞の写真に載るであろうその顔に悪戯書きでもしてやろうか。 等と思いつつ、薄目を空けて物音を立てる方へと目をやった。 そこには、確かに揺れ動く人影があった。だが全容を知るのは不可能に近い。いくら月明かりがあろうとも、絶対的な闇の前では些細な物に過ぎず、ついでに薄目の状態ではきっちり見ることはできない。 せめて、もう少しこっちに来てくれれば助かるんだが…… 『!? ……ぁぇ!!』 そう思った矢先。影は性急且つ鋭敏な動きを見せた。 悲鳴だか鳴き声だか分からない、だけど押し殺した悲鳴を上げたかと思えば、辺りをきょろきょろと見渡し、そしてこちらに近づいてきたのだ。 俺の事存在などなりふり構わず近づき……そして通り過ぎた。 (???) 俺はあまりの事に、寝ているふりすら中断し、通り過ぎた方向……洗面台の方へと目をやった。 洗面台に設置された鏡は月の光を反射し、犯人の顔を艶やかに照らし出す。 照らし出された顔は再び鏡に映り込み、俺の視線へとその情報を伝達する。 「な……」 絶句した。 泥棒は――俺の部屋に忍びこんだ彼女は、俺の声に気づいているだろうか? 「あ゛あ゛……辛かったですぅ……」 続いて聞こえるの少女の悲鳴(?)。 「シュークリームの中に唐辛子とマスタードを入れるなんて、フランス文化を冒涜していますよ~」 どうやら、昼に行ったパーティのイベントの一つ、『ロシアンルーレットで今後の運試し』で使用したアタリ用シュークリームがお気に召さなかったようだ。 「ううう……ひどいです、ひどいです~。色が似ていたからカスタードクリームと間違えちゃいました。一生の不覚なのですぅ」 このひどい天然っぷり。さしもの神様も、性格まで一緒にさせるには時間と勇気が必要だ。そしてその二つとも未達成のはずだ。 間違い、ない。 「こうなったら訴えてやるのです」 「じゃあ俺も訴えるかな。住居侵入と窃盗の罪で」 「ふぇ? ……ああっ!」 突如聞こえた声に振り向き、感嘆とも驚愕ともとれる叫び声を上げる少女。 「きょ、キョンくん……キョンくんですか?」 「そう言うお前は本物のお前なのか?」 「あったりまえなのです! あたしを誰だと思ってるんですか!」 「誘拐少女に続く窃盗少女……いや、ただ食い少女の方が良いのか?」 「ひ、ひどいですぅ!!」 「冗談だ。……しかし、無事だったんだな。お前」 「ううっ、キョンくん……会いたかったです~」 少女は――栗色の髪を二つに束ねた少女は、目を潤ませながら、手を広げて俺に迫ってきた。 彼女の思いに答えるべく、俺も両手を挙げ―― 「せいりゃ!!」 「へぶしっ!!!」 ――両手で振りかぶった特大ハリセンを、こいつの後頭部目がけて思いっきり殴ってやった。 「勝手に他人の部屋に入り込んで、人様のものを盗み食いするな」 ……この、馬鹿橘。 「いったーい! 何するんですかぁ!!」 橘(恐らく本物だがまだ断定できない)は、思ったよりも早く復活した。 「何でそんな物持ってるの! 聞いてないです!」 言った覚えはないから当然だ。 「そうじゃなくて!」 「昼に使った道具の一つだ」 パーティの片付けが終わって皆が帰った後、俺のベッドの上に忘れていったのをそのままにしてたんだ。今思うと、神様のお告げだったのかも知れないな。お前の頭を殴るようにって。 「そんなふざけた神様いません!」 佐々木なら案外そう思っていたりするわけだが……それは敢えて口にしないようにしておく。さすがに可愛そうな気がしてきた。橘(何だか本物の気がしてきた)を失墜させるのはもう少し後になってからの方がいい。 「それより、お前丈夫だな」 「当たり前です! これくらい佐々木さんの繰り出す黄金の右フックに比べたら屁でもありません!」 ……そうですか。 「敵を倒すには一撃必殺なのです! もっと腰を入れなきゃ、相手に与えるダメージが半減してしまいます。……ちょっと貸してください」 橘(アホさは本物とうり二つ)は、俺からハリセンを奪い取った。そしていきなり素振りをし始めたのだ。 「ふぅん!!ほいっ!! こうですよ、こう!! 分かりましたか、キョンくん!!」 「…………」 「あれ? どうしたんですか? そんなにまじまじとあたしを見て。て、照れるじゃないですか……」 ……うむ。 「橘」 「は、はい。何でしょうか?」 「お前……」 「そ、そんなに見つめないで……」 「やっぱり馬鹿だな」 「え゛」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「う、うわぁぁぁ~ん!!!」 暫く固まっていた橘(本物率120%を突破。なおも上昇中)は、いつもの如く泣き出して、そして俺のベッドを占領した。 いやあ、本物かどうか確認するためにまじまじと見ていたのだが、ここまでお馬鹿さんだと疑いの余地もないな。 決定。こいつはモノホンの橘京子である。特典として、これから橘(〇〇)のカッコの中は省略して呼ぶことにしてあげよう。 「あたし一生懸命やったのにぃ~! 『こらっ、まったくお茶目さんなんだから☆』って言ってもらって、好感度アップ♪ すると思ってたのにぃ~!!!」 本物と認定したとたんそれか……絶対突っ込んでやらん。 「キョンくんを助けようと、監視の厳しいこの病院を必死になってここまで潜入したのにぃ~! こんな扱いじゃ元の世界と何も変わらないじゃないですかぁ!! ふぇええ~ん……」 ……お前はどの世界にいても変わりない……って? 「元の世界だと?」 誓いを早速反故にして思わず突っ込んだ。 「あ……」と布団から体を離し、ベッドの上で正座する橘。「そうなのです。あたしがここへ来た理由は、元の世界に戻るために力を貸して欲しいからです」 お前は、元の世界の記憶があるのか? この世界で何が行われているのか把握しているのか? いや、それ以前にお前は何をしたんだ!? 「そんなにいっぺんに質問しないでください、今から説明しますね」 橘は普段のおちゃらけ具合とは正反対の真面目な顔を見せた。 「あたしや、あたしが属する組織は、世界がおかしくなってからずっと調査をしていたのです。その結果、この世界はある一つの価値観に収束していくことがわかったのです」 ある一つの価値観? 「それは、没個性の世界――言うなれば、全て同じ顔、性格、姿をした世界。この数日で、あたしたちが元にいた世界とその世界が徐々に入れ替わりつつあるようなんです。そしてその価値観の代表として、何故かあたしが選ばれたのです」 ――このまま放っておくと、そのうち世界が完全に入れ替わり、存在する人間はあたしだけになってしまう可能性が出てきました。それをどうにかして防ごうと思って、キョンくんにお願いしにきたんです―― 突如、寒気が俺の全身にまとわりついた。超臨界ヘリウム流体すら凍り付かせる戦慄が、俺を雁字搦めにして離れない。 「橘だけの世界……だと?」 ちょっと考えて見て欲しい。 朝起きたら橘がボディアタックをかまして、授業が始まったら点呼を取る橘がいて、嫌みったらしい声で数式を説明する橘がいて、昼飯は橘二人と飯を食い、放課後にゃ進路指導室で橘に説教される。 俺と談話を繰り広げる相手は橘しかいなくて、体育の着替えの時間も橘が一斉に服を脱ぎだし、橘と橘のカップルが仲睦まじく下校する。そんな光景が当たり前になっていく。 家に帰ってテレビをつけたら橘の顔をした政治評論家が同じ顔の総理大臣を非難し、バラエティでは、大御所俳優の橘が新人漫才師である橘をいじって大笑い。 そして……そして……。 青少年の生きる糧である、あんなものやこんなもの。それら出演しているのは全て貧―― 「絶対それだけは避けたい! 命に代えてでも阻止してやる!」 気づくと、絶叫に絶叫を重ねていた。 「ありがとうございます……ですが、素直に喜んだら負けかな、なんて考えが一瞬過ぎったのですが気のせいでしょうか……?」 考えるな。多分落ち込むぞお前。 「それより、どうやって知ったんだ、そんなこと。機関の連中だってそこまで正確なことは把握してなかったと思うんだが」 「それは……ちょっとまだ言えません。ごめんなさい。でも、涼宮さんの能力が関係しているのは確かです。今のところ涼宮さんに近しい人と本人にしか力は発動してないようです。特に本人に関しては進行状況が著しいみたいですね」 「だからハルヒだけ橘になる進行速度が速かったんだな。……たく、相変わらず変なことを考えやがって……」 「まだ猶予はあるとは思いますが、不安定なこの世界では状況が一転する可能性だってあります。早めに行動するに越したことはありません。早速ですが行きましょう」 行くったって、どこにだ? 橘はにっこりと笑みを浮かべた。 「もちろん……」 皆まで言わなくても分かった。閉鎖空間なんだろうな、やっぱり…… 「……そう、ですね。まあそんなところです。そのためにキョンくんの力が必要なのです。だから元の世界の戻れるように努力しましょう。今回ちょっと出演するのが遅れましたから、出遅れた分いつもの3割……いえ、3倍の力を振り絞って働きます!」 3倍ボケをかますのだけは止めてくれ。せっかくここまでボケらしいボケはない方向でやってきたんだから、俺の努力を無に帰す事だけは慎んでいただきたい。 「何の話ですか?」 「いや、何でもない。こっちの話だ」 「まあ、いいでしょう。あたしが頑張らなくちゃ!」 気合い一閃、橘は頬をパンパンと叩いた。いつものオトボケお馬鹿KYキャラは姿を顰め、真剣でまともで素直で、そしてなかなかのリーダーシップを発揮していた。 やるじゃないか。いつもこうだったら俺だって…… 「ん? どうしましたか?」 ……何でもない。 「ふふっ、変なキョンくんですね。では行きましょう!!」 そう言って橘は立ち上がり―― 「うきゃ!」 こけた。 「い……いたたたたっ、足が痺れたぁ……。た、助けてください、キョンくん……」 ――一瞬でもこいつを賞賛した俺が馬鹿だった。付いていく気力がまるっきり無くなったんだが…… ……キャンセルは無理だろうな、これ。 ※橘京子の分裂(後編)に続く
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チャリン―― 厳重に閉ざされた扉の向こう。静寂が支配するその空間に、無常の金属音が響き渡る。 ホールの奥、ステージの中心。そこに座する金の女神像。 その女神像を前にして、一人の男が声を震わせながら蹲った。 「…………どうして…………こんなことが…………」 彼――元生徒会長の彼は、金策尽きた中小企業の社長のように絶望の淵へと追いやられていた。 ニヒルスマートとも言うべき端正なマスクも、今となっては見る影もない。 だがそれも当然である。今ここで起きたことを鑑みれば、誰しもこの生徒会長のように取り乱してしまうのは吝かではないはずだ。 その証拠に、彼の言動を――偽りの仮面に潜む素顔を知る『彼ら』でさえ、どのように対処し良いか分からず立ち尽くし、じっと彼の方向に目線を向けるに留まっていた。 突然の来訪者である俺、漆黒の振袖を身につけた九曜、紋付袴を着込んだ藤原、……そして。 「会長……」 蹲った会長を励ますかの如く、傍に寄った喜緑さんもまた。 皆が皆、どう行動すればよいかわからずオロオロとしながら震える生徒会長に事の次第を判断しようと近づいた――その時。 「誰だ……一体誰だ…………」 指輪――宝石の無い婚約指輪を手にし、会長の震える声は次第に大きくなる。 「俺の……我が家の…………家宝を……宝石を………………盗みやがったのは…………」 そして、遂に―― ――どこのどいつだぁぁぁぁっ!!!!―― 彼の邸宅、大ホール。事件はそこで発生した。 何と言うフィールソーバッド、いや、バッドアクシデントだろうか。とてつもなく嫌な予感がする。 一体、何故こんなことになってしまったのだろうか。何故またややこしい事件に巻き込まれてしまったのだろうか。どうして俺はこうも面倒ごとと相性がいいのだろうかね。 しかし、そんな愚痴を言ったところでどうしようもない。特にここ数年の経験から鑑みるにそれは明らかだ。 必要なのは、この事件を早期に解決して後へと残さないこと。そのためにも、時間を戻して経緯を説明する必要がありそうだ。 というわけで、いつもの得意技であるバックトゥザフューチャー、いや、逆向き瞑想を開始してみる。 あれは、今日の午前中。勉強に飽きた俺が淀んだ空を見て昔の出来事を思い起こしてた後のこと。 二人の少女が俺の家に乱入し、強制的に初詣に行く羽目になったんだった…… ……… …… … インターネットの天気予報とは裏腹にダウナーでメランコリーだった空色は少しずつ明るさを取り戻し、雲の切れ間から今年一番の天照様、つまり初日の出を拝見可能となった元日の朝。 年賀状配達を装ってまんまと家の玄関に侵入した極彩色コンビ――オレンジ色の振袖にクリーム色の巾着を手にした橘と、漆黒の振袖にこれまた漆黒の巾着を手にした九曜の悪たれ二人組――は嬉しそうに、 「行かないとこの振袖、キョンくん着せますよ!」 と、手にした水色の振袖とかんざし付きのウィッグをフリフリちらつかせた。 「いやだぁぁぁぁ!! 誰が着るかぁぁぁ!!!」 あの時のトラウマを鮮明に思い出した俺は絶叫に絶叫を重ねた。 「ああ……なんか本気で嫌がってますねえ……」 「当たり前だぁ!」 やや身じろぎしながら腫れ物に触るかのような表情で言う橘に本気で拒絶の態度を見せた。好き好んで女装する男なんぞ危ない趣味を持っている奴か、或いは職業柄着ている奴しかありえん。 そのどちらでもないノーマルな俺が女装するなどはっきり言って三本の指に入るくらい人生の汚点だ。 「えー」 えー、じゃない! それにな、 「そんな暇があったら勉強に専念させてくれ。そっちの方がよっぽどタメになる!」 「大丈夫なのです!」何故だか自身満々で平たい胸をドンと叩いた。「信じるものは救われるのです! 祈れば大学に合格できるのです! ですからキョンくんもお祈りを捧げましょう! さあ! さあ!」 危ない宗教かお前は……って、強ちそうではないと言い切れないところがとっても橘である。 「佐々木さんと一緒の大学に入学したいと言う信念を見せ付ければ、それは絶対叶うのです。なんたって佐々木さんは神様なのですから!」 遺憾ながら同感である。佐々木と、そしてハルヒの力が混成すれば俺が勉強しなくとも大学に合格できてしまうのは何となく既定事項っぽくも思える。 だが、それに甘えるってのもかっこ悪いぜ。形だけでも二人に猛勉強しているところをアピールしなければ合格もへったくれもあったもんじゃない。 「意外と義理堅いんですね、キョンくんってば」 お前とは違うんだよ。 「さらっと酷いこと言いましたね」 まあな。 「うううう…………なんか悔しいのです。こうなったらあたしにも考えがあります! 九曜さん!」 「――――――――」 呼ばれて出てきてジャジャジャジャーンと言うわけではなくずっとその場にいたのだが、あいも変わらず存在感の無い九曜はいきなり存在感を露にした。 「やっちゃってください!」 橘の命を受け、漆黒のマトリョーシカは俺に向かって手を振り上げた。「一体何をする気だ!?」 「―――こう――――する――」 「!!?」 ……なっ…………体が…………動かない………… 「かな…………しばり………………か………………?」 痺れて動かない舌と唇を必死に動かして言葉を紡いだ。 「ふっふっふっ…………これであなたはあたし達が今することをただじっと見てなければいけませんね……」 勘輔の策略を見破った謙信の如く鋭い目つきをした。「まさか…………無理矢理………………つれて行く……気か…………?」 俺の言葉にしかし口を歪め、奥に見える歯を白く輝かしていた。 「いいえ!」 しかし橘は俺の目論みをを否定し、それ以上の戦慄を植えつけた。 「そんなことよりキョンくんの家にあるおせち料理、全部食べ尽くしてやるのです!」 こらお前ちょっと待てぇ! 俺の言葉も空しく、疾風怒濤の如きダッシュを見せたオレンジ色のソレは、ダイニングに整然と並ぶ正月料理を目の前に燦々と目を輝かせ、そして見つけた重箱の一つに手を伸ばし料理を鷲掴み! 「ムグムグムグ……うん! このられまき、あまくてほいひい! こっひのきんときもあんまいれすう!」 「結局たかりに来ただけかこの大飯喰らいがぁ!」 ゴス、と目の前にあった重箱の隅が橘のドタマにめり込んだ。 「いったーい! 何するんですかぁ!! てかどうして動けるんですか!?」 「九曜に解いてもらったんだっ!」それより! 「何するんですかはこっちのセリフだ! いきなり上がりこんで電波な宗教論を語った挙句人様のうちのおせち料理を平らげるなぁ!」 「あー、いえいえ。お構いなく。ところでお雑煮はまだですか?」 「――――こっちに……ある――――白味噌……――――京都風――――」 「わあ、甘くていい香りがしますぅ! 九曜さん、こっちにも早く早く!」 「――――どうぞ……」 「いっただっきまーす! うーん、おいしい!」 「――――こってりしていて――――――それでいて――さっぱりして――――口の中で――とろけるような…………――――」 「ふう、美味しかったのです。そう言えばデザートはまだですか?」 「もう――ちょっと……――――待って…………今から――――――お汁粉――――――――作る――――――――」 「やったぁ! 期待してますよ、九曜さん!!」 こいつら……本気でたかりに来たのか? それ以上無銭飲食を続けるなら警察に通報しちゃるがな。いやマジで。 「とまあ、腹ごなし……もとい、冗談はここまでにして」 とても冗談とは思えないくらい程がっついた橘は、食事に満足したのかようやく(?)当初の目的を思い出したようで、「そろそろ初詣に行きましょうか」 だから俺もさっき言ったとおりヤダっていっただろうが。 「一年の計は元旦にあり、なのです。初詣は元日の午前中に行くのがスジってものなのです」 決して意味不明なことを言っているとは思わないが、だがどんなに名文句も橘が喋ると全て台無しになってしまう気がするのは俺の気のせいだろうか。それはともかく、 「なるほど、お前の言う事も一理ある」 「じゃあ……」 「だがな、もう済ませてきたんだ」 「……へ?」 「実は今朝方、ハルヒや佐々木達と一緒に行ってきた。だから二度も行く必要は無いだろ」 「ええええー!!!」 何故か橘は驚いた様子で 「そんなぁ! あたし呼ばれてませんよ!」 「そりゃあ、呼ばなかったからな」ハルヒと佐々木が断固として拒否したから仕方あるまい。 「ひっどーい! あたしの人権はどうなるんですか!?」 さあ、その辺はお前を無視した二人に問い質すか、人権擁護団体に訴え出てくれ。正直俺の知ったことじゃない。 「うううう……キョンくんってば最近冷たい……あたしを人間扱いしてないなんて……ひぐっ…………」 ヨヨヨと泣き崩れたように見える振袖姿のツインテール。しかし俺はコレが演技であることはとうに見抜いていた。伊達にこいつとの付き合いも長いわけじゃないぜ。 「くっ……やりますね。あたしの渾身の演技を見破るとは……」 渾身の演技をするつもりならば、先ずは口の周りの汚れをふき取ってからしていただきたい。 「それは後々の課題として組織に提案することにします。……で、キョンくんは初詣に行ったのに、あたしと九曜さんは初詣に行かないなんて我侭、許されると思いますか?」 いや、許されるも何も。 「九曜は初詣に行ったぜ。俺達と一緒に」 「…………へ??」 「だから、俺とか、ハルヒとか、佐々木とか。その他にもいたけど、とにかくお前以外の奴らで初詣に行ってきたんだよ」 「……えー……と……」 口の周りを汚したままの橘は、ギギギと言う効果音を立てて首を九曜の方に曲げた。 「本当、ですか……九曜さん!?」 九曜は橘を凝視した後俺の方を見据え数ナノ単位で首を動かした後、再び橘に目線をロックオン。 「――――本当…………行ってきた――――初詣――――皆と一緒に……――――」 「………………え゛」 鏡開き時の鏡餅宜しくカチンコチンに固まった。 まあ……九曜は別段俺たちに害を成すことは無かったし、ハルヒも佐々木も得に問題なく誘ってたみたいだぞ。気にするなって。その代わりと言っちゃ何だが藤原はいなかった。ほら、お前と同じで。よかったなー。ともかく初詣には一人で行ったら…… 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」 あ、泣き出した。 「ひどいぃぃぃ!! ひどすぎますぅぅぅ!!! みんなであたしをいぢめるぅぅぅ~!!」 ギャン泣きする様は演技でなく、ガチで泣いているようだった。 「そ、そんなに泣くなって! 誘われなかったくらいなんてこと無いだろ!? 俺達だってお前を除け者にしたわけじゃ……あるけど……いやそうじゃなくて……あ、そうだ。藤原はまだ行ってないだろうから二人で行けば……」 「う゛わ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛~ん゛! う゛わ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛~ん゛!」 橘の鳴き声は更にヒートアップした。高周波を醸し出す嗚咽音は俺の家だけならまだしも近隣住民の皆様の平穏なる元日を脅かすのは間違いなかった。 「わ、分かった分かった! 行く! 行ってやる! だから泣くのは止めろ!!」 「本当ですか? やったぁ!」 あれだけ激しく号泣していたツインテールは嘘のようにピタリと泣き止んだ。 「わーい! キョンくんと初詣だぁ! たのしみだなあ!」 もしかして、あの涙も演技だったの? ……マジ!? こうして俺は、本日というか本年二度目の初詣(二度目なら初じゃなくて二詣でとでも言うのか?)に借り出されることなり……そして。 実りの無い事件に巻き込まれる羽目になるのだ。 渋々と言うか橘の姦計に見事引っかかってと言うべきかはさておき、最寄の神社へと向ったのは十時を三十分程過ぎていたことだけは記憶の隅に留めている。何故そんなこと覚えているかって? 単に家を出るとき何となく時計を見たからだ。 俺の自宅から目的の神社までは歩いて三十分くらいのところにあるので、このまま何事もなく移動できれば十一時には到着するだろうし、そこからお祈り等何やかんやしたところで十二時には自宅に戻ってこられるはずだ。 避けるのが無理ならば、一刻も早く事を終わらせるに限る。残り少ない高校生活、いや、受験生生活を有意義に過ごすためには一分足りとも時間を無駄にする事はできないのだから。時間にシビアになるのは仕方ないことだと思うね。 「……キョンくん、さっきから何ブツブツいってるんですか?」 ぴこぴことツインテールを揺らしながら、俺の顔を覗き込むように橘が訪ねてきた。 「どんな願い事をするか考えてたんだ。何せ二度目だからな」とは俺の弁。正直嘘なのだが、本当のことを言っても仕方ない。代わりに「そう言えばお前はどんな願い事をするんだ?」と質問する形で返してやった。 すると橘は…………って、無言かよおい。 「……え? あ?」 一人でブツブツ言うのも良くないが、人の質問に答えないってのもどうかと思うぞ。 「あ……失礼しました。誰かついて来てる気がしたんで……」 「ストーカーかもな」絶対ありえんが、と心の中でだけ付け足しておく。 「ストーカーですか……是非一度経験してみたいですね。記念に」 何の記念だよ、変な奴め。 「ああ、それよりさっきの質問ですけど、そうですねえ……今年もみんなと仲良く遊び回りたいです」 ニカッとはにかんだ彼女の表情がやけに眩しく感じられた。 「お前の願いはハルヒの能力を佐々木に移管することじゃなかったのか?」 「うん、そうですけど」何故か悲しそうな表情で「でも、無碍に実行する必要も無いかなって」 およそ橘らしくない発言をしでかした。頭、大丈夫か? 「大丈夫ですよっ! ノータリンみたいな扱いはしないで下さい!」 ぷくっと頬を膨らませた。冗談だよ、冗談。俺がそう言うと橘は、 「あたしの願いは本気ですよ。確かに『組織』にとっては、涼宮さんの能力が佐々木さんに移行されることに何の懸念もありませんし、あたしの主旨も初志から変わることなくここまで来続けています。でも……」 でも……何だ? 「あたしは佐々木さんの良き理解者であり、パートナーとしてありつづけたいのです。ですから、佐々木さんの望むべくも無いことをむやみやたらに差し迫るのは、組織のためにも、そして佐々木さんのためにも良くないんじゃないかって思い始めてきたんです」 それはそれは。橘にしては良い心がけだ。そうしてくれれば佐々木も大助かりだろうよ。それだけ佐々木のことを気に掛けてくれれば何をすべきなのか普通見えてくるもんだがな…… 「何か言葉に刺があるように感じますが……まあいいです。古泉さん達が主張する、『涼宮さんが望んだことが現実となる』ように、あたし達も『佐々木さんが望んだことが現実となる』ように仕向けなければいけないのです」 で、具体的にはどうするんだ? 「さあ、わかりません」 おいおい、何だそりゃ。 「分からないからこそご神託を聞きに神社でお参りをするんですよ。ねー、九曜さん」 「――――そう――――――」 俺達の後ろを、足音も立てずに歩く九曜が肯定の反応を示した。 「いずれ――分かる――――日が……来る――――」 何時だ、それは? 「その――うち――――」 そうかい。ならその時に備えて構えておくことにするよ。 「それよりも」 俺は目線をチラリと横にずらし、「まずは目先の懸念を払拭することにするか」 「そうですね。先ずは大学合格が重要なのです!」 ……いや、それも重要だが、俺の言いたい事はそうじゃない。遠くに見える違和感を尻目に、横に侍る女性陣にだけ聞こえるようぼそっと喋りかけた。あ 「(お前の言ってたのは本当っぽいな)」 「……ん? 何がですか?」 「(確かに誰かついて来てるようだ)」 「えええええっ!!」 こ、こら! 声を上げるな! 俺の言葉に橘は、 「だってうれしいですもん。本物のストーカーさんに付きまとわれてこそあたしの人生にも箔が作ってもんです!! やったぁ!」 ……だから喜ばないでくれ。 それは俺達の後ろ、道路の路側帯に組み立てられた物置程度の網小屋――所謂ゴミの集積小屋。野生の動物達がゴミを漁るのに苦慮して市が立てた小屋の一つだが……その周りを確かにうろちょろしている人物がいた。 「(どう見ても犬や猫の類ではないぞ……浮浪者か?)」 「なんだ、ストーカーさんじゃないんですか……残念」 まだ言ってるのかお前は。 「まあいいや、とにかくゴミを漁っているかも知れませんし、あたし注意してきます!」 馬鹿! 無視しろ! 構うなそんな変な奴! 「いいえ! 公序良俗に違反する行為をする輩はとっちめなければいけません!」 お前は『公序良俗』なんて四字熟語を使うに値する人間なのか、ゴミ漁りはダメでストーカーはオッケーと言う判断基準はどこからきたのかというツッコミが即座に思い浮かんだが、そんな言葉攻めをしたところででおずおず引き下がる橘京子ではない。 俺の制止を振り切り、カパンパカンと軽快な下駄音を立てて一直線。 「こらーっ! そのこあなたー! 出てきなさーぃ!」 「――――!!?」 響き渡るハスキーボイスに驚き、慌てて小屋の中へと隠れる。それを見るや否や、彼女も一緒になって小屋の中へと駆けて行った。 やれやれとは思いつつ、トタトタと走り出す俺、そして九曜。因みに九曜は橘と同じく下駄を履いているはずなのに足音は全く無かった。さすが長門も舌を巻く別世界の宇宙人である。 「そんなとことに隠れても無駄よっ! 出てきなさい!」 「うおわぁ!」 大量のゴミに埋もれた人物を難なく引っ張り出した。そこにいたのは、 「あ、ポンジーくんじゃないですか」 「うっ……」 そう。この寒い中、燃えるゴミと一体化して姿を眩ましていたのは一風変わったオシャマな未来人、ポンジー藤原だった。驚くこと無かれ。何故か紋付袴姿の正装でご登場だ。 「何してんだ、お前。そんな格好で」 「ふん、別段何をしてても構わないだろう。そんな目で見るんじゃない」 確かに何をしててもお前の勝手だが、そんなところに隠れている時点で周りの人間から奇異な目で見られるだろうし、何事かと声を掛けられるのは仕方の無いことだぞ。 「それに頭の上に魚の骨が乗ってるその姿はいくらなんでもみっともない」 俺が親切にも頭の上にのっかったソレを取ろうとすると、何故かそれを制止した。「これも規定事項だ」 ああそうですかそうですか。じゃあ外すなよ絶対にな! 「言われなくてもそうする!」 『ふんっ!』 と、どうでもいい事で口論となった俺達だが、「まあまあ、いいじゃないですか」という何がいいのかさっぱりわからない橘の宥めによってこの場はそれ以上の惨事は回避された。 「で、何してたんですか? 本当に」 「……いや、その……」 「いいじゃないですか、教えてくださいよ。あたしとポンジーくんの仲じゃないですか」 「ふっ、知りたいのなら教えてやる。えーと、実はな……初詣に……そう、初詣だ。及びそれに係る神への祈祷。そんな古典的風俗を勉強しようと思ってたんだ」 若干言葉を詰らせながらも答えた。俺には決して言わなかったのに橘相手になるとあっさりと口を割りやがったな、こいつ。何だこの差は……と言いたいところだが、橘にお熱なのだから仕方ない。悔しくなんかない。絶対にない。 「文献によると『神社』の『本殿』という建造物に祈祷を捧げることになっているのだが、如何せんその文献には『本殿』の写真が無くてな。記述からソレらしきものに目星をつけて探索を行っていた。そして見つけたのが……」 未だ頭の上に魚の骨をのっけながら、藤原は自信満々に集積小屋を指差した。「この建造物だ」と。 「…………」 思わず沈黙。っていうか何て言えば良いんだよ。 「文献に依ると、それほど大きくもない木造建築物は観音開きとなっており、その中には御神体が祭られているとのこと。然るにこの建造物も同様の造りになっているではないか!」 ええっと……その…… 「だからここでお祈りを捧げようとしていたところなのだ。現地人はこのような格好を正装とし、二礼二拍の後御神体にお祈りを捧げる……ふっ、どうだ。どこからどうみたところで初詣に違いあるまい!」 「そ、そうか……そうだよな……お疲れさん……」 何と答えて良いか分からなかったので、とりあえず労いの言葉をかけることにした。 「んー、そうだったのですか」 対照的に納得したたのか、橘は二房の髪をふわふわ揺らして鷹揚に頷いた。 「初詣に対する心がけ、大したものです。キョンくんとはえらい違いですね」 うるさい。 「でも……それなら何故あたし達の後をついて来たですか?」 「は!?」 「最初は気のせいかと思ってましたが、でもあたし達の後をずっとつけてくる気配がありました。初詣をするのが目的なら、あたし達に付きまとう必要は無いですよね」 「……い、いや……別に付きまとってなど……」 「ならどうしてあたしが追いかけた瞬間、隠れたりしたんですか?」 「うっ……いや! 追いかけてなどいない! たまたまだ神殿に身を委ねたのがそのタイミングだっただけだ!」 「怪しい……」 「怪しすぎる……」 「怪しさ――――大爆発――――」 「そこまで言わなくても!」 いいや、だって余りにも不可解な解答なのだから仕方あるまい。 「怪しいと言えば……そうそう」橘は手の平でポンと音を立てて言葉を紡ぎだした。「古典的風俗を勉強している割に、神仏に対する基本的なことをご存知無いようですね」 「何……だと?」 「例えば御神体。普通御神体って、目のつかない場所に保管されているんです。神様が人目を気にしているとか、人間が神様を見たら目が潰れるとか……諸説色々有りますが、簡単に目の入るところにはいないのです。文献に書かれていませんでしたか?」 「うっ…………いやいや、そんなことは書かれてなかった気がするが……あ、いや!」 何かを思い出したか、 「そのような文献も読んだことはある。だが、古来御神体と言うものは自然そのものであったり、または風光明媚な土地・地形が御神体となるケースもあるはず! 決して依り代となった物質が姿を晦まさなければいけないと言うわけではない!」 「うわ、すっごい! よくご存知ですね!」 「へ……へへ。まあな」 若干照れたように笑う藤原。うん、きしょい。 「でも……それだけご存知なら、ますます怪しい。だってそうでしょ? 本当に神社や御神体についての知識があるなら、こんな場所が神社の本殿なんて言うはずずもないし、それに魚の骨が御神体だなんて言うはずがありません」 「ぐ…………」 「それに関してはどうお答えしますか?」 「いや……だから…………」 「――――彼の…………言う事も…………――――一理――――ある――――骨を…………――奉る……――――――地域も――――――あることは――――…………ある――――――」 「ほ、ほら見ろ! 僕の言う事も強ち嘘じゃないだろうが!?」 なんともまあ、往生儀が悪い奴だ。いくら九曜が代弁してくれたからと言っても、不利なことは間違いない。 「分かりました。ポンジーくん、あなたはその小屋が御神体を祭っている神社、そして頭の上にあるお魚さんの骨がご神体であると。そう信じて疑わないのですね」 「ああ、そうだ」 「ならば……」 藤原の返答に、橘は獲物を捕らえたような野獣のような表情で、 「今すぐそこでお参りをして下さい! お魚さんの骨に向かって二礼二拍して祈祷を上げてください!」 「なっ!!」 「お魚さんにきちんと願い事を言えたならばあなたの仰ることが本当であると信じましょう」 「くっ…………」 とうとう藤原の口が沈黙した。なるほどそうきたか。橘にしては上手い誘導尋問だ。 「さあ、どうしたんですか、お辞儀してください! お手を叩いてください! お魚さんの骨に向かって! ゴミの山に向かって! さあ!」 「……い……いや…………」 「遠慮は要りません! 通りすがりの方達が白い且つ哀れむような目線でポンジーくんを蔑むかもしれませんが気にしないで下さい! あなたはあなたなりの神様がいるんですから!『トラッシュイズゴッド! ボーンイズジャスティス!』と請い願うのです!」 「わ、悪かったぁぁぁぁ!!!! 許してくれぇぇぇぇ!!!!!」 あーあ、とうとう泣かせたか。顔をくしゃくしゃにしてまで懇願させるとは……結構容赦の無いヤツである。 「だって、本当の事言ってくれないんだもん……そう言うの見るといぢめたくなっちゃう。もうっ」 再び頬を丸く膨らませた橘は、結構可愛く……絶対気のせいだ。 観念した藤原はポツポツと事の詳細を語り始めた。 ――神社や初詣について文献を調べたことは本当であり、実際に参拝してみたいと言う気持ちはあった。 もちろん神社が分からない訳でもない。いくらこの時代の地理に疎くても、地図を調べれば『○○神社』ってのが出てくるからな。 だが、懸念事項もある。生まれて初めて、しかも遠い異国で自分のそ知らぬ文化行事を万事上手くこなせるか? もちろん他人と同じような行動をすればいいのだが、ちょっとしたミスで笑いものにされるのはいただけない。こと過去の人間に笑われるなど屈辱の極みである。 行くべきか、行かざるべきか。 神社までの往路をウロチョロして対策を練っていたところ、ふと自分の目の前によく知る人物(俺達のことだ)がいるではないか。思わず隠れてしまい……だがよくよく見ると、女性陣は文献にあった和服の着物を召している。 『まさかあいつらも初詣に行くのではないか? いや、そうに違いない』 これはチャンス。奴らの後を追い、偶然を装って出会ってやる。そしてそれとなく初詣の話へと持っていき、後はあいつらに合わせていればいいだろう。 『ふ、なんて完璧な計画なんだ。最高だ』と自画自賛していたまでは良かったのだが……。 ここで想定外の事件が起こった。やおら方向転換をした橘があれよあれよと言う間にこっちに近づいてきたのだ。 ちょ、待て! 僕の計画じゃ出会うのはもっと先のはずだ! どうやって言い訳するか考えてないんだこっちは! 等と心の中で叫びながら、近くにあった小屋に隠れ―― 「……後は知ってのとおりだ」 少々不機嫌な様子で、藤原は不快感を露にした。 「理由は分かった。だがそれならそうと言ってくれればいいのに」 「ふん」 ったく、本当にツンデレ野郎だな、こいつは。 「なあんだ、それだけですか」残念そうな顔で橘は「もっと大事件を隠しているのだと思ってました。この集積所に遺体を遺棄しにきたとか、とても言えないところから強奪した金銀財宝を隠しにきたとか」 頼むから正月そうそう物騒なことを言わないでくれたまえ。 「しょうがないですね。ともかくあたし達と目的は同じみたいですし、ポンジーくんも初詣行きますか?」 「はい、喜んで!」 今の今までしょぼくれてたくせに、立ち直りも早い奴ではある。っていうかお前、現地の人間と行動するのは嫌だっていってなかったか? 「ふっ、目的のためには多少の羞恥心は目を瞑る必要がある」 お前の羞恥心の基準が分からんわ。見つかるまではまるで俺達を監視するかのようにつけまとい、見つかったら見つかったで一緒に行くと言い出して……ああ! そうか! 「橘、藤原のの本当の目的がわかったぞ」 「へ?」「なっ!?」 「何やかんや言ってるが、要するにこいつは俺たち、というかお前と一緒意に初もう……」 「わー! わー! わー!」 どうした藤原。いきなり奇声を上げて? 「本当、どうしたんですか?」 「あーいや、わー……わー……わーたしのお名前ーなーんだっけ?」 「大丈夫か藤原?」いや俺は分かってからかっているんだが。 対照的に橘は頭にクエスチョンマークを浮かべ、訝しげな顔をしてポンジーを見つめている。そのポンジーはもう面白いくらいにしどろもどろだ。ふふふ、ふっとからかってやる。 「お前の名前は自称藤原じゃないか。橘のことがす」 「とがすー!!」 「ど、どうしたのよポンジーくん!?」 「とがす……とがす…………都ガスでエ○ファーム! コージェネでエコな生活を! 未来人からのお願いです!」 「――――ユニーク――――」 「……あの、一体なにが楽しいんでしょうか……?」 「ちょっとした余興さ」 「くはーっ……くはーっ…………くそ、覚えてやがれ…………」 やだ。絶対忘れる。そう心に留めながら恨みがましい目を向ける野郎から目をそらた。 「しかし、よくこいつの言い分に突っ込めたな、お前」 「えへん、これでも洞察力には優れているのです。言葉や時制、そして行動の矛盾を読み取り、明朗にそれを指摘する。これこそあたしが最も得意とする技なのです」 全く自覚の無い答えを返しやがった。 俺が言いたいのは、あんな突拍子も無い嘘をしれっと流さずよく突っ込めるなって事なんだが。大体神社の神殿がゴミの小屋なんて言う奴は280%くらい妄言を吐いているとしか思えないぞ普通に考えて。 「その顔。信じてないですね?」 じっと覗き込むように見上げた橘はあからさまに不満の色をにじませた。 「いやだから、信じる信じない以前の問題で……」 「それ以前の問題!? そこまで馬鹿にしますかキョンくんは!?」 ダメだ、聞いちゃいねえ。 「ふふふ……わかりました。ならあたしの明晰な頭脳を披露してやるのです。疑問難問珍問いくらでもかかってきなさい! この名探偵橘京子が全て解いて見せます! おーほっほっほっほっほ……って、あれ? 皆さんどこですか?」 一頻り高笑いをする橘からそっと距離をとり、重たくなった頭を左手でぐっと支えながら俺は二回目の初詣でお願いすることを決定した。 願わくば、今年はあいつとの関わりを尽く断ってください、と。 とまあ、サプライズゲストと言えば聞こえが良いかもしれないが実質ただの腰巾着、橘のパシリとも言うべき藤原も仲間に入れた俺たち一行は再び歩みを始め――そして、彼と出会うことになる。 男女二組、ダブルデート状態になった俺達は他愛も無い話を繰り返し、程なく神社に辿り着いた。社の領地内は時期が時期だけあってかなりの人で覆い尽くされていたが、それでも身動きできないほど込んでいるわけでもない。 所詮は田舎の一神社。こんなものであろう。 というわけでサクサクっと事を終わらせよう。参道の脇に立ち並ぶ屋台を尽く無視し(途中橘が何回か立ち止まったが無理矢理引っ張ってきた)、祝詞をあげる神主さんも華麗にスルーし(こっちは藤原が興味心身だったが以下同文)、そして祭壇へと並んだ。 カランコロンと鈴を鳴らし、パンパンと手を叩いてお辞儀。藤原が前もって調べたらしい二礼二拍をしたのち手を合わせてお参りする。橘、藤原、九曜もまた同じ行動を繰り返した。 藤原がやたらと人目を気にしていたことと、探偵気取りで他の参拝者の願い事を推理し始めた橘を除けば特に問題なくお参りは終了し、これで晴れて自由の身になったわけである。 「やれやれ。それじゃあ俺は帰るぞ。後は任せた」 時刻は十一時半。ほぼ俺の予定通りの時間である。今から帰って勉強すれば何とか遅れを取り戻せるだろう。 「えー!」しかしと言うかやはりと言うか、空気の読めないこいつがあからさまに不満の色を醸し出した。「せっかくのお正月なんですし、もうちょっと遊びましょうよ! 探偵ごっことか!」 せっかくの正月に探偵ごっこをしなければいけない理由は一体なんだろうか。そこんところ問詰めて見たいがこいつに付き合うとろくな事が無いので、 「だから何度も言ってるが、俺は受験生なんだ。それに遊ぶなら藤原がいるじゃないか。探偵ごっこするには打ってつけだ。頼んだぞ」 「お……おう! 任せとけ! 犯人役でも被害者役でも何でも演じきってみせる!」 着物の上から胸をドンと叩いた。しかもなんだか嬉しそうである。 「と言うことだ。頑張ってくれ」 「でもお……」 どうした。不満でもあるのか? 「ポンジーくんって、一生懸命なのはいいんですが……なんて言うか、必死過ぎてちょっと引いちゃいます」 「がーん!!」 ……あ、ポンジーが硬直した。 「いくら遊びとは言え、長いことやってるとこっちが疲れるのよねえ」 「ががーん!!」 今度は白い砂と化した。 「あたしはもっとクールで冷静沈着な人を抜擢したいな、と思いまして」 「ががががーん!!!」 そして崩れて木枯らしに吹かれ舞い散り……いくらなんでも藤原がかわいそうである。 なあ橘、人の振り見て我が振りなおせ、って諺知ってるか? 「ああ……どこかにいないですかね、クールでヒールな役がピッタリな王子様♪ 実はさっきお願いしたのです。今年こそきっと白馬に乗った王子様があたしをお迎えに来てくれると!」 はいはい、それはよかったね。きっと直ぐに来るぜ。白馬に乗った王子様がな。お前を迎えに来てそのままさらって行って二度と俺の目の前に現れないで欲しい。 ――なんて、心にも無いことを言った俺は自分を呪った。 まさかこの後すぐにそんな人が現れるなんて思っても見なかったからだ。 「きっと、あっちの方向くらいから!」 橘が参道の向こう――俺達がやってきた道を指差した、まさにその時。 ――ドドドド ドドドド ドドドド―― 胸を突くような重低音が俺達……いや、周りにいる全員の心臓に響き渡った。車かバイクの排気音だと思うが……ビートを刻むような胸の高鳴りはどういうことか。大きい音量は胸が苦しいどころか、むしろ心地よくも聞こえてくる。不思議な音だ。 一体どんな車なんだろうね。 「あたしが推理してみましょう」 再び探偵気取りになった橘がしたり顔で言い放った。 「ふむふむ……独特の不協和音……それが奏でるエクゾースト、排気干渉――――これは水平対向エンジン! ポル○ェかス○ルね!」 ビシッ! と俺に向かって指差した。 「――違う――――――この音は――――空冷Vツイン…………――――ハ○レ○――――ダ○ッド○ン――――――」 ……だ、そうだ。 「あ、あたしだってたまには間違えます。恥ずかしくないですもん!」 の割に顔は真っ赤だ。 やがてそのVツインとやらの音はこちらに近づき、そして音を出しているものの正体……かなり大型のバイク――鈍く光る黒のボディと鮮やかに光るメタル部分がコントラストとなってより存在感アピールしている――が、俺達の目の前現れた。 九割以上が歩行しているこの参道でバイクはただの一台。季節柄というのもあるが、その個体とも相まって注目度抜群。殆どの歩行者はその威圧感からか、恐れおののくように道を譲っている。 俺達も例に洩れず、同じく道を空ける……が。 こともあろうにバイクは俺達の目の前で停止した。 「え? え?」 「――――――」 意味が分からず思わず言葉を失った。 ライダーは恐らく男性。恐らくと言うのは他でもない。身を包んだ革製のジャケットとパンツ、そしてスモークシールドに覆われた全体から性別を認識するのは困難だからだ。 しかし、古泉に迫る長身とスタイルの良さから男性であることはほぼ間違いないだろう。 そのライダーは俺達を一瞥し、納得した様子でジェットヘルメットを脱ぎ、 「よう、久しぶりだな」 排気音が鼓動する中に、彼の渋い声が響き渡った。 「もしかして……会長!? 生徒会長さんか?」 「ああ。今では『元』と言う方が正しいが……そんな細かいことはどうでもいい。そう、私だ」 生徒会長……元生徒会長は、胸ポケットに入れてあったタバコを取り出し、ライターで火をつけた。まるで自分の言動を思い出させるかのように。 ああ、思い出したぜ。彼が学校を卒業してもう一年近くなるんだから仕方ないだろう。 「(ちょっとちょっと、あの人誰なんですか?)」 くいくいと俺の袖を引っ張り、初顔合わせの力士みたいに顔を強張らせた橘に、 「去年卒業した、俺達の学校の生徒会長だ」 「元、だ。今は違う。と言うかもう金輪際やる気は無いぜ。あんな面倒な仕事はヨ」 ぷうと吹かした煙が木枯らしによって吹き散らされた。 「古泉に唆されて生徒会長になったのはいいが、あの女のせいでかなり振り回されたからな。お前は知らないかもしれないが、古泉からの注文はかなりウザかったんだからな。……ふっ、でもまあ」 ここで更に一息。 「おかげで首尾よく進学できたわけだ」 そう。確かにこの人は古泉……正確に言うと『機関』の助力もあって、都心にある某有名大学に進学したんだった。「一年間、『機関』の言うことを聞いてくれた褒美です」と、去年の春に古泉から聞かされた覚えがある。 全く、『機関』というのはどこまでパイプを巡らせているんだろうかね。 余談だが、この話を聞いた時に俺の大学受験の時も頼むってお願いしたんだが見事に断られた。曰く『彼の在籍している大学はともかく、あなたが受験する大学はそこまでの関係を持っていないので』らしい。本当かどうかはしらないが。 「それで、今日はどうしたんですか? 実家で初詣をしに来たんですか?」 「いいや、送迎しに来ただけだ」 「送迎?」と俺。「ああ。そこに――」 その時ようやく気付いた。会長のバイクのセカンドシートに、誰かが乗っていることを。 会長よりも一回り小さいその人は、居住まいを正し、被っていた大き目のフルフェイスヘルメットを脱ぐ。ふさぁ、と緩やかなウェイブが肩の下まで垂れ――って、まさか 「明けましておめでとうございます」 「き、喜緑さん!?」 ワンピースにレギンス、そしてパンプスと言うおよそ普段着のせいか、ゴツイ装備の会長に目が行っていた俺はその存在をすっかり見落としていたが、優しい微笑みを見せる彼女は、俺が思わず言葉を漏らしたその人に間違いなかった。 「どうしたんですか、一体?」 同じような質問を繰り返す俺に、彼女は暖かい瞳をこちらに向けて微笑んだ。 「こちらでアルバイトをしておりまして」 「アルバイト? どんな?」と聞き返そうとした瞬間、 「(ちょっとちょっと、こっちの人は誰ですか!?)」 ええい、黙れ橘。今はお前に構ってる時間はないっ! 「(…………)」 よし、黙ったな。 「……すみません、続きを」 「あ、はい。そこの社務所で他の神官や巫女のお手伝いをしております」 「助謹巫女ってやつだ」 助謹巫女……つまり年末年始や祭りの際など、忙しい時に手助けする臨時雇いの巫女さんである。 巫女さん姿の喜緑さんか……朝比奈さんの巫女姿も秀麗だったが、それに劣らぬ見事なものだろうな。 「会長も、結構好きですなあ」 「ふっ……何のことだ?」 若干ニヤケながらも否定するところがとても彼らしかった。 「昼から夕方までの約束で働くことになっているんだ。大学生たるもの、勤労に対する理解も必要になってくるからな」とは会長の弁だ。だけど高校生の時から働いていた喜緑さんは既に勤労の大変さを知っているのでは…… ……っと、いけねえいけねえ。高校生時代のバイトはオフレコだったな。 「そう言う訳だ。もうすぐ時間なのでこれでお暇させてもらおう。では」 再びヘルメットを被りなおし、アクセルを吹かし、鼓動音を響かせてこの場を立ち去る――と思いきや。 「そうだ、丁度いい」 何かを思い出したようにシールドを開けて喋りだした。 「ここで会ったのも何かの縁だ。これから私の家に来ないかね。年始のパーティに招待しよう」 「パーティ……ですか?」 「ああ。本当は身内だけで行う予定だったんだが、両親が急な用事が入って出席できなくなってな。急遽出席者を募っていたんだ。せっかくの各国の最高級食材ももったいないしな。無論他に用事があるなら強制はしないが……どうだ?」 うーん、せっかくですが、俺は受験ですし、最後の追い込みもしなければいけませんし。残念ですが今回は 「行きます!」 『!!?』 「是非お呼ばれさせていただきます! あ、あたし橘京子っていいます! 宜しく!」 「あ……ああ……よろしく……」 「――――――九曜―――――…………周防――――九曜……――――夜……露――死苦――――――」 「もうっ! 九曜さんたら高級食材が食べられるからって言って舞い上がりすぎですよ!」 「―――失敬……失敬――――」 「はは……はははははは…………」 さすがの会長も額に汗を垂らして苦虫を潰したような顔をしていた。その表情から『人選、間違えたかな?』という雰囲気がありありと出ている。 ここだけの話、正解です。会長。止めるなら今のうちですよ。というか拒否してくださいお願いします。 俺がそう願う中、残った喜緑さんは顔色一つ変えずニコニコと微笑みを続けている。この人もかなりの大物だ。以前の対決はどこ吹く風で三人の様子をにこやかに見守っていた。 ああ、因みにポンジーくんだが、ずっと固まったままだったことは付け加えておかなければなるまい。 『先ずは喜緑くんをバイト先まで送る。それから合流しよう。この先にある店で待ってくれないか? ついでに案内人も呼んでおこう』 会長はそういい残して再びバイクを走らせ、残った俺達は会長の言いつけどおりの場所まで歩き始めた。 「楽しみです! 最高級料理!」 笑顔がこぼれんばかりの橘とは対照的に、俺の気持ちはブルー一色に染まりかけていた。やっと束縛時間が終わったと思ったのに、また面倒なことに巻き込まれた俺のこの気持ち。分かるか? 「まあまあ、最高級食材があるからいいじゃないですか」 こいつの脳みそは喰い気が何よりも優先されるらしい。 「まあそれはそれとして」コホンと咳をついた後、彼女は両手を頬に添え、顔を赤らめて衝撃的な一言を発した。 「それにあの人、かっこいい!」 『なにぃぃぃぃぃぃっ!?』 橘を除く全員の声があたりにこだました。恐ろしいことに九曜もだぜ。 「マジでそう思ってるのか!?」 「――――かなり……想定GUY……――――予想GUY――害害害――――――」 「ほら、クールでヒールっぽくて。さっきあたしが言ったとおりの方です! 彼こそあたしの白馬に乗った王子様なのです!」 白馬じゃなくて黒い単車だったんだが、そこは問題ないのだろうか? 「コブ付きだったのが残念でしたけど、あたしは諦めないのです! 絶対あたしの虜にしてやるのです!」 いや無理だろ普通に考えて。お前と喜緑さんとじゃ人間としての器が違いすぎる。喜緑さんが人間かどうかと言う突っ込みはさておいて俺はそう思う。 そして困ったことに、勘違いしている人物は一人だけではなかった。 「僕も行く! あんないけ好かない野郎に僕の大切な人を上げるわけにはいかない! 奪い返してやる!」 もちろんもう一人の勘違い大王、いつの間にか復活したポンジー藤原。こいつも橘のことになると目先が見えなくなるからな……。 現に今、「大切な人? 誰ですか?」と突っ込まれ、「うあ! き、禁則事項だ!」としどろもどろで言葉を返しているくらいだからな。 「ふふふーん。ポンジーくんにもそう言う人がいたんだ。ふふふふーん……」 いやらしい笑みを浮かべたまま、 「ではあたしが誰なのか、推理してみましょう。と言うかスバリさっき会長さんの後ろに乗っていた女性ですね!」 「いや、その……」 「いやいや、照れなくてもいいから! 全然知らなかったんですけど二人はそんな仲だったんですね! あたし応援しますから!」 「…………」 というわけで、勘違いに勘違いを重ねた一行は会長の指示した場所へと向かうのだった―― 「ここは……ジュエリーショップですね」 会長が示した店は、俺達高校生にはとても縁がなさそうな宝石店だった。それもかなり高級の。 店に入ったわけでもないのに高級と断定した理由は二つある。一つは作りがいかにも高級そうだったから。そしてもう一つは入り口に常時張り付いている警備員。 いくら縁が無くとも、これだけ豪奢で厳重な建物を見れば高級ショップであることは一目瞭然だ。 しかし、一体なんでこんなところに俺達を呼んだのだろうかね。 「あたしの推理によりますと、あたしを一目見て気に入った会長さんがあたしにプレゼントをするため」 「あれ、古泉じゃないか」 「これはこれは。皆さんおそろいで」 「ふん」 「――――――――――」 「に、きっとこう」 「まさか案内人って言うのはお前か?」 「ええ。彼の気まぐれにも困ったものです。何故このような面子をパーティに……失礼。あなたのことを言ったわけではありませんよ」 「分かってる。気にしちゃいないさ」 「――――当然――――」 「あんたに贔屓目をされる筋合いも無いけどな」 「にゅうしてくだ」 「それにしても意外なのは事実です。偏屈で気に入ったものしか家に呼ばない彼がこうも簡単に招待するとは思っていませんでしたから」 「ああ見えて案外いい人なんだろ」 「――――料理――――食べる……――――」 「ああっ! もうっ! 聞いてくださいっ!!」 おいおい、次は藤原のセリフの番だろうが。割込みはいかんぞ。 「割込みも何も、話し始めたのはあたしです! あたしの話を聞いてくださいよっ!」 そうだっけ、古泉……? 「さあ、存じ上げません」 「――――――」 「ほら、三対一」 「うわぁぁぁん! みんなであたしをいぢめるぅぅぅ!!!」 「ぼ、僕はあんたの味方だぞ。いつだって助」「もういいです! どうぞ好き勝手やったらいいじゃないですか! 一人でも平気ですよーだっ!」 「……うう……どうせ僕なんか……いいんだいいんだ……」 「苦労、してんだな」 「お察しします」 「――――良きに……計らえ――――」 誰にも構ってもらえない橘にすら構ってもらえない藤原。彼の背中に漂う哀愁は並半端なものじゃない。 「……す、すまん。みんな」 藤原、俺、古泉、そして九曜。皆が皆お互いの手をガッシリと取り、友情を高めあう。宇宙人未来人超能力者という相反する勢力ながらも微かな友情が芽生え、俺達は―――― 「って! 何なんですかこの流れは!? いい加減にして下さい!」 ……確かに。ちょっと調子に乗りすぎた。いい加減元の流れに戻すことにしよう。 「で、俺達をここに呼んだ理由は何だったんだ?」 「恐らく、見せびらかせたいのでしょう、アレを?」 「アレ?」と橘「何ですか?」 「橘さんには一生縁の無いものですよ」 なるほどそれもそうだな。この店でお世話になるような宝石が購入できるとは思えんし。 「反論できないのが悔しい……」 「ま、それはともかく。僕は会長から賜った言い付けを遵守することに致しましょう。それでは皆さん、中に入りますよ」 古泉に言われるがまま店の中へと促されると、阿吽の呼吸で門を護っていた二人の警備員はスッと道を開き、特に止められることもなく店内へと入り込んだ。 店のショーケースに広がる宝石と豪奢な佇まいはさながら金殿玉楼。宝の御殿である。いくら宝石・装飾品に疎いとはいえ、これだけのものが整然と並んでいるとさすがに身悶えするばかりである。 橘なぞは舐めまわすようにショーケースに張り付いているもんだから警備員に相当睨まれている。気持ちはわかるが若干はしたないのでちょっと距離を取らせて欲しい。 そんな中、古泉は悠々と近くにいた店員と話しを始め、そしてさらに別の店員――見た目からして貫禄のある、店長レベルの店員――と二言三言交わす。 そして、 「お待たせしました。僕についてきてください」 となった。さて移動だ移動。橘、いつもでもガラスに張り付いてるんじゃない。 連れられた先は、店内とは全く異なる一室だった。 部屋の奥、中央の壁には白黒二色で描かれた幾何学的抽象画が飾られており、右壁には煉瓦造りの暖炉がパチパチと音を立てて燃えている。 そして左壁。建物の外壁に面するこちらには全面に遮光カーテンが敷き詰められている。カーテンの向こうは恐らく窓になっているのだろうが、分厚いソレに阻まれて窺い知ることはできなかった。 燦燦と照りつける程日差しが強くなってきた昼時だというのにそれを全く感じさせないくらいだから、その遮光性能は推して知るべしである。この部屋に灯りがついていなければ闇夜の如き漆黒に覆いつくされるんじゃないだろうか。 その灯りだが、完全シャットアウトされた太陽のピンチヒッターとなって部屋を照らし出しているのは、天井高くに設置されたシャンデリアだ。太陽光に遠く及ばない明るさだが、暖色系の光は厳寒の季節に温かみをもたらしている。 ……ん、よく見るとあのシャンデリア、電気ではなく蝋燭っぽいぞ。炎が瞬いているのがなによりの証拠だ。なかなか気合の入った照明である。 部屋の中央に目をやると、豪奢な外装とは異なりテーブルとそれを囲むソファーが数席並んでいるのみ。至ってシンプルなのだが、返って高級感を煽られるのはソファーとテーブルが価値ある逸品なのか、それとも演出なのか。そこまではわからない。 「欧風カブレした貴族が好みそうなところだな」 心の中でそう野次を飛ばして呆然としていると、それを察したのか店長風の店員に「こちらへどうぞ」と促された。 言われるがままソファーに座り、出されたロイヤルミルクティーと高級そうな洋菓子を配り、深深と頭を下げ退席し――。 弦が切れたハープのように一気にまくし立てた。 「何だ、ここは」 楽しそうに目を細めた古泉はカップを手にとって一言。 「VIPルームです」 「ひっぷるーむ? はんれすかほれ?」 お茶請けに出された高級菓子を喰らいつきながら訪ねるは……説明する必要は無いな。 「そのままの意味ですよ。重要なお客様を接待するために儲けられた特別室です。こう言った高級店には店の品揃えやサービスに関わらず存在するものですよ。 ああ……そう言えば聞いたことがあるな。 「最も、」と手を上げて制止した古泉は「僕はその重要なお客様の一使用人に過ぎませんが」 会長のパシリってわけだな。 「ええ。そのとおりです」 あっけらかんと言い放った。まあこいつに口で勝とうとは思ってないが……。 「で、あの会長さんはそんな高い宝石を買ったと言うわけか?」 「いえ、購入したわけではありません。ですが、それに近しい依頼をこの店にしたことは事実です」 で、何なんだその依頼とは。 「そうですね……」 カップを皿の上に置き、すくっと立ち上がった古泉は俺達が入ってきたドアの前まで来て、 「直接お聞きになってみたら如何ですか?」 ノブを開いてドアを開けた。すると―― 「くくくっ、そうだな。俺から話すことにするさ」 ダテ眼鏡を外し、ペン回しの如く回しながら長身の男性は喉を震わせていた。もちろんこの店に来るよう指示した会長である。 「お迎えの方はお済みですか。しかしあなたのことだから心配でずっと神社に張り付いていると思いましたが」 「バイトの邪魔になっては元も子もなかろう。終わる頃にはまた戻るさ。それよりもパーティのセッティングが先決だ」 「彼女が気にならないのですか?」 「アレはそんなにヤワな女じゃない」 「それもそうですね」 二人して同時に喉を鳴らした。 ったく、何が面白いんだか。お楽しみのところ悪いが、話の骨を折らないでくれ。 「失敬。俺が依頼した宝石についてだったな。実はな、」 ズカズカとまるで自分に家のように歩いてきた会長は、誰も座っていないソファーの肘掛に腰掛け、胸元のポケットから何やらゴソゴソと取り出した。 「これを磨いてもらってたんだ」 指で弾いたソレは放物線を描きながらテーブルの上、丁度橘の目の間に落ちた。 「これは……宝石ですよね。うわ、凄く大きい……」 爽やかな草原の如く美しい翠色を呈したその宝石は、シャンデリアの光にも負けず劣らず燦々と輝いていた。大きさもかなりのもので、綺麗に光らせるためのブリリアントカットも施されている。相当高価なものに違いない。誰の目から見てもそれは明白だった。 ただ……何かひっかかる。 「こ、これ……もらっちゃってもいいですか!?」 「ああ、構わない。俺からのささやかなプレゼントさ、お嬢さん」 ニヒルな会長の笑みがくくくと釣りあがった。 「ありがとうございますっ! やったぁ! これであたしも大金持ちです!」 「くくくっ、喜んで貰えて幸いだよ」 舞い上がる橘の姿をみて、会長はその笑みをさらに歪めた。 ……なるほどね。何となく分かった。 「橘」 「ん、何でしょうか? この宝石ならあげませんよ」 「いらんわ」と俺。何故なら会長の企みが分かったからだ。その企みとは恐らく……こういうことだ。 「その宝石はイミテーション。偽者だ」 「へ……ええっ!?」 「どう考えてもおかしいだろ。ポケットの中から出した宝石を放り投げて、しかも他人にいとも簡単に上げるようなものが本物のわけがない」 「そ、そんなあ……しゅん」 本気で落ち込んだ。てか気付けよそれくらい。 「さすがです。よく気がつきましたね。いや、橘さんがちょっとアレなだけかもしれませんが……」 「攻めるな古泉。確かに扱いはぞんざいだが、イミテーションにしてはよく出来てるんだ。素人目なら見間違える事もあろう」 諭した後、橘が抱えていた宝石――偽者の宝石を指差して、 「お前の言うとおり、それは偽者。本物が磨きあがるまで家に飾っていた代用品さ。よく出来てるだろ? 因みに本物はこっちだ」 パチンと指を鳴すと、控えていた店員さんは重厚なジュラルミンケースから中身を取り出した。中にあるのは、更に小柄なケース。 会長はその小柄なケースを手にとり、開錠した後カパッと蓋を開け―― 中から出てきたのは、イミテーションそっくりの宝石。形も大きさも、そして輝きも全く同一。 ただ一つ、決定的な違いを除いて。 「これ……色が違いますよ」 彼女が手にした偽者と会長が手にした本物を見比べて、その決定的な違いを口にした。確かに、イミテーションが青みがかかったグリーンなのに対し、本物の宝石は真っ赤に燃えるような紅色。 さながら、エメラルドとルビーといったところか。いや、構造が同じならばサファイアとルビーを言った方がいいかもしれない。 ともかく、いくら形や大きさが同じでもこれではイミテーションの意味を成さない。贋作を作ろうとしたのなら明らかに失敗である。 「ふっ、今度は引っかかったな」 さも嬉しそうに、狡猾な笑い声を上げた。「引っかかった?」何を言ってるのかさっぱりわからない。 「確かに、今のままでは分からないだろう。ならこれならどうだ?」 そう言うと会長はドアの反対側、カーテンが並ぶ壁へと近づき、そしておもむろにカーテンを引っ張った。 カーテンの奥にあったのは、俺の予想していたとおりの窓。そこから毀れる、晴れ渡った昼の太陽が部屋の中を、俺達を、そして宝石を照り付け―― 「……あっ!?」 ソレが驚くような変身を遂げたのは、この時だった。 会長が持っていた紅い宝石は、太陽の光を浴びた瞬間その輝きを変化させたのだ。 俺が今手にしたイミテーションの宝石と同じ、青みがかかった緑色に。 「驚いたか? これはアレキサンドライトという宝石だ」 胴体切断マジックに引っかった観客の如く呆然としている俺達に対し、会長は見事に騙しきったマジシャンの如く悠々と語りだした。 「蝋燭や電球など赤みの多い光に対しては燃えるような紅玉色を呈し、太陽光や蛍光灯など、青みが強い光に対しては優しい翠玉色を呈す。これがアレキサンドライトの面白いところであり、高価である所以だ」 再び片手を動かし、カーテンが閉まる。すると翠色の輝きはなりを潜め、再び真っ赤に燃える宝石が浮かび上がった。 「すごい……不思議な宝石ですぅ……」 お菓子を頬張っていた橘ですら手を止め、その不思議な現象に釘つけになっていた。 「ましてやコレだけ大胆にカラーチェンジするものは滅多に見られない。時の皇帝ですら手にできなかっただろう」 えらく自信満々な発言が鼻につくがそれに見合った逸品であるのも間違いない。 「それで、その宝石を俺達に披露して、一体何がしたかったんだ?」 「簡単なことだ。ちょっとした立会いをしてもらいんだ」 「立会い?」と俺。「何のために?」 「この宝石は代々我が家に伝わってきたもので、一族の仲間になる人間に継承されてきた。つまり婚約の儀式に使用されてきたものだ」 ほうほう。それで? 「それで……って、ここまで言えば分かるだろう」 「いいえ、彼は筋金入りのニブチンですから。最初から最後まで説明しないと分かりません」 橘、それはどういう意味だ? 「ほら」 「……なるほど…………」何故か納得した様子で、「実は、だ。俺ももうすぐ二十歳。家の家督を継ぐ妙齢になってきたわけだ。そうなると、人生の中で切っても切れぬ人間関係というのも出てくるものだ」 はあ……それで? 「そ、それで……だな。そんな人間を……まあ、何と言うか……自分のパートナーとして…………うん、そう言うわけだ」 珍しく照れたように吃りながら何とか言葉を紡いでいる。「つまり、どういうことですか?」 「どういうこともこういくこともありませんっ! どこまで鈍いんですかキョンくんは!」 バンッ! と両手を着いて橘が立ち上がった。どうでもいいがお前に鈍いとか言われたくない。 「なら会長さんが何をおっしゃりたいのか分かるんですか!?」 「む……」と、思わず黙り込む。 「こら御覧なさい。答えられないじゃないですか!」 ならお前は分かったというのか? そう言うと橘はえっへんと胸をそらし、「当たり前です!」と大きく出た。 「いいですか、よく考えてください。あの宝石は婚約の儀式に使うもので、そのためにここで磨いてもらったんじゃないですか。そして『切っても切れぬ人間関係』とか『人生のパートナー』とか思わせぶりな発言。そこから推理するのは簡単ですっ!」 コホンと咳を一つついたあと、 「つまりっ!」 橘はビシッと指を差し、自信満々に叫んだ。 「あたしに対するプロポーズですっ!」 ――瞬間、暖炉の焚き木すら凍りつくような寒さが此処にいる全員を襲った。 「ああっ! お気持ちは嬉しいのですが……出会ってからまだ二時間も経ってないのに……。溢れんばかりのあたしの魅力……これって罪ですね。どうしたらいいのでしょうかキョンくん!」 「アホかおのれはぁぁぁぁ!!!」 バコンッ! 「きゃん!」 先ほど買ったおみくじ型特大ハリセン(天誅大凶バージョン)で橘のドタマを叩きつけた。 「いったーい! 何するんですかぁ!」 新年早々意味不明なギャグをかますんじゃねえ! 「んん……もう。やだなあ、キョンくんたら。妬いてるんですね」 違うわ空気読めぇぇぇぇ! 他の皆をよく見ろぉぉぉ! 「あれ……みんな机に突っ伏したり紅茶を吹き散らしたり。どうしたんでしょう?」 あまりにもKYな発言で橘以外の思考回路が停止したとは露にも思わないのだろうか。 そんな中、ソファーの脇で蹲っていた会長が何とか起き上がり、ギリギリ平静を装って 「…………な、なかなか楽しいお嬢さんだ。フランクと言うよりはケセラセラと言ったところだな……」 とは言え、額から滲み出る汗は相当なものだ。恐らくこう言った人間と接するのは始めてらしい。 ふっ、いくら生徒会長とは言えまだまだ人生経験が浅いな。俺なんか長年付き合ってるせいかよほどのことじゃなきゃ動揺しないぜ。 ……と、自慢にもならない自慢を思い浮かべて自己嫌悪に陥ったのは言うまでも無い。 「ま、まさかとは思うが、」多量の額の汗をハンカチで拭いながら、会長は小指を突き出し、 「お前のコレか?」 「絶対にち」「いやだぁ! 会長さんったら!!」バンッ!!「ふぐべしっ!」 「もうっ! 妬かないで下さいって言ってるでしょ! キョンくんとはまだ何にも無いんですから♪ 彼ってばホント奥手で困りますぅ! でも会長さんのアプローチに妬いちゃって可愛い……いやだ、何言ってるのかしら! きゃはっ!」 橘の強烈なビンタ……いや、あれは張り手だな……をまともに喰らい、会長さんは今度こそ沈黙した。 「今年は初日からいいことばっかりですね! あたし嬉しいです!」 こっちは初日からトラブル続きで泣きたいです。おまけに勘違いした藤原がおぞましい殺気を込めて睨みつけるし…… カンベンしてください、いやホントに。 「お、お嬢さんの気持ちは嬉しいが……もう既に心に決めた人がいてね」 それでもめげずにヨロヨロと立ち上がり、今度は橘を直視しないよう若干視線をずらしながら再びソファーについた。何故直視したくないのかと言われれば……その辺は察して欲しい。 「喜緑くん……さっき神社まであった際、後ろに乗っていた女性がいただろう。その彼女にプロポーズしようと思うんだ」 ああ、なるほど、そう言うことでしたか。今更ながら全てを理解した。 「お二人の仲睦まじい関係は、生徒会では暗黙の了解でしたからね。いや、それだけじゃない。あなたを慕って同じ大学、同じ学部に入学した喜緑さんも実にいじらしいじゃないですか。そして遂に彼は彼女の想いに答えることにしたんですよ」 古泉の茶々に、「うるさい、黙れ」と照れながら怒鳴る会長がとても微笑ましい。 「まあ……大筋で古泉の言ったとおりだ。今日俺は彼女にプロポーズする。宝石を磨いたのも、今日のパーティも、全てはそのためだ。そして、」 改まって身だしなみを整え、 「キミたちにはその立会人になってもらいたい。先にも言ったが両親は火急の用で席を外してしまうから、誰か他に信用できる人間が必要だったんだ。どうか頼む」 と頭を下げた。 会長さんもなかなか人道的な御仁である。ただのアウトロー気取りじゃないって事か。ただ、何でそんなに接点のない俺達を立会人なんかに選んだのだろうか? 他にもっと適切な人がいるだろう。例えば、 「言っておくが、『機関』の人間ならお断りだ。アイツらに任せるとロクな事が起きん」 ――ピクッ、と古泉の微笑が蠢いた。 「どういう意味ですか?」 「そのままの意味だ。アイツらほど下らん人間もザラにいるもんじゃない。この宝石だってお前じゃない他のヤツに取りに来させたら、そのまま盗んで自分の懐に置き去りにする可能性もあるからな」 「……その信用ならない『機関』配下の僕に取りに行くよう命じたのは、どこのどなたでしたか?」 「ふっ、安心しろ。お前はまだ信頼している方だ」 「他の『機関』の仲間は信用できないと?」 「そう受け取って貰って構わん」 二人の会話に、辺りの空気が一気に淀んだ。 ちょっと待て。何だこの言い争いは? 会長と古泉は反発している? 以前はそんな雰囲気はなかったじゃないか。どうしたんだ一体何があったんだ? 「ふっ、何か知りたいようだな」 余りにも訝しげな顔をしていたのか、会長は含み笑い一つして問い掛けた。 「見てのとおり、俺や俺の家族は『機関』の連中に良いようにこき使われてきてな。最初は報酬に釣られてこいつらの木偶人形と化してやったが、最近じゃうっとしくてしょうがねえ。俺の役目も終わったのに何時までも束縛するんじゃねーっつーの」 「その件は以前にもお話したとおりです。涼宮さんと偶然接触する機会が潰えたわけではありません。四六時中偽りの仮面を被っていろとは言いませんが、緊急時も対処できるようご留意願いたいのです」 「ご留意ね……もう涼宮との接触を断って一年が過ぎるが、その間あいつからコンタクトを取りに来たことがあったか? 答えてみろ」 しかし、古泉は貝のように口を閉ざしたままだった。 「答えられないだろ。どうしてだか分かるか?」 会長の野次に、古泉は更に沈黙を続け――代わりに会長の口が饒舌になっていく。 「『涼宮が望めば、それは全て実現する』。お前達はそう主張してたよな。だが逆に言えば、『アイツが望まないことは、全て実現しない』ってことになる。古泉、俺の言うことは間違っているか?」 「……いえ、仰るとおりです」 「だろうが」ネチリといやらしく笑った会長は勝ち誇ったように「ならば、俺との再来を望んでいるとは思えないアイツが、今後俺と接触をする理由を述べてみろ。俺がまだ操り人形でいなければならない理由を答えてみろ。『機関』の立場としてな」 「……確かに、涼宮さんとは接触されてないようですが、今こうして彼と接触を……」 「話を摩り替えるな。俺が聞きたいのは今後俺が涼宮と接触するかどうか、だ。無関係なヤツを巻き込むんじゃねえ。それに言っておくが、こいつと接触を取ったのは俺の自発的行動だ。無視することも出来たんだぜ。まさかこれも」 蔑むような表情で、 「涼宮が望んだからなんて戯けたことを抜かすんじゃないだろうな?」 「…………」 「ったく、『機関』とは本当に付き合いきれん」 再び懐から取り出した煙草に火をつけ、いきり立った自分の心を落ち着かすように一服し始めた。 俺達はといえばあまりの展開に何も出来ず、ただひたすら時が流れるのを待つのみ。 沈黙が――正確には、会長が煙草の煙を吐く時の吐息のみが静まり返った部屋に響き渡り―― ――どれくらい経っただろうか。 実際は煙草の長さが半分程度になる程度の時間だったのだが、それ以上に長く感じたのはこの沈黙のせいだろう。 しかし、その沈黙も遂に終止符が打たれるときが来た。 「……古泉。いい加減『機関』を止めろ。お前はまだ見所がある」 先ほどの鋭い口調はなりを潜め、何時に無く優しい口調で諭すように言った。 古泉もいつの間にかいつも通りのスマイルを取り戻し、 「いいえ、そう言うわけにはいきません。『機関』に必要な人間と自負しております。そして、それはあなたも同じだと考えております」 「……けっ」 「我々はあなたを必要としています。できるだけあなたの望みを叶えています。ですから――」 悲痛な表情を浮かべながら深深と頭を下げる古泉に、会長は何も答えなかった。 「申し訳ありませんでした」 店を出た俺達に『先に戻る。家の場所は古泉に聞け』と言って一人バイクに跨って走り去った後のこと。古泉はそう言って深深と頭を下げた。 先ほど会長にしたそれと同じように、悲痛な表情を浮かべながら。 「気にしちゃいないさ」 それが俺に言える精一杯のフォローだった。 「……聞かないんですか? 彼と『機関』の間に何があったのか」 それはお前に任せる。言いたければ言え。言いたくなければ黙ってればいい。 「そうですか、わかりました」いつも通りのハンサムボーイはどうとも取れる俺の返答に対して、「歩きながら説明しましょう」となった。 「彼は僕達『機関』の学内……いえ、今は学外協力者とでも言うべきでょうが、ともかく協力者であることは以前申し上げたと思います。彼は涼宮さんのイメージどおりの生徒会長として、我々が在籍する北高の生徒会トップに君臨しておりました」 ああ、確かにそうだったな。ハルヒが変なことを思いつく前にこちらから情報を提供してご機嫌伺いを取る、言わばかませ犬のような存在だ。 「彼はこちらの予想以上によく働いてくれました。それは彼が命令に忠実だけと言うわけではなく、ある程度の野心、或いは報酬といった見返りを期待してのことです。もちろん我々としては取り立てて問題にはしていませんでした」 していませんでした、って言うことは問題になったって訳だな。 「……遺憾ながらその通りです」古泉は声のトーンを鎮め、 「実はこちらのミスで、彼が大切にしていたあるモノを壊してしまったんです」 なんだ、それは。 「それはちょっと……すみませんがお察しください」 そうかい。まあ別段聞く気もないが。 「つまりそれが原因で会長と『機関』の信頼関係にヒビが入ったってわけだな」 「はい」 「何を壊したか知らんが、直すことや買い換えることは出来んのか?」 「それができればここまでこじれたりはしません」 確かに。 「彼は怒り心頭に発し、一時は『機関』との関係を拒絶されそうになりました。彼の協力無くして『機関』の活動に多大なる影響が出ると感じた上の人たちは彼を必死に説得し、出来る限りの要望を受け入れ――首の皮一枚繋がった状態で今日に至っているのです」 ふむふむ……ん? 「ちょっと待て。会長は『機関』の協力者だってことは聞いたが、何故そこまで彼との関係を重要視してるんだ? あの人自身も言ってたが、ハルヒとの接触が無い今となっては寧ろお払い箱状態じゃないか」 「その理由は簡単です。実は……」と言って後ろの橘達の様子を見て、「失礼、耳をお貸しください」 更に俺に近づき、後ろの三人聞こえないよう、細心の周囲を払って出た彼の言葉は―― 「―――――――」 「…………なるほど」 大きく一つ頷いた。 「それは確かに重要な問題だ」 「つきました。こちらが会長の自宅になります」 あれから約一時間後。河川敷の公園に程近い会長宅に到着した時には午後二時をゆうに回っていた。 こんなに時間がかかったのは単に会長の自宅が遠いだけではなく、普段履き慣れてない草履や下駄で歩いたため足に負担がかかってしまったことも理由に上げられる。 橘なぞはついさっきまで『もう歩けない、おんぶして』と駄々を捏ねていたのだが、結局誰も手を貸さず(無論藤原は手伝おうとしたのだが自分も靴擦れが痛くてそれどころじゃなかったらしい)、終いにはハダシで歩き出したりしてた。 おまけに『キョンくんが悪いんですからね! 責任とって下さい!』だとか『困っている女の子を助けないなんて、古泉さんって絶対ガチホモよね』だとか散々罵詈雑言を浴びせるもんだから場の空気はとても悪くなってたりする。 しかし、 『…………』 見事なまでの三点リーダが揃いも揃ってアンサンブルを奏でた。橘も、藤原も、そして普段ダッシュ記号の九曜でさえ、である。 「こ、ここ……」 「あの会長の……」 「――――自宅…………?」 皆が驚くのも無理はない。 俺達の二倍はありそうな柵とそれ以上に高い門。そこから数十メートル先に聳える白亜の如き邸宅。 「そうです。ここが彼の自宅です」 『……………………』 古泉の言葉に一同がさらに沈黙した。 よくよく見ればここ一帯はは高級住宅街で、どの家もそれなりの大きさでそれなりに立派な佇まいをしている。前に行った事のある阪中の家もそれほど離れていない。 その中でも一際大きい、まるで城のような邸宅が彼の家だったのだ。 「すごい……お金持ちだったんですね……」 呆気に取られた橘がポツリと呟いた。そりゃそうだ。でなきゃあんな高級ジュエリーショップで宝石研磨の依頼なんてするわけがない。 斯く言う俺も、古泉から話を聞いて驚いたんだけどな。 「『機関』が縁を切りたくない第一の理由――それは財力。スポンサーのひとつなんですよ、彼の家は」 俺だけに分かるよう話し掛けたのはそんな内容だった。 これ以上なくわかりやすい理由であった。恐らく鶴屋家と同じような立場なのだ、会長は。 「ただ、『機関』の活動に干渉するきらいがありますけどね。そこが鶴屋家と大きな違いです」と古泉は付け加えたが、それは些末な問題にしか過ぎない。少なくとも俺にとってはな。 ただ一人平然としている古泉は門の横にあるインターホンに手を伸ばし、二言三言言葉を交わした。すると門は自動で開き、俺達を奥へと促した。 玄関まで移動する中でもサプライズは点在している。管理された芝生や木々、奥の方に見えるプライベートプールやテニスコートなど、さながら公園のようである。 鶴屋家とはまた違った意味で金持ちを実感させる場所である。 やれやれ。金があるとことにはあるもんだ。『機関』じゃなくてもスポンサーとして協力していただきたいものだ。 「ようこそいらっしゃいました」 ようやっと建物の中に入った俺達を最初に迎え入れてくれたのは、朗らかな笑みが眩しい老紳士。もちろん俺の知っている人物であった。 「新川さん。お久しぶりでございます」 「これはこれは、お久しぶりでございます」 まさか新川さんの本業はここの執事ってことは…… 「まさか。そんなわけありません」と古泉。「今日のパーティのために借り出された臨時雇い人です」 古泉が言うには、今日のパーティを盛り上げるため、そして会長のプロポーズを成功させるために『機関』からスペシャリスト達が派遣されてきたらしい。 「新川さんは執事兼給仕係兼調理師としてこの場に派遣されました」 「どうぞよろしくお願いします」 あ、ああ。こちらこそ。 「ではあなたが最高級料理を作ってくださるんですね!」 そしてしゃしゃり出るはやっぱりこの女。和服姿で謙虚さが少しでも染み着いてくれればと思ったのだがそう言うわけにはいかないらしい。 「おやおや、可愛らしいお嬢様だこと」 「はい! よく言われます!」 嘘つけ。 「こちらは初めてですね。……ふむ、どこかでみたことのある顔ですが……」 「さあ、あたしはとんと記憶にありませんが」 「そうでしたか、他人の空似でしょう。申し送れました、わたくし執事の新川と申します。どうぞよろしくお願い致します」 「あ、あたしは橘京子って言います。よろしくお願いしますっ!」 「――――!?」 瞬間、新川さんの動きが止まった。 「あれ? どうしたんですか?」 「ま、まさか……あの…………あの、橘京子か……!?」 引きつったままの新川さんは、言葉を漏らすように橘の名前を口にした。バドラーオブバドラー、執事の代名詞とも言うべき新川さんが、客を呼び捨てにするなど普通に考えたらありえない。 ――そう、普通なら。 「あの、ってのが若干引っかかりますが、多分その橘京子です」 「!!!?」 新川さんの顔が完全に強張った。 無理も無い。新川さんからしてみれば彼女は『機関』の敵である。しかも橘はその幹部を務めているのだから、その名は『機関』の中でも有名なのだろう。 そんな相手が自分達の陣地に単身――乗り込んできたのだ。驚くのも無理は無い。 しかし……である。 いくら敵対するもの同士とは言え、いくらアポなしで乗り込んできたとは言え、冷静沈着を擬人化したような新川さんがあそこまで驚愕の念を出すとは思えない。 ならば一体……? 等と考えていたその時、想いも依らぬ行動に出た。何と新川さんはいきなり橘の肩を掴み、軽々と持ち上げたのだ。 「――ひいっ!?」 実力行使で排除する気か!? 「た、助け……!」 くっ……何だというんだ!? 「新川さん! 落ち着いてください! 一体どうしたんですか!? 敵対しているとは言え、強引に追い返すのは新川さんらしくありません!」 思わず古泉も声を荒げ―― 「どうしたの新川。玄関が騒がしいわ」 ホールの先、螺旋階段の踊り場。凛とした女性の声が響いたのはちょうどその時だった。 『――――!!?』 ここにいる全員、静かな絶叫を上げた。 そこに立つのは――メイド姿の森 園生……さん。 「……ん? そこにいるのは……橘京子!!」 三日間何も食べてないライオンがシマウマの群れを見つけたような視線でツインテールを睨めつけた。 「ひえっ! た、助けてぇ~!」 慌てて踵を返し、やたらと怖いオーラを発するメイドさんから遠ざかる。怖いものみたさってやつだ。 しかし森さんは神速の如きスピードで階段を駆け下り、あっという間に橘京子の背面に回りこんだ。 「!! いつの間にぃ!」 「ふっふっふっふっ……ここであったが百年目。いや実際は半年振りくらいだけどそんなことはどうでもいいわ。あなたには散々お世話になったわね」 渾身の笑みを込めて橘に微笑んだ。俺はと言えばあの時のトラウマが全身に駆け巡り、反射的に顔をそらした。見れば新川さんも古泉を同じ行動をしている。やっぱみんな怖いんだな。 九曜は相変わらずのポーカーフェイスでなんのその。さすがは長門以上の無表情エイリアン。唯一森さんの笑みを知らないポンジーは直撃を受け敢え無く失神。ご愁傷様でした。 そして、失神することすら許されない橘は蛇に睨まれた蛙宜しく、 「いやあのお世話になったのはむしろあたしの方で」 「ふふふふ、そんなことはどうでもいいの。あなたに会えただけでこの上なく嬉しいのよ」 「あのあのあの、嬉しいなら何で目がそんなに据わってるんですか……?」 「気のせいよ」 嘘だ。絶対嘘だ。 「そうそう、今とっても忙しいの。例のパーティの準備でね。そこでちょっとお願いがあるんだけど、手伝ってくれないかしら?」 「あの……あたしはむしろお呼ばれされた方で……」 「そんなつれないこと言わないで、お願い。んふっ」 ウィンク一つ繰り出した。 「ひゃ、ひゃい!」 「そう、良かったわ。それじゃこっちよ」 ガシッ、と、まるで手錠をはめるかのようにガッチリと腕を掴んだ。 「あの……因みにどんな仕事を……? 前みたいに全身しもやけになるようなことはちょっと……」 「ふっふっふっ……大丈夫よ」 森さんの笑みが、やたらと猟奇的に映った。 「寒かったら唐辛子のペースト塗ってあげるから。全身に」 いっ………… 「いやぁぁぁぁぁぁ――――――――ぁぁぁぁぁぁ――――――ぁぁぁぁ――――ぁぁ――――…………――――――」 「……遅かったか」 くっ、と顔を顰めながら、新川さんは自分の不甲斐なさに自責の念を感じていた。 「森が彼女を……橘京子を敵対視していたのは前々から存じていたのですが……まさか本日いらっしゃるとは思っていませんでしたので。何とかして森に見つかる前にご退場願おうと思ったのですが……」 『………………』 一同、沈黙。 「あの分ですと、かなりこってりと絞られそうですな、橘嬢は」 ええと、新川さん、どんなことされるんでしょうか……? 「……聞きたい、ですかな?」 え? 「森のスパルタ教育、いいえ、慈善活動の内容を、それほどまでに聞きたいですかな?」 …………。 止めときます。 とまあ一人ほど森さんの毒牙にはまってしまったが、俺を含めて他の人間には何一つ危害が無かったのでここは一つ運が悪かったと言うことにして橘を見捨てる……もとい、慈善活動に頑張ってもらうことにして、俺達は宅内を案内されることになった。 若干藤原が不機嫌そうな顔をしていたが、あの森さんに反旗を翻すほどの抵抗力はなかったらしく、ブーブー文句を垂れながらも俺達の後をついてくるに留まった。 まあ拷問を受けるわけではないし(多分)、これ以上橘の暴走を蔓延らせるわけにもいかないので、この件は森さんに一任しようと思う。 決して橘の相手をするのに飽きたとか、そんなわけでは……あるが、その辺はオフレコで頼む。 新川さんに連れられて案内されたのは、本日のイベント会場になるホールだった。 大きさはバスケットコートくらいの大きさだが、天井も高く中央に設置されたステージも意外にしっかりしたもので、小さいながらもアリーナ型ホールといって差し支えの無いものだ。 そのステージの中央には白い布が被せられた何かが鎮座し、そしてその横には会長の姿があった。 白い布の周りをうろうろしながらうんうん唸っていた彼は、俺達の姿に気がついたようで「よう、来たか」と陽気に声をかけた……のだが。 次の瞬間、会長の顔色が一気に変化した。 「新川。何をしている。料理の下ごしらえは終わったのか?」 ここまで案内してくれた新川さんに対しては礼をするでもなくつっけんどんにあしらった。 「お客様がお見えでしたので、案内をしておりまして……」 「それは俺の仕事だ。いいから早く戻れ」 「……畏まりました。では、わたしはこれで」 逃げるように新川さんはその場を立ち去った。 再び悪くなった空気で俺は古泉の言葉を思い出した。機関の人間をかなり嫌っているというのはどうやら本当のようだ。 「失礼した。新川の無礼、お許しいただきたい」と、自ら謝りながら場の空気を入れ替えるように話題を切り替えた「どうだ、我が家は。自慢ではないがこの周辺でこれ以上の家はそう多くはあるまい」 会長に、俺も話を併せることにした。 「たしかに、素晴らしいと思います」 これ以上の邸宅として真っ先に思い浮かんだのは鶴屋さんの家だったが、由緒正しい日本家屋の鶴屋家とはまた違う赴きなのでどちらがどうと一概に言えるものではない。 「ふ、そうだろそうだろ」 お世辞に気をよくしたようだ。結構単純なのかもしれない。 「それで、何をしてたんですか? その白い布の前で何かしてたようですが。というかそれは何ですか?」 「これはだな」と言いながら、隠していたと思われるその布をいとも容易く引っ張る。 青銅の台座の上に居座るのは、黄金に輝く女神像。大きさはほぼ等身大で、台座に乗っている分俺達よりも頭一つ、いや五つ分ほど高い位置にあった。 両手を前に出し、何かを冀うかのようにしてひざまつくその姿は、女神を模していると言う事もあってか神秘的に感じる。 一体どの女神がモデルなのかね。アテナとか、ヴィーナスとかか? 「ヘラだ」 ヘラ……ヘラ……とんと記憶が無い。 「――――オリュンポス――――十二神…………――――筆頭――――ゼウス……――――の――――…………妻――――――」 「その通り。彼女は結婚の女神。その彼女の前でプロポーズを行い、永遠の愛を誓うのだ」 グッと握りこぶしを作り力説した。会長も意外とロマンチストである。 「まさかそれだけのためにこの女神像を用意したと?」 「いや、彼女にやってもらう事は他にもある。おい!」 会長が声をかけると、ゴゴゴッと音を立てながら金の女神像が沈み込んだ。よく見ると、その周りの床も一緒に下降している。どうやらここはエレベーターになっているようだ。 そのエレベーターと共に下降しつつあるヘラの像は台座分の高さ……およそ一メートルほど下がった時点で停止し、頭の高さを俺達を同じ位置にした。 「この手の部分はな」会長は女神の両手を指差し、「ちょっとした窪みが掘ってあるんだ。何のためかというと、これをはめ込むための窪みだ」 と言って、手にしていたリング――指輪のようなリングだが、頂上に爪のようなものがついていて格好悪い――を、その窪みに当てはめた。リングはその窪みにしっかりと入り込み、ちょっとやそっとのことじゃ動かないくらいピッタリ埋もれている。 「これに合わせて作ったんだから当然だな」 で、その指輪みたいなリングは何の余興ですか? 「こうするのさ」 今度は懐から出したケースを開けた。天窓の光を受けて青緑色に光るのは……先ほどの店で貰い受けた宝石。 丁寧にソレを取り出し、傷をつけないようリングの中央に持っていき、爪に引っ掛けて微調整。少し離れて見てはまた調整しなおしを繰り返し、「よし」納得したのか満足げに頷いた。「これで即席婚約指輪の完成だ」 なるほど。確かに指輪だったようである。宝石が大きくてアンバランスな感はあるものの、婚約指輪と言われればそう見えなくも無い。 だが、一つ気になる点もある。 「爪に引っ掛けてるだけじゃすぐ外れてしまいそうですが、本当に婚約指輪として使えるんですか?」 「即席と言っただろう。本物の婚約指輪じゃない。これは我が家に伝わる儀式なのだ」 儀式? 「結婚の女神から受拝領した指輪……それも家宝の宝石をあてがった指輪を、求婚する女性に託す。これが我が家伝統のプロポーズの方法だ」 なかなか手の込んだプロポーズである。 「喜緑さんには何も伝えてないのですか?」 「当然だ。サプライズイベントだからこそ価値があるのだ。皆に賞賛されながら俺のプロポーズを受け入れ、はにかむ喜緑くん……どうだ、最高だとは思わんかね?」 もし喜緑さんが会長のプロポーズを受け入れなかった時の空気の不味さの方が最高に面白そうだが、さすがにこの場で言うわけにはいかないので声を押し殺す。 「本日のメインイベントはその儀式だからな。楽しみにしてくれたまえ」 ええ。楽しみにしています。色々と。 「説明は以上だが、他に見たい場所や聞きたいところはあるかね?」 「すまない、少し知りたいものがある」 申し訳なさそうに手を上げたのは、以外にも藤原だった。 「先ほど床が下がっていったが、あれはどういう仕組みで動いているんだ? どういったときに使われるんだ?」 どうやらエレベーターの仕掛けに甚く興味深々のようである。 それに対し「ああ、奈落のことか。なんてことはない普通のエレベーターさ」と至って尋常の答えを返す。 「いや、そうではなく……どうやって床が動くのかとか、せり上がるのか……僕にはよくわからない」 もしかしてエレベーターがどういうものか分かってないのか? 「そうだな……なら見てみるか?」 ということで、俺達全員エレベーターに乗って降りることになった。 男三人と女一人、そして金の像が乗ったエレベーターは会長の一言でゆっくりと下っていった。地下は闇に閉ざされ――というほど暗いわけではないが、それでも吹き抜けから太陽の光が入ってくる上の階に比べれば暗いと言わざるを得ない。 「うお……これは……なんというか……結構揺れるな…………」 藤原はやっぱり乗ったことがないのか、珍奇な声を上げて物珍しそうに声を上げている。未来にはエレベーターが無いなんてことはまずあり得ないのだが、単にこいつが知らなかっただけだろうかね。 やがてエレベーターは地下の床へと降り立つ。コンクリートむき出しの壁と申し訳程度の照明が、この部屋の雰囲気を寒々としたものにさせていた。 エレベーターの周りには大なり小なりの機材や工具が点在しており、壁際にはエレベーターの制御盤と思われるボックスがある。少し間を取ってあるのは、これまた大小様々なダンボール。何が入っているのかまでは暗くて見えないが。 所謂、舞台裏って感じの光景である。 そして、裏方として働く人物が二人。一人は制御盤の前で何やら動かし、もう一人はダンボール箱の整理をしている。暗くて少々分かりにくいが、輪郭やこれまでの登場人物から推測することは可能であった。 俺はその内の一人、エレベーターから近かった壮年の男性に声をかける。 「圭一さん……ですよね?」 「おや、キミは……久しぶりだね」 声を聞いてはっきりした。別荘のオーナー兼パトカーのドライバーという異色の肩書きを持った『機関』の諜報員、多丸圭一さんに間違いない。 「どうしたんだい、こんなところに現れるなんて」 ああ、それはですね…… 「余計な話をするなっ!」 再び会長の檄が飛んだ。 「彼らは俺の客人だ。お前ごときが口を聞くなど、どういうつもりだ」 「……申し訳、ありません」 「わかったら口を開くな。俺の言うことだけ粛々とこなせ。いいな」 「了解、致しました」 会長の『機関』の人間嫌いはとことん徹底しているようだ。新川さんの時もそうだったが、少し会話をするだけでこんなに怒るなんて…… 「お前も、分かっているな」 「……はい」 逆の方向を見れば、大小様々ば箱を整然させていたもう一人の人物――もちろん多丸裕さんだ――が、彼に侍りながら答えた。 「それより屋根の修理は終わったのか?」 「いえ、まだですが……」 「何をやってるんだこのトンマどもが! 今日中に直せと言ってたはずだ!」 「ですが、こちらの……エレベーターの調整も必要かと」 「言い訳はいい。さっさと直せ! 日が暮れるまでにな!」 「……わかりました」 またしても場の空気を悪くしながら、その原因ともなった多丸さん達兄弟はすごすごと奥にあったドア――階段が見えるから多分上の階に繋がっている階段だな――から出て行った。 ふう、と溜息をついた会長はまたしても俺達に詫びを入れ、 「ここはこんなもんだ。あまり人様にみせるような場所ではないんだがな」 トストスとエレベーターから降り、先ほど圭一氏が調整していた制御盤の前で 「これで上げ下げができる。パーティのクライマックスで操作する予定だ」 そこで指輪を取って喜緑さんに渡すってわけか。 「その通りだ」 ふうん、色々な演出を考えるものだ。 「演出なら他にもあるぞ。スポットライトやドライアイスなんかも手配済みだ」 やれやれ。そこまで出来れば喜緑さんも本望だろう。 「……ふ、そ、そう思うか?」 ……あ、会長赤くなってる。宝石と同じだ。 「う、うるさい」 怒ったり照れたり、忙しい人ではある。 そんなこんなでもう一度舞台の上へとのり、エレベーターを元の位置まで戻した。ちなみに操作主がいなくなった制御盤の前でスイッチを押したのは藤原。操作してみたいと言う本人たっての希望でこうなった。 操作といってもボタンを押すだけなので特に難しいことも無い。会長も二つ返事で藤原の要望を受け入れた。 ゴゴゴゴゴと音を立てながら上昇するエレベーター。徐々に近づく太陽の光。暗いところにいたせいかやたらと眩しく感じる。 目が眩みそうになりつつも、地上の光恋しさに天窓を望み…… 「ん?」 何かが光を遮った。 「あー! みなさんこちらにいたんですか!」 プンスカと怒りながら、手にしたモップをトンと床に突くその影は――橘!? 「何をしてるんだお前その格好で!?」 「えへへ、どうですか? 森さんからこれに着替えなさいって言われて」 エレベーターが上の階についたころ、視力が完全に回復した俺はその不可思議な姿に思わず問い返してしまった。あろうことか、橘は森さんとおそろいのメイド服に身を包んでいたのだ。 いや、心持ちエプロンとカチューシャのフリルが多い気がするが……気のせいか? 「そこら辺は森さんの趣味なのです」 多分、と注釈をつけた。「森さんはああ見えてそユーモアがある人ですから」 マジか古泉? 「恐らく、橘さんの仰るとおりだと思います」 古泉は俺に近づいて耳打ちした。 「(彼女には他人を和ませる効力があります。森さんはそこを見込んだのでしょう。ほら、会長の『機関』嫌いの一件もありますし。自分の仕事を手伝わせると言うよりは、むしろエンターテイメントとして会長の心を解そうとお考えのようです)」 むう、と内心舌を巻いた。こいつの言うことも最もな気がしたからだ。 そして当の橘だが、会長の前で立ち止まり、ぺコリと頭を下げた。 「こちらの掃除をするよう仰せつかって参りましたので、よろしくお願いします」 「客人に仕事をさせるなど、一体どういうつもりだ……いやまて。これはヤツの……そう言うことか。ふふっ、あの女狐、色々と企んでやがる」 一頻りブツブツ言った後、「森がやるよりはマシだろう。よろしく頼む」と頭を下げた。 完璧無比な妙齢のメイドより、ややもすると全てを破壊しつくしかねないKYメイドを称えるとは、さすが『機関』嫌いの会長さんである。さっきあれほど橘の変態っぷりを目の当たりにしたと言うのに、なかなか大した人である。 或いは……悔しいが、橘や古泉の言ったとおりの展開なのかもしれない。 「ついでと言っては何だが、この辺りの見回り……平たく言えば警備もお願いしたい」 警備? 昼間から? 俺がそう聞くと、 「そうだ」愉快そうに口を歪ませた。「『機関』の人間がいるからな」 「……さすがにおいたが過ぎますよ」 「怒るな。ちょっとした冗談だ。器物破損はしても、窃盗までは範疇外だろうしな。アハハハッ」 古泉が唇を噛むのが目に見えて分かった。珍しく顔がマジになっている。あの古泉がここまで敵対心を露にするなど、余程のことがないと現れないはずだ。 それに、いくらなんでも会長の『機関』嫌いは度が過ぎている。はっきり言って異常だ。後でもう少し詳しく聞いた方がいいかもしれない。良くないことが起きなければいいがな…… 「ともかく、警備もよろしく頼むぞ」 「はあ、でも森さんに色々仕事を頼まれていますので……サボると怖いですし」 「むう……それもそうか。森を怒らすと後が怖いしな……」 さしもの会長も、パーフェクトかつ年齢不詳のメイドさんは怖いようである。 「本当は俺自身がやればいいのだが、もうすぐ喜緑くんの迎えにいかなければいけない。こればかりは他の人間にいかせるわけにはいかないしな」 チラと時計を見ると、もう十五時半になっていた。喜緑さんのバイトは十六時までと言うことなので、確かにそろそろいかないと彼女を待たせることになる。 「それまでの間でいい。誰か他に代わりはいないだろうか……」 「なら、僕が手伝ってやろう」 「藤原?」と俺。「どういう風の吹き回しだ?」 「パーティの時間までまだ結構あるのだろう? 暇つぶしにはもってこいだ」 「だが、客人に仕事をさせるなど……」 「あの、あたしはいいんですか?」 「森園生の管轄については治外法権だ」 うむ、納得。 「うう……あたしってとことん不幸……」 そんな橘の叫びは華麗にスルーされた。まあ当然だな。その代わりと言っては何だが、ずいっと前に出た藤原が、 「僕は一向に構わん。他に使える人間がいないのなら仕方ないだろう」 「そうか……まあ、確かに『機関』の人間よりはためになるだろう。わかった。では申し訳ないが監視の方を頼む」 「ああ、任せてくれ」 となったわけだ。 「ポンジーくん、ありがとうございます!」 「いやあ、これほどのこと、お茶の子さいさいさ。なんならここの掃除を手伝ってやろう。一緒に頑張ろうではないか」 「ポンジーくんさっすが! 分かってる!」 橘はモップとちりとりをポンジーに渡し、 「あたし他にも仕事あるからそっちやってきます! それじゃお願いね!」 エプロンとツインテールをはためかせてこの場を去って言った。 「……へ!?」 「俺達も、いくか」 「そうですね」 「そうだな」 「――――戦線…………――――離脱――――」 残るはモップとちりとりを手にした紋付袴姿のポンジーのみ。 「えええっと……僕は……一体何を…………?」 「掃除を頑張ってくれればそれでいいさ」と俺。 『変な下心は全て自分に帰ってくるぞ。今後気をつけるんだな』 本当はここまで言うべきだったのかもしれないが、反省を促すため敢えて黙っておいた。 その後は特に見たい場所もなかったので、このホールに程近いロビー兼休憩室で一人寛いでいた。 そう、一人。 藤原がガードマン兼会場の掃除係、橘が森さんの下働きに出たのは先にも説明したが、古泉も別途会長から仰せつかった買い物に出かけ、九曜はホールの外でマネキン人形と化していたのだ。 ガラス製のドアを開けて休憩室に入る。部屋は俺の自室よりも二回り大きく、プロジェクターやブルーレイプレイヤー、インターネットに繋がるパソコンやコミックまで設置され、小さいながらも高級漫画喫茶と言ったイメージが近い。 ただ一つ違うとすれば、漫画喫茶がパーティションで仕切られているのに対して、この部屋はパーティションどころか全てガラス張りで、廊下からも何をしているのか丸分かり状態ってことくらいか。 俺はテーブルに設置されたPCの前に座り、適当にネットサーフィンをすることにした。学校のトラフィックとは異なり、非常に快適な速度である。 これでガラス張りじゃなければ如何わしいイメージビデオがスイスイ再生できるんだが……その辺はぐっとこらえることにしよう。 代わりに開いたページは、先ほど見せてもらった宝石、アレキサンドライトについてである。あの不思議な光り方をする現象に興味が湧いた。ちょっと調べて見よう。 検索サイトを開き、キーワードに適当な言葉を入力し、サーチ開始。一秒も待たずに結果が現れた。検索結果の最初のページクリック。 ええと、なになに……『アレキサンドライトの最大の特徴であるカラーチェンジは、赤色成分と緑色成分がほぼ同程度存在するために発生します』か。ふーん、イマイチよくわからんな。 マウスのホイールを回し、ページをスクロールさせ次の文章を読む。 『蝋燭や電球など、赤みの強い(色温度の低い)光の前では赤色となり、太陽光や蛍光灯など、青みの強い(色温度の高い)光の前では緑色に光ります』 ふむふむ。確かに説明されたとおりだ。ではなぜそんな風に光るんだろうか。次……っと。 『アレキサンドライトは含まれるクロムの影響で黄色と紫のスペクトルが』 カチッ。 『スペクトル』と言う言葉が出た時点でこのページを閉じることにした。難しい言葉にはついていけん。 その後も他のサイトを見渡したのだが、結局書いてあるのは同じようなことばかり。詳しくかかれているサイトは波長がどうたらとか分光分析がどうたらと、やたら難しくなるのでそこで読むのを断念する。 まあ、いっか。光の色で宝石の光り方が変わるってことで十分だ。それがわかっただけで良しとしよう。実は最初に会長から説受けた説明以上の知識が身についたわけでもないんだが。 それはそれとして、パーティの開催までまだ一時間以上ある。何をするかね。 「寝るか」 本当は帰って試験勉強の続きがしたいのだが、ここまで来たら帰らせてくれそうも無い。話し相手もいないし漫画を読む気にもならん。それに朝から橘のテンションに当てられっぱなしで少し疲れた。 休むのも受験生にとっては重要な仕事だ。特に勉強ができない今としては打ってつけだ。 ここで俺は近くの三人がけソファーに移動する。肘掛に頭を乗せ、ガラス越しに廊下を見ながらボーっと寝転んだ。 ここからは大ホールの扉、そしてそこに連なる廊下が見渡せる。先にも言ったとおり、九曜は入り口前で身じろぎせずその場に立ち尽くしている。身動き一つ取らない姿はザルな守衛といっても過言ではない。 そして何分か置きに往来するのは橘。手に抱えているのはモップだったり大きな皿だったり、よく分からん工具箱だったり……森さんに言われて何か運んでいるのだろうな。 その他にも新川さんや多丸さん兄弟も訪れては出て行く。色々と手にしているようだが……ん、あのでっかい竹は何に使うんだ? 後で聞いてみるか。 因みに藤原の姿は見えない。恐らく中で警備、あるいは橘に使われて仕事しているんだろう。 しかし、皆が皆忙しく働いているのに俺だけこうも惰眠を貪っていいものかね。とは言え働く気は全く無いからやっぱりこのまま動かないわけだが。ふぁあ……いかん。本気で眠くなってきた。 ガラスで遮られながら、しかし微かにパタパタと鳴る足音を子守唄にして俺の意識はそのまま途絶え………… 「起きてください。そろそろ式が始まりますよ」 そう言って起こされたのは、十七時も半分が過ぎていた。外はすっかり暗くなり、ガラス越しに見える廊下も人工の光で照らされている。 俺は寝ぼけ眼で起き上がり、声をかけた人物――古泉に視線を送った。先ほどまで私服だった彼のスタイルは、何時の間にかダークグレーのスーツに変わっていた。もしかしてパーティための正装だろうか? 「いいえ、平素の格好、略装で結構ですから。お構いなく」 略装を通り越してカジュアルスタイルで出席してもいいのだろうかね。まあ古泉が良いって言うならそれでいいのだろう。必要なら『機関』が全て用意してくれるはずだ。 とは言え、跳ねているであろう髪を何とか戻し、くしゃくしゃになったコートは脱ぎ、襟を正してパーティに望むことにする。それくらいは常識だよな。 ガラス製のドアを開け、俺が寝る前から一糸乱れることなくその場に鎮座していた九曜にも声をかけた。「いくぞ」 会場は明るくも温かみのある色調で彩られており、冬だと言うのにそれを感じさせない光で覆われていた。 「これはLEDですよ」 LED? 聞いたことあるようなないような…… 「ライトエミッションダイオード。日本語で言えば発光ダイオードです。昨今のエコブームで取り入れられた新しいタイプの光です。この照明に使われる白熱球は数年後には製造が中止してしまいますので、その代替品として取り入れられたようです」 ふうん。つまり明るくて消費電力も低い照明ってことか。 「家庭用照明としての課題はまだ多く残っていますが、概ねその通りです」 そうかい。 「さて、与太話にはこれくらいにして席につきましょうか。早くしないと会長に叱られます」 その与太話を始めたのはお前なんだが、と突っ込む前に古泉はそそくさと自席に移動した。 席は中央のステージを囲むようにして配置されており、そこに一番近い席に会長と喜緑さんが座ることになっている。俺達はゲスト扱いなので、やや後方のテーブルである。 警備を終えた藤原、手伝いを追えた橘も既に席についており、俺達もそこに着席した。ちなみに橘は未だメイド姿のままである。着替える時間がなかったのだろうか。 「どうだ、橘。森さんにこってりしぼられたか?」 「…………」 「おい、橘?」 「……っへえ!?」 おいおい、変な声を上げるな。どうせこれから出てくる料理のことばっかり考えてたんだろ。 「……うあう。そのとおりです。もう腹が減って腹が減って」 白いエプロンの上を弄りながら、橘はやや疲れた様子で喋りだした。どんな仕事をさせられたのだろうか。 「パーティのセッティングはもちろんですが、何故か個室の掃除やベッドメイキング、おまけにペットの散歩と色々です」 それはご苦労なこった。だがそれでこそ飯が上手いってもんだ。 「そうですね。頑張って平らげます。会長の家の資金がなくなるまで食べ尽くしてやるのです」 そうか、まあ頑張ってくれ。 などと他愛も無い会話をしていると、 「お待たせ致しました」 開いた扉から出てきたのは、淡いブルーのパーティドレスに見を包んだ喜緑さんだった。肩や背中を大胆に露出したドレスと白いバラのコサージュがなんとも魅惑的である。 その後ろ、ドアを開けていたのはなんと会長だった。そのままドアを閉め、彼女の手を取ってエスコートする姿はいかにも紳士である。自席まで到着した後も、喜緑さんの椅子をサッと引いて着席を促すのも忘れない。 あれほど不良じみたヤサグレ男がああも変わるとは。この状況をハルヒが見たらどう思うかね。ちょっと呼び出してやろうか。 「それだけはカンベンしてください。僕達も事後処理が大変なんですから」 冗談だ古泉。泣くな。 会長の挨拶と乾杯を皮切りに、表向き年始パーティは盛大に行われた。 盛大といっても人数にして十人もいないから大盛況と言うわけにはいかないが、古泉の意味不明な説法に始まり、藤原のどこか抜けた常識、九曜の日常など話題に事欠くことはなかった。 中でも食前酒を一気のみしてフラフラになった橘がいきなり会長に向かって『あたしを捨てるなんてひどいですぅ!』と大絶叫した時は腹を抱えて笑った。引きつる会長と朗らかな笑みを見せる喜緑さんのコントラストが絶品だ。 なお、この後数分もしないうちに橘は撃沈した。彼女の楽しみにしていた料理はまだきていない。あれだけ最高級料理を食べると騒いでいたのに……かわいそうではある。 その料理だが、会長が『最高級料理』と銘打っただけあり、俺が今まで経験したことの無いような豊穣の味わいで、舌鼓を十六ビートで叩きつけるような絶賛の嵐を口にした。 もちろん素材だけではない。新川さんの料理もかなりのものであることは忘れてはいけない。会長は調理が下手だと詰っていたが、それは無碍に嫌おうとする彼の歪んだ心が成せる技であり、無論俺はこの料理に瑕疵があるだなんて微塵も思っていない。 森さんはと言えば、おなじみの給仕係となってデカンターからワインを注ぐのに専念している。せっかくの年始パーティなんだから皆で楽しめばいいのにと思うんだが。まあ、あの会長がいる限り楽しくパーティなんかできないだろうな。 残りの『機関』のメンバーである多丸さん達兄弟はこの場にいなかった。恐らくはエレベーターの上下搬送係りとして、この地下でスタンバイしているのだろう。 全く、働き者のメンバーである。あれだけ嫌われているのによくもこれだけ健気に働けるものだ。 「皆様、お待たせいたしました。本日のメインイベントでございます」 と、スピーカー越しの新川さんの声と共に辺りの照明が暗くなった。 「喜緑江美里様、当家の主人よりお渡ししたいものがあるとのことです。どうぞ、中央のステージにお寄りください」 クエスチョンマークを点灯しながら、喜緑さんは会長に手を取られてステージ前まで行く。 「それでは……どうぞ!」 声と共に照明が完全消え、代わりにスポットライトがステージ中央を照らし出す。瞬間、大地が割れたかのようにステージが開き、その代わりといっちゃ何だが白い煙がもくもくと吹き上がる。 その煙を割って這い上がったのは、例の女神像。とはいえ、現状は白い布にかぶさっているが。 ガシャン、と音を立てて一番上についた時、会長は白い布を勢いよく引っ張り――そしてようやく冒頭の時間軸へと繋がるのだ。 延々長い思い出話で済まなかった。では早速本題に入ろうじゃないか。 ……… …… … ――ふふふ、あたしの出番でしゅね―― 若干ろれつの回っていない、状況判断を全く逸脱した声が響き渡った。 声の主――答えるまでも無い。メイド姿のまま、何故かモップを手に取った……というより、フラフラしてるから支えられてと言った方が正しいか……橘京子。 「あたしが……はんにゅいんを……宝石を盗んだはんにゅいんを……探し出して見せましゅ……なんたってあたしは……めいたんてぇい…………なんれすから!」 ああああ……あの馬鹿……酒飲んでるからいつも以上に空回りしてやがる。しかもご丁寧に昼間の与太話をまだ引き摺ってやがる! 「ほ……本当か……?」 そして会長もそんな酔っ払いの言うことを信じるな! 「ふふふふ……まかせなしゃい…………真実は一つしかないんでしゅ……みてなさい!」 そして橘は思ったよりもしっかりした足取りで、モップを構えた。 「悪の汚れ、おしょうじさせていただきまぁしゅ!」 『……………………』 ふんと鼻息一つ鳴らした橘に対し、俺達は位相を揃えて三点リーダを紡ぎだした。 「ふぇへへへへへへ…………うみゅ…………」 バタン。 「くう…………くう…………」 場の空気を見事なまでに白くした張本人はそのまま倒れこみ、そして再び寝息を立てた。 「な、なあ…………一体どうすればいいんだこの場合…………」 激昂していた会長も素に戻り、努めてシンプルなツッコミを入れるが……悲しいかな、誰も答えることが出来なかった。 こうして、会長宅の家宝、アレキサンドライトが盗まれると言うハプニングと、その犯人を探し出すと言う爆弾発言のせいで、俺は年始早々橘の恐ろしさを嫌と言うほど知らされることになるのだった。 ※橘京子の動揺(捜査編)に続く