約 29,264 件
https://w.atwiki.jp/memotyors/pages/260.html
『失楽園』(しつらくえん)とは創世記第3章の挿話である。蛇に唆されたイヴとアダムが、神の禁を破って「善悪の知識の実」を食べ、最終的にエデンの園を追放されるというもの。楽園喪失ともいう。 ミルトンの著作 『失楽園』(Paradise Lost ユリウス暦1667年)は、イギリスの17世紀の詩人、ジョン・ミルトンによる旧約聖書の『創世記』をテーマにした壮大な初期近代英語の叙事詩。ヤハウェに叛逆して一敗地にまみれた堕天使のルシファーの再起と、ルシファーの人間に対する嫉妬、およびルシファーの謀略により楽園追放に至るも、その罪を自覚して甘受し楽園を去る人間の姿を描いている。『失楽園』に対応する作品として『復楽園』(楽園回復)もある。ダンテ・アリギエーリの『神曲』とともに、キリスト教文学の代表作として知られる。 ミルトンは悪魔学の専門家ではなかったが、その当時に見られた悪魔に対する様々な説を総合した独自の解釈を作中に盛り込んだ。ミルトンによる解釈はその後のキリスト教に影響し、殊にルシファーに関する逸話に大きな影響を与えた。ミルトンの詩の中では、ルシファーはヤハウェの偉大さを知りつつ、服従よりも自由に戦って敗北することを選ぶ、一種の英雄として描かれる。 一方、人間アダムは、イヴの誘惑によって禁断の果実を食べてしまう弱い存在ではあるが、いったんは神の命令に背くものの、自ら罪を犯したことを認め、悲哀を胸に抱いて己の罪の報いを自らの意思によって引き受ける、偉大な魂の持ち主として描かれる。 この他、ヤハウェの意思のもとアダムを追放する任を厳然公正に全うしながらもなお彼らへの憐憫を思わせるミカエル、冷静沈着にして勇敢凛乎としたガブリエル、ヤハウェの命によってアダムたちを優しく諭す「友誼心厚き天使」ラファエル、何億という反逆天使の憎悪を受けながら毅然とヤハウェのもとへ立ち返るアブディエルなど、心清く正しいながら(あるいはそれゆえに)読者たる人間にも十分に共感できうる天使たちが登場する。 一方、堕天使たちも大いに魅力的である。サタンの片腕にして賢者のごとく威厳を湛えるベルゼブル、勇猛果敢にして天使を圧倒するため生命も惜しまぬ猛将モレク、容貌絶美にして悪徳の権化たるベリアルなど、我々人間の持つ悪を極めたような悪魔たちが、世界最初の反逆者・悪行者たるサタンの同胞として、物語に更なる精彩を与える。 ミルトンはこれらの描写によって被造物における崇高を描きながら、それを超えた創造者としてのヤハウェの偉大さを称えようとした。特に、ヤハウェの御子(すなわちキリスト)が、サタンの引き起こした原罪を贖うため自らを「贖罪」の贄とする旨、父なる主に申し出るくだりは、キリスト教の本質を的確に表現している。『創世記』においてヤハウェが蛇へ宣告した「私は女の胤とお前との間に敵意を置く。お前は女の胤のかかとを砕き、女の胤はお前の頭を砕くだろう」との言葉の本質を示しているのである。
https://w.atwiki.jp/stella_gerlit/pages/12.html
当記事ではリシャファーのテクノロジーについて記述する。 様々な要因で共立公歴1000年時点で使われていない技術は赤文字で示す 以下断りのない限り日本語訳は周防連合星間政府で用いられているもの 目次 汎用技術人形 転移術 航行技術改良型エルノアドライブ エルノアドライブ(旧式) 軍用技術鳥籠 汎用技術 人形 人形はリシャファーの代名詞と言ってもよい技術である。 人形技術を利用したアンドロイドは容姿端麗であるが、それはほかの造形技術を持った国のアンドロイドでも容易に可能であり、本質ではない。 この技術の本質は思考用CPUチップである。 思考に特化したCPUを演算CPUと別に搭載することで思考の高度化、演算CPUの負荷軽減による高速化を実現する。これにより、より人間らしい高度な思考を持ちつつ計算などコンピュータとしても高性能なアンドロイドが開発された。 また、思考用CPUはコンピューターが搭載されていれば(たとえそれが初期の16bitコンピューターだとしても)接続し、人工知能化できることから統治体発足後は様々なものが人形を接続できるようになっている。 単純にコンピューターを思考用CPUチップにつなぐことも可能だが、休息の権利などの観点から、人形搭載アンドロイドをつなぐ形式が使われている。 転移術 転移術は任意の物体をある場所から取り出すことや、別の場所に転移させることができる。 有機生物なら制御補助装置を装備し、発動剤を注射することで発動させることが可能であり、その応用可能性から様々な用途に使用されていた。 作用機序は 1、発動剤を注射すると血液と反応し、高エネルギー体に変位する。 2、その高エネルギーを一点に集中させる。制御補助装置はこのプロセスを補助する。この時、趣味で魔法陣のようなものを描くものも多い。 3、エネルギーによる空間の歪みにより目的の空間とつながる。 転移術はリュイシェン・ウイルスを異世界と推定される███████から持ち込んだことにより、禁止された上で発動剤はすべて破棄され、その精製法も最高機密に指定されており使用は不可能です。 現状無機種族である人形がリシャファーを統治しているため、事実上のロストテクノロジーである。 航行技術 改良型エルノアドライブ 現行の航法、次元湾曲航法である。次元湾曲技術の向上により、質量ゼロ化装置を使用する必要がなくなった。これにより旧式エルノアドライブにあった航行中の完全消失を無くすことができたが、未知の場所や異なるディメンション(いわゆる異世界)への移動事故が偶に起きるが、起きた時と全く同じ設定で戻れば帰還は可能である。 エルノアドライブ(旧式) 各国の中でも最初期に開発された超光速航法。 次元湾曲航法ではあるが質量があると湾曲次元に乗ることができないため、負の質量を発生させることで一時的に質量ゼロを実現する質量ゼロ化装置を搭載した艦船が必要である。 航行中の完全な消失事故が主なデメリットとしてあげられる 軍用技術 鳥籠 相手を取り囲むようにバリアを発生させ相手の動きを封じるほか、一方的に射撃を与えることも可能。 通常は徐々にバリアを狭くし、相手を圧迫して潰すことでとどめを刺す。
https://w.atwiki.jp/kameyama2011/pages/21.html
担当 太田 ■第一部第4章~第6章は、主としてデカルトの道徳論に向けられている。『方法序説』(1637)、『省察』(1641)で行われる形而上学に関する基本的主張の一つは「心身の分離」であった。その一方で、「心身合一」の次元である道徳の問題をいかに解明するか。このことの理解の鍵として、『情念論』(1649)が扱われる。 ■形而上学と道徳は次元を異にする。前者は、真理とはいかなるものであり我々はいかにして真の知識を得るのか、という問いであり、後者は、我々はこの世界においていかに生きているのか、または生きるべきなのか、という問いである。 ■しかしデカルトの哲学において、形而上学と道徳は別の事柄ではない。というのも、正しい判断をして、その判断に意志を従わせるという課題が、彼が見出した〈よき生〉だったからである。(デカルトは心身の相互作用の問題に積極的に向かわず、むしろ心身合一・相互作用を当然の基礎事実として認め、それに基づいていかに自己を統御するかに議論を集中させる) ■日常的生・道徳の次元は、心身合一・相互作用の次元にある。そのため道徳は、純粋な精神の働きにも、機械論的な自然学にも還元できない。道徳的問題を論ずるときには、思惟と延長という範晴を脱して考えねばならない。―→『情念論』 ●デカルトは、意識の底にある情念という受動性を、知性と意志の能動性によって支配しようとする。特に、「欲望」を土台とする受動的な心の動きを、理性的な意志の下におこうとする。 ●ただし、情念を制御するというがデカルトは、情念一般が有害なものであると考えているのではない。(情念は、私たちにとって有益であると『自然』の示してくれる事がらを、精神が意志し、かつこの意志をもちつづけさせてくれる。問題なのは、情念と身体行動における非必然的な条件づけ(ほんの少しの怯えで逃げ出すなど)であり、これを意識的に改新するという工夫が求められる。 cf.pp56-60) ■デカルトはとくに道徳を論じた哲学者と見なされてきたわけではない。彼はもっぱら、合理的認識論と、機械的自然観を確立した哲学者、と見なされている。しかしこのイメージは一面的ではないか? □『人間と価値』第一部の基底的な問い?―― 《デカルトを知識論の近代的伝統の基礎を築いた思想家として位置づけること、理性と情念とを区別し、情念(人間らしさ)を人間から追放した哲学者として位置づけることを、無意識のうちに是認し“あたりまえ”と見なしていないか? その位置づけは疑わなくても良いことなのか?》 ←―「方法的懐疑」の実践 第4章 「試し」の方法的普遍化―理性の原理性の根拠とその探究― 一.方法的懐疑と物心二元論 ●デカルトは知の根本原理を、方法的懐疑を通じて確立しようとする。 モンテーニュから直接継承した「試し」「吟味」としての懐疑を学問の方法として、しかも学問の根底をなす知の根本原理の確定のところで適用。 「方法的懐疑」…すべての経験的知識のなかで、少しでも疑いうるものはこれを偽として捨て、その結果残された、疑いえないもの・端的に明証的なものをいっさいの知識の根底とする。 → 感覚(錯覚)、想像にたよる知識・あらゆる知識(夢)、数学的推理(欺く神)の否定。 → 「すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は必然的に何ものかでなければならぬ」…『私は考える、ゆえに私はある』(Je pense, donc je suis) → 演繹推論のように思われがちだが、内省(方法的懐疑)の窮極において知的に直観される明証的な個別的事実。 ○デカルト哲学を特徴づける二つの事柄。 1.私をして私たらしめるものは、思考すること(de penser)を属性とする精神(ame)である。それは、実体(substance)であってその存在のために何ら場所・物体を要さない。 ←→ 延長(extension)を属性とする物体(身体corps)。 ―→ 心身(物心)二元論の成立。精神の優位、さらに魂の不死の根拠づけ。 2.私が理性によってとらえる明晰判明な観念の真理性が一般的規則として確定される。理性的観念が真であることは今考える私にかんしては直接にあきらかである。また、大きさ・位置・運動等の一般的理性的観念が実在的物体の本質であることも、神(完全者)の存在を媒介とすることで明らかとなる。 二.心身分離の意義と心身合一 ●デカルトの形而上学の立場は、実践および道徳論の基礎とどう関連するのか。 1.哲学が、認識および実践の武器であるためには、対象との実践的連関の一時停止の上で追求されねばならない。この立場から、日常的生のレベルで実践的連関の内にある人間を分析しその結果とりだされたのが、人間の本質としての精神と心身分離である。 2.自然は、端的に決定された幾何学的延長の世界として、人間(の理性)にとって無際限に認識可能な(実践的には無際限に統御可能な)対象となる。そしてそれによって、結果的には自然にたいする人間の能動性があきらかにされる。ただし、自然にたいして人間が能動的にかかわることそれ自体は、形而上学では位置づけられていない。 3.道徳論は日常的生の次元で人間を考察する。道徳論の基礎におかれる人間は心身合一する存在である。人間と動物の身体の構造やその運動のメカニズムは「自動機械」(automate)として同じ次元で見られうる。だが、言語の使用・行動の普遍性によって両者は質的に区別される。それは結局、物体の運動には還元されえない「理性的精神」を人間がもつことに由来する。 ○道徳論における心身合一と相互作用 / 形而上学における心身の分離と相互独立性 ―→ 矛盾? アポリア? ―→ 考察の次元に相違がある。道徳論は経験的事実であり、人間の行為をとりあつかうさいの前提である。形而上学的考察は、本質次元での人間の理解であり、経験的事実の分析の原理である。(形而上学的思考と数学研究と日常的生とは、それぞれ違った次元のことである。cf.ボヘミアのエリザベト王女への手紙) ―→ 留意すべきポイント……日常的生の次元に対応する心身合一体としての人間は、彼が哲学の探究の出発点においた人間ではないが、それ自身は形而上学(的分析)にもとづいてとらえられる。合一は分離を前提するのである。日常的生が彼の哲学探究の出発点であり帰結である。だが、帰結としての生は、いったんそこを離れて形而上学の次元へ上昇し、そこから下降してきたものとしての、自覚的な日常的生である。 第5章 体験の学的「試し」―「決定的道徳」 一.徳の本質 ●道徳の本質とは、徳の実行(自由意志の正しい使用)であり、それは真の認識にもとづく自己決定である。 ●日常的生の次元=心身合一体において、真の認識をあたえるのは理性であるから、善(bian)とは身体と精神を強化すると理性が判断するものということができる。 ―→ だが、私とは本質的には精神であり究極的には意思(volonte)であるから[第一原理]、私 が支配できるものは意志それ自身である。 ―→ それゆえ、みずからの力によって獲得しうるあらゆる善の所有を意味する「最高善」(souverain bian)とは、精神(=意志)の強化、すなわち「徳」(vertu)であり内的善にほかならない。 意志が最高善である客観的根拠は、人間がある意味で自己の行為の作者であること、すなわち意志が、本質的に自由であるゆえに「私たちを私たち自身の支配者たらしめるのであり」、その点で神と等質であるゆえに神への隷属を免れうる「人間における至高の完全性」であることにある。そして、意志が自由であることは生得的な観念であり、方法的懐疑の窮極において直観される端的な事実である。 ●「それ〔自由意志〕の正しい使用は、私たちのすべての善のうちで最大のものである」 ―→ 「仮の道徳」では問われなかった、認識と意思的行為の関係を問うことが必要。 ―→ 悟性(intellect)自由意志との結合(cf.pp.52-53) ―→ しかし、心身合一体においては、精神(=意志)はしばしば受動的であり、私たちの行為はしばしば情念によって導かれる。つまり、通常、私たちにおいては精神(=意志)だけでなく情念も行動の原理とみられる。 ● 徳の実行は、身体および情念の本性の認識によって、技術的に可能となる。(ちょうど自然の必然性の認識がその支配を可能にするように。←近代自然科学の黎明期) 二.情念の生理学的分析とその統御可能性 ●デカルトが情念を(生理学的に)分析するにあたっての前提 1.身体は完全に物質的過程としてとらえられる。 2.身体は精神と、大脳(松果腺)を接点として合一し相互に作用しあうが、その場合、「能動と受動とはいつも同一の事がら〔作用〕」である。つまり、精神の能動は身体の受動であり、精神の受動は身体の能動である。 ―→ 精神は能動の相においてみられる場合は、意志であり、受動の相においてみられる場合には、広い意味での情念または「知覚」(perception)とよばれる。 ●情念を統御しうるためには、意志が「それに従ってみずからの生の行動を導こうと決心しているところの、善と悪との認識についての、しっかりした決然たる判断」をもつことが、前提されねばならない。そうでなければ、精神は「たえずそのときそのときの情念によって動かされるままになる」。 ●だから、徳の実行にとって「精神の強さだけでは十分ではなく、真理の認識も必要である」のである。このことは、個別の情念の本性または意義の検討を要求する。 ―→ 情念の心理学的な分析の必要性。 三.情念の心理学的分析 六つの基本情念(cf.pp.61-63) ●「〔受動的〕情念は自然の性からいえばすべて善いものであり、〔徳の実現のためには〕情念の誤った使用またはその過度を避けるだけでよい」と結論する。 四.情念の道徳的意義と「高邁の心」 情念の三つの積極的役割(cf.pp64-65) ●デカルトは、空しい欲望の救治法として(したがって、諸情念の誤用の救治法として)、自己と世界の真の認識に先んじて、「高邁(generosite; 気高さ)」をあげる。 「[高邁は]一方では、自己が真に所有するといえるものとしては、自分のもろもろの意志作用の自由な使用しかなく、自己がほめられとがめられるべき理由としては意志をよく用いるか悪しく用いるかしかないと知ることのうちにあり、また他方、意志をよく用いようとする、すなわち[……]完全に徳[=正しい判断]に従おうとするところの確固不変の決意を自己自身のうちに感ずることのうちにある」 「高邁」が道徳に対してもつ三つの意義(cf.pp66-67) 第6章 「試し」のなかの合理主義――“戦略的高地”としての倫理学 一.デカルトの合理主義と感性 ●デカルトにおける近代的合理主義の確立とその道徳論を、以下の二つの観点から見る。 1.デカルトによって基礎づけられた科学的認識の原理、内面的原理としての近代理性が感性を抑圧するものであり、自然と人間性にたいする敵対的合理であるという現代の“常識”の再検討。 ―→ デカルトはまちがいなく合理主義であるし、物心二元論を強調すれば理性至上主義的性格すらもっている。 ―→ しかし、感覚的知覚や欲望の一般的否定、消滅・抑圧という論はどこにもなされていない。問題となっているのはもろもろの感覚的知覚における真なるもの、もろもろの欲望・情念における善なるものの析出の基準である。それどころか、道徳論においては逆に情念・欲望の積極的意義を(合理主義にたつがゆえに)明確にしえている。 ―→ しかし、物心二元論の存在論的解釈が、悪しき合理主義・理性至上主義、数学的合理性の絶対化・自然科学主義などの理論的源泉になってきたことも否定できない。 ―→ だが、経験世界の合理的理解(分析)の戦略的高地として理論的に設定された物心二元論を絶対化してデカルトの合理主義を理解することは一面的にすぎる。デカルトは感性を否定しないからである。方法的懐疑が、デカルトの合理主義の核心である。 二.体験的道徳論と学的道徳論の関係 2.一般的にいえば私たちが体験をつうじて無意識のうちに是認し“あたりまえ”と見なしている日常的倫理と、倫理学を学ぶことをつうじて自覚的に反省する倫理との関係を、デカルトの体験的道徳論と学的道徳論を通じて考えること。 ―→ 体験的道徳論は学的道徳論の実践的“試し”として、前提であるとともに帰着でもある。 おわりに ●デカルトの思想における今日的な(?)意義:デカルトにおける知識や道徳の実践的探究の態度・「試し」の精神とその方法としての懐疑。その態度をもって、日常的生の経験を通して自己を「試す」こと。その「試し」における出来事との出会いを通じて自己(の価値観、行動原理、判断力、知恵)を吟味すること。その吟味を通じて自己を知り、形成すること。 ●「方法的懐疑」は懐疑のための懐疑ではなく、自己の生に責任をもつにたえうる自身の基準・原理を見いだすための懐疑である。(“醒めた”眼 cf.p. v) ◆ 論点 ◆ なぜモラリスト、デカルトらの情念に関する考察(ホッブズやスピノザも情念についての論文を書いている)は、十七世紀以降はほとんど論じられなくなるのか?(例外としてヒュームとルソー?) 2010年に、情念について考えることと、方法的懐疑を実践することの土壌とは?
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/53745.html
【検索用 くわいえっと 登録タグ 2023年 CeVIO UTAU szri く ゲキヤク ナースロボ_タイプT 可不 曲 曲か 殿堂入り】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:szri 作曲:szri 編曲:szri イラスト:薬屋 動画:よしだなすび(Twitter) 唄:可不・ゲキヤク・ナースロボ_タイプT 曲紹介 曲名:『クワイエット』 『ボカコレ2023夏』ルーキー参加曲。最終5位。 szri氏の7作目。 歌詞 (作者配布ファイルより転載) 焦燥騙る下らない私は ロンリーでダーティ Na Na Na 一切合切囂しいこの 私の美学をさあ 見下す、食傷 気性が 瞳孔を穿つ 衝動、虚像 その不満で不快な 貴方がたの信条、思想に また手を差し伸べていた 疑って?繋いで 偽って! 嘘じゃないなんて分かりやしないな 嗚呼 クワイエット クワイエット クワイエット 炸! 表層の思考 捻じ曲げちゃいない? 羨望が理想ね 魅せるヴァニティ 迸発させない 隠すフィロソフィー 実像は否定 爆ぜ果てるまで 嗚呼! クワイエット クワイエット クワイエット 錯覚と虚構で誤魔化せばいい 嗚呼! クワイエット クワイエット クワイエット 食傷な苦痛は知らなくていい 誰かに拒絶されないように、 また体裁を浄化するように、 誘導された行動は、 彼女のフィクションに過ぎません。 試験官に錠剤が溶ける。 彼女は自己の本質を隠し続ける。 魅惑の、不可逆で 孤独で、讃嘆な 劇薬のために。 痛い痛いな 私じゃ無い憂い 対象 裏返して 嗚呼 クワイエット クワイエット だ 炸! 私たちの思想は誰かからの 継ぎ接ぎで出来た 表象と結びつく。 摩耗した記号や個性が 入れ替わりに捨てられていく。 シミュレーションが現実と混ざり合い、 彼女の本質はより深くに隠されていく あなたも あなたも あなたも あなたも こうなってはいない? 足りない愛をばらまいたdirty 私って誰だったっけ覚えてもいないな 嗚呼、 抜け落ちてく 抜け落ちてく 抜け落ちてく 真っ赤っ赤な嘘にさ、 握る羨望にまた独りと識る 再度穿つはわたしの才だ! 表層の思考 捻じ曲げて支配! 敬虔な理想 躙るリテラシ 迸発させない 隠すフィロソフィー 実像は否定 爆ぜ果てるまで 嗚呼! クワイエット クワイエット クワイエット 賛同を所望 拗らせちゃいない? 嗚呼! クワイエット クワイエット クワイエット 痛い痛いな この想いが沈みゆくまで! 再度穿つ 理想 纏うの 今日も 傷に 問う 疾うに もう 心を 一切合切 全部 顕せていたらね 声を、声を、声を、声を、声を、 枯らす私がさ、 謳い、謳い、謳い、謳い、謳い、 あなたの結末に 跪くだけ! 私の隠した劇薬が あなたに溶けるまで。 コメント 曲が良すぎて記事作らせて貰いました!歌詞を書き出していると韻が踏まれていたりアナフィラキシーからの引用があったりとすごく楽しかったです!szriさん神 -- Anatooy (2023-08-05 13 20 40) ↑ありがとうございます!2分ちょっとの曲にこれだけの歌詞が詰め込まれていたとは…😯 -- えんど〜豆 (2023-10-22 19 58 50) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/21suugaku/pages/11.html
問題3の解答は、ユニークな答えがたくさんありましたね♪ -- だちこ (2009-06-05 09 33 13) 問題2は因数分解、という解答が多かったですが因数分解することに問題はありません。今回の解が2の時の式X-2、即ち0で割ることが本質的な間違いです。 -- 島大生・成生 (2009-06-05 09 42 04) 数学の勉強法に対する質問も受け付けているんで気軽にどうぞ。 -- 島大生・成生 (2009-06-05 09 53 59) 問題1は紙を1/2にしたもの、1/4、1/8にしたもの…を足していくと…とやってみるとわかりやすいかもしれません。興味のある人はぜひやってみてください。 -- だちこ (2009-06-05 09 58 31) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/twitterfatetrpg/pages/137.html
マスター 【名前】氷山 寧々(ひやま ねね) 【容姿】白髪ロング少女世間離れしており機械音痴 【願い事】 人類の救済(即ち人類の破滅) 【バッドエンド】 人類の繁栄 【グッドエンド】 人類の衰退 【令呪】 1/ 3 【HP】 20 / 20 【筋力】D:2 【耐久】B:4 【敏捷】E:1 【魔力】E:1 【幸運】D:2 【スキル1】聖杯の加護:自分のサーヴァントの魔力防御に補正値3を与える。 【スキル2】霊基補強 自分のサーヴァントの最大HPを15増やす。 【その他】 前回の聖杯により味をしめた女 聖杯の本質を知り例外を押しのけリミットを捨てた獣を呼び出した そこにいるのはガイアの守護者ではなく悪女によって変質されたナニカダ 参加履歴 日帰り聖杯戦争 嘘 日帰り聖杯戦争 ティラノサウルス
https://w.atwiki.jp/kaneishi-shigekazu/pages/94.html
リスク・マネジメントのもっとも大切なポイントは、木も見て、森をも十分に観ることにある。 枝葉の一本一本や一枚一枚をできるだけていねいに見ることも必要だが、枝葉のもとになっている樹木の根っこの部分や太い幹、つまり、ものごとの根幹目本質をより一層注意深く観る姿勢が大切ではないか。 風にゆらぐ緑の葉っぱや、中空に突き出している小枝に目を細め、それらだけに見入っていたのでは、樹木の根幹を正しく捉えることは出来なかろう。 「ああ、あそこに花が咲いている。 実にきれいだナ。 おお、あそこに実がなっている。 とてもうまそうだわい」 と、そんなことにのみ目を奪われていたのでは、その樹木の真の健全性を観ることはできない。 金石茂和(サービスマン養成所講師)
https://w.atwiki.jp/youyakuhikki/pages/4.html
定義 聴覚障害者(なかでも特に,主として手話を第一言語としない難聴・中途失聴者)を対象とした情報保障の手段のひとつ。その場の音声情報を、当事者以外の第三者が文字にして聴覚障害者に伝える。 作業の本質は、【その場で行われる】【第三者を介した意思疎通行為】であり、これは「通訳」である。ただし、多くの通訳が「話し言葉→話し言葉(手話通訳もこの一つ)」であり、また「書き言葉→書き言葉」が翻訳と呼ばれることから考えると「話し言葉→書き言葉」という手段を用いる【異端の通訳】。 道具には、パソコンと手書き(ペン)がある。 「同時に利用可能な利用者数」によって一斉通訳(舞台通訳/スクリーン投影)と、利用者の手元でのみ利用できる個人通訳(通称「ノートテイク」)に大別される。 関連用語 ノートテイク
https://w.atwiki.jp/alternativemind/pages/333.html
RANK 》 Unregistered バジャーリガー(*1)AC // パステル・キャノンボール "……チッ、ノロマの分際で道塞ぎやがって、このヨボヨボドンガメ共がよォ" 所属 星外独立傭兵集団≪ラカージュ≫ 強化世代 未強化 持続可能な高速移動こそを尊び、最低限の武装だけで戦う 単独での作戦は常に、所要時間の短縮に余念がない女性 その本質は極めてせっかちな臆病者 本来は決して戦いに適した性質ではないが、 予備パーツで組み上げた機体で緊急出撃した際、 最低限の目視確認だけで、障害物に一切接触せず後退機動を 取り続けられるという特殊な才能を先輩に認められ、 なし崩し的にACパイロットとなった 関連項目 星外独立傭兵集団≪ラカージュ≫ シュトラウス 初出撃の際に乗機の予備パーツを拝借 投稿者 冬塚おんぜ
https://w.atwiki.jp/shion-atori/pages/495.html
#blognavi 博士の助言から深宮を出ることにして、古巣に足を運んだ。 イギリスなんて何年ぶりだろうか。 魔術協会で箱についての調査、どうやら聖遺物の類のようだ。 中身は十中八九「聖槍ロンギヌス」だろう。 所属団体を考えるとそれが一番自然だ。 だがそうなると、博士の態度が気になる。 槍の本質は単純なものではないのか。 夕方エミュレイターらしきものの襲撃を受けた。 敗北を悟ると即座に俺を巻き込んでの自爆に切り替えるような 危険な相手だった。 だが、俺を見て絶滅社の名前を出していたのは手がかりになるかもしれない。 もう少し、がんばってみるか カテゴリ [事件] - trackback- 2010年03月27日 01 48 57 #blognavi