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虐殺は嘘18誰も知らなかった虐殺4蒋介石 2006/ 7/19 0 47 [ No.11126 / 12177 ] 投稿者 deliciousicecoffee http //messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW action=m board=1143582 tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13 sid=1143582 mid=11126 蒋介石が1938年1月22日の日記に、「寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ。」と書いたことを以って、蒋介石は南京大虐殺を認識していたというのは見当違いだ。 まず、日記の原文には「殘殺」という言葉が使用されており、蒋介石が「市民大虐殺」について記述するなら「屠殺」とか「大屠殺」と書くはずで、「殘殺」という言葉は、南京占領後の便衣兵などの処刑を指していると考えられる。 そもそも、蒋介石が日記で日本軍の悪口が書くのは当り前だし、何故1月22日の日記なのか疑問だ。 一体、1月22日頃、どこに虐殺があったと言うのか? どうして早々に南京から逃げ出した蒋介石がそのような誰も知らないことを知っていて、何応欽将軍などが大虐殺を全く知らなかったのか? ましてや、その日記の約5ヵ月後、支那事変一周年目の7月7日に蒋介石が発表した『日本国民に告げる書』に「広州などへの爆撃」については述べて、「南京虐殺」については述べなかったのだから認識はなかったのだ。 また、国連支那代表の顧維鈞が1938年の2月の総会で、南京での残虐行為について演説したことを以って支那や国連が南京大虐殺を認識していたというのも見当違いが甚だしい。 その顧維鈞の演説は、誰でもすぐに分かるような明らかな嘘や逆宣伝やプロパガンダが満載だった。 顧維鈞自身が本当に南京で大虐殺があったと認識していたら誰でもすぐに判るような明らかな嘘や逆宣伝やプロパガンダと一緒に南京のことを演説することはない。 実際に、1938年5月に国際連盟理事会が「支那に、同情の意を表明する」との文言を含む決議文を採択したのにも拘わらず、「虐殺」非難の文言が一切なかった。 つまり、2月の顧維鈞の演説は国際社会からも「出鱈目だらけで信憑性なし」と認定された訳だ。 蒋介石が1938年7月7日の『日本国民に告げる書』で、「一地區占據後、貴國軍隊は奪掠焚焼を肆にし、無辜の良民及負傷兵士を大規模に殺戮す。或は千百人を廣場に縛し機銃を以て掃射し、或は敷十人を一室に集め油火を以て焚焼す。甚しきは殺人の多寡を競ひて矜持と爲す。」と述べたことを以って、蒋介石は南京大虐殺を認識していたなどと馬鹿なことを言う奴がいる。 しかし、包括的かつ冷静に分析すれば、この『日本国民に告げる書』こそ、蒋介石が、日本軍による南京市民虐殺を認識していなかった証拠なのだ。 『日本国民に告げる書』で蒋介石は、「八月十三日に上海を進犯す」と述べたが、8月13日に上海を大軍で攻撃したのは蒋介石自身だ。 更に蒋介石は日本軍による毒ガス使用を非難するが、違法毒ガスを使用したのは支那軍であり、『日本国民に…』を発表した少し前の1938年6月20日頃にも支那軍は山西で違法毒ガスを使用し付近の住民を巻き添えにしたばかりだった。 『日本国民に…』は、次に日本軍占領地区における無辜の良民及負傷兵士の大規模殺戮を非難するが、これも事実は全く逆だ。 例えば、日本軍の占領によって支那軍の攻撃から開放された上海へは、支那軍が戻って来た南京などから大勢の市民が避難して行った。 そして、日本軍が南京を占領すると、今度は上海などから多くの市民が南京に戻って来て南京の人口は増加に転じた。 支那事変が始まってから、日本軍は半年間で北京などの北支や、上海・南京など揚子江流域の大半の主要都市を占領したが、いずれの地域でも日本軍占領前より治安は改善されたのが史実だ。 満州事変以降、年間百万人を超す支那人が満州国へとなだれ込んだ事実だってある。 次に『日本国民に…』で蒋介石は日本軍による広州などへの爆撃を非難する。 しかし、最も悪質で被害も大きかった爆撃も支那軍による上海の市街地爆撃だった。 上海で戦争を始めたのも、違法毒ガスを使用したのも、支配地(占領地)で暴虐・悪逆の限りを尽くしたのも、爆撃で多大な犠牲者を出したのも、全て蒋介石の支那軍なのに、支那はその都度自分たちの暴虐・悪逆を日本軍の仕業に転嫁して宣伝した。 蒋介石の『日本国民に…』は、国民党や外国人工作員が常日頃から行なっていた嘘・デタラメを羅列する低俗で卑劣な宣伝工作を凝縮したものに過ぎない。 この低俗で卑劣な宣伝文書を読んで、蒋介石が日本軍による南京市民の大規模虐殺を認識していたと言う奴は脳タリンだ。 当時の日本国民や支那人や外国人が読んでも誰もそんなことは思わなかった。 反論・指摘 これは論評のしようがない (^^;; 彼の論法はこうだ。 ある事実の記載がない資料がある → そんな事実はなかった証拠だ。 ある事実に触れたと読める記述がある → そのように読めない可能性があるから、事実ではない ある事実を明確に記載した資料がある → 嘘・デタラメを羅列する低俗で卑劣な宣伝工作だ。 以上の理屈が解らないのは見当違いで馬鹿で脳タリンだ 当時の日本国民や支那人や外国人が読んでも誰もそんなことは思わなかったのだ。 ここまで来ると気力の勝負です d(^^ ja2047さんに戻る
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『オレの心は負けてない』の宋神道さんに感動 5月21日、日本軍「慰安婦」の被害者である宋神道さんを描いたドキュメンタリ『オレの心は負けてない』は予想をこえる入場者で2回上映で250名をこえた。 とくに中年以上の女性が多かったし男性も中年以上が目立った。 ロビーに写真パネルを置いていたら多くの人が見てくれた。また映画を見終わった人々がパネルを見たり、置いていた映画DVDや本も結構売れ、アンケートも多く出された。 この上映に賛同して知人に券を勧めた友が見終わった知人から手を握られて「良かった」と言われたと。私も勧めて見に来てくれた先生が見終わって会場から出てこられたので、どうでしたか?と聞いたら、手を握られて良かったとの合図をもらった。 日本軍「慰安婦」として大変な苦しみを負わされたハルモニ(おばあちゃん)の言葉やその生き様に私たちが励まされるのだ。苦しみの中で自殺しようとして死にかけたそんなハルモニの今は、人々に人間ってこんなに強いこと、たとえ相手が誰であろうと、正義は決して負けないということを私たちに教えてくれた。 だからこの映画を見た人がすべて、良かったと言ってくれる。 日本軍「慰安婦」にされた宋さんが日本政府にきちんとした誠意を示すように求めて裁判を起こしたら、裁判所は宋さんの訴えの事実を認めた。しかし「もはや時効である」ので棄却というのだった。 日本という国は少女であった宋さんをこんな目に合わせ、戦争に無理やり従わせておきながら、戦争が終わったら軍人には恩給を手厚く支給しても、軍人たちを性的に癒し、戦争に協力さえさせられた「従軍慰安婦」は無視して来た。韓国の元「慰安婦」のハルモニが日本政府高官に面会した時、自民党の板垣正?参院議員は「(それで金儲けしたろう)民間業者がやった。日本政府ではない」と日本政府の罪を認めずにシラを切った。今ではそれが世界中で否定されているにもかかわらず、知らないでいるのは日本人だけではないだろうか? 映画を見た人のアンケートには「映画を見て自分が知らなかったことが恥ずかしい」というのもあった。知らされて来なかったのだった。「原発神話」と同じく、日本の戦争で日本軍が「慰安婦」を連れて戦線を回ったり、現地で若い女性を拉致、強姦して「慰安婦」にしたりするはずがない、というのも「神話」であった。 沖縄の集団自決だって、日本軍とは関係ないという元軍人たちがいて裁判をやった。しかしそれも日本軍が手榴弾を住民に渡さなければ手榴弾を使った自決はなかったという最高裁判決が最近出された。 次々と「神話」が事実によって破られていくこの国。 この映画はそんな「神国日本」の神話を打ち砕き、被害者である女性が悲惨な人生から立ち上がり、人々を励まし、泣かせ、笑わせてくれる。この映画をまだ観ておられない人はぜひお見逃しなく。 会場で宋さんを支援する会場カンパが沢山集められた。映画の感動がそこにも現れた。 写真は上映前に歌われた歌『故郷を思う』(作詞・永井和子、作曲・岡田京子)を歌う李陽雨氏とハングル朗読の松岡光子さん。上映前に歌われたこの歌は人々に在日コリアンが父母の故郷を思う心を響かせてくれた。ハングル朗読も来場された人々の心に届けられた。 日本軍「慰安婦」問題は日本政府の無責任な態度で解決を見ていない。日本人はこの問題を解決しなければ、ハルモニたちが死んでしまったら謝罪しようとしてももうそれもできない。このまま被害者が死ぬのを待つようなことをして済むものではない。もうハルモニたちは次々にこの世を去っている。 『故郷を思う』を歌う李陽雨さん パネルにも関心が多く寄せられた 2011.5.26.No.41 鍬野保雄
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ちょっと長めの文章を投稿するときはこちらで。 名前 コメント すべてのコメントを見る 韓国人は火病 =(朝鮮半島独特の精神病のこと。すぐにカットなり、泣きわめく、発狂する)byウィキペディア 医学的にも国際的にも認められたキチガイ民族です。 -- (断韓) 2019-08-01 10 20 28 http //www15.atwiki.jp/jpcl/ サイトのURLが良くないですよ 破滅と空転の意味があり凶です。企画力はあるものの実行力に欠けているため、 才能を発揮しないまま埋もれてしまいそうです とでます。 http //www123.atwiki.jp/jpcl/ だったら、 努力と研究心の意味があり大吉です。大きな障害にあたっても忍耐と研究心をもって立ち向かうため、 最終的には成功します。という意味になります。 -- (名無しさん) 2015-04-11 18 01 00 最近は更新されていないようですね。 -- (通りすがりの名無し) 2015-02-16 15 25 33 新着ブログサーチを見ようとすると別のゲームサイトなどにいってしまうのですがどうしたらいいですか? -- (ささ) 2015-02-04 00 50 06 2014ベストタブレット(米国) -- (http //gaishin.seesaa.net/article/405207420.html) 2014-09-12 13 50 01 管理人さんがwikiをチェックしているか、それがよくわかる【更新】そのものを、画面最上部に表示して欲しい。それこそブログでもツイッターでもいいですから。 ネットでは【反応】が命で、それがネット利用の基本だと思います。情報を伝えたくても、管理人さんが見ていなかったら意味がないですからね。。。。。。 -- (名無しさん) 2014-03-15 19 33 13 wiki下の「Amazon商品」が大変すばらしい!画像でわかりやすいし、出版物で一般市民にも伝わる。ネット情報だけでは一般には情報伝達できませんからね。 -- (名無しさん) 2014-03-15 19 29 38 投稿したいですが、管理人さんはコメントをチェックしているのでしょうか?ネットでは反応あるかないかでモチベーションが変わります。 -- (名無しさん) 2014-03-15 11 45 04 東アジアカップの日韓戦並びに韓国の反日活動を台湾などアジア諸国またベトナム戦争で韓国に蹂躙されたベトナムではどのように反応してるか取り上げてはどうでしょうか? -- (山口) 2013-07-31 08 28 47 2012年10月統計の日本の漫画人気ベスト10 in Russia http //e-n-inter.jp/index.php?option=com_content view=article id=267 popular-japanese-manga-top-10-2012 catid=15 everydaylifearticles Itemid=27 -- (漫画LOVE) 2012-10-03 19 53 04
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xdviで表示されるフォントは /usr/share/texmf/xdvi/vfontmap で設定されている。 日本語明朝体系フォントはmin, tmin, nmin, jis, jis-vであり、日本語ゴシック系フォントはgoth, tgoth, ngoth, jisg, jisg-vである。 日本語フォントを変更するには、これらのフォントファイルを好みの ttf, ttc, otf ファイルに変更すればよい。フォントの指定は ttf, ttc, otf ファイル名をフルパスで指定するのみ。たとえばAdobe Readerのフォントを流用するには、 /opt/Acrobat7/Resource/CIDFont/KozMinProVI-Regular.otf min tmin nmin jis jis-v /opt/Acrobat7/Resource/CIDFont/KozGoPro-Medium.otf goth tgoth ngoth jisg jisg-v とする。他にもWindowsパーティションが存在する環境では msmincho.ttc を指定すれば使えるし、TurboLinuxに付属している tlmincho.ttc、IPAフォントipam.ttfなどでもばっちりである。 2006年10月時点での Gentoo Portage に収録されている ptex の ebuild でコンパイルされる xdvi では日本語が表示できなくなっている。これを回避するためには、 CFLAGS="-DNeedWidePrototypes" emerge ptex としてコンパイルするとよいl(参考URL)。
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シナ大陸の真相―1931‐1938 K.カール カワカミ (著), 福井 雄三 (翻訳) 展転社 (2001/01) 第十二章 中傷誹謗運動一、日本軍の過失 二、戦時下での虚偽 三、中国の宣伝活動のやり方 四、南京の爆撃 五、戦争の被害 六、毒ガスのデマ 第十二章 中傷誹謗運動 一、日本軍の過失 揚子江におけるパネー号及びレディiバード号事件が日本陸海軍の名誉に影を落とす以前は、前線での日本軍は、同じ様な状況の下に置かれた他の如何なる軍隊に比べても優るとも劣らぬ程立派で優秀な軍隊であることを示していた。なるほど確かに彼らは幾っかの過ちをおかしていた。その過ちの中で最も重大なものは、イギリス大使のヒュー・ナッチバル・ヒューゲッセン卿が乗り込んで南京から上海へ移動中であった自動車を空爆したことであつた。敵意に満ちた外国の新聞はこの日本の過ちを最大限に利用し、事件を起こしては謝罪して回る日本の手際の良さを嘲った。 だが公正な心を持った人なら誰一人として、揚子江・黄浦の三角地点に置かれた日本軍部隊が直面していた困難で微妙な状況を評価しない訳にはいかないだろう。ここには国際租界及びフランス特権区域に中国軍が頑強にしがみついている地点があった。そしてそのことは、日本軍の戦闘機と大砲が外国人区域に侵入するという危険を同時におかすことなしに、中国軍を攻撃することを極度に困難なものとしていた。この任務はまるで外科手術のようにデリケートなものであった。そして中国軍の陣地に接した外国人区域の一角を守っている外国軍部隊は、様々の軍需物資が境界線をこえて中国軍部隊のもとへ運ばれるのを許可しておきながら、その一方で日本軍に対しては慈悲を全く示さなかった。そして例えば、中国軍の戦線のすぐ近くにいた外国人の警備兵にたまたま命中してしまった流れ弾のような、あらゆる些細な事件に対して謝罪を厳しく要求したのである。このような事情は黄浦と揚子江に浮かんでいる外国の戦艦にもほとんどそのまま当てはまる。それらの戦艦は事実上戦闘の真っ直中に置かれていたのであり、日本軍にとっては大いに迷惑であった。 ヨーロッパやアメリカの新聞は皮肉たっぷりに、上海・南京方面の日本軍ほど多くの事件を引き起こした戦闘部隊はかって無い、と書き立てた。彼らは、これほどまでにデリケートな状況の中で戦いを強いられた軍隊はかつて例が無い、という明白な事実を無視しているのだ。しかしながらこのような一般的なジャーナリズムの態度に対する例外を、我々はあちこちに見出すことが出来る。例えばアメリカ合衆国西海岸の一流新聞の一つである「オレゴニアン」は、パネイ号事件について触れながら次のように述べた。すなわち戦闘区域にこれほど隣接した場所にアメリカの軍艦をとどまらせておいたことに対して、ワシントンの国務省が自分自身を厳しく責めることは正しいであろう、と。このような正気に満ちた見解は現時点では甚だ人気が無い。がしかし銃火がおさまって中国に平和が戻ってくれば世間の人々は、何故に一時的な興奮にかられて自分たちは押し流されてしまったのであろう、と思いながら過去を振り返ることであろう。一方日本は、自分がしでかすかも知れないあらゆる過ちを素早く丁重に謝ることによって、外国の新聞が書き立てる皮肉に耐えねばならない! 二、戦時下での虚偽 先の世界大戦中、フランス報道局には合成化学写真部という部門があり、その主な仕事は、切り落とされた首や引き抜かれた舌やえぐり出された目玉や叩き割られた頭蓋骨やはみ出した脳髄などの木で出来た模型を作り、その写真をとることであった。このようにして作られた写真は敵の残酷さの動かし難い証拠として世界中にばらまかれ、そのばらまかれた場所でそれらは望ましい効果を確実に産みだしたのである。このことはフランスの一編集長が、彼の書いた『フランスのジャーナリズムの舞台裏』という本の中で告白している。 同様のことが他の国々においても行われたことは疑うべくもない。このようにして敵を最も邪悪な姿で表現する写真の偽造は、世界大戦中に一大産業となった。一九一五年一二月一五日、ロンドン・デイリーミラー紙は「ドイツ兵の汚れたリンネル類を洗濯させられている光景」という見出しの付いた一枚の写真を掲載した。ところが実はこれはベルリンのカール・デリウスがとった写真であり、カベバラのドイツ陸軍野戦郵便局の前で郵便袋を配達している光景だったのである。これはもともとドイツの新聞に掲載された写真であった。デイリーミラー紙はそれを前記の新しい見出しで再生したのである! 一九一六年一月三〇日付の「戦争画報」の戦争写真特集面には、「ドイツ軍将校がフランスの城を略奪」という見出しの付いた一枚の写真が掲載されていた。これもまたドイツの写真を再生したものであり、本当の写真はもともとドイツの新聞に「ドイツ軍将校がドイツ軍前線の背後の弾薬箱を点検」という見出しで掲載されていた。 これらの数多くの似たような事例はポンソンビー卿の啓発的な著書、『戦時下での虚偽』の中で詳細に述べられている。これは全ての思慮深い男女に読んで欲しい本である。とりわけ、中国での「日本軍の残虐行為」なるデマを程造している虚偽の宣伝活動によって、世界中の世論が再び燃えさかっている今日においては。ちょうどドイツが先の世界大戦中、世界の平和に対する敵にされてしまったのと全く同様に、現在日本は「人道」に対する敵として宣伝活動の注目にさらされている。実際これは映画や新聞の電信写真やラジオなどのような、強力な現代宣伝活動のあらゆる手段をフルに駆使したものなのである。実際問題として、最近映画館のスクリーンなどでよく上映される日本軍の空爆などのような「戦争」写真の多くは、ハリウッドまたは設備の良く整った映画産業の施設なら何処でも制作出来るものなのである。南京政府の宣伝広報局は上海の国際租界が保護してくれるのにっけこんで、世界世論の感情を歪曲すべく計算され尽くした写真や宣伝活動の材料を、この平和の避難所から続々と生み出した。いくつかの事例はこのような宣伝活動の本質を示すのに十分であろう。 八月一五日に中国軍の飛行機が国際租界のキャセイホテルとパレスホテルを爆撃した時、中国政府の宣伝広報局は、この爆撃機は日本軍のものである、というニュースを流した。 ワシントンポストの上海特派員であるマーク・J・ジンスボーグ氏は、「二四時間以内にこの宣伝広報局は重大な訂正を発表し、我々特派員スタッフの完壁なる調査によって問題の爆撃機は日本軍のものではなくて中国軍のものであることが判明した、ということを内外に通告した」と書いている。 さらにまた八月二二日、中国軍の飛行機は国際租界を爆撃し、この時にはシンシアーデパートとウィン・オンデパートに被害を与えた。この時も同様に中国の宣伝広報局は、この爆弾は日本軍の飛行機から投下されたものであると発表した。 ニューヨークタイムス上海特派員は中国側の検閲を避けて真実を伝えるため、この爆撃に関する特電を上海ではなく香港から発信した。 彼が香港から発信した八月二七日(爆撃の五日後)付の特電の一部は次のようになっている。 「上海の国際租界及びフランス特権区域に居住する無力な一般市民を、中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、武力手段または他の抑止策をとることについて何らかの国際的な合意が必要であるということは、上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフたちの一致した見解となっている」 この特電は中国の検閲に不満を漏らして次のように述べている。 「中国の検閲官は発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。そして場合によっては外電のニュースそのものを変えてしまいさえもした。その目的は、現地の外国人たちがあたかも心の中で、この爆弾は恐らく日本軍の飛行機から投下されたものかも知れない、と疑っているかのように見せかけるためだったのである。だがしかしこれは明らかに真実ではない」 さらにまた九月六日付香港発信のニューヨークタイムス特電は、同爆撃について次のように述べている。 「中国軍は、この爆弾は日本軍の飛行機から投下されたものである、と宣言することによって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方とも中国がイタリアから購入したイタリア製のものであることが判明している。この判明した事実について、アメリカとイギリスの現地の海軍調査官の意見は一致している。そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製であることを認めている。これは決定的な証拠であるように思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからそのような軍需物資を購入したことは一度もない、と証言しているから」 三、中国の宣伝活動のやり方 中国に関する最も興味深い事柄の一つは、世界的規模の組織を持つある特定の報道会杜に南京政府がニュースを提供するそのやり方である。一九二九年かあるいはその時分に、国民党外務省の宣伝広報局は上記の報道会社と協定を結んだ。この協定によればこの報道会杜は、宣伝広報局が提供するニュースを一日当たりあるいは週当たりの決められた分量だけ流すことになっていた。この「業務」に対する報酬として、宣伝広報局はこの報道会杜に毎年かなりの金額のお金を支払うことになっていた。 かくしてこの報道会社は算盤勘定をしながら、南京政府のための宣伝工作活動にも等しい仕事を請け負うことに同意したのである。だがしかしこの話はまだ続きがある。南京政府がこの報道会社に支払ったお金の一部を、宣伝広報局長官または他の国民政府外務省高官は、この報道会社から払戻金としてこっそり受け取ることになっていたのである。そしてそれは極めて寛大な行いであると一般的に解釈されていたのだ! さらにその上、この外国の報道会社の南京特派員は同時に、南京政府外務省の宣伝広報局と公式のつながりを持っていたのだ! このつながりは数年前に出来、そして私はそれが廃止されたということをまだ聞いていない。 この事例に見られるような虚偽の宣伝運動は、中国から届く新聞写真やニュース映画などにまで及んでいる。中国で活動している外国の報道会社は色々な便宜をはかってもらうために、自国のカメラマンのみならず中国人のカメラマンをも採用している。恐らくこのことによって、中国の写真やニュース映画が虚偽で汚染されていることの説明がつくだろう。もしもニュース特電さえもが中国人の検閲官に迎合するように変えられてしまうとすれば、このような虚偽の汚染を防ぐための如何なる保証が有るというのか? しばらくの間アメリカのいくつかの映画館(そしてイギリスの映画館も確かそうだったと恩うのだが)は、二人の中国人が目隠しをされ脆いたままで銃殺される場面を写したニュース映画を上映していた。だが調査の結果、このフィルムは一九三一年に作製されたものであり、処刑された犠牲者は中国人の強盗が中国兵に銃殺されたものであることが判明した。このことが分かってからこのフィルムは上映されなくなった。 これとほぼ同時期に外国の諸新聞は一枚の写真を掲載したが、それは一人の中国人女性が目隠しをされて縛り上げられ、日本軍兵士の銃剣突撃の標的にされている光景であった! この兵士の顔つきは日本人ではなくて、明らかに中国人の顔つきそのものであった。目隠しをされた姿は人間というよりもむしろマネキン人形のように見えた。写真に写っているのは兵士が銃剣を女性の体に突き刺している光景であるが、何と血は一滴も流れていないのだ! もしもこの忌まわしい所業が実際に行われたとするならば、日本軍がそのような場面の写真をただの一枚でも撮らせることを許可するなどということが、常識的に見て果たして考えられるであろうか? 日本陸軍のT・高橋大佐はニューヨークから来た報道員にこの写真を突きつけられて問い質された時、次のように答えている。 「我々が普段訓練を受けているような日本軍兵士の手法は、写真に写っているような手法と全く異なる。我々は銃剣突撃を腰から上段に構えて行う。日本軍の兵士はこの写真に写っているようなやり方で銃剣を使わない。もしも日本軍の兵士がこの写真の人物のやっているような姿勢をとれば、彼は上官から処罰されるだろう」 四、南京の爆撃 一九三七年九月二〇日、上海の日本海軍第三艦隊司令長官である長谷川清海軍中将は、当時予定されていた日本空軍による南京爆撃について、次のような警告を発した。 「日本の軍事行動の目的は現在の戦闘状況を早期解決に導いて、中国軍の敵対活動を終わらせることにあり、そして南京は中国の軍事活動の主な拠点となっているので、日本海軍の爆撃機は九月二一日の午後爆撃という攻撃的手段に訴えるかも知れない。その攻撃目標は中国軍、及び南京内外の軍事作戦と軍事行動に関係する全ての施設に向けられるであろう。 予定されている攻撃の間、友好的な列強諸国民の生命と財産の安全が十分に考慮されるであろうことは繰り返すまでもない。しかしながらそのような警告にもかかわらず、日中間の戦闘にそれらの諸国民が危険な状態で巻き込まれるかも知れぬ可能性を考えると、第三艦隊の最高指揮官としては南京内外に居住している職員や住民に対して、どうしても次のように忠告せざるを得ない。より安全な地域へ自発的に移動するための適切な手段をとるように、と。揚子江での危険を避けたいと申し出ている外国の軍艦及びその他の船舶は、下三仙のもっと上流に停泊するように、との忠告を受けた」 英文の文章としての稚拙さはさておいてこの警告は、外国人の生命と財産に対する予想される危険を最小限に留めよう、という最上の意図の下になされた。もっともそれによって日本の爆撃機は、日本軍の戦略を南京防衛軍に前もって知られてしまったために、大変な危険に曝されることになったのであるが。日本の長谷川中将は当然のことながら、南京全市を破壊し尽くすための無差別爆撃を行おうなどという意図は全く持っていなかった。南京政府の日本に対する好戦的な活動を徒に長引かせるのに必要不可欠と考えられる軍事施設及び政府施設のみを破壊する、これが彼の狙いだったのである。しかし彼が自分の配下の爆撃機にどのような警告を義務づけたところで、予定されていた空爆が最初から標的としていない民間人やその他の対象にある程度の危険を及ぼすことはやむを得ないことであった。これが彼が前もって警告を発した理由であった。 にもかかわらず長谷川中将のこの善意は、非常に歪曲された形で欧米の新聞に掲載された。九月二一日付上海発信のニューヨークタイムス特電は次のように報じている。 「日本が大都市としてのそして政府所在地としての南京を破壊し尽くし、この中国の十年に及ぶ首都の壮麗な新しい建造物を全て灰燼に帰させるつもりであることは、長谷川中将の『敵に決定的な打撃を与え、それによって戦闘の終結を早めたいと願っている』という宣言によってはっきり示された」 次に掲げるのは、この日本軍の警告について諸外国の新聞が報道した時のやり方を示す、いくつかの典型的な見本例である。 「南京を破壊して地図の上から消し去ってしまう」 「南京の全区域に空からの集中攻撃を行う」 「南京の無制限空爆」 「日本軍は巨大な戦闘機編隊を本日集結。中国の首都であり百万以上の人間の住む南京を破壊する目的」 「日本軍、南京の完全破壊を望む」 「日本軍、中国の近代的な首都を完全破壊しようと決意」 そしてこの中傷誹誘運動の結末は? 一九三七年一二月中旬日本軍が南京に入城した時、中国軍が逃亡する前に彼らが自分で行った略奪や放火を除いて、市街はそっくりそのまま無傷で残っていたのである! 五、戦争の被害 南京爆撃は、日本軍の空爆で生じた被害について想像を膨らませる機会を新聞に与える、多くの事例の内の単なる一つに過ぎない。日本軍のパイロットは非難される点は全く無く彼らは過ちを全く犯していない、などと主張する日本人は一人もいない。だがしかし日本人は次の点にっいては確信している。すなわち非軍事的施設、または日本軍に対する作戦として中国軍が利用したことのないような施設を、故意に狙った日本軍のパイロットなど、戦闘の如何なる段階、如何なる場面においても唯の一人もいなかったのだ。 中国の教育施設及びその他の文化施設を日本軍が爆撃したと報じる新聞の紙面には、多くのセンセーショナルな見出しが躍った。だが調査の結果、爆撃されたそれらの文化施設は軍事目的のために中国軍が使用していたことが判明した。次に掲げるのはこの件に関する諸々の事実の要約である。 天津 南海大学は七月二九日の日本軍の砲撃と空爆でかなりの被害を受けた。その理由は第二九方面軍第二六連隊に所属する六百名の中国軍がこの建物を占拠し、日本軍に対する軍事活動の拠点として使用していたからである。 南海女学校と河北中学校は七月三〇日の日本軍の空爆で被害を受けた。その理由は第三八方面軍の中国兵がその建物にたてこもったからである。 上海 同済大学と呉松の中学校が被害を受けた。その理由は第八八方面軍の中国兵がその建物を占拠し、その壁の背後から日本軍を攻撃したからである。 閘北地区の商業新聞杜及びそれに付属する東洋図書館が被害を受けた。その理由はまず最初に中国の第八七方面軍が、後に第二五及び第一〇方面軍がその建物を占拠したからである。中国軍はその周囲に塹壕を掘り巡らし、防衛手段の一部として戦車を配置し、全ての窓の背後に土嚢を積み上げ、その陰から機関銃で日本軍を攻撃した。 交通大学が日本軍に攻撃された。その理由はそのキャンパスを中国軍の砲兵隊が使用していたからである。 佳夏大学と昆華大学が攻撃された。その理由は中国軍がキャンパスの内外に塹壕を掘り巡らし、それを軍事活動に利用したからである。退却する前に中国軍はその建物に放火して行った。 復旦大学、上海商業学校、準貼学校、愛国学校などが日本軍に攻撃された。その理由はそれらの施設が全て中国軍の軍事活動のために使用されていたからである。 広東 次の諸施設は不幸にも全くの偶然によって被害を受けた。その理由はそれらがたまたま広東政府のセメントエ場と空港に隣接していたからである。 梅花中学校 光亜中学校 夏后女子大学 次の諸施設は攻撃された。その理由は中国軍がそれらを占拠していたからである。 将軍中学校 中山大学 復但中学校 山東省、済南 日本軍によって被害を受けた中国の文化施設は全く無かった。中国軍は退却するまえに 純粋に科学的な目的のために日本人が設立した気象台を完全に焼き払った。 日中両国民の福祉のために日本人が経営していた呑堅病院を略奪し尽くし、そのほとんどを破壊した。 日本人学校を略奪し尽くし、そのほとんどを焼き払った。 山東省、青島 中国軍は退却する前に、日本人の経営する事実上全ての絹糸工場と綿糸工場を焼き払い破壊した。その評価額は三億円に上る。中国の軍と民間当局は一九三七年一〇月に日本人がこの都市から撤退した後、それらの財産をを保護すると約束しておきながらこの蛮行に及んだのである。 六、毒ガスのデマ 日本軍が中国人に対して毒ガスを使用したという話は、大戦中及び大戦後数年間世界中に広まった次の悪名高い話と似たり寄ったりである。それはつまり、ドイツ軍が防衛線の背後に多くの工場をこしらえ、そこでドィツ兵の死体や敵兵の死体をグリセリンや潤滑油や肥料を製造するために使用した、という話である。このドイツについての忌まわしい作り話は一九一七年の初め頃からイギリスの新聞に載り始め、一九二五年一〇月まで何ら訂正されぬままでまかり通ってきた。この時イギリス陸軍のチャーテリス准将はニューヨークで催された個人的な晩餐会の席上で演説した際に、ドイツの死体工場の話は宣伝目的のために彼が自分ででっち上げたものであると告白した、と報じられている。この准将はイギリスヘ帰国後、自分がそのような告白をしたことを真っ向から否定した。だがしかし重要な事実は一九二五年一ニ月二日に、イギリス外務大臣のオースティン・チェンバレン卿が下院で次のような声明を発表したことである。その声明とは「ドイツ第三帝国の首相はドイツ政府の威厳にかけて、それ(死体工場の話)については根拠は全く無いと私に断言した。彼のこの否定を私が神かけて受け入れることは繰り返すまでもない。そして私はこの出鱈目の作り話が再び広まらないことを望む」という内容であった。 このイギリス外務大臣の声明を論評して、アメリカのバージニア州リツチモンドのタイムス特電は一九二五年一二月六日付で次のように述べている。 「ドイツ皇帝カイザーがどのようにして人間の死体から脂肪を製造したか、という話は数年前文明諸国の市民の間に憎悪の嵐を巻き起こした。正常な心を持った正気の人たちが拳を握りしめ、われ先にと争って最寄の新兵採用の窓口へ殺到した。今になって彼らは、実際は自分たちが騙されやすいお人好しの馬鹿であり、彼ら自身の上官が自分たちを煽り立てるためのひどい嘘をつきながら、自分たちを戦闘心の塊に変えてしまったのだ、ということを知らされつつある。それはちょうど年上のガキ大将が小さな子供をつかまえて彼の耳元に、別の子供が彼をやっっけようとしていると囁くようなものだ。 次の戦争では宣伝は、先の世界大戦がなし得た最上のやり方よりもっと微妙で巧妙なやり万になるに違いない。あの世界大戦において国民の信頼を受けた政府の側が大嘘をついていたとあからさまに自白したことは、簡単には忘れ去られないであろう」 中国での日本軍の軍事行動に関連した残虐な記事や写真を新聞で読んだり見たりする時は、とりわけこの論評を心に留めておかねばならない。 前記の記事が書かれて以降、新聞社の特電は日本兵の側の始末に負えないような振る舞いについていくつかの事例を報じている。例えば上海や南京の一時的に留守になった外国人の邸宅からワインやちょっとした宝石類をくすねたりとか、中国人の女性を暴行したりとか、などだ。ある意味ではそのような事件の方がパネー号及びレディーバード号事件などよりはるかに深刻である。前者については弁解の余地は全く無く、我々はそれらの事件をただただ恥じ入るのみである。後者については我々は誠心誠意謝罪するけれど、しかし心の奥底で我々は、外国の司令官たちは戦闘の場面からさらに遠くへ船を移動させることによって、難を免れるような分別をもっと働かせてもよかったのに、と感じないではいられない。最近報じられているようなつまらない違反事件を厳重に取り締まらないで放っておけば、既に外国で一般的となっている世論(つまり日本軍は一八九四-九五年の日清戦争及び一九〇四-〇五年の日露戦争の時には規律の行き届いた振る舞いの立派な軍隊であったが、今ではもはやそのような立派な軍隊の見本ではなくなっている、という世論)を一層煽り立てることになるだろう。
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南日本新聞社説2008年3月29日 http //373news.com/_column/syasetu.php?ym=200803 storyid=9931 [集団自決判決] 軍の関与を明確に認定 ( 3/29 付 ) 太平洋戦争末期の沖縄戦における集団自決に、旧日本軍の強制があったかどうかをめぐって争われた訴訟で、大阪地裁は原告の請求を棄却した。「軍の深い関与」を認めた判決が、教科書検定問題にも発展した史実論争に与える影響は大きい。 裁判はノーベル賞作家の大江健三郎さんが1970年に岩波書店から出版した「沖縄ノート」などの記述で名誉を傷つけられたとして、渡嘉敷島と座間味島の元守備隊長らが出版差し止めなどを求めて起こした。「集団自決は命令しておらず、軍が命じた証拠もない」との主張だ。 地裁判決は、隊長から直接命令が出たとは断定しなかったが、集団自決への関与は十分推認できるとした。集団自決に関する学説状況や信用性の高い諸文献を取り込んでの判断は評価できる。両島で600人前後ともいわれる犠牲者や沖縄県民にすれば、当然の判決に違いない。 大阪地裁は、集団自決は援護法の適用を受けるため、捏造(ねつぞう)されたとする原告らの主張も退けた。「生きて虜囚の辱めを受けるな」と教え込まれた沖縄の人々にすれば、遺族年金欲しさの“うそ”と言われてはたまったものでない。 元隊長2人に対する記述が名誉棄損に当たるかも争点だった。地裁は「自決命令があったと信じるに足る理由があり、名誉棄損は成立せず、出版差し止めなどの請求は理由がない」と断じた。隊長に関するかなり強い表現はあっても「論評の域を出ない」との判断である。 原告側は「軍全体の関与をもって名誉を棄損する表現を正当化するのは論理の飛躍」として控訴を決めた。大江さんが疑問視したのは旧日本軍の構造的な問題や殉国思想のありようであって、元隊長からの具体的命令の有無ではない。それは特定が容易とはいえ、守備隊長の実名記載は控えたことからも察せられる。 この裁判は、2007年の教科書検定で、高校の日本史から「軍の強制」を示す記述を削除する動きの引き金にもなった。判決は拙速に削除を求め、その後に事実上撤回した教科書検定審議会への手厳しい警鐘として受け止めてほしい。 「沖縄ノート」がこれまでに30万部売れたのは、歴史を検証する中で過ちを繰り返すまいとの願いと、戦後民主主義への問い掛けが支持されたからだろう。くしくも判決は、渡嘉敷島で惨劇が起きた日から63年目に下された。反戦の誓いを新たにするとともに、基地の島・沖縄の現状を見詰め直す契機としたい。 大阪地裁判決に対する各紙論評など
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キャラ 身長146B77W55H86で栗毛の長い三つ編み まつげしゃきんにツリ目で目鼻立ちくっきりな顔立ち ロリ妖精な感じの勝負服とカラフルなニットにタイツな私服で 声が高くてギザ歯で耳が0.92ライス 一人称は私様 才能89 芝A マイルC中距離A長距離B 逃げ先行3/差し8/追い込み7 ヒミツ 実は、8ヶ国語話せる 実は、休みの日は昼前まで眠っている トレーナー トレーナー 指導36/運5/見る目59/実績11→56 ちょっと前現役だったウマ娘(10代) モント家の隣人でGⅢ制覇してる 種牡馬時代に仲良くしてたお隣さん ブッカーが走りを教わってるように見えたんだって サポカ SSR 絵柄 性能 SR 絵柄 性能 ルームメイト なかよし キタサンブラック 大阪杯初代王者つながり エース思い出す逃げだね ヒシアケボノ 味見ありがとう! いやでかいでかい メジロドーベル モントとメジロはなかよし 5ヶ国語ペラペラ天才クール少女…! デッサンモデルやってくれる モント家の子孫たち モントブイヤベース 原作で息子 陰キャな気性難だけどクラシック三冠+クリティカルで迎えた栄光の日曜日からスズカと同着有馬を演じた初期の怪物ウマ娘 1600でブッカーが負けた モントブザー 多分母父? 1600でブッカーがボコった 暴力系の陰キャな気性難……ヤンキーかな…… 飯がまずいで脱走したり飯がまずいでイギリスぶっ潰した気性難 どうにもブッカーに弱い。 モントブティック マセガキ。気性難じゃない! カワイイから許す。 モントどころか歴代最高の才能の持ち主 牝馬で有馬勝利+タイキシャトルに春秋マイルで連勝+凱旋門賞 モントブローチ ニュートラル脱力系気性難。 凱旋門制覇してえらい。 直接的な関わりは薄めだけど渡仏の際にフォーシーズンズを満喫していた。 原作 父トウショウボーイ オーナー そうか…気性難は強さ… 調教師 敬意を払わないとだめな王様 厩務員 気位が高い 心を許さないとだめ 主戦 なんでか初対面でなつかれた →ちゃんと目を見て話をした おもしれーやつ 概要 なんか変な奴だなって思って自分から近づいたんだ。 モント家の始祖だった…。 シービーの三冠を菊花賞で阻止してそのままジャパンカップを勝利し有馬記念も2位。 大阪杯・宝塚記念を制覇し世代最強か~?と思われたが秋シーズンはなんか出目が高かった。 フレーバーで調子悪いの我慢するとかそんな子だったのでギリギリファンブルしないように努めてたと考えると面白いかも。 菊花賞からシニア宝塚記念までが全盛期だったと考えるとそれもある意味リアル。 いやリアルか????秋天4位ジャパンカップ2位有馬記念3位なのでおかしいっちゃおかしい。 よりによって初代モントが初の日本馬によるジャパンカップ制覇になってしまったのでそりゃあモント家は海外志向になるわな! ライバル配合によるモントルドルフ(父シンボリルドルフ母父モントブッカー)がフランス三冠したのでもうだめだおしまいだ。 戦績 メイクデビュー 1位 デイリー杯ジュニアステークス 3位 弥生賞 6位(ミスターシービー) 青葉賞 1位 日本ダービー 3位(ミスターシービー) 神戸新聞杯 1位 菊花賞 1位(ミスターシービー) ジャパンカップ 1位 有馬記念 2位 金鯱賞 1位 大阪杯 1位(カツラギエース) 宝塚記念 1位(カツラギエース) 天皇賞秋 4位(ミスターシービー) ジャパンカップ 2位(カツラギエース) 有馬記念 3位(シンボリルドルフ) 主な勝利レース
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686 名前:携帯デイリー[sage] 投稿日:2008/09/19(金) 20 11 10 ID p7iC2dAX0 9月19日◆試合前 (三塁ベンチで練習を見ながら) ―台風が近づいている。 「明日の昼には過ぎるやろう」 ―東京ドームは過去に中止になったこともある。 「交通機関やろう。午前中の影響がどうかやなあ」 ―昨日で疲れは取れた。 「取れるか。取れるわけないやろう」 (フリー打撃で金本が特大弾) 「やっぱり1100円の日本製のボールはよう飛ぶなあ。900円の韓国製とは違うわ」 ―下柳はしょっちゅうボールの交換を要求する。 「あれは打たれるからやろう。三振のときは換えない。(中日)川上もそうやん」 ―アッチソンは換えない。 「外国人は換えたがらんなあ」
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163 :大西洋 ◆BMYad75/TA:2013/01/04(金) 22 58 45 大西洋ネタ(5-7)の続きです。 「朕はその役割を果たさねばならん」 ナチス・ドイツの北海道侵攻の中で、昭和帝の前線視察に反対する側近に対して 1940年8月15日 (大日本帝国大西洋転移より3ヶ月) ドイツ第三帝国総統 アドルフ・ヒトラーは日本侵攻作戦(緑作戦)を発令。 作戦目標 北海道東部の占領による英国本土への進撃路の確保。 侵攻ルートA 北海道と接するコタンタン半島より レープ元帥率いるC軍集団(歩兵15個師団 自動車化歩兵2個師団) 侵攻ルートB 日本軍が防衛するブルターニュ半島を突破し北海道へ ルントシュテット元帥率いるA軍集団(30個歩兵師団・5個装甲師団・2個自動車化歩兵師団・2個山岳師団・ 1個降下猟兵師団 1個空輸歩兵師団・2個武装SS連隊 C軍集団目標 釧路から鉄道釧路本線のルートで網走まで進撃。 A軍集団目標 ブルターニュ半島に篭る日本軍・自由フランス軍を撃破し十勝平野まで進出し、ブレスト→帯広→北見→網走の戦線を確保し蝦夷山系にそって北海道を南北に分断する。 一方の日本と英仏の動向。 フランス降伏(6月21日)の翌日近衛内閣は総辞職し新たに嶋田繁太郎が首相となる。 英国首相チャーチル(5月10日就任)と嶋田首相は首脳会談をロンドンで行い、日英安全保障条約を改定し両国の協力をより強化した第二次日英同盟について合意。 また自由フランス政府を正式承認※ ※史実では休戦派に敗れ解任された対独抗戦派のポール・レイノー前首相が代表になる。 史実と違い前首相ら有力な政治家が多数参加し 政治的な正当性をもっている。 臨時政府指揮下の自由フランス軍は史実の7千人より遥かに多い15万人だが、重装備はなく日英からの供与兵器での再編成となる。 ドゴールは陸軍大臣となるが、その振舞いにより日英の将軍たちと衝突することが多かった。 164 :大西洋 ◆BMYad75/TA:2013/01/04(金) 23 01 16 本土防衛計画が内閣にて承認(決号作戦) 近衛内閣で行われた動員に続いて第二次動員を発令する。 ドイツとの開戦前の陸軍30個師団をようしていたが、転移にて外地に残された師団も多かった。 このため日本政府はアメリカに対して大陸に残された利権の売却と外地に取り残された陸軍部隊(関東軍・朝鮮軍など。 遣欧軍は6月中に本土へ帰還し北海道へ配備済み)の輸送協力を要請。 これをアメリカは受諾し日本より購入した各種利権を守るために満州や朝鮮に軍を進める大義名分を得ることになる※2 しかしアメリカの協力を得られたが、各陸軍部隊の輸送は困難を極めることになる(外地のインフラの脆弱さから特に車両や砲などの重器材の輸送は遅れた) そしてドイツ軍の日本侵攻作戦が始まった8月の時点での北海道東部の最前線の兵力は以下のとおりである。 ブルターニュ戦線:第3軍 司令官・牛島中将 4個歩兵師団 3個独立混成旅団 1個戦車師団 2個独立重砲連隊 1個飛行師団(帯広空港) 自由フランス軍 司令官 ドゴール中将・2個歩兵師団(正規兵・重砲欠) 8個民兵大隊 イギリス軍 2個歩兵師団(正規兵・重砲欠) 1個戦車旅団 1個インド歩兵師団 釧路戦線 :第5軍 司令官・牟田口中将 3個歩兵師団 2個独立混成旅団 1個独立重砲連隊 2個海軍陸戦大隊 自由フランス軍 1個歩兵師団(植民地兵・重砲欠) 4個民兵大隊 イギリス軍 2個歩兵師団(正規兵) 2個インド歩兵師団 北部方面軍(帯広市):司令官:畑大将 総予備:第7軍 司令官・栗林中将(5月15日付昇進) 3個歩兵師団 1個戦車師団 2個砲兵旅団 イギリス軍 2個歩兵師団(正規兵) 1個戦車旅団 自由フランス軍 1個歩兵師団(正規兵) 2個戦車大隊 日本軍の見通しでは9月に追加で3個歩兵師団と1個戦車師団の北海道東部への移動が完了する予定であり、10月になればさらに5個歩兵師団が追加される。 それ以上の師団は近衛内閣の第一次動員が完了する11月以降を待たなければならなかった。 また英仏であるが、イギリスはダンケルクで重装備を失った部隊の再編成とホームガードと呼ばれる民兵部隊の編成を強化し、矢継ぎ早に北海道へと部隊を前進させていた。 フランスは自由フランスに残された最後の本国の領土であるブルターニュ半島を死守すべく難民からの徴兵を行っていた。 ※2 当時のアメリカのマスコミはこの大陸利権売却によってニューフロンティアの開拓が始まると大々的に書き連ねた 中国・満州・朝鮮と転移によって陸続きになったことにより、アメリカの進出のスピードは格段に速くなり 気の早い実業家などはすでに満州や朝鮮の土地を買いあさっていた。 そして1940年8月15日 日本の一番長い日が始まる。
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戦場の風向きは、いつだって一人の兵士が争いの場に踵を返すことから変わり始めるものだ。 The turning of the tide always begins with one soldier s decision to head back into the fray. オンスロート 第8版 第9版 「結ぶべき契約も、誓うべき誓約もない。入隊手続きは、剣を抜いて、敵に向けることだ。」 "There s no contract to sign, no oath to swear. The enlistment procedure is to unsheathe your sword and point it at the enemy." エルドラージ覚醒 【M TG Wiki】 名前